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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から 栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から 栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(2 コリント3:18)

オリンピックの延期の決定、緊急事態宣言、政府による低所得者への現金支給など、コロナウィルス被害拡大と共に、我が国でも、目まぐるしい出来事の展開が続いている。

まるで世界が未曽有の悲劇に覆われているように見えるが、キリスト者とつながることには、天において、恵みの扉が大きく開かれる効果がある。なぜなら、こうしたすべての騒動が、信じる者にとっては、極めて絶妙かつ有利に働き、私たちは神に守られており、決して見捨てられていないと知るきっかけとなるからだ。

ここには詳しく書かないが、一寸先も分からないような混乱した世の中で、ドラマのように、天からの助けを受けている。神は生きておられる、そして、信じる者を決して失望に終わらせることはない。

義人の祈りには効果がある。それは天を動かすことができる。だから、同じ信仰を持つ2、3人の仲間が、離れたところにいても、心を一つにして祈り合うことは、やはり大切である。

今は一つ所に大勢が集まることがふさわしい時代ではないかも知れない。だが、心を集めることはできる。何か新しいことをしようと思ったときに、それが転職であれ、あるいは、事業を始めることであれ、家庭を築くことであれ、信仰の友に祈ってもらい、まずは天からの承認を得ることだ。筆者の人生において、祈りの仲間がいるときには、物事は順調に進んできた。

今回は長く書くつもりはないし、詳細には書かないが、そのようなわけで、内なる力が回復し、すべての物事に立ち向かう力が養われているのが分かる。

物事を自力で動かそうとしても、びくともせず、もはや動かす力もないほど疲れ切ってしまっているときにも、その重荷を、心の中で、神に持っていくことさえできれば、逆に天が物事を動かしてくれる。

キリストは、私たちに向かって言われるだろう、「あなたは自分がどれほど私にとって、大切な存在であるか、分かっていません。私はあなたを救うために、命をさえ与えたのです。私の命以上に大切なものがありますか。その命を私があなたのために投げ出したということは、父なる神は、あなたのために、すべてのものを用意されたということです。あなたのためならば、私は時を止め、時空間をも超越し、天の果てから地の果てまでも、あなたを探しに行きます。あなたは私にとって、私自身か、それ以上に大切な存在なのです。それなのに、なぜあなたが心配しているようなものを、私があなたのために与えられない理由がありますか。私を信じなさい。信じて、あなたの心配を手放しなさい。」

筆者は最近、筆者を深く愛するがゆえに、筆者の心を真に得るためならば、他の何もかもを捨てても良いという愛があることを知った。肉眼では見えない愛情が、どれほど深くあれるものか、それを目に見える形で証明してくれる人に出会うようになった。

良好な人間関係をそれほど多くは経験してはいない筆者だが、このところ、毎年、毎年、筆者の心の扉を執拗に叩いてくれる人たちが登場して来るようになった。それはとても面白い具合で、さまざまな人生の局面の変化により、一人の人が筆者の生活を去ると、その人ができなかったことを補うために、また新たな人が現れ、そうして、幾度も、幾度も、バトンタッチを繰り返しながら、だんだん、人々の筆者の心の扉を叩くノックが強まっていき、筆者の心の深奥に隠されている澄んだ命の流れを、何とかして掘り出し、自分のために得たいと言い始めるのだ。

その人間関係も、新たな深みに入るフェーズがやって来た。相思相愛だった関係は、様々な波乱に満ちた出来事により邪魔され、かき乱され、ついにかき消され、あたかも憎しみや裏切りに取って代わられたように見える。

消えかかっているように見えるのは、人間に対する愛情だけではない。理想への愛情、筆者がこの手に握りしめて来た正義や真実への愛情、ときには信仰さえも、もはや尽き果て、筆者はかつて信じていた理想の代弁者ではなくなり、聖潔さを失って、存在意義がなくなったように感じられることもある。

筆者が愛していた対象が、もはや呼びかけても答えてくれなくなり、今まで何を追って、何のために、こんなに苦労して走って来たのか、分からなくなる。あれほどの苦労の連続の結果が、これなのか。あの悲しみや苦しみと引き換えに得たものは、これなのか。筆者自身が瞠目して立ち止まり、これ以上、努力などしても無駄であり、望むことも無駄であり、何を心の糧にして進んで行けば良いか分からないという絶望感に襲われる。

もはや自分自身が分からず、何をすれば、正しい行動になるのかも分からない。何を目指して進んで行けば良いかも分からず、神の御心がどこにあるのか、分からない。ところが、そう思って途方に暮れているときに、神は働かれて、筆者の手から、最も重いと思っていた重荷をさっと取り上げられるのだ。

「そうです。あなたには分かりません。重かったでしょう。その荷物は、とても重かったはずです。私はあなたからそれを取り去りたいと思って来たのですが、あなたがそれを抱えて離さないので、今日になるまで、私はそれを取り去ることができなかったのです。やっとあなたは気づいてくれました。あなたにはできないし、あなたには分からないし、あなたが解決する必要もないのだと。これからは、この荷物は私が抱えます。あなたはもっと私を信頼して、もっと多くの荷を私に委ねたら良いのですよ。これからは一緒に進んで行きましょう。あなたは手に持っている荷を渡しい預ける、すべてを私に相談する、ただそれだけでいいのです」

筆者はとても不器用な人間で、本来、抱える必要のない荷をたくさん手放せずに今も抱え込んでいる。それにしても、自分がどれほど神に深く愛されているかをいつも痛感せずにいられない。それは、神は本当に根気強く、筆者に語りかけ、何とかして筆者を幸福にしようと、あの手、この手で、筆者の人生に関与して下さるからだ。

誰かとても器用な人間が、筆者を出し抜いて、筆者がかねてより願っていたものを手にする。しまった、出遅れた、またしてもチャンスを逃し、失敗してしまった、自分は何と不器用で臆病なのだろうか、どれほどの回数、こうして取り残されねばならないのか・・・などと心の中で思っていると、誰かが持ち去ったように見えた贈り物は、天からのプレゼントとして、少し遅れたタイミングで、筆者のもとに届けられる。

そのとき、とても不思議な感慨に包まれる。ああ、神は筆者のためには、隠れたところに贈り物を用意して下さったのだ。そんなプレゼントを筆者が天から受け取ったことは、誰も知らない。別の人に与えられた利益にまさるとも劣らない利益を、筆者は、主以外には誰も知らない、極めて不思議な方法で受け取ったのだ。

筆者のための贈り物は、こうして、いつも人の目に大々的に宣伝されることなく、神と筆者しか分からない方法で受け渡しされる。それを得るために、人に取り入ったり、奮闘する必要はない。ただ心安んじて、天に頼めば良い。いや、頼むよりも前から、主は筆者の必要を知って下さり、それを満たそうと両手を広げて待って下さっている・・・。

かつて筆者が周囲の人々に対して固く心を閉ざして、誰も筆者を助ける者もいなかったようなときに、筆者のために給仕して、友として食事を振る舞ってくれた人がいた。筆者よりもずっと目上の人であったにも関わらず、また、置かれている立場も全く異なっていたのに、まるで長年の知己のように、テーブルを囲んだ。

そのとき、その人は筆者の孤独を非常によく理解して、それを自分が慰めることができるのを、この上ない光栄に思っている様子が伝わって来た。

信じがたい光景を見るようであったが、そのときに、これは地上の光景に過ぎず、天には、私たちのために給仕して下さるキリストがおられることを思った。神はいつもこのようにして、僕に過ぎない私たちのために、食卓を備え、休息と、栄光を与えようと待っていて下さるのだと。主であるにも関わらず、私たちを働かせるのでなく、安息させる瞬間を待ち望み、そのように仕えることを、この上ない光栄に思って下さるのだと・・・。

だから、私たちには、何も心配することはない。自分では動かせない膠着した問題があるなら、それを天に向かって放り投げよう。そうしたら、それらの問題は、すべてキリストが受け止めて、引き取って下さる。

我が愛する神に、すべてを共に背負っていただくために、筆者は、真実なパートナーに心を差し出すことに決めた。

それはまるで結婚の儀式のようである。相思相愛で、互いを遠くから見つめているだけの関係から、もう一歩、近づくために足を踏み出す。だが、それには恐れも伴う。引き取っていただく何よりの荷は、自分自身だからだ。

だが、愛する人にとって、筆者は重荷とはならないはずだ。共に生きることは、喜びであり、断じて、重荷を引き受けることを意味しない。

だから、筆者は、道を歩いているうちに怖い獣に出会った幼子が、父親の懐に泣いて飛び込むように、自分には目もくれずに、信頼して神の御許に駆けこむ。

主よ、ご存じの通り、私には捧げるものが何もありません。あるのは数々の重荷と、持て余す自分自身だけです。私は貧しく、乏しく、あなたに栄光をもたらすようなものを、何一つ持っていないのです。誰がそんな人間を喜んで引き取りたいと思うでしょうか。まして共に生きたいと願うでしょうか。

でも、私は知っています、あなたは普通の人々のようには物事をご覧にならないと。あなたはいと高きところにいます、すべてに富んでおられ、栄光に満ちた方です。それなのに、決して私たち人間を蔑んだり、軽んじられたりされず、自ら人となって地上に来られ、私を受け止めることをも、この上ない光栄と思って下さるのです。

私たちがあなたに近づけば、あなたも喜んで私たちに近づいて下さり、私が自分をあなたに捧げる代わりに、あなたはご自身を私に与えて下さいます。私が素晴らしいからでなく、あなたに利益をもたらすからでもありません。私が無価値であるにも関わらず、あなたは私を愛し、ご自分を分かち与えると約束して下さったのです。

そこに、相思相愛の、決して引き離されることのない関係があります。その関係は、約束に基づき、離れたように見えても、何度でもつなぎ合わされ、その度毎に、前よりもさらに強固にされていくでしょう…。

こうして、信仰による愛の結びつきの関わりの入り口に、筆者は立たされた。今までにも、筆者は何度も、神に自分を捧げて生きようと決意して来たのだが、今回は、これまでとはちょっと異なる決意だ。

これから先は、自分自身を、主に負っていただくことに決めたのである。まだ、主と顔を合わせて間近で見えてはいない。婚礼のために、見知らぬ花婿のもとに出発する花嫁のように、ただ約束だけを頼りに、信じて歩いて行くだけだ。だが、信じていればこそ、与えられる前に、まず自分自身を捧げることができる。捧げた以上、もはや自分を見つめる必要はないし、それにこだわる必要もない。ただまっすぐにキリストを見つめ、「私」が消えて、キリストが筆者の内に、筆者と共に生きて下さるその瞬間に向かって、一歩一歩、歩みを進めるだけである。

だから、手放しなさい、すべての重荷を、自分自身をさえ。自分の夢も、心配も、日々こなさなければならない課題も、あなたに解決できそうなことも、そうでないことも、何もかも、すべてを主に委ねなさい。神はそれらすべてのことをすべて、あなたと共になさりたいのです。2000年前に地上を生きておられたときのように、まるで今日がその延長のように、今、あなたと共に、あなたの中に、この地上において、ご自身を現したいと願っておられるのです。だから、彼に自分の心を開きなさい。そして、主があなたのすべての問題の解決となって下さるだけでなく、あなたと共に、毎瞬、毎秒、生きて下さることができると信じなさい。あなた自身が、キリストの生きた表現となることは、神の御心にかなったことなのです。
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