忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリストと共に統治する(1)――いっさいのものを足の下に従わせるキリスト――

「それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついて満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。
このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。」(エペソ1:10-11)

共産主義の思想に「必然の王国から自由の王国へ」という言葉があるが、もし共産主義者が自らのユートピアの豊かさについて、このような言葉を用いて宣伝したならば、なおさらのこと、聖書に基づくまことの神の国には、天の無尽蔵な宝が溢れているはずだと思う。

必然の王国とは、人が乏しい選択肢の中から嫌々自らの願いを妥協してどれかを選ぶしかない制限だらけの受け身の生き方であるが、自由の王国とは豊富な選択肢から自分の願いに応じたものを選ぶことのできる自由で積極的な生き方である。選択肢がなければ、自由もないというわけだ。
 
わずかしかない選択肢の中から無理やり望んでもいない道を選ばされる人生が、人にとって自由とは程遠い窮屈で不幸なものだという点には全く同意できる。そして、私は共産主義者ではないが、共産主義者の描いたユートピア像さえ越えられないような生き方しかできないならば、キリスト者になった意味がないと考えている。私たちの神は、このような偽りの思想の提示する問題解決以上の解決を提示されない神ではない。むしろ、共産主義者の提示する解決こそが、聖書の提示するまことの神の国の模倣なのである。
 
「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

主イエスは羊に豊かに命を与えることを約束されたのであり、神は必ず信じる者を命の豊かさに導きいれて下さるはずである。もしこの命の豊かさに至らなかったら、たとえ救われていたとしても、神の御心の半分も実現できていないと言って良いだろうと思う。そんなことでは、一体どうやって神の栄光、真実を生きて体現することができるだろうか。
  
これまで御言葉に立ち、キリストに従うことを目的として生きて来て、生きるごとに分かって来るのは、神は決して人が自ら望んでいない人生を送ることを願っておられないということだ。これは職業についても、食べ物についても、何についてもあてはまる。たとえば、不健康だと分かっていながら、お金の節約のために不摂生な生活を送るとか、御言葉にそぐわない良心に背く仕事だと分かっていながら、生活のために妥協するとか。そのようなことは決して神の御心ではない。

真に御心を求めるならば、そのような妥協した生活の代わりに、神と人とが共に満足できる生き方を必ず主は整えて下さるはずだと私は信じている。この世の情勢がどうあるかには関係なく、御心を信仰によってこの地に引き下ろし、実現することによって神の憐れみと恵みの豊かさを証するこそ、キリスト者に求められている生き方なのである。

だから、信仰者はこの世の曲がった体系から足を洗い、真に神を喜ばせる生き方とは何であるか、ただそれだけを念頭に置きながら、模索を続けるうちに、何度も、何度も、エクソダスの瞬間が訪れる。宗教組織からのエクソダスだけではなく、様々な古い生き方からのエクソダスだ。

以前、「囲いの呪縛から出る」という言葉で、このことを説明した。なぜ信仰者は、キリストにあって豊かな命を享受する生き方を望んでいながら、いつまでも貧しいままなのか。なぜ自立して自由な生き方を望んでいながら、隷従から抜け出せないのか。それは彼を従属させているこの世の「囲い」があるからだ。信仰者が神ではなく、人(この世の事物を含む)に栄光を帰し、人に従属する度合いに応じて、キリストの命の現れが減って行く。だから、この囲いの呪縛を出なければ、キリストがその人に用意しておられる本当の命の豊かさは分からないものと私は思う。


だから、そのエクソダスの時には、この世によって準備された従来の敷かれたレールの上を歩くのでなく、ただ信仰だけによって、水の上に足を踏み出すように、新しい一歩を踏み出さなければならないことが多い。もしそんな時に人々に意見を求めれば、不安だ、やめておけと止められるだけだろう。囲いは、あなたを逃がすまいと追って来るだろう。しかし、たとえどれほど大勢の人たちの理解を脇に置いたとしても、それでも、信仰者には、神が喜ばれる道へ進むためには、ただ神を信頼し、信仰によって進んで行かねばならないと分かっている時があるのだ…。
 
私は度々ジョージ・ミュラーの生き様を思い出す。ミュラーのような切迫した状況で祈りだけにより頼んだ経験は多くはないものの、信仰の歩みは、進むに連れて、次第に似たような様相となって来るように感じている。人の理解を求めず、世の常識に従うのでもなく、ただ神ご自身だけに自分のすべてを委ねて、神を喜ばせる生き方へと進んで行くのだ。

「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着けるべきことでした。」(エペソ4:24)
 
また、神と共なる信仰の歩みは、外面的な必要性が満たされるだけでなく、内面的にも刷新される歩みである。昨年から今に至るまで、私の念頭にあるのは、「キリストと共に支配する」ということだ。むろん、誰か人間の指導者によりかかり、人に栄光を帰することに慣れてしまったクリスチャンは、このような言葉を聞くと、「おこがましい」と猛反発することもあるかも知れない。彼らが常に望んでいることは、誰か人間に支配されることであって、キリストの支配に入ることでもなければ、彼と共に治めることでもない。しかし、実際のところ、自ら支配する(統治する)ところにしか、真の自由はなく、これを(共産主義者が主張したように、人が自分の欲望に従って支配するのでなく)キリストにあって彼と共に支配することが可能だと教えてくれているのが聖書なのである。

だから、信仰者は、たとえ自分がどんなに若く、未熟で、弱く、取るに足りない存在に見えたとしても、内に「栄光の望み」である方をいただいているという点では、自分が全世界よりも強く、それだけの責務を負っているということを認識してそれにふさわしく行動する必要がある。その勇敢さを受け取らないと、信仰生活は敗北に満ちた重荷にしかならないかも知れない。


ダビデがゴリアテの前に進み出たとき、彼は単なる少年に過ぎず、他方、ゴリアテは全世界を味方につけているように見えた。モーセとファラオの軍隊、エリヤと450人のバアルの預言者が対決した時にも、やはり同じように見えたであろう。

この世の軍勢は、数に置いても、力においても、キリスト者を常に上回っているように見える。ところが、キリスト者の内に持っているほんのわずかな信仰の中に、すべてを覆すほどの力が宿っているのである。これが人の目には不思議な神のパラドックスである。

だから、信仰者は、自分がどんなに弱い存在のようであっても、進んで行くにつれて、自分の内におられる方の持っている絶大な権威を否が応にも自覚させられることになり、それが分かれば分かるほど、内なる人が強まって行くのである。


「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座につかせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました
  また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
 
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:20-23)

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れな力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント6:7)

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかにされるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(Ⅱコリント6:8-11)
PR