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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者が弱さと傷によって絆(連帯)を結ぶ危険④~滅びに至る広き門マジョリティのための偽りの福音~

ウクライナ:議会前で爆発、死傷者多数 憲法改正審理中
毎日新聞 2015年08月31日 21時04分(最終更新 09月01日 01時02分)

【モスクワ杉尾直哉】ウクライナ最高会議(1院制議会、定数450)は31日、親ロシア派が支配するドネツク、ルガンスクの東部2州により大きな自治権を付与するための憲法改正案を審理し、第1回の採決を行った。法案の審理継続に必要な226票を上回る265議員が賛成し、審理継続が決まった。

現地からの報道によると、憲法改正に反対する民族主義者ら数百人が最高会議ビル周辺で警官隊と衝突した。現場でデモ参加者が投げた手投げ弾が爆発し、アバコフ内相によると、破片で警官1人が死亡。また、警察、デモ隊双方で計120人以上が負傷したという。

 当局は手投げ弾を投げた男を含め、約30人のデモ参加者を拘束した。現場は爆発や催涙弾の煙に包まれ、大混乱となった。ヤツェニュク首相は騒乱の背景を徹底捜査し、厳しく刑事責任を追及する考えを表明した。

 憲法改正は、ウクライナ紛争を巡る今年2月の停戦合意(ミンスク合意)に盛り込まれ、ポロシェンコ大統領が7月に憲法改正案を最高会議に提出していた。法案は2回目の採決で最終的に成否が決まるが、最低300の賛成票が必要で、成立は微妙な情勢だ。

 
8月30日の国会前のデモからほとんど日も経たず、上記はあたかも我が国の未来を暗示するような事件である。ただし、日本の場合と異なるのは、今回ウクライナで審議されている改憲は、内戦終結を目指そうと、親ロシア的なドニエツク、ルガンスクに大きな自治権を付与することを目的としている点で、日本の自民党による憲法改正案のような、抑圧政策のための改悪ではない点である。

こうした改憲の動きが出て来たことだけを見ても、ウクライナの親ロシア的な地域を壊滅へ追い込もうとした勢力の作戦は失敗に終わりつつあることが分かる。クーデターによって成立したヤツェニューク政権(+現ポロシェンコ大統領)そのものが急激な支持率低下に見舞われているとの報道も飛び交っており、この異常な政権が終了するのも時間の問題だと思われる。しかし、相変わらず、ロシア憎しという立場に立つ民族主義者は、何とか内戦終結を阻止しようと、この自治権付与の提案にも反対して騒動を起こしている。

こうして改憲の意味が真逆である点を除けば、ウクライナがこれまでかなり日本と似た経過を辿って来たことはすでに述べた通りである。自分たちが「ロシアに長年抑圧された被害者である」という被害者意識を煽られて、脱ロシア化を成し遂げさえすれば諸問題が解決すると思わされ、ナショナリズムに突き進んだ結果、民主化という大義名分の下、ウクライナは兄弟国であるロシアに敵対することになり内戦状態に陥ったことはすでに説明して来た。もしも日本国民が同様に外国への敵対感情を煽られれば、同じように内戦もしくは他国での戦争に駆り出される結果になる恐れがある。

だが、憎しみを煽られることが危険なのは、他国に対してだけではない。もし国民が安倍政権への憎しみを煽りたてられても、やはり同じように内戦という結果に至りかねないことを上記の記事は示唆している。

私が危惧するのは、デモを賞賛している知識人らの論調が日に日に過激化して来ていることである。フランス革命に言及した坂本龍一氏だけではない。怒りの論調は他に数えきれないほど存在するが、もともと過激な用語を好んで用いる反対派の常連ではない人々も、このデモをきっかけに普段と比べかなり似合わない言葉を使い始めている。いくつかの事例をピックアップしてみる。

「新入社員を自衛隊派遣」する「現代版徴兵制」が検討されていたらしい。こんな不埒な輩を叩きのめすためにも、今日は国会へ行こう。 くろねこの短語 2015年8月30日 (日)


< 怒りの12万人国会包囲で安倍暴政は最終章へ

植草一秀氏のブログから抜粋 2015年8月31日 (月)

マスゴミに指令を出して、情報封印しているにもかかわらず、草の根の情報を広がりは、もはや抑えることができない。
それでも安倍政権は強行採決に突入するだろう。
しかし、それが致命傷になる。

主権者多数が強硬に反対しているのだ。
もはや、この主権者は
サイレント・マジョリティー
ではない。

怒りのマジョリティー
なのだ。

潮目は変わり、安倍政権の「バカの壁」が崩壊する日は目前に迫っている。


過激発言に加え、さらに問題なのは、この大規模デモが本当に「草の根運動」なのかどうかという点である。(草の根運動を装った人工芝運動が存在することについては、他所で詳しく解説されているので、ここでは言及しない。)

さらに、怒りのマジョリティという言葉も、どこかしらボリシェヴィズムを彷彿とさせる(ボリシェヴィキとは多数派すなわちマジョリティのことである。)

SEALDsについては、このブログで大本営発表を思わせる政治キャンペーンの典型例として幾度も挙げて来たハフィントンポストの記事が、リーダーの奥田愛基氏を取り上げて、大々的に賞賛していることからも、非常に疑問を覚える。今回の12万人とも、30万人とも、様々な数字が飛び交う大規模デモには、無数の市民団体が参加しているにも関わらず、主要メディアの多くが、これをすべてSEALDsの功績にしてしまっているところに、深い疑念が生じざるを得ない。これは決して理由なきことではあるまい。

一部の人々は、早くからこうした動きを察知して、SEALDsは草の根運動ではないと警告して来た。ほとんどの市民デモが、メディアに取り上げられることなく無視される中で、なぜこの学生団体だけが、読売などで大々的に報道されているのだろうか?
 
【安保法案】SEALDs・奥田愛基さん「民主主義って何だ?問い続ける」(インタビュー)

ハフィントンポスト  投稿日: 2015年08月31日 11時38分 JST

また、民主主義とは何かというSEALDsの問いかけも、安保法制や改憲を論じるのには的が外れている。むしろ、安保法制と改憲草案の本質的な疑問を覆い隠すためのある種のスピン的な役割を果たしているのではないかと見られる。安保法制や自民党の憲法改正草案の恐ろしさについては、これを承認させようと政権側が取った手続きの強引さの問題もさることながら、案そのものが持つイデオロギーの危険以上に、論ずべき重大問題はない。ところが、SEALDsは、人々の関心を法案の内容それ自体から、これを承認させるための手続きの方へと巧みにそらそうとする。その結果、手続きさえ強引なものでなければ、安保法案も承認可能、改憲も可能という結論が出かねないのだ。そこには、人々を巧みに国民投票へと導くことによって、民主主義的手続きを踏んだという形式さえ整えれば、安保法制や改憲であろうと、どんな危険な法案であろうと、承認してしまいかねない恐ろしさがある。
 
今回のデモが海外メディアでも取り上げられたのを機に、「若者たちが立ち上がった!」などとデモをもてはやす国内記事もあるが、政権側からの過小評価の分を割り引いたとしても、実際のところ、これは決して若者たちを中心とするデモではなかったのである。「ぶっ壊せ!」の緊急集会もそうであるように、デモや集会参加者の年齢層はかなり高く(人口から考えれば当然であるが)、ほとんどが40代以上の年配者、学生運動世代の高齢者もかなり多い。いわば、若者は美しい広告として利用するためにデモの前面に押し出されているだけである。

若者たち自身にもそうしたことはよく分かっているのか、彼ら自身にもそれなりの狙いがあって、年寄りを存分に利用しているのだと言える。若者だから無私で純粋などということは決して考えるべきではない。むしろ、大人たちにさんざん馬鹿にされたり、軽んじられたりして来た「ゆとり世代」には、大人たちに対する特に根強い不信感や不満がくすぶっていることは、彼らの様々な発言を通して見ることが出来る。

しかし、もともと大人に対しては敵意にも近い、強い不信感と警戒心を持っているのが本来の若者の自然な姿でもある。それはかつての学生運動世代が、大学当局に対してどれほどの不信感を持っていたかを思い出すだけで良かろう。

だから、若者たちは若者たちで、決して大人たちに利用されまいと考えて、大人たちの野心を警戒しながらも、あくまで自己の利益のために、大人たちを利用して、運動を進めようとしている。(SEALDsが特定の政党にこだわらないのも、できるだけ多く支持者を増やすためである。)そのことは以上のハフィントンポストの記事で、SEALDsの奥田愛基氏自身が明言している。

――既存の政党や学生運動団体と距離を置くのはなぜですか?

「どこかの政党」となった瞬間に、その政党の支持者しか来られなくなるので、特定政党は応援しない。けど、野党に協力して安保法制に反対してほしいので、反対している野党はどこでも応援します。自民党の議員でも反対するんであれば応援しますよ。

――共産党が顕著ですけど、逆に政党の側がSEALDsにすり寄ってきているという印象があります。

それはあるんじゃないですか。こないだも街宣許可を取っている街宣車が必要になって、そんなの持ってるのは政党しかないから、民主、社民、共産にお願いしました。最終的に共産党系の全労連がでかい車をタダで貸してくれたので、ありがたくお借りしましたけど、政治家に利用されてるというより「利用してる」という感じです。

この若者たちが、自分たちをもてはやし、近づいて来る大人たちを決して無条件に信用してはいない様子が、この発言からも、手に取るように理解できる。彼らはその若者らしい熱意溢れる美しい姿で、色々な思惑を持った政治家たちの関心を多分にひきつけながらも、むしろ、自己の利益のために、どうやって彼らを逆に利用してやれるかを考えているのである。

同様の考えを、SEALDsを賞賛する人があからさまに述べている。大人たちを存分に利用して行けるところまでのし上がれ、目指すは政界、ということである。

新党プラン…SEALDs新党 から抜粋

生活の党には小沢一郎氏がいます。ド素人でも当選させてくれますよ。新人でも当選させる力量なら、日本にこれ以上の人がいません。
<中略>

SEALDsと同様に、自民党ブログのデマ被害を浴びたのが小沢氏と山本氏です。
<中略>あの自民党が皆で叩いたのだから、3者とも愛国者です。

山本氏と小沢氏、この両者は共同代表なので、もし意見が食い違って二択の場面が来たなら、山本太郎議員に皆でついて行くこと。
(当選するまでは)小沢氏にコビ売っておこう(笑)。 
小沢&山本太郎&SEALDsなら、来年一気に最大議席数が狙えますよ。


このSEALDsへの応援者は、要するに、すでに悪役が定着してしまっている政権与党と闘う正義の味方、不当に迫害されて蔑視されて来た犠牲者に見える小沢氏や山本氏を存分に利用して、若者たちに、政界への階段を駆け上がれ、と言っているのである。自民党政権の支配が悪のように見えれば見えるほど、それと闘っている人々は、正義の味方のように輝く。その正義のオーラを十分に利用して、自分たちも政界へ進出する道筋をつけよというのである。結局、この主張からはこうした人々のすべての目的は政界に、権力奪取にある様子が見えて来る。
 
今回のデモでは、あたかも学者と弁護士と学生や主婦やら、世代や職業を超えてすべての人々が連帯しているかのように語られているが、それも単なる見せかけであり、幻想に過ぎないものと見るべきであろう。労使の連帯があり得ないのと同様、学者と学生、若者と大人の連帯なども、本当のところ、あり得ない幻想だと考えた方が良い。

にも関わらず、どうしてそれほど様々な社会層の人々が集まったのかと言えば、それは弱さや問題を抱える人たち同士が、怒りと不信感と憎しみで一時的に手を結び、社会の解放、弱者の解放の旗印の下に、互いを利用し合いながら、自分たちの身の安全と立場を確保し、同時に出世のチャンスを狙っているだけだと見られる。むろん、私心なくデモに参加し利用されている人たちもいるのだが、その人たちには、このデモを指揮する人々が何を目的にしているのか、そんなことまでは分からない。

つまり、デモを指揮している人たちは何のためにこの運動を盛り上げているのか? 市民の解放のため? いや、安倍政権を打倒して、権力の空白を作るため。その空白に入り込むためである。

確かに、これほどまでに多くの社会層の人々を敵に回して怒らせた事実には、自民党政権の著しい劣化現象が表れているため、ポロシェンコ•ヤツェニューク政権と同様、この政権には確かに終わりの日が近づいている様子が感じられる。

だが、政権が倒れるのに乗じて権力奪取を狙っている人々は一体、何なのだろうか。しかも、長年かけて権力と闘って迫害されて来た歴史があるわけでもないのに、そのような古参の闘士を逆に利用して、政界への階段を駆け上がろうとしているこの人々は何なのか。

こうした観点からも、弱者救済を旗印に掲げれば、どんな人間も簡単に自分を正義の味方に見せかけて権力を手にできる恐ろしさを見ることが出来る。

奥田氏の理念に多大な影響を与えているであろう同氏の父であるバプテスト教会牧師の理念の間違いについては、すでに記事で述べた。その記事において私は、インドのコルカタ(カルカッタ)が生涯の活動の場となったマザー・テレサや、釜ヶ崎が生涯を決定的に左右する原風景となった奥田知志牧師の例を同時に取り上げて、彼らの唱える「弱者救済の思想」は、うわべはヒューマニズムの観点から美しいものに見えたとしても、その本質は反聖書的なものであり、神によらない人間の自己救済であり、福音に反していることを述べた。

キリスト教界で繰り広げられたカルト被害者救済活動も、再三に渡り、指摘して来た通り、これと同種の偽りの弱者救済活動である。

一言で言えば、カルト被害者救済活動の支持者にとっては、カルト問題が深刻化して、「カルトの親玉」がたくさん登場してくれればくれるほど、商売がもうかるのである。彼らは一見、弱者を救済することを掲げているように見えても、実際には、問題解決などに本気で着手するはずもない。彼らが立ち向かっている相手が、極悪人のように見えれば見えるほど、彼ら自身は正義の味方のように光輝いて見え、それが彼らの手柄になり、栄光になるためである。極悪人がいなくなってしまえば、商売の必要がなくなる。いわば、敵を作り続けること、絶え間なく正義の戦いを演じて見せること、自分たちを「悪人をやっつける正義の味方」、「弱者の救済者」に見せかけて、そこから利益を得ることが、この人々の生業であり、商売なのである。政界はもっとそういう場所であると言える。

被害者意識を持つ人々は、その被害者意識ある限り、こうした人々に簡単に弱みを利用されてしまう。だからこそ、怒りと憎しみを捨てて被害者意識と手を切ることこそ、自立への不可欠な一歩だと述べて来たのである。
 
弱さを抱えた人々が互いを利用し合い、食い物にし合いながら繰り広げる偽りの救済運動は、その利用のし合いの中で、常に泥沼化して来た。確かに、現政権にはそう遠くない日に終わりが来る可能性があるが、資本主義の打倒を目指して成立した社会主義国が、次々と資本主義国よりも先に終焉を迎えたように、怨念と被害者意識に基づく反対運動は、場合によっては、打倒を目指している政敵よりも、もっと早くに暗黒状態に落ち込み、瓦解する可能性がある。
 
「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(Ⅱテモテ3:13)

・・・

聖書は、救済者を装って現れる反キリストに惑わされるなと警告している。終わりの時代には、世が荒れて行くに連れて、キリストのような救済者、正義の味方を装って、様々な人物があちらこちらに乱立する時代になることが、聖書では警告されている。反キリストの特徴とは、人々の関心を「内住のキリスト」への内なる信仰から引き離し、自分の外側にいる目に見える特定の人物へ引きつけ、その人物を中心に「あの場所」、「この場所」といった特定の時空間に人々を動員することにある。あの集会、この集会、あの先生、この指導者のもとへ…、常に自分の外側にあるものに信仰者の関心を引きつけ、内なるキリストから逸らそうとするのである。そういう人物について行くな、と聖書は警告している。(以下の御言葉に照らし合わせてみると、奥田愛基氏の名前はこの点でかなり象徴的ではないだろうか。)

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」(マタイ24:23-24)

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものであはりません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。
イエスは弟子たちに言われた。「人のこの日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

イエスの教えはあくまで「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)というものあり、「イエスの名を語るあの有名で偉い人、あなたをいかにも救済してくれそうなこの親切で私心のない人について行きなさい」というものではない。
  
キリストは信仰者の外側にいる誰か偉そうな人の中にいるのではなく、あるいは社会的弱者の内側に偏在しているわけでもなく、信仰を通じて、信じる者自身の内側に住んで下さるのである。

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)
 
しかし、今日のキリスト教においては、これが全て逆さまになっており、信仰者は自分の内におられるキリストのことは信じようともせずに、目に見えるあの指導者、この指導者、あの集会、この集会にキリストを求めて馳せ参じている。社会の様相もこれと同じである。人々の弱みを巧みに握って、それを解決してやるかのように見せかけている人々が、支配者となって君臨し、また権力を握るチャンスを狙っているのである。
   
これまで、「狭き門と広き門」というテーマで、異端の教えの特徴に関する記事にも書いて来た通り、異端の教えは必ず、キリストへのまことの信仰を持たない圧倒的大多数(マジョリティ)を、神への信仰抜きに、この世的・人間的な方法で救済‭しようとする。

キリストの十字架を介さなければ誰も救われないという、聖書に基づく神の救いは、確かに、ある意味では人にとって「狭き門」である。ドストエフスキーの描いた大審問官は、人類の圧倒的大多数は、信仰だけに頼って生きられるほど強くないため、キリストの救いでは救われず、このようにキリストの狭い救いでは見捨てられる可哀想な人類の圧倒的大多数(マジョリティ)を救済してやるために、自分が偽りの教義を作り出し、広い救いを提唱してやるのだと述べる。

反キリストの特徴は、こうして常にマジョリティのためのお手軽な福音、お手軽な救済を提唱することにある。マザー・テレサも、サンダー・シングもそうであったように、何らかのきっかけで、既存のキリスト教界の「排他性」や「冷酷さ・狭量さ」に絶望し、キリスト教に躓いた人々が、従来のキリスト教からは打ち捨てられ、見捨てられるしかないマジョリティのための「福音」として、キリストの十字架によらない、直接無媒介の救済に従事するのである。

ドストエフスキーの大審問官は、人類はキリストの高すぎる要求に耐えられないので、信仰によって生きることはできず、代わりに自分がお手軽な福音を作って、石をパンに変えて民衆に与えてやることにより、民衆を支配するのだと述べる。パンを求める民衆は、弱みを握られているので、言いなりになるしかなく、パンをくれる支配者こそ自分たちの解放者だと考えて、喜んで畜群となって支配者の後をついて行くだろうと言う。それが偽の救済であることを重々承知で、大審問官はそれでも、神の方法では、この愚かで哀れな圧倒的大多数は救われる見込みがないのだから、自分はこの哀れな人々に対して良いことをしてやっているのだと反論する。

この圧倒的大多数の救済に見せかけた偽りのヒューマニズムは、どんなにうわべは人間に優しく見えても、本質的には、人間蔑視に基づく人間抑圧の思想である。このような偽りの救済は、人を目に見える指導者、支配者に依存させて家畜のように支配するだけで、決して自由にはしない。弱みを抱えた人を救済するように見せかけて、いつまでも救済する側の人間との支配関係の中に閉じ込めてしまうだけである。ドストエフスキーの小説は、来るべき時代を予見していたのではないかとよく言われるが、そこには反キリストの民衆支配の思想が非常に端的に記されている。

ボリシェヴィズムも、多数派の支配と言いながら、結局のところ、レーニン含む指導者は、初めから、少数精鋭による党の指導を提唱しており、決して民衆(多数者)に支配権を委ねるつもりはなかった。むしろ、大多数の民衆は愚かで無知な人々であり、少数のエリートによって指導されるにふさわしいと考えていた。だから、マジョリティの怒りは、革命によって少数者が政権奪取を成し遂げるために都合よく利用されただけであり、本当のところは、このマジョリティは理想的な人間になるためにはまだまだ指導や再教育が必要な半人前の人々だとみなされていたのである。

このようにマジョリティの怒りを都合よく利用して、あたかも圧倒的大多数を救済するかのように見せかけて、その実、彼らを新たな指導者に依存させて行き、支配するお手軽な「福音」としての弱者救済の思想は、必ず、地上的な衣食住の問題解決を最優先課題とし、信仰よりも優先あする。人が生きるために最も肝心なものは何かという問いに対し、こうした偽りの救済思想は必ず衣食住を含めた物質的、精神的、この世的な生活条件を挙げる。 「まずわれらにパンを与えよ、その後に善行を求めよ」というわけで、食が不足して生存の恐怖に陥れば、人が理性を失って憤怒のあまり野獣のように凶暴になり、打ちこわしや暴力に走る弱さや愚かさも、優しく認めてやる。全ての混乱は生活苦から来るものであって、人間の罪深さから生まれているのではないというわけである。

しかし、聖書の教える順序はそれとは逆である。「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4) 聖書は、目に見える地上のパンが人を生かすのではなく、見えない霊的なパンである神の御言葉が人を生かすのだと教える。この世の物質的な支配体系を決定するのは、霊的な支配体系なのである。
 

そこで、弱者救済を掲げる色とりどりの旗がどれほど乱立してはためいていたとしても、これらはみな広き門であり、目的は同じであると分かる。神ではなく、人間の掲げる解放の旗の下にいる限り、決して人は弱さを脱することができない。そればかりか、民衆の弱みを巧みに利用して支配者になろうとする人々にまたも食い物にされる危険から離れられないのである。

だから、弱みを抱えた人々を飢えた畜群のように都合よく管理して支配権を争奪しようとする人々の戦いに利用されたり、巻き込まれないためには、目に見える救済者・指導者の後をついて行って地上のパンを彼らに乞うという生き方をやめるべきであると言える。朽ちてゆく、しかも、食後に腹の中で毒か石に変わるような有害なパンを目に見える人間に与えてもらう代わりに、天に無尽蔵の富を有しておられ、朽ちないパンをいつまでも永遠に供給することのできるまことの神にすべてを求め、この方をまことの支配者としてより頼んで生きることこそ最善である。神こそ揺るぎない救いの岩であり、人にとっての最良の安全地帯である。
 
どちらの門から入るのが望ましいか、マジョリティの福音というものが何を意味するのか、聖書に照らし合わせてよく考えてみるべきである。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには、自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけれられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:16-18)

 

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