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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―

ペンテコステ運動の誤りについては、今更、多くの紙面を割いて書く必要もないかも知れない。なぜならこの運動の世間での評判はすこぶる悪いと言っても良いからだ。また、今までにもかなりの数の批判分析記事が書かれて来た。それでもまだこの運動を支持している人が本当にいるのか、いるとしても、よほど珍しい人たちではないかと言えるほどまでに、否定的な情報は枚挙に暇がない。

だが、そうした情報をきちんと総括して、この運動の危険な特徴が何であるか、改めて明確に整理して提示する必要があると思う。そこで、ペンテコステ運動に時代を超えて共通して来た危険な特徴をかいつまんで挙げておきたい。

1.常に超自然的な力を持つカリスマ的指導者を立てて英雄のように誉め讃える

…これは近年に始まった特徴ではない。たとえば、私がオースチン・スパークスやジェシー・ペンルイスなどの霊的先人の著作を読むにあたり大いに参考にして来た「オリーブ園 クリスチャン古典ライブラリー」というサイトがある。このサイトには残念なことに、最近、ペンテコステ系の指導者らの記事が数多く掲載されるようになった。(これはちょうど「キリスト教界からエクソダスせよ」と提唱していたKFCがAG教団の信徒に乗っ取られた時期にも重なる。)

 察するに、このオリーブ園の管理者はペンテコステ運動に関わりのある教会の信徒なのであろう。そして、その立場から、上記のような霊的先人と、ペンテコステ運動は同種の霊的運動であるのだとみなしているのだと思われる。

 しかし、私の考えは異なる。確かに、オースチン・スパークス、ペンルイス、アンドリュー・マーレーのような人々は、キリストの御霊による内なる啓示を知っていた人々であった。特に、彼らは聖霊によって十字架の深い働きを知らされた人々であり、彼らはキリストご自身に根差し御霊によって歩むまことの信仰生活は、既存の教会組織に所属することとは全く違うものであることを理解していた。聖霊の深い内なる啓示を知っていたという点では、既存のキリスト教界のクリスチャンに比べ、彼らは御霊の働きを重んじており、「霊的」と言える特徴を持っていた。
 
 しかし、彼らが御霊を通して見ていた事柄と、ペンテコステ運動においてしきりに強調される「聖霊の働き」は、全く異なるものであり、決して同一のものとして混同されるべきではないと私は考えている。

 「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)

 問題は「聖霊」と同じ名がつけられていても、本質的には全く異なる霊である危険性が常にあることだ。特に、ペンテコステ運動に関しては、慎重な吟味が必要である。見分けのポイントの一つとなるのは、その霊が誰について証し、誰に最も栄光を帰しているかだ。何度も書いて来たように、聖霊は以下の御言葉の指し示す通り、キリストを証する霊であるから、「キリストのみを証し、キリストのみに栄光を帰しているか」、それとも、「キリストを証しているように見せかけながら、その実、人間を高く掲げ、人間の指導者に栄光を帰しているのか」という点が重要な見分けのポイントである。

 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来る時、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)。


 この点で、ペンテコステ運動は常に表向きは「聖霊」の働きを重んじているように見せかけながら、実際には、奇跡を行なう「偉大な霊の器」であるカリスマ指導者を常に前面に押し出し、いかにこの指導者が非凡な霊的力を持つ人間であるかを強調することによって、この人物に大衆の関心を引きつけ、人間を神以上に高く掲げて来た歴史がある。

 オリーブ園には、19世紀のペンテコステ指導者であったセス・クック・リースについての著作が納められている。あまり入念に読みたくないし、読むことを勧めもしないが、前書きの数行をわずかでも読むならば、そこでどれほどリースが誉めたたえられていたかが分かる。

 「しばしば「地を揺るがす者」と宣伝されることもあった。彼が説教すると、野外集会の木立が揺らいだ。彼の息子のパウロ・リースは「戦う聖徒」という題名でセス・C・リースの伝記を書いた。」セス・リース論説集

 この数行を読んだだけで本質が分かり、もう結構ですと言いたくならない方がおかしい。神ではなく、人を讃えるための情緒的な文章。「彼が説教すると、野外集会の木立が揺らいだ」。これは「スターリンは砲弾が雨と降り注ぐ中をも、臆することなくしっかりした足取りで歩いて行った」とか、「陛下がお通りになると、群衆はみな感涙してその場に跪いた」といったような表現と何ら変わるところがない。
 しかも「木立が揺らいだ」から「地を揺るがす者」なのか? 神の憐れみの深さや、恵みの大きさを証してイエスの御名に栄光を帰する代わりに、こんな風に、指導者の持つ超自然的な力を巧みにアピールして注目を集めようとするのが、ペンテコステ運動の特徴だ。だが、大げさすぎる嘘をついて読者を騙したことにはならないだろう。そよ風が吹いても木立はそれなりに揺らぐものなのだから。

 この論説集に捧げられている序文「亡くなった我らの大監督について」の中では、「キリストの勇敢な兵士たちの中でも、故人は最も勇敢で英雄的な兵士の一人であり、…」「われわれはこの偉大な人物をあらゆる種類の状況下で見てきた。また、彼が卓越した高い水準に達するのを見た。彼は人の子らの中でも極めて非凡な者として際立っている。」などと歯の浮くような賞賛の言葉が連ねてある。
 だが、使徒たちをさえ差し置いて「最も勇敢で英雄的な兵士」などとよくも臆面もなく書けるものだと読んでいて可笑しい。彼よりも勇敢で英雄的な信仰の兵士はそれまでに一人もいなかったというのか。この一文を読んだだけで、それが嘘であることが見抜けない方が奇妙なのだ。パウロでさえ自分のことを「私はその罪人のかしらなのです。」(Ⅰテモテ1:15)「すべての聖徒たちの中で一番小さな私」(エペソ3:8)と呼んだのだから。

 もしセス・リースが生前、使徒たちと同じような謙虚さを持っていたなら、故人となった後も、残された人々は彼の意志を忠実に汲んで、指導者をいたずらに担ぎ上げて賞賛を浴びせるような真似は決してなかっただろう。だから、このような賞賛の言葉が後世に残されている時点で、セス・リースがどれほど名誉欲に満ちた指導者であったか、こうした献辞を書いている人々もどれほど確信犯的詐欺師であるかが自ずから分かってしまう。

 ペンテコステ運動はとにかく英雄譚が好きである。非凡な出来事の描写と情緒的な表現に頼りながら、力強い論調で偉大な人物とその働きを描き出そうとする。サンダー・シングの伝記も似たような論調である。ただの物語としてならば、よく書けている部類に入るだろう。だが、その物語が、読者の興味を誰に対して向けようとしているのかを考えれば、それが決してキリストの御霊によって書かれたものではないことが分かる。結局、そこでは人間が賛美され、人間に関心が集められており、神やキリストはそのための材料として引き合いに出されているに過ぎない。



2.五感で感じられる非凡な奇跡体験や、感覚的な喜び、陶酔感を霊的体験と取り違え、信仰よりも五感を優先・強調する
 
 セス・リースは「理想的なペンテコステの教会」の中で、クリスチャンの再生について以下のように書いているが、それを読めば、彼が再生というものを全く理解していなかったことがよく分かる。

「人が聖書的に再生されることは、尋常でない畏怖すべきことを伴い、通常考えられている以上のことを意味する。新約聖書が示す霊的誕生は、たんに手を挙げたり、紙に署名したり、記章をつけたり、儀式に参加したり、いわゆる「教会」なる団体に参加したりすることによって生じるのではない。

聖書が示す再生は、深く強烈な認罪と、躊躇せず「世と肉と悪魔」を拒否する悔い改めの後に生じる。これにより、外側の生活の諸問題はすべて正される。」
  
 ここでは、罪を悔い改めるということはとりあえず触れられているが、不思議なことに、「キリストの十字架における人類の罪の贖い」という言葉が一度も登場しない。「キリストの十字架」や「贖い」さえも登場していない。そうであれば、一体、人が罪を悔いたところで、何によって罪赦されたことになるのか。根拠は全く明らかでない。罪を赦す権限を持っているのは誰なのか、一切、書かれておらず、御子の十字架における死に至るまでの従順について全く触れられておらず、キリストの役割が無視され、神に栄光が帰されていないのだ。そして、再生とは、人が単に以前の罪深い行いを悔い改めて、「世と肉と悪魔を拒否する」という人間の側の決意ということに話がすり替えられている。これでは誰でも自分で決意しさえすれば、再生することになり、キリストの十字架も不要であるし、信仰も必要ないであろう。

 そして、このように悔い改めさえすれば、「これにより、外側の生活の諸問題はすべて正される。」などとお手軽な軽い調子で書いてあるが、再生した次の瞬間からすべての生活の問題が一切合切正解決したなどという経験をしたクリスチャンは一人もいないであろう。むしろ、まことの神を信じてから後、クリスチャンは、それまでに意識しなかった罪と手を切るための戦いや、生活の諸問題を信仰を通して解決する方法をようやく少しずつ学び始めるのである。

 さらに、セス・リースは続ける。

「再生は知覚可能な経験である。再生された人にはそれがわかる。自分が再生されたことに確信がないなら、それが事実かどうか誰にもわからないし、神ご自身ですらわからない。」
「再生は、喜び、あたたかな宗教的感情、霊の真の情熱に満ちている。」

 
こうして、彼によれば、再生には必ず知覚や感覚的喜びが伴うとされているが、それもまた嘘である。信仰は五感で感じて確かめられるようなものではない。キリストの十字架の贖いを自分のものとして信じて受け入れるなら、その人は救われているのであり、それはその人が救われた事実を五感で確かめたかどうか、感覚的な喜びが伴ったかどうかなどには全く関係ない。たとえ人がそれを五感で感じなくとも、信仰によって受け取った事実は、神の御前で変わらない永遠の事実なのである。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

 信仰は、目に見えない(五感では感じることのできない)神の側の霊的事実を自分の事実として信じ受け取ることによるのであり、すでに見たり、聞いたり、感じたりしている出来事をその感覚ゆえに受け入れることとはわけが違う。

 特別な喜びや感動が全く伴わなくとも、信じる者は御言葉を根拠として神の事実を受けとるのである。

 このように、正しいクリスチャンの信仰の歩みは、すべてのことが霊から始まる。まず霊的事実があって、次に魂や体で知覚することのできる感覚世界がこれに従属する。聖霊が働くのは、人の霊に対してであって、魂や体の感覚世界の中ではない。感覚世界はこの世の物質世界、人の堕落した肉に属するものであって、これは神と接触するための媒体ではない。神と交わることのできるのは、人の感覚ではなく霊である。

 ところが、ペンテコステ運動は、霊→魂→肉体という聖書的な秩序を覆してしまい、人の魂や肉体に巧妙に働きかける感覚的なものを霊的なものと呼び変え、すり替え、混同し、結果として、信仰よりも感覚を重んじるのである。そこで、ペンテコステ運動は、再生も、聖霊のバプテスマも、説教も、単に「喜びの伴う感覚体験」に変えてしまう。そしてついにはその「喜びの伴う感覚体験」が欠落していれば信仰ではないとまで言い切るのである。

 そこで、セス・リースの論説集もそうだが、ペンテコステ系の指導者のメッセージは、共通して極めて情緒的で、非凡な言葉を述べては人の感情を強く揺さぶり、感動を呼び起こそうとする手法に満ちている。だが、少しでも冷静に吟味すれば、常に感動しっぱなしということは、人にとって極めて不自然な状態であることが分かる。音楽の楽曲でもそうだが、初めから最後までずっとクライマックスということは絶対にない。しかし、ペンテコステの指導者の説教は最初から上り調子一辺倒で、テンションが全く下がらず、常なる感動を目指している点で、極めて不自然で人工的な作為を感じるものなのである。

 こうしたことが分からないまま、ペンテコステ運動に一度でも深く関わったことのある信者には、霊的な事実よりも感覚を重視するという危険な傾向――しかも、深く物事を吟味することを嫌い、自分の感覚にとって好ましいものだけを「信仰的・霊的なもの」だと勘違いする危険な傾向――が深く根付いている。それは一種の麻薬のような陶酔感に似ていて、人を盲目にさせて、繰り返し、繰り返し、聖書の御言葉に基づく冷静で穏やかな信仰よりも、自分を感動させ、手っ取り早く喜びや興奮をもたらし、感覚を喜ばせてくれるような偉大で非凡な体験へ飛びつかせようとその人を誘導するのである。

ペンテコステ運動につきものである、偉大な英雄の物語や、奇跡や感動体験の描写、あるいは感動的な礼拝音楽などといった偽の信仰物語は、人の耳を喜ばせることで、聞く人の心を釣りげるためのしかけである。このしかけに慣らされた人は、その感動体験を疑うことなく、条件反射のようにあっけなく飛びついては欺かれてしまう。そうなるのは、その信者の考えの根本に、セス・リースの書いたような、「信仰とは五感によって知覚できるものだ」という誤った思い込みが消えずに残っているためであり、霊の事柄と感覚的な事柄を混同しているからである。

 だが、信仰を五感によってとらえようとするこの試みこそ、聖書が最も人に警告している危険なのである。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)
 
 AG信徒のある姉妹の影響によって、KFCの中にサンダー・シングの教えが持ち込まれた時(ここでもこの災難を発生させたのはAG信徒である)、私はこの教えの具体的な誤りと危険性を提示してこれを批判し、教える立場にありながらなぜルーク氏はこの虚偽を見抜けなかったのかと指摘したが、彼らはこの警告に耳を傾けず、かえって自分たちの面子が傷つけられたとして、私を排斥することで自分たちの過ちを覆い隠し、報復を果たそうとした。

 なぜそのようなことが起きたのかを考えてみると、そこにはKFCの土壌というものが大きく関与していたように思う。KFCにはもともと聖霊派やAG教団の信者が多く集まっており、当時、Br.Takaという現役のAG信徒までが匿名でメッセンジャーとなっている有様であった。そして、当のルーク氏自身も、キリスト教界を批判しながらも、聖霊派の指導者たちの活動や著作から大きな影響を受けていた。

 最大の問題点は、彼らがAG教団牧師の率いるカルト被害者救済活動や、キリスト教界の誤りを非難しながらも、自らがそれを手を切ることをせず、ペンテコステ運動そのものの中に潜む大きな問題を何ら認識しないまま、その影響を深く引きずっていたことにある。

 ムードたっぷりの礼拝音楽、礼拝での冗長な異言の披露は言うまでもなく、ひれ伏したり、跪いたり、涙や叫びを伴う情緒的な祈りといった彼らの礼拝スタイルも、まさに聖霊派の典型的なスタイルを換骨奪胎しただけのものである。

 問題は、これらが信者に思考停止を促し、物事を自分なりに深く考えて吟味したり、聖書に照らし合わせて検証したりする代わりに、その場の雰囲気に身を委ね、良さそうに見えるものを何でも無批判に受け取り、より大きな喜びや感動や陶酔感を得られるように、感覚に任せて生きることを促す点にある。

 しかし、これはKFCに限った話ではない。たとえペンテコステ系の教団の中にいなくとも、このように御言葉に基づいた信仰ではなく、自己の感覚に盲目的に身を委ねさせようとする運動の誤りを自覚し、その影響と自覚的に手を切ることをしなければ、どの教団に転籍しようと、あるいは無所属になろうと、この運動の影響から脱することはできない。このことは、ペンテコステ系の教団を出て後、カトリックや他の教団に転籍した後も、カルト被害者救済活動を支持している者たちによくあてはまる。(ペンテコステ運動と被害者運動にある本質的な共通点については後述する。)

 別途、詳述するが、こうして、口ではペンテコステ運動を批判しているようでありながら、実際には被害者運動を支持するという矛盾した行動に至る信徒が出現するのも、結局のところ、心の中でこの運動への親和性を捨てることができないためなのである。

 ペンテコステ系の信徒たちは、クリスチャンの間でも、福音派の信徒に比べて知性のレベルがあまりにも低いと酷評されることが多々ある。私は個人的に、彼らは他のクリスチャンに比べても、圧倒的に愚かであるという印象を受けているが、なぜそのような印象が生じるのかと言えば、ペンテコステ系の信徒たちが、常に自分の感覚に従って歩み、自分にとって好ましいものに考えもなく浅はかに飛びつき、きちんと物事を深く検証することを厭う習慣を持っているために生じるのではないかと考えられる。
 
 確かに霊的な啓示は信仰生活に必要である。しかし、信仰は五感によって知覚できるものではなく、霊的な事実と、五感を喜ばせる体験を取り違えることははかりしれない危険を信者にもたらす。だが、この事実を、たとえ言い聞かせたとしても、ペンテコステ運動に関わった信者が、以前の感覚優先の誤解に気づくのは容易ではない。なぜなら、彼らの味わった感覚的な喜びや陶酔感は、それほど忘れがたく、麻薬の陶酔感のようにその人の記憶に残っているからであり、そのために、五感を喜ばせるためでない静かで穏やかな信仰生活は、その人にとって物足りない、味気なく、嘘っぽいものにさえ思われるからだ。

 こうして、信仰生活とは何かということを根本的に誤解しているために、彼らは飽くことなく「非凡な感動体験」や「喜び体験」を求め続け、自分たちの祈りをより多くの人たちに聞いてもらって感動を分かち合うために声を張り上げ、メッセージを配信したり、著作を配ることには熱心だが、戸を閉じて、隠れたところで神に向き合い祈る(マタイ6:6)ことは嫌いである。まるで子供のように好き嫌いが激しく、自分にとって喜びの感覚や興奮の伴わないことに対しては、まるで冷淡で無関心なのである。

 そればかりか、彼らにとってはそのような喜びや陶酔感や感動体験こそが、信仰生活の核をなしているように見えているために、この体験を否定されると、彼らは自らの信仰、果ては自分の存在そのものを否定されたかのように憤り、癇癪を起こし、大変な剣幕で立ち向かって来ることがある。だが、そのような反応も、客観的に見ると、中毒患者の症状に極めてよく似た異常な状態で、その信者が、信仰に見せかけて感覚的にやって来る陶酔感をもはや手放せないところまで深くとらえられてしまっているという重度の霊的依存状態を表す危機的症状なのである。そうなって来ると、この運動と手を切るのは非常に難しい段階にあると思われる。だが、AG信徒にはこの重度の依存状態の人々が極めて多いことに驚かされる。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ3:3-4)

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