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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(序)


さて、今年から優良さわやか読者特別賞(改定)なる発表の場を設けることにした。

このブログの読者であれば、この賞が何を意味しているか、改めて説明の必要もないかと思う。だが、それでもあえて断っておくと、今回、初めてこのような場を設けた理由には、もう5年以上もの長きに渡り、私がキリスト教界に混入している誤った異端的思想や活動――たとえば、ペンテコステ系の教会で繰り広げられるカルト被害者救済活動や、ペンテコステ運動そのものもその中に含まれる――などについて、長編の分析記事を書くことを予告すると、決まって上記の受賞者らのようにまことにさわやかな読者らがどっと大量に押し寄せて来ては、異常行動を繰り広げて来たことが挙げられる。

このような活動は一般の目には触れないので、こうした活動に日夜いそしんでいる一群が存在していることは人に分からない。そこで、今回、全体のほんの一部ではあるものの、証拠を明るみに出すことによって、妨害者らがどの筋から来ている者であるのかを明らかにした。

このさわやかなる読者諸君は、ほぼ例外なく、キリスト教界関係者、すなわち、教団教派に属するプロテスタント(もしくはカトリック)の信者である。そして、その中には私の知人・友人であった者たちも含まれている。彼らは私との交友関係にありながら、裏でこのような活動に手を染めていた。私には分かるまいと高をくくっていたのだと思うが、まさかそこまで単純ではない。

この人々は外見上はまことにさわやかで品行方正なクリスチャンであり、多くは、ネット上にさわやかな信仰の証を発表してさえいる。とてもではないが、表向き、兄弟を密告したり、売り渡したりするような卑劣な人間には見えない。しかし、外見上の品行方正さが、その人の心の真実性の何の保証にもならないことは言うまでもない。特にキリスト教界とはそういう偽善的な人々を大量に生んでいる母体なのだ。

それでも、かつては彼ら自身も、キリスト教界の欺瞞に悩み、一時は、真実な信仰を求めて、そこから脱出しようと本気で機会をはかっていたことを私は知っている。義理人情や、組織の中で得られる栄光や地位がその妨げとなって、この人々はエクソダスを断念したのである。

もし「キリスト教界からエクソダスせよ」と呼びかけられているうちに、組織の枠組みを出てさえいれば、このような二重性を帯びた不誠実な生き方にまで転落することはなかったろうと思うと、彼らの人生がまことに惜しまれてならない。

だが、そのことは振り返るまい。主は言われるだろう、「<…>それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハネ21:22)と。だから、私は彼らの人生を変えるために介入しないし、その生き方の先に何が待っているかについても関心がない。私はキリストにあっていただいた確信を捨てることなく、まっすぐに進まなければならない。
 
話を戻せば、このさわやか読者らは、このブログやホームページを検索結果から抹殺し、彼らに都合の悪い情報を意図的に排除するために悪質リンクを大量に貼ったり、もしくは、そのような行動によって、私を意気阻喪させ、創作意欲を失わせる方向で行動して来た。究極的には、彼らの目的は、自分たちの活動にとって都合の悪いすべての反対者の口を封じ、ネット空間から駆逐することにある。今もそうである。

しかし、こうしたことの背後には、人間的な思惑を超えた暗闇の勢力の活動があることに注意が必要である。これは人間的な対立ではなく、神の御言葉をどのように理解し、解釈するかという違いから出て来る霊的な対立なのである。一言で言えば、ここで問題になっているのは、聖書の御言葉と、それを曲げようとする活動(ペンテコステ運動を含む)の背後に隠れたグノーシス主義である。

だが、細かい議論はさて置いて、「実を見て判断した」人たちは多かった。2009年当時、私が初めてカルト被害者救済活動の危険性を指摘した時分には、まだこの活動は隆盛を誇っており、私の警告を信じる者も限られていたが、それからほどなくしてこの活動の支援者ら自身が、自分たちの心の中にある異常な憎しみを余すところなく反対者に向かってぶちまけたので、事情をよく知らない人たちでさえ、この活動がおかしいということに気づいて遠ざかった。

具体的には、負け続けているのに、なお継続される裁判。自分の活動を批判する者に対する手段を選ばない容赦のない制裁・・・。クリスチャンの行動にあるまじき同胞への異常な憎しみが、その人々がまことの神を信じる信仰者ではあり得ないことを如実に物語っていた。

私ははからずも自分がリトマス試験紙のような役割を果たしたのではないかと思っている。真のリトマス試験紙はむろん聖書の御言葉であり、その他にはない。が、多分、御言葉という宝を土の器の中に運んでいる信仰者も、少なからず、リトマス試験紙の役割を担っているのだろうと思う。だからこそ、地の塩であり、世の光である信仰者との接触によって、人々は自分たちが何者であるのかを試され、告白せざるを得なくなるのである。

信仰の歩みに戦いがあるのは、悲しむべきことではなく、光栄なことである。なぜなら、キリスト者は暗闇の世界に衝撃をもたらす存在であるべきであり、世の中からもろ手を挙げて歓迎されるような、毒にも薬にもならない霊的綿菓子作りのような活動だけで終わっていたのでは、その存在に意味が全くないからだ。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」(マタイ5:13-14)

キリスト者は、キリストの十字架の死と復活の証人である。この証人とは、命をかけて自分が目撃した事実を語り伝え、証明し続ける者のことをいう。もし激しい戦いが起きて来たからと言って、確信を捨て、主の御名を否むなら、神も私たちを否まれるだろう。

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32-33)

「次のことばは信頼すべきことばです。
 「もし私たちが、彼とともに死んだなら、彼とともに生きるようになる。

  もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
  もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」(Ⅱテモテ2:11-12)


ある姉妹が私に向かって言ったのを思い出す、「私たちはね、この世において有名になることじゃなくて、霊界においては有名人になることを目指すべきなのよ! ほら、イエス様が地上を歩まれたとき、悪霊たちは、遠くからでも彼の姿を見て、恐れおののいて命乞いをしたでしょう? 私たちもそういう存在になるべきなのよ」
 
霊界の有名人になることを私は第一目標に掲げる気はないし、このテーマを引き延ばして語る気もない。なぜなら、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)とあるからだ。

私たちの喜びは、キリストの贖いを信じた私たちの名が天に記されていることにある。だが、同時に、信仰のゆえの激しい戦いは、クリスチャン生活には避けては通れない道であることも確かだ。だから、必然的に、信仰者は幾多の訓練を受け、結果として、非常に強い恐れられるほどの衝撃力を持つ戦士にまで生長するのである。

そして、戦いには必ず報いが伴うことを忘れるわけにはいかない。それは決して単なる徒労には終わらない。臆病ゆえに確信を投げ捨て、戦いを中途で放棄する者を神が喜ばれることはないが、この戦いを最後まで耐え忍び、戦い抜いて勝利を得るならば、神は大きな報奨を下さるだろう。

だから、もし神が喜ばれる真実が何であるか知っているならば、恐れて退くべきではないのである。
次回からは、理論的にも、ペンテコステ運動の深部に迫っていく。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
(ヘブル10:35-39)
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