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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

主の大庭に安らぎ、生きる

「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(ルツ1:16)

「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)

「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ4:17)

以前、環境を創造するというテーマで書いた。全能の神が無から有を呼び出し、すべてを創造する能力を持っておられるように、キリストを内にいただいているキリスト者も、環境を支配し、創造する力を確かに持っているのだと。

多くの信仰者は主と共に統治する能力を自分が持っていることなどほとんど知らない。が、実際、キリスト者はこの世の天候、物流、人の心、などを支配する力を持っている。それはその人自身に備わった能力ではなく、すべてに優る主の御名の権威による。

しかし、その権威を行使することは、往々にして、神とその人しか知らないひそやかな行程である。ハドソン・テイラーの伝記のあるくだりを思い出すが、彼は宣教師になる準備のために勤務をしていた頃、彼は給与に関して、言葉の促しによらず、ただ祈りによってのみ、人の心を動かす方法を学んだ。

主と共に統治することは、隠れたところでの静かな祈りや、神との知られざる交わりの只中から起きて来る。決して人前での派手なパフォーマンスや、呪文のように自分の願い事を声高に唱えることにはよらない。

たとえ声に出さずとも、神はその人の願いや、必要を知っておられる。そこで、神に安心して願いを打ち明け、主がそれに責任を負って下さることを静かに信じれば良い。御心であれば、願いはかなうであろうし、もし御心でないなら、閉ざして下さいと言えるだけの心の柔軟さを持って、すべてを安心して主に委ねるのである。

さて、昨年から大変忙しかったので、私は様々なことを整理するために、まとまった時間がほしいと感じていた。ところが、年初になっても、立ち止まる時間などないかのようだ。年初めになかなか休暇から帰って来ない同僚を腹立たしく感じるほどに日常に忙殺されている自分を振り返り、こんな生活のままでは絶対にいけないと感じた。

その頃、私は主の御前に、長年、先送りにして来た一つの課題を片付けたいと願った。それまで取り組む気がせず、宣言しながらも、ずっと何年も後回しにして来た課題である。それは公正と正義と真実のために、もはやこれ以上、避けて通ることはできないと感じられた。

すると、たちまち環境が激変し、思いもかけないゆとりが生まれたのである。これまでにも時折、そういう不思議なことが起きた。突然、何かのはずみで、偶然のような出来事がいくつも重なり、まるで日常の隙間に入り込んだように、不意に慌ただしい喧騒から隠されて、神の内に安らぐ日々が始まる。

そういう時には、常識を超えた天の経済が働いて、私は安心して御翼の陰にかくまわれるのであった。

それでもしばらく私は日常に戻ろうとしたが、その試みを主がストップされた。あたかも神が私に優しく促されたようであった、「私があなたを苦労から救い出したのは、再びあなたがすぐに同じ状態に戻ってもう一度、そこにはまりこむためではありませんよ。これ以上、どんなことについても思い煩わず、安心してあなた自身を私に預けて、あなたが今、最も優先しなければならないと信じていることに取りかかりなさい」と。

そんな不思議な出来事が、今までにも幾度か起きていたので、私はもう心を煩わせず、先のことをあれこれ考えることもせず、主ご自身に心を向けるようにした。身近な人々には、主ご自身が私の必要をすべて知っておられ、直接、供給して下さっているので、助けを求めねばならないようなことは起きないのだと告げていた。
 
あたかもエリヤを主がかくまわれたように、エノクを主が連れ去られたように、主ご自身が私のそばまでやって来て、「ほら、私を見なさい。こちらに来て。私のために立ち止まって、時間を取りなさい。共に語らう時を持とうではありませんか」と優しく促しておられるかのようである。
 
そんな時には、こう応答するばかりだ。
「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。
 私は悪の天幕に住むよりは
 むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」(詩編84:10)

そして、弟子たちが網を投げ捨てて主イエスの後を追ったように、日常の思い煩いのすべてを後ろに投げ捨てて、ただ御姿の後を追うのである。

以前からずっと同じことを書いているのだが、だんだんそういう召しへの応答が頻繁になり、その度ごとに、主と共に生きることがリアリティとなり、私の心が、それまでの日常から遠く離れ去ろうとするのが感じられた。一体、どうしたことか。つい昨日まであれほど地上生活に没頭しようと懸命に努力していたというのに…。

以前、殉教か携えあげか、などというテーマで、信仰者たちの間で会話が盛り上がり、皆が子供のようにはしゃいで未来の望みを語っていたことがあった。あの頃、自分が何を言っていたのか、誰一人、分かっていなかったのに違いない。殉教も携えあげも、自分のために願っていただけであろうし、その願いすらも、興味本位の域を超えるものであったのかどうか。

それでも主はその拙い思いにさえ耳を傾け、心に覚えて下さったかも知れない。今はその頃にもまして、主の臨在がリアリティとして強く押し迫って来て心をとらえるのだ。私は知っている、たとえ私がそれを感じていなかった瞬間にも、主が確かに私を守っていて下さり、誰にも知られない一瞬一瞬、共におられ、すべてをコントロールしておられたこと。生活の細部に至るまで、神の采配が及び、私を守って下さったこと。そして今は、自覚的に私自身もその統治の中に入り始めた。以前は全くおぼつかない神頼みのような人生を生きていたのが、次第に、自覚的な二人三脚の統治が始まったのである。

もし信仰者が、神が喜ばれることが何であるかを見極めようと心から努力し、それを最優先課題としてとらえ、心から公正と真実を愛して、御旨に生きたいと願うなら、それまで彼を苦しめていた日常の問題などは、まるで鎖が落ちるように、あっという間に取り払われるだろう。そして、神ご自身が彼に近づいて来られ、彼をご自分のみもとへいざなわれ、そこから、天的な生活が始まるだろう。主と共に統治する人生を学ぶ頃合いである。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ3:29-30)

「エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(雅歌5:16)
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