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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7)

キリストの復活の命は、無から有を生み出すことのできる命であり、この世の経済も、人間関係も、仕事も、すべてを支配し、キリスト者にいつでも必要な助けを供給することができる。

とはいえ、それらはあくまで私たちの精神的生長にふさわしいレベルにおいて、一歩一歩、実現する。私たちが主の死と復活の命を知ったからとて、いきなり一足飛びに億万長者になるとか、桁違いの賢人に引き上げられるというわけではない。

私たちの無力に見える人間的な要素の只中に、キリストが働いて下さり、すべての必要を満たすに十分な不思議な秩序が生まれるのである。

良い人間関係を得るには、キリスト者の人格的生長が必要である。たとえば、本人が無知である間は、周りにも、無知な人々が取り巻くであろうし、心の生長と共に、価値ある尊い人々との出会いが生まれて来る。

今、十年来、筆者の周りで続いて来た混乱に満ちた紛争が、終わりを告げようとしている。筆者の周りには、どんなことが起きても、筆者を決して見捨てず、裏切らず、そして、筆者の言い分の正しさを信じて、筆者の心の求めに応答してくれる人々が現れ始めたためだ。それは敵が長い間、蒔き続けて来た、分裂や、疑心暗鬼といった作戦が、ついに功を奏しなくなって、打ち破られたことを意味する。

しかし、そのように信頼できる人々が現れたのも、筆者自身が、彼らを命がけで愛し、従い抜こうと決意したことの結果であって、筆者が全く心を開かないのに、人々の側だけで、心を開いてくれたり、筆者を信じてくれることはない。

ある意味で、自分が人に与えたものだけが、自分に戻って来ているのだと言うこともできよう。
 
ところで、人に対して心を開くことは、裏切られたり、誤解されたり、離反されたり、不意の別れに至るリスクをも負うことを意味するから、容易なことではない。何より正直であらねばならないため、常に自分の心を試される。もちろん、信頼できる相手を見抜くための十分な知識と経験も必要となることは確かだが、人間関係に初めから100%の保障などというものがあるはずもない。

私たちは、常に様々な試練によって翻弄され、試されながら、自分で望んでいる関わりを、自分で作り上げて行くのである。状況や、相手の態度が、結果を決めるわけではない。物事の最終決定権を持っているのは、私たちキリスト者自身であり、私たちが心に信じ続けたことだけが確固として実現するのである。
 
2009年にキリストの十字架の死と復活の意味を知って以来、筆者は神に従う道を選びつつ、人間の指導者につき従うことを避けて来た。ところが、ここに来て、信仰者でないにも関わらず、目に見える人間としての地上の権威者に対し、神に従うのと同じように、従い抜くことの意味を教えられている。

そこには非常に不思議な、信仰者の交わりにも似た、えも言われぬ満足をもたらす関わりが存在することが分かった。
 
それは宗教団体とは関係のない、ごくごく普通の生活の中で起きていることである。

聖書はこう述べている、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22-24)

これは奴隷制のあった古代ローマ帝国の時代に、奴隷たちに向かって述べられた言葉であり、現代では、奴隷制度の肯定のためかと批判を受けることもあるかも知れない。確かに、奴隷制度は様々な理不尽をはらんでいたとはいえ、聖書はそうした制度の理不尽さを強調して、制度の廃止のために運動を起こすことなどを決して信者に奨励してはいなかった。

むしろ、各時代に、どんなに不合理な社会制度があっても、キリスト者は、あくまで地上において定められた主従関係や、社会の秩序を守りながら、その秩序を転覆させることなく、信仰のない主人に対しても、キリストに従うように従いなさい、その従順によって神に仕えることができる、と教えていたのである。

筆者はここしばらく、以上の御言葉の確かさを教えられている。信仰のない人々のもとで、地上の主人に従いながら、神に仕えることが、実際に可能なのだということを知らされている。

しかも、力づくで脅されて従うのではなく、生活のためにやむなく嫌々従うのでもなく、あくまで自由な意思により、真心から、主人に仕えなさいと言われているのであって、そのような関わりを打ち立てることは、実際に可能なのであり、それによって、天における報いを得ることができると知らされている。
 
それにしても、筆者の人生において実現している物事は、すべてが信仰によって呼び出されて来たものばかりである。

筆者はキリスト者の交わりに属していた頃も、新たな交わりに足を踏み入れる前には、必ずと言って良いほど、兄弟姉妹の心を得られるように、主に祈った。「主よ、あの人の心を私に与えて下さい」と、あまりに大胆かつ率直な祈りをしていたことを、しばしば兄弟姉妹にも、語ったくらいである。

それは、筆者が、見知らぬ交わりの中に出て行こうとする時、自分の生来の力を頼みとして、人々との関わりを築くことができないのを分かって、恐れを感じつつ、ただ主の御名のゆえに、自分がそこで受け入れられ、願っている交わりが実現するよう、神に求めたものであった。

そして、神は筆者がやむにやまれぬ思いから、新たな交わりに足を踏み入れる必要を覚えていることを知って下さり、必ずと言って良いほど、願いに応えて下さり、ほとんど特別と言っても良いほどに親しい交わりを与えて下さったのである。

筆者は、通過したほとんどの交わりにおいて、最も重要な部分を目撃し、必要不可欠と思われる体験を得ることができたと考えている。筆者が自らそれを手放すまでの間、その交わりは有意義であり続けた。だが、当時の筆者は、信仰の有無に関わらず、あらゆる人間関係は、暗闇の勢力によって激しく試され、その試練を乗り越えたものだけが、永遠に価値あるものとして残るのだという事実を知らなかった。

筆者が属した交わりにおいては、絶えず分裂、敵対、信頼関係を破壊するための様々な陰謀や工作がはりめぐらされた。それらすべての策略を乗り越え、信頼関係を守り抜かなければ、交わりを有効に保つことができないという事実を、筆者が知らされるまでには、相当に長い月日と、痛みに満ちた経験がなくてはならなかった。

そうした試みのすべてを耐え抜くためには、ただ現実的な策を講じるだけでは不十分であり、何より自分の心で、大切にしている人々や価値を、最後まで手放さずに、守り抜くための激しい防衛戦が必要となった。

目に見える状況に変化が起きるよりも前に、まず自分自身が、その交わりが、どれほどの疑いの中でも、神聖さを保たれ、守り抜かれることを信じ切らねばならないのである。心の戦いを突破したものだけが、現実生活において、揺るぎない価値として守り抜かれるのであって、防衛を諦めてしまった時点で、結果は確定する。

それが、とりなしの祈りの効果でもあるのだが、それには、とりなしの祈りなどという一般的な言葉では表現しきれないほどの意味がある。愛する人々を、絶対に一歩も退かないという強い覚悟と決意のもとで、敵の陣営から行われる激しい攻撃と圧迫の中から断固、守り抜く姿勢が必要となる。そうした激しい心の戦いに勝利をおさめ、自分の心のすべての恐れを自ら打ち破って、尊い価値ある交わりを保たなければならないと分かったのは、様々な試練によって、実に多くの交わりが、壊滅的なダメージを受け、破壊され、離散して、だいぶ後になってからのことであった。

私たちは、敵のあらゆる攻撃から、自分たちの交わりを信仰によって守る必要がある。そうして敵の放つ死の力によって触れられることなく、それによって滅ぼされなかったものだけが、復活の領域に移行し、揺るぎない価値として残るのである。

そのようなわけで、筆者が受けた判決文も、バプテスマを通過することを求められた。判決を放棄せよと求められたこと自体が、筆者にとって、一種の「死」を意味した。これは王妃エステルが王の前に進み出るに当たり、死を覚悟した瞬間にも似て、筆者が、価値ある宣言を守り抜くために、与えられた試練であった。

だが、こうして判決文が筆者と共に、信仰よって試されることになったのは、非常に良い契機であり、また必要不可欠な試練だったと言える。なぜなら、それによって、私たちは新たに死をかいくぐって、復活の世界に移行することができるからである。

筆者はすべての恐れに打ち勝って、これを守り抜くことができると確信している。そして、洪水のあとには、静けさと平和が訪れ、以前のような戦いはもうなくなることも。その領域に移行した時こそ、以下の御言葉を大胆に宣言できるだろう。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり

 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

このような天的秩序が実現するためには、私たちが深く主の死の中にとどまることが必要であり、それだからこそ、筆者が大切にしている価値は、常にあらゆる方法で試され、信仰によって試され、死を経由して復活の領域に移行し、そこで目に見えない永遠の証印を押されなければならないのである。

判決文は、筆者にとって、初めから、死んだ文字ではなく、実に不思議な効力を及ぼして、筆者に生きた命に溢れる出会いを与えてくれるものだったのだが、それが復活の領域に移行した後では、今まで以上に、不思議な効力を持つものへと変わるだろうと思う。

それはもはや紛争当事者に対する法的宣言などという意味合いをはるかに超えて、永遠に至るまでも変わらない、神から筆者へ向けられた愛の宣言のような効果を持つものとなり、常に筆者の生きているそば近くに、この地にいつまでも約束としてとどまり、筆者のみならず、筆者の死後に至るまで、広域に渡り、影響を及ぼすだろうという気がしてならない。
 
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 
それは未来に起こることでありながら、同時に現在起きていることなのであり、筆者は、信頼する人たちと共に、その宣言がもたらす洪水のような愛の只中にすでに立たされていることを感じている。その生きた宣言あればこそ、現在の人間関係も与えられたのであり、その交わりはこれから生長し、深まって行くものなのである。

判決文に限らず、すべての言葉は、筆者から見ると、実体を呼び起こすための命令である。命令としての効力を失って、抜け殻となった言葉は、もはや言葉とは呼べず、単なる死んだ文字の羅列でしかなく、筆者は、そういうものを憎んでいる。

だから、法的効力を失った判決文などというものを、筆者は考えることさえできないのであって、元来、言葉というものは、およそすべてが命を保った、実体の伴う、生きた効力を持つものでなければならず、権威ある命令でなくてはならない。

私たちキリスト者は特に、自分は神の力ある御言葉によって生かされているのであって、目に見えるすべてのものは、神の言葉によって保たれていることを信じている。その言葉とは、うわべだけの文字の羅列でなく、神が最初に天地を創造され、「光あれ」と命じられた時と同じ、真のリアリティとしての言葉である。

だから、判決文が、その効力を保つかどうかという問題は、筆者にとっては、筆者自身の生死に直結しており、それはつまり、筆者が、この先、命なるキリストご自身を知って、その御言葉によって生かされることの絶大な価値を知った後の、生きた言葉の世界にとどまるのか、それとも、キリストご自身に出会う前の、一切の希望のない、死んだ文字の世界に自ら逆戻るのか、という問題に直結している。
 
それは筆者がエクソダス前の世界に戻るのか、エクソダス後の世界にとどまるのか、という分岐点でもある。

エジプト軍は、何とかしてエクソダスを押しとどめようと、武器を手に主の民を追って来るが、私たちはすでに紅海を渡ったのであり、時計の針を逆にして、エジプトに戻って罪と死の奴隷になることはできない。

筆者は、ただ時間軸を逆にできないから、キリストを知る以前には戻れないというだけでなく、新たな出会いによって生まれた愛の関係が、あまりにも強く、死によっても断ち切れないほど強いものであるから、それに出会う前の自分に戻ることは決してできないと言う他ない。

そのことは、人がキリストに出会って、花嫁なる教会として完成するためには、「その父と母を離れ」、すなわち、自分の生まれながらの出自に死んで、新たな出会いに向かうことが必要であるという次の御言葉にも重なる。

「「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31-32)

ウォッチマン・ニーが、このことを『キリスト者の標準』の中で巧みに表現している。人類は、キリストの十字架を知って、救われる以前には、アダム、もしくは、モーセの律法(罪と死の法則)という残酷な「夫」に結ばれて、己が罪のゆえに絶えず責め立てられ、罰せられ、奴隷として売られ、過酷な生活を送っていたが、主と共なる十字架の死によって、その悪しき天然の関係が断ち切られ、キリストを新たな主人とする「再婚」が成立し、私たちは新たな自由な生活に入ったのだと。

エクソダス前の世界は、律法の支配する世界であり、そこには、罪と死の法則だけが働き、人は絶え間なく死の恐怖に脅されて、暗闇の勢力に屈従するしかない。それは不自由と、苦痛の満ち溢れた世界である。それは生まれながらの父母、すなわち、アダム来の出自が支配する世界である。

だが、神は私たちを暗闇の支配から連れ出し、愛する御子の支配下である、エクソダス後の世界へと導かれた。私たちはそこで生まれながらの「父と母を離れ」、新たな主人であるキリストに結ばれて、命の御霊の法則の中を、自由と安息の中を生きる。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

これは花嫁のベールアウトの瞬間であると以前に述べたことがある。ただ罪と死の法則から解放されるだけでなく、神と人とが、顔と顔を合わせて相見え、「似た者同士」へ変えられる。人類にとっては、弱く、劣って、みすぼらしい生まれながらの出自に死んで、神の栄光を反映し、キリストの性質を内側から付与されて、主に似た、新しい者へと変えられて行く過程である。

これが、キリストとエクレシアとの「結婚生活」であり、その生活は、私たちにあまりにも大きな平安、安息をもたらすものであって、そこには愛に基づく自由な関係が成立しており、栄光に満ちた変容がある。

そこで、このような絶大な解放、栄化の恵みが、信じる者に約束されていることを知ってしまった後で、再び以前の世界に、すなわち、「父と母」(アダム来の出自)に戻ることは、もはや不可能である。

そのような復活の領域へ向かう過程で、判決文のみならず、筆者自身や、筆者の人間関係や、筆者の交わりも、すべて絶え間なく、十字架を通るよう、試されており、死をくぐることによって、新たな価値としてよみがえらされている。

筆者の側で必要なことは、どんなに試みられても、心の中で、固く信頼を保ち、価値ある宝を手放さずに保ち続けることである。

保ち続けるとは、絶えずエクソダスを経て、復活の領域にそれらが保たれるよう、筆者にとってかけがえのない価値であるもの、人々を、絶えず守り抜き、かくまうことである。
 
それは言葉を変えれば、愛し、信頼し続け、呼び寄せ続けることを意味する。必ずしも、愛には愛で応答があるから、誰かを愛する、というものではない。地上でどんな関わりがあろうと、応答があろうとなかろうと、その関わりを決して手放したくない、敵に渡したくないと願うならば、自分の側からの愛と信頼を、どんなことがあっても、投げ捨ててはならないのである。

私たちが信仰の領域で、手放さなかった関係だけが、永遠に至るまで残り続ける。この法則性はすべてにおいて同じである。私たちの生活も、健康も、経済も、何もかもすべてが、私たちの信仰にかかっているのであって、信仰の領域において、私たちがあらゆる試みにも関わらず、確固として守り抜いて手放さなかったもの以外は、すべて滅びゆくものとして消え去って行くことになる。
 
そのことが筆者に分かるまで、相当に長い歳月が必要であった。だが、それを学習するために、最も必要だったのは、筆者が命を投げ打ってでも、自分自身がどうなっても構わないから、自分のすべてと引き換えにしてでも、守り抜きたいと思う交わりや、人々、価値に出会うことだったかも知れない。

キリストと信じる者とが、非常に強い信仰による愛の絆によって一つに結ばれているように、その他の人々との間でも、同じような強固な愛と信頼による連帯が、生まれることが必要だったのである。

神の御言葉は、相当以前から、筆者の心に蒔かれ、筆者の内側で発芽し、霊的には一つとなっていたが、筆者は、自分一人だけでは、主の御身体なる教会を完全に構成することができず、主の御思いを表すためには、団体に編成される必要があった。

敵はそれを全力で妨害し、筆者が決して人々と連帯しないよう、分裂や、悪評や、疑心暗鬼の種を蒔き、筆者を人々から引き離そうとしたが、判決は、そうして蒔かれた不信を打ち破り、筆者を信頼へと導き、筆者と人々との間に、確固とした協力関係、連帯が成立しうることの最初の強力な証しとなった。

主の御言葉が、筆者の霊に刻みつけられ、神との関係を再生させたように、人の書いた言葉である判決も、不思議な形で、筆者の心の中に刻みつけられ、筆者の人間関係を新たに再生させたのである。

そこで筆者は、以前には、信仰のためならば、命を賭しても構わないと、絶えず告白し続けて来たが、現在は、そうした生き方が、主に対して仕えるように、人々に仕え、人々を愛し、信頼するために、自己放棄するという生き方の中に実現するようになった。

以前には、筆者は、自分には確固とした信念があると思っていたが、今はかえって、人々の方に、筆者よりも、まさった信念、あるいは、高い目的があり、権威ある言葉や、宣言を発することができる人々がいることも分かったので、そうした人々を見ると、筆者は喜んで自分の考えを投げ捨て、彼らと共に協力して進んで行くようになった。

信仰者であるかないかはもはや関係がなく、信仰がなくとも、そこに信徒の交わりに非常に近い、それと同じくらい、愛情や、配慮に満ちた、強い信頼で結ばれた関係が成立している。筆者は、彼らに信仰がなくとも、自らの信仰によって、彼らを覆い尽くし、彼らを十字架のバリケードの中に入れてしまう。

そのように自由で新しい協力関係が、気づくと始まっており、筆者はもはや一人で生きているのではなく、キリストの目に見えない御身体なる団体の一員として召されている事実を発見した。また、そこで間接と関節をつなぎ、命を流し出すための管として置かれている役目が分かってしまったので、その役目を発見しなかった以前に逆戻ることはできない。

おそらく、生ける水を流し出すための干潟の掘削作業の中で、その水の流れを押しとどめていた最後の障害を、判決はぶち抜いて取り払ったのである。

だから、今や前から書いている通り、この不思議な名のついた土地から、全国に向かって、命の水が、生ける水の川々が、奔流のように流れ出す時が来ている。それはやがて洪水のようにすべてを覆い尽くし、やがて命が死を飲み尽くしてしまうだろう。

その頃には、筆者が辿って来た苦難の痕跡など、人が思い出すこともなくなるに違いない。筆者自身は、それを覚えているが、それも慰めや励ましによって、良き思い出に変えられていることであろう。

今、巨大なパイプラインからの放水作業が、すでに始まっているのであって、この作業はもはや何人もとどめることができないほどの勢いになろうとしている。

神は人々を死に至らしめるのではなく、立ち帰って生きることを望んでおられるのであって、尊い御子の犠牲の上に、神が自由を宣告された人々を、再び死の恐怖の奴隷とすることは、誰にもできない。

神が結び合わせたものを、人が引き離すことはできない。そこで、キリストとエクレシアとが強い愛と信頼の絆で結ばれているように、エクレシアの只中にも、愛や慰めや配慮に満ちた命が駆け巡っているのであって、一人一人はそこで助け合い、支え合う関係に置かれているのであり、これらをばらばらに分解して、再び出会わなかった以前に引き戻すことはできない。
 
主の民を追って紅海を渡ろうとしたエジプト軍は溺れ死んでしまった。主の民を絶滅させようと企んだハマンは木にかけられて吊るされた。筆者に命を与えた宣言を無効化しようなどと考える人々がいれば、かえってその人々自身が、命を奪われることになる。
 
筆者には、目には見えずとも、筆者のいる干潟から、命の泉がすでに激しい流れとなって湧き出ていること、祝福に満ちた流れとなって、筆者の周囲を潤していること、やがては洪水のような流れにさえなって行くだろうことが確信できる。敵にとらわれていた人でさえ、その様子を見れば、立ち帰って、その恩恵にあずかりたいと願うことであろう。

多くの人々が、敵の策略によって分裂、離散したが、同時に、信仰によって、多くの人たちを獲得し、さらにまさった交わりを得ることができた。その交わりは、未だかつてないような深いレベルに達しており、筆者の弱ったところや、欠けたところをも、覆い尽くしてし、互いの弱さをかばい、支え合うことのできる命の交換が確かに行われていることが分かる。

だから、いつの日か、紛争などというものがかつてあったことさえ、忘れ去られる時が来よう。それよりも、こうして、団体としての体が、少しずつ組み合わさり、生ける霊の家として生長しつつあり、御座から始まる、激しく、同時に、優しく、清らかで、澄んだ、生ける命の水の流れを、ようやくこの地から、本格的に流し出す作業が始まったことが、大きな喜びである。

この見えない事業の価値を確かに知っている人は、ほとんどいないが、筆者には、非常に長期に渡る壮大な事業が確かに開始したことが分かり、それがやがて多くの人々を潤すときを待ち望むだけである。
 
「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の満ちにとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。

 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 神に逆らう者はそうではない。
 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
 神に逆らう者は裁きに堪えず
 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
 神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩編第1編)
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