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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

カルバリの十字架とそのメッセージ


ジェシー・ペンルイス「カルバリの十字架とそのメッセージ」

第八章

死者の中から生かされた者として、あなたがた自身を神にささげなさい。
あなたがたの肢体を、武器として神にささげなさい。
(ローマ六・十三)

十字架のいのちの面

ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
彼がすべての人のために死なれたのは、
生きている人々が、もはや自分自身にではなく、彼に生きるためです
(二コリント五・十四、十五)

これまで、「十字架には二つの面がある」とよく言われてきました。すなわち、死による消極的な解放を意味する地的な面と、生ける主と結合されたいのちについて告げる天的な面です。キリストが罪のための身代わりになられたことと、彼を信じる者はみなキリスト共に罪に対して死んだこととは、分けることができません。それと同じように、クリスチャン生活の全行程を通して、死といのちは分けるべきではありません。

彼の死と同じようになって彼に結合されるなら、私たちは彼の復活とも同じようになります とパウロはローマ人に書きました。すでに見たように、これは聖霊の働きです。聖霊は私たちを彼の死の実際にあずかる、真に緊密な結合にあずかる者」として下さいます。この結合は、「接ぎ木された枝と幹の間の結合関係のように」(ローマ六・五、コニーベアのノート)実際的です。

このような緊密な結合が何を意味するのかは、聖霊の働きによってしか知ることができません。聖霊は、カルバリの十字架上のキリストの御業に信頼する信仰に応えて働かれます。

聖霊は、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭い」「十字架の言葉」を用いて、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別して、新しいいのちから古いいのちを分離されます。聖霊のこの働きは、上からのいのちが妨げられることなく支配するようになり、贖われた人が真に十字架のいのちの面に基づいて生きるようになるまで続きます。

しかし、復活の主から離れるならいかなる「復活のいのち」もありえない、ということを覚えておかなければなりません。私たちは「彼の死」の中に植えられました。私たちが十字架につけられたのは彼と共にであり、私たちは生ける方である彼に結合されています。これにより私たちは、私たちの領域である彼の中で、いのちの新しさによって歩むことができます。復活のいのちも継続的ないのちです。それは遠い昔の何らかの転機で通過した一度きりの経験ではなく、生けるキリストです。生けるキリストご自身こそ復活であり、私たちの内に住んで、私たちを通してその大能の力を現わされます。ただしそれは、彼にそうすることを許す条件を私たちが満たすならばの話です。

なおまた、いのちは模倣することができません。活のいのちを持っているとどんなに主張してみたところで、それを生み出すことはできません。しかし、いのちが現存するなら、それを主張する必要はありません。なぜなら、いのちはその力を現して、自ら証しするからです。

神に感謝すべきことに、キリストと結合したいのちは正真正銘のいのちであり、確固たる強い力であって、魂を復活のキリストとの生ける交わりに導き入れます。この交わりにより、魂は来たるべき時代の力を味わい、永遠の観点から時間の中の出来事を見、高く引き上げられて誘惑や地上の事柄に対する執着を超越します。

十字架の復活の面で、聖霊はカルバリの十字架を照らされます。この照らしは、心の目に「十字架につけられたイエス・キリストがはっきりと示される」ようになるまで、そして魂が彼の死の新たな面を常に教わるようになるまで続きます。なぜなら、罪の束縛からの解放がなされ、それに続いて心と生活の清めがなされなければ、主はその心の中で王座に着くことができず、聖霊もカルバリのさらに深い学課を教えることができないからです。

使徒パウロは、コリント人への第二の手紙五章十四節以降で、十字架の復活の面に基づく生活を描写し、カルバリの死が神からのいのちの基礎であることをはっきりと示しています。

新しい生活の原動力

キリストの愛が私たちを縛っています。(十四節)

パウロが用いている「縛っている」という言葉は、新約ギリシャ語原文中、圧倒的で抗しがたい「捕縛」や束縛を表現する言葉として数回現われます。この言葉はピリピ人への手紙一章二十三節では「圧迫される」となっています。また主ご自身も、ご自分の前に置かれた苦難のバプテスマについて語られた時、この言葉を用いて、「それが成し遂げられるまで、どれほど『圧迫される』ことであろう」(ルカ十二・五十)と言われました。

この言葉は、イエスを捕らえていた者たち」(ルカ二十二・六十三)、またキリストの臨在によって大いなる恐れに「捕らえられた」人々、ひどい熱に「捕らえられていた」シモンの妻の母らの様子を描写するのにも使われている言葉です。

これらの事例とその文脈から、自分を縛っているキリストの愛について述べた時、パウロがこの言葉をどんな意味で使ったのかがわかります(W.D.モファット)。キリストの愛は彼を「縛り」、一つの道に制限して、そこから逸れないようにします。彼はこの大いなる愛に「捕らえられ」ています。また、それに完全に支配され、前に向かって進むようせき立てられ、駆り立てられています。キリストの愛は進路にあるものをすべて押し流す一本の激流のようです。

キリストは神と等しい方でしたが、それを固守すべき尊いこととは見なさず、かえってご自分をむなしくし、へりくだって人の姿を取り、死に至るまで、実に十字架の死にまで従われました。キリストの愛はこのような愛だったのです。

そしてこの愛は、生ける主と結合した新しい生活の原動力です。それは聖霊によって心の中に豊かに注がれる愛であり、あらゆる自己愛と利己主義を取り除き、その力で魂を完全に捕らえる愛です。

<中略>

新しい生活の目的

彼がすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分自身にではなく自分のために死んでよみがえった方に生きるためです。(二コリント五・十五)

彼と共に「死んだ」人々は、今、彼のいのちによって「生きます」。彼らは、彼が死なれたのは「自分のため」であったこと、そして「自分のため」に彼は生きておられることを悟ります。それゆえ、彼らは彼のためにもはや自分自身にではなく彼に生きることに、喜んで同意します。

彼らは自分が彼と共に十字架につけられたことを見ます。そして今、死んでふたたびよみがえった方が、彼らの視界をまったく満たします。彼は彼らを縛って、彼らの体を「聖い、神に受け入れられる」生きた供え物としてささげさせます。これは彼らにとって、喜ばしい「理にかなったささげもの」です。

<中略>

キリストにある新しいいのち

ですから、だれでもキリストにあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去りました。見よ、それらは新しくなりました。(十七節)

十六節と十七節の「ですから」という言葉は十四節を指し示しています。だれでもキリストにあるなら――彼の死の中へバプテスマされたのなら――十字架の門を通って、キリストが自分の環境、自分のいのちの新たな源になる領域に入ります。生けるキリストと結合されることにより、古いものは過ぎ去ります。なぜなら、キリストにある人は新創造であって、旧創造を改善したものや教化したものではないからです。

十字架のいのちの面で生けるキリストに結合された魂は「新しい人」(コロサイ三・十、十一、C.H.参照)を着たのであると述べられています。

日毎のイエスの霊の供給により(ピリピ一・十九)、「新しい人」は「絶えず成長して、さらに完全な造り主の知識と似姿に至り」(コロサイ三・十、十一、C.H.参照)「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」領域の中で、「造り主のかたちにしたがって成長します。子どもは自然に父親の似姿に成長します。そして贖われた人に伝達される新しいいのちは、新創造の創造者である方の似姿に成長します。ただしそのためにはキリストと共に死んだことを臆すことなく認め、「古いもの」を真に過ぎ去らせて、「義と聖と真理とをもって神にかたどり造り出された」(エペソ四・二十四欄外)新しい人の成長のために場所を備える必要があります。

人々のための新しい奉仕

これらのことはすべて、神から出ているのです。
神は和解の言葉を私たちの内に置かれました。私たちはキリストのための使節なのです。(十八、十九、二十節)

神が「和解の務め」を委託されるのは、キリストにある新しい人――自分が神へと分離されたことをはっきりと知り、どんな人とも、もはや地的な立場によってではなく、万人のために死なれた方の御名の中で会う人――に対してです。改訂訳の欄外の別訳は示唆に富んでいます。それは、「神は彼の使節の内に十字架のメッセージ――『和解の言葉』――を置かれる」と言っています。

和解の言葉は彼らの心に記されており、彼らの存在そのものの中に造り込まれています。それはちょうど、エゼキエルが「巻物を食べて」から、まさにその神の言葉をイスラエルに語ったのと同じです。キリストの使節もそのように、キリストのために「神に代わって」真に語ることができるよう整えられます。

彼らを通して、「十字架の言葉」は神の力であることが明らかにされます。なぜなら、彼らは「彼と共に働いて」いるからです。彼はご自分の死の対象である人々に、「神の恵みをむだに受け」ないように、かえってこの救いの日に彼の召しに心を留めるようにと、彼らを通して嘆願されます。

外側の生活の描写

どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることで自分を神のしもべとして推薦しているのです。(二コリント六・三、四)

私たちは五章十四節の十字架の基礎の上から、カルバリから生じる生活、死んでふたたびよみがえった方と結合した生活の特徴を順番に見てきました。

もはや自分のためではないという堅い決意。私のために死なれた方のため」という不動の目的。万人を彼の死の対象として見る」という人々に対する行動原則。「古いものは過ぎ去った」という過去に対する一貫した姿勢。「彼は和解の言葉を私の内に置かれた」という人々に対する変わらぬ責任感。「彼と共に働かなければならない」という制限された注意深い日々の姿勢。

もはや自分のためではない」という鮮やかな実例が、使徒自身の生涯の短い描写の中に続けて示されています(二コリント六・四~十参照)。彼の外側の状況は、艱難、欠乏、困窮、むち打ち、投獄、暴動、労役、徹夜、断食でした。しかし、大いなる忍耐、純潔、神を知る知識、辛抱強さ、親切のうちに、新しいいのちが現わされました。彼は現された神の力によって真理の言葉を語り、そのいのちを「聖霊によって」、純粋な愛によって生きました。

義の鎧で全面を守られ、ほめられる時もそしられる時も、悪評の時も好評の時も、パウロはこのいのちを生きました。彼は人をだます者のようにみなされましたが、真実であり、知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きていました。それは、彼の内にあったいのちの日毎に新しい力によりました。

彼は激しい苦しみによって罰せられているようでしたが、殺されませんでした。敵は彼のいのちに触れることができなかったからです。彼は死にかけている世のあらゆる必要を悲しんでいましたが、彼が知ることを学んだ方にあっていつも喜んでいました。彼はあらゆることで乏しいようでしたが、多くの人を永遠の富で富ませました。彼は自分のうちに、また自分のためには何も持たないようでしたが、キリスト――この方の内に知恵と知識との宝がすべて隠されています――にあってすべてのものを持っていました。

ああ、神の子供よ、この模範には自己に生きる余地はまったくありません。もしあなたがあなたの主と真に結合されて主の死に同形化されるなら、あなたはあなたの度量にしたがって、カルバリから発するこのいのちを知り、主が歩まれたように歩んで、神の栄光と誉れに至るでしょう。

得たものによらず、失ったものにより、
飲んだぶどう酒によらず、注ぎ出したぶどう酒により、
あなたのいのちを測りなさい。
なぜなら、愛の力は愛の犠牲にあり、
多く苦しむ者ほど、多く与えるものを持つからです。
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