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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔からそれてしまうのではないかと心配しています。

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。

なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔からそれてしまうのではないかと心配しています。

なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(コリントの信徒への手紙 二 11:2-4)


* * *
 
もういい加減にしてほしいものだ。

今国会での検察庁人事介入法案の強行採決を引っ込めたかと思うと、次はこう来た。

国民投票法改正案 自民・公明は今国会で成立の方針」(テレ朝NEWS 2020/05/19 16:31)

さらにこんなのもある。

マイナンバーと銀行口座紐付け…自民提言案」(テレ朝NEWS 2020年5月18日 23:14)

政府与党が、まだ憲法改正をあきらめていない執念に驚かされる。むしろ、一つの法案が反対により見送りになったのを機に、今度はもっと厳しいしめつけを行おうと、武器を取り変えようとしているのだ。

どこまで国民を蔑視・愚弄しているのだろうかと呆れる。緊急事態宣言が解除されれば、これまでのステイホームの抑圧の反動で、国民は10万円を片手に遊びほうけ、あるいは仕事でまたしても疲弊し、国会への注意など簡単に失うと考えているのだ。

国会を、これ以上、政治家が国民を脅して震え上がらせるための悪のまつりごとの場として利用させてはいけない。息を吐くように嘘をつく連中に、もうこれ以上、口を利かせてはいけない。

だが、もしかしたら、ここから先は、個人の選択により、各自の運命が分かれる時代になるかも知れない。

マイナンバーは超重要機密情報に当たるため、マイナンバーを記した書類には、政府・自治体・企業などに特別厳重な保管が義務づけられている。

そこで、現金給付の現場では、マイナンバーは活用されておらず、むしろ、無用の長物として扱われている実情があると言っても良い。マイナンバーを給付書類に記載しないよう呼びかけている自治体もあったくらいだ。

ただし、マイナンバーを利用してオンライン申請を行った人々については、その限りではない。記載した情報が、どこへやら記録され、長期に渡り、保管され、データベース化されて秘密裏に米国などに売り渡される可能性は大いにあるだろう。

新型コロナ マイナンバー、口座と一元管理案 自民、現金給付混乱受け

.  会員限定有料記事 毎日新聞2020年5月19日 東京朝刊 . . 
 
 自民党は18日、マイナンバー制度を活用した現金給付の新制度を政府に提言する方針を固めた。全国民に一律10万円を給付する「特別定額給付金」の給付手続きを担う市区町村が、申請者の個人情報をマイナンバーや10万円の振込先口座番号と一緒にデータベース化して把握し続けることを認める。行政が口座を把握することへの慎重論もあるが、新型コロナウイルスの感染拡大で今後追加的な現金給付を行う際、迅速に給付するためだと理解を求める。議員立法も視野に入れる。

自民党のマイナンバー活用プロジェクトチーム(PT、座長・新藤義孝元総務相)がとりまとめた。10万円給付の申請は、マイナンバーを活用した電子申請と、書面申請の2種類あるが、現状はマイナンバーと口座がひも付けられているのは、金融機関で口座を新規開設する際にひも付けを了承するなどした一部国民に限られる。このため市区町村にとっては、申請口座が本人のものかどうか金融機関に一件一件確認するなど膨大な事務作業をした上で給付する必要が生じ、給付の遅れを招いている。 (後略)

 

この記事は、新たな現金給付をエサにして、マイナンバーと銀行口座の紐づけを正当化しようとしているが、そんな給付金が配られる可能性は、ほとんどない。第二次補正予算案の中では、審議されていない。マイナンバー活用プロジェクトチームなる名称も、まことに不気味である。

バビロン経済の総仕上げの時期が来ようとしているのが感じられる。すなわち、国民を総奴隷化し、その資産を国(とそのバックについている世界的権力)が、とことん吸い上げ、巻き上げるためのシステムの構築準備が始まっているのだ。

当然ながら、オンライン申請など筆者はするつもりもないし、マイナンバーカード自体を取得していない。実際に、マイナンバーの使用が必要と言われているほとんどすべての手続きは、実際には、マイナンバーを使わなくても可能だと知っている。

使わないからと言って、生きられなくなることなど決してない。むしろ、それを受け入れるかどうかの選択は、個人に委ねられているのだ。

* * *

ところで、筆者が最後に所属していた職場は、ブラック化していたと言えるであろうし、これからますますブラック化の方向へ向かって行くだけであろうが、筆者が危機的状況にあると判断するような状態になるまでには、かなりの歳月を要した。

ちなみに、組織が異常な方向へ向かっていることに、筆者が明白に気づいたきっかけは、些細なことにあった。リーダーの外見である。

たまに現場にやって来る、善良で親切そうなリーダーと、いつものように挨拶した際のことであった。実に高潔そうで親切で美しく見える外見のその人の歯が、本物でないことに気づいた。

筆者はその当時、仕事が面白く、上司の人柄にも親近感を抱いていたため、職場をブラックだとは感じていなかったし、組織がそのような腐敗状況に落ち込んでいくとは思っていなかった。

それにも関わらず、ふと上司を見上げた際の発見を機に、すべての気づきが始まったのである。

いや、その組織が、初めから協調性を主張していたことを考えれば、逸脱へ落ち込んで行くことは明らかだったのだが、そのことは置いておく。

当ブログにおいて、筆者は三島由紀夫に関する一連のシリーズ記事を発表した。その中で、肉体改造を行うことの悪を強調して来た。

ボディビルなどの肉体改造を行う者は、ただ自己の外見を変えようとしているだけでなく、自己の本質を偽り、自分の弱さを否定して、自分をありもしない大物に見せかけようとしているのであるから、そのような願望の根底には、人が自力で神に至ろうとする聖書への反逆の精神が隠されている。

ところで、そのような罪深い自己否定としての肉体改造の中には、肉体の改造だけでなく、精神の改造も含まれる。

ここ10年くらいの間だろうか、マインドセットなる言葉が流行するようになった。ちょっと検索してみれば、ビル・ゲイツなどの億万長者や有名女優を看板にしながら、自己の精神を改造するよう説いている動画がたくさん見つかる。

それらの動画は、スポーツ選手や、格闘家などの肉体改造を手本に、これを精神の領域に応用し、人が幸福になるためには、マインドセット、すなわち、精神のボディビルが必要になると説く。

さらに、こうした動画で繰り返されるのは、「考えるよりも行動を優先せよ」、「失敗を恐れず、行動せよ」などというスローガンだ。

それは、鈴木大拙のような禅の指導者が、人は考えるよりも先にまず行動し、失敗して、それから反省する(=知が芽生える)と述べ、人間は、知性よりも行動を優先する生き物だと主張していたことに重なる。

グノーシス主義者は、知性よりも行動を重んじることで、エデンにおいて、人が神の掟に背いたことを正当化する。

マインドセットを主張する人々は、ボディビルの原則を精神に当てはめることで、人が己が肉体だけでなく精神の筋肉を鍛えることで、自分の人生を完全に幸福にできるだけでなく、全能の神の領域にまで達する超人(神―人)を作り出そうとしているのだと言えよう。

だが、肉体の改造であろうと、精神の改造であろうと、自己改造によって、成功を手にしようとする者たちは、すべて同じ目的を目指している。彼らは、知性(=神の御言葉)よりも行動(=堕落した欲望)を優先することによって、完全に至れると錯覚しているだけなのだ。

彼らが守り、強化しようとしているのは、滅びゆく人の肉体(精神も含む)、すなわち、旧創造であり、それは、聖書の神が罪に堕落したものとして、廃棄を決定されたものである。

廃棄が決定されている無価値なものを守り、さらに強化までしようとしているわけだから、この人々は、神の判決に逆らって、呪われたものを再建しようとしているのであって、滅びを免れない。

そのようにして、生まれながらの人間の自己の威信――滅びゆく旧創造の世界を守ろうとする者は、三島由紀夫が破滅して終わったように、みな同じ最期を迎えることになる。

自決した三島由紀夫と、地上のエルサレム神殿の威信を守ろうとしてマサダで自決したユダヤ教徒たちは、同じ理念でつながっている。彼らは、地上の神殿――すなわち、地上の幕屋としての生まれながらの人間の肉体を守ろうと、団結して神に逆らって自己の永遠なることを主張し、結果的に、地上の幕屋と共に滅んだのである。

三島がしようとしたのは、己が鍛えた肉体を永遠の領域にまで高めることであり、ユダヤ教徒たちがしようとしたのは、地上のエルサレム神殿を永遠に守ることであった。

だが、地上の滅びゆく命を永遠にまで高めようとする人々は、みな以下の通り、同じ末路を辿る。

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書10:39)

話を戻せば、ボディビルのみならず、整形などの外見を変える手術も、ボディビルと同じ、神への反逆と自己否定という呪われた目的を目指していると言える。

筆者は、上司の外見に疑いを持ってから、彼の10年以上前の過去の写真を探し出した。その古い写真に写っていたのは、何の取り立てて注意を引く要素もない、ごくありふれた凡庸な人間の姿で、そこには、何の高潔さも、知性のひらめきも感じられず、むしろ、ただ俗っぽい一人の人間がいるきりであった。

それと比べると、現在の写真は、まるで俳優のようであった。特に、他の人々と比べると、その差は歴然としていた。上司が確かに自分を変えていることに気づいてから、筆者は、その人の美しそうに見える外見は、どこまで改造された姿なのかと疑った。

筆者にとっては、病気でもないのに、人が肉体改造をすることの中には、恐ろしい危険が潜んでいる。ただ笑顔を美しく見せるためだけに、人工の歯を取りつけるとか、増毛するとか、頬骨を削るとかいったことは、非常に薄気味悪いことである。

さらに、そのようにして改造した自分の姿を他人に見せつけて自分を誇るのは、もっと恐るべき所業だ。
 
そうまでして自分を変えて、どんな成果が得られるというのだろう。真っ先に考えるのは、そのような「よそいきの姿」で、自分の家族とどう接するのかということだ。それで真実な関わりが築けるのだろうか。

だが、その上司は一見すると、禁欲的で、努力家で、無理をしてでも、他人に尽くすというタイプであったので、ただ単に、自己満足のためだけに外見を変えたというのではなく、それも、他人を喜ばせるための手段であったのに違いない。

だが、筆者の考えでは、そうまでして、他人からの評価や歓心を勝ち得ようとすること自体が罪なのであり、自分の自然なありようを犠牲にしてまで、他人の欲望を満たすために、自己を改造するという生き方は、全く不自然で、危険なものでしかなく、魅力的ではなかった。

ルシファーは、美しい外見を持っていた。その美は、彼が罪を犯すまでは、神の目から見ても、完璧であった。悪魔は今日も光の天使を装うことができ、あらゆる高潔さ、善良さ、親切さ、勤勉などの美徳を身にまとうことができる。

だが、それはすべて「見せかけ」に過ぎず、「フリだけ」の内実の伴わないものである。

上司は、口では、自分は大変な努力家であって、人一倍、粉骨砕身して、仕事に励んでいるかのように述べていたが、その一方で、日々、嫌悪を催す事件を扱う仕事は、すべて部下たちに任せて、面倒な人付き合いもしなくて済むよう、孤高のリーダーとして生きていた。

面倒な汚れ仕事は、みな他人に任せていればこそ、自分は最も栄光を受け、脚光を浴びる場所に立ち、親切で謙虚な善人としての役目を果たせたのである。

確かに、そういうタイプの人間は、自由を好み、他者が自由を希求することの意味も知っている。そこで、その人は、筆者にも、自由を与えるように見せることは巧みであった。人心掌握の方法に長けており、多くの人々がなかなか理解し得ない筆者の苦悩を受け止め、慰めと自由を与えるように巧みに見せかけることが出来た。

確かに、その点では、凡人以上の優れた力を持っていたと言える。
 
だが、その善良そうな態度や言葉は、すべて巧妙に他人の心を操縦し、望んでいる労働の成果を引き出すためのマインドコントロールの手段でしかなかった。そのため、ひとたび、彼の配下にある人々が、もはや彼の期待に応えなくなり、労働の成果を惜しみなく提供することをやめると、早速、容赦なく、手のひらを返すのである。

それによって、彼が親切そうに振る舞っていたのも、美しい外見や、人当たりの良い態度も、すべては配下の人間を搾取するため、労働の成果を最大限に引き出すためのマインドコントロールでしかないことが分かった。
 
労働を収奪できなくなると、まるで禁断症状に陥った麻薬患者のように、望んでいるものを他人から奪い取るために、懲罰的な行動に出て、威圧したりしないわけにいかなくなる。(しかも、そのような仕事は、リーダーではなく部下が行う。)

ブラックバイトなどでは、離職しようとする労働者に、職場が罰を加えたり、損害賠償請求をちらつかせたりすると聞いてはいたが、筆者は、目の前でそうした光景を見るまでは、そんな事態を目撃したこともなかったために、どこかしら半信半疑であった。

それも、人として当然許される限度の遅刻早退欠勤までも対象に、少しでも労働を出し惜しみする態度が従業員に見られると、早速、労働者に懲罰を加え、不合理な業務を課したりして、そこから逃げだすことさえ禁じるのである。

そのように、親切で善良な外見と、残酷な本質が表裏一体となっているのを見つつも、筆者は、心の中で青髭を思い出した。

筆者の思い描く青髭は、ゾンビのように青ざめた姿で、その歯は、人間の歯の形をしておらず、牙である。

リーダーがなぜ人工的な歯を着けているのか知らないが、あなたは本当は人をかみ砕く牙を持っていることを隠そうとして、そうしたのではないかと、思わず問い正したくなった。

* * *

協調性とは、何度も書いて来たように、自他の区別を曖昧にしていき、他人の持っている優れた資質を、あたかも自分のもののように横領し、都合よく盗み取ることを正当化するために使われる魔法の言葉である。

古くは和の精神、グノーシス主義のウロボロスの輪と同じで、それは「世界は一つ、人類はみな兄弟」という理念に基づいている。

そういうスローガンを掲げているところでは、低い給与で、最大限、人を働かせ、真面目な人間の労働の成果を、不真面目な人間の怠慢を覆い隠すために、かすめ取ることが正当化される。

(ただ断っておくと、これは筆者が考えられないような低い給与で搾取されていたという意味ではない。そういう従業員もいたが、筆者自身は不当な契約を結んだわけではない。筆者を取り巻く環境が変質するまでには、それなりの時間を要した。)
 
そのような場所では、チームワークの大切さが強調される。だが、そこで言うチームワークとは、愚かで怠惰な人間の無為と無責任を、他の賢く善良な人々が肩代わりするための都合の良い連帯責任の仕組みだ。

一体、ハイエナと羊との間に、どんなチームワークが生まれるというのか。

だから、給与体系をよく調べてみれば良い。そういうところでは、正社員の給与や、求められる学歴の水準が、職務の内容に比較して、極端に低かったりする。

リーダーは高い知性を持っていなければつとまらない仕事をしているはずなのに、正社員に必要とされる学歴が、高卒以上だったりする。

一定の知的水準の人間が相当数いないと、職場は成長しないものだ。しかし、リーダーや幹部が、あまりにも無能で幼稚な人間で占められている場合には、もしくは、知識は自分たちだけが独占していれば良いと考えている場合には、彼らは、自分の知的水準に見合った人間しか雇わないため、無学な人々ばかりで周りを固める。

そういう仕事は、門戸が低く入りやすいので、結果的に、無能で愚かな人々がたくさん集まって来る。誰でも無差別に受け入れるので、やがて卑劣漢ばかりで占められるようになり、その分だけ、余計に、職場環境が悪化する。

そういう職場では、悪者が数の力で結託し、誠実な人間を陥れ、不実な人間が、正しい人間を犠牲にして出世する。このようにして、職場は絶えず下へ下へと落ちていくだけで、上昇することはない。

リーダーに知恵がないからこそ、自分で一からビジネスを起こそうとはせず、争いが起きても、人間関係を是正することもなく、かえって物事の真相を鋭く見抜く人間を脇へ追いやりながら、イエスマンで周りを固め、権力や知名度にすがって、出来合いのパッケージに頼ろうと、手っ取り早く下請け事業を選んだり、すべてを現場任せにしたりして、不都合な出来事の全てから手を引くのだ。

その結果、より自由な発想が圧殺されて、従業員が歯車化され、従業員同士が監視し合ったり、足を引っ張り合ったりするのだが、そのように個人を押しつぶして歯車化したことを正当化するために、「協調性」やら「協力」の美名を持ち出して、「個人の利益ではなく、会社全体の利益のために貢献せよ」などと言って、従業員に未来も与えず、個人に限界を無視したノルマを課したりする。

年々、労働市場の悪化を見て来た筆者だが、ついに最後の組織まで、そういう現象に見舞われたのを見て、もはや、労働そのものが懲罰に等しいものとなっているから、バビロン経済からは脱却しなければならないと痛感した。

日本型雇用を改善するなど、もはや手遅れであり、人間性を捨てて、搾取されるために働くこと自体が、悪なのだと思わずにいられなかった。

* * *

グローバル化と協調性は同じ概念であり、そこでは個の区別を曖昧にすることにより、強者による弱者への盗みと従属(奴隷化)が正当化される。それを「共生」とか「協力」とかいった美名で隠そうとするのは罪深いことであり、それは盗みの言い換えでしかない。

豊かな天然資源を持っていた国が、グローバル化で貧しい債務国に転落する。安倍政権下で国民の貯蓄ゼロ世帯が急増した。これらはみな「和=協調性」を要求しながら、弱肉強食の原理を押し進めた市場原理主義の下で、本来は豊かな資産や資質を持っていたはずの国民(個人)が、その強みを発揮できず、巨大企業や政治権力の歯車とされて自分を吸い取られ、ついに自給自足が成り立たなくなり、独立性を失ったものである。

人類みな兄弟とか、グローバリゼーションとか、「和」とか「協調性」とかいった美名の下、弱者が強者のわがままのためにとことん搾取され、全体に従属する歯車と化して、個としての力を失い、貧困化してきたのである。貧困化したからこそ、より一層、全体にすがってしか生きられなくなり、ついに奴隷として我が身を売る直前まで来たのである。

かくて、そのような「全体への隷属状態」から脱するには、ベクトルを逆向きにするしかない。すなわち、全体に仕えるための個人としての生き方ではなく、全体と切り離され、全体からの自由を取り戻したところでの個人(もしくは、全体が個に仕えるという構図の中の個人)に戻るしかない。

安息日のために人があるのではなく、人のために安息日があるのと同様に、組織のために人があるのではなく、人のために組織がある。

その本来の秩序が取り戻されて、自由が回復されねばならない。

狼やハイエナの集団の中で、羊が生き永らえることはできないのだから、そういう割に合わない曲芸のような「チームプレー」をやめて、羊は羊のための安全な囲いに戻って、狼の集団とは離れて生きるしかない。

さらに、仕事は「一夫一婦制」にするしかない。

もしも正社員を「正妻」にたとえるならば、派遣社員、期間業務職員、契約社員などの非正規雇用は、すべて「愛人」であると言える。「愛人」だらけの職場とは、非正規雇用ばかりで、ハーレム化した職場のことであるが、もともと不当な待遇に置かれている人々が集まっていればこそ、そういう場所では鬱憤が溜まり、争いが絶えない。しかも、「愛人」の方が、「正妻」よりも待遇が良かったりもするから、理不尽極まりない。

いつまでもそういう場所に身を置いていても、健全な生き方はできまい。

筆者は決して他人と同じことをして生きたくないし、誰とも競いたくない。まして、怠惰な人間の無為を肩代わりするために、貴重な人生の時間と労力を浪費するつもりはない。

それをケチだとか、非協力的だとか言う人もいるかも知れないが、狼とハイエナの集団からチームプレーを要求される筋合いはない。

筆者はキリスト教徒なので、最高の花婿を待っている純潔の花嫁であるから、それにも関わらず、「愛人たち」のハーレムに身を置かねばならない理由はないだろう。

神はキリストをご覧になるように、筆者をご覧になって、「完全になりなさい」と言われる。

私たちは完全を目指して生きるべきであって、それにも関わらず、初めから自分をディスカウントして、中途半端な待遇を自ら選び、心の中では憎み合い、殺意さえ抱いているかも知れない他の「愛人たち」と共に、ハレームに閉じ込められて、残酷な主人の到来を待ちわび、ライバルたちの殺意に戦々恐々と、彼らのご機嫌伺をしながら生きねばならない理由がない。

一体なぜ、自分を貶め、出し抜こうとするだけの人々と「協力」したり、愛想を振りまくことなどできようか。

筆者にとって、仕える相手は一人でなくてはならず、その相手にとっても、筆者が唯一無二の存在でなくてはならない。神と人との関係と、人と人との関係は、基本的に同じであり、さらに、仕事との関係も同じである。

筆者にとって、大切なすべてのものとの関係は、「一夫一婦制」でなくてはならず、筆者にとっての天職も、ただ一つであり、それは他の人々と分かち合えるものでない。
 
その関係においては、誰も間に入ってはいけないし、競争者はいてはならず、厳かな「一婦一夫制」の原則が守られねばならない。

「狭き門」は、自分一人しかくぐれない門である。そこでは、他の人々も連れて行くことはできないし、余計な荷物もあってはならない。しかも、自分一人さえ、死を経由しなければくぐれないのだ。

だが、筆者は、その道を一人で行きたい。その門とは、キリストのことである。

救いは、個人的なものであり、チームプレーの救いなど絶対にあり得ない。

教会の日曜礼拝に、家族全員で通っていれば、救われるということが決してないのと同様、他の社員たちと一緒に手を取り合って、毎日、会社にお参りを続けていれば、安定した人生を送れるということも決してない。

牧師の説教をどんなに聞き続けても、救いには到達せず、会社の代表の言うことをどんなに熱心に聞いても、それによって豊かな人生が保障されることもない。

むしろ、そうした偽りの「救い」の欺瞞性は、これからますます明らかになるだろう。

不信者と釣り合わないくびきを共に背負ってはならない、と聖書は言う。広き門から入れば、その先に待ち受けているのは、滅びだけである。

「釣り合わないくびき」とは、堕落した人類の罪という、途方もない債務を返済するための連帯責任のことを指す。
 
従って、「不信者とのチームプレー」に同意すれば、返済不可能な債務を不信者と一緒に背負わされることになるだけである。

そういう釣り合わないくびきを捨てて、個人的な信仰によって、ただ一人の主人だけに従い抜く道を選ぶ者は幸いである。

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