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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

御国のための働き人 ー収穫は多いが働き手が少ない―

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

ここ数日、私はジョージ・ミュラーの信仰にならい、信者が本当に天の経済に生きることが可能かどうか実験していた。

つまり、神が真実を愛されるように、私たちも真実を愛し、神が正義を愛されるように、正義を愛し、御言葉に従って、御言葉の正しさを証明するために、つまり、神の正しさを証明するために生きるなら、その信者の生存は、必ず、神ご自身が支えて下さるはずだという確信を生きて証明するための実験である。

実験結果はまことに良好なものであった。むしろ、この実験に入るのが遅すぎるくらいであった。もっと勇気をもって立ち向かうべきことが数多くあり、神の真実をもっと早くに高く掲げるべきであった。だが、それを悔やむことは必要ない。訓練は始まったのだから――。天の富を地上に引き下ろすことができれば、我が家の愛する子供たちのためにしてあげようと思っていたことが、ただちに可能となった。

これも多分、エクソダスなのであろう。頃合いが来たのだ。ノアと動物たちが地上を離れ、箱舟に乗り込んだように、私も少しずつ地上の経済を離れ、天の経済へと自分の荷物を移し始めている最中である。

理解者は少ない。だから、その作業は基本的に神と私との共同作業である。しかも、まだ踏み出したことのない道だから、確固たるレールがあるわけでもない。すべて信仰により、手探りのように進んで行く。だが、内側では分かるのだ、頃合いが来たのだと。主が共におられる平安がある。

箱舟の外では、空が曇り、遠くから雷鳴が聞こえ、集中豪雨が迫っている。今までさんざん大雨など来るはずもないと、箱舟建設をあざ笑って来た人々も、次第に青ざめ、表情をかたくし始めたところだ。

高待遇が経営圧迫!朝日新聞ついに給与削減を提案」(Diamond online 2月1日)
マイナス金利の影響 ほぼすべてのMMF受け付け停止」( NHK Newsweb 2月5日)

こんなニュースが紙面に踊る。地上経済は恐るべき混乱の中に投げ入れられようとしている。メディアは、安倍政権によって情報統制が進んでいると危機が叫ばれて久しいが、毒入りまんじゅうを食べた挙句がこの結果だ。マモンの神に仕えたところで、生き永らえるはずもなかろう。この先、彼らにはどんな報いが待っていることか。そして、地上の預金口座は、ついに預けても利息さえたまらない場所へと変わろうとしているのだ。

もう頃合いだと気づかない方がおかしいと思うのだが。仕えても、仕えても、振り返ってもくれず、報いてもくれず、数々の難癖をつけては途方もない努力を強いて、果ては良心をさえ売り渡すように当然のごとく求め、そのあなたの悲痛な努力に対して、ただあなたを路頭に放り出すことだけを唯一の回答としているような貧乏神を主人として生きるのをやめるべき頃合いではないのか。

この横暴な地上の神、貧乏神、厄病神の代わりに、真にあなたを愛し、あなたのために命を投げ出して下さり、すべての必要を供給して下さる生けるキリスト、まことの父なる神に仕えて生きるべき時ではないだろうか。

さらに、預けても預けても目減りして行くだけの地上の預金口座ではなく、天の口座に資産を移すべき時でないだろうか。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)
 
もし誰かが自分の働いている会社が間もなく倒産するという情報を得たとして、賢い社員ならどうするだろうか。真っ先に自分の身の処し方を考えて、安全な会社を探し、転職するだろう。同じように、今、滅びゆく地上に自分の財産を蓄えることの絶望性がこれほど明らかになったのだから、喜んで天に資産を移し、天に就職先を変えるべき時が来ているのではないか――。

そう、一億総活躍などといったスローガンにこれ以上、踊らされるべきではない。また別の機会に述べると思うが、これは全プロレタリア―トから持てるすべてのものを巻き上げるための強制集団化の始まりであるのだから。 (もしプロレタリアートなどと呼ばれて喜ぶ人がいるならば、なおさらのこと、地上ではなく、天のため、御国のための労働者になるべきである――というのが今日の論題である。)

ああ、またもやヴィオロンの荒唐無稽な作り話が始まったと、笑いたい人は笑って構わないが、その結論を得るのが遅くなれば遅くなるほど、きっと損失も拡大することだろう。

「不信者と、つりあわぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14)

この御言葉の意味するところは、神を信じている者はすべての罪を赦されているのだから、神を信じていない者といっしょになって再び罪の奴隷となって罪の連帯責任を負わされてはいけません、ということである。

今、我が国は、途方もない天文学的で返済不可能な罪の負債の共同返済のための連帯責任という方向へ向かって坂を転落している。これまで、我が国は金銭だけを至高の価値とし、すべての人間を金を生み出すための優秀な道具とするために国家を運営して来た。いや、国家だけではなく、教会も含め、宗教団体もみな同じであった。おそらく世界で最も成功しているプロレタリアートの国に見えたかも知れない。
 
この国は資本主義国の形をとった社会主義国であったと言って過言ではない。だからこそ、そのイデオロギーのもたらす必然的な結果として、社会主義国の末期状態へと突入しようとしているのだ。いずれにせよ、国を動かすイデオロギーが間違っていたことは明白である。そこでは、人間が個人として生きることが許されず、人が常に誰か偉い人や組織のために道具となって身を捧げ、その利益のために自分を差し出し、犠牲して生きることが至高の価値のように奨励されて来た。そのような思想教育は、長い間、この国の教育制度や、就職戦線などの形で個人に高いハードルをつきつけ来たし、その中であたかも勝ち組やら負け組やらが存在しているかのような幻想が保たれて来た。
 
しかし、ついにここに来てそのイデオロギーの誤り、凶暴性がとことん明らかとなり、その仕組みそのものが破綻しようとしているのだ。

もはやヒエラルキーもなく、エリートもなければ、勝ち組もない。今後は、国を挙げて天文学的負債という罪を返済するための総力戦へと落ちて行くだけである。他国からの攻撃や、戦争で疲弊するならまだ理解できるが、これは罪の結果として内側から起きている自壊現象である。いわば、誤ったイデオロギーを信じた結果の自滅と言えるだろう。

ちょうど、野心満々で巨大な礼拝堂を立てたは良いが、信徒は増えず、借金だけが残ったという教会の姿にも似ている。そこに所属している限り、あなたも共同返済義務を負わされるのである。(これは霊的な所属のことである。国籍を捨てよという話ではない。)

残念なのは、人類がいかに罪を犯し、いかに負債が多く、滅びが間近に迫っているかを唱える人々は数多くいるのに、では、その滅びからどうやって救い出されるかという問いに、人々は決して真剣に答えようとしないことだ。

多くのクリスチャンは聖書を読み、キリストを信じて主としているかのように口では言う。だが、依然として、あの指導者、この指導者に助けを求め、政治的変革や、組織の刷新などに希望をつなぎ、また新しい潮流を作り、計画を練り直すばかりで、一向に神のみもとへ駆けつけようとしない。

見えない神をおざなりにしてきたがゆえに、この結果に至ったにも関わらず、今になってもまだ見えない神ご自身が解決であるということに全く思いをはせない。そして神を求めると言いながら、またもや人間の指導者に栄光を帰すために飛びついて行く。

そのようなことを繰り返していたのでは、問題をどんなに鋭く分析し、どれだけ多くの政治指導者やムーブメントを努力して渡り歩いたところで、罪の負債という世界から一歩たりとも外へ出られず、さらに負債だけが膨らんで終わるであろう。そのような生き方を脱すべき頃合いが来ているのである。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 」(コロサイ1:13)

聖書は、このような恐るべき理不尽なこの世に対してこそ、信じる者はすでに十字架で死んだ、と教えてくれているのである。キリストと共なる十字架を経て、御子と共なる死と復活を通して、いかに信仰者がこのような理不尽な罪の連帯責任から救われているか、どれほど豊かな天の富の中に引き入れられているか、目を皿のようにしてでも良いから、次の御言葉をきちんと読み、約束された祝福を受けとるべきではないだろうか。目に見える人間の指導者は何も与えてくれないが、目に見えないキリストのうちにはすべてが満ちている。

御子はすべての支配と権威のかしらであり、当然ながら、マモンの神を含め、どんな偶像もはるか足の下にしており、地上のどんなものも御子には及びもつかない。なぜ最高の権威である方を知っているのに、その下僕にさえならないようなむなしいものを神として拝む必要があるのか?

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(Ⅰコリント7:23)
 
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であってのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。

それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:9-15)

そこで、ひとたび、この曲がった時代にあって、私たちが御言葉の事実を確固として握りしめ、再び私たちを罪の奴隷に貶めようとするいかなる偽りをも拒絶して、神が喜ばれる生き方とは何であるか、御言葉の与えてくれる自由とは何か、まことの神の国とその義を第一に求め、模索しながら、御言葉に従って生きるならば、――もし自分のためでなく、神ご自身の栄光を生きて証するために生きるならば――、地上の情勢がどうあれ、神はご自分を真実に愛する者をひそかな場所にかくまい、すべての苦難から救い出し、必ず、平安のうちに保って下さるはずである。神は生きておられ、人の心を探り極められ、一人一人の働きに応じて報いられるのである。

詩編にはこうある、

正しい者の悩みは多い。
 しかし、はそのすべてから彼を救いだされる。
 主は、彼の骨をことごとく守り、
 その一つさえ、砕かれることはない。
 悪は悪者を殺し、
 正しい者を憎む者は罪に定められる。
 はそのしもべのたましいを贖い出される。
 主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」(詩編34:19-22)

恐れることはない。キリスト者として生きたいなら、必ず殉教しなければならないとか、非業の死を遂げねばならないとか、そんなことは聖書に書いていない。神は必ず信じて従う者を御翼の陰にかくまい、守って下さる。

神の栄光のために生きるとは、立派な礼服を着て壇上に上がり、この世から拍手喝采され、多くの信者たちにほめそやされながら、メッセージを語り、より多くの著作を書いては、自己の名声をこの世に高く築き上げることことを意味しない。それは多くの献金をもらって、地上で名を馳せ、人々の弱みを利用して心を支配して従わせる生き方ではなく、隠れたところで、隠れた神に仕えて生きる道である。自己宣伝など不要、人に認められることを求めるのではなく、たとえ誰も知らなくとも、神が知っていて下さればそれで良い、神が直接、動機を調べ、報いて下されば良い、という生き方である。

さて、天の経済と共に、天の働き人というテーマが迫って来る。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のための働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)

以下の記事で、まことの神を信じている信仰者は、自分の労働によって己を養っているのではなく、自分の働きによらず、神が養って下さるということを書いた。だが、そこから一歩進んで、御国のための働きというものがある、ということを見てみたい。

この世には劣悪かつ詐欺的な求人が溢れており、自己の名声につながる実入りの良い仕事を得たいと願えば、遅かれ早かれ、どこかで良心を売り渡すしかない仕組みになっている。だが、天の仕事は良心を売り渡さず、真実と正義に基づいて実行できるものであり、年功序列もなく、後からやって来た働き人にも平等に豊かな報いが与えられる。なおかつ、天の御国では、本当に働き手が少ないため、常に仕事を募集しているのである。

神が働き手を募集しておられる!ということを考えてみなければならない。どんなものにも不足のない、果てしなく富んでおられる方が、あえてご自身の思いを体現する人間の働き人を募集しておられる。その天の仕事とは、神の憐れみの深さ、愛の深さ、その無尽蔵の富を信仰によって地上に引き下ろす仕事である。

これは不思議なことである。神は全能であり、人間の助けなどなくとも永遠に生きて存在しておられる方なのに、人の信仰を通してご自分の御心を世に表したいと願っておられる。そして、その働き人が少ないのだというのである。

人間が神の働きのために、神と共に共同統治者とされていることの意味を考えてみたい。人間は神のしもべであるだけでなく、それ以上に、御心を表すためのパートナーとして存在している。地上を治めるという仕事は、創造されたその時から、人に任せられた仕事であった。たとえ地が堕落し、この世全体が回復不可能になって破滅へ向かっているのだとしても、神は信仰者を通してそこに御旨を実現し、キリストの復活の命に基づく新たな霊的秩序を打ち立て、新しい天と新しい地の予表をもたらしたいのである。

信仰者は、この壮大な計画に従って召された御国の働き人である。それはキリストにあって新しい人でなければできない仕事である。信仰者は、神の意志を受けて、この天と地とを信仰によってつなぐ天地の人であり、キリストをかしらとしてその体を形成する者である。身体は頭の意を受けて動くが、キリストのからだなる教会は、自分の意志を持たない従属機関ではなく、きちんと自分の意志を持ち、自立して、自由でありながら、その意志によってキリストに従うしもべである。さらにそれだけでなく、キリストの高貴な花嫁である。使徒たちは、自分をキリストの囚人、キリストの奴隷、キリストのしもべと呼ぶことを全く恥としなかったが、同時に、神は教会をそれ以上に、しもべとしてではなく、友として、さらには花婿なるキリストの栄光を表す高貴な花嫁として喜んでおられるのである。

御国のために働くとは、より多くの改宗者を得ようと、他人の救いや他人の必要を満たすため奔走することを意味するのではない。信仰者自身が、キリストにあって新しい人として歩むこと、内なる人を刷新され、強められ、キリストの身丈に従って彼の高さまで、彼の愛の深さと命の豊かさに至るまで、花婿なるキリストにふさわしい花嫁にまでに生長すること・・・、この働きは、外面的なものではなく、深く深く信仰者自身の内側に根差した内面的な働きであり、常に十字架と連動して起こる内的な変化でもある。信仰者の外側で起きる事柄は、御国が信仰者自身の内側により深くもたらされることと密接に連動しているのである。

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