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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って命を得ることができますように。

以前、当ブログでは、1940年に幻と消えた東京オリンピック同様、今回のオリンピックも、決して開催できないで終わるだろう、という趣旨の記事をいくつも書いた。なぜなら、オリンピックを国威発揚のために利用しようという理念そのものが誤っているからだ。その後、誰も予想していなかった思わぬウィルス騒動によって、それが現実味を帯びて来ている。

また、昨年、宝塚市が就職氷河期世代を対象とする公務員採用試験を行ったのに引き続き、今年、政府もが就職氷河期世代への支援の一環として公務員での採用試験を行ったが、それは百倍の倍率を超える、一般の通常の試験以上の難関となった。

呆れるような馬鹿馬鹿しさである。正規雇用に恵まれなかった貧しく弱い人たちを集め、一見、彼らを助けてやるように見せかけながら、他方では、通常の正規雇用の試験よりもはるかに過酷な競争試験を課して、多くの人々をふるい落とす。それを「支援」の名のもとに行うことは、まさに呪いを招くような悪なる所業だと筆者は思う。

だが、そのような状況を見つつも、「正規」とは何か、ということを考えさせられる。筆者は牧師制度を、牧師と信徒のヒエラルキーを思い出さずにいられない。そして、そのヒエラルキーは、人をディスカウントするために作られたものであって、そのものさしに踊らされている限り、人に平安はやって来ないと思わずにいられないのだ。
 
神に救われているかどうか分からない不安を持つ人間が、教会に所属すれば、安泰だと思って、教会の正会員になったところで、そんな会員証によって、何ら救いの確信が得られるわけではない。その埋められない不安を何とかするために、次には、神学校へ行って牧師になり、「献身」することで、神に近づこうとしても、それによって神に近付けるわけではない。
 
神学校の卒業証書も、教会の会員証と同様、何ら救いの保証とはならず、牧師になったからとて、外側を飾ることはできても、その人間性は1ミリたりとも変わらない。罪が贖われるわけでもなければ、心の内側は全く変革できない。

同様に、自分が「選ばれた者」になるために、必死になって努力をし、かいがいしく奉仕を重ね、常に他者からの承認を得るために、死ぬまでずっと終わりなきヒエラルキーの階段をひざでよじ登り続ける人生は、まるで自分の力で自分を救おうとするむなしい努力と同様であり、不毛だから、一刻も早く、やめた方がいい、と思う。

その果てに何が待っているのか。ピラトの階段の上にあるものは十字架の死である。その十字架の死を、キリストが負って下さったという立場に立たない限り、あなたはその刑罰を絶え間なく自分の身に負わされることになるだけである。

自分が安全圏だと思う場所へ滑り込むという目的のためだけに、一生、はるか上へ上へと続くピラトの階段をひざでよじ登るという苦行の毎日が待っているだけである。

「正規」だとか「非正規」だとか、牧師であるか、信徒であるかなど、どうでもいいことであるが、そもそも自己の力で「選ばれた者」というレッテルを得るために、終わりのない階段をのぼり続ける人生は、やめにしないか。
 
聖書の原則は、いつもそれとは反対で、選ばれなかった者が選ばれる、というパラドックスに満ちている。ユダヤ人たちは、諸国の民の模範となるべく、神の選民として選ばれたが、かえって今日まで心頑なにされて、救いにはあずからなかった。そこで、救いは選ばれなかった民である異邦人に宣べ伝えられた。
 
キリストにつながる系譜にも、ユダヤ人からは卑しい民として蔑まれていたモアブ人のルツ、ダビデがその夫を殺して娶った妻バテシェバ等、およそ「選民」にはふさわしくないと言われる経歴の持ち主たちが、信仰によって名を連ねている。ダビデ自身もそうだ。

ダビデの犯した罪も大きかったが、それでも、彼ほど神に愛された者は他にいないのではないか。そう言えるほど、ダビデはただ一途な信仰によって、神に受け入れられ、覚えられた。

私たちが神に受け入れられるのは、自分の努力によるのでもなければ、生まれや、立場や、能力や知識によるのでもない。自分で自分を選んだからでもないし、選ばれたという誇りによるのでもない。それはいつも神の側からの一方的な恵みなのである。
 
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない」 
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:25-26)

こうして、「自分たちは選民だ!」と神の御前で豪語する人たちが退けられ、かえって選ばれなかった民であるはずの人々が、恵みによって救いへと入れられる。

誰よりも、キリストご自身が、「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(1ペテロ 2:4)と言われる通り、人には拒まれ、世からは蔑まれ、人々の目には、神にさえ捨てられたように見えた。

しかし、キリストは罪のない神の独り子でありながら、神の姿に固執せず、己をむなしくし、十字架の死に至るまで御父に従順であられたがゆえに、神はキリストを高くあげて彼の御名をすべての名にまさる名とし、
 
「見よ、わたしは選ばれた尊いかなめ恣意を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

と言われるのである。キリストは、信じる者にとっては、神に選ばれた尊い生ける石であり、救いの岩である。だが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

「つまずきの石、妨げの岩」である。
(1ペテロ2:6-7)

そこで、私たちは、自己の力によってではなく、私たちのために、すべてを達成して下さったこの方の御業によって、神に選ばれ、受け入れられる民となることを目指すことはよくとも、自己の力によって、世から承認や賛同を受けることで、「世から選ばれよう」とする努力は、もうやめて良い頃合いであろう。そこには、何かしら深い堕落の誘惑が潜んでいるのではないかと筆者は感じざるを得ない。
    
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(一ヨハネ2:15-17)

だから、世の人々が、毎日のごとく、筆者の目の前に現れては、肉の欲、目の欲、生活のおごりなど、自慢にもならないものを自慢し、自分たちと一緒に来れば、世の幸せが手に入ると誘いをかけて行っても、筆者はそれに耳を塞ぎ、彼らに着いて行くことを拒む。
  
「ああ、あなたは未だにこんなにも貧しく、乏しい生活を送っているのですね! 本当に可哀想ですね。でも、私たちはあなたと違います。ですから、私たちと一緒に来なさい、そうしたら、私たちはあなたに素晴らしく豪華な食卓と、退屈しない会話を与えてあげられますよ!」

「あなたは誰を待っておられるのです? なぜ人生を楽しまないのです? あなたをこんなにも孤独のうちに待たせている人のことなど放っておいて、手っ取り早く、私たちと一緒に来て遊びましょうよ。楽しいですよ。一言、お言いなさい、『どうか私を一緒に連れて行って下さい』と。そしたら、私たちはあなたを最後の子分として連れて行き、存分に楽しませてあげますよ。あなたが待っている人は、きっと約束をすっぽかして来ないでしょう。ですから、あなたは当てが外れて恥をかかされるだけですよ」

「私たちは人生を謳歌しています。現在に100%満足しています。なのに、なぜあなたはいつも物足りなさそうで、何かを待っている風情なんです。え? この世が堕落している? 肉の欲は神の御心に敵対する? 今見ていないものを信じる力が生きる糧ですって? そんなわけがありませんよ。今、見えているものがすべてなんです。その今を楽しまなくてどうするんです? あなたにはきっと人生の楽しみ方が分かっていないんですよ。私たちが教えてさしあげましょう・・・。」
 
たとえそんな誘いの声を聞いたとしても、筆者はそれに着いて行かない。その誘いに乗って、彼らに着いていけば、その先には、罪の連帯責任が待っているだけなのだ。

ちょうど 不良グループが、カツアゲの現場で、見張り人をつとめる人間が必要だからと、あなたに声をかけて行くようなもので、それに着いて行けば、彼らの共犯者となってしまうだけである。だから、筆者ははそうした自慢話に耳を塞ぎ、お引き取りいただくようお願いするだけだ。

中には、知識欲、出世欲、権力欲を刺激する誘いもある。色々と話術は巧みであるが、どの誘いも、それに応じるだけの価値を持たない。
    
人は自分には手の届かないもの、自分に与えられていないものを見せつけられたとき、心に焦燥感を覚えたり、自分も同じようにならねばならないと感じたり、あるいは、自分はそういうものに値しないから、その高みから排除されたのだという悲しみを心に覚えることもないわけではないだろう。
 
だが、一瞬、そういう心の動きが起きても、大抵、後になって、それらは、手にするに値しなかったからこそ、与えられなかったのだと分かる。それは決して負け惜しみとして言うのではない。私たちが、まことの羊飼いである主にあっては、どんな時にも乏しいことはない、という御言葉は、真実であり、自分にまだ与えられていないもののことで、他人を羨む必要はないし、ましてそれを不足であるかのように他人に補ってもらう必要はないのである。
 
むしろ、神の御前に頭を垂れて、己を低くする人間にこそ、恵みが与えられるのだから、愚かしい自慢話と肉の欲を誇る生活とはきっぱりと一線を画し、いつ主の恵みの時が訪れるかを待っていればいいだけのことだ。自分には悩みごとなど何もなく、万事は順調で、欠けたところもないから、神の助けなど全く要らないと豪語して、自慢話に明け暮れているような人間には、放っておいても、そのうちふさわしい破滅がやって来る。

だから、そんな人間を羨んだり、気にしたり、あるいは腹を立てたりする必要は全くないのである。

実際、こんな箇所も聖書にはある。

「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)
 
だから、筆者は世の中で高い地位についている人たちが、様々な自慢話を語って聞かせても、それに関心を持つこともなく、賛同もせず、彼らがどれほど筆者のような立場にある人々を蔑み、嘲ったとしても、彼らを羨まないし、彼らと一緒に行かないことに決めた。

その人たちが誇っている富とは、不法や虐げによって手にしたものであって、真の裏づけを持たないものである場合がほとんどだからだ。彼らが誇っている外側の美も、人を欺くための偽りの外見に過ぎず、本物でないことがほとんどである。
 
今、世の中で起きている様々な騒動を見るにつけても、自分たちは選ばれた者だと豪語し、富んでいて、おごり高ぶっている人たちへの審判の時が、近づいて来ているような気がしてならない。 

こういう時に、私たちがなすべきことは何だろうか。家の門に過越しの血潮を塗って、家の中に静かに隠れることではないか。それは外出を控えるという意味ではない。神の御前で心静まって、主と二人きりになり、すべての相談事を、ただお一人の神にのみ打ち明け、この世にある一切のものに対して、執着を持たず、霊的死にとどまることを意味する。

そういうわけで、筆者は、世との交流を望まず、世と世にあるものを愛さず、目に見えるものに頼ることをやめて、より一層、見えない神を見あげたい。

人を救う力を全く持たないむなしいものは、もう見たくもない。そこには肉なる人間も含まれれば、この世の全ての富も含まれる。そういうものを筆者の眼差しに映すことさえ厭わしく、それらのものに心を奪われるなど論外である。

だから、筆者を救う力を全く持たないむなしいものをこれ以上、見なくて済むよう、その代わりに命の道に目を移すことができるよう、神に希うのである。
 
「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。

 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。
 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。
 あなたの道に従って
 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。
 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。
 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)

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