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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

一事不再理の原則(2) ~自らを神として法と裁きを否定する人たち―日本のグノーシス主義的原初回帰~

前の論考において、私は日本がグノーシス主義的原初回帰の道を歩もうとしていることの危険性について述べた。これは極めて危険な道で、単に歴史に逆らうだけでなく、いずれ神に逆らう道である。

この点で、今年(注:この記事は2014年に書かれた)2月12日に集団的自衛権の行使容認に関して安倍首相が行なった国会答弁は、明確に越えてはならない一線を越えてしまったと私は認識している。

「最高責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても、私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ 」

首相がついに最も言ってはならないことを言ってしまった、という印象を受けた瞬間であった。

安倍首相のこの発言は、集団的自衛権の行使容認は、誰から指示されたものでもなく、首相自らの信念・悲願であることを示している。また、その方針に基づいてこれから政府が行なうであろうこと、その結果起こることの全責任は、ただひとり首相にのみあり、彼だけが裁かれることになるのだと、首相自らが認めたことを意味する。

安倍首相はこれにより、自分は国の最高法規である憲法以上の存在であり、この世のあらゆる法規を超えた最高責任者であると宣言してしまったのだ。

この発言は憲法によって時の為政者が受けるべき制限をも認めず、つまり立憲主義そのものの否定する発言として、自らを神とするにも等しい。

何よりも恐ろしいのは、政治的な主張ではなく、その根底に流れる思想である。

私は以下の文化庁の宗教法人審議会議事録に関する記事において、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団のカルト撲滅運動に取り組んでいる有名な牧師である村上密氏が、正式な手続きを踏んで同教団を離脱しようとした鳴尾教会に対して恫喝裁判をしかけた結果、裁判で敗北し、文化庁でも訴えを棄却されていることについて触れた。そして、このようにして同教団が、裁判の判決も、この世の規定も、自分に都合の悪い事実は何一つ認めずに、自分はどんな決定にも服する必要がないかのように、ただひたすら自分の主張だけを正しいものとして押し通そうとしている独善的な姿勢に空恐ろしいものを感じると書いた。ちなみに、この教団はフランスではすでに準カルトに認定されている。


(さらに、この牧師と安倍首相はともに統一教会と深い関わりがあり、極めて似た思考パターンを持っており、類似した主張を繰り広げている。このことについては「外側からの変革と内側からの変革の道」の記事に詳しいので参照されたい。)

このように、自分は神でないにも関わらず、何者にも服さず、この世のどんな決定や法規によっても縛られることなく、この世の権力を自在に動かそうとする者とは誰なのか。神でないにも関わらず、神のような地位に立とうとする者とは誰なのか。
そのような願望は人として正しい、適切なものなのだろうか。それはどうしても神になりたかったあの者、神の地位を強奪して自分を神に等しいと宣言しているあの者の姿をほうふつとさせるのではないだろうか。

従って、首相の発言において「審判」という言葉が使われたのも何かしら予言的であった。それは私には選挙という意味合いをこえて、いずれ首相が必ず、自分の一連の言動に対して裁きを受けねばならないことを予感していることを告げる言葉のように聞こえた。

国民の血を流すことの責任を一身に引き受けることや、戦争遂行の全責任を一人で負うことは、誰にも耐えられない重責を意味する…。

東京裁判では28名もの指導者が裁かれ、25名が有罪、7名が死刑となった。

その罪の分をもしひとりで引き受けるならば、万死に値するという言い方が最もふさわしいかも知れない。もし東京裁判に服さず、先の大戦を正当化して進んでいくならば、かつてよりもさらに重い、歴史的に拭い去ることのできない恥辱の判決が、これから先に待っているのでなければよいが。



日本は敗戦したが、情けも施された。天皇制は維持され、官僚たちは抜け穴を作って生き延び、連合国のほとんどは国家賠償請求権を放棄した。確かに敗戦はしたが、戦前の多くのものが温存され、情けが施されたのである。

それが裏取引によるものであったのか、それとも、日本の荒廃があまりに哀れを催したゆえにかけられた情けであったのか、確かなことは分からないが、もしこうした情状酌量さえも退けて、敗戦によって日本が負わされた全てが不当なあるまじき判決だったと言い立てるなら、多分、この国はこの先、前よりももっと重く厳しい裁きをこの先、受けなければならなくなるだろう。

その責任をひとり安倍首相が自分が負うと言っているのだから、負っていただけば良いが、彼は自分が何を言っているのか分かっていない。それは人間に負い切れる責任をはるかに超えているのだから。

この約70年近く、日本の経済的な繁栄は、戦争がなかったことを土台に築かれた。
その間、日本の国際的な評価が高く保たれたのも、日本が他国に戦争をしかけず、平和の使者として行動したからであった。血を流さないことを約束していたからこそ、自衛隊は海外でも受け入れられた。

もし血を流すことを前提に海外に出かけて行くならば、自衛隊もかつてのような好意的な受け入れられ方をもうされなくなるだろう。敵として侵略者として認識され、殺戮の対象となるだけである。

かつて神国日本などというおごりに基づいて出かけて行った侵略戦争が、どんな結末を迎えたのか、あれからまだ一世紀も経っていないのに、この国はもう忘れたというのだろうか。

かつて、自分が信じていたはずの神に裏切られて見捨てられた。現人神であったはずの天皇が玉音放送で敗戦を告げ、嘘ばかりの大本営発表に騙され、苦しめられた。なのに、二度、三度まで、また同じ偽りの神を信じて、破滅をくぐらないと気が済まないのか。

信じていたものが正しかったなら、裏切られはしなかっただろう。天皇が現人神であり、死ぬば自分も神になれる、つまり、己を神だと思い上がっていたからこそ、そういう結果となったのではなかったか?

そこで、「私が最高責任者」という言葉は、どうにも、再び自分が神になろうとしている者が野心を語っているようにしか私には聞こえないのだ。そのような台詞は、決して通常人が口にすることのできない言葉のように聞こえる。

かつて大日本帝国憲法下では、主権者は天皇であるとされたが、安倍首相は、今、国民から主権者である資格を奪って、自分がひとり主権者になりたいのだろうか。そう考えると、首相がしきりに口にする「この道しかない」という言葉も、彼自身が道であり他に選択肢はないと言っているに等しく、これもまた唯一の道であるキリストの否定へとつながる。

念のために断っておくが、安倍首相はキリスト教徒ではない。統一教会はキリスト教から見れば異端であり、文鮮明は救世主としての再臨のキリストを詐称しているだけで、クリスチャンの信じているイエス・キリストとは何の関係もない。統一教会では、指導者にならって、信者も救済者になりたがる傾向があるようで、「救国政権」などと宣伝されて登場してきた安倍首相も然りである。

ところが、今、他でもないキリスト教界でも、やはりこのような恐るべき事態が起きている。すでに述べたように、統一教会出身の牧師がプロテスタントの教会の牧師となってプロテスタントの危機を訴えて救済者然と登場し、カルト撲滅運動という災害便乗型ビジネスにより、プロテスタント教界の覇者になることを目指しているような有様である。

だが、私は、カルト撲滅運動にいそしんでも結果は何も変わらず、そもそも牧師制度に大きな誤りがつきものであり、これを改めて聖書に戻らない限り何の改革もあり得ないだろうことを書いて来た。自分は神の代理人であり、正しい助言によって人々を指導することができ、人々の救済者になれるというおごりが、宗教指導者を盲目にさせてしまうのである。人々を救済してやるという名目で他人の内心に干渉し、相手を支配して自分の欲望を叶えるという誘惑を生み出すのである。 こうしたことは、キリスト教界の堕落であるが、カルトもそれを退治するアンチカルトも、共に同じ腐敗した根を持つ兄弟であり、行き着く先も同じである。

実のところ、このようなことが起きるのは、キリスト教界が異端思想に深く浸食されているからに他ならない。グノーシス主義は秩序転覆の論理であり、神による救済を人間が奪う思想であり、安倍首相の論理にも、あるいは上記のアッセンブリーズ教団の牧師の論理にも、全く同じ秩序転覆の構造が見て取れる。このような思想を信じた人々は、たとえうわべは神を信じているようであっても、決して神に従おうとはしない。むろん、聖書の言葉をも守らない。神を口実にしながら、自分が神を超えてどんなことでもできるかのように振る舞って、神の地位を奪い、神の代わりに救済者になろうとして、やがては賛同者もろともに破滅していく。

グノーシス主義思想には初代教会の頃からの特徴があって、疫病のように一時、大流行するが、長くは続かない。この種の思想を深く信じた人々は、もはや常識や法律や道徳や、自分を縛っている既存のすべての制約を否定して覆し、自分は何にもとらわれることない存在であると自負して、人々の上に君臨し、己の欲望の完全な解放を目指していく特徴があり、彼らは最終的には、自分自身という制約からも解放されるために自己そのものを破壊してしまう。

昔のグノーシス主義者の多くは、肉体からの魂の解放を究極の目的として自殺して行った。彼らにとってその死は破滅ではなくむしろ解放に見えていた。同じことが、天皇という「現人神」を信じて「玉砕」した人々にもあてはまり、彼らはその死を必ずしも破滅とはとらえておらず、神と合一するのだと信じて死んで行ったのである。

このように、自分を縛っている道徳や良心、規則や判決を全て否定して、自分自身が罪人であることを否定して、神のようになれると信じて全能の神の地位を奪うことは、解放や救いという名目で、まことに恐ろしい破滅的結果しか人にもたらさない。

原罪を否定することは、人が己を神とすることと等しく、結局、そのような方法で自分を救おうとした人々は、破滅にしか行き着かないのである。

だから、よく考えてみたいものだ。人は本能的に己の罪を指摘されるのを嫌がるものであり、したがって、人間の罪や過ちをあからさまに指摘することは、とても失礼な行為に思われるかもしれない。だが、本当に罪を犯したのなら、どんなに嫌でも認めねばならず、罪など犯さなかったかのように振る舞うことは、人を欺く行為である。

敗戦という歴史を負うことには、日本人にとって確かに屈辱や苦しさも伴うかも知れない。だが、その痛み苦しみを通して、確かに得たものがあるならば、掟を学んだことは幸いであり、恥じるべきことはないと言える。従って、失敗を通して貴重な教訓を得たのだから、何も学ばなかった以前の時代を無垢なものと考え、そこに逆戻りすることを願う必要などない。歴史が恥となるのは、失敗を犯したからではない。失敗に学ばなかったからこそ初めてその歴史が恥となるのだ。

だから、痛みを通して得た教訓を手放してはならない。間違いを犯したという良心の痛みを忘れてはならない。その痛みを否定しないからこそ、私たちは自由であれるのだ。何一つ失敗することのなかった無垢な時代が良かったと思わせる誘惑とはきっぱり手を切り、痛みを通して得た教訓を大事にしたいと思う。自分はすでに罰せられ、裁きも受け切ったので、今は救いを得て平安であり、罪赦されているので、責められる理由はもうなく、争いや憎しみ合い、殺し合いから永久に解放されているのだという立場に立って、喜びだけでなく痛みも悲しみも含めて、自分の歩んで来た歴史の全てに誇りを持って生きるべきではないかと思う。

これが日本国憲法に立つということだ。憲法は戦争の惨禍からの自由を与えてくれているが、それは全て過去の苦い教訓を受け入れ、反省したからこそ手に入った価値ある自由である。もし教訓を捨てるなら、自由も失われるであろう。私たちを縛っているように見えるあらゆる規則を否定することによって自由が得られるかのような幻想に欺かれてはならない。良心に基づいて、良心の要求する基準を満たし、その制約を守ることにより、私たちは安全でいられる。真理が私たちを自由にすると同様、たとえこの世の法であっても、良い法もそれを守ることにより私たちを自由にしてくれるのである。

だから、私は過越の中にとどまりたい。 ほふられた子羊の血を鴨居に塗った者には、悪魔も手を触れることはできなかった。神の救いを拒んで己を義としたエジプト人たちだけが犠牲になった。
私はすでに裁かれたゆえに自由となったと認めるのと、私には裁かれる理由など何もなく、あれは不当な判決でしかなかったので撤回せよと主張するのとでは、今後、完全に道が別れるだろう。

たとえ政府が無理やり復古主義者の野望を叶える方向へ進んで行ったとしても、それでも、我々一人ひとりに与えられた自主的な選択の余地が全てなくなることはない。再び戦争を起こすという暴挙の責任を負い、裁きを受けるべきは、これに加担した人々であって、反対した人々ではない。

ですから、どちらの道を選ぶのか、今、個人的に判断すべきではないだろうか。己の罪を認めることを頑なに拒み、この世のあらゆる制限を取り払ってでも、自分を義としようとして、裁きを否定して進んで行くのか。そういう人々がその行為の結果、どういう末路を辿るのか、私は見ている。日の下に新しいことは何もない、と聖書は言うので、これらの人々も、歴史のおびただしい例にならって、必ず最後には破滅して終わるのではないかと予想される。それがグノーシス主義者の道だからだ。

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