忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

環境を創造する―キリストと共に統治する~主を待ち望み、その道を守る者は高くされて地を受け継ぐ~

 さあ、かわいている者は 
 みな水にきたれ。
 金のない者もきたれ。

 来て買い求めて食べよ。
 あなたがたは来て、金を出さずに、
 ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

 なぜ、あなたがたは、
 かてにもならぬもののために金を費やし、
 飽きることもできぬもののために労するのか。

 わたしによく聞き従え。
 そうすれば、良いものを食べることができ、
 最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

 耳を傾け、わたしにきて聞け。
 そうすれば、あなたがたは生きることができる。
 わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
 ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

 
見よ、わたしは彼を立てて、
 もろもろの民への証人とし、
 また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
 
 見よ、あなたは知らない国民を招く、
 あなたを知らない国民は
 あなたのもとに走ってくる。
 
 これあなたの神、主、
 イスラエルの聖者のゆえであり、
 主があなたに光栄を与えられたからである。

 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、 
 主を尋ねよ。
 近くおられるうちに呼び求めよ。

 悪しき者はその道を捨て、
 正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
 そうすれば、主は彼にあわれみを施される。

 われわれの神に帰れ、
 主は豊かにゆるしを与えられる。

 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
 主は言われる。

 天が地よりも高いように、
 わが道は、あなたがたの道よりも高く、
 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
 地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
 種まくものに種を与え、
 食べる者にかてを与える。

 このように、わが口から出る言葉も、
 むなしくわたしに帰らない。
 わたしの喜ぶところのことをなし、
 わたしが命じ送った事を果たす。

 あなたがたは喜びをもって出てきて、
 安らかに導かれて行く。
 山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、
 野にある木はみな手を打つ。

 いとすぎは、いばらに代って生え、
 ミルトスの木は、おどろに代って生える。
 これは主の記念となり、
 また、とこしえのしるしとなって、
 絶えることはない。

(イザヤ第55章)
 
   

神の憐れみは果てしなく大きく、深い。
人のすべての思いを超えてその恵みは大きい。

人の目に失敗や回り道のように見えることも、神にとっては何の障害にもならない。神は信じる者を栄光から栄光へと導こうと考えておられ、もし私たちがそれを信じさえするなら、それは可能となる。だから、周りでどんな嵐が起きようとも、神が天に準備しておられる祝福の御業を一心に見つめるのみである。

しかも、その恵みは信じる者にとって無償である。もし払わなければならない代価があるとすれば、それはキリストの贖いの十字架を信じることだけだ。

だから、あの集会、この集会、あの指導者、この指導者のもとには行かず、ただ内なるキリストを信じて、そこから神の恵みを引き出す秘訣を知ることである。あなたの周りで吹き荒れる混乱の嵐に心を向けず、ただ神のあなたへの真実、誠実さ、憐れみ、正義に一心に心を向けることだ。
 
全ての栄光をただ神お一人に捧げ、あなたの救いの岩なるお方を、天にも地にもただお一人に絞っておくことだ。自分が何を信じ、誰に頼っているのか態度を明確にし、ただ一人、人間を完全に救うことのできる方からすべての供給を受け、その方と共に、無から有を引き出して生きる秘訣を知ること・・・、多分、それだけが、これからの世を無事に生き抜くために必要な方法であろう。

神の恵みを一心に信じる人々に、神は特別なはからいを常にして下さる。そのことをこれまでの人生で私は幾度、確認して来たか知れない。その結果、生活に必要なすべてのものを私は主に乞うて主と共に入手して来た。
 
すでに記したように、神に願いを実現していただくために、徹夜断食祈祷を繰り返し、自分を痛めつけ、涙ながらに必死に懇願するという無益な方法を取る必要はない。信仰による創造は呼吸のように自然である。そして、それは神の側だけの仕事ではなく、神と人との共同作業なのである。

それほどまでに神は信じる人の願いを重んじ、その求めに快く耳を傾けて下さる。だから、仕事も、生活に必要なものも、すべて、主と人とが同労して、信仰によって呼び起こし、作り出していくことが可能なのである。これが信仰によって主と共に環境を創造することの一環である。
 
私が信仰によって得られたもののリストは果てしがなく、ここには書ききれないほどだ。
 
一年ほど前に、生活の足に新しいバイクが必要だと感じた。以前のものはとても思い出深いものであったが、年季が入りすぎたため、毎年、冬になるとエンジンのかかりが悪くなり、冷え込むとよくバッテリーが切れた。ある秋のよく晴れた日に、年配の女性が素敵なバイクに乗って颯爽と道を通り過ぎるのを見かけた。私には少し大きめかも知れないが、そのバイクの中型らしい大きさと、世代を問わない外観が気に入って心に留めた。
 
その後、色々カタログを見て、それらしいものがなかったので、別の商品を見るためにバイク屋を訪れた。すると、店員が私が偶然見かけたのと同じバイクが別の店にあることを告げて、取り寄せを勧めて来るのである。しかもかなり熱心に・・・。確かに、荷物の収納や、あらゆる点から見て、その選択が最も良さそうであった。こうして、不思議な運びで、まさに最初に心に決めた通りのものを主が送って下ったのである。

十年以上のペーパードライバー歴を破って再び運転を始めたときも、やはり信仰によった。初日の道中は、車屋さんが助けてくれたが、翌日からは主と私のみ。しかも、かなり難しいところに停車しなければならない。ぎこちない、不安を感じる運転再開ではあったが、同時に、大丈夫との確信が心の深いところにあった。しかも、その当時、私は仕事を中断していたのに、生活を縮小するのではなく、逆に拡張すべきであると感じたのである。

ある時点から、私は社会情勢などの先行きの不安から生活を縮小すべきではないという確信を持つようになった。人間的には何の保証があるわけでもない新たな一歩は、すべて信仰によった。そして、信じた通りになった。
  
同じように、仕事も主からいただいて来たので、対ロ制裁も、私の仕事には何ら影響を及ぼさなかった。むしろ、対ロ制裁など始まってもいなかった頃の方が、私は専門と無関係の仕事ばかりしていた。その頃、見かねた兄弟姉妹が、私に専門に戻るように忠告して来た。「あなたの持っている能力は神の許しなしに与えられるものではなく、偶然ではありません。ですから、それを神に捧げなさい。そうすれば、それをどう用いるべきかも、神が道を開いて下さいますよ。」

こうして私は専門に戻ったのだが、それで一件落着というわけにはいかなかった。転職もあり、その際、次の仕事は見つからないだろうと脅されたり、一部の兄弟姉妹から絶縁を言い渡されたこともあった。だが、人の言葉を信じずに、「権勢によらず、能力によらず、神の霊により」すべてが切り開かれることを信じて進んで行くと、実際に不思議なほどその通りになっていくのである。

こうしたことを通して、神は決して人の心の願いに反することを無理やり強制されることはなく、あくまで信じる者の願いを受け止め、それを共に実現へと導いて下さることが分かった。だが、ただ一つ、条件がある。それは願っているものが決して心の偶像にはならないことである。

私は過去に幾度もの剥ぎ取りを経験して来たし、自分の能力や経験により頼むことができないほどに自分を弱くされるという体験をも度々通らされた。それを経て、願っているものにもはやしがみつくことがなくなり、すべてをただ信仰を通して、神がなして下さることが自然に信じられる段階に来て、初めて、様々なものが与えられるのである。
 
私は以下の記事に、内にキリストをいただいている信仰者は、神が共に生きて下さるという意味で、世界の中心であるから、「キリスト者は自分のケーニヒスベルクに世界を集めることができる」ことを書いた。実際、本当にそうなりつつある。現在、社内では公用語が半ばロシア語のようになりかけているが、こうしてわざわざ他国へ出かけて行かずとも、他国の方からまるで人々が集まって来てくれるかのようである。だから、国外に出なかったことを悔やむ必要もない。
 
見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民はあなたのもとに走ってくる。」という冒頭で挙げた趣旨の御言葉は、聖書の他の箇所にも見られるが、これは信じる者にあてはまる原則のようである。主は信じる人に必要なすべてを供給するために環境を支配する力を持っておられる。主が共にいて下さるということには、それほどのインパクトが伴うのだ。

ところで、かなり以前に勤めていた会社にも、多くの外国籍の人々が勤務していた。彼らは社員として雇用されていたが、逆に、日本人の方に短期雇用の非正規雇用者が多く、私もそうであった。このことをロシアの友人に告げたところ、「そんなひどい国にこれ以上、とどまっていてはいけない」という返事が返って来た。

だが、私は人間的な考えで国を取り換えることをせず、その代り、信仰による不思議な方法により、主はその環境から私をエクソダスさせて下さったのである。

いつものごとく、そのエクソダスは、もしもその環境にしがみついていたならば、決して実現しなかったものであった。いつもそのような形で、神は制限つきの危険な状況から私を救い出され、広い新たな地峡に導いて下さるのであった。だが、私はいつも去って来た環境のことをあれこれ考えては、そのような結末になったのは失敗なのではないかと思い悩んだりしていた。ある信仰者の姉妹は生前、そういう話を聞くといつも、あっけらかんと「良かったじゃないの! 感謝だわ! 何を後悔することがあるのよ。それは主がそういう状況からあなたを救い出されたのよ!」と喜んでいた。

労働者派遣法改正の両院通過も、私にはもう話が無関係になってからのことであった。日本の労働環境の悪化には、それまでどれほど心を痛めていたか分からない。この夏、労働者派遣法の改正案の衆院での審議を巡って、議員らが議会でもみ合いとなっていたその日、私はこの法案の行く末に暗澹たる気持ちになりながら、私用で永田町を歩いていた。多くの派遣労働者が国会前につめかけ、デモをし、叫んでいるその様子に、自分のことのように共感を覚え、心を痛めていた。

だが、それでも、神の示されるエクソダスの方法は、人の考えるエクソダスの方法とは違うのである。「正義を唱えて、みんな一緒に脱出」という形には絶対にならない。そのことを私はこれまで何度も知らされて来た。これは安保法制にもあてはまることである。

人の考えでは、暴政や悪法は許すべきものでなく、これに断固立ち向かい、ただちに終わらせることにより、苦しんでいる全員を早急に救うことこそ、正義ということになろう。社会的弱者の救済のためにメガホンを持って叫び、誰も傷つかなくて良いように、一人も苦しまなくて良いように、悪人を糾弾し、これと闘って悪政を打倒し・・・、それこそが善意であり、情けであり、正義であり、真実であるように見受けられるだろう。

人の観点から見れば、こうして人の損失や痛みや恥を最小限に抑えることこそ、正義であり、善なのである。もっと言えば、人間が決して死を味わうことなく、痛みや苦しみを免れて、無傷であることだけが、人にとっての正義であり、最善なのである。だが、それは人の考える最善であっても、神の方法ではない。神はあくまでキリストを指示され、「信仰による解決」を示される。

キリストは死や痛み苦しみを避けて傷つかない道を選ばなかった。むしろ、神は御子キリストにすべての罪咎を負わせ、彼を神に対する生きた犠牲の子羊として十字架で死に渡し、引き裂いたのである。今日、人はキリストの犠牲を自分自身で負わなくても良いが、それでも、十字架の死と復活の原則は生きている。復活に至るためには、人が常にキリストと共なる十字架の下で己を低くし、霊的な死を受けるという行程が必要になる。この死の原則が働くときに、同時に復活の命が働きだすのであり、死未満のところでは、神の命が生きてこないのである。

このことを別の言葉で言いかえると、人が自分自身の願いは正当なものであり、何が何でもかなえられるべきだと考えてこれにしがみつき、自分の願望を偶像視し、神をそのために利用しているうちは、それが実現する見込みはほとんどない。自分が傷つかず苦しまないで済む安楽な道だけを願い、その願いのために神を利用しようとしているうちは、祈っても効果がない。むしろ、自分の願望が否定されるように見える時にも、へりくだり、自分の美を傷つけられたり、引き裂かれることにも同意し、信仰によって主を待ち望むという過程が必要になる。己の力で苦しみを避けようと、自分で自分を助けようともがくのでなく、苦しみを通過し、己を低くされることをも甘んじて受ける姿勢を示すときに、必ず、神はその人を早急にその境遇から引き上げて下さる。長く苦しみ続ける必要はない。たとえ束の間であっても良いから、己の安楽と美だけに固執せず、人に誤解されたり、傷つけられたり、非難されたりして、己を引き裂かれるときにも、神を信じて待ち望み、従順である姿勢を見せることが肝心なのである。

だから、キリスト以外には救いはないということを示すために、神は人の正義が微塵に打ち砕かれ、人の方法が全て失敗に終わるまで、あえて人の痛みと損失を許され、事態を傍観されるということがありうるのではないかと私は考えている。

これは峻厳な原則である。国民の反発がこれほど高まっているにも関わらず、安倍政権はすぐには終わらないと私が予測し、また、たとえこの政権が打倒されたからと言って、新たな政権の行き着く先も、ほぼ変わらないと予想するのも、そのためである。

それは、こうした時代の問題から逃れるために、唯一有効な対策は、人間の正義を掲げる反対運動にはなく、デモや政権交代にもなく、被害者救済活動にもなく、信仰によるエクソダスにしかないと確信するからである。神の救いによらなければ、一切の救済がないということが明確になるまで、問題はより深刻化して行く可能性さえあると私は思っている。そのことが分からない人々は、またもや安易な解決に飛びついて、偽の救済者に騙されるという道を辿ることになるのかも知れない・・・。

デモや、カルト被害者救済活動のような、人の目に正義と見える各種の反対運動が、人をどこに導くのか、その結果は、おそらくそれほど経たないうちに明白となるだろう。

カルト被害者救済活動は、当初は絶大な規模を誇り、その支援者たちは、ネトウヨのように大挙して反対者を吊し上げては、自分たちは正義を執行したつもりになって興奮して喜んでいたが、ここ数年間でめっきり支持者は減って、ほんの数えるほどしかいなくなった。その残党も、あと数年のうちに、すっかりいなくなってしまうだろうと予測される。それは、国民生活そのものが急速に地盤沈下して、人々が自分を養うだけで精一杯となり、ネット上で見も知らない他人を貶めるという無益な活動に精魂を費やしていられるような余裕が生活から消滅してしまったためである。もっと厳しい言葉で言うならば、そこまで国民生活が窮乏したのも、こうした精神性が招いた当然の結果であったとさえ言えるかも知れない。

かつて貧しい人を蔑みながら、自分は裕福だと誇っていた人々の生活も、時代の悪化と共にじわじわと地盤沈下して来た。豊かな時代に、富を築き裕福になることは決して難しい相談ではない。人はそれを自分の手柄だと思って誇っているかも知れないが、何の法則によってその人が豊かになったのかも、いずれ明らかになる。時代の法則によって富んだ人は、時代の法則によって凋落する可能性がある。必要なのは、外側の環境に支配されずに、内なる主と共に環境を支配して生きる法則を知ることである。

これから来る時代は、もしかすると、信仰によって生きる秘訣を知らなければ、大いに苦難の時代となる可能性があるように思う。だからこそ、もし同じ時間を費やすならば、永遠に価値ある作業、自分にとって真に益になる作業に従事した方がはるかに良い選択だと思わないだろうか? 

人間による正義と、神の正義と、どちらを選んで生きても、その人の自由だが、洪水が押し寄せて来たときに、どの家が残り、どの家が倒れるか、その結果が誰の目にも歴然たるものであるように、誰が永遠に揺るがない土台の上に自分の人生を築いたのかも、それほど年数が経たないうちに、明白な結果となって現れるだろう。

天の原則によって生きるのか、地の原則によって生きるのか、それが人の人生を決定的に分けるような時代が到来しつつあるのかも知れない。

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25:29)

「天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:12)
 
さて、話を戻せば、「信仰によるエクソダス」は「ラクダが針の穴を通過する」ような出来事であり、常に霊的な死を帯びて、神とその人以外にはほとんどその意味も分からないような、目立たない形で行われる。

それは決して、メガホンを持って巷で声高に正義を叫び、大勢の人々の注目を集めながら、自分を正義の味方のように見せかけて、悪人を糾弾し、「みんな一緒の一括の救い」を唱えて、人間が傷つかないことだけを最高の目的に掲げるヒューマニズムによる一大連帯運動を築いて進んでいくという形にはならないーー。

信仰によるエクソダスは、他でもないあなたのために、神が用意されるひそやかで個人的な救いであり、ひょっとすると、あなた以外には、誰もその意味を理解する人も、着いて来る人もいないかも知れない。

エクソダスに先立って、あなたの心に抑えがたい心の渇望が起きる。今のままでいてはならないと、神が本当に願っておられる自由と豊かさにたどり着くためには、自由を求めて新たな出発をしなければならないと。

だが、その環境に定着して満足してしまっている他人には、あなたの感じる焦燥感が理解できない。なぜあなたが彼らを置いて出発しなければならないのかも理解できない。たとえ計画を打ち明けたとしても、反発と非難しかかえって来ないかも知れない。だから、あなたはこの人々の理解と賛同を除外して進んで行かなくてはならなくなる。それはある意味で人にとってつらい体験である。

ノアも嘲笑されながら箱舟を築いたであろうし、ロトと家族も嘲笑されながら、ソドムを出て行った。彼らが出て行った後に、崩壊が起こった。滅びが来るまで、人々はなぜ彼らが出て行ったのか分からなかった。信仰によるエクソダスは、ほとんどの場合、大々的な道連れを伴うものではなく、神とあなたしか知らないひそやかな行程である。歴代の偉大な信仰者の先人らはいつもそのようにして住み慣れた土地や故郷を離れ、まだ見ぬ都へ旅立って行った。 たとえ目に見える保証がなかったとしても、心には確信があった。神は必ず信じる者を乳と蜜の流れる豊かな土地へ導いて下さると――。それは最終的には天の都へと続く道である。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち、天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥じとなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(へブル11:15-16)
 
だから、人の観点から、憤慨したくなる悪法は多いかも知れないが、人間的な思いでそれに立ち向かう必要はないし、相手の心を変えようとすることも無益である。神はただ「それはあなたには触れない」と信仰者に向かって語られる。まさに詩編第91篇に書いてあることが実現する。

 「千人が、あなたのかたわらに、
 万人が、あなたの右手に倒れても、
 
それはあなたには、近づかない。
 あなたはただ、それを目にし、
 悪者への報いを見るだけである。
 それはあなたが私の避け所である主を、
 いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
(詩編91:7-9)


「あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、
 あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
 おのれの道の栄える者に対して、
 悪意を遂げようとする人に対して、
 腹を立てるな。

 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
 腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
 悪を行なう者は断ち切られる。
 しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」(詩編37:7-9)
 
 

聖書にある五人の賢い花嫁たちのたとえのことを思い出す。愚かな花嫁たちが油を切らしたときに、貸してほしいと言われても、彼女たちには貸すことができなかった。油は、常に一人分である。可哀想な人をどんなに助けてやりたいと願ったとしても、どんなに人の滅びはあるまじき事だと思ったとしても、信仰を他人に分けてやることや、貸してやることはできない。ここに非常に峻厳な原則がある。信仰は、神と人との間の極めて個人的な関係であり、その人自身の選択なのである。

     
「人の歩みは主によって確かにされる。
主はその人の道を喜ばれる。
その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。
主がその手をささえておられるからだ。

<…>
正しい者の口は知恵を語り、
その舌は公義を告げる。
心に神のみおしえがあり、
彼の歩みはよろけない。

悪者は正しい者を待ち伏せ、
彼を殺そうとする。
主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、
彼がさばかれるとき、彼を罪に定めない。

主を待ち望め。その道を守れ。
そうすれば、主はあなたを高く上げて、
地を受け継がせてくださる。
あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

私は悪者の横暴を見た。
彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。
だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。
私は彼を探し求めたが見つからなかった。

<…>
正しい者の救いは、主から来る。
苦難のときの彼らのとりでは主である。
主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。
主は、悪者どもから彼らを解き放ち、
彼らを救われる。
彼らが主に身を避けるからだ。

(詩篇第37編より)

PR