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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

環境を創造する力―信仰によって主と同労する―人知を超えたキリストの復活の命―

さて、脱線ついでにもう一つ違った趣旨の記事を書きたい。

数年ブログを書いていなかった期間に、信仰生活には驚くべき前進があった。それは信仰によって「環境を創造する」方法を具体的に知ったことによる。

それは「天の無尽蔵の富を信仰によって現金化する」ことと同義である。

これは、キリスト者が最も知らなければならないことの一つであると私は考えている。言い換えれば、それは「キリストとともに統治する」ために間違いなく必要なことである。

キリストの死を打ち破った復活の命は、神の命であり、無から有を生み出すことのできる命である。もともと神は無から有を作り出すことのできる方なのだが、さらにキリストが死を打ち破ったことにより、その命の力は決定的なものとなった。

死からは何も生まれはしない。誰もがそのことを知っている。死はすべてのものが無化され、途絶えた状態である。ただ復活だけが、死を打ち破り、すべてを新しく再生することができる。無から有を呼び出し、死んだものを復活させる。どんな錬金術も決して成し遂げ得ないことを、ただ神だけは成し遂げる力を持っているのである。

その復活のキリストをうちにいただいて生きているということが、どれほど絶大な意味を持つものであるか、信仰者は少しずつでも知る必要がある。
 
主イエスは、「もしあなたが私にとどまっており、私があなたにとどまっているならば、なんでもほしいものを求めなさい、そうすればかなえられる」と約束して下さった。この約束の意味は絶大である。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:7-8)

神は打出の小槌ではないのに、どうしてそんなことができるのですかと問われるかもしれない。それは繁栄の福音と何が違うのですかと。

自己のためだけに利己的な思いで求めるのではなく、正しい目的にかなうならば、何でも神に求めれば良いと私は思う。どんな大それた願いも、神にとって大それたものではない。神は信じる者に「私に求めなさい」と言われる。与えることが神の喜びである。そして、与えても、与えつくすということが決してないのも神の特長である。

神は天に無尽蔵の富を有しておられ、信仰者にも神の豊かさを体現させ、喜びのうちを生きさせたいと願っておられる。そのことも、神の目的の一つである。その贈り物によって、必ず神は私たちの思いの限界を打ち破って下さる。だから、ためらいなく神に最善を求めれば良いのである。

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえにまでありますように。」(エペソ3:20-21)

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

信仰とは、へブル書に書いてある通りなのだが、言い換えるならば、望むものを主との同労によって、信仰者自らが創造していくことを意味するのではないかと私は考えている。信仰とは常に目に見えない世界での創造行為のようなものなのである。このような主との同労によって環境を創造する秘訣が分かってくると、悪に対してこの世的な方法で立ち向かうことを次第にしなくなっていく。今ある何かを変えようと力によって立ち向かっていくのではなく、内側から新しいものを創造することの方がはるかにそれに勝って貴重な、そして、必要な体験であると分かるからだ。

神は常に新しいことをなして下さり、今まで知らなかった領域に信仰者を導いてくださる。

できるだけスムーズにこの法則を知るためには、人前で祈らず、ただ神と自分との関係だけで、祈り、求めることを勧める。

なぜならば、集団で祈ると、誰の祈りが聞き届けられてそういう結果に至ったのか、まるで分らないからである。聖書は祈るときには戸を閉じて隠れたところで隠れたところにおられる神に向かって一人で祈りなさいと勧めている。だから、その通りにして、自分の必要を人に知らせず、完全に神と自分との間だけで物事を進めていくときに、神は本当に信じる者に応えて下さり、いや、応えて下さるどころの話ではなく、信仰者と絶えず密接に同労してすべてのことを共に成し遂げて下さるということが分かってくるのである。

たとえば、仕事さえも主と共に創造することが可能なのである。

関東へ来て初めの頃、私は様々な業界のあまりの不安定さに毎回、驚き呆れていた。一つの職場を去ったとき、次の仕事は見つかるのだろうかという不安にもさいなまれた。そんなとき、兄弟姉妹が一生懸命、祈ってくれたりすると、とても嬉しく、それで何かが好転すると、彼らの祈りが聞き届けられたのだろうと考えていた。

ところが、進んでいくうちに分かって来たのは、神は兄弟姉妹の祈りに応えて下さったというよりも、すべてを私のために、私の願いにしたがってなして下さったのだということであった。決して祈る人数が増えたから聞き届けられる可能性も増えるなどという次元の話ではない。主は求めている信仰者その人自身の心をご覧になられるのである。

こうして神は、何度も、何度も、「すべてはあなたのためなのですよ」と、繰り返し、繰り返し、私に教えて下さった。「あの人、この人がこうしたからではなく、あの正しい人があなたのために祈ってくれたからでもありません。これはすべて私からあなたのためなのです。これがあなたの喜びのために私がしてあげたいと願うことなのです。だから、もっと私に願いなさい」と。

最初のうち、私は自分がそんな大それた恵みに値することが信じられず、とにかく様々なことについて必死になって祈ったものである。必死すぎるあまり、結果が出ても、事実を信じられず、受け取れないなどということさえあった。とにかく願いがかなうかどうか、恐る恐るであった。だから、祈っても祈りの結果を受け取れなかったことを悔やんで祈るというような有様であった。

だが、そんなことがあっても、神は「すべてはあなたのためなのですよ」というスタンスを変えられることがなかった。

だから、そうこうしているうちに、ある時を境に分かって来たのである。祈りは呼吸のように自然なものであり、毎瞬、毎瞬、信仰者は主と同労して何かを望むことによって、絶えず何かを創造しているのだと。必死になって祈ったから聞き届けられるというものでもなく、日々、聖書朗読していれば、祈りが天に届きやすくなるという話でもない。より多くの人に困窮を知らせ、連日、祈祷会に参加すれば祈りが聞き届けられるということでもない。

むしろ、キリストがうちに住まわれるならば(そしてその人がキリストのうちにとどまるならば)、人が何かを望んだ時点で、すでにその願いは神に知られ、かなえられていると言っても過言ではないのだ。だが、それは誰にも知られることのない、主とその人との心の中の秘められたやり取りである。願いをあえて口に出すまでもなく、神はすべてを知っておられる、それほどまでに主と信仰者との距離は密接なものなのだと。

だが、タイムラグは依然として存在している。願ってから、それが実現するまでには、人の感覚からすると遅いとも思えるような時間が経過するのが普通である。言い換えれば、信じて待ち望むという過程も必要なのである。

この「信仰による天の富の現金化」の法則には、些細なことをきっかけに気づいた。初めて無から有が生み出されるこの命の力を知ったのは、ブログに書いたように、関東へ来るためのすべての必要が不思議な方法で備えられた時であった。だが、そのあと、そうした力を活用する方法がわからないまま、私は人間的な方法だけに頼って生きていた。
 
ある時、私は観葉植物を探していた。ある品種のとても高価な小さな鉢を買ったが、冬を越すこともできずに、枯れてしまった。しばらくは残念がっていたが、枯れた木をテーブルに置いておくべきでもないので、もっと威勢の良い、元気な、もう少し大きなもの、しかも高価でないものはないだろうかと考えていた。

そうこうしているうちに、行きつけの店をひょいと覗いてみると、まさに考えたようなものが手頃な値段で置いてあった。まったくの偶然にしか思われなかったが、あまりにも想像とぴったりだったのでいぶかしみながらも、神が与えて下さったのだと喜んでいた。ところが、同様のまるで偶然のようなことが絶えず繰り返されるのである。別に、そのために跪いて断食祈祷したわけでもなく、必要をノートに書きだしたわけでもない。誰にも告げず、ただある瞬間、私の心に思い浮かんだだけのもの、しかも、私自身さえも忘れていたりするようなもの、特に祈った記憶すらもないようなものが、ある時に偶然のように目の前に現れるのだ。私がそれを心に思い描いたことを知っているのは、私と神の他にない。
 
どれほど同じようなことがあったか知れない。何かを手に入れそこなったとくよくよ悩んでいると、もっと良いものが目の前に現れるという具合なのである。だから、私の側の不器用さと時間的な制約も、喜んで信仰者の願いを叶えてくださろうとする神にとって何の障害にもならないことが分かった。

不思議なことに、実に仕事についてもそれと同じことが起きるのである。当時はよく兄弟姉妹に色々なことを相談していたので、私が一つの職場を去るとき、時には兄弟姉妹の中からも、非難する声が上がった。とにかく他に仕事はなさそうなご時世だから、嫌でも耐え抜いて、どんな理不尽をも黙って我慢し続けることこそ使命だというのである。だが、それにはどうしても納得できなかった。非難する人々は、次は決してないだろうと脅かすのであった。しかも、私が求めていた仕事はかなり限られた分野でいくつもの条件がついていた。一般人でさえ、「そんなものは見つからないだろう」と言うのであった。

だが、私は主に頼ることを知っていたので、「いや、必ず、ありますよ」と軽く受け流していた。そして、不思議なことに、本当にその通りになっていくのである。だから、「せっかく祈ってくれた兄弟姉妹を失望させてしまった」と落ち込むこともないわけではなかったにせよ、神は決してそのように人の目を基準としてご覧になっておられず、「重要なのは、あなたのために祈ってくれた兄弟姉妹の思惑ではありません。重要なのは、あなた自身の願いであり、幸せなのですよ。」と言われるであろうことがよく分かった。

主は私に絶えず問いかけられる、「重要なのは、あの人が何を考えているか、この人がどう言っているかではありません。あなた自身は何がしたいのですか。何を望んでいるのですか。どうなりたいのですか。私はあなたのためにすべてのことを喜んで成し遂げたいのです」と。

信仰による主との同労は、望む力が弱くなっているときには起きない。そんなときには、神は休む暇を与えて下さる。私に何も望む気力がなくなっている時にはダイナミックなことは起きないし、無理にアクションする必要もない。あるいは恐れて望むことをやめている時にも同様である。だが、再び、何かをやりたいと願い、立ち上がり始めると、それに連動して色々なことが起きてくるのだ。

そのように活発で生き生きした信仰による命の活動が繰り広げられている時には、すべてのことに意味があり、電話一本、偶然のタイミングでかかって来ることがない。私とともにいる兄弟姉妹でさえ、すべてを主がコントロールしておられることを知らずにいられないような展開になるのである。

こうしたことの繰り返しの果てに、これらの現象を創造し、環境をコントロールしているのは、主と私なのだということにようやく気づかざるを得なくなった。むろん、私には分からないことが圧倒的に多い中でそれは起きるのである。私の知らない店に何が置いてあるかや、その商品がいつどこから運ばれて来るのかなど、知るはずもない。私にはわからない様々なことがこれほど多くありながら、そのすべての現象を支配しておられるのは、私と共に生きて下さる神なのである。私の限界がどれほど大きくとも、いずれにせよ、全能なる神と有限なる私との絶え間ない同労によって、すべての事象が調和のとれた形でコントロールされうるのだということ、それを通して、神は確かに私の生活を満たして下さり、私を喜ばせて下さるのだということが分かってきたのである。

問題は、神の側には限界がないが、人間の側には常に限界があって、心の平安が保てないことにある。だが、「何事にも思いわずらわないで…」という御言葉は絶対的なものである。そして、重荷を主が負ってくださることも、聖書に書いてある。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)
 
だから、一切、重荷を負わないで良いのである。むろん、苦難は次々とやって来る。だが、それはすべて外側の嵐である。今、自分の外側で起きている現象を見つめるのではなく、信仰の小舟の中で、来るべき平安をまっすぐ見つめることが、信仰によって歩む秘訣である。

・・・

同時に、信仰者はどんなことを願っても良いのだが、すべてのことが益となるとは限らないことも聖書には書かれている。だから、手に入れられる自由をあえて行使せず、あえて難しい道を行くことも可能である。これは禁欲主義とは全く別の事柄である。

ある時期まで、私は海外に行こうとして準備を進めていたことはすでに述べた。特に、ロシアの友人たちが私に向かって言った、「あなたはいつまでもそんな希望のない環境にとどまっていてはいけません。こちらにいらっしゃい。そのほうがはるかにあなたのためですよ」と。彼らが親切にさまざまな手続きを助けてくれ、あとは書類を提出するのみの段階になっていた。

この国にとどまることのすべてが絶望的に見えた時期であった。

多分、心から願っていたならば、主はその渡航を実現して下さっただろうと今でも疑わない。それはそれで楽しい月日になったのかも知れない。だが、それが真の意味で本当に益になったかどうかは別である。

そして、私はその渡航を自ら諦めたのだった。友人たちが自国を誉めれば誉めるほど、違和感が心に起きてきたためでもあった。確かに、異文化を学ぶことは興味深いことである。だが、私の故国はどこなのか。

こんな現状のまま、日本は絶望だと考えて海外に出ていくことが私にとっての結論になりうるだろうか。・・・あえて難しい状況だからこそ、ここに残ることを選びたい。それによって何が打開されるのか、客観的には何の保証もないように見えるだろう。私がこの国にとどまったからとて、感謝する人間がいるわけでもない。だが、神は私とともにいて下さり、私の目的をわかって下さる。そして、私は信仰によってこの状況を治めることを知らなければならない・・・。信仰によって天をこの地に引き下ろす秘訣を・・・。

そんなことを信仰者と話し合っていたら、「そうなんだよ。クリスチャンはね、世界の中心で、自分からわざわざ出かけて行かなくても、世界を自分のもとに集めることができるんだよ。」とある兄弟は頷いていた。

「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。・・・」(イザヤ61:4-6)
 
まるでそれを裏付けるかのように、一つのことを諦めても、今度は、外国から様々な人々が不思議な方法で周りに集められてくるのを目にするという具合なのだった。ある日出勤してみると、突然、何の前触れもなく、サンクトペテルブルクからやってきた人々が贈り物を携えて会社に駆けつけて来て、会合に呼び出されるというような具合である。あるいは、スーパー銭湯に行けば、ハバロフスクから来た人と談笑になるというような具合である。これらすべては単なる偶然のようにしか見えない事柄であるが、私にはそれが主がなして下さっていることだと分かるのである。
 
まだ学生だった頃、私が好きな言葉の一つにこういうものがあった。「カントは自分のケーニヒスベルクに世界を集めた」

哲学者カントは海外旅行に出たことが一度もなかったらしい。それどころか、よく覚えてはいないが、ケーニヒスベルクを出たことさえなかったのかも知れない。だが、その哲学によって彼は全世界を自分のもとに集めたのだと。

その言葉は、いたずらに見識を広めなくとも、真に自分自身の生き様を構築するなら、世界をそこに集めるだけのインパクトを持つという意味で、私の関心を引いた。

それから後、「キリストにあって、主とともにすべてを統治する」という意味で私はこの言葉をとらえなおしている。もはや、信仰者がどこにいるかが重要なのではない。どの国にいるのか、どんな地域にいるのか、それは重要ではない。時空間の隔たりは神にとってほとんど意味をなさないのだ。ある信仰者は言った、「何をしているかも重要じゃありません。究極、ただそこにいるだけで、何もしなくとも、主がともに働かれる、それがキリスト者なんですよ」

ただそこにいるだけで、神がその人の願いを通して、その人と同労して働かれる。ここに書くことはないが、私には至りつきたい場所が見えており、そこに達するまで、一歩、一歩、主とともに歩いて行くだろう。生きている限り、望みを諦めることはないし、神が私と共に働いて成し遂げて下さることを知っている。この地上で、まだ成し遂げなければならないことが残っている。だが、最終的には、それは天の都へと続く道である。そして、その道は安らかである。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては、艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
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