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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリストの復活の命にあって天の法則を生きる―彼の命からすべての解決を引き出す

さて、ブログのデザインを更新しました。予告しているペンテコステの教えの問題点、鳴尾問題等々、書かねばならないことが山積なのですが、今はひとこと欄の圧縮のために内容を整理しておきまず。

まず、弱さについて・・・
クリスチャンがいつまでも弱さの中にとどまることが美徳だという誤った考えはもう捨てようではありませんか。

キリストがおられれば、弱さは弱さでなくなる。同じように、キリストがおられれば、孤独は孤独でない。もし人が急に何カ月も独房に入れられれば、通常であれば、気が狂ってもおかしくない。けれども、キリストが内におられることをはっきり知ると、人は、環境がどうあれ、いつも自分はもう一人ではないということが分かるようになるのです。だからこそ、それまでのように孤独を恐れる必要がなくなるのです。

たとえ人がどんなに不完全で無力であっても(我々は地上で生きている限り、自分の未熟さ、無力さ、不完全さを感じないで済むことはないでしょう、けれども)、キリストを得ていることは私たちがすべてを得ていることを意味するわけです。

だから、私たち自身の力には限界があっても、いつもキリストの強さが私たちの弱さを覆うわけです。ですから、クリスチャンはもうそれ以上、自分の姿を見つめてくよくよする必要はないのです。依然としてあなたにはあれやこれやの能力が、スキルが欠けているように見えるかも知れません。一朝一夕でそれを補うのは無理だと、ため息をつきたくなるかも知れません。

けれども、キリストにある人は主にあって完全であり、何も欠けたところがないのです。これはあなたのための言葉です。あなたがどんな環境にいようと、どんな生い立ちであろうと、どんな性格であろうと、若者であろうと、年寄りであろうと、経験がどうあろうと、あなたが主にあることが、あなたの完全なのです。

このことを学ぶと、信者は強くなります。愛が人を強くするように、私たちの神への愛、神への信頼が、私たちの内なる人を強くするのです。神が必ずすべてに責任を負って下さり、私たちのすべての必要をかなえて下さり、最後まで見捨てず、面倒を見て下さるという確信が、喜びのうちに、信者を内側から強くするのです。

ですから、孤独だからカルトに狙われたり、人の犠牲になるという考えは間違っています。これまで見て来た結果、カルトに入信する人の弱点は孤独な環境ではない、と私は思います。

むしろ、カルトに入信する人たちの共通の弱点は、孤独に対処できない心の弱さから来るのです。つまり、人から離れられないという心の弱点にあります。

本当に内なる強さを持っている人は、どんな境遇にあっても、自分自身を見失わない秘訣を知っています。しかし、もし内なる人が弱ければ、逆境を一人で切り抜けて行くことができないために、逆境が来る度に、誰かに頼ろうという依存心が生まれ、それで繰り返し、繰り返し、人を頼っては欺かれることになるのです。

(これは霊的搾取の法則と私が呼ぶものです。人に頼れば頼るほど、キリストの命は制限を受け、その現れは弱くなります。)

ですから、私が言えるのは、すべてをキリストの命だけによって切り抜ける方法を学ぶことこそ、何にもまして重要だということです。それができなければ、一生、人に欺かれ続ける危険がつきものだということです。

キリストは世の終わりまであなた方と共にいると言われ、いなくならない唯一のコーチです。ただ頼るべきコーチであるだけではなく、この方がうちに住んでおられることの意味を、私たちは生きているうちに開発して行かねばならないのです。この方との共同統治です。つまり、エペソ書にある通り、キリストのうちには無限の富が、無限の知識が、私たちの必要と、想像を超えるほどの豊かさが満ち満ちているのです。それは神が私たちに愛を持って与えて下さったものなので、信仰生活において、この命の中にある豊かさを知ることは極めて重要です。

ジョージ•ミュラーは信仰によって孤児を養う過程で、幾度も、明日をも知れない体験をくぐり抜けました。信仰にはこのように恐れや不安や孤独が全くなくなるということはありません。どんなに神が共におられると信じているつもりでも、人の心は常に目の前にある状況に翻弄され、恐れを感じます。自分の無力さ、恐怖、心細さの中で、それでも主を見上げ、あなたを信じますと告白し、神のみを頼りに一歩を踏み出す時、そういう信仰を神は本当に喜び、重んじてくれるのです。

ですから、信仰の歩みとは、常に信仰者自身の圧倒的な弱さとキリストの圧倒的な強さのコントラストです。

信仰生活に不安や孤独や恐れがなくなることは決してありません。信仰者の弱さは決してなくなることはありませんし、環境が理想的に整えられることもきっとないでしょう―ーしかし、それでも、キリストはあなたの弱さや恐れや困難を全てキリストご自身の強さによって覆うことがおできになり、その時、あなたの弱さはちょうど空の器のようなもので、その器の中を新鮮な水がいっぱいに満たすならば、弱さももはや恥ずべきものではなくなるのです。

ですから、天然の無力さと、キリストのはかりしれない強さとのコントラストが、生きている限りずっと続くのです。自分自身の無力さと、周りの荒れ狂う環境の混乱を、すべてキリストの命によって切り抜けて行く方法を学ぶこと、それこそが、キリストとあなたとの生涯に渉る共同統治であり、花婿と花嫁の愛に満ちた語らいであり、キリストにあってあなたが信仰により獲得している卓越した高貴な地位の証です。

すべての問題はキリストにあって解決しています。彼の命から解決を汲みだすだけで良いのです。それはあなたの能力や環境の優位性から来るものでなく、純粋に、ただ御座におられ、あなたのためにすべてをすでに十字架で成し遂げて下さり、御座について、あなたの内におられるキリストの超越的地位から来るものなのです。御座はキリストにあって、あなた自身の内にあります。

ですから、外側で起きることを常に主にあって対処する秘訣を学んで行くと、信仰者の内なる人は強められ、最終的に全ての環境状況を足の下にする強さが養われるのです。
 
ですから、キリスト以外に誇るものはないとは、信仰者が、彼の命以外のものにはーーたとえそれが豊かで孤独とは無縁の環境の優越性であれ、あるいは生い立ちの優越性であれ、友人や支持者の数であれ、自分の優れた能力や生命力であれ、何であれーーキリスト以外には一切、自分を生かす力の源を私は認めないし、それのものにより頼まないという態度の表明なのです。

オースチンスパークスが書いているように、このキリストの絶大な命は、人をあらゆる逆境に対抗して生かし、老齢病気その他のあらゆる厄災からも助け出して生かす力があります。この命に生きている限り、逆境になったから弱くなることもなく、高齢になったから死ぬということもありません。主を待ち望む者は新たに力を得ると聖書にある通り、この命はこの世の全ての法則性を超越して、神の御心を成し遂げるまであなたを生かす力を持つものなのです。(むろん、復活の命に生きていない者はこの世の法則に従って生きているのであり、老齢、病気、死などの自然の法則に逆らう術がありません。)

 ですから、マモンの神(この世の神ーサタン)の支配からエクソダスして、御子の統治下を生きるよう勧めます。この世にある人は、たとえどんなに優位な環境を誇っていても、しょせんこの世で翻弄される立場を抜け出ることはできず、到達点も知れています。どんなに生い立ちや能力や環境の優位性を誇っても、全ては五十歩百歩、死しか待っているものはないのです。ただ少しばかりの延命策の違いがあるに過ぎません。

しかし、キリストの命はこの死の法則そのものを打ち破る力を持ち、これに逆らって信者に命を供給するものです。この世の法則とは全く異なる法則性、復活の命の法則、これを開発し、これを知り、これに頼って生きることだけが、この世のあらゆる悪意に満ちた混乱、理不尽な制限と支配から、信者を自由にしてくれます。

もちろん、私たちは地上にある限り、苦しめられます。制限も受けます。しかし、不思議なことに、あらゆる束縛にも関わらず、それを常に内側から打ち破って生きて働くキリストの復活の命の法則を感じるのです。この命の御霊の法則が、あなたをあらゆる束縛から解き放ち、自由にしてくれるのです。

特にこの時代、信者はただ生きるにあたっても、キリストの命の豊かさを知ってそれにあずかり、天の口座から全ての資源を引き出す方法を知らなければ、先へ進んで行けなくなるかも知れません。次回以降、御座におられるキリストの権威によってすべてを足の下に統治するということを考えていきたいと思います。
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