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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリストにある新しい人の完全な主権の回復

キリスト者の歩みとは、主権の回復の問題だということを覚えておく必要があります。これはこの世の法則とは全く異なります。

この世の成功の法則は、主権を尊重することではなく、それを強奪することによって成り立っています。この世の歴史とは、絶えざる主権侵害の歴史であり、それを上手く成し遂げた者が成功者になるというものです。そのために、人々は先を争って他人に影響力を与えようとします。この世では強い影響力を行使する人間が全てを手にします。だからこそ、人々は先手を打って自己主張しようとするのです。

しかし、神の御霊の領域にある統治は、人が肉による自己主張によって他者に影響力を及ぼそうとするものではなく、むしろキリストと共なる十字架を通して、人が肉の力に対しては死んで、霊の領域から主と共に御言葉に基づき見えない影響力を行使することから始まります。多くの場合、それは静かで誰にも知られないものであり、その信者の内側で、主と共同して静かに始まるのです。

ですから、霊における主と共なる統治には、信者の外側の性格の強さ弱さや、体の強さ弱さななどの外面的な特徴は全く問題になりません。そうしたこの世の有利な特徴を利用して他人に影響力を及ぼそうとすることは、全てこの世の方法であり、御霊の働きではありませんし、霊的な領域には通用しません。ですから、そんな風にこの世の方法で勝負を挑んで来る人たちは避けましょう。悪魔が用意した土俵で戦ってもキリスト者は勝てないからです。

むしろ、肉の力により頼まず、霊的な領域において決して主権を放棄しないで行使することこそ、勝利の秘訣なのです。外側から来る圧迫に振り回されず、外側のものを頼みとするのでなく、御言葉に基づき、内側で確固たる主権を維持することです。

主権とは、誰とつきあい、誰に扉を開くのか、決定権はあくまで自分にあることを意味します。御霊は人の意思を侵害せず、決定権を人に与えます。ですから、たとえ聖書の言葉を引用して語っていたとしても、人を力づくで脅かし、恐怖によって有無を言わさず従わせるのは、悪霊の働きです。 メッセンジャーを名乗っていても、そのような人たちは数多く存在するのでこれも避けましょう。

問題は、あたかもバビロンに反対しているようでありながら、バビロンにしっかり深く根ざして生きている信徒が多いことです。バビロンとは、単に堕落した異端の教えであるだけでなく、そのように堕落した霊的体系に支配されるこの世そのものでもあります。信者の多くが肉をより頼んで生きています。御言葉は彼らにとって口先だけのものであり、彼らは常に外側の働きに没入しており、主と共に霊の領域で統治することを知りません。このような人たちに関わると後に深刻なトラブルに見舞われます。彼らは必ずこの世から召し出された者を以前の世界に引き戻そうとあの手この手で絡んで来るからです。

キリスト者同士の交わりは、バビロンに死んで、復活の領域で主権を取り戻した人々によって始まります。肉の影響力に圧倒されてバビロンに逆戻ることではなく、キリストにあって、全てのバビロン的なものに対する圧倒的優位性を維持し続けることこそ、キリスト者の使命なのです。

エクレシアとは、このようにバビロンに対して圧倒的な優位性、超越性を持って支配するキリストの御体のことです。これは団体的な統治ですが、同時に個人の内的な霊的統治でもあります。まずは一人一人がキリストにあって新しい人として自律的に治める(統治する)ところからエクレシアは始まります。

これは個人の主権の回復という問題と密接に関係しています。アダムが堕落して、罪の奴隷となったことにより、人の主権は損なわれました。キリストは十字架で信じる者を罪の奴隷状態から解放し、主権を回復されたのです。ですから、キリストにある新しい人は、この主権の回復という問題から始める必要があります。罪意識がある限り、人は決して自由にはなれませんし、内なる尊厳も回復することはできません。ですから、キリスト者は、まずは血潮による贖いを通して罪意識と訣別し、罪の奴隷状態から解放されて、自分の内で完全な主権が取り戻されねばなりません。

次に、キリスト者は人に翻弄されずに自分を保てるようになる必要があります。エクレシアを求める人の陥りやすい罠は、兄弟姉妹との交わりに鍵があると思い込み、人に重きを置くようになることです。しかし、あの兄弟この姉妹や人の集団に重点があるのでなく、あくまでキリスト者自身の内なる信仰に全ての鍵があります。信者は、エクレシアとはまず神の宮である自分自身であるという認識にしっかりと立たなくてはなりません。それが他者へ拡大して行くのは次の段階です。

この時点で、どのような信徒への精神的依存もここで断ち切られねばなりません。神以外に、何か「霊の父」や「霊の母」のようなものがあってはなりません。公平のために言っておけば、「母なるもの」だけでなく「父なるもの」も共に信者を人に依存させる危険があります。(三位一体を親子像としてとらえる異端思想を参照して下さい)。このような心の偶像を持たず、人間の指導者に依存せず、内なるキリストにのみ頼り、全てを切り抜けることが肝心です。

しかも、兄弟姉妹の交わりに見えるものを通して、十字架において対処されていない人から悪影響が来ます。それに対しては、神と二人三脚で立ち向かい、御言葉により、勝利を得ることによって、揺るぎない主権を確立するために戦う必要があります。しかし、この戦いもまた外側のものでなく、信者の内側のものです。

信者は自分の心の平安を脅かす全てのものに遭遇した時、常に内なるキリストに戻って行く必要があります。信者は自分にどんな影響を及ぼそうとする人々に対しても、自己決定権を奪われてはならず、ただ内なるキリストだけに聞き従って進んで行かなければならないことを知ります。

さらに、人だけでなく環境との戦いがあります。困窮やその他の災難の降りかかる時にも、どのような状況にあっても、環境に翻弄されずに、キリストの持っておられる高貴で独立した地位について、自らの主権を保ち、行使するための戦いがあります。これも内なる霊的な統治です。キリストと共に環境を自ら統治することを学ぶ必要があるのです。この過程で、主イエスが嵐を鎮められたように、キリスト者は全宇宙に対して見えない強力な影響力を常に行使する権限を持っていることが分かります。

キリストと共なる天的な統治は創造性のあるもので、信者の全ての必要に応えることができ、信仰によって必要の全てを無から呼び起こすことができます。仕事や、生活の必要も、交わるべき相手さえも、キリストの命により与えられます。

この主と共なる統治、創造的な生活を絶えず送るために必要なことは、信者自身がどんな状況の中でも自分のコントロール権を失わず、環境や人に自分の支配権を明け渡さず、平安に根ざし、霊の領域から全てを始めることです。霊の領域から始めることは、激しい行動を伴うものでなく、むしろ静かな宣言や、翻弄されるだけの立場から主権を行使する立場への転換、揺るがされない心の姿勢を意味します。それは神のみを頼りとし、御言葉の約束に反するどんな現実(のように見える状況)をも拒否し、これに徹底的に立ち向かって、神の真実を守り抜いて獲得するまでは決して諦めないという姿勢を取ることです。この姿勢を取るだけで、まだ何も起きていなくとも、暗闇の軍勢には大変な脅威と映るでしょう。

このように、霊的戦いは常に信者の心の中から始まり、常に信者の心や身体のコントロール権を巡る争奪戦となります。病や、貧困や、全ての圧迫は、人の霊的主権を巡る争いであることを覚えておく必要があります。これらすべてに立ち向かって、信者はまず自分自身を治めねばなりません。霊的統治は、まず信者自身の霊の内側から始まり、自分自身(霊によって魂、体を治めること)、次に周囲の環境へと及びます、

繰り返しますが、信者が自分のコントロール権を失わないためには、血潮により罪意識と訣別し、環境に支配されず、絶えず見えないキリストに戻り、キリストの命から全ての必要な力を得て、毅然とした姿勢で、自分を脅かす全てのものに立ち向かって、主と共に勝利し平和に治める必要があります。

神に一人で向かうという行程抜きにして、この激しい霊的争奪戦に勝ち抜き、全ての環境状況に立ち向かってこれを治めるための内なる平安と力を確かに得ることは決してできません。この世から隔絶したところで生活することはできませんが、内なる霊の統治は、キリストにある平安に深く根ざすことによらなければ始まりませんし、他の誰よりもまずキリストとの交わりを優先し維持する注意深さが必要になります。

信者が主の御前で十分に時間を取らず、全ての問題を主に持って行くことをせず、見えないキリストに心を向けるよりも、ひたすら外側の活動に熱中していると、その結果、必ず、その信者の霊的なコントロール権は失われることになります。問題は、圧迫的な出来事だけが人のコントロール権を奪うのではなく、楽しい出来事に過度に熱中することによっても、人は自分自身の支配権を失うということです。ですから、交わりを口実とした外側の活動にもその危険は大いにあるのです。自分に好ましく感じられる影響も支配権を失うきっかけになることについて、信者は無知でいてはなりません。そのようにして、外側の活動に没入するに連れて、その人はキリストとの密接な協力関係を失います。やがてその人はただ環境状況に翻弄されるだけの立場となりますが、楽しい出来事に熱中しているため、まだそれに気づいていまさせん。最後に、何かの異常な事件が降りかかり、初めてそこで自分のコントロール権がもはやないことに気づくことになります(髪を切られたサムソンのような無力な状態)。多くの場合、何らかの悲惨な事件は、あまりに長い間、信者が一人で神に向かわず、神以外のものに熱中していたために、その人の支配権が気づかないうちに失われた最後の結果として起きているのです。

しかし、目を覚まして主と歩んでいる限りにおいては、そんな事態に至る前に危険に気づき、対処できます。ですから、信者は自分の関心が外側の活動に強く惹きつけられる時、たとえそれがキリスト者の交わりや御言葉の学びなどを口実としたものであっても、警戒する必要があります。どんな理由があっても、外側の活動に重点を奪われるべきではありません。信者の強さは、ただ霊におけるキリストとの静かな共同統治にあります。肉的な信者が最も激しく反発して来るのはまさにこの点です。彼らは多分、あの手この手であなたの関心を外側の活動へと逸らそうとするでしょう。なぜなら、彼らの生活は外側の活動に完全に依存しており、見えないキリストに根ざしていないからです。
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