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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者が弱さと傷によって絆(連帯)を結ぶ危険②~

昨日、今日あたりには、本当はもっと大々的な議論に踏み込みたかったのだが、まだ必要な書籍が揃っていないので、少し予定と違うことを書こうと思う。

以下の記事で、私は同性愛が聖書に反していることを説明し、同性愛者を性的マイノリティ、「差別を受けて来た存在」として、被害者であるかのように描き出すこおとによって、同性愛者と非同性愛者を対立させようとする考えがいかに誤っており、危険であるかを述べた。

そうこうしているうちに、ついに同性愛者の非同性愛者への逆恨みが実際的なトラブルに、しかも、殺人事件となって持ち上がったのだという。

朝日新聞の報道によると、米バージニア州で取材中のメディアで起きた殺人事件は、同性愛者の抱える怨恨が動機となって起こったもののようである。

「黒人で同性愛、差別受けた」銃撃後自殺の元テレビ局員
朝日新聞DIGITAL ロサンゼルス=中井大助 
2015年8月27日20時26分

米バージニア州モネタで26日朝、テレビの生中継中に記者とカメラマンが銃で撃たれ殺害される事件が起きた。地元警察は、中継していたテレビ局の元社員、ベスター・リー・フラナガン容疑者(41)が銃撃したと発表。フラナガン容疑者は現場から車で逃走し、自分を銃で撃った後に警察に身柄を確保されたが、病院で死亡したという。

TV中継中に射殺、元同僚の容疑者自殺 銃撃動画投稿か

 事件は午前6時45分ごろ、ショッピングモールから中継しているさなかに起きた。WDBJテレビのカメラマンのアダム・ワードさん(27)と記者のアリソン・パーカーさん(24)が殺され、パーカーさんがインタビューをしていた地元商工会議所の女性も重傷を負った。

 インターネットに投稿された動画では、パーカーさんのインタビュー中、突然、銃声のような音がし、カメラの向きが変わる。銃のようなものを手にした男の姿が一瞬映っている。

 WDBJテレビの社長は米メディアに対し、フラナガン容疑者が、一緒に働くことが難しく、怒りが前面に出ることが何度もあったため、2年前に解雇したと説明した。

 ABCテレビによると、事件の約2時間後にフラナガン容疑者から計23枚のファクスが届いた。ファクスには、「6月にサウスカロライナ州の教会で9人の黒人が射殺れたことがきっかけで事件を起こした」という趣旨や、自分が黒人の同性愛者として差別を感じてきたこと、過去の乱射事件の実行犯への敬意[ママ:訂正:経緯]などが書かれていたという。(ロサンゼルス=中井大助)


ここで注目されるのは、黒人の同性愛者の男性の逆恨みが、白人の女性へと向けられたことである(むろん、ともに射殺されたカメラマンや巻き込まれた市民を含めると、逆恨みによる無差別殺人と言えなくもない)。

話が飛ぶようであるが、同性愛を巡るこの極めて否定的な事件から連想されるのは、武藤貴也議員の疑惑を巡る最近のスキャンダル報道である。これまでずっと同性愛者を積極的に擁護するキャンペーンを繰り広げて来たハフィントンポストは、この事件についても相変わらず、他者のブログの引用という形で、武藤議員を「被害者」であるかのように報道し、同性愛者を擁護するキャンペーンを繰り広げている。

武藤貴也議員の未成年男性買春。一番の被害者は武藤議員本人だ
投稿日: 2015年0月27日 21時03分 JST   更新: 1時間前 Letibee LIFE LGBT LIFE MEDIA

以上は引用する気にもならないほど無内容の記事であるので、興味のある方は事件の経緯と共に自分で読んで確認していただきたい。いつものことであるが、ネット上には、この議員に対する同種の同情的な声がほとんど存在しない。だから、上記のような記事は、極めて例外的な、権力側から見た偏った意見だと言えるであろう。

今までもずっとそうであったように、ハフィントンポストはこうして「例外的な」意見を一般的な意見と同列に並べて報道することにより、議員を擁護するのみならず、同性愛者に甘い点数をつけて、同性愛者擁護キャンペーンに貢献しようと試みているのである。これもキャンペーンの一環である。

だが、偏向した報道がどんなに上記議員を被害者として描こうとしても、米国の事件と同様に、日本の国会議員の引き起こしたこの事件によって、社会の同性愛者に対するイメージがひどく低下したであろうことは間違いない。

そもそも政治家は厳しい批判にさらされなければならない職業である。気骨のある政治家が気を付けていてもハニートラップにかけられて失脚するような例は、世界では絶え間なく噂として語られる。だから、政治家は誰しも身辺には気を遣うものだし、それは同性愛者であろうと異性愛者であろうと変わらない。だから、議員という立場にありながら、政治家として承知していなければならない最低限度のモラルを持っていなかった時点で、アウトという他ない。
 
それにも関わらず、同性愛というレッテルを持ち出しさえすれば、あたかも被害者であるかのように同情を乞うたり、その行いを正当化したりする理由になりうると考えている人がいるとすれば、その認識の甘さはかなり失笑ものであると言える。

いずれにせよ、ここで提起したい問題は、東京(政界)のソドム化という事実とは別に、同性愛とは結局のところ、自己と同質の者しか愛せないという病理なのではないかという素朴な疑問である。

私は以下の記事で、病者や障害者やカルト被害者を名乗る人々が、自分たちと異質な者たちとの接触によって傷つかなくても良いように、自己と同質の集団を作ってその中に引きこもることで、自分たちを守り合う傾向が強いことを書いた。

別に病者や障害者やカルト被害者に限らず、どんなものであれ、弱さを抱える人々にそれは起こりがちな現象なのである。自己の弱さを異常と決めつけられて非難されたり、揶揄されたり、傷つけられることを恐れるあまり、弱さを抱える人々が自分たちと同質の弱さを抱える者たちだけで集まり、連帯することによって、同質性の「囲い」を作り、その自己防衛のために築かれた「城壁」の中だけに生きようとし、その外に生きている自分とは異質な他者を警戒したり、または「異常者」と決めつけてこれを攻撃したり、排斥しながら、自己を防衛し、自らの弱さの正当化をはかって行くということは、頻繁に起きる現象であることを述べた。

今盛んに行なわれている不可解な同性愛擁護キャンペーンも、根底にこれと同じ流れがあると考えると分かりやすい。つまり、これも生まれながらの人類が自らの弱さ(自己)を守ろうとする心理的な防衛手段の一端ではないかということである。つまり、心理的な自己防衛の手段としての同性愛というものが存在しうるのではないかと考えられるのだ。

異性との関わりは、自分とは異質の他者との接触や関係性であるため、常に未知の領域である。自分とは異質であるがゆえに、相手を理解できなかったり、理解できないゆえに誤解し合ったり、拒絶されたり、傷つけられたりするリスクが伴う。特に、好感を持っている相手に拒絶されることは、自己を否定されるほどの痛みが伴うかも知れない。

しかしそうした体験もかつては、特に若者の場合は、よくある青春の一ページ程度の他愛もない出来事として受け流せるものであった。傷つくこともまた人を愛することの一部であると認められるくらいに、以前の社会にはおおらかさが残っていた。魅力的な人々は一人ならず存在し、一つの出会いが過ぎ去っても、新たな別の出会いを楽しんで生きれば良い。

ところが、社会がますます閉塞するにつれて、異質な他者との接触によって自己を否定されたり傷つけられる体験が、どんなきっかけで起こったものであれ、多くの人にとって、全く耐えがたい死ぬほどの苦痛に変わりつつあるのではないかと感じられる。もっと言えば、人類の自己に対する意識が極めて鋭敏になっているために傷つくことの痛みもそれに伴って倍加し、自己防衛の心理もひどく強化されてきているためなのか、自己を否定されるという体験そのものに対する人々(人類)の耐性が著しく下がっているのではないかと思われる。

もはやかつてのように、異質な者同士が互いに理解しあえない結果、摩擦や誤解やすれ違いが生じ、自己の尊厳を傷つけられるという出来事が、決してありふれた日常の軽い事件では済まされなくなった。自尊心を傷つけられることを、人は自分への許しがたい「冒涜」と感じ、他人に理解されなかったり、拒絶されることを、自分自身の存在の根幹を極度に脅かされたり、否定される体験と同一視するようになった。こうして、人(種族としての人類)が傷つくことに全く耐えられないほどに弱くなってしまったので、人は自己を守るために、より一層、異質な他者との接触を避けて、自分と同質の者だけを相手にして生きようとするという自己防衛をはかるようになったのではないかと思われる。

繰り返すが、それは病者であれ障害者であれカルト被害者であれ、男女であれ、みんな同じではないかと思われるのだ。自分と異質な者と接触することは、それだけで相互理解が成り立たずに傷つけられるリスクをはらんでいる。だから、異質な他者との接触そのものをひどく恐れ、警戒し、疎んじるようになったのである。

だが、そのようにして社会の中で、人々が自己を傷けられるリスクを減らそうと、自分と似た人間だけを接触の相手に選ぶようになれば、ますます傷つくことに対する人の耐性は落ちて行き、人の人格は弱体化し、異質な者との対話の可能性やスキルも失われていく。

話を戻せば、ある人々にとっては、自己と同質な者だけを対象とする偏った愛着が、同性愛という結果になって表れているのではないかと推測する。つまり、ある一部の人々にとっての同性愛とは、決して生れついた嗜癖ではなく、むしろ、異質なものとの接触を避けて自己防衛をはかるために後天的に獲得した心理的な防衛手段ではないかと推測されるのだ。自己と同質であるがゆえに、多分、自分を理解してもらえるだろう、プライドも受け止めてもらえるだろう、裏切られはしないだろうという安心感が先立っているのではないだろうか?

もっと言えば、その根底には、自分を無条件に認めてほしいという甘えと同時に、自己と同質のものしか認めないというナルシシズムが潜んでいるように感じられる。

さらにそれが、上記議員の場合のような、金銭を介しての関係ということになると、もっと関わりが複雑に歪んで来てしまう。対等な関係の場合にまさって、金による関係は、金を持っている側が圧倒的に優位に立つことができるからだ。だから、それは対等な人間関係ではなく、単なる性的な嗜好の問題でもなく、支配関係であるととらえなければならない。

だから、この事件から私が想像することは、上記議員のみならず、政界そのものが特に、そのような支配関係の中でしか人間関係を築くことができず、人を愛することも、信頼することもできず、常に自分が支配する側に(優位に)立っていることを確認できないと、どんな他者とも接触できないほどまでに、疑心暗鬼になり、自分が傷つけられなり、否定されることに絶対に耐えられないという恐怖症、あるいは自己の絶対化、人格の脆弱化に陥っているのではないかということである。

そもそも対等な人間関係であれば、同性であれ異性であれ、相手からあれこれ注文をつけられることはよくあり、異なる意見で衝突することもあれば、批判されることもあり、互いに色々気遣っていなければ、関わりそのものを維持できないだろう。だが、金で買った人間関係であれば、金を持っている側が支配者であり、自分に都合よく優位に振る舞うことができる。思いやりなど示さず、一切気遣わなくとも、裏切られる心配はないし、刃向われ、傷つけられることもない。

つまり、こうした事件そのものが、単なる同性愛という枠組みにとどまらない出来事であり、異質なものとの接触によって自分が傷つけられるリスクに人(コミュニティ)が全く耐えられないほどまでに脆弱化した結果起きた末期的な症状の一端ではないかと推測されるのだ。

全体としてみれば、この議員を被害者として描こうとする報道もそうであるし、佐野研二郎氏への疑惑についての五輪組織委員会の対応も同様であるが、その背後には、被害者意識と自己憐憫と自己愛で癒着したコミュニティが存在することを浮かび上がらせるのである。

ただトラブルを起こした当該人物だけが問題なのではない。その人々を取り巻くコミュニティそのものにも、それと同じくらいに根深い問題が隠されている。このコミュニティは、彼らに決して自分の負うべき責任の重さを直視するように教えず、そうするように促さず、責任を追及しない。むしろ、この人々の背後に存在するコミュニティは、彼らがまるで無実にも関わらず攻撃対象とされた可哀想な被害者であるかのように描き出すことで、彼らを弁護し、免責し、世間の方がむしろ彼らの事情に配慮するようにと一方的な同情や理解を求めるのだ。

だから、私はこうした人々の背後には、被害者意識によって連帯した一大コミュニティがあることを感じずにいられない。これは個々の人物の特徴というより、コミュニティ全体の体質である。彼らの属しているコミュニティそのものが、どんな事件が起きても、都合よく自分たちが被害者になってしまうことによって、自分たちの無責任な行為を覆い隠し、そによってどれほど大勢の人々に迷惑をかけ、信頼を失墜させても、決してその事実を直視せず、責任も取らないとする姿勢を貫き通してきた歴史があるものと思う。

このように、今、ある特定の議員や、特定のデザイナーの行動だけが問題となっているのではなく、彼らを取り巻くコミュニティそのものが、自己の弱さを直視せず、過ちや欠点から目を背け、批判され、傷つけられることを防ごうと、被害者意識の中に閉じこもり、自分たちと同質の集団だけで互いをかばい合ってきたという体質や、歴史が、著しい問題として浮上してきているのではないかと思われるのだ。

裏を返せば、そうなった背景には、もともと何らかの根深いコンプレックスや、被害者意識が存在している可能性がある。たとえば、「田布施システム」のような・・・。ひょっとすれば、そのコミュニティには、もともと異質な他者との接触によって、自分の弱点を探り出され、自己を傷つけられることを恐れなければならないような、何らかの特別な事情を持つ人々が集合しており、それゆえに、初めから他者との接触を嫌って、あるいは他者に対する何かしらの怨念、自分たちは不当に追い詰められているという被害者意識の中で連帯し、他者から攻撃され、弱さを見抜かれることから互いをかばいあおうとしてきた歴史があるのではないかと推測される。

いずれにせよ、心の根底に何か歪んだコンプレックスがあって、もともと自分が人から対等に愛され、受け入れられるに値しないと思っているために、異質な他者を警戒し、敵愾心を抱いて排除する、もしくは過剰に自己を防衛しようとする、他者を決して信じられず、金で買った支配関係しか築けない、もしくは、軍隊のように厳しく統制された上下関係か、イエスマンだけで固めた人間関係の中でしか生きられなくなる。これは人間関係というものを、決して信頼関係としてではなく、支配関係によってしかとらえることができないという病的な猜疑心(もしくは被害者意識)の結果、起きていることではないかと思われる。

もともとコミュニティ全体にそういった何かしらの歪んだコンプレックスと被害者意識があるゆえに、自己と同質の弱みを持った人間だけを「愛着・慰撫・尊敬の対象」としていくということが起きるのではないだろうか? こうして、コミュニティ全体が被害者意識で連帯し、それが集団的自己愛、集団的無責任、集団的自己陶酔、集団的被害者意識、集団的自己正当化とでも言うしかないような異様な状態を生んでいくのだ。それはそもそも個人の嗜癖の問題ではなく、コミュニティそのものの抱える深い病理から生まれる問題ではないかと感じられてならない。

そして、この問題を押し広げていくと、やがて人類の罪という問題に行き着かざるを得ないのである。
 
以上で私は、人が自己の尊厳を傷つけられることに対してますます耐性がなくなっているのではないかということを書いたが、この傾向は、いずれ最終的に、人類が己が罪から目を背け、己が罪を否定するという行為へと結びつく。(すでにお分かりの通り、人類が自己の罪を否定するということは、早い話が、己を無謬の存在とし、神だと宣言するということに等しい。)
 
なぜなら、自己の罪を認めるということには痛みが伴うからだ。自己の弱点・欠点を他者から見抜かれ、指摘され、批判や注文をつけられることは決して快い体験ではない。自分を傷つけられたと不快に感じられるだろう。だが、だからと言って、それをすべて否定し、そうした体験を受けないように異質な他者との接触そのものを嫌っていては、いつまでも自分の弱点がどこにあるのか、人は分からないままであるし、克服もできない。むろん、過ちに対する責任も取れるはずがない。

だが、傷つくことへの怖さゆえに、自己の過ちや欠点を決して直視したくないし、また、それを他者に批判されるのも嫌だという人々は、己が弱さや過ちに対する責任を負わされることから逃げようと、自分たちを守りあうための同質性の「壁」を作り、その陰に隠れて、自分たちは正しく、罪はないと、おかしいのは自分たちを批判している他者であると、互いに言い聞かせあって、自己正当化のための何かしらの恐ろしい盲信的な(現実逃避的な)連帯と運動を築き上げて行っているのではないかと思われてならない。

それが、たとえば、今回の議員やデザイナーを被害者に見せかけようとする報道を生んでいるのであり、さらに、日本の過去の国家的過ちそのものを否定しようとするような、軍国主義の復活や、歴史修正主義のような動きになって現れているのである。むろん、カルト被害者救済活動も同じである。それらはすべて裏を返せば、「私には罪がない!私は潔白である!おかしいのは私たちの罪を指摘する人々の方だ!」という、己が罪そのものを認めまいとする人類の叫びだと言えるのである。

だが、いつかその自己防衛の「壁」は壊れる時が来るだろう。そして、彼らは責任を問われることになる。ずっと互いをかばい合って、責任を問われないように守りあって生きてきた人々には、自分たちは一方的な被害者だと考えて主張する以外に責任を取る方法さえも分からない。それでも、いつか責任を問われる日は来るのである。

結論として、被害者意識と自己憐憫に基づいた自己愛こそ、人を盲目にし、己が罪を直視させない最大原因ではないかと思われる。これが取り去られない限り、自分は被害者だと言いながら、無責任な行為を続け、他者を傷つけ続けている人々には、自分のしていることの異常さ、残酷さ、欠点が一向に直視できない。破滅に至るまで自分たちが何をしているのかが見えないのである。

・・・
 
カルト被害者救済活動の支援者たちの心理にも、上記に述べた通りのことがあてはまる。この活動の支援者らの行動は、あらゆる面から見て、自分たちは一方的な被害者であり、悪いのは全て自分以外の誰かだという被害者意識に基づいており、筋の通らない自己弁明を繰り返すだけで、自分は何事にも責任を負おうとしない姑息なものである。それはかつて旧日本軍が「自分たちには罪がない(皇軍ゆえに無敵・無謬である)」とか、「私たちは負け知らずだ」などと主張しながら、破滅に突入して行った様子にとてもよく似ている。

彼らが戦争に負けながら「私たちは勝っている」と嘘を主張し続けたのと同じように、カルト被害者救済活動の支援者らは、負け続けの裁判の中で虚勢を張り続け、勝っているように見せかけている。ないものをあるように見せかけているわけだから、そこにはどうしてもあらゆる嘘や、ごまかしや、姑息な手段が不可欠となる。

恫喝裁判もその見せかけだけの虚勢の一つである。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の牧師は、教団を離脱しようとした教会に徹底的に争いをしかけたが、この裁判に負けることは彼ら自身にも最初から分かっていたらしいことが支援者の記事に書かれている。

だが、彼らにとって問題なのは勝ち負けではなかった。裁判が長引いている間、あたかも自分たちが正しい主張をしているかのように見せかけて時間を稼げさえすればそれで良かったのである。また、恫喝裁判をしかけることによって、政敵に濡れ衣を着せ、心理的打撃を与えることさえできればそれで良かったのである。つまり、勝つことを目的とした裁判ではなく、それ自体が、復讐なのである。

また、この活動の支援者らは、大手検索サイトでの順位を非常に気にしているらしく、自分たちのライバルのサイトが上位にランキングされることがどうしても許せないらしい。(もはやこの活動の支援者はほんの数えるほどになっているというのに、まだそんな下らないことに精を出しているのである。)

だから、私のブログ「東洋からの風の便り」や「ヴィオロン」のキーワードで、私の記事が決して上位に出てこないように、彼らは自分たち好みの誹謗記事を上位にランキングさせようと必死に工作を繰り返している。私のブログが正常に検索結果に表示されるようになると、彼らが押し寄せて来ては気の済むまで工作を繰り返す様子が何年間にも渡って、ログに毎回、おさめられている。

「随想 吉祥寺の森から」が特にそうであるが、彼らは自分たちがバッシングの標的に定めた教会や、ブログの題名、個人名を使って誹謗記事を書き、文章を無断転載し、大量に無駄なリンクを貼ったりすることにより、ネット上でライバルの足を引っ張り、順位を下げるための工作を長年に渡り続けているのである。ネトウヨなどが悪意を持って人を中傷しようとする時に使用するよく知られた方法である。
 
だが、愚かなことである。ご苦労様と毎回、微笑ましく拝見している。順位は短期間で実に何度も変化することを私は見て来たし、決して多くの人々が信じているように、大手検索サイトが決定的な役割を果たしているわけでもない(世界は西側だけから出来ているわけでもないのだ)。そもそもネット上のランキングなどといった些細な事柄を絶えず神経質に気にしてライバルの足を引っ張ることに腐心しているようでは、その時点ですでに負けが確定していると言って過言ではない。だが、彼らにとって何より肝心なのは、本当の勝ち負けよりも、自分たちが勝っているように見せかけることなのである。(これも他者と自分との関係を優劣や競争を通してしか理解できない病理を示している。)
   
さらに、何度も言うようだが、これまで実社会を生きる上で、私はインターネットに書かれた情報を鵜呑みにする知識人がどれくらいいるかを実際に聞き取りをして確かめて来た。結果、書かれた文章の質が悪ければ悪いほど、それを鵜呑みにする人間もいないことだけが分かった。昨今では大手の新聞でさえ、大本営発表として退けられている有様である。それほど人々の嗅覚は鋭い。

だから、逆に言うと、いくら誹謗中傷の記事をたくさん書いて上位にランキングさせたとしても、その程度の記事を信用するような人々と関わることにはもとより意味がないので、誹謗記事が逆に良いフィルターとなって関わるべき価値のある人々が誰であるかを教えてくれる。

話を戻せば、カルト被害者救済活動の支援者らは、自分たちは「被害者だ」と主張しているが、彼らは被害者を都合よく隠れ蓑に利用しているだけで、いったい、彼ら自身がどういう点で被害者なのかは全く定かでない。それにも関わらず、この活動の支援者らは、当の被害者の何倍もの被害者意識に凝り固まり、自分たちの主張が正しいものであるかのように見せかけるために、至るところから、自分と同じような被害者意識に固まった人々を呼び寄せ、連れて来るのである。

まさに類は友を呼ぶという具合に、怨念と被害者意識を持つ人々が次々と集まっては連帯し、膨れ上がっていく様子は、私が何も書かない前から、多くの人々に不気味な印象を与えて来た。彼らは必ず何らかの「仮想敵」を作り上げては、自分たちの不幸の原因を一身に転嫁できる「極悪人」として糾弾するのである。私のような一般人さえもそのような極悪人の一人にされている様子である。

だが、私はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団というところをかなり身近に長い間、見てよく知っているので、このような被害者意識が、聖霊派のこの教団に現役で深く関わっている信徒らにはきわめて特徴的な感情であることが分かっている。
 
すでにフランスでは準カルト認定されている教団である。カルト宗教は大抵、家庭で問題を抱えていたり、人生で不幸を背負っている人々を好んで勧誘して来ることで知られている。人生の問題解決に相談に乗ってやることをきっかけにできるので、弱みを抱えている人々の方が勧誘しやすいからだ。しかし、カルト宗教はその人たちにとって現実逃避の場にしかならず、決して人生の諸問題の解決にはならない。その宗教にいる限り、ただ自分は可哀想だと考える被害者意識に基づいた無意味な現実逃避が延々と続くだけなのである。こうして、もともと人生に苦しんでいた人が、宗教に入って二重の苦しみを抱えることになり、さらに、その宗教で受けた仕打ちを解決してやるように見せかけて信徒をカモにする被害者救済活動に食い物にされるという果てしない負の連鎖に落ち込む。

被害者意識ある限り、その負の連鎖から抜け出すことは出来ない。自分を哀れんで問題から逃げることをやめて、自分の責任として人生の諸問題に直面しない限り、無責任な現実逃避だけが続いていくのである。だから、このような教団に関わって決して同じような被害者意識に感染しないことが肝心である。被害者意識に感染すると、人は自分の人生の主体性を失ってしまうからだ。ずっと自分は被害者だと考え続けて、仮想敵を作り上げては糾弾しているだけで、自分自身の責任は何ら直視せず、自分自身で問題解決するために能動的に立ち上がる勇気もないのでは、周りにとってもどれほど迷惑なだけであるか分からない。そんな状態では、どんなに仮想敵とした相手の問題だけを分析し糾弾しようとも、決して自分の人生の諸々の問題から逃れる方法は分からない。何よりも、キリスト教を装い、聖書を用いているように見せかけながら、まことの解決であられる神により頼まず、聖書に反して、神の解決を退けてでも裁判等を優先して政敵をやっつけて復讐することを呼びかけているアッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団や同教団の主催するカルト被害者救済活動には、全く希望がないから決して関わるべきではない。

たとえ恫喝裁判を起こされようとも、どんな虚偽の非難をされようとも、この教団からはエクソダスしてしまえばひとまず勝利である。そう言って良いほどに、この教団の危険性は深く、そのことは、カルト被害者たちでさえすでに知っているほどなので、もはや周知の事実と言えるレベルに近づいていると言えよう。

だが、現役でこの教団に関わっていたり、あるいはカルト被害者救済活動を賛美している人々は、彼らの被害者意識こそが、徹底した自己正当化、無責任、自己愛を育む土壌となって、自らの人生を滅ぼしていることにまったく気づかない。

人生の主体性を失うということはどういうことかを見るために、少しだけ聖書を振り返ってみたい。パウロが劇的な回心を遂げた後、かつての仲間であったユダヤ教徒、律法学者やパリサイ人からことさらに憎まれ、命を狙われるようになったくだりが使徒の働きに記されている。パウロがどこへ行っても騒動が持ち上がり、彼は常に理由なき憎悪、殺意に至るまでの敵意に囲まれていたことが分かる。町の外で袋叩きにされたこともひとかたならずあった。

だが、パウロはこれに対して一度たりとも「被害」を主張せず、常に起き上がって、次の目的を目指して進み続けた。もし一度でも彼が被害を主張し、何かを取り返そうとしたなら、彼はその現場にとどまらなければならなくなり、もはや前進することはできなくなっただろうと確信する。

被害を訴えるということは、加害者に向かって損失の補てんを求めることを意味する。加害者がもしその訴えを振り返ってくれるならば、それにも意味があろう。だが、ほとんどの場合、加害者は己が非を認めない。だから、被害を主張するという形でこの人々と関わり続けることは、ずっと彼らから負の心理的影響を受け続け、その被害者意識の中に閉じ込められて、立ち上がれないという点で、有害かつ無意味なのである。
  
また、自分は一方的な被害者だという意識に凝り固まってしまったカルト被害者運動の支援者らには、自分の犯した罪を微塵も認めないために、これを他者に投影する傾向が著しい。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、すでに述べた通り、自分たちの教団の信徒が他教会を乗っ取っていたにも関わらず、教団を離れようとしていた他教会に乗っ取りの濡れ衣を着せることで、自らの悪事をカモフラージュしようとした。また、Dr.Lukeとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒は、自分こそが他者に呪いと破滅の宣告を下したにも関わらず、他人にその罪をまるごと転嫁しようとしている。

この人々はイエス時代の偽善者と同じで、他人の罪を厳しく責め立てながら、自分たちが非難している相手と全く同じか、それよりもさらに悪い悪事を行っていることに気づこうともしないし、その事実については沈黙している。嘘の上に嘘を塗り重ねることによって、自分たちは正しいことをしていると偽りを主張し続け、自分たちの罪を否定するために、自ら行った悪事を立場の弱い信徒に濡れ衣として着せて排斥することが彼らの常套手段と化している。

だが、ここには、KFCやカルト被害者救済活動といった枠組みを超えたもっと大がかりな腐敗が存在しているように思うのだ。つまり、そこには、生まれながらの人が何としても自分自身の罪を認めたくないという、生まれながらの人類そのものの自己正当化の願いが象徴的に表れているように見受けられるのだ。自分の罪や欠点や悪は見たくない、自分の美だけを見つめて、自分を正義の味方のように考えて、自分に酔っていたいので、自分自身の悪を指摘するような人々はみな異常者、愚か者、極悪人ということにして退け、自分自身の悪はすべて自分よりも弱い他人に転嫁することでなかったことに帳消しにし、自分の醜さ、愚かさ、卑劣さから目をそらし、自分は美しい誤りのない存在だと考えて心地よい思いにだけ浸っていたいという心理的なトリックが働いているように見受けられる。

多くのキリスト教指導者らは、自分は正しいことをしていると思い込むあまり、いつの間にか、自分自身を神と同一視するまでになっていった。自分自身については、美しく、良い側面しか見ようとせず、他者から指摘された自分の欠点や過ちについては、ことごとく自分ではない誰かに投影し、転嫁していき、挙句の果てには、そのような指摘を行う人間は「サタンの手下だ」ということにしてしまった。そうこうしているうちに、そのような心理的トリックを、嘘やごまかしであると認識するだけの良心の痛みさえも麻痺して、ついには自分に逆らう人間は全て悪魔ということにして、そのような耳の痛いことを忠告して来る人間には、どのような方法を用いてでも復讐し、排斥することを何とも思わないまでになった。それこそが自己愛性人格障害と呼ばれておかしくない特徴である。こうして、カルトを非難していたはずのキリスト教カルト被害者救済活動の支援者らも、悪人を非難しながら自ら悪人と全く同じ特徴の中に落ちて行ったのである。
 
サタンは常に自己の美を愛するものであり、自分の美しさ、自己の尊厳が傷つけられ、損なわれることに耐えられない。だから、サタンは自分にはいかなる罪もないことを示そうと、自己の無謬性を主張し、自分は神によって不等に罪に定められた被害者だと主張し、自分への悪評、そしり、誤解、非難を退けるために、必ず何かの形で自己を傷つけた相手に力による復讐をしようと企てる。徹底した被害者意識と、自己愛、自分の罪を暴かれないための逆恨みによる復讐、これが悪魔の特徴である。むろん、その復讐の際には、必ず、嘘や陰謀やごまかしに頼り、また不当な実力行使を行って力づくで相手を排斥する。むろん、恫喝裁判などもその方法の一つであろう。だが、最終的にはその主張の不当さは完膚なきまでに明らかになるのである。

だから、歴代のクリスチャンの霊的先人たちは、みな高慢にならないために、自分に対する悪評や誤解やそしりが、自分への重要な試金石の一つであり、同時に、自分を守る盾であることを知っていた。つまり、イエスの御名のために悪評をこうむり、自分を傷つけられながら進んでいくことを良しとできるだけの潔さを彼らは持っていたのである。

クリスチャンの道は、自分に罪がないことを立証するために、もしくは、自分に濡れ衣を着せてきた人間を力づくで排斥するために、裁判に訴え出ることにはない。自分を誤解したり、誹謗したり、中傷したりして、自己の尊厳を傷つけた誰かに対して、実力行使をもって立ち上がり、彼らを痛めつけることで復讐を果たすことにはない。その方法を選んでしまった時点で、もはや神を退けて私刑を執行しているのであり、「なぜ不義を受けないのか」と言ったパウロの忠告の外に踏み出すことになる。

私の人生にも、裁判に関わるかも知れないような場面は、何度かあったが、不思議な形で、その一線は超えることなく、ここには神の介在があったと思うほかはない。濡れ衣を着せられた人が、反対者を打ち負かすことができなければ、口惜しさも感じるかもしれないし、偏見の目で見られることに引け目も感じるかもしれない。だが、実のところ、誤解や非難は、そのものが非常に大きな恵みであって、善悪の泥沼の戦いに深入りしないように守られたことを私は神に感謝している。

今までの歩みの中で、神がどういう方であるかは時を追うごとによく分かってきた。何らかの痛手を受ける時にも己を低くする者には、神はその損失を上回るに十分な恵みを必ず与えて下さる。だから、何ら過去を振り返って悔しさや、不当さを感じることもないのだ。むしろ、今度、何かの理不尽な打撃が起きるようなことがあれば、その時には一体、どのような予想外の恵みが天に用意されているのかと心躍らせるくらいでちょうど良い。艱難には必ずそれに見合うだけの祝福や恵みが伴うのである。これは本当のことである。

悪魔はヨブに神を恨ませようと考えて大災害をもたらし、その上、友人にも彼を裏切らせたが、ヨブの信仰はそれでなくなることはなかった。彼は艱難の後で以前に持っていたものの倍の恵みを受け取ったのである。だから、見るべきものは、天の都である。ダビデが書いたように、奴隷が主人の手を見つめるように、あるいは忠犬が主人の指示を待つように、ただまっすぐに神の正しい采配、神の用意されている祝福と恵みを見つめるのである。栄光から栄光へと、主の似姿へ変えられるために。
  
さて、もう一度話を戻すと、上記のように被害者意識に凝り固まってしまったカルト被害者救済活動の支援者らの態度は、今現在、日本政府があらゆる厄災を中国の罪に着せようとしている態度にも重なる。今の日本は(政府は、という意味であるが)、自分の美に酔いしれるだけで、自分の過去の過ちや欠点や愚かさや足りなさを直視する勇気を完全に失ってしまったように見受けられる。だから、自国の現状を反省すべき場面に来てさえ、盛んに他国を嘲笑し非難することによって、自国の欠点を他国に転嫁し、それを己が罪への目くらましにすることを繰り返している。

だが、繰り返すが、自分の美に酔いしれ、自己の欠点を全く見ようとしないことこそ、悪魔的な特徴なのである。そのような心は必ず、自分の美が傷つけられることに耐えられないあまり、自分の罪を指摘するすべての人々に濡れ衣を着せて排斥するという行動を生む。

なぜKFCが誤った道を辿ったのかを考えるとき、私には、やはりそこには「神と人とが混ざり合う」と教えていたローカルチャーチの教えが影響していたのではないかと考えられてならない。生まれながらの人と神とは決して混じり合うことはない。滅びを定められた肉なるものと神の霊から出たものは決してどこまで行っても一致しない。人はどんなに信仰深く生きても、生きている限り、原罪を抱え、過ちも犯し、完全に聖化されることのない存在である。だから、神と人とが混ざり合うという教えは異端なのである。

だが、私が覚えている限り、KFCでは悔い改めという言葉を一度も聞いたことがなかった。一度だけ、KFCの礼拝中に、私はKFCの罪を悔い改めようとして祈り始めたことがあったが、ただちに制止された。そういう「湿っぽい」雰囲気はこの集会には一度たりとも伴ったことがない。だが、明るいか暗いかという以前の問題として、一度も罪の悔い改めがなかったという事実そのものが、大きな問題であろうと思う。

だから、一方では、この集会には復活の命の働きを大胆に教えるという魅力が伴っていたが、もう一方では、肉なるものが絶えず十字架につけられ、信仰者が絶えず十字架の死の立場にとどまるべきであるという教えから離れていた、そこに高慢さに至る大きな罠があったのではないかと感じられる。

しかし、どんなに他者を非難して、己が罪を人に転嫁してみたところで、人は自己の弱さや罪からは決して逃れられない。だから、どんなに責任転嫁を続け、自分を批判する他者に攻撃を加えたとしても、いずれ積み重なった自分の罪の重みに押しつぶされて倒れる時が来るのである。私はもう一度ここに書きたいが、自分が火をつけた火事を他人の罪に帰するとは古典的な手段であり、皇帝ネロがキリスト教徒を処刑した罪の中には、人類に対する侮辱というものもあったように記憶している。

つまり、キリスト教徒が人類の罪を厳しく指摘して神に対する悔い改めを主張したゆえに、ネロは彼らは傲慢であり、人の尊厳を傷つける人類の危険な敵なのだという理屈をつけて、キリスト教徒を迫害したのである。言い換えれば、自分の罪を見たがなかったからこそ、人類の罪を指摘するクリスチャン全体を排斥したのだと言えるだろう。

今日もクリスチャンは同じように「地の塩」である。それはある意味、クリスチャンが己の罪を決して直視したくない人々、自分たちは正しい、何の罪も犯していないと言って、自己陶酔にひたりたい人々にとって、耳の痛い、疎ましい、厄介な存在だということを意味する。かつて回心前にはパウロの仲間であったユダヤ教徒が、回心後には彼を絶えず迫害したように、自分を正しいと考えて決して己の罪を見ようとしないクリスチャンも、地の塩としてのクリスチャンを迫害する側に回るのである。
 
現在、カルト被害者運動を含め、至る所で、己の罪を認めまいとする人類の一大連帯が起きている。自己の罪(弱さや欠点や過ちも含む)を暴かれたくない人々は、自分たちは一方的な被害者だと主張することで、すべての責任から逃れようとしている。ネロと同じような理屈をつけては、己の欠点を指摘したり、自分に不都合な真実をつきつけるすべての人間を「敵」として陥れては排斥していく。

一見、それは人間の弱さや欠点や過ちに寛大な行為として、あたかも人を思いやった運動のように見えるかも知れないし、一時的には支持者も集まるかも知れない。だが、人類が己の罪を否定する行為は、必ず、最終的には己を神として神に反逆し、自分の負うべき全ての責任を放棄して自己本位な行動を繰り返し、破滅に落ち込んで行くことにつながるのである。

この先、この似非ヒューマニズムの運動がどんな構造を持ち、結果として人類にどんなひどい損害をもたらすかについて具体例を用いながら詳述したい。

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