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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

バビロン化するキリスト教界―Dr.LukeのKFCとカルト被害者救済活動の同一化の過程

前回の記事ではKFCの誤りだけを取り上げたが、現役のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団会員であり、無資格でありながら、母教会に隠れてKFCで身元を隠してメッセンジャーとなっていたBr.Takaの活動が、何よりもKFCを決定的な誤りへと導いた極めつけの問題であったことは言うまでもない。これについてはすでに記事で書いたので詳細は繰り返さない。

Br.Takaの偽教師、偽預言者としての活動は、もちろん、AG教団内の牧師さえ全く弁護することはできないものであった。AG教団のある古参牧師は言った、「そのようなことをする信徒は必ず自分の教会でも孤立しているはずだ」と。

他のプロテスタントの教団では、所属教会に隠れて他の教会を放浪したり、ましてそこで牧師資格があると偽ってメッセージを語ったりしたことが発覚すれば、除籍となる。ところが、AG教団は、そのような活動を行なっていた信徒を咎めもせず、事実確認も行わない。他教団のカルト化を取り締まりながら、このように野良犬のごとく母教会をないがしろにして放浪する自教団信徒は野放し状態なのである。それでいながら、正義の担い手を自称している。こんな腐敗した恐るべき教団には、決して近寄らないことであろう。

だが、そうは言っても、AG教団も牧師制度を持つ教会である以上、信徒が無資格で伝道を繰り広げたり、所属教会の牧師に内緒で他の教会を遍歴するような行為を決して後押しているわけではない。

だから、Br.Takaの活動を擁護する者はAG教団の中にもなかった。彼の押しの強い饒舌なメッセージは、これまたネット上だけの虚構の世界であり、現実では全く誰からも相手にされていなかった。教団は、むろん、このように母教会と関係ないところで信徒に勝手な活動を繰り返されては大変困るというのが本音である。さらに、彼がKFCから引き連れて出て行った信徒も、もしこんな表現が許されるならばだが、KFCの中でも最も異常な信徒たちであった。だから、史上最悪のグループを引き連れて、史上最低の詐欺教会を開くために、彼はKFCを出て行ったのだったと言える。最悪のバビロンから最悪の残り滓を集めて、一体、何がやりたかったのかーーバビロンの大掃除がしたかっただけなのかーー疑問が残らざるをえない。

Br.Takaと似たようなことが、KFCにもあてはまった。一見、ルーク氏やKFCはネットではかなり人気を誇っているように見える。確かに、身近で見ると、弁舌やパフォーマンスが巧みで、立ち回りが器用で、それなりに魅力があるように見える。ところが、社会の中で聞き取りをしてみると、大半の人々が全く相手にしないのである。それどころか、まるで唾棄すべきもののように憎しみを込めて酷評する言葉を幾度も聞かされた。これは不思議なことであった。彼の評判は、ほんの少数の仲間内だけでしか保たれていないことがはっきり分かったからだ。

しかし、ルーク氏とKFCがTaka 氏のように怪しい偽教師であったAG信徒の真の目的を見抜くことも、排除することもできずに、私の忠告も完全に退け、すっかりかき回される事態に至ったのも、必然的結果であった。それはKFCが、AG教団やカルト被害者救済活動と全く同じ自己矛盾を抱えていたためである。
 
カルト被害者救済活動の指導者は、自分もキリスト教界の牧師でありながら、同業者であるキリスト教界の牧師を告発することを生業にしているわけで、そこに誰が見ても明白な根本的矛盾があった。たとえば、もし弁護士を訴えることを専門の稼業にする弁護士が現れたとすれば、同業者はどう感じるだろうか。彼が同業者から仲間とみなされることは絶対にない。

それなのに、カルト被害者救済活動は、牧師が同業者である牧師を訴えることを使命にしているわけだから、この活動が教界になじむことは考えられず、この先も決してないだろうと思われる。

それでも、このような活動が存続してきた背景には、カルト被害者救済活動が初めは統一教会などの他宗教から信徒を奪還することを目的とし、同業者から羊を奪うことを目的に掲げていなかった点がある。しかし、キリスト教界のカルト化の問題を彼らが叫べば叫ぶほど、彼らのターゲットの範囲は次第に狭まっていき、ついには身内に矛先が向いた。最初はプロテスタントの諸々の教団、さらにはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団内部の危機を訴え、かつては仲間であった同じ教団の牧師を訴えるというところにまで至りついた。

こうなって来ると、それは牧師同士が互いを告発して血で血を洗いながら、信徒を争奪するような同士討ちの様相を帯びて来る。同じ教団の教会さえも標的になりうるというのであれば、どの牧師も、彼らに睨まれればいつ悪者の濡れ衣を着せられて、信徒を奪われるか分からない。そんな恐怖があるのでは、牧師らがこの活動を快く思わなくなるのは当然であろう。

しかし、このようにして、キリスト教界内でテロルを実行し、自分に逆らうとひどい目に遭わせるぞという心理的恐怖を与え、裁判などの手段に訴えて人を恫喝することで、反対派を黙らせて、教界内の覇権を握っていくことが、最初から彼らの目的であったと思われる。そのことは幾度も述べた通りである。
 
そもそもキリスト教界そのものが、牧師制度を含め、信徒間に差別と序列を作り出す階級制度を持っている以上、同じキリスト教界の牧師がこれを取り締まるというのは、もともと不可能であるばかりか、大きな自己矛盾なのである。

キリスト教界が信徒や教会を、見えない神ではなく、目に見える人間の統治下に置くことを是認している限り、カルト化教会は生まれ続ける。つまり、牧師制度ある限り、カルト化教会は決してなくならない。カルト化の根本原因は人間の指導者による信徒の支配を肯定するところにあり、キリスト教界の階級制度、身分制度にあるからだ。

ところが、カルト被害者救済活動はこの点から目を背ける。カルト化教会の出現の根本原因は、キリスト教界の構造そのものにあることを見ないで、自分自身も牧師でありながら、あたかも信徒を搾取するカルト化教会の牧師の罪とは一切無関係であるかのように、自分だけは正義の味方のように、彼らの腐敗を取り締まろうとする。

本当は両者ともに同じ罪を犯している以上、それは加害者が加害者を訴え、加害者が加害者を取り締まるのと同じ無益な行為であり、そんな活動に解決が見いだせるはずもないのである。訴える側にも正義が欠落しているのだから、ただ泥沼の闘争に陥って行くだけであるのは目に見えている。

だからこそ、カルト被害者救済活動というものは、最初から恐怖によって支配することだけを目的とする正義とは無縁の活動であり、掲げている正義は単なるデモンストレーションであり、もっと言えば、その戦いは初めから出来レースだったのだと言える。

カルト化教会の牧師と、それを取り締まっているように見える牧師は、同罪であり、同類なのであり、そうである以上、本気で両者が戦うことなどあるはずもない。なぜなら、彼らは共に信徒を食い物にすることによって利益を得る階級に属している以上、訴える側も、訴えられる側も、同じ罪を犯しているのであって、本気で相手の悪を糾弾するなら、必ず、我が身に類が及ぶのである。だからこそ、両者が相通じ癒着するのは時間の問題でしかなかった。

そのことを見抜いた被害者たちは、ずっと何年も前に早々にこの活動を離れて行った。

村上密牧師については、彼が被害者サイドからの訴えの内容を、断りなしに加害者サイドに転送していたという事実が早くから指摘されている。それにより、彼の掲げている被害者救済活動なるものは、完全な出来レースであったことが被害者たちにも判明してしまった。

こうして、カルトを取り締まる側も、カルトの側も、共に同じキリスト教界が生んだ毒性の副産物であり、両者共にキリスト教界の搾取から信徒を永遠に逃がさないことを目的とする囲い込みのシステムであることが明らかになったのである。

キリスト教界には、一方で、信徒をあからさまに食い物にするカルト化教会があれば、他方には、食い物にされた信徒を優しくかばい立てし、助けてやるように見せかけて、さらに食い物にしていく被害者活動がある。これらの間をぐるぐると巡っている限り、信徒は永久に自由にはなれない。だからこそ、教界そのものからエクソダスが必要なのである。

ところが、キリスト教界をエクソダスせよと述べながら、キリスト教界と同じ牧師制度を維持し、リーダーを立ていたKFCの活動にも、根本的な自己矛盾があった。

だからこそ、その自己矛盾の必然的な結末として、KFCはAG信徒を受け入れ、彼らと結合することにより、公然とキリスト教界と一体化して行ったのである。それは、KFCの指導者もまた信徒を支配して自分の利益と栄光を築き上げることを第一目的としていた点でキリスト教界と性質が同じだったからであり、その支配と栄光はヒエラルキー(重層的搾取の階層制度)なくしては実現できないものであった。

搾取とは、何も金銭的な搾取ばかりではない。霊的搾取というものも存在する。本来はまっすぐに神へと捧げられるべき栄光を中間で人間の指導者がピンハネすることにより、神の栄光と恵みが掠め取られてしまうのである。ただ搾取する側だけが忌むべき存在なのではなく、神ではなく人間の指導者に栄光を帰する信徒の側も忌むべき行いに従事しているのだと言える。
 
だからこそ、オースチンスパークスの論説を通じて述べたように、終わりの時代、目に見える指導者に帰依することは、今まで以上に危険な行為となる。それは単に信徒にとってつまずきとなるばかりか、いずれ反キリストに帰依し、道を開くことに直結するであろう。
 
KFCの指導者に顕著に見られた自己陶酔、ナルシシズム、自己義認は、すでに人間を絶対化する現人神信仰に通じるものである。

この自己陶酔と、己の無謬性の主張は、カルト被害者救済活動の指導者にも共通している。彼らはあまりにも深い自己陶酔に陥ってしまったので、もはや己の過ちを謙虚に認めたり、軌道修正することができないまでになってしまった。カルト化の悪を取り締まる正義の味方という役割を演じ続けるうちに、自分たちは絶対に正しく、間違うことはなく、自分たちに盾突き、反対する人間こそみな悪人であり、間違っているという思い込みに陥ってしまった。

つまり、彼らは自己の無謬性を信じるまでに至ったのであり、それは己を神とすることに等しい。裁判に敗北してさえ、過ちを認められないほど強烈な思い込みに支配されている。今更、説得しようにも手遅れであろう。

しかし、すでに述べて来たように、人間の指導者を神以上に称え、祀り上げるという偶像崇拝は、ペンテコステの教えに極めて特徴的である。カトリックはそれ以上にさらに強力なヒエラルキーを敷いているが、ペンテコステ系の教えも、必ず人間のカリスマ指導者を擁立するという特徴があることはすでに述べた。

だから、キリスト教界のカルト化教会も、カルト被害者救済活動も、KFCも、みなこの同じ流れの中から生まれてきたものだと言える。このように人間の指導者を頂点として、その下に統一的な組織を編成し、リーダーを神以上に高く掲げることによって、この人物をシンボルとし、信徒らがそのシンボルに服し、彼と一体化することによって、集団的な一体感、集団的自己陶酔、集団的自己義認、集団的自己肯定に陥ることを可能としていくーー このようなものは断じてキリストの名で呼ばれるにふさわしい教会、エクレシアではない。

このようなリーダーたちの目的は、信徒に神ではなく自分を見させ、自分に陶酔させ、自分に従わせることであり、彼らは己の栄光を立てあげるために、神の名を利用して霊的中間搾取を成し遂げているに過ぎない。もし営利企業であれば、そのようなことをしたとて何の問題もないであろうが、それを主の御名を利用して行うところに彼らの深い罪がある。

繰り返すが、真実に神に向かう道は、常に孤独を伴う。それは信者がたった一人で神に向かう行程を避けて通れないからだ。このような生き方を不器用だとか人間嫌いだとか見栄えがしないと嘲笑するのは勝手だが、だからと言って、歴代の預言者も、信仰の先人たちも、みな同じ道を辿って来たのである。人前で歓待され、もてはやされ、栄光を受けるのは、決まって偽預言者であった。今更、その法則性が変わることはない。しかし、異端的な教えを掲げる組織は、決まって信徒が深く個人的に神に向かうことを妨げ、自他の切り分けを否定して、一人のカリスマ指導者のもとで集団的自己肯定、集団的陶酔状態を作り出す。

そこには必ず、男女差別や年功序列に基づく信徒間のヒエラルキーが存在する。指導者の絶対化から始まって、信徒間には階層制が敷かれ、暗黙の序列や、身分差別がある。だからこそ、若年者への虐待という問題も起きて来る。

また、人間の犠牲がほめたたえられる。指導者が讃えられる一方で、常に生贄にされる信徒がいる。若年者や子供が真っ先に食い物にされて行く。これは旧約聖書の背教の風景と同じである。

それにも関わらず、この終わりの時代、人間を賛美する思想は、生まれながらの人間にとっては極めて心地よく響くものであり、自分について厳しい宣告を聞きたくない人間、ヒエラルキーが与えてくれる地位に安住したい人間は、簡単にそれに惑わされて行くであろう。出帆した船を今更引き戻すのは手遅れである。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ3:3-4)

こうして、キリスト教界と、それを告発していたカルト被害者救済活動、さらにそれを告発していたアンチ・キリスト教界(KFC)は、根本的に同一だった。そうであるがゆえに、これらは次第に一体化して行ったのであり、KFCにおけるBr.Taka氏の事件も、一人の異常な信徒によって引き起こされた偶発的な出来事ではなかった。そして繰り返すように、これから先も、彼らは心を一つにして異端の教えを擁護し、聖徒らを憎み、迫害し、排斥しながら、最終的には反キリストへの信仰へと至りつくだろう。それこそが、腐敗したバビロンの本意である。

聖書はこのようなバビロンからは離れなさいと教えている。離れることのできた人は幸いである。

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。

あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。

彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。

それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち、死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。

彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。

彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』<略>

おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです。」(黙示18:4-20)
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