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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリスト教界を非難しながら自らがバビロン化したDr.LukeのKingdom Fellowship church

・Kingdomfellowship churchのDr.Lukeの危険性と同氏の憂慮すべき未来について

さて、ルーク氏とKFCについて、書いておかねばならないことがある。カリスマ指導者を立てては人間に栄光を帰し、神以上に人に尊敬を集めようとすることが、ペンテコステ系の教えの最たる特徴であることについて確認して来たが、これについてはKFCも例外ではない。

私が関東に来て2日目に「KFCはバビロンだから関わってはいけない」と、ルーク氏を長年よく知る人物から忠告を受けたことはすでに書いたが、その忠告の正しさは今日に至るまで証明されている。

カルトとアンチカルトが一つであるのと同じように、ルーク氏はキリスト教界に反対しているように見えても、両者は一体なのである。
 
2009年当時、ルーク氏が私のブログにコメントの書き込みを始めたばかりの頃、それは当時ペンテコステ系の教会で得られる程度の聖書の真理しか知らなかった私にとって、御言葉のより深い働きに至りつくために、神ご自身が用意された助けの一つであった。それは確かに有益な学びであり、読者がいることによって議論は深まったが、そこに一つの深刻な危機があった。良き学びがあった反面、彼が本音では何を目的に接近して来ているのか分からないという危惧が私の側にあったからだ。

というのも、ルーク氏の行動にはいつも尋常ならぬ影響力が伴っており、彼が他人のブログに書き込んだ文字だけのコメントでさえ、圧倒的な存在感で読者の関心を集めた。彼が行動すると、背後にある何か得体の知れない大きな力が動員されて、望むと望まざるに関わらず、関わる人々は大きな出来事の渦中に巻き込まれて行くのである。そういう不穏な影響力を私が当初から感じていたのは事実であった。
  
後になって、私はルーク氏が行って来たような接近は、彼ら(あえて彼らと呼ぶ)が自分たちにとって好ましくない人間を味方に取り込んで行く際の常套手段であることが分かった。今となって分かるのは、彼はおそらく無意識であったかも知れないが、私に何かの脅威を感じていたということである。

たとえ御言葉の深い働きを知らなくとも、最初に書いていた「光の天使の罠」の中には、すでに私のクリスチャンとしての洞察力、筋を曲げない生き方、御言葉にそぐわないものに対する容赦のない批判精神が表れていた。これを見て、彼はおそらく、私が明確に彼の正体を見抜いて敵になるよりも前に、味方にしようと考えたものと見られる。あるいは、そこまで深く考えずとも、利用価値があると見たのであろう。

むろん、どんなに取り込もうとしてみたところで、しょせん異質なもの、相容れないものは、決して交わることはできないのだが・・・。
 
思い出すが、ルーク氏は当時、品行方正、清貧貞潔なキリスト教界の牧師の生き様を揶揄しては、「私は真っ赤な偽牧師だ」と吹聴していた。事実、その通りだったのだろうと私は思っているが、こうした彼の言葉の裏には、ただ堅苦しい儀礼や、死んだ教義にとらわれて、自由なく命の通わないキリスト教界の牧師生活に対する彼の嫌気だけでなく、もっと深いものが含まれていたように思う。

その言葉の中には、誠実さ、真面目さ、貞潔さ、透明性、単一さ、首尾一貫性といった人間の高潔さ、信念を貫いた生き方全般に対するルーク氏の嫌悪が如実に表れていたように見受けられる。彼はただ真面目一辺倒のキリスト教界の牧師を軽蔑していただけではない。そこには、たとえ自分の利益を根こそぎ犠牲にしてでも、うわべだけの利得になびかず、信念を貫き、心の真実性を優先する人の生き様そのものに対する彼のどうしようもない嫌悪感、もしくは劣等感が表れていたように今となっては見受けられるのだ。

彼はそういう昔ながらの美徳を嫌っていた。なぜなら、彼にはそうしたものが欠けていたからである。
 
ルーク氏は自分をとても親切で心ある正義感溢れる優しい指導者に見せかけることができたが、それはカルト被害者救済活動の指導者と同じように一種の演技であり、心の真実から出たものではなかった。

このような宗教指導者は、絶え間なく正義の味方、人々の優しい助力者、何もかも知っている信仰の導き手を演じ続けることがライフワークになってしまっている。しかも、優しく心ある指導者を演ずるために、巧みに周りの人たちの弱点を利用しては、人の心に入り込んで行くのである。そのようなことを続けているうちに、すっかり自分でも、自分が誰なのか分からなくなり、演じ続けているヒーローが自分の実際なのだと思い込み、ついには自己の無謬性さえ信じるようになる。これは恐ろしいことである。

改めて、牧師という地位は、人が立ってはならないものであると私は思う。それは自分は牧師ではないと言っていたルーク氏も同じことなのである。

こうした宗教指導者は、カルト被害者救済活動の支持者もそうであるが、信徒らの甘えや過ちや弱点を大目に見ることにより、人間的な弱さに同情し、あたかも人の弱さをカバーし助けてやるように見せかけながら、人の罪を大目に見て甘やかし、悪に対する敏感さを鈍らせていく。そうして、人の自己を増長させ、肥大化させていくのである。だから、このやり方につけこまれた人は、交わりを通して、より自己中心になって行き、兄弟姉妹に対しても冷酷に、頑迷になり、人間性が荒廃して行くのである。

さて、キリスト教界の腐敗を厳しく糾弾していたにも関わらず、ルーク氏にはキリスト教界にまさる真実がなかった。カルト被害者救済活動の指導者と全く同じように、彼は弱者を己の人生の成功のために利用していた。
  
おそらくルーク氏は自分が心の真実性よりも利得を優先する打算的な生き方を変えられないと分かっていたのだろう。だから、自分が成功や名声と引き換えに踏みつけて来たものを彼は軽蔑し、憎んでおり、それを目の前から消し去りたいと望んでいたと見られる。
 
そこで、彼は、本当に神だけを第一として、利得になびこうとしない、自分にとって危険となりうるクリスチャンを見つけ出すと、味方を装いながら近づいて行き、自分の社会的な高名さや人格的魅力、また、相手の欠点や弱点を十分に利用して信用を得ようとした。親切な助け手を装って接近することによって、敵は警戒心を弱め、あわよくば騙されて思い通りになってくれるし、彼は弱者を救うヒーローになれて脚光を浴びることができるので、一石二鳥である。

こうしたやり方は、後になって、霞が関の官僚や、いわゆる東大話法やら、自民党率いる現政権を支持する人々を観察した結果、彼らの行動に典型的なものであることが分かった。

たとえば、今、自民党が沖縄出身のSPEEDの今井絵理子氏を候補に擁立したとのニュースが飛び交っているが、これも同じ懐柔の手口である。彼らは人の弱みを探り出して利用するのが上手く、特に障害者やら社会的弱者を利用するのが大好きだ。今井氏は障害者の子供を利用されたのであろう。
 
彼らのやり方はこんな風である。「障害者のお子さんを育てておられるとは、きっと今でも理不尽な差別などを受けられて、大変なご苦労があるでしょうね、立派ですね、尊敬します。どうですか、もっと社会を住みよい場所にするために、政策の上で、あなたのご経験やお考えを生かしてみられませんか。私たちには到底、分からない知識をあなたはお持ちだ。もしお気づきの点があれば、ぜひ私たちにも知恵を貸していただきたい。どうです、一緒にやろうではありませんか・・・」 

こうして、言葉巧みに相手の弱さに寄り添い、同情するふりをして近づき、巧みにその人の自尊心をくすぐって丸め込み、やがて決して抵抗できないようにがんじがらめにして行くのである。

そのようにして相手の主張を骨抜きにし、決して正義を実行できないように拘束しておきながら、他方では、彼らのひたむきな抵抗精神、庶民としての正義感、弱者への憐れみ深さ、一途さなどを清純なイメージとして存分に広告に利用するのである。

ルーク氏がウォッチマン・ニーの生き様を利用していたことについてはすでに述べたが、利用はウォッチマン・ニーだけにはとどまらなかった。彼は当時、ネットを巡回して、ひたむきに神を見上げる真実で善良そうなクリスチャン・ブロガーを見つけ出しては、巧みにリンクに加えていたが、それも宣伝材料として利用価値があったからに過ぎない。
 
当時、困難の中でひたむきに神に頼る清らかな証を発表しているように見えたあるブロガーは、ルーク氏がリンクを貼った後に、KFCの姉妹からの接近を受けて、開口一番、このように言われたことを私に明かした、「本物だったら怖いと思った」と。

この話が決して嘘ではないと確信できるのは、私もまた同様の接近を受けたからである。私が関東へ来ることが決まるとすぐに、一度もこちらから連絡を取ったことのない、見も知らないKFC内部の中核的な存在の信徒から挨拶状が来た。私はそれを読んだ時、これが彼らの縄張りに新たに断りなく入って来ようとしている人間(私)へ探りを入れるための身体検査であるとすぐに分かった。
 
そのことから、私が関東に来ることは、KFCの側からは、また新たな知らない人間が、ルーク氏だけを頼りに、彼らの縄張りに足を踏み入れようとする行為として映っているのだとよく分かった。表向きの優しい文面とは裏腹に、歓迎されていないことがはっきりと分かったのである。

そのことは、それまでルーク氏が、KFCにはリーダーはおらず、これは牧師を持たない兄弟姉妹の自由な交わりだ、と表向きに主張していたことが、事実ではないことを私に確信させた。実際には、KFCにあるのはれっきとしたルーク氏を頂点とする組織であり、人の縄張りであり、この世のテリトリーであり、そこに入るためには、古参の信徒らへのお伺いも必要なのだと分かり、私は失望した。それを裏付けるように、内情を知る人々からのKFCとルーク氏に関する厳しい忠告があり、私は真のエクレシアを求めるために、この団体を避けたのである。もし杉本事件が起こらなければ、ずっと近寄ることもなかったであろう。
  
それにしても、「本物だったら怖いと思った」という言葉は、ルーク氏を筆頭としてKFCの中核的な信徒らが確信犯として行動していたことをよく表しているように思う。つまり、彼らは自分たちに真実性がないことをよく知っていて、それをカモフラージュするために、本物の信者を仲間のように見せて利用していたのであり、同時に、自分たちの嘘を見抜けるほどの真実な信仰者の出現を脅威に感じていたのである。
 
だから、ルーク氏の私への接近は、今となっては、決して純粋な信徒の交わりを目的としたものではなかったと確信できる。むしろ、彼らの隠れたミッションは、一心に神を求める有望なクリスチャンに近づき、虚偽を信じさせて腐敗させ、その主張を曲げて、唯一の道から逸らし、キリストの復活の命の高い水準から引き下ろすことにあったのだと言える。

一旦、その接近を許してしまうと、信者たちは神への貞潔な思いを失い、ルーク氏に惹きつけられて、彼の言うなりとなり、腐敗して行くのである。

ここで私は、信者を異端へと逸らして行くのは、何も女性信徒に限らないことを付言しておきたい。むろん、ルーク氏の背後には女性信徒がいた。サンダー・シングを彼に勧めたのも名古屋のAG女性信徒であるし、Br.Takaの妻であるAG信徒もまたKFCを乗っ取るためにルーク氏を欺いた。ルーク氏はこれらの女性信徒らにすっかり乗せられ、さらに自らの過ちを認めないために、私に異端の濡れ衣を着せて団体から追放したのである。

だが、こうしてエバにそそのかされたアダム同然、異端の影響を受けた女性信徒らにはめられたルーク氏自身も、率先して信徒を巧みにキリストへの真実と貞潔から逸らす役割を果たした。異端の教えという御言葉への混ぜ物を容認したのは彼ら自身なのである。

「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが穢されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

このようなわけで、当初は本物のように輝いていた信仰者たちも、ルーク氏に接近すると共に、神への一途な関心から逸らされて行くのだった。彼らからは当初の清らかさ、単一さ、貞潔さが失われ、その輝きはどんどん曇らされて行くのである。その人々はすっかり人間関係の地位争いとプライドにしがみつくようになり、ルーク氏の周りの人間関係において自分がどれくらい高位を占めているか、見栄とプライドを維持できるか、それだけを念頭として行動するようになり、他の信徒を平気で押しのけ、中傷し、蹴落とすようになり、 最後には凡庸さ、低俗さ以外には何も残らなくなって、完全に塩気を失った無価値なごみ屑のように、人々に唾棄され、踏みつけられて終わることになる。

実に数多くの兄弟姉妹がそのようにしてルーク氏を通して信仰の道から逸らされて腐敗して行っただけでなく、兄弟姉妹の間で互いに争い、排斥しあい、傷つけ合う道を選んで、人生を浪費した。それもそのはずで、聖書が「互いに愛し合いなさい」と命じているにも関わらず、ルーク氏は愛という言葉を何よりも嫌い、その教えに全く関心を払っていなかった。そのことは彼が自ら幾度も公表していたことなので、これほど公然の嘘に騙された人は自業自得であろう。聖書が最も肝心だと言っているものを、彼は踏みつけにしているのだから。

ちなみに、こういう冷酷な側面は、村上密氏や杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の支持者たちにも極めてよく似ているように見受けられる。彼らにとって何より大切なのは、権力闘争に勝ち抜いて、自己の正義を貫き、己のプライドを立てあげること、より多くの支持者を獲得して、自分たちの活動を通して地上に手柄を立てて、名を馳せることである。被害者はそのための手段である。そして、その戦いに勝つためならば、彼らは手段を選ばず、他の教会や信徒らに戦いを挑み、仲間に嘘を信じさせて欺き、内的に腐敗させたり、法廷闘争のような泥沼の争いに巻き込んで疲弊させたり、あらゆる方法で人の生活の前進を妨害し、信仰の歩みを駄目にすることをいとわない。

KFCの歴史にも、そうした不幸な事件は数多くあった。中には、不平等な結婚を強いられて離婚に至ったケースもあれば、山谷少佐、坂井氏のように活動中止に追いこまれたブロガーもいる。表向き、それは本人の自主的な選択によるものであったが、すでに述べた通り、ルーク氏はそれらの事件に間接的に関与していた。

何よりも、彼らを感情的に焚き付けて争いの火に油を注ぎ、彼らに異端の教えや虚偽を信じ込ませて、真っ直ぐな道からそらしたのはルーク氏であり、彼がいなければ、これらの事件は決して起こらなかっただろうとの確信が私にはある。こうして、ルーク氏は表向きにはキリスト教界を批判しながらも、他方では、キリスト教界に現役で籍を置く信徒らと積極的に交わることで、キリスト教界の毒を周りの信徒らに注入して行ったのである。

だから、一連の出来事から見えて来るのは、ルーク氏は、自分の利益からでなく聖書に基づいて異端の教えを糾弾しようとしていた信徒らに、神への貞潔さを失わせることによって、唯一の道から逸らし、戦いに敗北させて口を封じる役割を果たしたということである。ルーク氏を信じたために、彼らはクリスチャンとしての矜恃を失い、戦いに敗北して行ったのである。

ルーク氏の隠れた働きは、こうしてあたかもクリスチャンの解放を願い、それを助けてやるように見せかけながら、人々の情けや、自己憐憫、彼に対する尊敬や好意、あるいは自尊心などに巧みに働きかけて、御言葉から逸れたところで、彼らが己の正当性を主張するように仕向け、それによって神に対する真実性、純粋性、貞潔さを失わせて神の防御の外に引き出し、戦いに敗北させることにあった。

この点で、彼の果たした役割は、カルト被害者救済活動の指導者と本質的に同じであり、車の両輪のようなものであった。カルト被害者救済活動の指導者らは、気に入らない信徒や教会に積極的に裁判をしかけ、泥沼の争いに引き込むことで、信仰生活を妨げようとしたが、他方、ルーク氏は信徒の抱える問題に助けの手を差し伸べるように見せかけて接近しては、人々を欺き、腐敗させることで、戦いに勝利できないように仕向けて行った。だから、両者は両輪のごとき一つの働きであり、ともに暗闇の勢力の働きであったと言える。

そして、彼らの終局的な目的は、信徒らに神ではなく人間の指導者である自分を見させ、自分に陶酔させ、従わせることにあった。オースチンスパークスの書いている通り、これは終末に向けてますます腐敗に落ちて行く偽りの教会の姿である。最終的には、信者は、神か、それとも人か、どちらかを選ばなくてはならなくなるだろう。だからこそ、次の御言葉があるのだ。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

神が私たちを保って下さるのは、私たちが御言葉に従うことによってキリストのうちにとどまり、キリストも御言葉を通して私たちの内にとどまって下さる限りにおいてであり、もし私たちが御言葉を曲げたり、捨てたりするのであれば、以前にどれほど純粋な信仰心を持っていたとしても、もはや私たちは神の守りの中にはいない。ある一つの戦いが、最初は神から出て始まったものであったとしても、もしその戦いの途中で、クリスチャンが御言葉を捨て堕落するなら、もはや神はその戦いを擁護しては下さらない。
 
ルーク氏については、彼が多くの信仰者を唯一の道から逸らし、堕落させて来た危険を早くからよく知っている人々がいた。彼らはルーク氏を兄弟として愛していたが、彼の行動を嘆いており、ルーク氏はKFCを畳んで、神の御名を利用して栄光を築き上げ、兄弟姉妹の交わりを私物化するのをやめて、リーダーの座から自主的に降りるべきだ、と日頃から漏らしていた。

実際、そのチャンスは何度かあった。ルーク氏自身が引退を望んだ時期もあったと聞くし、AG信徒に騙されて会堂を失ったその時も、彼にとってはチャンスであった。だが、エリコの街を再建するように、彼らはこの団体を再建し、その度ごとに前よりももっと洗練されたものを作ろうとして、状況は悪化していったのである。
  
まだルーク氏と親交があった頃、彼はアーサー・ホーランドのことをよく記事に取り上げていた。私が、キリスト教界を批判しているくせに、なぜそんな人物に関心を寄せるのかと問い尋ねたところ、彼は言った、「アーサーは老人性鬱状態じゃないかと思う。どこか彼はぼくに似ている。だからどうなるのか関心がある・・・」と。

その時私は、彼はアーサー・ホーランドの中に自分自身を見ているのだと感じた。ハーレーを乗り回し、白いスーツ男と呼ばれたアーサー・ホーランドも、あるいは勇敢にカルト化教会の牧師と闘って被害者を取り戻しているように見える村上密牧師も、ドクター・ルークも、共に同じように彼らが作り上げた虚構の人物であって、舞台から降りられなくなった俳優と同じく、自己から逃避するために彼らがひっきりなしに演じ続けている架空の人物であると。

ルーク氏はその演じ続ける苦労を知っているのだ。だからこそ、他者の中にも自分と同じような倦怠を見たのであろう。彼らはきっと人生の終わりまでその役割を演じ続けることをやめられないだろうと思う。だが、そうやって他者の願望を満たすために、あるいは自己から逃避するために、存在しない立派な人物を演じ続ければ演じ続けるほど、内面的な空虚さは募って行く。それが倦怠や疲労から鬱状態にまで発展し、最後には絶望に至るのもそう遠くないことであると感じられる。

ルーク氏はそうしたことを無意識に感じつつ、アーサー・ホーランドに同情を持って注目していたのだと感じられる。アーサー・ホーランドのみならず、当時、ルーク氏が、ペンテコステ系のキリスト教の牧師がまともな最期を遂げていないと度々指摘していたのも印象深いことであった。
 
キリスト教界で超人のように非凡な正義の味方を演じるこうした指導者らの虚像は、彼らが自己の弱さやコンプレックスから目をそらし、自分を強く完璧に見せかけるために築き上げたブランドである。それはエリコの城壁であり、いちじくの葉であり、マサダの城壁である。弱々しい自己を克服するための三島由紀夫の肉体改造と原理は同じなのである。

このようなブランドの下に集まりたい信徒は、大体、指導者と同じような弱さを抱えているものであり、指導者だけでなく、信徒の方でも、あるいは自分の人生から、あるいは自分の性格の弱さや失敗から、あるいは自分の家庭から逃避したい願望を持っている。自分自身の内にどんな恐ろしい空洞があるのか、それは見ないでおいて、御言葉によって自分を飾り立てることで、美しい自己像を作り上げ、現実の自分から逃れたい。そういう人々が互いに寄りあって、御言葉を使ってありもしない美しい自己像を作り上げ、互いの弱さを優しくかばい合って失敗に目をつぶり、当面抱える問題から目を背けて、自己陶酔に浸るために作り上げた逃避のための同盟が彼らの教会なのである。(公平のために言っておけば、キリスト教界の教会はすべて同じである。)

それは古くはバベルの塔と呼ばれ、今日まで連綿と続いているカインの城壁である。そこには、神のみ前で、自分には居場所があり、伴侶があり、家庭があるから安心だ、私は幸福であって、何も不足はない!と宣言したい人々、地上では貧しい寄留者、やもめであるキリストの花嫁の精神を忘れてしまった信徒らが集まっている。
 
本来、地上で伴侶がいることと、神に対する貞潔さは何の関係もないはずだ。信仰歴が長いからと言って、神に対して純粋かどうかは分からない。しかし彼らはこの世の勢力関係を教会の中に持ち込み、自分たちは安定した社会的な地位を得ており、それなりの年齢にも達しているので、誰からも疑われる筋合いはないというお墨つきを勝手に作り上げて慰め合う。こうして自分たちが人間からだけでなく、神からも後ろ指を指されなくて済むために寄り合いを作り、そこに安住し、仲間内で認め合い、誉めそやし合うことで、神に対する真実性の保証にできるかのように思い込んでいるのである。 しかし、その保証は、人間から来るものであって、神から来るものではない。

ルーク氏は三島由紀夫にも共感を示していたが、映画「MISHIMA」を観たときに、私には当初不可解に見えていた色々なことに合点がいった。この主人公の生き様が、まさにルーク氏に重なって見えたからである。むろん、三島由紀夫自身も、ルーク氏も、演じている俳優ほどの立派さは全くない。これはあくまで映画であり、現実はここまで美しくない。だが、KFCは、彼にとってまさに三島由紀夫の盾の会のようなものだったのだと理解すれば、すべてに納得がいく。

再建されたKFCはバベルの塔であり、エリコの城壁であり、盾の会であり、蛇の道の上にあるマサダの城壁である。そして、もしこの予想が正しければ、 必ず、KFCはこれらと同じ末路を辿ることになろう・・・。
 
話が少し逸れるようだが、私は、キリスト教界一般における救いの概念を、「教会から貸与される救い」と呼んでいる。たとえば、ある教会(集会)に属していることによって保証される救い(言い換えれば、その教会から出ると失われるような救い)は、本当の救いとは呼べない。キリストの救いは、保険のように、団体に加入することによって得られるものでなく、一時的に貸与したりすることもできず、個人が信仰によって受け取るものでしかない。そしてその神の保険への個人的な加入手続きは一度限りで、永遠に効力を発するのである。

にも関わらず、キリスト教界にはダブルスタンダードがあり、救いは個人的な信仰によって受け取れるとしながらも、同時に、教会を離れれば、救いが失われるかのように教えている。教会を離れることは、信徒にとって信仰の道から逸れる恐ろしいことであるかのように教えられ、まして、教会から追放されれば、サタンの手下となり、呪いしか待ち受けるものはないかのように思い込まされている。

しかし、もしそれが本当だとすれば、そのような教会に所属していなければ維持できないような救いは、永遠性がなく、束の間、教会から「貸与されている救い」に過ぎず、その救いはそもそも信者自身のものではなく、教会のものであって、団体の所有であって、貸し出されているに過ぎないということになる。だが、そんな風に団体から貸与される救いなるものは、聖書に何の根拠も持たない全くの偽りであって、人の作り出した幻想に過ぎない。
 
それなのに、往々にして人間は、隠れたところで個人的に静かに神に向かって、神ご自身から承認を受けるよりも、人の群れの中で、団体から貸し出される偽りの救いの方を好むのである。なぜなら、そこにいれば常に人間の群れがあって、一人で神に向かうという孤独を避けて通れるからである。それこそ、バビロンのつぶやきなのである。

「彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」(黙示18:7)

このバビロンのつぶやきは、キリストの花嫁たるエクレシアの地上における寄留者の立場、貧しさや孤独、苦難の十字架とは対極にある享楽である。そして、終わりの時代に向かうに連れて、バビロンはますます装いを新たにし、より洗練された格好をして、きらびやかに自分を飾るであろう。

今でも私は時折、用事で車を運転しながら、あのみすぼらしい緑のビルのそばを通り過ぎることがある。その時、毎回おなじみの古びたジャケットを着て、自分でそろえた古いパソコンを起動して、使い古しのOHPを映しだしていたルーク氏を思い出すが、その頃の彼の方が、今よりはるかにましであったように思う。同じようなことを、他の誰かが言っていた。かつて寿町にホームレス伝道に出かけて、自分のお気に入りのピカピカの車の後部座席に、みすぼらしい格好のホームレスのおっちゃんたちを大量に乗せて、嬉しそうに横浜を案内していた時の彼の姿は輝いていたと。

ルーク氏には何かしらそういうところがあった。キリスト者は例外なく誰しも人格的魅力を持っているものだが、彼にも、もしかしたら、私心なく純粋に神に向かってくれる時があるかも知れないと、初心に戻ってくれる時があるかも知れないと期待させるようなところがあった。だが、それが多くの人々にとってつまずきとなったのである。初心に戻るどころか、年を追うごとに、彼の二重性は深まり、ついに今のような状況にまで行き着いてしまった。

KFCはキリスト教界を批判しながらも、キリスト教界以上に何でも無分別に受け入れたので、とんでもないバビロンの巣窟に至ってしまった。そこにはサンダー・シングのような異端の教えもあれば、ペンテコステ系の誤った教えもあり、あやしげな予言も、異言も、イスラエル賛美も、何でもあった。

すでに述べて来たことなので、ここでは繰り返さないが、これらの思想の忌まわしさはすべて、生まれながらの人間を神以上に高く掲げ、御言葉よりも人間の言説に信徒を従わせようとするところにあり、さらには感覚的陶酔感を、霊の導きとすり替え、感覚的な満足を御言葉に従うようにとの静かな御霊の導きよりも重視するところにある。

私がKFCを追放されて去るよりも前(異常だと分かっていながら、あえて結末を見たいがためにとどまった)、現役のAG信徒でありながら、そこで偽ってメッセージをしていたBr.Takaが、自分たちはこれから「深みに漕ぎ出すのだ!」とメッセージで宣言していたのを思い出す。

その時、私の念頭に真っ先に思い浮かんだのは、「サタンの深み」(黙示2:24)だった。彼らは私にも盛んに踏み絵を踏むように促していた。つまり、彼らと一緒になって、すべての疑いを捨てて、仲間になって着いて来いと促していたのである。

Br.Taka夫妻は毎回、礼拝が終わるとルーク氏と共にどこかへ姿を消していた。三人で交わっているのだろうと思われたし、ルーク氏を説得できるチャンスはもうないと内心、理解していたが、私は、どうしても彼らの交わりには加わる気になれなかった。

その当時も、時折、勇気を出して彼らの後を追って一緒に行ってしまえばよかったのにという思いが去来しないこともなかったが、今は心の直観が正しかったことを思う。それは単なる臆病さや心理的な迷いをはるかに超えた深い直観的な疑いに基づいた正しい行動であった。光と闇が交わらないように、彼らと私とは元来、仲間ではなかったのである。そのことは後に明確に事実となって現れた。

そして、彼らは当初から私の内心の疑いを鋭く見抜いていたので、彼らの仲間にならない私を激しく糾弾し、自分たちだけで船に乗ってどこへやら「深み」に漕ぎ出して行った。

その後、AG信徒らとルーク氏が決裂したのは私の予想の通りであり、私の忠告を退けたルーク氏は見事に彼らに裏切られたわけだが、それでも、たとえAG信徒がいなくなっても、おそらく、彼が一旦、漕ぎ出した深みは、ますます彼をとらえて離さないだろうと私は思う。

今になって、私はいつかどこかの信徒が見たという幻を思い出す。それは沈没船に乗っていた信徒の話であり(「神の義対人間の義」参照)、まっすぐに滅びゆく沈没船に、様々な「救い」を提唱しては救助に近づいて来る船はみな偽りであった。

私はBr.TakaとDr.Lukeらの誘いに応じて彼らの船に一緒に乗って行かなかったことを、まことに正しい選択であったと考えている。同じような船は、別の機会にも、何度も近づいて来た。だが、偽りの救いをかざして、大勢の人たちを載せて近づいて来る救助船に乗り込む代わりに、私は一人でキリストの十字架をつかんだ。そうして、復活の領域へと引き上げられた。

もしキリストへの信仰というものを全く知らなければ、三島由紀夫の生涯とその主張を見て、彼はそれなりに純粋で優しい人であったと思うかも知れない。ある意味、「ドクター・ルーク」も、「村上密」も、生まれながらの人間への憐憫の情という点では、ある種の人間的な優しさと魅力を持っていたのであろう(全くそれがなかったとは言わない)。だが、彼らの持っている生まれながらの人への憐憫の情や理解は、もしそれが旧創造に対する憐れみであるならば、神の判決に逆らうものなのである。だからこそ、それは一見、優しさや同情のように見えても、腐敗した本性を現し、最終的には自他の生活や自分の生命そのものの破壊という恐ろしい結果にまで至りつくのである。
 
三島由紀夫の最期をグノーシス主義者の最期として見るならば分かる。彼は神が滅びに定めた古き人を愛しすぎ、惜しむがあまり、古き人に対する十字架の死の判決をどうしても受け入れられなかったのだと。彼は人類を惜しみ、日本人を惜しみ、人は神になれると信じたがゆえに、期待したが、誰も彼の期待に応えうるような聖なる人間はいない事実が突きつけられた。この事実を拒否して、自らの理想に生きるために、彼は死を選んだのである。

ルーク氏は三島と同じように、自分の地上の滅びゆく幕屋である肉体も含め、目に見えるものを愛しすぎたように見える。目に見えない神との隠れたパートナーシップよりも、地上における人間との目に見える絆や、目に見える美を愛し、これを滅びに定めた神の判決を受け入れられず、神の「残酷な判決」から逃れようと、滅びゆく人々を十字架を介さずに救おうと試みたのである。

だからこそ、彼は自ら偽りだと分かっていたキリスト教界とわざわざ手を結び、信頼できないと公言していたAG信徒を仲間にし、神の聖を選ぶために単一な生き方をしようとせず、二重性の後ろ暗さの中にとどまったのである。それは人間一般の罪を弁護するためである。たとえば、杉本徳久氏からあれほど中傷されながらも、杉本氏ではなく、元KFCの信徒を告訴したのも同じ理由からである。それは彼が理性の上では完全に誤りだと分かっていたものをあえて自分の力で弁護し、救おうとしたためである。

彼は杉本氏を擁護してKFCの元信徒を見捨てた。つまり、彼はクリスチャンを憎み、聖徒らを訴えることを罪とせず、むしろKFCという囲いに歯向かうこと(すなわち、ルーク氏に盾突くこと)を罪としてとらえ、自分に敵対する行為を罪としてとらえて信徒を訴えた。むろん、訴えられた人間に問題がなかったとは言わない。だが、そうして元KFCの信徒には報復しながらも、自分を誹謗したカルト被害者救済活動には何の対処もしなかったことは、ルーク氏が根本的にカルト被害者救済活動の支援者らと同じ霊的基盤を持ち、彼らに一定の理解を示していたことを表している。それは彼らが同じように、自らを神に等しい者と考えて、信徒を利用していたからである。

カルト被害者救済活動も、これと同じように、カルト化教会の横暴な牧師から被害者を救おうとしているのではなく、人の罪を大目に見て、両者を神の摂理から救い出そうとしているのである。本当は、被害者を自称している人々もまた罪を犯しているのであり、聖書から逸れて、人間の指導者を神以上に慕って付き従った罪の結果として起きたことを悔い改めずして、まことの神に立ち戻ることはできず、決して自立にも回復にも至ることはない。にも関わらず、人に隷従した罪は大目に見て、カルト化教会の牧師だけを責めることによって、彼らは神以外のものを神として拝んではならないという神の掟から被害者をかばいだてし、その罪の刈り取りから逃れさせようとしているのである。そうなるのも無理もない。なぜなら、カルト被害者救済活動の指導者も牧師だからである。
 
これらの人々の試みは、人情によって十字架という旧創造すべてに下された神の滅びの判決を退けようとしているのであり、己の義を神の義以上に高く掲げようとしている。だが、どんなに彼らが主張しても、決して神の判決(旧創造に下された十字架の宣告)を取り除くことはできない。だから、その岩なるキリストにつまずくと、粉みじんに砕け散る破滅が待ち受けているだけである。

あらゆるグノーシス主義者がそうであるように、いずれ最後には、この人々も、己を神の判決の上に置き、旧創造に定められた滅びの恥辱から自らを解放しようと、自分自身を肉体の牢獄から解き放つという試みにまで至りつくのではないかと予想される。それがマサダの自決であり、盾の会の決起であり、三島の最期であり、ルーク氏が憂慮していたアーサー・ホーランド氏の末路なのである。ルーク氏はまさに自分自身の終わりを予感しながら、他人の人生を憂慮していただけと思われてならない。

しかし、KFCのみならず、カルト被害者救済活動の支持者もやはり同じようになるだろうとの予測を述べておきたい。なぜなら、彼らは現実の人間、現実の自分自身というものを、どうしても認められないからである。その現実とは、すべての人間は罪によって堕落しており、例外はないということである。それは、彼ら自身もまた他の人々と同じように、間違いやすい愚かな人間に過ぎず、カルト化教会の牧師とさほど変わらない罪人であり、神の救いを必要としている哀れな人間の一人に過ぎないという事実である。人の掲げる正義は、どれもこれもぐらつきやすく、誤りの多いものでしかなく、彼らの主張もまた偽りと誤りに満ちており、神の義からは遠くかけ離れているという現実を直視できないことである。

彼らは自分をありもしないヒーローや、正義の味方、聖人君子のように描き出し、この役割を演じることがやめられず、自分の作り上げた幻想の美しい自分に反するどんな深刻な事実を突きつけられても、美しい幻想から目覚めることができない。そこまで虚像の自己像に陶酔し執着している以上、その幻想の自己像を守り抜くためならば、反対者をせん滅しようと憎しみをあらわにすることはおろか、最後には現実の自分自身も含めて、現実世界のすべてを否定して自ら思い描いた幻想の理想を貫くために、この世から去って行くこともいとわないだろう。彼らが否定しようとして立ち向かっているのは神の事実であり、現実そのものなのである。そして、そのような末路に至ることは、少なくとも、これまであらゆるグノーシス主義者が証明して来た変わらない法則性であった。

(最後に「MISHIMA」を引用しておくが、これはすべて自己責任でご覧いただきたい。)

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