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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

疎外されし者たちの復讐の哲学~罪穢れなき自己のアイデンティティを取り戻す(原初回帰)という自らの欲望をかなえるために社会的弱者を悪用する人々~

今回は「弱者に同情し、弱者を哀れむように見せかけて弱者を利用する偽りの救済思想」というテーマで書きたい。

安倍談話が発表された。問題点はすでにいくつも指摘されているが、大きく分けて二つある。

①あたかも過去の談話を継承して、先の大戦への反省や謝罪を示しているように見せかけて、それは他者の言葉の引用の中での言及であって安倍の本心ではない(安倍自身の言葉がなかったため、安倍氏本心からの謝罪の意と受け取れない)。

②過去については謝罪や反省を示しているように見せかけながら、「未来の世代に謝罪の責任を負わせることはできない」として、弱者である若者を盾にとって、今から先、未来に向けて先の大戦の国家的謝罪の責任を負うことを拒否した。

(この談話に関する国際的批判、過去の首相からの批判は、「村山元首相、安倍談話を批判 「引き継がれた印象ない」朝日新聞DIGITAL 2015年8月14日21時30分 安倍談話「歴史認識の後退」=誠意欠如と批判強める-中国国営メディア 時事ドットコム(2015/08/15-09:12)韓国市民団体 安倍談話を批判=「謝罪とは言えない」 2015/08/14 20:32 ソウル聯合ニュース などを参照)

今回の安倍氏の談話は、あたかも私の書いた「キリストの罪の贖いにより、私たちは永久に赦されているので、過去の罪をいつまでも思い出す必要はない」という発言を悪用したかのようなものである。

つまり、うわべだけ謝っているように見せかけて、「これでお詫びしたでしょ、だからもうこれ以上ボクを責めないでね。いつまでも罪悪感に苛まれ、傷ついたアイデンティティを引きずり続けることは心理的に不健全だって、あなたも認めてるんでしょ。だから、ボクもこれ以上、謝罪を繰り返す気はないよ」と開き直っているのである。

だが、最初にはっきり言っておこう。罪が赦されるためには、それなりの罰を受け、償いが果たされなければならない。罪に対する完全な罰を受け切って、償いを終えてからでなければ、自分は赦されたとは誰も主張できないのである。

むろん、国家が戦争で犯した罪がどれほど深く大きなものであるかは言うまでもない。そのことは、戦後、70年経った今日も、未だ戦後処理さえ終わっていないことによく表れている。関係諸国の人々に対する補償もさることながら、日本人に対する戦後処理も終わっていないのである。謝罪をやめるというならば、せめて、戦争で亡くなった人々が全て発見されて補償も完了し、戦後処理が完全に終わってから言えばいいだろう。

私が述べて来たのは、人が罪を贖う方法はたった一つしかなく、それは神による救済に頼ることしかないということである。聖書によれば、人の罪はあまりにも深く大きくて、自分自身で贖うことのできる限界をはるかに超えている。この罪の重荷から逃れるためには、自らの罪を告白し、キリストの身代わりの刑罰としての十字架の贖いを信じるしかない。この信仰を持っておらず、心から罪の告白もしておらず、血潮の保護を受けていない者が、自分は口先だけで謝罪をしたのでもう罪が赦された、とか、だから過去の罪深い歴史を思い返して罪悪感に苛まれる必要はなくなった、と、どんなに説明しても、それは詭弁であり、その効果は無である。

しかし、あらゆるグノーシス主義者の願いは、そもそも原罪を持たない、罪を犯して堕落する前の穢れない状態に戻ることにある(=原初回帰)ことを、私は以下の記事で繰り返し述べて来た。グノーシス主義思想とは、人が自ら犯した罪を自分で否定して、自分を罪に定めた神を否定して、自己救済をはかる思想である。それは、いわば、悪魔の名誉回復の思想と言って良い。つまり、そこでは、悪魔が自ら犯した罪を神になすりつけることによって、自分には罪がないと主張し、神に対する反逆を是としようとする思想的背景がある。この構図に乗っ取って、その思想に影響を受けてまことの神に反逆する人間たちが、原罪を否定し、己には罪がなく、従って、人間を罪に定めた神の方が間違っているのだと主張するのである。そして、彼らはこうしてまことの神を否定した上で、最終的に、自分たちこそ神々である(無謬の存在である)と主張し始めるのである。

安倍氏を筆頭として、国家主義や軍国主義の復活を願っている人々も、結局は、かつての天皇を神とする皇国史観に基づいている点では、グノーシス主義と根底を同じくする思想を持っていると言える。そして、彼らの悲願も、何よりも、自らの罪深い歴史を払拭し、穢れないアイデンティティを取り戻すことにある。

侵略戦争という負の歴史を払拭し、その罪の負い目から解放され、穢れない真っ白な日本史を取り戻すということに、彼らは自らのアイデンティティをかけている。それは結局、彼らが国(民族)の歴史と自己のアイデンティティを同一視していることを意味する。

そのことは、高市氏の次の発言からも読み取れる。

首相談話「民族責任論から子孫を解放」 高市総務相
朝日新聞DIGITAL 2015年8月15日12時18分

■高市早苗総務相

 昨日の(戦後70年の)首相談話は、自民党、公明党、そして内閣として、一体的な統一した見解を皆さまに責任をもってお示しできる内容のものだった。そしてなによりも、日本人に生まれただけで、それが罪であり、未来永劫(みらいえいごう)謝罪を続けなければいけないといった「民族責任論」から子孫の代を解放していく(内容のものだった)。

 戦争によって、日本人であれ、対戦国の方であれ、戦場となった場所の方であれ、多くの方の命が失われる。もう武力をもって紛争解決するというようなことが起きないように、そういう決意を新たにしながら、そのことは次の世代に「戦争の悲惨さ」としてちゃんと伝えなければならないが、少なくとも「民族責任論」というものとは一線を画し、未来志向型の談話となった。(靖国神社で参拝後、戦後70年の安倍談話について問われ)


ここから分かるのは、安倍氏のような思想を持つ人々が最も問題視しているのは、先の大戦によって国家的に生じた「罪意識」であると言える。「民族責任論」などという聞きなれない言葉がまるで当たり前のように公式に登場しているが、これを聞いて、私がまず真っ先に連想するのは、日本は大陸の諸国に侵略戦争を犯したゆえに国家的に堕落しており、韓国は(正しい)アダム国家だが、日本は(堕落した)エバ国家だとしている統一教会の教えである。統一教会では、戦争の罪のために日本は国家的(民族的に)に堕落していると教えられ、こうして罪悪感を植えつけられた日本人が、韓国人に対して罪滅ぼしを行うために合同結婚式などを通じて韓国に渡ったのである。

だが、ここで高市氏は、日本の歴史問題と、日本人は日本人として生まれただけで堕落しており、罪深いのだという「民族責任論」ををごっちゃにして論じることにより、若い世代に先の大戦への謝罪の責任を負わせることが、「民族責任論」を押し付けることと同義であるかのように論理をすりかえている。

戦争責任の問題を「民族責任論」と同一視することにより、後者を否定することで、前者までも否定しようとしているのである。

こうして、あたかも、若い世代を罪悪感から解放すると見せかけて、その実、彼らは国家の犯した罪を否定し、自分自身の罪悪感を解消しようとしているのである。これは国民や民族を都合よく盾に取った自己救済の思想であると言える。

話を戻せば、あらゆるグノーシス主義者が目指して来たように、安倍氏の目指しているものも、「原罪の否定」、すなわち、「罪意識からの解放」である。

安倍氏は特にA級戦犯の孫であるという出自において、先の大戦については、とりわけ大きな負い目を持っていると言える。だから、安倍氏は本心では、先の大戦を侵略戦争として謝罪するということ自体をやりたくない。それが罪であったこと自体が認めがたい。彼は出自から来る負い目を解消するために、自らの父祖が罪を犯したという事実そのものを認めたくないので、できるならば、先の大戦は罪ではなかったという認識に立って歴史を修正し、再び歴史を繰り返すかのような戦争法案を推進し、軍国主義的な時代を復活させたいのである。

だが、今の社会情勢においては、先の大戦を負の歴史として反省や謝罪を一切述べないということは、あまりにも世論や国際社会の反発が大きくてできそうにもないので、安倍氏は歴代首相の談話を口先だけで踏襲したかのように見せかけて、自らの悲願を「未来の世代」に託そうとした。これはトリックである。

おそらく、安倍氏は、最近の反安倍政権デモの中で、年配の世代がしきりに若者の世代を心配し、国の不安に満ちた状況を憂い、こうした状況を作り出したことで、若者に対して負い目の意識を持っていることに着目し、これを悪用したのであろう。そして、若者のためであるかのように装って、今後、先の大戦の罪を国家が負の歴史として背負い続け、謝罪を続ける義務を都合よく放棄しようとしたのである。

繰り返すが、彼が謝罪の責任から放免しようとしているのは、若者ではなく、国家である。

このように安倍氏は「若者」を盾にとって、歴史を浄化するという自らの願いをかなえようとした。若者を口実にして、若者の負担を軽減してやることが目的であるかのように見せかければ、他の年代の人々も異議を唱えられないだろうと踏んだのである。

だが、同氏はこれまでにも常に同様にして「社会的弱者」を口実に自分の思いを成し遂げようとして来たことを思い返す必要がある。女性差別の問題を利用した「女性が輝く社会」も然りであるし、「拉致被害者」の問題もそうである。

元拉致被害者家族会の蓮池透氏もこう述べた、「安倍政権の解釈改憲に代表されるあまりにも強引な手法を見ていると、安保法制を進めるために拉致問題を政治的に利用したのではないか、との思いが日に日に増している。」と。(安保法制・私はこう考える:拉致問題、政治に利用か 元拉致被害者家族連絡会副代表・蓮池透さん(60) 毎日新聞 2015年06月21日 東京朝刊 より)

安倍氏はこうして今まで絶え間なく「社会的弱者」を自分の出世の手段とし、自分の願う政策の実現の手段として利用して来た。社会的弱者を解放すると見せかけて、自らの望む抑圧的な政策を次々推し進めて来たのである。だから、そうした弱者解放の政策のどれ一つとして、今まで満足に成果をあげていない。それどころか、問題は年々悪化しており、社会的弱者の解放や保護は、弱者をより痛めつける政策を次々と実施するための目くらましに過ぎなかったことが、よりはっきりして来ている。

「女性の社会進出」などもその格好の事例であろう。「女性が輝く社会」といった美名の下に登場して来た政策は、単に女性差別問題を悪用して作られただけの、女性をさらなる抑圧と搾取に導く政策であると批判を浴びた。女性を低賃金で、長時間労働に従事させることにより、家庭や育児から引き離し、子育ても結婚もできないようにさせることを肯定する内容を含んでいる政策が、どうして女性の解放へつながるはずがあろう。これも女性差別の克服のように見せかけて、むしろ、その問題を逆手に取った抑圧政策である。

このようにして、安倍氏は「社会的弱者」を利用しては、己が欲望を実現するための手段として利用して来たのである。そして、そのやり方では決して弱者は解放されなかった。

さらに、このような「社会的弱者の美名の悪用」こそ、統一教会出身の指導者らが絶えず利己的な栄誉を勝ち取るために用いて来た常套手段であることも、幾度も述べて来た通りである。

だからこそ、談話の発表の翌日の戦没者追悼式では、安倍氏は今年を含めて三年連続で「アジアへの侵略戦争」の責任を認めなかったのである。安倍氏の本心はこちらの方にある。

安倍首相、アジアへの加害責任に触れず 戦没者追悼式
朝日新聞DIGITAL 2015年8月15日12時30分 から抜粋 

 戦後70年の終戦の日となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれ、約310万人の戦没者を悼んだ。安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を決して繰り返さない」とする一方、アジア諸国への加害責任には今年も触れなかった。正午の黙禱(もくとう)に続き、天皇陛下は「おことば」で「さきの大戦に対する深い反省」と、追悼式では初めての表現を使った。

 安倍首相は式辞で「平和と繁栄を享受しているのは、皆様の尊い犠牲の上にのみあり得たものだということを片時も忘れません」と、哀悼の意を表明。その上で「歴史を直視して、常に謙抑を忘れません」とする歴史認識を示した。

 首相の式辞では1993年の細川護熙氏以降、アジア諸国への「深い反省」と「哀悼の意」などを表明し、加害責任に言及することを踏襲してきた。だが、安倍首相は3年続けて加害責任への言及を避けた歴代首相が使った「不戦の誓い」にも触れなかったものの、「戦後70年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない、そのことをお誓いいたします」と語った。

 天皇陛下は「深い反省」に加え、「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました」などと、これまでにない表現を用い、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願う」と述べた。

 遺族の参列予定者数はピークの85年(7056人)から減少傾向にあるが、今年は5525人で昨年の4765人より約16%増加。「戦後生まれ」は前年より4・8ポイント増の20・1%(1109人)で、初めて2割を超えた。一方、戦没者の「妻」は14人で、「父母」は5年連続でいなかった。

 厚生労働省は国費負担で参列する遺族の都道府県枠をこれまでの各50人から各55人に拡大。今回から18歳未満の「青少年代表」による献花が行われ、9~17歳の6人が選ばれた。

追悼式には全国の遺族5327人らが参列した。(以下略)


戦没者追悼式における安倍氏のメッセージは、「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました」と強調した今上天皇のメッセージと対照的な内容となっている。どんなに「戦争の災禍を繰り返さない」と述べたとしても、危険な戦争法案を推し進めているのではその言葉は空文句にしかならない。さらに一方では皇国史観に基づき、軍国主義の復活を目指しながら、他方では自らのメッセージにより、天皇さえも牽制し、無視して、自らの政策を推し進めているところに、安倍氏の思想的暴走の恐ろしさが見て取れる。

繰り返し述べたように、安倍氏はすでに神になってしまっているという印象である。「談話により謝罪は済んだ」として、先の大戦という「民族的原罪」も否定したので、今後は、一切の罪穢れのない、神のように無謬の存在として、誰からの統制も受けず、今後ますます自らの信念を明らかに公言して行こうとするのではないかと思われる。

こういった思想が決まって最後に行き着くのはパラノイド、また、その結果として、誤ったメシアニズムに基づく世界征服(人類救済)の思想である。抑圧されていた者が、自己を抑圧した者を打倒してその関係を覆して「強者」に対して復讐を遂げただけでなく、なおかつ、抑圧された「弱者性」を核として世界までも変革し救済するという愚かしい(さしでがましい)救済思想が生まれて来るのである。歴史上、抑圧されていた民衆やプロレタリアートが世界革命の担い手になり、19世紀にはまだどちらかと言えば後進的な国であったロシアがかえって世界の先駆的な解放者になるといったメシアニズムの思想が生まれて来たことはすでに述べた。

それを今日の日本に当てはめるならば、(安倍総理になじみの深い統一教会の教えによれば)「エバ国家」とまで断罪され、民族的に戦争の「原罪」を負わされた日本が、罪悪感に閉じ込められ、押さえつけられて来た卑屈な過去をはねのけて、自らのアイデンティティを罪穢れないものとして正当化し、己を罪に定めた諸国との関係を覆して再出発を遂げるだけでなく、できるならば、その思想によって、やがて世界の覇者となろうとするところまで行き着こうとしているのではないかと感じられる。まるでその野心を暗示するように、安倍氏は今年の年頭所感として、「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく。」という言葉を述べている。(安倍内閣総理大臣 平成27年 年頭所感 首相官邸 平成27年1月1日)
 
原発事故の収拾の目途もつかず、世界に迷惑をまき散らしている国が、どうして世界の中心で輝くことができようか。それどころの話ではない。オリンピックの栄光に自己陶酔する前に、見るべき課題を直視すべきである。先の大戦への謝罪を中止することによっては、決してその責任から逃れることができないのと同様に、国家が引き起こした現実の諸問題を次々と否定し、過去の栄光に酔いしれることによっては、決して国家として現実の責任を果たすことはできない。

だが、この人々はあたかも幻想の世界に住んでいるかのように、ひたすら自画自賛の思想に酔いしれて、見たくない問題はすべてなかったことに帳消しにしていくだけで、決して目の前で起きている問題を認めず、それに対する責任を負うこともしない。そして、現在の問題も否定し、過去の問題も否定した上で、見当はずれな浮かれ騒ぎに精力を費やし、ひたすら、自分たちは罪を問われることのない、一切の罪を持たない神のように穢れない存在であると主張し続けるのである。それを主張するために、社会的弱者を利用し、国を利用し、(皇国史観も利用し、英霊も利用し)、民族を利用しているのである。

この政権はいよいよ危険水域にさしかかっているのだと言えよう。自らの罪を否定し、一切の罪穢れと関係のない浄化されたアイデンティティを取り戻し、神々になっていく過程で、安倍氏とその支持者らにとって、国民の反発のみならず、今上天皇のメッセージすらも、邪魔になる日が来るであろうことが懸念される。

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