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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

人間の言い伝えにすぎない哲学、つまりむなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形を取って宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイの信徒への手紙2:6-15)
 
 * * *

コロナウィルスを機に、筆者は「密室」と化した組織から脱出した。命の危険があっても、労働を最優先せよと命じ、遅刻欠勤早退はおろか、時差出勤さえも認めず、懲罰の対象にしようとずるそのあまりに行き過ぎた理念に、全く着いていけなくなったからである。

さらに、そうした組織の理屈に反した社員を、他の社員たちが見つけ出しては、魔女狩りのごとく密告や批判に明け暮れるという集団監視状態に恐れをなした。

まるで学校時代の部活のようである。部活をさぼって帰宅しようとすると、メンバーたちが追いかけて来ては、帰宅など絶対に許さないと詰め寄る。

上部に逆らった社員は、他の社員との交流を断たれ、密室のような隔離状態に追いやられ、むなしい労働に従事せねばならなくなった。

こうして、次々と密告に基づいて懲罰が行われ、これでは、まるで集団処刑ではないか、と筆者は感じ、そうした光景を見るうちに、このような場所に、生きる希望が見いだせるはずもないし、このような組織は、いずれ疑心暗鬼に基づき、崩壊するため、早期脱出を図らねばならないと考えたのである。
 
「密室」は、筆者を追いかけ、何とかして罪に定めようと試みたが、できなかった。

またしても、聖書の御言葉がそれに打ち勝ったのを見た瞬間であった。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」
 
こうして、「密室」が筆者に宣告するはずであった罪の債務証書は、ことごとく主の御手によって破り捨てられ、十字架に釘付けにされて、無効とされた。

それによって、キリストの贖いは、いかなる罪定めよりも効力を持っていることが、筆者の前の前で改めて証明されたのである。

それゆえ、筆者は晴れて「密室」のすべての掟によって裁かれることなく、そこから解かれ、公然と許しを得て、むしろ、ねぎらいと感謝と配慮の言葉と共に、無事に収容所を「釈放」されて、娑婆に戻って来た。

だが、それを機に、筆者は「労働は懲罰である」という従来の考えをさらに強めている。

日本では、新卒採用制度から始まり、転職回数が多いと就職できないとか、職歴に記載される勤務期間はできるだけ長い方が良いとかいった「伝説」が未だに健在である。

だが、筆者は、実際に生きて来て、それが「伝説」に過ぎないことを痛感して来ただけでなく、今や、職歴に記載されたリストを見ると、これは「前科」みたいなものだと感じる。

こんなにも長い間、労働という懲罰を受け続け、懺悔と人格改造を要求されて来たのか。こんなにも、全国各地の収容所を転々とさせられては、囚人労働に従事させられて生きて来たのか、と、ため息が出る思いである。

もうこれ以上、こんなむなしい道を歩いていてはならない。最後の組織が、筆者にそのことをよく教えてくれた。正直なところ、自分の命を守ることと、コロナウィルスによる死の危険を一切かえりみずに組織のために労働することと、どちらを取るかという二者択一を迫られないことには、筆者はずっとそのような生き方に疑問も持たず、むしろ、喜んでその道を歩き続けたかも知れない。

筆者はコロナウィルスを恐れてこう言うわけではないし、そこに残り続ければ、必ず自分が死ぬなどという予感があったと言うわけでもない。

筆者は、どんな環境でも、神は筆者の命を守って下さったと思うが、それでも、人命軽視の環境で働き続けるのは有害であると考えている。それに加えて、今は別なことをせねばならないと痛感している。だから、「密室」は極めて良い教訓と、そのためのチャンスを与えてくれた。
  
さて、当ブログでは、東京オリンピックは、誤った理念に基づく祭典であるから、必ず、開催されないで終わるという予想をかねてより述べて来たが、それは成就しつつある。
 
それに加えて、今回、改めて筆者は、日本における労働は、人間が己が欲望の追求の果てに、ありもしないユートピア(共産主義)に至りつけるという幻想(=市場原理主義、日本型社会主義)に基づいているため、そういう誤った目的は、およそ達成できないばかりか、人を破滅にしか追いやらないという自論を繰り返しておきたい。

* * *
 
 以下の記事が面白かった。

コロナ危機が日本企業の非合理な“ムラ社会”を確実に破壊する訳 .
(ITmedia ビジネスオンライン  加谷珪一 2020年05月13日 08時00分)

この記事は、のっけから、筆者の考えと同じことを述べてくれている。
 

今回のコロナ危機では、社会のあちこちで従来型価値観からの転換が起こっている。最たるものは会社と個人の関係だろう。日本の「カイシャ」というのは、表面的には合理性に基づいて作られた組織に見えるが、その内実は前近代的なムラ社会だった


  この記事は、日本の「カイシャ」組織なるものが、実質的に、単なる前近代的な「ムラ社会」に過ぎないこと、そして、その「ムラ社会」の人間関係とは、共依存関係に他ならないことを喝破している。

さて、この「ムラ社会」の正体とは何かということを考察する上で、面白いのが次の記事である。

人材流出企業あるある:会社を崩壊に追い込む“コミュ障な組織”の正体
(ITmedia ビジネスオンライン 安達裕哉 2019年06月13日 10時00分 公開
 
この記事では、「ムラ社会」という言葉こそ使わないが、実際に「ムラ社会状態」に陥った会社組織を、「コミュ障(コミュニケーション障害)な組織」と呼ぶ。

そして、「コミュ障な組織」の共通点は、「信頼」ではなく「安心(=不安心理)」にすがり、人間関係を結ぼうとする点だと言う。

記事では、社会心理学者の山岸俊男氏の『安心社会から信頼社会へ』という著書が紹介され、山岸氏の考えに沿って、「コミュ障」とは、「人を信頼するのが下手な人」を指すと定義される。
 

 詳しく見ていこう。

 山岸氏は、「信頼」を次のように定義している。

 「信頼」は、相手が裏切るかどうか分からない状況の中で、相手の人間性のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。


 そして面白いことに、山岸氏は、信頼と対になる概念として「安心」を挙げている。安心の定義は次のようなものだ。

 「安心」は、相手が裏切るかどうか分からない状況の中で、相手の損得勘定のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。

 信頼は不確実性を大きく残したまま、人に期待を持たなければならない。

 だが、安心は、システムやルール、約束事などによって、「相手が裏切る」という不確実性を大きく減らしている。

 
例えば、「裏切ったら処刑する」という“鉄のおきて”があるマフィアにおいて、ボスが子分に持つのは信頼ではなく、安心である。


 三蔵法師が孫悟空に対して「頭を締め付ける輪があるから、裏切らないだろうと考えること」も、信頼ではなく、安心である。


 山岸氏の洞察の素晴らしい点は、この「信頼をベースにした人間関係」と、「安心をベースにした人間関係」を区別しているところにある。


 つまり、安心は「直接人を信じなくとも仕組みによって機能」し、逆に信頼とは文字通り「人間を信じている」からこそ、成り立つということだ。



簡単に言えば、人間関係には、「安心(=不安心理)」をベースにしたものと、「信頼」をベースにしたものと、二種類あるということだ。会社組織なども、そのどちらに立脚しているかによって、性質が異なる。

「安心(不安心理)」をベースにする人間関係とは、要するに、「ムラ社会」のことである。

「ムラ社会」は、もともと閉鎖的な人間関係であって、地理的にも、逃げ出すことが困難な閉鎖された空間に形成されることが多いが、さらに、そこには、裏切り者には、村八分にして制裁を加えるなど、必ず何かの罰がもうけられているため、住人には逃げ出す自由がない。

罰がもうけられ、離脱の自由が失われているからこそ、ムラ社会のメンバーは、そのコミュニティに安定が保たれていると錯覚して「安心」する。言ってみれば、その「安心」とは、必ず、村八分などの何らかの「懲罰(制裁)」とセットで成り立っているということである。

他方、「信頼」をベースにする人間関係は、オープンであって、人に離脱する自由を与え、裏切った場合の罰を定めていない。そこで、これは常に裏切られることも覚悟した上で成り立っている関係性であると言えよう。
 
そのような関係を作るためには、まず自分が、相手は必ず期待に応えてくれるだろうと信じ、それでも、裏切られる可能性があることも考慮した上で、裏切って去る自由を、相手に与えなくてはならない。そうして、「不確実性」を大きく残したままでも、人を信じる気持ちを持たなければ、オープンな人間関係は築けないのだ。

だが、記事では、罰則つきの「ムラ社会」の「安心」にすがり続けている人間は、そのように他人に自由を与えつつ、信頼する能力が、どんどん低下して行き、ついには、「コミュ障」になるという。

「安心」にすがる組織というのは、逆に言えば、罰則がなければ、安心できない組織である。従って、その組織は、裏切られることへの「不安」をベースに成り立ち、何とかそれを阻止することを最優先課題としていると言って良いかも知れない。
  
そういう組織は、不安心理をなだめるために各種の罰則をもうけ、離脱者、違反者を絶えず吊し上げていなければ、安心できない。それは人の自由を縛り、懲罰をもうけなくては、人間関係を維持できなくなるという恐怖に絶えず駆り立てられているため、減点主義の、閉鎖的な関係であって、どこまで行っても、信頼を生むことはない。
 
  記事は言う。

 例えば、山奥の伝統的な共同体に住んでいる限り、その中では人は周りの人を警戒する必要がない。お互いに集団の内部を相互に監視し、裏切り者は共同体の外に放逐すればよいというシステムができているので、「信頼」を育む必要がないからだ。

 しかし、安心に依存し続けていると、「人を信頼すること」が下手になり、外の世界に出ていく機会は極めて限られたものになってしまう。

  実際、山岸氏の実験では、特定の相手との安心に基づく関係を形成すると、関係外部の人間に対する信頼感はむしろ低下することが分かっており、ますます閉鎖的になる、ということが示されている。

 実際、山岸氏が、この安心をベースにした人間関係を重視する人々が持つ傾向を、実験によって明らかにしたところ、次のような人々であることが分かった。

•仲間以外は信用しない(「人を見たら泥棒と思え」に賛同する)
•仲間内で、誰が誰を好いている、嫌っている、という情報に敏感
•周りの人が自分をどう思っているのか気になる
•他人との付き合いは、自分も傷つきたくないし、他人も傷つけたくない
•孤独感が強い
•感情を顔に出さない

 山岸氏はこれを「社会的びくびく感」と名付けているが、これは、一般的なコミュ障のイメージに驚くほど近いことがよく分かる。

•まさに安心に依存しすぎている人たちこそ、コミュ障の正体だ。

 彼らは「人間同士の信頼関係」よりも、「安心を作り出す仕組み」の方に依存しているため、「この人はどの程度、信頼できるのか」という感覚が鈍ってしまっており、それゆえに、コミュ障なのだ。

 

この記事を読んだとき、筆者は、自分の属していた組織に感じていた違和感の正体が、どこにあるのか、はっきりと分かった気がした。

その組織では、心の内では、互いを全く信頼できない者同士が、出社して、互いの顔を目で見て、声を聞き、肌で温もりを確かめあうことで、表面的な安心感を得ていた。
  
その組織の人間関係は、信頼に基づかず、安心(=不安)に基づいていたからこそ、互いの姿を目で見て確認し、その声を聞いて、仲間だと確認することが、必要不可欠であるとみなされ、それがなくなれば、信頼を裏切られるという不安に絶えず怯えていたのである。

それゆえ、コロナを機に、出勤して物理的に仲間であることを確かめられない状態になると、疑心暗鬼が爆発的なまでに高まり、出勤しないなど許されないと、過度な懲罰に走ったり、仲間同士で監視し合い、否定し合い、見た目で仲間と確認し合えない者をよそ者として排除しながら、自壊の方向へ向かって行ったとしか思えないのである。

コロナウィルスを機に、テレワークを拒む企業の心理分析を行う記事なども盛んに出されるようになった。テレワークの導入が可能なのに、それを拒む企業は、何が何でも出社して、皆が同じ場所に集まり、互いがメンバーであることを、感覚的に確認しなければ、相手を信じられないし、安心できないという、不安心理に基づく運営がなされる組織だと言えよう。

さらに、テレワークを導入してさえ、社員のパソコンを上司が監視しなければ、仕事をさぼっているのではないかなどと不安が生じて気が済まないという例もたくさんあるようだ。そのように、相手が仲間であって、同じ規律に従っていることを、絶えず感覚的に(物的証拠によって)確かめない限り、安心できないという関係は、信頼の上に成り立っていないと言える。

もともと、そのような組織では、メンバーが心の中で、互いを尊敬しておらず、好いてもおらず、まして信頼もしてい者同士が、出社して上っ面だけの笑顔で、口先だけの挨拶や、世間話や、お世辞を述べ合い、「自分たちはまだ仲間なんだ」という、かりそめの連帯感を得て、団結が保たれているかのような錯覚を持ち、自分はまだ裏切られていないと、安心を得ていただけである。

そのような感覚によって得られる錯覚に等しい安心しかなかったからこそ、物理的なつながりが断たれると、早速、不安(疑心暗鬼)に陥る。

信頼とは、離れていても、相手は自分の期待を裏切らないと信じられる関係である。自分の目で見、その声を聞いて、約束を守っているか、命令に従うかどうか、期待を裏切っていないかなどを、絶えず証拠によって確かめなくても、相手は期待を裏切っていないと信じられる状態を言う。
 
従って、リモートワークを受け入れられるか、受け入れても、社員のPCを監視しなければ気が済まないなどの問題がないかどうかと、社員を信頼できるかどうかといった問題は、密接につながっている。
 
筆者の属していた組織では、うわべだけの連帯はあったが、その根底に信頼がなかった。そこで、出社して社員同士が目で見てつながりを確かめ合っているうちから、陰では悪口、密告、讒言、足の引っ張り合いが絶えず、醜い光景が展開されていた。

それにも関わらず、うわべだけそうした醜いすべての争い事を覆い隠して、口先で巧みに「仲間」を演出した者が、あたかも「コミュニケーション上手」であって、「協調性がある」人間であるかのようにみなされて来たのだ。

だが、うわべだけの浅はかな人間関係だけでは、何事も上手くいかないので、様々な問題が噴出する。ところが、そのような関係性の虚偽を見抜いて、そこから離脱しようとする者が出て来ると、早速、集団で村八分にし、制裁を加え、次々と罰則が発動される。

その有様を見て、筆者は、そのような関係性は異常であって、そんな組織はやがて疑心暗鬼に陥り、崩壊するだけだと悟ったのである。
 
   

こう考えていくと、コミュ障は個人だけに適用できる概念ではない。実は、「“コミュ障な”組織」も存在する。

 例えば、「コンサルタント」や「外部リソース」を使うことがやたら下手な会社。そういった会社は実は“コミュ障な”会社であること多い。

ある会社では、経営陣が外部リソースを使う際に、まず言っていたのが、「なめられるな」「ノウハウをできるだけ隠せ」「できるだけ“たたけ”」だった。

 要するに、「外部の会社は一切信用できない、使うにしても上下関係をはっきりさせておきたい」という考え方だ。

 また、ミスが起きたときに、それを外部の業者に押し付けようとする傾向もあった。だから結局、どこかの時点で必ず、コンサルタントや外部の協力者とのコミュニケーションが、うまくいかなくなる。

 しかも、そういう会社は決まって人材に関しても排他的で、当然副業も認めず、「辞めた人のことは口にしてはならない」という“暗黙のおきて”があったり、会社を辞めた人をあしざまに言ったりすることも多い。

 さらに、“好き嫌い”で人事が行われ、会社の「文化」「暗黙のルール」を社員に強制することもしばしば見受けられる。

 要は「ムラ社会」のような会社、つまりコミュ障な組織なのだ。

 


まさに、筆者が体験した通りのことが以上に書かれている。社内でも社外でもヒエラルキーを作り、誰が誰より格上、格下であると序列をつけない限り、安心できず、本来ならば、対等であるはずの者にさえ、序列をつけようとしたり、好き嫌いで、情実人事が行われ、実力もない者が出世して行ったり、合理的でないこまごまとした規則を山のように作り、ルールに従っているかどうかを絶えず試したり、従わない者は罰し、排除したりして、そして、失敗の責任は、自分よりも弱い者になすりつける・・・。

どこからどう見ても、不合理極まりない「ムラ社会」の有様は、絶望的なほどまでによく似ていた。

その「ムラ社会」では、あたかもムラ社会の掟にうまく適応・迎合した人間が、「コミュニケーション上手」のように自称していたが、現実は、むしろ逆で、そのムラ社会こそ、「コミュ障な組織」だったのだ。

そのような組織は、人を信じられず、外に出て行く勇気がないため、極端に内向的・閉鎖的になって自壊するという結論に、筆者は全面的に同意する。

最初に挙げた記事 「コロナ危機が日本企業の非合理な“ムラ社会”を確実に破壊する訳 .」も、「ムラ社会」(コミュ障な組織)が、コロナを機に、淘汰されて行くだろうと予告する。
 
だが、コミュ障組織の崩壊以前に、日本型雇用そのものが崩壊するだろうと、記事が述べていることに注目したい。

それはコロナがなくても、予告されていた。記事中盤ではこうある。
 

コロナ危機のためほとんど話題にも上っていないが、今年の春闘では、経団連が日本型雇用の見直しを議題として取り上げる方針を示していた。つまり企業側は、すでに終身雇用や年功序列の賃金体系を放棄する意向を示しているのだ。

 コロナ危機の影響が長期化するのはほぼ確実であり、とりあえず当面の感染拡大が一段落したタイミングで、多くの企業が希望退職など雇用調整に乗り出す可能性が高い。日本型雇用は実質的に終焉していたが、コロナ危機がその動きを加速させるだろう。


 経団連は今年、新卒採用という、戦後日本で連綿と続けられて来た雇用のあり方を改めるよう警告を発し、もはや従来の日本型雇用では、この先の深刻な労働人口の現象に対応できないとの見方を示していた。

それに加えて、今年は、政府が就職氷河期世代への支援プログラムを開始するはずの年であった。

こうしたすべては、従来の日本型雇用は、そのものが不安心理に基づく「ムラ社会」を形成していたこと、それがコロナウィルスとは関係なく、今の時代には、もはやそぐわないものとなりつつあった事実をよく物語っている。

新卒採用の制度は、学校という「ムラ社会」から、職場という「ムラ社会」へ、滞りなく移動し、その「ムラ社会」の正当性を疑わせるような価値観に感化を受けたり、そこから離脱した過去がないことを確かめるための制度である。

何度も述べて来た通り、これは離婚回数の数えきれない浮気性の男が、自分だけ清純で無垢な初婚の花嫁を娶りたいと願うような身勝手な願望だ。自分が浮気性だからこそ、相手の浮気が許せず、相手が組織を渡り歩い来た過去があると、これは浮気者に違いないと、信用できず、価値がないとみなすのである。
 
一度でも、組織を離脱した者は、裏切り者であるという発想がそこにある。

企業に入社して、中途退職(=離婚)した者は、もはや「初婚」ではないのだから、「無垢で清純な花嫁」とは呼べず、価値が下がる。「婚期」を逃して出遅れた者(=新卒で就職できなかった者)も同様である、という前近代的な考えなのだ。

人が新卒で入社できるのは、人生の中で、一年きりであるが、その貴重な時期に、どれだけ優れた「玉の輿」を見つけ、自分を高く身売りしたかが、その後の一生を決めるという、不合理極まりない制度だ。
 
終身雇用制度が崩れて久しいにも関わらず、そのような制度が維持されていることは、未だこの国には、「人は新卒で入社し、一生、同じ会社に勤めるのがふさわしい。そのレールから外れた人間は、失格者だ」などという幻想が生きていることをよく示している。

フリーターやニートは、レールからあまりにも外れ切っているため、もはや「正妻(=正社員)」になる資格もない、せいぜい派遣や契約社員といった使い捨ての「愛人契約」で十分な人々だとみなされているのであろう。

このように、一度でも「ムラ社会」である学校や職場を離脱した者は、人間としての価値が下がり、一生、幸福な生活を営むに値しない存在になるかのような幻想を、制度的に肯定し、後押しして来たのが、日本社会である。

これは、時代錯誤な差別的制度であるから、批判を浴びるのは当然であって、早急に見直しをはからなければ、我が国は人口減少にも、労働力の不足にも対応できないだろう。

だが、そうした議論と実践のほぼすべてを、コロナが津波のように押し流した。
 
それだけでなく、コロナは、日本型雇用は、改善されるどころか、この先、さらに悪い状況へ向かうことを示したのである。
 

先ほど、日本のカイシャは労働者にとってムラ社会だったと述べたが、社会学的には「共同体社会」と言い換えることができる。共同体は構成員にとって所与の存在であり、自分で主体的に参加するどうかを選べるものではない。集団の中では、お互いを監視したり、貶(おとし)めるという行為が行われるが、一方で共同体は、自分のアイデンティティーを確認したり、満足感を得る場でもあった。

 共同体としての職場では、他人への誹謗中傷やイジメもある意味では業務の一部となり、純粋なタスクとこうした暴力行為、そして幸福感が渾然(こんぜん)一体となっていた。だがテレワークに移行すると、ほぼ全てがタスク単位となり、労働者の評価基準は、指定された時間に指定されたアウトプットを出せたのかどうかに集約されてくる。

 当然のことながら、会社の業務に貢献している人とそうでない人がハッキリと区別され、上司の立場の人間も、適切にマネジメントできていたのか完全に可視化される。コロナ後の社会では、自分のアウトプットを正しく評価してくれない企業で労働者が働き続ける意味はないし、会社から見れば、共同体的な振る舞いしかできない社員はもはや不要である。

 

「ムラ社会」である会社組織では、村社会であるがゆえに、監視もあり、密告もあり、誹謗中傷や、虐めさえ、組織の活動の一部、「業務の一環」として見逃されて来た。なぜなら、ムラ社会を維持するためには、「安心」とセットになった「懲罰」がなくてはならず、組織の掟を破ったり、離脱しようとする者への制裁に加わってくれるメンバーが、必要不可欠だったからである。

ところが、コロナのせいで一か所に集まって閉鎖的な人間関係を維持することが難しくなり、職場から、共同体社会としての性質が薄れると、その代わりに現れるのは、露骨なまでの成果主義である。

コロナ後は、社員同士が出社して互いが仲間であることを確認し、温もりを確かめ合うという共同体社会の旧来の感覚的な満足がなくなり、それゆえ、実力もない社員が、情実人事で出世して、縁故によりその地位を保つといったことも難しくなって行くが、その代わりに、もともと信頼に基づかない人間関係しかなかったその社会では、成果を求める過酷な競争が始まる。成果こそ、共同体社会の新たな掟となり、それを叩き出せない人間は、失格者として淘汰・追放されて行くことになる。
 
この先は、共同体社会の温もりという「安心感」にすがることで、身を守って来た人々も、共同体社会にとどまるメリットがだんだん薄れていくことになろう。それは彼らも、組織を離脱した者たちと同様に、過酷な競争の中に投げ出され、個人として勝負を迫られるようになるからだ。

以上の記事内容から感じ取れるのは、今や日本型雇用ばかりか、労働そのものが、もはや手遅れに近い状態にあることである。

家全体が火事になって焼け落ちようとしている時に、窓の修理とか、水回りのリフォームなどにこだわっても、仕方がないように、新卒採用制度がどうとか、就職氷河期世代がどうとかいった議論が、吹き飛んでしまうほどに、今や日本型雇用が根底から脅かされている。
 
義務教育の崩壊が叫ばれて久しいように、国民が勤労の義務も履行することで、より良い未来を勝ち取れるという発想そのものが、ますます幻想と化し、今のままでは、国民が働いても、働いても、生きられなくなるだけであり、国を支えるには不十分どころか、国が破綻して行くだけなのは明白である。

共同体社会とは、その成員が互いに負担を分かち合うことで、身を守り、支え合おうとする相互扶助の仕組みであった。それはもともとは死の恐怖から逃れるために、互いが「負担(罪=負債)」を分かち合い、あるいは、押しつけ合う(責任転嫁する)ために作られた仕組みであると言える。

共同体社会が、その成員に離脱の自由を与えず、離脱者を村八分にしたりするのも、離脱者が出ると、負担を分かち合う者が減るため、残るメンバーの負担が増えることを防ぎたい心理に基づいている。
 
だが、もともと死の恐怖や、不安心理に基づいて作り出された人間関係は、信頼に基づく人間関係とは、根本的に相容れないものだということもできよう。
 
 そして今、この国を支えるために必要とされる労働は、働くことのできる国民が、全員、一生かけて働いたとしても、およそ満たせないほどの「巨額の負債」になっている。

つまり、この先、国民全員が負担を平等に分かち合っても、バブル時代の繁栄を取り戻すどころか、労働によっては全く解消できないほどの巨大な重荷が生じ、それが雪ダルマ式に膨れ上がって行くだけであることが、すでに明らかと言えるのだ。

コロナ禍ではいみじくも、政府が国民を直接、支援しなければ、生きられない状況にある国民が多数いることが明らかとなった。それは我が国の経済がすでに破綻しつつあることをよく物語っている。

そこで、この先、政府がどんなに国民に向かって「勤労の義務」を説いたところで、国民の勤労によって、社会に豊かさを取り戻し、これを維持できる見込みはなく、それゆえ、この先、労働はますます、負い切れない罪の負債を、互いに責任転嫁し、押し付け合いながら、国民が自己返済するために連帯責任で背負うという、自己懲罰的な性質のものとなり、それゆえ、密室化が加速し、早く逃げないと手遅れにさえなるだろう。

検察庁の人事に内閣が介入できる法案が審議入りし、強行採決に至ると言われているのも、国民がこの負の連帯責任から逃げ出すことを、国家がより困難にするための仕組みづくりであると考えられる。その先に待っているのは、戒厳令国家である。

かつて社会主義国では、国民が極度の貧困の中、理想社会を出現させるために、労働を強いられ、国から亡命することさえ、死刑に処されたことを思い出したい。

バビロン化した経済の倒壊が迫っていることを思う。それに気づかず、ノアの時代、ロトの時代がそうであったように、娶り、嫁ぎ、売り、買い、植え、建て、飲み、食いしながら、この先も、従来通りの生活を送れると考える人々は、焼け落ちる火宅にとどまり、自分の命を粗末にしているのと同じである。

バベルの塔が崩壊した主たる原因は、疑心暗鬼による意思不疎通だったのではないかと筆者は思う。そこにいる人々は、仲良くしているように、協力しているように見え、協調性があるように見えた。彼らは、ひとつの目的へ向かって、団結しているように見えたが、すべてが幻想であり、崩壊に至ったのである。

そうなったのは、彼らの連帯は、しょせん、自己の利益のための表面的なものに過ぎず、相手を尊重するように見せかけながら、その実、陰では妬み合い、騙しあい、中傷しあい、内心ではいつ裏切られるか、戦々恐々としながら、徒党を組んで互いを監視し、罰し合っていたからだろう。必然的に、誰もが互いを信じられなくなって、崩壊したのである。 
 
似たようなことが、今日の様々な職場で起きている。

私たちは、自分がどこの「国」に属し、どの共同体の一員であるか、改めて考え直すべきである。負債だけを押しつけられる地上の国の住人ではなく、負債のない、無尽蔵の蓄えのある、天の共同体社会の住人は幸いである。

* * *

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイの信徒への手紙1:13)

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもはるかに価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのよう育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎしない。しかし、言っておく、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日には炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6:25-34)

* * *


「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ。」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」(ヨハネによる福音書20:24-29)

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