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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

わたしの愛にとどまりなさい。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。


あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:9-17)

* * *

全く不思議なことで、このところ、キリスト教徒を名乗っていない人との間に、信仰の交わりのようなものができ、神を知らないはずの人から、筆者は神の愛を知らされている。
 
筆者は、とても敬愛しているある権威者の言葉を通して、適宜、神から必要な助言を送られているような具合である。

これは実に不思議な交わりであって、信徒の交わりというものを、久しく失って、孤独を感じていた筆者にとっては、まるで神が、筆者の心の願いに応えて、慰めを与えて下さったように思える。

その人は、筆者に言った、無用な対立を一切避けなさいと。そして、こう言ったのである、筆者は、その権威者の代理人も同然であって、筆者の存在は、もはや筆者だけのものではなく、その人自身でもあるのだから、筆者がその権威者自身であるかのように振る舞いなさいと。

現実の筆者には、何の権限もなければ、職責があるわけでもない。むしろ、単なる使用人の立場である。ところが、その人は、あたかも筆者にその人自身の持っている高い職責や、大いなる権威や、権限が付与されているかのごとく、筆者は筆者だけのものではないから、その人自身のように行動しなさい、と助言したのである。

その人は、もちろん、筆者の信仰のことも、訴訟のことも知らず、筆者の身内でもなければ、キリスト教徒でもない。なぜにそのような発言がなされたのか、その交わりが何であるのか、筆者は知らない。
 
だが、その忠告は、実に深い意味を持っており、私たちキリスト者一人一人が、神の代理権威であって、神は私たちを本当に神御自身に似た者とされ、私たちを彼の栄光の高みにまで引き上げようと願っておられることを、筆者に想起させた。

以下の御言葉の通りである。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

似た者・・・という言葉には、まだ多少の距離感が残っているように感じられる。しかし、キリストと教会の関係は、「二人は一体」なのである。そこには、決して切り離すことのできない完全な一致、一体性が存在している。

そのようにして、神は信じる人を、ご自分と瓜二つになるほど近づけ、そこに完全な同質性が生まれるまで、一致させようとしておられるのであり、ご自分が持っておられるすべての富、栄光、威光、尊厳、栄誉、尊いご性質のすべてを私たち信じる者と分かち合おうと願っておられる。

そういうことは、今までの筆者には、御言葉の知識としては存在していたが、まだ現実としては理解されていなかった。しかし、目に見える人の助言が、筆者にこれを至上命題のごとく、目の前に突きつけたのである。

主に似た者とされるという栄化は、空を見上げて待っていれば、降って来るようなものではない。それは、約束としては与えられているが、その実現は、私たちの側からの積極的な応答にかかっており、筆者自身が、それを現実として受け入れるかどうかにかかっている。

そして、さらに分かったことがあった。それは、神が人をご自分に似た者とされる、とは、神が人の心を、ご自分から二度と引き離したくないというほど、強く愛しておられ、他のものを一切見ないでもらいたいと願っておられる、そういう排他的な愛と、密接な関係があるということである。

聖書における神と人との愛は、排他的な愛の関係である。雅歌の次の御言葉もそれを示している。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7) 
 
「熱情」と書かれているところは、「妬み」とも訳されている。
 
筆者に分かったことは、神の愛から人を引き離すすべてのものに対して、神は妬みの炎を燃やされる、ということである。

筆者は、貴重な助言を受けたように感じたが、すぐにはそれに従えなかった。なぜなら、筆者から見て、神はあまりにも高いところにおられ、私たちからはそこからあまりにも遠く、卑しい私たちが、神に似た者として振る舞うなど、あまりにも大それたことであって、要求されても、すぐには実現不可能と感じられたからである。

そこで、筆者は、依然、生まれながらの人間のように振る舞い、神の偉大さ、完全さに注目するのではなく、自分自身の限界、不完全さに注目して、色々と嘆き、不満を述べ、無理だとつぶやいていた。だが、そうした嘆きや不満が、実は、神との一体性を何よりも損ない、筆者を神から遠ざける要因となっており、神はそのようなすべての隔てとなる要因を何よりも非常な怒りを持って憎まれ、筆者の心を神から遠ざけるすべてのものに対して、妬みの炎を燃やされる、ということが分かったのである。
 
聖書における神の妬みとは、要するに、神ご自身と、信じる者とを隔てるすべてもののに対する、神の尽きせぬ憎しみを表しているのである。

悪魔と暗闇の勢力は、信じる者の心を、常に神の愛から外に引き出そうと試みるが、筆者はただ真直ぐに、神だけを信頼して見つめなければならないのであって、横道に逸れてはならないのである。そうして初めて、神の完全性、栄光、威光、尊厳が筆者自身にも分け与えられる。

もしもそこから目を離し、別のものに注意を向け始めると、神ご自身との一体性は損なわれ、私たちの尊厳は曇らされ、損なわれる。神は信じる者の注意を、もう一度、ご自分に引き戻そうとされるが、神は不従順を非常に憎んでおられるため、不従順は罰を伴い、神は信じる者の注意をご自分から奪うものすべてを憎まれ、妬みの炎を燃やされる。

もしも信者が、神との一体性を損なうものを、心の中で手放さず、それを依然、心の中で抱きしめて進んで行こうとするならば、信者は、たとえそれがサタンであっても、自分が心の中で注目しているものと一体となり、やがて神は、信者をご自分から引き離した敵だけではなく、敵と言一体となったその信者自身にも、妬みを向けて、手のひらを返して、信者を憎むべき者と共に滅ぼされるだろう、ということが分かって来たのである。

正直な話、筆者には今まで、聖書における神の妬みというものが、どのような性質のものなのかが、今一つ理解が及ばなかった。妬むほどまでに愛するということの意味が、はっきりとは分からなかったのである。だが、現実に起きた出来事を通して、不従順が、あっという間に、神と信者とを隔て、その一体性を損なうものであること、また、それが、愛による一致を妨げ、死と断絶と呪いを招き、やがては信者自身が神の敵と化する原因とまでなるものであることが分かった。

神は高きにいまし、威光と尊厳を身にまとい、すべてのものを超越して、御座から支配される方であるが、私たちから決して遠くにおられるのではなく、常に私たちと共にいて、共に支配して下さり、私たちをその支配下に置いて、守って下さる。だから、私たちはその懐に安心して飛び込み、そこで安らぎ、安息すべきなのであって、愛する御子の支配から一歩たりとも、外に出るべきではないのである。

そこで、筆者は、自分自身も、神ご自身の完全性、その安息、栄光と尊厳から、筆者を遠ざけようとするすべてのものを憎み、退けねばならないことに気づいた。そうして、ただ神の愛の中だけにとどまり、それに浸され、何があっても、心をそこに留め置くよう、そこから心を逸らされることがないよう、自分を律しなければならないと分かったのである。
 
* * *

さて、控訴審では、重要な和解協議が開かれている最中であり、さらに当ブログに対して様々な権利侵害を繰り返して来た掲示板に対する法的措置も進行している。

この非常に重要な時期に、ある牧師が、またしても、色々な非難を筆者に対してしかけていることが分かった。筆者は一つ前の記事に、訴訟に関する記事はこれが最後になるかも知れないと書いたにも関わらず、筆者が訴訟に関連する記事を次々に書き始めることを恐れ、先手を打ったものと見られる。

むろん、彼の主張は嘘であるから、いくらでも具体的な反論は可能なのであるが、筆者は、以上に挙げた、筆者にとって非常に敬愛する人からの助言を受けて、反論の記事を、あえて掲載しないことに決めた。

さらに、筆者は、現在、和解協議中であるから、そこでの筆者の提案が、真実であることを示すために、ある人物に関する記事をホームページから外すことに決めた。

筆者は、その人物は、これまで教会でさまざまな仕打ちを受けたがゆえに、多くの傷を負っており、それゆえ、ブログで現在の教会のあり方に対する反対意見を表明せざるを得ない事情があったことを知っている。

とはいえ、筆者は、そうした活動が、その人の生涯に渡る主要な活動になって欲しくないのである。訴訟においては、精力的に書面を書き記すことができ、また、ブログでも旺盛に記事を書いて、ある時は日に5千人に達するほど、多くの人々の注目を集めることができ、学問の道でも、それなりに成果をおさめ、人的ネットワークを作り上げることが得意であったその人には、これ以上、無益な法廷闘争は似合わないし、そのようなものは、性格的にも合わないため、無益な心労にしかならないものと思う。

そこで、筆者は、今後、その人には筆者との無益な闘いに人生を奪われることなく、自分の持っている力を、人の役に立つ活動に割いてもらいたいと願っており、その願いが、真実であることを示すことにした。

その人物は、非常な幸運に見舞われており、かつてある牧師から提訴の予告を受けたのに、提訴されることもなく、その牧師に告訴された信徒は、相当にひどい扱いを受けたのに、彼自身は、その信徒とは、全く異なる扱いを受けている。そのことは、ただ幸運というだけではなく、やはり、その人に対する神の愛と憐れみの大きさを示しているように筆者には見受けられる。

筆者は、神が惜しみ、憐れみをかけ、愛を示しておられるものを、筆者のこの手で壊そうとは思わない。そこで、今後の歩みの妨げとなるものを残したくはないと考えており、その言葉が真実であることを示すために、約束に先駆けて、記事を修正して行くことに決めた。

これを筆者の「敗北宣言」と受け取りたい人が出て来たとしても構わない。一体、何のための訴訟だったのか。誰に勝利し、何の収穫があったのか。そう受け取りたい人たちには、そう思わせておけば良い。
 
いずれにしても、筆者が判決を通して受けた宝とは、勝訴などという言葉ではおよそ呼べないものであった。筆者は、この訴訟の判決を受けて、自分自身が見えない命を受け取って、死からよみがえらされて生かされたのであり、さらに、判決も筆者と共に、死をくぐって生かされたと考えている。

筆者はこの訴訟とその判決のおかげで、心に敬愛する人ができ、新しい人生のフィールドを見つけ、筆者が判決を手に進んだ新しい分野においても、尽きせぬ敬意と愛情を持って関われる人を見つけた。

筆者はできるなら、この訴訟を担当してくれた裁判官が、横浜の街にいるうちに、何かしら関わることができたらと思ったが、時すでに遅しであった。だが、神は、筆者の心の寂しさを知っておられ、その裁判官に代わって、新しい助言者を筆者のもとに送って下さり、その人のもとで、筆者の訴訟と判決は、命の交換を伴う「交わり」に転換したのである。

筆者は、裁判官に代わって、新たな友となった権威者から、これ以上、訴訟を提起してはならないと言外に忠告されているように感じている。神の法廷で、サタンと共に主張を争ったことは、筆者にとって極めて重要な体験であり、貴重な成果であったが、神は筆者の勇気をたたえると同時に、これからはただ神にのみ目を向けなさいと筆者に言われ、神の愛の中にとどまるよう求めておられる。

まだせねばならない訴訟の残務処理は色々と残っており、進めねばならない手続きはあるとはいえ、筆者はこの先、決して魔女狩り裁判に関わることはないし、そんな時間もないと、はっきり言っておきたい。
 
今、新たな世界が筆者の前に開けており、神と筆者との間を隔てていた隔ては、より一層、取り除かれ、愛による一致の関係が始まった。遮蔽の措置の中にいる筆者を、高みから見つめていた裁判官の眼差しは、新しい権威者・友の眼差しに置き換えられ、さらに、そこには、天から神ご自身が筆者に注がれる愛に満ちた眼差しが重なっている。

あなたの心を私に与えよ、と主は言われる。わたしの愛から引き離そうとするすべてのものから、あなたの目を離し、あなたの心をただわたしにのみ与えよと、神は言われる。

その呼びかけに応答した時、聖化に続き、栄化という、信仰の第二のステージが始まるのであり、私たちは、原告席から、法壇の高みへの招かれ、いや、地上から、御座の高みへと招かれ、主に似た者へと変えられて、主と共に統治するという「変容」が起きる。

エクソダスは完了し、箱舟から新天地へと私たちは足を下ろす。過去の残滓は、もうないか、あったとしても、ことごとく取り除かれる。そして、神が人とともに住まわれ、人と共に生きられる人生が始まる。敵はまだ存在しているものの、私たちから遠ざけられ、触れることができない。そこは、復活の領域であって、そこに神と私たちを引き離すものはもうない。

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