忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

天の経済によって生きる

なぜ以下の記事でオースチン・スパークスを引用したかというと、「天の経済に生きる」ことが今年のテーマとなりそうだからだ。
いや、このテーマは、ここへ来たときからずっと模索し続けて来たものである。

「天の経済に生きる」とは、言い換えれば、信じる者がこの世の経済体系に支配されて生きるのではなく、まことの命であるキリストご自身からすべてを引き出し、天の国籍への帰属によって生きることを意味する。

つまり、信者が生活のすべての必要、生きる目的、必要の何もかもを、すべてをただキリストご自身から供給していただき、あらゆる面で彼によって生きることを意味する。もっと言うならば、あらゆるきっかけを通して、信者とキリストとの合一がより深まっていくことにより、信じる者が地上生活を通してキリストにますます近づき、一つとされていく過程である。

このようにして、信者があらゆる面でキリストと直接結ばれ、すべての点においてキリストとの結合によって生きること、これこそ、召し出された者たちの究極的な使命なのである。

さて、十字架においてキリストと自分が一つであることを経験し、神の国がキリストと共に自分の内に確かに到来していることを知った信者は、自分がもはや地上の国籍によって生きているのではなく、天に帰属する者であることが分かる。

その時から、いわば、信者は二重の帰属先を持つことになる。地上と、天と、二つの異なる体系に身を置いて生きることになる。そして、時を追うごとに、どちらが真のリアリティであるかが、明確になって来る。それによって、信者は地上の生活と同じように、天の生活も‪リアリティであり、天的体系は地上的体系を超越し、支配するものであることを知るようになる。

(神の国とは、神の霊に属し、神の霊によって支配される霊的体系であり、聖書の言うように、信じる者の内側に、信仰を通して到来しているものであって、断じて、死後になってようやく人が足を踏み入れる別世界のことではない。また、一部の異端が主張しているような地上天国のような、この地上と同一の世界でもない。)

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)

暗い洞窟の中では光が差し込むまでは何があるのか全く分からないように、神の国も五感によって知覚できるものではない。信仰を通じて信じる者に到来している神の国は、キリストによって照らされなければ、その存在すら人は誰も知覚することはできない。だが、信じる者がキリストと一つになって生き始める時、暗い洞窟のように未知の世界であった天の霊的体系が、その性質や法則性を少しずつ明らかにして行く…。

たとえば、天の国籍が信者に保証している事柄の数々がある。

地上の国籍も、私たちに何がしかの保護を与えてくれるが、地上の国籍は失われることもあり、また、その保護も絶えず変化する不完全、不十分なものである。

国籍も含めて、地上の居場所はどれも人にとって極めて失われやすいものである。それを維持するために、人はいつも何がしかのものをこの世に納めなければならない。地上で生きる限り、人はどんなに自分の居場所を確保したつもりになっても、常に欠乏や、死の恐怖に脅かされ続ける。食糧危機、生存の危機、様々な危険が絶えず人を見舞う・・・地上に国籍があったからとて、これらの恐怖から逃れられる人は誰もいない。

地上の居場所は常に人に向かって言う、「あなたは地上で生きるのには資格不十分です。あなたがこの世に納めているものは甚だ不十分です!もっと幸せな人生を生きたいのなら、あなたはもっと努力して、我々に納めるものを増やさねばなりません!」

かくて、地上で居場所を安泰にするためには、絶え間ない努力が必要となる。学校で、会社で、家庭で、教会で(たとえキリストの名をかたっていたとしても、組織としての教会は言うまでもなく地上的居場所である)、自分の居場所を確実なものとし、社会に自分をさらに認めてもらうために、人は絶え間なく何者かに奉仕し自分をアピールし続けなければならない。しかし、仕えても、仕えても、これで安泰という時は来ず、まるで終わりなき自転車操業のような人生が待っているだけである。

そのうち人はその理不尽さに気づくようになる。努力しても、努力しても、それに見合った報酬が得られないのがこの世であると。ただ自分の命を維持するためだけに、恐ろしく割に合わない努力を強いられ、なお、解決を見いだせないこの世は全く何かがおかしいと。ここでは全くもって恐ろしく人間を愚弄し嘲笑するような悪意ある理不尽な法則性が働いているとしか言えないと…。

「<…>全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:18)

しかしながら、キリストにあって、天には、これとは全く違った体系が存在する。そして信じる者は、死を待たずとも、この地上において、信仰を通じて、天の霊的体系を生きることができるのである。できるばかりか、それが神の御心であると言って差し支えない。

天の国籍が私たちに与えてくれる保護は、地上の国籍とは比べものにもならないほど絶大なものである。それはただ生き永らえるためだけに、人が絶え間ない苦労や心痛を強いられる地上的な生とは全く別のものである。

まず、神は人を創造した時、人が地上で豊かな人生を送り、地を治めることを目的としておられた。全地は堕落してしまったものの、この目的は今も変わってはいない。神は人が命の豊かさを享受して生きるようにと今も願っておられる。

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。<…>」(創世記1:28)

このことは、人が地上で栄耀栄華を極めることとは異なる。自分のために富を築くのではなく、キリストにあって、彼の命によって、信仰者が豊かな命を享受し、地上を治める者となることが神の願いであるということを意味する。今、この世では、格差社会が進み、生むことも、ふえることも、地を従えることもできない不毛な人生が多くの人々を待ち受けているが、天の法則性はこれとは全く逆のものなのである。

「<…>私は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:9-10)

キリストの中には、安息がある。悪魔に支配される地上の理不尽な体系は、人にただ生きるためだけに割に合わない苦労を強いた挙句、果ては約束の保証を与えず、人を滅ぼしてしまう。しかし、キリストの命に支配される天の体系は、信じる人が豊かに生きることができるためにすべてを保証し、供給する。羊が牧草を見つけるように、信じる者はキリストの命の中に必要のすべてを見いだす。それゆえ、そこに安息がある。キリストの命は信じる者にとって文字通りすべての解決であり、すべての必要を満たすものなのである。

だからこそ、地上の必要のことで思い煩うなという次の御言葉が意味を持つのである。全く驚くべきことに、神の国においては、地上において人が第一に心を砕いている生存のための必要性が、全く二義的なものとして退けられている。

 「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれがものではありませんか。」(マタイ6:25-26)

そればかりか、さらに驚くべきことに、この御言葉を通して、主イエスは、人は労働によって、もしくは自分の努力によって生存が保証されるのではない、と示しているのである。空の鳥も、野の花も、労働を全くせず、自分で自分を養う努力をしていない。だが、神はこれらの命を養って下さっている、まして、こうした生き物にまさる人間を、神が信仰を通して無条件に養って下さらないことがあるはずがない、と言っているのである。

このことは、人は労働によって自分を養わなければ(もしくは、労働や努力によって絶え間なく自分で自分を贖わなければ)生きられないというこの世の生活の原則を完全に否定している。とにかく御言葉は、神の国の法則性は、人が自分の努力によって自分を生かすというものではなく、神がその人を生かすのだから、自分で自分をどう養おうかと絶え間なく自分の命の心配をするのはやめなさい、と幾度も念押ししているのである。


「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:31-34)

そして、自分の命をどうつなぐかという生存の恐怖に目を向ける代わりに、神の国とその義を第一に求めなさい、と言うのである。

このように神が人を生存の恐怖から解き放つことのできる根拠は、キリストが十字架において人を死に定める力を持つ悪魔を滅ぼした、ということにある。これを信じることによって、人は絶え間なく自分を脅かす死の恐怖から解放される根拠を得たのである。

「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

そして、単に死に脅かされることから解放されたというだけでは、人の信仰の歩みの半分にも満たない。ここから、神の国とは一体、いかなるものなのか、天の霊的体系とはどういう法則性を持つものなのか、信仰者の探索が始まる。自分を解放することができたキリストの命の豊かさとは、一体、どのようなものなのか、自分に約束されたものはどのようにはかりしれない価値を持つものなのか、天に蓄えられた無尽蔵の富とは何か、という信者の飽くことのない模索が始まる。そしてこの壮大な探求は、最終的には天のエルサレムへとつながって行くのである。

PR