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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

復活の命にある自由――御名の権威を行使し、平安に座して天的領域を生きる

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

私たちは、神の霊の実際の働きはすべてをキリストご自身に帰することであることを学ばなければなりません。彼、キリストが「内なる人」である私たちの霊のいのちでなければなりません。それは、私たちが主の中で強くあるためです。自分自身や、他の人々や、物事によってではありません。私たちは、彼の内なる力だけで、逆境を切り抜けなければなりません。

キリストは私たちの知性のいのちでなければなりません。説明する力や理解する力がないために、私たちは困惑するかもしれません。しかし、御霊は教え導いて下さいます。

キリストは私たちの体のいのちである必要があります。肉体のための神聖ないのち、というものがあるのです。主は常に体を癒されるわけではありません。しかし、御旨を成就するために、主は体のいのちとなることをいつも願っておられます。苦難の中でもです。

いのちは主ご自身です。そして、主ご自身がいのちとなるために、いのちはしばしば天然の無力さという背景と対峙(たいじ)させられなければなりません。彼の復活の力は、最初から最後まで、キリストとの合一の法則です。主の民は恐ろしい圧迫の時代にあります。彼らの敵はほとんど休みを取りません。私たちのいのちなる主ご自身にのみ、十分な備えがあります

バルナバは最初、「心を堅く保って主にとどまるように」(使徒の働き11章23節)と信者たちを励ましました。この言葉には断固たる響きがあり、「私たちのいのちであるキリストが現される時」まで私たちに押し迫るでしょう。
 
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年明けに「キリストと共に統治する」ことが今年のテーマであると発表したが、これはキリストにあって、信者が彼と共にすべてを足の下にして支配することを意味する。
 
これは口にするのは極めて容易だが、思いもかけないほどに偉大な事柄である。
そして信者がキリストと共に統べ治めるためには、二つの決意が必要である。

一つ目は、目に見えるいかなる人間の指導者への依存心も完全に捨てて、ただまことのお一人の神のみを頼りとして生きる決意を固めること。どんな状況下でも、ただキリストの命だけによってすべてを切り抜ける覚悟を固めること。

二つ目は、どんな状況下でも、自分が環境や状況に翻弄される立場に立つのではなく、キリストにあって、環境状況を治める権威を持っていることを自覚し、内なる平安に根差しつつ、あらゆる事象の上に立ち、御名の権威を行使して環境を治める使命を実際に実行して行くこと。
 
オースチンスパークスが以上で書いているように、キリストの命の現れは、信者が人や組織や事物に頼ることによって制限を受ける。
 
私はこれを霊的中間搾取の原則と呼んで良いと考えている。 神と信徒との間に挟まっている隔てが多ければ多いほど、キリストの命の現れが減っていくのである。

人間のリーダーのいる団体でも、信徒の間での信仰の現れは皆無でない場合がある。だが、その現れは弱く、制限を受けており、最終的には、そこにとどまっていれば、信者はいずれリーダーを神として、偽りの神に仕えることが避けられなくなる。そこで、使徒らを含め、あらゆる信仰の偉人たちがそうして来たように、もし信徒が本当にキリストにあって自由になり、自立したいと願うのであれば、キリストから直接教わり、神のみを頼りとして生きるところへどうしても進まなければならない。

キリストの命の豊かさの現れは、信者が目に見えるものに頼るのをやめて、神に向いた度合いによって増し加わって行くのである。

主イエスが地上におられた時の生活を考えてみれば良い。公生涯が始まってから、主イエスは故郷を去り、それまでの職業を捨てられたので、彼は何も所有しておらず、その生計は常に天の不思議な供給によって満たされていた。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(マタイ8:20)と言われた通り、おそらく今日どこに泊まり、誰とどんな風に食事をするのか、それさえ御霊の導きによったのだろうと思われる。

パウロも書いている、「私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでそうか。」(Ⅰコリント9:5)と。地上で自分の家庭も職業もなく、世話をしてくれる僕を連れ歩くこともなく、明日の保証を何も持たない寄留者の立場に徹することに心細さや不安が伴わないはずがない。蔑まれることもあっただろう。

だが、主イエスはただ天の父なる神の栄光のために、あえてどんな地上的なものをも頼りとせず、その信仰の証として何も所有せず、ただ神だけを頼りとして生きられた。

それでは主イエスはホームレスだったのか、と言えば、決してそうではない。あたかも何も持っていないようでありながら、彼の内にこそ、すべてがあった。主イエスはそのことを知っていたので、地上で何も所有していないことによって尊厳を傷つけられたり、貶められることが全くなかった。彼は常にご自分の必要を天の父に直接求め、父なる神はそれを喜んで聞き届けられた。

御子は天の父なる神と直結していたので、地上にいる人々に助けを乞う必要が全くなかったのである。ただその必要がなかっただけでなく、乞うてはいけなかったのである。主イエスはただ神だけをすべての供給者としてただ神だけにより頼んで歩まれ、神が全てを満たして下さることを生きて証明する必要があった。

「私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を作られた主から来る。」(詩編121:1-2)

こうして、不思議なパラドックスにより、地上では何も所有していないはずの貧しいイエスのもとに、地上の人々が助けを求めて殺到した。宗教的権威であり専門家である指導者よりも、主イエスのもとに駆けつけたのである。ただし、多くの人々が求めていたのは、地上のパンであったり、病の癒しであったり、奇跡であったりと、何か偉大な現象への期待がほとんどであったとはいえ、それでも地上の人々は、主イエスの内に不思議な何かがあって、自分たちが彼を助ける立場にいるのではなく、彼こそが自分たちを助ける立場にいることを知っていたのである。

このように、地上にあっては何も持たない無名の人でありながら、実際にはすべてのすべての統治者であるという立場は、主イエスが弟子たちに見捨てられ裏切られて十字架にかかられる瞬間でさえ、決して逆転することはなかった。

主イエスは嵐をも治める権威を持っておられ、いつもご自分の必要をどうやって満たすか、どうやってご自分に従う人々を見つけ出すか知っておられた。人々の心を治める方法を知っておられ、彼が命じると悪霊でさえ服従せざるを得なかった。それなのに、どうして十字架の死を防ぎ得なかったのか? これは人の目には不思議である。主イエスはすべてに優る権威を持っていたにも関わらず、ただ父なる神の栄光を表すために、ご自分を十字架の死に渡されたのである。

主イエスが十字架にかかられたのは、神の御旨を全うするためのご自分の意志によるものであり、彼は地上の残酷な人々に受け身に翻弄された結果、仕方がなく十字架に赴かざるを得なかった被害者ではなかった。人殺しと共に屈辱を受けて十字架にかけられて死に渡されるその時でさえも、主イエスはご自分の意志によって明確にこの道を自ら選択されたのであり、ご自分の命をただ天におられる神だけに委ね、人には委ねなかった。それゆえ、彼は死に至るまで自主性を失わなかったのであり、人としての尊厳を失うことがなかった。

主イエスは地上におられる間、人としてのすべての弱さを経験していたにも関わらず、内側に完全に何にも依存しない自由を持っていた。その自由は天の父なる神から来るものであった。それほど大きな自由を、主は自分のために行使せず、父なる神の御心に従うためにご自分を十字架に渡されたのである。
 
主イエスの生涯は、そのものが十字架の連続であったと言える。地上に生まれたその時から、彼は自分の居場所を持たず、人間の経験するすべての弱さと屈辱を通り、それに勝利された。人の目には、これらはすべてむなしいことであり、貧しさ、弱さ、敗北に見えるかも知れないが、人間にとって最大の恥辱である十字架の死においてさえ、彼が御父に従順であり、人としての尊厳を失うことなく、内面的にいかなる損傷をも受けなかったことは、その霊的な勝利を明確に表している。

こうして、御子の従順によって達成された十字架の死によって、今、御子を信じる者が、信仰によって彼に接ぎ木され、復活の命にあずかることが可能となっているのである。

クリスチャンはむろん、初めからこのような揺るぎない歩みをするわけではない。思わぬ出来事に遭遇し、動揺してはあちこち助けを求めて走り回り、人に頼ろうとしては裏切られるといったことも起きるかも知れない。そして、暗闇の軍勢はクリスチャンの人としての弱さを知り抜いた上で、信者をおびえさせ動転させるために想像もつかないような出来事を引き起こすこともある。

だが、そんなこんなにも関わらず、悪魔と暗やみの軍勢を相手にしている時でさえ、信者が自分の内には揺るがされることのないはかりしれない安定した力があって、その力が悪魔と暗やみの軍勢がもたらそうとするすべての害をすでに打ち破っており、自分自身の無知をも補って余りあるものであることに気づき始める時、彼はどんな状況をも内なる平安を基礎として治める秘訣を知り始めるのである。

キリスト者には、次第に周囲で起きるすべての現象は、自分の内面と密接につながっていることが分かって来る。つながっているのみならず、むしろ、その現象を支配する力は信者自身の側にあることが分かって来る。この力はキリストの復活の命に由来するものであり、信者が外側のものに翻弄されたり、助けを求めて走り回ることをやめ、内なるキリストに頼ることを学べば学ぶほどその支配力がはっきりして来る。

ここで平安に座すということが極めて重要である。激しい戦いのさなかにあって、平安に座すことはそんなにも容易ではない。だから、それはあくまで信仰によるのである。キリスト者だから、どんな困難の中にあっても、超人のごとくいかなる苦しみも悲しみも一切感じないということはない。キリスト者の歩みは常にパラドックスに満ちている。パウロが書いた通りである。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身に置いて明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント4:8-10)

キリストは信者にとってただ何か困ったことが起きたときの助けとして内におられるだけではなく、人生の常なるパートナーである。ここに本当に大きな不思議がある。神と人とはあまりにも異なり、相互理解さえ可能なのかどうか分からないほどにかけ離れているはずだ。人にとっては目に見える人間の伴侶の方がよほど理解可能に思われるだろう。それなのに、なぜ神はあえて人をパートナーとして選び出され、エクレシアを花嫁として召し出され、共同統治者にされたのであろうか。

これは巨大な不思議である。だが、そこに神の御心があることが分かり始めると、信者の関心はだんだんこの世の事物にではなく、目に見える人でもなく、神ご自身に向かって行く。神は一体、自分に何を願っておられるのか、神が信者を召し出された目的があることが分かり始める。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

神が信者を召し出された目的は、世界宣教に出かけて一人でも多くの改宗者を出すためではなく、信者が目覚ましい働きをして地上で名を馳せたり、可哀想な境遇にある人たちを一人でも多く助けるためでもなく、そうした一切の外面的な働きにまさって、神と人との愛に満ちた交わり、密接なパートナーシップの確立のためなのである。

そのパートナーシップを始めるにあたり、主イエスは、ご自分の御名によって父なる神に求めなさいと言われた。偉大な働きを始めなさいと言われたのではなく、無力な赤ん坊が親の胸に寄りかかって自分の必要を満たしてもらうように、信者が神により頼み、神からあらゆる必要や恵みを供給してもらうことを学びなさいと言われたのである。

多くの信者は信仰生活のありようを全く誤解している。彼らは自分が召し出されたことが分かるや否や、自分が神にとって有益な人間であることを一刻も早く示そうと精力的に活動しようとする。あたかも強迫観念に駆られているかのように。だが、おそらく、神は信者にそんなことを求めておられないと私は思う。

外側の活動に逃避し、没入する代わりに、むしろ、神は、戸を閉じて、隠れたところで、隠れたところにおられる神に向かって祈り、御名によって「求めなさい」と言っておられるのである。

つまり、信者自身が、自分の心の願いやビジョンを神に知っていただき、神と分かち合いながら、主と共に手を携えて歩みを進めて行くことこそ、神が願っておられることなのである。その過程で、信者は願っているものを天におられる父から直接、受け、キリストの命の豊かさにあずかって、内面的にも外面的にも満たされて喜び、その我が子の喜びによって天にの父なる神が栄光を受けられるのである。

こうして次第に、信者自身とキリストとの生活におけるパートナーシップが深まっていくにつれて、両者は分かちがたいほど一つになって行く。むろん、だからと言って、神と人が混合したり、人がキリストになるわけではない。にも関わらず、神ご自身がキリストを通して信者の内側に住んで下さるそのリアリティがまし加わるに連れて、夫と妻が分かちがたく一つであるように、神と信者とが一つになって、信者は安心して大胆に御名の権威を行使することができるようになるのである。

そうこうしているうちに、信者はキリストが全てを足の下にされているように、信者もまた彼と共にすべてを足の下にしているのだということが次第に分かり始めるのである。

最後にもう一度言うが、足の下にするとは、支配することである。命じられ、支配され、翻弄される側に立つのではなく、支配する側に立つことを意味する。支配という言葉を悪いものだととらえる必要はない。支配が悪であるのは、誤った統治が行われる限りにおいてである。

そもそも人の自由や自立は、自分の置かれている環境状況を人が自ら治めることによってしか成り立たたない。だが、この世において、信仰を持たない人間は、暴君であるこの世の君(サタン)の統治下で奴隷とされているだけである。

信者はキリストにあって、この世の暗闇の圧政から救い出され、自由とされているが、主にあって統治するということを学ぶために、クリスチャンは目に見える宗教指導者から自立して、直接、神から供給を受けることを学ぶ必要がある。

そこで、ジョージ・ミュラーを含め、あらゆる偉大な信仰者がして来たように、どのような状況下にある時にも、人に助けを求めたり、人に相談したり、人に乞うたりするのではなく、信者は神に直接、向かい、神ご自身から解決をいただいて生きるべきであり、そのことを通して、神の知恵の豊かさと憐れみの深さを生きて知るべきなのである。
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