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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

御言葉を実際とする――バビロン化した教界を出てキリストの復活の領域を生きる

不思議なことに、このブログには未だ悪意でない反響がある。このブログは購読者数を稼ぐことを目的としておらず、信徒にありがたいメッセージを配信することを目的ともしていない。しかも、さわやか読者を一掃したので、閲覧できる読者数も限られている。

不親切と言えば不親切、ブログ再開をした後も、読者などいなくても構わないというスタンスでやって来た。(相手は血肉ではない。)にも関わらず、どのようにしてかこのブログを読んでいる読者が今も存在しており、良心的な忠告を届けて来る。その中には、沖縄から寄せられる悲痛な声もあった。

私がカルト被害者なる人々の主張にも、それを支援する人々の活動にも共感を見いだしていないことはご存知の通りであるが、それでも、沖縄の教会の問題にだけは、立ち止まらないことはできない。沖縄の教会の惨状がどれほどのものであるかを語った人がいたが、同情からでなく、私はこれがおそらく日本の全クリスチャンの間で核となる問題ではないかと考えている。それは日本の政治状況と同じである。

クリスチャンの間で起きていることは、世の中で起きることの予表であると私は考えている。だから、クリスチャンの中の最も忘れられた小さき者たちの間で起きていることは、キリスト教界全体の行く末と無関係ではないのだ。

これからの我が国の行く末には、沖縄問題が多分、大きく関係して来るだろうという気がしてならない。沖縄の自立という問題が、日本全体の自立という問題を象徴しており、大きく左右するほどの意味を持っている。いわば、沖縄は国全体の縮図である。

霊的な状況はこの世の情勢に先行する。だから、実のところ、カルト被害者なる人々、教会につまずいた信徒らが、この先、また新たな指導者の食い物にされて終わるのか、それとも、本当に神ご自身だけを頼りとして自立して立ち上がることができるかどうか、ここに私は実に多くのことがかかっているような気がしてならない。

外面的な自立のためには、まず内面的(霊的)自立が先立たなければならない。そして神はどんなきっかけをとらえてであれ、真にご自分に立ち帰る羊を求めておられるのだと確信している。

一般的には、沖縄にいるカルト被害者はAG教団のカルト被害者救済活動の傘下におさめられており、この活動を批判することが許されない状況にあると聞く。つまり、政治と同じく、霊的にも自立が許されない状況にあるのだ。

その噂はきっと嘘ではないだろう。何しろ、「本土」にいる私でさえこのありさまだ。京都からはこれほど遠く離れているのに、カルト被害者救済活動を批判すればこれほど悪意のアクセスが集中するのだから、沖縄ではどのような状態になっているか想像に余りある。

実のところ、すでに公開しているように、この年明けから、これまでの圧迫を超えるほどに集中的な圧迫が来たので、私は、私を排斥しようとする暗闇の勢力の尋常ならぬ決意があることを感じずにいられなかった。つまり、暗闇の勢力は本気でこのブログを閉鎖に追い込み、私の口を封じ、そして、できることならば、私からすべてを奪い去って、この地から遠く追いやり、私が本気でまことの神を求めてキリスト教界を離脱した事実など全くなかったかのように、その痕跡を消し去ろうとしているのだという気配を感じたのである。

これに対して、私はいつものように主に問うた。もし御心でないなら、私自身は別にここにとどまらなくて良いのです。多くの人たちが勝手に誤解しているように、私はルーク氏やKFCに連なることが目的でここへ来たわけではなかった。むしろ、関東へ来て2日目には、「KFCはバビロンだから行ってはいけない」と、ルーク氏を長年よく知る人から忠告を受け、近寄るのをやめたほどである。人の言葉だけを頼りとしたわけではなく、そう考えるだけの根拠があった。だから、未練を持つべきものは初めからない。

だが、私はもっと大きなもの――見えないエクレシア――を追求していたのである。今まだそれが見えず、もしこの探求をやめなさいと神が言われるならば、それはそれで構わない。

だが、答えは否であった。私はこの道から退却することが許されず、神はすべてをなかったことにされたいとは思っておられないようであった。主がすべてを整えて下さったので、退却は不可能にされた。というよりも、いつも法則は同じなのだが、枯れた骨以外には何もないように見える死の状況――そこにこそ、すべての始まりがあり、復活の命の現れの余地が大いにあり、ここから信仰によってすべてが始まることに、主の権益が確かにかかっていることを思わされた。

そう、鍵は、あの人、この人ではなく、私自身の中にあるのだ。もっと正確に言えば、私の内に住んでおられる栄光の望みである方、キリストの中に。そして、私が主と共なる十字架の死に同形化することにより、復活の命が流れ出て来るのである。

それは静かな、人に知られない、時に痛みや孤独を伴う状況下での、信仰による確かな命の現れである。神の国から流れる生ける水の川々は、今はまだかなり水量が少ないとはいえ、確かに流れ出ているのである。

さて、キリストと共に統治するというテーマで今までいくつも記事を書いて来た。

すでに述べたように、もしこの期間、私が多くのクリスチャンと共に手を携えて歩いていたなら、一体、誰の祈りを神が聞いて下さったのか、誰の信仰のゆえに恵みがもたらされたのか、全く分からなかったであろう。しかし、隠れたところで一人で神に向かったゆえに、私自身の祈りが聞き届けられ、まさに私自身が、主と二人三脚ですべてのものを信仰によって天から地に引き下ろし、この世の状況をさえ主と共に治めて来たのだと分かって来たのである。

このことは、私という一人の信仰者がどれほど大きなものを担っているかに気づくきっかけとなった。人は弱くはかない存在に過ぎないにも関わらず、神は人を共同統治者に定めておられるのである。その共同統治者としての責任を果たすことこそ、御国の働き人となることなのである。そして、私たちが弱さや意気阻喪から立ち上がって、キリストの復活の命のリアリティを全宇宙に見せつける時、そこに高らかに神の勝利の凱旋の歌が鳴り響き、主と共に私たちも喜ぶのである。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。

さて、話は飛んで、ウォッチマン・ニーについて述べておきたいと思う。

ウォッチマン・ニーについて語るにあたって、異端の理論はいくつもあるが、その理論の中でも、ローカルチャーチは最高峰であり、これを超える深さのものはなかなか見つからないのではないかと私は想像している。というのも、これまで様々な著作を読んだが、ウォッチマン・ニー以上に、霊的に深い事実を述べているものに出会ったことがないからだ。

おそらく、察するに、ウォッチマン・ニー自身は本当に主に向かって霊的な啓示を受けたのであろう。しかし、その結果、書かれたものを暗闇の勢力が大いに利用している。ここに大きな危険性がある。

私が人生で初めて霊・魂・肉体の区別があることを知り、神は霊を通じて人と交流をはかり、御霊によって信者の霊のうちに啓示を与え、御言葉を直接、理解させて下さるということを知るきっかけとして、ローカルチャーチを出て来た兄弟たちの助力があった。

決してウォッチマン・ニーの著作を読んでそれに気づいたわけではなく、すでに書いたように、交わりの中で、御言葉が実際となっていったのだが、そこにはローカルチャーチ出身の兄弟が関係していた。正直に言って、ペンテコステ系の信者たちの間では、これは決して学ぶことのできない事柄であったと思う。神はこうしてローカルチャーチを出て来た人々を利用して、御言葉のより深い働きへと私を導いて下さり、御言葉のリアリティがあることを教えて下さったのである。

つまり、聖書の御言葉を朗読するだけならば、誰にでもできる。だが、何千万回、朗読したところで、その言葉は単なる死んだ文字であり、暗闇の勢力に対して何の衝撃力も持たないし、その圧迫からあなたを解き放つこともできない。御言葉が本当に人の人生において効力を発し、リアリティとして霊的衝撃力を持つためには、御言葉が信仰によって、その人の内側に作り込まれるという過程が必要なのである。

つまり、人が本当に代価を払って真剣に御言葉に向かうならば、御霊が働いて啓示によってその御言葉の意味をその人自身に分からせてくれる。その時、真理はその人にとって実際となる。こうして、御言葉が信仰者自身に入り込み、両者が一体とならないと、どんなに口先だけの題目として聖書の御言葉を繰り返したところで、それは何の衝撃力も持たないのである。

御言葉がリアリティになって初めて、キリストの復活の命の現れの中を信仰者は実際に生きるようになる。そのとき、聖書の御言葉は生きた言葉となり、暗闇の勢力に対して、すさまじい霊的衝撃力を伴う武器になる。そして、御言葉は実際にその暗闇の力から信者を解放し、信者のあらゆる必要を供給するのである。

このような実際に至ったときに初めて、信徒は自分が暗闇の勢力と対峙し、激しい戦いの中に置かれていることが分かるのである。

初代教会の信徒たちには、きっとこうしたことは、ごく当たり前だったはずである。だが、現代のクリスチャンには、その霊的啓示は失われてしまい、御言葉はほとんど死んだ文字としてしか受け取られなくなった。御言葉の向こうにあるリアリティが失われたのである。これを回復しようという働きが、ローカルチャーチの初期の働きだったものと解釈している。

だが、ローカルチャーチはその後すっかり変質して当初の目的から逸れてしまった。後世の指導者がウォッチマン・ニーの功績を私物化し、ウォッチマン・ニーは宗教団体の栄光を築き上げるための宣伝材料となった。ローカルチャーチのみならず、すでに述べたゴットホルク・ベック氏の集会も、KFCも、同じように、ウォッチマン・ニーを巧みに宣伝材料として利用している。それはもはや当初の探求からは逸れたところで行われていることである。

だが、ここで疑問が生じる。それは、ウォッチマン・ニーを自己の団体の名声と拡大のために利用している人々はさて置いたとして、ウォッチマン・ニーその人には全く問題がなかったのだろうか?という疑問だ。彼は正しく、ただ単に後世の人々によって歪められたり、悪用されているだけなのであろうか?

結論から言えば、私にはそれは分からない。たとえば、ウォッチマン・ニーが兄弟たちの忠告に逆らって、共産党政権下の中国に帰国したことは、彼の働きと命を奪う結果になったが、それが正しい決断だったのか否か、という問題には、私は答えることはできない。なぜなら、それは神以外には誰も知ることのできない信仰の事柄であり、後世の人が外から見て判断することができないからだ。(返答を避けるために言うのではない。)

しかし、ウォッチマン・ニーの生き様の是非の判断を脇に置くとしても、彼の悲劇の人生が、すでに記事で述べたリンデの死と同じように、人々の関心を引く美談として、お涙頂戴の物語として、盛んに宗教団体の宣伝材料とされていることは確かであり、これは非常にいかがわしい事実である。

それはウォッチマン・ニーの著作が宗教団体の宣伝材料とされているのと全く同じである。ウォッチマン・ニーの生涯もまた宣伝材料として利用されているのだと言える。

もっと進んで言えば、ウォッチマン・ニーその人が偶像化されているのだと言える。キリストの十字架における贖い以上に、人の犠牲が誉めたたえられるきっかけにされている。

ある兄弟は、ニーの最期を語る時には涙せずにいられなくなり、「私も兄弟のようになりたい」と告白するのだったが、それを聞きながら、私は心の中で疑問を感じずにいられなかった、「もしならうなら、キリストにならうべきであって、ウォッチマン・ニーではないでしょう」と。

また、すでに書いたことであるが、ウォッチマン・ニーを模範のように考えている人たちが、では自分も本当にニーと同じような苦難を辿り、孤独や悲しみに耐え、兄弟たちの離反や、誤解や、孤立や、迫害を潜り抜けて戦い抜いて行く覚悟を固めているのかと言うと、むしろ、逆のタイプが多いことにも驚かされた。

つまり、彼らは一見、ウォッチマン・ニーを模範としているように口では言いながらも、彼の人生の不都合な部分は決して負いたくないと逃げるのだった。つまり、苦しみはウォッチマン・ニー一人に背負っていただき、その功績だけはちゃっかり自分がいただきたいというタイプの人々が極めて多いのである。

しかし、彼らはその自己矛盾に気づいておらず、このような二重性が極めて深刻な精神的乖離状態であるということを自覚できないのだった。

もしかすると、ウォッチマン・ニーの人生そのものが、そういう誘惑を人に抱かせる源となっているのかも知れなかった。このように、意識的にか無意識的にか知らないが、ウッチマン・ニーは多くの信仰者の心の中で、彼らの信仰生活を美しく彩る飾りもののように、信者自身の生活からはかけ離れたところで、大いに利用されているのであった。

しかし、たとえ飾り物に過ぎないにせよ、(特に問題の多い福音書房刊行の)ウォッチマン・ニーの著作はそれなりの影響力を信徒に及ぼしていた。

福音書房から出ているウォッチマン・ニーの全集には、すでに述べた通り、その内容のほとんどが同時代人や後世の人々によって書き起こされたものであり、どこまでがウォッチマン・ニーの言説か分からないという問題がある。その上、後世に人々の思惑によって異端的言説が付け加えられ、改ざんされている可能性があるので、注意が必要である。

たとえば、福音書房刊行のウォッチマン・ニーの全集におさめられているものの中で、明らかに聖書に反する教えであることが明確なものに、『権威と服従』がある。これは、年長の兄弟の命じることには無条件に従うようにと信徒に教えるものであるが、そのような教えは軍隊の規律を思わせるものであり、聖書に根拠がない。(そもそも聖書は神以外の人間の言うことに無条件に従うようにとは一切教えていない。)このような教えを忠実に実行すると、教会内で年功序列を絶対化することにつながる。

『権威と服従』では、あたかもウォッチマン・ニーがそのような学習をしたかのように書かれているが、この教えは間違いなく聖書に反するものである。もし本当にこれが後世に書き加えられたものでなく、ニー自身の見解だったのだとすれば、それはかなり重大な疑惑となりうる。

しかし、このような年功序列を絶対化するような教えを忠実に守った結果、ベック氏の集会ではすでに述べたような未成年者の労働や、児童虐待の恐れといったような問題が発生しているのである。

また、KFCを思い出す時、そこに集まっていた信徒らの多くが、ベック集会のように、何かしらの家庭的問題を抱えていたことを思い出す。特に、我が子と断絶していたり、危機的状況にあるはずの自分の家庭生活をさし置いて、礼拝に邁進している様子は、それが現実逃避であるとの印象を私に強く抱かせたし、若者や寄る辺ない者たちを踏みにじってでも、大人たちの面子を貫き通そうとした彼らの行動は、ベック集会と同様の危惧を抱かせるものであった。

さらに、もっと深刻な問題があった。それはベック集会とKFCには自他の著作物の区別がついていないという共通の問題点があったことである。

たとえば、当時、ルーク氏のメッセージには、彼の知人や関係者がブログ等に書いた内容が巧みに盛り込まれ、ちりばめられていた(それは私自身が当時、ブログを書いていたのでよく分かる)。当時、ルーク氏は特に台本なしに記憶の中から自在に他人の書いた内容を取り出して、メッセージに組み立てることが出来た。だが、そのメッセージは寄せ集めであり、彼自身が自ら痛みや代価を払って得た教訓ではなかった。ただ彼は巧みなメッセンジャーだったので、借り物であるという不自然さを感じさせないように話すことが出来ただけである。

それは彼がブログに発表していたウォッチマン・ニーの「荒野に宴をもうけ」にしても同じである。そもそも、言葉はそれを述べた人と分かちがたい関係にあり、自分自身が代償を支払っていない他人の言葉をどんなに数多く引用しても、それは決して我が物とはならないし、何の効果も伴わない。それは美しい飾りもの以上にはならない。
 
さらにルーク氏には、私のメールを無断で坂井氏の裁判に提出したという疑惑が存在している。私はそんな事実があったのかどうか知らないが、これまでのすべてのいきさつから察するに、それは事実だろうと推測される。

何度も断っているように、ルーク氏は一度も私のカウンセラーだったことはなく、私が彼に精神的な世話を受けていた事実も存在しない。むしろ、どちらかと言えば、事実は逆だったのだと言えなくもない。ネット上の問題も含め、様々な問題に自力で一人で立ち向かうことのできなかったルーク氏が、自分に解決できない厄介な問題を目下の信徒に持ちかけ、片づけさせて来たのである。

だから、ルーク氏が私に対してカウンセラーとして守秘義務を負っていた事実はない。だが、だからと言って、他人のメールを断りなしに裁判に提出するというのはやはり常軌を逸した行動であり、さらにそれに輪をかけて常軌を逸しているのは、それがルーク氏がAG信徒に騙されて彼らと一緒になって私をKFCから追放したその後に行われたという点である。

自ら異端者として集会から追放した信徒のメールを、一体、何の証拠にできると考えたのだろうか?

しかしながら、こういった話を聞いても全く驚かないのは、私がこれまでウォッチマン・ニーに影響を受けた団体にいる信徒らと接触した結果、彼らは一様に自他の区別がつかず、特に著作権という概念がまるで失われているということを痛感して来たからである。

たとえば、ベック集会の人々は聖書の無断印刷を行なって訴訟にまで発展したが、彼らは、主の再臨が近いので、聖書を無断印刷する行為は罪に当たらず、人々の救いを願う善意から出たものであり、許される範囲だと考えていた。それだけでなく、この集会の人々は、どんな印刷物であれ、良さそうなものがあれば、いくらでもコピーして内輪で共有してしまう。

そういう特徴はローカルチャーチ出身の兄弟にも見られた。たとえば、感動的な信仰の証を書き送ると、たちまちそれが勝手に転送されて、他の人々と共有されてしまうという具合である。その結果、知りもしない信徒から、「感動しました」、「素晴らしい証ですね」、「ぜひ会ってお話したい」などといった反響があったと知らされ、すっかり当惑してしまうのである。

こうしたことの結果、私は、ウォッチマン・ニーの著作に影響を受けた人々の中には、どうにも、他人の良さそうな文章や、何らかのアイテムを見つけると、著作権などには全くお構いなしに、衝動的にそれをコピーして、まるで自分の手柄のように多くの人々にひけらかし共有したいという抑えがたい欲望が起きるのだと理解しないわけにいかなかった。

どんなにそれが問題だと説得しても、彼らはそれをやめられないのである。他者の著作物と自分の著作物の区別が失われているのである。それと同じように、彼らはウォッチマン・ニーの悲劇の人生と自分の人生は違うのだということが分からない。自分は代価を払っていないのに、ウォッチマン・ニーと自分を同一視したり、彼の人生や著作を我が物のように利用することのまずさが分からない。同じ考えに立って、彼らは兄弟姉妹の証を利用して自分の手柄とすることに何のためらないもない。自他の境界が失われ、人の証と自分の証の区別がつかないのである。
 
ひょっとすると、これも共産主義の変種なのかも知れなかった。この人たちは私には理解できない自他の区別の存在しない共有社会を生きているのだと私は思わずにいられない。私もウォッチマン・ニーの著作を読みはしたものの、だからと言って、このような考えや行動は私には全く容認できないものである。

このようなことが起きて来る背景として、福音書房刊行のウォッチマン・ニー全集の多くの部分は先人たちのメッセージの寄せ集めで成り立っていることが挙げられる。この全集はどこまでがニーの言説か分からないという問題を抱えている。極言するならば、福音書房の刊行しているウォッチマン・ニー全集なるものは、ウォッチマン・ニーの著作と銘打っていながらも、実質的には先人たちのメッセージのパクリで成り立っていると言えないこともない。もっと進んで言うならば、これはニーが書いたものでない以上、同時代人や後世の人々が都合よく彼のメッセージを利用して作り上げたものだと結論づけることもできよう。

だからこそ、それに影響を受けた信徒らも、他人の著作物を我が物のように扱って利用し、他人の功績を横取りして栄光を受けることにためらいがなくなるのかも知れない。

ウォッチマン・ニーについては、『キリスト者の標準』など、福音書房から出たのではない出版物も存在しており、その内容について、私は疑問に思うことはない。オースチン・スパークスも、生前ウォッチマン・ニーと会って、兄弟として一定の評価を下している。ウォッチマン・ニーの人生にはスキャンダルが存在せず、出来すぎているほどに立派である。あえて疑うことができるとすれば、この出来すぎているという点くらいであろう。

しかし、繰り返すが、ウォッチマン・ニーの悲劇の人生や神のため同胞のための自己犠牲が、キリストの贖いそのものよりも、人々の心を引きつけているとすれば、彼が偶像となっていると言えるのであり、その点こそ、最大の問題であろう。そして、そのような心理的な効果があることをよく知っていて、宗教団体は彼を広告塔として利用しているのである。

最後にもう一度、今はこうした疑わしいすべての点を差し置いて、逆説的に、今やすっかり変質してしまったローカルチャーチに温存されている教えの中に、回復された真理の片鱗のようなものが存在していて、それがローカルチャーチを出た兄弟たちによって、私に届けられたのだということを言っておきたい。

だからこそ、慎重さが必要であり、一概にすべてを退けることができないのである。その真理は、様々な疑わしいおがくずの中に埋もれて、無価値なものと混合しているかも知れないが、確かにその中に、退けることのできない非常に重要な事実も含まれていたのだと考えられる。おそらく、これらを切り分ける必要があるのだと思うが、その困難を極める作業について今ここで言及するつもりはない。

こうしたことをさて置き、繰り返したい結論は、信者が御言葉を信仰によって実際のものとして受け取り、信者自身が御言葉の霊的リアリティの中に入り込み、信者が御言葉と一体化して、真に衝撃力を伴う武器として、暗闇の世界に対して御言葉を行使する必要があることは、今日も変わらない事実だということである。

だが、この事実の認識が、キリスト教界からは欠落している。そしてそれが逆説的に聖書から逸脱した異端団体を離脱した人々を通してもたらされたのである。
 
今、私は御言葉の探求をウォッチマン・ニーの著作を通して続行しようとは思っていない。基本的にどんな指導者のメッセージも単なる参考材料以上ではなく、人の述べたすべての言葉は聖書に照らし合わせて吟味せずに受け取るべきものではない。

御言葉の意味を教えて下さるのは、人ではなく、御霊であり、神ご自身である。少しばかり時間はかかるかも知れないが、もし信者が心から御言葉の意味を真に知りたいと願い、それを神の御前で求め続けるならば、神は必ず応えて下さり、その意味を教えて下さり、それを信者の人生において実際として下さるだろう。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そすうれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけだし、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)
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