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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

日本人の集団性(2) ~東洋的世界観とグノーシス主義~

多くの日本人は、属している集団における自分の位置づけが、自分の価値そのものであると考えており、集団から見放されることは、自分を失うことであると考えて、心の底では村八分になることを極めて恐れているように見える。

その考え方の根底には、「村八分になったら、もはや人間ではなくなる」という恐怖があるのではないだろうか。逆に言えば、それは多くの日本人が、どこかの集団に属し、誰かからの承認を得ていることで初めて自分を人間として認識できるのであり、もし他者からの承認を失えば、自分が人間であるという自己価値を確認する基準そのものを失ってしまうという恐れを無意識に持っていることを意味する。

では、集団と無関係では、人は人であり得ないのだろうか?
人が人であるとは、一体、どういうことなのだろうか?

そのような問いが発する。
しかし、人としての価値はどこにあるのか考えるとき、日本人のものの考え方は、どこまで行っても、個人を集団と切り離したところでとらえることができず、個人の価値にどこまでも集団が追いかけ、食い込み、侵入してくるようなものの考え方になっているように思うのだ。

結論から言うならば、それは相当に異常な、歪んだものの考え方であるのだが、しかし、このような考え方を疑うどころか、むしろ積極的に身につけるよう、日本人は幼少期から徹底して訓練されているのではないかと思う。

たとえば、集団とは、家族であったり、学校であったり、企業であったり、色々だ。
集団の中にいる限り、人はその中で常に何らかの役割を担う。

日本人は、集団の中での役割=自己価値と、無意識に考えている場合が多いのではないだろうか。

役割とは、つまり、他者への貢献度である。
役割を自己価値と同一視するということは、誰かにとってどのくらい役に立っているかを基準として、自分の価値をはかろうとすることだ。

だが、それでは、役割のない人間はどうなるのだろうか。
他者にとって役に立たない人間は、人間としての価値がないのだろうか。
あるいは、他者とつながっておらず、他者からの評価を受けられないような状態のときにはどうなるのだろうか。
他人との人間関係を持たない状態での自分の価値は、どうなるのだろうか。

そうなると、大勢の人は、そこで突然、思考が停止してしまうのだ。



ちなみに、これは個人を出発点とする西欧的な考え方とは対照的である。

ヨーロッパでは、上流階級の子弟は幼い頃から寄宿学校に放り込まれるなどして、家庭から(母親から)引き離されるという。それは母子密着を避け、子供に家庭の所有物としてではない、個人としての独立心を早くから養うためであるとも言われている。

これとは対照的に、日本の子供たちは、大人になるまで家庭のかなり強い影響下に置かれるケースが多い。そこで子供は必然的に、父親、母親の思惑の強い影響を受け、大人たちの顔色を伺いながら、強い者たちの便宜をはかるべく生きることになる。

家父長制の強く残っているアジアの貧しい開発途上国などでは、子供は早くから家庭において家計を維持するための労働力たらんとすることが期待されている。
日本では経済発展の結果、子供が労働力として使役されるという事態はほとんどなくなっているとしても、精神的・心理的には、親や家庭の見栄やエゴのために使役されて(家庭の栄誉を達成するための道具となって)生きているという例は無数にあるだろう。

つまりそれは、子供が精神的に家庭から自立することが許されておらず、いつまでも家庭の付属物のように思いながら生きている状態である。

そのような関係は、家庭のみならず、形を変えて、色々な集団で生涯、続いていく。
学校に入ると、学校の強い影響下に置かれ、先生の顔色を伺いながら、学校の栄誉のために成績を上げ、優秀な企業等の優良な職場を得ることを第一目的として生活する。
優良な企業等に就職したら、今度は社長の顔色を絶えず伺いながら、企業の利益向上を第一目的として生きることになる。

つまり、ゆりかごから墓場まで、日本人は絶えず集団の中で、自分よりも強い者の顔色を伺い、その者の目線に立って、彼らの利益になるように、自分を誰か強い者の利益達成の道具として差し出して生きるべく、徹底して訓練されているのである。

もしそのことを変だ意識することがなければ、一生、その人は何かの集団のために(その集団と自分自身を一体化・同一視して)生きることになり、自分自身のために生きられないことになる。
それは一生、心理的に独立できないという状態を言う。

だが、そのような生き方は、かなり苦しいものではないだろうか。
そもそも他者への貢献度を基準に自分をおしはかるということ自体、かなり無理がある。
どんなに素晴らしい人でも、他人はしょせん他人であり、自分を本当には理解できないし、正しく評価することもできない。
さらに他者はわがままなので、自分勝手な利益追求のために、平気で他者を手段としようとするし、移り気なので、その希望する内容さえもころころと変わる。

それなのに、自分の価値をはかる大切なものさしを、そういう理解できない他者にあずけてしまうことは、理解できない者に自分自身を質に取られているのと同じような状態になる。
だから、それは本当は極めて危険である。

そういう考えで生きると、自分を失わないために、他者からの評価にいつもおびえていなくてはならない。見放されることが怖く、役割を失うことが怖く、村八分にされることが怖い。つながっている他者がいなくなると、たちまち、自分の価値がなくなるかのように恐れる。

だから、そうならないために、一生懸命に周りの顔色を伺いながら、人を喜ばせようとして、「協調性」があるように行動する。

自分は何者なのか、何がしたいのか、それを考えるよりも前に、まず他人を念頭において、他人を喜ばせるために、必死に努力することになる。しかし、やればやるほど疲れていき、ますます自分が何者か分からなくなっていく。



このような「村八分の恐怖」から逃れることを第一目的とした生き方は、日本人の学歴偏重・職歴偏重などの風潮・伝統にもよく表れている。日本人が高く評価したがる「空白のない履歴書」とは、途切れることなく何らかの組織に所属してきた履歴書のことである。

どこの組織にも所属していなかった空白期間があると、内容がどんなものであれ、「ふらふらしていた」、「宙ぶらりん」の期間として、疑いの眼差しを向けられる。

つまり、絶え間なく組織と一体化することが「望ましいまっとうな生き方」として求められ、組織を離れて自由な個人に戻ることが否定的に評価されたり、許されないこととして扱われるような、そのような意識が存在する。不況も手伝って、これほど転職や失業がありふれた事態となった今でさえ、そのような風潮は一方でますます強くなっているようにさえ見える。なぜなのだろうか。

ソビエト体制の下で、詩人ブロツキーは当局に呼び出されて、当局が考えるような「全うな仕事」に就かないで「フラフラしている」ことを責められ、「徒食者」として有罪判決を受け、強制労働を言い渡された。

どこかの国営企業で掃除夫のような貧しいアルバイトでもしていれば、「全うな職業」とみなされたのだろう。しかし、詩人であることは、当局から見れば、「全うな職業」には当たらなかったのだ!

昨今の日本は、それにかなり近い状況となってきているのではないだろうか。

日本人はもともと真面目なので、職に就けば、自然とそれに費やす時間も労力も多くなる。それにも関わらず、一日8時間労働ではまだ足りないといわんばかりに、24時間365日働くことを奨励するような風潮も登場してきている。

労働時間でなく、成果で評価するのだという。
成果? またまた、曖昧極まりない魔法のような言葉だ。

この言葉を使えば、果てしない成果を求めて、人を自主的に躍らせることができる。
真面目な人ほど、さらに成果を出そうとして、さらに多くの時間、働こうとするだろう。

こんな風潮の下では、一日8時間しか働かないような人間は、やがて「徒食者」とみなされて排斥されていくことになりかねない。

一体、労基法はどうなったのであろうか。憲法さえ平気で無視されるくらいだから、労基法を無視するのはもっとたやすいのかも知れない。

いぜにせよ、この風潮が示しているのは、「組織に所属したくらいではまだ少ない、身も心も、骨の髄まで組織に捧げて働け!」という思惑だ。

休日だろうと、時間外だろうと、自由な個人に戻ることなど許さないという風潮である。

その最後に行き着く先が、靖国である。
企業のために身体を捧げて過労死するのも、もしくは国家のために、すすんで骨になることも、そんなに大きく変わらない。その両者の根底には同じ精神が流れている。
殉死するほどまでに組織と一体化せよということである。

それほどまで、精神的自立を、個人として生きることを妨げようとする風潮があるのだ。
恐ろしいことである。



今になって、人々は一体、こういう危険な考えがどこから生まれてきたのかを議論している。グローバリズム、新市場自由主義、戦後、日本が経済成長しか目指してこなかったから、こんなことになってしまったのだという反省の声も多々、聞かれる。

しかし、こういった考え方のおおもとを作っているのは、東洋的世界観であると私は見ている。

つまり、「個人の価値は、所属する組織や集団による承認があって初めて成立するものであって、組織や集団を離れたところでの個人の絶対的な価値は存在しない」という発想、これが東洋的世界観であるが、それこそが、新自由主義や、グローバリズムを含め、今の過酷な競争社会を生み出す根底に流れている思想なのではないだろうか。

つまり、「集団あっての個人」であり、「集団を離れての個人はない」という考え方、それこそが、このような価値観の根底に流れているのである。
それは言い換えれば、「個人は、集団を形成するためのディテールに過ぎない」という考えである。

ディテール。
部品のようなものと言っても差し支えないかも知れない。

ディテールだからこそ、生涯、全体を構成する一部なのであり、全体から離脱することはできないし、ディテールとしてどれくらい全体に役立ち、奉仕するかが、その価値を決めることになる。

役に立たないディテールは要らない?

これは優生学などに通じる非常に恐ろしい思想である。

だが、東洋世界には、もともとそのような思想的土壌がある。それは人間は自分を取り巻く集団や、宇宙のような包括的な環境の一部であって、宇宙全体の細部に過ぎないという世界観である。

そして、そのような思想的土壌があって初めて、現在のブラック企業やら、福島原発での過酷な使い捨てのような労働環境も出現を許されたり、正当化されたりするのである。

たとえば、福島原発で事故が起きた後、なぜ危険な原発の管理を最も不安定な雇用・生活状態にある派遣社員などが行なうのかと、不思議でならなかった。派遣社員を過酷な環境で使い捨てのように働かせるのには限りがある。過酷に使役すればするほど、すぐに交替要員が必要になるが、人数に限りがある。そんな人使いの荒いことでは、すぐに深刻な人手不足に見舞われるときが来る。そのとき、原発はどうなるのだろうか。

チェルノブイリでは、そんなことにならないように、原発の技術者は厚遇されている。技術者としての高い地位と信用、経済的に困らないだけの収入が確保され、健康に支障がない程度の限られた勤務日数、そして勤務していないときに落ち着いて家族と生活できるように、原発周辺に家族と暮らせる村も作られて、色々な面で権利が保障されている。まず原発を守る技術者たちの生活が安定していなければ、どうやって人が原発を安全に管理することなどできるだろう。

それなのに、なぜ日本ではこうも全てがあべこべなのだろうか。

繰り返すが、こういったことさえも、単に人権軽視というような風潮から生まれてきたのではなく、そもそも個人を全体のディテールとしてしか認識できない東洋的世界観を背景に初めて成立する状況なのである。

結論から言えば、東洋的世界観では、個人の絶対的な価値や尊厳というものは存在しない。東洋的世界観の中では、どこまで行っても、個人は独立した存在ではなく、何か大きな全体の一部、何か包括的なものの片鱗としてしか認識されないからだ。

しかも永遠に移り変わるはかない片鱗である。

もし個人の尊厳というものがあるとしても、それは集団によって付与されるものでしかない。集団に属しているという条件のもとで束の間貸し与えられた自己価値に過ぎない。

だから、集団のために役立っていることが、個人の価値である。
そして、個人は移り変わる。個人は集団のディテールであり、束の間、現れては消えていくうたかたのように、絶え間なく移り変わるのである。

ディテールはもともと流転するものなので、どんなに短い間で消え去って行ったとしても、それは損失ではなく、それこそが当然の姿なのである。

そして集団だけが永遠に残るのである。

それが東洋的世界観である。

だから、東洋的世界観においては、人間の絶対的な尊厳というものは存在しない。



ちょっと待ってくれ、と言われるだろう。

待ってくれ、個人は、それでは、何なのか、うたかた程度のものでしかないのかと。

その通りである。東洋的世界観においては、個人は水泡か、散っていく花のようなものでしかない。

そういう価値観のもとでは、花やあぶくはそれを観察する者にとって気持ちのよいものでありさえすれば、どんなにはかなく消えて行っても問題ないのである。
むしろ、はかなく消えて行くところにこそ、美しさがある、というとらえ方もある。

実のところ、そういう世界観で人間をとらえると、人間をどんなに使い捨てても、罪にならないのである。

はかなく消えていくディテールにどれだけの叫びや苦しみがあったとて、それは重要でなく、そのはかないディテールが、観察者にどんな満足や利益をもたらしたのかだけが重要なのである。

話を戻せば、それが東洋的世界観であり、その世界観に基づくと、日本には、個人の絶対的尊厳という考え方はないに等しいことになる。
その基盤となる文化的・精神的土壌がないからだ。

この点で、東洋的世界観は西欧的世界観と決定的に異なる。
だから、どんなに西欧から取り入れた思想に基づき、法規で個人の人権や尊厳を絶対的なものとして定めても、必ず、東洋世界には、それを骨抜きにするような価値観や思想が現れ、はびこってしまうのである。

東洋世界には、と言ったが、東洋だけであればまだ良い。
もしかしたら、そのような価値観が、全世界を席巻することだって考えうる。

ここに恐ろしい危険性があるのではないかと思う。
実はそのような思想の起源こそ、グノーシス主義なのである。
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