忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

肉によって生まれた者が御霊によって生まれた者を迫害する

今、キリストと共に統治する、とか、この世の体系を出て、御子の支配下に入る、といったテーマで今、一連の記事を書いているのは、反キリストの王国がいよいよ近づいているためでもある。

もし反キリストが地上の王国を統治することを目的としているならば、キリスト者もすでに見えない王国を担っている者である。その王国とは、目に見える地上の王国ではなく、彼の内側に信仰を通して、キリストご自身の支配として到来している見えない神の王国である。

たとえ信者がどれほど人の目に弱々しく忘れられた存在であろうとも、信者を通して神の国が到来しているという事実は、測り知れない意味を持つのであり、信者は自分が王の王なる方と共に共同統治者に指定されている事実をよく考える必要がある。神の国とは何か、その統治とは何か、自分に約束され委ねられた使命について追求して行く必要がある。
 
だが、多くの信仰者がこのようなテーマについてはほとんど考えることさえやめてしまっている時に、反キリストはいよいよ地上に自らの王国を打ち立てようと準備を進めている。以下の記事で、私は天皇をいずれ再び現人神として、つまり、反キリストとして担ぎ出そうとする動きがあることについて書いた。

天皇をその出自に鑑みて反キリストとみなすことについて、Yahoo知恵袋「天皇陛下は神道のイエスで反キリストというのは本当ですか?」に、かなり秀逸な回答が記されていたので、末尾に引用しておきたい。そこでは、国家神道の成り立ちを詳しく解説しながら、国家神道はキリスト教を換骨奪胎して作られたキリスト教の異端でありカルトだということが指摘されている。

確かに、国家神道がキリスト教に対抗することを意識して人為的に作られた宗教であることはよく知られているが、この記述はさらに進んで、根拠を挙げつつ、天皇は「異なる霊」を受けた「異なるイエス」であり、「国家神道はキリスト教の異端」、「キリスト教のカルトである」と言い切っている。(詳細は記事末尾に引用しておくので各自で吟味していただきたい。)

そのように見るのはまことに適切ではないかと思われる。私はペンテコステ運動の指導者らも「異なる霊」を受け「異なるイエス」として「神々」となった人々であると言って良いと考えている。そして今、この世は終わりに向けて、「神々による支配」から統一的な「反キリストによる支配」へと移行しつつある。その結果、再び、現人神として担ぎ出されようとしているのが天皇であり、政府はすでにその従属機関としての役割を果たしているのだと見られる。

なぜ政府がこのように国民を裏切って反キリストに堂々と仕えるほどまでに堕落した存在となったのかという疑問については、官僚組織の成り立ちを考えてみれば全く不思議ではない。

明治憲法下で官僚組織は天皇の直属の機関であったことはすでに述べた。戦後の現在の憲法の下では、公務員は国民の公僕とされているが、その公務員とは憲法上、選挙で選ばれた政治家のことを指しているのであって、官僚のことを指しているのではないということもすでに記事の中で述べた。それでは、官僚という存在は一体何者であり、どのような根拠によって存在を許され、誰に仕えるために存在しているのか。実のところ、官僚組織全体が、憲法に基づかずに、法のトリックによって生まれた実態のないお化けのような存在であり、戦前の遺物として、本来は廃止されるべきものが、適正な法的根拠を持たないまま、今日までトリックによって存続しているだけなのである。

さらに、このようなお化けのような官僚組織と一緒に、官僚となるための国家公務員試験というものも、同じように全く根拠がないまま、戦前の遺物として今日に残っている。これは明治憲法下で存在していた官吏になるための試験制度をそのまま今日に置き換えたに過ぎない。

従って、上級エリート官僚になることを暗黙のうちに最高の到達点とみなすような現在の日本のエリート教育、偏差値偏重の教育制度といった、教育におけるヒエラルキーそのものが、実のところ、すべて旧時代の遺物に過ぎないと言っても差し支えないものと思う。未だにそのような幻想のヒエラルキーが連綿と受け継がれ、それによって人々が踊らされ、苦しめられているのが今の日本なのである。

戦前の祭政一致という観点から見ると、当時の官僚制度は、天皇が宗教的祭事を執り行うための組織の一環だったのだと言って良いだろう。教会にたとえるならば、牧師の下に置かれる役員会のようなものだろうか。そして、天皇に仕えるために有能な部下を選び出すことを最高の目的として作られたのが官吏になるための試験であり、それが法のトリックによって敗戦後も形を変えて生き延びて、国家公務員試験として存続しているのである。

そう見ると、現在のいわゆるエリート教育は、反キリストのために優秀な人間を道具として選び出すために作られた戦前の制度を土台として築かれたものであるため、その理念に鑑みて、これが人間を幸せにしないシステムであったとしても何ら不思議はないだろう。

いずれにせよ、官僚制度はそのものが憲法違反であり、法的根拠を持たない戦前の遺物であり、自らが憲法違反の存在なので、当然ながら、彼らは自ら定めた下位法によって上位法である憲法を覆そうと企てている。いわば、クーデターの霊がそこにあるのだと言える。彼らの目的は、時計の針を逆向きにして、廃止された現人神の制度を復活させること、自分たちが卑しい国民の下僕に転落せずに済み、再び「神(反キリスト=天皇)」に直接仕える「高貴な」機関となることだろうと予想される。

もともと法のトリックによって敗戦を超えて生き延びている犯罪的な集団が、自らの犯罪性を隠し通すために、国民を裏切って、多くの国民を死に追いやった現人神としての天皇を再び担ぎ出し、天皇崇拝をひそかに再び国民に強要しようと画策しているのだとしても、それは全く不思議ではない。すべての官僚がそのような信念の持ち主ではないにせよ、遅かれ早かれ、この考えに賛成しない人々が駆逐されて行くことによって、法改正を待つまでもなく、すでに霊的には、政府そのものがそのような状態になってしまっているのが現在であると見られる。政府は、天皇が再び現人神として戻って来てくれて、彼らの存在を正当化してくれるのを待ち焦がれているだけでなく、すでにそのために道を整えてさえいるようにしか見受けられない。

少し話が脱線するが、クリスチャンを名乗りながら、天皇を反キリストとみなすと同時に、日ユ同祖論を唱えている一群がある。しかし、これもまた現人神へと道を開いて行く流れでしかない。日ユ同祖論なるものは、科学的根拠を一切持たないファンタジーの類であり、仮に百歩譲ってそれを事実として受け入れたとしても、それは聖書に基づく救済理論とは決してならない。なぜなら、聖書の新約の救いとは、人が地上的な血筋によって救われるというものではなく、人はキリストの贖いを受け入れ、「上から生まれる」ことなくしては神の国に入れないからである。

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

そこで、日ユ同祖論に限らず、「愚かな議論、系図…」(テトス3:9)などを持ち出して、地上のアダム的な出自を高く掲げるようとするいかなる理論も、聖書の真理には対立するものであり、結局のところ、天皇を現人神とする思想と何ら本質的に変わることのない人間崇拝の思想だと言える。だから、日ユ同祖論を唱えている人たちも、表向きには天皇崇拝をどんなに否定していようと、最終的には、「日本人は(ユダヤ人の末裔であり)神に選ばれた選民だから他の民族よりも優れている」などという優生学的思想へ飛びつくだろうと容易に予想できる。それはすでに述べたように、ロシア大統領を誉め讃えながら、同時に天皇を誉めたたえている人々の行き着くであろう結論と変わらないのである。

こうして日本を再び「神国」とみなそうとする危険な潮流が様々なところから起きて来ているのが現在である。天皇を賛美し崇拝する人々は、その思想によって結局、自分のアダム的なものを誉め讃え、己を神としているのに等しいが、自分を神とするグノーシス主義は、人を高く掲げ、人間に栄光を帰するがゆえに人々を魅了し、盲目にさせてしまう。

こうして、今、日本は再び、非科学的な優生学的思想に基づいて、日本民族を高く掲げ、その頂点に天皇を据えて、「神国」として世界に名乗り出ようという愚行の一歩手前まで来てしまっている。このカルト的な妄想が、すでに一部の狂信者の専売特許でなくなり、表の政治の世界で堂々と繰り広げられ、政治が「祭事」とされようとしているのである。

もちろん、だからと言って、このような思想を持つ人々(たとえば日本会議メンバー)が、いきなり天皇を「現人神」であると主張し、「日本民族は神国の民であり、国政は天皇の祭事である」などと主張したとしても、誰もそんな戦前のイデオロギーになびく者はおらず、国民の大反発を買うだけであろう。だから、頭の良い人々は決してそのような方法によって天皇崇拝を復活させようとはしない。むしろ、天皇を国民への情け深い同情者、救済者のように描き出し、大衆の中に天皇を崇め、尊敬するムードを巧みに醸造して行くだろう。

そのような目的のために大いに利用されているのが、「先の大戦で非業の死を遂げた戦没者」の存在である。天皇はこれまでにも常に犠牲者を弔う存在、被害者に情けをかける慈悲深い象徴のように描き出されて来た。天皇は「英霊」を慰める存在であり、また、戦争の犠牲者のみならず、障害者や被災者等の社会的弱者に憐れみをかける存在であり、民草の苦しみに無関心ではいられない情け深い「君主」として演出されて来た。

将来的に、反キリストは実質的に抑圧者、搾取者であるにも関わらず、必ず、表向き、慈悲深い同情者、救済者を名乗って現れるだろう。彼は必ず「可哀想な社会的弱者」を大いに利用して救済者然と登場して来るだろう。それは拉致被害者を利用して政治家として成功した首相や、カルト被害者を利用して教界で名をはせた牧師と同様であるが、天皇を情け深い同情者や救済者にしようとするような流れは今までにも十分に形成されて来た。
 
だが、戦争で犠牲となった戦没者は、本当は天皇の犠牲となって殺された被害者に過ぎないし、原発事故の被災者も、政府の無策によって見捨てられた被害者であると言う観点から見るならば、天皇も政府も、本来はこうした人々の存在の前に責任を追及されるべき立場にあって、彼らを慰める同情者ではないし、まして救済者ではあり得ない。ところが、やんごとなき方々が自分たちを見舞いに来てくれて、励ましてくれたということになると、民の怒りは不思議とおさまってしまい、国民は自分たちが加害者と対峙しているのであって、救済者を見ているのではないということを忘れてしまう。

このようにして、国民を苦しみの中に投げ入れた本質的な原因がどこにあったのかという責任問題をごまかし、束の間の同情を注ぐことで、国民に憤りを忘れさせ、自分たちが置かれている不自由な状態を黙って耐え忍ぶよう仕向け、本質的な解決の道を忘れさせることも、偽の救済者の重要な役割の一つである。

カルト被害者救済活動もそうなのだが、被害者を利用した救済ビジネスの本質は、被害者への「同情」という心地よい感情を大いに利用して「救済者」が自分の栄光を築き上げ、なおかつ、問題の本質を覆い隠してしまうことにある。「救済者」が弱者のために涙を流せば流すほど、救済者は輝き、その名声は高まるが、弱者はそのために利用され続けるだけで、いつまでも問題は解決しない。むしろ、本音を言えば、いつまでも犠牲者がいてくれて初めて「救済者」は名声を汲みだす源を得るのである。

さらに、再三に渡り、述べて来たように、カルト被害なるものが発生するのは、牧師と信徒らが共に聖書の教えから逸れたことが本質的な原因である。従って、被害者らは自分たちが聖書の御言葉を退けてまで、誤ったイデオロギーを信じてしまったがゆえに、大きな失敗へ導きいれられたという点を直視せず、この罪を見ずして、ただカルト組織や指導者だけを一方的に責めていたのでは、決して問題の本質的な構造は見えて来ないし、解決の道も開けない。

ところが、カルト被害者救済活動は、カルトの親玉だけを「悪」とし、被害者を「善」なる存であるかのように描くことで、加害者と被害者には、双方ともにまことの神を捨て、誤ったイデオロギーを奉じたという共通の罪が存在しているという事実をごまかしてしまうのである。

さらにもっと進んで言うならば、キリスト教界と牧師制度そのものが聖書から逸脱しているという事実には決して彼らは触れようとしない。カルト被害者救済活動を指導する者自身も牧師である以上、この者もカルト的な教会の牧師と同じように加害者サイドに立っており、こうした被害を発生させたことについて共通する罪や責任を背負っている側の人間であるという事実には目を向けようとしない。
 
こうして、加害者と被害者とが一体となって、事実を覆い隠し、己の罪から目を背けて自らを義とするという結果が生まれるのである。表向き、加害者を訴えているようでありながら、被害者と加害者が同じ罪で連帯し、共に己をかばいながら一体化して行くのである。

そして、これと全く同じ構図が、天皇が戦没者を慰霊するために「英霊」たちのもとを訪れるという事業の中に見て取れる。

考えてみればすぐに分かるはずだが、仮にもし誰かが交通事故で過って人を死なせてしまった場合、交通事故の加害者は、亡くなった被害者の位牌の前で、顔を上げて立つことはできない。まして、亡くなった被害者のもとを訪れて彼を「慰める」など論外である。加害者ができるのは終わりなき謝罪だけであり、どんなに詫びを重ねたとしても、彼は同情者にはならないし、まして救済者にはなれない。
 
しかし、天皇の戦没者への「慰霊」は、一体、どういう性質のものなのかは定かでない。戦争の惨禍については常に語られるものの、それがなぜ、誰のせいで引き起こされたのか、天皇と戦没者とはどういう関係にあるのか、果たして天皇は加害者としての責任を認めて犠牲者の前に立っているのか、それは決して明確にされることはない。少なくとも、この儀式が、天皇が自ら誤ったイデオロギーによって数えきれない国民を死に追いやった加害者として、被害者の霊に謝罪することを主たる目的としていないことは確かである。
 
さらに、天皇による戦没者への「慰霊」は、本質的に宗教儀式である。名目上は、亡くなった犠牲者を丁重に弔うとか、戦争の悲惨さを忘れずに戦後処理を適切に遂行する政府の責任などといった目的を隠れ蓑にしてはいるものの、実際のところ、公式にも「慰霊」や「慰霊巡拝」などといった名がつけられている通り、これは天皇が戦没者である死者の霊を拝むという、れっきとした宗教儀式としての意味合いを持つ。
 
ここでは、政府や戦没者の遺族にも、複雑な思惑が絡んでいる。表向き、戦没者は戦争の犠牲者であるとの認識は一般にあるものの、それでも、彼らは天皇のために命を捧げた「英霊」であって、これは無駄死にではなかったと思いたい人々が存在することも確かである。むろん、政府も内心は免罪されるためにその感情を利用したい。

そこで、戦没者の慰霊という儀式を厳かに執り行い、天皇が亡くなった人々に同情し、彼らの霊を慰め、弔うという遺族らの感情に訴える儀式を執り行うことによって、本当は加害者も被害者も共に、生まれながらの人を神とする誤ったイデオロギーを信じて人生の道を踏み誤り、大きな悪事に手を染め、自分自身の人生をも無駄にしたのだが、その事実(その大罪)を何となく覆い隠して、情緒的な側面だけに焦点を当てて、それ以上の責任を誰も追及できないようにしてしまうのである。つまり、ここでは加害者と被害者の関係にある者たちが同じ罪を犯しているのだが、双方ともがその事実から目を背けることによって一種の共犯関係を築いているのであり、もっと言えば、被害者と加害者との間で、何か癒着のようなものが成立してしまうのである。

さて、このブログでは度々反面教師として取り上げているハフィントンポストに、今回の天皇のフィリピン訪問を盛んに報道するメディアの隠れた目的が見て取れるような記事があったので、それを抜粋したい。

(ハフィントンポスト 天皇訪比「日本人が忘れてはならないこと」柴田直治 マニラ新聞編集顧問 元朝日新聞論説副主幹 投稿日: 2016年01月29日 18時38分 JST   更新: 2016年01月29日 19時54分 JST  から引用)

この記事においては、日本の敗戦や戦争責任といった不都合な歴史的事実に一向に向き合おうとしない冷淡な安倍首相と、それとは対照的に、不都合な歴史に誠実に対峙し、犠牲者の苦しみに真摯に思いをはせる天皇という図式が描き出されている。

「天皇は旅立ち前の羽田空港で「マニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」と述べたが、1945年2月のマニラで10万人もの市民らの命が奪われたことをどれほどの日本人が知っているだろうか。

自国に不都合な歴史的事実を知ろうとしない、認めたがらない風潮が強まるなか、天皇の言葉は重く響いた。さらに言えば「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という昨年8月の安倍首相談話に相対する考え方だと私には思えた。」

だが、このようにわざわざ安倍首相の冷酷さと、天皇の外交的功績を対比して描き出そうとする目的はどこにあるのか。それは次の文章の中に示されているように思う。

憲法上、政治から離れた立場にいる天皇だが、今回の訪比で政治が今後解決すべき課題が浮き彫りになったと感じる。ひとつは戦後フィリピンに残され、差別のなかで困窮を強いられた残留日系人の救済だ。昨年7月、日系人の代表らは、日本政府主導の訪比調査と孤児認定の実施などを安倍首相に直接陳情したが、いまだに政府側の動きはない。2世らの高齢化は進み、残された時間は限られている。

もうひとつは遺骨収集事業再開への条件整備だ。2010年にミンドロ島などの先住民墓地からフィリピン人の遺骨が盗掘され、旧日本兵の遺骨に混入された疑いが浮上したため、事業は中断したままだ。いずれも戦後処理の一環であり、こちらも政府の早急な対応が求められる。」

ここには国民の関心を二つの目的に誘導しようとする意図があるように思われてならない。一つ目は、政治家の無能を強調することによって、天皇の政治への復帰が必要だと思わせることである。これは、天皇を再び国家「元首」としたい人々の意向を受けた、憲法改正への巧みな促しであると見て取れる。

二つ目は、政府の行う戦後処理ビジネスの拡大である。フィリピンでの遺骨収集事業はこれを現地の下請け業者に丸投げした政府のずさんな管理のために巨大な疑惑が生じ、中断したままだが、その是正も行なわれていないうちに、これを再開する必要があるというのだ。だが、すでに述べて来たように、きちんとした調査方法も確立していないのにまた新たな遺骨を引き取る前に、まずは厚労省にため込まれた行き場のない大量の遺骨の行く先を考える方がはるかに優先課題ではないかと思われるのだが。

さらに、記事は戦後フィリピンに残された残留日系人の救済の必要も訴えているが、これは中国残留邦人以上に調査が困難な案件となるであろう。「日系人」と書かれているところを見ると、「残留邦人」でさえない人々も含まれる可能性があるが、そうなると、救済の対象には日本人でない人々も含まれることになりかねない。それは、戦後処理の救済の対象そのものが、果てしなく拡大する危険をもはらんでいる。戦後処理は確かに続行が必要な事業であり、救済を待つ人々もいるのだとはいえ、これも間違いなくビジネスなのであるから、いたずらに拡張されるべきものではないし、もし政府の利益のために拡張されるとすれば、それは論外である。

従って、この記事は、一見、過去を忘れないとか、戦争の犠牲になった人々へ思いをはせるなど、あたかも歴史的過去への道義的な責任の見地から書かれているように見えるものの、その実、天皇の国政への復帰と、戦争の犠牲者の高齢化が進んで救済の対象を失いかけている政府の戦争犠牲者救済ビジネスを存続させるための新たな事業作りの必要性を国民に訴えることが真の狙いだと疑われても仕方がない。
 
今、政府が行うべき課題は他にあるのではないか。年金や不況や被災といった国内問題の解決や貧困にあえぐ自国民への支援も、これと同じほど、あるいはもっと緊迫した重要な課題ではないかと思われてならないのだが。
  
さて最後に、天皇とは何者なのだろうかという疑問について考えてみたい。天皇家には戸籍もなく、果たして天皇とはどこから来た存在であるのか、その出自は何なのか。こういった疑問についても、日本人はよく考えてみる必要があるのではないだろうかと思う。

長くなるが、Yahoo知恵袋の文章を掲載しておきたい。

woderful_councelorさん

2014/3/2914:20:15

天皇陛下は神道のイエスで反キリストというのは本当ですか?


ベストアンサーに選ばれた回答

nobusuke_kishi1896さん

編集あり2014/4/514:49:28

恐れ多くも,天皇陛下は全神道のイエスで反キリストというのは歴史的事実です。明治天皇も,大正天皇も,昭和天皇も,今上天皇も,みな「養子論のイエス」という反キリストです。

1.かいつまんで説明します。
①明治維新は国家神道イデオロギーによって成立した。
②国家神道の中心的ドグマは,平田篤胤の復古神道である。
③平田篤胤は,天主教の教義書を剽窃して復古神道を人造した。
④平田」篤胤は天主教のイエスを天皇で置換し,父神を母神天照大神と,聖霊なる神を天皇霊とそれぞれ置換し,聖書に啓示された無からの創造論を古事記の流失神話と置換したものである。
⑤その後明治14年の祭神論争で出雲派を追放し天照オンリーの国家神道として完成すると共に,全神道の唯一神となり,靖国のドグマが完成した。
⑥天皇の即位式大嘗祭は,キリスト教の聖霊のバプテスマのパクリである。
⑦伊藤博文は自身がキリスト教の洗礼を受けながら,国禁に鑑み,徳川慶喜が捨てた反キリスト教,復古神道に飛びついた。
⑧GHQは,天皇教が反キリスト教であることを知り神道指令で「国家カルト」と名指しした。
⑨外務省は全てを知りながら「国家カルト」と翻訳せず,国民の目を欺いた。
⑩「反キリストを死刑に」がアメリカの大衆の意見だったが「キリスト者になっても良い」という嘘にマッカーサーが騙され昭和天皇は命拾いした。

2.天皇=反キリストの決定的な証拠
・昭和天皇は1人のために310万人の日本人,2,400万人の人間を殺した。
・キリストは万人のために死んで下さったが,反キリストは自分1人のために万人を殺した。
※「ホイットニー文書」を見よ!

3.以下の質問と答えから詳述する。

質問1:外務省が cult を「宮中祭祀及び祭式」と翻訳し今日でも、外務官僚の翻訳を自省のサイトに乗せているという意味は、外務省は天皇の宮中祭祀だけが非宗教的国家カルトであって、神宮、靖国神社、その他の官国幣社、神祇院を指さないという意味なのでしょうか?それとも臣民の目を欺き、GHQが神道を国家カルトに指定した事実を隠蔽するためでしょうか?

回答1:もちろん, GHQが神道を国家カルトに指定した事実を隠蔽し,庶民の目を欺くためです。なぜなら,伊藤博文らにより「官僚が庶民を騙す政治体制」に創作されていたからである。

■根拠:この質問に答えるには、「大日本帝国」が「どういう国家」だったのか,その二重の統治機構を知る必要がある。例えば北朝鮮の憲法にも信教の自由が謳われているが,建前であって実態は異なる。二重の統治機構があり庶民に自由はない。
昭和31年,久野収らは「現代日本の思想」(岩波書店)で見抜いていた。日本帝国は,二重の統治機構,つまり庶民の「顕教」(通俗的)と、エリートの「密教」(高等的)とに創作されていた。「教えられたとおりに」顕教を信じた庶民は,密教の存在に気がつかない。憲法は外国と庶民を騙す仮面だからエリート官僚が護るものではないのである。

この明治憲法の違憲な解釈と運用に気づかない臣民はみな騙されていた。特攻で死んだのは騙された若者たちだった。建前である「顕教」は初等教育や軍隊で教えられた、天皇を無制限の権威と権力をもつ絶対君主とみる解釈のシステムであり、本音である「密教」は大学及び高等文官試験を通って初めて明らかにされる。伊藤博文を指導者とする明治の元老らが「国家の二重構造」を創作した!

質問2:神学的に評価すると国家神道はキリスト教のカルトなのでしょうか?
回答2:そのとおり。キリスト教のカルトである。例えば,「天皇はローマ教皇のごとく,神の権威のこの世における代行者にとどまるのではなく,まさしく神の子であり,現人神とせられた。天皇は,皇帝=教皇であるだけではなく,実に民族信仰における神の子イエスの役割も演じなければならなかった」久野収は「現代日本の思想」128頁で「天皇は国家神道の神の子イエス」であると明らかにしていた。1956年の時点にである。

■国家神道は神学的に評価するとキリスト教のカルトというか反キリスト教である。

1 国家神道の成立過程とドグマ
①平田篤胤は,中国へのイエズス会宣教師の教理書「畸人十編」「三山論学紀」を剽窃し『本教外編』,『霊能真柱』(たま の みはしら)等を著した(復古神道)。父,子,聖霊を天照大神,天皇,天皇霊に置換したグノーシス主義キリスト教という国家カルトを創作した。
②平田国学は津和野藩の藩学となり,伊藤博文に上奏され津和野派主導の国家神道となった。
③明治14年祭神論争で幽冥界の主,大国主と死後の裁きの出雲派を退けた伊勢派は神宮本宗+靖国神社のドグマを確立。
④伊藤の信任厚い井上毅は帝国憲法草案,教育勅語,軍人勅諭を起草。
⑤その後『国体の本義』『臣民の道』がドグマとなる。

2 カルトの定義
神道ドグマが,ⅰ 別のイエス,ⅱ 異なった霊,ⅲ 異なった福音のいずれかに該当すればキリスト教のカルトである。(コリント人への第2の手紙11章4節が根拠):
「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった①別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない②異なった霊を受けたり、受け入れたことのない③異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」

3 カルト評価
Q1 別のイエスか?
A1 その通り!「養子論のイエス」と「従属論のイエス」である。
①天皇:「養子論のイエス」という別のイエス。皇太子が大嘗祭で天皇霊のバプテスマを受け現人神になるというドグマ。
②統治機構:「従属論のイエス」(アリウス主義)即ち「エホバの証人」。しらす天皇論,国家有機体論というドグマ。

Q2 異なった霊か?
A2 その通り。汎神論の悪神創造神とその分霊である人間霊,様態論の神々である。
③天照大神:グノーシス主義キリスト教のデミウルゴス。ホッブスのリバイアサン。チュートン神話のボータン。
④臣民:霊肉二元論の霊魂。その霊魂は天照大神の分霊(わけみたま)
⑤八百万の神:様態論の神,天照大神

Q3 異なった福音か?
A3 その通り。良心からの自由,愛国無罪
⑥自由:良心からの自由(霊的な自殺・霊的な殺人)
⑦道徳(善悪判断):「お国のため」と言いさえすれば何をしても善(愛国無罪)

■結論:海老沢有道(1910-1992,聖心女子大教授)東京大学文学博士論文『南蛮学統の研究』430頁から追加引用しよう。
「復古神道は自ら密かに摂取したキリスト教の教理を独善的に牽強附会し,(別のイエス,異なった霊,異なった福音に剽窃し),明治維新の指導原理となり,神道国教化政策を推進し,キリスト教を江戸幕府以上の熱意をもって排撃に努めたのであった。」

◎天皇,宮中祭祀,神宮,靖国,官僚,軍隊,臣民,すべてが非宗教的国家カルトだった。

※写真について 『大室寅之祐を探せ』
この中に後の明治天皇が写っている。写真嫌いだった天皇。彼は京都御所ではなく,安倍晋三事務所のある山口県田布施村に住んでいた。宣教師フルベキの写真。

恐れ多くも,天皇陛下は全神道のイエスで反キリストというのは歴史的事実です。明治天皇も,大正天皇も,昭和天皇も,今上...


 さて、上記の質問に対する質問者からの回答がまた振るっていて面白い。

質問した人からのコメント

2014/4/5 16:38:12

やはり天皇陛下は反キリスト教のイエス,養子論のイエスなんだ。カルトだから,キリスト教徒を迫害し殺したんだ。してみると日本人は全員が実は異端のクリスチャンなのかも^^ 


この回答は、私がこの国の人々に感じて来た言い表せない不気味さを見事に表現しているような気がする。現在も戦前とほぼ同じ状況が続いているのだと考えると、その不気味さの正体が解けるのである。
 
上記では、日本のエリート教育なるものの中に、戦前のイデオロギーが隠れた形で受け継がれていることを述べた。官僚制度も戦前の遺物である。このように、この国はあたかも敗戦によって変わったように見えながら、実質的に、戦前と変わらないイデオロギーや、国家体制を隠れた形で引きずっており、それに基づいて情操・思想教育を受けて育って来たのが現在の日本人なのだと言える。

この情操教育、思想教育は、国民に、絶えず誰か偉い人のために自分を道具として捧げ、その人の奴隷のようになって生きることを強いる。たとえ意識せずとも、日本人はこうした教育の結果として、常に自分よりも偉い誰かのために有用な人間となるべく身を捧げて生きることを至高の価値として行動する。最終的にはそれが天皇のために身を捧げるというところまで行き着くのであろう。

こうして、無意識のうちに天皇を崇拝するよう教え込まれた日本人だけではなく、ペンテコステ運動に影響を受けたクリスチャン、キリスト教界にいて牧師制度の下に身を置いているクリスチャンも、みな結局、人間の指導者を崇拝し、人間の指導者のために身を捧げて生きているという点では根本的に同じなのである。これらはすべてキリスト教の異端とみなすことができる。さらにこれに企業戦士も加えると、もはやほとんどの日本人が精神的奴隷状態に貶められて生きているのだと言うことができる。

(束の間、羊がその理不尽な状態に気づいて目覚めかけると、たちまち救済者然とした偉い人々が現れて同情の涙を注いでくれるので、それに満足して羊はまた眠ってしまうのである。さらに、どういうわけか分からないが、人を生まれながらに神とする思想を受け入れた人々は、セカンド・チャンスやサンダー・シングと言ったキリスト教の異端に限らず、決まって必ず、死者の霊の崇拝というところに行きつく。天皇崇拝も結局、先祖の霊や英霊という死者の霊を祀る点で死者の霊への崇拝であり、国家神道はその点でオカルトであると言える。)
 
今日も、こうしたグノーシス主義的カルトに影響を受けた人々が、真実なクリスチャンを迫害し、駆逐を試みているのであり、ネット上の迫害も決して偶然に起きたのではない。ここに日本という国の霊的な土壌がよく表れていると言えるのではないだろうか。
 
このような状況について、聖書は何と言っているだろうか。

心配は必要ない。なぜなら、聖書によれば、「肉によって生まれた者」が「御霊によって生まれた者」を迫害するというのはいつの時代も変わらない構図だが、最終的に駆逐されるのは、御霊によって生まれた「自由の女の子ども」ではなく、彼らを迫害した肉によって生まれた「奴隷の女の子ども」だからだ。

「しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。
しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:29-31)
PR