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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

十字架、教会、王国 ~天的な使命を果たすための教会の霊的資源~➀

「十字架・教会・王国」
第2章 天的な使命を果たすための教会の霊的資源

T. オースチン-スパークス

「しかし、一一人の弟子たちはガリラヤへ行き、イエスが彼らに行くよう命じられた山に登った。弟子たちはイエスに会った時、彼を礼拝した。しかし、疑う者もいた。イエスは彼らのところに来て言われた、『私は天と地のすべての権威を与えられました。それゆえ、あなたたちは行って、すべての国民を弟子としなさい』。」(マタイ二八・一六~一九)

霊的課題に応じる必要性

今日、一つの課題があります。この課題はおそらく、この世界の歴史の他のいかなる時にもまして、厳しい重大なものかもしれません。疑いもなく、教会の初期の時代、この課題はとても厳しいものでした。しかし当時、福音が勝ち取った地表の面積は今日と比べるなら微々たるものであり、他の多くの点においても、当時の状況は今日の状況に遠く及びませんでした。

何世紀にも及ぶ発展の結果、この世界に関して暗闇の王国は膨大な立場や手段を得ました。今日、この悪の王国の攻撃はとても深刻であり強烈です多くの面で、神の教会はこれに気づいています――おそらく、その原因や理由について完全に理解しているわけではないかもしれませんが、自分が攻撃や抵抗を受けており、かなり無力化されている事実に気づいています。教会は自分の無能さや無力さ、激しさを増しつつある霊的状況に対処する権威と力の無さに気づかざるをえなくなっています。これは今日の課題であり、教会を脅かしています。

この脅威により、教会はどちらかというとあまり重視されないおそれがあります。この世は教会を通り過ぎて無視することができます。また、あちこちで教会には対処できない状況、その前では教会は無能で無力な状況が生じるおそれがあります――教会はこれを知っているのです。

この課題は一つの必要を示します。私たちは「自分たちならこの必要を満たすことができる」と思うほどうぬぼれてはいませんが、それでも、この課題に直面してこの必要について考えることは私たちの義務です。

もし神が弱い者や小さな者を選んで、彼らが生来なしうることを遙かに超えて彼らを用いることができるとするなら、その時、私たちにも新たな可能性が拓かれることになります。ただし、私たちは神の御前でこの問題に本当に真剣に向き合う必要があります。

私たちは、ある霊的状況について述べてきました。この一時的状況は神の働きにとってますます困難なものになりつつあることを、私たちは大いに感じています。他方、こうしたあらゆる外面的困難の背後には、ある霊的な支配があります。これはあなたたちに告げるまでもないことだと思います。

目に見える物事は、結局のところ、背後にある遙かに大いなる何かの前景、舞台にすぎません。「この暗闇の世の支配者たち」という句は無意味な句ではありません。ここに問題があるのです。キリストの権威をもってそこの状況に触れうるものが存在するようにならない限り、教会にとって状況はお手上げです

「私は天と地のすべての権威を与えられました。それゆえ、あなたたちは行って、すべての国民を弟子としなさい」と私たちは容易に引用することができますし、これはあらゆる宣教の働きのスローガンでもあります。いずれにせよ、この御言葉を実行に移すとき、「あなたちは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」がもっぱら強調されており、「私は天と地のすべての権威を与えられました」はあまり強調されていないように思います。

それゆえ、あなたたちは行って……」。この「それゆえ」という言葉の実際の意味に十分な注意が払われてきませんでしたし、今もそうです。この「それゆえ」という言葉は、宣教の働きと主イエスに与えられた「すべての権威」とを結ぶ鎖です。<略>

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