忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)

上記の御言葉において、「キリストと結ばれる(新創造とされること=キリストと教会との結婚)」ことと、神との和解が、同じ文脈で語られていることの深い意味を改めて思わされる。

前回、二つの対照的な手続きについて書いたが、先日、出された死の宣告と言って差し支えない宣言も、それから間もなく、新たな命に至る宣告によって上書きされた。

もちろん、これらは本当は何の関連性もない別個の手続きであるから、それぞれがお互いを打ち消すわけではないし、上書きされることもない。

とはいえ、手続きの受け手は、共に筆者という一人の人間であるから、受け止める者の感覚としては、一つの試練のあとに、豊かな慰めが与えられた、という感覚である。やはり、何事も思い悩んではならないという聖書の御言葉は正しく、キリストの御身体には、何か一つの苦しみが生じても、こんなにも早く、新たな回復の力が働く。

だから、筆者はディスカウントの宣言を信じず、それを打ち消すために、再び歩いて行くのみである。

その日、決して晴れがましい席ではないところに、筆者が呼んだのではない、たくさんの人たちが来ていた。結婚式にも似て、厳かな宣言がなされ、見知らぬすべての人たちが、筆者と共に命と安息を得たことを、共に喜び、祝福してくれているようであった。

こうして、初めて出会う人たちとの間でも、隔てなく喜びと悲しみを分け合う、そういう不思議な関係が地上にありうるのだと筆者は知って、何か厳かな感動が込み上げて来た。

聖書において、冒頭に引用した通り、人が完全に罪から贖われて、神と和解し、神と一つとされることは、キリストと教会の結婚の奥義である。

従って、神と和解すること、人がキリストに結ばれ、新しく造られた人になることは、同じ意味なのである。

だとすれば、神と人だけでなく、人と人とが和解し、人の間で、すべての敵意と隔てが取り除かれて、新しい関係性が打ち立てられることも、どこかしら、神と人との和解によって、一人の「新しい人」が造られる過程に似ている。

見ず知らずの人々であっても、全員が一つに和合し、まるで一人の新しい人のように、新たな関係性の中に入れられるのである。

結婚があれば、家ができる。新しい家族が生まれる。それと同じように、主にあって、和合した人々は、新しいコミュニティの一員となる。

そのようにして、筆者は、新たな関係性が誕生する瞬間に立ち会わされたような気がした。

その場面が、想像していた以上に、素敵で、そして、味わい深い、感動の伴うものであり、筆者を大いなる尊厳で覆ってくれたがゆえに、筆者はさまざまなことについて、考えを新たにせざるを得なかった。

おそらく、天の御座において、神の御前に立たされるときには、きっと、このような光景が見られるのではないかと感じた。そこには、見知らぬ「雲のような証人」たちがこうして立ち合い、神と共に、筆者の労をねぎらってくれるだろう。

「あなたはよくやりました。ここでは、誰も恥を受ける必要はありません。あなたもこれ以上、奮闘する必要はありません。これがあなたの報いであり、あなたの慰めであり、安息です。どうぞ、自分の報いを受け取りなさい」

そう言って、筆者の地上での労苦をねぎらい、祝福の言葉で包んでくれるのではないだろうか。
 
いつの間にやら、筆者はもはや一人ではなくなり、大勢の人たちに、助けられ、支えられながら、共に進んでいたことが分かった。

味方ではないと思っていた人たちまでが、味方となり、呪いは解除され、すべての人たちが生かされる正しい決断が下され、新たな命の力が、筆者に注ぎ込まれた。

そこには、誰も筆者を憎んでいる者もおらず、嘲る者も、見下す者もおらず、筆者自身も、もはやこれまでのように、怯えながら、自分よりも強い誰かにしがみつき、助けを求めるだけの存在ではなくなって、自分自身で、命に至る水を見つけ、これを汲み出し、それを人々と分かち合う方法を、学び始めたのである。

そうなったのも、多くの人たちが、正しい結論へ至りつけるように、根気強く筆者を導いてくれたおかげである。

その語りかけに気づき、これに耳を傾けたおかげで、筆者は、当ブログを巡る裁判の結審がそうであったように、心砕かれ、へりくだった人でなければ、決して立ち入ることができない、非常に神聖で、厳粛な場へと導かれたのである。

それは本当に、結婚式に似ていた。当ブログを巡る訴訟の時の結審の時にも、筆者は泣いておらず、むしろ、こうなるのが当然と言わんばかりに、単純に喜んでおり、落ち着いていたのに、今はその時に分からなかった多くのことが分かるようになったおかげで、さらに深い感動を味わうことになった。

それは、誰も罪に問われないことが持つ深い解放の意義を知ったからである。すべての人々が解放され、自由になることの意味を理解し、その再生の瞬間に立ち会ったことにより、筆者は自分が罪に問われているわけでもないのに、まるで自分を罪に問うた債務証書が、目の前で破り捨てられるのを見たのと同じくらいの感動を受けた。

人と人との関係性が修正され、生まれ変わって、新たなものにされることには、それくらいの衝撃がある。マイナスだったものが、プラスに変えられ、無益だった関係が、有益なものに生まれ変わり、憎み合い、責め合うだけであった関係が、慰めといたわりに満ちた、互いを生かし合う関係に変えられる。

断絶ではなく、敵意でもなく、和合と、新しい始まり――その劇的な変化が、目の前で進行しているのを見たとき、まるで自分が死地から救われたような感動を覚え、涙が込み上げて来た。

それは確かに、あの訴訟の結審の時に似ていた。筆者は、あの時、あれが本当の終わりになるのだと思っていたし、それにふさわしい見事な終わり方だったと、今になっても思う。

当ブログを巡る裁判は、未だ続いているとはいえ、正直に言って、これから始まる戦いが、一審以上のものになると、筆者は思っていないし、間違いなく、この訴訟の主役は、当事者3人と、一審を担当した裁判官だったように感じている。この訴訟は、本当は、あの結審の時に、実に調和のとれた形で、すでに終わっているのだ、という気さえしないわけではない。

これは、筆者が主張を放棄して争いをやめるとか、その後、書かれた判決が間違っていたなどと言うわけでは決してない。しかし、正直に言って、訴訟で下される法的な結論と、当事者や関係者すべての思いとの間には、大きなずれがあるのが普通なのである。

訴訟における法的な決着は、必ずしも、事実に沿ったものとはならないし、すべての人にとって望ましく、ふさわしい解決にもならない。これは当ブログに関わる裁判とは関係のない話だが、世には、まるで嫌がらせのような決定や判決を書く不正な裁判官も存在するため、必ずしも、正しい判決が下されない場合も、多々あるし、どんなに理不尽でも、法的には責任を追及できない事件なども膨大な数、存在する。

証拠がないゆえに、どんなにひどい仕打ちを受けても、立証できない被害もないわけではないし、法そのものにも、抜け穴や、欠陥があり、時代の進歩が遅れているがゆえに、整備されていない部分がある。

さらに、たとえ判決が100%正しいと言える場合であっても、これを動かせない結論として突きつけられた人が、それに従うとは限らない。

少しでも疑いがあれば、当然ながら、紛争は長引くこととなり、また、強制的な判決によって、力づくでそれに従わされた者がそれに納得せず、新たなリベンジを思いつくような場合さえ、ないわけではない。

だからこそ、判決以外にも、紛争そのものをおさめるための解決方法が存在するのであり、それは裁判官だけが作り上げるものではなく、当事者全員が作り上げて行く全員参加型のものなのである。

そのことが、時を遡って、あの結審の日に、おぼろげながら、見えたのではあるまいか、という気がした。もちろん、筆者は、あの時に提案された不公平な和解案なるものを、受け入れれば良かったと言うわけではない。あの時には、判決を得ることこそ最善策であり、それがあってこそ、今の筆者の解放が得られたのである。

だが、それにも関わらず、結審の時には、それ以上に非常に大切な何かが、今現在手にしている成果をはるかに超える何かが、見えていたような気がしている。

あの時、まだ筆者は、助けは他者から、筆者よりも賢明で、強い誰かからやって来るのだと考え、裁判官に助けを求め、裁判官の中に存在している筆者のための自由を引き出さなければならないと思っていた。

だが、その後、必ずしも、自由と解放は、常に他者の決断の中にあるわけでないことが、徐々に分かって来たのである。むろん、あの時、裁判官が判決を書いてくれたことの意義は非常に大きい。それは筆者が望んだことであり、完全でないとはいえ、多くものがそれによって達成された。

とはいえ、裁判官はもともと事件の当事者ではないから、起きた出来事を詳細に知り尽くしているわけでもなく、証拠があったからと言って、必ずしも、公平で正しく物事を判断できるわけでもない。だから、判決はどんなものであれ、100%完全にはならず、また、100%完全になる日は、どんなに待っても来ないかも知れないという気がする。

その代わり、裁判官には、事件の当事者を仲裁する優れた能力と経験がある。それをフルに活用しながら、当事者自らが、何が正しい解決なのかを、自分自身の力で絶え間なく考え、それを作り上げて行くために努力を払うことの方が、裁判官にすべてを任せるよりも、有益な場合があるのではないかと。
 
だが、それを生み出し、選び取るためには、相当な力と知恵がいる。何よりも、自分のイニシアティブで物事を進めるための強い決意と勇気と覚悟と自信が必要となる。あの頃、筆者にはまだそれがなかった。決めるのは自分ではないと考え、誰かに判断を委ねることで、安全が確保できると思っていた。

だが、あの時、すでに見えかけていたものが、時と共によりはっきりとした形になって、さらに優れたアイディアとなって、現れて来たのである。

それは、誰も罪に問われず、なおかつ、誰もが争いから手を引き、しかるべき償いがなされて、紛争が終結するという奇跡的方法である。

その可能性が、おぼろげであっても、見えていたからこそ、当ブログを巡る訴訟の一審において、最も神聖な瞬間は、今も筆者の目には、法廷で言い渡された結審の時のように見えているのではないかと思う。

争いの終結と、平和の到来、それが、あの時におぼろげに見えていたものの正体なのである。不法行為は、不法行為として確かに裁かれなければならないが、それにも関わらず、それを超えた領域にあるさらに正しい結論が存在する。その時に見えていたかすかな可能性、そこに込められている奇跡的な再生の力を、筆者は、全く関係のない別の出来事を通して、より具体的な形で、理解したような気がする。

だが、それに到達するためには、何よりも、へりくだりと、謝罪や償いといったすべてのプロセスがなくてはならず、さらに、それは、ふさわしくない人間には、立ち会うこともできない、神聖な瞬間、場所である。

私たちが命に至るためには、らくだが針の穴を通るようなへりくだりが必要で、それがなければ、人間関係が再生されることもなければ、紛争に終止符が打たれることもない。

だから、筆者は今回、二つの手続きが、正反対の結末へと導かれたことには、深い意味があると思っている。人々との関係を真に再生に至らせるためには、自分がそれにふさわしく身を清めねばならず、誰でもそういう場を作り出し、もうけることができるわけではない。

そこで、一方の手続きがきちんと終了に至らず、筆者にとっても、他の人々にとっても、非常にまずい不本意な結果に至り着いていることは、決して偶然ではないと筆者は考えている。

なぜなら、そこには、本当に意味での信頼関係が存在しなかったことが、後になって分かったためである。何よりも、そこでは、筆者に対する信頼というものが、土台から存在しなかった。

そのような状態で、関係する全員が喜びと悲しみを共有し、全会一致で同じ結論に至りつき、互いにへりくだって、互いを自分よりも尊い優れた存在として認め、互いに手を差し伸べ合い、和合することは、決して無理な相談であったろうと思う。

だから、信頼関係のないところでは、ふさわしい解決が与えられないことは、むしろ当然なのである。それゆえ、そうした手続きには、やがてふさわしい別な人々が現れて、解決へと導かれるのを待つことになろう。
  
だが、もう一方の場においては、それが成就するだけの素地が、初めから整っていた。そこでは、すべての人々が、筆者を殺してはならないと決意し、筆者を生かすために、立ち止まって、筆者の応答を真剣に根気強く待ってくれたのである。

それを見ても、やはり、他者のために苦しみを担い、人を生かす仕事を成し遂げることができる力は、女性よりも、男性の方にはるかに多く備わっていると思わずにいられない。

女性は苦しみを厭い、自分の美が人前で割かれ、栄光を失うことにほとんど耐えられず、手間を省き、楽をすることを願い、何が自分にとって得であり、損であるかという自分中心の考え方を離れることができないが、男性たちには、自分を離れて、大局的に物事を見、自分の損になってでも、他者を救うために深く苦悩を負う能力が備わっている。

危険な場所にでも飛び込んで行って、自分よりも弱い者たちを救い出し、辱められた人たちを尊厳の衣で覆い、彼らの痛み苦しみを我が事のように担い、自分よりも弱い者たちに命を与えるために、自分を犠牲にしてはばからず、忍耐することができる力がある。

前にも書いた通り、そういう力は、女性にはほとんどないものである。そして、そういう性質は、どんなに利己的な男性であっても、男性である限り、どこかしら存在の根本に流れているものであって、それは、筆者の目から見ると、神聖さは失って、非常にかすかなものとなっているとはいえ、キリストが花嫁なる教会のために恥をも厭わず、ご自分の命を投げ出して、十字架に赴き、罪に背いた人々を救おうとされた、神の救済者としての性質に由来するものなのである。

そうして、他者に命や解放を与える役割こそ、男性の栄光であり、存在意義そのものなのではないかと筆者は思っている。
 
だから、筆者の人生において、筆者に害を与えず、有益な決断を下してくれた人々の名を列挙しようとすると、そこにほとんど女性の名は残らない。全くいないわけではないが、女性は多くの場合、嫉妬や競争のためなのか、何のせいであるのかは知らないが、至る所で、助けを求めた筆者をかえって疑い、辱め、残酷に引き裂くような決断を平然と下し続けている。

女性が女性に対して極度に残酷になり、自ら女性を束縛の中に閉じ込め、それゆえ、他の女性を解放しないだけでなく、自分自身も、解放から遠のいて行く場面というのは、幾度となく見せられて来た。

それはやはり、女性はどんな女性であれ、常に自分が助けられる(救われる)側に立ちたいと願い、他者を助ける(救う)側に立つことが、極めて難しいからだと思わざるを得ない。自分自身が常に解放を求め、救われることを求め続けているがゆえに、他者を救う力がないし、場合によっては、それを喜ぶことさえできないのである。それが、筆者の目から見ると、女性が単独では完全になれない虚無性、女性が存在の根本に抱えている不完全性、理不尽性なのである。
  
とはいえ、筆者も、もはや強い指導者や権威者を探しては、彼らに一方的に支えられ、かばわれるだけの弱い立場ではなくなり、自分よりも強そうな他者に自己決定権を委ねるのではなく、自分自身の判断で、正しい結論に至り着くことができるよう学習を促されている。

こうして、結婚の儀式にも似た短い手続きが、平和に、静かに終わった後で、これまでになかった全く新しい関係性――和合――が生まれ、何かしら巨大な解放に満ちた変化が、筆者の中に生まれたような気がした。

それまでに起きたすべての事は、嘘のように過ぎ去り、洪水は去り、筆者は新しい大地に足を踏み出した。

そこには、新しい生き方、新し関係性、新しい領域があり、すべての争いや対立や敵意が終了した、新たな世界が始まっていたのである。

多分、それが、当ブログを巡る訴訟の結審の日に、おぼろげながら見えていた神聖な光景なのだろうと思う。

まだまだ多くの未解決の問題があって、筆者は奮闘を続けなければならないが、筆者にはようやく分かった。解決は、裁判官や、筆者よりも強そうに見える様々な指導者、権威者から来るのではなく、他でもない筆者自身の中にあるのだと。

誰一人、筆者以上に、筆者が辿って来た人生や、遭遇した出来事について、正しい認識と判断を打ち立てられる者はおらず、他者に判断を委ねるよりも、自分自身で、結論を導き出して行くことの方が、はるかに有益であり、確実な解決なのだと。
 
当ブログを巡る訴訟では、担当してくれた裁判官は、筆者の主張を疑わず、信じてくれて、可能な限りの解決を模索してくれたが、その解決の最高の形態は、全員が協力して紛争を終わらせるという同じ目的へ向かった、あの日に見えた何かなのかも知れないと思わされる。

それゆえ、筆者には、結審の日が、神聖な儀式のように尊いものに感じられるのであって、だとしたら、その時に得た教訓を、今度は、筆者自身が判断する側に立つことによって、活かさねばならない。
   
こうして、干潟は、いつの間にか、筆者自身の内側に移行し、筆者自身が、人々を生かすための判断を下すべき立場に立たされていた。
 
このように、立ち上がって、自ら判断することができるはずだという気づきを得たのも、それが起きるまで、忍耐強く筆者を待っていてくれた人々がいるためである。
  
筆者が黙っていると、筆者の意見などないも同然とばかりに、自分にとってのみ都合の良い結論を押しつけようと、筆者を無視して、筆者の取り分を勝手に分け合い、あるいは、筆者をさらに黙らせようと、脅しつけたりすることなく、あるいは、筆者を置き去りにして、さっさと先に進んで行こうとしない人たちがいてくれたおかげで、協力して互いを生かし合う関係を打ち立てるという最善の策へと至り着くことが可能となったのである。

何より、すべての人々にへりくだりがあればこそ、そうしたことが可能となったのであろう。
 
気づくと、ないないづくしの制約だらけの環境で、互いに責め合い、罵り合う関係は、はるか後ろに、逃げるように消え去り、筆者を喜んで迎え、尊厳によって包んでくれる、新たな社会、新たな関係性が出現していた。

そこには、貧しさもなく、侮辱もなく、傷つけ合いも、否定もなく、その代わりに、豊かさと、いたわりあいと、完全性があった。

筆者は、新たに踏み出した一歩が、巨大な祝宴へと続く道であり、その道は、天のエルサレムにおける「我が家」にまで、はるかにつながっていることを思う。人々は孤児のようであった筆者を着飾って、栄光に満ちた花嫁のように、新たな家に向かって送り出してくれた。

主イエスは弟子たちに向かって、こう言われた。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:1-4, 12-14)

主イエスは、私たちのために、まことの父なる神の御許に行って、天に住まいをもうけるために、十字架へ赴かれた。主は今も私たちのための住まいを天において準備中である。

だから、私たちも、地上において、神の住まいにふさわしく整えられるために、訓練を受け、神の家として建設されている最中である。
 
私たちの願うこと――それは、私たちのすべてが、孤児とされず、豊かな住まいを得、誰も貧しさや、悲しみや、死に脅かされることなく、十分な豊かさにあずかり、神がまことの主人となって、私たちの守り主となり、私たちを配偶あるものとして、美しく飾って、ご自身の身許に迎えられることである。

その日、その時、すべての戦いが止むだろう。私たちは恥を尊厳で覆われて、安息の中に導き入れられる。すべての罪の痕跡は取り除かれ、死の苦しみはなくなり、罪の債務証書はことごとく破り捨てられ、涙は拭われ、苦しんだ痕跡さえもなくなる。

失敗も、悲しみも、挫折もなく、嘆きも、叫びも聞かれない。もはや、いかなるディスカウントの言葉も発せられない、贖われた完全な新しい人、新しい天と地、新しい社会が出現する。

そこには、一切の罪の痕跡のない、聖なるキリストの花嫁なる教会だけが用意されていて、私たちは欠点のない者として、神に迎えられる。

私たちは、そういう日に向かっており、その日が近く、確かにそば近くまで、やって来ていることを感じる。そして、そのようにして贖われるのは、筆者だけではなく、数えきれない大群のような人々なのである。

それは、筆者の理解を超える出来事である。筆者はこれから起ころうとしていることのスケールを垣間見せられ、それに驚かされている。

暗闇の軍勢の手に渡り、決して解放されることはないであろうと思った人々、二度と取り戻されることなく、再生されることもなく、断絶し、廃棄する以外に方法がないであろうとあきらめた関係に、新たな命が注ぎ込まれる。負であった記憶が、正に塗り替えられ、断絶と離反ではなく、和合と新たな関係性の出発が生まれる。

これまで、筆者だけが自分の手に握りしめていた解放の宣言は、筆者の手からもぎ取られるようにして、他の人々に渡された。それを待っていた多くの人たちがおり、その人々が、筆者の前で、筆者と同じように、まるで神に贖われるように、人としての尊厳を回復されて、新たに造り変えられて、完全な者として筆者の目の前に立たされるのを見た。
 
そこには、敵はもういない。紛争もなければ、サタンとの終わりなき論争、嘘や詭弁、不当な死の宣言、騙しや、ディスカウントの言葉はない。

そこには、人をディスカウントするものは何もなく、ただ罪から贖われ、清められ、完全とされて、神と和合したただ一人の人がいるだけである。
 
筆者は、そのような世界が、手の届くほど近くに見えていること、筆者さえ了承すれば、それがすぐにやって来ること、しかし、そこへ至るためには、非常に多くの苦しみと、へりくだりを経なければならないこと、自分を低くした者だけが、そこへ至り着くことを知らされ、贖われて取り戻された人たちが、どれほど美しいものであるかを見て、言葉を失っている。

これがおそらく干潟の効果なのであろう。筆者だけが、自由になり、解放を得て、花嫁のように飾られるのではなく、人々も同じように、花嫁のように飾られて、新たにされる時がやって来た。告発や、罪のなすり付け合い、断罪、断絶、離反から一切解放されて、自由になった人々の美しさを見るとき、筆者はそこに働く解放のわざの大きさに心を打たれずにはいられない。

自分のためだけではなく、人々が解放されたことの喜びの前に、えも言われぬ感動を覚えたのである。

それが、新しい関係性の始まりであった。

神は最も無用で、役に立たない、廃棄するしかない材料を用いて、新たな尊い器を作られる。その砕けた破片とは、筆者自身のことでもある。

己が罪のために打たれて、粉々に砕け散り、互いに全く役に立たなくなった者同士が、互いを傷つけ合い、罵り合い、否定し合っているのが、いわば、人類社会だと言えよう。

だが、神は人が息に過ぎず、その人生が一瞬で過ぎ去るに過ぎないことを知っておられ、人間が自力では罪を贖うこともできず、命にもたどり着けないという、途方もない苦しみを負っていることも知っておられ、それゆえ、神は人の罪を人自身に負わせることをよしとされず、砕けた器の破片を丹念に綴り合せて、新たに命を吹き込み、尊い役に立つ器へと造り変えるために、その手に取られた。

筆者が造り変えられることができるなら、同じ恵みにあずからない存在があるはずもない。筆者が取り戻されることを信じて、根気強く待ち続けてくれた人々の存在があることを知ったとき、筆者自身も、人々が自分と同じように取り戻され、回復されるために労しなければならないことを知った。それこそが、筆者の下すべき正しい判断であり、筆者の仕事であり、そこに命の法則が働くことを知らされたのである。
 
「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」との宣告は、筆者に向けられた言葉であるばかりでなく、筆者自身も、他の人々に同じ解放の宣言を告げて、人を自由にする力を持っていることが分かったのである。
 
だから、間もなく、もはやこれまでのように、誰か強そうな人たちを探して来ては、彼らに物事を決めてもらわなくても良い時が来るだろう。そして、私たちは、手を携えて、同じ祝宴に向かう。いつしかそれはしゅろの葉を手に持ち、白い衣を着た大群衆となる。

人を罪から救い出し、死の力から解放し、すべての敵意の隔てを取り除く宣言の、いかに絶大なものであるか。その最高の形は、カルバリの十字架であるが、地上で行われるささやかな宣言であっても、そのひな型となるものは、神聖と言って良いものであり、筆者の小さな人生のスケールを打ち破って、圧倒的な解放の力を発揮する。
 
その宣告は、他でもない筆者自身が作り出すものなのである。地上では、取るに足りない、忘れられ、かえりみられもしない筆者のような人間が、何を赦し、何を赦さないでおくかが、それほどまでに重要な深い意味を持ち、人々の心を束縛から解放し、尊厳を回復するかどうかの鍵を握っている。

人が罪から解放され、告発から解放されて、自由とされ、尊厳に覆われる瞬間を見、また、その圧倒的な効果が、筆者自身にも波及して、筆者の尊厳をも回復するのが分かったとき、何か非常に新しい、とてつもないことが、これから筆者の人生で始まろうとしているのを、感じないわけにいかなかった。
 
以前から述べている第二の人生、第二のミッションが本格的に始まったのである。人を命に至らせるための法則性が分かった以上、これまでと同じような堂々巡りや、失敗は、もはや起きて来ることはないだろう。パイプラインは、確かに稼働し始め、解放の宣言は、筆者だけのものではなく、多くの人たちに共有され始めたのである。

「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

PR