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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。

毎年、2、3月は、筆者が静かに冬眠させてもらいたいと切に願う季節だ。一体、なぜ大人の社会には、春休みというものがないのか。

筆者のような人間は、この時期、ひたすら家に閉じこもり、世間に顔を出さずに、布団でもかぶっているのが無難である。これは筆者が若い時分から、一年で最も気力が衰える時期であり、そのエネルギー枯渇の習慣は、全く変わらない。

2月には、絶望的な気分がどっと押し寄せ、すべてが嫌になり、活動意欲がゼロに近くなる。3月には、ただ生き永らえるだけで精一杯となる。春にたどり着く直前に、新年度の戸口に手をかけたまま、ばったり倒れてそこでお終いになってしまわないために、かろうじて生きているとしか言えない状態になる。

それにも関わらず、社会は立ち止まってはくれない。そこで、筆者は起きて来る出来事に対処する能力がなくなり、うつ状態にも近い絶望的な気分で、やっとのことで春にたどり着く。

今年も例年にならって、この時期に、未だかつてない悪い出来事が連続して起きた。筆者はそれに対処する気力もなく、絶望的な気分で、信頼していた人々の助けさえも拒んで、自らより一層の絶望的な窮地に立った。

それと同時に、なぜか世界にも、コロナウィルスという未曾有の災難が押し寄せた。しかし、もともと何もなくとも、たとえようなく陰鬱な気分になる季節だけに、世界的な災禍も、筆者にとっては大した出来事には感じられなかった。

とにかく、生きて行かねばならない。何が起きようと、歩みを止めるわけにはいかない。あらゆる災禍に立ち向かうしかない。自分の痛みと疲労に無感覚になってでも、日々、新たな一歩を踏み出すしかない。
 
ところが、3月になると、信仰による新たな友・協力者も現れて、筆者の回復のために祈ってくれた。そこで、桜の咲く頃には、絶望的な気分も振り払い、3月最後の雪の降る寒い日曜日には、筆者はすべての災難に自ら立ち向かって、これを打ち破って生きる気力をほとんど完全に回復した。

今もみぞれまじりの冷たい雨が外では降っているが、筆者は全く天候に左右されず、果たさねばならない仕事を果たした。
  
祈りの力は大きかった。ただ単に暖かくなって、活動意欲が回復したというだけにはとどまらない。長年に渡り、失われた人生を取り戻すための、内なる大いなる力が回復してきたのである。

地中深く蒔かれた種も、春が来れば、その気配を察知して、固い殻を破って発芽する。そのように、神がお与え下さった筆者の命に込められた回復の力が、自然と効力を発揮し、ただ生きるために生きるといった次元ではなく、心身の深いところで、どのように生きたいのかという願いが、何かを成し遂げるための力が湧いて来たのである。

筆者が頼るのは、人でも、状況でもない。主なる神ご自身である。筆者がどんなに愛する人間も、肉なる弱い人間に過ぎず、筆者を助けたり、支えたりする力はない。もしも人に助けを求めれば、共倒れに終わるだけである。

だから、筆者は人ではなく、神に助けを求める。

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

いつ御前に出て
 神の御顔を仰ぐことができるのか。

昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。

わたしは魂を注ぎだし、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。

わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの血から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを超えて行く。

昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。
(詩編42:1-9)

かつて筆者が嵐のような苦難の中で、主に見え、十字架のキリストを知った日のことを思い出す。多くの友が、神が力強い御腕を持って、筆者を窮地から救い出して下さったことに、快哉を叫んだその時のことを。

苦難や試練や孤独は、何と人の心を神に向けさせるのに好都合であろうか。もしも孤独がなかったなら、苦難がなかったなら、どうして筆者が真剣に神を呼び求めることなど起きようか。

だから、何が起きようと、落胆する必要などなく、すべてのことに感謝し、すべてのきっかけを主なる神に心を向けるために使うべきなのである。

神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。

わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。

神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください。
この口はあなたの賛美を歌います。

もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
(詩編51:12-19)

静かな平安が心に満ち、暗闇の中で目を凝らせば、すべての問題に対する解決が、もうすぐそこにあり、手の届くところに、おぼろげに見えているのが分かる。それは人の耳にはとらえがたい霊の歌のようである。人の思いをはるかに超えて、主の静けさ、平安の中に住み、主からすべての物事の解決を受けなさい。

心静まっていると、カルバリの十字架において取られた勝利が、筆者の人生に適用されるのが分かる。主が血潮を適用して下さる。あなたの人生のすべての問題に対し、主ご自身が解決となって下さる。主は災いの日に、ご自分の僕たちが、損失を被ることがないよう、一人一人、印をつけるように見つけ出し、助け出して下さる。だから、恐れることは何もない。

キリストは、へりくだった方であり、私たちを苦難から助け出すことを、まるでこの上ない光栄のように考えて下さる。私たちの心の渇きを、慰めによって満たして下さり、すべての問題に対し、解決となって下さり、心を煩わせないようにと言われる。

だから、私たちは静かに主の助けを待つべきである。主の霊は、私たちのために給仕する姿を取り、僕のようにへりくだって仕えて下さる。その謙遜を知るとき、私たちの心は一層、砕かれて柔らかになり、慰めを得る。

そして、心の深いところから、霊のうめきのように、賛美と感謝の歌が流れだす。

私の魂よ、神を待ち望みなさい。大いなる方を。地上の何ものでもなく、ただお一人の神を、その清い、尊い霊を真直ぐに待ち望みなさい。主は必ず、あなたの呼び声に応えて、あなたのもとに来て下さり、あなたを満たして下さる。主は遅れることはないし、あなたを見捨てられない。

だから、私の魂は、主に向かって、感謝と勝利の歌を歌う。そして、私の愛する方は、地上の何者でもなく、天に住まわれるただお一人の神であると告白する。たとえ全地のすべてのものが、これを否定し、嘲ったとしても、私は疑わない、主が私のために勝利を取られたこと、そして、私を生きている限り、守り、支えて下さることを…。

そういうわけで、この先も様々な苦難に対し、勇気を持って、立ち向かって生きて行かねばならないが、主が筆者の勇気となり、力となって下さると信じられるため、筆者には、恐れることは何もない。
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それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
 愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
 たとえ、預言する賜物を持ち、
 あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
 愛がなければ、無に等しい。

 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
 愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。
 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。
 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
 幼子のように思い、幼子のように考えていた。
 成人した今、幼子のことを棄てた。

 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
 だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。
 わたしは、今は一部しか知らなくとも、
 そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
 その中で最も大いなるものは、愛である。」

(Ⅰコリント13:1-13)
 
世界中で緊急事態が展開する中、我が国だけは、まるで何事もなかったかのように日常に戻りつつある。さすがにあの原発事故をさえ、何事もないかのごとくやり過ごそうとした国だけのことはあると感じる。

筆者の周りでは買い占めも起きていなければ、騒動もない。もちろん、勤務が休みになることもない。当ブログでは、オリンピックは決して開かれないと予想しているが、それ以外の点において、この国の人々が危機に直面しても、まるでないがごとくにそれをやり過ごす力には非常に驚かされる。

筆者は、日常生活を一歩一歩、踏みしめながら、素朴な生活を守り抜いて生きることが、非常事態に対する確かな抵抗であると感じている。

ところで、冒頭に挙げた御言葉は、キリスト者でも、往々にして、耳を塞ぎ、口に上らせることも避けて通りたいと考えるような、最も身につまされる箇所であり、教会でも、結婚式が行われる時などを除いて、滅多に語られることもない箇所だ。

なぜなら、この御言葉を語ると、クリスチャンは自分の愛の卑小さ、非力さ、自分自身の人格の未熟さ、欠点を思い知らされ、神と人との前で、恥じ入らずにいられないからだ。

牧師たちも、往々にして、この御言葉とは正反対の人生を歩んでいる。忍耐はないし、情け深くもなく、妬みと競争心に燃え、自慢話が大好きで、高慢に人に説教をする。その上、復讐心が強く、些細なことでいつまでも相手に恨みを抱いて赦そうとせず、時に平然と嘘をつき、人を侮辱し、黙って理不尽を耐えることなどまっぴらごめんという態度である。

そこで、そんな牧師たちはもちろんのこと、信者たちも、この箇所を語るとき、そそくさと足早に通り過ぎようとする。そして、ほんの少しだけ立ち止まっても、要するに、これはキリストの愛、神の愛のことを言っているのであって、自分たち人間の愛などはそれに遠く及ばない、これに倣おうと思っても、人間は未熟だから、なかなかできないものだ・・・、などと自己弁明の言葉を添えるのが通常である。

とはいえ、筆者には最近、この箇所が思い浮かんで来るようになった。そして、この御言葉は、そんなにも非現実的なことを言っているのではなく、キリスト者の自然な生長段階をよく示しているだけのように感じる。

それは筆者の周りに置かれている人々の質、そして状況が、今までと全く変わって来たためでもある。

最近、筆者は人々に誤解され、根拠のないことで悪しざまに言われ、嘲笑の的とされ、あるいは、自分の努力の成果が正当に評価されなくとも、その理不尽に耐える力が、以前よりも、少しずつ、増し加わって来たように感じる。

地獄の軍勢から来ているとしか思えない集団的な悪意に取り囲まれるときにも、恐怖に立ち向かう力が、前よりはるかに養われて来たように思う。

状況は相変わらず困難に満ちているにも関わらず、筆者が恐怖を感じることが、だんだん少なくなって来ている。それもこれも、天はすべてを見ており、すべての出来事の本当のありようをちゃんと観察している方がおられるという確信のゆえだ。

天においてのみならず、この地上の人間社会においても、多くの人がうわべだけの様相を見て誤解するようなことがあっても、事の真相を見抜いている人は、どこかにいるものだ。ただ一人であってもいいから、筆者が自分の苦労を真に知ってもらい、評価してもらいたいと願う人が、真実を知ってくれれば、それでばいい。その誰かがわざわざ言葉をかけて筆者をねぎらってくれずとも、真実が知られているというだけで十分なのだ。

つまり、筆者の受けた苦しみを知っていてくれる人が、天においてのみならず、この地上においても、どこかに存在している。たとえ声に出して共感を示さずとも、その痛みを分かち合ってくれる人が、どこかに存在している。そのことが分かっていれば、自分の受けた苦しみが、ただちに取り去られずとも、不合理な状況が、ただちに改善せずとも、失ったものに償いが与えられずとも、慰めを受け、心安らいでいられる。

それは不思議な平安である。

これまで長い長い間、筆者の苦悩を受け止めることのできる力を持った人間は、ほとんど現れなかった。そのことが、筆者の人生の悲劇だったと言っても良い。ところが、近年、そういう力を持った人々が、ちらほらと複数、現れ始めた。順調なときだけ、喜んで付き合うのではない。逆境の時にも見捨てず、根気強く向き合うことのできる人。

もちろん、筆者は誰にも依存するつもりはないので、理想的な人物の到来を待つつもりはないし、他者に向かって、長い長い愚痴を吐露し、説明に説明を重ねたりして、理解を乞うようなこともしたくない。苦しみを分かち合うにも、ほんの一瞬の語らいで良い。いや、語らいさえ成立しなくても良い。ただ受け止められている、理解されている、知られている、という確信が、ありさえすれば良い。

それがあるだけで、状況が根本的に解決しておらずとも、あるいは、自分の望みの通りに物事が運んでおらずとも、苦しみの元凶となる出来事が何ら取り去られたわけでなくとも、心が満たされるし、勇気を出してそれに立ち向かって、進んで行く力が与えられる。

そういう意味で、自分を理解できる力を持った誰かに、自分を知ってもらっている、という感覚は、大きな安心感をもたらすし、心を強くする。

だから、神に自分を知っていただいていることが分かれば、人はとても心を強められるはずだ。次の御言葉にもある通りだ。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

グノーシス主義者は、自分が神によって「知られる」客体であることに反発を示す。彼らは自分たちこそ「主人」になりたいので、客体とされることを侮辱のように考えている。そもそも彼らは、創造主なる神がおられることを認めず、自分たちは造られた者であって、被造物に過ぎないという事実にさえ納得しない。

だが、筆者はそうは考えない。神に知られていることは、人にとってどれほど光栄なことであろうか。人は働くとき、雇い主の満足を考えないだろうか。ペットは、飼い主に喜ばれることに、生きがいを見いださないだろうか。

筆者の飼っているペットたちは、筆者から眼差しを注がれる瞬間を切に待ち望んでいる。筆者の姿を見ると、飛び跳ねて喜ぶし、鳥も筆者の行くところどこへでも後を追って飛んでくる。

彼ら動物たちは、筆者によって知られ、存在を喜ばれ、受け止められていることに、慰めと光栄を見いだしている。筆者が姿を現すこと、筆者が彼らの存在を受け止めることが、彼らの喜びであり、光栄である。その関係の中に、どうして侮辱や、卑下などが存在し得ようか。

それと同じように、筆者も、筆者を愛し、受け止めることのできる者の眼差しによって見つめられ、知られ、受け止められる瞬間を、光栄なものとして待ち望んでいる。

もちろん、神以外に、人の心を隅々まで理解し、人を愛し、受け止めることのできる方はいない。だから、筆者を完全に理解できる存在とは、神に他ならない。

とはいえ、地上においても、神と人との関わりを表す絵図として、人を深く理解することのできる人間たちが時折、現れる。信仰の友の中にも、そうでない人たちの中にも。
 
そういうわけで、筆者の周りに現れる人間の質が、近年、変化して来たのを感じる。もちろん、残念なことに、以前よりも状態が悪くなって、理解が成立しなくなって去っていった人々もいるにはいたが、その反対に、非常に稀有な理解を示す人々も現れて来たのである。

そういう人たちから、ほんのわずかな助けを得るだけでも、筆者は心満たされ、十分に一人で歩いて行ける力をチャージされる。そういう人たちが存在すると分かっているだけでも、心を強くされる。

そうして、他者の強さによって、筆者が自分の心の弱さを覆われるとき、筆者は、自分自身もまた誰かに対しては、とても強い人間であること、筆者の強さも、他人の弱さを覆うために役立つことが分かる。

そのとき、黙って他者の弱さを担うことができるようになる。自分が誰かをかばってやったなどと吹聴して、他人の前で誇る必要はないし、他者の弱さを暴露する必要もない。むしろ、黙って、他者の弱さを身に引き受け、自分のもののように負うだけで良いのだ。

そうして、黙って、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりを負ってご覧なさい! そうすれば、そこにどれほどの栄光が与えられるか、試してみれば良い。弱いはずにも関わらず、そこに神の強さが働き、苦しんでいるはずにも関わらず、慰めが与えられる。窮乏しているはずなのに、満ち足りており、迫害されているにも関わらず、行きづまりに達することなく、何にも不自由のない、十分に恵みを受けた人間として、すべてに毅然と立ち向かい、尊厳と喜びを持って、すべてに勝利をおさめることができるようになる。

「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12:7-10)

筆者が地上において何をどれだけ耐え忍んだか、それが誰のためであって、誰がそれによって利益を受けたのか、そんなことを誰にも説明する必要はない。それを知っていて下さる方は、神だけで良い。神が筆者の苦労を知って下さり、ねぎらって下さりさえするならば、筆者はどこまででも人の誤解を恐れずに進んで行くことができる。

主が筆者の労苦をねぎらって下さるのが、いつなのか、筆者は知らない。だが、いつかその出会いが来るときまで、筆者はこの地上において奮闘を続ける。その時がくれば、筆者は、主と顔と顔を合わせるようにして向き合い、筆者は自分の心の労苦が、すべて主に知られていることを、鏡に映すように知らされて、心から安堵を覚えるだろう。また、その時に、はかりしれない忍耐を持って人を愛して下さる神の愛の大きさをも、はっきりと鏡に映すようにして知らされることになろう。
 
今、筆者のこの手には、ただ自分自身以外には、自分の心以外には、捧げるものが何もない。しかも、それは様々な痛みや苦しみや悲しみを通過して、踏みしだかれたり、乱暴に扱われ、擦り切れて、よれよれになって、古びかけている筆者の真心である。しかし、飾らず、気どらず、あるがままの正直な心である。

その気取らない真心を主に捧げる以外には、筆者には差し出せるものがない。だが、そんな古びた心にも、キリストと共に十字架の死を経由するなら、主の復活の命によって、新しい命の力が注ぎ込まれる。

いつの間にか、苦しみは慰めに満たされ、悲しみが喜びに取って代わり、弱さが強さに覆われて、勇気が与えられる。すると状況は何も変わっていないのに、心の中心に立っておられるキリストの命の統治により、すべてが徐々に変えられて行く。

そういうわけで、命の水を注ぎだすためのパイプラインは今も作動中である。筆者が休業の札を置いておきたいと願うときにも、それは休みなく稼働したままであり、筆者はその水を流し出すための生きた通路とされている。

ウォッチマン・ニーが「血の高速道路」と呼んだものが、筆者を切り裂いて作られている最中なのである。つまり、命の水を流し出す作業は、人が割れたビスケットのようにならない限り、決して完遂できないものであって、私たち信じる者の痛み苦しみの只中に働く死なくして、復活の命が流し出されることはない。

だから、筆者は死の立場に甘んじるしかなく、日々、水の下に沈められ、殺されていると言っても差し支えない。その死と引き換えに、命が人々のもとに届けられているのである。それが筆者の役目となり、職業のようになり、筆者が建設しているパイプラインは、まさに筆者自身を切り裂いて作られている通路である。

とはいえ、それは筆者が一人だけで完遂する孤独で苦悩に満ちた悲惨な体験ではないし、無意味な自己犠牲でもない。主が共にいて下さり、筆者の労を知ってねぎらって下さっているので、それは孤独ではなく、耐えられない試練でもない。

むしろ、非常に逆説的なことに、そこには大きな喜びがあり、慰めが伴い、何より、愛がある。神への愛、そして、人々への愛がある。復活の命は、人々のためだけではなく、まさに筆者自身のためにも与えられているものなので、そのパイプラインの恩恵を真っ先に受けて、命の力によって満たされ、強められるのも、筆者自身である。

主は、絶対に筆者を見捨てられない、と言われる。だから、筆者は、自分を取り巻く状況を変えるために、終わりなく弁明したり、奮闘すまいと決意している。主が共にいて下さり、すべてを知っていて下されば、それだけで満足である。その命なる方にこそ、すべての解決があることを筆者は知っているからだ。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)


すべて肉なる者は知るようになる わたしは主、あなたを救いあなたを贖うヤコブの力ある者であることを。 

「シオンは言う。
 主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。
 
 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
 あなたの城壁は常に私の前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃墟とした者はあなたを去る。
 
 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。

 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。
 
 破壊され、廃墟となり、荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子はら
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕えられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。
 
 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を知につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕われ人を救い出せるであろうか。
 主はこう言われる。
 捕われ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。

 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救いあなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。」(イザヤ49:14-26)

* * *
 
オリンピックは、当ブログで再三、予想して来た通り、開催できずに終わる道筋がかなり現実的なものとなって来た。

また、この機に乗じて緊急事態宣言を狙っている人々がいるようだが、それは多分、叶わないのではないかと筆者は考えている。この点について、筆者自身は、よくは分からないし、在宅勤務で給与をもらえるならば、それが最善だと思っているのだが、筆者のいる職場は、テレワークにも、在宅勤務にも対応しておらず、そんな近代的な対応を期待できるところでもない。

だから、緊急事態宣言に伴い、外出禁止令が出され、出勤が停止されて在宅勤務になる…という「夢のような」話はあまり思い描けない。そして、筆者は日常生活が制限されたり、外出が禁止されることなど全く望んでいない。

「ウィルスのせいで内定取り消しになった人もいるのに、在宅勤務を望むなんて、ヴィオロンさんの話は不謹慎だ!」とおしかりを受けそうだ。

確かに、そういう批判が出てもおかしくないほど、街は殺気立っている。日曜日に外へ出ると、平和に見える家族連れさえ、殺伐とした雰囲気を漂わせており、ディスカウントストアに行くと、カップルのうち、まだ若い女性が、レジの店員をヤクザのようなまなざしでにらみつけている。「ウィルスをうつすなよ」と目で合図しているのかも知れないが、何と殺伐とした光景だろう、日曜日の家族の平和な買い物だというのに・・・。

筆者はというと、持ち物の修理のために、初めて行く店をネット上で探して家を出たが、日曜に予約もなく、もう夕方に近い時間帯になってから動いたというのに、思いがけなく、とんとん拍子に話が進んで、すべての必要がかなえられた。事前の説明では、できないと言われていたことさえ、可能となり、自前での修理であったとはいえ、とても嬉しくなってしまった。

ここのところ、筆者の日常生活においては、極限的なストレスが津波のように押しよせ、筆者は心の平安を保つことが困難となり、とても一人ではこの問題には立ち向かえないと考えて、「主にある2、3人」がどうしても必要だと感じた。言い知れない深さの悪に立ち向かうために、仲間が必要であると思ったので、探したのである。

その時、神は祈りの有志を与えて下さった。知り合いのつてさえないところを、ゼロから探したが、腐っても鯛、というたとえは不適切かも知れない。ほとんど絶望的と思われていた思いがけない場所に、仲間が見つかり、さすが、キリストへの信仰のあるところには、奇跡が伴うと、間違っても、他宗教の信者になど声をかけなくて良かったと思った。というより、出会わせてくれたのは主である。
 
「求めよ、そうすれば与えられる」、「捜しなさい、そうすれば見つかります」と、聖書に書いてある通りだ。

こうして、祈りの有志が与えられたことで、筆者の生活に対する天の防衛が強化されたのではないかと思う。不思議なほど、心に平安が戻り、日常生活で大切なことが何であるのかが、よく分かるようになって来たのである。

これまで筆者の人生には、助け手を名乗る様々な不誠実な人間が現れては消えて行った。彼らは、口先だけで調子の良いことをさんざん言って、筆者を持ちあげ、筆者を助けるふりをしながら、その実、自分が筆者から助けを受けるために、あるいは、栄光を盗み取るために接近し、しかも、筆者から取れるものをすべて取り尽くすと、空っぽになった筆者を踏みつけにし、嘲笑しながら、置き去りにして去って行った。

そういう種類の人々には、おびただしい数、遭遇して来た。そこで、彼らのパターンも大体分かるようになった。だから、基本的に、筆者はそういう人たちに利用されたくはないため、誰からの助けをも求めないし、誰かに自分を理解してもらおうとも願わない。

だが、そうは言っても、信仰の戦いにおいては、「祈りの有志(勇士)」が必要になることがある。それくらい、最近、筆者をとりまく環境はますます厳しさを増し、霊的戦いも、激しさを増している。

ある時、派遣社員は「愛人」だと、筆者に言った人がいた。それは永遠に「正妻」になれない「愛人」、蔑まれた地位だという意味である。しかし、筆者は、今、契約社員であろうと、正社員であろうと、一人の偶像(代表)のもとに雇われているすべての被雇用者は、いわば、男女に関わらず、みな社長の愛人みたいなものなのではなかろうかという気がしている。

職場の中で、ヒエラルキーを上にのぼりつめようと、ものすごい競争が行われる。男であれ、女であれ、嫉妬と憎しみに燃え、競争者を押しのけ、陥れてでもいいから、上に行こうとする。負担は他人に押しつけ、自分は楽をし、有利な立場に立つために、水面下で苛烈な競争が行われる。

だが、他者を押しのけて、ヒエラルキーの階段をのぼりつめさえすれば、「正妻」の座を勝ち得られ、誠実で信頼のおける関係に入れるというのは、幻想でしかないと筆者は思う。

一人の目に見える人間を象徴として頂点にいただく組織は、すべて「ハーレム」みたいなものである。ハーレムというのは、一夫一婦制の原則に基づいていないから、その中のどこを探しても、真実や誠実さなどないのだ。

そこで「夫」とか「主人」の役目を果たすトップとは、命の通わない、死んだ彫像みたいなもので、みんなの欲望を投影して作られた「もの言わぬ偶像」である。「虚無の深淵」と呼んでも良いかも知れない。生きた一人の人間とさえ呼べない、作られたむなしいイメージである。

だから、そのようなものとの「結合」を私たちは求めるべきではなく、そのようなものに「供え物」を捧げても、報いがあるわけではない。つまり、世の中で、人間関係の争いに勝とうと、必死に競い合って高い地位を求め、何とかして上部の覚えめでたい人間になろうと努力しても、そんなことは、無意味であるし、不実な偶像に近づく人は、傷つけられる。

とはいえ、私たちは自分に与えられた僕としての役目をきちんと果たすことは必要である。ただそれ以上に、与えられた契約以上に、心をすり減らし、疲れ果てる競争に巻き込まれたり、人からの賞賛や栄誉を受けようと願って、自分をすり減らさないことである。
 
この絶え間なく神経を消耗する競争社会にあって、筆者は、信頼できる、誠実かつ真実な人間を探している。我こそは信頼に値すると名乗り出た人間は、ことごとく偽りであった。

信頼できるかどうかは、一人一人の人間性にかかっており、職業上の立場や、知名度とは全く関係がない。

そして、確かな人間性とは、キリストにあってしか確保できないものである。
  
筆者は、筆者一人だけに忠実であって、誰とも筆者を競争させない関係を求めている。真に心を打ち明け合い、助け合うことのできる人間関係を。

筆者の人間関係の結び方は、非常に深く、求めるものが大きい。そして、その求めの中には、人間に対する期待のみならず、神に対する筆者の求めと期待の大きさが、反映しているような気がしてならない。

だからこそ、筆者の渇望を神に持って行くと、そこに平安が訪れるのである。そして、主は筆者の心の求めを、とても光栄なものとして受け止めて下さっている気がするし、その渇望の深さを知っていればこそ、ご自身の豊かさによってそれを満たすために、筆者を信仰に導いて下さったのではないかという気がしている。

神と人との関わりは、キリストだけを仲保者として、そこに誰をも挟まないものである。

同じように、人と人との間で信頼関係を築くためにも、そこに競争者がいてはならず、唯一無二の関係、「一夫一婦制」の原則が適用されていなければならない、と筆者は考えている。それは、夫婦だけでなく、その他のすべての人間関係に当てはまる原則のように思う。

つまり、筆者は、信頼関係が成り立つためには、まずは一対一の関係がなくてはならず、そこに誰かが競争者として挟まって来るようでは、初めから信頼は成り立たないと考えている。

筆者が求めているのは、筆者の他にスペアを作らず、筆者以外の誰をも賞賛せず、筆者を己の欲を満たす道具として扱わず、真に筆者の利益のために奔走してくれ、筆者が困ったときに筆者を拒まず、筆者の窮状を嘲らず、筆者の他に競争者を絶対に作らない関係だ。
 
喧嘩しても、仲直りでき、弱みを知られたからと言って、悪用される恐れがなく、一度、傷つけられたくらいのことでは、ただちに関係性が壊れることもなく、さよならを告げられると逆上し、恨みに燃えて、復讐に及ばれるような恐れのない関係。
 
非難されても、プライドを傷つけられたと怒り出さず、裏切られても、耐えることができ、誤解されても、誤解が解けるまで待つことができ、たとえ筆者が間違っていても、筆者がその間違いに気づいて立ち戻るまで、じっと待つことのできる関係・・・。

そんな関係が成立するためには、神のような忍耐が必要になると言えるが、それだからこそ、神は筆者の心の求めに対し、「分かった」と言って下さるような気がする。

「あなたの求めは、私でなくては満たせません。
 だから、あなたは私を待ちなさい。
 あなたが本当の本当の満足を得たいなら、
 私が現れてあなたを満たすまで、あなたは待ちなさい。
 また、私以外のものを決して求めてはなりません。」
 
神は、筆者が人間に求めている期待の高さを知っておられ、それゆえ、筆者の失望と嘆きの深さも知っておられ、今なお、筆者の求めを真に満たせるのは、神御自身しかいないことを知っておられ、そのことを幾度も筆者に告げて、主の内にとどまるよう説得なさり、その上で、筆者をそばにおいて、兄弟姉妹を配置し、見守っておられるという気がする。

だが、最近、人間の中にも、神の愛と忍耐に匹敵することはないにせよ、それに類する愛と忍耐を持つ人はいるのだろうと、筆者は思うようになった。それは筆者自身の内面の生長があったためかも知れないが、筆者の出会う人間の質が変わって来たのである。

以前のように、誠実さのかけらもない、裏切り者ばかりが現れるようなことはなくなり、少しずつ、少しずつ、人生を分かち合える仲間のような近しさを持つ人々が現れるようになって来た。
  
もちろん、それは信仰者であればこそだ。この世の人々であっては、やっぱりいけないのだ。

筆者は、喜びも、悲しみも、共に背負っていける唯一無二の関係、筆者の信頼に応えうる生きた人間を求めている。
 
どんなに見かけがよく、知的で、態度が洗練されて、注目や信頼を集めているようであっても、根本的に、内心が空虚で、生き方が病んでいるエフゲニー・オネーギンのような人間はもうたくさんである。

知性や、洗練された物腰が、すなわち誠実さや真実ではない。
 
オネーギンたちは、有名になりたがり、権力と地位を目指すことも多く、今の世では、余計者どころか、成功者である。大勢の取り巻きに囲まれて、常に幸せで、満ち足りていそうで、人気者で、自慢話にも事欠かない。

だが、筆者は個人的にオネーギン族はたくさんなのである。なぜなら、彼らは「ただ一人の人」に対して忠実であることがどうしてもできないからだ。よって、オネーギンの周りには、必然的に「ハーレム」ができる。オネーギンは内心が病んでいるので、どうしても保険をかけずに他人とつき合うことができない。だから、人と人を競争させる。自信がないので、誰かと向き合うときにも、常に心の逃げ場となりそうな「愛人」を別に用意しておかずにいられない。

それに、自己中心で自惚れ屋なので、本当の意味で他者のために心を注ぎだすことができず、他者を助けるのさえ、自己満足のためでしかない。

従って、オネーギンは誰かに向かって愛を語るときでも、それを語り出す前から、すでにその相手を裏切っている。究極的には、オネーギンは自分自身しか愛することのできない人間である。すべての他者を己の栄光の道具とすることしかできず、そして、その愛は病んでおり、本物ではない。

もちろん、これはすべてオネーギンという人物像を用いた人間関係の比喩に過ぎないが、そもそもこんな不誠実な種類の人間に、何も期待できることはないから、こういう種類の人々については、その生き方に巻き込まれないことこそ肝心である。

彼らの幸福は、きちんとした基盤の上に作られていないため、脆く、崩れやすいものでしかなく、彼らの価値観に巻き込まれると、ひどく傷つけられる。

だから、そのような生き様からは、離れ去るべきだと筆者は考えている。人と競争させられて、ヒエラルキーの階段をよじ登る人生から、離れ去るべきであって、その競争に勝つことが、幸福を得る手段であるかのような幻想にとらわれるべきではない。

筆者は地上に築かれたどんな関係においても、誰とも競争したくないし、競争させられるつもりもない。不実な関わりには飽き飽きしている。
 
筆者はキリストがその血の代価を支払って、贖って下さった人間であり、死を経て生かされたのだから、筆者の価値は、キリストの血の値段である。神がお一人であるように、筆者の代わりはどこにもいない。もともと代わりがないものに、どうやってスペアを作って競争させることができるのか。誰がどうやって、主に贖われた筆者が与えることのできる以上の満足を、信仰もないのに、人に与えられるのか。

そういうわけで、筆者が求めているのは、名実共に「あなたしかいない」という台詞だけであって、いつでもいくらでも予備のある、裏切りを前提とした関わりではないのである。

その唯一無二の関係は、私たちが信じる神が、ただお一人であって、スペアなどなく、私たちが、全身全霊で、ただそのお一人の神だけを愛すべきなのと同じである。

ただ一人の神だけに忠実であるからこそ、神は私たちの呼び求めに、応じることを光栄として下さる。
 
そこで、主にあって、贖われたキリスト者は、主の血の代価を持って贖われた自分の持つ絶大な価値をしっかりと認識しなければならない。
  
そして、キリスト者同士が出会うとき、その交わりには、1+1をはるかに超えた効果が生まれる。

それは、都合の良いときだけの連帯ではなく、都合が悪くなっても、切れることのない関わりである。主が結びつけて、出会わせて下さった関係であり、共に主を誉め讃えることを目的に、永遠にまで続いている。だが、その関わりは、義務ではない。あくまで自由意思に基づく関係性なのだ・・・。

そういうわけで、筆者の人生では、キリスト者との祈りの共同戦線が張られると同時に、たちまち見えない領域で、何かが打ち破られた気がしている。
 
それは、キリストご自身の豊満であるエクレシアから助けを得たからかも知れないし、あるいは、絶え間なく人々を競い合わせるオネーギンの不実な「ハレーム」社会の嘘の影響が、打ち破られたためかも知れない。
 
この世の立場がどうあれ、私たちは、断じてたくさんの競争者と競い合わされ、ヒエラルキーの階段をよじ登って行くことでしか、自分の価値を証明できない哀れな一群ではない。

私たちは、ただ一人の男子キリストによって贖われた尊い純潔の花嫁であり、この方が、私たちの価値を確かに認めて下さり、私たちを選んで下さったゆえに、私たちはこの方と同様に、愛と尊厳に満ちた存在なのである。

その事実が、雲間から太陽が姿を見せるように、はっきりと示され、取り戻された。

ああ、この深い心の平安に変えられるものが、何かあるだろうか。この世のどんな競争に勝ったところで、この平安を得られるだろうか、と感じた。

そういうわけで、筆者は、心の中からすべての不誠実な人々の影響を追い払い、この世の喧騒、また、うわべだけの立場に気を取られることをもやめて、キリストの内に住むこと、ただ彼の内だけに住むことへと戻って行った。

そのことについて、キリスト者と共に祈り合い、「アーメン(その通りです)」と同意したのである。

その時、この世を超越して、天の御座の高みからすべてを足の下にし、見下ろすことのできる心の自由が戻った。時を止めるように、何もかも、すべてに手を止めて、今一度、主に自分をすべてお捧げし、「彼の中に住む」道に入り、平安を取り戻したのである。

それと同時に、この社会で、疲れ切って、責任を押しつけ合い、非難し合う人々の哀れな状態が、はっきりと見えるようになった。つい少し前まで、筆者もその囚人のように疲れ切った人々の一人だったのだが、彼らの歩いている姿を見ただけでも、心の惨状がどんなものかがはっきり見えるようになった。

どれほど人々が主ではない別な事柄に気を取られ、そのせいで平安を失っているかが、彼らの姿を見たときに、改めてはっきりと理解できたのである。
 
だから、筆者自身、もう一度、何もかもを主に委ね、もつれた糸を解きほぐすよう、筆者の手に余るすべての問題を、主に解決してもらうために委ね、主が解決を握っておられることを固く信じて、真っすぐに前を向いて進んで行こうと思わされた。

もはや、すべての問題は、筆者の手を離れ、神の領域へと移されて行った。平安は、こうして筆者の手から重荷が取り去られるに比例して戻って来たものであった。
 
* * *

読者は読む必要を感じていないかも知れないが、筆者自身のために、オリーブ園、A.B.シンプソン、「キリスト生活」の「第6章 どのようにして主の内に住むのか」 から、部分的に抜粋しておきたい。これは何年も前に、筆者が十字架のキリストと出会ったときに、非常に新鮮な心持ちで読んだものであり、今再び、オリーブ園の新着ブログにも掲載されているようである。

この記事は、キリスト者が心の平安を保ち、キリストと二人三脚で進む上で、避けては通れない秘訣を記したものである。読むのは簡単であるが、実践している人がどれくらいいるか。この記事は、心の通い合った夫婦の生活のように、私たちが絶えず主の中で、主に立ち戻り、主と相談の上で、すべてを決めて、歩んで行かねばならないこと、それなしに、日常生活において、キリストの内にとどまることができないことを示している。

もちろん、その生活の中には、私たちの心に、主以外の何者かが挟まることはない。自分自身の衝動でさえ、その静かな平安な生活の妨げとならないように、警戒せねばならないのである。

* * *
 
ヨハネは、小さな子供たちだけが主の内に住むことができる、と言っているかのようです。すなわち、私たちが小さくなる時だけ、主ご自身を十分に知ることができ、自分の力を用いるのをやめて彼に依り頼む時だけ、私たちを保持する主の力を知ることができる、とヨハネは言っているかのようです。

ヨハネは私たちに呼びかける時、「あなたがた」と言わずに、「わたしたち」と言っています。これからわかるように、ヨハネは自分自身を小さな子供の一人と見なしています。ヨハネは、古い自分であるボアネルゲ(雷の子)が死んだ時から、霊の中でまったく小さな子供になりました。ヨハネはイエスの御胸によりかかりましたが、それはイエスの支える御腕から離れないためでした。

私たちはキリストご自身の栄光を見てきました。また、キリストにあることと、キリストを私たちの内に持つことがどういうことかも見てきました。そして今、私たちはこれらのものに強く印象づけられたいと願います。ヨハネは、「小さな子供たちよ、彼の内に住んでいなさい。それは彼が現れる時、私たちが確信を持つためです」と言います。

私たち信者は、主の内に住むこの生活をどのように維持すればいいのでしょうか?あなたは自分を主にささげ、自分の意志と力を放棄し、自分の生活を主に支えてもらうことに同意しました。またあなたは、真の花嫁のように、自分自身、自分の名前、自分の独立性を放棄しました。その結果、彼は今、あなたの主となっておられます。あなたのいのちは彼の内に飲み込まれました。そして、彼があなたのかしらとなり、すべてとなっておられます。

さて、愛する方々よ、この生活はどうすれば維持できるのでしょうか?主は、私たちは彼の内に住むべきであり、私たちが彼の内に住む程度に応じて私たちに内に住む、と言っておられます。「私の内に住んでいなさい。そうすれば、私もあなたがたの内に住みます」。

ヨハネによる福音書十五章四節。(訳注)


今を生きる


まず第一に、主の内に住む生活は、今を生きる生活でなければなりません。それは惰性で流れ続ける急流ではなく、小さな行いや習慣の連鎖です。あなたは、今この時、主を完全に所有し、今この時、完全に救われ、今この時、勝利をおさめます。今この瞬間を満たしたものは、次の瞬間をも満たすのに十分です。ですから、もしあなたが毎瞬この交わりを更新していくなら、あなたは常に主の内に住むでしょう。あなたはこれを学ばれたでしょうか?あなたの生涯における失敗の大半は、一瞬を失うこと、一針の縫い目の切断、小さな裂け目、岩の割れ目――そこから水の雫がしたたり落ち、一本の急流になります――から来ます。しかし、もしあなたが一歩も歩みを失わず、一つも勝利を逃さないなら、あなたは主の内に住んで常に勝利するでしょう。

ですからまず第一に、この秘訣を学びなさい。すなわち、もはや恵みも勝利も必要としないほどの聖潔に達することはない、ということです。しかし、もしあなたがこの瞬間に恵みを受け、次の瞬間にも恵みを受け続けるなら、生涯の終わりに、あなたは主の恵みの大洋をことごとく所有するでしょう。最初、それはほんの小さな流れかもしれません。しかし、毎瞬流れ続けさせなさい。そうすれば、その水路が終わらないうちに、それは無限の大海原になります。


意志による決断


次に、主の内に住むことは、意志による決断を続けることによって、また、常にキリストに信頼し続けることによって、確立されなければなりません。主の内に住むことは、あなたの意志の有無にかかわりなく、不可抗力的な衝動として自然に実現されるのではありません。あなたは、主に信頼することから開始して、それが習慣になるまで繰り返さなければなりません。これを悟ることは非常に重要です。

祝福を得た時、それ以上何の努力もしなくても、その祝福は流れ続ける、と考える人が大勢います。しかし、そうではありません。意志の行為、選択の行為は、霊的生活の真の舵輪です。人が罪から救われるのは、イエスを救い主として実際に選択することによります。人が聖別されるのは、自分自身を明確に明け渡して、キリストを自分のすべてとして受け入れることによります。

ですから、愛する方々よ、あなたは主の内に住むことが呼吸するのと同じくらい自然なことになるまで、しっかり舵輪を握って前進し続け、毎瞬毎瞬、キリストに信頼すること、キリストによって生きることを選び続けなければなりません。
それはちょうど、溺死から救われた人のようです。人々が彼を水から引き上げたとき、呼吸は停止しています。呼吸は自然に戻ることはありません。苦労して人口呼吸を続けることによって、呼吸が戻ります。人々が半時間ほど空気を吸わせたり吐かせたりした後、無意識的な呼吸活動が認められるようになります。そして、呼吸本能がよみがえってきて、自発的な呼吸が始まります。間もなく、その人は何の努力もせずに呼吸するようになります。

しかし、それは最初に一定の努力をすることによって起きます。そして、徐々にそれが自然になって行きます。キリストに関しても同じです。もし、キリストの内に住むことを自然なものにしたいと願うのなら、それを霊的習慣にしなければなりません。預言者は「神にとどまる心」について語り、ダビデは「私の心は主に信頼して揺るぎません」と言いました。私たちは決断をもって始め、いかなる代価を払っても主に従う必要があります。そうするなら、少しずつ習慣が確立されて行きます。

<中略>


自我の抑制


さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、自分に信頼しないことを常に学ばなければなりません。自我の抑制が、常に神聖な満たしと能力を得るための第一の要件でなければなりません。何らかの非常事態が生じた時、人は飛び出してしまいがちです。ペテロは、自分が敵に立ち向かえるかどうかわからないのに、剣を抜いて飛び出してしまいました。突然の衝動に駆られて行った行為は、数週間にわたる後悔という結果に終わることがあります。衝動的に事をなすのではなく、主を受け入れなさい。私たちが主から方法を教わる時だけ、主は私たちを用いることができます。

ですから愛する方々よ、自我を抑制することを訓練しましょう。そして何事についても、主を見上げて、「主よ、あなたの御旨は何でしょう?あなたのお考えはどうでしょう?」と尋ねるまで、決定を差し控えることを訓練しましょう。そうするなら、あなたと主の意向が食い違うことはないでしょう。そこにはさいわいな調和があるでしょう。このようにキリストの内に住む人々は、差し控える習慣、静かにしている習慣を身につけます。彼らは落ち着きのないおしゃべりではありません。彼らはよろずのことについて常に見解を持っているわけではありませんし、自分がなすべきことをいつも知っているわけではありません。彼らは性急な判断を差し控えて、神とともに静かに歩みます。むこうみずで衝動的な精神は、主に聞き従うことを妨げます。


依存


もしキリストの内に住むことを願うなら、キリストは人生の非常事態だけでなく、すべてを引き受けて下さることを憶えなければなりません。そして、常に主に頼る習慣を養わなければなりません。主に依り頼み、いたるところで主を見いだし、彼が私たちの生涯の事業を引き受けて下さったこと、そして困難は一つもないこと、もし私たちが主に委ねて主に信頼するなら、主が私たちを運び通して下さることを認識しなければなりません。


主の臨在を認識すること


さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の心の中心におられることを認識しなければなりません。主を見い出すために、彼方の天に上って、主が行かれたあたりをさまよう必要はありません。主はまさにここにおられます。主の御座はあなたの心の中にあります。主の富は身近にあります。あなたは神の臨在を感じないことがあるかもしれません。しかし、聖霊があなたの心の中におられる事実を受け入れて、その事実に従って行動しなさい。すべてのことを主に持って行きなさい。そうすれば間もなく、主の臨在を実際に喜ばしく感じるようになります。感情から始めてはいけません。主がここにおられることを信じて行動することから始めなさい。ですから、もしあなたがキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の内におられ、自分が主の内にあるものとして、主に応対しなさい。そうするなら、主はあなたの信頼に応えて、あなたの確信に誉れを与えて下さいます。


すべてのものの中におられる神


キリストの内に住むことを願うなら、人生に訪れるすべての事柄の中にキリストがおられること、そして、摂理の過程で起きることはすべて、ある意味で神の御旨と関わりがあることを認識しなければなりません。試練は偶然ではありません。それはキリストと関係無いものではありませんし、「神はなぜ私をこのような試練にあわせるのだろう」といぶかしんで抗議するしかないようなものでもありません。

私たちは、神が試みの中に導かれたこと、そして、たとえ洪水の高波が押し寄せても、神は御座に座しておられ、大波のうねりや水の轟きよりも力強い方であることを信じる必要があります。また私たちは、神は
「人の怒りを賛美に変え、怒りの余りをとどめられる」ことを信じる必要があります。私たちは「神は我らの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。それゆえ、我らは恐れない。たとえ地は移り、山が海の真中に移っても。たとえ、水が立ち騒ぎ、泡だって、山々が揺れ動いても」(詩篇四十六篇一~三節)と言わなければなりません。

私たちはすべての出来事を、人が選択しうる最善のもの、あるいは、神が与えうる最善のものと見なす必要はありません。その出来事が私たちに臨んだのは、神がご自身の力を私たちに現すためかもしれませんし、あるいは、聖潔、信頼、落ち着き、勇気といった学課を私たちに教えるためかもしれません。その出来事は何か神の御目的にかなうものなのです。ですから、別の境遇を求めるべきではありません。今いる境遇に打ち勝つべきです。現実から逃避して、「自分の好きなところに行けば、キリストの内に住むことができるだろう」と言ってはなりません。私たちは、安らかな港にいる時も、嵐の海にいる時も、キリストの内に住まなければなりません。すべては神の許しによります。神は万事を共に働かせて私たちの益とし、ご自分の目的を果たされます。このことを認識しなさい。


外側の感覚に注意する


キリストの内に住みたいのなら、感覚に警戒する必要があります。体の感覚ほど、私たちをさまよわせ、危険な野原や牧場の脇道にいざなうものはありません。私たちの目は、どれほど私たちを迷わせてきたことでしょう!道を歩いていると、気を散らせる数千のものに出くわします。中には、クモのような目を持っている人々もいます。彼らは前後左右、あらゆる方向を見ることができます。
「あなたの目はまっすぐ前を見、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ」この世が心の中に侵入するのを許すなら、私たちは主の臨在から引き離されてしまいます。

箴言四章二十五節。(訳注)


会話は、それがたとえクリスチャンどうしの会話であったとしても、もしその百分の一でも聞くなら、完全に汚されてしまいます。ですから、あなたは自分の耳を閉ざし、自分の目を閉ざして、小さな範囲に生きなければなりません。
何かする時に、一度に多くのことをしようとしてはいけません。それは気苦労を招くだけです。

水グモという小さな生き物がいます。それは、沼地などの湖底の泥の中に住んでいます。泥の表面から数インチ中にもぐり、始終そこで暮らしています。水グモには不思議な器官があり、それによって自分の体よりも数倍大きな気泡を自分の周りに集めることができます。水面に上がって空気を集めては泥中にもぐります。この小さな気泡は水グモにとっては大気です。水グモはその中に巣を造り、子供を育てます。「空気のあるところに水は侵入しない」という法則のおかげで、にごった水に囲まれた小さな家庭は、水上の澄んだ大気中で生活するのと同じくらい安全です。そのように、私たちは自分の生息圏の中に入って、主と共にとどまることができます。たとえ罪に取り囲まれ、下には地獄があり、人々はもがき、誘惑され、罪を犯していても、私たちはキリスト・イエスと一緒に天上にいる聖徒たちと同じように安全なのです。


内なる祈り


さらに、キリストの内に住むには、内なる祈りの習慣、心の中で神と交わる習慣を養わなければなりません。私たちは、「神は霊ですから、神を礼拝する人は霊と真実の中で礼拝しなければなりません」「すべてのことについて感謝しなさい。なぜなら、これこそ神があなたがたに求めておられることだからです」という御言葉の意味を知らなければなりません。言葉を口に出さずに心の中で祈るこの習慣は、主の内に住む秘訣の一つです。神秘家が用いた古い用語の一つに「静思」というのがあります。これは「静かな霊」ともいえるでしょう。

ヨハネによる福音書四章二十四節。(訳注)
テサロニケ人への第一の手紙五章十八節。(訳注)


目をさましていること


主の内に住むことと関連するもう一つの言葉は、「目をさましていること」です。この言葉は、漂うことの正反対です。それは固守する精神であり、絶えず警戒していることであり、主に守られることです。さて、これは、あなたが固守警戒の働きをすべて一人でしなければならない、ということではありません。あなたは手を舵の上に置かなければなりません。そうするなら、キリストが舵を操作して下さいます。それは列車のブレーキのようです。運転手がブレーキのレバーに触れて電流を流すだけで、列車は止まります。それはまた、列車の動力のようです。技師は自分の力で列車を動かす必要はありません。レバーを回すだけで、列車は進みます。クリスチャンは自分で戦う必要はありません。イエスの御名の中で合い言葉を唱えさえすれば、天の力がそれに続いて働きます。このようにして毎瞬、私たちは交わりと勝利の中にとどまることができ、ついにはキリストが私たちのいのちそのものとなられます。


神の導きに従う


もしキリストの内に住むことを願うなら、神に自分を助けさせようとすることをやめて、神の道の中に入り込み、神に導いていただかなければなりません。信者は「私がキリストに仕えることを選んだのであり、キリストは私を助けなければならない」という考えを自分の中から取り除かなければなりません。信者はキリストの道に入りました。そして、キリストが信者を担っておられます。なぜなら、キリストは他の道を行くことができないからです。
もしあなたが川の真中にいるなら、あなたは川を下って行かなければなりません。もしあなたが神の真中にいるなら、あなたは神と共に行かなければなりません。あなたが自分の人生を神に明け渡すなら、それは何でもできるほど強くなり、天のように素晴らしくなるでしょう。


不慮の出来事


おそらく、不慮の出来事についてお話ししておいた方がいいでしょう。主はしばしば、私たちを警戒させるために、突然誘惑が襲いかかることを許されます。そのようなことが起きたら、それを主からのものとして受け入れなさい。まつげが閉じて目に危険を知らせるように、それはあなたに警戒させるために送られたのです。誘惑は、しばしば私たち自身の不注意から生じます。私たちが道を外れる時、私たちは誘惑にあうことによって、自分が敵の国にいることを悟ります。もし私たちが主の内に住んでいるなら、主の許しがない限り、悪は私たちを打つことができません。おそらく、私たちが中心からはずれる時、キリストは敵を利用して私たちを脅かし、ご自分に立ち返らせるのでしょう。それはちょうど、羊の群れを柵の中に追い込むために、牧羊犬が放たれるようなものです。大きな災いにあうより、小さな失敗を犯す方がましです。


失敗


しかし、十分注意していたにもかかわらず失敗してしまった場合、決して落胆してはなりません。決して、「自分は祝福を失ってしまった」、「こんな生活は自分には実行できない」などと言ってはなりません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、主は真実でただしい方ですから、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」という御言葉を思い出しなさい。

ヨハネ第一の手紙一章九節。(訳注)


神を現実に経験する方法


多くの人は神を現実の方として感じていません。多くの男性にとって、自分が抱えている困難な仕事の方が神よりも現実的です。多くの女性にとって、自分の仕事や試練の方が神よりも現実的です。多くの病人にとって、自分の病の方が神よりも現実的です。私たちはどうしたら神を現実の方として経験することができるのでしょうか?私が知る最善の方法は、神を現実の事柄の中に迎えることです。頭痛は現実です。その中に神を迎えなさい。そうすれば、頭痛が現実であるように、神も現実となられるでしょう。そして、頭痛が去った後も、神の臨在がとどまるでしょう。これは素晴らしいことです。試みは現実です。それは人生において火のように燃えさかります。神はそれ以上です。洗濯やアイロンがけは現実です。神をあなたの家庭の中に迎えなさい。そうすれば、神は現実となって下さいます。私たちが自分の生活をキリストに結びつける時、彼は現実となって下さいます。

バンヤン樹もこのように成長します。まず、幹と枝々が天に向かって伸びます。次に、枝々が地面に向かって成長し、土地に根をおろします。そして徐々に、数百の枝々が互いに織り混ざり、絡み合って、嵐や風にも動じなくなります。インド洋の熱風ですら、引き裂くことができなくなります。そのように、神が一人の人を救われる時、神は一本の枝を植えられます。その後、神が困難の中にあるあなたを訪れて、あなたを満たし、聖別し、助けて下さる時、その神の満たし、聖別、助けが新たな枝々となります。こうしてあなたの人生は数百の枝々によって神に根ざし、神に結ばれます。地獄の全勢力といえども、その交わりを破ることはできませんし、あなたを主の愛から引き離すことはできません。

主イエスよ、あなたご自身を私にとって、
生ける輝ける現実として下さい。
いかなる外側の物事よりも、
信仰のまなざしにはっきりと見せて下さい。
甘美な地上の絆よりも、
さらに親しく、さらに親密にならせて下さい。

さらに私に近づいて下さい、
生ける愛する救い主よ。
あなたの御顔の幻をさらに明るく輝かせ、
あなたの恵みの御言葉をさらに栄光で満たして下さい。
人生が愛に変わるまで、
地上の天が天上の天に変わるまで。

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

町はすっかり閑散として、買い物にでかけると、客がすれ違う客に敵対的な眼差しを向け、店員から話しかけられることにさえネガティブな反応を示す場面も見られる。公共交通機関でも、人々は自分が感染者とみられることを極度に恐れつつ乗車しているかのように見受けられる場面もある。

阪神大震災・東日本大震災の直後には、巷に溢れる悲劇的なニュースは大いに同情と共感を呼び、みなで苦難を分かち合い、乗り越えようとの雰囲気があった。しかし、今回のウィルス騒動では、同じ苦難をともにしている者同士、団結して乗り越えようという雰囲気は見られず、むしろ、より人々の分断化が進み、責任の押し付け合いがあり、隣人同士が互いを警戒し合ったり、品物を奪い合う競争者になってしまうような殺伐としたニュースも飛び交っている。

何か大きな時代の変わり目が来て、これまでの国の方針そのものが揺らぎ始めているのを感じる。裁きの時が来たとまでは言わないが、国の施策はことごとく裏目に出て批判を浴びており、自粛モードの中で、ゴールデンウイーク中の楽しいバカンスや、オリンピックの話題なども、すっかりどこかへ消え去り、口にすることもはばかられる状況になり、いかにしてパンデミックの阻止だけでなく、不安心理の拡大が、暴動や騒乱や政変に結びつくことを防ぐかに心血を注ぐべき状態になったという印象だ。
 
とはいえ、筆者はごく普通の日常生活を続けているだけで、買い占めにも走らず、日常生活に支障をきたす事態にも遭遇していない。震災の時もそうであったが、被害と無縁の地域にはいなかったはずなのに、なぜか筆者の周りには、深刻な被害にあったという人もほとんど現れない。

緊急事態宣言へ向けての法整備が行われるとかいった物騒な話が流れる中でも、筆者は、ただこれまで以上にごく普通の日常生活を送らねばならないと要求されているだけのような気がする。閑散とした町で、日々の通勤を続けることや、相変わらず、こなさねばならない予定に着手することは、それ自体がチャレンジである。

我が国がこれを機にどういう方向へ向かうかは知らないが、筆者の個人の人生において、問われているのは、ただ自分自身の心だけである。

あなたは恐れて退却し、打ち負かされるのか、それとも、立ち向かって勝利を得るのか。
 
ジョージ・ミュラーはすべてのことについて、神に祈れと勧めた。届いた荷物をくくっている紐の結び目が解けない、といった些細な問題についても、神に祈れと。
 
もちろん、声に出して祈ったりしない。神頼みするわけではない。しかし、私たちの内におられるキリストは、すべての問題に対する解決である。
 
だから、この方が共におられるのに、行きづまりなどが、どうして訪れようか。
 
* * *

筆者は最近、物事の本当のありようが、見かけとは正反対であるということに、気づくようになった。

人前に立って演説をし、注目を集めたがる人間の中に、真の実力者はいたためしがない。口達者で饒舌でネットワークを築くことに熱心な人間の中に、真の知恵者がいたこともない。

大勢の人々に囲まれ、人気を博しているように見える人間が、その反面、孤独な悩みを持て余していなかったことはない。

うわべだけパフォーマンスが得意で、さも自分には優れた能力があり、知恵があるかのごとく見せかけることに巧みな人間は、ことごとく詐欺師の類と考えてよい。

その原則は、牧師が神の代理人ではない、というのと同じである。

神に選ばれているかどうかは、うわべだけのパフォーマンスによって決まるものではないのに、見せかけの立場によって、自分が「選ばれた人間」であることを証明しょうとする人々は、ことごとく、選びから漏れていると考えて差し支えない。

つまり、自分たちは神に選ばれた人間であるという名札を下げて集まっているキリスト教という一大集団では、真実性が極端に薄れ、失われているということである。
 
だが、信仰と関わりのない人間社会にも、同じ原則が当てはまる。弁舌巧みで、パフォーマンスに優れ、コネを結ぶのが大得意な人間に、実力や、真実性や、誠実さがあるかどうかは、試してみれば、すぐに明らかになる。

試さないでうわべだけのパフォーマンスを真に受けているから、いつまで経っても、詐欺師を詐欺師と見抜けないまま騙されて終わるのである。

過去には「ヴィオロンさん、私はあなたを助けてあげたいんですよ」などと言って近づいて来る人々もいたが、残念ながら、そんな風に、他人の弱みを見つけ出しては、かいがいしく助力者をきどろうとする人々が、真に助力者の名に値する人間だったことは、一度もない。
 
聖書的な事実に照らし合わせても、それは偽りではない。なぜなら、真の助力者とは、見えないキリストご自身だけであって、目に見える人間はことごとく頼りとはならないからだ。

だとしたら、目に見える人間が、弁舌の巧みさ、パフォーマンスの巧みさ、優れた仕事ぶり、人的ネットワーク、「実力の程」などを誇っていたら、どうだろうか?

ある人々が、自分には高い地位がある、職責がある、俸給がある、豊かさがある、だから、ヴィオロンのごとき貧しい人間とは違う、などと誇っていたら、どうだろうか?

まず、それは詐欺師の類と考えて差し支えない。

彼らは、人前で己が富と権勢を誇っているのではなく、主の民の前で、当てにならないものを誇っているだけなのだ。よって、彼らが凋落するのは避けられない。

この人たちのパフォーマンスは、すべて自分の愚かさ、無能さ、空虚さを覆い隠すための嘘、時間稼ぎでしかないからだ。

だが、彼らは「毒麦」として、刈られるその日が来るまでは、放置されるだろう。いつか裁きの時が来て、何が実体の伴う本物であり、何が空虚な偽物であるかが、試され、明らかにされる日が来る。うわべだけの内実のないパフォーマンスでは、生き残れないし、無能な役立たずとして放逐される日がやって来る。

時が縮まっており、その日が驚くほど駆け足で近づいて来ていることを筆者は感じている…。
 
* * *

以前から、当ブログでは、労働は、人が自己の罪を自分で贖うための救済手段であるため、本質的に神の救いに敵対している、と書いたことがあった。そして、そのような悪しき文脈を離れた仕事のあり方を模索せねばならないと。
 
しかし、この問題についての考察を推し進めて行く中で、筆者が改めて気づいたことがある。
 
この世においては、賃金が払われている限り、対価としての労働を提供するのは当然であるから、雇われている人間が、その立場を捨てずに、以上の仕組みから脱出することはできない。

とはいえ、その世界でも、高給で雇われている人間が、低賃金で雇われている人間以上の働きをしさえすれば、賃金格差が不公平を招くという問題は解消されるのだ。

問題は、世の中がその逆を行っているところにあり、若くスキルもなく低賃金で雇われている未熟者が、人一倍苦しい労働を押しつけられる一方で、経験豊富で年齢も高くスキルもあるはずの高給取りが、その上に君臨してふんぞりかえって遊びながら、舌先三寸で空虚で的外れな命令を下し、不労所得にも近い俸給を得ているところに、不公平の源があるのだと・・・。

賃金格差は、支払われている賃金に見合った労働が提供されれば、なくなる。そこで、経験豊富でスキルの高い高給取りが、誰よりも大変で責任の重い仕事を必死になってこなし、他方、低賃金で雇われている未熟者が、彼らの何倍も負担の軽い仕事をするようになれば、格差などといった概念そのものが消えうせるのだ。

かつて手束正昭というカリスマ運動を率いる牧師が、『教会生活の勘所』という著書の中で、「霊の父・母」である牧師夫妻は、信徒の模範としての威厳を保つために、決して自ら教会のトイレ掃除などしてはいけない、などと書いていたが、これはとんでもない偽りであり、聖書の事実は、それと真逆である。

主イエスは、偉くなりたい人こそ、他の人々に仕えなさい、と教えたのであるから、まず、御言葉の奉仕者である牧師夫妻こそ、信徒の模範として、率先してトイレ掃除に従事すべきなのである。

安定した献金を得ている大教会の牧師が、立派な服を着て壇上に立って信徒たちに向かって偉そうに説教を語る前に、誰にも告げずに膝をかがめてトイレ掃除をすれば良いのである。そこから始まり、すべての雑用を自らこなすべきである。

なぜなら、キリストは、実際に、ご自分がひざをかがめて、弟子たちの汚れた足を水できれいに洗われたからである。牧師たちが、まず汚れ仕事を率先して担うようになれば、それを見た他の信徒たちも、その姿にならう日も来よう。

そういうわけで、高給をもらっている年配者たちは、若者たちの前で、自ら模範となって、自分の手を汚して、苦しい労働を率先して引き受けるべきなのである。自分の仕事がいかに楽であるかを他の人々に思い知らせるために、可能な限り働かず、権威をふりかざして君臨し、偉そうに説教し、役職を書いた名札をぶらさげて、無意味な会議に延々と明け暮れるために、仕事をするのではいけない。

そんな仕事ぶりでは、誰からの尊敬も受けられず、 年齢は、自分だけがずるく立ち回って楽をするための狡知を生み出すための時間としかみなされず、高齢者への憎しみは増し加わって行くだけであろう。
 
もちろん、これは理想論であるとはいえ、実地にも適用可能であるということに、筆者は気づき始めた。

多くのスーパーなどでは、高齢者のための割引がある。高齢者はお金を持っているから、割引することで、さらに消費欲を刺激しようという店側の作戦なのであろう。他方、若者には金がないから、もともと豪奢に散財するはずもなく、どうせ半額セールを狙ってやって来るような客に、割引してやったところで、もとが取れないという考え方なのである。

だが、筆者の考えはそれとは逆であり、若者には、今、手元に何もないからこそ、社会が彼らに未来を与えてやるために、投資しなければならない、というものである。時間的余裕も必要であれば、経済的余裕も必要である。

その余裕を若者(そして若者とは呼べない不況世代も含め)に与えるために、全社会的なアファーマティブ・アクションを実施する必要があり、それを早急にしなければ、この国はもう持たず、未来がない、というのが筆者の考えである。

就職氷河期への支援などは大海の一滴に過ぎず、全社会的アファーマティブ・アクションが必要なのである。すでに人生の安全圏に滑り込んでいる高齢者や、子供のいる家庭、金持ち世帯への優遇策ばかりを頭をひねって考えるのではなく、今、何も持っていない乏しい若者の未来のために、社会が投資をしてやらねばならない。

それができなければ、少子化など解消されるはずもなく、労働力の不足も補うことはできないまま、いずれ町には高齢者が溢れ、介護を必要とする者が溢れ、それを助ける者もなくなり、国は滅亡へ向かうだけである。

他人が困っているときに、残酷にそれを見捨てて、踏みつけにし、嘲笑して来た人間が、どうして自分が困ったときに、他人の助けを受けられようか。老いては自分が見捨てられ、踏みつけにされ、嘲笑されるだけである。

そうならないためには、相互扶助が成り立たなければならないのであって、強い者がその強さを行使して弱い者を助ける社会が成立していなければならないのである。

* * *

そういうわけで、筆者は、筆者よりも強い者が、筆者のために何をすべきか、また、筆者が筆者よりも弱い者のために、何をすべきかを考えている。日々の生活は、そのための実験場であり、そのために労することが、筆者の労働であり、奉仕である。

この世がいかに絶望的に見えても、正しいことは、それなりに実行可能であり、主張し、行いさえすれば、ちゃんと実現することができる。

そこで筆者は、これ以上、むなしいものに注目しないために、うわべだけの見かけ倒しのパフォーマンスや、「自分たちは特別に選ばれているから、あなたとは違う!」などと豪語する人々の自慢話には、全く耳を傾けないことに決めた。

ノアが箱舟建設していた時も、きっとそんな有様だったろうと思う。地元住人たちのうち、誰がその作業の意味を理解したであろうか。嘲笑の的にしかならなかったに違いない。地元住人たちは、自分たちの幸福と安寧は永遠に続くと考え、自分たちこそ選ばれた者だと考えていたため、ノアがなぜその世界を脱出するために箱舟など作っていたのか、一切、思い当たる理由もなかった。ゆえに巨大な箱舟建設は単なる嘲笑の的だったに違いない。
  
地元住人たちは自分の幸福に酔いしれ、その世界はいつまでも安泰だと自慢話を続けていたが、その自慢話は次の一言に集約される、「わたしたちは女王の座に就いており、やもめではないから、孤独を知らない!」

もちろん、それは女王バビロンのつぶやきである。私たちは安全圏に滑り込んだ、豊かになって、乏しいことは何もなく、たくさんの愛人たちや取り巻きもいるため、孤独とは一切無縁であり、心配することなど何もないと・・・。

だが、本物の女王がそんなことを言うはずがない。自慢話をするのは、本当に高貴な身分を有さない僭称者だからである。偽り者だからこそ、自分が本物だと語らずにいられないのだ。

だから、頼りにならないものを頼り、幸福でないものを幸福と偽り、不正にまみれた富を誇り、偽物の王が本物を自称する・・・、そんなむなしい会話の共犯者とされないために、筆者はその会話からは遠ざかることにした。

筆者は心の中で言う、多くの人々は、勝敗はすでに着いた、などと言って、自分の栄耀栄華を誇っているが、まだ勝負の場は終わっておらず、筆者の待っている人は、ここには現れていないと。約束の時間は、まだ来ていないし、本物の王は現れておらず、その王は、自分がやって来たときに、各自の隠れた働きを見て、それを評価すると言われたのだから、筆者はその時を目指して走っていると。

彼らは、他人を可哀想がることで、自己の優位性を感じることを、よすがとしているのかも知れないし、己が富や権勢を誇ることで、他人を駆逐できると勘違いしているのかも知れないが、筆者には、可哀想がられる筋合いもないため、余計なお世話だと思っているし、富や権勢を見せびらかされたからと言って、それを羨むこともない。

筆者が何ら不憫がられる立場にないことは、筆者に日々与えられている課題が、達成不可能なノルマでないことによって、逆説的に証明されている。

こうして、筆者は、誰がどんなに気を逸らそうとしても、ただ自分の分を果たすだけで、人々が誇示する「可哀想でなくなる」ためのヒエラルキーの階段を膝でのぼらず、彼らが自己の優位性として見せびらかしている善悪知識を得るために手を伸ばすこともしないと決めた。

筆者は、かつて裁判官が果たしているような役割を自分も果たしたいと望んだが、今は、その知識と権力の階段をさらに上に上って行くことで、さらなる決定権を持ちたいとは望まない。

そうした判断や決定は一定の効果を持つし、何よりも正義を判断するという仕事には、非常に大きな魅力と、きらびやかさと、権力も伴うが、筆者はそうした仕事の中に真実や正義が見いだせるわけでないことをよく知っているし、何よりも、自分よりも貧しい者たちを罪に定め、虐げるための所業に加担したくない。

それゆえ、筆者は人の考える「善悪知識」から離れ、人の上に立つ権力を求めず、自分よりも貧しい者たちから自分で取立をしないため、かえって、人の注目する知識と判断の全く伴わない領域に去ることに決めた。いや、去ることに決めたというより、筆者はそれに関わってはならないという結論が自然と出て来たのである。
 
そうして訪れたのは、判断しているようで、していない領域、罪に定めているようで、定めていない領域、悪人がいるようだが、いない領域、徴収しているようだが、していない領域だ。

こうして、人の考える正義を貫くために作られたピラトの階段に背を向けることは、人が誉だと考えるものに背を向け、むしろ、敵意と嘲笑の中で箱舟建設をすることにも等しく、その意味を理解する者も少ないであろうが、その生き方は、孤独と見えても、孤独ではない。なぜなら、見えない領域で、ちゃんとその働きを見て評価する「王」がいるからだ。

人目を集め、何か派手なことを達成しているように見えながら、その実、真実性もなければ、公平性もない空虚なパフォーマンスにはこれ以上、加担したくない。

この世からの権勢も、知識も、権力も、栄誉も、賞賛も必要ない。他人の評価など全くどうでも良いことであるから、ただ自分の心の中で、偽りがないと信じられる生き方を貫き、人の目に正しいと認められるのではなく、神の目に正しいと認められる人生を目指すのみである。
 
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42-45)

むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って命を得ることができますように。

以前、当ブログでは、1940年に幻と消えた東京オリンピック同様、今回のオリンピックも、決して開催できないで終わるだろう、という趣旨の記事をいくつも書いた。なぜなら、オリンピックを国威発揚のために利用しようという理念そのものが誤っているからだ。その後、誰も予想していなかった思わぬウィルス騒動によって、それが現実味を帯びて来ている。

また、昨年、宝塚市が就職氷河期世代を対象とする公務員採用試験を行ったのに引き続き、今年、政府もが就職氷河期世代への支援の一環として公務員での採用試験を行ったが、それは百倍の倍率を超える、一般の通常の試験以上の難関となった。

呆れるような馬鹿馬鹿しさである。正規雇用に恵まれなかった貧しく弱い人たちを集め、一見、彼らを助けてやるように見せかけながら、他方では、通常の正規雇用の試験よりもはるかに過酷な競争試験を課して、多くの人々をふるい落とす。それを「支援」の名のもとに行うことは、まさに呪いを招くような悪なる所業だと筆者は思う。

だが、そのような状況を見つつも、「正規」とは何か、ということを考えさせられる。筆者は牧師制度を、牧師と信徒のヒエラルキーを思い出さずにいられない。そして、そのヒエラルキーは、人をディスカウントするために作られたものであって、そのものさしに踊らされている限り、人に平安はやって来ないと思わずにいられないのだ。
 
神に救われているかどうか分からない不安を持つ人間が、教会に所属すれば、安泰だと思って、教会の正会員になったところで、そんな会員証によって、何ら救いの確信が得られるわけではない。その埋められない不安を何とかするために、次には、神学校へ行って牧師になり、「献身」することで、神に近づこうとしても、それによって神に近付けるわけではない。
 
神学校の卒業証書も、教会の会員証と同様、何ら救いの保証とはならず、牧師になったからとて、外側を飾ることはできても、その人間性は1ミリたりとも変わらない。罪が贖われるわけでもなければ、心の内側は全く変革できない。

同様に、自分が「選ばれた者」になるために、必死になって努力をし、かいがいしく奉仕を重ね、常に他者からの承認を得るために、死ぬまでずっと終わりなきヒエラルキーの階段をひざでよじ登り続ける人生は、まるで自分の力で自分を救おうとするむなしい努力と同様であり、不毛だから、一刻も早く、やめた方がいい、と思う。

その果てに何が待っているのか。ピラトの階段の上にあるものは十字架の死である。その十字架の死を、キリストが負って下さったという立場に立たない限り、あなたはその刑罰を絶え間なく自分の身に負わされることになるだけである。

自分が安全圏だと思う場所へ滑り込むという目的のためだけに、一生、はるか上へ上へと続くピラトの階段をひざでよじ登るという苦行の毎日が待っているだけである。

「正規」だとか「非正規」だとか、牧師であるか、信徒であるかなど、どうでもいいことであるが、そもそも自己の力で「選ばれた者」というレッテルを得るために、終わりのない階段をのぼり続ける人生は、やめにしないか。
 
聖書の原則は、いつもそれとは反対で、選ばれなかった者が選ばれる、というパラドックスに満ちている。ユダヤ人たちは、諸国の民の模範となるべく、神の選民として選ばれたが、かえって今日まで心頑なにされて、救いにはあずからなかった。そこで、救いは選ばれなかった民である異邦人に宣べ伝えられた。
 
キリストにつながる系譜にも、ユダヤ人からは卑しい民として蔑まれていたモアブ人のルツ、ダビデがその夫を殺して娶った妻バテシェバ等、およそ「選民」にはふさわしくないと言われる経歴の持ち主たちが、信仰によって名を連ねている。ダビデ自身もそうだ。

ダビデの犯した罪も大きかったが、それでも、彼ほど神に愛された者は他にいないのではないか。そう言えるほど、ダビデはただ一途な信仰によって、神に受け入れられ、覚えられた。

私たちが神に受け入れられるのは、自分の努力によるのでもなければ、生まれや、立場や、能力や知識によるのでもない。自分で自分を選んだからでもないし、選ばれたという誇りによるのでもない。それはいつも神の側からの一方的な恵みなのである。
 
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない」 
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:25-26)

こうして、「自分たちは選民だ!」と神の御前で豪語する人たちが退けられ、かえって選ばれなかった民であるはずの人々が、恵みによって救いへと入れられる。

誰よりも、キリストご自身が、「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(1ペテロ 2:4)と言われる通り、人には拒まれ、世からは蔑まれ、人々の目には、神にさえ捨てられたように見えた。

しかし、キリストは罪のない神の独り子でありながら、神の姿に固執せず、己をむなしくし、十字架の死に至るまで御父に従順であられたがゆえに、神はキリストを高くあげて彼の御名をすべての名にまさる名とし、
 
「見よ、わたしは選ばれた尊いかなめ恣意を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

と言われるのである。キリストは、信じる者にとっては、神に選ばれた尊い生ける石であり、救いの岩である。だが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

「つまずきの石、妨げの岩」である。
(1ペテロ2:6-7)

そこで、私たちは、自己の力によってではなく、私たちのために、すべてを達成して下さったこの方の御業によって、神に選ばれ、受け入れられる民となることを目指すことはよくとも、自己の力によって、世から承認や賛同を受けることで、「世から選ばれよう」とする努力は、もうやめて良い頃合いであろう。そこには、何かしら深い堕落の誘惑が潜んでいるのではないかと筆者は感じざるを得ない。
    
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(一ヨハネ2:15-17)

だから、世の人々が、毎日のごとく、筆者の目の前に現れては、肉の欲、目の欲、生活のおごりなど、自慢にもならないものを自慢し、自分たちと一緒に来れば、世の幸せが手に入ると誘いをかけて行っても、筆者はそれに耳を塞ぎ、彼らに着いて行くことを拒む。
  
「ああ、あなたは未だにこんなにも貧しく、乏しい生活を送っているのですね! 本当に可哀想ですね。でも、私たちはあなたと違います。ですから、私たちと一緒に来なさい、そうしたら、私たちはあなたに素晴らしく豪華な食卓と、退屈しない会話を与えてあげられますよ!」

「あなたは誰を待っておられるのです? なぜ人生を楽しまないのです? あなたをこんなにも孤独のうちに待たせている人のことなど放っておいて、手っ取り早く、私たちと一緒に来て遊びましょうよ。楽しいですよ。一言、お言いなさい、『どうか私を一緒に連れて行って下さい』と。そしたら、私たちはあなたを最後の子分として連れて行き、存分に楽しませてあげますよ。あなたが待っている人は、きっと約束をすっぽかして来ないでしょう。ですから、あなたは当てが外れて恥をかかされるだけですよ」

「私たちは人生を謳歌しています。現在に100%満足しています。なのに、なぜあなたはいつも物足りなさそうで、何かを待っている風情なんです。え? この世が堕落している? 肉の欲は神の御心に敵対する? 今見ていないものを信じる力が生きる糧ですって? そんなわけがありませんよ。今、見えているものがすべてなんです。その今を楽しまなくてどうするんです? あなたにはきっと人生の楽しみ方が分かっていないんですよ。私たちが教えてさしあげましょう・・・。」
 
たとえそんな誘いの声を聞いたとしても、筆者はそれに着いて行かない。その誘いに乗って、彼らに着いていけば、その先には、罪の連帯責任が待っているだけなのだ。

ちょうど 不良グループが、カツアゲの現場で、見張り人をつとめる人間が必要だからと、あなたに声をかけて行くようなもので、それに着いて行けば、彼らの共犯者となってしまうだけである。だから、筆者ははそうした自慢話に耳を塞ぎ、お引き取りいただくようお願いするだけだ。

中には、知識欲、出世欲、権力欲を刺激する誘いもある。色々と話術は巧みであるが、どの誘いも、それに応じるだけの価値を持たない。
    
人は自分には手の届かないもの、自分に与えられていないものを見せつけられたとき、心に焦燥感を覚えたり、自分も同じようにならねばならないと感じたり、あるいは、自分はそういうものに値しないから、その高みから排除されたのだという悲しみを心に覚えることもないわけではないだろう。
 
だが、一瞬、そういう心の動きが起きても、大抵、後になって、それらは、手にするに値しなかったからこそ、与えられなかったのだと分かる。それは決して負け惜しみとして言うのではない。私たちが、まことの羊飼いである主にあっては、どんな時にも乏しいことはない、という御言葉は、真実であり、自分にまだ与えられていないもののことで、他人を羨む必要はないし、ましてそれを不足であるかのように他人に補ってもらう必要はないのである。
 
むしろ、神の御前に頭を垂れて、己を低くする人間にこそ、恵みが与えられるのだから、愚かしい自慢話と肉の欲を誇る生活とはきっぱりと一線を画し、いつ主の恵みの時が訪れるかを待っていればいいだけのことだ。自分には悩みごとなど何もなく、万事は順調で、欠けたところもないから、神の助けなど全く要らないと豪語して、自慢話に明け暮れているような人間には、放っておいても、そのうちふさわしい破滅がやって来る。

だから、そんな人間を羨んだり、気にしたり、あるいは腹を立てたりする必要は全くないのである。

実際、こんな箇所も聖書にはある。

「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)
 
だから、筆者は世の中で高い地位についている人たちが、様々な自慢話を語って聞かせても、それに関心を持つこともなく、賛同もせず、彼らがどれほど筆者のような立場にある人々を蔑み、嘲ったとしても、彼らを羨まないし、彼らと一緒に行かないことに決めた。

その人たちが誇っている富とは、不法や虐げによって手にしたものであって、真の裏づけを持たないものである場合がほとんどだからだ。彼らが誇っている外側の美も、人を欺くための偽りの外見に過ぎず、本物でないことがほとんどである。
 
今、世の中で起きている様々な騒動を見るにつけても、自分たちは選ばれた者だと豪語し、富んでいて、おごり高ぶっている人たちへの審判の時が、近づいて来ているような気がしてならない。 

こういう時に、私たちがなすべきことは何だろうか。家の門に過越しの血潮を塗って、家の中に静かに隠れることではないか。それは外出を控えるという意味ではない。神の御前で心静まって、主と二人きりになり、すべての相談事を、ただお一人の神にのみ打ち明け、この世にある一切のものに対して、執着を持たず、霊的死にとどまることを意味する。

そういうわけで、筆者は、世との交流を望まず、世と世にあるものを愛さず、目に見えるものに頼ることをやめて、より一層、見えない神を見あげたい。

人を救う力を全く持たないむなしいものは、もう見たくもない。そこには肉なる人間も含まれれば、この世の全ての富も含まれる。そういうものを筆者の眼差しに映すことさえ厭わしく、それらのものに心を奪われるなど論外である。

だから、筆者を救う力を全く持たないむなしいものをこれ以上、見なくて済むよう、その代わりに命の道に目を移すことができるよう、神に希うのである。
 
「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。

 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。
 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。
 あなたの道に従って
 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。
 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。
 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)


主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

あなたは誰との一致、一体化を目指すのか。目に見える人間、事物、制度、組織との一体化か、それとも、見えないキリストとの一致か・・・。

私たちは誰を自分の「代表」として生きるのか。それは非常に深刻かつ重要な問題である。

ある時、地上の権威者が、筆者はその権威者の代理人であって、筆者に話しかける人々はみな筆者を通して、その権威者自身に話しかけているのと同じだと述べたことがあった。

その時、筆者はそうした信頼が寄せられたことが嬉しく、それによって自分が高められ、かつ、その関わりの中に、キリストと信者との一致のひな型を見いだしたような気がした。

しかしながら、それは本物と似ているようでありながら、本物ではなく、厳密に言えば、大きな誤謬と言っても差し支えない考えであった。

なぜなら、私たちの代表は、ただ見えない主だけであって、目に見えるどんな人間も、私たちの代表や代理人とはなれないためである。

私たちは、目に見える人間との間で、どんなに一致や一体性を確保しようとしても、それをほんのわずかの間も、保つことができない。

目に見える人間は、他者を力づくで支配したり、あるいは指図したり、説得したりして感化を及ぼし、あるいは他者の関心を自分に向けさせたりすることはできるかも知れない。

しかし、どんなに強い心の結びつきが出来たとしても、それは決して他人を内側から変える力とはならないし、内側からの一致ともならない。

目に見える人間同士は、どんなに互いを愛し、信頼しているつもりであっても、決して真に互いを理解し合うことはなく、互いを満たすこともできず、やがて来る別離を避けることもできない。

人間同士の結びつきは、非常に脆弱で、不完全で、一時的なものに過ぎず、どこまで行っても、真の一致には至ることがない。

だからこそ、私たちには、私たちの真の助け手として、また代表として、信仰により、内側にキリストを持つことが必要なのである。キリストの中にこそ、私たちに必要な一切のものが満ちているからである。

A.B.シンプソンは「キリスト生活 第3章 キリストにある」の中でこう述べている。
 

聖書に示されている私たちとキリストとの結合には二つの面があります。それらはギリシャ語の前置詞「~にある(in)」によって最もよく表されています。それは、私たちに祝福の半球を二つ与えます。第一は「キリストにある(in Christ)」であり、第二は「あなたがたの内にあるキリスト(Christ in you)」です。

これらは異なる思想ですが、互いに相補的であり、組合わさって私たちがこれまで語ってきたキリスト生活を構成します。

まず第一に、私たちはキリストにあります。「キリストにある」とはどういうことでしょう?それは、キリストが代表となって、私たちのために立ち、私たちがそのすべての恵みと特権にあずかることです。

アダムを盟主としていただく限り、私たちはアダムにあります。同様の意味で、私たちの政治的代表者は私たちのために立ち、私たちを代表するので、私たちは彼の中にあります。そのように、キリスト・イエスは私たちのためであり、私たちの代表者です。そして彼の行為はある程度私たちのものとなります。彼はご自身のためよりも、私たちのために行動されます。


 もしもアダムに属する古き人を自分の代表とみなすなら、私たちの行動様式の一切は、古き人を導く罪と死の法則に支配され、そこから寸分たりとも抜け出ることができない。どんなに優れた偉人であろうと、どんな権威者であろうと、肉なる人間を頼るなら、私たちはそこから何一つ得るものはない。

私たちはその人間の外見や行動様式を模倣することはできるかも知れないが、模倣によって同じ性質が得られるわけではない。滅びゆく人間から受け継ぐことができるものは、しょせん、滅び以外にはないのである。
  
だから、私たちは、私たちのために死んでよみがえって下さった、神の目にただ一人完全な人であるキリストに、私たちの代表者となっていただく必要がある。

その時、その代表者の人格、思い、知恵、力、行動様式が、私たちのものとされるのである。

その法則を説明したという一点においては、地上の権威者が筆者に告げたことは、幾分か真実を含んでいたと言えるが、私たちは、キリストによって救われていない者でなく、キリストご自身を代表として生きなければならない。いや、その方が私たちの内側から生きて下さるようにしなければならない。

私たちが心の内側で、確固としてこの方の命、人格と結びつくことにより、キリストの知恵、力、すべての優れた性質が、私たち自身のものであるかのように、内側から生きて外に流れ出すようになる必要がある。

とはいえ、それが起きたからと言って、私たちは何ら超人のようにはならず、実に素朴な生活が待っているだけであろうが、それでも、私たちには、主が共にいて共に生きて下さっていることが、確実に分かるはずである。

一体、そのようなことが机上の空論としてでなく、可能なのかと、首をかしげたくなるかも知れない。

だが、先人たちの証を通しても、それは可能であることは明白である。聖書がそう告げている以上、私たちは「わたしにとって、生きるとはキリスト」である(フィリピ12:21)と言えることを信じるべきである。学習は少しずつであるが、進んでいる・・・。

* * *

もしもあなたが今、心に平安がない・・・と思っているならば、または、生きることに不自然なほどの疲れを感じる時があるなら、まずは心の扉をきっちり閉めて、主イエス以外に頼るものがない心の状態を作り出すことをお勧めする。

あなたの心は、家のようなものである。家の外では嵐が吹き荒れている。その上、強盗やごろつきどもが外をうろついている。獣だっているかも知れない。

心の平安を取り戻すためには、まずは家の鎧戸をぴったりと閉めて、隙間風が入らないようにし、外にたむろしている怪しい連中や獣たちの怒号が、家の中に届かないようにしてから、静かに神に向かって語りかけることだ。

あなたに信仰があるなら、キリストはあなたの内に確かに生きて共におられ、あなたの呼び声に応えて下さる。だから、その方に静かに呼びかけてみると良い。怖いなら、助けを求めると良い。

ならず者たちを心の中から追い出しただけでも、驚くほど心の平安が回復したことにあなたは気づくだろう。

あなたは外にいる者たちが、ならず者だということに、気づいていなかった。あなたは友を求め、助言者を求め、慰め主を求め、あらゆる場所を奔走し、目に見える人間に声をかけ、すがりついたが、誰もあなたを助けてくれる者はなかった。

彼らは、自分たちに得になる時にしか、あなたに関わらず、あなたが助けを必要としている時には、甚だ冷淡であった。彼らは、あなたをへとへとになるまで利用し、これ以上、取るものがないと分かると、あなたをぼろ切れのように投げ捨て、踏みつけて去って行った。

目に見える存在は、どんなに優れた者のように見えても、あなたを寸分たりとも、救う力を持たない。そういうむなしいものにすがり続ける限り、あなたは力を失って行くだけである。

だから、それらすべての偶像を、心の外に毅然と締め出しなさい! そして、主と二人きりになって、見えない主ご自身から、すべての必要な力を引き出しなさい。そうするだけでも、あなたは、内なる力がどれほど回復し、心に平安が戻るかを知ることができるだろう。

どんなにあなたが失敗を重ね、疲れ切っていたとしても、関係ない。主はへりくだって、心優しい方であるから、あなたが主以外のものに頼ることが誤りであると認めさえするならば、あなたの罪を赦し、責めずに受け入れ、恥じることなく、あなたの弱さを力で覆って下さる。

だから、ダビデが詩編第18編で述べた通り、あなたは大胆に宣言することができる。

「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
 主はわたしの岩、砦、逃れ場
 わたしの神、大岩、避けどころ
 わたしの盾、救いの角、砦の塔。
 ほむべき方、主をわたしは呼び求め
 敵から救われる。」

「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ
 大水の中から引き上げてくださる。
 敵は力があり
 わたしを憎む者は勝ち誇っているが
 なお、主はわたしを救い出される。

 彼らが攻め寄せる災いの日
 主はわたしの支えとなり
 わたしを広い所に導き出し、助けとなり
 喜び迎えてくださる。」
 
 「わたしは主の道を守り
  わたしの神に背かない。
  わたしは主の裁きをすべて前に置き
  主の掟を遠ざけない。
  わたしは主に対して無垢であろうとし
  罪から身を守る。
  主はわたしの正しさに応じて返してくださる。
  御目に対してわたしの手は清い。」(詩編18:2-4,17-20,22-25)

あなたがどんな状況にあり、どれほど万策尽きていようとも、神には行き詰まりはない。

運転手が何度道を間違えようとも、ナビが狂うことはないように、主は、あなたが頼り続ける限り、あなたを嘲笑することも、見捨てることもなく、あなたを正しい道へと導いて下さり、すべての悪から遠ざけられ、目的地を指示して下さる。

だから、あなたは以前は幾度も道を間違えて迷っていただけであったが、ついには勝利の歌を歌うことができるようになる。

 「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ
  驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
  いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
  御名をほめ歌おう。
  御顔を向けられて敵は退き
  倒れて、滅び去った。

  あなたは御座に就き、正しく裁き
  わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
  異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし
  その名を世々限りなく消し去られる。

  敵はすべて滅び、永遠の廃墟が残り
  あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。

  主は裁きのために御座を固く末
  とこしえに御座に着いておられる。
  御自ら世界を正しく治め
  国々の民を公平に裁かれる。

  虐げられている人に
  主が砦の塔となってくださるように
  苦難の時の砦の塔となってくださるように。
  主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
  あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。」(詩編9:2-11)

さて、A.B.シンプソンの「キリスト生活 第3章 キリストにある」の中から、キリストのご性質がどのように私たちのものとされるのか、その描写に注目してみたい。

罪の赦し、義認というテーマが重要でないと言うわけではない。しかし、ただ罪が赦され、義とされ、無力な者が神の強さによって覆われ、無知な者が知恵を得て、キリストの人格、性質が私たちのものとされる、という以上に、代表者であるキリストを通して、私たちにいかにとてつもない特権が付与されているか、そのことについて考えてみたい。

* * *

神の子供たち

もし人がキリストにあるなら、その人は彼との交わりに入り、神にとってキリストと同じ者になります。イエスは「私の父またあなたがたの父、私の神またあなたがたの神」1と言われました。

「彼を受け入れた者、すなわち、彼の御名を信じた人々に、彼は神の子どもとなる力をお与えになりました」(ヨハネによる福音書一章一二節)。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子どもなのです」。2

1 ヨハネによる福音書二十章十七節(訳注)
2 ガラテヤ人への手紙三章二十六節(訳注)

子たる身分を表すのに、新約聖書では二つの言葉が使われています。一つは「生まれた息子」を意味しますが、もう一つにはそれ以上の意味があります。子たる身分を表す二つ目の言葉は、ほとんどの場合キリストの子たる身分にあてられており、イエス以外の他の誰にもめったに使われていません。

しかし、その言葉はキリストと結合された人たちを指すのにも使われています。彼らは新しく生まれて神の子供になっただけでなく、キリストが受け入れられたのと同じ意味で受け入れられます。すなわち、彼らは新生によって子たる身分を持つだけでなく、キリストご自身の立場をも持ちます。彼らは神の子供であるだけでなく、「長子」でもあります。

東洋人の考えでは、息子と長子には大きな違いがあります。長子は世継ぎです。他の者は何らかの分け前にあずかることができますが、年長者が跡継ぎです。それで「御子は多くの兄弟たちの中で長子であり」1と述べられており、信者たちは「長子たち」と呼ばれています。

ですから愛する人々よ、あなたがたは天使がなることのできない「子供」なのです。私たちはイエスのように子です。私たちは「天に登録されている長子たちの教会」2に近づいています。私たちは「神の相続人、イエス・キリストと共同の相続人」3です。

1 ローマ人への手紙八章二十九節(訳注)
2 ヘブル人への手紙十二章二十三節(訳注)
3 ローマ人への手紙八章十七節(訳注)

聞き届けられる祈り

私たちはキリストにあります。そして、偉大な大祭司であるキリストが、御座の前で私たちを代表しておられます。ですから、私たちの祈りや礼拝は、彼ご自身が受け入れられるのと同じように、彼のゆえに受け入れられます。

彼はあなたの名によって嘆願を手渡して、その裏に彼の御名を記されます。そして、まるで彼が願っておられるかのように、あなたの祈りは御父のみもとに届きます。

キリストはご自身の人格と性格において、あなたを代表しておられます。彼は個人としてそこにおられるのではありません。私たちは個人と見なされているのではなく、キリストと一つである者と見なされています。

私たちがこのようにキリストと一つである者として来る時、私たちは自分の欲するものを願い、それを受けます。これが次の約束の意味です、「もしあなたがたが私の内に住み、私のことばがあなたがたの内に住んでいるなら、何でも望むものを願いなさい。そうすれば、それはあなたがたにかなえられます」(ヨハネによる福音書十五章七節)。

共同の相続人

私たちはキリストにあって万物を受け継ぎます。私たちは彼と共に御座に座します。彼のすべての豊富、すなわち後の時代に来ようとしているものはみな、私たちのものになります。彼はご自身の未来と私たちとをつないで下さいました。

キリストは私たちと一緒でなければ、決してなにものも所有されません。愛する人よ、もしあなたが「私はキリストにあります」と言えるなら、続けて「私は彼にあってすべてのものを持っています」と言うことができます。

それで、パウロはエペソ人のために、「キリストがどのような方であるのか、彼らが見ることができますように」と祈りました。「神はキリストを、すべての支配、権威、力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く上げられました。また神は、彼をかしらとして教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」(エペソ人への手紙一章二十一~二十三節)

彼は「私のものはすべてあなたのものです」と仰せられます。永遠の時代をもってしても、その測り知れない富を使い尽くすことはできません。

彼の所有は私のものとなり、
 彼のように私はなります。
 彼の神聖な栄光を着せられて、
 私は彼のようになります。 

* * *

私たちは、キリストと共に、死んで復活させられただけでなく、御座にまで引き上げられ、天の無尽蔵の富の共同相続人とされている。

文字通り読めば、恐ろしいと思うほどに、とてつもない特権が約束されていることが分かる。

とはいえ、これほど絶大な特権が与えられているにも関わらず、私たちの歩みは、あくまでいつも恐る恐る、新たな一歩を定めるようなものであって、決して超人的なものとはならない。それは、キリストは果てしない大海のようであっても、私たちはその海に浮かぶ小瓶のようなもので、私たちは自分というちっぽけな器を、絶えず彼のはかりしれない命によって満たしてもらうために、御前に進み出る必要があるためである。

そのはかりしれない権威、力、知恵、富、栄光は、あくまでキリストのものであって、私たち自身から出て来るものではない。しかし、私たちが彼の中にとどまるときに、それはあたかも私たち自身のもののように、私たちの内側から生きて働き、私たちは神の御前に、彼と全く同じ者のとして受け入れられるのである。


キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)

主のための霊的戦いを本当に最後まで貫徹し、勝利をおさめたいならば、私たちは徹底して、神の御前に孤独な単独者として歩まねばならない。

このことを筆者は幾度、痛感させられ、そして幾度、失敗を経験してきたか分からない。だが、神は根気強く筆者に教えて下さる。目に見えるものに頼ってはならないと。もしそれができなければ、私たちは戦いの途中で敗北者になるしかないと。

多くの人々が、主の御前で孤独や、貧しさを味わうことを忌み嫌い、信仰のゆえの苦難を蔑み、嘲笑って、去って行った。そして、筆者自身も、幾度、人々の誇らしげな自慢話を聞いては、打ちのめされ、そうした苦難を負うことをやめたいと思ったか分からない。

だが、その度毎に神が筆者に教えられるのは、もしも私たち信仰者が、神の御前で、孤独でつつましいやもめのように歩むことを忌み嫌い、人前に虚勢を張り、手っ取り早く栄光を受けようと、見えない神御自身だけに頼ることをやめて、孤独を埋め、己の欲を満たしてくれそうな様々な目に見えるアイテムーー目に見える人、事物、組織、制度――に助けを求めるならば、私たちの信仰は、必ず、弱められるということだ。

いや、弱められるだけではない。私たちは破滅に向かって行くことになる。ちょうど髪の毛を切られたサムソンと同じように、デリラの策略にまんまと翻弄されて、やがて奴隷のように引いて行かれ、苦役に従事させられることになる。

デリラとは、人間の古き人の中に働く様々な堕落した欲望そのもののことである。

だから、「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」(ガラテヤ4:30)との御言葉は、私たち自身が、自分の古き人とそれに属する諸々の堕落した情欲を主と共なる十字架の死に渡し、それによって断ち切らるべきことを示している。

私たちが神の霊によって新しく生まれ、御霊によって生かされる「自由な身の女から生まれた子」として歩むためには、「女奴隷とその子」の生き方と訣別し、神に属する新しい人類として歩まねばならないのである。

グノーシス主義の言う「母の過ちを修正する」とは、人類が目に見えるものに心惹かれる古き人の欲望に従って、神に到達し、新しい人類になろうとする不毛でむなしい試みを指している。それは、決して古き人が十字架によって断ち切られることのない、堕落した人類の偶像崇拝の道である。なぜ偶像崇拝なのかと言えば、人は目に見えるものにしがみつくことで、自らの欲望を投影した対象を拝んでいるだけだからである。

宗教指導者に頼ろうと、この世の権威者、偉人に頼ろうと、この世の目に見えるどんな事物を愛そうとも、その時、私たちは自分の心の欲望を目に見えるものに投影し、その対象を誉め讃え、それに頼ることによって、己が欲望を拝んでいるのである。

だから、私たちはそうして目に見える人、制度、事物、教えに己が欲望を投影しては、これに頼る生き方から、離れなければならない。
 
そうした目に見える事物は、私たち自身の古き人の象徴であり、集大成である。だから、それに目に見えるものにとらわれている限り、私たちは己が欲望の奴隷でしかないのである。だが、古き人が断ち切られるためには、カルバリの死が必要なのであって、キリストと共なる霊的死が、私たちに絶えず適用されることが必要である。

私たち自身が、女奴隷とその子の生き方を否み、古き人を自ら否んで、キリストと共に死んで復活させられ、新しい命を生きることを選択しなければならないのである。

偽物をどんなに糾弾しても、そこから本物が生まれるわけでないのと同じように、古き人に属する世界全体は、死んだものであって、その死の中をどんなに探し回っても、命あるものは見いだせない。

だから、まことの命を見いだし、「奴隷の女から生まれた子」ではなく、「自由な身の女から生まれた子」として生きるためには、私たちは上にあるものを見上げ、見えない主だけを見上げ、神だけを頼りとして歩まなければならない。

それは生まれながらの自分自身からも目を離す生き方である。主は私たちにアドバイスされるだろう、あなた自身の古き人も含め、目に見える世界から、滅びゆくこの世から、視線を離しなさい! そして、上にあるものを見上げなさい!と。

その時、初めて自由がやって来る。

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ6:14-15)

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(2コリント5:17-19)

キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:10-15)


「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3:1-3)
 
私たちはただキリストと共に自分の古き人が十字架で死んだ、という事実だけを握りしめているわけにはいかない。彼と共に死んだ以上、彼と共に復活させられたのであり、さらに、私たちの中にキリストが生きて下さるという事実を掴まなければならない。
 
私たちの内にキリストが生きて下さるとは、一体、どういうことを指すのか、それを知るために、以下に、オリーブ園に掲載されているA.B.シンプソンの「主ご自身」を引用しておきたい。

信じない人は、これを読んでも、全く信じず、理解もしないことと思う。だが、筆者は、これが確かに現実であって、私たち信じる者は、みなキリストご自身の命を自分の内側に掴むことができ、その命にあずかることによって、あらゆる不足を解消できることを知っている。

筆者はそのことをまだほんのわずかしか知らないとはいえ、それでも、彼が、私たちのために知恵となり、力となり、豊かさとなって下さることを知らないわけではない。また、キリストは私たちの体のための命でもあるため、私たちの体の弱さのためにも内側から命を供給して下さる。

だから、私たちは自分たちの不足を解消するために、目に見える事物を追い求めて走り回ることをやめて、キリストご自身から、自分に必要な一切のものを引き出すことを学ばなければならない。自分の弱さを感じるとき、不足を感じるとき、追い詰められて、万策尽きたように思うとき、心の内側で、静まって主に助けを乞い求めて語らい、答えを得る秘訣を学ぶ必要がある。

己が欲望を追って走っても、私たちは決して満たされることはなく、何かを掴んだと思っても、すぐにまた飢え渇きに支配されるだけである。だが、キリストは私たちを置いて去って行かれることはなく、どんな時にも、私たちが必要としているすべてとなって下さる。この方は、私たちのための知恵であり、力であり、体の命でもある。そこで、この方が内におられる限り、私たちには不足は決して生じないことを、生きて具体的に学ぶことが必要なのである。

以下のパラドックスに満ちた御言葉は、人が己が情欲を追って生きる生き方は、風をはらむようなむなしいものに過ぎないが、見えない神により頼み、キリストをまことの伴侶のごとく頼みとし、彼を知ることを追い求めて生きるならば、人が生来の力を振り絞って全力で生きても、全く到達することのできない永遠に至る実が豊かに結ばれることをよく表している。

「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルはアラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

「喜べ、子を生まない不妊の女よ。
 喜びの声をあげて叫べ。
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」」(ガラテヤ4:22-27)

グノーシス主義すなわち偽りの教えは、人が堕落した肉の欲望の奴隷となって生きながら、同時に神の聖にまで至り着き、自由になれるかのように嘘を教える。そうした虚偽に従って、人は労働したり、あるいは奉仕したりして、自己の力を振り絞って、神の聖に到達できるかのように錯覚し、そのために一大宗教体系まで築き上げている。だが、その中でどんなに精進し、勤行を重ねても、人が自力で神に到達することはできない。欲望の奴隷は欲望の奴隷のままであり、どんなにその生き方を重ねても、自由にはなれないからである。

人が自由になるために必要なのは、己が力で精進したり勤行に励むことではなく、信仰によって、キリストと共なる十字架の死と復活にあずかり、古き人に死んで、新しい人として生かされることである。主と共に、主の命の中を生きて行く秘訣を知ることである。その時に、本当に実を結ぶとはどういうことなのかを人は知ることができよう。

さて、主と共に、まことの命である復活の主ご自身を得て生きるとは、どういうことなのか? 新しい人とはどういう人間のことなのか? かなり長いが、筆者が書き続けるよりも、説得力があるように感じられるため、A.B.シンプソンの証を引用しておきたい。

* * *

私はあなたにイエスについて、ただイエスについて話したいと思います。私はしばしば、「神の癒しが得られたらと願うのですが、得られません」と人々が言うのを聞きます。またある時、「わたしは得ました」と人々は言います。「何を得たのですか?」と尋ねると、「祝福を得ました」、「教理を得ました」、「癒しを得ました」、「聖潔を得ました」といった返事が戻ってきます。

しかし、神に感謝します。大事なのは祝福や癒しや聖潔やあなたの欲するものではなく、さらにまさったものであることを私たちは教わっています。大事なのは「キリスト」、主ご自身です。

主の御言葉の中に、主ご自身という言葉が何度も出てきます。主ご自身、私たちの弱さを負い、私たちの病を担われた」主ご自身「木の上で私たちの罪をご自身の体に負われた」のです!

私たちが欲しているのは、イエス・キリストその方です。多くの人はこの思想を得ますが、それから何も得ません。彼らは頭の中に、意識の中に、意志の中に、この思想を得ますが、どういうわけかいのちと霊の中にを受け入れません。なぜなら彼らは、霊的実際の外面的表現やしるししか持っていないからです。

私はかつて、銅板の上に巧みに彫られた合衆国憲法の絵を見たことがあります。その絵は、近くから見ると文字の羅列にすぎませんが、遠くから見るとジョージ・ワシントンの顔になるのでした。その顔は、文字の間隔の僅かな違いから浮かび上がったのです。その時私は、「これこそ、聖書を読んで神の御思いを理解する方法である。これこそ、全巻を通して輝き渡っている愛の御顔を聖書の中に見る方法である。思想や教理ではなく、いのちであり、源であり、臨在して私たちの全生涯を支えて下さる方であるイエスご自身である」と思いました。

長い間、私は潔められるために祈りました。そして、潔められたと思ったこともしばしばありました。ある時、私は何かを感じ、それを失うのを恐れて必死に握りしめ、それが去ってしまうのが怖くて一晩中起きていたことがあります。もちろんそれは、感情や気分の変化と共になくなりました。当然のことながら、私はそれを失いました。なぜなら、私はを握っていなかったからです。開かれた水路を通してからいつでも豊かに受けることができたのに、私は水ためから僅かな水を汲み取っていたのです。

私は集会に出かけて、人々が喜びについて語るのを聞きました。「自分には喜びがある」と考えましたが、私は喜びを保てませんでした。なぜなら、主ご自身を私の喜びとして持っていなかったからです。

ついに、主はとても優しく私に語りかけて下さいました。「私の子よ、私を受けなさい。私を、これらすべてのものを絶えずあなたの内で供給する者とならせなさい」。そしてついに、聖潔や自分の経験から目を離し、それらのものをわたしの内におられるキリストの上に置いた時、経験の代わりに一時の必要以上のキリスト、私が必要としているものをすべて持っておられるキリスト、一度限り永遠に私に与えられたキリストを、私は見いだしたのです。

このように主を見た時、それは大いなる安息でした。それはまったく申し分ないものであり、永遠でした。なぜなら私は、その短い時間に持てるものを持っただけでなく、将来必要になるものをも主の内に持ったからです。そしてついには、私たちが「御父の王国の中で太陽のように輝き」(マタイ一三・四三)「神のあらゆる豊かさ」を持つことになる、百万年後の光景を時折かいま見るようになったからです。

私はまた、癒しも一つのものだろうと思っていました。「主は私を使い古された時計のように扱って、ねじを巻き直し、機械のように動かして下さるだろう」と思っていたのです。しかし、事実はまったくそうではありませんでした。そうではなく、癒しとは私の内側に入ってきて、その都度必要なものを私に与えて下さる主ご自身であることを私は見いだしました。

私は、裕福さを感じられるよう莫大な資産を持つことを欲し、次の日主に頼らなくてもすむように、何年分もの大きなたくわえを持つことを欲しました。しかし、主は決してそのようなたくわえを私に与えて下さいませんでした。その都度必要とする以上の聖潔や癒しを、私は決して持ちませんでした。

主は言われました、「私の子よ、あなたは次の一息のために私のもとに来なければなりません。私はあなたをとても愛しているので、常にわたしのもとに来てもらいたいのです。もし私があなたに多く与えるなら、あなたは私なしで物事を行ない、あまり私のもとに来なくなるでしょう。あなたは毎秒私のもとに来て、毎瞬私の胸によりかからなければなりません」

主は私に莫大な財産を与え、それを私の預金に繰り入れて下さいました。しかし主は、「あなたはその都度必要とする以上の額を引き出すことはできません」という一つの条件付きで、小切手帳を渡されました。しかし小切手が必要な時はいつでも、その小切手の上にはイエスの御名が記されていたので、ますます主に栄光が帰され、主の御名が天界で覚えられ、神が御子によって栄光をお受けになったのでした。

私は毎秒主から私の霊のいのちを受けること、呼吸する毎に主ご自身を吸い込み私自身を吐き出すことを学ばなければなりませんでした。ですから、毎瞬毎瞬霊のために、そして毎瞬毎瞬体のために、私たちは受けなければなりません。

「そんなことはひどい束縛であり、常に張りつめていることではないでしょうか?」とあなたは言うかもしれません。あなたの愛する方、あなたの最愛の友と一緒にいて、どうして張りつめていることがあるでしょう?ああ、そんなことはありません!それはとても自然で自動的であり、泉のように自覚も努力も伴いません。なぜなら、真のいのちは常にのびのびとしていて、溢れ流れるからです。

そして今、神に感謝します。私はを持っています。私の容量内で持っているだけでなく、私の容量以上に持っています。私の前に広がる永遠の中へと進み行くにつれて、私の容量はますます大きくなって行くでしょう。私は海の中の小さな瓶のようです。容量いっぱいに満たされています。瓶は海の中にあり、海は瓶の中にあります。

同じように、私はキリストの中にあり、キリストは私の中におられます。しかし、瓶を満たしている海水の他に、彼方には大海が広がっています。違いは、瓶の方は何度も、日々、永遠に、満たされなければならないことです。

今、私たち各自に対する問いは、「ベトシャンをどう思うか?神の癒しをどう思うか?」ではなく、「キリストをどう思うか?」です。

かつて、私とキリストとの間に小さな邪魔物が入り込んだことがありました。その邪魔物は、「あなたは信仰によって癒されたのですね」と言ったある友人とのささやかな会話の中に見られます。それに対して私は、「いいえ、私はキリストによって癒されたのです」と答えました。

違いは何でしょう?そこには大きな違いがあるのです。ある時、信仰さえも私とイエスとの間に割り込むかのように思われたことがありました。私は「信仰を働かせなければならない」と考え、信仰を得るために労苦しました。ついに私は「自分は信仰を得た」、「自分の全体重を信仰の上にかけても、信仰が支えてくれるだろう」と思いました。信仰を得たと思った時、私は「癒して下さい」と言いました。私は私自身に、私自身の心に、私自身の信仰に頼っていたのです。

私は、の中にあるもののゆえにではなく、の中にあるもののゆえに、私のために事を成して下さいと主に求めていました。そこで、主は悪魔に私の信仰を試すことを許されたのです。悪魔は吠え猛るライオンのように私の信仰を食い尽くしました。私は徹底的に打ち破られたため、自分に信仰があるとは思えませんでした。「自分には信仰がない」と私が思うようになるまで、信仰が取り去られることを神は許されました。

その時神は、私に次のように優しく語っておられるようでした、「心配することはありません、私の子よ、あなたには何もありません。しかし、私は完全な力であり、完全な愛であり、信仰であり、あなたのいのちです。私は祝福の備えであり、そして祝福でもあります。私は内なるすべてであり、外なるすべてであり、永遠にわたってすべてなのです」

大事なのはただ、「神の信仰」(マルコ一一・二二欄外)を持つことです。「そして今、私が肉体の中で生きているそのいのちを」、神の御子についての信仰によってではなく、「神の御子信仰によって生きます」(ガラテヤ二・二〇)

まさにその通りです。この信仰はあなたの信仰ではありません。あなたの中には命も何もありません。それと同じように、あなたの中には何の信仰もありません。あなたには空虚さと空しさしかありません。主にすべてを行ってもらうために、あなたは自分を開いて用意しなければなりません。あなたは、主のいのちや癒しを取らなければならないのと同じように、主の信仰をも取らなければなりません。そして単純に、「私は神の御子の信仰によって生きます」と言わなければなりません。

私の信仰には何の価値もありません。もし誰かのために祈らなければならないなら、私はこう祈るでしょう、「主よ、ここに私がおります。私がこの人に対する祝福の水路になることをお望みでしたら、どうかに必要なものをすべて私の中に息吹き込んで下さい」。必要なのはただキリストであり、キリストだけなのです。

さて、あなたの体は、キリストがあなたの内に住んで働くために、キリストにささげられているでしょうか?主イエス・キリストはあなたと同じように体を持っておられますが、その体だけが唯一完全です。それは人の体ではなく、人の子の体です。なぜ彼が人の子と呼ばれているか、あなたは考えたことがあるでしょうか?

人の子とは、イエス・キリストは唯一の典型的、包括的、普遍的、総括的な人であることを意味します。イエスは、人としてあるべきもの、また人が持つべきものを、すべてご自身の中に持っている唯一の人です。すべてはキリストの中にあります。神のあらゆる豊かさと完全な人の豊かさは、キリストの中に具現化されています。そして彼は今、人が必要とするいっさいのものの総計として立っておられます。

彼の霊はあなたの霊が必要とする一切のものであり、彼は私たちに彼ご自身を与えて下さいます。彼の体はあなたの体が必要とする一切のものを持っています。彼の心臓の鼓動は、あなたの心臓が必要とする力強さを持っています。彼は、彼自身のためではなく人類のために、いのちに満ち溢れた器官と機能を持っておられます。

彼はご自身のために力を必要とされません。自然界のいっさいの力を超越して復活し、墓から立ち上がることを可能にした力は、彼自身のためではありません。あの素晴らしい体は、あなたの体のものです。あなたは彼のからだの一肢体です。

あなたの心臓は、必要なものをすべて彼の心臓から引き出す権利を持っています。あなたの肉体のいのちは、その支えや力を彼の肉体のいのちから引き出す権利を持っています。ですから、それはあなたではなく、神の御子の尊いいのちです。

今日、あなたがこのように彼を受け入れるなら、あなたは癒されるだけでなく、あなたの一切の必要を満たす新しいいのちを持ち、いのちの洪水を持つでしょう。このいのちの洪水の後には、病を一掃し、将来の必要をすべて満たすいのちの泉が残るでしょう。おお、豊かな彼を受け入れなさい。

私は今日、小さなお守りをあなたに持ってきたかのようです。また、ここにいるすべての人のために、神が私にささやかな秘訣を与えて、こう言われたかのようです。「行って彼らに語りなさい。もし彼らが受け入れるなら、それは彼らの行く先々で力のお守りとなり、彼らを担って困難、危険、恐れ、いのち、死を永遠に切り抜けさせるでしょう」。

もし私がこの小さな講壇に立って、「私は富と成功を手に入れる秘訣を天から授かりました。神は私の手を通して、受け入れるすべての人に、その秘訣をただで与えて下さいます」と言えたなら、私は確信していますが、来る人を収容するためにもっと広い会場が必要になるでしょう。

しかし親愛なる友よ、私は主の御言葉の中からもっと尊い真理を示しましょう。使徒パウロが言うには、代々にわたって隠されてきた秘訣、大いなる秘訣があります(コロサイ一・二六)。その秘訣は、世が空しく求めてきたものであり、東方の賢者たちが見つけることを願ったものです。

その秘訣は「今や神の聖徒たちに明らかにされています」と神は言われます。パウロは、それを受け入れられる人々にその秘訣を告げるため、世界を巡りました。その単純な秘訣とは、「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」です。

「神秘」という言葉は秘訣を意味します。これは大いなる秘訣です。今日、私はあなたに言いましょう。いいえ、私はあなたに与えることができます。あなたがそれを私からではなく主から受けるなら、私はあなたに秘訣を与えることができます。ああ、その秘訣はわたしにとってなんと素晴らしいものだったことでしょう!

数年前、私は咎と恐れの重荷を負って、主のもとに来ました。私がその単純な秘訣を試してみたところ、それは私の恐れや罪をすべて取り去りました。数年たって、罪が私を征服し、誘惑が私にとってあまりにも手強いのを、私は見いだしました。私はふたたび主のもとに来ました。すると主は私に、「あなたたちの内におられるキリスト」とささやいて下さり、私は勝利、安息、祝福を得たのです。

次に、私の体がボロボロになりました。私はいつも激しく働き、十四歳の時から学び、労苦し、力を惜しみませんでした。二十一歳の時、私は大きな会衆に対する責任を負いました。私は何度も完全に消耗し、ついに最後の力をも失いました。講壇で倒れて死ぬのではないかと何度も恐れました。私は息切れを感じずに上にあがれませんでした。なぜなら心臓は衰弱し、神経はすり減っていたからです。私は主の癒しについて聞きましたが、それに反対しました。私はそれを恐れました。

私は「奇跡の時代は過ぎ去った」と神学校で教わってきました。それで、若い頃に受けた教育から抜け出せなかったのです。私の頭は自説を譲りませんでした。しかしついに私は、シュレンク氏の言う「自分の教理の葬式」とやらに参列するよう導かれました。主は私に、「あなたたちの内におられるキリスト」というささやかな秘訣をささやいて下さいました。その時から私は、自分の魂のために主を受け入れてきたように、自分の体のためにもを受け入れたのです。

私は強められ、健康にされたので、仕事が完全な喜びになりました。数年間、私は暑いニューヨーク市で夏休みを過ごしました。そこでは家庭や大学の仕事、膨大な執筆の仕事などの他に、それまでしたことのなかった群衆の間での説教や働きがありました。

しかし、主は私の苦しみを取り去られただけではありませんでした。それは単なる癒し以上のものでした。主は私に主ご自身を与えて下さったので、私は肉体の諸器官に痛みを感じなくなりました。これは主が与えて下さる最上の健康です。主に感謝すべきことに、主は私から病の感覚をすべて取り除き、心配の種である体を守り、喜びと主への奉仕、安息と喜びの単純な生活を与えて下さいます。

次にまた、私の頭は鈍くて回転の遅い貧弱なものでした。私はキリストのために書いたり話したりすることを願い、自分が得たささやかな知識を使いこなすためにしっかりした記憶力を持つことを願いました。私はこのことでキリストのもとに行き、彼がこの方面で私のために何か持っておられるか尋ねました。彼は、「そうです、私の子よ、私はあなたの知恵です」と答えて下さいました。

私は間違いを犯してばかりいました。そしてその都度、間違いを悔い、二度と間違いを繰り返すまいと思いました。しかし、主が私の知恵になって下さること、私たちはキリストの思いを持てること、主は幻想を打ち破ってあらゆる思いを虜にしてキリストに従わせることができること、主は頭脳と頭を正せることを主が語られた時、私はこれらすべてのことのために主を受け入れました。それ以来、私はこの知的不能から解放され、働きは安息になりました。

私は一週間に二つの説教を書くことを常とし、しかも一つ仕上げるのに三日かかっていました。しかし今、私は一週間の間に非常に多くの集会を導く他に、執筆業では無数のページにわたって書くべきことが常にあるのですが、嬉しいことに、それらはみな私にとって容易なのです。主は知性の面で私を助けて下さいます。主は私たちの霊の救い主であるように、私たちの心の救い主でもあることを私は知っています。

さてそれから、私には優柔不断な意志がありました。「私に対して意志となって下さらないでしょうか?」と私は尋ねました。主は言われました、「よろしい、私の子よ、あなたたちの内に働いて志を立てさせ、事を行わせるのは、神です」

それから主は、いつどのように堅固であるべきか、いつどのように譲るべきかを、私に学ばせて下さいました。多くの人は堅い意志を持っていますが、それを行使するべき時だけそれを用いるすべを知りません。それからまた、主の働きのために必要な力と、主の奉仕のために必要ないっさいの能力を求めて、私は主のもとに行きました。主は私の期待を裏切ることはありませんでした。

ですから私は言いましょう。「あなたたちの内におられるキリスト」というこのささやかな秘訣がもしあなたの助けになるなら、あなたはこの秘訣を得ることができます。どうかあなたが、この秘訣を私よりも使いこなして下さいますように!

私の感覚では、私はこの秘訣がどれほど効果的かを学び始めたにすぎません。この秘訣を受け入れ、今から永遠に至るまでそれを働かせなさい。キリストはすべてであり、今から永遠に至るまで、恵みから恵みへ、力から力へ、栄光から栄光へ至ります。


女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである。

久々にこれぞグノーシス主義という作品を読んだ。そこで改めてこの思想の反聖書的構造について述べておきたい。

池田理代子という作家がいる。有名な『ベルサイユのばら』を書いた劇画家であり、声楽家としても活躍している。最近まで、筆者はこの作家の作品の中で、『妖子』と『ラムダのとき』という2作品を読んだことがなかったが、これを読んで初めて、この作家は、グノーシス主義の精神を受け継いでいるのだということに納得がいった。

なぜ池田氏の作品の多くは、相当な人気を集めながらも、非常に救いのないプロットになっているのか、考えたことはあるだろうか。宮廷の華やかな生活と革命の混乱を描いた『ベルサイユのばら』にしても、最後には次々と登場人物が死に追いやられ、悲劇で幕を閉じる。明るい未来が提示されているわけでなく、何かの道徳的教訓が投げかけられているわけでもない。革命賛美の物語とも言えない。刹那に消えて行く愛憎劇の模様以外に、作者が一体、この作品を通して訴えようとしたものは何であったのか、読者には今一つ分からない。

しかも、最も大きな疑問は、なぜ主人公は性別を偽って育てられなければならなかったのだろうか、という問題にあろう。それは自分のあり方を根本的に偽る生き方だからである。『ベルばら』の次に描かれた『オルフェウスの窓』ではその問題はさらに深化している。主人公は妾の子として生まれたが家の跡取りになるために性別を偽って育てられたことされている。

さらに、『妖子』と『ラムダのとき』の2作品を読むと、主人公の抱える出生の秘密という池田氏の作品に繰り返し現れるテーマの謎に幾分か答えが見えて来る。それは、この2作の中にこそ、作家の非常に深いところに流れている思想が表れているからだ。この2作品は、そのどちらもが、聖書の神に対する反逆の精神に貫かれた家の乗っ取り物語である。主人公はおよそ正統な後継者と名乗るにはふさわしくない存在にも関わらず、秘密を抱えたまま、家の主人となり、家を支配しようとする・・・。

『ラムダのとき』には、存在しているかも分からない聖書外伝が登場しており、そこでは、聖書の神が人間を理不尽に追い詰める「悪神」として描かれ、それを読んで主人公が自分の出生の秘密に開眼するところも興味深い。この作品では聖書の神とそれに属するものが、誤ったものとして嘲りの対象としてしか描かれていない様子がよく分かるだろう。

もちろん、以上に挙げた2作品は、単なる創作であり、脚本を書いたのは別人であることなどを考えても、そのプロットを作者の思想と安易に同一視することはできないと言われるだろう。それでも、このような悪魔的思想を題材とする作品を、敬虔なキリスト教徒であれば、いかに創作といえども、決して世に送り出そうとは思わないであろうし、また、池田氏のその他の作品群の筋書きの中にも、共通するテーマが扱われているところを見ても、やはりこれらの作品には、作者の思想的な立場がよく表れていると言えるものと思う。つまり、池田氏は、筆者の考えによれば決してキリスト教徒ではありえず、むしろ、グノーシス主義の側に立っていると見てよい。

当ブログでは、グノーシス主義思想とは、聖書の神に対する反逆を正当化するための終わりのない詐術の物語であると述べて来た。それは善と悪、光と闇、天と地、聖と俗、神と悪魔といった、すべてのものの境界線を曖昧化することで、本来、一つに統合することのできない対極にある概念を統合できるかのように見せかけ、そのことによって、罪あるものを聖なるものに見せかけようとする嘘の教えなのであると。

グノーシス主義の神話的なプロットは、「母の過ち」によって生まれた誰を父としているかも分からない子供が、まことの父の後継者の資格を持たないにも関わらず、家の正統な後継者を詐称して、正統な資格保持者を追い出して、家を乗っ取ることを正当化するというものである。

グノーシス主義の物語には、「ソフィアの過失」と呼ばれている事件があり、それは最下位のアイオーンである女性人格ソフィアが、単独で至高神を知ろうとして、誰の子か分からない子を生むという出来事である。ここでは、ソフィアという名そのものが、聖書の創世記において、人類(最初にエバ、次にアダム)が、神によって取って食べてはならないと命じられたはずの善悪知識の木の実を取って食べることによって、神の戒めに背いて、神のようになりたいと願った誤った知識欲を正当化するためにつけられたと見ることもできよう。

「主なる神が作られたの野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、そのの中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:1-7)


人類が神の戒めの中を歩いていた間、人類にはいかなる不足もなかった。自分を見て、裸だ、弱い、身を覆うものが必要だ、などと考えることもなく、自らを恥じる必要を感じることもなかった。しかし、神の戒めを破ったとき、彼らは自分たちが非常に弱く、無力で、恥ずべき存在であることが分かり、その無力さと恥を覆うために、自分を変えるための工夫が必要であることが分かった。

エバが取って食べた善悪知識の木の実が、どういうものであったのかは分からない。だが、その描写から分かることは、アダムとエバは、己が肉欲を通して、神を知る知識を得られるという誤った考えにそそのかされ、欲望のままに行動したということである。その木の実は、人の目に美しく、好ましく、美味しそうに、魅力的に見えた。そして、いかにも賢くなるにふさわしいもののように映った。

しかし、その実を取って食べて、人類に分かったことといえば、自分が堕落して、恥ずべき、無力、無価値な存在であるということだけである。

人類はその事実を自分の目から隠した。自分が罪を犯したこと、堕落したこと、それゆえ、聖なる地位を失って、無価値な者となったことを認めたくはなかった。だから、人類は自分を変えようと工夫した。しかし、自分を変えると言っても、ただ表面的に装うことができるだけである。こうして、神の御前における人類の取り繕いが始まった。彼らはまず自分たちの手で、いちじくの葉を綴り合せて服を作ったが、それはその後、武装手段としての鎧や兜に発展し、各種の武具や装備、また、それらを作り出す知恵となり、神に逆らう人類の知恵の集大成を生み出して行く。

歴史の最後には、その偽りの知恵に基づく人類の活動は、大淫婦バビロンと呼ばれる世界的都市にまで発展している。バビロンは一大商業都市であり、自分の恥を覆うために豪奢な着物を着ているが、それはすべてうわべの取り繕いに過ぎず、内側には不法、搾取、虐げ、詐欺などあらゆる悪が満ちている。

さて、グノーシス主義の言う「母の過ち」とは、聖書的に見るならば、こうして人類が神の戒めを破って、己が力で神を知って、自ら神のようになりたいと願い、反逆によって堕落したことを意味すると言えよう。

ところが、グノーシス主義思想は、そもそも罪という概念を認めず、かえって人類の使命とは、堕落した母の過ちを自力で修正することにあるとみなす。こうして、罪を罪とみなさず、それを取り繕うことを目的とするため、終わりなき自己弁護のための詐術が生まれる。本来ならば、罪に堕落して神から切り離されたため、もはや神の子孫だなどと名乗れる資格もないはずのない人類が、神の許しを受けないままに、自分たちは神の子孫であると名乗り、母がそうしたように、自分も再び己が知識によって神を知って、自力で神に回帰しようと、延々と己がルーツの浄化を試みる詐術の物語を編み出すことになる。

もちろんのこと、人類が自力で神に回帰しようとする偽りの教えの根底に流れるのは、神に反逆して永遠の滅びに定められた悪魔が、自分を罪に定めた神を排斥して、神と入れ替わろうとする願望である。

正統な後継者の資格を持たない者が、正統な後継者を追い出して家を乗っ取る、悪魔が神を追い出して神を詐称する、その願望を受け継いだものがグノーシス主義思想である。

* * *

さて、話は変わるようだが、牧師崇拝とは、神と人との唯一の仲保者であるはずのイエス・キリストを退けて、これを人間に置き換えようとする偶像崇拝の教えである、ということを、当ブログ始まって以来、ずっと述べ続けて来た。牧師とは、神が贖って下さった子供たちの心を、肉なる人間に過ぎない者が、自分に向けさせ、自分を崇めさせるために、神から盗むための存在、と言っても良いだろう。

かつてプロテスタントは、カトリックが法王を中心とした聖職者階級を築き、法王が神の代理人となっている事実を批判し、聖書に忠実な信仰を取り戻すための抵抗運動として生まれて来た。しかし、そのプロテスタントも、結局、牧師と信徒という二つの階級を信徒の中に作り出すことで、事実上、牧師を神の代理人にするという反聖書的な制度をそのまま温存した。

それゆえ、万民祭司の原則を忠実に再現するためには、牧師というプロテスタント固有の現人神制度とも訣別しなければならないのである。プロテスタントの教会の内装は、カトリック教会のような装飾をは省いたものとなっており、信者らの目を、目に見える装飾に引き付けることでこれを信仰に置き換えようとする弊害から抜け出そうとした工夫は見られるが、それでもまだ、特定の時空間に集まるという制約から抜け出ていない。

「あの山でもエルサレムでもない」場所で、真理と霊によって父なる神を礼拝するという本来の礼拝が行われるためには、固定的なリーダーの繰り広げるショーのような催しを見るために、限定された時空間に信者を閉じ込める装飾を省いた礼拝堂からもさよならする必要がある。神への礼拝を、目に見える人、組織、制度、教えといったものの中に閉じ込めようとする試み一切と訣別する必要がある。そのために、既存の教会組織からエクソダスが必要なのである。

ところが、エクソダス、と唱えていた多くの人々も、結局は、牧師か、それに等しいリーダーたちを崇め奉る道へと逆戻って行き、今や牧師制度と訣別して信仰を守る群れは、ほとんど見当たらない。牧師を持たない、と言いながらも、実質的なリーダーを作り、その人の教えに従っている群れ以外に見いだせるものがない。

こうして信者たちの心を神から盗んで自分たちに向けさせる牧師たちの群れの中に、さらにその牧師たちの獲得した信者を盗む新手の盗人たちが忍び込んだ。反カルト運動である。牧師たちの過ちを修正すると言いながら、その牧師たちに対する信徒の反感を煽り、その機に乗じて牧師たちから羊を奪って拡大して行く新手の荒々しい残酷な運動である。

そのようにして既存の組織に侵入して行っては、内側から組織を乗っ取ったり、食い破って破壊したりするのは、ペンテコステ・カリスマ運動の常套手段であるということも、これまで繰り返し述べて来た。だから、反カルト運動が、他ならぬペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは偶然ではない。

聖書は、すべての霊が神から来たものではないから、霊を試しなさいと命じている。そこで、ペンテコステ・カリスマ運動のやたらと強調する「霊」とは何なのかをじっくり調べてみる必要がある。当ブログでは、彼らの強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」の光景が、ヒンドゥー教のクンダリーニ覚醒の様子にそっくりであることも、過去の記事で解説した。クンダリーニ覚醒とは、尾てい骨の下から人の内側に侵入した蛇が、頭部に達し、両目の間にある第三の目を開眼させて、覚醒に至らせる過程なのだという。筆者の考えでは、大仏の額にある白毫は、世界に向かって悟りの光を放つ長く白い毛であるとされているものの、きっとその正体は第三の目に到達した白蛇に違いないということも述べた。

いずれにせよ、蛇によって覚醒するなどのことは、聖書的な概念に照らし合わせて有り得ないことであって、それは人がまさに悪魔的な知恵によって、偽りの教えに開眼し、神への反逆の道を歩むことに他ならない。どんなに形を変えていても、それは人間が堕落した肉の情欲に従って生きることにより、知識を得て神のようになれるという、太古から受け継がれた蛇の教えの繰り返しでしかないことが分かる。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する各種の恍惚体験からは、無秩序や混乱以外のものは何も生まれて来ないのである。このように様々な恍惚体験、神秘体験を通して、信仰を得られるかのような考えは、錯覚に過ぎず、それは教会の中に各種の装飾を施し、聖画などと呼ばれるものを飾り、感覚的な体験を、信仰に置き換えようとすることが偽りであるのと同様、深い欺きなのである。

* * *

当ブログでは、そこからさらに大胆に進んで、資本主義の精神はプロテスタントから生まれて来たものであって、プロテスタントが聖書に完全に忠実な制度ではなく、過渡的な段階でしかない以上、資本主義にも同じ弊害が受け継がれていることを述べた。

プロテスタントの信者たちが、自分が神に救われているかどうかがはっきりしない不安から、毎週日曜日に牧師たちの説教を聞きに教会に集まるのと同じように、資本主義社会におけるサラリーマンは、この世に身の置き所のない不安から逃れるために、会社によって社員証という目に見えない救いを貸与してもらい、労働の対価として免罪符をもらうために出社する。

こうして、人々は月曜日から金曜日までの間には、企業にお参りして奉仕することで、代表に不安を慰めてもらい、日曜日には教会で牧師から慰めてもらう。労働(奉仕)はその不安心理を埋め合わせるための代償として、現人神に捧げられているものである。

どちらの場合も、その人生には、不安に駆られる人々が、誰か象徴的な人間から、おまえは正しい生き方をしている、と承認を受けることにより、自分が果たして救われているかどうかも分からず、この世に身の置き所がないという不安をなだめようとする現実逃避あるのみであって、根本的な救いが欠けている。

企業の社員証などはいつなくなるか分からないのであって、教会の会員証を維持するためにも、生きている限り、献金と奉仕が必要である。そして、彼らの不安をなだめる牧師や教師たち、もしくは、企業の代表者たちも、本当は、自分も救われているかどうか全く定かではない人々であるから、彼らに真の慰めなど与えられるはずもない。だから、彼らは口先だけの詐術によって、ないものをあるかのごとく見せかけて束の間、時間を稼ぐことができるだけであり、彼らはむしろ確信犯的に免罪符を売り歩き、それによってもうけを得ているだけであるから、非常に性質が悪い。それでも、不安に駆られた人々は、あるかないか分からない救いのために、教会員やサラリーマンの身分証に飛びつき、自腹を切ってでも、喜んで奉仕までしてくれるのだから万々歳である。

さて、では働いていない主婦はどうするのか。夫に仕えることで、夫から不安を慰めてもらうだけである。ヒンドゥー教の既婚女性が額にビンディーをつけるように、妻となった女性たちは、額に見えない刻印をつけて夫に奉仕することにより、間接的に現人神に仕える。

これらの人々は、みな人間の作った集団に帰属して、そこで互いに果てしない重荷を負い合い、リーダーに仕え、承認を得ることによって、それを救いという内心の問題と置きかえようとしている。つまり、救われているかどうか分からない不安から手っ取り早く逃れるために、神に向かわず、目に見えるものに向かい、本物の救いではない、偽物のかりそめの救いを貸与され、その印を身に着けることによって、自分の心を慰めているだけなのである。

だが、偽物の救いを貸し出してもらうための代価は非常に高く、一生、自分のものにはならない救いのために、馬車馬のごとく立ち止まることなく働き続けなくてはならない。

このような文脈における労働は、根本的に呪われており、不毛であると言って差し支えない。それは人間にはもともと地上に住みかはないという自明の理を証明するためだけの生き方である。その生き方は、人は地上に現れては消えるうたかたのようなものに過ぎず、しょせん、この世で確かにつかめる価値などないのだと告げているに過ぎない。それを超えるものは何もそこには見いだせない。

そこには、人が獲得していないものを、いかにも得たかのように見せかけ、自分のものにならないものを、あたかも築き上げたかのごとく見せかけようとするために、各種のカラクリが存在しているだけであり、そのカラクリは、嘘をまことに見せかけるのみならず、嘘が重ねられる度に、さまざまなピンハネがそこで正当化される。他者に仕えるための労働は、社会全体を罪から救済するという見せかけの目的を得るためのごまかしの手段の一つのようなものであり、だからこそ、どれほど重ねても、自己を真に富ませることがないのである。圧倒的大半の人々は、労働によって富むことはない。そして、飛んでいる人々は労働をしない。このことをよく考えてみた方が良い。

そういうわけで、プロテスタントにおける「救われているかどうか分からない」という不安心理から生み出されるとされている労働は、人類の自己救済という根本的に誤った試みであるから、それとは異なる、自己救済でない働きがなくてはならず、プロテスタントでも資本主義でもない新しい生き様、つまり、万民祭司の原則が忠実に実行された新しいライフスタイルが現れて来なくてはいけない、と筆者は考えている。筆者は少しずつそこへ向かっているところである。

* * *

パウロは人が結婚することを決して禁じはしなかったし、夫には、キリストがご自分の命を教会に捧げられたように、妻を愛しなさいと命じ、キリストと教会との間には、花婿と花嫁のような愛が成立していることを示したが、同時に、人は結婚しないでいられるならそれが最も良いとも勧めていた。

そうした勧めの根本には、人の情欲というものが、しょせん、罪に堕落した自己中心なものでしかなく、愛情とは必ずしも一致しないことが、初めから明々白々だという事情もあろう。つまり、人間の男女の間に成立し得る結びつきは、堕落した欲望を排除することができないという点で、来るべき完全なものの絵図に過ぎないためである。その完全は、キリストと教会との結びつきにある。

人間の欲望というものは、すべて自己の欠乏を満たすために存在しており、喉が渇いているときに、目の前に何かの飲料水があれば、それが炭酸水であろうと、リンゴジュースであろうと、人は大した違いはないものと考えて手を伸ばし、どれでも美味だと感じることであろう。つまり、人は己が欲望が満たされさえすれば、それを満たしてくれた対象のことなどどうでも良く、瞬時に忘れるし、そこに唯一無二の関係は存在しないのである。

人の欲望とは、そういう風に、他者を常に己を満たすための手段として扱う残酷で身勝手な性質を持っており、さらにもっと言えば、欲望の持ち主自身をも奴隷と変えてしまう。それは人間の尊厳をいたく貶めるものであって、人はどんなに相手を愛しているつもりになっていても、己が欲を通して相手に関わっている限り、そこに自己中心性が入り込むことを阻止することはできない。

唯一、そうした堕落した欲望を介さずに関わることのできる関係が、神と人との信仰による関係であり、花婿なるキリストが花嫁なる教会を愛された愛なのであるが、人がそこに到達するためには、キリストと共なる十字架の霊的死を通らなければならない。しかし、人間にとっては、己が肉の欲情を滅ぼすこの十字架の死が非常に恐るべき脅威と映る。人間には、目に見えるものによって自分を満たし、集団に帰属することによって、目に見える安心を得たいとする根強い願望があって、どうしても、目に見えない救いだけでは不十分であるかのごとく、目に見えるものに頼ろうとし、それによって自分を慰めようとすることをやめられない性質がある。

そこで、多くの信者は十字架の死にとどまることができず、見えないキリストだけを一心に見つめて歩むことができない。そこに各種の欲望を誘う人間のリーダーが現れ、牧師やその他の教師たちが群がり、信者たちの心は彼らにそそのかされ、奪われ、偽りの教えに誘い出されて行くことになる。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(2テモテ4:3)


ここで教師たちが惑わす者として登場している。信者たちが目に見える人間を権威者として崇め、奉り、偶像視しつつ、その人間に自分の欲望を重ね、それを肯定してもらうために群がる。すでにそういう時代が来ている。だが、聖書ははっきりとそのような教師たちの存在は必要ないと教えている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(1ヨハネ2:26)


このことは、人間の方を向くことをやめて、キリストの方に向き直るならば、人の心の覆いは取り除かれること、真理の御霊に頼り、教えられて生きることだけが、すべての目に見えるものを超越して歩み、何が真実であるかを知り、この世を超越して支配する秘訣であることを示している。なぜなら、キリストは世に勝って、すべての権威の上に高く上げられ、すべてを超越して支配される方だからである。この方の御霊と共に歩むとは、キリストと共にすべてを超越して支配することを意味する。とはいえ、その支配は、主と共に霊的死にとどまることによって、神の命の中に隠されて生きることであるから、決して人を脅かしたり、虐げたりすることによって他者に君臨するというものではない。

この最もへりくだった方の御霊を受けていながら、なぜ心に割礼を受けていない目に見える人間―偶像に頼る必要があるのか。もし心に平安がないというなら、牧師や教師たちや教師になりたがる信徒たちといった、キリスト以外の肉なるものに頼っていないかどうか、自分の心を点検し、心の偶像をすべて捨て去り、見えない神以外の一切の肉なるものに頼むことをやめるべきである。そうして侵入口を断てば、心に安息が戻り、偽りに翻弄されることも終わり、真実に立ち帰ることができる。様々な権威を振りかざしてやって来る中間搾取者を離れ、神にのみより頼む人生を送ることである。

<続く>


今や、恵みの時、今こそ、救いの日。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

今もなお忍者ツールズにはログインもできない状態が続いている。このブログを除き、ホームページやブログの更新ができなくなっているが、物事は困難な方が面白い。大々的に自己宣伝して更新を触れ回るようなことは、もともと筆者の好みではない。いつまでこうした状況が続くか知らないが、表向きは、更新もされていないように見えながら、知る人のみ知るよう、記事がこっそり書き足されている状況は、なかなか乙だと思う。

昔々、大震災が起きたとき、亀裂が入り、液状化現象が起きているアスファルトの道路の上を、自転車をこいで願書を出しに行ったときのことを思い出す。大事な時期に、まあ、世界の終わりのような、えらいことが起きてしまった、と感じたが、筆者はただ自分のなすべきことを淡々と果たすだけであった。

当ブログに対しては、何とかして当ブログの正しい訴えを妨害しようと、ひどい中傷の嵐が掲示板で吹き荒れたことは記憶に新しい。その後も、ひどい妨害が起き続けた。まことに異常な事件が起き続け、今になっても、何とかしてこのブログを地上から消し去ろうと願い続けている存在があるらしい。だが、目的は初めからそこにある。この信仰の証しのブログを地上から殲滅することが、敵の目的なのである。

要するに、それほどまでに、牧師制度を糾弾することが許せない、と考えている人たちがいるということだ。

いや、牧師制度を糾弾するというより、地上にはまるで本物のように広がっているキリスト教界の偽りなることを語る者が出て来ては困るということなのだ。牧師や教師などとに頼らず、万民祭司の原則を、この地上で忠実に実現し、神にのみ頼って生きようとする者が現れると、困る人々が大勢いるのだ。

何しろ、霊的中間搾取が成り立たなくなってしまうからだ。中間搾取だけで成り立っている商売が、あがったりになってしまうからだ。だから、妨害はいつまで経ってもやまないのである。

とはいえ、掲示板での中傷などは、それが止まった時期を考えてみれば、どの筋から来た妨害工作であったのか、読者にはすぐ分かるはずだ。

筆者は諦めたり、退却するつもりもない。今はまだ語れない多くのことがあるが、時が来れば、明らかにできるだろう。

筆者が目指しているのは、あらゆる意味で、この悪しき中間搾取から抜け出て、主イエスの名を通して、父なる神に直結し、誰からも霊的搾取を受けないで、神から恵みをじかに受け、神との直接的な交わりを失わないでいられる、そういう生活を送ることなのである。

そして、栄光から栄光へ、鏡のように主に栄光を反映させながら、本当に主に似た者とされるとは、どういうことなのか、知りたいと思っている。

霊的中間搾取というのは、モーセの書を朗読するときに、顔にかかる覆いのようなものである。そして、霊的中間搾取を受けるか受けないか、という問題と、地上で中間搾取を受けるか受けないか、という問題は、どこかしら密接につながっているように思われてならない。

本当はキリスト者一人一人が、父なる神に直接つながり、御言葉を自分で解釈し、恵みを受けられるはずなのに、これをピンハネする存在がある。キリスト者の目をくらまして、何とかして霊的中間搾取に気づかせまい、そこから逃がすまいとする勢力は確かに存在する。

聖書は、全世界は悪しき者の支配下にあると言う。しかし、同時に、我々、贖い出された者たちは、サタンの支配下から連れ出され、愛する御子の支配下に入れられている。主に向くときに、私たちの心の覆いは取り除かれる。私たちの命は、キリストと共に、神の命の中に隠されている。このことをはっきりと心に覚えよう。

私たちはこの土の器の中に神のはかりしれない力をいただいているのであり、神は教会を通じてすべての存在に対して、ご自分の多種多様な知恵を現されることを願っておられる。私たちは弱くとも、主は強く、カルバリでキリストは勝利を取られ、世に打ち勝ったのだから、彼を信じる者も、必ず勝利する。このことを覚えよう。

それゆえ、何も絶望することはなく、我々は勝利を求め、根気強く、敵に渡った陣地を取り返し、そこに復活の旗を立てて行かねばならない。

「でも、ヴィオロンさん、あなたは少しも勝ってなんかいないじゃないですか。いつも追い詰められて、中傷されて、恥をかかされ、窮地に立たされているのではありませんか? それでどうしてキリストの勝利の証なんかできるというんです? どこに勝利があるんです?」

人々はそう尋ねて来るかも知れない。ヨブに対して神を呪って死になさいと言った彼の妻のように。しかし、筆者は言う、いや、今日が恵みの日、救いの日だと。パウロの言葉を思い出そう。


「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしたちはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。


今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。


大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、観桜、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。


左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。


わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてを所有しています。」(2コリント:1-10)


聖書の原則は、私たちがキリストを知ることにより、「選びから除外された者が選ばれた民になる」、「愛されなかった者が愛される者となる」、「罪を宣告された者が赦しを得る」、「死に定められたはずの者が生きる」というものだ。

世には自分の手練手管により栄達を得る者がいる。もしくは、生まれた家柄によりかかって繁栄を手にする者もいる。その他、運の良さ、巡り合わせ、コネ、年齢の力などによって、色々なチャンスを掴む者がいる。もちろん、生まれ持った能力、知恵、経験も大いにものを言う。

ところが、私たちの主は言われる。「権勢によらず、能力よらず、我が霊によって」(ゼカリヤ4:6)


筆者はこの言葉を噛みしめ、前に向かって進んでいる。確かに、若い時分には、何も持っていない人でさえ、色々と自分により頼むものがあると考えているものだ。だが、そんな自信は時と共に消えうせていく。そして、主だけを頼りに進むとなると、他人を当てにすることはできない。時には、自分の無力さに、もうこれ以上、自分では対処できないと、叫びたくなることがあるだろう。

だが、筆者の場合、神は、そういう時の信じる者の叫びを、とても好意的に受けとめて下さる。

人間的な観点から見れば、「もう駄目だ!」と叫ぶことは、不信仰か、みっともないことに思われるだろう。

しかし、神は、人間が「もう駄目だ」という限界を迎えるときにこそ、速やかに助けの手を差し伸べて下さり、私たちが助けを求めることを、決して恥ずべきことや、みっともないことだとはお考えにならない。

むしろ、いついつまでも自分にはできると思って自己過信しているからこそ、神の助けを受けられないのであり、自己の力で生きる限界に早く達した方が、早く神の助けを受けられるから、早く平安に到達できる。そして、その平安、安息は、決してまやかしでも、偽りでもない。

ただし、そのようにして神の助けを受けるためには、しばしば真の窮地を通らされ、全身全霊で神を求めるという過程が必要になる。ただ単に困った時の神頼みなどという程度の求めではない、心の底からの願い求めが生まれる必要がある。人間的な観点から見れば、まさにすべてが絶望という状況から、ただ信仰によって、新たな望みが起こされ、キリスト者の勝利が始まるのである。

ローマの信徒による手紙9:13-33にはこうある。


「ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。


焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。


神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」


また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」


それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」


では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。


「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。」


あなたはどちらの組に入りたいだろうか? 義を追い求めながらそれに達し得なかった人々と、義を追い求めなかったのに、信仰による義を得た人々と?

努力して熱心に働き、熱心に財を築こうとして、ビジネスに成功した人でも、天災が来れば、一瞬でその富を失ってしまうことがあるように、自己の力で築き上げたもの、信仰によらないものは、神の目に永遠性を持たない。

霊的高みに達しようと、あらゆる勤行や精進を重ね、牧師や教師たちからお誉めの言葉を得て、日々、熱心に学びを積み重ねた人が、神から、義に達し得ないものとして疎外され、罪に定められる。義に到達しないどころか、罰せられて終わる。

キリスト教を、霊的高みに到達するための壮大な偏差値教育のようにしてしまった人たちがいる。そして、その無限のヒエラルキーの階段を日々上に上ろうと学びを重ねている人たちがいる。

だが、筆者はその階段をいつも中途で回れ右して降りて行く。真の高みに達するための方法は、その階段を自力でよじのぼろうとすることにはない。その階段には終わりがない。それは欺きであるから、高みもなければ、頂上というものも存在しない。あなたがどんなに努力しても、決して頂上を見ることはない。それは霊的搾取のために作られた階段であるから、どの段に立っていようと、恵みをかすめ取られ、栄光を曇らされ、他人に欺かれ、犠牲者になる道でしかないのである。

私たちのために、すでにすべてを達成された方がおられる。その方は、ご自分のもとにやって来る人に、ひざで階段をのぼれとはおっしゃらない。その方が私たちのために、すべての恥を負い、労苦を担って下さった。真の高みは、その方が就いておられる天の御座にこそあり、私たちは信仰によって、この方と共に死に、よみがえられ、共に御座に引き上げられている。だから、ひざで階段をよじのぼろうとしなくとも、すでにすべてを足の下にしているのである。

だが、それがあまりにも想像を超えた恵みであるがゆえに、そのことを素直に信じ、受け入れることは、人知では難しいであろう。だが、このパラドックは、考えれば考えるほど面白い。主イエス御自身が、「つまずきの石、妨げの岩」と呼ばれた。人には捨てられたが、神に選ばれた生ける石。人の目に尊ばれるものと、神の目に尊ばれるものは、正反対なのである。

とはいえ、神は信じる者を恥や失望の中に打ち捨ててはおかれない。だから、私たちをいつまでも弱さの中に打ち捨てて置かれることもなく、私たちの弱さの中に働いて、力となり、知恵となり、勝利となって下さる。すべての争いや、悪しき者のしかけた罠の中から、鳥のように救い出し、静けさと平安の中にかくまって下さる。そして義人の正しさはあけぼのの光のように輝き、明るさを増してやがて真昼のようになる。

だから、筆者は言う、今日が恵みの日、救いの日。望みを絶やすことなく、これを正直に主に申し上げながら、主と同労し、前進して行きたい。どんな状況にあっても、また、私たち自身がどうあろうとも、神の愛と憐れみに満ちた眼差しが、今日もふんだんに私たちに降り注いでいることを忘れたくはない。状況が私たちを支配するのではなく、主こそがすべての状況に対するまことの支配権を持っておられる方であり、私たちにとっての正解であり、栄誉であり、勝利なのである。

真実は、人間にもなければ、状況にもなく、ただ一人の真実なるお方がおられるだけである。この点を見失わなければ、私たちを取り巻く悪しき状況は、いずれ朝日を浴びた露のように消え去る。

「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。」(1ヨハネ3:7)

「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。」(黙示3:11)


命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも、身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(2テモテ4:3-5)


このところ、忍者ブログのサーバーが全体的にダウンしており、接続することさえできない日が続いている。当ブログに対しては、これまで絶え間のない迫害が起きて来て、多くの人が、このブログを閉鎖するよう執拗に要求し続けて来たのだが(こんな個人のブログに対してそんな反発が起きること自体が普通ではない)、こうした現象もその一環なのであろうか?

いずれにしても、終わりの時代が迫っていること、心を引き締め、より一層、清さにあずかるために、訣別せねばならないものと訣別し、まどろんでいてはならないことを感じさせられる毎日である。

ちなみに、当ブログがこれまで絶えず迫害を受けて来た最大の理由の一つは、牧師制度の誤りを指摘しているためで、牧師制度とは、神と人との唯一の仲保者であるキリストを退けて、牧師という人間に過ぎない者が、神と人を仲介しようとする偶像崇拝の制度である、と主張して来たためである。

牧師をを介さなければ、信者が自分では御言葉を理解することもできないとし、毎週日曜日に牧師の説教を聞くために、信徒が牧師に献金を払い、牧師一家を養うことを当然視しているプロテスタントの教職者制度は、根本的に誤っている偶像崇拝の制度であり、このような制度に属している限り、信者は真実な福音にたどり着くことはなく、真実な信仰を求めるならば、信者はこれを離れてまことの福音を追い求めねばならない、と強調して来たためである。

また、同時に、当ブログでは、牧師制度の腐敗により堕落した教会に対して批判の声をあげている反カルト運動も、同時に牧師たちに導かれる運動であるから、両者は根本的に同一であって、どちらにも救いはないと主張しているためである。

牧師制度を早急に離れることこそ、必要なのであり、それをしないまま、カルト化した教会だけを非難していたのでは、全く話にならない。プロテスタントの教会で起きる不祥事は、かつてカトリックが宗教的腐敗に陥って、そこから改革を唱えてプロテスタントが出現したように、プロテスタントもまた腐敗に陥って、終焉に至りつつあり、万民祭司の時代が始まるべき時がすでに来ていることをよく表しているだけなのである。

その中で、私たちがせねばならないことは、聖書に忠実な信仰に立ち戻ることだけであって、何が本当に神の喜ばれることであって、何がそうでないかを見極め、目に見える人間にではなく、ただ神だけを信頼して、ただ神だけに栄光を帰するために、御言葉に従順に歩むことだけである。だから、このブログに反対している人がいるとすれば、その人たちは、自身が教職者であるか、教職者同然に振る舞っている人たち、また、その制度を擁護している人たちだけと見て良い。

2009年には当ブログで述べているのとほぼ同じ考えを持っている人々は相当数、存在していた。キリスト教界からエクソダスせねば、真実な福音にたどり着けないという危機感は、多くの信者らによって共有されていたため、このテーマを語ることは何ら困難ではなかったし、もっと言えば、珍しい意見でもなかった。そのテーマを語ったからと言って、カルト信者扱いされることもなければ、インターネットでバッシングを受けるというわけでもなかった。

しかし、その後、非常に激しい迫害が起きるようになり、エクソダスを主張している多くの人々が、神の御前で一人で信仰を守り抜くことに挫折し、人の歓心、人の理解や慰めを求めて、自分たちのめいめい好き勝手な指導者を選んで立てては、組織に戻って行った。それは彼らが、当ブログに対してしかけられた戦いのあまりの激しさを見て、自分たちはそういう目に遭わされないで生きたいと願ったためでもあろう。一言で言えば、彼らには、御名のために受ける苦難よりも、自己の安寧の方が大切だったのである。

そのようなわけで、今や真にエクソダスを主張している人は、探しても、ほとんど見受けられない状態となった。見当たるのは、エクソダスと言いながら、キリスト教界と妥協し、牧師を批判しながら、自分自身が牧師となって、信者の心を支配し、メッセージを語り、自分たちは組織を作らないと言いながら、自前の組織を作るような偽り者ばかりである。(というよりも、そういう人たちは注目されるところで語るのが好きなので、人目につくところに彼らの発言が掲げられているというだけであるが。)

だが、筆者は、どれだけ大勢の人々が、自ら表明したエクソダスを撤回し、偽りと分かっている組織に舞い戻って行こうとも、人間を崇め、奉る生き方からは離れ、神の御言葉を守り抜いて生きることこそ、誰よりも自由で、豊かで、高貴な人生を送る秘訣であると確信しており、それだけが、勝利の秘訣であることが、身に染みて理解できる。

だから、この先、筆者のこれからの人生を通して、御言葉の正しさが証明されなければならないと考えている。そうなったときに初めて、神の恵みは、権勢によらず、能力によらず、ただ主の御霊によって、御言葉に忠実に生きる人々に恵みとして与えられるものであることが、万人に知れるようになるだろう。

多くの人たちは、自分たちが目で見て確認したものしか信じない。そこで、そのような人々の目には、彼ら自身があり得ないと思うことが成就する他、筆者の信じる神が、まことの神であって、今日も生きて働いておられ、信じる者を全ての苦難と悪から完全に救い出す力があり、聖書の御言葉が真実であることを、思い知ることもないであろうと思う。

そのために、筆者は残りの生涯、主の栄光のために、正しいことを行なわねばならないと決意しており、そうして行くときに初めて、筆者自身に尊厳が与えられ、人々のための利益も、満たされると考えている。

そのようなわけで、詳細はまだ語ることはできないが、筆者の心の中には、今まで考えもしなかったような、遠くまでの道筋、計画が思い描かれている。

だが、先の記事にも書いたように、そういう話を全く受けつけられない人たち、そんなことは絶対にあってはならないと猛反発を示す人もいなかったわけではない。「あなたを助けたいんです、ヴィオロンさん。」などと言いながら、接近して来る人たちは、大概、筆者が真に御言葉に従って生きるなら、悪者に対しては勝利をおさめられるという話を始めると、激しい反発を示して去っていくのであった。

助けたい、と言いながら、自分たちが助けようとしている相手が、真に自由になることを、誰よりも必死で阻止する。こんな人々は助け手の名には値しない。彼らの本質は、私たちが自分を縛っている偽りの体系からエクソダスを試みようとしない限り、現れることはない。だが、私たちが本気で主にあって、自由を目指そうとする時、こうした人々が、足もとに絡みついて来ては、脱出を阻止しようと、あれやこれやの言い分をぶつけ、その時、彼らの偽り者であることが私たちに分かるのである。

たとえば、悪魔に立ち向かいなさい、などという御言葉を好んで引用して語る人たちが、どういうわけか、筆者の周りで実際に起きている様々な霊的戦いについては、筆者に勝利が与えられることを喜ばない。実際に勝利をおさめることが、筆者にはどうしても必要であり、そのための方法を見いだした、と筆者が喜んで証を始めても、「そんなことが神の御心のはずがない!」と猛反発して去っていく。

さらに、筆者が自分の人生において、神の命の豊かさを体現して生きるために、制約だらけの状態から抜け出て、もっと自由にならなければならないし、そのための模索を行っているところだ、という話をすると、それにも耳を塞いで去っていく。

それはちょうど、筆者がとても窮屈で貧しくて不自由な世界から、自由を求めてエクソダスを決意すると、寄ってたかって、「おまえには幸福になる資格などない! おまえが自由になることが、神の御心のはずがない!」と叫んで、不自由な世界から筆者を決して逃がすまいと、必死で束縛して来るような具合である。

そのようなことを、普段から敬虔そうに御言葉を語り、自分は真実な信仰を知っていると豪語する人たちが、まさに行うのである。ただし、そのような人たちは、あなたが主によって真に恵まれたという話をしても、普段から決して喜んでその話を聞かないので、その態度かを通しても、大体、彼らが信奉している教えが何であるかは想像がつくのだが、あなたが真に不自由な状況からエクソダスを遂げて、主にあって、自由と勝利を掴もうとする時には、さらに強烈な反対を示して、それが成就しないように妨害して来るので、よく分かる。その時、彼らの信じている教えが、人を自由に導くように見せかけながら、実際には、貧しさと不幸と滅びの中に連れ込むことしかできない、偽りの宗教体系であることが、私たちによく分かるのである。

だから、そういう人たちに向かっては、筆者は「どうぞあなたの信じるところを行って下さいな。私は一人にされることを一切、恐れませんから」と通告するのみである。こういう人たちと手を携えて前に進んで行くことは絶対にできない相談である。

たとえば、こういう状況を考えてみて欲しい。

あなたが若者であって、軍隊に入隊したとしよう。あなたの祖国は、今や戦争を始めようとしており、士気が高まっているところだ。

ところが、あなたは、その戦争の動機が根本的に間違っており、あなたの国には正しい理念がなく、敵国はあなたの祖国よりも圧倒的に強く、打ち負かせる望みがなく、しかも、あなたの軍隊の上官たちは大変な愚か者で、間違った戦略を立てているため、それに従って戦地に送り出されれば、あなたは戦場で死ぬだけで、どんなに戦っても、生きて帰れる見込みは1%もない、という情報を、仲間よりもいち早く先に掴んだとしよう。

戦場に行けば、十分な兵糧もなく、武器も与えられないのに、飢えと、寒さと、疲労の極致の中でゲリラ戦を続けるという極限状態が待ち受けているだけであり、そこには、仲間同士の間でも、助け合いの精神はなく、あるのは、自分が生き延びるためには互いに殺し合い、互いに食い合うことで、命をつなぐ運命だけである。つまり、仲間を殺して食うという鬼畜の所業にでも手を染めない限り、生きて帰れる見込みもないというのだ。

また、その他にも、特攻作戦が実行され、敵に打撃を与えることもできないのに多くの命が無駄に費やされるという情報もあなたは掴んだ。

このような情報を得て、あなたは何をしようとするだろうか。まずは同僚たちに、この戦争は無謀である、戦っても勝ち目がない、無駄な犠牲が生まれるだけだ、ということを説いて聞かせ、反対者を募ろうとするかも知れないが、同僚たちは誰も耳を傾けてくれず、その話を聞きつけてやって来た上官が、かえってあなたを叱りつけ、これ以上、軍隊の士気を低めるような根拠のない話をすれば、祖国に対する中傷、軍隊への裏切り行為として、軍法会議にかけるぞ、などと言う。

あなたは仕方がなく、この話を誰かに理解してもらうことを断念せざるを得なくなる。だが、何も知らなかったふりをして軍隊の中にとどまっていれば、いずれ戦いにもならない戦いの中で、犬死する他ない。せめて自分の命だけは、この愚かしい戦争によって失うことのないように対策を講じる以外に、なすべきことはないと思うだろう。そこで、あなたは何とかしてこの軍隊から早く脱出するか、死ななくて良い任務に就くかして、呪われた運命を避ける方法を模索しなければならないと決意する。あるいは、そのような状況から脱するためには、亡命ということも考えてみなくてはならないだろう…。

人に先んじて情報を掴むというのは、そういうことなのである。知恵はそのためにあり、いち早く正しい情報を得た人だけが、我が身を救うための方法を、人よりも先んじて講ずることができる。もしかしたら、自分の家族をも救える方法が見つかるかも知れない。だが、残念ながら、多くの人たちは、正しい話を聞かされても、信じない。特に、自分たちが誇りとする軍隊が、愚か者の指導者に導かれているとか、自分の祖国が負けるかも知れないなどという話は、人の心を喜ばせないので、誰も耳を傾けようとしない。

戦って敵国を打ち負かし、自分たちの力と知恵で勝利を打ち立てるという話は人の歓心を買うが、戦争そのものが無謀であって、祖国には正しい理念と知恵がないから勝ち目がないという情報には、人々は耳を傾けたがらない。その話は彼らの無力さと限界を思い知らせるので、彼らにとってはあまりに悲観的過ぎるだけでなく、恥と屈辱をもたらすように思われるからだ。

だが、彼らと同じ価値観の中を生きていれば、あなたは前線で死ぬしかないことが分かっているのに、どうして彼らと一緒の道を行けようか。このように、多くの人々が考える勝利をもたらす方法と、実際に勝利を掴んで生き延びる方法は、いわば、正反対なのである。

同じように、人間が自己の力で罪を贖うために作り上げられた一大宗教体系というものがあり、そこで人々は知恵と力の限りを尽くして、天にまで至り着く高い塔を建設しようとしている。荘厳を極めた儀式、感動的な説教、多くの涙ぐましい奉仕、人々の熱狂がそこにある。

人々は筆者に対しても、その塔の建設に加わるように言う。そして、筆者のような者が、かえって彼らの建設しようとしている塔は、偽りであって、天に到達することなく、神の聖に至り着くこともなく、何らの勝利ももたらさないまま、ひどい倒壊をもたらすだけだと主張すると、彼らは自分たちのしようとしていることに、いたく水を差されたと感じ、侮辱を覚え、敵意を表すだけである。

ノアが洪水を避けて箱舟を建設していた時も、ロトとその家族がソドムを脱出しようとした時も、全く同様であっただろう。ごくわずかな義人たちだけが、堕落したこの世に定められた滅びのことを知っており、何とかしてそこから逃れ出なければならないことを知っていたが、その時、人々は、飲み、食い、売り、買い、建て、めいめいしたいと思うことをして、その日常がこれからも決して妨げられることはなく、自分たちは望みのままに生き、それによって神の聖にまで到達することができると信じて、義人たちの警告には全く耳を貸さなかった。

それだけでなく、彼らに対して耳の痛い忠告をして来た神の僕たちを排斥し、踏みつけにし、あるいは殺した。そうした警告は、人々にとっては、彼らが喜んで謳歌している人生、彼らの生きる目的そのものを、恥や、誤った考えのように思わせるものだったので、彼らはそれを聞きたくなかったし、自分たちに侮辱を感じさせる者を憎んだのである。

もちろん、筆者はこの世界が明日滅びるとか、私たちの町が滅ぼされるなどと言っているのではない。主に従うためには、自分を捨て、自分の十字架を負って、日々主に従うしかないにも関わらず、自分たちに好ましい言葉を述べてもらい、平和だ、無事だ、安全だと耳障りの良い福音を聞き、自分たちの欲望を肯定してもらいたいがために、人間に過ぎない宗教指導者をあちこちから招聘し、彼らを神のごとく崇め、奉り、つき従っている、御言葉に従わない者の末路は滅びでしかない、ということを述べているに過ぎない。

そして、ある人々が、どんなに筆者の口を塞ぎ、当ブログを踏みつけにすることによって、筆者の主張をないものにしようと考えたとしても、そのことによって、間違っているものが間違っているという事実にまで変化が起きるわけではないため、人々が自己の力で罪を贖おうとして必死の思いで積み上げている努力が、その人たち自身に呪いしかもたらさず、寸分たりとも報われないという事実に、変わりはないのである。神の僕を踏みつけにすることはできるかも知れないが、そのことによって、踏みつけた人の罪に罪が増し加わるだけであって、神の御言葉の正しさがいささかも消えるわけではなく、その決定が寸分も変更されることはないのである。

御言葉は言う。


「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要がありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ、安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。


しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(1テサロニケ5:1-6)


今年に入ってから、筆者には、心の偶像がどのようにキリスト者を弱体化させるかが分かり、また、それを投げ捨てることによって、霊的視力が回復されることも分かった。筆者が、これまで見たことのないほど遠くまで、これから起きることを予想できるようになったと述べているのも、そのためでもある。

敵に対する勝利がどのようにしてもたらされるのか、霊的軍事作戦が見えて来たのである。偽りの宗教体系であるバビロンは、自分は勝利した、無敵である、自分に敵対した者は、一人ぼっちの孤独の中で、恥と敗北を噛みしめているだけだ、二度と立ち向かって来ることはない、と豪語している。しかし、バビロンには、その罪のための裁きが下る時が必ず来て、しかも、その倒壊は非常に激しく、人々の驚きと恐怖の的になる。

これは一種の比喩であって、最終的なバビロンの崩壊は、この世の終わりを待たなければならないが、その前に起きる地上的な様々な出来事の中にも、バビロンの倒壊現象は、確固として現れるのである。だから、筆者は、その時がどうやって来るのか、少しずつ、予想しているのだが、サムソンがそうであったように、真実なキリスト者までが、バビロンの倒壊に巻き込まれるようなことがあってはいけない。

そこで、あなたがバビロンを去ろうとしているその時に、その都に駆け戻って行く人たちとすれ違うかも知れないし、その都にいる人たちを助け出さなければならないと言う人があるかも知れないが、その都に一切の未練を持ってはいけない。決して後ろを振り返らず、前へ進まなければならない。あなたが見つめなければならないものは、不完全さではなく、完全さなのである。

「より完全なものを目指す」――という言葉で検索してみると、大体、企業がより良い商品を開発しようとするときの文章が見つかる。

私たちは自分の商品を開発しているわけではないが、キリスト者として、日々、自分自身が、より完全な、完成された状態になることを目指して歩んでいることを忘れてはならない。私たちは神の作品であって、キリストの手紙のようなものである。神が完全な者であられるように、私たちもそうなることを目指すべきである。

黙示録にはこう書かれている、「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行なわせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ。わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。


命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は門の外にいる。」(黙示録22:10-15)


このように、終わりの時代、不正な者はますます不正になるが、正しい者はますます正しくなり、聖なる者は、なお聖なる者となると記されている。時を無駄にしてはいけない。神に従う者は、他の人々がどのような人生を歩もうと、それに関係なく、ますます正しく、ますます聖なる者となり、ますます完全とされることを目指すべきである。

だから、たとえ多くの人たちが、脱出の道を貫徹できず、荒野で誘惑に負け、倒れ、あるいはもとの故郷に駆け戻って行ったとしても、他の人たちがどうなったのかに心を留めてはいけない。後ろを振り向いてもいけないし、滅びに定められている一切のものに未練を感じてもならない。見つめなければならないのは、私たちの前に置かれた褒賞であり、信仰の創始者であり完成者であるイエスご自身であり、高き御座に座しておられる方である。

私たちの衣を洗い清めるのは、ただ小羊の血潮だけであり、ただ主イエスだけが、私たちの救いであり、栄光を受け、誉め讃えられるべき方なのである。

このことが分からず、人間同士が互いに賞賛し合い、慰め合うことに活路を見いだし、人の温もりに心惹かれた大勢の人たちは、エクソダスと言いながらも、出て来た元の故郷へ戻って行って、そこで神ではない別なものに栄光を帰するはめになった。彼らに待ち受けているのは、やがてその都が倒壊したとき、その下敷きになる運命だけである。それにならってはいけない。


祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。

「待ち続けるだけでは心が病む。

かなえられた望みは命の木。」(箴言13:12)


少し前の記事で、筆者は二着の「アカンの外套」を心から捨て去ったと書いた。このアカンの外套とは、人の心の偶像となりうるものの比喩である。神は、信じる者が、ただご自分だけに頼ることをお求めになる。人間への愛情と、神への愛情はほとんどの場合、両立しない。このことを私たちはよく覚えておく必要がある。主を経由しない魂の愛情はことごとく腐敗したものとして取り除かれる。


「主はこう言われる。

 呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし

 その心が主を離れ去っている人は。

 彼は荒れ地の裸の木。

 恵みの雨を見ることなく

 人の住めない不毛の地

 炎暑の荒野を住まいとする。

 祝福されよ、主に信頼する人は。

 主がその人のよりどころとなられる。

 彼は水のほとりに植えられた木。

 水路のほとりに根を張り、

 厚さが襲うのを見ることなく

 その葉は青々としている。

 干ばつの年にも憂いがなく

 実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:5-8) 


この原則は厳しいものがある。真に実を結ぶ生き方をしたいなら、目に見える一切のものに心を留めず、ただ真直ぐに主を見なければならない。上にあるものを求めなさい、と聖書は言う。地上のものに心を惹かれると、それが私たちに絡みつき、足手まといとなる。人間に頼る者は滅びる。

だから、主の御前に静まって、いつもただ主にのみ己の心を注ぎだすことを忘れてはならない。異教徒の娘デリラを愛しすぎたサムソンは、聖なるものと、汚れたものとの区別を見失ってしまった。デリラの愛は不実であって、デリラに心を秘密を打ち明けたことがあだとなり、眠っている間に、サムソンは髪の毛を切られ、力を失ってしまう。

目覚めたとき、サムソンの怪力は失せており、彼は奴隷として捕えられ、引いて行かれることとなった。何度も書いたことであるが、その後の彼の運命は悲惨であった。両眼をえぐり出され、奴隷として重い引き臼を引きずり、ついに生涯の終わりにはペリシテ人の宴会の余興として引き出される。そのとき、サムソンは、最後の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を崩壊させるが、自分もその下敷きになって死んだ。

もちろん、サムソンの運命は、人の堕落した肉の性質がどれほど深いかを表しているのであって、それは主イエス・キリストが十字架で担われた刑罰の予表でもある。サムソンは、信仰を失うことはなく、生涯の終わりには、自分自身のすべてをかけてまことの神を証した。しかし、できるならば、キリスト者はそんな運命を辿ってはならない。

サムソンの勇者としての力は、ただまことの神のみを信頼するところにあった。そこで、私たちが鷲のように翼をかって、天高く舞い上がるためには、同じように、主のみを信頼して、足手まといとなる地上のものへの信頼をすべてを心から振り捨て、ただ上にあるものを真直ぐに求めねばらならない。

そのために、人の目に慕わしいもの、心に好ましいもの、地上的なものへ心惹かれ、それを信頼しようとする傾向を警戒しなくてはいけない。真に重要な事柄を、神ではなく人間に打ち明け、人を信頼して歩いて行くことをやめなければならない。

神の御言葉を流暢に語っているからと言って、誰もがキリストの僕であるわけではない。霊を試さなければならない、と聖書は言う。さらに、仮に忠実なキリストの僕であっても、主ご自身以上に、目に見える人間に頼ることも非常な危険である。

そういうわけで、この道の原則は厳しい。どんな人であれ、肉なる人間には誰も信頼してはならず、すべてのことを主にのみ相談せねばならないからだ。それができなくなると、多くの誘惑に直面することになり、天の高度から引きずりおろされ、その高さを歩めなくなってしまう。

だが、偶像を心の中から捨て去り、天にのみ目を注ぐなら、主はその人を喜んで迎えて下さり、恵みを与えて下さる。これは霊的に動かせない法則性であるものと筆者は感じている。鷲も足に錘をつけながら、軽々と飛び立つことはできない。人間も、どんなに心の望みによって羽ばたこうとしても、その心に、地上のものに対する未練が含まれていれば、飛び立つことさえ叶わないのだ。

神を愛すると言いながら、この世を愛し、この世における人々の寵愛、賞賛、慰めを愛すれば、結局、その人はいずれ神を捨てることになる。


「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」(黙示21:14)


アダムとエバがエデンの園を追放されたのは、神の御言葉に背いたためであり、背いた者が、命の木の実を取って食べることによって、永遠に生き、聖なる者とされた者たちと同じ命にあずかることがないためであった。

命の木とは、キリストご自身のことでもある。彼が人となられ、十字架にかかられ、復活された後は、死を経て復活された彼のまことの命のことである。その命は、すべてを超越して支配する命であり、私たちの望みをかなえる力も持っている。だが、その木の実を取って食べることは、神の御言葉を守って生き、これに背かないという、御言葉への従順と一つである。

御言葉を守らない者が、命にあずかることはない。黙示録の上記のくだりの直後にはどうあるか、「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(黙示21:15)


犬のような者とは、偽善者たちのことを指すと見て良いだろう。当ブログでは、ずっと牧師という存在は、神と人との唯一の仲保者であるキリストの代用であり、聖書に反した制度であると言い続けて来た。だから、牧師たちも「犬」の中に当てはまる。キリストに頼らず、牧師に頼って生きるなら、その人は偶像崇拝者である。さらに、牧師を名乗らずとも、牧師と同じことをしている者たちも同じように偽善者に含まれる。

キリストの御名を使いながら、命を失った偽りの一大宗教体系というものがあり、それはこの世そのものである。この世を愛しながら、神に従うことはできない。偽りを好む者も、命の木から取って食べることはできない。こういう人たちはみな門を通っていないので、命の木へ近づくどころか、都の中に入ることもできない。

黙示録をどんなに読みふけったところで、御言葉を守らなければ、その人たちは滅びの中に投げ入れられることとなるだけなのだ。

* * *

「あの犬どもを警戒しなさい」

聖書にはそういうフレーズが幾度も出て来る。主イエスは、偽預言者たちを警戒せねばならないことを、繰り返し、繰り返し、弟子たちに教えられた。

当ブログ始まって以来、ずっと述べ続けていることは、「人間に優しい生き方」と「まことの神に従う生き方」は決して両立しないということである。一方は、世を愛し、世人と協調して歩む道であり、もう一方は、世に対して死んで、まことの神だけを主として生きる生き方だからである。聖書にこう書かれてある通りである。


「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光とやみとに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰とに何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。

 そして、彼らの神となり、

 彼らは私の民となる。

 だから、あの者どもの中から出て行き、

 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。

 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

 父となり、

 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』

 全能の主はこう仰せられる。」(2コリント6:14-18)


信仰のない人たちと手を携えて生きようとすれば、彼らが抱えている、負い切れない軛を私たちも負わされることになる。

だが、ここで言う「信仰のない人たち」が、キリスト教を全く知らない世の人たちだけを指すと考えてはいけない。それは何よりもこの世と迎合した偽りの宗教体系としてのキリスト教も含んでいるからだ。

つまり、訣別せねばならない「あの者ども」の中には、非常に敬虔そうに見えるが、人工的に作り上げられた、命を失ったキリスト教という一大宗教体系が含まれているのである。

だからこそ、「キリスト教界からエクソダスせよ」というスローガンは、偽りではないと、筆者は言う。この偽りの一大宗教体系に属しながら、同時に、まことの神に従って生きる、ということはできない相談なのだ。死んだ組織としての「宗教体系」に触れるとき、私たちはデリラの誘惑に、死の力に触れることになる。

だが、非常に根深い誘惑は、エクソダスせよ――と言いながらも、その圧倒的大半の人々は、この世を愛しすぎたために、自ら組織に戻って行くか、組織と混合するかし、結局、自分たちが訣別せよと叫んでいるものと、むしろ逆に一体化してしまったことである。

筆者は2009年から現在に至るまで、同じことを主張し続けているが、その中で、かつてはエクソダスに共感していたほとんどの人々が、上記のような過程を辿り、組織へ舞い戻り、おのおの好き勝手な指導者の教えに帰依し、清さを失った様子を見て来た。

だが、そうして交わってはならないものと交わると、私たちからは神の清さ、聖別が失われ、かえって敵の重荷が押しつけられることとなる。

私たちに与えられているのは、主イエスの軛であり、その軛は軽く、負いやすいと言われた、日々の十字架である。しかし、信仰のない(もしくはキリストの十字架に逆らう)人々には、その負いやすいと言われた十字架がない代わりに、彼らは自分たちでは決して返済することのできない、自己の罪という無限大の負債を背負っている。

偽りの宗教体系とは、一言で言えば、人類が己が返しきれない罪を、自力で返済しようと、終わりのない精進を続けるための体系なのである。従って、そこには様々な儀式は存在するものの、そのどれ一つとして人の罪を贖う効果はない。

もしも私たちがそのように信仰のない人々を信頼し、彼らを友のように考え、彼らと交わり、その宗教儀式に参加し、彼らと手を携えて生き始めれば、彼らが負っている無限大の負債が、私たちのものとして押しつけられることになる。

それが、サムソンがデリラに心を打ち明けたことによって、デリラから押しつけられた「負債」だったのである。本来、その苦しみは、デリラが担うべきであったが、サムソンがデリラに心を打ち明け、彼女と交わった結果、その負債がデリラからサムソンに転嫁された。

有史以来、サタンが人間に対して試みて来たのは、そういうこと(=罪の責任転嫁)であり、偽りを好む人たちが、聖徒らに自分たちの重荷を転嫁しようとしていることを、私たちは忘れてはならない。サタンは自らに対して地獄で定められている永遠の刑罰を、何とかして人(信仰者)に転嫁しようと考え、さらに転嫁できなくても、できる限り多くの人間を同じ滅びの運命に引きずり込みたく、それゆえ、自前の偽りの福音の「布教」を試みているのだと言えよう。

だから、私たちはそのような思想を受けた人々との交わりを続けてはならない。エクソダスを遂げた――と言いながら、依然、組織の中を歩き回り、宗教儀式に参加し、また、人前でメッセージを語っている人は、エクソダスを完了しておらず、それどころか、彼はまさに牧師でしかないのである。

神と人との仲保者は、キリスト・イエスだけであるにも関わらず、その間に無資格の「代理人」として立ちはだかって、神の御言葉を独占して、信者に自分自身で聖書を理解させようとしない牧師という教職者は、信仰の妨げになるから、必要のないものである。必要ないだけでなく、キリストになり代わって、信徒の心を支配するものであるから、悪しき職であり、神の栄光を盗むものであると言って良い。だが、そのことを理解して、あえて信仰の道を行くために牧師は必要ない、と言いながら、自分で牧師と同じことをしている人は、単なる牧師よりもさらに罪が深いと言えよう。

筆者が過去に遭遇した事例の中には、「私は何も分からず組織にとどまっている人々に、本当の福音を教えてあげて、彼らを助けたいんですよ」などと言いながら、訣別したはずの組織の中を歩き回っている人がいた。だが、そのような二重性を帯びた生き方を続ける人も、当然ながら、偽り者である。

私たちはソドムを脱出したならば、後ろを振り返らず、前に向かって歩かねばならないのであって、ソドムに残っている他の人々を助けてあげようなどという理由で、ソドムの町の中を歩き回っていれば、自分も彼らと一緒に火と硫黄によって滅ぼされてしまうだけだ。それはミイラ取りがミイラになるだけの道である。しかも、ソドムに残っている人々に「布教」するということは、ソドムの土着の宗教と交わり、その影響を受けた新たな混合キリスト教を形成することしか意味しない。そのようなことをすれば、神に最も忌み嫌われる偽りの福音が出来上がるだけである。

生まれながらの人間の魂には、神の救いを知らない人々に対して、神が定められた滅びの刑罰を、受け入れられない残酷なものとみなして、これに反発する性質がある。ソドムが滅びに定められたことに反発し、ソドムの人々が「可哀想」だから、助けてあげなければ・・・、などとみなして、ソドムに残って布教し続ける人たちは、実のところ、神が下された滅びの宣告そのものに逆らい、それと同時に、神がもうけられた救いにも逆らっているのだと言えよう。

神は、救われる人と、そうでない人たちの間に峻厳な区別をもうけられた。それがキリストの十字架であって、この贖いを受け入れない人々は助からない、そのことが、聖書がはっきり示している結論である。だが、信仰のない人々は、それを指して、キリスト教の神は残酷であると非難し、キリスト教徒を名乗っている人でさえ、その線引きは残酷すぎるとして、それを巧妙にずらそうとする。キリストを信じている、と言いながら、主にのみ従うのでは、やっていけないとして、そこに人間の指導者をつけ加え、人間を神として拝むがごとく、人間に栄光を帰そうとする。そういう人々も、偶像崇拝者なので、命の木の対象外である。

カトリックの法王への崇拝はもちろんのこと、プロテスタントにおける牧師崇拝という偶像崇拝の罪からも、信者は離れなければならない。人間に栄光を帰するすべての宗教組織を離れなければならない、ということを当ブログではずっと主張して来た。世の一部と化した偽りの宗教体系に未練を持ちながら、同時にまことの神だけを愛することはできないのである。

偽りの宗教体系とは、この世そのものであるから、そこには大勢の人々がおり、富があり、平穏があり、敬虔そうに見える様々な儀式と、人間の栄光を誉め讃えるチャンスがある。だが、それが偽りである以上、真理とは相容れず、それに接触するならば、私たちは清さを失って、返しきれない負債を押しつけられてしまうだけなのだ。そこにいる人たちが「可哀想」だから、救い出してあげなくてはならない、などと言って、その宗教体系が偽りなることを知りながら、そこに舞い戻って行く人たちも、滅びからは免れられない。

だから、世とは、聖書を知らず、神を知らない人たちだけのことを指し、そこに信者を名乗る人々は含まれていない、などと決して思っていていはいけない。主イエスが言われた最も警戒せねばならない相手とは、そういう人々ではなく、信者を名乗りながら、この世を愛し、この世に生きる偽預言者、偽教師たちのことなのである。

そういう人々の言い分に欺かれないためにも、有効かつ必要な自己防衛策は、私たちが心を向けねばならない相手は、あくまで「人」ではなく「神」であるという点を見誤らないことである。自分の心のすべてを尽くして、ただ神を愛せよ。隣人に対しては善良であり、親切である必要はあろうが、それは決して、彼らが抱えている罪の負債を、押しつけられて共に連帯責任として背負わされるためではないのである。

* * *

そういうわけで、筆者のそばに、知らないうちに、「犬」と呼ばれて差し支えない人々が接近して来たこともあった。彼らは筆者の心を逸らして、何とかして人との交流に第一に心を向けさせようと、大変、熱心であったが、ある瞬間が来たときに、はっきりと自己の偽りの福音を語ったため、筆者には彼らが偽り者であることが分かった。

それはいわば、「交わり教」とでも呼んだ方が良いもので、彼らはあまりにも人との交わりを熱心に追い求め、人を愛するあまり、(というよりも、彼らが交わりを愛するのは、自分たちが指導者となって、集めた人々の心を支配し、栄光を受けるためなのだが)、彼らは自分たちが忌み嫌っているこの世と妥協した既存のキリスト教体系の中にも、積極的に出入りしては、人々をスカウトし、そこで自己流のネットワークを作り上げ、これを繁栄させ、自分たちがその恩恵を受けることを、第一に念頭に置いていた。

前にも言った通り、それはマルチ商法にもどこか似ており、彼らは自前の組織を持たないまま、様々な出来合いの組織の中に入り込んでは、心の定まらない人たちをスカウトし、自分たちの組織を作り上げて行くのである。「宗教組織からエクソダスせよ」などというスローガンを片手に、宗教組織の中に入り込んで行くこともある。

だが、はっきり言えば、それは他に指導者がいる組織から人員を盗んで、彼らの心を自分に向けさせることであるから、信者の心を盗むことである。もちろん、彼らが人々をスカウトして来る先の組織も偽りなのだが、この人たちは、他の牧師たちから信徒を奪って、自分が牧師になろうとしているだけなので、単なる牧師よりも、さらに質が悪い。

反カルト運動も、原則はそれと同じである。それはすべて既存の組織の中にいる人、もしくはそこにいた人たちを引き抜いて、自分たちが新たな指導者となり、さらに彼らを出て来た既存の組織と敵対させて、かつての指導者に戦いをしかけ、人間同士を争わせるために行われているに過ぎない。それをやっている限り、彼らは出て来た組織と訣別することができない。

いずれにせよ、この人たちが一番大切にしているものは、敵対運動を組織する時でさえ、人との交流、人の集まりと、そこに生まれる熱狂、そして人間の栄光なのであって、彼らは目に見えるもの――人間の数や栄光しか見ておらず、彼らが愛しているのは、真理でもなければ、神との交わりでもない。彼らがそうまでして熱心に作り上げている人との交流は、ソドムの滅びゆく人々が、一刻でも滅びのときを先送りしながら、互いに慰め合うための協同組合のようなものでしかなく、彼らが積み上げているすべての所業は、彼らの罪を贖う効果を持たないものであり、時が来れば、火と硫黄で滅ぼされてしまうものでしかない。

さて、こうした人々には、どういうわけか知らないが、共通して、このブログを憎み、忌み嫌うという特徴があるようだ。そこで、ある時までは、筆者に対しても、仲間のように振る舞いながらも、突如として、筆者がブログを書くことには反対だ、ブログをやめない限り、交わりを断つ、などと言ってくるケースもある。

彼らは、人との交流を失いたくないがゆえに、筆者がそう言われれば、彼らにすがりつき、どうか私を一人にしないで下さい、と追いすがって懇願すると考えているのかも知れないが、筆者はその逆に、「どうぞお考えの通りになさって下さい」と言うだけだ。

非常に可笑しいのは、「あなたのブログには、私の出る幕は微塵もない」という理由で、筆者にブログを書きやめるよう要求する者もあったことだ。だが、「私の出る幕がない」とは、どういうことであろうか?

当ブログは、神の栄光を証するために作られたものであって、もともと人間に「出る幕」を与えることを目的としていない。人を批判することが目的もでなく、人はみな不真実な存在であって、真実な方は、ただ神お一人しかいないことを証し、まことの神に栄光を帰することを目的としている。だから、人間に「出る幕」がないのは、大いに結構なことである。人間がここで栄光を受けたり、注目と賞賛を浴びるようなことがあってはならない。それは筆者自身も同じである。筆者自身も、生まれながらには不真実な人間の一人であって、キリストと共に死の刑罰を受け、復活の命にあずかることによって、初めて神に対して生かされたのであり、今もこれからも、証するのはキリストの栄光だけだ。

それだからこそ、このブログで、筆者は自己を証しないと決めている。筆者が個人情報を公開しないことを責め立て、これを暴き立てようとした愚かしい者たちもあったが、そもそもなぜ彼らはそうまでして神ではなく人間のことにばかりこだわるのだろうか。神の御前で死の刑罰を受け、死んだ人間の名や功績など記すことによって、何が得られると思うのであろうか。

自分の名を知らしめ、自己を偶像化して人々の心を引くチャンスが欲しくて執筆を続けている人々であれば、自分の情報を大いに利用するであろうが、そんなことが当ブログの目的では初めからないので、筆者はそうしないだけである。

筆者は、このブログを通して組織を作ることなど考えたこともなく、そのような組織が作られた過去もなく、神の御前の単独者として歩むことを決めているので、人の歓心を失うことを恐れない。

そういうわけで、アカンの外套がそばに置かれていた間に、この重い外套が足手まといとなって、様々な遅延が生じてしまったが、これから先は、その遅れを取り戻して、さらに前進を続けて行かねばならない。今、詳しくことのことについて説明できないが、いずれ、はっきりと遅れを取り戻すとは何か、進んで行った先に何があるのか、結論を示すことができる日が来よう。

今日、デリラは大きな都にまで発展している。それはバビロンという名の巨大な都であり、神ではなく人間の栄誉を称え、人間を拝ませるために作られた偽りの宗教体系である。そして、偽りの宗教をエクソダスしなければならならないと叫びながらも、デリラの魅力が忘れられない大勢の人たちが、この堕落した都に吸収されて行った。その際、彼らは、自分たちは世故に長けており、如才なく器用に立ち回れるタイプなので、今までにも決して一人になったことはないし、孤独を味わったこともなく、これからもそのようなことは決してない、などと豪語しながら、貧しい者たちを踏みつけにし、嘲笑うことも忘れなかった。

そして、彼らは、自分の好みに従って、好き勝手な教師たちを集め、彼らに自己の心を慰めるための作り事の福音を語らせ、真理から逸れて行ってしまったのである。

哀れなことである。筆者は彼らから見れば、あまりにも不器用過ぎたために、様々な苦難に遭ったこととされているようであるが、この人たちには、あまりにも誇るべき様々な長所がありすぎ、あまりにも多くの世の富を持ちすぎていたので、それが妨げとなり、主の御前で、それを捨てるに忍びなかったのだ。

こうしてデリラはバビロンと化し、女王のように栄耀栄華を極めている一方で、今日のサムソンは、怪力を奪われ、奴隷のごとく両手を縛られ、視力を失い、惨めな状態で、ペリシテ人に対する復讐を神に叫び求めつつ、苦役に従事させられている。これが、今日のまことのキリスト者の全体的に置かれている有様である。偽りの宗教体系は、巨大な都となって繁栄している一方、正しい人が、悪者たちに踏みつけにされ、神の御言葉が冒涜されても、立ち上がる者もない。

だが、なぜそんな状態に陥ったのか、考えてみるが良いのだ。キリスト者にも反省すべき部分が大いにあり、その弱体化は、神の聖を知っているはずの民が、この世との接触を断たなかったからではないのか?

戦いに勝つためには、二心のない清さが必要である。私たちが目指している見えない天の都と、地上に築かれたこの偽りの都(この世と合体した偽りの一大宗教体系)とは、正反対の方向にある、完全に相容れないものである。一つは上にあり、もう一つは地上に、私たちの足の下にある。もしも私たちが足の下にしているはずのもの――デリラに少しでも未練を持ち、これを聖なるもののように見上げて――この世の都を振り返るなら、私たちの霊的優越性は失われる。その先には、サムソンの最期が待ち構えているだけなのである。

そこで、何度も繰り返すが、主に信頼して、この方にのみ頼って生きることが、私たちの驚くべき力の源であり、秘訣なのである。望みがかなうことは、命の木である。その命の木にあずかり、天の高度を羽ばたいて生きるためにも、地上のものに決して心を惹かれてはならないし、肉なる人間を信頼してもならない。

この秘密を敵に明け渡し、後ろを振り向きながら、同時に前に進んでいくことは誰にもできない相談であり、キリスト者が、敵に定められた運命を、自分の運命と交換するようなことは、絶対にあってはいけない。

だが、神は真実な方であるから、私たちがどんなに不真実であっても、意図的に神に反逆することなく、御言葉に従って生きようと心から決意し、神の忌み嫌われるものと分離し、この世を愛さず、デリラへの信頼を心から完全に断つならば、ご自分の栄光のために、御言葉の約束を成し遂げて下さり、そうしてペリシテ人の神殿が崩壊する時が実際に来るのを、私たちは見るであろう。

筆者はそのことをよく知っている。そして、筆者が必ずそのように成るから、この先に起きることをよく見ていて欲しいと語っただけで、以上に書いたようなことが起き、偽預言者は、そんな証は決して聞きたくないと、筆者の証にも、このブログの内容にも耐えられないと、耳を塞いで自分から去って行ったのであった。それは、万民祭司の原則が忠実に履行され、一人一人の信徒が自立して自ら御言葉を咀嚼するようになり、自分たちの証を語り出し、神の命の豊かさにあずかり、牧師も教師も必要なくなり、彼らが偶像として拝まれ、栄光が帰されることがなくなって、バビロンが崩壊して焼失すれば、偽預言者たちはみな失業し、一切の「出る幕」がなくなると悟ったからであろう。

そういうわけで、罪人は正しい者の集いに耐え得ないという御言葉が成就して、何の論争もなく、信仰の証は、敵の思想を受けた人々をふるい分け、分離すべきものと分離するための良い試金石となってくれたのであった。


あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)


なぜ鷲は天高く翼をかって飛んでも疲れないのか、その理由として、上昇気流に乗って飛ぶからだということが解説されていた。

上昇気流に乗って飛ぶ・・・、このことは我々キリスト者にとっても非常に重要であると筆者は考える。

キリスト者が翼をかって天高く舞い上がる秘訣となる上昇気流とは何か?と問うならば、その答えは、「望み」であると筆者は考える。

私たちを高く舞い上がらせる原動力となるものは、私たち自身が心に抱く望みであり、その望みの高さが、私たちを舞い上がらせる高度を決める。

フィリピの信徒への手紙にはこうある、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)
 

また、エフェソの信徒への手紙にはこうある、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(エフェソ3:20-21)
 

私たちは自分が思いのままに何かを願い、志を立てているように思うかもしれないが、神が私たちの心に願いを起こさせて下さることがここに記されている。

しかし、しばしば私たちは、もはや二度と翼をかって天高く舞い上がることもできないほど、どん底に突き落とされたように感じることがある。望む気力さえもはや残っていないほど、疲れ果ててしまうこともある。

だが、それでも、時と共に、主は私たちの内なる人を強めて下さり、その苦難の只中からさえ、新たな望みを引き出して下さる。

そして、その新たな望みが、私たちを再び、天の高度へ引き上げ、主に似た者へと変えて行く原動力になる。


「しかし、主の方へ向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(2コリント3:17-18)

 

ここで言う主の似姿に変えられること、栄光から栄光への変遷、それはまさに一つの望みから新たな望みへと、上昇気流を掴みながら天の高度を飛んで行くようなものである。

とはいえ、もちろんのこと、その望みとは、人がてんでんばらばらに自分で思い描く望みではなく、主が与えて下さり、主の御心を満足させる望みでなければならない。

人にはあたかもすべての望みが潰えてしまったように思える時があるだろう。しかし、主は、地中に深く埋もれた種のごとく、私たちの望みを保って下さる。その望みが、時が来て発芽する。そして、私たちの目の前に天からの贈り物のごとく現れる。

キリストの復活の命は、支配する命であると書いた。その支配は、私たちが心に抱く望みと連動して働く。それはこの世の物流も、経済も、何もかも超越して支配する命である。


「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(一ヨハネ5:14-15)



もしも御心にかなう望みを抱くならば、それは神に聞き入れられていること、すでに望みはかなえられていることを信じなさい、とある。

筆者は望みが潰えてしまったように感じられるときに、多くの望みの芽が発芽するところを見させられて来た。たとえば、神は正義を実行されることを決してためらわれる方ではない。

だから、筆者が正義や真実をこの地に引き下ろすための戦いをあきらめようとしても、それで戦いが終わることはない。神は何がご自分の真実であるかをはっきりと全世界に示される。そのために、道端の石からでも、ご自分のための証人を起こすことがおできになる。

そこで、私たちがもう疲れた、戦いは終わった、全世界は悪しき者に牛耳られ、キリスト者には一縷の望みもない・・・、などと思っているところから、神はご自分の力を発揮される。それが死を打ち破る復活の力なのである。

キリスト者には失敗というものはなく、人の目にどんな失敗と見える事柄であっても、神はそれを修正してもとの軌道に戻すことがおできになる。だから、何事も悔やむ必要もなければ、思い悩む必要もないのである。

また、私たち自身が、自分でも心に願っていることを気づいていないような、かすかな願いであっても、神はキリストの復活の命を通して、これをただちに実現に至らせる力を持っておられる。私たちは何かを願ってから、それがかなうまでには、大変な時間がかかると考えているかも知れないが、必ずしもそうではない。

キリスト者の願いは、この世のすべてのものが、その支配に服する高き御名をつけられた方の命と連動して働いている。だから、願ったとき、もうすでにそれは私たちの手に、まるで目に見えるもののように約束として与えられていることを信ずるべきなのである。

神は何より正義と真実を愛される。公義を行なわれる方である。だから、正しい者が悪者にとらえられて裁かれ、罪に定められることを決してお許しにならない。主に逆らう者が滅ぼされるときを、正しい者はその目に見ることができる。それが聖書のあらゆる箇所で約束されている事柄であり、また、筆者が心から望んでいる結末でもある。

それが御言葉の約束である以上、それは必ず成就するから、現状がどのように見えても、人々には落胆しないでもらいたい。筆者があきらめたとか、退却したとは思ってもらいたくない。神は今日も生きて働いておられ、御言葉の約束も確かなものとして生きて効力を及ぼしている以上、主に信頼を置く者が見捨てられたり、恥をこうむることは決してないのである。

そういうわけで、私たちは御言葉の約束を手に心の限りを尽くして主に呼ばわり、その約束の実現を権利のごとく求め、固く信仰に立って歩みを進め、未来に何が起きるのか、神がどれほどはかりしれない恵みを私たちの信仰の報いとして与えて下さるのか、大きな期待感を持って主を見上げるべきである。
   

「主に従う人は、口に知恵の言葉があり

 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。
 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。


 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ

 罪に定められることをお許しにならない。
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。」(詩編37:30-34)

わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。

ヨシュア記7章20節~26節
「アカンはヨシュアに答えた。
「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。

分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」
ヨシュアの出した使いたちがアカンの天幕に走って行って見ると、果たして彼の天幕の中に、銀を下に敷いて地下に埋めてあった。
彼らはそれを天幕から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに運び、主の前にひろげた。
ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、
こう宣言した。
  「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。

彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている。 」

* * *

最近、主は筆者にこう問われたように思われた。
「ヴィオロンさん、あなたは本当に自分のことを不器用だと思っているのですか?」

筆者はその問いを受けて考え込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます、あなたは私が着いているのに、自分は不器用だ、と人前で吹聴し、それをあたかも謙虚さであるかのように言うつもりですか?」

筆者ははっとして黙り込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます。私があなたの中で、あなたの弱さを覆い、あなたのための強さとなっているのに、それでも、あなたは自分は不器用だ、他人に比べて何もできない、自分は大した人間ではない、などと吹聴して回る気ですか?

 そのあなたの言葉は、あなた自身に対する侮辱であるだけでなく、私に対する侮辱でもあり、不信仰であることが分かりませんか?

「しかし,主は,『わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。」(2コリント12:9)

この御言葉はあなたの中でどこへ消えたのです? なぜあなたは自分は弱い、などと得意げに吹聴して回るんですか? なぜそうした言葉を聞かされて、それに無条件に頷くのです・・・?」

このような気づきがあってから、筆者は人々との関係性を根本的に見直さねばならないことに気づいた。いつからか分からないが、振り返ってみると、筆者のものの考え方が、巧妙に主ではなくこの世を中心とするものへ、次第にシフトしていたことに気づかされたからだ。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは 、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えること はできない。」(マタイ6:24)

この御言葉は、どういうわけか、筆者の記憶では、いつも「神と人とに兼ね仕えることはできない」という風に思い出される。ここで言う「人」とは「この世」のことだ。つまり、この御言葉を、筆者は、神と世の両方に兼ね仕えることはできない、という風に理解して来た。富とは、この世の権勢のことでもある。だから、この御言葉が「神と世に兼ね仕えることはできない」という意味を兼ねていると筆者が考えたとしても、その理解は、この御言葉の本質からそうかけ離れていないだろう。

筆者は、これまで自分を取り巻いている状況があまりに苦しくなったり、極度に自由が圧迫され、天の高みから地に投げ落とされたように感じられ、さらに退路が封じ込められたように思われるときには、自分をつぶさに振り返ってみると、大抵、巧妙に、「この世」が生活の中に入り込んでいることを発見したことを思い出す。

しかも、そうしてキリスト者を堕落させたり、自由を奪う「この世」とは、ほとんどの場合、人を通してやって来る。誰かが神の御前を孤独に静かに歩くことをやめ、「自分は一人ではない!」などと豪語し始めれば、その人は、大変な危険に直面していると思った方が良い。人々から誹謗中傷され、のけ者にされ、蔑まれることがやんで、笑顔で迎えられるようになり、どこへ行っても、もてなされ、必要とされ、歓迎されるようになり、本人までが、その状態を喜んで、自分は二度と孤独になることはないなどと、人前に吹聴するようになれば、もはやその人は、まことの信仰の道から逸れて、偽預言者の道を歩いていると考えた方が良いのだ。

そういう意味で、筆者は、この年始に、主によって、危ない道から危険に遭遇する前に引きずり出された。筆者は年明けに、真に気高い目的のために、人々に本当に奉仕する道を選ぼうと決意したが、それは直接的に、人間の喜ぶ奉仕をして、人々を喜ばせようという計画ではあり得ず、そこで、筆者は、直接的に人の心を喜ばせ、満足させる生き方からは、引きはがされねばならなかった。

モーセがシナイ山に登って、十戒を授かったとき、民は山のふもとで金の子牛像を作って、これを拝み、歌い踊り、戯れていた。てんでんばらばらな欲望を心に抱き、それを互いに自慢し、承認し合って、祝杯をあげていたのである。モーセは民のその姿を見て、憤りに燃え、十戒の刻まれた石板を地にたたきつけて粉砕した。

キリスト者の道は、山のふもとで生きる道ではない。むしろ、ふもとにいる民を置いて、高い山を登り、望みうる限りの最高の目的を神に向かって申し上げ、その高みへ到達できることを信じ、孤独な戦いを一人で戦い抜くことが必要な道である。そうして信仰の戦いを戦い抜いて帰って来ても、民は理解もせず、歓迎もせず、むしろ、そのキリスト者はとうに死んだと思って、怪訝そうな顔をし、疎んじるだけかも知れない。

それほどまでに、誰も理解も賞賛も感謝もしないかも知れない道であり、それはとてもとても婉曲で、困難で損な道に見えるかも知れないが、結果的には、それこそが、民全体のために奉仕するエクソダスの道なのであり、天の無尽蔵の栄光で報いられる十字架の道なのである。

私たちは自己満足のために高い山に登ろうとしているわけではない。それは自己の栄光のためではなく、まさに山のふもとにいる民に本当の利益をもたらすための試みでもあるのだ。
 
そういうわけで、筆者は年始になると、心から狭い道を行こうと決意させられると同時に、それから瞬く間に、心にある「アカンの外套」を手放すよう求められた。それが、神を喜ばせない「この世」の奉納物であるとは、筆者は知らなかったのだが、主は「自分は一人ではない!」と豪語する道を行ってはいけないと、早速、筆者を引き戻された。

主は、それがイミテーションの心の慰めであり、この先の道で、筆者はそれらのものを携えて行くことはできないし、それを持ち続ける限り、それは筆者の心の偶像となり、筆者の生活を堕落させて敗北に導き、地に投げ落とす原因になると告げられた。

筆者はその時が来るまで、その外套が、これまでの間にも、筆者を天的な生活から地に投げ落とすきっかけとなっていたことを知らなかった。筆者の気高さ、尊厳を失わせている源は、筆者がまさに仕えていると考えていた民だったのであり、もっと言えば、彼らの心を支配する欲望であった。主は、金の子牛を拝んでいる民のために給仕することは、決して神の御心ではなく、筆者の尊厳を失わせるだけだと示された。
 
それらの被造物が、あたかも筆者の主人のごとく、ぴったりと筆者に身を寄せて、味方のように振る舞い、なおかつ、真実な信仰者の姿に非常によく似ていたので、筆者にはそのことが分からなかったのである。

だが、筆者が霊的な山に登り、真に困難な挑戦に挑もうとした時、それはふもとの民となって、筆者を引き留めようとし、訣別の時が来た。彼らは彼らなりの金の子牛像を取り出して、筆者にそれを拝むよう求め、筆者がそうしないならば、筆者とはもはや一緒に行けないと告げて来た。その瞬間が来てから、ようやくそれらは世から来たものであり、偶像であることに気づかされたのである。

筆者は主以外に筆者の心を占めるものを完全に取り除き、筆者の隣の席を、主のためだけに空席として、進んで行くことに決めた。

この世でも、人は誰しも、誰かの愛人になりながら、自己の尊厳を主張することなどできはしない。まして大勢の愛人の一人の立場に自ら甘んじながら、尊厳などという言葉を口にすること自体が、僭越であり、滑稽であろう。それと同じように、欲望の奴隷となった人には、尊厳も自由もなく、この世(地上的な人間関係、この世の富、権勢、栄誉など)は、すべて堕落した人間の欲望から成り、世に支配される者は、欲望の奴隷であり、罪と死の奴隷である。そこにあるのは、いわば、一夫一婦制ではなく、人を奴隷にする愛人関係のようなものだけである。それに仕えている限り、その人は卑しめられた状態から抜け出せない。

堕落した欲望に縛られ、その奴隷となりながら、自分は高貴で自由な人間であると、どんなに叫んでも無駄なことである。

だからこそ、御言葉は、私たちが主と共なる十字架を経由することにより、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、 十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)と言うのであって、私たちはこの十字架を離れてはならないのである。

だが、この世には偽りの信仰の一大体系や、偽りの信仰者たちがいて、その教えは結局は、グノーシス主義に他ならないのだが、それは人が自己修練することで、信仰の高みを目指せると教える。

確かに、信仰の高みというものは存在するものと筆者は思う。だが、その高みは、あくまで人の個人的な望みによるものであり、その道も、個人的に様々に異なっているのに対し、グノーシス主義の教える信仰の高みとは、いわば、偏差値みたいなもので、何かしらの共通のヒエラルキーの階段を通して、人々が自分の信仰の度合いを比べ合い、裁き合って、品定めし合いながら、自分はどこまでその階段を登ったのかを競い合うことを言う。

そういう考えを持つ人々は、一見、この世の信仰を持たない人々のように、あからさまに己が肉欲の奴隷となったりはしないため、あたかも敬虔な信仰を求める人々のように見えるかも知れないが、よくよく話を聞いてみれば、その内容は、ヒエラルキーの階段を上に上に登ることで、あなたも自己の栄誉欲を満しなさい、という内容となっている。彼らは弟子をたくさん作って互いに競争させながら、彼らの言う「高み」を目指すよう、過酷な鍛錬を敷いて、成果を競い合っている。

そうして自己修練に励むことで、神に近付けると考える人々は、肉体を鍛えたり、修道僧のように禁欲的な生活を送り、自分よりもはるかに弱い人たちに仕え、謙虚で、誠実そうにも見えるため、一見すると、この世の人々の及ばない人格者のようにも見える。また、弟子を作ることに熱心なので、人々をスカウトする術にも長けているし、人の心に寄り添う術を心得ている。

だが、それでも神は、筆者がそうした仕掛けにひっかからないよう、それが偽りであることが分かる瞬間を用意される。

筆者はこうした人々が築いた偽りの一大宗教体系の真っただ中を何度も通過して来たのだが、いつも、彼らと筆者とは異質であることが、途中で判明するのだった。それはこんな具合である。筆者が一歩でも彼らの言うヒエラルキーの階段を上に上ろうとすると、その階段が、まっさかさまになって筆者の上に落ちかかってくる。階段が、ものすごい重さになって筆者にのしかかり、筆者の人生を押し潰そうとしてくる。そこで、筆者は、ああ、これは何かしら栄光に満ちた達成のように思われたが、やはりそうではなく、決して聖書に基づく信仰の道ではなく、むしろ、破滅への道だったんだな・・・と分かり、一歩も登らないうちに、その階段にさよならを告げることとなる。

そうして筆者は、これら清楚で謙虚で誠実そうに見える人々を離れて、彼らの賞賛や関心を得ようとすることもやめて、一人、神の御前に、静まって自分の道を申し上げ、極めて個人的な、誰にも知られない、主と二人だけの道を歩き始める。人の考えなどどうでも良いから、何事も主に相談の上、真実、神に喜ばれ、真実な栄誉を得るための道を、歩いて行きたいと、主に率直に申し上げる。

そういうわけで、新年早々、筆者のトランクからは、二つのアカンの外套が見つかった。それは色違いのおそろいの外套であり、一つはこの世の生地で出来ており、もう一つは、信仰に似た生地で編まれていた。どちらも人からプレゼントされたものであり、これを着れば、高みへ舞い上がれると勧められたが、着ようとして手に取っただけで、外套は鉛のように重く、一歩たりとも進んで行けそうになかった。外套についていた札を見てみると、素材は小羊の毛に似せて造られた合成繊維のイミテーションであることが分かった。

しかも、もっと悪いことに、その外套は、プレゼントされたものにも関わらず、支払いが完了していないというのである。つまり、贈り物と言いながら、手渡されたのは負債であった。それに気づいて、筆者はこの呪われた二着の外套を焼き捨てる(もしくは贈り主に返す)ことに決めて、初めから筆者にプレゼントされていた真っ白な外套を手に取った。それは小羊の毛で編まれ、小羊の血で洗われて、雪のように白く、また、軽い外套であった。それはもちろん、ただで贈られたものであるばかりか、すべての負債を帳消しにする力まで持っていた。

その小羊の毛で出来た真っ白な外套を着ると、改めて次の御言葉が思い出された。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

そうだ、何だか随分疲れた気がしていたのは、あの偽物の外套のせいだったのだ。あれを着ると、自分はあれもできない、これもできない、この世に自分ほど不器用で、何もできない人間はいない、自分にできることは、せいぜい人々の後から着いて行って、彼らに奉仕するために、地に頭を擦りつけて、身を投げ出すことだけだ・・・などと思わされ、人々を喜ばせるために、絶えず奔走させられることになり、疲れ切ってしまうだけだ。日々、歓迎され、引っ張りだこにされ、感謝されて、喜ばしいイベントが連続しているようでありながら、その裏では、陰口が絶えず、絶えず不満を述べて来る人たちのご機嫌をなだめるために、果てしなく新たなノルマが課され、てんでんばらばらな人々の心の欲望を満たすために、奴隷のごとく奔走せねばならなくなる・・・。

しかも、その外套は何日着ても、体になじむことなく、ますます重くなり、ますます歩きづらくなり、ますます足手まといになって行くばかりなのだ。

その一方で、小羊の外套は、着るや否や、心の内が軽くなり、内なる人の力と尊厳が回復されて、主が着いておられるから、どんなことでもできる、と、御言葉が自然と口から湧き出て来る。この外套には、多分、翼がついているのだろう。歩いてもたゆまず、走っても疲れない。そして、疲れたときには、隠れ家なる主の砦の高い塔に筆者を連れて行って休ませてくれる。
 
休日に電話が鳴って、潰えたはずの希望が再びよみがえり、御国への奉仕に呼び出された。主よ、私をお見捨てにならなかったのですね、と思わず、感謝が心に溢れた。だが、この世は、筆者がしようとしていることが、御国への奉仕だとは、理解することはないし、認めることもない。あの外套を着た、敬虔そうな恰好の信者たちは、こんな仕事が神の栄光になどなるものかと反対して、それに唾棄して、踏みつけにして去って行った。彼らは世を捨てられなかったのである。

そうやって、宝石をちりばめた僧服のように重すぎる外套を着た人たちが、筆者のしようとしていることをかえって罪のように考えて、自分から去って行ってくれたのは、まことに好都合なことであった。

筆者は、別離の時も、出会いの時と同様、すべて主が定めておられると確信している。だから、来る者も拒まず、去る者も追わない。主が与え、主がとりたもう。

キリスト者の道は、神の御前でつつましやかな、やもめの道であって、時期尚早に現れた愛人たちをぞろぞろと引き連れては、豪奢な服を着て、自分は孤独ではないから悲しみを知らないと豪語する女王の道とは異なる。
 
だから、心して、自分は一人になることはないとか、孤独とは無縁だなどと言う台詞を、どんなことがあっても、二度と口にすることがないよう気をつけねばならない。そういう台詞は、まさに地獄から出て来るのではないだろうか。キリストは人に蔑まれ、忌み嫌われ、人に尊ばれず、顔を背けられるほど、疎んじられた。彼は歓迎されず、良いことをしてもなじられ、絶えず誤解され、罵られた。それなのに、なぜ、私たちが彼に先だってこの世で栄誉など受けて良いものだろうか。

筆者は、孤独でつつましやかなやもめの道を、シナイ山へ一人で登って行ったモーセの道を、ゴルゴタへ向かった主の道を、人知れず歩き続けようと思った。勝利は、この細い道の向こうにあり、復活は、いつも我々の死の先にある。

ところで、グノーシス主義者は、自力で神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、神と人とが分離される前の状態に逆戻ることによって、自己を神と同一にすることを願っている。だが、筆者は、彼らとは異なり、神から切り離されて堕落した人間が、キリストの十字架の贖いを通して神に立ち戻り、その後、主と同労して、共に「光あれ」と力強い命令を発する時を待ち望んでいる。

命令は、実行されなければ意味がない。筆者は命令(御言葉)と実行(その成就)が一体化する時を待ち望んでいるのであって、そのために、何とかして命令そのものに近づき、これがまさに発せられんとする瞬間に立ち会い、さらに、それが発せられた後に、実際となって成就する有様を、主と共に見たいと願っているのだ。

そのことを、信仰においてだけでなく、この世の働きを通しても、経験できないものかと願っている。今年はそのための挑戦となるし、筆者が真にその道を行かない限り、おそらく筆者が本当の意味で、人々に仕え、益をもたらすこともできないものと確信している。もしかすると、モーセがシナイ山で十戒を受けたように、筆者も筆者なりのやり方で、神から御言葉を授かろうとしているのかも知れない・・・。
  
山に登る時は、すべてのからみつく罪を捨て、心の偶像になりそうな一切を振り切り、主の前に心を孤独にして、一人で進み出なければならない。その意味で、この道は決して人に優しい道とは言えないし、楽な道であるとも言えない。だが、その代わり、真に筆者を支えてくれる真実な主人があり、筆者を迎えてくれる天の栄光がある。

日に日に罪の負債の重さだけが増し加わる、色違いの美しい外套の贈り物を捨てたとき(もちろん、これは比喩であるが)、それが足手まといとなって、これまで天の高度に飛び立てなくなっていたことが、はっきりと筆者には分かった。

次の御言葉は極めて象徴的である。大勢の信者たちが、この聖句をお気に入りの歌にして口ずさんでいるが、この御言葉は、信仰によって実際となるばかりか、主の民のために下される神の正しい裁きと密接につながっている。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)


神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の負っている者をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)

* * *

「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。

あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主エス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20:33-34)

* * *

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承でなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。
 彼の慈しみは永遠に続く」
と書いてあるとおりです。

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。

この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(Ⅱコリント9:6-14)

* * *

主の御座の高さと静謐さの中を歩む。私たちのこの手に、種以外に何もないように見えるとき、豊かな実りを約束して下さっている主の御言葉を思う。

毎年、筆者の年末年始や、特に新年の過ごし方は、とても深い意味を持つ予表的・象徴的なものであった。人々が自分の家庭に引きこもり、御馳走を食べて過ごすその瞬間、もしくは、神社や教会その他の宗教施設に通い詰め、行事や、あるいは買い物に明け暮れる中、大抵、筆者は、この世のすべての喧騒から引き離されて、ほんのわずかなキリスト者と共に、神との静かな歩みの中に引き入れられていた。
 
そこには、人の知れない、ひっそりとした喜ばしい交わりと、ほとんど単独者と言って良い、神の御前での歩みがあった。

今年は、そうした静けさの中で、自分自身を、本当に自分のためではなく、主の御心にかなう目的のために、なげうとうと決意させられた。

今でも忘れられないのは、ある新年のこと、ちょうど仕事の切れ目で、新しい職を探していた筆者を、ある姉妹が自分の別荘に呼び、心からもてなしてくれた時のことである。姉妹はその別荘で、誰にも言えない筆者の悩みをじっくり聞いて、筆者には広い自分のベッドを提供し、自分は寝袋を敷いて床に寝た。

階下にある温泉に筆者が浸かりながら、将来のことを思い巡らして悩んでいた時、彼女は台所でかいがいしく料理を作り、いかにして筆者をもてなそうかと心を尽くしていた。自分は温泉に行っても、あっという間に戻って来て、筆者の話に耳を傾けた。

だが、姉妹はそれらのことを本当に心から喜んでしており、筆者が悩みの渦中に沈んでいたにも関わらず、筆者といるのが、楽しくてたまらないという風であった。そして、その姉妹と一緒にいるときに、新しい職場からの連絡がかかって来て、筆者が進むべき道も定められたのだが、そうなるまでにも、彼女は、筆者の仕事のためにも、どんなに祈ってくれたか分からない・・・。

その姉妹は、あまりにも心清く、純粋な信仰を持ち、天に近いところにいたためであろうか、その後、数ヶ月で、実際に、天に召された。もう何年も前のことである。だが、その時にも、彼女が召されたことと引き換えのように、大きな慰めが天からもたらされ、信仰者ではなかったが、またもや新たな複数の友が、不思議な形で筆者の人生に与えられたのであった。

このように、なんの尊敬すべき取り得もなく、何一つ返せるものさえ筆者になかった時に、筆者の苦しみを少しも見下したり、蔑んだりすることなく、まるで筆者が神から遣わされた御使いででもあるかのごとく、心からの尊敬と愛情を持って、心を尽くして仕えてくれた姉妹がいたことは、筆者の心に深く刻み込まれた。

ああ、これが、キリスト者の奉仕なんだな、これが、互いに愛し合い、仕え合いなさいという御言葉の意味なんだな・・・と示され、それと同時に、彼女を通して、筆者がどんな境遇にあっても、キリスト者としての愛らしい魅力を失っていないこと、それが、仲間の兄弟姉妹にはちゃんと分かること、落胆すべきことなど何もなく、どんな瞬間にも、神の恵みに満ちた御業が確かに存在すること、それを分かち合って喜ぶことが、私たちキリスト者の使命であることを知らされたのである。

筆者自身は、その後も、しばらくの間は、自分が生きることに精いっぱいで、人々を助けるところまで、手が回らなかったが、ようやく昨年は、司法制度を通じて筆者が受けた恵みを、他の人々にも届けようと考え、そのために、自分の専門を捨てて、新しいことを始めた。

そうして、自己実現のための生き方を捨て、自分の専門を手放した報いとして、筆者は失ったものを余りある豊かな祝福を受けたのである。

神はやはり、私たちの生きる動機そのものをよくご覧になっておられ、正しい動機のために、私たちが捨てたものを、決して見過ごしにしてはおかれないのだと痛感させられた。

そこで、この新たな年には、筆者はよりまさった天の収穫を受けるために、自分をさらに捨て、神と人とのために、自分をなげうとうと決めた。と言っても、その方法は、あくまで秘密であって、それは人に知られない十字架の道である。

幼い頃に、兄弟たちに裏切られて、エジプトに売られたヨセフが、エジプトで宰相になるまでの間には、長い長い月日が経過した。エジプトはヨセフの故郷ではなかったし、ヨセフはそこでも、何度も、あらぬ罪を着せられたりして、苦難の月日を過ごさねばならなかったが、それでも、彼に与えられた神の力が発揮され、異郷の地でついに最後はファラオからも篤い信任を得て、重責を担う立場に立たされた。

だが、そうなった目的は、決して、ヨセフ自身が、偉い人となって、人々に君臨することにはなかった。むしろ、彼を通じて、彼の親兄弟たち、イスラエルの民が飢饉から救われ、生き延びることにこそあった。つまり、ヨセフは、エクソダスの象徴であり、ヨセフを通して、民が死から生へと贖い出され、命へと導き入れられるためにこそ、彼が兄弟よりも先にエジプトに遣わされたのである。

エクソダスとは、十字架である。つまり、ヨセフが辿った苦難と栄光もまた、主イエスの十字架の死と復活の象徴だったのである。

そういうわけで、一粒の麦が地に落ちて死なない限り、多くの実が結ばれることはない。キリスト者が学ばねばならないのは、自己の望みの最後の最後のなけなしのものに至るまでも、神と人とのために手放し、それによって、自分の思いをはるかに越えたところにある神の恵みに満ちた正しいわざを掴み、これを地上に引き下ろし、それによって生きることである。

筆者には、エジプト(この世)で果たさなければならない使命があり、非常に困難な召しが心にある。神を愛し、人を愛して生きるために、筆者は、この国の人々のために、役立つことをせねばならないと思っている。残りの人生は、もはや筆者自身の個人的な満足と栄光のために存在しているわけではない。

とはいえ、この国の人々のために・・・などと仰々しい言葉を使っても、それは決して、筆者が有名指導者になって、自分の名を冠した多くの組織や団体を作り、その先頭に立って人々を指揮し、皆から篤い信頼と尊敬を受けながら、輝かしい事業を率いて行くというものではない・・・。

そういう道を、筆者はこれからも選ばないだろう。筆者はこれから先も、ずっと神の御前の単独者として、何の栄光も受けない名もない人間として、ひっそりと人に知られない道を歩み続けながら、それでも、そこで自分の召された目的を従順に果たし続けるだろうと思う。

筆者の歩いている道は、誰からも理解もされず、評価も受けないように見えるかも知れないが、それでも、その時々で、神はその道が、確かに神の召しによって与えられたものであり、筆者を待ち受けている将来的な栄光が確かに存在することを、筆者のみならず、他の人々にも分かるように、不思議な形で示して下さり、その約束の確かさを、筆者に思い起こさせて下さるだろうと思う。

そうして自己を否み、日々の十字架を担って、主に従って、歩み続けることこそ、神が筆者に与えられた筆者の見えない「事業」であり、ミッションなのである。だが、その十字架は、私たちが負い切れないほどの苦難を負って、絶望や孤独や悲しみにひしがれながら歩むというものではない。

主は言われた、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

自分を捨てて、日々の十字架を負うとは、主の謙虚さにならって、負いやすい軛、軽い荷を担う道である。ちょうど主イエスがゴルゴタに向かわれたとき、主が十字架を負い切れなくなった瞬間、ほんのわずかな間だけ、人がそれを負うのを手助けしたことがあった。私たちが担う日々の十字架とは、そういうものであって、十字架の大部分は、すでに主が担って下さっている。

だから、主のへりくだりにあずかりさえすれば、私たちに与えられた軛は負いやすく、その荷は軽い。そして、主のへりくだりにあずかるとは、私たちがいついかなる瞬間も、自己の限界を迎えると思うときでさえ、主が豊かに与えられたように、惜しみなく与える人となることを意味する。それによって、私たち自身が、私たちの仕えている方の限りない豊かな性質を生きて体現することである。
 
こうして、 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)と書いてある通り、その道にさえ、忠実に歩んでいれば、筆者の個人的幸福や生活の必要性などは、すべてその後から「みな加えて与えられる」だろう。すべての必要が、自然と、不思議に満たされ、地上的な必要性のことで心をいっぱいに煩わせた挙句、明日のことまで思い煩う必要などどこにもなくなるのである。

すべてのものの供給者は神である。だから、私たちは、自分が不器用で、何も持たず、貧しいように思えるときにも、人に頼るどころか、むしろ、主にあって、豊かな者として、惜しみなく豊かに与えることが実際にできるのだ。

だから、筆者はエクレシアから一方的に命の供給を受けることなく、あくまで豊かに流し出す者としてそこに連なっているものと確信している。エクレシアとは、そもそも、命なるキリストが、神の多種多様な知恵が、天の無尽蔵の富が満ち溢れているところである。そのエクレシアに連なっている者が、日々、自分の必要性で窮々とし、絶えず人の助けを乞うしかないなどあるはずがなく、どんな状況にあっても、信仰によって豊かに命を流し出すときに、そこに主の栄光が現れるのであり、それこそが、私たちが絶え間のない命の交換に生きるための秘訣なのである。

キリスト者はこうして、まさに生涯の終わりの瞬間が来るまで、絶え間なく、与える人になることが実際にできる。そして、それだけが、私たちが、この地上的制約を解かれ、天の栄光と祝福の満ちたりた豊かさの中を、身を軽くして歩む秘訣なのである。しかし、この原則を知っている人は、とても少ないのではないかと思う。

何度も言うが、それは、与えるものが豊かに手元に備わっているから、与えるというもののではなく、むしろ、手元に何も残っていないように見えるとき、私たちの力が尽きて、できることがもう何もないように見えるときに、なけなしのものを、神の愛のゆえに、主のため、人々のために捧げることを意味する。

そうするときに、私たちがなげうったものは、何倍にも祝福されて、天から返される。

それは、最後のレプタ二枚を献金したあの女と同じであって、主イエスは、その女が命がけで神に自分を捧げたことを知っておられ、その女の信仰を誉められたが、その女は、その後、どうなったのだろう? 生活費全部を愚かにも賽銭箱に投げ入れたために、信仰と引き換えに、飢え死にしたのであろうか? そんな馬鹿なことは決してあるまい。

主イエスは別なたとえでこう語られた。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:23)

最後のレプタ二枚を神に捧げた女は、きっととても不思議な方法で、天から百倍、六十倍、いや、どんなに少なくとも三十倍は、その報いを得て、必要を余りあるほど補われたであろうことを疑わない。

なぜなら、そういうことは、筆者の人生でも何度も起きて来たからである。

神が見ておられるのは、私たちが、神と人とに仕える動機であって、どこで、誰にどんな奉仕をするかというその内容や、規模ではない。たとえ自分の持てるすべての財産をなげうったとしても、その動機が、神への愛から出たものでなければ、報いはない。

しかし、神は、私たちが、主に従い、神の愛の中にとどまるがゆえに、自分の持てる最後のなけなしのものを捧げて神に仕え、人々にも与える立場に立とうとすることを、とても喜んで、評価して下さる。

そんなわけで、自己の力が尽き果てようとするとき、自分には何ももう誇るべきものがなく、誰にも分け与えるものも、評価や尊敬を受ける根拠もなく、与えて欲しいと願われるようなものさえ、手元にはもう何もないという境地になったときこそ、最も豊かに与えることができる瞬間なのである。

この原則を知っている人は実に少ない。(ただし、これは筆者が追い詰められているということの告白ではないから、そのように誤解することがないように言っておきたい。)

そういうわけで、自分の財布の中身が限られていると言って、そのことを嘆く人は、その後も、自分の財布を拡張することはできないだろう。財布とその中身を広げたいなら、そのためにも、まずはその限られた中身を、ことごとく神に捧げ、人に分かち与えることから始めるべきである。

この最後のレプタを投げ打つことができるかどうかで、その後の私たちの人生は決まる。もちろん、ここで言うレプタとは、様々なものの象徴であって、必ずしも、金銭のことばかりを指すのではない。それは、人の持っている自己の限界そのもののことを指す。

自分は苦しい、これ以上何もできない、捧げよと言われても、何も捧げるものはない、くれと言われても、与えるべき愛などない、これ以上、要求ばかりを押しつけられては困る・・・などと自己弁明したくなるその瞬間、自分には最も何もないと思われるときにこそ、信仰によって、豊かに与えられることを信じ、一歩を踏み出し、自己のレプタを手放し、主により頼むからこそ、それが考えられない規模で祝福されて、豊かに返されるのであり、手放さなければ、それはただのレプタ一枚のままである。

こういうことを言い始めると、早速、「カルトだ!」などと言い出す人があるかも知れないから、筆者は決してどこかの宗教団体に献金せよという話をしているのではないことを幾度も強調しておく。

筆者は誰にも以上のような生き方を強要するつもりもないし、レプタをあくまで手放したくないという人は、手放さないでいれば良いものと思う。

だが、何度も言うように、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままなのである。天の祝福にあずかるためには、どうしても、それをなげうつ過程が必要となる。だから、筆者はこの新年に、すでに捨てて来たものに加え、さらに昨年手に入れたなけなしのものも、真心から主にお返しし、捧げようと決めた。手放すと言っても、それは心の中で、決してそれらのものにとらわれず、執着しないという意味であり、また、自己の満足のためにそれらのものを使用しないという意味である。そうすることと引き換えに、さらにまさった天の豊かな恵みを得ることができると信じている。

栄光は、ただそのようにしてのみ、やって来る。すなわち、信仰によって、絶え間なく、自己を手放すことにより。十字架の死を経由することにより。復活の力が何であるかを知りたいと思えば、まずは死を経由する以外に道はない。そして、死を経由するとは、主と共に十字架において自己の死を味わうということなのである。それが必ずしも快い体験のはずがないことは、誰しも想像できることである。

だが、主はその軛は負いやすく、荷は軽いと言って下さる。
 
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。


神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコ8:34-38)

だから、筆者は、主イエスに従って生きたいと願う。地上のどんな尊敬できる人々の存在にもまさって、主イエスにのみ従いたいと願う。いつの瞬間も、以上の御言葉を実践して、自己の限界にとらわれず、主の命の豊かさを流し出して、福音を恥じることなく、生きられるようになりたいと願っている。

受けた恵みを、自分のもとにとどめることなく、自分で限界をもうけず、それを流し続けることをやめたくはない。そうこうしているうちに、そこにある命の流れが、必ず多くの人々を潤すようになり、パイプラインが、もっともっと巨大なものとなって、聖徒らの全ての必要を満たし、エクレシアを潤すようになり、私たちには主が確かに着いておられること、私たちの主が無尽蔵に富んでおられる方であること、それゆえ、その庇護を受けている私たちは、どんなことにおいても、不足がなく、心配する必要もないことを、やがてもっと多くの人たちに公然と証し、それによって主の栄光が誉め讃えられる日も来よう。そうなるまで、筆者のパイプライン建設はずっと続くのである。

主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

大晦日である。晴れた空に,夕日がいつになく美しく輝いていた。

その日は、筆者の関わるキリスト者の交わりが、文字でなく、音声でもなく、顔と顔を合わせた生きた交わりとなり、筆者の中で、エクレシアが完全に復興を遂げた日であった。

特段、何かがあったわけでないのに、信仰による交わりがあったというだけで、ここ数ヶ月の間、一度も味わったことがないほどの平安が心に訪れた。果たすべき課題はまだたくさん残っているが、それらをすべて脇に置いて、休むことができた。

これまでにも、様々な交わりに出席してきたが、その頃と今とでは、何かが違う。

こんなことを言われた。

「あなたにはねー、こんなこと言っていいかどうか迷ったんだけど、今朝、ヴィオロンさんと『不器用』という言葉が一つにつながったんだよ」

筆者はそれを聞いて「それはひどいですねー」とうわべは抵抗を見せつつも、頷いて笑う。

筆者は確かに不器用な人間であり、人のために何かしてあげようと思っても、そのタイミングを逸することが多い。筆者が動こうとする前に、気の利いた誰かが、もうすでに人々の世話に着手しているからだ。

ところが、キリスト者の交わりとなると、そんな不器用な筆者からも、世話を受ける人が出て来る。互いに仕え合い、満たし合う関係が不思議に成立する。

その日の話題は、主にあって、いかに自分の生来の力に対して弱められ、それに死に、主の力によって強められて生きるか、というところを巡っていた。筆者が不器用であっても、私たちは存在そのものが神の教会であり、己の力で何かを努力して果たすことによってではなく、ただ存在しているだけでも、世に影響を与え、信仰によって、キリストを人々にもたらす役目を果たせる。それができると信じて良い。

「もっと教会(エクレシア)に頼ったらいいんですよ」

とも言われた。以前には、なかなか人に頼るということができず、頼ることを恐れていた筆者であったが、ここ数年で、考えを変えさせられた。

近頃、筆者の周りには、どこからともなく、善良な人たちが集まって来るようになり、困難な日に、どれほど貴重な助言を受け、励ましを受け、支えられたか分からない。そうして助けを受けたからといって、決して、依存関係や、主従関係が生まれるわけでなく、それぞれが自分の信念を持ち、自立していながら、互いに支え合い、仕え合い、助け合う関係が成立するのである。

そのようなわけで、今年は、人から助けを受けることへの抵抗感がなくなり、特に、神の家族からの助けは、大いに受けて良いものであると分かった。肉の家族ではなく、天の家族が、はっきりと姿を現し、信仰の有無に関わらず、肉の家族以上に筆者を支えてくれるようになったのである。

筆者は、初めは恐る恐る、その人たちとの関わりに足を踏み入れ、恐る恐る、助けを受けた。かつて、あまりにも多くの交わりが、サタンの試みによって引き裂かれ、疑心暗鬼によってバラバラに分解されたので、またも同じことが起きないか、非常に心配であったが、何度、試しても、その交わりは分解することなく、筆者を取りこぼすこともなく、より安定して、強固なものになり、発展した。

以前にも、筆者はキリスト者の交わりを求めて、はるばる長い距離を移動した。その頃も、純粋にエクレシアを求めていたつもりであったが、その時と今とでは、何かが違う。エクレシアを求める熱心さにさえ、死んだのかも知れない。今、与えられているものは、恵みであって、筆者が探し求めた努力の結果とは言えない。

すべての希望が潰え、もう何も戻っては来ないだろうと思った頃に、望みをはるかに超えた恵みが、向こうから自然と姿を現したのである。

それは、天によって支えられている不思議な関係である。鳥が空中に巣をかけるように、地に属さず、地上のすべての関係を超越したところに、不思議な形で、交わりが保たれている。その交わりを何と名づけるべきか、分からない。だが、そこに筆者の居場所があり、平安がある。

その居場所は、信仰のない様々な人たちの間でも、不思議に成立している。たとえば、最近は、警察官から、「クリスマスケーキは食べたの?」と聞かれたり、この世の人から、「無事に年を越せるの?」などと言われ、御馳走を振る舞われたりもした。そんなに心配されるほど、筆者の境遇は危なっかしくはないのだと、とうわべは弁明するのだが、それでも、虚勢を張らず、ありがたく人の親切を受けるようにもなった。
 
これまでは、筆者を苦しめるためだけに、ひたすら筆者の嫌がることばかりをやり続ける人たちがいたが、今年は、そういう人たちと入れ違いのように、筆者が頼んでもいないのに、筆者が何を願っているのか、言葉も発していないうちから、筆者の願うことだけを、ひたすらやり続けてくれる人が現れるようになった。

しかも、それはただ単純に、望みをかなえてくれるという低い次元の関わりではなく、時宜にかなった助言があり、将来に渡ってまで、役立つ助けが与えられ、困難の中でも、率直に心の内を語り合い、互いに支え合い、励まし合う関係が成立している。そんな関わりが成立しうるとは、想像したことさえなかったが、筆者の未熟さによって揺るがされることのない、真実で誠実な信頼関係が成り立つことを知ったのである。

そういうわけで、「人が一人でいるのはよくない。彼のために助け手を作ろう」とおっしゃられた神の御言葉が、筆者の人生にも成就し、筆者自身も、人の助け手となったり、人々も、筆者の助け手となってくれたりして、これまでのように一人で時間を過ごすことがだんだん難しくなってきた。

かつてのように、開かずの間に向かって、扉を叩き続けるような、むなしい関わりが減って行き、そういうものが残っていても、ある時、バッサリと枝葉が切り捨てられるようにしてなくなる。そして、いつの間にか、筆者自身からも、命の水が細い川のように流れ出し、その流れを人々と分かち合うことができるようになった。

どういうわけか知らないが、長年、筆者を縛っていた敵の呪いが解け、筆者自身の中に残っている古き人の残滓が、どんどん筆者から切り離されて行くのである。恐れ、疑い、不信、肉なる情・・・、そういった古き人の思いが、御言葉による「手術」により、筆者から切断されて、取り払われて行く。これは人知を超えた不思議な逆説的なみわざである。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろともに十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:24-26)

筆者を憎む者が、筆者を踏みつけ、勝利の快哉を叫んでいる最中に、筆者は、キリスト者の交わりの中に入れられ、愛によって取り囲まれ、信仰者からも、信仰を持たない者からも、心を尽くした助けと慰めと励ましを受け、魂を生き返らされている。

追い詰められ、殺されかかっているように見える時に、かいがいしく世話を受け、「生きよ」と命じられ、「私はあなたの敵を滅ぼす」、「すべての重荷を私に委ねなさい。」、「私はあなたを見捨てない」、「私を信頼してすべてを任せなさい」と、主から励ましを受ける。

一体、この恵みは何なのだろうか。多くの苦難と、それを圧倒的に上回る慰めに満ちた励ましとのコントラストである。

主は、信じる者をお見捨てにならず、恥の中に捨て置かれることもない。同時に、神の家族も同じように、愛する人々を苦難の中に置いて去って行くようなことをしない。

まるで多くの人たちからこう言われているようである、「疑わなくていいんですよ、ヴィオロンさん、私たちは目に見えない家族として結ばれているのですから、引き離されることはありません、互いに助け合うのは当然です」

神は報復なさる方であり、無垢な者を破滅させようと企む者には、したたかに報いられる。だが、主の勝利は、私たちが肉の腕で勝ち取るものではなく、信仰を通して、神がなさるみわざである。そうであるがゆえに、それがどのように現れるのか、私たちは事前に知らないし、己の力を誇ることで、敵に対する勝利を勝ち取るわけでもない。

キリスト者の原則はいつも、「私は衰え、彼(キリスト)は栄える」、というものだ。だから、来るべき年は、ますます肉の力によらず、信仰による神の御業を待ち望み、主の御言葉の正しさを地上で証明することに専念し、自分自身を誇るのではなく、ただお一人の神を誇りたいと願う。
 
二つの詩編を引用しておこう。

詩編第1編

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩編第64編

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
 人は胸に深慮を隠す」と言います。

神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

神に従う人の道は輝き出る光 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」(ヤコブの手紙5:12)

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイによる福音書第5章36)

* * *

前回、神は人の心の極みまで明らかにされる方であり、隠れた事柄が明らかにされるのは、聖書の御言葉にかなっている、ということを書いた。

そして、神が立ち上がって報復して下さるためには、ある人がただ私たちクリスチャンを傷つけたというだけでは不十分であって、その人が、神を冒涜する言葉を述べている必要があるということをも書いた。

神聖なものが冒涜・蹂躙されて、初めてその事件は、単なる人間同士の小競り合いという域を超えて、神が対処されるにふさわしいものとなるのである。

そういう意味で、今、考えれば考えるほど、人の内心が露わにされており、神を信じない人は、自分は勝利を遂げたと快哉を叫ぶ瞬間にさえ、オウンゴールを遂げて自滅することを免れられない。

昔々、教会が主催する日曜学校で、こんな出来事が起きた。日曜学校では、お祈りしているときには、みんな目をつぶっていなさい、と先生が生徒たちに教えていた。

ところが、ある生徒が、お祈りしている途中に、他の生徒がちゃんと目をつぶっていないのではないかと疑い始め、お祈りが終わったあとに、先生に向かって、得意満面でこんな報告をした。

「先生、A子ちゃんがお祈りの途中に目をつぶっていませんでしたよ!」

先生は至極落ち着いてその子に問うた。

「どうやってあなたにそれが分かったの?」

もちろん、面目を失ったのは、A子ちゃんではなく、お祈りの最中に、他の生徒たちの行状を先生に告げ口しようと、あら探しを重ねていた生徒であったことは言うまでもない。

クリスチャンの罪を告発しようなどと考える不届き者が出現すると、こういうことが起きる。

ある人が得意満面で、クリスチャンの「失敗」や「不正」を神に報告しようとする。あそこの教会ではこういう不祥事が起き、あの信者は、別な兄弟姉妹と争い、また別な信者は、家庭内のいざこざを治められず、また別な信者は、信仰の道を踏み外し・・・etc. etc.

ところが、神は問われる、「なぜあなたがそういう出来事を知っているのですか。どうやってそれを調べたのですか。あなたは祈りの家と唱えられるはずの私の父の家で、父へ捧げられた礼拝の時間と場所を使って、かえってあなたの兄弟姉妹を不利に陥れるために、彼らが知られたくないと思う情報をこっそり集めていたのですか。そんなことがあなたにとっての『礼拝』や『祈り』なんですか」

告げ口屋は、それで万事休すだ。そのことは、子供向けの日曜学校だけでなく、それ以外の教会生活にも、現実の生活においても、同じように当てはまる。

まことの父に捧げられるはずの厳粛な祈りと礼拝の時間を使って、まるで興信所のように、兄弟姉妹の身辺調査を行い、彼らを不利に陥れるための証拠を嗅ぎまわる者がいる。

しかし、そうして他人の生活を盗み見て得た情報を、聖なる貴重な手柄であるかのごとく、礼拝に携えてやって来ることはできないし、そういう者には、神ご自身が「穢れた者よ、ここから出て行きなさい!」と厳しく命じられ、神の家から放逐されることになるのは、避けられないだろう。

たとえいと小さき幼子のような兄弟姉妹であっても、その者のためにも、以下の御言葉はある。だから、祈りや礼拝の最中に、兄弟姉妹を訴える材料を探す者は、最終的には、神ご自身を敵として歩むことになる。
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。・・・」

これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39) 
 
さて、これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義を含む)の目的は、「対極にあるものの統合」であると述べて来た。言い換えれば、それは「然り」と「否」との統合である。

さらに別な言葉で言えば、グノーシス主義とは、ただお一人の神だけに忠実に生きていない人が、自分の不実な生き方を隠そうとして作り出す、終わりなき自己弁明のための詭弁だと言って差し支えない。

だから、そういう者の発言の中には、必ず、「然り」と「否」が混同している。

たとえば、自分を罪から贖い、義として下さった神に献身して、生涯を伝道に捧げるために牧師として生きる、と言いながら、その実、全く別なこと(教会や兄弟姉妹を告発すること)をライフワークとして生きている。
 
キリストの贖いによって罪赦されて、自分はクリスチャンになったと言いながら、兄弟姉妹の罪を決して赦そうとせず、彼らを非難・罵倒し、罪に罪を重ねて生きている。

「金持ちが天国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい」という聖書の御言葉を知っていながら、「金持ちも天国に入れる!」と自分勝手な例外をもうけて、富裕者を対象としたセミナー、集会などを開いては、積極的に献金を集め続けている。

「義人は信仰によって生きる」という御言葉があることを知っていながら、「自殺は罪ではない」と触れ回り、心弱くなって自殺した人の肩を持ち、御言葉に人を救う力があることを否定する、等々。

こんな風に、御言葉に従うように見せかけて、それを曲げたり、逆らいながら、二重性を帯びた生き方を続けて行けば、「然り」と「否」との統合(対極にあるものの統合)が起きることになる。もちろん、それは統合できるはずのないものを統合しようとする錬金術のような生き方であるから、嘘であって、詭弁であり、やがてその破綻が誰の目にも明らかになる。

最近、筆者が手を加えなくとも、そういう人にはおのずから破綻が起きるのだということが分かるようになった。そして、そういう光景を見るにつけても、やはり神は、聖徒らに罪を着せようとする人間を、そのまま放っておかれることは決してなく、キリストの十字架の血潮の絶大な価値のゆえに、私たちの身の潔白を、ことごとく証明して下さるのだと感心しないわけにいかない。

以上に挙げた御言葉には、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と書いてある。

このことは、主イエスによって示された神の愛は、時空間を超越して私たちと一つに結びついていることを示している。この世の事物や、人の思惑が、どんなにその邪魔をしようと入り込んで来ても、それが私たちを神の愛から引き離すことは決してない。

その約束は極めて絶大である。人の人生には、その人自身の目にさえも、失敗と映る出来事が存在しないわけではないし、人の目から見て、何が正しく、何が間違っているかは、時に分からないこともある。だが、そういうときでさえ、キリスト者の人生にあっては、神がすべての出来事を益として下さり、神の栄光のために用いられる。

それゆえ、私たちの人生には、失敗とか、損失というものは存在しないし、思い煩わねばならない理由もない。

神に従う人の道は輝き出る光
 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
 
 神に逆らう者の道は闇に閉ざされ
 何につまずいても、知ることはない。」(箴言4:18-19)

ハマンはエステルの祝宴に招かれ、自分の地位は安泰だと過信し、モルデカイとユダヤ人たちを殺す機会は目前に迫ったと考えて喜び浮かれていたが、王はハマンがモルデカイを吊るすために自分の邸宅の庭に造った絞首台に、ハマン自身を吊るすよう命じた。ハマンの邸宅は、エステルに与えられた。

霊的な文脈においては、すべてのことについて、決着が完全についている。そして、筆者は、時を追うごとに、目に見える出来事を通しても、その霊的な勝利が少しずつ表されていること、カルバリの勝利は、信じる者に揺るぎのない約束として与えられており、私たちにはいつでもそこへ帰って行く権利が与えられていることが、分かるようになった。

「然り」と「否」を統合しようとする者は、最終的に、神ご自身によって討たれ、退けられる。すでに誰も強制していないのに、その者は、自らの内心を赤裸々に吐露して、自分を義としてくれた人の言葉を裏切って、自滅へと向かったことを見ても、なおさらそう思わないわけにいかない。

実に不思議なことであるが、その人が勝利のおたけびだと思って叫んでいる言葉が、そのまま、敗北の宣言に変わっているのだ。
 
そして、気づくと、十年来、筆者が解こうとして苦労して来た呪いは、いつの間にか解除されていた。

いつしか筆者の周りには、多くの人たちがやって来るようになり、一人でいるための時間も残らないほどになった。なぜそうなったかと言えば、筆者の手がけているプロジェクトが、完成に近づいているためである。

そのプロジェクトは、生ける命の水の川々をこの地から、筆者自身から、はるか遠くに及ぶまで、果てしない広域に向けて流し出すというものである。干上がったこの霊的飢饉の最中に、沙漠の中にオアシスを作るように、神の愛が川のように溢れ流れ出すよう、巨大なパイプラインを建設中なのである。

それは誰も注目しないみすぼらしい「干潟」から始まる。人知れない事業であった。だが、筆者が開拓した「干潟」からは、確かに命の水が流れ出し、周囲を潤すようになり、その水を求めて来た人たちや、筆者との交わりのために来た人たちが、泉の水を汲み出して飲み、そこに手足を浸して、体を休めている。パイプラインが建設された後には、人々が安らぐための広場が出来、緑の公園や、ベンチや、噴水が出来、子供たちが駆けまわる。

だが、まだ足りないものがある。それは、住まいである。多くの人たちを受け入れ、かくまうための住まい、彼らが荷を下ろし、時を忘れて静かに語らい、ゆっくりと休むことのできる住まいがまだない。
 
その住まいとは、神のために用意された神殿である私たち自身のことでもある。主イエスは、地上を去られる前に、私たちのために天に住まいを用意するために行かれると言われた。その住まいはたくさんあるとも。だが、同時に、私たち自身が、この地上において、まことの主人の到来にふさわしい住まいとして建て上げられ、整えられ、主の栄光を表すことが必要なのである。

それはまるで天と地とが呼応するようである。その住まいが完成されたとき、神ご自身もそこに喜んでやって来て、私たちと共に住んで下さり、それはついには朽ちることのない永遠の巨大な都を構成するようになるだろう。

そういうわけで、今は終わりの時に向かって、人々の内心がことごとく明らかにされ、それぞれが目的とするところが何であるかが試され、各自のビジョンが完成に近づいている時である。正しい者はますます正しく、悪い者はますます悪くなる。聖なる者はますます聖とされ、汚れた者は、なお汚れるままになると聖書に書いてある。

不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行なわせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(黙示22:11-15)

渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者がれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何かを取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示22;17-19)
 
だから、私たちは、より一層、霊や肉の穢れから身を清め、聖なる神の住まいとなるにふさわしく整えられたい。

荒野で、蛇にかまれても、さおにかけて上げられた青銅の蛇を見た者が生きたように、カルバリにおいて永遠に打ち立てられた御子の十字架を仰ぐことによって、私たちは生きる。

私たちの内に義があるのではなく、キリストが、私たちの義であり、贖いであり、聖なのである。彼こそが、私たちのために模範として与えられた、神の御心を完全に満足させる新しい人である。
 
神はそれぞれの心の内にある動機を知っておられ、これらをすべて万人の前に明らかにすることができる。神の御前には何一つ隠し立てできるものはなく、人の思いの不完全さも、神にはすべて知られており、明らかにされる時が来る。

筆者はまずはその光による照らしを待ちたい。その後、悪者たちには終わりが来る。その行程がどんなものになるか、筆者はここに明かすことはないが、主を信じる者が、失望に終わる事はないと聖書に書いてある通り、神はご自分を信じる者をみもとにかくまい、すべての悪巧みから救い出し、高いところに置かれる一方で、主に逆らう悪者にはしたたかに報いられる。

悪者は、自分を襲う恐怖を知らず、それに対策を打つこともできず、そこから自分を救うこともできない。主に叫んでも、その叫びはかえりみられることなく、その祈りは罪とされる。主に従う者の道は栄え、悪者は断たれる。それは聖書が一貫して告げている変わらない法則性である。


どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。

筆者は、筆者にとっての「干潟」と一つの約束を結んだ。その約束の内容は、ここには書かないが、今はその約束を守るために、とても重要な時期であるから、あえて主の平安と安息の中にとどまっていたい。
 
ウォッチマン・ニーが書いていた、私たちは、装甲の中にいてこそ、敵のあらゆる攻撃から身を守ることができると。

装甲とは、キリストの十字架である。もしも十字架から外に出れば、私たちには、防御の術がない。そして、十字架の装甲とは、神の愛の中にとどまることであり、同時に、キリスト者の交わりの中にとどまることである。

これまでひたすら筆者が学ばされてきたのは、この装甲から外に出ない方法であった。

読者はよく見ておかれたい。敵はしばしば激しい挑発を持って、私たちを装甲の外へ連れ出そうとして来る。だが、私たちには、どんなことがあっても、平安を持って、装甲の中にとどまることが必要であり、また、可能なのである。

逆に言えば、非常に困難な事件が起きるときには、それと同時に天に用意されている祝福も大きいのだと言えよう。筆者はこれまでの経験上、知っているのだが、とても重要な、栄光に満ちた出来事が起きる前に、サタンは人間を攻撃し、落胆させようとして来る。

そこで、私たちは困難が起きるとき、今一度、主がこの先、どんな栄光を私たちのために用意されているのか、考えを巡らしてみることは有益である。

今、人間の本心が赤裸々に吐露されているが、それを通して、多くの人たちが、その人の隠されていた内心と、その人の生きる目的を知ることになったろうと筆者は思う。

今は激しい戦いの行われている最中であって、時期尚早な言葉を述べるべき時ではない。だが、人の内心が明らかにされ、覆われていたものが明らかにされ、各自がどのような目的のもとに歩みを進めているのか、万人が知りうる状態になるのは、聖書の御言葉にかなった事実であり、私たちのこれからの歩みにとって、必要不可欠なプロセスであると、筆者は思う。

だが、それだけでは、まだ足りないものがある。それは今、試されているのは、私たちが神の御言葉に従っているのか、それとも、自分の思いに従って歩んでいるのか、という問題だからであり、これがはっきりするためには、各自の他者への思いだけでなく、神に対する思い、すなわち、聖書の御言葉に対する態度が明らかにされなければならない。

一言で言えば、神の御言葉を真実なものとして、これに従うのか、それとも、神の御言葉そのものがファンタジーであるとして退け、これに従わないのか、ということが試されているのである。

聖書には、神は報復なさる方だと書いてある。しかし、その瞬間が来るためにも、ただ人が人を非難したり、憎んだり、罵倒したり、傷つけたというだけでは十分でなく、その人の神に対する態度、御言葉に対する態度が明らかにされていなければならない。

何度も書いて来たように、人がキリスト者を憎むということは、その人が、神ご自身を憎むことと同じであり、人がエクレシアを破壊しようと試みることは、その人が、自分で神の宮として造られた自分自身を破壊しようとすることと同義なのである。

だから、キリスト者(兄弟姉妹)を憎み、これを害そうとする人は、自分で自分を傷つけることになり、相応の報いが降りかかることになる。

とはいえ、私たちキリスト者がただ傷つけられたというだけで、神が私たちを守るために立ち上がって下さるわけではない。私たちを防御するために、神が立ち上がって下さるためには、条件がある。

それは、兄弟姉妹を攻撃する人が、ただ兄弟姉妹を憎んでいるというだけでなく、神ご自身を憎み、聖書の御言葉に逆らっていることが、はっきりと言い表される瞬間が来ることである。

その瞬間が来ると、神ご自身が動かれる。

このようにして、ある人が、兄弟姉妹を愛するか、憎むか、という問題は、その人が、神御自身を愛するか、憎むかという問題に直結しているのだが、それでも、神が動いて下さるためには、はっきりと神ご自身に対する冒瀆の言葉が述べられていることが必要であると、筆者は考えている。その段階まで来ると、人が人を対処するのではなく、神が人を対処される。

このところ、筆者の周りで、キリスト者の交わりが復興している。神はそこで時宜にかなって、多くの祈りと、助けを与えて下さり、エクレシア(神の教会)が建て上げられるために、必要なことをなして下さっている。

このような時に、このような交わりが復興していることも、決して偶然ではなかろう。私たちは、兄弟姉妹を憎んでいる者ではなく、兄弟たちを愛する者である。神がご自分の命を私たちのために捨てて下さったように、互いに支え合い、助け合う。

世人でさえ、私たちに対して驚くべき愛を示してくれている。だとすれば、まして神の家族である者たちが、互いに愛を示さないはずがあろうか。

以下の御言葉には、兄弟を憎む者は、人殺しである、とはっきり書いてある。キリスト者を憎み、攻撃する者の最終目的がどこにあるのかが、ここにはっきりと示されている。単なる非難や、攻撃ではなく、殺意であると書かれている。筆者が殉教を語る理由がここにある。

「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同上しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(一ヨハネ3:11-18)

しかし、サタンの言い知れない憎しみに遭遇するときでも、私たちキリスト者は、平安の内にとどまることができる。そして、そのことによって初めて、敵の多くの攻撃が無に帰されて行くのである。

ステパノは石打ちにされる瞬間にも、人々の罪のためにとりなし、祈った。もちろん、ステパノには罪がなかったが、彼は自分を殺そうとする人々の罪のために、神にとりなしたのである。そんなことができたのも、ステパノが、石打ちにされるまさにその瞬間、天におられる主を見て、その栄光に満ちた姿を知っていたためである。

キリスト者があらゆる瞬間に、平安にとどまるための秘訣、もしくは、平安にとどまることができる秘訣は、その人が神を知っているかどうか、という一事に尽きる。
 
エクレシアとは、神の軍隊のようなものである。戦いに勝つためには、軍隊がきちんと建て上げられ、増強されていなければならない。そして、そのためには、最高司令官が、軍隊の成員に対して、自分を明らかにし、軍隊の成員が最高司令官を知るようになることが必要だと、最近のオリーブ園のオースチンスパークスの記事に書いてある。

最新の記事の一つから、少し引用してみよう。

「私たちの戦い」 第一章 最高司令官(5)

これは私たちを新約聖書に連れ戻します。エペソ人への手紙――あの偉大な戦いの手紙(なぜならそれはそのようなものだからです)――で、パウロは「知る」という言葉を大いに凄まじく強調しています。その冒頭で彼は祈ります、「それはあなたたちが彼の召しの望みの何たるかを知るためです」「それはあなたたちが聖徒たちの間にある彼の嗣業の(中略)富を(中略)知るためです」。「それはあなたたちが(中略)彼の力の卓越した偉大さを知るためです」(一・一八~一九)。「それはあなたたちが知るためです……」

「知る」というこの言葉が、私たちの戦いというこの問題全体を支配する言葉です。熟練した兵士だったので、パウロは主を知ることを大いに強調しました。「それは私が彼を知るためです……」と彼はある箇所で書いています(ピリピ三・一〇)。人々が重要だと見なしている他の何ものにもましてこれは遥かに重要である、と彼は述べました。彼はこの知識を彼が以前持っていたあらゆるもの――莫大なこの世の嗣業の富――と対比しています。「しかし」と彼は言いました、「私はそれをみな無――塵芥――と見なします。それは私が彼を知るためです」。これによりパウロはあのような戦士になったのであり、彼を通して教会の士気が大いに上がったのです。


 「最高司令官は、もし彼が賢明なら、自分の軍隊が自分を知るように配慮するだろう」。もしこの地上の死すべき人に関して賢明だと言えたとするなら、私たちの最高司令官はさらに賢明です。主は最高の知恵をもって――私たちはこれを謹んで申し上げます――彼を知る私たちの知識が絶えず増し加わるよう確証して下さいます。



これは非常に勇気を与えられる記事ではないだろうか。

なぜなら、神は、私たちから離れた遠くにいまし、沈黙のうちに、ご自身を現して下さらないような方ではないからである。神は、私たちに主を知る知識を与え、それによって、私たちを主に似た者に造り変え、私たちを創造された当初の目的へ――神がかくあれかしと望まれた人の姿へとー―建て上げて下さり、主と共に万物を統べ治めるというその使命を果たせるようにして下さる。

それは決して、達成できないようなはるか遠くにある目的ではなく、最高司令官は、私たちのそばに、手の届くほどそばに、いつも共にいて下さり、ご自身を現して下さる。

私たちが、あらゆる瞬間に平安にとどまることができるかどうかは、すべて主を知る私たちの知識にかかっている。パウロの祈りに心を合わせよう、どうか、主が、私たちに神を深く知ることができるようにし、私たちの召しにどれほど大きな希望がかかっているか、また、私たちに将来的に約束されたものに、どれほど大きな栄光が込められているか、心の目を開いて、見ることができるように。

また、地上において、いかなる艱難があっても、キリストがすべてのものを足の下に統べ治められ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に立っておられる以上、神は私たち信じる者に絶えず絶大な働きをなして下さることを信じよう。

軍隊の成員である我々は、最高司令官が、私たちのところにやって来て、私たちの労をねぎらい、ご自身を現して下さる瞬間を待ち望んでおり、それをこの上ない栄誉と考えている。その瞬間は、最初は、とても稀有なもののように思われるかも知れないが、次第に、より頻繁に、より長くなり、いつしか最高司令官は、いつも私たちと共にいてくれ、常にかけがえのない仲間として、喜びと悲しみのすべてを分かち合い、いつも絶えず共にいて、助けてくれることが分かるようになる。

一点、キリスト。いかなる瞬間にも、見るべきは、この方であり、その方の栄光に満ちた姿であることを知るようになると、私たちの平安は、揺るがされることがなくなる。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:17-23)


彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。

そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるとおりです。

見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。

従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
 のであり、また、
「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、

「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(Ⅰペテロ 第2章)

* * *

当ブログは、聖書の神が、正しい、唯一の神であって、キリストの十字架の贖いが、人類にとってただ一つの救いであることを証しするために執筆されている。

従って、当ブログの最終目的は、神に栄光を帰することであって、それ以外の目的にはない。

このブログは、筆者が信仰の証のために書き続けているものであって、筆者の自己満足や、筆者が栄光を受けることを目的としていない。

とはいえ、このブログには、筆者自身の人間らしい歩みも率直に記されているので、一見すると、無価値にも見える多くの記事があるかも知れない。しかし、それも含めて、このブログは、干潟に溜まっている泥水のように、外見的には、みすぼらしく、魅力も、見栄えもしないが、そこには、神の愛に満ちた眼差しが確かに注がれているのであって、人知れず光合成が起き、泥水にしか見えない水が、神の目に尊く、すべての人々に役立つ、永遠に価値ある生ける水に変えられている最中なのである。

筆者がこの地に置かれてから後、筆者に与えられたミッション――すなわち、干潟を開拓して、そこから命の水が湧き出るためのパイプラインを建設し、これを稼働させること――が開始するまでに、相当な年月がかかった。

それは、この地にパイプラインを建設できるような土壌がなかったためで、地盤作りに年月がかかったからである。さらに、地中を深く掘り下げ、地下深いところから水を汲み上げるためには、多くの苦難が必要となった。

神の御業が現れるためには、信じる者の側にも、深い飢え渇き、願い求めが必要で、旱魃のようにも見えるむなしい実り少ない月日の間に、深く深く井戸を掘ることが必要となった。

だが、ある時が来ると、掘削作業は終わり、確かに水脈に達し、地下水を汲み上げる作業が始まった。そして、ついに筆者は、命の水が確かに流れ出す瞬間を見たのである。

二、三年ほど前までは、多くの交わりが試練に耐え得ず、分解させられるところを幾度も目撃して来た。

だが、そのことを通して筆者が学んだのは、人間関係とは、キリスト者の交わりも、そうでない交わりも含め、全て試され、揺さぶられることなしに、本物にはならないということである。不信や、対立や、分裂をもたらそうとする悪しき力や、様々な策略が働くときに、これに勇敢に立ち向かって、人々との信頼の絆を保ち、目的に向かって共に一致協力して前進できる関係を手放さない方法を学ばなければ、私たちは、順調な時しか人々と協力できず、逆境になると、すぐに人間関係が壊れ、これを手放すこととなり、そんなことでは、周囲の人々が、一体、何のために私たちの周りに置かれたのか、彼らが私たちにとって、どんなに重要かつかけがえのない役目を果たしてくれるかを、決して生きて知ることはできないままに終わる。

そうして不信や対立を乗り越えて、信頼を維持・強化する方法を学ぶためだけにも、相当の歳月が必要であった。
 
これと同様のことが、当ブログにも当てはまる。信仰の証としての当ブログは、これを中断させ、放棄させようとする様々な試みによって、絶え間なく揺さぶられ、試練を味わわされて来た。

しかし、それもまた、筆者が信仰の証を確固として保ち続けるために、これをやめさせようとするすべての策略に勇敢に立ち向かって、神への賛美と証を続けることの重要性を学ぶ過程であったと言える。

困難や試練に見舞われても、神に栄光を帰する作業を決してやめないでいること、兄弟姉妹や、愛すべき人々を、嵐のような試練の中で守り抜き、彼らとの絆を決して絶やさないように守ることの重要性を学ぶまで、確かに歳月はかかった。しかし、ついに、揺さぶられても、決して壊れることのない交わりが生まれ、相互の固い信頼の絆が生まれたのである。

そうして、地下深く掘り下げられた井戸から、汲み上げられた命の水が、地上から流れ出し始めた・・・。

今でも、当ブログを地上から殲滅したいとの願望が、筆者に向かってあからさまに述べられることがある。筆者がすべての主張を放棄し、これまで獲得したすべてのも成果を投げ捨てることによって、あたかも筆者の安全が保たれ、平和が到来するかのような主張を聞かされることがある。

だが、筆者に証を述べることを辞めさせようとする願望を聞くとき、筆者は、殉教者たちのことを思い出す。長崎のキリシタンであれ、皇帝ネロの時代のクリスチャンであれ、みな同じ要求を突きつけられ、同じ試練の道を通ったのである。自分の命や、自分の身の安全を第一優先し、神の御言葉を恥じて捨てるのか、それとも・・・。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

筆者が第一に優先せねばならないことは、自分の命を真っ先に優先して守ろうとすることではなく、神の国とその義を第一とし、神の御言葉を人前で恥じることなく、伝え続けることである。
 
これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義)の時間の概念は、円を描く曲線であるが、キリスト教の時間軸は直線である、ということを書いて来た。

ここで言う「グノーシス主義」とは、聖書とは真逆の偽りの教えを総称したものである。
 
この問題を考えるとき、筆者が当ブログにおける信仰の証を自ら放棄・否定して、これまで達成して来たすべてを、なかったこととして否定しさえすれば、あたかもすべての争いから解放されて、安息を得られるかのような考えが、偽りであることが分かる。

何度も述べて来たように、聖書に反するグノーシス主義のシンボルは(東洋思想も含め)「円」である。この円とは、人類が時間軸を逆にして、歴史の初めと終わりを一つに結びつけること、すなわち、循環する時間の概念を表している。
 
このシンボルの究極的に意味するところは、人が自力で、神と人とが分離する前の状態に逆戻ることである。すなわち、聖書によれば、神が天地を創造され、人を創造された後、人は自ら神に反逆し、罪によって堕落し、神と断絶するに至った。

しかし、グノーシス主義は、人間が自分で時間を遡り、神から分離する前の状態に逆戻ることによって、あたかも、人が神に対する反逆という問題を起こしたことがなかったかのように、罪の問題を自力で解決して、自ら神に回帰し、救いに到達できるかのように教える。そのような偽りの考えを示すシンボルが、円(東洋思想における「道」)なのである。
 
それは、人が自力で母の胎内に逆戻り、生まれる前の状態に逆戻ることによって、この世の悩み苦しみの全てから解かれ、両親との一体性を取り戻し、胎内でもう一度、安息を得ようとする試みにたとえることもできよう。

しかし、普通に考えて分かる通り、人が自力で母胎に逆戻ることなど、できるはずもないのであるから、同じように、罪によって神と断絶した人類が、時間軸を逆向きにして、神と分離する以前の状態に自力で回帰することなど無理な相談である。

そのことを考えれば、筆者が当ブログを閉鎖したり、信仰によってエクソダスを遂げたことを否定して、幼い頃から慣れ親しんだもとの故郷に逆戻り、そこから出た後、昨日までに打ち立てたすべての達成を自ら否定してみたところで、それによって生まれる成果など何一つないことがはっきりと分かる。

私たちは、昨日までの歴史を否定したり、自分の信仰の証や、果ては兄弟姉妹の存在や、自分自身の存在までも否定して、何も起きなかった当初の状態に逆戻ることで、心の平和を得られるわけではない。

そういう意味で、人類が、神によって創造され、罪によって堕落したことは、それ自体、著しい悲劇なのであるが、それでも、私たちは、その悲劇が起きなかった以前の状態に自力で逆戻ろうとすることによって、問題解決を成し遂げ、平和を手に入れられるわけではなく、その悲劇の事実をしっかりと見据えた上で、これを真に克服できる方法を探し求め、それを手に入れて、先に進んで行かねばならない。

そして、神と人との断絶を克服する方法は、神の側から恵みとして与えられた十字架以外には存在しないのである。十字架は、エクソダスの道である。生まれながらの自分自身から、古い肉的な故郷から、私たちが目で見て、耳で聞いて、感覚を通して確かめて来たこの世そのものからのエクソダスである。
 
これまで当ブログでは幾度も述べて来たことであるが、聖書には、こうある。

「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30-32)

筆者が、この御言葉を幾度も引用するのには、理由がある。ここで述べられている内容は、非常に重要な奥義であって、それは神と人とが一体であるかのごとく親しく結びつき、一つとなって共に住まうことが、神の望みであることを示している。

つまり、聖なる神の宮として造られた人類に、神ご自身がやって来られ、人の内に住まわれること、そうして、神と、宮なる人類が一つとされ、それによって、花婿なるキリストと花嫁なる教会の結婚が実現すること、それこそが、教会の奥義なのである。

だが、この一体性が成り立つために必要な条件は、「人は父と母を離れて・・・」というものである。父と母を離れるとは、人が自分の生まれながらの出自に死ぬことを意味し、生まれながらに持っている堕落した天然の命に対し、キリストの十字架の死を経由し、自分の生れ故郷(ヘブル書では「出て来た土地」(ヘブライ11:15))を離れ、信仰によってよみがえらされて、新しい命により、新しい天の故郷へ到達するために、歩みを続けることを意味する。

生まれ故郷を離れないことには、新しい故郷にたどり着くこともない。地上的な故郷との結びつきが断ち切られないことには、天の故郷への道も開かれない。だからこそ、人はバプテスマを経て、生まれながらの自分に死んで、上から生まれることが必要なのであり、筆者自身も、真実な信仰を知って、神ご自身を探し求めるためには、エクソダスの道を通らねばならなかった。

筆者は幼い頃から形式的にはキリスト教徒だったのであり、信仰それ自体も、持っていたとはいえ、それでも、「父と母」のいる、もといた「故郷」、すなわち、物心つく前から筆者を取り巻いていた慣れ親しんだ宗教的な環境において、古き自分に死ぬことなしに、神ご自身に出会うことは不可能だったのである。

ヘブル書には次の通りある。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)


神の御言葉は、あたかも裁判の判決が法的拘束力を持つように、霊的な拘束力を持つものである。そこには、人類に対する神の約束事が書かれている。約束が成就していないうちば、御言葉は、単なる空手形のようにも見えるかも知れないが、その約束には、生きた効力があり、聖書の御言葉には、約束を実現させる力が込められている。

とはいえ、その約束は、私たち自身がこれを承認し、信じ続けなければ、実現することのないものである。従って、私たち自身が、何があっても、御言葉に基づく望みの確信を手放さないことをせず、その確信を途中で投げ捨て、自ら否定してしまえば、その効力は失われる。
 
たとえば、ちょっとした困難が起きただけで、自分の命や、身の安全が惜しいからと、当ブログの信仰の証を、筆者が自ら否定し、捨て去ったり、筆者に与えられた尊い御言葉の約束を、筆者が自分で否定したりすることは、約束の放棄を意味し、それは結局、筆者が出て来た故郷へ戻ろうとする試みと同じなのである。そのようなことをすれば、さらにまさった天の故郷へ向かう道は断たれる。

それだけでなく、筆者のエクソダスも、意味がないものとなり、地上の故郷を出した後に打ち立てられた信仰的成果もすべては無に帰され、当ブログの存在も無用なものとなるばかりか、筆者自身の存在も、消えてなくなるであろう。

いや、消えてなくなるくらいならまだ良い。キリスト者が信仰の証を捨てれば、塩気を失った塩として、誰にとっても無用なものとして、道端に捨てられ、踏みにじられて終わることになるだけである。争いが終結して平和が訪れ、自分の命と安全が保たれるどころか、すべてが「無」に帰され、踏みつけられて終わるだけなのである。
 
当ブログは、筆者なりに、天の故郷へと続く道を歩く行程(天路歴程)なのであり、これを否定したり、放棄することで、筆者の安息(救い)が得られることは決してない。そのような考え方の中には、筆者を古い故郷へと戻らせようとする、偽りの思想に基づく循環の時間の概念が反映していると言える。

だが、繰り返すが、人類は自力で神の懐に回帰することができない以上、筆者がこれまでの歴史を否定してみたところで、それによって達成される成果など何もないのである。
 
私たちは、不可逆的な時間の流れの中に立っており、時には、根こそぎ心を揺さぶられ、自分が一体、何のために生きているのかも分からないと思うような、悲痛な出来事に遭遇することもある。だが、悩み苦しみが大きいからと言って、自分がこの世に誕生し、ものを考えるようになり、自己の意思を表明するようになり、神を求めるようになり、信仰を見いだす以前の、生まれなかった前の状態に逆戻ることによって、問題が解決するなど、断じてあり得ず、それは詭弁でしかない。
 
むしろ、目の前に大きな困難があるように見えるときにこそ、私たちには、神の御言葉という、絶大な効力を発する、勝利の約束が与えられていることを思い起こし、私たちの存在に、神の愛が注がれていること、それゆえ、御子の十字架が与えられていることを思い起こし、勇気を奮い起こして前に進んで行かねばならない。

御言葉が、私たちに勝利を約束してくれている以上、一体、何を恐れて、これを自ら否定し、証をやめて、御言葉を知らなかった頃の、古い故郷に駆け戻る必要があろうか。
 
なすべきことは、エジプトを恋しがり、あるいはソドムに未練を感じて振り返ることではなく、約束の確信に基づいて、目の前の紅海を最後まで渡り終え、復活の領域に達することである。

キリストこそ、私たちにとって、すべてのすべてであるから、この方の中にこそ、地上のあらゆる問題に対する「正解」がある。この方を信じる者は、失望に終わることはないと、はっきりと聖書に記されている通りである。その約束に立脚して進んで行くのか、恐れて退却するのかは、各自の自由な判断であり、選択である。
 
「「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。」
 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)
  
さて、不思議なことに、筆者の人生においては、様々な困難が存在しているように見える中でも、失われた兄弟姉妹の交わりが、少しずつ回復している。筆者がキリスト教界をエクソダスして後に築かれた兄弟姉妹の交わりが、戻って来ており、そこで10年以上前から温められていたプロジェクトが、今も進行中であることが分かった。

それは、筆者がエクソダスを遂げるに際し、とても重要な役割を果たしたプロジェクトである。あれから相当な歳月が経ったので、筆者は、さすがにこの計画はもう放棄されているのではないかと思っていたが、そうではなかったことが分かった。

それは他の人たちが撤退して行った場所で人知れず続けられている計画であり、このことを見るにつけても、筆者は、神の国と神の義をまず第一にすれば、すべてのものは添えて与えられるとの御言葉の確かさを確信させられる。

人の目から見てどう見えようとも、神の御言葉の約束を信じてこれを追い求め続ける人の人生には、神ご自身がすべての責任を取って下さるという、生きた見本を見せられているようである。

聖書には、不正な裁判官のたとえがある。

神を畏れず、人を人とも思わぬ裁判官に対しても、やもめが懇願を続けて、ついに裁判官の心を動かし、正しい裁きを得たという、主イエスが語られたたとえ話である。
 
このたとえ話に登場する不正な裁判官は、神を象徴している。神を不正な裁判官にたとえるのはどうかと思われるかも知れないが、神の采配は、私たちには、ときには、非常に理解しがたく、納得できないものに見えることがある。

たとえば、神はなぜサタンの活動を許しておられるのか。なぜこれほど理不尽な悪事や災害が世に溢れ、神はこれを放置されているのか。もしも神がただちにサタンの働きを滅ぼしてしまえば、私たちは、現在の悩み苦しみからすぐにでも解かれたであろうに、なぜ神は善良に見える多くの人々の苦しみを黙認しておられるのか・・・。

そういった疑問は、クリスチャンであっても、実に多くの人たちが抱くものである。だが、それは愚門であると言えよう。神が望んでおられるのは、あくまで私たち自身が、自らの信仰を通して、理不尽や混乱に満ちたものに見えるこの状況の只中に、御言葉の約束の効力を及ぼし、それによって、サタンのわざを後退させて行くことだからである。

だから、私たちがせねばならないことは、いかなる状況の中でも、その状況の理不尽さに目を留めるのではなく、神の采配がどんなに理解できないものに感じられるときでも、神は正しく、真実で、公平な方であって、私たちのために、常に最善の解決を用意して下さっていることを固く信じ、主がカルバリで打ち立てて下さった勝利の御業を誉めたたえ、その約束に信頼しつつ、新たな一歩を信仰によって大胆に踏み出していくことなのである。

そうして、私たち自身の努力によるのではなく、神の側から恵みとして与えられている御言葉の約束に基づく解決を、混乱に満ちた状況の只中に、力強く現実的かつ具体的に引き下ろすことである。

そのために、私たちに必要なのは、あくまで望みを捨てずに祈り続けること、執拗に懇願し続けること、目的に向かって進み続け、決して後退しないことであり、断じて、脱出してきたはずのい故郷に帰ろうと考えることではないない。

そこで、仮に今、誰かが筆者の隣にやって来て、筆者の耳元で、自分の身の安全が惜しいなら、あなたの信仰の証をさっさと放棄しなさいとささやいたとしても、筆者は、そんなことは無理です、としか答えられない。

なぜなら、筆者には、キリストに出会わなかった以前の状態に戻ることはできないからである。その答えの中に、一切が込められている。キリストを否んで、信仰の証を捨てることができるか問われれば、当然のことながら、答えはノーであるが、それと同様、愛すべきキリスト者との交わりを手放せるかと問われれば、答えはノーである。敬愛する権威者・友人を捨てられるかと問われても、答えはノーであるし、裁判所の飛び地のようなところで、筆者に与えられている仕事を放棄できるかと問われても、答えはノーである。自分に与えられた信仰によるミッションも終わらないうちに、この街を出て行き、よその土地で暮らせるか、と尋ねられても、やはり答えはノーであると言うしかない。

信仰によるエクソダスをなかったことのように否定して、ブログを立ち上げる前の状態に逆戻り、地上的故郷に舞い戻り、そこで自分自身の名で、自分のために、地上的な功績を打ち立てることを目的とする人生を送れるかと問われれば、そのような人生は、すでにバプテスマと共に、水の底に沈んで死んでいる以上、思いめぐらすこともできないし、取り戻すことも不可能だと言うしかない。

そこで、誰かが筆者のそばにやって来て、筆者に向かって、あなたがエクソダス後の成果を頑固に手放さないから、私はあなたに間違った信仰の証を辞めさせるために、あなたを殺害することにしますと予告したとしても、やはり、筆者の答えは変わらないだろうとしか言えない。

だが、それは決して筆者が、歯を食いしばって、必死の思いで、あるいは涙ながらに、自分はこれからあらゆる恐怖に打ち勝って、信仰を守り通さねばならないと告白するような、悲壮な決意表明ではない。

筆者は、ただ与えられた御言葉の約束と、その前味として、すでに筆者の人生において成就している恵みの素晴らしさを知っているがゆえに、もはやそれを知らなかった頃に逆戻ることはできないという、シンプルで自然な思いを述べているに過ぎない。

一言で言えば、自分の全てを捧げてキリストに従うとは、愛ゆえに生まれて来る自然な告白なのであって、自分の力であらゆる苦難に立ち向かって信仰を守り通そうとする頑固で必死の努力の賜物ではないのである。

すべては愛のゆえである。信仰による応答は、まず何よりも、十字架でご自分の命を捨ててまで、筆者を救って下さった神の深い愛に対する、筆者の側からの愛による応答である。いかに幼い頃から信仰を持っていたとはいえ、筆者は目に見える教会生活を送っていた時代には、十字架のキリストを内に啓示されることで、主に出会うことはなかったのであり、その後、教会生活をエクソダスして、初めて、主ご自身に出会うことができ、聖書の御言葉と、それに基づく信仰の、真実で正しいことを身を持って知った。今、それによって得たすべての恵み、そして、来るべき報いに対する望みの確信を放棄して、主ご自身に出会う以前の状態に逆戻ることは、筆者には死を意味することであって、全く考えられもしない。

主に出会ったときに、筆者の人生は根本的に変えられ、自分が何のために生き、存在しているのか、その目的も、意味も、以前とは全く異なるものに変わった。ひと言で言えば、筆者はもはや自分のために生きているのではなく、神に贖われた者として、筆者のために命を捨てて下さった神に栄光を帰するために生き、存在している。どんなにその目的が、わずかしか達成されていないように見えたとしても、筆者に与えられた使命が失われるわけではない。

それに加えて、筆者がこれまで出会って、支えられて来たすべての人たちとの愛に満ちた交わりや、信頼関係がある。キリスト者の交わりへの慕わしい思い、筆者を助け、支えてくれている人たちへの愛がある。困難の中で得られた信頼や交わりは、とりわけ価値があり、それは筆者の手柄ではなく、まさに主が恵みによって与えて下さったものであるとしか言えない。

こうした信頼関係は、交わりがふるいにかけられて試される以前のように、頼りない、壊れやすいものではなく、試練にさらされても、それに耐えて残るだけの力があると確信できるものとなっている。

そうして新たに生まれた信頼に満ちた交わりが、とても喜びに満ちた、麗しく、慕わしいものであるがゆえに、それらを自ら否定したり、侮辱するくらいなら、ただちにこの場で殺されて息絶えた方がましだと筆者には思えるのである。
 
このように、主が与えて下さった人々の価値、また、自分が守ろうとしている信仰の証の価値を知っているがゆえに、それを守るために、死をくぐらなければならないとしても、筆者にはそれは大したことではないと思われる。

 おそらく、殉教した時のステパノは、そういう心境だったのに違いない。彼は栄光に満ちたキリストをそば近くで拝し、自分が今しも迎え入れられようとしている天の故郷の絶大なる価値を確信していたがゆえに、群衆に石打ちにされそうになっている瞬間にも、誰も彼を助け得なかったことなどには何の注意も向けず、むしろ、兄弟姉妹を安全なところにかくまい、自分を殺そうとして打つ人々に神の福音が届けられることを願いつつ、率先して地獄の軍勢の憎しみの只中に立ち、息絶えたことであろうと思う。

それは、彼が神の愛を通じて、人々を愛することを知っていたために、できたことなのである。断じて殉教者になることを目指し、それによって、信仰的に偉業を達成しようなどと考えて起きた出来事ではない。

そういうわけで、筆者は、人前で信仰の証を守り通すことは、ぜひとも必要だと考えているが、それも、神と人とに向けられる自然な愛の中で達成されることであって、決して、正しい信仰を何が何でも守り通そうとする不自然な努力の結果ではないと思っている。

しかも、聖書には、逆説的に、自分の命を捨てる者がそれを得る、と書いてあるから、筆者は、歴史的殉教者のようにはならないことであろう。筆者は、主の御名のゆえに、忍ばなければならない苦難や試練を避けるつもりはないが、それは決して悲劇的最期を迎えたいがゆえの愚かしい意思表示とは異なるのである。
 
むしろ、私たちキリスト者の人生は、終わりに近づけば近づくほど、ますます明るさを増して、健全かつ喜び言満ちた輝きを発することになろう。今、筆者の歩いている行程の先には、花婿なるキリストが、筆者を迎えようと、天に住まいを準備されている。筆者は、地上的住処には全く満足していないし、天には住まいがたくさん用意されていると、主ご自身が言われたこともあって、天の故郷に大いに期待しているのだが、最終的にそこにたどり着くまでの間にも、主は筆者のために、その時、その時で、恵みに満ちた地上の仮住まいを、備えて下さるだろうと信じている。そして、その仮住まい(筆者自身が仮の地上的幕屋である)を通して、神に栄光を帰するために、私たちは互いに交わりを持つ。

主の御名によって集まる二、三人の交わりの中に、主が共にいて下さる。主は互いに愛し合いなさいと、信じる者たちに命じ、そのことによって、私たちがイエスの弟子であることが皆に分かるようになる、と言われた。

やがて花婿なるキリストが再び地上に来られるとき、主が地上における信徒の小さな交わりに目を留め、それがとても愛に満ちた麗しいものである様子をご覧になって、ぜひともそこに共にいたいと願って下さるためにこそ、私たちは地上に存在している。

そういう意味で、筆者は使徒行伝の終わりが好きである。使徒パウロは、おそらくは皇帝ネロの迫害により殉教したにも関わらず、使徒行伝の終わりには、殉教を思わせる記述は全くない。かえって、これから何かが始まりそうだという期待感に満ちたしめくくりとなっている。

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30-31)

パウロが自費で借りた家に住んでいたことや、自分の私生活を後回しにして、誰でも訪問者を歓迎したことは措いておくとして、ここには、「全く自由に何の妨げもなく」(!)と書かれている。そのことは、パウロにこの間、いかなる迫害も及ばなかったとか、制約も生じなかったということではない。神の福音は、たとえ信じる者が鎖につながれるようなことがあっても、決してつながれず、地上的な、人間的な、あらゆる制約を超えて、人々のもとに自由に届けられて行ったのである。

これが、生ける水をもたらすパイプラインの効果である。キリスト者は、主の御名のゆえに、様々な信仰的な試練を通過するし、制約も負うが、御言葉は、その制約の只中から、溢れ出る泉のように湧き出て、全く自由に、何の妨げもなく、人々のもとへ届けられて行く。

筆者も、地上で重荷を負って、労苦奮闘しているが、その只中から、命溢れる成果が生まれ、やがてその苦労の先に、想像を超える大きな収穫が待ち受けていることを思うと、今感じている労苦など、何でもないという心境になる。

神が喜んで下さることこそ、私たちの喜びであり、満足なのであって、その達成のためになら、信仰のゆえに、地上で味わう試練などは、全く取るに足りない。それがどんなに人の目に損のように映ったとしても、神はそれを補って余りある恵みを、私たちに与えて下さることのできる方であり、それが幾分かすでに与えられている以上、筆者は、私たちが地上で味わうすべての労苦には、天の大いなる報いがあると確信する。
 
そこで、筆者は最近、目の前で何が起きていようとも、主が出会わせ、結び合わせて下さった愛してやまない人々と共に、この先も、主を賛美しつつ、地上での生涯を終えられるだろうとの確信を持つようになった。

エクレシア(教会)は、あちらこちらを訪ね求めて見つかるものではなく、私たちの信仰の只中から、私たち自身の神への愛と献身によって、生まれて来る。その愛に満ちた麗しい交わりこそ、キリストが再びこの地上へ来られるときを早め、引き寄せるための鍵である。
  
そうして、どんな困難や迫害の最中にあっても、私たちが喜びに溢れて主を賛美し続け、互いに愛し合い、神が私たちのそば近くにやって来られ、早く共に住まわれたいと、切に願って下さるような交わりを、地上で打ち立て、御言葉の約束を固く守り、これを実現していれば、主は私たちの抱えるすべての地上的問題に対して、速やかに解決の手を差し伸べて下さり、私たちが地上において悩みの種としているような問題のほとんどは、塵芥のごとく吹き飛び、あっけなく消えて行くであろうと予想する。

そのようにして、御言葉を守り、これを実現して生きることが、今、私たちに最優先で求められている課題なのである。
 
そして、それが真に神の御心にかなうことならば、私たち自身が、生ける水の川々を流し出す泉となることを止められる者は、地上に誰もいない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)


わたしの愛にとどまりなさい。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。


あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:9-17)

* * *

全く不思議なことで、このところ、キリスト教徒を名乗っていない人との間に、信仰の交わりのようなものができ、神を知らないはずの人から、筆者は神の愛を知らされている。
 
筆者は、とても敬愛しているある権威者の言葉を通して、適宜、神から必要な助言を送られているような具合である。

これは実に不思議な交わりであって、信徒の交わりというものを、久しく失って、孤独を感じていた筆者にとっては、まるで神が、筆者の心の願いに応えて、慰めを与えて下さったように思える。

その人は、筆者に言った、無用な対立を一切避けなさいと。そして、こう言ったのである、筆者は、その権威者の代理人も同然であって、筆者の存在は、もはや筆者だけのものではなく、その人自身でもあるのだから、筆者がその権威者自身であるかのように振る舞いなさいと。

現実の筆者には、何の権限もなければ、職責があるわけでもない。むしろ、単なる使用人の立場である。ところが、その人は、あたかも筆者にその人自身の持っている高い職責や、大いなる権威や、権限が付与されているかのごとく、筆者は筆者だけのものではないから、その人自身のように行動しなさい、と助言したのである。

その人は、もちろん、筆者の信仰のことも、訴訟のことも知らず、筆者の身内でもなければ、キリスト教徒でもない。なぜにそのような発言がなされたのか、その交わりが何であるのか、筆者は知らない。
 
だが、その忠告は、実に深い意味を持っており、私たちキリスト者一人一人が、神の代理権威であって、神は私たちを本当に神御自身に似た者とされ、私たちを彼の栄光の高みにまで引き上げようと願っておられることを、筆者に想起させた。

以下の御言葉の通りである。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

似た者・・・という言葉には、まだ多少の距離感が残っているように感じられる。しかし、キリストと教会の関係は、「二人は一体」なのである。そこには、決して切り離すことのできない完全な一致、一体性が存在している。

そのようにして、神は信じる人を、ご自分と瓜二つになるほど近づけ、そこに完全な同質性が生まれるまで、一致させようとしておられるのであり、ご自分が持っておられるすべての富、栄光、威光、尊厳、栄誉、尊いご性質のすべてを私たち信じる者と分かち合おうと願っておられる。

そういうことは、今までの筆者には、御言葉の知識としては存在していたが、まだ現実としては理解されていなかった。しかし、目に見える人の助言が、筆者にこれを至上命題のごとく、目の前に突きつけたのである。

主に似た者とされるという栄化は、空を見上げて待っていれば、降って来るようなものではない。それは、約束としては与えられているが、その実現は、私たちの側からの積極的な応答にかかっており、筆者自身が、それを現実として受け入れるかどうかにかかっている。

そして、さらに分かったことがあった。それは、神が人をご自分に似た者とされる、とは、神が人の心を、ご自分から二度と引き離したくないというほど、強く愛しておられ、他のものを一切見ないでもらいたいと願っておられる、そういう排他的な愛と、密接な関係があるということである。

聖書における神と人との愛は、排他的な愛の関係である。雅歌の次の御言葉もそれを示している。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7) 
 
「熱情」と書かれているところは、「妬み」とも訳されている。
 
筆者に分かったことは、神の愛から人を引き離すすべてのものに対して、神は妬みの炎を燃やされる、ということである。

筆者は、貴重な助言を受けたように感じたが、すぐにはそれに従えなかった。なぜなら、筆者から見て、神はあまりにも高いところにおられ、私たちからはそこからあまりにも遠く、卑しい私たちが、神に似た者として振る舞うなど、あまりにも大それたことであって、要求されても、すぐには実現不可能と感じられたからである。

そこで、筆者は、依然、生まれながらの人間のように振る舞い、神の偉大さ、完全さに注目するのではなく、自分自身の限界、不完全さに注目して、色々と嘆き、不満を述べ、無理だとつぶやいていた。だが、そうした嘆きや不満が、実は、神との一体性を何よりも損ない、筆者を神から遠ざける要因となっており、神はそのようなすべての隔てとなる要因を何よりも非常な怒りを持って憎まれ、筆者の心を神から遠ざけるすべてのものに対して、妬みの炎を燃やされる、ということが分かったのである。
 
聖書における神の妬みとは、要するに、神ご自身と、信じる者とを隔てるすべてもののに対する、神の尽きせぬ憎しみを表しているのである。

悪魔と暗闇の勢力は、信じる者の心を、常に神の愛から外に引き出そうと試みるが、筆者はただ真直ぐに、神だけを信頼して見つめなければならないのであって、横道に逸れてはならないのである。そうして初めて、神の完全性、栄光、威光、尊厳が筆者自身にも分け与えられる。

もしもそこから目を離し、別のものに注意を向け始めると、神ご自身との一体性は損なわれ、私たちの尊厳は曇らされ、損なわれる。神は信じる者の注意を、もう一度、ご自分に引き戻そうとされるが、神は不従順を非常に憎んでおられるため、不従順は罰を伴い、神は信じる者の注意をご自分から奪うものすべてを憎まれ、妬みの炎を燃やされる。

もしも信者が、神との一体性を損なうものを、心の中で手放さず、それを依然、心の中で抱きしめて進んで行こうとするならば、信者は、たとえそれがサタンであっても、自分が心の中で注目しているものと一体となり、やがて神は、信者をご自分から引き離した敵だけではなく、敵と言一体となったその信者自身にも、妬みを向けて、手のひらを返して、信者を憎むべき者と共に滅ぼされるだろう、ということが分かって来たのである。

正直な話、筆者には今まで、聖書における神の妬みというものが、どのような性質のものなのかが、今一つ理解が及ばなかった。妬むほどまでに愛するということの意味が、はっきりとは分からなかったのである。だが、現実に起きた出来事を通して、不従順が、あっという間に、神と信者とを隔て、その一体性を損なうものであること、また、それが、愛による一致を妨げ、死と断絶と呪いを招き、やがては信者自身が神の敵と化する原因とまでなるものであることが分かった。

神は高きにいまし、威光と尊厳を身にまとい、すべてのものを超越して、御座から支配される方であるが、私たちから決して遠くにおられるのではなく、常に私たちと共にいて、共に支配して下さり、私たちをその支配下に置いて、守って下さる。だから、私たちはその懐に安心して飛び込み、そこで安らぎ、安息すべきなのであって、愛する御子の支配から一歩たりとも、外に出るべきではないのである。

そこで、筆者は、自分自身も、神ご自身の完全性、その安息、栄光と尊厳から、筆者を遠ざけようとするすべてのものを憎み、退けねばならないことに気づいた。そうして、ただ神の愛の中だけにとどまり、それに浸され、何があっても、心をそこに留め置くよう、そこから心を逸らされることがないよう、自分を律しなければならないと分かったのである。
 
* * *

さて、控訴審では、重要な和解協議が開かれている最中であり、さらに当ブログに対して様々な権利侵害を繰り返して来た掲示板に対する法的措置も進行している。

この非常に重要な時期に、ある牧師が、またしても、色々な非難を筆者に対してしかけていることが分かった。筆者は一つ前の記事に、訴訟に関する記事はこれが最後になるかも知れないと書いたにも関わらず、筆者が訴訟に関連する記事を次々に書き始めることを恐れ、先手を打ったものと見られる。

むろん、彼の主張は嘘であるから、いくらでも具体的な反論は可能なのであるが、筆者は、以上に挙げた、筆者にとって非常に敬愛する人からの助言を受けて、反論の記事を、あえて掲載しないことに決めた。

さらに、筆者は、現在、和解協議中であるから、そこでの筆者の提案が、真実であることを示すために、ある人物に関する記事をホームページから外すことに決めた。

筆者は、その人物は、これまで教会でさまざまな仕打ちを受けたがゆえに、多くの傷を負っており、それゆえ、ブログで現在の教会のあり方に対する反対意見を表明せざるを得ない事情があったことを知っている。

とはいえ、筆者は、そうした活動が、その人の生涯に渡る主要な活動になって欲しくないのである。訴訟においては、精力的に書面を書き記すことができ、また、ブログでも旺盛に記事を書いて、ある時は日に5千人に達するほど、多くの人々の注目を集めることができ、学問の道でも、それなりに成果をおさめ、人的ネットワークを作り上げることが得意であったその人には、これ以上、無益な法廷闘争は似合わないし、そのようなものは、性格的にも合わないため、無益な心労にしかならないものと思う。

そこで、筆者は、今後、その人には筆者との無益な闘いに人生を奪われることなく、自分の持っている力を、人の役に立つ活動に割いてもらいたいと願っており、その願いが、真実であることを示すことにした。

その人物は、非常な幸運に見舞われており、かつてある牧師から提訴の予告を受けたのに、提訴されることもなく、その牧師に告訴された信徒は、相当にひどい扱いを受けたのに、彼自身は、その信徒とは、全く異なる扱いを受けている。そのことは、ただ幸運というだけではなく、やはり、その人に対する神の愛と憐れみの大きさを示しているように筆者には見受けられる。

筆者は、神が惜しみ、憐れみをかけ、愛を示しておられるものを、筆者のこの手で壊そうとは思わない。そこで、今後の歩みの妨げとなるものを残したくはないと考えており、その言葉が真実であることを示すために、約束に先駆けて、記事を修正して行くことに決めた。

これを筆者の「敗北宣言」と受け取りたい人が出て来たとしても構わない。一体、何のための訴訟だったのか。誰に勝利し、何の収穫があったのか。そう受け取りたい人たちには、そう思わせておけば良い。
 
いずれにしても、筆者が判決を通して受けた宝とは、勝訴などという言葉ではおよそ呼べないものであった。筆者は、この訴訟の判決を受けて、自分自身が見えない命を受け取って、死からよみがえらされて生かされたのであり、さらに、判決も筆者と共に、死をくぐって生かされたと考えている。

筆者はこの訴訟とその判決のおかげで、心に敬愛する人ができ、新しい人生のフィールドを見つけ、筆者が判決を手に進んだ新しい分野においても、尽きせぬ敬意と愛情を持って関われる人を見つけた。

筆者はできるなら、この訴訟を担当してくれた裁判官が、横浜の街にいるうちに、何かしら関わることができたらと思ったが、時すでに遅しであった。だが、神は、筆者の心の寂しさを知っておられ、その裁判官に代わって、新しい助言者を筆者のもとに送って下さり、その人のもとで、筆者の訴訟と判決は、命の交換を伴う「交わり」に転換したのである。

筆者は、裁判官に代わって、新たな友となった権威者から、これ以上、訴訟を提起してはならないと言外に忠告されているように感じている。神の法廷で、サタンと共に主張を争ったことは、筆者にとって極めて重要な体験であり、貴重な成果であったが、神は筆者の勇気をたたえると同時に、これからはただ神にのみ目を向けなさいと筆者に言われ、神の愛の中にとどまるよう求めておられる。

まだせねばならない訴訟の残務処理は色々と残っており、進めねばならない手続きはあるとはいえ、筆者はこの先、決して魔女狩り裁判に関わることはないし、そんな時間もないと、はっきり言っておきたい。
 
今、新たな世界が筆者の前に開けており、神と筆者との間を隔てていた隔ては、より一層、取り除かれ、愛による一致の関係が始まった。遮蔽の措置の中にいる筆者を、高みから見つめていた裁判官の眼差しは、新しい権威者・友の眼差しに置き換えられ、さらに、そこには、天から神ご自身が筆者に注がれる愛に満ちた眼差しが重なっている。

あなたの心を私に与えよ、と主は言われる。わたしの愛から引き離そうとするすべてのものから、あなたの目を離し、あなたの心をただわたしにのみ与えよと、神は言われる。

その呼びかけに応答した時、聖化に続き、栄化という、信仰の第二のステージが始まるのであり、私たちは、原告席から、法壇の高みへの招かれ、いや、地上から、御座の高みへと招かれ、主に似た者へと変えられて、主と共に統治するという「変容」が起きる。

エクソダスは完了し、箱舟から新天地へと私たちは足を下ろす。過去の残滓は、もうないか、あったとしても、ことごとく取り除かれる。そして、神が人とともに住まわれ、人と共に生きられる人生が始まる。敵はまだ存在しているものの、私たちから遠ざけられ、触れることができない。そこは、復活の領域であって、そこに神と私たちを引き離すものはもうない。


どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示12:10-12)
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている
 と書いてあるとおりです。

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

* * *
 
去る11月12日、控訴審の和解協議のために東京高裁を訪れた。前回とは違って、二方向に大きな窓があって、大きなスクリーンやラウンドテーブルの置いてある、青空の見渡せる広々とした部屋に案内された。

東京高裁全体の陰気な雰囲気と異なり、横浜地裁を思い起こさせる、明るい、開けた部屋であった。筆者は自分が横浜へ瞬時に場所を移動して、電話会議が行われていた部屋に戻り、裁判官が来るのを待機しているような錯覚を覚えた。

待機時間はたっぷりあったので、筆者は自分も裁判所の職員の一人になったような感覚で、誰もいない部屋の中を幾度か歩いてみた。部屋の雰囲気が、解放的で、霞が関のビル群の中にいることを完全に忘れさせてくれるものだったので、筆者は目の前で起きている出来事をすべて忘れ、安堵しながら、懐かしい人々を思い出しつつ、自分の番が来るのを待った。

ラウンドテーブルの他に、立会人たちが座れるソファも置いてあるこの部屋に、大勢の人々がやって来て、和解調書に調印する光景が心に思い浮かんだ。また、ある時は、誰もいないこの部屋を、法衣を着た裁判官と書記官が慌ただしく行き来し、本を片手に研修を行ったり、セミナーなどを開いて、スクリーンを指し示しながら、何かを説明をする様子が見えて来るような気がした。

以前から書いている通り、裁判所は、筆者にとってもはや家同然であり、それ自体が大きな要塞であり、砦である。どんなに予想外の事態が持ち上がっても、最後にはその安心感へと戻って来る。

それは、筆者と裁判所との間で交わされた、秘密の約束のようなものである。その日も、夜になるまで用事があり、疲れを覚えつつ、筆者は暗い廊下のパイプ椅子に待機していたが、そのときにも、何とかして、もっと裁判所の近くに来られないか(これは決して物理的な距離のことでなく)、ここで目にする人々の喜怒哀楽のすべてに、もっと深く接近し、入り込むことはできないかと考えを巡らした。

不思議なことであった。どんなに気が滅入る慣れない不案内な手続きを進めている時でも、あるいは失望を覚えるような出来事の最中でも、筆者は心の中で、ここは家同然であるから、最も安全な場所であり、離れたくない…という感覚を覚えるようになっていたのである。

* * *

さて、被告Aは、裁判所が秘匿の措置を認めないことが分かってから、和解協議の場を最大限、自分に都合よく利用し、毎回、毎回、脅しめいた条件を提示しては、解決金の支払いを遅らせて来るようになった。

前回は、何と筆者に向かって、訴えそのものを取り下げろと要求し、命にも等しい判決を手放すよう求めた。

そして、それを阻止するために、筆者が記事の修正を申し出ると、今度は、分厚い苦情の手紙を裁判所に送りつけ、筆者が被告Aの名を出していない記事を指し示して、筆者が示談をしてもその約束が守ると思えないから、和解協議を蹴る、などと言って来たのであった。

裁判官と書記官は、被告Aを説得したとみられ、長い時間、筆者は部屋の中で待たされ、様子を見守った。

ようやく筆者の番が来て話し合いが行われたとき、裁判官はあくまで非常に落ち着いて、和解協議を成功裏に導ける確信を捨てていなかったが、書記官はいささか青ざめた表情であった。おそらく、被告Aの筆者を赦せないという思いや、筆者を提訴したいとの願望がどれほど強いものであるかを、本人の言を聞いて理解し、初めて被告Aの真の性格を理解したのではないかと思われた。

被告Aは、一見すると、権威に忠実で、他者に食ってかかったり、論争をしかけたりすることのない、穏やかな性格のように見える。電話会議でも、はっきりした発音で、静かに裁判官に返答しており、苦情を述べている時でさえ、声を荒らげて論争することはなく、その声や話し方だけに注目するならば、決して悪印象を持つことはなかった。

だが、それだからこそ、被告Aがどれほど筆者に対して深い恨みを持っており、それがもはや合理的なレベルを超えて、一生、筆者に報復しなければ気が済まないほどのレベルに達しているか、その執念の深さは、人々には分かりにくいのである。

だが、筆者は前から被告Aのことを知っているし、彼から送りつけられたメールの数々もこのブログにはまだ公開してある。その論調、話し方、要求の内容などを考えると、被告Aが控訴審で自らに有利な判決が出る見込みが薄い中でも、あくまでこの先も、筆者を提訴するなどして対決を続け、筆者を罪に問うて何とかして人生を滅ぼしたいという願いを述べ続けていることは、筆者にとっては、何ら不思議ではない。

さらに、村上密も、控訴審になってから、筆者を法廷に引きずり出したかったのに、それができなかったことの悔しさをにじませる記事をブログに投稿している。

筆者は、10年以上前から、村上密の真の願いは、カルト化を防止するという名目で、自前の異端審問所を開設し、そこで無実の一般クリスチャンを魔女狩り・見世物裁判に引きずり出して辱めることにあると指摘して来た。

筆者は2009年に、村上密がかつて提唱していた「カルト監視機構」の構想に、真っ向から異議を唱え、このような機構が設立されれば、キリスト教会には「カルト化を防止する」という口実で、密告が溢れ、やがて魔女狩り裁判が横行し、無実のキリスト教徒が異端者の濡れ衣を着せられて迫害されることになるだけで、カルト監視機構は、まるで秘密警察のように、何の権限も与えられていないのに各教会を調査するなどして、教会に対して君臨するようになるだろうと予告した。

その頃から、村上はカルト監視機構を設立しなかったが、その代わりとなる組織として、宗教トラブル相談センターを設置していた。そして、筆者がカルト監視機構に抱いた危惧は、ことごとく宗教トラブル相談センターの中で実現することとなったのである。

クリスチャンたちは、宗教トラブル相談センターに関わった信者がその後、どうなったのか、筆者の例を見て、よくよく学習しておくことだろう。

村上密は、今年、一審が終わってから、「唐沢治の陳述書」と題する4つの記事をブログに投稿した。そして、記事の中で、筆者のかつての牧師でもあった唐沢の陳述書を公開するに当たり、唐沢から全く了承を得ていないことを自ら明かした。

村上は、自分は唐沢治とは何の関係もない、提携もない、協力関係があるというのは、筆者の思い込みだ、などと嘲笑気味に記事に書き記しており、答弁書でも同じことを述べている。

だが、これは非常に恐ろしい発言である。要するに、村上密は、唐沢治の陳述書やその他の書証を、本人からの承諾も、依頼も全くないのに、勝手に独自のルートで調べ上げて、ネット上に公開したということなのだ。

さらに、村上の公表した四つの記事には、筆者が唐沢に宛てた親書メールも含まれているため、陳述書の内容もさることながら、こうした他者のメールを承諾なく公表する行為が、プライバシー権の侵害に該当することはまず間違いがない。

しかも、村上自身は、唐沢治の陳述書とその他の書証を、裁判所に出向いて自ら記録閲覧・謄写したわけでなく、それを行ったのは被告Aだけなのである。そして、村上は、誰からどのようにして陳述書と書証を入手したのか明らかにしておらず、被告Aしかこれを閲覧・謄写した人間もいない以上、被告Aが村上に情報提供したと考えるのが自然な流れである。

第一審では、被告Aとの協力関係はない、提携はない、と言って、筆者から受けた嫌疑を否定していた村上であるが、村上は、唐沢の陳述書を被告Aから入手していないとは一切発言していない。

しかも、村上がそのように入手の経路を明かさず、相談者でもない唐沢の陳述書を勝手に公開した先は、宗教トラブル相談センターの公式ブログなのである。

村上は、このブログの仕様を今日、ようやく変えて、とうに期限切れとなった10年以上前に撮影した写真をようやくトップ画面から一掃したようだが、初めは極めて陰気な背景画像にしており、それを変えた後も、依然、ブログのレイアウトは崩れたままである。筆者の見解としては、前のままの方がはるかに良い。

それはともかく、村上密は、どこから、誰から、どのように、何の権利に基づいて、唐沢治の陳述書や、その他の書証や、唐沢と筆者の交わしたメールを入手したのか、どんな正当な理由があって、これを本人の了承なく無断でブログに公開したのか、情報源も、理由も、全く明かしていない。

繰り返すが、これは非常に恐ろしいことである。宗教トラブル相談センターは、少なくとも、今までは一応、形ばかりは、誰かからの被害相談を受け、村上がその相談者の代理人となって、紛争解決のために動くという名目を保って来た。それだからこそ、被害者の救済という大義名分が保たれ、センターの活動への理解が成り立って来たのである。

しかしながら、その後、村上密は、誰の代理人にもなっていないのに、宗教トラブル相談センターを使って、自分の一存だけで、唐沢治と筆者との間で係争中の事件の記録を調べ上げ、両者の個人情報に当たる記録を、本人の了承なく公開してしまったのであり、これは明らかに両者に対する人権侵害に相当する。

村上がブログ記事に引用している書証は、非公開の保全事件の記録であり、村上は牧師としての守秘義務も負っている以上、勝手に信者の身辺調査を行い、その情報を本人の了承なくネットに投稿したりすれば、当然ながら、罪に問われる。また、唐沢の陳述書には多くの嘘の記述もあるため、それを一方的に鵜呑みにして引用する行為も、筆者に対する名誉毀損行為になり得る。

村上は、答弁書の中で筆者の名前も無断で公表した事実を認めているため、こうした事実はすべて、筆者が主張すれば、筆者に対する不法行為として認定される可能性の極めて高いものである。

こうして、宗教トラブル相談センターは、まるで戦前の特高などの秘密警察のごとく、正当な理由もないのに、ただ自分たちの活動に批判的な信者をターゲットとして、秘密裏に身辺調査を行い、信者に制裁を加えるために、信者本人にとって望ましくない、あるいは不利となりそうな個人情報を集めては、ネット上に次々と曝し始めたのである。

その上、その信者を一方的に刑事告訴までし、提訴したいという願望をも言い表しているのだから、これは筆者が前々から予告して来た通り、宗教トラブル相談センターが、魔女狩り的な異端審問に走ったことの何よりの証左である。

村上密のブログ記事からは、筆者が控訴審に出席しなかったことを不満に思い、自分が提訴されたことが許せないから、その報復に、何とかして筆者を公開裁判に引きずり出したいという思惑が透けて見えるし、さらに、村上は、牧師であるにも関わらず、相談者であり信徒でもあった筆者を右京署に刑事告訴したと、はっきりと答弁書で主張している。

筆者は神社に油を蒔いたこともなければ、カルト宗教に入信したこともなく、村上に対しては危害を加えたことも一度もないし、控訴審さえまだ開かれている途中で、民事訴訟の終結もまだである。それにも関わらず、一審判決では不法行為に問われなかったのを良いことに、それだけでは満足せず、むしろ、それを皮切りに、筆者に対する人権侵害を堂々と開始し、さらに筆者のとことん人生を破滅させなければ気が済まないという執念を持って、筆者を告訴したというのである。

筆者は10年以上前に村上のもとへ相談に赴き、解決も得られず、失意のうちに村上の教会を離れ、その後も、何か月間も村上の教会で受けた心無い言葉に泣き暮らしつつ、それでも自分を責めていた頃のことをよく覚えている。その上、この仕打ちであるから、一体、こんなセンターが、カルトを防止するための何の役に立つというのか。それ以前から、村上の義理の父が牧会する教会で、何が起きたかもすべて公開している通りである。

この人々は、ただカルトを防止することを名目に、無実の一般信徒を標的にして、中世の魔女狩り裁判、クリスチャンの迫害を再現しようとしているだけのことである。

筆者は2009年からそのように予測して来たのであり、それだからこそ、このような活動に従事する人たちは、いつか必ず、筆者を見世物裁判に引きずり出して辱めたいという願望を赤裸々に表明する時が来るだろうと、ずっと考え続け、また、その通り主張して来た。

実際にこれまで、幾度となく、筆者を提訴・告訴したいという台詞を、筆者は被告A・村上密の双方から聞かされて来たので、正直なところ、それこそが、彼らの悲願だと初めから思っている筆者は、今、再び同じ台詞を聞いても、驚きはしない。

そこで、被告Aが和解協議の場においても、改めて裁判官の勧める和解案を蹴って、自分に敗訴判決が下されることも覚悟で、その後、筆者を提訴したいとの願望を言い表し、村上も準備書面に全く同じ内容を書き記して、こうして二人ともが、声をそろえて、生きている限り、筆者を赦すつもりはなく、何とかして報復として筆者を被告として裁判に引きずり出し、刑罰を受けさせることが人生の悲願であると主張しても、筆者は別に驚かない。

だが、一般の人々は、それを聞いて青ざめるだろう。答弁書や準備書面に書いていることは、あくまで法廷闘争のための文字上の主張であって、現実には、それとは違ったもっと柔軟な行動を取る人々は数多くいるし、そうなるものと人々は考えている。村上も被告Aも準備書面では色々言うであろうが、それはあくまで法廷闘争のテクニックであって、本気ではないと人々は考えたい。だが、実はそうではないと分かると、人々は衝撃を受ける。

筆者が2009年に、村上密が秘密警察を作ろうとしている、魔女狩り裁判をしようとしている、と述べたとき、その言葉を、あまりに大袈裟な誇張だと思って一笑に付した人は少なくなかったろう。ところが、実際にその通りの願望が彼らの口から発せられ、彼らがその通りの行動を取り、信者の身辺調査を行ってそれを無断で公開したり、信者を刑事告訴したり、提訴して法廷に引きずり出そうとし、それを表向きには協力関係にないはずの人間が傍聴しようとしたり、協力関係にないはずの人間が裁判所で閲覧・謄写した記録が、村上のブログから公開されたり、その人間が、和解協議の場で脅しめいた要求を突きつけ、これを相手を震え上がらせるための場として利用し、紛争を可能な限り長引かせることで、生涯に渡って相手を苦しめ続け、報復を果たしたいという欲望を言い表しているのを見たとき、人々はその度を超えた残酷さと復讐心に色を失い、恐れをなして逃げ出すに違いない。

宗教トラブル相談センターにはそもそも何人の協力者がいて、どのような方法で情報を集め、いかなる法的根拠に基づき、収集した個人情報を管理しているのか、最低限度のガイドラインさえ、全く公開されていない。

村上は、ブログには勝手に筆者の個人情報を掲載し、自分に関わりのない紛争に、代理人でも相談役でもないのに、何の資格も権限もなく介入し、他者のプライバシーを暴いておきながら、自分は被害者だと自称して、告訴まで遂げたというのであるから、筆者には実に呆れる話である。
なお、村上密は、第一審の最中、被告Aが20本以上の記事を書いて筆者を中傷していた時にも、一切、被告Aをいさめず、むしろ、被告Aと一緒になって筆者に反訴を予告し、しかも、反訴を実行しなかった経緯があるので、筆者はそうした村上の行動を通して、いかに彼が残酷で容赦のない人間であるかを見ることができた。

さらに、村上は、第一審において、筆者が削除を要求した記事を自ら削除すると途中まで約束していたにも関わらず、前言を翻したのであり、筆者の村上に対する反論が手薄になったのも、村上が自ら記事を削除すると約束していたことを、筆者が審理の途中までは信じてしまっていたせいでもある。

牧師として公の場で約束したことを簡単に翻す、これだけでも、非常に信頼を損なう行為である。しかも、村上が筆者にしたことと、被告Aが筆者にしたことは同条件ではなかったのに、村上は、被告Aと一緒になって、筆者が両者に対して一切の賠償なしで和解するよう要求し、その条件に筆者が応じない限り、筆者に反訴すると予告し、これを実行しなかったのである。

そして、今また被告Aが、賠償金を支払わないまま、控訴審の和解協議の場で、前々回は、筆者に対して訴えを取り下げろと要求し、前回は、和解協議を一方的に蹴ると通告し、協議をいたずらに引きのばし、筆者を苦しめ、目の前でひざまずかせるための要求だけをひたすら突きつけている。

第一審が終わったのが3月、それから今までもはや半年以上が過ぎた。被告Aはこの間、自分からは賠償金を一銭も支払わず、筆者の取立行為を「恐喝」と呼んで非難し、筆者が取立を続けるなら刑事告訴すると息巻き、通話が成立もしていないのに、恐喝の電話を受けたなどと「被害」を主張し、筆者が郵便物を送ってもいない人々に、郵便物を送りつけたと主張、今もただいたずらに紛争を長引かせるためだけに、和解協議を続け、要求の内容も、エスカレートしている。

最初は、筆者の口座番号が分からないから金を払えない、と自己正当化をはかっていたが、控訴審の席上で払うことを提案されても、まだ理由をつけて支払わず、口を開けば、訴えを取り下げろとか、筆者を提訴・告訴してやりたいと、脅しめいた要求ばかりである。

このようなものが、和解を目的にする協議とはとても思えないのであり、筆者は勤務も休んで協議に出席しているため、こうした損害も、別訴の提起があったときには、損害賠償請求の対象となり得るものと考えている。

さらに、被告Aは書面の中で、筆者が告訴したこともない人物の名を複数名挙げて、彼らを筆者が告訴したと断言したり、明らかに誤った、事実に反する告訴罪名で、筆者が被告Aを虚偽提訴したなどと主張して、筆者を非難しているため、これらはあまりにも行き過ぎた事実無根の主張として、訴訟における名誉毀損を構成する可能性が十分にあると筆者は考えている。

被告Aは、この先、和解協議を蹴っても、それで彼にとって色の良い判決が出ることはまずないであろうと予測されるし、それどころか、それによって、彼は刑事事件でも、温情を受ける余地を徹底的に失ってしまうことになるにも関わらず、それでも、未だ筆者を提訴したいと述べ続け、判決に従うことを拒み、先延ばしにしている様子には、合理性が全く感じられず、筆者をとことん追い詰めて人生を破滅させたいという尽きせぬ執念以外には感じるものもない。

筆者は今回、裁判官の勧めも考慮して、被告Aに対する最大限の譲歩を示し、被告Aの個人情報をすべてブログ記事から削除し、被告Aのブログ名や、個人情報に当たらない記述もすべて削除することに同意して良いとまで提案した。

従って、この提案を受ければ、これまで被告Aが要求して来たことは、ほぼかなえられる上、別訴を提起する権利も、被告Aから取り上げられない。それにも関わらず、筆者自身の提案であるその約束を、信用できないとして拒み、たった一つの個人情報さえ本当に削除できるかどうか分からない不毛な訴訟を今後、提起して、筆者にリベンジする願望が捨てられないから判決を求めるなどと主張することには、報復目的以外に見いだせるものはないのであって、そのような態度で示談を拒んで判決に進んでも、その結果、今後の訴訟の展開が、被告Aにとって有利となることはないであろうと筆者は確信する。

そんな風に、合理的な理由もなく、判決を軽んじ、裁判官の勧告をも、相手方の譲歩をも、一切、かえりみず、いたずらに和解協議を長引かせた結果、これを蹴るという態度を取る人のために、今後、真面目に審理を進めてくれる裁判所が、この世に一つでもあるとは、筆者は思わない。

しかも、被告Aは当初、自分から解決金を支払うと述べたのであり、筆者がブログ記事を修正するなら、多少、解決金を上乗せすることができるかも知れないとまで提案していたらしい。なのに、その言葉を途中ですべて翻し、筆者に対する脅しめいた不満を並べ続けた挙句、ついに自ら協議を蹴ったとなれば、彼の言う和解協議とは、ただ相手にいたずらに期待を持たせ、いつまでも苦しめ続けるための機会でしかなかったこととなる。

裁判所は、そもそも報復目的以外に必然性のない無駄な提訴によって、余計な仕事を増やされることを非常に嫌っている上、判決では、筆者にはブログ記事を修正せねばならない義務は全く課されておらず、和解協議はすでに複数回、開かれているため、この間に示談締結をしておけば、筆者はもはや被告Aに対する記事を書けない状況になっていたのである。しかし、それをあえて先延ばしにしているのは、被告A自身であり、それゆえ、現時点でも、筆者は被告Aのことを記事に書いてはならないという義務を全く負っておらず、なおかつ、被告Aは、筆者がブログ記事を修正するために時間が必要であることを分かりつつ、どんどんその時間がなくなるように仕向けているので、このままだと修正さえも不可能となり、期限が延ばされない限り、その条項を外す以外には方策がなくなる。

通常、和解協議の席で、相手を提訴したいという願望など述べる者はまずいないから、今回のことは、裁判所にとっても、一つの教訓となるのではないかと筆者は思っている。さすがに今までは被告Aの言い分にも少しは理があると考え、彼をなだめようとしていた人々も、次第に、被告Aの目指している目的が、決して合理的な解決ではなく、ただ筆者を永遠に苦しめ続けることにあると気づき始め、それゆえ、彼の望みを助けることから手を引き始めたのではないかと感じられる。

そのようなわけで、筆者は示談が結ばれて、互いに個人情報を書かないという約束が成立したならば、それを機に、訴訟に関する記事を書くこともやめ、記事を修正するという約束が結ばれれば、この記事も含め、その約束を忠実に果たす用意はあるが、未だ掲示板での筆者に対する誹謗中傷その他の権利侵害が今も止まらない様子を見るにつけても、個人情報をブログに書くことをやめられないのは、筆者ではなく、「彼ら」自身ではないかと思われてならない。

示談の締結を引き延ばしているのは、それを締結してしまうと、もはや筆者の個人情報を弄び、これを無断で好き勝手に投稿・公開できなくなることに躊躇しているからではないのか。

筆者から見ると、被告Aや村上本人も、彼らの支持者たちも、他人の秘密を調べ上げ、個人情報を暴露したくてたまらない願望を持っているように見える。その抑えきれない欲望を、示談書の締結によって終わらせることができないからこそ、被告A本人も、何かと理由をつけてはその締結を先延ばしにしているのではないのかと思われてならないのだ。

もしもこの予測が的中しているとすれば、今回の協議の落としどころは、被告A自身が最初に約束した通り、ただ賠償を支払って終わりとするにとどまるのであって、それ以上でもそれ以下でもないことになろう。

その最低限度の事項すらも拒めば、今まで以上に厳しいものになると思われる判決が、彼を待ち受けているだけであり、その先には、もう一度、法廷に被告として呼び出される運命が待っているだけである。筆者は、判決が出たとしても、全く恐れはしない。なぜなら、筆者の側からの反撃の材料はすでに多く集まっており、おそらく、判決とほぼ同時に、筆者自身が、村上・被告Aに対して別訴を提起するという運びになるだけだからである。

控訴審では、原審の枠組みから出られないので、以上のような主張を全く提起できなかっただけで、別訴ではそれが可能となる。一審では自由に主張を追加できるからだ。被告Aも村上も、未だ筆者を提訴したいと息巻いている以上、筆者が十分な反訴の材料を蓄えておくのも当然である。

ちなみに、筆者は裁判を提起する前に警察に行って色々と調べてもらうことにしている。警察の判断は、裁判所の判断とそれほど大きく違わないと見えるため、警察が事件を受理するかどうか、どのような罪名で受理するか、といった点は、今後、反訴や別訴を提起したとき、どのような判決が得られるかを予測する大きな参考材料となる。

だから、筆者もこれまでの教訓に学び、勝ち目のない主張で訴訟の提起は行うつもりもないのであって、提訴するとなれば、ほぼ確実に不法行為が認定される証拠のある話に限られることであろう。

* * *

とはいえ、矛盾するようだが、筆者の真の願いは、今後、別訴を提起することにはなく、むしろ、この訴訟の判決を書いてくれた原審の裁判官の判決によって、この紛争を終わらせることにある。

筆者が誰に判決を委ねるかは、筆者自身の個人的な願望によっても決まることであり、筆者は、第一審判決を書いてくれた裁判官が、筆者にとって、筆者のために最終的な確定判決を書いてくれた最初で最後の裁判官となることを願っている。

たとえその判決が、筆者にとって完全な勝利でなくとも、筆者は構わない気持ちでいる。

また、村上が唐沢の陳述書を無断で公開したことも含め、ネット上では、筆者と唐沢治を何とかして訴訟対決させたいと考えて、陰から紛争を煽り、唐沢の個人情報までも、次々と本人の了承なく公開している者たちがいるが、そうした連中を喜ばせても意味がないため、筆者は、唐沢に対する訴訟それ自体を再考することとした。

唐沢はたった一つしか筆者に対する記事を書いていないし、それも「ヴィオロン」に対するものにとどまっている(組み合わせによって著作者人格権の侵害が成立しうることは措いておく)。

筆者は、唐沢の個人情報を無断で公表したことなどないし、当ブログとホームページ以外の場所に投稿をしたこともない。

そこで、出回っている陳述書と書証のコピーを見るときには、よく注意されたい。

当事者が裁判所から送達を受けた書証には、事件簿を綴るための黒紐が写っていない。だが、当事者でない者が、記録を閲覧・謄写し、勝手に公開した書証には、裁判所の事件簿の紐までが写っている。裁判所で記録をコピーする際には、紐を緩めることができるだけで、外すことができないからだ。だから、紐が写っている記録は、当事者に送達された記録ではなく、何者かが裁判所で事件簿を閲覧・謄写した記録であると見て良い。

ちなみに、裁判所で唐沢治の陳述書と書証の閲覧・謄写を行った人間は、何度も言うように、本年10月28日時点になっても、被告A一人しかいないのである。

このようなわけで、筆者の個人情報の漏洩、また、筆者の事件に関わった人々の個人情報の漏洩には、あらゆるところで、被告Aの影がちらついているのであり、そうした状況で、被告Aが個人情報を収集・開示しないという条件の示談の成立に乗り気でない理由は、考えれば誰にでも分かるのではないだろうかと思う。

この状況で、筆者は、様々な点で意見が対立したままの唐沢に対しても、かつては兄弟姉妹と呼び合っていた仲として、対応を考え直すこととした。

不思議なことに、唐沢は、筆者が彼を信頼して書き送っていた頃の最も意義深いメールを、一つも裁判所に提出していない。

唐沢が裁判所に提出したのは、最も無価値かつ無用な内容のないメールでしかなく、それ以外に、筆者が当時、率直に彼を信頼して色々と相談したり、書き送っていたメールがあるはずだが、唐沢はそれらを悪事の記録であるかのごとく裁判所に提出することを控えた。

この点は、唐沢を見直す点である。それは彼自身が、自分が信頼されていた頃に送られた手紙の内容を、自ら衆目にさらすことで、否定し、穢すには忍びないと考え、公開しなかったからである。

このように、唐沢と筆者とのメールのやり取りには多くの「聖域」が保たれたままであり、唐沢自身が裁判所に提出したのは、被告Aに関わる部分だけである。そして、村上が、T第1号証から6号証までの書証を入手したとしながらも、被告Aが筆者の個人情報を無断で公開すると予告するために筆者に送りつけた脅しのようなメールを、唐沢が転送メールとして提出したT第2号証、T第3号証の記録には、言及すらもしていないことも、注目に値する。

このように、唐沢も信徒を告訴した過去があるとはいえ、村上密とは性格が全く異なるのであって、村上がこの度、誰の代理人でもないのに、自分に無関係な牧師や信徒の身辺調査を行って、唐沢治の陳述書を本人の了承もないのに公開し、無関係な他者の争いの火をつけようとした行為については、明らかに、筆者だけでなく、唐沢も被害者なのである。

これは、明らかに、村上が牧師としての一線を超えたものであり、十字架の装甲から外に出た行為だと筆者は考えている。

これまでにも書いたように、もともと村上がこれまで使って来た「代理人」とか「相談役」などという呼び名は、村上が巧妙に他者の悩みに寄り添うように見せながら、他者の意思を絡め取って行き、クリスチャン同士の対立が修復不可能になって教会が分裂するよう、兄弟同士を争わせ、紛争の傷口を押し広げるための口実に過ぎなかったものと筆者は見ている。

鳴尾教会の伝道師夫妻と津村牧師との対立、鳴尾教会の離脱反対派の信者の裁判、Y牧師とT牧師との紛争など、村上が関わって来た紛争は、一つ一つを振り返ると、どれもこれも、紛争当事者が憎み合い、ほとんど永久的に和解不可能となったものばかりである。カルト被害を受けた信者の裁判でも、犯人が逃亡したりして和解が成立しなかったケースもあり、平和裏に紛争が解決したと言えるようなものは、ほとんど見当たらない。

このようなことでは、村上の仲裁者としての力量が根本的に問われるだけであって、ただでさえ「代理人」などの法的な位置づけがよく分からない名称を勝手に名乗って、紛争を激化させてきた村上が、この度、「代理人」という最後の仮面さえもかなぐり捨てて、自分の本音をむきだしにして、ただ筆者を追い詰めるためだけに、自分には無関係の事件記録を不明な方法で調べ上げ、筆者のみならず、筆者に関わる人々(兄弟姉妹)の個人情報にまで手を出し始めたことには、空恐ろしさを感じるのみである。

村上はそうまでして、かつて仲の良い兄弟姉妹のように見えたクリスチャン同士を、何としても引き裂き、分裂させ、さらに法廷でまで対決させて、兄弟同士の罵り合いを世間の見世物にしたいとの願望を捨てきれないのだろうか。そうまでして、教会を分裂に導き、兄弟姉妹を憎み合わせたいのか。

だが、筆者はその作戦には乗らない。そのようなわけで、村上の件では、唐沢も紛れもなく被害者なのであって、それが分かるだけに、筆者は唐沢に対する訴訟は見合わせ、すでに措置を講じた他の方法で紛争解決を目指すこととした。

筆者が目指すのは、法廷闘争ではなく、判決でもなく、あくまで個人の意思を重視した和解である。そのことが、裁判所に関われば関わるほど、ますますよく理解できるようになった。だからこそ、筆者は、このブログを巡る訴訟の第一審判決が、筆者の人生で、最初で最後の確定判決となることを願っているのである。

一審判決では、筆者の村上に対する勝利はない。とはいえ、村上は一応、筆者の牧師であった時期もあるわけだから、筆者はそれでも構わないのである。すでに書いた通り、別訴を提起すれば、村上を不法行為に問える可能性は十分にある。だが、信徒と牧師が法廷で対決する必要はないのであって、責任の追及の方法は、民事訴訟以外にも存在する。前から述べている通り、村上の犯した罪を裁かれるのは、誰よりも神ご自身なのである。

結論に戻るが、こうして、カルト化したキリスト教会による人権侵害を許さない、と一方では言いながら、他方では、ただ自分たちの活動が批判されたというだけで、人権侵害を犯してまで報復行為を続け、魔女狩り裁判に及ぶ宗教トラブル相談センターを、皆さんどう思われるだろうか。

特に、誰からの相談も依頼もないのに、信者の身辺調査を行って個人情報を無断で公開するようなセンターを、皆さんどう思われるだろうか。

筆者は、村上の告訴状を入手した暁には、これを全文公開したいと思っている。牧師が信徒を刑事告訴した際の告訴状が公開されたことなど、これまで一度もないから、これは世界初の現代社会の魔女狩り裁判の貴重な事例となって残ることであろう。むろん、そこにどんな虚偽が含まれているかも、明らかになる。

それに先立ち、筆者が結論として言えることは、どんなにひどいカルト化した教会でも、牧師は信徒を告訴しないし、10年以上に渡って、個人情報を無断で公開して信者への弾劾を続けることもないので、このような恐るべきセンターに比べれば、カルト化教会ははるかにましな場所だということである。

だから、些細なトラブルをきっかけに、このセンターに足を向け、自己の正義を貫き通して戦い続ける道を選ぶよりは、受けた被害のことで、自分にも神の御前に罪があったのではないかと、真摯に悔い改めることを勧めるのみである。

* * *

終わりに、以上は、訴訟シリーズの総まとめとして書いたものであり、このシリーズの再開とはいえ、最後の記事になるかも知れない。

というのは、筆者は最近、とても忙しく、魔女狩り裁判にも興味はないし、無意味な訴訟にこれ以上の時間を割いている暇はなく、宗教論争をしている暇もないのが現状だからである。

特に、筆者は最近になって、いかなる状況でも信頼し、助け合うことのできる人物に出会い、自分の正義を投げ捨てて、人々と協力して生きることの価値を知った。

そして、理不尽な出来事が起きても、権威に忠実であることの意味を知らされ、自分の上に立てられた指導者に服して生きる道を選んでいる。今や宗教団体にも一切関わっておらず、宗教紛争などに巻き込まれるのも御免と考えている。

そこで、カルト被害を防止したいがゆえに、裁判をやりたいという人がいるなら、好きにすれば良いことであり、それに対してとやかく言うつもりもない。

この先、掲示板の権利侵害を追及するためには、訴訟における言語の壁を超える必要があり、申立書の英訳なども必要になると言われており、それも、やろうと思えばできるだろうと疑わないが、正直に言って、今、筆者の最もやりたいこと、やるべきことが、それだとは思えないものがある。

最後に和解協議のために裁判所を訪れてから、筆者の心にひたすら湧き起こるのは、裁判所のもっとそば近くで生きる方法はないか、さらにもっと裁判所の近くに筆者の生きるフィールドを定められないかという願いだけである。

だが、それは決して、法廷闘争を糧に生きたいという願いではないのだ。ただ、真に人々の痛み苦しみを引き受け、これを適切に解決することを、日々自らの責務としている裁判所の仕事と似たような仕事をしながら、筆者は自分の残りの生涯を、紛争処理に携わって生きたいという願いを、改めて確認するのみである。

筆者は、裁判所で起きる出来事に煩わされたり、失望を覚えることがないとは言わないが、それでも、裁判官一人一人が、こじれた紛争を丁寧に解きほぐしながら、感情に流されることなく、これを穏やかな解決に導こうとしている努力と手腕には、いつも敬服している。そこには、やはり、仲裁者としての確かな力量、そして、それができるだけの人間的な度量と経験の蓄積があると思っているし、それを女房役として助けている書記官たちのきめ細やかな配慮と、裁判官との見事な連係プレーにも感心させられている。

裁判所はそれ自体、筆者にとって非常に近しい、身内のような存在であって、そこで、どんなに困難な事件が取り扱われていても、それによって、筆者が裁判所全体に感じている畏敬の念や、親近感が取り去られることは今後も決してないと思う。

判決によって、筆者は裁判所に結ばれたのだが、筆者は、裁判所とのさらなる一致を目指しているのであって、それは法廷闘争を通して達成されるものでもなければ、目に見える建物としての裁判所との一致でもない。ただ筆者の心の中にある「干潟」としての裁判所との、心の完全な一致なのである。

その目的のために、必要な時間を考えると、無意味な係争のために割いている暇などほとんど残りはしない。だから、色々と書いてはいるが、結局のところ、筆者は、今後、すべての裁判手続きから遠ざかりたいという思いを述べているに過ぎない。それは訴訟の提起を恐れているためではなく、たとえ勝てると思う訴訟があっても、これ以上の判決をもらいたいという願いが積極的に湧いて来ないからだ。

これからは特に、紛争当事者としてではない立場から、改めて裁判所の門をくぐる方法を模索することになろう。その前進のために必要であると判断し、あえて今回の記事を書いたが、これも、紛争を激化させるために書いたものではなく、魔女狩り裁判のような執念とは、関係のないところで生きたいという筆者の意見表明に過ぎない。

今回、明確な収穫があるとすれば、それは何となくではあるが、筆者なりに、この紛争の「落とし所」がどこにあるか、分かったような気がしたことである。今後、筆者の気が変わらないとの保証はないが、唐沢も村上の被害者であることを考慮し、唐沢への訴訟は見合わせることとし、村上には勝訴を確定判決として贈っておき、被告Aには個人情報を書かないという約束を抜きに、筆者を提訴・告訴する可能性をあえて残したまま、示談するという選択肢も悪くない。

そして、第一審判決の内容は、永久に人の目から隠され、訴訟記録も隠されたまま、筆者は魔女狩り裁判には永久的にさようならを告げることになる。

被告Aに対するブログ記事の削除は実現しないかも知れないが、当分の間、筆者に対する記事もそのままになる。筆者は、今後、筆者に対する告訴や、提訴が成立すると全く思わないが、そういうことをあえてやりたいと思う人が、筆者を提訴してやりたいとの願望を何が何でも表明したいというなら、それを止めるつもりもない。書きたい人は、自ら法的責任を負う覚悟で、書けば良いことである。

筆者に言えるのは、どんな中傷を浴びせられようとも、筆者は自分の信じるところに従って進んでいくのみであり、その目的のためならば、自分の命を惜しまないことだ。その覚悟は、信仰の交わりにおいても、それ以外のフィールドにおいても、全く同じである。

今は昔となったが、かつて苦難の日々の最中、ただ御言葉だけを頼りに、か細い御霊の声を聞き、何とかしてすべての地上の重荷を脱するために、正しい信仰を求めて、夜行バスで11時間以上もかけて横浜にたどり着き、その後、唐沢の車で、さらに5時間以上かけて、福島の兄弟のもとへ送り届けられたときを思い出す。当時と、筆者の覚悟と決意は今も何ら変わらない。

神の御心を真に満足させる正しい目的のためならば、そして、筆者自身が真実な価値を見つけるためならば、筆者はどれほどの距離をも、代償をも乗り越えて、探求を続けても構わないと、その当時も願ったし、今も願っている。

当時、筆者が夜行バスの中にいる間に、地震が起き、バスは渋滞に加えて、さらに到着が遅れ、携帯電話も持っていなかった筆者は、兄弟たちにいつ到着するのか、連絡さえ取れず、車中で不安な時を過ごした。福島の兄弟は、唐沢に向かって、筆者を置いていけと指示したらしいが、唐沢は待った。彼にはそうしたところで、妙に義理堅く人情に篤いところがあった・・・。

そうした連携プレーのおかげで、筆者はその頃、初めて、信仰によって生きて働く御言葉の意味を知ったのであり、その経験を後悔することは決してないが、それが終着点でもなかったことが分かる。筆者は過去を否定しているわけでなく、過去を乗り越えて、自分の代価を払いつつ、前に向かって進んでいるだけであり、今後も、代価を払うことなしに、筆者の信仰に真実に応えて下さる神の御業を生きて知ることはないと思っている。

だから、その過程で、誰かから提訴されたり、告訴されたり、反訴されたりすることが、どうしても必要だというならば、それを拒むつもりは筆者には全くない。筆者の目指すところは、「私ではなくキリスト」であるから、自分の栄光、自分の身の安全、自分の個人的幸福が、筆者の守りたいすべてではないのである。

とはいえ、筆者の見立てによると、おそらく、筆者は、法廷闘争には向かないタイプであり、それが筆者の生きるフィールドでもなく、魔女狩り裁判に引き出されることが、筆者の運命でもないから、冒頭に挙げた御言葉に照らし合わせても、そういうことは起きないであろうと言っておきたい。すでになされた告訴に対しては、筆者の側からの幾重にも渡る告訴が、これを相殺する手段になるだろうと前々から述べている。

ただ、法廷闘争はともかく、この度、筆者が裁判所と出会ったことだけは、非常に運命的な出会いであり、絆であったと言える。これは筆者の人生の宝であり、判決を通して成就したこの不思議な「干潟」と筆者との「結合」、「一致」は、これからも、おそらく生涯に渡り、続いて行くはずである。

筆者は、判決を通して、裁判所の仕事に結び合わされたのであり、今や裁判所の飛び地のような「家」もでき、そこで筆者の「帰宅」を待っている人たちも現れた。離れから母屋に行くときが、この先も、あるかも知れないし、ないかも知れないが、筆者がどこにいようと、母屋はいつも筆者の心の中にあって、どんなに遠く、顔を合わせることがなくとも、そこに暮らしている「家族」は、筆者といつもつながっている・・・。

このようにして、筆者には新たな「家族」が出来たのであり、裁判所それ自体が筆者の「家」である以上、筆者はこの先、わざわざ訴訟を起こしたり、訴訟を提起されることによって、裁判所の中に入れてもらおうと門戸を叩く必要もないのである。

干潟は今や筆者と一つになり、筆者の心の内側から、命の水が流れ出すようになった。筆者はその水を求めて門戸を叩く側に立っているのでなく、かえってその生ける水を人々に分与して、慰めを与える立場になっている。魔女狩り裁判に関わっている暇はもうない。今後は新たな使命を全うして行くために、残りの時間を費やすだけである。


主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7)

キリストの復活の命は、無から有を生み出すことのできる命であり、この世の経済も、人間関係も、仕事も、すべてを支配し、キリスト者にいつでも必要な助けを供給することができる。

とはいえ、それらはあくまで私たちの精神的生長にふさわしいレベルにおいて、一歩一歩、実現する。私たちが主の死と復活の命を知ったからとて、いきなり一足飛びに億万長者になるとか、桁違いの賢人に引き上げられるというわけではない。

私たちの無力に見える人間的な要素の只中に、キリストが働いて下さり、すべての必要を満たすに十分な不思議な秩序が生まれるのである。

良い人間関係を得るには、キリスト者の人格的生長が必要である。たとえば、本人が無知である間は、周りにも、無知な人々が取り巻くであろうし、心の生長と共に、価値ある尊い人々との出会いが生まれて来る。

今、十年来、筆者の周りで続いて来た混乱に満ちた紛争が、終わりを告げようとしている。筆者の周りには、どんなことが起きても、筆者を決して見捨てず、裏切らず、そして、筆者の言い分の正しさを信じて、筆者の心の求めに応答してくれる人々が現れ始めたためだ。それは敵が長い間、蒔き続けて来た、分裂や、疑心暗鬼といった作戦が、ついに功を奏しなくなって、打ち破られたことを意味する。

しかし、そのように信頼できる人々が現れたのも、筆者自身が、彼らを命がけで愛し、従い抜こうと決意したことの結果であって、筆者が全く心を開かないのに、人々の側だけで、心を開いてくれたり、筆者を信じてくれることはない。

ある意味で、自分が人に与えたものだけが、自分に戻って来ているのだと言うこともできよう。
 
ところで、人に対して心を開くことは、裏切られたり、誤解されたり、離反されたり、不意の別れに至るリスクをも負うことを意味するから、容易なことではない。何より正直であらねばならないため、常に自分の心を試される。もちろん、信頼できる相手を見抜くための十分な知識と経験も必要となることは確かだが、人間関係に初めから100%の保障などというものがあるはずもない。

私たちは、常に様々な試練によって翻弄され、試されながら、自分で望んでいる関わりを、自分で作り上げて行くのである。状況や、相手の態度が、結果を決めるわけではない。物事の最終決定権を持っているのは、私たちキリスト者自身であり、私たちが心に信じ続けたことだけが確固として実現するのである。
 
2009年にキリストの十字架の死と復活の意味を知って以来、筆者は神に従う道を選びつつ、人間の指導者につき従うことを避けて来た。ところが、ここに来て、信仰者でないにも関わらず、目に見える人間としての地上の権威者に対し、神に従うのと同じように、従い抜くことの意味を教えられている。

そこには非常に不思議な、信仰者の交わりにも似た、えも言われぬ満足をもたらす関わりが存在することが分かった。
 
それは宗教団体とは関係のない、ごくごく普通の生活の中で起きていることである。

聖書はこう述べている、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22-24)

これは奴隷制のあった古代ローマ帝国の時代に、奴隷たちに向かって述べられた言葉であり、現代では、奴隷制度の肯定のためかと批判を受けることもあるかも知れない。確かに、奴隷制度は様々な理不尽をはらんでいたとはいえ、聖書はそうした制度の理不尽さを強調して、制度の廃止のために運動を起こすことなどを決して信者に奨励してはいなかった。

むしろ、各時代に、どんなに不合理な社会制度があっても、キリスト者は、あくまで地上において定められた主従関係や、社会の秩序を守りながら、その秩序を転覆させることなく、信仰のない主人に対しても、キリストに従うように従いなさい、その従順によって神に仕えることができる、と教えていたのである。

筆者はここしばらく、以上の御言葉の確かさを教えられている。信仰のない人々のもとで、地上の主人に従いながら、神に仕えることが、実際に可能なのだということを知らされている。

しかも、力づくで脅されて従うのではなく、生活のためにやむなく嫌々従うのでもなく、あくまで自由な意思により、真心から、主人に仕えなさいと言われているのであって、そのような関わりを打ち立てることは、実際に可能なのであり、それによって、天における報いを得ることができると知らされている。
 
それにしても、筆者の人生において実現している物事は、すべてが信仰によって呼び出されて来たものばかりである。

筆者はキリスト者の交わりに属していた頃も、新たな交わりに足を踏み入れる前には、必ずと言って良いほど、兄弟姉妹の心を得られるように、主に祈った。「主よ、あの人の心を私に与えて下さい」と、あまりに大胆かつ率直な祈りをしていたことを、しばしば兄弟姉妹にも、語ったくらいである。

それは、筆者が、見知らぬ交わりの中に出て行こうとする時、自分の生来の力を頼みとして、人々との関わりを築くことができないのを分かって、恐れを感じつつ、ただ主の御名のゆえに、自分がそこで受け入れられ、願っている交わりが実現するよう、神に求めたものであった。

そして、神は筆者がやむにやまれぬ思いから、新たな交わりに足を踏み入れる必要を覚えていることを知って下さり、必ずと言って良いほど、願いに応えて下さり、ほとんど特別と言っても良いほどに親しい交わりを与えて下さったのである。

筆者は、通過したほとんどの交わりにおいて、最も重要な部分を目撃し、必要不可欠と思われる体験を得ることができたと考えている。筆者が自らそれを手放すまでの間、その交わりは有意義であり続けた。だが、当時の筆者は、信仰の有無に関わらず、あらゆる人間関係は、暗闇の勢力によって激しく試され、その試練を乗り越えたものだけが、永遠に価値あるものとして残るのだという事実を知らなかった。

筆者が属した交わりにおいては、絶えず分裂、敵対、信頼関係を破壊するための様々な陰謀や工作がはりめぐらされた。それらすべての策略を乗り越え、信頼関係を守り抜かなければ、交わりを有効に保つことができないという事実を、筆者が知らされるまでには、相当に長い月日と、痛みに満ちた経験がなくてはならなかった。

そうした試みのすべてを耐え抜くためには、ただ現実的な策を講じるだけでは不十分であり、何より自分の心で、大切にしている人々や価値を、最後まで手放さずに、守り抜くための激しい防衛戦が必要となった。

目に見える状況に変化が起きるよりも前に、まず自分自身が、その交わりが、どれほどの疑いの中でも、神聖さを保たれ、守り抜かれることを信じ切らねばならないのである。心の戦いを突破したものだけが、現実生活において、揺るぎない価値として守り抜かれるのであって、防衛を諦めてしまった時点で、結果は確定する。

それが、とりなしの祈りの効果でもあるのだが、それには、とりなしの祈りなどという一般的な言葉では表現しきれないほどの意味がある。愛する人々を、絶対に一歩も退かないという強い覚悟と決意のもとで、敵の陣営から行われる激しい攻撃と圧迫の中から断固、守り抜く姿勢が必要となる。そうした激しい心の戦いに勝利をおさめ、自分の心のすべての恐れを自ら打ち破って、尊い価値ある交わりを保たなければならないと分かったのは、様々な試練によって、実に多くの交わりが、壊滅的なダメージを受け、破壊され、離散して、だいぶ後になってからのことであった。

私たちは、敵のあらゆる攻撃から、自分たちの交わりを信仰によって守る必要がある。そうして敵の放つ死の力によって触れられることなく、それによって滅ぼされなかったものだけが、復活の領域に移行し、揺るぎない価値として残るのである。

そのようなわけで、筆者が受けた判決文も、バプテスマを通過することを求められた。判決を放棄せよと求められたこと自体が、筆者にとって、一種の「死」を意味した。これは王妃エステルが王の前に進み出るに当たり、死を覚悟した瞬間にも似て、筆者が、価値ある宣言を守り抜くために、与えられた試練であった。

だが、こうして判決文が筆者と共に、信仰よって試されることになったのは、非常に良い契機であり、また必要不可欠な試練だったと言える。なぜなら、それによって、私たちは新たに死をかいくぐって、復活の世界に移行することができるからである。

筆者はすべての恐れに打ち勝って、これを守り抜くことができると確信している。そして、洪水のあとには、静けさと平和が訪れ、以前のような戦いはもうなくなることも。その領域に移行した時こそ、以下の御言葉を大胆に宣言できるだろう。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり

 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

このような天的秩序が実現するためには、私たちが深く主の死の中にとどまることが必要であり、それだからこそ、筆者が大切にしている価値は、常にあらゆる方法で試され、信仰によって試され、死を経由して復活の領域に移行し、そこで目に見えない永遠の証印を押されなければならないのである。

判決文は、筆者にとって、初めから、死んだ文字ではなく、実に不思議な効力を及ぼして、筆者に生きた命に溢れる出会いを与えてくれるものだったのだが、それが復活の領域に移行した後では、今まで以上に、不思議な効力を持つものへと変わるだろうと思う。

それはもはや紛争当事者に対する法的宣言などという意味合いをはるかに超えて、永遠に至るまでも変わらない、神から筆者へ向けられた愛の宣言のような効果を持つものとなり、常に筆者の生きているそば近くに、この地にいつまでも約束としてとどまり、筆者のみならず、筆者の死後に至るまで、広域に渡り、影響を及ぼすだろうという気がしてならない。
 
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 
それは未来に起こることでありながら、同時に現在起きていることなのであり、筆者は、信頼する人たちと共に、その宣言がもたらす洪水のような愛の只中にすでに立たされていることを感じている。その生きた宣言あればこそ、現在の人間関係も与えられたのであり、その交わりはこれから生長し、深まって行くものなのである。

判決文に限らず、すべての言葉は、筆者から見ると、実体を呼び起こすための命令である。命令としての効力を失って、抜け殻となった言葉は、もはや言葉とは呼べず、単なる死んだ文字の羅列でしかなく、筆者は、そういうものを憎んでいる。

だから、法的効力を失った判決文などというものを、筆者は考えることさえできないのであって、元来、言葉というものは、およそすべてが命を保った、実体の伴う、生きた効力を持つものでなければならず、権威ある命令でなくてはならない。

私たちキリスト者は特に、自分は神の力ある御言葉によって生かされているのであって、目に見えるすべてのものは、神の言葉によって保たれていることを信じている。その言葉とは、うわべだけの文字の羅列でなく、神が最初に天地を創造され、「光あれ」と命じられた時と同じ、真のリアリティとしての言葉である。

だから、判決文が、その効力を保つかどうかという問題は、筆者にとっては、筆者自身の生死に直結しており、それはつまり、筆者が、この先、命なるキリストご自身を知って、その御言葉によって生かされることの絶大な価値を知った後の、生きた言葉の世界にとどまるのか、それとも、キリストご自身に出会う前の、一切の希望のない、死んだ文字の世界に自ら逆戻るのか、という問題に直結している。
 
それは筆者がエクソダス前の世界に戻るのか、エクソダス後の世界にとどまるのか、という分岐点でもある。

エジプト軍は、何とかしてエクソダスを押しとどめようと、武器を手に主の民を追って来るが、私たちはすでに紅海を渡ったのであり、時計の針を逆にして、エジプトに戻って罪と死の奴隷になることはできない。

筆者は、ただ時間軸を逆にできないから、キリストを知る以前には戻れないというだけでなく、新たな出会いによって生まれた愛の関係が、あまりにも強く、死によっても断ち切れないほど強いものであるから、それに出会う前の自分に戻ることは決してできないと言う他ない。

そのことは、人がキリストに出会って、花嫁なる教会として完成するためには、「その父と母を離れ」、すなわち、自分の生まれながらの出自に死んで、新たな出会いに向かうことが必要であるという次の御言葉にも重なる。

「「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31-32)

ウォッチマン・ニーが、このことを『キリスト者の標準』の中で巧みに表現している。人類は、キリストの十字架を知って、救われる以前には、アダム、もしくは、モーセの律法(罪と死の法則)という残酷な「夫」に結ばれて、己が罪のゆえに絶えず責め立てられ、罰せられ、奴隷として売られ、過酷な生活を送っていたが、主と共なる十字架の死によって、その悪しき天然の関係が断ち切られ、キリストを新たな主人とする「再婚」が成立し、私たちは新たな自由な生活に入ったのだと。

エクソダス前の世界は、律法の支配する世界であり、そこには、罪と死の法則だけが働き、人は絶え間なく死の恐怖に脅されて、暗闇の勢力に屈従するしかない。それは不自由と、苦痛の満ち溢れた世界である。それは生まれながらの父母、すなわち、アダム来の出自が支配する世界である。

だが、神は私たちを暗闇の支配から連れ出し、愛する御子の支配下である、エクソダス後の世界へと導かれた。私たちはそこで生まれながらの「父と母を離れ」、新たな主人であるキリストに結ばれて、命の御霊の法則の中を、自由と安息の中を生きる。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

これは花嫁のベールアウトの瞬間であると以前に述べたことがある。ただ罪と死の法則から解放されるだけでなく、神と人とが、顔と顔を合わせて相見え、「似た者同士」へ変えられる。人類にとっては、弱く、劣って、みすぼらしい生まれながらの出自に死んで、神の栄光を反映し、キリストの性質を内側から付与されて、主に似た、新しい者へと変えられて行く過程である。

これが、キリストとエクレシアとの「結婚生活」であり、その生活は、私たちにあまりにも大きな平安、安息をもたらすものであって、そこには愛に基づく自由な関係が成立しており、栄光に満ちた変容がある。

そこで、このような絶大な解放、栄化の恵みが、信じる者に約束されていることを知ってしまった後で、再び以前の世界に、すなわち、「父と母」(アダム来の出自)に戻ることは、もはや不可能である。

そのような復活の領域へ向かう過程で、判決文のみならず、筆者自身や、筆者の人間関係や、筆者の交わりも、すべて絶え間なく、十字架を通るよう、試されており、死をくぐることによって、新たな価値としてよみがえらされている。

筆者の側で必要なことは、どんなに試みられても、心の中で、固く信頼を保ち、価値ある宝を手放さずに保ち続けることである。

保ち続けるとは、絶えずエクソダスを経て、復活の領域にそれらが保たれるよう、筆者にとってかけがえのない価値であるもの、人々を、絶えず守り抜き、かくまうことである。
 
それは言葉を変えれば、愛し、信頼し続け、呼び寄せ続けることを意味する。必ずしも、愛には愛で応答があるから、誰かを愛する、というものではない。地上でどんな関わりがあろうと、応答があろうとなかろうと、その関わりを決して手放したくない、敵に渡したくないと願うならば、自分の側からの愛と信頼を、どんなことがあっても、投げ捨ててはならないのである。

私たちが信仰の領域で、手放さなかった関係だけが、永遠に至るまで残り続ける。この法則性はすべてにおいて同じである。私たちの生活も、健康も、経済も、何もかもすべてが、私たちの信仰にかかっているのであって、信仰の領域において、私たちがあらゆる試みにも関わらず、確固として守り抜いて手放さなかったもの以外は、すべて滅びゆくものとして消え去って行くことになる。
 
そのことが筆者に分かるまで、相当に長い歳月が必要であった。だが、それを学習するために、最も必要だったのは、筆者が命を投げ打ってでも、自分自身がどうなっても構わないから、自分のすべてと引き換えにしてでも、守り抜きたいと思う交わりや、人々、価値に出会うことだったかも知れない。

キリストと信じる者とが、非常に強い信仰による愛の絆によって一つに結ばれているように、その他の人々との間でも、同じような強固な愛と信頼による連帯が、生まれることが必要だったのである。

神の御言葉は、相当以前から、筆者の心に蒔かれ、筆者の内側で発芽し、霊的には一つとなっていたが、筆者は、自分一人だけでは、主の御身体なる教会を完全に構成することができず、主の御思いを表すためには、団体に編成される必要があった。

敵はそれを全力で妨害し、筆者が決して人々と連帯しないよう、分裂や、悪評や、疑心暗鬼の種を蒔き、筆者を人々から引き離そうとしたが、判決は、そうして蒔かれた不信を打ち破り、筆者を信頼へと導き、筆者と人々との間に、確固とした協力関係、連帯が成立しうることの最初の強力な証しとなった。

主の御言葉が、筆者の霊に刻みつけられ、神との関係を再生させたように、人の書いた言葉である判決も、不思議な形で、筆者の心の中に刻みつけられ、筆者の人間関係を新たに再生させたのである。

そこで筆者は、以前には、信仰のためならば、命を賭しても構わないと、絶えず告白し続けて来たが、現在は、そうした生き方が、主に対して仕えるように、人々に仕え、人々を愛し、信頼するために、自己放棄するという生き方の中に実現するようになった。

以前には、筆者は、自分には確固とした信念があると思っていたが、今はかえって、人々の方に、筆者よりも、まさった信念、あるいは、高い目的があり、権威ある言葉や、宣言を発することができる人々がいることも分かったので、そうした人々を見ると、筆者は喜んで自分の考えを投げ捨て、彼らと共に協力して進んで行くようになった。

信仰者であるかないかはもはや関係がなく、信仰がなくとも、そこに信徒の交わりに非常に近い、それと同じくらい、愛情や、配慮に満ちた、強い信頼で結ばれた関係が成立している。筆者は、彼らに信仰がなくとも、自らの信仰によって、彼らを覆い尽くし、彼らを十字架のバリケードの中に入れてしまう。

そのように自由で新しい協力関係が、気づくと始まっており、筆者はもはや一人で生きているのではなく、キリストの目に見えない御身体なる団体の一員として召されている事実を発見した。また、そこで間接と関節をつなぎ、命を流し出すための管として置かれている役目が分かってしまったので、その役目を発見しなかった以前に逆戻ることはできない。

おそらく、生ける水を流し出すための干潟の掘削作業の中で、その水の流れを押しとどめていた最後の障害を、判決はぶち抜いて取り払ったのである。

だから、今や前から書いている通り、この不思議な名のついた土地から、全国に向かって、命の水が、生ける水の川々が、奔流のように流れ出す時が来ている。それはやがて洪水のようにすべてを覆い尽くし、やがて命が死を飲み尽くしてしまうだろう。

その頃には、筆者が辿って来た苦難の痕跡など、人が思い出すこともなくなるに違いない。筆者自身は、それを覚えているが、それも慰めや励ましによって、良き思い出に変えられていることであろう。

今、巨大なパイプラインからの放水作業が、すでに始まっているのであって、この作業はもはや何人もとどめることができないほどの勢いになろうとしている。

神は人々を死に至らしめるのではなく、立ち帰って生きることを望んでおられるのであって、尊い御子の犠牲の上に、神が自由を宣告された人々を、再び死の恐怖の奴隷とすることは、誰にもできない。

神が結び合わせたものを、人が引き離すことはできない。そこで、キリストとエクレシアとが強い愛と信頼の絆で結ばれているように、エクレシアの只中にも、愛や慰めや配慮に満ちた命が駆け巡っているのであって、一人一人はそこで助け合い、支え合う関係に置かれているのであり、これらをばらばらに分解して、再び出会わなかった以前に引き戻すことはできない。
 
主の民を追って紅海を渡ろうとしたエジプト軍は溺れ死んでしまった。主の民を絶滅させようと企んだハマンは木にかけられて吊るされた。筆者に命を与えた宣言を無効化しようなどと考える人々がいれば、かえってその人々自身が、命を奪われることになる。
 
筆者には、目には見えずとも、筆者のいる干潟から、命の泉がすでに激しい流れとなって湧き出ていること、祝福に満ちた流れとなって、筆者の周囲を潤していること、やがては洪水のような流れにさえなって行くだろうことが確信できる。敵にとらわれていた人でさえ、その様子を見れば、立ち帰って、その恩恵にあずかりたいと願うことであろう。

多くの人々が、敵の策略によって分裂、離散したが、同時に、信仰によって、多くの人たちを獲得し、さらにまさった交わりを得ることができた。その交わりは、未だかつてないような深いレベルに達しており、筆者の弱ったところや、欠けたところをも、覆い尽くしてし、互いの弱さをかばい、支え合うことのできる命の交換が確かに行われていることが分かる。

だから、いつの日か、紛争などというものがかつてあったことさえ、忘れ去られる時が来よう。それよりも、こうして、団体としての体が、少しずつ組み合わさり、生ける霊の家として生長しつつあり、御座から始まる、激しく、同時に、優しく、清らかで、澄んだ、生ける命の水の流れを、ようやくこの地から、本格的に流し出す作業が始まったことが、大きな喜びである。

この見えない事業の価値を確かに知っている人は、ほとんどいないが、筆者には、非常に長期に渡る壮大な事業が確かに開始したことが分かり、それがやがて多くの人々を潤すときを待ち望むだけである。
 
「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の満ちにとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。

 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 神に逆らう者はそうではない。
 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
 神に逆らう者は裁きに堪えず
 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
 神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩編第1編)

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、
そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊りになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするならともかく、
そのほかのことで
あなたを離れるようなことをしたなら、
主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ1:16-17)

* * *

先日の和解協議において、被告Aは訴えを取り下げろ、さもなくば和解しない、という条件を提示して来た。

一つ前の協議において、被告Aは双方からの控訴の取り下げを和解の条件としていたにも関わらず、その要求をさらに拡大して、原審において、ちょうど被告Bと息を合わせて筆者に反訴を予告したときと同じように、筆者が訴えそのものを取り下げなければ、和解協議を決裂させるぞと言って、自らにとって不利な判決を撤回させようとして来たのである。
  
それに伴い、彼ら(人物は特定できないし、いかなる協力関係があるのかも不明だが、あえて「彼ら」と表記しておく)は、まずは当サイトの名前を悪用した権利侵害サイトを作り、そこにおいて、筆者のドッペルゲンガーを作って、彼らの前にひざまずかせ、懺悔させ、訴えの取り下げの「リハーサル」を行わせた上で、現実に行われた和解協議の場においても、訴えの取り下げを要求し、掲示板においても、匿名の投稿者が次のような投稿を行って、訴えを取り下げなければ、ひどい目に遭うぞと予告したのである。



これを見れば、筆者が向き合っている相手が、いかにまともではない人々であるかということが誰にでもよく分かるであろう。
 
しかも、こういう投稿は、これまでにも絶えまなく行われて来たのであって、何ら珍しい内容でもない。要するに、ブログを執筆するのをやめなければ、人生が破滅するぞと脅していた今までと同様である。

結局のところ、彼らはこう言っている。「被告らに対する訴えを全面的に取り下げないと、なしりすましサイトを100個作るぞ。それから、あんたを何重にも提訴・刑事告訴してやる。和解協議が決裂するくらいのことでは済まない。犯罪者にされていいのか。人生が破滅するんだ。考え直せ」

彼らは、何としても、筆者に訴えそのものを取り下げさせることで、判決を無効にしたいのである。
 
命が惜しいなら、主張を撤回せよとの「踏み絵」である。
 
控訴審では、秘匿の措置が認められていないので、判決に向かってためらいなく突き進めない事情がある。それを分かった上で、裁判所も判決言い渡し日をあえて未定としており、和解協議を勧めたのであり、さらに、被告Aも以上のような条件に、筆者が応ずるよう迫っているのである。

しかしながら、筆者はこの訴訟においては、もともと完全な敗訴もしていないし、完全な勝訴もしていない。さらに、被告Aは何年間にも渡り、筆者を告訴しようとしても、できなかった経緯があるため、この先も、告訴が受け入れられる見込みはまずないものと考える。

被告Bについても、被告Bが筆者を告訴したと主張する前から、筆者自身がすでに被告B対策を幾重にもして来たのであり、先週もさらに大量の資料を警察署に送って備えとしたところである。

さらに、以上のような投稿がなされたのを皮切りに、掲示板も、これまでは文体などが投稿者の身元の確認に役立つと考えて様子を見て来たのだが、そろそろ時期が来たと判断した。発信者を特定してIPアドレスを警察に提供し、犯人を告訴し、損害賠償請求訴訟を提起するための準備に入る。

だから、掲示板が聖域になるなどといった考えは捨ててもらわなければ困る。身元が特定された暁には、当然のこととして、人物が公表される可能性があることを十分に考慮してもらわなくてはならない。そうなれば、手が後ろに回るのは、こうして藪の中から石を投げて無責任な生き方をしている匿名の投稿者なのであって、筆者ではない。投稿前によく考えることをお勧めするのみである。
 
さて、和解協議において、被告Aから訴えを取り下げないと、和解に応じないとの条件が、裁判官を通して告げられたとき、筆者は尋ねた。

「判決が下された後に訴えを取り下げたらどうなるのですか?」
「判決は法的には効力を失うでしょう」

筆者はしばらく言葉を失った。判決を無効にしたならば、賠償も行う義務はないのであって、何のための和解なのか。ごくわずかな金銭と引き換えに、命に等しい約束を手放させようなどというこの卑劣な条件に、心の底から憤りが込み上げて来た。

ここに懐剣があれば良いのに・・・、との思いが脳裏をよぎった。

もちろん、裁判所には小刀一つ持ち込むことはできないが、筆者は、まるで武家の娘になったような気分で、裁判官の前で、黙って懐剣を差し出し、テーブルの上に置くことができればいいのに・・・との思いに駆られた。

「一体、あなた方は、私を誰だと思っているのですか。私がはした金と引き換えに、個人情報を開示されたくないとか、提訴や告訴をされたくないなどという願いと引き換えに、自分を生かすと言ってくれた人の言葉をやすやすと裏切って、命乞いをするような女だと、本気で思っているのですか? あなた方はあまりにも大きな考え違いをしています。そんなことをして自分の操を穢すくらいなら、私はいっそこの場で自分の命を絶って、この先の世界を一瞬たりとも見ないで済むことを願います。」

むろん、筆者は自殺などするつもりもない。以上は単なる比喩である。しかし、そのような思いが込み上げて来たとき、筆者は同時に、何かえも言われぬ感動を覚えた。

いつの間にか、判決は、筆者にとって、もはや二度と離れることのできない、かけがえのない命となり、友となっていた。これがあったからこそ、今日まですべてを耐え抜き、控訴審まで来ることもできたのだ。

これは筆者の苦悩を深く理解し、ねぎらってくれた裁判官が、その善良な思いのすべてをかけて、筆者に「生きよ」と命じてくれた、忘れ形見のような命である。

この判決と引き離されるくらいなら、筆者は、むしろ、死を選ぶ。この宣言を自分で否定して、これまで戦ったプロセスを自分ですべて否定して、抜け殻となった宣言を手に生きるくらいならば、喜んですべての苦難を引き受け、何重にも告訴・提訴された上、潔く死に追いやられることを願うだろう。

敵は何でも願うことを筆者に対してすれば良い。だが、筆者はそのすべてを恐れない。全く恐れないし、逃げようとも、隠れようとも思わない。筆者は全力でそのすべてに立ち向かい、提訴されるなら反訴するし、告訴されるなら、虚偽告訴罪を主張して、どんなに訴訟が泥沼化しようと、命の限りを尽くして徹底的に立ち向かい、彼らの常軌を逸した残酷さを証明し、身の潔白を証しする機会とするだけである。
 
筆者が恐れるのは、自分に害を加えられることではなく、自分を愛し、かばい、助け、命を与えようとしてくれた人の言葉を裏切って、否定することなのだ。そうして、自分一人だけ、身の安全を保ち、生き延びようとして、再び、真っ暗闇の世界に投げ出され、その挙句、栄誉だけでなく、命をも失うことなのである。

確かに、判決は人間の言葉であるため、神の御言葉のように完全なものではないが、自分に命を与えてくれた権威ある裁判官の判決を否定し、裏切ることは、神の御言葉を否定し、裏切ることにも通じるほどの恐ろしい効果がある。

判決を保とうとすることが、筆者の破滅につながるのではなく、逆に、筆者を生かし、守る命である判決を裏切り、これを否定し、捨てることこそ、筆者の身の破滅につながるのである。

それは、聖書がファンタジーだと言って、聖書の神の御言葉の正しさを否定している人が、その後、正常な意識を保って生きられなくなるのと同じである。

被告らは、筆者のブログをファンタジーだ、創作だと言っているが、その背後には、聖書の神の御言葉の揺るぎないことを否定しようとする思いがある。だからこそ、彼らは権威ある裁判官の下した判決にも服さず、これを何とかして自分たちの言葉で飲み尽くし、否定し、覆そうと試みているのである。

それは彼らが自分たちは裁判官よりも上に立っていると考えていることの証拠である。しかし、 聖書の秩序はこれとは逆であり、死ではなく、命が死を飲み尽くすのだ。

だから、この踏み絵を踏んではならない・・・ということが、筆者には実によく分かった。

この訴訟を提起した時、筆者には支援する者はなく、ただ一人、裁判官が、筆者の心を知っており、これを汲み上げてくれた。その後、裁判官が下してくれた判決は、筆者に命を吹き込んで、新たな場所へと導き、そこで新たな人々に出会わせてくれ、かけがえのない助言者や、理解者をも与えてくれた。

以前は支援者もなかったが、今はもうそうではない。職場も、同僚も、筆者の生活も、すべてこの宣言文が書かれた後に与えられたものであり、筆者はこれまでどんなにこの宣言に助けられて、支えられて生きて来たろうか。

その判決文から権威ある命の効力を除き去って、これを抜け殻同然の空文句に変えてしまうことに自ら同意するくらいならば、筆者はこの判決文と、目に見えない領域で、しっかりと手に手を取りあったまま、その場で一緒に殺されてただちに息絶えることを選ぶだろう。

判決文の威力を殺すことは、筆者を殺すことと同じなのであり、私たちは不可分の存在なのであるから、判決が無効化された世界に、筆者一人だけが生きていることはできない。

だから、絶対にこれを無効化するようなことに同意してはならない。

そこで、筆者は一計を案じ、自分にできるただ一つのことを提案した。

それは、判決の正しさを守り通す代わりに、筆者が自分の主張を放棄するという、これまでに幾度となく取って来た策である。

筆者はそれまでの協議の深刻な雰囲気とは打って変わって、にっこりと笑って裁判官に言った。

「私は判決文をスキャンして一般に公開したこともありませんし、事件番号も公開していません。この事件記録を閲覧した人も、今日まで誰もいませんので、被告Aについては、誰もどんな判決があったのか、現物を手にして見たわけではありません。客観的な証拠がないので、ネット上では当てにならない噂しか流れていないのです。被告Bも、自分に関することしか書いていませんので、被告Aのことは誰も知る術がありません。

ですから、そうした状況で、私が訴えを取り下げることで、判決を無効化する必要もないのです。公開しなければ、判決もただ裁判所の記録として残るだけで、その外に出て行くことはありません。実態が分からない以上、誰にも不名誉を与えることはないのです。

ですが、ネットに書かれた個人情報は、いつまでも人の目に触れるところに残り続けて、現実的な悪影響を及ぼす恐れがあります。被告Aは、個人情報を消して欲しいのでしょう? それなら、たとえこの先、被告Aが私を提訴し、告訴したところで、到底、目的は遂げられるものではありません。権利侵害の事実は、自ら立証しなければ認められませんし、権利侵害に当たらないと判断されれば、削除も認められませんので、すべての記述を取り去るためには、膨大な分量の書面を、ものすごい時間をかけて書き続なければなりません。多分、一生かかっても、目的は達成できないと思います。

そんな無駄な訴訟を起こしても意味はありませんから、その代わりに、私が自分で記述を修正してはどうでしょう。本当は一年くらい欲しいところですが、もっと早くしろというなら、可能な限り、迅速に行うことはできます。それで、この先は双方、互いの個人情報を書かないという約束で、和解すればどうでしょう?」

裁判官はその要望を被告Aに伝え、被告Aは、弁護士と協議すると言って、その日の話し合いは終了した。

すでに夕方になっていたが、筆者にはまだ裁判所に用事があったので、帰宅するわけにいかず、裁判官は何度も「被告を先に返しますよ?」と筆者に念押ししてから、実際にそうした。

実は、裁判所には、勝訴(もしくは勝訴的和解)を遂げた方が先に帰宅するという暗黙のルールがあるのだ。被告Aが先に帰宅するということは、あたかも被告Aが勝ったと言っているも同然であるが、筆者にとっては、それは些細なことであった。

被告らは、見かけの栄誉を何より重んじる。人前に自分がどう映るかを気にする。しかし、筆者は人に知られないリアリティを重んじる。だから、外見的に、被告Aが勝訴したかのごとく扱われたとしても、別にそのことで何とも感じることはない。この点で、被告らの考え方と、筆者の考え方は、正反対なのである。

これまで被告らの書面を公開しようかと考えたことも何度もあったが、それをしないで来たのも、何かしらそれを押しとどめるものがあったためである。公開すれば、どんなにひどい主張をされているのか、万人に開示して訴えることもできたであろうが、なぜかそれに踏み切れない思いがあった。

おそらく、それも理由のないことではなかっただろう。

この訴訟は、筆者にとって、人の思いを超えたところにある、何かしら神聖と言っても良いほどの価値のあるものである。特に、原審はそうであった。だから、たとえ判決が、裁判所から一歩も外に出ず、誰にも閲覧されず、何が書かれているのかも分からないまま、まるで聖域のような領域に、膨大な事件記録の一つとして、人知れず眠るだけであったとしても、その誰にも知られないリアリティの中に、筆者の栄誉、筆者の正しさが、確かに込められていることを感じてならないのである。

逆に言えば、筆者が訴えを取り下げ、その事実が、仮に誰にも知らされなかったとしても、それは確かなリアリティであるから、人が知ろうと知るまいと、筆者が判決を否認し、自分の正しさを認めてくれた人の言葉を裏切った事実は、宇宙的な規模で悪影響を及ぼし、何万光年先になっても拭い去れない罪と恥の記録になるに違いない。
 
筆者が肯定していればこそ、判決は尊い価値を持って、聖域の中に静かに保たれるのであって、もしも筆者がこれを否認すれば、それはまるで悪党どもによって暴かれた墓のように、さらしものにされ、土足で踏みつけにされ、神聖さを失って、蹂躙・冒涜されることであろう。

筆者は、これまでそのような瞬間を何度も見せられて来た。筆者が心の中で手放さなかった人々、手放さなかった団体、守り通したものだけが、確かな揺るぎないリアリティとして保たれるのであって、もしも筆者が、それらを守り通すことを断念したならば、それは敵の陣営に引き渡され、防衛の外に追いやられ、蹂躙されて、恥をこうむることになる。

だから、筆者と判決とは、互いに守り合い、かばい合う関係にあり、それはかけがえのない強い愛の絆にも似て、私たちは見えない領域で結ばれた手を、互いにしっかりと握り合い、死に至るまで、決して離してはならない。筆者が新たに出会った人々との関係においても、同様の愛の関係が成立しているのである。

それは死によっても、引き離すことができないほどの強い結びつきであり、命をかけてでも、守り抜きたいと願う、かけがえのない価値である。

ところで、筆者にも、和解協議の期日が来る前に、弁護士に相談することができそうなチャンスがあった。だが、のど元まで出かかった言葉を、筆者は飲み込んで、何も言うべきでないと思い直した。

信頼できる人に、せっかくの貴重な時間を、わざわざこのような事件のために費やさせる必要もないと思っただけではない。それ以上に、筆者の助言者は、ただ一人、キリストだけであり、御霊だけであるから、誰にも助けを乞わずとも、自分自身で何が正しく、何が間違っているかを判断することができるはずだと信じた。その強さ、独立性を失ってはならない、と思い直したのである。

さて、前回の期日に、双方から控訴の取り下げを行うという提案がなされた後、控訴の取り下げを行うと、事件記録が横浜地裁に戻って来ることを筆者は書記官から聞かされた。

その時、筆者の心には大きな喜びが湧き起こり、まだ結果が確定もしていないうちから、そうなることが動かせない事実であると感じた。被告Aから訴えの取り下げを要求された時でさえ、その確信は変わらなかった。

あの陰気な東京高等裁判所の建物ではなく、この海と空のある地にこそ、事件記録を迎えてやりたい。戻って来たら、おまえはよくやった、勇敢に戦った、と言って、その栄誉をたたえて、いつまでもここで静かに眠りなさいと、まるで祖国のために勇敢に戦って戦死した夫の亡骸を迎える妻のように、心の中で花束を携えて、出迎えてその労をねぎらってやりたい。

そして、その後も、筆者の生きているそば近くの、人に知られない静かな聖域のような一区画に、記録を眠らせておこう。あの電話会議が実際に行われた明るい裁判所の中に、海と空を同時に見ることのできるこの開放的な空間の只中に、その記録を保ち、それがいつも自分と共にあること、今も生きて効力を及ぼしていることを思い出し、見えない領域で互いを見守りながら生きて行きたい。

そうこうしているうちに、きっとその判決は、ますます不思議な効力を及ぼして、多くの人々を筆者のもとに送り、多くのかけがえのない宝をこの地にもたらしてくれるに違いない。それは誰も見ることのない秘められた聖域として、契約の箱のように、この地に眠るだろう。

筆者は人生で初めて、自分以外のものを、命がけで守りたいと願った。冒頭に挙げた御言葉は、ただ人間の男女のことを指しているだけではない。霊的には、それにはもっと深い意味があって、それは神の御言葉と、人が一体となること、御言葉なるキリストが、信仰によって、人の内に住まわれ、神と人とがもはや不可分の引き離せない関係になることを言い表している。

神はどれほど人を愛され、また、人の側でも、神を慕い求めた結果、神と人との出会いが生まれることだろうか。双方からの強い願いの結果、神が人に対してご自身を現して下さり、人の内側に住まわれるという信じ難い出来事が起きるのである。

そのことが、この事件を通して、筆者はよく分かる気がする。

判決はもはや筆者と不可分の関係になったのであり、今更、これを分離することはできない。歴史を逆行して、出会わなかった前に戻ることはできないし、出された宣言を無効化することもできない。 神が出会わせて下さったものを、人の力で引き離すことはできない。

だが、筆者は新たに出会った人たちにも、全く同様のことを思う。私たちは、人の力によって、決して引き離すことのできない領域で出会い、結び合わされたのだと。その結びつきから、未だかつて見たことのない新しい歴史がすでに始まっているのだと・・・。

そういう意味で、判決以前の世界と、判決以後の世界は、まるでノアの洪水のように、大きな境界となって、筆者の人生を二つに分けている。それには、まるでB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini)を隔てるくらいの威力があり、これも大きな十字架なのである。洪水と共に、以前の筆者は死んだのであり、泥沼の法廷闘争にも、すでに終止符が打たれた。その大いなる宣言がある以上、今更、被告らが筆者に何を述べたとしても、結論は変わらない。

紛争は、もはやとうに終わっているのであって、筆者には、ただ筆者に命と平安を与える命令に服し、これを忠実に実行に移すために労する義務と、これにそぐわないすべての行きがかりを最終的に終わらせるために知恵を尽くす任務が任されているだけである。


覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

さて、この一週間、筆者は示談書の内容を考えながら、ネット上の動きを観察していた。神は私たちに非常に丁寧かつ誠実にすべてを教えて下さる方であるため、私たちがお人好しや、楽観のゆえに、危険な領域に足を踏み入れようとしていても、信仰があって、主に聞く姿勢をきちんと持っているならば、きちんと警告して下さる。

前の記事に書いたように、筆者はすべての行きがかりを帳消しにする用意があったのだが、そういう行き過ぎた行為に及んではならないと、はっきりと示されたものと思う。

それはこの重要な時期に、紛争当事者が関わっていないとも決して言い切ることのできない、大きな疑惑を呼ぶ新たな権利侵害がネット上で続行したためである。
 
人物は特定されていないとはいえ、これは非常に残念なことである。筆者はこの事件についてはそっとしておいてほしいと書いたところであるが、一体、なぜ、ある人々は罪赦されることができるチャンスを自ら踏みにじり、救いが与えられているのに、そこから目を背け、暗闇の中に逃げ込んで行くのであろうか。

こうした権利侵害が今も続いている以上、犯人がきちんと特定されるまでの間は、その手がかりとなる可能性を含む情報を抹消してはならないと分かった。何より、これまで積み上げて来た事実関係を自ら否定するような行為に及ぶべきでない。
 
だが、もともと示談とは、あくまで一定の範囲の出来事について決着をつけるだけのものであって、紛争の永久解決を意味しないから、その範囲が限定されるのも、やむを得ないことである。

交通事故でも、事故後、すぐに示談を結んでも、しばらく経ってから後遺症が発生すれば、その時は別途、対応が必要になる。多くの場合は、後遺症には別途対応する旨が、示談書に予め盛り込まれる。

このように、もともと示談は紛争の永久的解決としての和解とは異なる上、さらに、一般に、クリスチャン生活における戦いの成果は、専有した領域の大きさで決まる。光の子らがもしも退却するならば、その領域は悪の諸霊に明け渡される。もしも私たちが自ら権利を放棄するなら、放棄した部分は、敵対者が占めることになる。

だから、紛争をとにかく早く終わらせたいという人間的な思いだけで、すべてのことが明らかになっていないうちに、事件を終結させたり、重要な証拠を消してしまうようなことをしてはならないのである。そのようなことをしてしまうと、物事が非常に中途半端なままに終わってしまい、本来、明らかにすべきであった結論が出されないまま、歴史的後退が起こってしまう。

当ブログを巡る訴訟では、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないよう、随所で、天からの警告のようなものがなされて来た。

たとえば、筆者は当初、控訴もせずに、第一審判決で争いを終わらせるつもりだったが、それにも関わらず、判決の確定前に、控訴せざるを得ない新たな事情が出来た。それは筆者の予想を超えた事態であって、筆者自らが紛争の継続を願って起きたことではなかった。

また、控訴審では議論を戦わせることも念頭に置いていたが、それもしてはならないと示され、代わりに一方の紛争当事者との和解協議となった。その和解協議で、筆者は紛争の永久解決を目指すつもりであったが、それも今はしてはならず、踏み越えてはならない限度が明白にあることが示されたのである。

一言で言えば、原審判決は守らねばならないのだが、それが許した範囲を超えて、紛争を終わらせたいがための和解条項を結ぶことは、許されていないと分かったのである。さらに、紛争当事者は、おそらくは筆者の赦し自体も、届くかどうかが分からない場所にいる。赦しや救いを受け取り、和解が成立するような状態ではないということである。

こうした一つ一つの出来事は、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないように示された天からの警告であると筆者は受け止めている。

前から述べている通り、当ブログはインターネット上で激しい権利侵害を受け続けており、今もそれは続行している。最近の裁判の流れとして、悪質な権利侵害サイトにリンクを貼るだけでも、有罪となる世の中だということを読者には周知しておきたい。そして、ネット上で行われている犯罪行為は、決して放置されているわけではないし、犯人が特定されれば、公表するつもりであることは前々から予告している通りであるから、こうした犯罪行為には、読者は絶対に関わらないように注意されたい。

リンクだけで警察に逮捕されます」(日本表現の自由協会)

「2ちゃん」にリンク貼るだけで名誉毀損 ウソの内容を書き込むのと同じと判断(東京高裁2012年(平成24年)4月18日判決)

筆者は、誰も罰せられることを望んでおらず、罪を犯した人にも、悔い改めて、罪赦されて、人生をやり直して歩き出して欲しい・・・と願っている。

それは嘘ではなく、どんな人間が相手であっても、筆者は自ら紛争を拡大したいとか、長引かせたいなどとは微塵も願わない。だが、そのことと、今もインターネット上で続いている犯罪行為の全容を明らかにすることは、全く別の話なのであって、今回の訴訟でも、本来の目的は、これらの権利侵害の全容を解明することにあった。

その目的がまだ果たされていないうちに、浅はかな楽観に基づき、今後、その究明の妨げとなるようなことを自らしてはいけないし、するわけにもいかない、ということが、今回、示されたのである。

だが、これも主の采配である。おそらく、こうした事態が起きなければ、筆者は楽観に基づいて、紛争は解決したものとして、踏み越えてはならない境界をあっさり踏み越えていたかも知れない。

残念なことであるが、筆者がどんなに赦したいと願っても、筆者の思いだけでは、事は成らず、相手が罪を悔い改めてもいないのに、筆者がその罪を赦すこともできないし、相手が守らない約束を、筆者だけが結ぶこともできない。片方だけがどんなに願っても、それによって最終的な和解が成立するわけでもないし、感情的な行きがかりを決着させることと、事実を明らかにすることは異なる。
  
しかし、繰り返すが、このような展開になっていることにも、神の深い采配が働いているのであって、冒頭に挙げたとおり、神は物事を明らかにされる方であって、隠す方ではない。今後、ますます事の真相は明らかになる方向へ向かうのであり、すでに明らかになっている事柄については、やはりきちんと公に記録に残しておかねばならないのであって、筆者の人間的な思いだけで、これを白紙撤回するわけにはいかないのである。

死に至るまで、キリストの復活の証人であり続けるとは、おそらくそういうことなのであろう。私たちの灯は、公然と街の上に掲げておかねばならない。それを隠すなら、証には意味がなくなってしまう。

迫害されたから、権利侵害に及ばれたから、紛争から早く解放されたいから、あるいは、提訴するとか、告訴するなどと脅されたから、そそくさと事実を闇に葬り、隠れたところで取引したり、公然と証言したことを撤回するというのでは、私たちの証は力を失ってしまう。

そういうわけで、今回の教訓は重く、おそらくは罪の赦しが相手に届かないことをよく物語っているように思う。この訴訟に提出された記録も、早晩、きちんと整理し公表することが、必要不可欠になるものと考えている。紛争を激化させるためではなく、何が行われたのか、事実を明らかに記録しておくため、そして、それに基づき、今後も、何が起きるかを記録して行くためである。

ところで、私たちは、兄弟姉妹を引き裂き、互いに対立させ、教会を分裂させようとする目に見えない力が働いていることに注意しなければならない。

筆者はかつて横浜である牧師が率いていた集会においても、敵の様々な陰謀工作が働いて、中傷が横行し、集会が分裂に追い込まれ、兄弟姉妹が互いに信頼を保てなくなり、牧師と筆者とを互いを引き離し、集会をバラバラにする作戦が功を奏するところを見せられた。

その結果、牧師は筆者に対して罪を犯すこととなり、筆者もその牧師の考えには全く共感できなくなり、その後、集会そのものが異端化するという事態が起き、我々は全く無関係となっているが、そうなるまでに、教会の破壊を試みた敵の分裂工作がいかに卑劣かつ巧みであったかは、今となっては十分に理解している。

その時のみならず、現在になっても、この牧師も、筆者も、誰も依頼もしていないのに、事件に全く無関係な者が、この牧師と筆者を何とかして対立させて、公の場所で対決させ、かつて兄弟姉妹だった人々が、いがみあい、教会が分裂する有様を、見世物にしようと願って、様々な情報をばらまいている。

その勢力が、今も自分は姿を隠して、様々な事件に介入し、当事者になりすましたり、その代弁者になることで、実生活においても、兄弟同士の争いを激化させ、インターネット上にも、人々の争いを煽る情報をひたすら投稿し続けているのである。

このような形で、人々の「代理人」になろうとし、他者の思いをあたかも代弁するかのように見せかけながら、クリスチャンの紛争や対立を煽り、徐々に人々の存在を乗っ取り、その相手を貶めて行くことが、この勢力のかねてよりの常套手段であったことに注意を向けたい。

むろん、こうした行為を行っているのが誰であるのかは、現時点では特定されていないが、彼らのやり方は常に同じであるから、その行動パターンの中に、彼らの本質的な特徴がよく表れていると言えよう。
 
彼らは、人々の許可がないのに、勝手に他者の代弁者となったり、権限もなく、他者の争いに介入することで、争いの火に油を注ぎ、兄弟同士をいがみあわせ、対立を修復不可能なまでに押し広げ、教会を分裂させるのである。

その上、クリスチャンを公開裁判の場に引きずり出し、できるならばそこで有罪宣告を受けるよう仕向け、教会が立ち直り不可能な打撃を受け、まことの主を信じるクリスチャンが孤立し、兄弟姉妹を通じて命を受けられなくなるようにし、神の花嫁たる教会を辱めて、神ご自身が損失を受けられるように仕向けることを目的にしている。

私たちを分裂させ、互いに敵対させようと、陰から争いの火に油を注いでいる存在が確固としてあることに、まず気づかねばならないのである。
 
だが、筆者は、そのように、自分は名を隠して、陰から人々の対立や争いを煽り立てている人物こそ、存在を暴かれ、名を公開され、裁判にかけられ、損害賠償請求を行われるに最もふさわしい者であると考えている。

自分は正体を隠したまま、他者になりすましたり、頼まれてもいないのに、自分には無関係の争い事に次々と介入・干渉しては、兄弟姉妹の対立を激化するために、火種をふりまくような者は、断じて裁かれねばならない。たとえその者が刑事罰を受けて、監獄の向こうに行くようなことがあっても、筆者は追及をあきらめるつもりはないことも、断っておきたい。

だから、このような問題が進行中である事情を考えると、なおさらのこと、今、証拠となる情報を消し去ってしまうような愚かで浅はかな約束を結ぶことはできないのである。
 
何とかしてクリスチャンを中世のような見世物裁判に引きずり出しては互いに争わせようとする人々がいることを分かっていながら、その脅しに屈するわけには行かない。かえって、こういう人々の名を特定し、その所業を公表し、彼らを排除し、報いを受けさせることによって、初めて教会は平和を取り戻せる。

それによって、誰がクリスチャンを最も憎んでいるのか、誰が匿名に隠れて、兄弟同士の対立を煽って来たのか、誰が教会に最も大きな打撃を加えて来たのか、世間の前にはっきり証明できるだろう。それは筆者では断じてないのである。

そういう意味で、現在の筆者は、かつてとは様々な点で異なっている。新しい人たちが筆者の周りに現れたおかげだ。もしも時を遡ってやり直せるなら、多分、あの時、こういう言葉で助言はしなかった、ああいう風に伝えただろう、などと思うことはたくさんある。

だが、以前と何より異なっているのは、真心から仕えて構わないと思うリーダーに出会ったことだろう。人を陥れたり、欺いたり、策略を弄しない、約束を守る謙虚なリーダーに出会ったことである。それによって、権威に服従することは、何ら困難ではなく、私たちは権威者に対してもの申すとき、王妃エステルが王の前に命をかけて進言したように、命がけでなければならないことが、よく理解出来るようになった。

私たちは、権威者が誤った道に逸れかけているときは、適宜、忠告せねばならないが、それはあくまで権威への服従の中で行われるべきことであって、忠告に名を借りて、秩序を覆すことが求められているわけではない。その服従とは何であるのか、どのようにすれば、敵の策略に翻弄されずに、信頼関係をつなぎとめることができるのか、様々な場面で、筆者は学ばされている。

以前から、筆者には(霊的な意味において)関節をつなぐ力があると書いて来たが、切れかけた絆も、完全な断絶に至っていないうちは、修復できる。弱った部位に命の息吹を注ぎ込み、傷を丹念に修復し、体が一体性を保って、健全かつ敏捷に機能するようになるまで、ひたすら命を吹き込み続け、回復をはかる。

王妃エステルは、ユダヤ人たちが絶滅を命じられることで、体(宮)としての教会が消滅しないで済むよう、彼らを不当な命令から救うために、命がけで、王に進言をする役割を担った。そのために、彼女は十字架の死を通る必要があったのであり、私たちが今日、何かをリーダーに本気で進言するときには、必ず、命がけと言っても良い服従のプロセスが必要となる。それがあって初めて、忠告は功を奏し、団体の滅びが押しとどめられるのであって、敵のあらゆる分裂工作は、私たちがそれを乗り越えて信頼を維持することを学ぶための戦いなのである。
 
そのようにして、激しい戦いの中で、互いの信頼関係を確固として維持し、互いに守り合い、弱った部位には命を吹き込み、回復されるべきは、兄弟姉妹と呼ばれる人々であって、兄弟たちを分裂に追い込む者ではない。

そういう意味で、憐れみを注ぐべき対象を見誤ってはならないのであり、当ブログを巡る訴訟は、教会に対する迫害が完全に終わらない限り、本当の意味では決着を見ないのであるから、やはり過去に起きた事実を白紙撤回するなどということはできないのである。

この先、控訴取り下げが行われたり、示談が結ばれたからと言って、ネット上でクリスチャンの争いを煽っている勢力に対する追及が終わるわけではなく、控訴審で取りこぼした課題も、それとは別に、これから解決を図らねばならないのであって、決着が着いたと言える日はまだ来ていない。

そういうわけで、今、越えようとしているステップは、ほんのわずかな一歩でしかなく、筆者にはこれからまだ解決せねばならない多くの仕事が残っている。
  
王妃エステルは、命がけで王の前に立つことで、ユダヤ人を絶滅から救っただけではなく、ハマンの処刑に貢献したことを、忘れるわけにはいかない。兄弟たちを分裂させ、主の民に滅びを願うような者は、相応の報いを受けねばならない。たとえ兄弟姉妹の絆が断ち切れて、もはや修復不可能になっているように見える場合にも、それは同じである。

だから、筆者にとって極めて重要であった聖徒の交わりをかく乱し、破壊し続けて来た者どもには、しかるべき報いを受けさせねばならない。そのために、暗闇で行われて来たことを明るみに出すことが、今後は最も先決の課題となる。必ず、その者は最後に存在を暴かれ、裁かれることになるため、くれぐれも読者はそうした犯罪行為に加担されないよう注意されたい。

* * *

<補足>

ところで、刑事事件においては、証拠の有無のみならず、被害者が犯人の処罰を求める感情がどれくらい強いのかも、ものを言う。そこで、示談というのは、刑事事件における罪を軽くすることにも貢献できるかも知れない非常に重要な手続きだったわけである。

筆者はこれについても、考えていたところであった。そのようなタイミングで、円滑な紛争解決や温情が注がれる余地を排除するような新たな権利侵害事件が起きたことは、非常に運命的かつ予表的な出来事であると筆者は思っている。もしも救われるべき人間を相手にしているならば、このようなことは決して起きないからだ。

示談が成立していなければ、訴えられた人間には、刑事事件を有利に運ぶ強力な材料がなくなるが、示談後にも、同様の権利侵害を行っていた事実が発覚するとか、再犯したなどの事実が加われば、それも非常に悪い印象を残すことになる。

これまで当ブログを巡る事件において、筆者は相手方のために、何度も、何度も、猶予をもうけて来たが、その温情も猶予も、紛争を有効に終わらせるために機能したことが一度もなく、かえってこじらせるために悪用されて来た経緯がある。そのことを考えても、やはり、罪赦されるチャンスがいくらでもあるのに、罪赦されることを自ら拒んで、自ら救いから遠ざかって行く人間というものも、この世には存在するのではないかという気がしてならない。

訴訟に関する記録は、いつかはまとめて公表せねばならないと考えて来たが、紛争を拡大しないために、今までこれを控えて来た。示談成立がないような場合には、やむをえないので、ただちに公開し、別訴を提起するなどして、対策を講じねばならない。

なぜなら、紛争のもう一方の相手方が筆者を告訴したなどと言っている以上、筆者も安全策を講じる必要があるためだ。しかし、そうすると、筆者を刑事告訴したとしている牧師の名も、当然ながら本人の書面により全国に向けて明らかになる。果たして信徒を告訴する牧師のもとへ行きたいと願う信徒がいるのかどうか、甚だ疑問である。

しかも、その牧師が、一審ではブログ記事をすべて削除して和解すると言っていたのに、途中で態度を翻したことも、本人の書面を通して明らかになり、なおかつ、当ブログの著作者人格権を侵害した事実があることや、当事者からの依頼もないのに、他者のプライバシーを侵害する記事をブログに多数、掲載している行為が、明らかに、不法行為に当たることも明白となる。

このように、他者の代理人となって紛争に介入することは、筆者の目から見ると、非常に怖いことなのである。今までにもこの人は、多くの事件に資格なく干渉を繰り返して来たわけであるが、それでも、その当時、それは誰かの依頼を受けてやっていることであったため、他者の権利を守るという大義名分がついていた。

だからこそ、筆者は、その人は他の牧師から依頼(提携)を受けて、非公開の資料を公にするようなブログ記事の公開に踏み切ったのだろうと考えていたが、その牧師は、そんな提携はない、それは筆者の考え違いであると嘲笑った。そして、本人の言によると、実は、その牧師は、誰からの正式な依頼も受けていないのに、勝手に他者の代理人になって、他者のプライバシー権を暴き、自分とは無関係の紛争に介入したことが、本人の書面の内容から、明らかとなった。これは極めてまずいことである。

捜査機関が、誰からの依頼もないのに、独自に動き出し、人々の身辺調査を秘密裏にやり出したら、どうなるだろうか。しかも、自分たちの機関に逆らった人々の情報を秘密裏に集めて勝手に公表するようなことをすれば・・・?そうした懸念があることを、ずっと前から筆者は訴え続けて来たのであるが、相当にそれに近いところまで現実が追いついていることが発覚したのである。もはや「代理人」や「相談役」という肩書さえかなぐり捨てて、他人の名を勝手に使って、縦横無尽に争いに介入するところまで来てしまったのであり、その次なるステップとして残るのは、あからさまな「なりすまし」のみ・・・。

よく考えてもみられたい、一体、誰が頼まれてもいない他者の代理人に勝手になって、他者の人物像を勝手に「創作」などしているのであろうか? 誰が他者の名を使って、クリスチャン同士の対立の火に油を注ぎ、教会を分裂させ続けて来たのか?

筆者が訴えて来たのは、そうした「なりすまし」の目的は、教会の簒奪にあるということ、すなわち、聖なる者でない者が、聖なる者の名を詐称して、自分には手に入れられない高みにある宝を奪い取り、これを破壊し、最終的には、教会を乗っ取ることで、神ご自身を簒奪することにあるということである。

クリスチャンの名や存在を簒奪することは、聖なる神の教会を簒奪することを意味し、花嫁なる教会の簒奪は、花婿なるキリストの簒奪・蹂躙を意味する。本物を駆逐・破壊して、偽物だけを残すこと。これが異端の目的なのであり、実は異端狩りに熱中している人たちこそ、最も教会を簒奪・破壊している危険な存在なのである。

そのことを、当ブログでは再三再四、主張して来たのだが、それがついに誰の目にも明白になるほどまでに客観的に明らかになろうとしているのが現在である。


主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

筆者が初めて横浜に来た際、横浜にいる兄弟と、福島にいる兄弟との連携により、福島の山小屋へ連れて行ってもらい、そこで親しい交わりを持った時のことを思い出す。

もう10年も前のことであり、その時の交わりも今はもうないが、今も不思議な縁で、筆者はこの二つの土地に縁のある暮らしをしている。筆者は福島へは行かないが、それでも、この土地と密接なつながりができ、御言葉の交わりの代わりに、法を中心とした交わりが出来、信徒の交わりではないが、これまでに出会うことのできなかった新しい貴重な人々に出会うことが出来た。

最近も、心癒される交流のひと時があったが、そこでこれまで筆者がキリスト者を名乗る人々と関わった時には全く得られなかった大きな収穫が得られた。

これまで筆者の人生においては、真に心から喜んで従うことのできる権威者というものは、現れなかった。言葉ではなく、その人の生き様そのものが、筆者の心の琴線に触れ、接しているだけで、あらゆる説明抜きに、筆者自身が変化を迫られるような関係というものは、あった試しがなかった。

いや、断片的には、そういう出会いもなかったわけではないのだが、それは束の間であり、筆者が何かを掴みかけたと思うと、すぐにその交わりも散ってなくなっていった。

だが、今回、新たな交流が生じたことにより、筆者がこれまで自分では気づけなかったもの、自分では取り払うことのできなかった限界が、何の説得も、命令もなしに、軽々と取り去られてしまった。

それと同時に、「助け手」であり、「影」である筆者の役目が、はっきりと形を取って現れ始めた。

筆者は、これまで著名な指導者の率いる宗教団体や、権威者のいる団体に足を踏み入れた際、筆者を秘書や参謀のように使えば、その指導者は栄えるだろうに・・・と考えたことが何度かあった。ほんの少し観察しているだけで、何をどうすれば、その組織がもっと良くなるか、指導者に何を補えば、その人が引き立つのか、筆者には尽きせぬアイディアが生まれて来たからである。

10年以上も前から、そのような考えは何度も湧き起こった。そして、その度に、筆者は家族などにもよくそうした印象を話していたものだ。「もったいない。あの人たちは、私の使い方を全く知らない。私を有効活用すれば、もっと大きな成果が得られるのに」と・・・。

そうした考えは、おそらくは決して筆者の自信過剰や、思い過ごしではなかったものと思う。

それらの指導者や権威者は、筆者の当時の考えなどには全く注意を払わなかったし、筆者の助言にも忠告にも何らの価値も見いださなかった。筆者の発言は、単なるこざかしい子供の自信過剰か大言壮語として忘れられて行っただけであろう。

だが、そうして筆者の助言を軽んじたことの結果として、彼ら指導者にも、人生そのものが根本的に狂わされるような何かが起き、栄光を傷つけられることになったのである。

なぜ自分の周りに適切な助言者を置かず、正しい忠告を退け、自分一人の考えだけで前に進んで行き、人生を滅ぼすのか・・・、筆者は非常に残念な思いであった。

その後、幾度か出会いを重ねているうちに、少しずつ、筆者に助言者の役割があることを知って、これを開発しようと期待をかける人々が現れるようになった。ところが、その場合でも、筆者が決定的な助言をせねばならない瞬間になると、必ず、信頼関係をかき乱し、破壊しようとする人々が現れて、筆者はそれにどう打ち勝てば良いかも分からないまま、策略に翻弄され、その結果、筆者が心から伝えようとしている言葉が、権威者に届かなくなる、という結果が繰り返された。

そして、かえって筆者が濡れ衣を着せられたりして、信頼関係が損なわれて、助言も役に立たないまま、関わりが離散してしまうのである。その後は、お決まりの通り、その権威者もまた、誤った道を歩き続けることになり、筆者を迫害する側に回るだけであった。

筆者はその後、沈思黙考し、一体、自分の助言者としての役割は、何をどう補えば存分に発揮されるのかを考えた。どうすればこの人々を敵に渡すことなく、信頼を損なわず、策略によって破壊されることもなく保ち続け、共に命に至り着くことができたのであろうかと。

だが、そうした出来事はあまりにも大きな幻滅を筆者に抱かせるものであったため、筆者は、その後、人間の指導者や、権威者には注意を払わず、静かに神に仕えて生きようと考えた。目に見える人間の思惑に振り回されるなど、もはや御免だと思っていたのである。

筆者は、自分のことを今も「取り分けられた器」であると感じている。ガイオン夫人やら、マーガレット・バーバーに自分をなぞらえるのはおこがましいかもしれないが、それでも筆者は、今、自分自身のために生きているのではなく、主のために特別に捧げられ、人々から取り分けられた存在であるとみなしている。

これは、自分が特別だと言っているのではなく、むしろ、自分の満足を捨てて、主の訪れを待ち望むために待機して生きることが、筆者の召しであると言っているだけである。

繰り返すが、筆者は、神のために特別に取り分けられた器になりたいし、そうして生きることに満足を覚えている。

それは10年前に福島の兄弟が教えてくれたことであった。せわしなく活動し、集会から集会へ飛びまわり、人々の前で教師然とメッセージを語り、多くの人々から感謝され、いかにも自分は神に仕えている御言葉の奉仕者であると、人々に盛んにアピールしながら生きるのではなく、かえって、静けさの中に立ち止まり、自分の人生の時間を人々に対してではなく、ことごとく主に捧げ、人には知られないところで、祈りの中で主を待ち望んで過ごす・・・、そういう奉仕のあり方が存在することを知った。

そして、神はそのようにご自分のために心を捧げる人々をかえりみて下さることも分かった。

その時から、筆者は自分の存在は、まことの主人を満足させるためにあるものだととらえている。それが人類が神に対して担うべき、本当の意味での「内助の功」であり、神の助け手としての私たちに任されたとりなしの役目なのであろうと思う。

だが、そのような考えも、振り返ってみると、近年になって初めて筆者の中に生まれたのではなく、10年以上前から、筆者はひたすら助言者となるための訓練を続けさせられて来たように感じている。

しかし、それはすでに述べた通り、失敗の繰り返しであり、筆者の「使い方」を知っている人は現れなかった。そうであるがゆえに、筆者は人に仕える道を断念し、神に仕えさえすればそれで良いと考えて、その後は権威者には関わらず、人生を送って来たのである。

ところが、この度、改めて筆者の助け手としての召しを引き出そうとする人が現れた。そして、その召しが発揮されるためには、筆者が、まず権威に服従するという過程が必要となることが分かった。

助け手としての役割が、服従なしには決して成し遂げられない仕事であることが分かったのは、当ブログを巡る訴訟の最中のことである。

訴訟を提起するまでは、筆者は自分があたかもすべての物事において、人生の主人であるかのように振る舞い、仲間を持たず、単独で先頭に立ち、自分が創造的な役目を率先して担うべき立場にあることを信じて疑わなかった。自分自身が誰にも服従せず、また、誰からの助けも受けることなしに、望みに向かって邁進すべきと考え、それができると信じ、そう行動して来た。

それゆえ、筆者は自分の主張について、誰がどのように反応しようと、それによって全く影響されることのない自信や確信を持っていたのである。

そこで、訴訟を提起した当初、裁判官でさえ、筆者にとっては、自分の主張を裏づけてくれるための存在としか見えておらず、筆者は裁判官に心を開いていたわけでもなければ、裁判官に訴訟を指揮する主導権を委ねていたわけでもなかった。

むしろ、自分が提起した訴訟なのであるから、最後まで自分で引っ張って行かねばならないと決意していた。

原審を担当した裁判官は、最初の口頭弁論期日から、筆者が、全世界から心を閉ざすがごとくに、遮蔽の措置の中で、自分の作り上げた訴状を目の前に、じっと黙って何も見えない前方を見つめている姿を注視していた。

遮蔽の措置は、すべての方向に対して閉ざされており、ただ裁判官に対してのみ開かれていたが、これはある意味で、予表的なことであった。

筆者は、裁判官の眼差しが、決して悪意のあるものではなく、むしろ、好意的に、筆者を自分の主張の外へ連れ出そうとしているものであることをうすうす感じていたが、それでも、その当時の筆者は、誰にも頼らずに、自分の願っていることを実現するために、人の同情や助けにすがってはならないと考え、裁判官の眼差しをも、気づかないふりをして半ば排除していたのである。

それは、もしも筆者がその当時、誰かからの同情や慰めの言葉を受け、それを受け入れてしまったならば、多分、心弱くなって、そこで倒れて立ち止まり、もはや自力で前に進んで行く力を失ってしまうかも知れないという予測から出た防衛的行動でもあった。

だからこそ、筆者は気丈に顔を上げて、裁判官からさえ同情を受けず、審理の行く末は自分で決めるのだと考え、そう振る舞っていたのである。そのため、訴訟に出す書面も、途中までは、裁判官に読んでもらうために出していたのではなく、天に向かって書いているものと考え、裁判官も読み切れないほどの分量の書面を出すことにも、全くためらいがなかった。

だが、そんな筆者も、原審の審理の途中で、裁判官に対して、ついに心を開かざるを得ない時が来た。その過程を詳しくここで振り返る必要はないであろうが、様々なきっかけがあり、筆者はある瞬間に、訴訟における主役は自分ではないこと、自分が積み上げて来たすべての議論も、ただ一人の裁判官に認定されることがなければ、無きに等しい暗闇にしかならず、裁判官との協力・協調関係がなければ、自分一人では、決して事件を正しく終結に導くことができないことを思い知った。

そのことが分かった瞬間、筆者は、これまで自分が、自分の人生の主役であるかのごとく考えてひた走って来たが、実は、筆者は自分の人生においてさえ、補佐役、助け手でしかなかったことを理解した。助手は、主人がいなければ何もできない。

筆者は、それまでの人生には、誰も筆者を従えることのできる権威者がいなかったのに、それにも関わらず、自分が、誰かに服さねばならない存在であり、そうしてこそ、初めて自分の真価が発揮されることが分かった。自分があたかも神から光をあてられて、よみがえらされる瞬間を待ちながら、墓の中にじっと横たわっている死人のような存在でしかなく、単独では完成に至れないことが分かったのである。

「光あれ」と誰かが命じてくれなければ、存在すらも、あるかどうか分からない真っ暗闇。それゆえ、まことの主人の到来を待ち焦がれて、墓の中にむなしく横たわり、命令を待つしかない存在。苔むしたかび臭い土の中で、見た目の美しさを失いながら、ただまことの主人から「生きよ」との声をかけられなければ、すべてのものから見捨てられ、蔑まれ、忘れられ、踏みつけにされ、生きていることさえ、認められず、痛みも苦しみも否定される存在。それが、自分自身の本質なのであり、被造物の影なる本質なのであり、全被造物が持つ、悲しいまでの「女性性」なのだということが分かって来たのである。

命を吹き込む役割は、男性にしかなく、被造物の象徴たる女性には、単独ですべてを支配する力はない。それゆえ、筆者の役目は、補佐や助け手になることであっても、自分が人生の主人として立つことではない、ということが、その時にはっきりと分かった。同時に、そのようにして、神に対して補佐役をつとめることが、人類の役目であるということも分かったのである。

そこで、補佐役なる私たちは、すべての苦労を、自分のまことの主人と分かち合わなくてはならない。神が私たちの地上での労苦をねぎらってくれて、慰めと、励ましを与えて下さらなければ、私たちが地上で何を苦労してみたところで、その成果はむなしい。

共に喜びと悲しみを分かち合い、心に起きるすべてのことがらを何もかも知ってもらい、これを受け止めてくれる存在がなければ、私たちの被造物としての苦労に、一体、何の意味があるというのだろうか。

筆者は、自分の主張した事実や証拠が認定されないことを恐れたのではない。人生において初めて、筆者は目の前にある存在に対して心を開き、心を分かち合い、筆者の協力を待っている人の命令を聞いて、その守りの盾の中に隠れねばならないことを知ったのである。

それができたときに初めて、筆者は守られ、かばわれ、安全地帯にかくまわれることが分かったのであった。

そのことが分かってからは、筆者はもはや訴訟を自分だけが思う方向へ引っ張って行くのではなく、裁判官と協力して成果を打ち立てなければならないことを理解した。さらに、そこから一歩進んで、裁判官を信頼して判断を委ねねばならないことが分かり、また、そうして判断を委ねるに際し、筆者の主張が邪魔になる場合には、これを投げ捨てねばならないことも分かった。

それは筆者が最も大切にして来たものを、投げ捨てることを意味した。筆者の主張は、筆者の正しさそのものであり、筆者の生き様の集大成でもあり、よすがであり、経験であり、苦労の蓄積でもある。

だが、筆者はそうして生まれた自らの主張も、判断も、すべて放棄することを決めた。裁判官は、筆者がそうした後で、筆者を守ること、筆者の求めに応じて、権威ある命令を下し、筆者を生かすことを約束してくれ、筆者はそれに応えて、その命令に従うと約束した・・・。

* * *

それにも関わらず、筆者が提起した控訴審は、非常に面白い展開を辿った。ひと言で言えば、すべてが、原審判決を鉄壁のように完全に守り抜く方向へと動いたのである。

筆者の理屈が正しくなかったというつもりはない。だが、控訴審においては、筆者が知らなかった制約があった。それは、控訴審における議論は、原審で築かれた議論の土台から一歩たりとも外に出ることができないという制約である。

そのため、原審判決言い渡し後に、原審において提示していなかった新たな証拠を提出しても、それが原審において審理されていた事件の根幹に関わるものでなければ、却下されてしまうという結果になる。

今回、筆者は判決言い渡し後に被告Bが書き加えた記事を、被告Bによる新たな不法行為の証拠として控訴審に提出し、また、被告Aもそれに関与していることを主張し、それにより、原審における主張を補おうとした。

ところが、このアクロバティックな議論と一連の新たな不法行為の証拠は、原審の議論の土台の外にある(原審とは異なる木を接ぎ木しようとするもの)という裁判体の判断により、控訴人が提出した一連の書証そのものが採用されないという結果になったのである。

そこで、裁判所は、筆者の提出した控訴理由書は採用するが、甲号証はすべて却下、また、その後、筆者が提出した答弁書や第一準備書面とその続紙についてもほぼ同様に、原審判決から外に出る議論はことごとく却下した上で、それ以外の部分だけを採用して陳述扱いするという措置を取ったのである。

証拠が採用されない限り、不法行為が認定されることなど絶対にあり得ないから、これでは、控訴自体にほとんど意味がなかったことになる、と思うだろう。それどころか、こんな状態で審理を進めれば、この先、どんなひどい判決が待っていることやら、と。

ところが、そこから先が、裁判所の知恵の見せ所であり、これまで筆者が一度も見たこともない手続きが取られたのである。

裁判所は、以上の措置を取った上で、一回の口頭弁論で審理を終結し、あえて判決言い渡し期日を未定とした。

これは、結局のところ、裁判所自体が、こんな判決は俺たちも出したくはないんだぜ、だから、控訴を考え直してくれやと、言外に言って、当事者に再考を促したことの表れである。

もう少しソフトな表現をすれば、原審判決を維持することが、あなたたち全員の身のためですよ、という言外の忠告を込めて、そうしてくれたのである。

むろん、そんな忠告を、筆者は誰から受けたわけでもないが、現実にはそういうことであると理解した。

こうして、三人の裁判官は、ほとんどやる気のない態度とも見える措置を取って、結論を当事者に投げ返し、弁論をただちに終結したのであった。だが、これは非常に優れた知恵と配慮の結果であり、裁判体は、このようにすることによって、原審判決には指一本、触れることなく、これを守り抜くために一計を案じたのである。

このようにして、裁判所は、審理を進めているふりをしながら、原審の結審時で永遠に議論の時計の針が止まるようにしてしまった。

しかも、その間に、裁判所は筆者と被告A、筆者と被告Bとの審理を、口頭弁論が始まる前に分離し、筆者と被告Aとを別室に隔離して、ただちに和解協議を開始することとした。

被告Aとの間では、口頭弁論さえ開かれず、控訴審でいきなり和解協議の運びとなったのであるが、それも、水面下で実に様々なやり取りがあった結果であり、いずれにしても、裁判所の深い配慮がそこに込められていた。

こうして、筆者と被告Aとが出会わなくて良い措置が取られた一方で、筆者と面識のある被告Bとの口頭弁論においては、遮蔽の措置も認められなかった。

被告Bとの口頭弁論が始まる前、書記官は、筆者がまだ甲号証が却下になることも知らないで、審理の行く末に望みを抱いているうちに、筆者を和解協議のために用意された部屋に導いて、そこで審理が分離され、被告Aとの間では和解勧告がなされたことを告げた。その上で、被告Bとの間では、遮蔽の措置は取られていないと説明し、「出廷しますか?」と筆者に尋ねた。

実は、期日当日になるまで、遮蔽の措置が取られるかどうかも決まらず、筆者はその前日にも、こんなにも決定が遅れているようでは、裁判所に行って良いかどうかも分からず、判断ができないと書記官に尋ねていた。その後、ようやく、期日前日の夕方になって、当事者が顔を合わせなくて済むよう配慮がなされるという漠然とした回答が得られたのであった。

筆者はそれを受けて、てっきり遮蔽の措置は認められるのであろうと考えたが、裁判所は、被告Bとの口頭弁論に遮蔽の措置は取らないと、当日になって言い渡した。だが、それもあくまで表向きのことであり、裁判所は、筆者がそれまでさんざん訴えていた危険について、相当に心ある配慮をなしてくれ、筆者を始めから別室に案内した上で、誰もいないところで、書記官が、遮蔽の措置なしに口頭弁論に出席するかどうかを改めて筆者に尋ねたのである。

「悔いのないように主張をされたいなら、出廷された方が良いと思いますが?三人の裁判官に会うことができるのは、今を措いて他にないですからね」

筆者はこの質問を受けて、悩みながら尋ねた。

「傍聴人がいるかどうか見てもらえますか」

「今の様子でいいですか?」

書記官はそう言って、法廷の様子を見るために部屋を出て行った。

その後、筆者は一人で声に出して祈った。

「主よ、私には何もかもが突然すぎて、こんな状況でどう行動すべきかも分かりません。でも、私の願いは、私の考えではなく、あなたの栄光が表されることですから、私が間違った選択をすることがないよう、何が正しい行動であるか、疑いのないように、はっきりと教えて下さい。」

書記官は法廷を覗いてから戻って来て、傍聴人は現時点で誰もいないが、被告Bとの口頭弁論を、被告Aが傍聴したいと言っている旨を告げて来た。それを聞いた瞬間に、筆者は、出廷してはならないことを確信した。

おそらく、被告らは、筆者が出廷すると考えて、そのために、被告Aも傍聴を希望したものと考えられる。そこでもしも筆者が遮蔽の措置なしに出廷すれば、筆者はまるで捕らえられた獲物のように、見世物として法廷に引き出されたことになってしまう。

どんなに出廷することが権利であるにせよ、霊的にはそのような文脈にしかならない。むろん、そんなことをすれば、原審において、せっかく裁判官が深い配慮のもとに取ってくれた遮蔽の措置も、まるで意味がないことになってしまう。そのような行動を絶対にとってはいけない、と分かった。

筆者はその時、「悔いのないように争いたい」などという願いが、もしも心にわずかでもあれば、それが命取りになるであろうことを、はっきりと理解した。逆に、こういう時は、絶対に争ってはならないのである。

ウォッチマン・ニーが幾度となく書いていた「十字架の装甲」の中にとどまるべきなのであって、その外に一歩でも出れば、命の保障はない。

筆者は法廷という場所に厳粛な思い入れを持ち、また、裁判官という職務を尊敬しているが、だからと言って、十字架の装甲から外に出てまで、彼らに会いに行ってはならないということは理解できた。遮蔽の措置は、それ自体が、装甲なのである。法廷の中には、その一区画がない以上、筆者が、和解協議のための部屋にとどまることこそ、装甲の中にとどまることを意味した。

それに加えて、控訴審が始まる数ヶ月前から、筆者は、今後はもはや裁判官の一存に判断を委ねてはならないと、心にはっきりと示されるものがあった。決めるのは裁判官ではなく、筆者自身であると。

何度か書いて来たように、原審判決をもらった時点で、筆者は、この審理を担当してくれた裁判官から、自ら判断を下すために必要な命を吹き込んでもらったのだと思っている。自分では事実認定をすることもできなかった無に過ぎない筆者は、裁判官から、判決を通して、裁判官によく似た仕事を果たすために必要な力をもらい、これを継承して、新たな職務へと赴いたのである。これは霊的な文脈で起きたことである。

そのことの重大性を自分でもよく分かっていなかった頃は、筆者は再び別な裁判官に自分の判断を全面的に委ねようとしたりもしたが、その度毎に、ひどい事態が持ち上がったため、筆者はそれを受けてようやく、これ以上、誰かの判断に自分を委ねてはならず、むしろ、自ら判断を下さねばならない立場に置かれたことを思い知った。

それゆえ、筆者は、三人の裁判官に会わないことに何の未練も残さず、擬制陳述で済ますことを選んだのである。

書記官が戻って来て、法廷で起きた一部始終を説明してくれた。色々と予想外の事態が起きて、あたかも筆者に対しては不利な措置が取られたようにも見えるにも関わらず、あらゆる点に、裁判所の深謀遠慮が行き届いていることが分かった。

その後、裁判長がやって来て、書記官と共に、別室にいる被告Aとの間を行き来して、和解協議が進行したが、その話し合いの中で、筆者と被告Aとは双方から控訴を取り下げ、被告Aは原審判決が命じた賠償額に相当する解決金を支払うことで、筆者と示談を行うという方向で提案がなされた。

何と被告Aもそれにおおむね同意している旨が告げられた。

実は、これこそ、筆者が控訴審を提起したことの真の成果、「隠れた収穫」だったと言えよう。今まで頑なに賠償を拒み、筆者を非難していた被告Aが、支払いを行った上で和解することに同意している旨が告げられたのである。

このような点でも、控訴審においては、徹底して、原審判決を完全に実現するための条件が整えられたのだと言える。

この先、被告Aとの間で和解が成立したとしても、それは裁判外の示談となるため、原審判決は、いささかの曇りもなく、揺るぎないものとして確定することが予想される。そして、そうなるためにこそ、裁判所はすべての手続きを思いもかけない形で整えたのである。

筆者から見て、数ヶ月間もかけて書き上げた理由書に付随する証拠が採用されていないことや、2名の被告に対して共に勝訴できなかったことは、残念と言えないこともなく、遮蔽の措置すらも取られないことは、当日になるまで、予想もしていなかった結果ではあるが、それでも、こうなったことには非常に深い意味があると、筆者はみなしている。

とにもかくにも、ここが筆者が今、進んで良い限界点であることがはっきりと示されたのである。

おそらく、神は原審における審理の全過程と、筆者がそこで裁判官と約束したことは、永遠に残るという判断をこの出来事によって示されたのであろう。

あの時、筆者は、自分のすべての判断と議論を投げ打つ代わりに、裁判官に紛争を終わらせてもらうための判決を委ねた。どんな判決が下されようと、受け入れる準備が出来ていると言った。だとすれば、その後、状況が変わっても、その時に結んだ約束は変わらず、この裁判官こそが、本訴訟における唯一の裁判官であり、最高の指揮者であり、権威者であることは変わらないのである。

その厳粛な事実を覆してはならず、決してその秩序を変えてもならず、筆者が法廷で議論することは、その秩序を壊すことにつながるということが、はっきりと分かった。筆者は、原審を担当した裁判官に対しては、深い尊敬と愛情のようなものを覚えていたので、たとえ筆者の新たな主張が認められなかろうと、そのために筆者がそしりをこうむろうとも、筆者の正しい主張が退けられようとも、神の目から見て、原審判決が維持されることが、正しい結論ならば、そうなることにいささかの不服もないと考えている。

前から述べている通り、筆者が目指すものは、自分の満足ではなく、真に正しい判断が打ち立てられることなのである。

だが、それと同時に、判決は、人の心に逆らって、強制的に命令を下すものであるため、人の心を変える効果はなく、反発を呼び起こすという側面も持っている。そのために、被告Aは、強制的な命令には従えないとして、これに服従しなかったのであるが、その点を補うために、筆者自身が、被告Aとの間で、和解協議を行い、被告A自身の意思を尊重する形で、紛争を終わらせる手続きを取る運びとなった。

このことは、筆者自身が、人は外側からの強制によっては決して変わり得ないと主張して来たこととも合致する。

こうして、原審判決を崩すことなく、示談を行う可能性が開かれたなど、何と深淵な知恵ではないかと思う。そして、このようなことが可能であることを知るためにも、今までの経験が相当に役に立ったことを思う。そういう意味で、浅はかで愚かな知恵に見えたかもしれないが、自分にできる最善を尽くして、正しい判断を求めたことは、決して無駄には終わらなかったのである。
 
筆者は、恨み深い性格ではないため、きちんと償いがなされれば、どんなに長い紛争があろうと、どんなに深い権利侵害を受けようと、一切を帳消しにする用意がある。

適切な償いがなされるなら、その時点で、被告Aとの間での紛争は永遠に終わることになろう。

なお、被告Bは牧師にも関わらず、筆者を告訴したと答弁書の中で述べており、筆者の主張が控訴審で取り上げられなかったのを良いことに、筆者に対する不法行為責任もいささかも認めておらず、かえってこれからも、自分は筆者に完全勝訴したとさらに誇るであろうことが予想される。

だが、被告Bがそのような態度を取っていることも、控訴審においては、筆者にとってさほど悪い方向へは働かなかった。おそらくは、それがあればこそ、以上に挙げた通り、筆者に対しても、深い配慮が示されたのだと思う。

そして、原審判決が確定に向かっていることは、筆者がこれまで幾度も述べて来た通り、神の僕を名乗って公に活動している人々に対する裁きは、神ご自身が下されることを、よく表しているように思う。

筆者の目から見て、被告Bは明らかに道を踏み誤っているのであるが、そのことが、被告Bをどのような結末に導くか、最終的な結論は、筆者が全く手を加えることなく、神ご自身が自らなされる裁きとなるだろうという気がする。

刑事事件においては、色々と主張しなければならないことが残っているが、それは民事訴訟のように、筆者自身が主張立証を行うことで、当事者同士が対決するという性質のものではない。おそらくは、告訴と告訴がどこかで出会って互いを相殺する結果になって終わるのではないかと予想する。

このように、被告Bとの間では、まだまだ多くの問題が残っているとはいえ、被告Aとの間で、10年間にも渡る紛争が、被告A自身の了承のもとに決着しようとしていることは、実に大きな収穫であり、成果であると言える。

本紛争の難しさは、筆者から見ても、被告Aと被告Bとの行為を分離することが非常に難しかった点にあった。特に、原審においては、両者が意気投合して同じ条件で和解を要求していたため、これに別個に応じるという選択肢を思いつくことさえできなかったのである。

しかし、被告Aは筆者を告訴すると幾度も言いつつ、結局、告訴することもなかったし、脅し文句のように様々な言葉を述べはしたが、インターネット上の権利侵害以上に、手荒な措置に出ることもなく、賠償をしないと言いつつも、結局、支払いに応じる姿勢を見せた。

こういった矛盾の中に、被告Aと被告Bとの性格の違いが非常によく表れているように思う。騒ぎを拡大し、ひどい権利侵害に及んで来たのは、被告Aのように見えるかも知れないが、それはある意味、表面的な様相でしかないと、筆者は考えている。

このようにして、非常にスリリングな展開の中で、控訴審が終結したが、内心では、さすがの筆者も、これ以上の緊張感はもう御免だと考えた。まだ協議は続いているが、その結果をここに詳しく発表するようなことはおそらくないであろう。結果は、ブログに起きる変化を見て判断してもらいたい。

これまで筆者は、控訴審では、原審では十分に議論できなかったより深い議論ができるのではないかと期待していたが、実際には、控訴審の意味合いは、それとは全く異なるものであることも分かった。裁判所は、大学の研究室とは違う。紛争というものは、どんなものであれ、長く続くことは望ましくなく、必要不可欠な限度にとどめねばならない。歴史資料を積み重ね、議論の限りを尽くし、物事の真相を究明するために、裁判所が役に立つと考えることは間違っている。

そういう意味で、筆者は、筆者にふさわしい限度内でのみ、裁判所を利用することができ、法廷闘争の最も残酷な性質を味わわされることなく、裁判所を通じて受けられる恩恵を十分に受け、裁判官や書記官の配慮を受けることができたことは、神の恵みであると考えている。

見世物裁判、魔女狩り裁判のようなものに、筆者は絶対に関わってはならないという天からの命令が下され、そういう戦いからは、はっきりと一線が引かれ、筆者は隔離されたのである。

そして、たとえ判決に事実と異なる部分があり、自らの主張がすべては考慮されていない部分があると感じるにせよ、これ以上、争ってはならず、裁判官と交わした約束は、永遠であるという事実が示されたのである。

ちなみに、原審において、筆者にとって、出頭することの意味は、控訴審とは全く違ったものであった。原審を担当してくれた裁判官は、当事者同士が顔を合わせずに済むよう、電話会議を設定してくれたが、原告は、電話会議であっても、裁判所に来るよう求められていたので、毎回、裁判官と書記官と顔を合わせて手続きを進めることが必要であった。とはいえ、何度も書いて来たように、それは筆者にとって、安全な場所で、裁判官や書記官と同じ目線で、顔と顔を合わせて審理を進められ、お互いが何を感じているかを身近で共有できるという、非常に大きな「役得」となったので、身を削るような緊張感の漂う審理とはならず、むしろ、ようやく助けを求める場所が出来たと安堵できる瞬間となったのである。

筆者は今でも思い出すのだが、海をそば近くにして、法廷ではない閉ざされた小部屋で、裁判官と書記官とに脇を固められるようにして、電話を使って被告らとやり取りしていたあの時空間は、それ自体が、十字架の装甲であったものと思う。少しの恐れも覚えることなく、筆者はそこに通うことができ、裁判官は、筆者の痛み苦しみを理解した上で、快く出迎えてくれた。

それが終わった後では、原審判決それ自体が、筆者を力強くかばい立てする十字架の装甲となった。それが肉眼で見てどのように見えようとも、筆者は、その装甲から一歩も外に出てはならないことが今回、示されたのだと思っている。

重要なのは、理屈の上での正しさではなく、目に見える勝敗でもない。事実が本当に踏まえられた判決が出されたかどうかですらもない。今、筆者がどこまで進むことが許されており、どこからが足を踏み入れることが禁じられた領域であるのか、きちんと見分け、紛争をこじらせるのではなく、解決へ向かわせるために知恵を使うことなのである。

すでに述べた通り、控訴審を提起したことは、被告Aとの間で紛争を終わらせるためには、大きく役立ったので、無駄にならなかったとはいえ、控訴審において、筆者が出廷し、被控訴人らと議論を戦わせる行為は、霊的文脈においては、絶対的に禁じられていたと言えよう。

なぜなら、その先には、当事者が我欲をむき出しにした泥沼の法廷闘争が待ち受けているだけであり、そんなところに足を踏み入れれば、筆者は原審において受けたすべての恩恵をも配慮をも失ってしまうことになるだけだからである。

筆者は、おそらく、これから先の人生においては、原審を担当してくれたただ一人の裁判官だけが、真の裁判官であり続けるだろうという気がしている。それ以外には、どんな裁判官にも、判断を委ねることはもうあるまいと。

まだまだ裁判所を通じて片づけねばならない問題は山積しているとはいえ、本訴訟において筆者に判決をくれた裁判官以外の全ての裁判官は、筆者が自ら判断を下せるように、必要な助言や手助けをしてくれただけであり、この他に、不本意な判断を下した裁判官がいるとしても、それも将来的に是正されるに終わるだろう。

そういうわけで、もはや原審のように、深い共感や理解を互いに分かち合いながら、協力して審理を進めるような手続きは、今後は起きることはないという気がする。その代わり、筆者は何が正しい判断であるかを、誰にも頼らず、自ら決定せねばならない立場に置かれたのである。

こうして、原審を担当してくれた良心的な裁判官は、筆者の人生から去り、おそらくは、望んだとしても、会うことも、言葉を交わすこともできない所へ行ってしまったが、神はとても慰めに満ちた方であり、その代わりに、判決が新たな場所へと筆者を導き、そこで互いに言葉を交わし、眼差しを交わしながら、共に話し合い、励まし合い、協力して進んで行くことのできる稀有な人物に筆者を出会わせてくれた。

筆者は、原審を担当してくれた裁判官にどこかしらよく似たその人から、原審で学ぼうとしていたことの続きを教えられている最中である。その人は、筆者の訴訟に対する考え方を根本的に変えたのみならず、弁護士などという種族に対して筆者が持っていた不信感をも払拭し、真に勝負に勝つとは、ただ表向き、勝訴することを意味するのではなく、むしろ、自分の正義を手放し、自分よりも弱い人の前でひざを折り、負けることによって得られる絶大な勝利がある、ということを、筆者に初めて言葉を通してではなく、実際の生き様として教えてくれたのである。

すでに前の記事に書いたことであるが、筆者は、この人の前に出たときに、自分が正当な主張をしているにも関わらず、まるでそれが間違ったものであるかのように、すべての訴えを自ら撤回し、勝負をする前に自ら敗北を宣言し、自分を打ち破った者に服従することで、筆者自身が守られることになると知った。そうして得られる絶大な利益があることを知り、それが深い愛情と思いやりに基づく犠牲であって、喜んでそうして構わないと思う人々を見つけたのである。

このように、勝負には、様々な「勝ち方」がある。負けながら勝つという方法もあるし、勝ちながら負けたふりをするという方法もあるし、この度、裁判所が見せてくれた方法の中にも、二重三重のメッセージが込められている。そして、紛争の解決のためには、判決における勝敗だけが重要なのではなく、誰もが同意できる形で、納得のいく妥協点を根気強く探り続け、あきらめずに当事者に語りかけを続け、平和を打ち立てるために努力を払うことにこそ、真の解決があることを教えられる。知恵はそのために存在するものである。

だから、勝ち負けや優劣にこだわっている限り、平和など訪れるはずもない。

結局、筆者はこの訴訟においても、それ以外の場所でも、人々を愛するがゆえに、自分の主張を投げ打ち、自己放棄して、他者に栄光を帰することこそ、真に戦いに勝利する秘訣であることを知らされていると言えよう。それを強制されたり、命令されたりしながら、嫌々させられるのではなく、喜んでそうしたいと思う人々に出会ったことは、筆者にとって、かけがえのない財産であり、控訴審の口頭弁論期日の直前に、そのことを学ばされていなかったならば、筆者はどうなっていたかも分からず、そうしたところにも、筆者の信じる神の深い憐れみと知恵に満ちた采配があったことを感じる。

こうして、筆者は自分が義人であることを捨てて、罪人の陣営に下ることを決めたのである。

律法はいささかも揺るぎなく、罪は罪として依然、罰せられるにも関わらず、その罰から人類を救い出すために、神は御子に十字架を負わせ、細く狭い例外の道をもうけられた。

こうして、義である方が、ご自分の義を捨てて、罪人のために罪となられることにより、多くの人々が義とされたのである。

そこで、筆者も自分の義を捨てて、罪人の仲間になることにより、筆者の義が、人々の中に働いて、彼らの義となり、彼らが死から立ち帰って生きる方が、筆者一人だけが義人で居続けるよりまさった結果であるものと思う。

そういうわけで、筆者は、自分が正しい主張をしているにも関わらず、その正しさが認められず、却下されたり、もしくは、自分自身でその主張を放棄するという結果になっても、それを恥であるとも、悔いが残るとも考えない。

これを負け惜しみと受け取りたい人々がいるならば、好きに考えさせておけば良かろう。少なくとも、法廷に出廷せずに、一つの主張も述べずに、悔いを残さないで審理を終えるなど、以前の筆者には考えられなかったことであるが、原審の結審時に、神聖な法廷は、筆者の心の中に移行したのであって、物理空間としての法廷が、筆者に救いを与えるわけではない。

このことは、教会とよく似ている。筆者は幼い頃は、教会に通い、そこに通うことで救いが見いだされるかのごとく教えられて来たが、その後、そうではないことが分かった。救いは、信仰を通じて、信じる者の只中に与えられており、それゆえ、キリストの復活の命を受けた私たち自身が、教会を構成しているのであり、それにも関わらず、私たちが罪から救われるために、あちらこちらの物理空間に通い続けて、助けを求めて麻酔薬を打ってもらう必要はない。

法廷が筆者の中に移行すると同時に、筆者を守っていた遮蔽の措置も、目に見えない領域に移行した。それによって、原告と被告Aとの間に打ち立てられていた霊的な障壁が破壊され、原告と被告Aとは出会っていないのに、接点が見いだされ、神から提示された和解勧告を受け入れる用意が出来たのである。

筆者は、この先、地上のどんな目に見える教会も、牧師も、決して与えることのできないであろう慰めに満ちた命を、自分が人々に分与できることを確信している。

それは、筆者がまことの神から直接、信仰によって受け取ったよみがえりの命である。この命は私たちが人間として地上で受けるどんなに深刻な被害をも打ち消すことのできるほどの圧倒的な力を持っている。

筆者はこの命に基づいて、人々に赦しと、承認と、賛同を与えることができ、それによって、倒れて死んで枯れた骨のようになった人々をも立ち上がらせることができると信じている。また、骨と骨をつなぎあわせ、一つの体にしていく作業にも貢献できると信じている。

それは、筆者が自分の力によってなすことがらではなく、神が筆者を遣わして人々に与えようと願っておられるまことの命によるものである。使徒パウロも、死人をよみがえらせたが、主イエスに従う人々は、主イエスと同じかそれ以上のわざを行うだろうと主は告げられた。

もしも今回、被告Aと筆者とが法廷で出会っていれば、そこには対立しか生まれず、筆者が持っているまことのよみがえりの命も、被告Aに分与されることはなかったであろうが、我々は、肉眼で見える人間同士のつながりを超えて、信仰による見えない絆によって、目に見えない領域で新たに出会ったのである。

その命が、どのようにしてこれから被告Aの中で発芽し、育って行くか筆者は知らないし、被告Aも全くそのようなことが自分の身に起きたとは考えてもいないことであろうが、とにもかくにも、筆者が願っていた一つの解放のわざが実現したのであり、筆者は、被告Aにとどまらず、筆者のもとにやって来るすべての人々に向かって、主イエスの御名によって、彼らがあらゆる告発から解かれ、罪赦されて、病から解かれ、すべての被害を帳消しにされて、力強く立ち上がって、歩き出すことを命じ、それが彼らの身の上に現実となって成就することを信じるのみである。

一瞬だけしかプライドを満たすこともない、つまらない一過性の承認や賛同の代わりに、筆者は、永遠に揺るぎない、神からの肯定的な判決があることを、その人たちに示すことができる。その見えない判決を受け取ることの方が、地上の束の間でしかない満足を得るより、はるかに価値ある成果ではあるまいか。
 
今回の裁判では、どんなに滅茶苦茶な方法であれ、門戸を叩き続けた者が、最終的には、望んでいる報いを得るという結論が示されたものと思う。その意味で、筆者も、被告Aも、全く違った方法ではあるが、熱血的に、自分の求めることをあきらめずに主張し続けたのであり、それゆえ、両者ともに望んでいるものを手にしようとしているのだと言えないこともない。

水が低い方へ向かって流れるように、恵みは、へりくだる者へ向かって流れる。この度、勝ったと豪語する者ではなく、負けたとして踏みつけられたはずの者たちが、恵みを得る結果になっているのは、実に不思議な結果ではないだろうか?

そして、筆者は勝ったわけでもなく負けたわけでもなく、判決言い渡しでありながら、同時に和解であるこの原審判決が、筆者にとって、実に最高最善の贈り物であるような気が今はしている。

干潟から生ける命の水を汲み出すためには、へりくだりが必要なのであって、それを身につけるためには、罪人たちからのあらゆる反抗を耐え忍び、人々のしんがりから着いて歩く覚悟が必要となる。

その作業は、日々、自分の十字架を取って主に従うことにより、成し遂げられるのであって、私たちの死の中に、人々に対する命の力が働く。そうこうしているうちに、ついにはいつしか死の力が最終的に命の中に飲み込まれて、死の棘がことごとく無効化される瞬間を、私たちは見ることができるだろう。

筆者が望むのは、人々が自分を縛っている罪と死の力から真に解放されて、人としての真の尊厳を取り戻すことである。その実現のために、ただひたすら、命を見る瞬間が来ることを願ってやまない。だから、この記事をあまり余計な場所に転載したり、噂話に利用しないでもらいたい。特に、被告Aのことは、この先、そっとしておいてもらいたい。まだ協議は続いているためである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。


死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(一コリント15:54-58)

キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コンリントの信徒への手紙 二 5:11-21)

* * *

キリストの愛が私たちを取り囲んでいる、押し迫っている、圧倒している・・・。

以上のくだりは様々に訳すことが可能であるが、いずれにしても、海のように広く深い愛が私たちの周りを取り囲んでいる。

筆者はこれまで、真実、正しいことが何であるかが明らかにされるためならば、どんな代償を支払うことをもいとわないと考えて進んで来た。しかし、最近、愛のゆえに、自分の義を捨てることも、可能なのだと分かった。

可能というよりも、まず神が、そのような愛で、私たちを愛して下さり、罪人である私たちを義とするために、ご自分の義を捨てて、罪とは何の関わりもない、正しい方である御子を罪とされたのである。

何の誤りも犯していない正しい方が、罪人のために、ご自分の義を捨てて、罪となられた。それゆえ、私たちは義とされた。十字架に込められた神の深い深い愛情が、最近、ある出来事を通して、筆者に深く伝わって来た。

最近、筆者が主張しさえすれば、その主張が正しいとして、人々の違反が認定されるはずのある出来事があった。時間の経過と共に、深刻な対立が起きようとしており、そこで、筆者が主張しさえすれば、筆者を圧迫する人たちに対して、自分の正しさをアピールし、優位を勝ち得られたはずであった。ところが、筆者はそこで自らの訴えを自分で破棄し、破り捨てたのである。

それは、筆者の主張により違反に定められるかも知れない人々が、筆者を追いかけて来て、筆者をなだめ、心を変えさせたからである。筆者は、その人々が、あまりにも弱く、羊の群れのように無防備で、苦しみと蔑みでいっぱいになり、到底、打撃を加えるに忍びない人々であるのを見て、彼らに対して自分の正しさを主張しても、無意味であると考え、かえって同情心が込み上げて来て、自らの主張を破り捨てただけでなく、彼らの弱さを共に担うことに決めた。

それ以来、筆者は自分の正しさを捨てて、彼らの味方となった。それゆえ、彼らの弱さをも共に背負わされているが、それでも構わないと決めたのである。もしも彼らが罪人であるならば、筆者も一緒に罪人となり、もしも彼らが弱いなら、筆者も一緒に弱くなり、もし彼らが罰せられるなら、筆者も一緒に罰せられ、何もかもを共にして、進んで行こうと決めたのである。

しかし、それは筆者が罪に定められ、弱くなり、罰せられるためではない。むしろ、筆者の義が、彼らの中に働いて、彼らの義となり、筆者の強さが、彼らの強さとなり、筆者の潔白が、彼らの潔白となって、彼らがいかなる違反にも認定されずに、正しい生き方をするためである。

そうなるために、筆者は彼らが弱々しい赤子の状態を抜け出し、大人として立ちあがるまで、そばにいて様子を見ようと決めた。たとえ筆者にとってもどかしいほど彼らが弱く、中途半端に見えても、最後まで共にいようと決めたのである。

筆者はこれまで、人々のために、自分は無実にも関わらず、罪に定められても良いと思ったことは一度もない。むしろ、キリストにあって得られた義は、筆者をあらゆる罪定めから救ってくれるため、筆者が無実にも関わらず、罪に定められるようなことは絶対になく、不当な讒言に対しては毅然と立ち向かわねばならないと考えて来た。

むろん、カルバリで流された血潮がある限り、この先も、筆者が罪に定められることはない。筆者はそれを知っているが、それにも関わらず、この人々のためならば、かえって筆者が罪に定められ、彼らが義とされても構わないと思う人々に出会ったのである。

なぜそのような深い愛情が突然にして生まれたのかは知らない。いや、それは突然にして生まれたわけでは決してなく、最初からあったものなのだが、それが新たに強固な強い絆のようになり、人々の解放を願う心となって湧き起こって来たのである。

この人々のためならば、筆者がどんな風に思われても構わない、ただ彼らがまことの命に至り着き、本当の義とは何かを知って欲しい、そのために、彼らの弱さと恥と罪を自分のものとして共に担おうと思ったのである。

筆者は、自分の思惑次第で、人々の罪を赦すことも、赦さないでおくことも可能であると知っている。だが、赦す赦さない以前に、筆者が手に持っている訴えに記された名前を見て、彼らが罪に定められて滅びて欲しくないという願いが、抑えがたいほど強く心に湧き起こるような人々には、これまで出会ったこともなかった。

そういうわけで、筆者は自分が正しいにも関わらず、人生で初めて、正しい主張を自ら放棄し、罪人の仲間になっても構わないと思った。それは決して悪人と馴れ合い、悪事を見逃し、自分も悪事に手を染めるためではなく、むしろ、彼らが本当の義にたどり着くため、人として真にあるべき尊厳を回復するためであり、そのためにならば、筆者は自分の主張を脇に置いて、後ろに退き、彼らの生長を見守るべきと考えたのである。

そのとき、神が私たちを愛された愛が、筆者の心に押し迫って来た。

このようにして、神は弱い私たちのために、弱さを担われ、ご自分の義をとことん投げ捨てられたのである。

だが、同時に、そこまで筆者の心を変えさせた人々も、なかなかのつわものである。何かしらの相思相愛の関係のようなものが、やはり、初めに出会った時から成立していたのであろう。

この人々は、渇いた地が水を吸い込むように、筆者の中にある愛情と慰めを彼ら自身のために引き出して行った。信仰者でないのに、彼らは筆者の中に、彼らのための解放が用意されていることを知っていた。

彼らは筆者のうわべだけの様相に欺かれず、筆者の心の中にある本当の願いを掴んでおり、それを巧みに引き出して、自分たちのために必要なものを獲得したのである。

* * *

筆者は、筆者を生かすと書いた判決を受け取り、それによって吹き込まれた命を携え、新たな場所に赴いた。そこで干潟を開拓しているのだが、干潟から命の水を存分に汲み出すためには、筆者自身の心を、何よりコントロールせねばならない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

この御言葉は、私たち信じる者自身が、生ける水を流し出す泉となることを表している。そして、その生ける水の根源となるものは、御霊であり、キリストの復活の命である。

だが、これを流し出すためには、私たちが不信感で心を曇らせてはならず、どんな困難に見舞われるときも、平安の中にとどまり、人々に命を与えることができるという強い確信を、決して手放さないようにしなければならない。

「わた子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
 わたしの言うことに耳を向けよ。
 見失うことなく、心に納めて守れ。
 それらに到達する者にとって、それは命となり
 全身を健康にする。
 
 何を守るよりも、自分の心を守れ。
 そこに命の源がある。
 曲がった言葉をあなたの口から退け
 ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

 目をまっすぐ前に注げ。
 あなたに対しているものに
 まなざしを正しく向けよ。
 
 どう足を進めるかをよく計るなら
 あなたの道は常に確かなものとなろう。
 右にも左にも偏ってはならない。
 悪から足を避けよ。」(箴言4:20-27)

目の前には、常に心に思い描くものと相反する光景が広がっている。私たちを失意に突き落とす材料は尽きず、目的の達成が不可能だと思わせる材料は山とあり、忍耐を圧迫する出来事は果てしなく起きる。

約束の地は目の前にあるのに、そこは敵に占領されており、我々のための場所はなく、敵はあまりにも強そうで、我々を傲然と見下ろし、勝利の確信は遠のく。

だが、目の前の混乱に気を取られず、信じ続けなければならない、必ず、この地に目指している秩序を打ち立て、命と平安に至り着くことができると。そこは敵のための場所ではなく、我々のための領土なのである。

* * *

先週から今週にかけて、書面を次々に書き終えて発送した。筆者は時折、紛争に「とどめを刺す」ために、アクロバティックな行為に及ぶことがある。本来ならば、1ヶ月以上の時間をかけて準備すべきところを、一挙に書類を放出する。これは、相手方の主張が筆者に到達する前に、これを空中で相殺するための太刀打ちである。

告発を放置していれば、それは徐々に効力を及ぼし、死の力を発揮する。だから、飛んでくるミサイルは即座に迎撃しなければならない。紛争が持つ強力な罪定めの力を、瞬時に無効化するための時間が用意されたので、必要な作業を完遂した。

こういう作業をしていると、敵は人間ではないということが身に染みて分かる。人間を含め、目に見える様々な事物の背後にいて、これを動かしている悪の勢力が存在する。戦いは人間相手のものではなく、人々の背後にいる見えない悪意を打ち砕くことが目的である。その悪意とは、告発や非難の中に込められた罪定めの力、もっと言えば、罪そのものが持つ死の効力である。

人々には、サタンから発せられた罪定めの火の矢に込められた死の棘が、いくつもいくつも突き刺さり、これがじわじわと効力を発して、人格を傷つけ、肉体をむしばみ、最終的には死へと追いやっている。

筆者は、この死の棘を自分自身からも抜き取り、そして他の人々からも抜き取り、人々を死ではなく命へと向かわせるための作業をしている。飛んでくるミサイルに対しては、迎撃ミサイルを撃ち込まねばならないが、筆者の目的は、人間を攻撃して滅ぼすことにはなく、ミサイルすなわちサタンの放つ火の矢を粉砕・撃墜することで、人々をその火中から救い出すことにある。

そのために、この巨大な死の棘が、これ以上、人々を傷つけることのないよう、命によってこれを飲み込んで解毒・無害化せねばならない。それができるのは、キリストの復活の命を用いる場合のみである。

死を打ち破ったこの命に立つときのみ、私たちは、敵からのどんな攻撃からも身を守ることができる。そこで、この命を引き延ばして、防衛の盾を張り巡らして、愛する人々をその要塞にかくまう。かつては敵対していても、投降して来る人々はことごとく安全地帯に避難させる。

筆者は、敵陣に捕虜として連れて行かれた人々を奪還し、これ以上、誰も敵に渡さないために、心の中で奮闘している。なぜなら、戦いは、まずは筆者自身の心の中から始まり、そこにおいて、筆者自身が、アブラハムが人々のためにとりなしたように、自分自身と周りにいるすべての人々のためにとりなし、勝利の確信を打ち立てなければならないからだ。

心の中から不信感を追い出し、失意や無力感や敵意を追い払い、自分を含め、愛する全ての人々を、確固とした神の守りの中にかくまい、彼らを縛っている罪と死の力が打ち破られるよう主に願い出、敵に奪還された人々を取り返すための作戦を練り、心の中で、勝利の確信が訪れるまで、戦い抜かねばならない。

これまで、筆者はソドムとゴモラに飽き飽きしてそこからの脱出をひたすら願っていたが、今はどれほど嫌悪を催す光景が目の前に広がっていても、神が未だ忍耐されていることを心に覚え、今ひとたび、何とかしてこの世の腐敗から救い出されて、罪赦されて命に至り着く人々が少しでも増えるようにと願っている。

その奮闘の中で、最近、どういうわけか、敵陣から命からがら筆者の陣営に投降して来る人々の数が増えるようになった。見かけは取るに足りない、何らの価値も持たないように見える筆者のもとに駆け寄って来るのである。神の御前でとりなす作業は一人だが、孤軍奮闘する時代が明らかに終わったことを感じる。