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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。

「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。

「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫た
ちに貸して旅に出た。

収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。

だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう。』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。」』

彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。」(マルコによる福音書12:1-12)


* *  *

筆者はこれまでに、弱肉強食の誤った理念に導かれる組織が、疑心暗鬼に陥り、同士討ちを始めては、崩壊に至る瞬間を、幾度も見て来た。それは宗教団体だったこともあれば、企業などのこの世の団体だったこともある。

その崩壊は、いずれも筆者が組織を出る前後に起きた。そこで筆者はそういう崩壊現象は、すべてバビロンの崩壊現象の繰り返しであったと見ている。

僭越な表現と思われるかも知れないが、筆者は自分がある組織にとどまれるかどうかは、その組織の正常性を示すバロメーターであると考えている。筆者を受け入れることのできない組織に、もともと希望はないし、筆者を受け入れた組織でも、筆者がそこにいられなくなれば、崩壊は近い。

信じない人は信じないであろうが、この見方はこれまで十中八九、ほとんどの組織において裏づけられて来た。

ある宗教団体で、ありもしない濡れ衣を着せられて追い出されたことがあった。筆者は、その組織が、聖書の教えから逸れて、危機的な状態にあることが分かっていたので、リーダーに幾度も態度を改めるよう警告したが、リーダーは高慢さのゆえにこれを聞かなかった。

組織のナンバー2が、リーダーに取り入り、リーダーがますます筆者の言うことに耳を傾けなくなるように、筆者に敵意を持つように仕向けた。そして、リーダーに向かって、筆者を裏切り者として放逐するよう要求した。

リーダーは、筆者の忠告をのらりくらりと交わしながら、筆者を都合よく利用していたが、いよいよこれ以上、筆者を騙しおおせないと分かり、自分の自堕落な生き方が明るみに出される前に、筆者を追放することに決めた。

そこで、リーダーは、ナンバー2にこの汚れ仕事をさせようと、ナンバー2と共に筆者を呼び出し、高飛車な態度で筆者を断罪し、一方的な非難の言葉を浴びせ、二度と会堂には入らせないと言って、筆者を放逐したのである。

リーダーは暗い夜の道で、筆者を憐れむかのような目つきで、うわべだけの同情的な別れの言葉を告げて、複数名で、肩をそびやかして去って行った。

彼らは、聖なる会堂から、汚物を清掃した、という風に考えていたに違いない。

その時、筆者は黙って彼らに反論せず、高飛車な態度を取られても、それに抵抗しなかった。だが、心の中では、彼らが間違っていること、それゆえ、それが永久的な別れになること、聖なる会堂は、彼らのものではなく、むしろ、彼らはそれを横領した者たちであって、筆者を会堂から追い出したことで、彼らは神聖を失い、それゆえ、彼らはこの先、会堂を維持することはできなくなり、会堂は彼らから取り上げられると分かっていた。

なぜなら、筆者を連れて来て彼らに接触することを許されたのは神だからである。

それから約1年ほどで、実際に冒頭に挙げたぶどう園のたとえの通りのことが起きた。

筆者を団体から放逐した後、リーダーもナンバー2に裏切られて団体の外に放逐され、次にナンバー2も団体を放棄して逃げ、実際に会堂は失われた。

筆者の予感の通りになった。それでも、エリコを再建するように、リーダーは組織を再建しようとしたが、その組織も、手足を失って身動きも取れなくなった寝たきり患者のように、衰退へ向かっているきりだ。

真実は、彼らの側にはなく、筆者の真心からの忠告に耳を背けた時点で、彼らの敗退は決まっていた。

彼らが最も大切にしたのは、自分たちが仲間であると確認して安心できる「ムラ社会の掟」だった。すなわち、彼らが団体を築いたのは、自己保存のためであって、聖書の御言葉に沿った正しい生き方をするためではなかった。

筆者が真心からの忠告をしても、彼らにはそれが「ムラ社会の掟」を破り、彼らの「お友達ごっこ」に水を差すものにしか感じられなかったため、彼らは筆者を退けることで、「ムラ社会」を永遠に維持しようとしたのである。

だが、その「ムラ社会」では、もともと信頼関係が成立していなかったので、人間関係を維持できる基礎がなかった。筆者を共通の敵としているうちは、何がしかの連帯があるかのように思えたかも知れないが、それもほんの束の間であり、筆者がいなくなると、今度は、別な誰かを敵視するしかなくなった。

今度はリーダーが共通の敵とみなされて排斥され、その後、敵とする者がいなくなると、組織は目的を失って瓦解し、ナンバー2も逃亡してすべてを放棄したのである。

組織を支えるには、理念が必要である。欲望に基づく利己主義、自己保存願望では、個人生活は送れても、団体生活はできない。利己主義だけがすべてで、搾取や、騙し合いが横行している団体は、衰退するしかなく、脅しや、罰によって他人を引き留めておけるのには、限界がある。
 
かくて、掟を破った者を村八分にして制裁を加えることで、連帯が保たれているかのように錯覚する「ムラ社会」の人間関係とは、もともと信頼に基づかないイリュージョンであるため、その事実が明るみに出されれば、ムラ社会そのものが崩壊する。

直近の事例でも、似たようなことが起きた。

初めは意気揚々と新たな事業に船出した組織が、時を負うごとに、メンバーを搾取するようになった。不平等な格差が生まれ、搾取から抜け出せる見込みもなかった。

そのことを指摘されると、組織は事実から目を背けて自己正当化に励み、どんどん疑心暗鬼に陥り、ついに崩壊が始まったのである。

そこでは、もともと働く人の成果に便乗して、無為を覆い隠したり、他人の夢を奪っては我が物としたりする、怠慢で無責任で不誠実な人々だけが、大きな顔をして幅を利かせていた。

誠実な働き者は隅に追いやられ、悪党が大言壮語し、尊大な態度を取っては、自慢話を繰り返していた。強い者が、弱い者を押しのけながら、自分たちの仕事は、半永久的に続くから安泰だと豪語していた。

そういう光景を見つつ、筆者は絶対にそんなことはあり得ないと心の中で考えていた。

聖書の次の御言葉が思い出された。

「よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。

むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行なわないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブの手紙4:13-16)

ある事業が半永久的に続いて行くかどうかは、神の許しなしに、人が決められることではない。まだすべてが始まったばかりの段階にも関わらず、謙虚に評価を勝ち得ようとして働くどころか、自分たちの安泰は永遠だと自己安堵し、互いに優秀なライバルを押しのけ合うための競争ばかりに明け暮れている人々を見て、筆者はその高慢さを、恐ろしいと思った。

彼らの高慢さは、実際に、目に余るものがあった。施設外に出ても、自分たちはこの世の春を謳歌しているとばかりに、当たり構わず、大声で内輪の話を続け、自分たちの施設でないものを指して、これは自分たち専用の場所だと豪語していた。

何を言うにも、彼らの一言一言は、自分たちが世界の中心であることを誇示し、他者に君臨するためだけのようであった。

その高慢さがあまりにもひどかったため、ある時期から、筆者は彼らの高慢な意見に同意せず、自慢話に頷くことをやめた。当然ながら、彼らは筆者を疎んじたが、同時に、筆者の警告によって、自分たちの本質が明らかにされることを恐れた。
 
それを機に、それまで前進しているように見えた組織が、疑心暗鬼になって、自分を隠すようになり、立ち止まり、後退さえし始めたのである。

しかし、そこでは、かつて宗教団体で遭遇したのとは少し違った出来事が展開した。

組織のメンバーらは、徒党を組んで、筆者に濡れ衣を着せようと押し迫ったが、筆者はこれを退けて、そこを脱出することに成功した。

さらに、トップは、ナンバー2以下を無条件に信用してはいなかった。そこで、トップは自らその団体を放棄するがごとくに、そこに近寄らず、自ら裁いたり、君臨しようとはしなかっただけでなく、筆者の脱出を機に、主要なメンバーをみな外に撤退させた。

そして、ナンバー2以下、最も高慢で自信過剰な人々だけが、そこに取り残されたのである。彼らは、「自分たちは勝った! ぶどう園は俺たちのものになった! 俺たちにはできる!」と考えているのかも知れないが、トップに見捨てられ、主要メンバーに見捨てられ、正しい忠告をしてくれた人間を排斥した彼らが、この先、正常なものを生み出すことは、絶対にない。

他人の働きを盗むことしかできない彼らには、もともと何も恒久的なものは生み出せない。さらに疑心暗鬼になって閉鎖的になった集団が、外へ向かって成果を流し出すことはない。

そこで必然的に、中核となる人間を失った組織は、メルトダウンして行くことになる。

そのことを、筆者だけでなく、トップさえも予め察知していたために、徐々に手を引いて行ったではないかと思われた。つまり、この組織のトップは、かつて筆者がいた宗教団体のリーダーほどまでに、愚かではなかったのだ。

多くの人々は、筆者に組織を拡大するような力はないと考えているかも知れない。筆者の見かけは、あまりに平凡で弱々しいため、筆者が組織の要となる役目を果たしているなど、誰も信じはしない。

だが、筆者は、組織は目に見えるものによって成り立っているのではなく、見えない理念によって支えられ、成り立っていることが分かっているので、理念の部分が腐ると、組織は土台から崩壊することが分かっている。

筆者は、理念の人として、これまで幾多の組織に、風船のように命の息吹を吹き込んでは、これを支え、膨らませて来た。

だが、筆者がどんなに命の息を吹き込んでも、筆者がそこから排斥されるなら、その組織の理念は、イリュージョンと化し、破裂した風船のように消滅する。なぜなら、筆者以上のリアリティを持ってその理念を膨らませる人間はまずいないからである。

誰か他人が筆者のアイディアだけを奪い取って、プロジェクトを存続させて行くことはできない。他人から奪い取ったものは、どこまで行っても、我が物とはならない。

全く次元が異なる出来事とはいえ、同じようなことは、政府が進めた日露交流政策にも当てはまった。

2012年から2013年にかけての頃、筆者は日露の国交正常化、平和条約の締結、ビジネスにおける協力などを推進すべしという立場から、盛んにこれを周囲に触れ回っていた。現地の友人たちと共に、こうした構想がまもなく実現し、近いうちに、政府レベルで、長年、両国の友好の妨げとなって来た領土問題の解決と、平和条約の締結が行われるだろうと話し合っていたのである。

我が国の世論では、中露に対する反感は未だに根強いものがあるため、その構想に真剣に耳を傾ける者はあまりいなかったが、そうした構想を、役人たちが聞きつけることのできる場所で、筆者は語る機会があった。

それから間もなく、筆者のアイディアを奪い取るかのごとく、安倍政権が盛んに日露の友好やら、国交正常化やら、領土返還やら、シベリア共同開発やらを叫び始めた。

だが、それは安倍政権が、専門家の意見を重視して推し進めた計画ではなく、ただ首相が外交的な手柄を我が物としたいがために、また、シベリア開発利権によってお友達企業を富ませたいがために、専門家を蚊帳の外に置いて、ごり押しして進めたプロジェクトであった。

それゆえ、日露首脳会談は何度重ねられても、「フリだけ」のパフォーマンスに終わり、領土が返還されるという国民の期待は、詐欺同然に裏切られ、もちろん、平和条約の締結などという話は、年々、絶望的となり、むしろ、領土返還を目的として近づかれることを警戒したロシアは、より頑なに返還を拒むだけでなく、北方領土に軍事施設を建設するなどして、口先だけの友好の言葉とは裏腹に、以前よりもさらに敵対的な態度を強化した。

筆者はまだ安倍首相がしきりにプーチン氏との友好をアピールし、メディアが領土返還の期待を煽り立てていた頃に、前言を翻し、領土返還や平和条約の締結などはあり得ないこと、ロシアとの友好関係は、それ自体が幻想であって、むしろ有害なため、我が国の目指すべき目標ではなく、日露友好のプロジェクトは必ず頓挫するだろうと予告する一連の記事を書いた。

そして、実際にその通りとなっている。

筆者は安倍氏とは何のつながりもないが、自分のアイディアを他人に都合よく持ち去られるがごとくに、さんざんうわべだけのパフォーマンスを見せつけられ、勝ち誇られたことを機に、日露友好というプロジェクト自体が、本当に正しいものだったのかどうかを再検証した。

これまで、この分野の専門家は誰一人、目立った成果を上げることもなく、脚光を浴びることもなく、貧しい道を地道に歩んで来たのである。それにも関わらず、安倍氏一人が、ろくな成功もないのに、パフォーマンスだけで脚光を浴びて、まるでその道の専門家のように振る舞っている現状は何なのか。

だが、他人に奪われるようなアイディアは、もともと確かな価値でなかった可能性が高い。筆者のような人間がその実現を信じていた間は、他者から見ても、それがあたかも実現可能で、価値があるかのように見えていただけである。

しかし、日露関係については、専門家でさえ、長い間、足踏みすることしかできなかったのである。日露ビジネスとなると、さらに悲惨で、これは極めて薄利な分野であるため、中小零細企業が参入しても、ブラック化していくだけである。

大企業が参入して成功した例は、大規模エネルギープラント開発くらいしかない。

シベリアの強制収容所で死亡した日本人の遺骨の回収という厚労省の戦後処理も、嘘とデタラメばかりで何一つ前進しておらず、ロシアはこの問題について日本に謝罪したことがない。

このように、戦後70年間、我が国のすべての人々が取り組んで何の成果もなかったのが、日露関係なのである。

それをもともと外交の専門家でもない安倍氏が、戦後の歴史を打ち破って、突如、両国の関係を正常化するなどということが、できるはずもない。シベリアにおける負の歴史の清算も終わっていないうちから、我が国がシベリア領土開発に乗り出すなど、愚の骨頂である。

この問題については、ロシアの側にも何らかの政治的責任を追及せねばならない。それもないうちに、かつての悪夢を再現するかのように、よりによって、我が国が自分の方から、永久凍土の不毛の地を開発してさしあげようなどと言い出すなど、正気の沙汰ではない。

かの国も、そのことはよく分かっている。ロシアにも、領土を返す気はさらさらなく、開発という名で、我が国に進出されることに警戒感を持っている。それにも関わらず、両国が接近するのは、友好関係をエサにして、互いから最大限のものを奪い取りたいという腹づもりがあるからに他ならない。そこにあるのは、キツネとタヌキの騙し合いだけで、そんな関係から正常なものが生まれて来ることは絶対にない。

かの国は、我が国よりも、数段、したたかであるため、そんな取り組みを本気ですれば、我が国が負けて終わるだけなのは、目に見えている。

柔道で黒帯を持つ他国の相手に、白帯さえ持っていない我が国の人間が挑むという構図そのものが、笑い話でしかない。プライドがあるなら、そんなみっともない取り組みはやめて、自分が上手に出られる土俵を探すべきである。

このように、狼とハイエナが平和に共存するというプロジェクトは、あるべきではなく、そんな目標を掲げること自体が、馬鹿げているのだ。

友好関係を結べるのは、信頼できる相手だけであって、互いに騙し合い、利用し合うことしか考えていない者同士の間に、友好など成立するはずがない。

ロシアという国は、過去、ソ連時代に不可侵条約を一方的に破ってポーランドに侵攻しているし、我が国も日ソ中立宣言を破って侵攻されたのであり、そういう過去を持つ相手と平和条約を締結することが、どれほど危険な行為であるかは、考えれば分かるはずだ。

それにも関わらず、そういう相手に自ら近づいて行こうとするのは、そうする人間の側にも、それなりの魂胆があるためである。

つまり、安倍氏は、政治的パフォーマンスによって、自分の手柄が欲しいために、日露間で政治問題が解決するかのような期待を国民に持たせているだけなのであり、それが実現可能なプロジェクトなのかどうか、また、実現したとしても、それが我が国にとって真に有益なのかどうかなどという問題は、どうでも良いのである。
 
さらに、あわよくばという思いで、ロシアからの領土返還に期待をかけているに過ぎない。そしてその魂胆は相手方に見透かされている。
 
このように、かの国がかの国ならば、我が国も我が国なのであり、双方から、国民の利益など売り渡してでも良いから、自分たちの権力と栄光を強化することこそ、最優先しようとする政治的リーダーが、むなしい会談を重ね、それを見抜けず着いていく国民の後進性が響き合って、以上のような見込みのない交渉がまことしやかに続けられて来たに過ぎない。

このことは、日露関係を語るために持ち出したわけではない。

不誠実で、利己的で、高慢な生き方を貫き、他人の真面目な労働の成果をかすめ取ったり、他人の優れたアイディアを盗んでは、自分の手柄に変えようとする厚かましい人たちとの共存などあり得ないということを言いたいのだ。

そういう人間で占められている組織は、ハイエナの群れのようなものだから、そこに羊を投げ込めば、何が起きるかは自明の理である。

「協調性」とか「友好」などといった見せかけのスローガンを用いて、狼と羊の共存を謳う団体には要注意である。

筆者は羊である。そして、聖書は羊を食い物にする狼に警戒しなさいと言う。

筆者のアイディアも、能力も、ハイエナの利益となるために存在しているわけではないのだから、筆者は自分自身を守らねばならない。
 
ところで、直近の組織について言えば、これもまた誰も信じないかも知れないが、それはもともと、筆者が信仰によって呼び出して来たものであった。

2年ほど前、その組織は、その場所に存在しておらず、プロジェクトもまだ存在していなかった。だが、その当時、筆者はその付近を毎日のように通り、その場所を窓の上から見下ろして、道を行きかう人々を眺め、その場所で働くことを考えていた。

筆者は、その組織は、神が筆者の慰めのために与えて下さったぶどう園だと思っている。筆者の知っていた裁判官によく似たトップが筆者に目を留めたのも、筆者の心の願いに沿ったことであった。

ところが、そのぶどう園は、利己主義者によって横領されてしまった。筆者の働きの成果も、怠け者の悪党どもが、横柄にかすめ取って行った。

彼らは筆者を農園の外に追い出して、すべての成果を独り占めしようとした。そして、そうなったことを機に、筆者は、法曹界の人間であろうと、他の誰であろうと、地上のいかなる組織であろうと、以前にもまして、より一層、頼りにしなくなった。肉なる腕を頼りにするほど愚かなことはない。

筆者を助けることができるのは、ただ見えない神のみである。
 
そこで、かつての宗教団体にしたのと同じように、筆者は神に向かってこう述べた、「主よ、このぶどう園は、もはや正しい役目を果たさなくなりました。よって、不要な枝となりました。これはもはや私の心にかなわず、私の必要をもかえりみてもいません。あなたの栄光とも、何の関係もない場所となりました。正しい人を罪に定め、弱い者を虐げ、不法を行っています。これ以上、このようなものが、地上に存続する意味はないと私は考えていますので、あなたがこれを地上に呼び出される前の状態に、すべてがもとの通りになることを願います。」

なぜか、組織のリーダー自身が、筆者と同じように考えているように感じられた。その人は、ものの考え方が、筆者にとてもよく似たところがあり、目に見える地上の組織を維持し、そこで権力をふるうことに固執していなかった。

かつて宗教団体のリーダーは、自分が組織に残るために、筆者に濡れ衣を着せて放逐し、生意気な筆者を放逐してやったとばかりに快哉を叫び、あくまでその団体を手放すまいと固執したが、今度のリーダーは、筆者が組織から脱出すると、自分もそこから手を引いた。さらに、人々がどんなに筆者に濡れ衣を着せることを望んでも、その計画をあきらめ、筆者を解放した。

少なくとも、そのリーダーは僕に去られて快哉を叫ぶほどまでに、幼稚ではなく、愚かでもなかったし、人間の自由の価値を知っていたと見られる。

その自由の希求が、筆者とその人とでは非常に似通っていた点であった。地上のすべての目に見える価値よりも、自分の心の自由を優先する生き方である。
 
おそらく、その人は、筆者とは全く異なる見地から、「破壊と創造」を司るために、この組織を助けようともせず、なるように任せたのではないかと思われる。

すなわち、グノーシス主義の世界では、栄枯盛衰、所行無常の原則があるきりなのだ。キリスト教とは全く異なる見地からであるとはいえ、グノーシス主義者も、目に見えるものにしがみついても、それはすべて永遠ではないことを知っている。

だからこそ、そのリーダーは、目に見えるものなど、何度、滅びようとも構わないという見地から、筆者とは全く異なる観点ではあるが、地上の争いも含め、滅びゆくすべてのものを、上から超然と眺めていたのではないかと思う。

だが、それもまたどこかしら恐ろしい光景であった。
 
筆者は、目に見えるものが何度滅びようと、滅びない命を受け取ってもらいたいと願った。そのためにこそ、様々な団体を通過して来たし、必要な警告を発して来たのである。

だが、その忠告を人々がかえりみないならば、筆者にはどうすることもできない。

筆者が屋根を支えていたので、建物は倒壊を免れていたが、筆者がそこを出れば、この先、すべては夢の跡となるだろう。ぶどう園を横領した者たちが、どんなに「自分たちにはできる!」と叫び、永遠に到達するために塔を建て上げようとしても、すべては水泡に帰する。

先の記事で書いた通り、「安心」を基軸に結ばれた人間関係は、その「安心」を脅かされる状況になると、逆説的に、疑心暗鬼に陥り、意思疎通ができなくなり、滅びていくという特徴があるのだ。

そこで、神ご自身が、彼らにはできない、と言われるだろう。彼らは慢心した人々で、自分たちの力で何でもできると思い、いかなる忠告も不要であると考えて、耳を背けているが、幻想に過ぎないもののために、どんなに努力を続けても、それには彼らを生かす力がないどころか、ますます破滅へ近付けるだけだ。

「フリだけ」のパフォーマンスは、ほんの一瞬しか持たない。自己保存のために打ち立てられた地上の団結が向かう先は、マサダの自決、それしかあり得ない。欲望に生き、利己主義を貫くだけの人々が向かう先は滅びであって、彼らが永遠に至り着くことは絶対にない。そのやり方では命を保てず、繁栄もない。
 
筆者は、聖書の原則に従うのみだ。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしたちは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」(コリントの信徒への手紙 二 6:14-18)

さて、日露間の平和条約締結交渉では、我が国はロシアから、在日米軍がロシアにとって脅威にならないよう約束する文書の提出を求められているらしい。だが、その一方で、ロシアでは、憲法改正へ向けての検討の過程で、領土割譲の禁止を憲法に盛り込むことに前向きだという。

まさにカツアゲである。ロシアが日本に領土を返還することは決してない。実現することのない期待と引き換えに、どこまで我が国を譲歩させられるか、試しているだけなのだ。自国の領土の拡大という愚かしい期待を抱いて、不誠実な交渉に前のめりになるならば、最後に行き着く先は、我が国の消滅である。
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