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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。

ヨシュア記7章20節~26節
「アカンはヨシュアに答えた。
「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。

分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」
ヨシュアの出した使いたちがアカンの天幕に走って行って見ると、果たして彼の天幕の中に、銀を下に敷いて地下に埋めてあった。
彼らはそれを天幕から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに運び、主の前にひろげた。
ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、
こう宣言した。
  「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。

彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている。 」

* * *

最近、主は筆者にこう問われたように思われた。
「ヴィオロンさん、あなたは本当に自分のことを不器用だと思っているのですか?」

筆者はその問いを受けて考え込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます、あなたは私が着いているのに、自分は不器用だ、と人前で吹聴し、それをあたかも謙虚さであるかのように言うつもりですか?」

筆者ははっとして黙り込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます。私があなたの中で、あなたの弱さを覆い、あなたのための強さとなっているのに、それでも、あなたは自分は不器用だ、他人に比べて何もできない、自分は大した人間ではない、などと吹聴して回る気ですか?

 そのあなたの言葉は、あなた自身に対する侮辱であるだけでなく、私に対する侮辱でもあり、不信仰であることが分かりませんか?

「しかし,主は,『わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。」(2コリント12:9)

この御言葉はあなたの中でどこへ消えたのです? なぜあなたは自分は弱い、などと得意げに吹聴して回るんですか? なぜそうした言葉を聞かされて、それに無条件に頷くのです・・・?」

このような気づきがあってから、筆者は人々との関係性を根本的に見直さねばならないことに気づいた。いつからか分からないが、振り返ってみると、筆者のものの考え方が、巧妙に主ではなくこの世を中心とするものへ、次第にシフトしていたことに気づかされたからだ。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは 、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えること はできない。」(マタイ6:24)

この御言葉は、どういうわけか、筆者の記憶では、いつも「神と人とに兼ね仕えることはできない」という風に思い出される。ここで言う「人」とは「この世」のことだ。つまり、この御言葉を、筆者は、神と世の両方に兼ね仕えることはできない、という風に理解して来た。富とは、この世の権勢のことでもある。だから、この御言葉が「神と世に兼ね仕えることはできない」という意味を兼ねていると筆者が考えたとしても、その理解は、この御言葉の本質からそうかけ離れていないだろう。

筆者は、これまで自分を取り巻いている状況があまりに苦しくなったり、極度に自由が圧迫され、天の高みから地に投げ落とされたように感じられ、さらに退路が封じ込められたように思われるときには、自分をつぶさに振り返ってみると、大抵、巧妙に、「この世」が生活の中に入り込んでいることを発見したことを思い出す。

しかも、そうしてキリスト者を堕落させたり、自由を奪う「この世」とは、ほとんどの場合、人を通してやって来る。誰かが神の御前を孤独に静かに歩くことをやめ、「自分は一人ではない!」などと豪語し始めれば、その人は、大変な危険に直面していると思った方が良い。人々から誹謗中傷され、のけ者にされ、蔑まれることがやんで、笑顔で迎えられるようになり、どこへ行っても、もてなされ、必要とされ、歓迎されるようになり、本人までが、その状態を喜んで、自分は二度と孤独になることはないなどと、人前に吹聴するようになれば、もはやその人は、まことの信仰の道から逸れて、偽預言者の道を歩いていると考えた方が良いのだ。

そういう意味で、筆者は、この年始に、主によって、危ない道から危険に遭遇する前に引きずり出された。筆者は年明けに、真に気高い目的のために、人々に本当に奉仕する道を選ぼうと決意したが、それは直接的に、人間の喜ぶ奉仕をして、人々を喜ばせようという計画ではあり得ず、そこで、筆者は、直接的に人の心を喜ばせ、満足させる生き方からは、引きはがされねばならなかった。

モーセがシナイ山に登って、十戒を授かったとき、民は山のふもとで金の子牛像を作って、これを拝み、歌い踊り、戯れていた。てんでんばらばらな欲望を心に抱き、それを互いに自慢し、承認し合って、祝杯をあげていたのである。モーセは民のその姿を見て、憤りに燃え、十戒の刻まれた石板を地にたたきつけて粉砕した。

キリスト者の道は、山のふもとで生きる道ではない。むしろ、ふもとにいる民を置いて、高い山を登り、望みうる限りの最高の目的を神に向かって申し上げ、その高みへ到達できることを信じ、孤独な戦いを一人で戦い抜くことが必要な道である。そうして信仰の戦いを戦い抜いて帰って来ても、民は理解もせず、歓迎もせず、むしろ、そのキリスト者はとうに死んだと思って、怪訝そうな顔をし、疎んじるだけかも知れない。

それほどまでに、誰も理解も賞賛も感謝もしないかも知れない道であり、それはとてもとても婉曲で、困難で損な道に見えるかも知れないが、結果的には、それこそが、民全体のために奉仕するエクソダスの道なのであり、天の無尽蔵の栄光で報いられる十字架の道なのである。

私たちは自己満足のために高い山に登ろうとしているわけではない。それは自己の栄光のためではなく、まさに山のふもとにいる民に本当の利益をもたらすための試みでもあるのだ。
 
そういうわけで、筆者は年始になると、心から狭い道を行こうと決意させられると同時に、それから瞬く間に、心にある「アカンの外套」を手放すよう求められた。それが、神を喜ばせない「この世」の奉納物であるとは、筆者は知らなかったのだが、主は「自分は一人ではない!」と豪語する道を行ってはいけないと、早速、筆者を引き戻された。

主は、それがイミテーションの心の慰めであり、この先の道で、筆者はそれらのものを携えて行くことはできないし、それを持ち続ける限り、それは筆者の心の偶像となり、筆者の生活を堕落させて敗北に導き、地に投げ落とす原因になると告げられた。

筆者はその時が来るまで、その外套が、これまでの間にも、筆者を天的な生活から地に投げ落とすきっかけとなっていたことを知らなかった。筆者の気高さ、尊厳を失わせている源は、筆者がまさに仕えていると考えていた民だったのであり、もっと言えば、彼らの心を支配する欲望であった。主は、金の子牛を拝んでいる民のために給仕することは、決して神の御心ではなく、筆者の尊厳を失わせるだけだと示された。
 
それらの被造物が、あたかも筆者の主人のごとく、ぴったりと筆者に身を寄せて、味方のように振る舞い、なおかつ、真実な信仰者の姿に非常によく似ていたので、筆者にはそのことが分からなかったのである。

だが、筆者が霊的な山に登り、真に困難な挑戦に挑もうとした時、それはふもとの民となって、筆者を引き留めようとし、訣別の時が来た。彼らは彼らなりの金の子牛像を取り出して、筆者にそれを拝むよう求め、筆者がそうしないならば、筆者とはもはや一緒に行けないと告げて来た。その瞬間が来てから、ようやくそれらは世から来たものであり、偶像であることに気づかされたのである。

筆者は主以外に筆者の心を占めるものを完全に取り除き、筆者の隣の席を、主のためだけに空席として、進んで行くことに決めた。

この世でも、人は誰しも、誰かの愛人になりながら、自己の尊厳を主張することなどできはしない。まして大勢の愛人の一人の立場に自ら甘んじながら、尊厳などという言葉を口にすること自体が、僭越であり、滑稽であろう。それと同じように、欲望の奴隷となった人には、尊厳も自由もなく、この世(地上的な人間関係、この世の富、権勢、栄誉など)は、すべて堕落した人間の欲望から成り、世に支配される者は、欲望の奴隷であり、罪と死の奴隷である。そこにあるのは、いわば、一夫一婦制ではなく、人を奴隷にする愛人関係のようなものだけである。それに仕えている限り、その人は卑しめられた状態から抜け出せない。

堕落した欲望に縛られ、その奴隷となりながら、自分は高貴で自由な人間であると、どんなに叫んでも無駄なことである。

だからこそ、御言葉は、私たちが主と共なる十字架を経由することにより、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、 十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)と言うのであって、私たちはこの十字架を離れてはならないのである。

だが、この世には偽りの信仰の一大体系や、偽りの信仰者たちがいて、その教えは結局は、グノーシス主義に他ならないのだが、それは人が自己修練することで、信仰の高みを目指せると教える。

確かに、信仰の高みというものは存在するものと筆者は思う。だが、その高みは、あくまで人の個人的な望みによるものであり、その道も、個人的に様々に異なっているのに対し、グノーシス主義の教える信仰の高みとは、いわば、偏差値みたいなもので、何かしらの共通のヒエラルキーの階段を通して、人々が自分の信仰の度合いを比べ合い、裁き合って、品定めし合いながら、自分はどこまでその階段を登ったのかを競い合うことを言う。

そういう考えを持つ人々は、一見、この世の信仰を持たない人々のように、あからさまに己が肉欲の奴隷となったりはしないため、あたかも敬虔な信仰を求める人々のように見えるかも知れないが、よくよく話を聞いてみれば、その内容は、ヒエラルキーの階段を上に上に登ることで、あなたも自己の栄誉欲を満しなさい、という内容となっている。彼らは弟子をたくさん作って互いに競争させながら、彼らの言う「高み」を目指すよう、過酷な鍛錬を敷いて、成果を競い合っている。

そうして自己修練に励むことで、神に近付けると考える人々は、肉体を鍛えたり、修道僧のように禁欲的な生活を送り、自分よりもはるかに弱い人たちに仕え、謙虚で、誠実そうにも見えるため、一見すると、この世の人々の及ばない人格者のようにも見える。また、弟子を作ることに熱心なので、人々をスカウトする術にも長けているし、人の心に寄り添う術を心得ている。

だが、それでも神は、筆者がそうした仕掛けにひっかからないよう、それが偽りであることが分かる瞬間を用意される。

筆者はこうした人々が築いた偽りの一大宗教体系の真っただ中を何度も通過して来たのだが、いつも、彼らと筆者とは異質であることが、途中で判明するのだった。それはこんな具合である。筆者が一歩でも彼らの言うヒエラルキーの階段を上に上ろうとすると、その階段が、まっさかさまになって筆者の上に落ちかかってくる。階段が、ものすごい重さになって筆者にのしかかり、筆者の人生を押し潰そうとしてくる。そこで、筆者は、ああ、これは何かしら栄光に満ちた達成のように思われたが、やはりそうではなく、決して聖書に基づく信仰の道ではなく、むしろ、破滅への道だったんだな・・・と分かり、一歩も登らないうちに、その階段にさよならを告げることとなる。

そうして筆者は、これら清楚で謙虚で誠実そうに見える人々を離れて、彼らの賞賛や関心を得ようとすることもやめて、一人、神の御前に、静まって自分の道を申し上げ、極めて個人的な、誰にも知られない、主と二人だけの道を歩き始める。人の考えなどどうでも良いから、何事も主に相談の上、真実、神に喜ばれ、真実な栄誉を得るための道を、歩いて行きたいと、主に率直に申し上げる。

そういうわけで、新年早々、筆者のトランクからは、二つのアカンの外套が見つかった。それは色違いのおそろいの外套であり、一つはこの世の生地で出来ており、もう一つは、信仰に似た生地で編まれていた。どちらも人からプレゼントされたものであり、これを着れば、高みへ舞い上がれると勧められたが、着ようとして手に取っただけで、外套は鉛のように重く、一歩たりとも進んで行けそうになかった。外套についていた札を見てみると、素材は小羊の毛に似せて造られた合成繊維のイミテーションであることが分かった。

しかも、もっと悪いことに、その外套は、プレゼントされたものにも関わらず、支払いが完了していないというのである。つまり、贈り物と言いながら、手渡されたのは負債であった。それに気づいて、筆者はこの呪われた二着の外套を焼き捨てる(もしくは贈り主に返す)ことに決めて、初めから筆者にプレゼントされていた真っ白な外套を手に取った。それは小羊の毛で編まれ、小羊の血で洗われて、雪のように白く、また、軽い外套であった。それはもちろん、ただで贈られたものであるばかりか、すべての負債を帳消しにする力まで持っていた。

その小羊の毛で出来た真っ白な外套を着ると、改めて次の御言葉が思い出された。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

そうだ、何だか随分疲れた気がしていたのは、あの偽物の外套のせいだったのだ。あれを着ると、自分はあれもできない、これもできない、この世に自分ほど不器用で、何もできない人間はいない、自分にできることは、せいぜい人々の後から着いて行って、彼らに奉仕するために、地に頭を擦りつけて、身を投げ出すことだけだ・・・などと思わされ、人々を喜ばせるために、絶えず奔走させられることになり、疲れ切ってしまうだけだ。日々、歓迎され、引っ張りだこにされ、感謝されて、喜ばしいイベントが連続しているようでありながら、その裏では、陰口が絶えず、絶えず不満を述べて来る人たちのご機嫌をなだめるために、果てしなく新たなノルマが課され、てんでんばらばらな人々の心の欲望を満たすために、奴隷のごとく奔走せねばならなくなる・・・。

しかも、その外套は何日着ても、体になじむことなく、ますます重くなり、ますます歩きづらくなり、ますます足手まといになって行くばかりなのだ。

その一方で、小羊の外套は、着るや否や、心の内が軽くなり、内なる人の力と尊厳が回復されて、主が着いておられるから、どんなことでもできる、と、御言葉が自然と口から湧き出て来る。この外套には、多分、翼がついているのだろう。歩いてもたゆまず、走っても疲れない。そして、疲れたときには、隠れ家なる主の砦の高い塔に筆者を連れて行って休ませてくれる。
 
休日に電話が鳴って、潰えたはずの希望が再びよみがえり、御国への奉仕に呼び出された。主よ、私をお見捨てにならなかったのですね、と思わず、感謝が心に溢れた。だが、この世は、筆者がしようとしていることが、御国への奉仕だとは、理解することはないし、認めることもない。あの外套を着た、敬虔そうな恰好の信者たちは、こんな仕事が神の栄光になどなるものかと反対して、それに唾棄して、踏みつけにして去って行った。彼らは世を捨てられなかったのである。

そうやって、宝石をちりばめた僧服のように重すぎる外套を着た人たちが、筆者のしようとしていることをかえって罪のように考えて、自分から去って行ってくれたのは、まことに好都合なことであった。

筆者は、別離の時も、出会いの時と同様、すべて主が定めておられると確信している。だから、来る者も拒まず、去る者も追わない。主が与え、主がとりたもう。

キリスト者の道は、神の御前でつつましやかな、やもめの道であって、時期尚早に現れた愛人たちをぞろぞろと引き連れては、豪奢な服を着て、自分は孤独ではないから悲しみを知らないと豪語する女王の道とは異なる。
 
だから、心して、自分は一人になることはないとか、孤独とは無縁だなどと言う台詞を、どんなことがあっても、二度と口にすることがないよう気をつけねばならない。そういう台詞は、まさに地獄から出て来るのではないだろうか。キリストは人に蔑まれ、忌み嫌われ、人に尊ばれず、顔を背けられるほど、疎んじられた。彼は歓迎されず、良いことをしてもなじられ、絶えず誤解され、罵られた。それなのに、なぜ、私たちが彼に先だってこの世で栄誉など受けて良いものだろうか。

筆者は、孤独でつつましやかなやもめの道を、シナイ山へ一人で登って行ったモーセの道を、ゴルゴタへ向かった主の道を、人知れず歩き続けようと思った。勝利は、この細い道の向こうにあり、復活は、いつも我々の死の先にある。

ところで、グノーシス主義者は、自力で神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、神と人とが分離される前の状態に逆戻ることによって、自己を神と同一にすることを願っている。だが、筆者は、彼らとは異なり、神から切り離されて堕落した人間が、キリストの十字架の贖いを通して神に立ち戻り、その後、主と同労して、共に「光あれ」と力強い命令を発する時を待ち望んでいる。

命令は、実行されなければ意味がない。筆者は命令(御言葉)と実行(その成就)が一体化する時を待ち望んでいるのであって、そのために、何とかして命令そのものに近づき、これがまさに発せられんとする瞬間に立ち会い、さらに、それが発せられた後に、実際となって成就する有様を、主と共に見たいと願っているのだ。

そのことを、信仰においてだけでなく、この世の働きを通しても、経験できないものかと願っている。今年はそのための挑戦となるし、筆者が真にその道を行かない限り、おそらく筆者が本当の意味で、人々に仕え、益をもたらすこともできないものと確信している。もしかすると、モーセがシナイ山で十戒を受けたように、筆者も筆者なりのやり方で、神から御言葉を授かろうとしているのかも知れない・・・。
  
山に登る時は、すべてのからみつく罪を捨て、心の偶像になりそうな一切を振り切り、主の前に心を孤独にして、一人で進み出なければならない。その意味で、この道は決して人に優しい道とは言えないし、楽な道であるとも言えない。だが、その代わり、真に筆者を支えてくれる真実な主人があり、筆者を迎えてくれる天の栄光がある。

日に日に罪の負債の重さだけが増し加わる、色違いの美しい外套の贈り物を捨てたとき(もちろん、これは比喩であるが)、それが足手まといとなって、これまで天の高度に飛び立てなくなっていたことが、はっきりと筆者には分かった。

次の御言葉は極めて象徴的である。大勢の信者たちが、この聖句をお気に入りの歌にして口ずさんでいるが、この御言葉は、信仰によって実際となるばかりか、主の民のために下される神の正しい裁きと密接につながっている。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)

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