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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(10)―義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

村上密が挑発的な記事を書いている。

自分は全国行脚の旅に出ており、各地から引っ張りだこで、宗教トラブル相談センターへの相談は尽きないという。

筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表し、控訴審で名誉毀損を主張されても、仮に自分が刑事告訴されたとしても、そんなことでは、自分の率いるセンターはびくともしないと言いたいらしい。

まるで「ヴィオロンよ、俺の首を討ち取ってみろ、そんなことができるわけがない。センターは永遠だ」と言いたげな記事に感じられる。

だが、このような状況で、このようなことしか書けないとは、本当に愚かなことであると筆者は思う。こうした話には、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)との御言葉を繰り返すのみである。

村上はこれまで高慢さゆえに、ことごとく自らの言葉につまずいて来た。むしろ、筆者にとって、村上がこのような多忙状況に置かれていると知らされることは、まさに幸い以外の何物でもない。

ここ一年間、筆者は民事訴訟における戦い方を学んできた。次回期日までに一カ月程度の時間しかない中、複数の仕事をかけ持ちしながら、準備書面を用意することは、並大抵の苦労ではない。しかも、筆者はそれを2名の被告相手に、他の様々な煩雑な作業と並行して成し遂げて来たのである。

その作業が、これから村上に落ちかかることとなる。控訴審では、村上は本格的な防御に回らなければならないからだ。これまでのように、杉本を盾のように利用しながら、杉本と筆者との全面対決を傍観者的に見ていられる立場ではなくなったのである。

控訴審で村上とどのような議論になるか、そのロジックの基本部分は、判決では全く認められなかった杉本の書面からも十分に拝借できる。むろん、第一審でも、筆者はそれを利用したが、筆者はこれから杉本の主張を裏返しにして、村上に適用して行くことになる。まずは真実性・相当性の法理である。

村上は私人ではない。TVの記者会見に出演し、数多くのカルト被害者の訴訟にも支援者として関わり、宗教トラブル相談センターを率いて、自らカルト問題の専門家を名乗っている著名な牧師である。以上の記事でも、村上自身が、自分は全国から引っ張りだこになっているかを強調している通り、村上の活動は、社会の関心事であり、それゆえ、村上の活動を筆者が批判したとしても、その内容が公共の具体的な利害に関係しており、なおかつ、摘示した事実が真実もしくは真実であると信ずるに相当な理由があり、その批判の目的が、もっぱら公益を図ることにあれば、その批判が、村上の社会的な評価を低下させるものであったとしても、名誉毀損とはならず、違法性阻却事由に該当する。

それに引き換え、筆者は私人であり、筆者の執筆しているブログも限定されたテーマであるから、それに対する非難が公共性のあるものと言えないことは一審でも認められている。

そこで、村上はこの先、筆者の記事がなぜ違法性阻却事由に該当しないと言えるのかを自ら証明し、さらに、村上が発表した記事が、筆者に対する名誉毀損にも該当しないことを自ら証明するという二段階の論証をせねばならない。

その他にも、そもそも刑事告訴がなされたのかどうか、これを客観的に立証するのも、村上の仕事だ。

それに加えて、村上は4月1に発表した人格権の侵害が不法行為に当たらないことをも主張して、自己防御せねばならないが、こうしたことは、すべて相当な困難を極める作業となるはずである。

しかも、村上は一審判決が言い渡されるや否や、すぐに筆者の人格権を侵害しつつ、事件について触れた記事を発表し、さらに筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表し、それ以外にも、筆者を名指しで批判する記事を発表している。

こうした一連の記事に、筆者は当然ながら、反論する権利を有する。ただ反論内容が気に入らないということで、名誉毀損が成立するはずもない。

そこで、村上が主張している名誉毀損が、成立の条件を満たしていない場合には、当然ながら、虚偽告訴罪が視野に入って来ることになる。民事でまず村上の主張を崩し、次に刑事事件でこれを無効化し、最終的には、虚偽告訴罪を主張して行くという段取りになるだろう。

このように、村上が軽率にブログで蒔いたいくつもの種は、これからことごとく村上に極めて厄介な問題となって跳ね返るものばかりである。正直に言えば、今の筆者から見て、村上が今、専念すべきは、宗教トラブル相談センターの活動を自慢することではなく、この訴訟において、これだけ不利な要素を抱えながら、確実に勝利できる手立てを必死に考えることである。
 
筆者から見て、村上が以上に挙げた問題について、不法行為を主張されないための十分な反論を行うこと自体が極めて困難であるばかりか、村上が現在のように訴訟を見くびった態度で、他の仕事に専念している状態では、到底、勝つことはできない。

準備書面を作成するのは、ただでさえ全国を忙しく飛び回っている牧師には、相当な負担となるであろう。きちんとした論を展開するためには、まとまった時間が必要であり、何より自由に物事を熟考するための余裕が必要である。

いくつもの仕事の合間に、細切れに文書を作成することは、極めて難しく、思考がとぎれとぎれになり、主張が明確化できない。論敵に反論するのは、ただでさえ厭わしい仕事であるから、逃避の手段が他にあれば、すぐにそこから逃げてしまうのが人間である。

自分の考えもまとまらないうちに、下手に弁護士に丸投げすると、ますます支離滅裂で筋の通らない理屈を立てられ、敗北へと誘導されるだけである。

筆者は、訴訟が時間との戦いであり、主が采配して下さらなければ、このような戦いを完遂するための条件を、自力で整えることは不可能であることを知っている。

訴訟に勝つためのポイントは、まずは時間的制約という問題を取り払い、この問題において、論敵よりも圧倒的優位に立つことである。

別の言葉で言えば、その争いにどれほど強い思い入れがあり、自分の望む結果を得るために、どれほど時間と労力を惜しみなく投入できるかが、勝敗を分ける。勝つためのロジックは、まず時間的余裕があって初めて生まれる。時間と労力において、論敵よりも不利に立たされながら、訴訟で勝利をおさめることは、まず不可能なのである。

そこで、この時間的制約という厄介な問題を、可能な限り取り払うためには、何よりも、自由であることが必要だ。この問題は、訴訟だけでなく、すべての物事に共通する。自由こそ、勝利のための基礎なのである。

そこで、多くの人々から呼びつけられ、歓迎され、引っ張りだこにされていることは、「これだけ私は社会で必要とされているのだ」という満足感を本人にもたらし、自慢話の種にはなるかも知れないが、それは裏を返せば、自分の必要のためでなく、人々の必要のために、絶えず時間を費やさせられ、奔走させられていることを意味するから、自己を防御するための時間は、その合間にしか残らない。このような状態は、極めて無防備と言えるのであって、こちらから見れば、まさしく好都合でしかないのである。

村上が控訴審の議論も、A4・3枚で事足りると考えているのかどうかは知らないが、その「簡潔な」書面で、以上のような極めて複雑で厄介な問題をどのように整理できるのか、まずはお手並み拝見と言えよう。繰り返すが、弁護士に依頼したからと言って、本人がきちんと考えてもいないものを、弁護士でさえ補えない。唐沢治の弁護士が作成したような書面では、ほぼ勝ち目がないことは、はっきり断言できよう。

神の御前で本質的に重要な事柄をおざなりにしながら、自分の栄光のために東奔西走したとしても、それは滅びにしかつながらない。心を静かにして、御前に立ち止まり、人間の思惑から離れたところで、自分の問題をすべて主に委ね、心を注ぎだして解決を求める謙虚さが必要である。

* * *
 
さて、掲示板では、ビュン事件の性暴力の被害者もしくはその関係者と見られる信者(?)の女性が、当ブログをひどく中傷し、おびただしい数の権利侵害を繰り返しながら、当ブログが性被害事件に理解がないと責めている。

だが、こうした言い分に流されて、カルト被害者を巡る裁判に肩入れすることが、いかに危険であるかを考えてもらいたいと筆者は思う。

掲示板では、次のような趣旨の投稿があるのを筆者は読んだ。2009-2010年にかけて、「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と杉本ブログに書き込んだKFCの元信者が、当時、杉本ブログの関係者に被害を訴えて泣きついたところ、このブログに深く関わっていた黒幕のような人物から、唐沢に対して訴訟を起こせ、さもなくば、俺たちに金を払え、と脅され、元信徒は杉本ブログを取り巻いているヤクザのような連中に恐れをなして、彼らの陣営から逃げ出したのだと。

むろん、こういった話の真偽のほどは定かではないが、これは十分にあり得ることだと筆者は考えている。ここに、なぜカルト被害者救済活動の支持者らが、訴訟にこだわるのかという理由がよく表れているものと思う。

つまり、KFCの元信徒の訴えた被害は、カルト被害者救済活動の陣営にとっては、新たな訴訟を起こして賠償金をせしめる絶好のチャンスと映ったと考えられるのだ。彼らは元信徒の訴訟を助けるように見せかけて、これにたかり、賠償金をせしめようと考え、元信徒を訴訟に焚きつけようとしたが、元信徒がこれをためらったので、目当てとしていた金が手に入らないと踏んで、手のひらを返して彼を恫喝し始めたのである。まあ、ゆすり、たかりのようなものであろう。

安易にカルト被害者救済活動に接触すると、このようなひどい目に遭わされるという教訓である。また、訴訟を支援するように見せかけている人々の本当の目的が、被害の克服にではなく、訴訟で得られる金にある様子もよく見えて来る。

掲示板でも指摘されている通り、ビュン・ジェーチャンの事件では、被害者は民事で四桁の賠償を勝ち取った。むろん、性被害事件のすべてがこのような高額の賠償で終わるわけではない。むしろ、個人が性被害を訴えた事件では、被害の認定さえも行なわれないで、敗訴に終わるケースは少なくない。

その点、ビュン事件は、被害者が団結してメディアなどでも被害を訴え、世間から注目されていたことなど、様々な条件が有利に働いて、以上の結果が出た。もちろん、このような好条件が整えられたのも、カルト被害者救済活動の側からの効果的な演出によるもので、偶然ではないと見てよかろう。

だが、それゆえに、おそらくは、この事件で被害者に支払われた賠償金の何割かは、この訴訟をバックアップした陰の支援者たちに、「謝礼金」としてキックバックされたのではないかと考えられる。

むろん、こうした話は、闇から闇へと消えて行くものであって、確かな証拠を提示することは難しいとはいえ、業界の常識を考える限り、暗黙の了解として、そういうことが行われているのではないかと考えるのは妥当である。

たとえば、音楽の業界でもこういうことがある。バイオリンを習っている生徒が、新たな楽器を購入したいと考えて、自分の師匠に相談したとして、師匠が懇意にしている楽器商を生徒に紹介し、生徒がその楽器商から新たな楽器を購入すれば、その購入代金の3割程度が、楽器商から紹介した師匠にキックバックされる。

あるいは、労働紛争を考えてみれば、もっと分かりやすい。労働紛争を専門に担当している弁護士、NPO法人、ユニオン、組合などは、すべてボランティアではなく、成功報酬型の商売である。彼らは労働者を助けてやると言いいつつ、労働者の問題にたかって利益を得ている。労働者の訴訟を支援する代わりに、勝訴した場合の賠償金の少なくとも2割程度は、成功報酬として彼らに差し出される。

従って、労働紛争も、被害者ビジネスとして大いに利用されているのであって、訴訟の支援者たちは、成功報酬の一部を受け取ることで、それを利益としている。その中で、カルト被害者の裁判だけが、例外ということはまず考えられない。四桁の賠償金の2~3割となれば、相当な金額に上る。
 
つまり、カルト被害者の裁判は、これを陰から支援している代理人や支援者にとっては、実に美味しいビジネスになりうるということなのである。
 
筆者は、杉本徳久のような人物が、カルト被害者から恒常的にキックバックを受けていたと言っているわけではない。むしろ、杉本ブログは、特に初めの頃は、カルト被害者の裁判をビジネスの手段としている人々に、都合の良い宣伝広報係として、大いに利用されていた可能性があるものと思う。

このように、KFCの元信徒を巡る話を考えてみる限り、非常に強欲な勢力が、杉本ブログの背後に着いていて、金儲けのために、杉本にどんどん被害者の訴訟に関する記事を発表させたり、杉本ブログに助けを求めてやって来る被害者を食い物にしようと待ち構えていた可能性が、考えられないことではないのだ。

そこで、いかに真偽のほどは分からないとはいえ、訴訟を巡っては、実際に高額の金銭が動くのであって、表向きの美談だけを見て、カルト被害者の支援者を名乗る者たちが、正義の味方だなどと思い込むことは、極めて浅はかかつ危険であると筆者はみなしている。

カルト被害者の訴訟を、ビジネスの手段として利用している様々な勢力が存在している可能性があること、彼らが被害者の弱みにたかり、栄光と金をむしり取っている可能性があることを疑ってみなければならないのだ。
 
そしておそらく、2009年当時から、それがすでに実状となっていたからこそ、被害者意識が(加害者意識と表裏一体の)罪深いものであることを指摘し、これを聖書にさからう悪として、神の御前に投げ捨てる必要を訴え、被害者を一方的に美化する活動の危険を訴え続けて来た当ブログは、カルト被害者救済活動の陣営から見れば、非常に目障りだったのだと言えよう。

むろん、村上密も、カルト被害者の裁判に、支援者・代理人として関わっている。上記の記事で、村上は、「北海道の山々はまだ雪に覆われている。ここでの仕事が終われば沖縄での仕事が待っている。それから富山、茨城、神奈川、東京、大阪、奈良、石川、宮城、沖縄、東京、福島。宮城、奈良、東京、大阪、沖縄と二月間の巡回の予定である。」と記しているが、こうした活動も、基本的には、被害者の相談に乗ったり、被害者の会合に参加することを指しているものと見られる。

だが、一体、それだけの旅費・交通費はどこから出るのか、という疑問が湧いて来るのは当然であろう。まさか京都七條基督教会が単独でそこまで負担するはずもない。だとすれば、その旅費の大半は、おそらくは村上を招いた人々が自主的に負担しているのだろうと見られる。

もちろん、旅費のみならず、牧師を招聘し、メッセージやカウンセリングを依頼するとなれば、招聘した側の人々は、それにも謝礼を支払うであろう。だが、そうした献金は、活動報告と共に、京都七條教会の会計に上がって来ることはないものと考えられる。

従って、カルト被害者救済活動には、訴訟における賠償金のキックバックだけでなく、こうした日常的な活動においても、誰の目にも触れないところで、被害者から牧師に渡される極めて不透明な資金の流れがあることが予想される。

これは村上に限ったことではない。村上の登場以前から行われていた、統一教会からの信者脱会運動などにも同様に当てはまることである。カルト被害者の家族が、カルト宗教の信者となっている娘息子の脱会を牧師に依頼した場合、その牧師に、娘息子が取り戻されてから直接、手渡した謝礼金というものが存在するはずである。それは教会の一般の会計報告には上がって来ない、闇から闇へと消える金である。そして、おそらくは、この不透明な資金の流れこそが、一部の人々が、いつまでもカルト被害者救済活動から離れられない理由ではないかと筆者は見ている。
 
カルト被害者たちは、裁判を起こせば、勝訴した後も、被害者の会を結成し、いついつまでも、訴訟を支援した者に、「先生、ありがとうございました」と頭を下げつつ、定期的に支援者を自分たちの会合に招いて集会を持つ。彼らは、それが立ち直りのために必要なことであると考え、自分たちはこの先生に助けられてこそ、今の人生があると考えているので、招聘の度ごとに、食費、旅費、交通費、謝礼金などを喜んで負担する。その他、相談料、献金など、様々な名目で金銭の受け渡しや便宜供与が行われる。

もちろん、そのような会合を何度重ねたところで、彼らはキリストに至り着くことなく、心の解放を得られるわけでもない。むしろ、生涯に渡り、訴訟の代理人・支援者となった者と、心の癒着が生じ、受けた被害から離れられなくなって行くだけなのである。
  
今後の記事では、このようにビジネスとして他者から食い物にされないためにも、人が被害者意識そのものを捨てることの必要性について触れたいと考えている。特に、性被害事件のトラウマを引きずり続けることは、人間の男女の健全な関わりを生涯に渡って壊してしまう恐れがあるだけでなく、神と人との関係をも、根本から破壊する恐れがあるためである。

聖書によれば、神と人との関係は、小羊とエクレシアの婚姻になぞらえられている。そこで、性被害事件の被害者が、その事件のトラウマのために、地上における男女の健全な関わりのイメージが傷つけられ、穢され、壊されたままで、小羊とエクレシアとの婚姻の問題だけを、健全に考慮するということは、非常に難しいであろうと考えられる。

つまり、地上において受けた被害が、魂の傷となるだけでなく、霊的にも非常に深い傷となって残り、神との正常な関係を妨げ、傷つける恐れがあるのだ。

筆者は、何らかの事件に遭遇すれば、合法かつ正当なやり方で、これを解決することに反対するつもりはない。物損事故は、弁償されればすぐに終わるであろうし、名誉毀損事件も、賠償で終えられるかも知れないが、性被害事件のような事件のトラウマは、決して金銭で解決できる種類のものではない。受けた心のトラウマは、どれほど高額な賠償を得たとしても、それによって払拭されない。

そこで、受けた被害を神の御許に持って行くという行程が必要となる。だが、カルト被害者救済活動の支持者たちは、いついつまでも被害の思い出から離れることなく、決してその傷を神の御許へ持って行き、解消するよう促さず、かえって被害者であることを強調しつつ、まるで被害を記念するような会合を持ち続けている。

そのようなことをしている限り、彼らのトラウマは、消え去るどころか、ますます強化される一方である。そして、健全な自己イメージを回復できず、かえって傷つけられた自己イメージを、あたかも正常な自分自身であるかのように勘違いし、その結果として、地上における男女の健全な関わりが不可能になるだけでなく、神との関係においても、傷つけられた自己イメージを持ち続けることによって、恵みから疎外されることとなり、やがてその被害者意識が、キリストの完全性に悪質に逆らう罪にさえなって行く。

筆者の書いていることが厳しすぎると考える人々がいれば、掲示板で、今、カルト被害者を擁護する人々が、当ブログに対して、どれほど悪質な誹謗中傷を加えているかを見てみれば良い。このような汚い言葉を他者に向かって平然と吐き捨てることができる人たちが、本当に被害者の味方であろうか。また、仮に自身が被害者であったとしても、自分を憐れむあまり、他者に対してこうまで残酷となり、狼藉を加えることがどうして許されるであろうか。

しかし、当ブログでは10年ほど前から、カルト被害者を名乗る人々に接触し、彼らの中には、このようにまで自分の被害から離れられなくなり、自分は受けた被害のゆえに、自分は人々から無条件に憐れまれるべきで、何をしても許されると思い込むほどまでに、人格が腐敗し、幼稚化してしまった人たちが混じっていることを見て来た。

こうした被害者意識をこそ、私たちは主と共なる十字架において死に渡し、手放して行く必要がある。裁判で社会的決着が着いた後も、いついつまでも被害を記念すべき会合など持ち続けて、支援者を名乗る人々に束縛され、利用されている場合ではない。その被害の思い出そのものを、罪深いものとして手放し、きっぱりと捨て去って、新たな出発を遂げ、被害者であるというステータスと訣別しなければ、その被害は、やがて山火事のように、あなた自身を食い尽くすことになろう。

当ブログは、聖書の御言葉に基づく信仰に立つものであるから、性被害を訴えることが目的でもなければ、カルト被害者の裁判の模様を発表することを目的ともしておらず、カルト被害者を擁護することも目的としていない。それゆえ、カルト宗教における性被害の問題は、ほとんど取り上げることもなく、詩織さん事件などについても、これまで何も言及して来なかった。

筆者は、詩織さんの事件についても、深い懐疑の念を持っている。それは、詩織さんという一人の女性が、あまりにも美化され、彼女がまるで性被害事件の象徴のようになって、一人歩きしていることに、大いなる疑問を感じるからである。自分が遭遇した一過性の事件として、彼女がこれを解決するならば、それは大いにすれば良いことである。もちろん、弱さを抱えている若者を食い物にする現在の日本社会の問題も一緒に論じられることは構わない。

だが、当ブログが懐疑するのは、彼女に群がって、彼女を美化し、神話化し、象徴化し、生涯に渡り、彼女を性被害を受けた被害者の象徴として祀り上げ、これを存分に利用しようとしている実に数多くの人々や団体があることである。

そして、それに利用されれば、彼女は生涯に渡り、自分が受けた一過性の被害から抜け出ることができなくなり、自分の人生を失って、絶えず被害者の象徴として、無数の人々の被害を代弁しながら、悲劇の人として生きて行くことになるであろう。そして、そのような役割を、もしも彼女が喜んで引き受けるとすれば、そこには、ただ彼女を担ぎ上げた団体や人々の思惑が働いているだけでなく、彼女自身がこの事件に遭遇するよりも前から、心に持ち続けていた何かの問題、弱者性から抜け出ることのできない世界観が、影響を与えているのではないかと筆者は見ている。(彼女の世界観がどのようなものであるかは、彼女が制作した作品を見れば分かるであろう。)

つまり、当ブログでもずっと主張しているように、カルト被害者が、被害に遭遇したのには、何かの理由が存在するのであって、被害者はいかなる心の弱さが自分の側にあって、それが暗闇の勢力がつけこむ隙となったのかについて、よく考えてみなければならない。この問題を考えるよう促すことは、断じてセカンドレイプではない。なぜなら、弱さがあればこそ、被害者はつけこまれたのであって、そこには、当然、心の弱さも含まれており、その弱さを克服することができなければ、何度でも、同様の問題に巻き込まれることがありうるからである。

神はキリストにあって、私たちを完全にしようと願っておられる。そこで、私たちは、その完全性を受けとるために、自分の弱さを知り、それを神の完全に逆らうものとして手放しつつ、その弱さを主にあって補われ、克服できることを知らなければならない。自分は弱いかも知れないが、神の強さによって覆われる道が開かれているのだから、いつまでも弱さの中にとどまり続ける必要がはない。

事件に立ち向かうことを通して、自分自身の心の中にも、克服すべき弱さが存在することを知って、その領域を光によって照らされ、より完全な人としての自己意識へたどり着くことが必要である。
 
筆者が述べていることの意味がまだ分からないという人のために、別なたとえを述べよう。筆者が掲示板の誹謗中傷の書き込みを、名誉毀損の被害として訴訟で訴えたとして、それは単に一過性の事件に過ぎない。筆者はそれを機に、生涯、掲示板における誹謗中傷の問題を世に訴え、これと戦うために、活動家に転身しようなどとは全く思わないし、そのようなことは実に馬鹿げたことである。投稿者が判明し、賠償をさせれば、その時点で、何が書かれたにせよ、その問題は、以後、終わったものとして考えるだろう。

それなのに、一度、掲示板の投稿者を敗北に追い込んだことで、これをいつまでも掲示板への勝利の記念として、会合を開いては、そこにいかなる誹謗中傷が書かれたのか、つぶさに文言を読み上げて、自分がどれほどそれによって深く傷つけられたかを思い出し、涙を流すようなことは決してしない。むしろ、毅然と立ち向かったがゆえに、敵の嘘をきっぱり退けて、この問題を克服し、虚偽の投稿によって自分の心を傷つけられず、それを鵜呑みにすることもなく、心の平和を無事に保ったことをこそ、喜ぶであろう。

もちろん、そうなるまでには、多くの月日が必要かも知れないが、一旦、一つの問題を解決したならば、もはやそれは心に影響を及ぼすことはない。その後、筆者はまた別のより困難な問題に取り組むかも知れないが、それは、掲示板とは全く別の新しい問題である。筆者はその新たな問題をも克服して、前進して行くであろう。このようにして、絶え間なく前に進んで行き、そこで自分の心の弱さと取っ組み合って、これを打破し、勝利をおさめ、さらに前進して行くためにこそ、人は試練に遭遇するのだと筆者は考えている。

従って、一つの課題をクリアしたのに、その問題にいついつまでもとどまり続け、いついつまでもとらわれ続けることは、有害である。一つの問題を解決したならば、それを後にして、前に進んで行くべきなのである。

このように、起きた事件を一過性のものとして決着をつけることと、生涯、自分をその問題の被害者の立場に置いて生きていくことは、全くわけが違う。だが、被害者に群がって、これをビジネス化する人々は、被害者の像を無限大に美化し、神話のように祀り上げることによって、かえって被害者が生涯に渡り、その問題に束縛され、被害者としてのステータスから抜け出るチャンスを失うように仕向ける。

その結果、彼らは、神にあって約束されている健全さ、完全性を見失い、傷つけられた自己イメージを生涯に渡って持ち続けることになり、その中を生きるようになる。一つの問題を克服して、次なる次元に進むことさえ、できなくなって、生涯、一つの問題の中だけにとどまり、それにとらわれて前進することができなくなってしまう。そのようにして、被害者自身もそうだが、それに群がる無数の人々が、被害者の像を美化することで、被害者を「被害者性」の中に閉じ込め、永遠にそこから抜け出せないように仕向けて行くことは、神が約束された人間の自由と解放に悪質に逆らう行為であり、非常に罪深い行為であると筆者はみなしている。

* * *

さて、本日の当ブログのテーマに戻ろう。まず最初に、オリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの論説を挙げておきたい。この記事には、キリストと教会の結婚の奥義について、詳しく書いてあるからである。
 

 「キリストとの合一」第五章 夫婦の合一(4)


交わりと配偶

 これを二、三の単純な、自明と思われる点にまとめることにしましょう。最初のアダムの最初の夫婦関係という絵図・型に沿って、これに注目して調べることにします。そして、「これに関する神の御思いは何だろう」と問うことにします。そうするなら、それらの御思いを、あらゆる関係の中で最も幸いな関係の中にあるキリストと教会、キリストと私たちに適用することができます――確かに、これはキリストとのすべての関係の中で最も幸いな関係です。神の御思いは何だったのでしょう?

 まず第一に、聖書が示すところによると、神が女を創造してこの合一を生み出そうとされたのは配偶のためでした。「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)。これに尽きます。しかし、それには豊かな内容があります。これをキリストと教会に適用するのはおこがましく思われますが、それでも、キリストに対する教会の関係――教会はキリストの妻です――には、これを確証・証明する多くの他の要素や特徴があります。

これはこれだけではありません。旧約聖書の中には花嫁の型がとてもたくさんあり、その思想をキリストと教会に適用するに足る十分な証拠に満ちています。それらがキリストと教会を指し示している証拠や証しがふんだんにあります。今はその学びに取りかかるつもりはありませんが、確かにあります。証拠はたくさんあります。ですから、おこがましく思われるかもしれませんが、私たちはこの点を私たちの主との私たちの関係に適用することができます。すなわち、教会を神が創造されたのは、御子の益を促すためであり、御子のために配偶を願ってのことだったのです。

 地上におられた時の主イエスを見ると、彼がどれほど交わりを求めておられたのかを見落とすことはありえません。おそらく、彼が語られた最も悲しい言葉の一つは――「あなたたちは(中略)私を独り残すでしょう。しかし、私は独りではありません。父が私と共におられるからです」(ヨハ一六・三二)という言葉です。これによって彼の発言が弱まったり相対化されるわけではありませんが、「私は独りです」という彼の言葉には悲しい響きがあります。彼が常に配偶を求めておられたことは自明です。彼は人であり、他者の必要を感じておられました。それは神聖なものです。キリストは交わりを求めておられます――「交わり」というこの言葉を取り上げる新約聖書の方法は素晴らしいです。これは何と豊かな言葉でしょう!自分のコンコーダンスを調べてみてください。そうすれば、「交わり」というこの言葉の原語がわかります。そうするだけでも豊かな学びと黙想になります。確かに、とても貴重な経験になります。「あなたたちは御子の交わりの中に召されたのです」(一コリ一・九)

 これは、まず、夫婦の合一、配偶もしくは交わりの思想、観念を表しています。第一に、配偶に先立つ交わりは交わりにすぎません。この関係の最初の調べ、支配的調べはまさに交わりです。

 交わりとは何でしょう?交わりは生活と目的の一体化です。キリストは生活と目的が御自身と同じ人々、御自身の心と一つ心である人々を望まれました。あなたや私はそのような関係の中に召されました。あなたや私が主イエスに、御自身の生活や目的と一体化した人々を求める深い心の願いと願望を起こさせなければならないとは、高遠なことであり、聖なることであり、貴いことです。今述べるのはこれだけですが、これが夫婦の合一の意義の第一歩です。



ここに、キリストと信者(エクレシア)の交わりの本質は、「生活と目的の一体化」であると記されていることは、注目に値する。

なぜなら、数多くの信者が、キリストとの交わりとは、日曜礼拝に参加することや、甘美な讃美歌の調べに身を委ねること、説教を聞くこと、パン裂きの儀式に関わることや、兄弟姉妹と交流することなど、何か宗教的な名目のついた心地よい体験に浸ることだと勘違いしているからである。

もしくは、ある日突然、天から神の啓示が下り、キリストが自分に対して特別にご自身を現して下さり、何か尋常でない恍惚体験に浸ることを、神との交わりであるかのように勘違いしているる人々もいる。

確かに、神は信じる者に、ご自身を啓示して下さることがないわけではないが、オースチンスパークスは、以上のような感覚的な享楽や、恍惚体験が、神との交わりであるかのような考えをきっぱり退け、主との交わりとは、「生活と目的の一体化」であると断言する。

そこからも分かる通り、主との交わりとは、信者の生活のあらゆる場面が、ただ一つの目的――御国の前進、御心の実現――のために集約されて行くことを言う。別の言葉で言えば、それは信者が、自分の人生のすべてを神のために捧げ、神の満足のために生きることを言う。

それは決して信者が神学校に行って牧師になったり、伝道師や宣教師になったりすることを意味しない。

信者の人生の一瞬一瞬のすべてが、ただキリストのために、キリストの満足を目的として捧げられることを指している。

パウロは自分に与えられた人生の時間を、すべて主のために注ぎだしたいと考えた。彼はただ神の満足のために生きたいと願っていたので、それゆえ、自分の時間をそれ以外のことに費やすことを惜しんだのである。

もしもパウロが地上で妻を得れば、彼は伴侶を喜ばせるために、たくさんの気を遣わなければならなかったろう。子がいれば、多くの世話をしてやらねばならない。家庭を持てば、パウロ自身も、満たされることはあるかも知れないが、彼は感覚的満足と引き換えに、自分の時間と労力を、人間のために捧げねばならなくなる。だが、パウロは、自分の持てる時間を、自分の満足のためでなく、神の満足のために捧げたいと考えた。

パウロが誰よりも喜ばせたいと考えていた相手は、人ではなく神であり、そうすることが、他のどんな事柄りも尊い価値ある生き方であることを、彼は知っていたのである。

さて、オースチンスパークスの論説からも伺えるのは、神の悲しいまでの孤独、配偶を得たいと願われる切なる御思いである。

「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)――この言葉は、神の独り言と言って差し支えない。神は天地を創造され、人を創造された際、人(アダム)のために助け手(エバ)を造られた。しかし、ご自身はまだ助け手を得ておられなかった。

そこから、悲劇が始まる。人類は本来、神の配偶(助け手)として造られたのに、創造された次の瞬間、神を裏切り、悪魔の支配下に下った。

神は人類を滅びから救おうと、独り子を地上に遣わされたのに、弟子たちは主イエスが十字架にかかられる前、主を裏切って逃げた。

かの有名なイザヤ書53章には、イエスが地上におられた際の孤独が、どれほどのものであったかを伺わせる記述がある。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」

さて、筆者が、当ブログに対して向けられる中傷のすべてが、筆者個人に向けられたものではなく、実は、筆者の背後におられるキリストに向けられたものであることに気づいたのは、ここ最近のことである。

村上や杉本のような人々は、当ブログの内容が、かねてより「創作」であり、嘘に満ちたものであるかのように非難していた。

しかし、杉本がある時、はっきりと聖書は神の霊感を受けて書かれたものでなく、人間の書いた書物に過ぎないと告白し、人類の堕落も、ノアの洪水も、サタンも悪霊も暗闇の軍勢も、みなファンタジーのような比喩に過ぎないと書いたことにより、筆者は、この人々が、当ブログをファンタジーの産物であるかのように述べているのは、実は当ブログの記述の背後にある聖書の御言葉に対する攻撃であることに気づいた。

彼らは、当ブログを「創作」であるとみなしているだけでなく、その背後にある聖書の御言葉をも「創作」だと考え、その真実性を信じていないのである。

今、掲示板等で行われている筆者に対する人身攻撃もそれと同じである。上記の御言葉を参照するならば、キリストには、「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もな」かったのであり、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とある。

これは不思議なことである。一方では、キリストはそのまことの命を人々に分かち与えられたことにより、多くの人々から慕われ、大勢の群衆に囲まれていた。ところが、他方では、彼には、堂々たる風格も、人目を引く容姿もなく、むしろ、人々から軽蔑されて、拒絶され、顔を背けられ、孤独で、見捨てられ、嘲られていたとある。

人々は、自分にとって利益となるものを見いだせる間は、キリストに群がり、その後を追ったが、いざキリストが苦難を受けられると、自分は一切、関わりたくないとばかりに逃げ去って行った。

地上におられた時のキリストの圧倒的な孤独――これは、父なる神の孤独にも重なるであろう。十字架において死の瞬間に、主イエスが、「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、ただ罪のゆえに神と断絶して見捨てられた人類を代表する叫びであるだけでなく、配偶を失った父なる神の叫びにも通じるように思う。

神は人類をご自分の助け手として創造されたのに、人類は神を裏切り、見捨て、蔑んで去った。「私は、私の助け手、花嫁とすべく、人類を創造したのに、なぜ人類は、花婿なる私を見捨て、嘲り、踏みにじって去って行ったのか――」主イエスの叫びの中に、神の人類に対する言い尽くせない悲しい叫びが込められ、それが主イエスの言葉の中で、互いに響き合っているように感じられる。

だが、神は十字架の死と復活を通して、ご自分が望んでおられる新しい人を取り戻された。そして、主に連なる人々は、キリストと同じように、神の御心を満足させるために、この世から取り分けられ、召し出された人々である。
 
そのようなわけで、神は今日も人類をご自分のために招いておられる。私たちは、ある時、そのことに気づき、ふと立ち止まって、この召しに応えるかどうかを考えさせられる。

筆者は「わたしについて来なさい」という主イエスの呼び声に応え、神の満足のために身を捧げて生きたいと願う。ところが、ある人々は、これを幻聴だなどと言って嘲笑っている。神が最も願っておられることを嘲笑う――神が人類に与えられた最も貴い召しを嘲笑う――何と恐ろしい冒涜的な考えであろうか。

主の御心は、小羊の婚礼にこそあり、神はご自分の配偶を得て満足したいと願っておられる。神がまだ満足しておられないときに、どうして私たちだけが、地上で先に満ち足りて幸福になって自己満足してしまってよかろうか。

キリストが人々に拒絶され、蔑まれ、見捨てられ、踏みにじられ、栄光を傷つけられたままなのに、どうして私たちだけが、人々に受け入れられ、尊ばれ、喜ばれ、誉めそやされて、担ぎ上げられ、栄光を受けて良かろうか。

筆者が御国のために献身し、神の国の働き人となってから、筆者に対する暗闇の勢力からの攻撃は、以前にもまして激しさを増した。暗闇の勢力は、筆者の召しを嘲笑い、孤独を嘲笑い、容姿を嘲笑い、生活状況を嘲笑り、筆者に属する何もかもを、徹底的に罵倒し始めたのである。

だが、そのような罵倒は、上記の御言葉を見る限り、まさにことごとく主イエスが受けられた嘲りにそっくり重なる。

主ご自身は、地上で軽んじられ、嘲られ、拒絶された。犯してもいない罪のゆえに断罪され、奴隷としての死を担われた。そこで、筆者は、筆者に向けられたいわれのない非難や罵倒の中に、まさに主に対して向けられる非難や罵倒、冒涜の言葉を見ずにいられない。

そういうわけで、私たちは、今日も御名のゆえに、罵られたり、迫害されることにあずかっているわけだが、これはキリストの苦しみにあずかることであるから、実に幸いなことだと筆者は考えている(もちろん、これは誹謗中傷の罪が免責されるという意味ではない)。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

私たちは、こうして実に不思議な形で、キリストが地上におられた時に味わわれた苦難の一端を、共に担うという幸いにあずかることができるのである。

地上でも、親友の絆は、共に苦労を乗り越えた時に生まれる。夫婦の愛も、喜びと悲しみを共に分かち合うことによって深まるだろう。どんな人間関係であれ、苦しみを共に乗り越えた体験がなければ、深まらない。そこで、主イエスは、地上でご自分が経験された孤独や悲しみや痛苦しみみを、ご自分に従う人々にも、少しばかり、分かち与え、共に担って欲しいと願っておられるのではないだろうか。

だから、神との関係において、私たちは御手から、ただ喜びや、祝福だけを受けとるのではなく、神が感じておられるであろう悲しみや孤独、痛みや苦しみを、その片鱗でも良いから、託されることは、実に大きな信任のゆえではないかと思わずにいられないのだ。

これは決して、筆者が自分から余計な苦しみを求めていることを意味しない。筆者は苦しみを求めているわけではなく、ただ神の御思いをより深く理解するために、そのへりくだりにあずかり、主の御心の中心にあるものを知りたいと願っているだけである。

そこで、自分のためにではなく、主の満足のためにこそ、あえて孤独や、苦難や、迫害をも耐え忍ぶ価値があると考えるのである。そのような意味でこそ、パウロは地上で得られる利益のすべてを無価値とみなして投げ捨て、自分の生涯のすべてを神のために注ぎだし、捧げることを決意したのだろうと想像する。

筆者は、少し前に、バビロン王国をエクソダスし、エクレシア王国の住人となったと書いた。こうして、エクレシアに終身雇用される神の国の働き人となってから、筆者には毎日、なすべきたくさんの仕事がある。

その仕事の中には、決してここで報告することのない数多くの隠れた働きも含まれているが、それらはすべて、御心が天に成るごとく、地にも成るように、この地上に御国の秩序を引き下ろし、父なる神に栄光を帰するためになされるものである。正義、真実、平和、公平、公正を地にもたらすための激しい霊的戦いである。

この戦いに精通すればするほど、主と共なる生活は、他のどんなものとも引き換えにできない価値があることが分かって来る。

そして、主と共に生きることは、地上におけるすべての権威と支配を足の下にする、極めてダイナミックで壮大な生活である。

これは誇張でもなければ、ファンタジーでもない。私たちは、外見は全く弱々しく取るに足りない民でしかないが、御名の権威を授けられていることによって、絶大な権威と力を帯びているのであり、その権威を実際にこの地で正しく行使して、戦いに勝利して、神が満足される平和を打ち立てることが求められている。

神はこの地上全体を管理するために、人類を創造されたのであり、サタンの支配下から奪還されて、愛する御子の統治下に入れられた一人一人の信者には、当初の神の目的の通り、地上のすべてを治める権限を与えられている。

それが、神の国の働き人となることの意味であり、私たちはエクレシアに身を置き、主と共に天の御座から、地上の物事を管理する。主の御名には、地上のすべての支配と権威を足の下にする超越性、優位性があり、私たちは、御名にこめられた霊的優位性を行使して、敵を足の下にし、御座に住む秘訣を知らなければならない。

キリストにある霊的優位性により、私たちはこの世の喧騒をはるか下に見下ろし、高く御座に引き上げられる。

そこには圧倒的な心の平安がある。

それは決して戦いが止むことを意味せず、私たちが何もかも忘れて、ただ心地よい感情に漫然と浸ることを意味するわけでもない。

依然として戦いはある。苦しみもある。試練もある。だが、もしもキリストと共に苦しむならば、それは主の満足につながるのであり、その苦しみは、しばらくすると、慰めと、勝利の喜びに変わる。

私たちの霊は、たとえ試練の最中を通過する時でさえ、御座に高く引き上げられて、地上の喧騒をはるか足の下にしつつ、御座から流れる命の川々に浸され、神から注がれる清い愛に満たされて、深い満足を覚える。

こうして、私たちの心は、何が起きようと、動かされることなく、揺るぎない平安に住む秘訣を知る。生活の一瞬一瞬のすべてを神の満足のために費やすことには、はかりしれない大きな満足がある。そのように、自分をすべて主のために注ぎだすことを決意し、これを実行すればするほど、たとえ私たちが感覚的には主の臨在を感じておらずとも、あるいは、苦しみの中にあっても、主との交わりは、いよいよ強化されるのであって、私たちは神の愛の中に住み、自分の心を平和に保ち、御座から権威を持って、地上のもろもろの支配と権威に大胆に命ずる秘訣が分かって来る。

御名の権威が、すべての権威にまさるものである以上、地上のもろもろの支配と権威は、私たちの命に従い、これに服さざるを得ない。筆者の述べていることを嘲笑っている人々は、やがてその成果を間近に見て、驚愕させられることになろう。

私たちは御名の霊的優位性・この世に対する超越性によってこそ、暗闇の勢力に対して勝利をおさめ、彼らを凱旋の行列に捕虜として従えて、足の下にすることができるのである。

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