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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

共産主義化する日本―「神国日本」を再興し、一億総奴隷化を実現させたい人々

もう一度、オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」の冒頭を引用しよう。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

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世界には数多くの宗教が存在するが、人の救いについては、正確に言うと、この世にはたった二つの問いしか存在しない。

それは、人は自力で神に到達することができるのか(人は自力で救いに達することが可能なのか)、それとも、神の外側からの介在によらなければ、人は救われ得ないのか、という二つの問いだ。

前者にYESと答えれば、グノーシス主義、すなわち、人が覚醒すれば自力で「神」になれるという思想に至り着き、後者にYESと答えるのが、聖書に基づく、キリストの十字架にしか救いはないという、神の恵みを信仰によって受け取る救いだ。

なぜ冒頭で再びオースチン・スパークスを引用したかというと、これからの時代は、明確に、目に見えないまことの神と、目に見える現人神(最終的には反キリスト)が対立する時代となると予想されるからである。

今、キリスト教界において聖書の根幹が歪められ、牧師や指導者やクリスチャンらがまことの神への正しい信仰から逸れつつあることについては幾度も述べて来た。今後は、キリスト教界に流入したペンテコステ運動の本質とは何か、それがどのように非聖書的であるかについても触れて行くことになろう。

さて、今回の記事のテーマは「現人神(反キリスト)の原則」である。

世はますますキリストの十字架を退けて、自力で神に到達しようとグノーシス主義に深く傾倒しているが、その過程ですでに様々な「神々」が現れて来ている。

むろん、現人神と言っても、自ら神を名乗って登場して来るわけではない。むしろ、拉致問題を利用して政治家として頂点に立ったある国の首相や、カルト被害者救済活動によって注目を集めるキリスト教界の指導者のように、こうした人々は一見、弱者の救済者を名乗り、あたかも苦しんでいる人たちを助ける正義の味方、解放者のように登場して支持を集めようとするだろう。

今はこのような自称「救済者」が乱立してそれぞれの支配を繰り広げている時代であるが、いずれ、これらの人々が、より統一的で象徴的な人物を頂点として、その下に結集する時が来るだろう。

その時、この国で再び神として立られるのが天皇であり、独裁的な政治指導者らも神々のごとくそれに続くと予想される。

自民党の作による、天皇を国家「元首」とする憲法改正の草案が、上記のような危険なイデオロギーをはらむものであることは多くの人々がすでに指摘している。
 
時代は着々と反キリストの現れへと向かっており、この世の経済を含むすべての組織や社会体系は、目に見える象徴的な人物に服従し、すべての権威をこの人物に捧げるために、その到来を待ち受け、道を整えている。

聖書においても、元来、この世の体系は堕落したものであるが、今、世の終わりに登場して来る反キリストのために、この世の再占領が急速に進んでいるかのような状況である。

さらに、断っておきたいが、今、現政権にあたかも反対しているように見える人々の中には、天皇制とロシアの大統領の両方を誉め讃えている一群があるが、これも現人神の到来のために道を整えている人々である。

先にも触れたように、欧米の施策に幻滅した人々の一部は、その幻滅の分だけ、ロシア擁護の方向へ傾いている。しかし、これについては慎重な考慮が必要である。確かに、ロシアに関する米欧の報道姿勢には大いなる偏りがあるものの、だからと言って、ロシアを「米欧の誤った報道により一方的に悪魔化された可哀想な被害者国家」と決めつけ、全面的なロシア支持に向かうのは、前者と同じくらい愚かで誤った盲信である。
 
実のところ、天皇制への支持も、盲信的なロシア大統領賛美も、カリスマ的政治指導者による民衆支配を歓迎する思想という点では、本質的に変わらない。それは結局、彼らが批判している現在の安倍政権にも通じる共通の思想基盤を持っているのであり、(だからこそ安倍氏は親露的な立場を取ろうとするのである)、そうである以上、最終的には、この対立陣営も、現人神への賛美という点で一つにまとまって行くことだろう。

世が混乱するにつれて、人々の間ではカリスマ的指導者の到来への期待が高まり、慈愛に満ちた救済者や、解放者のような指導者が登場してくれて、人々を諸問題から救い出して欲しいとの願いが膨らむ。この期待感が、反キリストの統治を受け入れるための心の素地を人々の心に作り出すのだ。虐げられて、打ち捨てられた可哀想な弱者を救うために、誰かしっかりした指導者が現れてくれなければ困るーー弱者への同情、寄り添いが高く評価されればされるほど、弱者の理解者や解放者を求める期待が高まり、そのようなムードの中で、徐々にあらゆる組織、事物、運動が、弱者の連帯となって反キリストの到来を積極的に求め、待ち望み、その支配に服するために道を整えているのが現状である。

だが、まことの神は見えないただお一人の神であり、目に見える何者にも(どの組織にも運動にも)救いはなく、神を見出すことはできない。誰かに自分の弱さを理解してもらい、慰めてもらうために、目に見える存在に頼ろうとすることには大きな危険がつきものであり、助けてもらうことをきっかけとして、そこから目に見える人物による精神的な支配が始まる。そこで、信仰者は自分を弱者として誰かに哀れんでもらいたいという誘惑と手を切り、どんな問題の渦中にあっても、ただキリストだけにより頼んで全てを解決することを学んで行かなければならない。

もしその重要性が理解できなければ、一つの偽りのグループを拒否し脱出したとしても、また別の偽りの囲いの中に囚われてしまうだけである。暮らしている場所がどの国であり、どんな宗教を信じ、どんな政治グループや、組織の中にいようと関係なく、目に見える人間を頼りその支配に服するならば、待ち受けている結果はどれもほとんど同じなのである。

キリスト者は、神の国は信仰を通してまさに自分の只中に到来しているのであって、どこにも探す必要がないし、これから建設にいそしむ必要もないという事実を、しっかりと握って、すべての必要を内におられるキリストから引き出し、キリストのうちにとどまり、そこから逸らされないようにする必要がある。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

<…>人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはないりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

 
さて、 反キリストの統治はどのようなものなのだろうか。彼は何を目的に目指すのか。その答えは歴史を振り返れば明白である。彼は解放者のように振る舞うであろう。そして、人々があらゆる争いや苦しみから解放されて、人類の悪が残らず浄化されたユートピア社会のようなものを打ち立てようという目標を掲げるだろう。このユートピアは、別名、八紘一宇とも呼ばれたし、共産主義社会とも呼ばれた。さらに別の名前がつけられたこともあったろう。

勘の良い特赦はすでにこれが全体主義社会に他ならず、ディストピアであることに気づいているはずだが、いずれにせよ、このような偽りの地上天国こそ、人類を実験材料とする悪魔の見果てぬ夢なのである。このような試みが歴史を超えて幾度も繰り返されて来たのは、悪魔がそれほど神の国を模倣することを望んでいるからに他ならない。

(悪魔には、常に神の願いを横取りし、それを神を排除する形で、神に先んじて自力で打ち立てたいとする欲望がある。悪魔は神の願いそのものを盗むのである。まことの神の国に生きる信仰者らが、花婿キリストの望んでおられる花嫁エクレシアだとすれば、悪魔とその一味である反キリストも、自分好みの花嫁を迎えたいと欲しているのかも知れない。彼らもまた何が何でも人類を材料として自分の花嫁なる王国を建設したいのである。)

反キリストの目指すユートピアとは、人々が無欲で、心清く、隣人と愛し合って全てを気前良く分かち合い、争いなく手を携えて平和に生き、弱い者が尊ばれる社会である。そこでは、間違っても人が自分のためだけの我欲に基づいて個人的な利得を蓄えたり、自分の富や長所を他人と分かち合うことを拒んで争うようなことがあってはいけない。つまり、そこではすべてが公であり、共有なのであり、個人や、個人の私生活という概念は存在せず、個人の持てるすべてのものは、社会全体を繁栄させるために捧げられるべきであり、個人は常に社会全体の一部なのであり、もっと言うならば、人間そのものが社会の共有財産のようなものなのである。

それは、個人の区別というものがほとんど認められず、自他の区別を排除して、人の持っているあらゆる良いものを、誰かが勝手に我が物として横領していくことを是認するような、泥棒の思想に貫かれた社会である。または、人類の負いきれない罪とい負債を共同返済するために作られた終わりなき罪の連帯責任の社会だと言い換えられる。

分かりやすい例として、キリスト教界に典型的に見られる誤った神の国建設の風景を、偽りの神の国建設のモデルとして思い浮かべてみよう。そこでは、偽りの教会内ユートピア社会の樹立のために、信徒がまことに重い奉仕義務を負わされている。巨大な礼拝堂建設に伴う借金の返済に充てるための高額な献金の割り当て。毎回の礼拝の準備のための重い労働負担(無償奉仕)。退屈なメッセージにも常に義務付けられている神妙な傾聴と賞賛の言葉を伴う思想教育。役員会、学習会、子供会、各種のイベントの準備・・・。さらに信徒の大きな心労となっているのは、毎回の礼拝で、信仰の証と称して、心にもない作り事めいた美談を引っ張って来て人前で語るように要求されていること、自分がいかに信徒の義務を忠実に履行できていない未熟で中途半端な信徒であるかについて、絶え間なく自己批判を迫られていること、同時に、いかに組織のおかげさまでかつての惨めな状態を脱して更生に向かいつつあるかについて、具体的な進歩の過程を述べて組織に感謝しなければならないような圧迫的な雰囲気があることなどだ。罪赦されて救いにあずかり平安の中を生きるために入信したはずなのに、待っていたのは正反対の生活。神ではなく人間の指導者に仕えるために、終わりなき奉仕と献金という苦役を課せられ、罪悪感は消えるどころかより一層、増し加わり、平安は年々、遠のいていくようにしか見えず、もはや本当にあるかどうかさえ分からなくなった魂の救い・・・。

このような風景を反キリストの統治する「理想社会」に置き換えれば、それが具体的にどういう社会になるかは容易に想像がつく。それは結局、人類の負いきれない罪という天文学的霊的借金返済の連帯責任を、人類が共同で背負いながら、なおかつ、人類自身の力で社会を罪と悪から浄化し、自力で理想状態に到達しようという不可能な試みなのである。

それはもともと人間には到達不可能な試みみであり、それゆえ、その目標は負い切れない重荷にしかならない。教会にとってしばしば礼拝堂の建設が負いきれないほどの負債をもたらすように、このような誤ったイデオロギーの虜になってしまうと、理想社会を建設するという美名の下に、やがて組織の財政が破たんに瀕し、これを支える財源が枯渇し、負債がますます膨らんで破滅を目前にしているような時にも、それをまだ所属メンバーが連帯責任として負わなくてはならず、個人をとことん犠牲にしながらでも、組織を救うことが第一優先されるという残酷な状況が起きてしまう。企業の場合には、倒産してしまえば、社員が借金を背負わされることはまずないが、たとえば国のような巨大組織が、このようなイデオロギーに突き動かされている時には、そのイデオロギーそのものの虚偽が暴かれて、何らかの形で、力づくで組織の存続に終止符が打たれない限り、本当はとうに清算されでしかるべきゾンビ化した組織が、メンバーをとことん食い物にし犠牲にしながら、そのまま存続してしまうということになりかねない。
 
不思議なことに、反キリストの現れを待つまでもなく、以下の記事でも、労働に関するある兄弟の指摘の中で触れたように、教会であれ、企業であれ、その種類を問わず、今、地上のあらゆる組織が、まるで時代を先取りするかのように、反キリストの統治するディストピアのような様相を呈しているように感じられてならない。

たとえば、次のような記事を読むと、すでにこの国は社会主義国と同じような有様となって、人に負いきれない労働の義務を負わせ、それを果たせなかったことで不当に人を処罰する巨大なブラック企業のようになりつつあることの明確な証拠ではないかと思えて来る。

大雪で国会に遅刻、防衛省幹部3人に異例の訓戒
(YOMIURI ONLINE 2016年01月22日 13時21分 本文は引用しないが、大雪で公共交通機関が止まっている時でも、国会に遅刻すると防衛省では罪に問われるのだという。)

まことの神を信じる信仰者は、このような恐るべき圧政、罪の奴隷状態からはすでに救いだされ、安息なるキリストの支配の中に移された。それはキリストのゆえに、信仰者がすべての罪を赦され、もはやこれ以上、罪に問われねばならない理由が全く存在しないからである。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 」(コロサイ1:13)

だから、御子キリストの支配に移された以上、信仰者は再び、自分を罪の奴隷状態に貶めようとするこの世の体系に服する必要がなく、そのような体系にとどまっているなら、速やかに脱出する必要がある。その脱出は地理的なものではなく、霊的に虚偽のイデオロギーと訣別し、キリストの支配体系に生きることである。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(Ⅰコリント7:23)

「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。
正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

キリストとべリアルに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。

神はこう言われました。

『わたしは彼らの間に住み、また歩む。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 それゆえ、彼らの間から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたは私の息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」
 (Ⅱコリント6:14-18)

 さて、最後に、現人神、反キリストの到来という文脈で、昨年、原盤が公開された玉音放送について振り返ってみたい。これまで全文を読んだことがなかったが、改めて目を通してみると、読めば読むほどに、昭和天皇のこのメッセージは、決して敗戦を認めて受け入れるものではなく、また、天皇を現人神とする誤ったイデオロギーを反省して撤回するものでもなく、むしろ、連合国からの圧力を受けて、やむなく戦争をやめはするが、それは決して本意ではなく、神国である日本民族そのものを絶やさないための臨時的な措置なのであり、神国日本は永遠に不滅であるから、再び、機が熟せば、将来、再び日本は世界を統治するための神の国を建設する夢を実現することが可能なのであり、またそうしなければならない使命を負っている、だから、その重要性を理解できる国民は、天皇の意思を汲んで、今は屈辱のように思える終戦を耐え忍んで受け入れ、じっと耐えて未来の復興の時を待ちなさい、という確信を込めたメッセージだったように受け取れる。

玉音放送をそのように読み解くと、以前、記事の中でも触れたように、「生長の家」のような宗教団体が、なぜ「大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れたのは『偽の日本』であって、本当の『天皇國日本』は敗れたのではない」などと主張したのか、その意味も分かるだろう。それはこの宗教団体が独自に考え出した理論ではなく、まさにそれこそ昭和天皇が言外に言わんとしていたメッセージだったのであり、宗教団体はただその意向を汲み取っただけなのである。

今日も改憲派の多くはそのような考えに立って、
「日本国憲法はGHQが日本を弱体化させるために日本に押しつけた無効の憲法」、「日本国憲法の精神を即時に破棄して改正を加えることにより、大日本帝国憲法(明治憲法)を復元しなければならない」と主張しているのであろう。

つまり、表向き、日本は敗戦し、天皇崇拝や軍国主義のイデオロギーは放棄されたかのように見えたが、終戦から今に至るまで、天皇を現人神として「神国日本」なるものを復活させたいとする思想は、おそらく一部の人々の間では、一度も放棄されることなく、水面下で温存されたのであろう。それが今、現在、公に政治運動であるかのように装って姿を現して来ているだけである。

それは政治運動というよりも、人を神とすることを最終目的とするグノーシス主義的思想であり、その主張は、日本は神の国だから日本民族は神聖であって他の民族より優れており、他民族を支配する資格があるという誤った優生学的思想、歪んだメシアニズムに貫かれ、さらには、そこには連合国に対する恨みも込められている。そうである限り、たとえそのような思想に基づいて、「神国」建設が再開されたとしても、二度目の世界制覇の試みが成功するはずもなく、とてつもないディストピアが再び実現するだけだとしか考えられないのだが…。

それでも、オースチン・スパークスの指摘のように、地上のあらゆる組織、国、行政機関、政治団体、あらゆる宗教組織も、最終的には、このような常軌を逸した現人神のイデオロギー(それは天皇崇拝だけであるとは限らない)の傘下に集められて行くのだろう。

以下は、玉音放送の抜粋と、そこから言外に読み取れるメッセージである。
(終戦の詔勅の全文は孫引きになるが、「みんな楽しくHappy♡がいい♪」の記事<玉音放送にある隠れた真実>天皇・永久戦犯の地位を守った「残虐なる爆弾」の利用 樋口健二×アーサービナード(文字起こし)」から抜粋した。青字の部分は後から加筆した。)
  

終戦の詔勅(玉音放送の内容)
(より原文と現代語文をつかわせていただきました)

<原文>
<現代語訳文>
<注:青字は筆者が書き加えた感想及び意訳>


終戦の詔勅

朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民(しんみん)に告ぐ。
私は深く世界の大勢と日本の現状について考え、非常の手段によってこの事態を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。

(筆者:「非常の措置」という言葉に注意してほしい。あくまで、この詔勅は時局を収拾するための臨時手段として発せられたのであり、緊急の必要性がなくなれば、すべては元に戻るのだというニュアンスが込められていると受け取れないだろうか。
 また、「忠義で善良な」という敗戦国の国民にふさわしくない形容詞も、天皇が敗戦を本当に認めて受け入れていたとすれば、使われなかったであろうことは言うまでもない。)


朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連に対してポツダム宣言を受け入れることを通告せしめた。

抑々(そもそも)、帝国臣民の康寧を図り万邦共栄(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、皇祖皇宗(こうそそうそう)の遺範(いはん)にして朕の拳々(けんけん)措(お)かざる所、(さき)に米英二国に宣戦せる所以(ゆえん)も、亦(また)実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出(いで)て他国の主権を排し、領土を侵すが如きは固(もと)より朕が志にあらず。
そもそも日本国民の安全を確保し世界の国々と共に栄えその喜びを共にすることは、私の祖先から行ってきたことであって私もそのように努めてきた。先に、米国・英国二国に宣戦を布告したのも、我が帝国の自立と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。

(このくだりは、天皇のメッセージが人間を神とし先祖の霊を崇拝することを是とする宗教的見地から書かれていることを示し、しかも神聖なる天皇には善良な意図しかなく、悪意は全くないため、侵略などという事実は、決して意図して行われたわけではないとの釈明が行われている。宣戦布告も、他国の主権侵害も、領土侵犯も、みな世界の国々と共に栄え喜びを共にしようという善良な思いから出て来たものだとされ、天皇が国と一体になって犯した悪事に対する罪の意識は完全に欠落している。)

然るに交戦已(すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の励精(れいせい)、朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公各々(おのおの)最善を尽くせるに拘(かかわ)らず、戦局必ずしも好転せず。
しかしながら、戦闘状態はすでに四年を越え、私の陸海将兵の勇敢な戦闘や、私の官僚・公務員たちの勤勉なはたらき、私の一億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦争における状況はよくならず。

(国とその臣民は自分のものであるから、戦争に道具として投入するのは当然であるという意識に貫かれている)

世界の大勢、亦(また)我に利あらず。
世界の情勢も我々には不利に働いている。

(不利な状況をただ嘆くだけで、なぜ最善を尽くしたにも関わらず、戦況が不利になったのか、どこに誤りがあってこのような結果に至ったのかという真摯な分析が一切ない)

加之(しかのみならず)敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻(しきり)りに無辜(むこ)を殺傷し惨害(さんがい)の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
それだけではない。敵は、新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害はまったく図り知れない。

(日本が自ら他国に戦争をしかけたのだから、報復されるのは当然であり、たとえ民間人が犠牲になったとしても、それも予想できる事態であった。なのに、これを防ぐこともせず、今更、一方的な被害者を装うことは無責任だという自覚がまるでない。)

而(しか)も尚、交戦を継続せむか、終(つい)に我が民族の滅亡を招来(しょうらい)するのみならず、延(のべ)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし。
それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日本民族の滅亡を招き、そして人類文明も破壊することになってしまうだろう。


(戦争を継続しないことを、臆病さの表れと受け取られて非難されないために、巧妙な弁明をしている。仮に戦争が続行されて、日本民族の滅亡、ひいては人類文明の破壊がもたらされたとしても、それはすべて敵の仕業であって、自らに責任はないとしている。さらに、仮に日本民族が絶滅したとしても、人類文明までが破滅するとは限らないにも関わらず、ここでは、日本民族は神国の民であるから、その絶滅は世界の滅亡につながるのだという優生学的思想が述べられている。
しかも、すでにおびただしい日本人が犠牲となり死傷しているが、それには触れずに、個人としての命が失われたことよりも、これから全体としての日本民族が絶えることだけが、避けねばならない最悪の事態だというのである。)


斯(かく)の如(ごと)くは、朕何を以てか億兆の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗(こうそこうそう)の神霊に(しゃ)謝せむや。
そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保ち、先祖の霊に謝罪することができようか。

(仮に日本民族が絶滅する事態となったとして、その最悪の事態によってもたらされる損失が、天皇にとって我が子と言える国民がいなくなって国がなくなり、家臣を失った君主として、一人、先祖の霊に謝罪しなければならないということ以外に何も述べられていない不思議に驚く。

また、ここで天皇が国民を「我が子」と呼んでいることにも注意が必要である。以前、牧師を信徒の「霊の父」とするキリスト教の異端の教えについて分析したが、反キリストは必ず、父なる神の代理人になろうとする傾向がある。)


是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以(ゆえん)なり。
これこそが政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。

(優生学的な偽りの根拠に基づいて、万世一系の天皇を頂点にいただく日本民族が断絶しては世界が滅亡するのでそれだけは避けよう、というのが、ポツダム宣言に応じた理由だというのである。)


朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。
私は日本とともに終始東亜の植民地解放に協力した友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。

(侵略の事実は認めず、あくまで解放者、友好国を装っている。)

帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉し、非命(ひめい)に斃(たお)れたる者、及び其の遺族に想を致(いた)せば五内(ごない)為(ため)に裂く。
帝国臣民にして戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると体中が引き裂かれる思いがする。

(戦争で亡くなった国民が可哀想だという同情の念はあっても、何より天皇自身のまずい采配と天皇を神とする偽りのイデオロギーの強要のせいで、国民の被害がより拡大し、深刻化していったことに対する加害者としての自覚がない。)

且(かつ)、戦傷を負ひ、災禍(さいか)を蒙(こうむ)り家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や職場を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。

(国民に対しては、あくまで上から同情し「心配してあげる」という立場に終始し、そもそも自分が誤った支配を行なった結果、被害が生じてしまったのだから、国民にお詫びせねばならないという意識は全くない。)

惟(おも)ふに今後、帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常にあらず。
思うに、これから日本の受けるであろうそ苦難は、大変なものになる。

(この言葉は、屈辱的な敗戦を受け入れることで、これから何をされるか分からないという、天皇自身がこの時に感じていた恐怖をよく表しているように思う。終戦は多くの国民にとって悲しくはあっても、死の混乱の終わりという意味では、解放でもあった。それなのに、これから苦難が待ち受けているとただ暗い未来だけを予感するのは、戦争を遂行した責任を問われる側に立つ者だからこその感覚だったのではないだろうか。)

爾(なんじ)臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕(ちん)善(よ)く之(これ)を知る。
国民たちの負けたくないという気持ちも私はよく知っている。

(国民の思いに託して、自分も負けたくないと思っており、負けたなどとは決して認めるつもりはないという意思表示をしているように思う。この終戦を、決して敗戦のしるしとして受け取るなという思いが込められているのてめはないだろうか。)

然れども、朕は時運の趨(おもむ)く所、堪(た)へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世(ばんせい)の為に太平を開かむと欲す。
しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで将来のために平和を実現しようと思う。

(負けたと認めるつもりなど全くないが、日本民族そのものが絶えてしまっては元も子もないので、耐えがたい屈辱ではあるが、一旦、負けたふりをして戦争を終わらせて急場をしのぎ、いずれ神国が復活を遂げる将来のために、国の力を温存し、国を安定させることを優先させよう、ということ。)

朕は茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんき)し、常に爾臣民と共に在り。
私は、ここにこうして国体を守り、忠義で善良なあなた方臣民の真心を信頼し、そして、いつもあなた方臣民とともにある。

(まるで牧師の祝祷のようだが…。
 こうして戦争は終えるが、それは負けたということではなく、勝負は先送りになっただけなので、自分は国体を守るために退位せずにとどまり続けるつもりだが、その心が分かる臣民は、(いつかもう一度、天皇が現人神として戻って来て、神国を復活させるときのために)、決して私の思いを忘れるな。)


若(も)し夫(そ)れ、情の激する所、濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし、或(あるい)は同胞(どうほう)排擠(はいせい)互に時局を亂(みだ)り爲(ため)に大道を誤り、信義を世界に失ふが如きは、朕最も之を戒(いまし)む。
もし、感情的になって争い事をしたり、同胞同士がいがみあって、国家を混乱におちいらせて世界から信用を失うようなことを私は強く懸念している。 

(やがてもう一度天皇が現人神として戻って来たときに、治める国がないと困るので、間違っても国民が同士討ちなどして、国を亡ぼすようなことはしてくれるな。)

宜(よろ)しく挙國(きょこく)一家(いっか)子孫(しそん)相(あい)傳(つた)え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)い、総力を將來(しょうらい)の建設に傾け、道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)くし誓って国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し、世界の進運(しんうん)に後れさらんことを期すべし。
国を挙げて一つの家族のように団結し、子孫ともども固く神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操を固く持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい。

(「神州」すなわち神国という言葉がここではっきり述べられているが、その言葉には、戦争をやめても、天皇自身には己を神とするイデオロギーを捨てるつもりが全くなかったことがよく表れている。一旦は、ポツダム宣言を受け入れはするが、神国日本は永遠に不滅なので、いつか未来に必ず、日本がその栄光を再び世界に輝かせ、全世界を統治する神の国の建設を再開する時が来る、日本国民は決してそのことを忘れず準備を怠るな。)

爾(なんじ)臣民其れ克(なんじ)く朕が意を體(たい)せよ。
あなた方臣民は私の気持ちを理解しそのようにしてほしい。

(それが私の気持ちなので、この願いを理解して私と行動を共にして欲しい。)

御名御璽(ぎょめいぎょじ)
天皇の署名と印璽
昭和二十年八月十四日

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