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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

クリスチャンに偽装しただけの信仰なきカルト被害者救済活動の支持者たち

バビロンやイゼベル(異端思想とそれを宣べ伝える信徒)の問題を書き始めると、にわかに反対者が騒ぎ立つ。 
ネットの世界だけでなく、社会においても断固たる対処がまもなく必要となろう。

カルト被害者救済活動の指導者である村上密氏が彼にとって気に入らない人々、特に鳴尾キリスト福音教会の牧師夫妻に対してこれまで向けて来た非難は、根拠なく著しく他人の名誉を棄損するものであり、罪に問われて当然の内容である。
 
村上サイドがこれまで重ねて裁判等で敗北して来たことは、彼らの主張が虚偽であることをよく示している。私に対して村上氏が向けた非難の言葉もそうであるが、彼らは自らにとって都合の悪い人間に関して世間の印象を意図的に操作し、歪めるために、風評を言い広めてきたのである。そして、このようなデマの拡散を大いに助けたのが「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久氏であった。

彼らの流布した内容は、もはやカルトの取り締まりなどという目的の枠内をはるかに超えて、恣意的に他人の名誉を貶めるものであり、事実を歪め、虚偽を伝えるものであった。

こうした内容について、当然、彼らはキリスト教界において責任追及され、社会においても厳しく責任を問われるべきである。自分たちが他人に裁判をしかけておきながら、自分だけは訴えられないと考えるのはあまりにも愚かかつ身勝手な考えであろう。
 
剣を取る者は剣で滅びるように、裁判をしかける者は裁判で滅びる。私の予想では、今まで正義の味方のような仮面をかぶり、やりたい放題に振る舞って来た彼らだが、いずれ罪に問われることになるだろうと思う。クリスチャンは穏やかであるがゆえに、なかなかそのような措置に及ばないと思われているのかも知れないが、誰しも家に泥棒が入れば、警察に通報するのは当然である。

自分に委ねられたものを守るために市民としての権利を行使することは、誰にでも許されているのである。
 
しかしながら、そうしたこととは別に、私はこれまでキリストが私と共におられることを心から確信して来た。不思議なことだが、これまで私は上記の活動の忌まわしさについては警告しても、自分に対する中傷にほとんど注意を払わなかった。それには反論もして来なかったのに、こちらが何もせずとも、反対者が私に投げつけた中傷の言葉は、そのままブーメランのように彼ら自身に跳ね返って行ったのである。

黙示録の最後にこのような言葉があるのを思い出す。
 
「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示22:10-11)

多分、主の防御の盾が働いているのであろう。だから、私に中傷を持ってぶつかって来た人々は、私の内におられるキリストにつまずく様子なのである。彼らが投げつけた言葉は、彼らに跳ね返り、彼らはますますおかしくなって行く。私に対して執拗に嫌がらせを繰り返し、反対して来た読者たちが、どれほど理性と人間性を失っているかは、「さわやか読者賞」に詳述しているのでそちらをご覧いただきたい。

こうしたネトウヨのような反対者らは「放射脳」ならぬ「新興宗教脳」などという言葉まで使って私を非難していたが、そういう彼ら自身が、まさに狂気に陥ったカルト信者のような方法でしか人とコミュニケーションが取れないまでに異常な「新興宗教脳」になっている有様がよく理解できる。

というより、もともとそうした言葉は彼ら自身の異常性を他人に転嫁しただけのものであった。

悪魔の常套手段は、己の犯した罪を、罪なき者に転嫁することである。それはカインによる弟アベル殺しの時から今に至るまでずっと同じであり、ペニンナからハンナへのいじめ、イシマエルからイサクヘのいじめ、ユダヤ人による御子キリストの殺害、皇帝ネロによるキリスト教徒への迫害と殺害、など、聖書の上でも歴史上の出来事においても枚挙に暇がない。
 
暗闇の勢力の最たる特徴は、本物のキリスト教徒に対する尽きせぬ憎悪と恨みにある。本物のクリスチャンが現れて何か発言するよりも前に、彼らはあらゆる方法で聖徒らを恫喝することで口を封じ、排斥してしまおうとする。なぜ? クリスチャンは神に対して悪魔が犯した罪を知っていて、これを糾弾することができる立場にあるからである。

嬰児、乳飲み子のようなクリスチャンたちの素朴な証が、暗闇の世界に対して恐ろしいほどの衝撃を与えるからである。
 
私はかねてより、カルト被害者救済活動には聖書的根拠がなく、これは聖書から逸脱しておりクリスチャンの行なうべき活動でないことを重ねて述べて来た。

その根拠に立ってみると、カルト被害者救済活動の支持者らはクリスチャンに偽装しただけの偽クリスチャンであって、その本質は偽預言者、反キリストの霊だったことになる。

もしそうでなければ、なぜ彼らはそれほどまでにクリスチャンを憎み、キリスト教界を告発することをライフワークにまでしようとするのか、説明できない。裁判にも負け、もはやそこに正義がないことがこれほど明らかになっても、まだやめられないのだから、そこには、人間の思惑や打算を超えたもっと深く霊的な動機があると見るのが当然である。そして、その執拗すぎる憎しみは、反キリストの霊から来るものでなければ説明ができないのである。

彼らのカルト化教会の親玉を告発する仕事も、自分たちがキリスト教界に入り込んだ偽クリスチャン、偽預言者、反キリスト、異端によって堕落したバビロンであるとの正体を見抜かれないために、先手を打って、クリスチャンを訴えて葬り去ろうとする動機から生まれたのではないかと思う。

悪魔の正体は「告発する者」である。そして、彼らのして来たことはまさにその通りの所業なのである。最初は聖職者の不祥事の糾弾から始まり、彼らの糾弾の対象はやがて一般のクリスチャンにまで及んだ。ついに彼らは自分にとって気に入らない信徒であれば、誰彼構わず、偽クリスチャン、偽預言者、バビロン、イゼベル扱いするまでに至った。まさに魔女狩りと言うしかない恣意的な異端審問、テロルが行われたのである。それを実行するために、他教会の中に信徒を斥候のように送り込み、暗闇で連携して人を欺くことも彼らは厭わなかった。

このようにカルト被害者救済活動が深い闇に落ち込むだろうことは再三、予測して述べて来た通りなのだが、今ここで言えることは、このような行為をクリスチャンに対して行う人間が、キリストの御霊に導かれていることは絶対にあり得ないということである。だとすれば、残るは反キリストの霊のみである。

私に対して、彼らは早くから「自己愛性妄想」という中傷を向けていたが、これもまた彼ら自身のサイコパスと言って良い残酷で自己中心な性格の特徴を表したものに過ぎない。つまり、それも彼ら自身の罪を他人に転嫁したものなのである。

自己愛性妄想とは、次のような人たちに向けるのが適当である。裁判に負けても自己を絶対化して、他人を誹謗中傷し続けるカルト被害者救済活動のAG教団牧師村上密、彼の走狗となっておびただしい数のクリスチャンの名誉を貶め、虚偽を流布するブログ「吉祥寺の森から」の著者杉本徳久、身元を偽ってKFCに潜入し、KFCを乗っ取った偽預言者AG信徒Br.Takaこと鵜川貴範とその妻直子、彼らの虚偽に乗ったルーク唐沢、名古屋でサンダー•シングの異端を宣べ伝えたAG信徒candy氏(ブログ「十字架の恵みが溢れて」の著者)・・・。
 
この名古屋のAG信徒も、カルト被害者救済活動を支援する側に回って私をひどく中傷した一人であり、一連の事件において相当に重い役割を担った。私は彼女がサンダー•シングの教えを言い広めた際、これが極めて危険であることを指摘したが、時すでに遅かったのである。彼女も、この異端思想を支持し広めたルーク氏も、己の過ちを認めるくらいならば、私に濡れ衣を着せて排斥することを良しとした。

こうして自分のプライドと美しい自己イメージを御言葉よりも優先した時点で、彼らがカルト被害者救済活動と心を一つにして結びつくことは避けられない結果であった。Taka夫妻がそれに加勢し、彼らは結託して私を陥れる策を練った。

ウォッチマン・ニーについても諸説述べられているが、私はルーク氏のようにローカルチャーチにいたことは一度もない。ローカルチャーチの教えが「神と人とが混ざり合う」というものであることはよく知られている。これは人が神になれるというグノーシス主義と基本的に同じであるが、ペンテコステの教えに共通する指導者崇拝も、同じ思想的基盤を持っていると言える。

ルーク氏は当初、「神と人とが混ざり合う」という考えを否定していたが、その言葉はさて置き、彼が御言葉に従うことをやめて二重性のある生活を送り、自らのプライドを義とし、たとえ聖書に忠実に従う信徒であっても、自分に盾突いて来る人間であれば、悪魔の手先として呪い、排斥するようになった時点で、自ら神になってしまったと言って差し支えない。

同じように、カルト被害者救済活動の支持者らも、自分たちを絶対化し、根拠なしに、自分に歯向かう人間を「悪」と決めつけることで、己を神として行ったのである。

こうして、彼らは自分を神以上に、聖書の御言葉以上に高く掲げ、徐々に反キリスト、バビロンとしての姿を現して行ったが、偽預言者としての自分たちの正体が暴かれないために、巧みに自分たちの社会的地位や、あるいは障害者や被害者などの社会的弱者のレッテルを利用しながら、彼らの正体を見抜いて告発しうる立場にある聖徒らを先手を打って、中傷し、排除して行った。

彼らが最も大切にしていたのは、神ご自身ではなく、御言葉でもなく、自己の正義であり、美しく飾られた宗教的自己像であったのだと言える。別の言葉で言えば、神への貞潔さ、真実性がないのに、「神への礼拝」を本当の信徒らの手から横取りして、これを利用して大いに自分たちの名を地上に馳せることこそ、バビロンの目的なのである。

彼らは聖書やキリスト教徒の名を存分に利用して、自分たちの「聖なる」自己像を演出した。カルト化を取り締まる「正義の味方」、社会的弱者への優しい同情者、神に忠実に従おうとしている心の清い信徒、情熱的なメッセンジャー・・・。しかし、それは演出された自己イメージに過ぎず、彼らの心の真実ではなかった。
 
そして、それが真実ではないということを見抜かれ、自分たちの真実な姿が暴かれることを何よりも恐れたからこそ、美しく見える自分たちの宗教的自己像が、ほんの見せかけであり、堕落した娼婦バビロンのイメージによって穢されることを何より嫌ったからこそ、彼らは自分たちを告発しうる聖徒を先手を打って陥れ、罪なき人間にバビロンの汚名を着せることにより、口封じをはかったのである。

しかし、彼らがどのような理由をつけて自己正当化をはかったとしても、聖書は、まことの神の僕が、人々から歓迎され、誉めそやされ、美しい自己イメージを築き上げて、地に自分たちの名前を高く掲げることはあり得ないことを教えている。むしろ本当の聖徒らは、誤解され、憎まれ、辱められ、除名され、悪しざまにけなされ、排斥される。人にほめそやされるのは偽預言者だけである。

「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。あなたがたの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。<略>

みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」(ルカ6:22-26)

"人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。
即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を

構築したいとする強い願望があるのです。更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能
が働いているのです。


その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。
<中略>
これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。
そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する

「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。



教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "
 
私の手元には、ルーク氏がBr.Taka夫妻と一緒になって私に裁きと呪いを宣告するために、私を呼び出した時のメールが残っている。彼らは「交わり」を口実に私を呼び出したのであるが、約束の時間に大幅に遅れてやって来た上、極めて高圧的で図々しい態度で私を一方的に恫喝し、呪いの宣告を下した。

しかし、私はその言葉を信じなかった。どちらかと言うと、彼らの本質を確かめたかったのであった。きちんと学問をおさめ、孫までいるルーク氏が、自分よりもはるかに年下のTaka氏の妻のヤクザのようなもの言いに、完全に言いなりになっている情けない様子が、可笑しかった。メッセージを語っていたのは男たちであっても、彼らを陰で操っていたのは女性信徒らだったのである。

私はこの事件を可能な限りの兄弟姉妹に詳しく伝えて、一体、これをどう思うか聞いてみた。もちろん、誰一人として彼らの言い分を真に受ける人間はおらず、KFCは前から異常だったので何が起きてもおかしくなく、早く脱出できたのは良かったと述べた。

KFCとは関係ない兄弟姉妹たちが私との交わりを続行し、聖書の御言葉の学びも続き、私はその事件の影響を引きずることなく今日に至っている。そして、キリストの復活の命の現れは、私の信仰と共にますますはっきりして来ている。滅びるどころか、ますます豊かに神の命の祝福にあずかっている。

だから、グレゴリウス氏のように、自分がルーク氏の「被害者」であると主張する必要も全くない。たとえ彼が断りなしに裁判に私のメールを提出したとしても関係ないことである。だが、ルーク氏がAG信徒らと一緒になって暗闇で行った忌まわしい行動は、明らかにされねばならない。それはAG信徒であったTaka夫妻や、名古屋のAG信徒にしても同じである。

「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
からだを殺しても、たましいを殺せない人を恐れてはなりません。」(マタイ10:26-28)
 
さて、自分たちの偽りや、異端的言説を隠し通すために、彼らが結託して私に投げつけた中傷、呪いと滅びの宣告は、不思議なことに、みなことごとく彼ら自身に自動的に跳ね返った。

カルト被害者救済活動の支持者もそうであるが、彼らも家を失ったり、職を失ったり、裁判に負けたり、会堂を失ったり、支持者に裏切られたり、離反されたり、病の床に投げ入れられ、体を切除したり、手術を繰り返したりと、着々と滅びへ向かっているのである。そういう事実はいつも不思議な形で私に伝わって来た。

だからこそ、そんなになる前に、異端と手を切ることがどんなに肝要であるかを私は説得したのであった。異端の教えは、最終的に命を損なう危険があるからである。

だが、彼らは耳を貸さなかった。その後に彼らに起こった深いダメージを見ると、もう以前に直接、顔と顔を合わせて交わっていた時のようなことは二度と繰り返されないだろうと思う。

このようにして、私に人々が投げつけた中傷や呪いは、その度ごとに、彼ら自身に跳ね返って行った。そんなことからも、たとえ何もできないでいる時でさえ、神ご自身が聖徒らを直接、弁護して下さり、キリストの血潮が私たちを弁護し、私の潔白の証になるということを幾度も思い知らされて来た。

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:10-12)

ここには「小羊の血」と「あかしのことば」のゆえに、彼(サタン)に打ち勝ったと書いてある。だから、私たちの証の言葉もまた肝心である。さらに「死に至るまで自分のいのちを惜しまない」ことも重要だ。それはキリストのゆえに自己を否んで十字架を負うということである。
 
神が人をご覧になるときの有様は、人が人を見るのとは全く異なる。人はうわべを見て判断し、自分や人を傷つけないために、不都合な現実には見ないふりをし、目をつぶることも多い。自分の目に好ましいものを、本当に麗しいものだとすぐに勘違いする。だが、神は目に見える有様に一切とらわれることなく、まっすぐに人の心の真実をご覧になる。

神が人に要求しておられるのは、見せかけの美しさではなく、心の真実性である。何よりも、神を求める人のまっすぐな心、神に向かう人の心の真実である。

村上密氏のブログ内容の虚偽性については、「鳴尾キリスト教会から皆様へ」のブログにも詳しいのでここで詳細に触れないが、いつも心に去来するのは、村上氏には「支持者の数」より他に誇ることがないのだろうかという疑問だ。

聖書は「『権力によらず、能力によらず、わたし(神)の霊によって』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)と告げている。この御言葉は、たとえペンテコステ系の教会でも、暗証聖句に加えられるほど有名である。

このように、聖書は決して人が己の権力や、支持者の数や、非凡な能力によって信仰の道を進む可能性を完全に否定している。人を救い、すべてを成し遂げることができるのは、神の霊であり、キリストの御霊である。パウロでさえ、キリスト以外に(十字架以外に)誇るものは何もないと言いきっている。

だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」(ガラテヤ6:2-3)

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。和大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:14-15)

にも関わらず、村上密氏には「権力」以外に誇るものがない。彼はいつも支持者の数で他人と競争し、勝負を挑もうとする。

それは彼がキリストの御霊に導かれていないことをよく表しているように見える。村上氏にとっては、パウロが述べたキリストの御霊によって新しく生まれる「新創造」は全く大事なものでなく、むしろ、割礼を受けているかどうか(カルト化のそしりを受けないこと、善悪の基準に従って非の打ちどころがなく生きているという自己イメージを維持すること)の方がはるかに重要な問題に見えているのであろう。

村上氏はかつて私を記事で中傷した際にも、私が世間から隔絶したところでインターネットだけを頼りに孤独に暮らしているかのようなイメージを勝手に作り上げていた。

実際、当時、私の周りには親戚や地元の人々が数多くいたので、私の抱えていた孤独は外面的なものでなく神を求める過程で欠かせない内的な孤独であったのだが、もし仮に私が彼の書いたように世間から隔絶したところでインターネットを頼りに暮らしていたとしても、一人であることはそんなにも惨めなことで、悪いことなのだろうか?

村上氏の記事から分かるのは、彼が内心では一人ぼっちで孤立することを非常に恐れているということだ。自分が孤立することを恐れていればこそ、彼は自分には支持者がたくさんいて、孤立しているのは自分ではなく、誰か他人なのだ、とひっきりなしに自分に言い聞かせねば落ち着かないのである。そのために、自分の内心の空虚さ、惨めさを転嫁して身代わりに非難できるターゲットを常に探し求めているのであろう。

それは杉本徳久氏も同じである。Candy氏からも何度もそういう便りをもらった。Taka氏もそうであった。彼らは常に「わ・た・し・た・ち」の連帯(=ザミャーチン『われら』の世界を想起させる)を生きようとする。それほどまでに彼らにとっては人の群れの中にとどまり、支持者を獲得し、権力を維持し、人から栄光を受けることが、第一義的に重要なのである。彼ら自身が主役として脚光を浴びることが重要なのである。たとえ神以上に自分が脚光を浴びることになっても、自分たちが舞台の中央にいて常にスポットライトが当たっていることが彼らには一番重要なのである。ルーク氏も結局、自分が孤立しないがために、私を排斥する道を選んだのであろう。

つまり、そのことから分かるのは、彼らは神の御前で一人きりになることが恐ろしくて仕方がないということである。もしかすると、彼らは一度も、隠れたところで、本気で神だけに向かったことがないのかも知れない。そのような環境で、神の応答を確かに得たこともないのであろう。この人たちにとっては静かに神の御声に耳を傾けること以上に大事な活動がありすぎるのだ。というより、神の名を利用して語りながらも、本当は、神ご自身から逃避することこそ、彼らの目的なのだろうと思う。

だからこそ、彼らは支持者の数を誇り、あるいは家庭を誇り、あるいは理解者の数を誇り、立派な自己像と、楽しく精力的な活動を誇り、自己の正義を誇り、誉めたり慰めたりしてくれる支持者の多さや、退屈する暇がない行事が目白押しであることを誇る・・・。そして、私のように誰かが一人で神に向かおうとすると、それを頑固、偏屈、偏狭さの現れとして罵り、理解できない行動としてあざ笑う。まるでそういう人間が出現すること自体が、彼らにとって大変な脅威であり、許せないことのように、あらゆる方法で信者が神へ一人で向かう行程を揶揄し、しきりに妨害しようとするのである。

だが、そんな生き様がクリスチャンの信仰生活のはずがない。むしろ、「私は孤独ではない」という発言こそ、堕落したバビロンの主張であることは、幾度も述べて来た通りである。

「彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」(黙示18:7)
 
バビロンのこのつぶやきがことさらに罪深いのは、これがエクレシアに対する当てつけとして発せられているからである。すなわち、花婿なるキリストが姿を現すまで、貞潔を守り抜こうと、他の一切のものに目もくれず、孤独を耐え抜く純潔の花嫁なる教会、エクレシアに対する蔑みと嘲笑から発せられた言葉だからである。

バビロンは、エクレシアのように悲しみを耐え、孤独や苦悩や迫害を耐え抜いてまで、キリスト一人だけを待ち続けたくなかった。そこで、キリストに対して貞節であることを捨てて、異端の教えに身を任せ、手っ取り早く自分が満たされることを選んだのである。それはバビロンにとっては孤独こそ何よりも耐えがたいものだったからである。

そうして色々な異端のアイテムを取り込むことにより、バビロンは栄え、豊かになり、幸福に見えるようになった。「キリスト以外に誇るものはない」という精神はもはや消え失せり、むしろ、彼女にはキリスト以外に、誇るものが数えきれないほどある。

だが、そのように、キリストが来られるよりも前に、キリストではないものによってすでに富んでしまっている人たちへの宣告は次の通りである。
  
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(黙示3:17)

さて、バビロンとしての生き様の先には何が待っているのだろうか。彼女はキリスト抜きに幸福になれるのだろうか?

カルト被害者救済活動の支持者の行動を見ていると、どこからどう見ても、彼らが幸福であるようには見えない。他人を欺き、中傷し、人の名誉を貶め、人の生活を妨害し、苦しめ、傷つけ・・・それは不幸な人間しか決して取ることのない行動である。

また、彼らは自分には正義があると主張する。だが、実際の行動を見ると、彼らほど正義の欠けている偏った人間はいない。

掲げている題目と実際の行動が天と地ほどかけ離れているのに、その自己矛盾を自分では全く自覚できない。演じている外側の自己イメージと、現実の自分自身がもはや手遅れなほど乖離しているのに、自分ではその恐ろしさが全く分からない。

内心はとても惨めで、つらく、孤独で、恐れに満ちており、深い欠乏を感じているのに、幸福で満ち足りている風を装い、現実を決して自分で認められない。

そして常に自分よりも不幸そうに見える誰かを見つけ出しては、他人を貶め、嘲笑することでしか、慰めを得られない。まるで「惨めなのは俺じゃなくてアイツだ! 孤独なのは俺じゃなくてアイツだ! 俺は十分に満たされている。すべての問題は解決された。俺には何も不足はないし、不自由はない! 俺様は幸福だ!!」と、と言い張らなければ、片時も生きていけないかのようだ。実はその姿こそ、エクレシアを嘲笑し、蔑むバビロンの姿であり、神の御前での人間の自己義認、強弁であり、人が神の御前で自分を偽るという罪なのである。

それはアダムとエバが神の御前で裸の恥を悟られないために身を隠したのと同じ心理であり、まことの神から逃避する生き方である。

そうしてずっと身を隠し続けるために、彼らは聖徒に偽装してうわべだけの信仰生活を送るのかも知れない。だが、彼らが誇るものは、彼が自ら告白している通り、神ではない。

そうである以上、この人々の偽善、偽りは必ず明らかにならざるを得ないだろう。そして、彼らが御霊に導かれているのではないことももっとはっきりと明らかとなろう。異端は人を滅ぼす。キリストの十字架に敵対する者こそ、その末路は滅びだということは、私が言わずとも、御言葉に書いてある通りである。

キリストに従う道は狭い。そして、そこを通って行く人々が少ないことも聖書にはっきりと書いてある。大勢の理解者や支持者を誇りながら、自己の権力により頼む生き方がそれに該当しないことは誰の目にも明白である。
 
「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
 彼らの思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

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