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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

生きることはキリスト――私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:13-16)


ここで、パウロは「人」という言葉を、キリストにある新しい種族だけを指すものとして使っている。キリストにあって生まれておらず、キリストを信じてもいない滅びゆく古き人は、ここで言う「人」の概念には含まれていない。

そこでは、キリストにあって生まれておらず、信仰によってキリストの死と復活に同形化されてもいない、地上の出自しか持たない滅びゆく罪人は、あたかも「人」の範疇には全く含まれていないばかりか、存在すらもしていないも同然である。

それは、ここでパウロが使っている「人」とは、誰よりもキリストご自身を指すからである。つまり、真の人間、神がかくあれかしと造られた人間、神の御心を完全に満足させる、真に人間らしい人間は、キリストただお一人だけであり、そのキリストから生まれ、キリストに結びついている者だけが、「人」と呼ばれるに値する、というわけなのである。

「人間的な標準で人を知ろうとはしません」という表現は、信者のことを指しているのかと思いきや、すぐにキリストのことであると示される。

その後には、「だれでも キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というあの有名な言葉が続く。

この文脈は、キリストのうちにある人は、誰もがキリストに属する新創造であり、真に人間らしい人間なのであるから、もはや誰も古き人の性質(人間的な標準)に従ってその人を知る必要はない、ということを意味する。

もっと言うならば、新創造とされた信者は、キリストに限りなく近しい人間であり、キリストご自身と全く同一ではないにせよ、キリストが内に住まわれ、キリストという「型」を内にいただいて生きているので、たとえキリストとは別個に、自分の人格を持っていても、キリストと分かちがたく一体となって、キリストの性質を帯びて生きているのである。

だから、その信者が地上の旧創造であるアダムの生まれとして、いかなる性質を持っているか、聖別は、国籍は、肌の色は、外見は、性格は、経歴は・・・などと言った事柄は、もはや知る必要もないほどまでに些末なことだ、というのである。信者が知る必要があるのは、その人の人間的な特徴ではなく、キリストに属する性質だけだ、と言うのである。

ところで、筆者は、罪と義認についてのあの長い説明をそろそろ離れたいと思っている。キリスト教は、いつまで経っても、悔い改めと、罪の赦しと、血潮の話を繰り返しており、その堂々巡りから先に、ほとんど歩みを進めていない。

今日キリスト教と思われている教えの中には、あまりにも多くの誤謬があるように思われてならない。そして、その誤謬は、人をいつまでも弱さと罪の中に閉じ込め、永久にその弱みから自由にさせない束縛の枷として機能している。

たとえば、キリスト教にはあまりにも多くの聖書と無縁の地上的な運動が入り込み、その結果、あたかも慈善事業の場のようになった。人の貧しさや病や弱さを美徳のように考え、虐げられた人々や、犠牲の死を美化する思想などがキリスト教に入りこんでいる。

しかし、このようなものはキリスト教ではなく、共産主義思想を含む、偽りの弱者救済の思想から来たものでしかない。そのように人間の弱さや、苦しみや、犠牲を美化する思想を信じている限り、信者はずっと「人間的な標準」の中に閉じ込められ、神がキリストの十字架を通して信者に約束して下さっている自由と解放には決して達することがない。

病や虐げや貧しさや死は、みなこの世における罪や、悪魔の働きの結果もたらされるものであり、これ美化し、これを後生大事に握りしめながら、同時に、キリストの復活の命を知って自由になろうとするのは、エンジンとアクセルを同時に踏んで前へ走ろうとするのと同じくらい不可能なことである。

そこで信者は、もし心から信仰生活において前進したいという願うならば、貧しさや病や虐げと手を切り、これらを憎むべきものとして退けて、御言葉によって否み、神が天に用意して下さった命の豊かさにあずかることを目指して、前へ向かって進む必要がある。

なのに、なぜ多くの人たちにはそれができず、前進をためらっているのか? それは、その人たちが自分の弱みを捨てることをためらう何かの理由があって、あるいは、弱者であることから来る特権に心奪われ、あるいは、自己憐憫に溺れ、あるいは、人からの同情を受ける心地よさに安住し、さらには、弱者が弱者を支配して虐げるという構図があって、その中で義理や人情によってがんじがらめにされており、あるいは、人が人の弱みにつけこんで、助けてやるふりを装いながら、他人を精神的に支配し、搾取するという偽りの「救済システム」に取り込まれ、あるいは、信者が信者を「弟子化する」という序列と支配のシステムの中でがんじがらめにされているために他ならない。地上には、あたかも弱者に優しく手を差し伸べてやるように装いながら、決して弱者を弱者であることから逃がさないようにする幾多のシステムが存在する。

だがもし信者が本当にキリストの命にある自由を知りたいと思うのであれば、そういった人が互いの弱さをかばい合うという名目で、その実、弱さを手がかりに他人を支配するために作られた、アダムの命に基づく腐敗した支配と搾取の自己防衛の共同体(「イチヂクの葉同盟」)を脱出しなければならない。

そのために、信者はまずは自分自身の人間的な弱さと手を切る必要がある。それはただキリストにあってのみ可能である。アダムの命にあってアダムの命の弱さを否むことは誰にもできないことであるが、神の強さにすがり、これに覆われることによって、人は、誰からも同情されたり、助けの手を差し伸べられたり、哀れまれたり、教えられたりする必要のない、真に自立した自由な人であることができる。神に贖われた信者は自由であり、彼を巡る「負債」はもはや存在しないのである。

このことは、信者のアイデンティティが、限界と不足ばかりの、罪に堕落したアダムの命にある自分自身から、キリストの満ち足りて不足のない永遠に聖なる命に移行することを意味する。キリストにある時にのみ、信者はどんな状況にあっても、自分には何の不足もなく、弱さもないと言うことができる。

だが、人間的な標準によって自分をとらえ、それによって自分の限界を自ら規定している限り、信者はキリストの満ち満ちた性質を真に知ることはできないだろう。なぜなら、アダムの命が主張することは、常に不足、不足、弱さ、弱さばかりであって、この命は信者に何も自由を与えないからだ。他方、キリストの命にあるのは、満ち足りた豊かさ、そして自由である。一体、どちらの命に立脚して生きるのか、それは、信者自身が実際に決めることである。

あまりにも多くの人たちが、誰からも同情される必要のない自立した自由な人間になることよりも、人に同情され、注目される心地よさを失わないために、弱さから抜け出られない人生を自ら選び取るのはまことに奇妙で愚かなことに思われてならない。

あまりにも多くの人たちが、人前にか弱い人間のように振るまった方が、自分が愛らしく映ると思い込み、世から憎まれたり攻撃されないために、積極的に弱いふりをさえ装う。しかし、そうこうしているうちに、その弱さが、演技ではなく事実となって、あっという間に、病や死や貧しさとなって信者の人生を飲み込み、食い尽くしてしまうのだ。

ある意味で、罪の告白もこれとほぼ同じ作用を信者にもたらす。一部の信者たちは、自分が救われる前にどんなに罪深い人間であったか、自分の古き自己がどんなに汚れた罪深い性質を持つものであるか、絶えず人前に告白して、神と人に赦しを求めることが、信仰生活に必要であるかのように思っている。

しかし、そのような告白は、あまりにも多くの場合、現実の信者を全く改善しないばかりか、より深く過去に目を向けさせ、過去の罪と手を切れないようにし、自責の念からいつまでも抜け出せないようにしてしまう。

信仰のない世の人々の場合であっても、同じ過ちを延々と繰り返し続けては、判で押したように同じ謝罪を続けるのは、進歩のない証拠であり、開き直りと思われるだけである。その謝罪の言葉が誠実さの表れと受け取られることはまずない。

神に対しても同じである。だから、信者はいつまでも同じ罪の告白ばかりを繰り返すのはやめて、自分自身の思いを変えるべきなのである。アダムの腐敗した命を自己のアイデンティティと思うことをやめ、それが十字架において死に渡されたことを宣告し、キリストにある新しい命、新しい人格を、自ら選び取るべきである。

「人間的な標準」で自分を推しはかり、いかに自分が罪深いかという性質にばかり目を留めて、懺悔に明け暮れるのでは、前に進んでいくことは決してできないし、自分で過去を引き戻しているのと同じである。

たとえば、贖われた信者の救われる前の罪深い過去なるものは、神の目の前に死んだも同然で、意味をなさない。にも関わらず、神にとって存在しないものを、なぜ信者がいつまでも引っ張り出して来ては、延々と繰り返す必要があるのか? こうして、いつまでも罪深い過去ばかり振り返って、懺悔を続けていれば、誰にも新たな出発など出来はしない。どちらかの自分と手を切って、一歩を踏み出さねばならないのだ。 キリストの復活の命によって生かされた新たな自己と、新たな生き様を、信者は自らの信仰によって選択せねばならないのである。
   
筆者は決して、ここで信者にとって罪の悔い改めや赦しが全く必要なくなると言っているわけではなく、また、救われたと同時に、信者が聖人君子になるわけでもないことは承知している。キリストの命にあっての信者の心や行動の変化は、一朝一夕に起きるものではなく、徐々に続行して行く。むろん、地上にいる限り、人間から単数形の罪の性質が消えることはなく、従って、信者が血潮による清めを必要としなくなることはない。

だが、たとえそうであっても、信者はこれ以上、アダムに属する人類の罪なる性質がいかに恐ろしく堕落しているか、いかにそれが信者にとって逃れ難い悪質な罠のようなものであって、自分はそれに苦しめられているか…といった敗北的な話ばかりを延々と続けるのはやめた方が良いと考えずにいられない。

そのようなことは、もはや言うまでもなく、信者であれば誰でも知っていることであるが、我々はそろそろ、アダムの地表を離れて、キリストの地表に立たなければならないのである。アダムの性質という希望のない地表からいい加減に目をそらし、神が喜ばれ、神の御心にかなうキリストのご性質とはいかなるものなのか、キリストの持っておられるすべての豊かさと美徳を、信者は自分自身にも確かに付与されたものとして理解し、その命の領域に生きることが必要だからである。

「生きることはキリスト」という確信が、信者に必要なのである。

信者には、これ以上、人間的な標準で自分自身を知ろうとしないことが必要である。なぜなら、贖われた者は、もはや自分自身のために生きているのでなく、神のために生きているのであって、信者自身、もはや信者のものではないからである。

にも関わらず、信者が自分をあたかも依然として自分のものであるかのように見つめ、これを握りしめ、自分勝手に評価したり、定義することは許されない。神が贖われた者をどのようにご自分の御心に従って造り替えられるかは、神が決められることであり、信者は、それにとやかく言わず、贖われた自分が、もはやかつての自分ではないことを認めて、自分が神の永遠のご計画の一部として、キリストの新しい命によって生かされていることを認め、受け入れるべきである。

こうして、大胆な確信に立って「生きることはキリスト」と言える信者が、ほんの100人ほど現れただけでも、我が国は、いや、世界は全く違った有様になることであろう。

そのためにも、信者には、パウロが「人間的な標準で知ろうとしない」と述べたように、もはや「余計なものを見ない」という姿勢が信者にとって重要である。これは信者が罪深い性質に開き直ることを意味しない。信者はその古き性質を憎むべきものとして理解し、全力でこれを否定しようとしている。だが、たとえ御言葉による古き人との訣別の方法がまだ具体的に分からず、信者の目には罪と失敗と無益な思考錯誤の繰り返ししかないように見える時でさえ、信者はそれらの古き性質を自分自身のアイデンティティとして受け止めるのではなく、キリストにあって贖われた自分自身の新たなアイデンティティを見つめ、これを信仰によって掴むのである。

地上にある限り、信者はこの地上の生まれから完全に解き放たれることはない。だが、それにも関わらず、もはやその古き性質に従って、キリストをも自分自身をも知ろうとしないのある。

イミテーションの宝石は、どんなに数が多くても、本物にはならない。十字架において死んだ古き人の性質に目を向けて、どんなにそれを批判してみても、そこから本物の性質が理解できるわけではない。本物を理解するためには、ただ本物だけをまっすぐに見つめなければならない。

そういう意味において、信者は自分自身を含めた「人」や「人類」という言葉を、アダムに属する罪深い絶望的な種族としてのみとらえるのをやめて、キリストにある「新しい人」こそ、本当の意味での「人」であり、それこそが、神の目にリアリティであることを見る必要がある。そして、自分はすでに古き人類の一員ではなく、この新しい「人」の中に加えられたことを見る必要がある。

すでに新しい世界が出現しているのに、ずっと古い世界にこだわり続けて、価値ある重要なものを見失うほど愚かなことはない。

神は贖われた信者を、もはやアダムの命にある古き人としては見ておられない。生まれたての未熟な信者であってさえ、神の目にはキリストと同じく完全なのである。それはキリストの贖いの御業のゆえであって、信者が霊的に進歩したからではない。だが、信者は、それでも、神がご覧になるように、自分を見、そして、神がキリストにあってその信者のために備えて下さった新しい完全なる人格という霊的事実を、実際として地に引き下ろすべきなのである。その時こそ、「生きることはキリスト」という事実が、自然と信者の中において実際に成就するであろう。

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神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬るのは死人に任せなさい

「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(マルコ12:27)

仏教の寺院では、一人の信者の葬儀が予約されれば、それは寺にとって非常に大きなビジネスチャンスとなる。それは、葬儀だけでなく、その故人のために何年間も行なわれる法事のすべてがその寺に依頼される可能性が高いからである。

残念ながら、そういう事象は仏教の寺だけに限ったことではない。今日、キリスト教界の多くの教会も、単なる冠婚葬祭ビジネスのための場所と化している現状がある。

苫小牧福音教会水草牧師が「非キリスト者の葬に教会が携わることについて」(9月26日)という題名の記事をブログに書いており、そこで同氏は、キリスト教会が非キリスト教徒の葬儀を行うことを肯定して、次のように記している。

 ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的でしょう。悔い改めてキリストを信じた者のみが、キリストにあって神の前における罪のゆるしと永遠のいのちに与るのであるから、キリスト教会が非キリスト者の葬儀に携わることはありえない、と考えるのであろうと思います。しかし、これはほんとうに聖書に教えられていることでしょうか。(以下略)」



こうして、同牧師は、非キリスト教徒の葬儀を教会が執り行うことにあたかも聖書的根拠があるかのように、巧みに聖書を引用して説明を試みている。しかしながら、この考えは筆者から見て、まことにいただけないものである。ただ「いただけない」などというだけではない。聖書的な根拠に完全に反している。同牧師の記事では、非キリスト教徒の葬儀について、クリスチャンが真っ先に挙げるはずの次の聖書的根拠は全く触れられていない。

クリスチャンが、教会と葬儀の関係に関して言及するときに、真っ先に思い起こすのは、主イエスが述べられた次の御言葉であろう。

「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」

 しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」


 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。
 
 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:59-62)


筆者がキリスト教界に深刻な疑念を持つに至った事件の一つに、筆者の不信者の親族が、ある牧師によって、キリスト教徒にでっちあげられて葬儀が執り行われたという出来事があった。

その故人は、筆者自身とはつながりのない義理の関係にあったが、高齢でふとしたことから町医者にかかり、肺炎と診断されて入院したのを機に、深刻かつ手遅れな病気が発覚し、約二週間という短さで亡くなったのであった。

その人の病気が治癒不可能であることが判明した際、無神論者であったこの人を、親族は当然ながら神の救いへ導くために、説得に当たった。クリスチャンとして、人間の罪や、神の救い、天国についてなど語ったのであるが、死の床においても、その人は半ば嘲笑気味に「神などいるはずがない」という信念を繰り返すばかりで、救いに導かれることなく、まことの神への信仰を否定して亡くなった。

その当時、我が親族はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の義理の父である津村昭二郎牧師の牧会する教会に通っていたため、親族が故人の葬儀をこの牧師に依頼したのであった。

ところが、その後、全く受け入れがたい事件が起きた。まず、故人は、生前、神を信じないことから、教会に通うことを非常に嫌がっていたので、教会の信者に知り合いもほとんどなく、健康であった頃にも、親族の説得によって半ば無理やりに教会のイベントに参加させられたことが、一、二度くらいあったきりである。交流らしき交流はほとんどなく、故人は信者の名前さえ、憶えていなかったと思われる。

ところが、葬儀になるや否や、教会の古参信徒たちがたくさん動員されて来て、盛んに故人との「親しい交わり」について語ったのである。いかに故人が、柔和で、親切で、皆に気を遣う、優しく穏やかな性格であったか、いかに教会員がこの故人との交わりのおかげで、色々な感謝に満ちたひとときに浴したか・・・

筆者はこの甘く麗しい砂糖菓子のような「創作物語」を聞いて愕然とした。筆者が覚えている限り、故人は、家人の強引な誘いを断り切れず、嫌々教会に連れられて行ったことがほんの数えるほどあっただけであったので、交わりを喜ぶ気持ちなど皆無であり、信者でもなかったのに、そんな「麗しい交わり」が生じ得たはずがなかった。

さらに、あろうことか、牧師までがこのようなことを証した。

「我々が夫婦で病院を尋ねたとき、死の床で彼女は『イエス様、イエス様』と神にすがっており、我々はその必死の信仰に心打たれました」と。

筆者が知っている限り、そのようなこともまたあり得ない「創作物語」だった。故人は死の床についてから、急速に容体が悪化し、牧師夫妻が見舞いに訪れた際には、もうすでに話すことも出来なくなっていたはずである。

筆者は彼らの見舞いには立ち会わなかったが、夜になると病院に行って、故人の最後の時を見守った。しかしながら、その最後の時に、故人の口からかろうじて聞けた言葉は、「はよう、はよう・・・」という言葉だけであった。

「はよう(早う)・・・」とは、岡山弁で「早く」を意味し、筆者が理解するに、「早く逝かせてくれ」という意味である。ただ早くひと思いに自分の命を取って、この苦しみを終わらせてくれ、という懇願の意味であり、苦しみから脱すること以外に、この人の願いはなかったのである。

むろん、神について、主イエスについて、一言も証の言葉はなかった。上記の懇願は、どちらかと言えば、「死にたい」という願望を意味し、神の救いにすがる言葉ではなかった。健康であった時分にも、筆者はこの人の口から「イエス様」などという言葉を聞いたことは、一度たりともない。

にも関わらず、牧師夫妻は、家人の立ち合いもない時に、病院に見舞いに訪れ、それまで誰も耳にしたことのなかった言葉を故人から聞いたとし、それを境に、故人は「クリスチャン」にでっちあげられてしまったのであった。

その後、教会では信者同様に葬儀が挙げられ、教会員でもなかったこの故人に果たして信仰があったのかという点については誰もが沈黙したまま、この出来事は忘れられた。

しかし、筆者にはこのような出来事は全く腑に落ちず、耐えられない欺瞞のようにしか感じられなかったので、その後一度だけ、牧師にこの出来事について問うたことがある。

葬儀からはまだ5年とは経っていなかったものと思うが、筆者は平日の夕方に教会の牧師館を訪ねた。来客中であったのか、牧師は迷惑そうな様子であったが、それでも筆者の問いに応じた。

筆者は尋ねた、教会員でもなく、クリスチャンとしての信仰告白を人前で一度も明らかに行っていない人間を、死の床についてから、信者に仕立て上げ、あたかも信者であるかのように葬ることは、聖書に反しているのではないですかと。

もしそのようなことが許されるなら、それは、セカンド・チャンス論と同じように、人は生きているうちにしか主イエス・キリストを信じて救われるチャンスはないからこそ、クリスチャンが世人にキリストの福音を宣べ伝える意味があるという教会の伝道の根幹を否定するに等しいのではないですか。もしクリスチャンとノン・クリスチャンの境界があいまいにされるなら、そもそも、信者の集まりとしての教会の意味すらもなくなってしまいますと。

牧師は、筆者の前ですべての答えを曖昧にしたまま、ただこう言うだけであった。
「神はすべての人が救われることを願っておられると私は思いますよ・・・」

それ以上、問うても無駄だとはっきり分かる答えであった。

以上の出来事は、今からはるか昔のことであるが、筆者が水草牧師の記事を読んで感じられるのは、津村牧師と全く同じ見解である。

「誰であっても、その人の命は、もとを辿れば神から生まれたのであって、その意味では、たとえキリスト教信仰がなくても、キリスト教のまことの神は、みんなの神なのです。人は誰でも死んでまことの神のさばきを受けるのだから、その意味でも、キリスト教の神は、信仰を持たない人の神でもあるのです。その意味で、神はみんなの神なのに、教会が非キリスト教徒だけの葬儀を拒むのはおかしいでしょう・・・」

水草牧師は、一応、非クリスチャンの葬儀について、(津村牧師の見解とは異なり)、これをクリスチャンの葬儀と明確に区別すべきであって、両者を一緒くたにしてはならないと、次のように注釈をつける。
 

 もちろん、その故人はキリストにある罪の赦し、永遠のいのちを受けたわけではありませんから、そこを曖昧にしてはなりません。非キリスト者の葬儀においては、故人に地上の人生を与え導かれた神と御子キリストに感謝し、その全知の公正なさばき主の御手に、故人をゆだねるということがその趣旨となります。故人は無に帰したのではなく、得体の知れない闇に吞み込まれたのでもなく、万物の創造主にしてさばき主であるお方の御手にくだったのです。したがって、キリスト者の葬のばあいとは適切に区別しつつ、これを執り行うのが正しい道であるといえると思います。


しかしながら、筆者が以上に挙げたような自分自身の経験を通して理解するにあたっても、水草牧師が述べているような「区別」は事実上、実行不可能なのである。

聖書的な観点から、非キリスト教徒の葬儀を、キリスト教徒と明確に区別するとは、何よりも、非キリスト教徒の魂は(キリスト教徒と違って)、救われておらず、神に受け入れられておらず、永遠の命を受けていないどころか、永遠の滅びの刑罰に定められている、という事実を明言することを意味する。

むろん、クリスチャンも非クリスチャンも、死ねば両者ともに神のさばきの前に立たされるのである。しかし、そこで信仰者と非信仰者を明確に区別する決定的な違いがあることを、牧師は公然と語らねばならない。それは、非信仰者は、主イエスの罪の贖いを信じていないので、彼らは神のさばきの際に罪に問われ、永遠の滅びの刑罰を逃れる術はない、ということである。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(Ⅱテサロニケ1:8-9)

「非キリスト教徒も、死んで、裁き主である神の御手に自分を委ねた」、と言うことはできるであろう。しかし、非キリスト教徒は、主イエス・キリストの贖いの血潮を信じていないので、その人の魂は罪の贖いを知らず、その結果、彼を待っているのは、永遠の滅びの刑罰だけである。

たとえ故人が善良な人間で、生前に罪と言える罪を犯した形跡が全くなかったとしても、この世における罪の概念と、聖書の罪の概念は異なる。聖書の言う罪は、まことの神を認めず、信じず、これを受け入れず、自分が神を知らなかった間に、神に対して罪を犯した事実を認めないことである。

しかし、おそらく、もしも牧師がそのような言葉を、非キリスト教徒の葬儀の場で発言すれば、それは故人およびその遺族の尊厳をいたく傷つける発言として響くであろう。非キリスト教徒の魂はクリスチャンと違って救われておらず、神のさばきの際に罪に問われ、永遠の刑罰に定められる、という事実を、葬儀の場で誰が公に発言することができるであろうか。それは列席者の感情を害し、礼節にも反する発言のようにしか受け止められないであろう。

だから、水草牧師の言うような、(非キリスト教徒の葬儀を)「キリスト者の葬のばあいとは適切に区別しつつ、これを執り行う」ということは、事実上、不可能なのである。儀式上、クリスチャンと何らかの区別をもうけることは可能であろうが、以上に記したような聖書的な明確な立場の区別、特に非信者に対する永遠の罪定めと滅びの刑罰について、はっきりと公言することは極めて困難であろう。

最も取り扱いが難しいのは遺族の感情である。故人が非クリスチャンであっても、遺族がクリスチャンであった場合、遺族は故人の救いを願うあまり、故人が神を信じず死んだという事実を認めがたい場合もあろうし、遺族だけではなく、故人を取り巻く知人らも、教会に葬儀を依頼するくらいだから、故人の信仰の有無に関して明確な区別をつけることを嫌うかも知れない。そこで、非クリスチャンの葬儀を引き受ければ、教会も牧師も、遺族や列席者の感情に引きずられて、死者の信仰的立場について正しく言及することは難しくなる。

そのようなことの結果、教会は一旦、非キリスト教徒の葬儀を引き受けたが最後、とことん、世の不信者の利益の代弁者として、世の思惑の中に引きずり込まれて行くのは必至であると筆者は確信する。クリスチャンと非クリスチャンの区別は曖昧化され、ついに最後には、教会は、非信者に調子を合わせて、こう言うのであろう、「たとえ非クリスチャンのまま亡くなっても、その人も神に受け入れられており、天国に入る。たとえ自殺者であっても、天国に入る。罪の贖いもなければ、地獄の刑罰もない。そういう区別を唱えるのは、一部のクリスチャンの驕りだ」と。

だから、「ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的」という見解が存在するのはもっともなことである。筆者の目から見ても、教会は非キリスト教徒の葬儀に関わるべきではなく、それに関われば、教会は必ずや、この世との境界線を見失って、この世の側に引き込まれて行くのは避けられない。
 
しかしながら、教会に関して言えば、事態はもう手遅れである。なぜなら、こうした問題は、地上の組織や団体としての教会の世俗化という、巨大な氷山のほんの一角として浮かび上がって来たに過ぎないからだ。

教会は、片方では「兄弟姉妹の交わり」などを強調して、世と自分たちの区別をしきりに主張し、あたかも自分たちは聖なる存在であって、世人よりも圧倒的に優位にあるかのように主張する。ところが、もう一方では、非信者の葬儀を執り行ったり、自殺者も天国へ行けるなどと主張して、積極的にこの世との境界線を曖昧にして行こうとしている。これは大した矛盾である。

そのような問題が持ち上がるのは、この地上の組織や団体としての教会が、キリストの花嫁としてのエクレシアの本質からはあまりにも遠くかけ離れ、単に神を口実にしてて自己の優位性を主張するだけの場になり果てており、あるいは、地上の冠婚葬祭ビジネスの場と化しているためである。

だが、もしも信者が本当のエクレシアとは何なのかを模索するならば、すでに引用した御言葉に見るように、主イエスは、ご自分に従って来る者が、まずは自分の父を葬らせてくれと言ったその要望さえも、断られたことを思い出す必要がある。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。

主イエスのこの言葉は、世人から見れば、あまりにも無慈悲なものに受け取られる可能性があろう。何しろ、神の国を告げ知らせることは、信者が自分の父を葬ることよりも、優先されるべき事項だというのである。それはただ厳しいだけではなく、世人には侮辱と受け取られる可能性すらある。なぜなら、ここでイエスは、死者だけでなく、生きている世人をも「死人」と呼んでいるからである。

つまり、主イエスは、神を知らず、神の命によって生かされていない人々は、この世ではたとえ生きているように見えても、神の目に「死人」であり、信者は「死人」の利益や思惑に頓着して、「死人」の利益に巻き込まれるべきではない、と言われたのである。

救われた者、贖われた者、神のまことの命によって生かされた者は、神を受け入れず、神の命によって生かされてもいない「死人」の要望に従って、死人の利益や尊厳を擁護するために生きるのではなく、神の利益のために仕え、神の国の権益を拡大するために、神の国を宣べ伝えなさい、と示されたのである。

従って、この聖書の記述からも、水草牧師が以上で述べているような内容が、いかに御言葉に反しているかがよく分かる。

水草牧師は言う、「聖書によれば、非キリスト者も、父なる神とキリストからいのちを受けてその地上の生涯を送り、死後はキリストのさばきを受けるのです。だとすれば、非キリスト者の葬にもキリスト教会がかかわるのは、当然ありうることであって、否定すべき筋のことではないでしょう。

しかしながら、人はただアダムの命を与えられてこの世に生まれた、というだけでは、神の目に生きていることにはならないのである。神の目に生きていない人々は、キリストの御身体なる教会とは無縁であり、神のまことの命によって生かされる人々の霊的共同体であるエクレシアの仲間ではない。

従って、たとえ世人からどんなに厳しいと不評をこうむったとしても、筆者がこの問題について言えるのは、次の結論だけである。

「教会は、目に見える世の利益のためではなく、目に見えない神の国の権益のために存在しています。神の御前に生きているのは、神を受け入れていない信仰を持たない人たちではなく、神を受け入れて、贖われた人たちです。だから、死者(不信者)を葬ることは死者(不信者)に任せておきなさい。贖われた者たちは、何よりも、神の国のために、神の目に生きている者のために働くべきです。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。」


霊と真理によって神に捧げられる礼拝と、霊における天的なエクレシアの交わり

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

今、日本という国が急速に荒廃している。政治の荒廃は言及するまでもなく、ごく普通の人々の日常生活に至るまで、真実、誠実さが姿を消し、嘘、不法、搾取、虐げが横行し、人々は互いに裏切り合い、貶め合い、蔑み合っている。

終末に向けて、悪の霊が大々的に説き離れたこと、日本に生きる人々(もっともこれは日本だけの話ではなく、世界的な現象であろう)の心の荒廃が進んでいることを思わずにいられない。

だが、筆者は、滝が滝壺に向かって流れ下るように、破滅へ向かう激しい濁流のような流れから、完全に距離を起いて、これと関わりのない天的な人生を生きたいと心から思う。どうやら、そのためには、地上の経済を離れ、地上的交流を離れ、天的な角度から、天的な経済と天的な交流によって、人生を建て上げることが必要なのではあるまいか、という実感がしてならない。

すでに書いたことであるが、以上のような人心荒廃現象は、終わりの時代の様相であり、世人だけでなく、信者と呼ばれる人々の間にも起きて来ている。聖書には、終わりの時代に苦難が来ること、他でもなく信者と呼ばれている人々の中から、以下のような人々が出現することが警告されている。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ3:1-5)

この最後のフレーズ、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」が、以上のような人々が、神を恐れず、神を知らず、信仰を持たない世人の中から現れるのは言うまでもなく、さらに他でもなく信者と呼ばれる人々の中から出現することをはっきりと示している。

以上のような恥知らずな生き方をする人々が、どうして「敬虔」に見えるものか、という疑問を呈する人もあるかも知れないが、それは主イエスが地上に来られた時、市井の人々からは信仰篤い立派な宗教家のようにみなされていた律法学者やパリサイ人たちが、誰よりも悪質に神の御言葉に逆らい、主イエスを憎み、殺意によって陥れ、主を十字架につけたことを考えれば、不思議ではない。上記の御言葉は、その当時と同じように、終わりの時代には、他ならぬキリスト教の中で、他ならぬ敬虔な信者のように振る舞っている人々が、神の福音に最も激しく敵する者になる、という警告と受け止められるのである。

ところで、かつてそのような危機感を抱いていたがゆえに、組織としてのキリスト教のあり方を批判し、キリスト教界を出て、直接、神に結びつく信仰生活を心から追い求めていた信者たちが数多く存在していた。

しかしながら、筆者が出会った、そのようにキリスト教界を出て直接、キリストだけにつながる信仰を追い求めていた信者たちは、そのほとんどが途中から、人間のリーダー、人間の組織へと逆戻りして行ったのであった。

筆者が彼らに出会った当初、彼らの口から一様に聞かされたのは、人間の作る地上的な組織や、人間のリーダーから離れなければ、神への本当の信仰を保つことはできず、地上的な組織は、やがて反キリストの体系へと集約されて行くだけだから、そこから離れなければならない、という確信であった。

にも関わらず、こうした人々は、信者のコミュニティから離れて、自分一人、孤立する危険に直面すると、孤立を恐れるあまり、結局、地上的なサークルへの帰属を求めて散って行ったのである。

こうした現象を見るとき、筆者は「どうして当初の信仰の証を失ったのか」と疑問に思わずにいられない。「あなたたちがあの頃、あんなにも熱心に語っていたことは一体、何だったのですか」と。

これまで、多くの霊的先人たちが、組織としてのキリスト教を離れ、地上の組織や団体に属さずに、直接、神に結びつく信仰生活を模索してきた。

ハドソン・テイラーや、ジョージ・ミュラーや、その他の信仰の偉人と呼ばれる昔の人々の伝記を読んでさえ、その当時から、こうした人々の多くが、従来のキリスト教組織の枠組みから幾度となく離脱を余儀なくされた過程が分かるのである。それは必ずしも組織と対立したり、激しい争いの末に訣別するというようなものではなく、あるいはルターの宗教改革のように大々的に新しい教派を打ち立てるといったものでもなかったが、霊的先人たちは、静かに、穏やかに、組織を離れて行ったのである。

以前、筆者が教会に所属していた頃、「教会での礼拝に出席しなくなり、信徒の交わりを離れれば、信者は信仰を維持できなくなり、やがては救いを失う。」と言った思い込みが盛んに流布されていた。教会を離れ、信徒の交わりを離れることが、すなわち、悪魔の餌食となって、やがて救いを失うことと同一視されていたのである。

だが、人間の作った集団に帰属すること、神に帰属することは全く別の事柄である。だから、教会を離れれば救いを失う、などという考えは完全な誤謬であり、それはただ地上の組織から信者が決して離脱しないように使われる脅し文句に過ぎない。

ところが、そのことをよく理解して、そのような心理的な恐怖によって、地上の団体に信者を束縛しようとする従来の教会組織のあり方に疑問を覚え、そこを去ったはずの信者たちも、結局、そのほとんどが、また別に自分たち独自のサークルを打ち立て、今度は「兄弟姉妹の交わりを離れれば信者は信仰を維持できない」などと言い始めたのである。

そして、彼らは、教会の信者たちがしばしばそうしていたのと全く同様に、自分たちのように定期的な「信徒の交わり」を持たず、個別に神を見上げて生きている信者を上から見下して、「あの人たちは交わりが絶えて霊的に荒廃し悲惨な状態にあるから、祈ってあげなくてはならない」などと悪しざまに言い、しきりに可哀想がったりするのである。

それはかつて教会に所属していた信者たちが、自分たちの教会の礼拝に来なくなった信者たちを指して、「あの人たちは世に心を奪われて信仰が薄くなって危機的状況に陥っている。だが、神はそんな彼らをも愛しておられるから、彼らのためにも、祈ってやらねばならない」などと可哀想がっていたのと同じ有様である。

そのようなこともあって、最近、筆者は、一体、彼らの使う「兄弟姉妹の交わり」という言葉は何なのかと、深刻な懐疑を覚えるようになった。

筆者から見ると、すべては彼らの言い分とは真逆なのである。真に可哀想で、真に祈られるべきは、まるで取税人を見下して自己義認したパリサイ人同様に、自分たちは信徒の交わりを持っているから大丈夫と考えて、そこに属さない信者の「霊的荒廃」を想像し、それを心密かに蔑み、嘲笑しながら、自分自身と引き比べて自己安堵に浸っている信者の方なのである。

そのような姿を見て、筆者が思い出すのは、自分には地上で居場所があると誇ったバビロンのつぶやきだけである。

「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座についている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」(黙示18:7)

バビロンが誇っていたのは、天的な居場所ではなかった。彼女は、地上において、自分が受け入れられ、人から承認を受け、立派な信仰者だと認められる居場所がある、ということを誇っていたのである。バビロンとはまことの神への信仰と異教との混合であり、その本質は、うわべは「敬虔」そうに見えるが、「その実を否定する」信者の集合体に他ならない。

そして、終わりの時代、地上の組織としての教会や、地上の信徒の集まりこそ、神の天的なエクレシアに悪質に敵対するものとして、バビロンの混合体に堕して行くのだ、という確信をこれまで筆者は幾度となく述べて来た。また、オースチン-スパークスなどの論説に見られるのも、これと全く同じ主張なのである。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となること
です。

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。


バビロンが誇ったのは、神からの承認ではなく、人からの承認であった。新約聖書を振り返っても、主イエスはいつも、自分たちは立派な信仰者で、敬虔で、落ち度なく礼拝を守っており、神から覚えめでたい本当の信者だと自負していた宗教家のもとへは足を向けられず、かえって、ザアカイや、サマリヤの女のように、人々から承認されず、コミュニティからも半ば見捨てられかかったような人々に積極的に声をかけられた。それは人には蔑まれ、見捨てられて深い孤独の中にあったこうした人々の心の中に、ただ神だけを呼び求める信仰が生まれていたからに違いないと筆者は思う。

主イエスが地上で御言葉を語られたのは、常に当時の社会で「敬虔な信者」の外見からはほど遠く見える人々ばかりであった。イエスの弟子たちも、主イエスに召されるまで、当時の社会ではそれほど尊敬されない職業についていたし、主イエスが誕生された時に、天使たちが荒野で姿を見せた羊飼いたちも、社会では蔑まれ忘れ去られているような人々であった。

それを考えても、やはり、教会や信者の集まりの中に身を置いて、「自分たちは信徒の交わりに出ているから霊的状態は万全」などと考えている人たちは、主が再臨される時には、きっと素通りされるのに違いない、と筆者は思わずにいられないのである。

それどころか、終わりの時代、バビロンが高らかに誇った地上の「居場所」は、まさに「兄弟姉妹の交わり」という名目でこそ、美化され、栄光化され、高みに押し上げられて行くのではないだろうか。

筆者が今思い出すことの中に、かつて筆者が心から「兄弟姉妹」と呼べた数少ない信者の一人であったある姉妹(彼女はすでに亡くなった)が、生前、「兄弟姉妹」という言葉に反発していたということがある。

筆者自身は、まだその頃、「兄弟姉妹の交わり」というものに相当な美的イメージを持って、交わりに憧れ、これを追い求め、建て上げることに関心があったので、彼女の台詞にそれほどの共感は持てなかった。

だが、彼女は自分もクリスチャンであるにも関わらず、この言葉だけはどうにも抵抗があると言うのであった。彼女は言うのである、「どうしてクリスチャンの集まりでは、まるで専門用語みたいに『兄弟姉妹』という言葉を使って互いを呼び合うの?」

彼女いわく、「兄弟姉妹」という呼びかけは、クリスチャン(しかもどこかの組織に属している信者)の間
だけでしか通用しない専門用語であり、しかも、自分は正統な信仰生活を送っていると自負したいクリスチャンが互いを承認しあって慰め合うために自己満足のために発する言葉だというのである。

まだはっきりとした信仰を持たない者が教会に足を踏み入れ、そこで信者同士が「兄弟姉妹」と呼び合っている言葉を聞くと、「自分は兄弟姉妹の一員ではないから、この人たちの仲間ではないのだ」と思い知らされ、自分はこの信者たちから排除されている、という印象だけしか受けられずにそこを立ち去ることになる、そんな高慢な兄弟姉妹の交わりはあるべきでない、というのだ。

今日、クリスチャンの書いた色々な読み物に目を通すとき、筆者は、彼女のいわんとしていたことの意味がよく分かるように思う。

排除されているのは不信者だけではない。教会と呼ばれない集まりであっても、多くの場合、そこにいる信者たちは、「兄弟姉妹の交わり」に定期的に出ているかどうかを、まるで信者の霊的状態をおしはかるためのバロメーターであるように思い込み、他の信者の「霊性」を品定めし、裁くために使っている。

彼らから見ると、定期的に「兄弟姉妹の交わり」を持たない信者たちの「霊性」は荒廃しているに違いなく、そのようにして信者の群れからはぐれた信者は、やがては救いを失う、という結論が決めつけられている。だが、よくよく彼らの言うことを吟味してみると、結局、そこでは、「イエス・キリストに直結しているか」よりも、「兄弟姉妹の交わりに直結しているか」ということの方が、はるかに重視されている。あたかも、「イエス・キリストに直結していなくとも、(しばしば牧師やリーダーに直結し)、兄弟姉妹の交わりに直結してさえいれば、何とかなる」とでも言いたげに・・・。

しかしながら、筆者が覚えている限りでは、彼らがそれほど重視する「兄弟姉妹の交わり」という言葉自体、文字通りには、聖書には登場しないのだ。

聖書には、「交わり」という言葉はいく度も登場する。だが、その多くは主として、「神との交わり」、「御霊の交わり」、「イエス・キリストとの交わり」といった文脈で、信徒同士のヨコの関係というよりも、神とのタテの関係を強調するものとなっている。

信徒同士のヨコの関係を示すものとしては「信徒の交わり」という言葉が使われるが(頻度としては神の霊との交わりという文脈よりは少ない)、それとて、神の霊によって生かされる信徒たちの神の霊の中における交わりであることを大前提としている。

そこで、聖書の御言葉が「交わり」と言うときには、それは第一に、神の霊との交わりを指しており、信徒の交わりに言及される場合も同様に、神の霊の中における信徒の霊による交わり、という意味で用いられる。つまり、正しい交わりというものが、神の霊を抜きにしては決して成り立たず、神の霊を抜きにした信徒だけのヨコの関係は「交わり」には含まれないことが分かる。

検索サイトを用いて、口語訳と新共同訳の新約聖書で、「交わり」という言葉がどのように使われているかをざっと検索してみると、結果は次のようになる。そこからも、聖書の言う「交わり」とは第一に「神の霊との交わり」であることがよく理解できる。(ちなみに、交わりという言葉を、神と信者とのタテの関係でとらえる文脈を赤、信徒同士のヨコの交わりを青とした。)
 
使徒行伝/ 02章 42節
そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

使徒行伝/ 05章 13節
ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。

ローマの信徒への手紙/ 12章 16節
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

コリント人への第一の手紙/ 01章 09節
神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。

コリント人への第一の手紙/ 15章 33節
まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。

コリント人への第二の手紙/ 06章 14節
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。

コリント人への第二の手紙/ 13章 13節
主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

ガラテヤ人への手紙/ 02章 09節
かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。

フィリピの信徒への手紙/ 02章 01節
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

ピレモンへの手紙/ 00章 06節
どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 03節
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 06節
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 07節
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。


 さて、以上で最後に引用したヨハネ第一の手紙の御言葉、および、以下の聖句、
 
ヘブライ人への手紙/ 10章 25節
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

が、「定期的な信徒の交わりから脱落すれば、信者は信仰を失う」、とか、「集会への出席をやめれば、信者は信仰から脱落する」といった半ば脅しめいた固定概念の根拠として引き合いに出されることが多い箇所である。

しかしながら、そんな風に人の心に恐怖を抱かせる台詞を鵜呑みにするよりも前に、まず、聖書の言う「信徒の交わり」とは、何よりも、神の霊における(聖徒らの)霊における交わりであることが大前提であって、単なる地上の人間たちの集まりではない、ということをよく考慮する必要がある。

さて、キリストの霊における交わりとは一体、何なのかを理解する上で、たとえば、パウロは次のような興味深い言葉も記している。
 
コロサイ人への手紙/ 02章 05節
たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。

つまり、この言葉からも分かるように、神の霊の中における信徒の交わりは、地上の肉体の制約や時空間の制限を超えるのである。

そして、エクレシア(本当の意味での教会)とは、そのような意味において、まさに神の霊によって生かされる信徒らの、時代をも空間をも超越する霊的共同体に他ならない。

エクレシアにおける信徒の正しい交わりとは、たとえば、ある日のある固定された時間にある固定された場所へ行かなければ、決してあずかることのできないような地上的な制限の下にある集会を指すのではなく、何よりも、神の霊の只中における時空間の制約を受けない天的な集まりを意味するのである。

そのようなことをただの一度も思いめぐらしたことはない信者は多いことであろう。天的な集まりと言われても、それが何を意味するのか、全く理解できないし、地上における定期的な集会こそ、正しい信徒の交わりのあり方だと信じている人々はまことに多いであろう。しかしながら、たとえ地上で定期的な信者の集会が開かれていたとしても、それが神の霊の中にない、ということは実際にあり得るのである。

さらに、オースチン-スパークスの警告からも分かるように、いかに外側からは敬虔なクリスチャンの集まりのように見えたとしても、「教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょうそして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。

つまり、最初はキリストの御霊によって生まれた信徒たちによって始められた集まりであっても、もしその集まりが、「教え、伝統、制度、運動、人など」、地上の何物かに帰属するならば、その集まりは、地上のものに束縛されて霊的に制約を受け、最後には、ついに神の自由な霊による天的な集会としての要素をすべて失ってしまうことになるのである。そうなると、その集会に残された道は、反キリストの体系に統合されて、キリスト教と異教の混合体としてのバビロンに吸収されて行くことだけである。

それが、終末に、信者がキリストの御霊にとどまらず、「事物、人、運動、制度、組織など」に帰属されて行った時に起きる必然的結果なのであり、そうしたことの結果として、キリスト教と思われている地上的な団体や組織が大々的にバビロン化して行くのである。

だから、我々は、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれている集会があるからと言って、それがすべて神の霊による集まりであると安易に鵜呑みにすべきではない。むしろ、それは本当に「キリストの御霊」による交わりなのか、それとも、人間の作り出した神の霊によらない地上的な集まりに過ぎないのか、そこをきちんと識別しなければならない。

筆者は、信徒が集まることの意味そのものを否定しているわけではなく、神の霊によって生かされた信徒らが集まり、交わることには確かに大きな意味があると考えている。だが、それは必ずしも地上的な制約の下にある集まりばかりを意味せず、場合によっては、時空間を超える霊的交わりが存在しうる。

また、この地上には、偽物の聖霊、偽物の信徒、偽物の信徒の交わりというものが確かに存在しており、偽物は常に本物以上に、自分たちを本物であるかのように誇ろうとすることに注意が必要である。偽物の信徒の交わりも、自分たちこそ本物だと主張して、そこへ盛んに人々を惹きつけ、束縛して行こうとする。

地上に制限だらけの独自のサークルのような「兄弟姉妹の交わり」を作って、そこにいない人々をあたかもみな憂慮すべき霊的状態にあって神から切り離されているかのように決めつけ、自分たちの交わりを高らかに誇り、それを神の選民とそうでない人々を区別する境界線のようにみなしている人々の主張には要注意である。まずもってそのようなものは真の聖徒の交わりではあり得ない。

 
主イエスは次のように言われた。
「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 <…>
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
 
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

(ヨハネによる福音書/ 04章 21-24節)

このように、まことの礼拝とは、「霊と真理」によって捧げられるものであり、「この山」、「エルサレム」などといった特定の時空間に制限されるようなものではない。

エクレシアは天的なもので、時代と空間の制限を超える。神の霊によって生かされている信者はみなエクレシアの構成員として天的な礼拝の中に入ることが許されている。だが、一体、時代と空間の制約を超え、信者自身の地上の存在としての制限をも超える本当のエクレシアの霊的交わりとは何なのか、その実際を信者は知る必要がある。
 
神の霊によって生かされる信者らは、ただ霊と真理によって神に礼拝を捧げるのみならず、聖徒らの互いの交わりにおいても、肉的な方法で(人間的な思いで)信徒を知ろうとはしない。パウロが、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:16)と述べたように、信者は霊においてキリストを知り、霊において神と交わるだけでなく、信者同士との交わりにおいても、霊において交わるのである。このようなキリストにある新創造の領域における交わりこそ、まさに信徒の交わりとして必要なものである。

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)


キリストと共に天の御座から御名の権威を持って地に向かって命ずる

 以前に書いていた「キリストと共に天に昇り、御座から統治する」という記事を補足しておきたい。

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、ある日、御霊の光によって、それらを経験的にはっきりと実際として理解させられる、ということは起きるのである。

 筆者自身、この経験を通して、ちょっとやそっとでない変化がもたらされた。いや、十字架の経験は、筆者を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。たとえば、それまで、筆者は信仰を持っていたが、世人とほとんど変わらない人間で、自分の弱さと状況次第では、どんな罪でも犯しうる人間だと感じてきたが、その主と共なる十字架の経験以後、あからさまに罪を犯すことはもうできなくなった。

 聖書に書いてある「新しい霊と心を与える」ということがどういうことなのか、実感を伴って理解したのである。筆者の魂はあらゆる痛みや傷から全く解放されて、生まれたばかりのように生き生きと健康になり、肉的な悪習慣は跡形もなく消え去り、罪なる思いを否んで退けることができるようになった。

 自分が、今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのを理解したのである。

 だから、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではなく、上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれに死を宣告する効力を持っているのである。
 
 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、筆者はそれ以来、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できるようになった。

 周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、筆者を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで信者の歩みが完全になったわけではない。信者の中で生まれた「新しい人」は、まだ力なく、十分に成長していない、子供のようなものである。信者はもはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝つ力をまだ知らず、暗闇からの圧迫が、予期せぬ事件や、突然の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるとき、それに対して信者は、初めのうちは、よくても受け身、悪い場合には、ただ翻弄されて後退を繰り返すだけで、これらの出来事に圧倒的に勝利する秘訣をまだ知らないが、それを掴む必要があるのだ。

 信者の生まれたばかりの新しい人の霊的無力さは、彼が天の高度に霊をはばたかせ、キリストと共に昇天し、主と共に御座から、キリストの御名の権威を持って主と共に治めることを実際に経験し始めれば、変わるであろう。むろん、信者は、資格の上では、すでにキリストと共に死と復活を経て、御座についているのであるが、それがどういうことなのか、実際に経験しなければならないのだ。そして、その経験の過程で、信者の新しい人は、霊的に強められ、信仰が成長し、勝利をおさめながら、キリストの似姿へ成長して行くのである。

 そこで、「キリストと共に天の御座から統治する」ということの意味を、知りたいと筆者は考え、神に願った。そのように霊的に天に昇り、御座から統治するという経験は、信者が暗闇に勝利する生活を送るにあたって、なくてはならない死活的重要性を帯びていると感じたためである。
 
 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を生きて経験することはできないだろう。たとえば、地上の経済がますます悪化し、人心が荒れ、嘘と騙しと搾取が横行する今の世の中にあって、信者の職業の問題、経済の問題などには、信者ただ一人分の命を何とかしてつなぎとめるなどという意味ばかりでなく、それを通して、信者がキリストのまことの命による支配をこの地にもたらし、暗闇の勢力による支配を敗北させ、後退させるという意味を帯びているのである。

 ある信者が、「悪人の富は、善人(信仰者)のためにこそ、蓄えられる」と語ったが、まさにその通りなのである。キリスト者には、御名の権威によって、地の富が蓄えられている倉庫を開錠し、不正な罪人たちの富を天の倉庫に移行するということが可能なのであり、その方法を信者は実際に知らなくてはならない。

 この富の移行は、地上の悪人たちがいつもそうしているように、嘘や不正や脅しや略奪や搾取によるのではなく、ちょうど新約聖書で、ザアカイが主イエスの前に自ら悔い改めて、自分の蓄えた不正な富を虐げられた人々に還元すると述べたときのように、悪人が信仰による義人の前に、自ら己が不正な富を明け渡すという自然な成り行きによる。そのようにして地が天に仕えることが、本来の秩序なのである。そして、信者は、天の正しい霊的統治を地上で持ち運ぶ器なのである。
 
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 もう一度言うが、キリスト者は、主イエスと共に霊的に統治する方法を知らなければならない。そして、それは天の御座の高度から行われるべきことである。

  ただし、ここで少しばかり注意が必要なのは、これはスピリチュアリズムで流行した「アセンション」などとは全く異なる事柄で、アセンションなどは、キリストと共に信者が御座から統治することの偽物に過ぎないという点である。

 悪魔と暗闇の勢力は、人があたかもキリストの十字架を介することなく、神の恵みによらず、自力で自分本来の力に覚醒することによって、何かしら天的存在となり、神のようになれるかのような教えを常に捏造して来た。つまり、今もって彼らは、キリストと共なる死・復活・昇天の体験の偽物を盛んに流布しているのだが、このように偽物が現れて来るのは、本物がそれほどまでに貴重だからに他ならない。

 だから、キリスト者は、虚偽の教えが蔓延していることに幻滅して、本物を探し求めることまでやめるべきではなく、偽物が隠そうとしている本物が必ずあるはずだということに注目して、真に高価な「真珠」である霊的真理を探し続け、御言葉が生きて実際となる経験を求めるべきである。

 キリストの御座からの統治とは、山上の垂訓が実現した世界であり、それは信者の肉的高揚のために行われる自己顕示などとは全く異なる事柄である。信者は、自分に何らかの感覚的な高揚感をもたらす超自然的な体験の有無に左右されることなく、あくまで聖書の御言葉に立脚して、静かで落ち着いた信仰のもとに、これらの事柄(復活、昇天、御座)が、御霊によって信者の内側で実際となることを確信し、それを追い求めるのである。

 たとえ感覚的に何も体験したように感じられずとも、御言葉への確信の中にとどまることが肝心である。

 さらに、筆者がこのような追求の間に学ばされた重要なことがある。それは、キリスト者は、天の御座に就いて主と共に統治する者であるから、地上の経済の悪なる支配に巻き込まれて、その奴隷となってはいけない、ということである。

 筆者はこれまで、さまざまな方法で生計を神に満たしていただいたが、その満たしの方法は一定ではなく、時には、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されることがなかったわけではない。

 なぜなら、信者は天に終身雇用されているのだが、地上においての雇用は変化する可能性があるからだ。地上には何一つ永続的な事柄は存在しない。そこで、この世で、どのような形で生計を満たすかという問題については、主はその時、その時で、いつも筆者に違った答えを下さった。

 だから、筆者はかなり長い間、世人と同じように、この世の職業に就き、まじめに働いて生きようと考えて来たのだが、いつも、その結果として、思い知らされることは、地上の労働なるものは、地上の呪われて堕落した経済の一環として、非常に悪しき呪われた要素をはらんでおり、その支配に身を委ねれば委ねるほど、誰しも、豊かになるどころか、貧しくなっていくだけだということである。

 そのような呪われた悪循環に身を委ねることが、神に喜ばれる信者の生き方ではなく、信者が養われる方法は、常にこの世が規定しているような自己の労働によるのではない別な天的な方法によるのだということを学ばされるのであった。

 だから、どんなに筆者が世人と同じような生活を送ろうと試みても、いつもいつも不思議な展開により、どういうわけか、神は常に労働によらない別の蓄えを用意して下さり、自己の努力によらず、神の恵みによって生きるようにと、筆者に促されたである。むろん、それは不正に蓄えられた富などではなく、むしろ、不正な罪人が裁きを受けて、正しい人のために、蓄えて来た富を明け渡さなければならなくなる、といった結末によって生じるものなのであった。
 
 だから、たとえこの世の経済がまるで呪われた悪循環のようなものとなっており、どんなに多くの世人がそれによって追い詰められ、暗闇の勢力がそれを使って信者の生活をも妨害しようと試みたとしても、結局、最後には、彼らの方が降参して、己が富を信者に明け渡さなくてはならなくなる、ということの連続なのである。そして、そのように不正な罪人が恥をこうむり、悔い改めた時に生まれる富の移行が、信者がこの世的な労働によって得るものよりもはるかに大きいのである。
 
 だから、筆者が言えることは、もし信者がキリストのみに忠実であろうと堅く決意し、主以外の何者にも頼らずに御言葉を守って生きるなら、我々の生存に必要な条件はすべての面において、神が保障して下さると信じて構わないということである。神が信者の義となって下さり、信者のために戦って下さり、信者のために報復し、この世の不正な罪人を屈服させて、彼らに恥をこうむらせ、彼らが義人から収奪して蓄積して来た富を、信者に明け渡させるのである。

 たとえ筆者自身がそういうことを望んでいなくとも、それでも、キリスト者は、地上の経済よりも上位にいて、地に対するキリストの命の霊的統治を及ぼす権威を持つ者なのだということを、どういうわけか、筆者は常に確信せざるを得ない出来事の連続の中に置かれて来たのである。

 キリスト者を騙し、虐げ、踏みにじり、搾取しようとするような者は、必ず恥と損失を受けることになる。そのようにして、地の富が天の宝物庫に移行することは、神の御心にかなっているのである。
 
 だから、筆者は誰かの施しや憐れみにすがって困窮状態を解決してもらわねばならないようなマイナスに陥ったことはこれまで一度もないし、かえって、筆者の「貧しさ」をあざ笑ったり、追い詰めたり、あるいは筆者を騙して損失をこうむらせようとした人々が、常に最後には恥をこうむり、償いをせねばならない事態となって来たのであった。

 たとえ望まなくとも自然にそのようになったのである。今、地上の経済は年々悪化の一途を辿っており、あらゆる組織・企業・団体が悪鬼化し、嘘と騙しと搾取が横行しているにも関わらず、御名の権威を持って、信者が彼らの前に立つとき、地上の悪なる主人たちは、結局、恥をこうむり、己が宝物庫を、キリスト者のために明け渡さなければならなくなるのである。

 だから、キリスト者の使命は、地上の悪なる主人の手下や奴隷となって、その思い通りに動かされ、無益な苦しみを味わうことではない、とはっきり言える。むしろ、聖書に書いてある通り、悪なる人々が、義人を陥れようと、どんな不正な計画を企み、罠を張ったとしても、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、心安らかに歩いて行けば良い。神が、彼らを自分でしかけた罠に突き落とされるからである。その結果、彼らの富が義人の手に移行するということが自然に起きるのである。
 
 だから、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、神に対してのみ忠実であればよく、聖書に書いてある通り、明日のために思い煩うということは、する必要のないことである。むろん、最低限度の管理は必要だが、自分で自分を支えようと絶えず心を悩ませ、限界まで力を振り絞って悲痛な努力をして(もしくは不正な方法論を巡らして)まで己の力で己を養おうと努力する必要はないのである。

 信者はただ率直に、何が自分に必要なのかを天におられる父に向かって祈り、申し上げ、主を信頼して生きれば良い。

 さらに、こうした祈りの際に、非常に有効なのは、信者がただ地上から天に向かって祈りを通して願いを神に懇願するだけでなく、もっと力と権威を持って、天の御座からキリストと共に、御名の権威によって地上に向かって命じるということなのである。

 これをするために、信者には「キリストと共に昇天し、御座につく」という経験が必要になるのだと筆者は考えている。天の御座からの権威をもった祈りは、地上から捧げる懇願の祈りよりももっとはるかに強力な効果を持っているからだ。
 
 信者の地上での行く先、なすべき事は、常に、天に備えられているが、ただ備えられているだけでなく、それは祈りによって、常に信者の心の願いに沿って与えられるものなのである。

  だから、信者はこの世のものさしに従って自分の人生をおしはかり、願いを限定すべきではない。たとえば、地上の経済が悪化しているから、選択肢もないだろうと考えて、信者があえて劣悪な条件に自ら志願したり、二度と関わるまいと決意した領域に戻ろうとしても、その道は常に絶たれる。

 主が信者のために用意して下さるのは、良心に恥じず、自分で自分を苦しめたり、貶めたりする必要がなく、不正に加担せず、なおかつ、信者自身の心の願いに合致し、さらに歴史の立会人になるような生き方である。

  信者にとって生活の糧は、自分で探し回って自己の努力によって得るものではなく、はたまた巧みな自己アピールによって獲得すべきものでもなく、主と信者が共同で作り出して行くものなのである。御霊の知恵が、どのように生きるべきかを信者に常に教えるのである。

  神には無限の多様な知恵があり、無からでも有を呼び起こすことのできる方が我々の主である。その主と共に生きている限り、信者は、神と共に信仰によって、自分の願う事柄を創造しているのであり、神には足りないとか、万策尽きたということが絶対になく、信じる者のために、神は常に豊富に選択肢を用意して下さることができる。

 だから、キリスト者の生活とは、この世の状況がどんなに悪くなって行ったとしても、それに左右されるものでは決してないのである。

  しかしながら、そこに信仰の戦いがある。信者の願いが成就するよりも前に、必ず、暗闇の勢力からの妨害があり、彼らは主が信者のために創造して下さった富が、何としても信者の手に渡らないように、必ず、何らかの方法で妨害して来る。

 その時に、信者は、敗北感や、恐れや、弱さを覚えたり、自分が神に願った恵みを受けるに値しないという怖れの中に沈まないことである。この否定的感覚に対して、徹底的に立ち向かい、これを拒否し、神の勝利に立ち続けて、天の高度を維持しながら、すべての圧迫に立ち向かうことが有効である。

 信者は決して起きる出来事にただ翻弄され、振り回されるだけの立場でいてはいけない。神が約束して下さった栄光に信者を至らせまいとする全ての悪魔の策略を見抜き、これを打破して突き進んでいく積極性が必要なのである。

 このような戦いを経由することなく、願っていた栄光(キリストの似姿)に信者が到達することはまずないと言えよう。悪魔はあらゆることについて信者に敗北をささやき、あらゆる方法で信者を意気消沈させようと試みるだろうが、敗北は悪魔に突き返してやり、絶対に認めないことである。また、敗北的な台詞を人々から投げかけられる時、これをきっぱりと否定することが重要である。

 悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう、と書かれている通り、キリスト者を迫害して来るような連中の悪事は、声を大にして世に告げ知らせれば良い。これについて、黙っている必要はない。この世の罪人がどれほど連帯して信仰によって生きる義人を迫害し、陥れようとしたとしても、キリスト者の内におられる方は、この世全体を合わせたよりもはるかに強いのであり、すでに世に勝った方なのである。

 だから、この世の情勢がどんなに厳しくなっても、信者の生存のために必要なすべては主が天に備えておいて下さり、しかも、それは必要最低限をはるかに上回るものなのであって、それを信仰の戦いを勝ち抜いて獲得することができる、ということを信じずべきである。

 信仰によって、天から地に御心を引き下ろし、地上の富を天に移行することが信者の重要な責務の一つなのだと認識すべきである。

 地は、天に住む者のためにその宝を蓄えており、これを明け渡さなければならない立場にある。キリスト者が地上の人々に仕え、その悪なる支配に翻弄されるのではなく、地上の人々がキリスト者に仕え、天の支配を知らなければならないのであって、これが本当の秩序のありようなのである。信者が地の奴隷になるべきではなく、信者はかえって地の悪なる主人の支配に恥をこうむらせ、これを後退させ、御心にかなう天的秩序を地にもたらすために地上に存在しているのである。

 人の力は、どんなに優れた能力がある人の場合も、年々衰えるだけであるが、主を待ち望む者は新たに力を得る。キリストの死と共に働く偉大な復活の力は、人間的な望みが尽きれば尽きるほど、ますますはっきり現れて来る。

 神を信じてより頼む者が失望に終わることはない、と聖書に書かれている通り、この世の法則と、信仰の法則は逆なのである。この世的な観点から絶望が増し加わる時にこそ、信者の信仰が試されており、信者に約束された天の栄誉も大きい。

 だから、今の時代のような時にこそ、信者は勇気をもって暗闇の勢力の妨害に敢然と立ち向かい、約束された勝利を勝ち取る積極性が必要とされる。たとえ確かな証拠が目に見えるところに何もなくとも、見えない神の偉大なみわざを信じる信仰を生きて働かせるべきである。

 敗北から立ち上がり、勝利の叫びをあげ、凱旋の歌を歌いなさい。もうこれ以上、弱々しい懇願の祈りを捧げていないで、まだ見ていなくとも、天の御座に主と共に座していることを信じ、地に向かって権威を持って命じなさい。

 アダムのために地は実りをもたらさないが、地はキリスト者のためには実りをもたらさなければならない。なぜなら、キリストは、アダムが失敗した統治を実現するために地上に来られ、今やその任務を、信じる者に委ねておられるからである。

 悪人の富は信仰による義人のためにこそ、蓄えられている。地はすべての富をキリストご自身に明け渡すためにこそ、蓄えているのである。彼らが己の欲のために富を蓄えていると思っているのは、勘違いに過ぎない。彼らが義人を虐げて不正な富を増し加えていると思っているのは勘違いに過ぎない。不正な罪人自身も含め、この地上にあるすべては結局、キリストに服従させられることになるのである。

 キリスト者は神の代理人として、霊的に地を治め、地の富の蓄えられている倉庫を開錠する権威を行使できる者である。特に不自然な努力を重ねなくとも、神にのみより頼み、御言葉のうちにとどまりさえすれば、最後には不思議とそういう結果になって、地上の不正な罪人らがキリスト者のために道を譲り、キリスト者のために奉仕し、不正を悔い改めて、その富を明け渡さなくてはならいような成り行きにすべてが進行する。そうなったときに、筆者がここに書いてあることが何だったのかも、分かるであろう。

 だが、これはキリスト者がこの世で権威者となることを意味しない。主イエスや弟子たちが地上にある間、あくまでこの世の経済的支配圏の外に立っていたように、キリスト者は、この世の支配に組み込まれない自由な人間として、それでも、この世の支配を超越した高み(天)から、この世の支配圏に対して権威を持って命じることのできる立場にある。

 このようなことを、筆者は人間的な思いで、あるいは高慢や支配欲もしくは復讐心などから言うのではなく、実際に、キリスト者には、貴い主の御名のゆえに、地を治める権威があって、その権威の前に、地の人々が従わなくてはならない、という秩序が存在することを知ってもらいたいがゆえに、述べているのである。筆者はおびただしい回数、それを見て来たのでそれが事実であることを知っている。
 

御霊に導かれて歩む(1) 御霊によって肉の働きを識別し、これを否んで霊に服従させる

全てのクリスチャンは、キリストと共なる十字架のより深い働きを知る必要がある

 さて、今回のテーマは、クリスチャンがどのようにして御霊の導きに従うのか、ということです。

 クリスチャンは、救われたにも関わらず、いつまで経っても、世の罪人と同じように、各種の罪の誘惑、不義なる思いにからみつかれたまま、それに打ち勝つこともできずに、同じところを行ったり来たりして、前進のない敗北的な信仰生活を送る必要など全くありません。

 実のところ、クリスチャンがそんな歩みをずっと続ける必要は全くなく、それは神の御心でもないのです。しかし、肉の力によって罪の力に打ち勝つことは誰にもできませんから、ここに、この世の法則や、人の堕落した肉の力をはるかに超えたキリストと共なる十字架の霊的死の働きが必要となります。
 
 アダムは創造された時(まだ堕落していなかった時)、神と交わることのできる霊を与えられていました。それは神の霊(聖霊)ではなく、人の霊であったけれども、アダムはその霊によって神に従い、神と交わることができ、彼の魂と肉体は、彼の霊に服従していました。

 神と交わることのできる霊を与えられていること、それが、あらゆる被造物と人間とのはっきりした区別です。

 堕落する以前の当時、アダムの中では、崇高な霊が最も高い地位を占め、それに魂と肉体が従うという優先順位が守られていました(霊→魂→肉体)。

 しかし、アダムが堕落した後、人の霊の機能は死んでしまい(もしくは機能不全に陥った)ため、魂と肉体を統率することができなくなりました。

 それ以後、生まれながらの人の霊は、神に対して閉ざされた状態となり、むしろ一部の人々にあっては、悪霊に対して開かれているような機能不全の状態となり、さらに、人の霊と魂と肉体の優先順位が覆されてしまいました。

 人の中では、堕落した肉が王座についたため、人は罪の奴隷となり、人を導くものは、霊ではなく、肉となったのです。
 
 また、神のいましめに逆らって善悪を知る木の実を選んだことにより、人の魂も、神によらない偽りの知識によって高ぶりました。人の魂は、御言葉を退けて、自分勝手な基準で、自ら善悪を判断するようになりました。

 今日、文明が発達した結果として、人間はあらゆる知識を蓄え、己が知性を誇ってはいますが、それでも、人間の魂の知識は人をただ不幸な暗闇へと導くだけで、何の救いももたらしてはいません。

 こうして、堕落した肉(魂+肉体)が人の中で最高位を占めるようになり、真理を知らない魂が、霊に代わって人を治めるようになって、肉→魂→霊、と優先順位が転倒しました。

 その結果、人は霊によって自分自身を治めることができなくなり、誤った偽りの知識と、肉の欲望の奴隷となったため、人の人生にはあらゆる悲惨や混乱がつきものとなりました。人は生まれてもただ暗闇の中をさまよい、罪と死に至るだけです。再生されていない人は、どんな努力によっても、その状態を変えることはできません。

 しかし、人が罪を悔い改めて、御子イエスの十字架の救いを信じて神に立ち返ると、血潮によってあらゆる罪から贖われます。そして、聖霊がその人のうちに住まわれることによって、人の霊も生かされます。

 しかし、多くのクリスチャンは、その時点では、罪が赦されたことと、御霊が我がうちに住まわれたことをただ信仰によって信じているだけで、聖霊の導きをまだはっきりと内に感じることはありません。

 彼は霊によって導かれる人にはまだなっていません。また、肉の誘惑に打ち勝つことができる力もほとんどありません。自分を覆っている無気力や、挫折感、罪深い各種の誘惑や、失意の念がどこからもたらされているのかも知らず、これに打ち勝つべきであることも知りません。

 そのような時点でのクリスチャンは、まだ生まれたばかりの肉的なクリスチャンで、思いを識別することもできませんし、罪に勝利する力もほとんどありません。ある日、涙ながらに、罪と訣別する決意をしても、翌日には、また罪に戻っているような有様です。しばらくの間は、救われる前に耽溺していた罪との格闘、そしてそれに打ち勝つ力がないための敗北が続くでしょう。

 そのような時点でのクリスチャンの中には、一生懸命に聖書を読み、御言葉を知識として蓄積し、主のために多くの活動をする人たちがいますが、依然として、彼の活動の内には、聖霊の命が働いていません。そのため、彼の働きはその熱心さにも関わらず、実を結ばず、ただ余計なおせっかいのようになるだけか、もしくは死んだように力がありません。

 この時点でのクリスチャンは、まだ、肉→魂→霊という転倒した優先順位の中で生きています。神のための奉仕ですら、肉の力によって決行しています。

 このような信者が、御霊に導かれる人となるためには、まずは上記の順位を覆し、肉体と魂を霊に服従させ、御霊の導きの下、人が自分自身の内側で、霊を真の主人とならせることがどうしても必要なのです。

 そのために、信者は、肉体と魂に働く古い性質を、御子の十字架を通して死に渡す必要があります。


十字架には肉の働きに対する霊的死の効果がある
 
 多くのクリスチャンは、御子が達成された十字架を、ただ罪からの贖いとして受け取るだけですが、実際には、御子の達成された十字架にはより深い働き――肉の働きに霊的な死をもたらす効果――があります。

 なぜなら、キリストの十字架は、彼を信じる全人類の罪深い肉そのものに対する死の刑罰だったからです。
 
 このようにして、キリストの十字架における霊的な死が、信者の肉に適用された時に、初めて、信者は、自分の肉体や魂に働く、古き悪しき性質が、キリストと共に十字架で死に渡されたことが事実であること、そして、キリストの復活の命にある新しい法則が、自分のうちで実際により深く、より力強く働くようになるのを知るでしょう。
 
   私たちは肉が罪なる性質を持っていることを知っています。御言葉はこう述べます。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、享楽、および、そのたぐいである。」(ガラテヤ5:19-21)

 これらの肉の働きが邪悪なものであることはあえて説明する必要もありません。しかし、ここに、うっかり見落としてしまいがちな点があります。それは、肉は不義をなすことができるだけでなく、善を成し遂げることもできるということです!
 
 一般的なクリスチャンの多くは、一生懸命に日曜礼拝を守り、早天・徹夜・断食・祈祷などに参加し、献金を捧げ、トラクトを配り、救いを知らない魂をキリストに導くために、考えうる限りの「良い活動」に真面目に従事しようとしています。

 あるいは熱心に祈りと賛美を捧げ、自他を楽しませる各種の奉仕活動に従事しています。
 
 彼らは外面から見れば、まっとうな、とても立派なクリスチャンのように見えるかも知れませんし、自らそう信じ込んでいる人々も多く存在することでしょう。

 確かに、彼らは自分たちは世の罪人よりははるかにましな生活を送っており、自分達は肉的でないとさえ思っています。しかしながら、多くの場合、彼らには、表面的な正しさはあっても、神の命の現われがありません。むしろ、実際に、信仰生活の前進のなさに悩んでいることさえ多いのです。

 なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

 それは、その人が依然として、肉に頼って善行を行っているからであり、肉により頼んで、聖霊に従おうとし、肉により頼んで、神を喜ばせようとして、むなしい努力を続けているからなのです。

 彼らは肉そのものが神の目に忌むべきものであることを知らず、また、自分たちの伝道や祈りや奉仕が、肉によって持続されていることを知らず、自らの肉が御子の十字架ですでに死に渡されたという事実にも立っていません。

 私たちは、肉には邪悪な働きがあるだけでなく、一見、善のように見える働きもあるということを、よく覚えておく必要があります。しかし、善のように見えようと、悪のように見えようと、依然として、「肉から生まれる者は肉」(ヨハネ3:6)であり、「肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:8)のであり、「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反する」(ガラテヤ5:17)のです。

 残念ながら、クリスチャンは、肉において礼拝を捧げ、肉において祈り、肉において賛美をし、肉において奉仕をし、肉において献金をしたりするということが、実際にあり得る(むしろ、大いにあり得る!)ということに注意せねばなりません。

 いかにそれが人の目に敬虔な礼拝のように見えようと、もしその礼拝が肉によって捧げられているならば、それは神の目に忌むべき礼拝なのです。

 このように言うと、「もはや何が正しいのか、私には全く分からなくなりました」と言う人が出て来るかも知れません。「自分では良いと思っていた奉仕さえ、肉によって成し遂げられていたかも知れないというなら、私はもうどうしたら良いか分かりません。」と。

 私は思うのですが、そのような場合は、今まで「神のために」行って来た活動をいったん脇に降ろすことをお勧めします。そして、改めて主が、あなたに一体、何を望んでおられるのか、それが明確に見えて来るまで、性急に動くことなく、神に直談判して熱心に問いかけつつ、神と深く交わりながら、御心を探ることをお勧めします。神の御心にのみ、心を傾け、人の忠告には耳を傾けないのが良いでしょう。
  
 さて、肉による善は、肉による不義ほどまでに、汚れたものに見えないかも知れませんが、実際には、神から見て、肉による悪と同じように、滅ぼされるべき、呪われた「肉」なのです。そのことを知らないで、依然として、肉による善行に頼って生きていることが、多くのクリスチャンが信仰生活において敗北する原因となっています。それがどれほど熱心に奉仕しても、それがいかなる実をも結ばないどころか、いずれその礼拝が、神の御心に反する効果を生む最たる原因なのです。
 
 また、ここではあまり深く触れませんが、悪魔は、信者の魂と肉体の領域に、霊の感覚の偽物を作り出すことができます。素晴らしい賛美や、祈りや、各種の大会など、感覚的に喜ばしい体験を通じて、信者の心を虜にして、「こんなに心地よく素晴らしい体験が起きるのだから、自分は聖霊に従っているのに違いない」と思わせながら、偽りの霊的体験の中を歩ませることができるのです。

 このような感覚的な欺きにとらわれないためにも、信者は、何が「良い」ものであり、何が「悪い」ものなのか、自分の感覚によって判断するのではなく、御霊の導きによる識別力が必要です。また、自分の肉に働く感覚的誘惑に対して、十字架における霊的死を経る必要があります。

 信者が肉の邪悪な働きに対して死ぬためには、キリストと共なる十字架の霊的な死のより深い理解、より深い適用が必要です。それを実際としてくれるのが、御言葉です。
 
 
キリスト・イエスにつく者は自分の肉を十字架につけてしまった
 
 さて、十字架のより深い理解と適用とは何でしょうか。それは、信者の肉は、すでにキリストと共に十字架につけられて死んだ、という事実を信じ、それを信仰によって、信者が自分自身に適用することです。
 
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 

 信者は、御言葉に基づいて、神の事実を堅く信じ、キリストと共なる十字架における肉の死が、信仰を通して自分自身にも適用されたことを信じて受けとる必要があります。

 神の事実とは、御子イエスが十字架にかかられ、肉体に死なれた時、御子を信じる全ての信者の肉も、彼と共にはりつけにされて死んだ、という事実です。信者の肉も、主と共なる十字架においてはりつけにされ、死刑宣告を受け、裁きを受けて死んだのです。

 私たちが自分の肉を十字架につけるために、新たな十字架を作り出す必要は全くありません。それはすでに御子が達成されたのです! 御子イエスが十字架において、その肉体に死なれた時、彼はご自分の肉の中に、信じる者全ての肉を含められました。

 彼はご自分の肉の中に、滅ぼされるべき全ての肉を含まれたのであり、そこには私たち信者の肉も含まれている、という事実を信者は信じ、そこに立脚しなければなりません。

 その事実は、信者の現在の状態とは全く関係ありませんし、信者にそのような「実感」があるかどうかとも関係ありません。信者が今現在、敗北的な生活を送っているのか、それとも勝利の生活を送っているのか、そのどちらなのか、といった感覚的・現象面の問題や、あるいは、信者が生きている時代が、御子の歩まれた時代とどれほど遠かろうとも、関係ありません。

 御子イエスの十字架は、時空間に関係なく永遠に達成された神の事実なのです。ですから、信者は、時空間を超えて、自分の個人としての特徴や限界をも超えて、永遠において信仰によって(!)、その事実の中に入りこみます。

 こうして、信者は信仰によって、主イエスと共なる十字架に入りこみ、これと一体化し、その事実を永遠から、今の自分の存在する時空間に、信仰によって引っ張ってきて、自分自身に適用するのです。

 信者はただ自分の現在の限界あるみじめな状態だけを見つめて、それを基準として、御言葉を信じられるかどうか判断すべきではありません。御子イエスが、すでに私たちの肉を十字架上ではりつけにし、死に渡された、という神の事実を信じ、神の永遠の事実を現在の自分に適用すべきなのです。
 
 信者がキリストと共に十字架上で自分の肉が死んだことを信じ、その事実を経験として知るためには、言葉において、声に出して、御言葉を宣言し、自分に適用することも有効であると私は思っています。

 そのようにして、確信をもって事実の中にとどまるならば、信者はある時、本当に、自分の肉の働きが十字架につけられて死んでいることを実際に経験するでしょう。

 
肉の各種の働き(心の思い、計画、提案)の出所を御霊によって見分ける

 信者は、御子イエスの十字架の、このようなより深い理解と適用によって、それまでどうしても打ち勝つことができなかった自分の肉の罪深い欲が、死んだように鎮まり、肉の罪なる性質から解放されたという経験を持つかも知れません。

長年、悪いと分かっていながらやめられず、どうしても打ち勝つことのできなかった罪深い習慣が、主と共なる十字架の死が実際になった時、打ち砕かれた、という体験をするかも知れません。
 
しかし、このようなことは、肉に対する十字架の霊的死の適用の最初の第一歩に過ぎません。
 
悪習慣が打ち破られたことは、肉に対する霊的な死が適用されたことの現れではありますが、そのような経験があったからと言って、そこで、信者はあたかも自分が全く聖なる者とされ、肉から完全に解放され、もはや肉を死に渡す必要が一切なくなったかのように思うべきではありません。
 
なぜなら、それは肉の働きに打ち勝つためのほんの最初の一歩に過ぎないからです。信者が常に目を覚まして、御霊によって導かれ、「霊によって体の働きを殺す」(ローマ8:13)ことを続けないならば、肉はまた別な方法で信者を虜にし、罪の中へ落ち込ませるだけでしょう。
 
そこで、信者にはさらなる前進が必要です。あれやこれやの悪習慣が取り払われたといったところで満足して終わるべきではありません。

ですが、前進と言っても、「一体、何が肉の働きであり、何が御霊の働きなのか」、信者自身が、明確に識別できるようにならなければ、何に打ち勝つべきなのかすらも分かりません。

罪深い各種の欲望は、誰にでもすぐに肉の働きであることが分かりますので、キリストと共なる十字架の霊的な死の意義を知っているならば、信者が、自分の魂にそのような悪しき思いが去来した時、その虜にされずに、その欲望を十字架において否むことは、比較的容易です。

しかしながら、肉の働きは、すでに述べた通り、誰にでもすぐに「悪いもの」と分かるような形ばかりを取ってやって来るわけではありません。御霊によらない悪魔的な知恵が、あたかも「善良な」知恵のように、信者の心に思い浮かぶこともありますし、人からの「良さそうな提案」の形でやって来ることもあります。

ですから、信者は、自分の中に思い浮かぶ(もしくは人から提案される)さまざまな計画、思い、願い、知恵などが、一体、どこから来たものなのか、それが本当に神の御心にかなうものなのか、その出所を識別する力を養わなければならないのです。

そして、神から来た提案であれば、それを採択し、神の御心に反するものであれば、十字架においてこれをきっぱり退ける、ということをせねばならないのです。

神から来たのでない提案であっても、「良さそうだから」という理由でどんどん受け入れていると、信者の人生が破滅することになりかねません。しかし、人自身の知恵によっては、何が正しく、御心にかなう知恵で、何がそうでない悪魔的な知恵なのかを、自分の力だけで、完全に識別することはできないのです。

ですから、それを見分ける力を与えてくれるものは、御霊です。御霊による識別力というものが、信者が神の御心に従う上で、極めて重要になって来るのです。


御霊によって物事の限度や節度をわきまえる

さらに、信者は、何がどの程度、自分に許されたことであるのか、その限界をも、御霊によって識別することを学ばねばなりません。

たとえば、信者は、地上での肉体を持つ人間ですから、毎日、食べたり、飲んだりして、自分を養わなければなりません。信者が食べたり飲んだりすること自体が、「肉欲に従う罪深い行為」であるわけではありません。もしそうならば、信者は絶食の果てに死ぬことしかできませんが、そのようなことは神の御心ではありません。

しかし、もしも信者が「飲んだり、食べたりすることは罪ではない」からと言って、過度に食べたり、飲んだりしていれば、当然ながら、それは不健康の源になって行きます。

働くことも同じです。健全な自立を保つために働くことは有益ですが、あまりにも働きすぎていれば、当然ながら、体を壊しますし、生活も秩序を失っていきます。

ですから、信者は自分に許されている罪でない事柄が数多くあったとしても、一体、どの程度であれば、それが自分に有益なのか、適切な限界や、節度といったものも、御霊によって識別する必要があるのです。
 
どんなことでも、一定の限度を超えて、むさぼるようになると、それは神の御前に罪となって行きます。それは音楽を聴くことや、交わりを楽しむことや、あらゆる「無害」に見える行為に同じようにあてはまるのです。何事も、信者は自分を失うまでに没入すべきではありませんが、信者に健全な自制心や、我を忘れさせるような限界点が来る前に、「これ以上は危険ですよ」というシグナルを、御霊は的確に与えてくれるのです。その時に、御霊の警告を無視して突き進むと、信者の人生に何らかの害が及ぶことになります。

しかしながら、御霊の導きを最初から信者が完全に識別することは難しい、と私は思います。信者の歩みは一足飛びにはいきません。まずは罪深い悪習慣の虜から解放されなければならなかったように、学習は少しずつ進みます。何が御霊の導きであるのか、信者がそれを非常に繊細な感性を持って細部に渡るまで敏感に受け取り、見分け、従うようになるまでには、時間がかかるのです。
 
しかし、たとえその学習の過程で、明らかに御霊の導きと分かっていたものに、信者が従いそこなって、何らかの害を受けたり、罪の中に逆戻りするようなことがあったとしても、信者はそこで落胆すべきではありません。

そのようなことは、確かに、失敗に見えるかも知れませんが、同じ失敗でも、以前のように、何も理解していなかったがゆえに、ただ状況に翻弄され、罪の虜になっていただけではありません。それは、一定の気づきを伴った失敗です。信者はどうすれば、そのテストに合格できたのか、今や自分で知っています。
 
ですから、次に似たようなことが起きる時、以前のような行動を繰り返してはなりません。そのようにして取り組んでいくうちに、信者は、罪に対する勝利の力が自分の内にあること、内におられる御霊が、必要な知恵を供給して下さることを徐々にはっきりと知るようになるでしょう。

信者は、たとえ最初からすべてがうまく行かなかったとしても、あくまで御霊から来たのではない肉の働きを十字架において否む、ということを続けて行かねばなりません。その試みをずっと続けているうちに、やがて、たとえ肉の誘惑は依然として存在しているようであっても、罪にはもはや信者を奴隷として支配する力がない、ということを見いだすでしょう。
   
人間は地上にある限り、肉体という幕屋から逃れることはできません。それは、信者が生きている限り、肉の誘惑と100%無縁の人生を送ることはできず、また、霊によって体の働きを殺す必要性から完全に解放されることもできないことを示しています。

しかし、だからと言って、悲観したり、絶望したりする必要はありません。

キリストという完全な模範がおられます、そして、この方が信者の内に住んでおられるからです。キリストは私たちと同じように、弱く限界ある肉体を持って、地上で生活を送られました。しかし、それにも関わらず、肉の誘惑に従って罪を犯すということがなかったのです。サタンと、罪と、この世にすでに打ち勝ったキリストが内におられる限り、信者には、霊によって肉を治めることが可能なのです。信じて下さい。それはキリストによって可能なことなのです。


御霊によって肉を治め、神への従順を成し遂げる新しい人

もう一度言います。信者が地上にある限り、肉そのものが消え去るわけではありませんが、信者がこれを治めることは可能なのです。

信者は、死に至るまでの従順によって、神の御心を完全に満足させたキリストのゆえに、自分自身の肉を治めることができますし、またそうすべき立場にあるのです。にも関わらず、信者が肉によって治められ、翻弄されている状態こそ、あるべきではないのです。
 
かつてカインがアベルに嫉妬し、弟を殺そうと企てたとき、神はカインに向かって「罪が戸口であなたを慕って待ち伏せている。あなたは罪を治めなければならない」と語られました。

今日、神を信じている信者が、嫉妬ゆえに誰かを殺そうと考えることはまずないと思いますので、ここで、どうやって「殺意に打ち勝つか」という方法について語る必要はないものと思います。しかし、それでも、信者は、各種の罪深い思い(御霊から出たのでない思い)の誘惑に取り巻かれて生きていることは否定しないものと思います。その中には、まことしやかに善良な知恵を装って近づいて来る悪しき思いもあります。

こうした、御霊から出たのでない思いが、自分に忍び寄って来る時、信者はその出所を巧みに見分けて、神に喜ばれない思いを「治める」(=十字架において否む、勝利する)術を学ばなければなりません。

誰が見てもそうと分かる罪深い悪習慣に打ち勝つ以上に、これは重大で困難な学課です。なぜなら、もしそれができてさえいたならば、アダムもエバも、蛇の提案に耳を貸すことはなかったはずだからです。アダムもエバも、カインのように低級で俗悪な罪の誘惑に負けたのではありません。彼らは一見「良さそうに」見える提案の出所をきちんと識別できずに、欲に誘われて行動してしまったゆえに堕落したのです。

ですから、今日、信者にとって極めて重要なのは、すべての知恵が神から出たものではなく、たとえ良さそうに見えても、悪魔から来る知恵、悪魔から来る提案、というものが確かに存在しており、それらが信者を慕い求め、信者を堕落させようと、絡みついて来ていることに気づき、そうした思いや計画の出所を御霊によって見分け、神から来たのでないものを退ける秘訣を学ぶことなのです。

このように、信者が神から出たのでない知恵をすべて見分けた上で、これを否み、治め、無効とすることが求められているのです。

それが、パウロの書いた、「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に 逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに 服従させ、 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意が できているのです。」(Ⅱコリント10:4-6)ということの意味なのです。

人は、神によって地を治めるべく創造されたわけですから、人はその思い、行動によって、神の権益を代表して立たなければならない存在です。そのために人は造られたのです。
 
第二のアダムであるキリストが神への従順を成し遂げたにも関わらず、今日の信者が、最初の人アダムと同じように、悪魔の権益の代表者となって肉によって治められて生き、堕落していてはいけないのです。

今日、信者に必要なのは、あたかも神から来たように装いながら、人を堕落させるだけであるサタンの高ぶりに基づく偽りの「知恵」をことごとく見抜いて、これを否み、撃退し、その誘惑に勝利して、自分自身の思い、行動、すべてをキリストに服従させて、霊によって治め、神への従順を成し遂げることです。

キリストが成し遂げられた御父への従順を、信者もまた地上において成し遂げるよう期待されているのです。キリストがおられるがゆえに、信者にはその可能性が開かれました。

そのようにして、御霊の導きに従い、神の御心に従って「地を治める」ことが、信者の使命です。アダムが失敗して成し遂げられなくなった使命を、キリストにあって成就するのです。そうなった時にのみ、人は神にかくあれかしと造られた被造物本来の健全さ、美しさ、尊厳、輝き、を取り戻すことができるでしょう。

また、その時こそ、人の支配が、地に実りと調和をもたらすようにもなるでしょう。信者がキリストに似た者となるので、信者による霊の支配も、神の栄光を如実に反映させるものとなるのです。


神を説き伏せることのできる祈りの五大条件(ジョージ・ミュラーの祈りから)

私たちは人生において、少なくとも幾度かは、絶対にこの願いを神に聞き届けてもらわなければ困る、という切迫した祈りを捧げる必要に迫られます。それは自分自身が危機から救い出されるためであるかも知れないし、あるいは、愛する者の健康や幸せのためであるかも知れません。いずれにせよ、その時、私たちが捧げ る祈りが、神に聞き届けられるかどうか、その是非は、私たちにとって生死を分けるほどの重大問題となります。

もちろん、私たちの願いの全てが必ずしも御心にかなったものであるわけではありません。しかし、神に聞き届けられる祈りというものが存在することは確かなのです。私たちが切迫した必要に迫られている時、また心のうちに強い願いを持つ時、信仰によって、確実に神に聞き届けられる祈りを捧げるためには、一体、 どうすればよいのでしょうか。私たちの生活態度は、心の状態は、その時、どうあるべきなのでしょうか。

偉大な信仰の人ジョージ・ミュラーから、祈りの秘訣を学ぶことができます。次のことをよく心に留めておきましょう。

「神を説き伏せるほどの祈りをする際の五大条件を、彼はいつも心に言い聞かせていた。

1 どんな祝福を求める際にも、主イエス・キリストの功績と仲保に全面的に依存すること(参照 ヨハネ一四・一三、一四、一五・一六等)。

2 すべての知っている罪から離れること。私たちの心によこしまなものが残っているなら、主は私たちに耳を傾けて下さらない。もし聞かれるとすれば、私たちの罪を容認することになってしまうからである(詩篇六六・一八)。

3 誓いによって堅くされた神の約束のみことばを信ずること。約束なさった神を信じないということは、とりもなおさず神を偽り者とし、偽証人としてしまうからである(ヘブル一一・六、六・一三―二〇)。

4 神のみこころと一致した祈りであること。私たちの動機は敬けんなものでなければならない。私たち自身の欲望を遂げる目的で、神にいかなる賜物を求めてもいけない(第一ヨハネ五・一三、一四、ヤコブ四・三)。

5 執拗に願いをささげること。農夫が収穫を求めて長い間忍耐強く待つように、私たちも、ただ神のために働くだけでなく、神の働きを待っていなければならない(ヤコブ五・七、ルカ一八・一~八)。

 以上のような原則をしっかり心に留めておくことは、いくら強調しても強調しすぎることはない。ここにあげた第一の条件は、大祭司であられるかたと一つに なるということで、これはすべての祈りの基盤である。第二は、罪を捨てるという祈りの条件の一つを示している。第三は、私たちが信仰によって、神のいます ことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを信じて、神に栄光を帰する必要性を強調している。第四は、神と同じ心を持つということであり、そうするこ とによって初めて、自分のために、また神の栄光を現わすために、何を求めればよいかを知るのである。最後の項は、祈りによって神にしがみつくことであり、 神が御手を伸べて祝福を与えて下さるまですがりつかなければならないことを教えている。

 このような条件が満たされないのに、神が祈りを聞き入れられるようなことがあるとすれば、それはご自身の栄光に傷をつけることである。またそれは、求め た人に対しても有害になる。もし人が自分の名により、あるいは自己義認、利己追求、または不従順な心で神に祈ることを奨励するようなことになれば、それは 罪の中に住むことを奨励し、そのうえに賞金を与えるようなものである。また、信じようともしない人の求めに応ずることは、その人があくまでも神の真実性を 疑い、約束を守られる忠実さを信用せず、結局神の約束のみことばと、それを保証される誓いとを侮辱することになるのに、それに対して目をつぶっておられる ようなものである。

実に、本質的にここにあげられたもの以外に、神を説き伏せる祈りの条件は一つとして存在しない。これは独断的な意志によってかってに決められたものではなく、神のご性質上、また人の益のためにも、どうしても必要なものなのだ。」
(A.T.ピアソン著、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』、いのちのことば社、pp.158-159)

ミュラーの挙げた五大条件に、一つだけ、追加しておきたい。

6.神にしか決して叶えることのできない、神の偉大さにふさわしい、真にダイナミックな願いを捧げること。信者の祈りが聞き届けられることによって、神の偉大さ、神の栄光、神の愛の深さが全地にあまねく証明され、地獄の監獄が揺るがされ、悪魔が敗北して色を失うような、スケールの大きな祈りのリクエストを出すことは、神が信者の祈りと信仰に心動かされ、祈りを聞き届けることによって満足されるための秘訣である。


悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ

かつて、学術論文を書きながら、生計を維持するために、さまざまな仕事を経験したことがある。今になっても、論文の締め切りに追われていた当時の自分を夢に見ることがある。

その頃の筆者には、人の成さない偉大な仕事を成し遂げた いとの夢があった。友人に向かって、こんな大胆な台詞を口にしていた、「私も自分のケーニヒスベルクへ世界を集められるような人になりたい」*。

(*これはは哲学者カントが生涯のうちに一度も国外旅行をせず、ケーニヒスベルクだけで人生を終えたことになぞらえた言葉である。カントは自分から世界の国々に出て行かなかったが、その代わりに、自らの哲学によって、世界を自分のもとに集めた。人はそれくらいの強烈な創造行為を行うべきである、という意味。

ちなみに、ケーニヒスベルクは東プロイセンの主都であり、ドイツ騎士団によって建てられた美しい貿易都市で、レンガ造りの街並みで知られた。が、第二次大戦中にロシアに占領されてカリーニングラードと改称され、古き良き街並みは破壊され、歴史はほぼ完全に絶たれた。今もって再興は不可能な状態で、いわば、歴史の幻となった都の一つである。)
 
さて、以上のような願いは、天然の人としての筆者だけの力では、実現が不可能であった。そこで、筆者は主と共なる十字架を経て、それまでの願いが全て自分の手から取り去られ、天から聖別されて、再び、キリストの力によって再興されて戻って来るのを見る必要があった。

それまでの夢は、あたかも一旦、目の前で砕け散ったかのようであったが、力強い十字架の解放の御業によって、再び、復興されて筆者の手に返された。筆者はこの十字架の御業により、永遠にアダムの世界にあるあらゆる絶望から救い出され、全ての恐れから解放されて、十字架の死と復活によって、天的な高さへと引き上げられ、暗闇の支配下から、愛する御子の支配下へと移されたのであった。

キリストにあって満ち溢れる光の支配下へと移され、新 しい心と、新しい霊とが与えられた――。

以前とは全く違う人生が開け、過去についての後悔や、痛みや、悲しみは、なくなり、どこにいても、何をしていても、主が共におられると、信じることができるようになった。

そして、今や、主とともに生き、歩んで行きたいという願いだけが、生涯の目的となったのである。

だが、「古き人に死んだ」というテーマと、「神に生きる」というテーマを追求する余り、筆者は、キリストにある新しい人として、自分が過去と現在をどのように結びつけるべきかが、長い間、よく分からなかった。

特に、従来のキリスト教においては、「献身する」とは、信者が自分の個人的な人生を離れて、全生涯を福音宣教に捧げることを意味すると教えられる。

そんな固定概念も手伝って、神のために生きることと、自分の個人生活が、どのように両立し、統合されるのか、筆者には、長い間、よく分からなかったのである。

そして、筆者がこの当時、関わっていた兄弟姉妹は、この点において、全く助けにならなかったどころか、誤った観念によって、かなり有害な影響を及ぼした。

その頃、筆者が「兄弟姉妹」として交わっていた全員が、筆者とは全く無関係なフィールドで生きて来た人たちであり、ほとんどの場合、自らの専門も持っていなければ、あったとしても、すでに仕事からも離れた年金生活者などで、彼らは信仰生活というものを、この世の職業とは何ら関係ない、ほとんど形而上のもののようにとらえていた。

そこで、前途ある若者が、一体、働きながら、どのように神に仕えることができるのか、という問題には、全く具体的な答えやヒントをくれなかったのである。むしろ、そのような人々の話を聞けば聞くほど、筆者にも、「信者がこの世の職業を通して自己実現を目指すことは、御心にかなわない生き方なのだ」といった考えが増し加わるばかりであった。

筆者は兄弟姉妹の人生を参考材料にすることができず、また、彼らも、キリストにある「新しい人」の生き様について、従来のキリスト教の固定概念を超え得るような考えを何も持っていなかったので、その交わりからは、何の新しい発想も生まれて来なかった。

そんなこともあって、筆者は、何年間も、この問題については答えを見いだせなかった。果たして、自分の過去に積み上げて来た功績、過去の自分の持っていた夢、性格、知識、経験、生き様などを、新しい人生にあって、どの程度、継承して良いのだろうか? 

たとえば、学術研究の世界において功績を打ち立てたいという願いは、今後も、妥当なものとして持ち続けるべきなのだろうか? かつて書いていた論文を続行させるために、研究書を取り寄せて、文学の世界に没入することは、許されるのであろうか? 

そんな疑問から始まって、たとえば、ペットを飼うことは許されるのか、とか、一体、自分の願いや嗜好のどこまでが、御心にかなうものとして、生活に適用して良いのであろうか、といった疑問の中にあった。

そういった疑問がなかなか解けなかったので、筆者は長い間、自分で自分の人生を「保留」にし、自分の願いを「保留」し、自分の経歴を「保留」して、それとは無関係の生き様を続けていた。

兄弟姉妹からの不適切な助言の影響もあって、かなり長い間、筆者は自分のかつての個人的特徴を「アダム来のもの」として捨て去るべきなのかどうかという問いに、明確な答えを出せなかったので、個人的な願いに基づいて生活の新たな一歩を踏み出すことをためらっていた。

だが、こうしたことは、全く、間違った固定概念を持つ人々からの悪影響に他ならず、本当は、「キリストにある新しい人」について、そんな疑問を持つ必要はなかったのである。

筆者の過去は、すでに霊的に十字架を経ていたので、キリストにある新しい人に自然と再統合されており、筆者が自分から過去を捨てるとか、個人生活を捨てるとか、そんな行動は全く必要なかった。たとえば、かつてよく筆者が口にしていた「自分のケーニヒスベルクに世界を集める」とかいった台詞も、筆者は、長い間、信仰の何たるかをよく分かっていなかった頃に口にした若気の至りでしかないような気もしていたのであるが、実は、そんな些細な願いでさえ、キリストにある新しい人の中に有益に再統合されていたのである。

そんなわけで、主と共なる十字架の死と復活の何たるかを実際に経験した後も、筆者はあたかも自で自分の過去と訣別せねばならないかのように考えていたため、学術論文を書いておらず、論文を書いているわけでもないのに、ただ生計を立てるためだけに、論文の締め切りに追われていた頃と大差ない、自分の専門とは無関係の仕事に従事したりしていた。

だが、そのような考えは、すでに述べた通り、あたかも信者であるかのように、兄弟姉妹を名乗る人々を通じてもたらされた暗闇の勢力の偽りの力の影響によって生まれたものだったのである。

暗闇の勢力は、信者の人生が、十字架を通して解放され、信者が神と同労して生き生きと自由に生活しながら、,キリストによって生まれた「新しい人」として、天的な歩みを進めることを何としても妨げるために、全力を挙げて、信者の思いを攻撃して来る。だが、その攻撃の多くが、他でもない「兄弟姉妹」を名乗る人々から、間違った不適切な偽りの助言という形を通してやって来ることに、当時の筆者はまだ十分に気づいていなかったのである。

さて、暗闇の勢力が信者に吹き込む嘘の筆頭格は、いわれなき「罪悪感」である。つまり、本当は罪深くもなく、わがままでもなければ、贅沢でもない、信者の些細な願望までも、それがあたかも神の御心にそぐわない罪深いものであるかのように思わせることで、信者に自ら願いを捨てさせ、あきらめさせることが、暗闇の勢力の策略なのである。

第二は、神に対して生きることへの偏見であり、「徹底的に自己を放棄しなければ、神に従うことはできない」という名目で、信者に自分の個性を自ら捨てさせ、自分を否定させようとする偽りであり、これもまた暗闇の勢力による極めて重大な嘘である。そして、第一の嘘と第二の嘘は密接に絡み合っている。

地獄の軍勢は、この世に生きる人々を罪の奴隷として拘束しており、そこで暗闇の勢力は、人を貧しさや、不自由や、夢や希望のない人生に閉じ込め、可能な限り苦しめ、自由を奪うことを使命としている。だが、彼らは、信仰を持たずにこの世に生きている人たちだけでなく、キリストにある新しい人をも、そのように束縛しようと、信者の思いの中に攻撃をしかけて来るのである。

暗闇の勢力は、信者が自分の願いを率直に神に申し上げながら、生き生きと自主的かつ個性的な人生を送ることを何としても妨げようとして、こう言う、「あなたの専門知識や、かつての職業や、かつての願いは、みな堕落したアダムの古き人から生まれたものであるから、あなたはそれを罪深いものとして捨てなければならない。そうしなければ、神のために生きることはできない」と。

実は、兄弟姉妹を名乗っている多くの信者たちでさえ、知らず知らずのうちに、このような悪魔の嘘に加担して、信者をより束縛し、より不自由にし、より不自然に苦しんで生きさせる手伝いをしようとすることが多いのである。

今日の信者のほとんどは、「キリストにある新しい人」という言葉を口にしながらも、実際に、「新しい人」は、この世の職業において、個人生活において、どのように生きるべきか、ほとんど分かってはいない。だから、もしこの点について、信者がうっかり、ふさわしくない兄弟姉妹に助言を求めようものならば、非常に好ましくない有害なアドバイスを受けることがあり得る。

当時の筆者の周りにいた兄弟姉妹の多くは、ただ信者が「神のために」何かを「捨てる」ことや、「理不尽を耐え忍ぶ」ことだけが、御心に従う道であるかのように誤解して、周囲の人々に対して、そのような説得に腐心していた。これは、今日のクリスチャンの多くの姿と同じである。

たとえばの話、「ペットを飼いたい」という願いを、筆者がある兄弟に向かって口にしたとき、その「兄弟」はこう答えた。

「ヴィオロンさん、パウロがペットなんか連れて伝道旅行できたと思いますか?」

こうして、その「兄弟」は、信者がペットを飼うことが、いかにも主への献身の妨げになる、伝道&宣教にとって障害となる、と言わんばかりの否定的反応を示した。だが、筆者は、その頃には、この兄弟の性格を知り抜いていたので、こうした忠告ばかりをずっと聞き続けていれば、自分の人生で何一つ、願いを決行できはしないということを悟っていた。そこで、その忠告を振り切って、ペットを飼ったのであった。

ここで筆者が議論したいのは、信者がペットを飼うことの是非ではなく、従来のキリスト教の固定概念の域を出ない人々は、全ての考え方が、万事こんな調子だということである。つまり、彼らは自分よりも若い「後学」となるような信者をつかまえて、彼からあらゆる自由と権利を取り上げた上で、自分好みの型に当てはめるために、その信者の生活のどんな些細な事柄についても、「神のために」という理由がついていないと、信者に何も許そうとせず、しきりに反対するのである。

たとえば、神のために人生を捧げた人が、学術論文など書くべきではない、といった考えもその中に含まれているし、自分の専門性を人前で誇示すべきではないとか、何を買うか、何を食べるか、といった些細なことでも、「贅沢」や「貪欲」に該当すると非難して、事細かに様々な制約を持ち出して来る人たちもいるのである。そんな人々に助言を求めるのは、自殺行為にも等しい。

だが、何年も、筆者はそういった兄弟姉妹の考え方が根本的に間違っていること、彼らに意見や忠告の機会を与えてはならないこと、あるいは、もっとひどい場合には、こうした人々を「兄弟姉妹」と考えるべきではない、ということに気づくのが遅れた。そして、かなり経ってから、キリストにある新しい人の人生は、過去の何かを「捨てること」に基づいて成り立っているのではなく、むしろ、十字架を経て、「新しい人」には、過去の要素がすべて再統合されているので、信者は自分で過去の生き様と訣別しようと努力して、自分の願いを滅却したり、それを禁じたりする必要はない、ということが分かったのであった。

信者は、御言葉に背き、神を悲しませるような反逆的な内容でなければ、自分の心の自然な願いに従って、ごく普通に生きて行けば良いのであり、もし自分に備わっている何らかの適性があれば、それを思う存分、活かせば良いのである。

奇しくも、そのことを筆者に向かって語ったのは、ベック集会にいた兄弟たちであったが、彼らは、以前に筆者が出会った「兄弟姉妹」たちが、筆者の心にかけた呪縛を解いて、いかに筆者が自分の専門性を有効に活用して生きるべきか、延々と筆者を説得した。

「ヴィオロンさん、あなたの学歴や経歴は、神が許されるのでなければ、決して手に入れられないものです。それが許されたということは、あなたにはそれを用いてなすべきことがある、という意味に他なりません。だから、あなたは自分の専門とは関係のない仕事に就いて苦しんだりする必要はありません。そんな人生が、神のために生きることではないのです。あなたは自分の能力や知識を神に捧げ、神がそれをどう用いて下さるのかを見るべきです。」

この忠告は筆者の心に光を与えた。年々、悪化して行く情勢の中で、専門と関係ない仕事をして生計を立てることには、筆者も限界を感じていたので、筆者は彼らの忠告の通りに、自分の過去に持っていたすべての知識や経験をすべて改めて主にお捧げし、その後、専門の仕事に立ち戻るために必要な努力をして、人生がどう開かれるのかを観察した。

そうして、筆者は確かに専門に復帰したのであるが、しかしながら、以上の兄弟姉妹の助言にも、相当な限界があった。それは、この集会の多くの人たちは、かなり裕福であり、生活の苦労をあまり知らず、特に、筆者の世代が社会で置かれている窮状がどれほど深刻なものであるかに、理解がなかったことである。それゆえ、彼らもまた、前述の兄弟姉妹と同じように、「後学」を自分たちの正しいと思う考えに当てはめ、従わせせようとして来たのである。

以上のような方法で、筆者が神に願って与えられた専門の条件が、過酷で、とても長くは続けられそうにないものだと分かって、筆者がその仕事を辞めようとしたとき、仕事を見つける時に助言し、祈ってくれた兄弟姉妹が、かえって敵対する側に回った。彼らには、「神様が与えて下さった仕事を、そんなにも早く辞めようとするなど、不信仰であり、言語道断だ」という考えしか、返答の持ち合わせがなかった。

また、この集会以外のつながりのある姉妹からも、その時、同じように非難の言葉を返されたことを覚えている。あろうことか、この姉妹からは、この転職を機に、絶縁さえも申し渡されたのであった。その時、筆者には、次の仕事も無事に決まっていたのだが、彼女は、それを喜んでくれるどころか、「もうそんなにも早く、次の仕事を見つけたなんて」と冷たい反応を示し、「もう二度と連絡して来ないで」と、交わりの扉を閉ざしたのであった。

だが、いかに周囲の兄弟姉妹に誤解されたとしても、当時、働いていたのは筆者自身であるから、筆者が誰よりも、その労働環境が、逆立ちしても長くは持ちこたえられないものであることをよく知っていた。そのような不適切な条件に耐えていれば、いずれ自分を壊すことになり、場合によっては、不法に加担することにさえつながりかねない。それが神の御心であろうはずがないことは承知していた。
   
だから、筆者はこれらの「兄弟姉妹」の誤解や怒りや叱責を無視して、自分の判断で、新たな道に踏み出して行った。

こうして、兄弟姉妹と考えていた人々から、間違った、不適切な忠告や助言を受け、それに従わなかったために、筆者がこうむった誤解の数々は、枚挙に暇がない。だが、たとえ不愉快な誤解をこうむったとしても、筆者は根気強く自由と解放を目指して信仰による模索を続けねばならないことを知っていた。だから、そうした助言は、神から来るものではなく、暗闇の勢力から来るものと確信して、筆者はそれらを振り切ったのである。

そもそも、信者は自分の人生について、主ご自身だけを相談相手に、自分自身で決断を下して行かねばならない。たとえ兄弟姉妹であっても、他者に主導権を明け渡すことはできないし、人の支配下に入ると、そこから始まるのは、奴隷的拘束だけである。だから、たとえ兄弟姉妹であっても、他者に助言の隙を与えることは、ほとんどの場合、逆効果となる。
 
そんな模索を繰り返す過程で、筆者には、この世に存在する仕事の大半が、非常に問題だらけで、実に多くの場合は、違法な労働条件のもとに行われており、たとえ専門に関係する仕事に就いても、その事情はすぐに変わらず、こうした悪しき問題が一挙に解決する見込みはほとんどない、ということが分かって来た。

しかし、そんな中でも、筆者は「世の情勢がこんな風だから、どんな不適切な条件にも、自分が耐えるしかない」とは考えず、可能な限り、自分の願いを否定することなく、正常な仕事を探す努力を続けた。

つまり、この世の情勢に自分を合わせるのではなく、あくまで自分の正しいと思うことや、願いを譲らずに天に向かって主張し続けて、根気強く、不正や、不法を助長することなく、神の正義と、自分自身の願いにかなう、納得できる条件を求め続けたのである。

この世の情勢では、99%見込みがない時だからこそ、信仰に頼る価値がある。人にはできなくとも、神にはできる。世はいつでも「これしかないから、あなたは妥協して条件を引き下げなさい。多少の不正には目をつぶりなさい」と言って来るであろうが、信者がその言い分に耳を貸して、自分が最低限度だと思っている条件にさえ、妥協を繰り返すようでは、信仰者となった意味はなく、その先はない。神は必ず、信者が健やかに自立した生活を営むために、必要な全ての条件をお与え下さるはずだ、と、筆者は心に確信していた。

そのような筆者のスタンスを、兄弟姉妹のほとんどは理解できなかったであろうと思う。筆者の態度は、彼らから見れば、「贅沢」であり、「わがまま」であり、「えり好み」でしかなかったのではないかと想像される。だが、そのように不評をこうむるであろうことが予め分かっていたので、筆者の方でも、もう彼らには何の助言も乞わず、相談もしなかった。

そうして、筆者は他者の助言や忠告に従って生きることをやめ、ただ神との関係において、自分の願いをあきらめずに神に申し上げることだけによって、生きることに決めたのである。

そして、その過程で、実に驚くべきことが分かって来た。

筆者がこれまでに見つけた仕事は、もはや相当な数に達しているのだが、もともと数少ないと言われていた専門分野の仕事である。労働条件に文句をつけて、度々、仕事を変わっているような人間に、将来の見込みなどない、と普通の世間は考えるであろう。しかも、筆者は郷里からの援助などは受けず、完全に独立して、自分だけで生計を立てている。筆者の試みは、どうせ長くは続かないだろう、と高をくくっていた人々がいたとしても不思議ではない。

だが、それにも関わらず、筆者は行き詰まりに達することはなく、常に道が開けたのである。そして、それが神の采配であるばかりでなく、筆者と主との「信仰による同労」によって生まれた結果であることが、筆者にも、だんだんはっきりと分かって来た。

つまり、これまでの筆者はよく「こんなご時世だから」と悲観したり、恐れに駆られたりもしながら、それでもあきらめきれずに、「どうか御心にかなう良い条件の仕事をお与えて下さい」と、必死の思いで神に懇願したりしていたのだが、本当はそのように祈るべきではなく、実のところ、神の方が筆者に向かって、問うておられたのである、「あなたは一体、何をしたいのですか。世の情勢は関係ありません。あなたが願っている内容を正直に具体的に私に向かって言いなさい。そして、私にはその願いを満たすことができると信じ、権威を持って行動しなさい。」

神がそのように問うておられることは、その都度、「運よく」見つかる仕事が、どうにも筆者が心の中でそれまで思い描いていた条件にかなり合致している様子からも理解できるのだった。つまり、筆者自身も半信半疑の状態で祈りつつ、「神が奇跡を備えて下さるならば」と期待し、「運よく」見つけたと思っていたものが、実は、筆者自身が心の願いによって、主と同労して自ら創り出したものであり、神が筆者の祈りと信仰に応えて下さったことにより、信仰に応じて「創造」されたものであることを、認めずにいられなくなったのである。むろん、そうしたことは、職探しの過程だけでなく、生活のあらゆる場面で起きて来た。

このあたりから、筆者の考え方が劇的に変わって来た。

つまり、キリストにあって生きる「新しい人」は、この世の情勢に翻弄され、圧迫されて生きるどころか、天に直通の祈りを捧げ、キリストとの同労により、無から有を呼び出して来る権威を持つのだということが、次第に分かり始めたのである。

その「新しい人」の生き様は、世の中の悪化して行く情勢の中で、かろうじて生存が保たれているといったようなレベルのものではなく、まさに(共産主義者が自分たちの思い描くユートピアを表現するために、誇らしげに使っていたあの有名な)フレーズ、「必然の王国から自由の王国へ」、に見るように、「この世の情勢が悪いから、信者は仕方がなく妥協して、たとえ不法で劣悪な条件でも、この程度で我慢しなければならない」といったような、ちっぽけかつ不自由な生き方から、「あなたは何を願うのか」という、信者自身の個人的な願いに基づく「オーダーメイド」の生き方への転換なのである。

「キリストにある新しい人」の人生は、天と地の同労によって作り出される極めて個人的な人生であり、その生き方にキリスト以外の「型」はない。神は信者の心の願いに、細部に渡るまで耳傾け、応えて下さるので、キリスト者の人生は、極めて個人的な特色を持つもの、周囲の誰にも似ていない「オリジナルな」ものとなる、ということを、信者が心に留めておくのは有益である。

この世のほとんどの人々は、まるで大量生産された服を買って着るように、職業や、暮らしぶりなど、人生の隅々においてまで、すべての事柄について、ある種の型に自分をあてはめている。そして、その域を決して出ることはできないし、出ようと考えない。彼らは、その「型」が、自分の個性にとって非常に窮屈で、多くの苦しみをもたらしていることを、ある程度は認識しているのだが、それでも、それがあるまじき制約だとは考えず、あくまで自分自身を型に合わせて切り刻むことが正しいことであり、それ以外の人生はあり得ないかのように錯覚している。

だが、本当の人の人生のあるべき秩序は、それとは逆なのである。人間が型に合わせるべきなのではなく、型が人間に合わせて作られるべきなのである。型というものは、人間によって人間のためにこそ、造り出されるものであって、人間に奉仕することが、その役目だからである。そういう意味で、キリストにあって自由とされた人の人生は、もはや大量生産された型に自分を当てはめて、それに適合しない自分の一部を自ら切り刻んで切除しようと苦しむ人生ではなく、型が信者に従って作られる「オーダーメイド」の人生なのである。

そんなことは信じられないし、信じたくない、という人は信じなくて結構である。

だが、そのように、信者の人生が、信仰による「オーダーメイド」である以上、神との同労において、信者が心に何を願うのか、その願いの内容は、宇宙的な重要性を持っており、信者の人生に最も大きくものを言う事柄である。

そして、聖書の原則はこうである、「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう。」

つまり、神は信者に大志を抱くよう求めておられるのである。世人の誰であっても、多少のコネや、実力さえあれば、実現できるような、ちっぽけな願いで人生を終わるのではなく、「どうせなら、神にしか実現できないような、壮大なスケールの夢を持ちなさい。私(神)があなたと同労してそれを叶えてあげるから。そのようにあなたを満たすことが、私の心なのです」と、神は信者に求めておられるのである。

だから、信者が自分の人生について、どういう願望を抱くのかという問題は、信者が神をどのようなお方であると考えているのかという問題に直結している。信者は、神の愛と理解の無限なること、神の懐の深さ、気前良さ、その御力の偉大さなどに、ふさわしい夢を抱くべきである。そして、自分の願いを率直に神に申し上げ、「私にはできないことも、神にはできる」と、神を信頼して一歩を踏み出して行く時、神はそのような信仰を喜んで下さると、筆者は確信している。

そのようなわけで、多くの兄弟姉妹が「わがままだ」とか「贅沢だ」とか「献身者にふさわしくない」、「貪欲だ」などと言って批判し、退けていた信者の個人的な願いこそ、実は、極めて重要な事柄であり、それは信者自身にとってのみならず、神にとっても重要であり、神はその願いに熱心に耳を傾けて下さり、その願いに応えて、ご自分を現して下さることが分かって来たのである。

「現世利益を求めてはいけない」などの言葉で、多くの信者が、自らそんな願望は自分にはないかのように否定しようとしている信者の願いこそが、実は、信者がキリストと共に同労して行う「信仰による創造」の原材料となって行くのだ、ということが分かって来たのである。

だから、信者は、自分の個人的な願いを自ら捨てようとしてはいけないのである。それが明らかに御言葉に反するものでない限り、自分の願いをあきらめることなく、根気強く、天に向かって願い続けるべきである。

信者は自ら「古き人」と訣別しようとして、自分のあれやこれやの特質を自分で抹殺しようと努力する必要はない。信者の過去も、性格も、知識も、能力も、何もかもが、キリストにある「新しい人」に自然に統合されていることを信ずべきである。そして、十字架を経て、自分に備わった全ての特徴が、すでに神のものとして、神にあって有益に活かされることを信ずべきである。

もう一度言うが、信者は、自分の心の願いを通じて、信仰によって環境を創造しているのである。信者が環境に合わせるのではなく、環境が信者によって創造され、治められるべきなのである。

最初のアダムは、地を治めるために創造された。アダムは堕落してその任務に失敗したが、神はキリストにあって再び人類に地を治めさせようと計画しておられる。人間の創造の目的は、人類の罪による堕落と、サタンによるこの世の占領という出来事によってさえ、変わることなく、神はこれを永遠のご計画の中で成就される。それは、ただ単に信者が自らの意志でこの地を治めるというだけでなく、信者が主と同労して、すべてのものをキリストの御名の権威の下に服従させるという壮大な計画の一部なのである。

だから、信者が信仰によって祈り求める時に行使しているのは、御名の権威なのである。その祈りが応えられることは、環境が信者を通して、御名の権威に服することを意味する。

確かに、この世は堕落しており、目に見えるものはいつか終わらなければならない。そうして新しい世がやって来る。だが、キリスト者にあっては、御国はすでに来ている、ということを覚えておかなくてはならない。御国は、信者の心の中に、霊の内にすでに到来しており、信者は御名の権威に基づいて、霊的な支配権を行使することによって、天を地にもたらし、御国をこの地に及ぼし、この世を堕落した悪魔の霊的支配から奪還して、キリストの統治を打ち立てねばならないのである。だから、信者が主にあって何を願い、何を求めるのかは、この二つの支配権――キリストの支配と悪魔の支配――の争奪戦において、極めて重要な意味を持つ。

だが、それはただ単に霊的な戦いにおける勝利と、神の権益の拡大のためという文脈においてのみ行われるのではなく、神は信者自身の個性そのものを、極めて重要なものとして尊重して下さり、キリストにある新しい人の中で、信者の人格や個性が、生き生きと発揮され、そうして信者が一人の人として真に自然なあるべき人間の姿を形成することを願っておられる。

この「新しい人」は、自分の個性を、地獄の軍勢に支配されるこの世が大量生産した型に合わせて自ら歪め、切り刻んでは、自らを苦しめるという不自然で抑圧された生き方(必然の王国)を離れて、信仰によって、神と同労しながら、神に自分の願いを率直に申し上げ、祈りを通して、主と共に望む環境を作り上げていくという「オーダーメイド」(自由の王国)の生き方へと転換して行くのである。

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ――御名の権威に基づく環境の創造――それが「キリストにある新しい人」の生き様の主要な特長の一つである。信者が主と共に信仰によって環境を呼び出し、自ら創り出すのだから、信者のいる「ケーニヒスベルク」に全てが集まって来るのは至極当然である。


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(2)

ある姉妹が、自分の理想の家を手に入れるために、何年間も祈り続けたことを語ってくれた。この婦人とは、KFCで出会い、KFCに疑問を持って離れた後、交わるようになり、今すでに彼女はもうこの世の人ではないのだが、KFCで出会った人の中では、例外的に、主にある真実な交わりの何たるかを筆者に教えてくれ、そして心から筆者を愛してくれた本当の姉妹であった。

その彼女が、筆者を自宅に招き(それは素晴らしい家であった)、若い頃から、このような家が与えられるようにと、家の図面を書いて、主に願い続けて来たのだと話してくれた。むろん、色んな紆余曲折があり、どこに土地を買うのかなどで、誤った選択をしそうになったことも何度もあると言っていた。

姉妹が亡くなった後、ご主人にも会ったのだが、実際に、彼女はその家が与えられる前から、「まるでその家がすでにあるように話していた」とのことであった。

面白い姉妹であった。その姉妹のご主人は病気がちな人で、何度も、死ぬような大病に見舞われ、彼女はひやひやさせられるのだが、その都度、彼女の熱心な祈りと、不思議な方法で、夫の病気は回復するのだった。夫があまりに大病を繰り返し、いつもそのために姉妹が祈っていたので、まさか妻である姉妹の方が先に召されるとは、誰も考えていなかったに違いない。

基本的に、やむを得ない手術を除いて、薬は使わず、長く入院しての闘病生活も送らずに、自然な生活の中で夫の病気を治すというのが彼女の方針だったので、彼女は一生懸命、夫のための健康食に力を入れていた。一度は、結石が出来たとき、手術せずにこれを治すために、夫婦でジェットコースターに乗ったら、それで治ってしまった、などという話をしていたこともある。

「神様の知恵よ。こんな不思議な楽しい方法で神様は主人に『手術』をなさったのよ」などと、彼女が喜んで証していたのを覚えている。

この姉妹の話していた内容は、信仰を持っている信者にも、にわかには信じがたいと思うような内容が実に多かったが、筆者にはよく分かる。

話は変わるようだが、最近、筆者がペットを何気なく獣医に連れて行った時に、誤診に遭うという出来事が起きた。些細な怪我の治療のために、獣医へ連れて行くと、それをきっかけに、別件で手術が必要だと医者に言われたのである。

「ヴィオロンさん、これは問題ですね。これは先天性の病気ですよ。こんな問題を知らずに押しつけられたとは、あなたは可哀想です。」

と、そこまで医者は言ったのであるが、その言葉が、全くの誤診だったのである。この誤診がもととなって、大変なすったもんだが起き、あわやペットそのものも手放すかというほどの事態へと発展したのであるが、筆者はそのハプニングの途中で、それが悪霊からの攻撃であると気づき、嘘の不安を振り払って、事なきを得た。

ペットを筆者に譲った人の確認、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンの結果、それが獣医の完全な誤診であり、筆者は全く悩む必要のないことで悩まされていたことが判明したのである。

結果的に、問題はすべて嘘のように消えてしまい、平穏が取り戻された。だが、混乱させられ、対応を考えていた時間は、損失であったと言えるかも知れない。さらに、もしも万一、筆者が一人の獣医の診断に従って手術を決行していれば、ただ単に余計な費用がかかっていただけでなく、臓器の一部を永久に摘出し、ペットの一生に関わる重大な悪影響を招いていたことになる。まさに筆者自身が何を信じるのか、ということが問われていた瞬間であった。

筆者は自分自身のためにはよほどのことがない限り、薬も飲まず、医者になど極力かからないタイプなのだが、ペットのためということになると、専門家の判断を無条件に信じてしまいそうになる心の弱さがあることに気づかされた。

そのような不安を入り口として、暗闇の勢力が信者に罠をしかける。獣医が悪意を込めて故意に誤診したとまでは思わないが、この出来事の背景には、筆者の平穏とペットの健康を破壊しようとの暗闇の勢力からの悪魔的な意図が働いていたことは間違いない。

そういう出来事は、今まで、この他にも数知れず、起きて来た。だから、筆者のみならず、神を信じる信仰者の生活には、誰しも戦いがあり、信者は自分の生活に対して悪魔のしかける絶えざる妨害と攻撃の意図を見抜き、それらを全て主の御名によって撃退しながら、自分自身と自分の管理下にあるすべての者たちの平和と健康と安全を守り抜かなければならない義務があると筆者は確信している。

霊感商法のように、人の不安を煽り、それをきっかけに深刻な災いへと発展させようとすることは、暗闇の勢力の常套手段である。そして、悪魔の最終的な狙いは、死をもたらすことである。医者までも、そのきっかけとして利用される危険があることが分かった。だが、そのような試みの最中で、神は常に信者の心に問われる。あなたは何を信じるのかと。

神は筆者に問われる。あなたが信じているのは、神の守りの完全さか、それとも、悪魔のもたらす不完全さと、その結果としての滅びなのか。すなわち、筆者がこれまでにも信じて来た通り、神は信じる者とその家族に完全な健康と幸福と安全を与えて下さり、全ての局面において、守って下さることを信じ切るのか、それとも、神は理不尽な病気を送ったり、思いもかけない災いを下したりして、信じる者の生活を苦しめ、絶えず悩ます存在だと考えるのか。常に筆者自身が、何を信じるのかを選択して行かなければならないのである。

筆者はこれまで自分の生活の全ての局面において、神の守りがあることを確認し続けて生きて来たが、以上のようなことがあってから、神の守りの完全性を、以前よりもなお一層、確信するようになった。そして、神以外のものに頼り、助言を求めようとする心の弱さを、徹底的に追い払って行ったのである。

たとえば、筆者は以前には、専門家と称する人たちに一定の敬意を持ち、定期的に医者にかかるのも良いことだと考えていたが、そのような考えをも改め、たとえ自分に専門知識があるわけでない分野のことであっても、目に見える人間の言葉よりも、まず第一に、まことの命と健康を保証して下さるただ一人の神に信頼を置く生活に切り替えたのである。

もし筆者が神を信じていない人たちに助言を求めるならば、その不信者たちを通して、悪霊が筆者の望んでもいない、御言葉にもそぐわない助言や指導をもたらし、それがきっかけで大変な混乱が生活にもたらされる危険がある。筆者はそのようにして不信仰な人たちに心を煩わされ、翻弄される余地を極力、排除して行ったのである。

だから、そういったことの結果、このブログでそれまで受けつけていたコメントや、設置していたアクセス解析の装置も、すべて取り払ってしまった。良い読者も悪い読者もみなそれによって筆者への応答の余地を失ったわけであるが、それをもったいないとも思わない。

以来、このブログは完全な一方通行になった。すなわち、地から天への一方通行である。このブログはもはや人に捧げられるものではなく、天に向かってのみ捧げられるものになったのである。

他にも、例を挙げれば、スカイプをやめ、以前に登録していた転職サイトのようなものもすべて退会してしまった。登録していると色々な企業からオファーが送られて来て、かつてはそれを見るのも楽しく、筆者を必要としている多くの場所がこの地上にはあるように思われて、悪くない気がしていたものだ。だが、そのようなオファーは、大抵、以上に挙げた獣医の誤診と同じように、全く筆者の望みとは関係ない方向へと筆者を誘導し、無駄な時間を費やさせるだけで、結局、人生で何の助けにもならないのである。

キリスト者は、自分自身の人生の主導権を決して他人には預けず、何もかも、自分の意志によって決断し、決定して行かなければならない。それこそが、統治するということの意味なのである。キリストは、人間的には無力で無知に思われる我々の存在を通して、ご自身の完全な統治を現したいと願っておられるのであり、また、我々の人生をも、我々と共に、統べ治めて下さる。だが、その統治が実現するためには、まず他者からの無用な助言や忠告によって、知らぬ間に自己決定権を奪われるようなきっかけを作らないことである。いたずらに人に頼らず、主導権を明け渡さないことである。そのようなことが起きうる心のきっかけを、とことん排除して行かねばならないのである。

それはちょうど冬が来ると、ロシア人が家のあらゆる隙間を目張りして埋めてしまうのに似ているかも知れない。ロシア人は隙間風を嫌う。冬の冷たい隙間風は人の健康を思いもしない形で損ない、万病のもとになると考えられているため、彼らは本格的な冬が到来する前に、家の窓や扉の隙間を完全に塞いで、外からの風が家の中に全く入りこまないようにしてしまうのである。

それと同じように、筆者は霊的隙間風が筆者の信仰生活に入って来ないように、侵入口を徹底的にふさいだ。その結果、筆者の霊の家には出口がなくなってしまった、ただ一つの方向を除いては。信者は言う、「たとえ信者にとって四方は塞がっていても、天に通じる扉はいつでも開いているのですよ」

そうなのだ。上にあるものを求めなさい、地上のものに心を惹かれてはならない、と、聖書にある通り、我々信仰者の扉は、地上の人々に向かってではなく、ただ天に向かって開いている。我々の心の扉は、天におられるまことの神に向かって開いてさえいればそれで良い。専門家だとか、助言者だとか、教師だとか名乗ってやって来る人々に心を預けても、ほとんどの場合、願っている解決は来ないどころか、とんでもない結末が待ち受けているだけである。

我らのただ一人の助言者、救い主に、常に相談できる特権が与えられていることは大いなる幸いである。この方から、我々は必要な解決のすべてをいただくことができる。たとえ時に、神から来る解決が、遅いように思われ、かなり長い間、待たなければならないことがあったとしても、神はすべてに間に合い、すべてに十分に行き届く方である。

神には遅いということはないし、手遅れということもない。悪魔の囁きに負けて、人間的な不安を煽られて、取り返しのつかない性急な判断をしないことである。ただこの方に信頼し、この方にすべてを打ち明け、力となり、解決となっていただき、健やかに生きるのが、人にとっては最も安全な策である。
 


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(1)

クリスチャンの間でよく語られている逸話に、信者が不信仰によって受け取らなかった天からの贈り物の幻というエピソードがある。

正確には記憶していないが、筆者が覚えているかぎり、こんな内容だったように思う。

ある信者が、幻の中で天国に連れられて行き、天使に天国の中を案内された。ある部屋の前で、信者はとても興味を惹かれ、立ち止まった。この部屋の中をぜひとも見てみたいので、扉を開けて欲しいと信者は天使に願う。だが、天使はその部屋は見ない方が良いと信者に言った。理由を尋ねると、天使はこう答える、「その部屋の中には、あなたが生前、神から贈られながらも、不信仰ゆえに受け取ろうとしなかったために、天に送り返されて来たプレゼントの山がしまってあるのです。」

信者は見ない方がいいと言われても納得できず、天使にどうにか懇願してその部屋を開けてもらってみた。実際に、その部屋には素敵なプレゼントの数々が天井に届くほどうずたかく積まれており、すべての贈り物に、その信者宛てのお祝いのカードまでついていた。どれもこれも、信者が確かに、こんなものがあれば、と生前、神に願って祈っていたものばかりであった。信者は愕然として、こんなにも多くの祝福を、神は自分宛てに送って下さっていたのに、自分は受け取りそこなっていたのかと、いたくがっかりしながら幻から目覚めるというような筋書きであった。

筆者はこの意地悪な作り話の内容をほとんど信じていない。

ある意味では、これは身につまされるような話である。実際に、筆者は不器用ゆえに天からの贈り物を受け取りそこなったことが幾度もある。明らかに、筆者自身が主に一生懸命にこいねがい、その願いに応えて、神が用意して下さったと分かっているものさえ、受け取りそこなったことが幾度もあるのだ。

人は本当に心から願っていたものが目の前に現れるとき、妙な緊張感を覚えるものだ。また、あまりにもタイミングよく物事が進むとき、怖れに駆られ、目の前にある祝福を受けとるのに、奇妙なためらいを覚えることがある。

そんなこんなで、せっかく祈り、またその祈りが応えられたにも関わらず、結局、筆者が怖れに駆られて受け取りそこなったものはたくさんあるのだ。だから、上記のようなエピソードは、まさに筆者にはよく当てはまっているように感じられる。

にも関わらず、筆者は以上のような話をまことだとは信じていないのである。

どうしてかというと、天からの贈り物にも、まず保管期限や不在通知なるものはあって、一度や二度、信者が不信仰によって受け取りそこなったからといって、それで終わりにならないからだ。

宅配便や、郵便と同じように、天から送られて来た荷物も、地上での一定の保管期間がある。それが過ぎると、天に送り返されてしまう。そこまでは確かなことだ。たとえば、祈りが応えられて、自分が受け取れるはずだったものも、長い間、怖れ、ためらっていると、自分の前を素通りして行き、他の人が代わりにそれを受け取り、他の人が祝福にあずかるのを見せられることもある。そうして祝福がもはや他人のものになってから、どっと後悔が押し寄せて来て、どうしてあの時、チャンスが与えられていたのに、もっと勇気を出してそれを受取ろうと行動しなかったのか、行動してさえいれば、それは今頃は自分のものになっていたはずなのにと、嘆いたりする。

だが、信者の人生に、本当はそんな後悔は必要ないのだと筆者は確信している。仮に保管期限を過ぎて、贈り物が天に返されたからと言って、一度や二度、祝福を受け取りそこなうと、天からの祝福は、それで終わりになってしまようなものなのかと言うと、そんなことは決してないからだ。

何よりも、私たちの神は、信者の目の前にたくさんのニンジンをぶら下げて、一番、早く大胆にニンジンに飛びついた者が、天の祝福にあずかるのです、などとおっしゃって、多くの信者たちを競争させるような意地悪な方ではない。早くニンジンに積極的に飛びつきさえすれば、天の祝福により多くあずかれると考えるのは、地上的な愚かな考えであり、錯覚である。

天からの贈り物は、一度、天に送り返されても、その後、何度も、何度も、形を変えて送られて来る。そして、後になれば、食べ物が腐ったりするように、中身が悪くなるのかと言えば、そういうことも全くない。むしろ、後になるほど良いものが送られて来るほどである。

人間の心は、体と同じように、絶えず変化するものであって、信者が神に願い出るものもの内容も、絶えず変化する。天からの贈り物は、常に過去ではなく、現在を起点として、信者が今、神に何を願うのか、それを基準に送られて来る。過去に何があったかなど、全く問題ではないのだ。

たとえば、一年前に買った服は、どんなに気に入っていても、今はもう着られないかも知れない。たとえ着ても、自分には似合わなくなっている可能性がある。人はそれを見て、「あなたが太ったのが悪い。前はもっとスリムだったから、その服がよく似合っていた。あなたはもっと痩せるべきだ」と言うかも知れない。あるいは、「あなたが老けたのが悪い。もっと前は若々しく見えたから、その服がよく似合っていた。あなたは十年ほど若返るべきだ」と言うかも知れない。

だが、よく考えてみれば分かることであるが、そんな考えの何と非現実的なことか。人間は今の自分に合う服を探すべきなのであって、過去に遡って、過去に買った服に現在の自分を合わせるなどナンセンスである。そもそも、服が人間に合わせて作られるべきなのであって、人間が服に自分を合わせるなど馬鹿げている。

だから、それと全く同じように、もし仮に信者が過去に受け取りそこなった天からの祝福なるものがあったとしても、それはその時を逸してしまった以上、今はもうたとえ送られて来ても、役に立たないものばかりである。今、信者が必要としているものは、過去とは違っているはずである。それなのに、過去に受け取りそこなったものを数え上げては、自分の不信仰を責めるなどという無意味な悪循環に陥るよりは、今、自分に何が必要なのかを、率直に天の父に申し上げた方がどれほど生産的か。

にも関わらず、大事にしていた服が着られなくなった時に、人が惨めさや失望を味わい、自分がすっかり変わってしまったことに自責の念すら覚えることがあるように、信仰においても、以上のようなナンセンスな考え方を、信者は自分の信仰生活に適用しがちである。すなわち、過去のことを振り返って、自分の不信仰を責め、あの時、ここで間違ったから、このような惨めな結果に至ったのだ、とか、あの時、ああしていれば、こうはならなかった・・・などとくよくよ考え、まるで自分の行動次第で、現在とは違う、バラ色の可能性が開けていたかのように想像をめぐらして、自分を責める思いがこみ上げて来ることがあるのだ。

あたかも、自分が受け取らなかった恵みの山がストックされた部屋がどこかにあって、意地の悪い天使が、死後、あなたにそれを見せて、あなたにはもっと恵まれた生活の可能性があり得たのですよ、でも、もう今となっては遅いですね、と囁いているかのように。

だが、そんな思いには、きっぱりとさよならを告げて、地獄へお帰りいただかなくてはいけない。その思いは、御霊から来たものではない。実際には、そんな部屋はどこにも存在しないのだ。天からの恵みは、あなたを満たすために送られて来るものであって、受取人であるあなたに恥をかかせるために送られて来たものではない。

神はあなたをあらゆる祝福で満たし、慰め、喜ばせたいのであって、それによって、ご自分も栄光を受けたいと願っておられるのである。神があなたにプレゼントを贈るのは、あなたの不信仰を責めるためではなく、あなたがそれを受け取りそこなって絶えず失意に落ち込むためではなく、あなたが神の気前の良さ、神のあなたへの愛の深さ、あなたへの思いやりの深さを、生きて知るためなのである。

だから、もしあなたが神の恵みを受けとることに不器用であったとしても、自分が願った祈りが本当に叶えられるのか、不信仰なときがあったとしても、神は何度も、何度も、あなたが神はどういうお方なのかを知るまで、あきらめることなく、プレゼントの山を送り続けられる。筆者はそのことを保証できる。

そういう意味では、神は、愛した女性にあきらめずにプロポーズを続ける求婚者のような方であって、一度や二度、いや、百度、二百度、すれ違いが続いたとしても、神の側からは、そんなことは何の障害にもならず、あなたが神の方に注意を向けて、神への忠実と愛を失わないでいる限りにおいて、必ず、また恵みの山を何度でもあなたのもとへ送られるのである。しかも、それは一年前のあなたの願いに応えられるのではなく、現在のあなたの心の願いに基づいて、神が実行されることなのである。

求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます。というのは、そういうことである。

ここには、「いついつまで」という期限は存在しない。どんな風に懇願したか、という態度にも条件はない。具体的にどういうものならば、求めても良いのか、リクエストの内容にも、条件はない。ただ求めなさい、と言われているだけである。

地上における人の人生には限りがあるので、人間は、自分の努力が足りなくて、何かが手遅れになり、もう間に合わなくなるのではないかという怖れを常に抱えている。常に、急がなければならない、もっと大胆に、積極的にならなければならない、そうでなければ、せっかくのチャンスを逸してしまう、という恐怖が心に存在する。だが、神の側からは、人間の有限性など、全く問題にならないのである。

神はあなたの時を知っておられ、あなたの心を知っておられ、あなたの限界を知っておられ、あなたがこの地上では一瞬で消えて行くようなはかない存在であることを知っておられる。どんなにあなたが頑張って、完璧に振る舞おうとしても、あなたにできることなどもともと限られている。それにも関わらず、神は大いなる祝福であなたを満たしたい、と言われるのである。それはあなたが努力によって達成する課題ではなく、神の側からの願いなのである。

神がアブラハムに向かって、彼の子孫が空の星のように、海の砂のように多くなると言われた時、アブラハムにはまだ一人の息子もなかった。あなたは、周りを見回して、自分には何もない、と言うかも知れない。もし本当に神が自分を祝福されたならば、豊かな命で満たして下さったならば、この何もない状況は、何が原因なのか、神が間違っているのでなければ、多分、自分の不信仰のせいで生じたのに違いない、と思うかも知れない。そして、何も結果らしい結果が出ていないことで、自分を責めたり、不信仰ゆえに受け取りそこなった宝の山がどこかに隠されているに違いない、などという無駄な想像までもめぐらすかも知れない。

だが、そうではないのだ。神の祝福は、一見、届くのが遅いように見える、このことをよく覚えておくことも有益である。むろん、早い時もあるのだが、それはあなたが願ってから、あなたの手元に届くまでに、時差があるのが普通だ。随分、長いこと待たされることもあり、一年以上の月日が過ぎ、あなたは自分の願いをもう忘れ、あきらめかかっていることもある。だが、それは必ず、届くのだ。

だから、一体、何のせいで恵みが手元に届くのが遅れているのか、それが人間の側の不信仰によるのか、不器用さのためなのか、それとも別の原因によるのか、などといったことは探らないが良い。それよりも、あくまで神に求め続けることが肝心である。

求めることに、遅すぎるということはない。信者が何かを神に求めることに、期限はつけられていない。何かを願い出るならば、いついつまでに神に予約しなければ、手遅れになる、などとも、聖書に書かれていない。つまり、信者は生きている限り、どんなことでも、神に求め続ければ良いのである。もし期限を考慮されるとしたら、それは神の側で考慮される。神があなたの状況をご覧になって、いつまでに何を送れば良いのかをきちんと考慮される。神はすべてにおいて、必要なタイミングを知っておられ、万事を良きにはからうことがおできになるので、そこに全幅の信頼を置くべきである。だから、遅すぎるかどうか、といったことは、あなたが心配すべきことではないのだ。

信仰においては、遅すぎるということはない。神はすべてに間に合う方である。神にあっては、手遅れであるとか、遅すぎるとか、不可能であるということは、存在しないのである。神ご自身が完全な救いであり、解決だからである。

<つづく>


神の家の建造のために――枯れた骨を立ち上がらせるキリストの復活の命――

高慢とは何であろうか、真の謙遜とは何であろうか。

実は、その実態は、多くのクリスチャンが考えているのとは真逆であると筆者は思う。「私は神の恵みに値しない」という考えほど、うわべは謙遜に見えて、その実、悪質な高慢はない。

筆者は幼い頃からのキリスト教徒であったので、清貧貞潔な生活へのこだわり、社会的弱者への憐れみ、などの感情を物心ついた頃から持っていた。そのため、ある時期が来るまで、貧しいことは悪いことではなく、病に陥ることは悪いことではなく、追い詰められて死を願うことも、悪いことではなく、そのような困難な状況にある人たちに、信者は積極的に手を差し伸べ、大いに同情や共感を持つべきである、と考えていた。

ところが、不思議なことに、信仰生活を送れば送るほど、実際はその逆である、ということが分かって来るのだった。困難の中にある人に同情し、助けの手を差し伸べれば差し伸べるほど、同情する側も、同情される側も、ますます困難の中に居直り、深みにはまり、そこから抜け出せなくなっていくという堂々巡りが起きるのである。

このようなことを言えば、早速、「あなたは社会的弱者を追い詰めるつもりか」という非難がやって来るであろう。ちょうどカルト被害者救済活動の支持者が、この活動の欺瞞性を指摘した筆者を断罪したようにだ。

だが、今、筆者はそんなことを目的にこれを書いているのではない。

筆者が、貧しさや、困難や、病や、死を心から憎むようになったのは、かなり前からのことであり、カルト被害者救済活動と訣別した頃には、すでにその考えの原型が心に固まっていたのだが、その完成となる事件は、KFCで起きた。

その事件も今から振り返ると相当に昔のことであるが、その当時、雇用情勢はますます悪化し、ブラック企業が横行し、正常な仕事を見つけるのが難しくなっていたが、筆者が職を変わる時、兄弟姉妹に祈りの支援を求めていたことが、KFCで災いし、これが嘲笑の材料とされたのである。

KFCにいた信者たちは、筆者よりも20~30歳ほど年上の世代ばかりで、比較的裕福な閑人が多かった。ほとんどが年金生活者か、働いていない者たちであった。だから、月曜から金曜まで真面目に労働に明け暮れ、なお、豊かにならない若者世代の苦しみを、そんな彼らの世代が、理解すること自体が、無理な相談であった。それでも、ある時期までは、信者たちの幾人かは、決して筆者の祈りのリクエストをあざ笑ったりすることなく、共に祈り、それなりに心配もしてくれていたのである。

ところが、KFCがいよいよ異端化していることが明確になる頃、そこにいた兄弟姉妹たちは、あからさまに弱肉強食の原理を信仰生活に持ち込み、そこに世代間格差のエキスも混ぜ合わせて、自分たちが「神によって恵まれた特権的な豊かな信者であって、それ以外の貧しい信者とは違う」と、年少世代の苦境をあからさまに嘲笑するようになったのである。

筆者が彼らに相談事を持ちかけたり、祈りの支援を乞うたりしたことが、悪用された。そうした相談事が、あたかも筆者が「信仰的に自立できておらず、神の恵みを拒んで人に甘え、人に頼っているがゆえに、いつまでも抜け出せない困難の堂々巡り」であるという決めつけの根拠とされ、「ヴィオロンなどには同情する意味もなければ、助ける価値がない」と結論づけられ、筆者の抱えていた窮状は全て「不信仰の産物」として片付けられて、嘲笑され、踏みつけにする材料とされたのである。

むろん、そのような考えの発信源はほかならぬDr.Lukeであって、同氏がいつものように取り巻きをけしかけて不都合な信者に集団イジメをしかけただけであった。KFCでは筆者の他にも、絶え間なくそのような事件が起きて、年少者でなくとも、何かの理由をつけられては、信徒が見下され、仲間から批判されていたのである。

それが、筆者に矛先が向いたのは、筆者が常日頃から、Luke氏が聖書の御言葉から著しく逸脱していることを、面と向かって同氏に忠告し、かつ、Br.Taka夫妻を含め、メッセンジャーたちが信徒の上に立って勝ち誇っていることを強く非難し、指導者と信徒との霊的姦淫の関係が結ばれるべきではないと言ったので、ついに筆者の「生意気さ」に同氏の我慢の限界が来て、報復行為に及ばれたのであった。

その当時、神への霊的純粋さを失い、なおかつ、決して他の信徒を教える立場から離れることができなかったDr.Lukeにできることといえば、高みに立って、己が富を誇り、聖書に立ち返れと叫ぶ信者の貧しさを嘲笑することくらいしか残っていなかったのであろう。

KFCはもともと外側の物質的豊かさを、まるで内側の霊的豊かさのように誇り、自分たちは「天の特権階級だ」と他人を踏みつけにすることを、よすがのようにしていた。そのような方法で、自分たちは他のクリスチャンに比べ、特別に神に恵まれ、覚えられている存在であることを強調することだけが、この団体の特徴になってしまったのである。Dr.Lukeは取り巻きの老人たち(もはや婦人たちという言葉さえ、使うのがもったいない)を巻き込んで、筆者の置かれていた状況を、筆者を見下すために悪用したのだが、それによって、御言葉から逸れている自分たちに対する筆者の非難をかわせると考えていたのであろう。

だが、以上のような事件は、当時はまだ筆者にとってショッキングに感じられはしたが、ある種の「霊的平手打ち」となり、筆者がよりはっきりと目を覚ますきっかけとなった。その頃から、悪魔に対しては、弱みを見せるどころか、とことん見栄を張らなければならない、ということが筆者に分かって来たのである。

以来、筆者は悪魔に魂を売った連中に、「不信仰だ」などと後ろ指を指されて、嘲笑されるような機会を決して作らないように、自分の生活の欠乏を他者に打ち明けて、祈りの支援を乞うことを、やめてしまった。特に、そのような連中に助けを求めるなど言語道断であるから、彼らとの兄弟姉妹の絆を絶ち切り、彼らをキリストの御身体から断ち切って、彼らと完全に訣別し、自分の生活に起きるすべての状況と、すべての思いを、ただ天の父なる神だけに完全に委ねるようになったのである。

世の中の情勢は、その頃から今に至るまで、寸分たりとも改善することなく、刻一刻と悪くなっているだけである。我々の世代を取り巻く状況は、今も悪化を繰り返しているだけで、何の将来の見込みもない。

だが、だからと言って、筆者がその時代の趨勢に従って歩むべきかと言えば、そんなことは全くないのである。こうした状況は、そもそも果たして筆者の負うべき責任であろうか。むしろ、そういった世の悪しき状況は、どちらかと言えば、年長世代の貪欲と怠慢によって引き起こされたものであり、彼ら自身の罪の結果だと言えよう。それなのに、その状況が、なぜ年少世代に自業自得であるかのようになすりつけられなければならないのか。そんな理由はどこにもないのである。

そんなわけで、筆者はこの「刻一刻と悪化して行く世の情勢」なるものを、自分とは無関係なもの、筆者には責任のないもの、さらに、すでにキリストが十字架で終止符を打たれたもの、神の御心に反する悪魔の憎むべき嘘として、自分から切り離したのであった。

そして、今までのように、「世の中がこうだから」という理由で何かをあきらめ、妥協することをせず、自分が何を願っているのかだけを、世の情勢に頓着せずに、率直に神に申し上げ、あきらめずにそれを神に懇願し続けた。その際、人には全く頼らず、相談もせず、どんな細い道を通らされる時にも、ただ天におられる父なる神だけを見上げ、神がすべてのことを良きにはからって下さるという確信だけを胸に抱いて、今日まで歩み続けて来たのである。

その過程で、筆者は度々、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されるに至った。むろん、まだまだジョージ・ミュラーほどの経験には及ばないことは知っている。それでも、この世には一切、保証を求めず、人に助けも乞わず、ただ祈りだけによって、すべての必要を神に叶えていただく、その秘訣を、筆者は、確かに学び始めたのであり、ミュラーと同じ道を今も歩き続けているのである。むろん、その道は、ミュラーが開拓したものではなく、イエス・キリストが切り開かれたものである。

そうこうしているうちに、筆者に対して己が富を勝ち誇っていた人々は、時代の趨勢の悪化に伴い、凋落して行ったようであった。もともとそうでなくとも、筆者より年長の世代は、普通に考えれば、筆者よりも早く亡くなるのが当然である。彼らが筆者の貧しさや苦しみを嘲笑していた時、筆者はまだ人生のほんの駆け出しであったが、他方、彼らはすでにとうに頂点を通り過ぎ、あとは次の世代にバトンを預けるのみの状態であった。にも関わらず、そんなことも考えずに、彼らは筆者の前で、自らの栄耀栄華を誇っていたのである。今になっても、彼らは舞台から降りるどころか、「神になり」、自分たちの時代を永遠に謳歌するつもりでいるらしい。

だが、もしそのように主張するならば、彼らは老衰にも、死にも、打ち勝たなければならない。普通の老人たちのようにただ老いて、病に倒れ、生活を縮小し、先細りとなって活動をやめるというのではなく、モーセのように、人生最後の瞬間まで、気力が衰えず、生涯の終わりに近づけば近づくほど、ますます若者のように明るい輝きを放ち、神の命の永遠なることを世に立証せねばならない。それでこそ、自分はただの人間ではなく、神が内に生きておられると、はっきり言えるであろう。

今、彼らの凋落を、彼らの不信仰の産物だと筆者が言うのは、彼らの発言の裏返しである。彼らは、自分たちが時代の幸運に見舞われていた時には、それを信仰の手柄のように誇った。もしそうならば、時代が悪化した時に、なぜ彼らの信仰は役に立たず、彼らの凋落を食い止める手立てとならなかったのであろうか。それは最初から、彼らが誇っていたものが、信仰の産物などではなかったからだ。

時代の趨勢によって手に入れただけのものは、時代の趨勢によって奪い取られる。時代に媚びる人間は、時代に逆らう術を持たない。自分が富んでいる時に、貧しい者の悩みを蔑み、悩んでいる者に助けの手を差し伸べることを拒み、祈りの支援を乞うた仲間と共に祈ることを拒み、その人の願いをあざ笑って、蔑み、呪い、貧しい者を自分たちとは全く無関係な人間として突き放していれば、自分自身が衰えて凋落した時に、人からも同じように冷たい態度を返されるのは仕方ないであろう。

だが、筆者にとっては、以上のような人々の仕打ちでさえ、有益な教訓となったと思うのは、人の心には、神の恵みを受けとることに、常に恐れやためらいを感じる瞬間があり、たとえ信者であっても、神の恵みを素直に十分に受け取れるようになるまでには、時間と訓練が必要だからである。

特に、清貧貞潔、弱者救済、などの理念を掲げて生きて来た人ほど、貧しさを憎み、病を憎み、死を憎んでこれを拒絶し、キリストの命を選び取ることが難しい。

彼らは、貧しくあることが高潔であり、弱者であることが、美徳であるかのように思い込んでいるからだ。

そこで、筆者が貧しい時には、それを不信仰だとあざ笑っていた人たちが、いざ自分たちが貧しさや、病や、老齢や、苦難に見舞われると、一体、どうするのかを見ていると、それらの欠乏をまるで自分を飾る美しい衣のように大切に握りしめるのである。

そして、「苦しみや、困難の中で神に従い、健気に生きている自分」を美化する。そして、そのように苦難に耐えるのが信仰だと言い始める。

彼らは病にしがみつく。貧しさにしがみつく。卑小な自分自身にしがみついて、物乞いのぼろ服を後生大事に抱え込み、いつまでも、これを手放そうとしない。「病に打ち勝つ信仰」などと言いながら、いつまでもずっと病の話ばかりを続けているのである。その話をやめられないこと自体が、そのテーマが、彼らの中で過去になっていないことの何よりの証である。そんな姿は、彼らが筆者をかつてあざ笑っていたのと何の違いがあるのであろうか?

人の人生には、その人自身が作り出したとしか思えないような幾多の困難が存在する。多くの人たちは、不幸は不運な偶然や、事故が原因であると思って、可哀想な人々にいたく同情している。

だが、クリスチャンの人生には偶然というものはなく、すべての出来事が、天の采配であると同時に、本人が信仰によって選び取った結末なのである。信者が神の側に立っているのか、悪魔の側に立っているのか、すべての出来事を通して、信者は自分の信仰を表明しなければならないのだ。

だから、たとえ一時的に困難に見舞われることがあったとしても、それも神の栄光のために用いることができることを信じなければならない。預言者が空の器を次々、油で満たしたように、神は信者の生活の欠けを隅々まで満たすことがおできになり、従って、我々の弱さや欠乏は、神によって満たされ、神が栄光を受けられる材料に過ぎないと思うべきなのである。

聖書における病人たちは、主イエスに会って病を癒された。死んだ者たちはよみがえらされた。主イエスは病人たちに同情の涙を注いで、ただ施しをして終わりにはせず、彼らが本当に自立できるまことの命をお与えになった。主は貧しい人たちを空腹のままで去らせたわけではない、目に見えるパンが、目に見えないパンからできていることを教え、すべてを手に入れるための本当の秘訣であるご自身の命を人々にお与えになられたのである。

ところが、どういうわけか、今日のキリスト教では、困っている人たちにキリストの命によって立ち上がるよう求める代わりに、施しや、同情という網でがんじがらめに捕えて、慈善事業に明け暮れている。こうした慈善事業はどんなに繰り返しても、決してキリストの命にたどり着かない。

だが、そのようにして人間が人間の欠乏を満たし合うという関係を離れ、キリストの御名を通して、天におられるまことの神に向かって自分の欠乏を差し出すならば、それは必ず、不思議な方法で満たされるのである。満たされた欠乏は、すでに欠乏ではない。それは神の栄光である。だから、神に従う人間には、どんな困難があっても、それらはすべて神の最善を証する機会へと変えられる。信者を嘲笑していた人たちが真に恥じ入るのは、そのような瞬間が来た時である。らい病人が癒され、死者が立ち上がり、喪にくれていた人たちが喜びに涙し、悲しむ者が慰めを得、貧しい人が食べ飽き、義に飢え渇いていた人が、義に飽き足りるようになる時である。

その瞬間は、遠い未来のことではなく、今なのである。今、すべての欠乏を抱えたまま、天の父なる神の御前に進み出て、神の限りなく愛なること、神の限りなく善なることを告白し、神は信者が悪魔とその手下どもに嘲弄されるままの状態を、決してお見逃しにならないことを信じるべきである。

「主よ、お聞きください、暗闇の軍勢がこう言っています、信者が貧しいままなのは、あなたの助けが足りないからだと。信者が苦しんでいるままなのは、神に見捨てられているからだと。信者に力がないのは、神など存在しないからだと。私に対する侮りの言葉は、すなわち、あなたに対する侮りの言葉であることを覚えて下さい。

しかし、悪魔とその軍勢がどれほどあなたの御名の偉大さを否定し、あなたの助けを貶め、信じる者には助けがないと言ったとしても、私は断固、そのようなことを事実として信じておりません。私は、私が地上で何者であるかに関わらず、ただあなたの御名において、あなたのものとされた人間として、私に対するあなたの守りと助けの常に完全であることを信じています。

御力を現して下さい。この虐げられて、疲れ切って、弱々しくなっている民に、あなたの御名にふさわしい新しい力を与えて下さい。新たな衣を着せ、足腰を強めて立ち上がらせ、枯れた骨のような人々を、一人の新しい人に、神の軍隊に作り変えて立ち上がらせて下さい。御名がこれ以上侮られ、辱められることのないよう、あなたの名で呼ばれている民を、立ち上がらせて下さい・・・。」


悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。 」(黙示録2:10)

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 」(ヤコブ1:12)

何年も前から、当ブログにおけるキリストの復活の証に憎しみを燃やし、この証を何とかして地上から取り去り、筆者を含め、真実に聖書の神に従う信者たちの信仰告白を、この世から消し去ろうと腐心している勢力があるが、彼らは常に失敗を続けている。

しかし、悪人どもは、色々な工作をしかけたが、結局、このブログを消し去ることに失敗し、ブログ主を告訴することもできなかったので、このブログの一番どうでも良い記事ばかりが検索結果にヒットするよう常に腐心している。

ところが、このように検索結果が歪められているおかげで、筆者には、悪人どもの狙いがこの上なくはっきりと理解でき、当ブログ記事のどこに弱いところがあって、何をどう書き直すべきか、そのヒントをも的確につかむことができるのだ。

つまり、悪人どもが何を企んでいるのかが分かるため、その策略が功を奏さないよう、以前に書いていた信仰告白の弱いところを補強する。

悪魔を喜ばせるだけの不信仰な文面はすべて削除して、キリストの十字架における解決の完全性をこの上なく強調する内容とする。

中途半端に言い切れていなかったがゆえに誤解を与えそうな表現は最後まで文脈の中に抑え込み、まことの神だけに栄光を帰するように改める。むろん、書き直し不可能な文章は惜しみなく削除して、新たな信仰の証のためにスペースを空ける。

人間の義を掲げて神の義を退け、十字架を否定して、神に敵対する人間たちの悪事は、激しい言葉で糾弾する。そのような記事はできるだけ前面に出す。悪魔に魂を売った連中が恥じ入るようにだ。

真実の重みによる霊的な衝撃力を増し加えることが目的である。読者の存在など、もう何年も前から、筆者の眼中にはなく、文学的修辞も念頭にない。

当ブログを始めた頃、筆者は美的感覚に随分、こだわっていたが、今はもうそんなこだわりがなくなった。しかし、文学的な表現力とは全く違う次元で、言葉というものが持つ本当の衝撃力を、筆者は理解したのである。

ブログの文面は、暗闇の軍勢の嘘の攻撃に対する神の御言葉による真実な証であり、キリスト者が子羊の血潮と証の言葉に確固として立つことは、激しい霊的な戦いにおいて神の権益を守り抜くための防衛戦なのである。また、すべてのものがひざをかがめて、キリストを主として迎える時のための人間側からの準備なのである。

だから、キリストだけにすべての栄光が帰されるように、また、キリストの救いの完全性がこの上なく明確にされて、ここに書かれている内容が、神に栄光をもたらし、暗闇の軍勢にとって恥となり、この上なく不都合な内容となるようにすることこそ、当ブログの狙いなのである。

そのため、悪魔にとって不都合な事実をしきりに強調しながら、神の正しさ、神の憐れみ深さ、神の愛の偉大さがより明確になるよう、書き直しているのである。

一体、そんなことをやり続けることに、意味があるのかと問う人もあろう。しかし、悪人どもの意図的な攻撃が続く限り、筆者の彼らに対する追い討ちも続く。

この戦いの過程で、筆者は相当に強くなったし、戦いのポイントをかなりおさえたのである。

神の被造物である人間を日夜訴え、苦しめ、その尊厳を奪い、無益な人生を送らせようと狙っている勢力があるのに、どうして無防備に呑気に構えている必要があるか。そんなのは愚かな人間のすることである。我々も悪魔と同じだけの執念を持って、日々、悪魔に立ち向かわなければならない。そうすれば、悪魔は逃げ去って行く。悪魔の抑圧から解放されることができるのに、その権利をつかみ取らないほど、無意味なことはない。

さて、悪魔に立ち向かうために、有益なコツをいくつかここに書いておく。

➀・・・罪悪感と訣別すること。これは信者にとって第一義的に必要なことである。クリスチャンが罪悪感や自責の念に苛まれていては、決して悪魔と対峙することなどできはしない。むろん、罪なる生活を送り続けながら、罪悪感を捨てるべきと言うのではない。思いつく限り全ての罪から離れるべきである。だが、離れたならば、もう罪悪感を持ち続けてはいけない。過去に何があったかなど、忘れることだ。いや、忘れなくても良いが、過去は血潮によって清められているという事実を掴むことである。自分の人生に頓着してはいけない。

悪魔は訴える者であるから、あらゆるきっかけをとらえて、あなたを告発しようとして来る。それに対しては、ただ神の義による潔白を徹底して主張することである。自分が何者であるかに立脚せず、神が何者であるかに立脚して闘うのだ。そして、あなたの人生そのものが、キリストの義によって覆われているのだから、あなたの人生そのものがキリストと同じほど、聖別されていることを確信しなさい。

さらに、時には、倍返しの訴えを悪魔に返してやり、あらん限りの力を持って、神の御前で悪魔を告発することも有益である。何しろ、悪魔は最初から罪を犯しているから、悪魔の罪状など終わりなく挙げられる。

悪魔を訴えるに当たり、最も有益な罪状は、クリスチャンに対する迫害の罪である。悪鬼どもは人間よりも寿命が長いので、有史始まって以来、クリスチャンの血をいわれなく流して来た己の罪をよく覚えている。特に、皇帝ネロの大迫害などは、悪魔の所業としていつでも効果的に訴えられる材料である。クリスチャンに対する迫害を、あなたの同胞に対して悪魔が犯した罪として、我が事のように告発せよ。悪鬼どもを殺人者として告発し、聖徒らの迫害者として神に訴えるのだ。その際、恐るべき執拗さを持って、悪魔があなたにしようとしたのと同じほどの執念で、彼らを延々と訴え続けることが有益である。悪魔はそのようにクリスチャンから非難されることが大嫌いであるし、第一、聖徒らの口から自分がクリスチャンの迫害者として非難されることに耐えられない。義人の証言は、暗闇の軍勢に対して大いに衝撃力を持つ。悪魔には良心の呵責は無いのかもしれないが、それでも、罪の自覚が存在するのである。彼らは自分の美が傷つけられることに耐えらない。だから、その非難の際、彼等には悔い改めの余地が永遠に失われており、彼等を待ち受けるのは神の激しい御怒りと地獄の火の池であることもセットで強調するが良い。

②・・・キリストが十字架で取られた完全な勝利を我が物として宣言し、自分の人生のあらゆる場面に適用すること。この点で、クリスチャンは謙虚でありすぎてはいけないし、臆病であってもいけない。クリスチャンは人生の勝利者なのである。あなたの人生の現時点での弱点は何か? 仕事がないことか? 体の不調か? 友人が足りないことか? 家族の理解がないことか? もしあなたが自分の生活に何かしらの弱点を持っているならば、それがキリストの強さによってすでに覆われており、キリストが天に備えて下さっている解決が、すでにあなたのものであることを高らかに宣言し、これを自分に適用せよ。状況に目を留めず、神の強さと恵みに大いに満たされ、それを宣言しなさい。弱々しい生活を送りながら、悪魔と対決することはできない。

神の解決を御言葉によって掴んだならば、もうそれ以上、問題などというものは存在しないのだから、問題を現実のようにとらえるのをやめることである。また、「助けて下さい」と神に向かって懇願するのではなく、もっと大胆に、主の御名によって、状況に向かって命じるのである。

クリスチャンには環境を支配する力がある。地上に生きる動物も、天候も、テクノロジーも支配することができる。その逆ではないのだ。アダムもそれなりに支配力を持っていたが、あなたの支配の力は、すべてにまさる主の御名から来る。だから、キリスト者にどれほど絶大な支配力が与えられているのか、試してみなさい。たとえ嵐が吹き荒れていても、主がそれを静められたことを思い出し、あらゆる困難な状況に向かって、従うよう命じなさい。命じたら、状況がどうあろうとも、それに左右されないことである。状況に主導権を与えず、それをあなたが握りなさい。

主があなたの牧者であるから、あなたには欠けたところは何もないという事実を大胆につかみ取り、あなたの人生における全ての欠乏を、天の恵みによって隅々まで満たしなさい。このようにして、クリスチャンが満たされて恵まれた人生を送り、喜びに溢れることは、悪魔にとって非常に忌々しい大打撃となる。

③・・・ただ神だけに頼ること。神以外のものに頼っていると、恵みが制限される上、御霊からでない無用な助言や忠告も入って来て、混乱が生じる。だから、人に頼らず、神だけに頼りなさい。神だけが栄光を受けられる状況を自ら用意しなさい。

④・・・さらに、神を喜び、高らかに賛美しなさい。悪魔はクリスチャンが喜んでいるところを見るのが我慢がならない。だから、特別に良いことがあった時だけでなく、どんなきっかけをとらえてでも、神を喜び、神に感謝と賛美を捧げるべきである。

むろん、人間には良い時と悪い時があり、不調の時もあろう。だが、そういったすべての状況を超えて、天の喜びの中に住まう秘訣を掴むのである。天にある富がどのくらい地上に引き下ろされるかは、あなたの信仰の状態にかかっている。あなたの霊が打ちのめされている時に、大胆に信仰を働かせることはできない。だから、何かダメージを受けても、失意に落ち込むことなく、できるだけ早く立ち上がり、信仰を奮い立たせ、天に直通の祈りを働かせる秘訣を学ぶことである。そのために最も有益なのは、主を喜ぶことと、主を賛美することである。賛美には人の霊を奮い立たせ、暗闇の軍勢の束縛を打ち破る力がある。パウロが獄中にいたとき、賛美によって囚人の枷が落ちたことを思い出せ。

クリスチャンよ、いつまでも打ちひしがれていないで、信仰によって、大胆に立ち上がって、歩き出しなさい。試練を通過するとは、打ちひしがれ、翻弄され、束縛や弱さに黙って身を委ね、そこから立ち上がれなくなることではなく、むしろ、その逆なのである。あなたに約束された命の冠を受けとるために、御霊によって強くされて、信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい。主は世に勝った方であり、あなたにはこの世のどんな圧迫にもまさる御名が与えられているのだから、その権限を地上で大胆に行使しなさい。そうしているうちに、キリストとあなたとの距離が、思ったほど遠いものではなく、むしろ、主があなたと一つになって働いて下さることが分かるようになるでしょう。

神はあなたを通してもっと働きたいと願っておられる。その可能性は十分に開けているのに、問題は、常に人間の側からの神への応答が、不十分なことにある。だから、もしあなたさえ同意するならば、暗闇の軍勢との霊の戦いにおいて、神はあなたを勇敢な戦士として十分に訓練することができることを信じなさい。その確信に身を委ね、訓練を始めなさい。どうせなら、弱々しい一兵卒で生涯を終えるよりも、将軍になった方が良いと思わない人がどこにあるだろうか。
 


神の恵みは水のように、より低い方へ、恵みを素直に求める飢え渇いた人々へ向かって流れる

さて、長らく記事を書いていなかったので、その間のことを補っておこう。
 
かなり前の記事ではあるが、澤藤統一郎の憲法日記「へそまがり宣言」、なかなか面白い内容だったので、ここに全文転載しておきたい。
 
有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。

日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。

現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。

これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。

多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。だから、学校も家庭も子どもに対しては、「素直に大勢に順応せよ」「現行の秩序に波を立てるな」「和を以て貴しとせよ」「敢えて強者に逆らうな」と教えこむのだ。「社会を変えようなどと不埒なことを考えず、おまえこそ社会が望む人間になれ」というのが、「妖怪・同調圧力」がもたらした恐るべき害毒の惨状だ。

多数派との対決を敢えて辞さない社会的少数者の闘いのあり方に2種類がある。ひとつは、今は少数でも明日の多数派を目指す組織的な運動。言論の自由市場において、多数派と対峙して、市場の勝利をおさめようというこれが正統派。政党を作り、民衆を説得し、選挙に訴え、やがては自らが多数派になろうという積極的で生産的な日向の存在。

もう一つ日陰の存在がある。そもそも将来の多数派形成を意識することなく、現多数派の非を徹底的に攻撃しようという立場だ。その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。

へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。

へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。

へそまがりはけっして天皇の権威を認めない。天皇についての敬語一切を拒否する。元号での表記は絶対にしない。天皇の就位から歳を数え始めるなんて、まっぴらご免。「日の丸」にも「君が代」にも敬意を表しない。
へそまがりは、「民主的な手続」で選定された政権や知事を大いに嗤う。アベ政権も、小池百合子都政も徹底して批判する。
へそまがりは、ナショナリズムを拒否する。オリンピックはうんざりだ。感動の押し売りはいい加減にしてもらいたい。

へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。

そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。
(2016年8月17日)

 
まことに面白いし、賛成である。筆者も天皇に敬語は使わない。オリンピックは聖霊派のリバイバルと同じで、決して来ない夢であり、日の丸と、アベマリオを現人神のごとく担ぎ上げ、まことの神に逆らうこの異教の祭典は、過去に幻に終わった祭典同様、我が国で開かれることは決してないであろうと、かねてより確信している。大体、その頃までこの国が持つかどうか。

筆者は世間の評価がどうあろうとも、『シン・ゴジラ』の筋書きへの失望と幻滅を隠さないし、安倍首相がロシアの経済発展に全面的に協力すると約束し、プーチン氏の訪日日程が確定したらしいことにも、決して喜んでなどない。それにしても、まったく何という愚かな外交的敗北であろうか。政治的手柄を立てたいばかりに、安倍はまたしても自分の方から、全面的にロシアに有利なカードを切ってしまった。どうしても「平和条約締結」という手柄を立てたい軽薄な首相がこの調子では、領土問題などまるでなかったことにしてでも、ロシアの前に涎を垂らして跪き、調印をお願いするのではあるまいか、と思えて来る。

それに対して、ロシア大統領は「ありがとう、晋三」と、上から目線の礼をそっけなく述べて、安倍の提案をただ検討するとしか答えていない。これまで日本の米国への片思いのゆえにさんざん肩透かしを食らったその非礼も考え合わせれば、ロシア側の回答としては当然であろう。だが、野心を見透かされているとしか思えない、到底、対等な外交からはほど遠い反応である。

それにしても、全く幼稚としか言えない安倍外交は、国益を度外視し、なおかつ、ロシア人の気質をも全く理解していない。ロシアの友情とはすなわちロシアの国益と不可分であり、かの国に対して必要なのはかの国と同じほどにしたたかな交渉である。そのしたたかさ、図太さがないと、外交的成功はあり得ない。それが政治的な手柄欲しさに涎を垂らして安っぽい笑顔をふりまき、しかも、まだ相手が何も約束しない前から、かの地へ出向いて行き、全面協力を申し出て、訪日の際にも、山口県へ招待するなどの国内他府県を全てよそにした手前勝手なパフォーマンスを繰り広げるという自己満足ぶりだから、呆れるほかない。民間の草の根外交の使節ではないのだ。一国の首相が、打算も警戒心もなしにそんな風に物欲しそうな様子を隠しもせずにうろついていたら、森の熊さんに捕えられて餌にされるか、危険な場所へ誘い込まれるだけである。いずれにしても、子供のようにしか見なされてないことであろう。こんな調子だと、仮に平和条約が結ばれたところで、我が国の国民が少しでも浮かばれるとは到底、思えないから、その意味でも、前途多難である。

筆者は、日ロ間に平和条約が結ばれさえすれば、何かが劇的に前進するとは思っていない。そもそも、主権国家としてのプライドと独立心を備えていない属国には、どこの国とも対等な外交は無理である。我が国の精神的課題はそのレベルに始まっている。

さて、話を戻せば、「同調圧力」という名の妖怪にはまだ一つ、有名な名がある。「和をもって貴しとなす」という名だ。

この「和」なるもの、非常な曲者である。そして、この「和」というものと、聖書の唯一の神への従順は決して両立しない、と筆者は確信する。「和」は世の方を向いており、神の方を向いておらず、クリスチャンにとって、神と世とを両方愛することは、不可能事だからだ。だから、「和の精神」というものは、信者にとって大敵である。それが分からないと、クリスチャンは信仰生活に大きくつまづくだろう。

全く話が変わるようだが、今でも筆者がよく覚えている出来事の中に、KFCである時に行われた聖餐式がある。すでにBr.Takaがこの団体をかき回し、団体が異端化していた頃のことだ。その聖餐式の時に、Dr.Lukeが奇妙なメッセージを前もって述べた。はっきりは覚えていないが、「あなたがたの中で資格のある(罪がない)者だけが、この聖餐にあずかりなさい」といった内容であった。

そもそも、KFCというのは非常に底意地の悪い団体で、自分たちだけの暗黙のルールを作っては、それに従わない人間を陰で中傷し、恥をかかせては、次々団体から放逐して来た歴史があった。まだ筆者がこの団体に関わる前から、そうして追放された人々は数知れず存在した。それが、KFCが公にアッセンブリーズ教団の信徒と手を結び、Br.Taka夫妻を招き入れてからは、その愚かしい集団イジメの傾向が、より一層強まった。アッセンブリーズ教団の悪質さについては、当ブログですでに幾度となく述べて来た通りであり、このような悪質な異端の教団の信者と手を結べば、仮にもとはKFCのようではないもっと優れた団体であったとしても、必ず、堕落するのは必至である。
 
当時、すでに筆者はDr.Lukeからも、この団体の信者たちからも睨まれ、危険人物としてマークされていた。それは筆者がDr.Lukeに向かって、信者との霊的姦淫をやめるよう忠告したためであった。古参信者の証言によると、KFCには二重統治のような体制があり、礼拝に出席もしておらず、信徒の交わりにも出ていない信徒が、陰で大きな実権を握って、団体全体に影響力を行使しているということであった。

この頃、KFCはすでに自己を神として、己が罪を全く認めず、真摯に御言葉に立ち戻るようにとの信徒たちからの忠告にも全く耳を貸さないまでに至っていた。筆者よりも前に、そういう忠告を彼らに行った他の信者たちがいたのである。Dr.Lukeのもとに、彼のメッセージがどんな風に聖書と相違しているのか、項目ごとに列挙して持参した信者もいたし、彼らに罪を捨てて御言葉に立ち戻るように忠告したゆえに、Br.TakaとDr.Lukeから睨まれて、呪われて団体から放逐された信者もいた。

こんな風に、アッセンブリーズ教団と手を結んでからは特に、恐怖政治が甚だしかったので、筆者はその時に行われた聖餐の儀式もまた、彼らが悪だくみによって仕組んだ一つの罠なのだということをも理解していた。

それでなくとも、この団体の信者たちは、Dr.Lukeを筆頭として、何をするに当たっても、自分たちが特別に選ばれた存在であり、他者とは違って、他者にあずかり知らぬ特権を持つ、他者とは別格の存在なのだということを、あらゆる機会に人前で誇ることを常としていた。礼拝も、結婚式などの儀式も、祈りも、賛美も、すべてが他者に対する圧倒的な優位性と、自分たちが選ばれた民であることを自己顕示し、自己満足に浸るために行われていたのである。だから、聖餐さえも、彼らは自分たちの「特権」を強調し、気に食わない他者を排除して勝ち誇るために利用したのである。

案の定、筆者が見回してみると、古参信者たちはパンにも葡萄ジュースにも手を伸ばそうとはせず、神妙な面持ちで頭を垂れたまま、全く聖餐にあずかろうとしていなかった。Dr.Luke本人も、パンも葡萄ジュースも手に取ろうとしなかったと記憶している。

しかし、筆者はその時、そんな周囲の行動と、Dr.Lukeの言い分など気にせず、全く臆することなく、聖餐に備えられていたパンと葡萄ジュースを手に取った。

そして、どこの教会でも、信者たちがみな行っている通りに、筆者は一人の信者として、信者の当然のつとめとして、主の御前に信仰告白と共に、自然に、ごく普通に聖餐にあずかったのである。

むろん、あとでさんざんKFCの連中から陰口を叩かれたことは想像に難くない。多分、「ヴィオロンはふさわしくないのにKFCの聖餐にあずかり、主の御身体を穢した」などと言われていたのであろうと想像する。現に、何か別のことについても、そのように悪しざまに言われていた他の信者が存在した。「あの信者は主の血潮を穢した」とかいった言葉で、身内の信者を非難し、呪い、排斥して行くのが、彼らの常套手段であったからである。

彼らがそのように聖餐にあずかった者たちを辱めるために、わざと聖餐式をきっかけに他の信者たちに罠をしかけたのだということも、筆者には分かっていた。

だが、そんな風に、自ら聖餐式を行いながら、その儀式に加わらないことを是とするほどまでに異常化した団体の中にいても、筆者は彼らの思惑を気にせず、聖書の御言葉だけに従って行動した。その異常な信者たちが、集団イジメと、気に入らない信者たちの排除だけを目的に、聖餐式を利用し、わざと自分は主の御身体にふさわしくないかのように振る舞い、主の御身体の一部であることを自ら否定するならば、筆者は、なおさらのこと、自分が確かにキリストの御身体の一部であることを、彼らの前ではっきりと表明しなければならないと思った。
 
信者は、常に神と人と悪魔の前で、自分が一体、神と悪魔、どちらの側に立っているのかを明白に表明しなければならない義務を負っている。我々の行動の一つ一つが、聖書の御言葉の正しさを証明するための信仰の証なのである。だから、たとえある人々から仲間でないとみなされ、敵視されたとしても、悪魔と行動を共にして自分がキリストの御身体の一部であることをわざわざ自分から否定するほどの恐るべき罪を犯すことに比べれば、人間の思惑など全く無害である。
 
キリスト者が従うべきは、人の思惑ではなく、聖書の御言葉である。さて、聖書は何と言っているか?

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:19-20)

主はこのように「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたのだ。パンは、私のために裂かれたキリストの御身体であり、杯は、私のために流された主の血潮である。なのに、なぜキリストを信じていると告白する者、主の血潮の価値を知っており、それによって罪赦されて、神の子供として受け入れられた者が、「自分は聖餐にあずかるにふさわしくない」とみなし、まるで主の御身体と血潮が自分には無縁であるかのように振る舞い、自ら主の御身体の一部であることを否定する必要があるのか。

そんな告白は、信者が自分で神の救いを否定し、血潮による罪の赦しを退け、自分を悔い改めない罪人とみなし、御身体の一部であることを否定するに等しく、謙遜でもなければ、悔い改めでもなく、信仰とは無縁の行動である。そのような告白をして、聖餐にあずかることを自ら拒否し、人前で主の血潮と御身体を恥じた者たちには、それにふさわしい報いが待ち受けていることであろう。そして、それはもうすでに始まっているのである。

その儀式のとき、筆者と同じく、聖餐式にあずかった信者たちが、集会全体でどれくらいいたのかは分からない。だが、その時、暗黙のルールとして、Dr.Lukeの心を満足させて、同氏と行動を共にするために、自ら聖餐を拒否した信者たちは、その瞬間に、確かに主の救いを恥じ、血潮と御身体を恥じて、これを自分とは無縁のものとして拒否したのである。

だから、もしこの時、聖餐に加わった信者が「主の血潮や御身体を穢した」と非難したい信者らがいたならば、実は、彼らこそが、信仰者を名乗りながら、自ら聖餐を拒否したその行為によって、主を恥じ、血潮と御身体を恥じて拒否するという罪を犯したのである。そして実際、彼らは恐るべきことに、確かにその後、キリストの御身体から切り離されてしまい、キリスト教そのものを敵視した上、自己の義により頼んで血潮による赦しからも遠ざかり、Dr.Lukeと共に、自己を神として、唯一の神に敵する道を歩んで行ったのである。

それを考えると、あのような異常な儀式はたとえ一回きりであったとしても、霊的には、必ず「踏み絵」としての効果を持つのだと思わずにいられない。すなわち、それはKFCの連中が、仲間を排除し、恥をかかせるために悪巧みとして考え出したような意味での「踏み絵」ではなく、「あなたは聖書の御言葉を信じて従い、神の側につくのか、それとも、人間を恐れ人間に媚びて人間から嫌われないために、御言葉を捨てて人間の思惑に従うのか」という、神の側から見た「踏み絵」だったのである。

集団の「和」から弾き出されて、他の信者の悪口やイジメの対象とされたくないという怖れから、同調圧力に抵抗できないような人間は、その瞬間、悪魔に魂を売ってしまうであろう。そして、その影響は後々まで尾を引くことになるのである。

だから、筆者は、その時点から、KFCという団体が、筆者をどう評価し、どんな風に誉め、あるいはけなし、陰口を叩くかといったことを全く気にせず、御言葉だけに従うことを選んだ。主の御身体であることを自ら否定して、生涯に渡り、我々の罪を覆うことのできる血潮を拒否するという恐るべき罪に比べれば、人間の評価など、全く恐れるに足りないと今も思うだけである。

たとえ全世界の人々が聖餐式に加わることを拒んだとしても、筆者は彼らと行動を共にすることによって神の救いを自ら失いたくないと思う。それでは、一体、何のためにクリスチャンになったのか分からない。世人と何らの違いもないであろう。人に誤解されたり、見捨てられることなど、一時的な問題でしかなく、全くさしたる影響もないが、自ら神を拒み、神に捨てられる以上に恐るべき状態は人には存在しない。それは永遠に関わる問題だからである。

だから、筆者はただ単なる「へそまがり」として、自らの主義主張や、性格のゆえに、同調圧力から外れて立っているのではなく、そこには聖書の御言葉という、れっきとした根拠が存在するのである。

すなわち、幾度となく繰り返して来た通り、

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)

と聖書にある通りだ。神を真実な方とするとは、神の御言葉を真実なものとみなし、御言葉に従う、ということ以外の何物でもない。

思えば、KFCに深く関わった人たちは、常に誰かを排除するという形でしか、行動できなかったように見受けられる。たとえば、その当時、Mr.SugarはKFCを批判してすでに関わりを断っていたとはいえ、それでも、筆者がデッドライン君の自慢のリビングルームに異議を唱え、彼らの聖餐に水を差すような発言をしたとき、筆者はデッドライン君の家で最初に開かれた聖餐式から、Mr.Sugarによってふさわしくないと判断されて、弾き出されてしまったことをすでに書いた。

筆者はその当時は、その事件の意味が理解できなかったので、衝撃を受けたものだが、今はそこにある排除の論理が結局、KFCと全く同じであることが良く理解できるのである。つまり、彼らにとっての儀式とは、神への従順のために行われるものでなく、常に彼ら自身の威信と栄光を高めるために行われるものでしかなく、従って、彼らの自己満足に疑問を呈し、その喜びに水を差すような発言をする人間を、彼らは徹底的に排斥し、あるいは報復するのである。

神に捧げられる儀式は、そもそも人間の自己満足や、威信の発揚のために行われるのではないにも関わらず、この人々にはそのことがどうしても分からないのである。そして彼らはそのようにして、常に親しい仲間の誰かを排除したり、見下しては、自分たちこそ、神の特権に与る恵まれた存在であり、少数の勝利者であり、そこに加われず、その価値が分からない愚かな連中とは別格の存在なのだという優越感に浸ることをやめられないのである。

KFCの聖餐式は、儀式にあずからないことによって特権意識を強調するという裏返しの形になっていたが、儀式そのものが、彼らの自己満足の手段、彼らの特権意識を確認する場として利用されている点で、原理は同じである。そういう優越感と特権意識によって他者と自分とを区別し、他者を凌駕し、圧倒し、排除することによって、自らの信仰の立派さや、優位性を強調しようとすることこそ、KFCという団体の理念と深く関わった者たちに共通して見られる病的な誘惑なのだ、と筆者は思わずにいられない。

つまり、まるで受験競争のごとく、他者と競争し、他者に対する優位を勝ち誇ることでしか、彼らは自分の信仰の正しさや立派さを認識することも証明することもできなくなってしまっているのだ。神に賞賛してもらうことを願って、神だけの評価を勝ち得ようと、人の目から隠れたところで努力するのではなく、人前で、他者に対する圧倒的な「優位性」を見せつけるために、しかも、他者を悲しませ、弾き飛ばし、酷評することによって、自分の威力を誇示するために、絶えず他者に対して罠をしかけるような暗黙のルールを作っては、誰かを蹴落とし、辱め、排除し、その一方で、自分は安全圏にいる成功者であり、選ばれた数少ない勝利者なのだと自分に言い聞かせ、こうして常に自分が他者より一段高いところに立っていなければ落ち着かないのである。

そのような見栄に憑りつかれた人々は、神の霊の内なる承認を得ようとして戦っているのではなく、ただ人の目に失格者と見られず、人前に立派な人間だと評価され、支持を失わず、己の威信を誇示し、名誉欲を叶えることだけを第一として生きているのである。だから、結局、彼らを動かしているのは、御言葉ではなく、信仰でもなく、彼らが気にしているのは神の眼差しではなく、この世の評価なのだと言える。

そういう生き方は、純粋な信仰生活とは決して両立しない。そのようにして、歪んだこの世的な価値観に染まってしまった信者たちは、飽くことなく自己の栄光だけを追い求めるようになるので、時には、我が子さえも競争相手とみなし、子供たちから徹底的に出番を奪ったり、子供たちを自分自身が栄誉を得るための手段とみなして利用する。その結果、そういう家庭では、子供の自殺という悲劇が起きることも少なくない。

親たちは自分たちの外見的な見栄を飾るために、子供を一生懸命、「立派な信仰者」に育て上げようとするのである。だが、それはしょせん、自己の見栄のためでしかないので、親の欲望をかなえる道具とされた子供たちは、精神的に追い詰められ、最悪の場合、その苦痛に満ちた束縛から逃れるために、自ら死を選ぶのである。

それは霊的搾取と呼ばれるべき構図であり、それはむろん、信者の家庭内だけでなく、信者と信者との間でも行われる。アッセンブリーズ教団を含め、既存の教団教派でも、指導者の栄光のために信徒が搾取されるということが当然のように行われるが、さらに、組織を持たないと自称している団体の中でも、同じことが起きるのである。KFCのみならず、ゴットホルト・ベック氏の集会など、複数の集会を見学した結果、そのことが、よりはっきりと筆者に理解できるようになった。

今現在、筆者はそのようなシステムをネズミ講と同じものとみなしている。信者が、他の有望そうに見える信者を、自己の栄光を築き上げる道具とするために「スカウト」しては、自分自身が教師然となって、その信者を「弟子化」し、弟子を増やすことによって自分の手柄を増やしながら、無限のピラミッドを築き上げようとするのである。

そういうことが行われているのは、断じて、献金を集めねば存続できない公の宗教団体だけではない。たとえ団体名がついておらず、公の組織が存在していないように見え、あるいはネット上の関わりしかなくとも、それでも、多くの場合、そこには何かの見えないピラミッド・システムが存在し、人間の絆を通して、霊的搾取が連綿と広がっているのである。そこから抜け出るただ一つの方法は、指導者や教師になりたがる人物に決して頼らず、神だけに依存して生きることのみである。
  
以上のような「弟子化」の際によく使われるのが、何らかの霊的先人たちの教えを記した教本である。それを教科書のようにして、古参の信者が新しい信者を自分好みに教育しながら、次第に自らの精神的支配下にからめ取り、自分の栄光を築き上げるための道具として束縛して行くのである。

もしも誰かが、それが霊的搾取のために作られた悪しきピラミッド・システムであるという異常性に気づいて、そこから離脱しようとすると、一斉に、システム全体が彼に敵対する。それまでシステムなど存在しないと思っていた信者も、その時が来ると、自分がピラミッドの末端にいたことに気づかざるを得ない。それまで優しい友・教師・助言者だと思っていた指導者が、実は残酷な支配者でしかなかったことに気づくのも、その時である。

このようなものは、信仰であるかのように装ってはいるが、実のところ、巧妙に作られた信仰生活の偽物に過ぎない。たとえそこに本物の信仰がわずかに存在していたとしても、このようなシステムの中に組み込まれ、拘束されている以上、その信仰も正常に機能しない。だから、もし健全で正しい信仰生活を送ろうと願うなら、信者はいずれこのピラミッドと訣別することが不可欠となる。

クリスチャンのほとんどは組織や団体の中で信仰を持つようになるが、その後で、もしも本当に主の御前に、真実な信仰生活を送ろうと願うならば、どこかで「踏み絵」の瞬間がやって来る。つまり、人間の理解や賞賛や励ましを失いたくないばかりに、神の御言葉を否定してでも、人間の集団の中に残るのか、それとも…。その時に、人間の集団を選ぶと、永久に後戻りが不可能となってしまう。

だから、ピラミッドに組み込まれることを拒否し、空気は読まず、指導者の意を忖度もせず、周囲に波風を立て、「和をもって貴しとしない」生き方を、筆者は恥じるつもりはない。

そのような生き方を生意気だと思ったり、疎ましく思っていた信者たちは存在するし、同調圧力に屈した人々からは、陰口も叩かれていたのであろうが、筆者はそのような非難を、全く苦にしておらず、むしろ、もっと早くから、どうして断固たる不動の決意がなかったのかと思っているくらいだ。

筆者も若く未熟なうちは、それなりの遠慮もあって、20も30も年上の連中に対し、なかなか面と向かって言い出せない数多くの確信を心の内に秘めていた。だが、そのような他者への遠慮は、恐れから来るものでしかなく、百害あって一利なく、余計なしがらみに巻き込まれて無駄に人生を失わないために、早くなくなるに越したことはない、と今は思う。

人への優しさ自体は悪いものではないが、日本人の多くの人々の空気に逆らえず長い物に巻かれる習性は、臆病さと優柔不断さの現れでしかなく、長所ではなく欠点である。何より、クリスチャンは、ご機嫌伺いするなら、人の顔色を読むのでなく、神の顔色をこそ読むべきであるのに、そのことを全く認識していない人々が多い。

もし世に媚びて人の寵愛を失わず「和」に生きたいと願うならば、クリスチャンをやめた方が良いだろう。神の福音を知りながら、世を愛し、世に媚びて、神の救いを拒むくらいならば、福音を最初から知らなかった方が罪が軽く幸福である。そのことを筆者は信者たちに向かってはっきりと断言しておきたい。

最後に、再び話が大きく変わるが、「shueiのメモ」より、「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます。」という記事も、全文に目を通す価値がある。

これは大きな参考事例だ。大量殺人を行った犯人に対して、ノルウェーはどう接したか? この記事を読むと驚かされる。かつての記事で、歌手のレーナ・マリア(旧姓ヨハンソン)について触れた際、北欧ならではの理念が彼女の教育の背景に存在すると筆者は確信したが、この記事を読むと、またしても、北欧の日本人にはない発想に驚かされる。

ノルウェーと同じ方法を、たとえば、日本で植松容疑者に適用できるだろうか? きっとこの国ではできないだろう。この国ではいつも悪い方に合わせ、厳罰によって対処したような気になって終わるという感情論以上のものがないからだ。しかし、上の記事では、厳罰を下すことによっては、犯人と同じように憎しみに生きることを助長するだけで、社会は何も変わりはしないとはっきり結論づけている。世界の考え方の多様性を学ばされる事例である。

筆者は、最近、日本的な物の考え方の限界をしきりに認識するようになった。それは特に、ピラミッド・システムの中に人を閉じ込め、決してそこから外に出そうとしない「和をもって貴しとなす」という、個性を否定する役割重視の集団性の精神の弊害を痛切に感じるためである。たとえ信仰者でなくとも、人々は、そのような価値観の中からは、既存の体制を是とする以上の何の革新的な発想も生まれて来ないので、閉塞感を覚えざるを得ないであろう。

今、日本政府の凶暴さと利己主義が余すところなく明らかになっているので、その著しい犠牲となっている沖縄の日本からの独立論もネットでは盛んだが、沖縄人でなくとも、この社会のバビロン化した体系からのエクソダスの時が本当に近づいていると感じざるを得ない。このような悪しき体制のもとでは誰も幸福に生きられはしない。

基地問題の他にも、我が国には、福島原発事故処理など、従来のものの考え方では、およそ対処できないような深刻な問題が山積みになっている。ところが、政府には解決を生み出す能力がなく、その意欲も展望もなく、人々の想像力も枯渇しつつあり、西を向いても東を向いても、「神になりたい」だけの人たちばかりの様子に、筆者もほとほとうんざりしている。日本人の謙遜はどこへ消えたのかと思うほど、悪しきイデオロギーが至る所で跋扈し、人々はより尊大に高慢に恥知らずになって行っている。そして、そこには必ず異端の影響がある。悪魔的思想だけが、人間性をそのように腐敗させることが可能なのだ。

だが、たとえそのような異端者たちが、大手を振って弱い者を侮蔑し、踏みにじっては、己が栄耀栄華を誇って、自分たちは特権階級だ、選民だ、と豪語してみたところで、ヒエラルキーの競争は果てしなく、彼らの競争に永遠にゴールはない。グノーシス主義というものは、果てしない差別の階層制なのだと筆者は述べたことがあるが、その果てしない競争こそが、この悪しき異端思想の重大な落とし穴なのである。

どんなに人前に評価を得、どんなに他者を凌駕し、圧倒して、どんなに高みに上ってみたところで、そこにはさらなる競争が待ち受けているだけで、その競争は永遠に終わりがない。だから、そんな競争は、関わった誰一人にも、幸福をもたらさないのである。

さて、天皇の生前退位の問題には、この点で、多くの示唆が含まれていたように思う。むろん、この問題には多くの議論が存在するので、通りすがりに触れられるような単純な事柄ではないが、それにしても、筆者は、天皇自らがお勤めを降りたいと表明したことに、注目せざるを得ないのである。つまり、戦後の天皇の仕事は、一見、国民を慰め、励まし、多くの人たちを支える、人に感謝され、喜ばれる、有益で尊い仕事のように見えたであろう。天皇皇后に出会った人たちはみなそれを誇りにするし、かつての大戦の犠牲者を弔うことも、重要な仕事に見えた。

だが、天皇制は、天皇自身の人間性の否定の上にしか成り立たないことが判明したのである。特に、いつまでもかつての大戦に対する反省と懺悔の仕事を、生きた一人の人間に集中して押しつけるべきなのであろうか? そうすることによって、本当にこの国は責任を果たしたことになるだろうか? むしろ、もっと重要な何かがそれによって覆い隠されてしまっているのではないか? 天皇をありがたがる人たちは、自己の満足と慰めのために他者に強いている犠牲を考えてみるべきなのである。

これと同じように、教師や牧師やリーダーといったものにも、世で考えられ、ありがたがられるような価値も栄光も、本当は全く存在しないのだと筆者は思わずにいられない。それどころか、「人の間で尊ばれるものは神に忌み嫌われる」(ルカ16:15)と聖書にある通り、人の目に貴く輝いて映るものほど、ほとんどの場合、まるで実体がなく、むしろ、そこにあるのはメッキのような偽りの栄光と、祀り上げられた人間の忌まわしい犠牲だけなのである。

だから、筆者は、人の上に立つということ自体が、ある意味で、人間にとっては呪われた所業なのだと思わずにいられない。多くの人たちに乞われて高みに上り、師となり、リーダーとなり、象徴となって、人前に栄光と賞賛を受けることは、決して人間の歩むべき道ではないのだと確信する。猿に失礼なたとえだが、猿のごとく知性の欠けた愚直な人間だけが、そのような地位にしがみつくのであって、誠実に正直に生きる人間ほど、その危険性に早く気がつき、そのような忌むべき場所からは一刻も早く降りたいと願うのではないだろうか。

だから、たとえこの国の99%が虐げられた民であり、侮蔑され、見下されているのだとしても、だからと言って、彼らを踏みにじって勝ち誇る1%に入り込むことが、人間の幸福では全くないのだと確信する。そのようにして他者を凌駕し、君臨するために、果てしない競争の階段を上って高みに立とうとすること自体が、敵の仕掛けた罠であり、それは永遠の競争に人を巻き込むだけで、何の解決も、満足も、人にもたらしはない。

人が人間らしく生きるためには、富を蓄積し高みに上り他者の及びもつかない雲上人(神)を目指すのとは、全く違う価値観が必要なのである。そして、それは自分と他者とを比較して優位を誇ったり、あるいは誰か自分よりも可哀想な人間を見つけて来ては、哀れんだり、助けてやったり、あるいは排除したりして、自分の優位を確認することによって得られるものではなく、人間そのものに生まれながらに備わった、他者との比較によるのではない、自己の個性の独自性を基にしてしか生まれて来ることのない価値観である、という気がしてならない。

たとえば、深海や、空の高いところや、人に知られない地の暗闇に、何のために生きているのかもよく分からないような生態不明の生物もたくさん存在する。そのような生物にも、おそらくは、人には理解できずとも、何かの意味が必ず隠されているのである。自分に理解できないからと言って、その生命には生きる価値がない、とか、無用な存在だ、などと誰が言えるであろうか。人もこれと同じであって、多くの人の注目を集め、賞賛され、もてはやされ、評価され、感謝されて生きることが、人間の価値なのではないのだ。むしろ、そうやって他者を喜ばせ、他者に尊ばれ、ありがたがられ、評価されることばかりを目指して、自己アピールに生きると、結局は、他者を失望させないために、絶えず人目を気にし、他人の評価に踊らされ、それに縛られることになる。他方、たとえ人から理解されず、賞賛を受けずとも、そんなものは初めから度外視して、自らの独自性を存分に発揮して、自分本来に備わった自然な役割と能力を生き生きと発揮できるならば、その方が、はるかに自然で幸福ではないだろうか?

人が生命としてのと自分自身に生まれながらに備わった個性の独自性とは何なのかを理解するためにも、世の特定の集団における人間の「役割」や「有用性」だけを至上の価値とするような、忌むべきピラミッド型収奪システムからは早く永遠にエクソダスした方が良い。

今も大勢の人々が、世の中を思うがままに牛耳り、自分たちの圧倒的な優位を他者に誇示して、弱い者たちや、気に入らない他者を辱め、排除するために作り出した儀式が、至る所で執行されている。受験競争においても、就職戦線においても、教会においても、人々が排除されている。オリンピックも、これに賛同しない人々を「非国民・テロリスト」扱いするために、利用されるのだという噂が根強い。この先、政府を批判し、オリンピックに水を差すような言動を繰り返している人間には、共謀罪が適用されるのではないかという危惧さえ囁かれている。一体、ここはどこの国だろうかというほどの有様である。

つまり、そういった一連の晴れがましい儀式は、ある人々が、気に入らない他者を排除するための「踏み絵」として利用されるかもしれないというわけである。それはKFCで行われた異常な聖餐式のように、一部の「選ばれた特権階級」を、それ以外の人々から区別し、自称「エリート」が勝ち誇るためだけに作られたものだというわけである。

だが、筆者の言いたいことはこうだ。神は不思議な方であるから、たとえそのような悪意に満ちた計画のもとに様々な行事が進められていたとしても、ある瞬間が来ると、神は上からの不思議な知恵によって、人間が考え出した意地悪な「踏み絵」をさっと裏返しにされる。そうすると、それまでエリートだと主張していた人々こそ、実は落ちこぼれであったという事実が公に判明するのである。

それはちょうど主イエスが地上に来られるまでは、人々に宗教的権威とみなされて尊敬を受けていたパリサイ人や律法学者が、主イエスの出現によって、その欺瞞が暴かれ、辱められたのと同じ構図である。聖餐式を拒否したKFCの「自称エリート」たちは、神の恵みを拒んで自己の義によりすがったので、神の恩寵から排除されてしまった。そして、彼らは今や神の敵となって歩んでいる。そして、そのような「自称エリート」からは軽蔑され、排除され、見下されて、非難の対象となっていた者たちが、かえって神の恵みに存分にあずかったのである。

自己の義によりすがり、自らを高く掲げる人間は、神の恩寵から自ら除外されて行き、最後には、神ご自身によって排除される。その法則は、イエス存命当時も今日も、何ら変わらない。

神の恵みは常に水のように低い方へ向かって流れる。また、せき止めておけない。せき止めれば、水は淀み、腐るだけである。だから、神の恵みは誰にも独占できない。それなのに、自分たちはエリートだの、義人だの、選民だの、神だのと言って、他者に対する優位を勝ち誇っては、神の恵みをまるで自分たちだけの専売特許のように誇っている連中は、必ず、最後には、神によって打ち倒され、他者を陥れようと自分がしかけた罠に落ちて終わるだろう。

むろん、そうなる前から、彼らは人々に忌み嫌われ、愛想を尽かされているので、特段、彼らを憎んだり、破滅を願うだけの価値すらもなく、まして復讐する意味など全くないが、ただ、上からの知恵によって、この高慢な愚者らに対する神の手厳しい平手打ちが、一体、どんな形で現れるのか、それだけは注目に値すると筆者は思っている。


その聖なるすまいにおられる神は、みなし子の父、やもめの保護者

(「私ではなくキリスト」記事から転載)

「その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。」
                  (詩篇第68篇5-6節)

  
神はどんな状態からでも信者の家庭を回復することのできる方である。
神は信者のどんな失われたものでも回復できるし、無から有を作り出すことのできる方である。

家のない人に家を供給することもできるし、生活の糧も与えることができる。
家族のない人に家族を与えることもできる。

神は絶望の淵にいる人々に希望を与え、仕事を失った人たちに良い仕事を与え、主に信頼する者たちに、生きるために必要な全ての糧と、未来の希望を用意することができる。

我らの望みを実現して下さる方は神である。
我らの万軍の主、ただお一人の神である。
  
神の助けを受けるためにただ一つ必要な条件は、神のみを頼りとすること、主イエス・キリストの御名のみにより頼み、キリストのみに栄光を帰すること、人間の助けに頼らないことである。
 
さて、上に書いたような一つ一つの恵みは、私の人生を通しても豊かに立証済みである。

他方、カルト被害者救済活動なるものに関わり、自分自身を被害者と考えて、神と教会や牧師や、他のクリスチャンを訴えることだけに精を出している人間の人生には、この先も、永久に何の解決もないだろう。

100%保証するが、自分を被害者だと自称している人が、神の幸福にあずかることは決してない。
 
しかし、私自身は、この活動と完全に縁を切って、アッセンブリーズ教団や、村上密氏や、彼を支持する人間たちと訣別してから、家庭のすみずみに至るまで、幸福が回復されたのである。

父は以前よりももっと話をじっくり聞いてくれるようになったし、姉妹関係も回復した。 悩みの時には、親族だけでなく、助けてくれる人たちが常に用意されている。

たとえば、ロシア人の友が必要だと主に願い出れば、神が友を送って下さる。
専門の仕事が必要だと願い出れば、神がこれを与えて下さる。
生活の糧も、ペットも、家も、何もかも、主に願って与えられて来たのである。

そして、私自身の安全も、我が実家も、常に守られている。

これは、私の仕事が常に順調で、私に特別な才覚があって、人並み以上に恵まれた生活を送って来たから言うのではなく、むしろ、私は仕事を変えたり、願いが変わったり、明日の保険などという考えとは無縁のところで生きて来た。

が、それにも関わらず、毎日、毎日、必ず、神が必要の全てを備えて下さり、私の人生を守って下さり、しかも、豊かに守って下さることを、これまで一日、一日、しっかりと確かめて来たのである。
   
カルト被害者救済活動なるものにまだ接触があった頃、私は結局、この活動に何らの希望も解決も見いだせず、将来への展望も何も見いだせないまま、その頃に住んでいた家を手放して、実家に帰らざるを得なくなるという出来事があった。

いよいよ郷里に帰るというその時、筆者が当時、助けを求めて通っていたアッセンブリーズ京都教会の村上密牧師の夫人が、筆者に向かってこう言い放った。

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」

耳を疑うようなこの言葉を聞いたとき、どれほどこの婦人が心冷たい人間であるかを筆者はよくよく思い知った。そして、このような人物から離れられることは幸いだと確信したのである。

つまり、村上牧師夫人は、「あなたがいなくなって寂しくなるわ」と、お世辞でも別れを惜しむでもなく、「なかなか会えないけど、元気で頑張ってね」と励ますでもなく、

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」と、それだけ冷たく言い放ったのである。要するに、そこには、「あなたがいなくなってせいせいするわ、二度と戻って来ないでね」というニュアンスが、はっきりと込められていたのである。

実際のところ、この夫人の冷酷さについては、カルト被害者救済活動に関係していた被害者たちの間でさえ、定評がある。まるで氷の人形のように冷酷で無慈悲かつサディスティックだというのである。

村上夫人の旧姓は津村である。筆者はこの女性の父親である牧師の人柄をよく知っている。その牧師を筆頭に、元津村ファミリーの人間は、大体みなそうなのだが、この女性も、まるでサイボーグ戦士のように無感覚で、他人の心の痛みというものを、およそ理解したり、慰めたりできるような繊細な心の持ち主ではない。

だから、もし誰か心傷ついている時に、相談相手が欲しいと願うなら、絶対に、村上夫妻に助けを求めることだけは、やめておいた方がいい。問題が解決するどころか、彼らの餌食とされ、下手をすれば、それをきっかけとして、死へ追いやられることになるだけであろう。

特に、夫人には何も打ち明けてはいけない。まだ癒えない傷を、切れもしない鈍い刀で無理やりグイグイとこじあけられるように、傷口を押し広げられ、徹底的に痛めつけられることは請け合いである。村上夫妻はサディストなのではないかと感じずにいられないほどのやり方である。

言っておくが、これは筆者が一人だけで主張していることではなく、被害者の間での定評なのである。
 
おそらく、カルト被害者の中では、このような悪質な「カウンセリング」の結果、死に追いやられた人たちもいるのではないかと想像せずにいられない。

こうして、筆者はこれらのサディストたちの親子の両方から逃れて来たことになるが、もうすでに彼らと手を切って何年になるか分からないのに、未だに筆者には、この教会と牧師の関係者とおぼしき連中からの嫌がらせが続いている様子を見れば、一般の人々にも、ここで筆者が主張していることが、嘘とは言えないことがよく立証されるであろう。

沖縄の被害者は村上ファミリーによってもっとひどい恫喝の下に置かれているともっぱらの評判である。
 
このような事実があるわけだから、クリスチャンはどんなに不安を覚える出来事に遭遇しても、カルト被害者救済活動なるものには決して関わらないことをお勧めする。アッセンブリーズ教団にも決して足を向けてはいけない。
 
さて、上記のような牧師夫人の捨て台詞と共にその教会を去ることになる前に、一度だけ、筆者は、関西での生活に不安を覚えたことを、この牧師夫人に打ち明けたことがあった。

当時、筆者はバイクで通勤していたので、もし通勤中に交通事故に遭ったならば、どうすれば良いかという不安が心によぎった。もし自分に万一のことがあると、親族が近くにいないので、すぐに誰かに助けを求められないという不安を語ってしまったのであった。

その時に、この牧師夫人が筆者に答えた言葉が、これまた典型的なサディストとして非常に奮っていた。彼女は表情を変えもせず、こう言い放ったのだ。

「遺書を書いて携帯しておけばいいじゃない。『もし私に万一のことがあったら、村上に葬儀をして下さい』って」

筆者はこの答えを聞いたとき、一体、これが牧師夫人の言葉だろうかと絶句した。

「大丈夫、通勤の道も、神様が必ず守ってくれるわよ、それを信じましょうよ」と励ますでもなく、「私たちがついているわよ。何かあったら、すぐに私たちに電話してね」と言うでもなく、

「もし不慮の事故で自分が死んだ時には、村上密に葬儀をして下さい、と遺書に書いて、その遺書を常時、懐に携帯しておけばいいじゃない」

と言ったのである。

まるで筆者が事故死しても当然であるとでも言いたげなこの死に対する消極的かつ絶望的で不信仰で投げやりな答えと、筆者がまだ何も言わないうちから、筆者の葬儀が京都アッセンブリーズ教会で行われることを当然視しているかのようなこの答えには、本当にドン引きしてしまった。

そして、筆者はあまりにもこの牧師夫人の答えに呆れ果てたので、夫人には面と向かって何も言わなかった(言っても無駄であろう)が、その時、心の中で、「絶対に筆者は死なないし、こんな冷酷人間の思い通りになって、こんな連中に葬儀を頼むようなこともしない」と決意したのであった。
 
大体、そんなことが起きたのでは、神の名折れであり、地獄の笑い者にしかならないであろう。一体、そんな死に方のどこに信仰の意味があると言うのか、信仰者の名が泣く。神の助けを信じると言いながら、悪魔の吹き込む嘘の不安に負けて、犬死するなど言語道断であり、絶対にそのよう悪しき前例を作ってはいけないと、断固、決意したのであった。

当時、筆者の信仰はまだ人間に頼ったり、他者に不安を打ち明けたりするほど未熟で、神の守りの万全さを自ら決意するまでには至っていなかったが、それにしても、そんな当時の筆者にも、上記の牧師夫人の答えは、クリスチャンとしてあるまじき言語道断なものであり、そこには死に対する力強い抵抗もなく、死を打ち破る信仰の勝利もなく、もしかけらほどでも信仰を持っていれば、絶対に出て来るはずのない臆病者の悪魔的・敗北的回答だと理解するだけの力はあった。

だから、神への信仰そのものを全否定し、弱い者たちを冷酷に突き放し、人が死ぬことを当然視してそれを助長しこそすれ、死に対して全く抵抗しようともしないこの牧師夫人の不信仰で冷酷な言葉を、筆者は人に生きる力を失わせるための悪魔の策略としてきっぱり退け、夫人の勧めに従って遺書を書くことを拒み、なおかつ、村上密に葬儀を頼むという言語道断な提案をも退けて、その当時、筆者が親交を結んだ信頼できるクリスチャンの名と携帯番号をノートに記して、「万一の際は、この人物に連絡してください」というメモだけを携帯し、絶対に、何があっても、村上密には連絡が行かないように布石を打ったのであった。

むろん、アッセンブリーズ教団と京都教会といかなる縁も持たない今、筆者に関して、この牧師が乗り出して来ることは決してない。

だが、今ならば、筆者は信仰が成長したので、たとえ上記のような状況に置かれても、もう不安を覚えることはないし、誰にも助けを求めることはないであろうと言える。そもそも、筆者は自らの死に備えて、わざわざ遺書など携帯することはない。それは、筆者の死がもし避けがたいものとして近づいて来る時には、必ず、神が知らせて下さると確信しているからである。

それに、第一、クリスチャンが、携え上げや殉教を願うこともなく、ありふれた事故死や、畳の上での死を当たり前のように受け入れているようでは、信仰者としてもう終わりである。

クリスチャンにとっての死とは、生と同じく、神への証でなければならないのだ。それはありふれた出来事ではなく、主への献身の完成でなければならない。

今、筆者はバイクだけでなく車も運転する。必ずしもいつも近くに駆けつけてくれる誰かが常にいるという状況ではない。

しかし、筆者が乗っているのは、信仰という乗り物であり、その同乗者は神である。神が私の保険であり、私の最も注意深い同乗者であり、助手席のナビゲーターである。だから、私は「もし事故に遭ったなら・・・」などという想定を考えることさえなく、困ったことがあれば、「主よ、どうしましょうか?」と相談する。

これは筆者が格別に熟練したドライバーで、腕に相当の自信があるから言うわけでもないし、筆者の車が特別頑丈にできているためでもない。道に迷うことから、機械のトラブルに見舞われることから、日常生活で、全く相談事が生じないことは決してない。だが、それらはすべて主に持って行くのである。実際、筆者が長年のペーパードライバーから特別な講習もなしに一直線にドライバーに戻った時にも、すべて主のみが守り、助けて下さったのである。

頑丈で確かなのは車でもなければ筆者の腕前でもなく、主の確かな守りである。

さて、こんな有様だったので、カルト被害者救済活動と訣別したことに、筆者は何のためらいも後悔もありはしない。あんな風に冷酷でサディスティックで生きる希望を持たない敗北的な連中と関わっていれば、信者はいつしか最初に持っていたはずの生きる望みさえ奪われて、彼らの嫌がらせの果てに精神的に殺されて本当に死者にされてしまうだけである。

別の記事に書いたが、当時、アッセンブリーズ教団に属していた鳴尾教会で、村上夫人の父である津村牧師に関わってボロボロになるまで使役され、マタハラにも遭い、大切な子供を失った伝道者夫妻の話も今日に伝わっている。だから、筆者が上記のように書いたからと言って、それは決して誇張ではないと確かに言える。
 
神でないものに助けを求めれば、悪魔がつけこんで来るだけである。その挙句の果てに行き着く先は、死でしかない。だから、生きていたいという望みがわずかでもあるならば、一刻も早く人間の指導者に助けを求めることをやめて、そんな敗北の道は早々にお断りするにこしたことはない。

さて、この運動を離れたのはもうはるか昔のことであるが、筆者には、それ以来、家を失うなどということは、一度も起きたことがない。
 
かえって、アッセンブリーズ教団に残った信徒が家を失ったという話を聞くばかりである。

その信者は、かつて筆者がカルト被害者救済活動と対立していたことを、まるで筆者の人徳のなさの結果であるかのように責め、嘲笑していた。要するに、筆者が不器用だから人と対立しているのであって、皆と仲良くしていれば、そんな対立は起きるはずなく、筆者はこの運動の支持者とも和解すべきと彼女は言うのであった。
 
彼女には、自分なら決してそんな対立に巻き込まれはしないという自負があって、自分の八方美人性によほどの自信があったのであろう。何しろ、アッセンブリーズ教団の人間なのだから、そう考えたとしても、不思議ではない。そして、筆者を支援するように口では言いながら、陰では多くの信者たちに、筆者に対する侮蔑的な見方を植えつけていた。
  
だが、筆者はその八方美人的な自称信者の上から目線で自信満々な忠告を聞かなかった。
 
何しろ、神に敵対する人間たちと仲良くすることが信仰の道ではないのである。主に対して不忠実で、聖書の御言葉に従わない人間とは、袂を分かたない限り、自分自身にも彼らと同じ呪いを招くことになるだけであることは、その頃には、もう十分に理解していた。

汚れたものとは分離せよ、それが聖書が随所で信者に警告している原則である。

だから、筆者にはアッセンブリーズ教団に戻る気もなかったし、カルト被害者救済活動に戻る気もなく、その信者の助言を聞く必要もないと分かっていた。さらに、その信者と関わる必要もなかったのである。その最後の点だけが、その頃には分かっていなかった点であった。筆者はその人も「信者」だと思っていたからだ。
 
さて、神に祝福されるための道は、御言葉に忠実に従い、神に従わない悪人どもと手を切ることである。人に好かれ、世の覚えめでたい人間になることなどが信仰生活の目的では決してないのである。そのような生き方を推奨し、神にではなく、世に色目を使って媚びる人間とは早く訣別することが肝心である。
 
さて、話を戻せば、筆者の「貧しさ」や「不器用さ」ゆえの苦労を、さんざん他人事のように嘲笑し、自分ならばもっとうまくやれると上から目線で見下しながら、忠告を繰り返していたその信者は、自分と同じ病院で治療を受けていた自分の障害者の友人にも、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから、あなたとはさよならする」と言い放って、その病院を去って行った。

しかし、その言葉通りに彼女はその後、豊かな生活を送るどころか、かえって夫の給与が下がって、家を手放して、郊外にある実家に戻らざるを得なくなったのであった。

夫を持たない天涯孤独かつ重度の障害者である闘病生活の仲間と、筆者の悩みと孤独の多い信仰生活を、まるで不器用さの証であるかのように、さんざん上から目線で嘲笑した信者の行く末であった。

もしそのアッセンブリー信者の筆者への忠告が正しかったのならば、決してそんな結末にはならなかったであろうと筆者は確信している。設備の良い病院で治療を受けると同時に、より良い家に住み替えるくらいのことができたであろう。

何しろ、どんなに些細なことがきっかけであれ、信仰者がやむなく生活を縮小し、持ち物を手放し、家を失う、という結末は、悪魔を大喜びさせるだけだからである。それはあたかも神の助けが不十分であり、なおかつ、信者が不信仰であることの現れのように世には受け取られる。

だから、もし本当に神を信じているならば、信者は決して自殺によって犬死になどしてはならないし、どんな持ち物も安易に手放してはならないし、世の情勢が悪くなったからと言って、それに影響されて貧しくなって行くこともない。

どんな窮地に追い込まれても、そこから神の偉大さを、信仰を通して立証できるだけの勝利をつかみ取らなければならないのだ。
 
ところが、彼女は、人前で自分の裕福さと器用さ(立ち回りの上手さ)を誇って、自分ほどに器用に生きていない人間を見下して嘲笑していたにも関わらず、時代の趨勢の通りに、より貧しくなっていくという結果を避けられなかったのである。それは、その信者の誇っていた世渡りの才覚が、何ら世の情勢の悪化に立ち向かう力とはならなかったことをはっきりと物語っている。

世と馴れ合う人間は、世が「豊かになれ」と言ってくれる間は、豊かになるが、世に「貧乏になれ」と言われたら、それに全く立ち向かう力を持たないのである。そのような人間は、もし世から「死ね」と言われたら、本当に死んでしまうのに違いない。つまり、彼らが信者を名乗っているのはほんの口先だけのことで、実際には貧しさや病や死の圧迫に対して、信仰によって立ち向かう術を全く持たないのである。一体、そんな信仰に意味があるだろうか?

我らの神は、そんな時にこそ、我らの力強い助け主となって下さる方である。我らの神は、やもめや、みなし子や、よるべのない者たちを見捨てず、彼らが追い詰められた時の最も力強い砦、最強の保護者である。我々が最も弱く、最も策なく、窮地に追い込まれているようなその時こそ、我らの神の出番があり、神の全能の力が現れる。我らに神以外の全ての助けが断たれるその時にこそ、神の力強さが最も大胆に現れるのだ。
   
それなのに、アッセンブリーズ教団にいるこの人々たちの主張の何と弱々しく敗北的なことだろうか。彼らの言う「信仰」なるものは、この世においてあらゆる死の圧迫に大胆に立ち向かうために全く役に立たない非力なゴミ・ガラクタでしかなく、むしろ、速やかにあの世へ渡って自分を慰めるためのパスポートでしかない。悪魔は大喜びであろう。そのようなものは断じて信仰と呼ばれるべきではない。

だから、そんな様子を見るにつけても、アッセンブリーズ教団やカルト被害者救済活動を擁護することは、誰に対しても、呪いに満ちた悲惨な結果しか招かない、と改めて筆者は確信している。この運動は、世の方しか向いておらず、神の方を向いていないからだ。悪魔と世のなすがままである。それでいながら、どうやって天に蓄えられた宝を信仰によって地上に引き下ろすことなどできよう。こんな運動に関わりながら、神に祝福された人生を送るのは無理な相談である。
 
村上密は、自殺した人間を責めたり、罪に問うのは残酷であって、自殺者は神に拒まれ、天国へ行けないという考えは、クリスチャンの偏見だ、などという趣旨の記事を繰り返しブログに書いているようである。要するに、自殺者も天国に行けるし、神に受け入れられるかのようなデマの流布に加担しているのだ。

このような屁理屈は、死に対する何の抑止力にもなりはせず、死を願う人たちの心の願望をいたずらに助長するだけである。

「自殺しても、罪にはなりません。天国にも行けるし、神様も分かってくれます」
 
そんな風に、人々の自殺願望に太鼓判を押し、死へ向かって背中を押すような、むなしい自己安堵の言葉を、自称「被害者救済活動」に携わる牧師が投げかけているのだから、世も末、言語道断、笑止千万な話である。しかも、それが牧師を名乗っている人間の言葉なのであるから、全く呆れ果てる。

そこに、一体どんな「救済」があるというのか? 死が救済だとでも言うのであろうか?
 
そのような主張から透けて見えてくるのは、この牧師夫妻に関わったために、実際に死に追いやられた被害者が相当数存在するのだろうという暗黙の事実だ。

彼らは、自分たちが救えなかった被害者への無念、自分たちの非力さ、不信仰という罪を覆い隠すために、上記のように自殺者を擁護し、自殺を後押しするような主張をしているだけである、筆者にはそうとしか見えない。
  
だが、キリストは、死に打ち勝った方であり、信じる者に豊かに命を供給される方である。

キリストは、カルバリで悪魔を打ち破り、我々を悪魔のもたらす全ての死の恐怖から救い出し、我々を死の奴隷状態から実際に解放して下さった方なのである。
 
だから、一体、この方への信仰を持っているのに、なぜ、我々が依然、死に怯えて暮らさねばならない理由があるのだろうか。いや、我々は死に立ち向かい、これを断固拒否し、撃退しなければならないのである。
  
筆者自身の確かな経験に立って、ここに警告しておくが、人間に過ぎない村上密に助けを求めた人間は死ぬだけであろう。彼らは救済にもあずかることはないし、受けた被害も回復されない。むしろ、持っていたものまで取り上げられる。

しかし、主イエス・キリストに助けを求める人間は、これらすべてを回復され、単に死に打ち勝つどころか、神の満ち満ちた命の豊かさに至る。
 
だから、筆者は、カルト被害者救済活動に失望し、一旦は、郷里に帰ったが、その後、信仰によってまた新たな家を手に入れて独立できたし、仕事も与えられているし、関西の地を去って後、今度は関東にやって来ることが出来たので、前よりも大きなチャレンジに至った。

まだまだ、このチャレンジは続くのである。むろん、郷里は自然が豊かで食べ物が美味しく、いつでも帰りたいという誘惑はあるが、キリスト者の道は「出て来たところに戻る」ことにはなく、「前に向かって身を伸ばし」、常にまだ見ぬ地へ、天の都を目指すことにある。
 
こうした事柄は、もし筆者がアッセンブリーズ教団や被害者運動などというものにすがっていれば、絶対に起きなかったことばかりで、目に見える人間に助けを求めて、見えない神に従わないことの不毛性をよく物語る事実である。
 
だから、貧しい者はただ主イエス・キリストの御名にすがり、神にのみ助けを求めるが良い。もし本当に神だけに栄光を帰するならば、主は御名に信頼する全ての人たちの願いに応えて、豊かな命を与えて下さる。

神の家族に加えられた人々は、もはやみなし子でもなければ、やもめでもない。神が保護者なのだから、地上の誰にも増して富んでいる人間であり、キリストと共に、天の相続財産が約束された御国の後継者である。

福音書の中で、放蕩息子が帰宅した時に、父親が彼に新しい服を着せ、履物と、指輪をはめてくれたように、神はあらゆる贈り物で、信じる者たちの人生を満たして下さる。
 
だから、真に恵まれて豊かで幸福な人生を生き、人間として地上に生まれて来たことの醍醐味を味わいたいならば、カルト被害者救済活動などという汚れた運動とはさっさと手を切り、被害者をダシにして自分の栄光を求めるような牧師への期待は、可能な限り早く捨てることである。

そして、まことの創造者たる神に立ち返り、神だけに栄光を帰して生きることである。

この唯一の神、我らのまことの造り主なる神を退け、神と教会とクリスチャンを訴える道を選んだ人間には、破滅しか降りかかるものはない。

村上密の最期は、自身の予告にふさわしいものとなるだろう。つまり、彼が自殺を擁護しているのは、自殺した被害者のためではなく、実のところ、自分自身の未来への自己弁明のためなのではないかと思わずにいられない。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。」(ローマ8:6)

戸を閉じて、隠れたところにおられる神に祈りなさい。

先月、KFCを介して知り合った最後の信者との別れがあった。KFCに一度でも関わったことのある信者との交流は、その人が最後である。もっとも筆者は何も言わずこの信者と訣別したので、その信者は、その出会いが最後のものであることをも知らない。

この信者からは、ちょうど7月の参院選の投票日間際の、このブログ記事の作成に筆者が最も打ち込んでいた頃、突如、予定変更して呼び出され、映画を観に行こうと誘われた。それもクリスチャン映画で、タイトルは"War room"(「祈りの力」)である。



むろん、この映画には色々と思うところもあり、手放しで絶賛するつもりは筆者にはないが、それでも、キリスト者ならば、ここから学べる多くの点がある。

特に、その信者のように、家庭に問題を抱えている主婦には必見の映画だ。自分の夫を憎んでいる妻には、観るだけの価値がある。キリスト教界ではおなじみの「愛と赦し」のテーマだが、人を憎み続ける生き方に対する強い警告がここにある。
 
その信者は、あまりにも長い間、夫を憎み続けて生き、もう自分に残された時間もごくわずかしかないというのに、この映画から、学んだことも特にないようであった。

その信者は、自分からこの映画に筆者を誘っておきながら、観終わった後、まるで他人事のように筆者を振り返ってこう言ったのだった。

「ヴィオロンさんには、この映画はきっと物足りなかったでしょうね」
「私にはクローゼットを祈りの場に変えることはできそうにないわ」
 
そのようにして、筆者に話題を振って、映画に込められているのが他ならぬ自分自身への教訓であり、警告であるとは全く受け止めようとせず、その後の歓談の席でも、配偶者に対する憤りを延々と語り続けたのであった。

もうこれ以上、そのような堂々巡りの生き方につきあうつもりは筆者にはないので、このような「信者」と交わる願いは皆無である。だが、KFCにはこのようなタイプの女性たちが非常に多かった。

夫に対する幻滅と憎しみゆえに、KFCに通い続けている女性信者たちが非常に多かったのである。

筆者の観点から見れば、そうした女性信者たちは現実逃避のために、KFCとDr.Lukeを利用していた。Dr.Lukeを偶像視し、彼の内に夫には見いだせなかった「英雄」への期待を託し、さらに、利己的で危なっかしい、英雄からはほど遠いDr.Lukeの歩みにも、まるで我が子を心配するかいがいしい親のように一喜一憂しながら、自分自身の抱える現実の諸問題から巧みに目をそらす口実としていたのである。

家庭を隠れ蓑にしていたので、それがDr.Lukeに対する霊的姦淫と現実逃避であるということが、傍目には分かりにくい構造になっていた。だが、彼女たちは、自分が家庭において味わっている本当に惨めさから目を背け、夫よりも自分が正しいという自己正当化に浸るために、集会に通っているのであった。

そういう光景は、ゴットホルト・ベック氏の集会の風景にもよく似ている。たとえば、経済成長の陰で、我が子を自死によって失ったり、家庭が危機に瀕している親たちが、集会で偉い指導者の言葉を通して、自己肯定と慰めを得て、自分は正しいのだという思いを家庭に持ち帰るのである。

こうした指導者たちの言葉には、見るべき問題を直視せず、自分を甘やかして来た親たちの心に巧みに訴えかけるものがあった。たとえば、ベック氏は信仰を持たない人でもキリスト教の葬儀をしてくれる。信仰を持たずに自殺した子も、神に愛され、受け入れられていると言ってくれる。

その理屈は以下に書く通り、村上密牧師と同じである。村上氏は、自殺者が天国に行けないとか、神に受け入れられていないという考えは、クリスチャンの偏見だとする。そのような言葉を聞けば、当然、子供を自殺という痛ましい形で失った親たちは、大きな慰めを得て、罪悪感を薄められ、満足を感じる。

だが、そのような安易な慰めには、弱い者たちを容赦なく犠牲にする価値観そのものの肯定、また、弱い者たちを犠牲に生き残って来た人間たちの側の巧みな自己安堵が隠れているのである。だから、そのような慰めにすがればすがるほど、彼らはより一層、家庭の歪みという、本来、見るべき問題から目を背けるようになる。
 
さらに、自殺という形で子供を失っておらずとも、そのような身勝手な慰めの言葉を聞いた親たちは、たとえ我が子と断絶し、交流が途絶え、我が子が信仰を捨てて集会にもよりつかなくなっていても、それを子供の側の一方的な落ち度として責めるようになる。

「私はこうして罪を悔い改めて、正しい信仰生活に立ち戻っているのに、あの子たちは信仰をも拒絶して、指導者の説教を聞こうともせず…」と、親たちは、自己正当化の思いで一段上の目線に立って子供たちの非を責めるようになる。要するに、集会に出ようとせず、自分たちの信仰を理解しようとしない子供たちが悪い、という理屈に逃げ込み、どうして親子の断絶が生じたのか、根本的な原因を考えようともせず、それを子供たちの不信仰のせいにかこつけて、より無反省になって行くのである。
 
だが、そうした親のかたくなさを見れば見るほど、子供たちはますます彼らが理想としている「信仰生活」に疑念を抱き、それは何か変だと感じて、そこから遠ざかって行くだけである。

だが、上記のように考えることによって、親たちは少なくとも子供たちの前でプライドを保てる。親たちは、集会における信仰生活が本物だと思っているので、まさかそれが自己の見栄とプライドを保つために作り上げられた虚飾の生活であり、自分たちの真の怠慢を覆い隠すためのアリバイ工作であるとは思ってもみない。

そして、あまりにも多くのものを集会に捧げ切っているので、それが幻想であることに気づくには、もう手遅れかも知れない人も大勢いる。

村上密氏の場合もこれと同じである。同氏は自殺を肯定する記事を自分のブログに書いている。つまり、自殺を神と自分自身に対する罪とする従来のキリスト教的な考えは、死んだ人間の思いや尊厳を傷つけるものであって、キリスト教徒の傲慢で誤った偏見だというのである。

こうして、自殺者の尊厳を優しく包んで擁護してやるように見せかけながら、ベック氏や、村上氏は、その実、巧妙に自らの主張において、死に対する抵抗を弱め、死を助長して行くのである。

彼らはクリスチャンを名乗っているにも関わらず、キリストが十字架において、悪魔の最大の武器である死に打ち勝った方であるという信仰の根本原則を信者に忘れさせ、死に対して徹底的に立ち向かうべきであるという姿勢を忘れさせ、信者に死を何か美しい、身近なものに感じさせ、キリスト教界にひそかに自殺肯定論を持ち込むのである。

その点では、ベック氏や、村上氏の述べているような理屈は、精神的な自殺幇助と言っても良いくらいで、そうした理屈はこれから死のうとしている人間にも大義名分を与えるし、すでに我が子を痛ましい形で失ってしまった親たちにも安易な慰めを与える。

こうした考えは、あたかも犠牲者に同情しているように見せかけながら、その実、人の死を助長する効果がある悪質なものであり、しかも、誰かを犠牲にして生き残った強者たちにとっても、非常に好都合な方便である。
 
だが、キリスト教とは本来、罪と世と死に打ち勝った方を救い主としているのであり、信者の信仰生活は、キリストの復活の命に立脚するものであるから、当然、この世の全ての圧迫や、死に対しても、力強い勝利を示すものではならない。その事実を曲げている点で、彼らの主張は信仰とは呼べないのである。
 
肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。だが、ベック氏や村上氏は、そのことを全く知らないのであろう。彼らの理屈は、彼らの掲げている「信仰」は、死を食い止める術がないまやかしだ、ということをよく物語っている。自分の非力を覆い隠すために、自殺者を優しく擁護しているのだと言っても過言ではないくらいである。

おそらくは、ベック氏には心にリンデの死を防ぎ得なかったことに対する無意識の罪悪感があるのであろうし、村上氏は、カルト被害者救済活動に携わる過程で、あるいはもっとそれ以前から、身近な弱い者の自死を防ぎ得なかった自分自身への自責の念があるのだと思われてならない。

そうした無意識の罪悪感が、形を変えて、自殺肯定論になって登場して来るのである。彼らは死んだ者たちをかばうためにそう言っているのではなく、むしろ、自分自身の罪悪感を薄めるために、「自殺は罪ではない」と言い続けているのであって、そのまやかしの自己肯定の思いが、似たような罪悪感を抱えている多くの人たちを惹きつけるのである。
 
だから、そのような理屈に、我が子のように身近な弱い人々を痛ましい形で失って、自分だけは生き残ってしまった親たちのような人々が、罪悪感を和らげるために群がって便乗し、自己安堵を得るのである。こうして、人々が結託して罪悪感を覆い隠すための一大要塞が築き上げられる。そのイデオロギーへ深入りすればするほど、「信者」が自分自身が真に犯している罪に気づくことは難しくなる。現実逃避的な信仰生活に邁進すればするほど、心はますます頑なになり、弱い者を責めるばかりになって、頭の中も抽象論だけで占められるようになり、本来、自分の家庭を立て直すために、自分自身は具体的に何をせねばならないのかという現実的な課題が見失われて行くのである。

Dr.Lukeの集会も、そうした現実逃避の点では同じ特徴を持っている。そこには世代間格差のようなものもあって、自分たちは恵まれた強者の立場にある人たちが、弱い者たちを容赦なく犠牲にしている罪を覆い隠し、そこから目を背ける方便として、信仰を利用しているのである。
 
さらに、配偶者間の争いによってずっと我が子を犠牲にし続けて来たような親たちが、そこに慰めと安堵を見いだして群がるのである。
 
そうした点では、KFCも、ベック集会や、村上密氏の礼拝と同じような意味で、弱肉強食の世界で生きて来たがために、子供を犠牲にしてしまった身勝手な親たちや、配偶者との絶えざる対立の中にあって互いに理解し合えない伴侶たちの心のアリバイ作りに大いに役立っていた。KFCの集会は、子供の自殺にまで至らずとも、我が子と断絶していたり、夫を憎む妻たちにも居心地の良いアリバイを与えていたのである。
 
ところで、夫婦間に深刻な心の断絶があると、子供たちも必ず深刻な悪影響を受ける。夫婦が憎み合っている家庭では、子供は成人すると、全く家によりつかなったり、親子関係が断絶してしまうケースも珍しくない。

ところが、KFCもそうなのだが、アリバイ作りのために信仰生活を逃避の場にする親たちは、神の御前で、自分が抱える配偶者への憎しみという罪を認めて懺悔するどころか、むしろ、その罪から目をそらすために、礼拝へ駆けつけるのである。

あたかもそうした罪を認めているかのように見えても、実際には、心の根本では、問題は解決していない。Dr.Lukeを夫の身代わりに見立て、彼に期待することで、本当に直面すべき心の課題から逃げているだけである。
 
しかも、彼らの中には、自分たちが持っていた配偶者への嫌悪や憎しみが、子供たちからどれほど平和な家庭を奪ったのかには露ほども思いを馳せず、やがて子供が成人して家によりつかなくなってもまだ、「このくらいの距離がちょうど良いわ!」などと言って自己安堵の中に逃げ込み、問題の本質をごまかす者もある。
  
彼らは「神」を口実にして自己肯定し、信仰生活を自分の罪から目を背ける口実としているので、彼らの身勝手な「信仰生活」は、続けば続くほど、より深いまやかしとして、信者を真実から遠ざけるのみである。

そうしたごまかし・まやかしの「信仰生活」が長く続くほど、その「信者」の心には、自分の罪を認めないための屁理屈が山のように築き上げられて行くので、だんだん事実を事実と認識することができなくなり、たとえば、自ら配偶者を憎みながら生きていても、上記のような映画を観ても、それが自分に大いに当てはまっていることだと、全く感じられないほどまでに心が硬化するのである。
 
さて、話を戻せば、上記の信者は、自分から筆者を誘ってその映画を観たのであるから、話題を筆者に振って終わりにするのではなく、今こそ、自分自身の妻としての至らなさ、母としての至らなさを認識し、夫婦が憎み合っていたために我が子へ与えた悪影響について考えるべきタイミングに至っていたのであるが、映画は自分には関係ないことであるかのように考えることによって、その貴重なタイミングを自ら逸したのであった。
  
筆者はその時が来るまで、その信者はとても幸せなのだと思っていたが、実際には、そうではないことがよく分かった。というよりも、その信者がまやかしの表面的な幸せを保つために、どれほど忌まわしい思考操作・ごまかしのからくりを水面下に隠していたかがよく分かって、筆者はもうそのような幸せを羨ましいとも思わず、そのようなものに関わりたい願いをも完全に失ったのであった。
 
KFCに関わったがゆえに、己が罪が見えなくなった人々は多い。カルト被害者救済活動も同じであるし、ベック集会も同じである。彼らの罪の概念は歪んでおり、指導者に逆らうことが「罪」とされる一方、人が真に心の中で犯す罪が全く罪と認識されないのである。だから、そんな集会の信仰生活に関われば関わるほど、人はより自分を「ひとかどの人間だ」と己惚れるばかりで、自分の罪や身勝手さが見えなくなっていくだけなのである。
 
生涯の終わりになっても、配偶者に対して何十年間も抱えて来た軋轢と憎しみを心に抱えたまま、自分は正しいと思いながら、配偶者の過ちだけを責め続け、憎みながらも別れようともせず、むしろ憎んでいる配偶者の助けによりすがって、その経済的な庇護を受けて、表面的にのみ幸せで平穏な生活を送り続ける、それが何か信仰と関係があるだろうか?

断じて、そんなものは信仰生活とは呼べない。

そのような人は、ずっと自分の本心を偽っているので、それが極めて欺瞞に満ちた身勝手な生き方だということには気づこうともせず、そのくせ、心の底にある不満を隠すこともできないので、ずっと配偶者に対する愚痴を生涯に渡って、あらゆる無関係な人たちに語り続けるのであろう。そのような行為が、健全で幸福な結婚生活に関する他者の夢を壊している悪影響にさえ思いが及ばないほど身勝手なのである。

そして、棺桶に片足を突っ込んでいると言われても差し支えない年齢になっても、まだそのような自分自身の本当の身勝手な姿から逃げ続けるために、日々、何かのエキサイティングな行事や、娯楽を追い求め、美しく着飾り、現実逃避して、本心をごまかし続けて生きるのである。

本当の幸せを手に入れるために起こさなければならなかった全てのアクションを捨て去って、ただ自分は幸福な主婦であるという表面的な見栄とプライドと安定的な生活を保つためだけの、まるで無限ループのように生産性のないまやかしの生き方を、生涯を閉じるまで、離れられないのであろうか。
 
今だから言うが、 Dr.Luke本人を筆頭として、KFCには、世の中の情勢とは全く関係なく、世人が常に味わっている苦労とも無縁で、幸福そうで、悩みなく生きているように見え、またそのように豪語している人たちが存在した。

だが、そのように浮世離れして、悩みがない人というのは、人として何かが根本的に狂っていて、おかしいのだと、筆者は今は推測せずにいられない。

聖書には、正しい人には悩みが多いと書かれている。信仰者には地上で悩みがある。試練もある。艱難もある。だが、主がそれらの苦しみから私たちを救い出して下さり、苦しみの只中で、勝利する秘訣を教えて下さる。

だから、若い時に苦しみを受けることは幸いなのである。また、それがなければ、信仰が訓練されて生長するということもあり得ない。
 
なのに、全く悩みにも遭わず、試練にも遭わず、悔い改めるべき罪も自分にはないと言い、ひたすら他者の罪だけを責め続けて、信仰の戦いがまるで存在しない人は、おそらくは信仰者ではないのだろう。ただ単に信仰者でないだけでなく、それは人間のあるべき姿からもほど遠く、実際には、羨むだけの価値が全く存在しない欺瞞の生き方なのである。
 
その美しい平和な外見は、信仰に裏打ちされたものでは全くなく、むしろ、内面にあるものは、白く塗った墓なのだと言って良いのではないか。見るべき全ての問題から逃げ続けているために、偽りの平穏が保たれているのでしかない。

だとすれば、そのように棚上げした問題のツケは、おそらく人生の最期、主の御前に立たされる時になって、洪水のように押し寄せて来るに違いない。
 
もしかしたら、上記の信者については、あの映画がラストチャンスだったのかも知れない、と思う。だが、その人にその先、何が待っているのかは、筆者にはあずかり知らないことであるし、それ以上、関与したいとの願いもない。
 
さて、映画を観た結果、筆者自身が思うことは、もし筆者自身が、今後、家を変わることがあれば、祈りの部屋にできるウォーク・イン・クローゼットがある家も悪くない選択だということである。

集会への出席状況などを人前で誇るのではなく、楽しい讃美歌を歌い、飲み食いし、浮かれ騒いで踊ることを「信仰生活」と考えて喜ぶのでなく、ただ隠れたところで、神にのみ心を注ぎだして祈ることだ。ただ神だけに栄光を帰することだ。

神は隠れたところにおられ、隠れたところで捧げられる祈りに目を留めて、信者の願いに耳を傾け、聞いて下さる。信仰生活は、対外的に見せびらかして自己肯定するために存在するのではない。信者の内面の生活は、神にのみ知られ、神の目に評価されていれば、それで良いことである。


己が罪から目を背け、自己を英雄化する日本政府の現実逃避のトリックからはエクソダスせよ

1.日本は真の戦後を未だに迎えていない。戦前と戦後の板挟みの中、歴史の岐路に立つ日本
 
これまで書いて来たように、現在の日本の抱える最大の自己矛盾は、現行の憲法を含め、現在の日本政府の形態、および、国内のすべてのシステムに、敗戦以前の明治憲法時代の体制の遺物が中途半端な形で温存されているために、敗戦によってすでに敗れ、罪に問われ、とうに裁かれ、追放されているはずの勢力と、その悪しきイデオロギーが引き継がれて今日に至っていることから生じる。

つまり、本来、敗戦によって終止符が打たれなければならないはずの思想やシステムが、こっそり仮面をつけかえて戦後の体制に忍び込み、堂々と大手を振ってこの国の頂点に居座り、君臨していることが、この国にさまざまな矛盾と悲劇を呼び起こしている最大の原因なのである。
 
その矛盾の筆頭は、敗戦後、A級戦犯であった岸信介が首相にまでなった事実にも見られるように、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実に、米国の承認を受けて、本来は、裁きの対象とされ、公職から完全に追放されていなければならなかった戦前の政治勢力が政界に返り咲き、この国のトップの座に居座り続けたことにある。

政界のトップに、敗戦によって終止符が打たれたはずの勢力が居座り続けたわけだから、我が国に敗戦後も、真の刷新が訪れなかったのは当然である。

国民には敗戦によってあらゆる負い目の意識が植えつけられたかも知れないが、政府には、敗戦によっても変わることのなく戦前と同じイデオロギーが受け継がれたため、国民と政府との間に大きな「ねじれ」が生じたのである。

その「ねじれ」は今日に至るまで、政府と国民との間の巨大な思想的な壁、この国のシステムの抱えるあらゆる自己矛盾となって受け継がれている。
 
さらに、敗戦後も政府に居座り続けた戦前の政治勢力と同様に、明治憲法時代の官僚制の遺物も、戦後の憲法の制定直後から抜け目なく温存されて今日に至っている。それが、我が国第二の悲劇である。

敗戦によって天皇の戦争責任を問うことなしに、天皇制をそのまま温存し、さらに、生まれや、門地、家柄による差別を禁止しながら、皇室だけをその例外とし、天皇という地位が、血筋、生まれ、家柄によって定められるものとしていること自体が、憲法の抱える最大の自己矛盾である。

そして、天皇制が廃止されなかったことをきっかけに、天皇制を隠れ蓑にして、本来、敗戦によって敗れたはずの政治勢力と、官僚制が、抜け目なく自己保存をはかって今日に至っているのである。

つまり、この国は、敗戦を経験しても、上層部はほとんど変わることなく今日に至っているのであり、そのために戦後の政治的刷新が行われなかったことこそが、この国最大の「ねじれ」であり、最大の矛盾であり、国民の悲劇の源なのである。
 
このような自己矛盾があるため、この国では、未だ戦前の遺物と、戦後に作られた新体制のイデオロギーとが激しくせめぎ合い、この国を過去へ引き戻そうとする力と、過去と訣別して未来へ向けて新たな一歩を踏み出そうとする相矛盾する両方の動きが同時に起きているのだと言える。

表面的には、A級戦犯の孫が首相になっていたり、肥大化して国全体を操る官僚システムがあったり、軍国主義や国家神道の復活を願う日本会議の面々によって政府が事実上、占領状態に置かれていることなどから、この国ではあたかも明治憲法時代へ逆戻りしようという勢力が大勢を占め、未来に向けた刷新は絶望的であるように見えるかも知れない。

だが、実際にはそうでなく、天皇の生前退位へ向けたメッセージにも見られるように、そうした歴史的後退の動きを牽制し、むしろ、「真の戦後」に向けて、自己矛盾を取り払い、新たな一歩を踏み出そうとする動きも、ないわけでなく、目立たないように見えながら静かに力強く進行している。

この国はそうした意味で、今、重要な岐路に立たされているのだと言える。筆者は、天皇の生前退位に関する意向表明は、たとえ天皇自身が意図していなかったとしても、やがては必ず天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くであろう極めて重大な問題提起を含んでいることを、思わずにいられない。

明仁天皇の「お気持ち表明」は、天皇とて基本的人権を有すべき一人の人間である、というごく当たり前の事実を表明したものであるが、しかし、現行の憲法と皇室典範の規定では、その当たり前の事実も、当たり前に実現できない、という矛盾が、それによって露呈したのである。

その意見表明により、現行の憲法が規定する国民と皇室との区別という象徴天皇制そのものの抱える自己矛盾が白日の下にさらけ出されたのだと言える。

それゆえ、天皇のメッセージは、天皇を国民とは別格の高みへと押し上げて、天皇を中心としたヒエラルキーをより強化したい人々の願いに応えるどころか、むしろ、それとは逆に、天皇を国民と同じ水準へと「引き下げ」て、天皇と国民との平等化をはかろうとする意味をおのずと含んでいた。

天皇は、天皇という地位だけが独り歩きして、その地位によって自分が現実以上の存在に祀り上げられて栄光化されるのを拒み、むしろ、自分は普通の人間として生き、普通の人間として人生の幕を閉じたいという願いを表明した。

それは明仁天皇という一人の人間の願いであるだけにとどまらず、結局は、天皇を頂点とする虚構のヒエラルキーのみなしさを暴露するものであり、そうである限り、ヒエラルキーそのもの崩壊へとつながる序曲だと言っても差し支えないほどに、衝撃的な意味を持つものと筆者は考えている。

明仁天皇のメッセージは、ただ激務から解放されたいという個人的願いを示すだけのものではなく、天皇であり続けることには、何ら輝かしい栄光はなく、むしろ、一人の人間を生涯に渡って人身御供にしてしまうような、ある種の非人間性が伴うことを無言のうちに明らかにしたのだと言って差し支えない。

従って、そのような告白がなされたこと自体が、天皇を未だ取り巻く神秘のベールを取り払い、天皇を神話化し、栄光化しようとする動きに相当、水を差すものであったことは間違いない。

つまり、そのメッセージ自体が、天皇制を隠れ蓑に、自分たちを「上級国民」として栄光化し、「下級国民」を見下して、ヒエラルキーを強化したい人々にとっては、限りない屈辱であり、著しい敗北だったのではないかと思う。

結局、この「お気持ち表明」を通して、明らかになったのは、現行憲法が定めている、日本国民の間に差別を敷く天皇制そのものが抱える自己矛盾であり、その矛盾が、天皇自身をも人間として犠牲にしていること、また、そのような形で天皇制を維持し、人が生まれによって人の上に立つことを認めたがために、我が国では、天皇ばかりか、敗戦によって終止符が打たれるべきであった旧いヒエラルキーが温存され、国民の間でも、競争が敷かれ、地位や職務ばかりが独り歩きし、社会における役割を離れての一個の個人の価値というものが、全く重視されなかったことである。役割を離れた個人の価値を認めないからこそ、基本的人権も軽視されている。

こうしたことから、筆者は、今回の明仁天皇による「お気持ち表明」は、天皇を基本的人権の例外とみなす自己矛盾の撤廃と、生まれや血筋に基づく差別の完全な撤廃と平等の実現に向けて、やがては天皇制そのものの撤廃へとつながる国民的な議論を呼び起こすであろう、と予測するのである。
 
むろん、明仁天皇は、そのメッセージによって、象徴天皇制自体の廃止の願いを表明したわけではなく、象徴天皇制そのものは国民と共に続いて行くことを願っていたので、天皇自らがそのような希望を述べたわけではない。

また、今はまだ多くの人々が、明仁天皇の生前退位の問題は、個人の問題に過ぎず、大々的な制度的変革の必要性は生じず、まして天皇制の廃止といった話には結びつかない、と考えているかも知れない。だが、筆者の予測では、そうはならない。

明仁天皇の生前退位によって提起された問題は、以上に述べたように、もっと根本的な重みをもつ問題提起なのであり、そうである限り、いずれ必ず、皇室や天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くことであろうと思う。
 
こうして、奇妙なきっかけであったとはいえ、今まで一度もこの国に姿を現したことのなかった真の民主主義へ向けての展望が、天皇自らの生前退位を示唆する意向表明によって、わずかながら姿を見せ始めた。

たとえこれをどんなに妨げようと考える勢力がいたとしても、一旦、始まった動きはいつの日か必ず成就されるであろうと筆者は思う。

さて、この生前退位の問題に関して、天木直人氏のブログに極めて重要な指摘があったため、転載しておきたい。

天木氏の記事における重要なポイントは、現在の皇室典範は、明治憲法時代の旧皇室典範の精神をそのまま受け継いだものだということである。

明治憲法時代の旧皇室典範は、皇族についての家法でありながら、憲法と同格の法規とみなされ、なおかつ、国民をも束縛する内容であった。戦後の皇室典範は、憲法と同格ではなく、憲法の規定に従って作られた下位法に過ぎず、国民は議会を通じてこれを改変することができ、皇室典範が国民を縛るとこともない。

だが、安倍政権を含め、極右・保守勢力は、この秩序を再び逆にして、憲法を貶めたいのであろう。彼らは皇室典範は改正せずに、憲法だけを改正することによって、憲法の精神を愚弄し、さらには将来的には、皇室典範を憲法の上位に置いて、再び天皇の名の下に国民を束縛することを主眼としているのだと考えられる。

「皇室典範は壊憲派にとっての9条だ」などと世間で言われたりするのも、こうした理由からである。だからこそ、天皇の生前退位に関しても、安倍政権は皇室典範を改正することを嫌がり、この問題を特別立法によって済まそうとしているのである。
 
つまり、彼らの目には、今も憲法と同等の(それ以上の)法規と見えており、本当は彼らが憲法につけ加えようとしている緊急事態条項などにもまして、天皇の名の下に、国民の人権を再び大規模に抑圧することが狙いであって、皇室典範こそ、それを正当化するための精神的根拠なのであろう。
 

天木直人氏のブログ記事
皇室典範は国民の手で改正しなければいけない」から転載
2016年8月17日

 国民の圧倒的多数(8割-9割)が天皇陛下の生前退位を支持する事が分かった以上、もはや安倍政権はそれを認めるざるを得ない。

 本来ならば皇室典範の改正が本筋であるが、メディアがはやばやと報
じたように、安倍政権は特別立法で乗り切るつもりだ。

 なぜか。

 
その理由を発売中のサンデー毎日(8月28日号)でノンフィクション作家・評論家の保阪正康氏が、で見事に言い当てくれた。

 すなわち、彼は「平成の玉音放送を読み解く」と題する特別寄稿の中で、皇室典範に関して次のように書いている。

 「・・・大日本帝国憲法成立と旧皇室典範はほぼ同時期に成立していて、いわば近代日本の天皇制はこの二つの枠組みで決まっていた。天皇はこの国の主権者であり、統治権、統帥権の総攬者であった。これに反して新憲法の成立とやはりほぼ同時期に決まった新しい皇室典範は、本来なら新憲法と併せて象徴天皇の両輪になるはずであった。

ところが、
たとえば新憲法では、国民の市民的権利を認める民主主義の創設を謳っているにもかかわらず、新しい皇室典範は旧皇室典範を踏襲した形になっていた・・・つまり今の憲法と皇室典範には、共通の回路があるわけではない。二つの枠組みには異質なものが抱え込まれている・・」

 賢明な読者なら、この指摘がいかに深刻な意味を持っているか、お分かりだろう。

 つまり新憲法は天皇制に関しては明示憲法の考え方を引き継いでいるということだ。

 そして天皇制に関して明治憲法の考えを引き継いでいるということは、新憲法は民主主義と明治憲法の相反する矛盾を抱えているということだ。

 この矛盾に私は気づかなかった。

 いや国民のほとんどは気づいていないに違いない。

 新憲法の成立過程は国民の手に及ばないところで作られた。

 しかし皇室典範はもっと国民の手の届かないところで作られ、その存在は国民の意識の外にあり続けたのだ。

 天皇陛下の生前退位によって皇室典範の改正が不可避になった以上、我々は、特別立法というごまかしではなく、いまこそ皇室典範の改正を求めなければいけない。

 すなわち国民の手で、皇室典範を、新憲法の定める民主主義、基本的人権尊重の精神にしたがって、作り直す必要があるのだ。

  明治時代への回帰を求める国粋・右翼の連中が、おそれおおくも天皇陛下の生前退位のお言葉に不快感を抱き、皇室典範の改正に反対する理由が、これではっきりした。

 日本が本当の意味で民主主義国家になれるかどうか。

 いま我々は歴史の大きな転換期に立たされているのである。

 天皇陛下が覚悟を持って示されたお言葉を、特別立法でごまかしては日本に民主主義はやってこない(了)

 

このように、我が国では、法的にも、民主主義を阻む戦前の遺物と、民主主義へ向けた新たな一歩と、全く相矛盾する二つの理念が未だ併存し、対立している状態で、戦後70年が経過しても、未だ過渡期のような状態である。だが、そうであるがゆえに、今、極めて重大な分岐点に差し掛かっているのだと言える。
 
時計の針を逆戻して歴史をさかさまにすることは誰にもできない以上、今はどんなに弱く小さく見えても、時代を前進させ、刷新する動きの方が最終的には勝つであろう。
 
さらに、天皇制の次に廃止されなければならないものが、官僚制度である。
 
 明治憲法下では、 主権者は天皇であるとされており、行政官庁は天皇の直属の機関であり、官僚は天皇の僕ということになっていたので、天皇に仕えるという名目で、官吏には特権的な社会的地位を得、身分保障がされていた。さらに、官吏の人事は、議会も関与できない「聖域」であった。

戦後になっても、事情はあまり変わらず、戦後、官僚は天皇の僕ではなく、国民の公僕と定められている。しかし、現実には、官僚には国民の公僕との意識は全くと言ってよいほど存在しない。天皇の直属の機関でなくなってもなお、官僚には国民が主人なのだという意識はなく、かえって自分たちは国民に君臨する存在だという意識に貫かれている。

悪しき上級キャリア試験に合格したというエリート意識が、彼らの国民への優越感をより一層助長しており、そうした官僚の特権的・優越的な意識と、その意識に基づいて、彼らが現実に作り上げ、維持している、肥大化したモンスター・天下り・システムも、結局は、「神である天皇に直接仕える官吏」という戦前の幻のような自惚れと特権意識をそのまま今日まで引きずることによって正当化されている。

そのような官僚の優越感と特権意識は、憲法が中途半端に天皇制を温存したがゆえに、これを隠れ蓑に正当化されているのだと言える。官僚には敗戦後も何ら精神的刷新が訪れず、戦前と変わらず、自分たちは国民に君臨する特権階級だという意識が持ち続けられ、そのために、現在も、自らの優越的地位を正当化し、手放さないのである。

また、官僚の人事が「聖域」であるという事情も変わらず、国家公務員は若くして国家公務員試験に合格し、省庁に採用されさえすれば、よほどの不祥事を起こして世間を騒がせたり、あるいは組織内部の判断によって降格されたり罷免されたりといったことが起きなければ、誰からも出世コースを阻まれることがない。

官僚のエリート意識を生んでいる一つの大きな要因は、官僚の登用試験制度である。戦前の官吏が試験を通じて登用されたのと同様に、今日も官僚は試験によって採用され、しかも、キャリアとノンキャリを区別するエリート専用の試験が設けられている点も、戦前と同じである。
 
このように画一的な、生涯に渡る出世のコースが限定されてしまうような試験の区別がなされていること自体、極めて深刻な問題であるが、それは戦前の制度を今日に継承して成り立っている。
 
こうして官僚の出世の可能性はおおよそ試験の結果によって決まって行く。民間企業にも、入社試験なるものはあるが、その試験が、入社後の人事に半永久的に影響を及ぼすことは決してない。さらに今日、民間企業にはアファーマティブ・アクションの一環で、障害者雇用の枠なども義務付けられているが、国家官僚にはそれもなく、経験者採用の枠組みも狭く、官僚になるには、基本的には、一定年齢の間に公務員試験に合格する以外には道がなく、たった一度の試験結果がほとんど生涯に渡って影響を及ぼすのである。

そんな制度自体が、年齢や能力に基づいた差別であり、しかも、そのような画一的な試験に高得点で合格した人間こそが、真に官僚にふさわしい人間だと判断できるだけの客観的な根拠は、全くどこにも存在しない。

明治時代、当初は官吏の試験を受けることのできるメンバー自体も限られており、学歴や卒業校による差別も行なわれていた。

その後、官吏になるための試験は国民の誰もが受けられるという体裁にはなったが、それも表向きのことであり、実際には、戦後の今でさえ、東大(法学部)卒がキャリア官僚の大半を占めるという構図は変わっていない。

こうしたシステムはすべて明治時代に作られた官吏の制度に起因しており、それが敗戦を経ても、本質的に変化することなく今日に精神的に受け継がれている。

だが、こうしたシステムは、戦後の憲法の時代、何ら正当な根拠を持つものではない。
 
このように、日本では、天皇制を筆頭として、官僚制も温存され、政治的刷新がなされなかった。戦後の憲法でさえ、完全な政治的刷新を拒む不完全さと矛盾を抱えており、そこにあらゆる戦前の悪しき勢力がつけ込み、自己保存をはかった結果、不完全な憲法の中にこめられたなけなしの新時代の理念さえ、骨抜きにされ、愚弄されて、今日まで一度も完全な形で実現を見ていない。

たとえば、戦争放棄や、非核三原則でさえ、米軍基地が置かれたことや、自衛隊の設置により、骨抜きにされ、日本国憲法が基本的人権によって保障している最低限度の生活や、居住移転職業選択の自由といったものも、定められてから一度たりとも国民の間で完全な形で実行されたことはない。
 
憲法の定める差別の禁止や平等などは謳い文句に過ぎず、今も我が国に根強く存在するのは、幼い頃から学校で良い成績を取り、偏差値優秀な大学を卒業し、官庁やエリート企業に勤め、そのエリートコースから外れなかった者だけが、社会の最上層部で特権的で裕福な生活を享受でき、自由を謳歌できるという幻想であり、他方、エリートコースから逸れた者には、その外れた分だけ、人間としての自由や権利が制限されて行く、という歪んだ価値観が横行している。

就職による新卒・既卒の区別など、法的には何の根拠のない差別でしかないのに、そのようなものが「慣習」として大手を振ってまかり通り、そのような悪しきヒエラルキーを容認し、正当化する最たる制度として、受験競争の上に官僚制度が君臨しているのである。
 
おそらくは、官僚制度がなくならない限り、日本特有の「受験戦争」や「就活」の異常な風景もなくなることはきっとないであろうという気がしてならない。

こうして、日本国憲法の理念は、戦前に作られてとうに撤廃されてしかるべき悪しきヒエラルキーによって、成立から今日に至るまで、絶え間なく踏みにじられ、愚弄され、骨抜きにされている。そのせいで、我が国では一度もきちんと完全に実行されたことがない。ところが、この憲法を、実行もされないうちから、時代遅れなものとして撤廃しようという動きが出ていることには、呆れる他にない。その理由として、そうした動きを助長する人々は、この憲法は「米国から押しつけられたものだった」と言う。

だが、実際には、日本国憲法は「押しつけ憲法」などではなかったのであり、つい先日も、「「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料」(東京新聞 2016年8月12日 朝刊)という記事により、また新たな裏付づが得られたばかりである。

ところが、こうしたニュースも、国民の目を欺きたい勢力は、トリックによってかき消そうと、「魔法」に余念がなく、「日本の憲法「我々が書いた」…米副大統領」(YOMIURI ONLIEN 2016年08月16日)といった情報を盛んに御用メディアで流布し、何とかして、戦後の憲法は米国から押しつけられたものだったのだ、という歪曲された歴史観を強化しようと試みている。

だが、たとえ現在の米副大統領が「我々が書いた」と発言したからと言って、当時の証拠もなしに、そんな発言だけを頼りに、日本国憲法が押しつけだったという論拠とするのは愚かであろうし、そんな試みは後世の人々による歴史の書き変えの一環に過ぎない。

しかも、このような傲慢な発言の真に言わんとしているメッセージは、結局、「世界のどの国であろうと、我々米国人は、その国の憲法をないがしろにし、いくらでも自分たちに都合の良いように書き変える権利を持っているのだ」という、他国の主権の否定と他国への愚弄の意図に他ならない。

もし我が国が、そんな聞き捨てならないプロパガンダに乗って、一度も完全に実現されたことのない憲法を「押しつけ」だの「時代遅れ」だの「みっともない憲法」だのと言って、時の政権に都合よく改変するようなことがあれば、その時こそ、米国の「押しつけ憲法」が成立し、この国の主権は蹂躙され、もはや無法地帯同然となるだけである。

そもそも、最高法規で何を定めていても、それに違反する現状がすべてに優先するというのであれば、憲法のみならず、どんな法の定めも、すべて単なる「絵空事」に過ぎないことになり、現場でやりたいようにやった者勝ちの世界が成立する。そんなことならば、見かけだけ文明国をきどるためのまやかしの法など全て捨てて、文字も持たない未開の野蛮人に戻り、実力だけにすがって生きるのが最も手っ取り早いであろう。

戦後の平和憲法を「みっともない押しつけ憲法」だと呼んでいる者たちは、しょせん、戦犯の子孫であったり、あるいは、戦前の官吏の制度をそっくり継承して国民に君臨する官僚であったり、ほとんどがトリックによって現在の政府に入りこんだ戦前の政治勢力に過ぎない。
 
要するに彼らは、自分たちの存在そのものの違憲性が暴かれ、自分たちの無法行為が暴かれ、罪に問われたりしないように、法を骨抜きにして「やりたいようにやった」者勝ちの世界を正当化しようと、彼らを罪に問える憲法自体を自分たちに都合よく別物に変えてしまおうとしているだけである。
  
戦犯の子孫である彼らのみならず、彼らが戦犯であることを重々知りながらも、日本を「反共の砦」とするために、また、永久に属国化するために、あえてこのような犯罪者集団をこの国の政権の座につけた米国とが協力して、彼ら両方のはかりしれない重い罪を覆い隠すために、壊憲を実現しようとしているだけである。
 
今日、世界中の国々で、ネオナチ・前科者などの忌むべき犯罪集団を積極的に政権の座につけることにより、クーデター同然にその国を乗っ取り、犯罪集団のもたらす恐怖によってその国民を支配しているのが米国であり、ウクライナを例に、我が国への米国支配のあり方をも十分に学ぶことができよう。
  
こうした人々は自らの罪を否定し、自分たちが不法に獲得した特権的地位を保つために、自分たちを罪に問う力を持つ法そのものを否定し、これを歪曲し、自分たちがあらゆる法規を超える存在(神)になろうとしているだけである。


2.映画『シン・ゴジラ』に見る日本政府の妄想的な自己美化願望
  

いつの世も同じことの繰り返しである。止めようのないものは止められぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある。「魔物」である。

仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい何が見えているのであろうか。「理解」に苦しまざるを得ないのである。 

・・・

大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないんだと俺たちが思い込んでしまうように。

今まで生きてきた中で、敵とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆け巡った。

「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」


さて、次は『シン・ゴジラ』について書きたい。

映画はすべて未来へ向けて人々の意識を誘導する意図を込めて作られるものである。だから、この映画についても、国民をどのような未来へと誘導しようとして作られたのか、隠されたストーリーを疑わないわけにはいかない。

筆者は、この映画は、戦争と緊急事態へ向けての布石であり、かなり巧妙かつ悪質な政府のプロパガンダ映画であるという印象を受けた。むろん、この映画は政府が制作したものでないとはいえ、その筋書きは、強く政府の意向を反映したものとなっていると感じざるを得ない。

この映画に関しては、「『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」」(現代ビジネス 2016年08月13日)にも見られるように、すでにかなりの批判の声も上がっている。

筆者の観点から見ても、この映画の最も遺憾な点は、これが「主権在民」とは程遠く、むしろそれとは正反対の「主権在官」と言っても良い「官主導」の観点だけから作られた、国民を軽視し、政治家と官僚だけを英雄視する政府の太鼓持ち的なストーリーとなっている点だ。

さらに、悪質で許しがたいと感じられる数々の印象操作がこの映画では堂々と行われている。ゴジラという架空生物を登場させて、政府を「ゴジラを退治する正義の味方」として描き出すことによって、本来、福島原発事故によって、東京を含め、全国にまき散らされた放射能汚染に関して政府が現実に負っている責任をごまかし、ファンタジーによって薄め、被災地への復興支援の遅れの責任なども曖昧化し、震災関連で起きた政府の全ての対応の無責任という現実を、ゴジラに転嫁してことを済ませることが、真の目的だとしか思えないほど、フィクションとは言え、許しがたい印象操作がなされている。

さらに、そのような印象に追い打ちをかけるように、ゴジラを口実にした、首相権限による超法的な「緊急事態・戒厳令」の制定、さらには自衛隊による国内での武力行使や、まるで特攻隊の再来のような、自衛隊員によるゴジラへの決死の体当たり作戦といった、人権の軽視、生命の軽視を念頭に置いた刷り込みが行われ、まるで国民に「緊急事態だになれば、人権停止も、武力行使による人的犠牲も、やむを得ないのだ」と、予め心の準備をさせることを目的としているとしか思えない筋書きが込められている。

これらのことを考慮すると、筆者には、これは福島原発事故によって生じた放射能汚染の被害に関する日本政府責任を覆い隠し、政府を「英雄化」した上で、さらには「有事」を口実に、政府の権限を無制限に拡大し、政府主導で緊急事態を宣言して国民の人権を停止するという来るべき将来の事態に向けて、国民を心理的に「地ならし」するために作られたプロパガンダ映画だとしか思えないのである。
 
もしかすると、この作品は、これまでに作られたどのゴジラ映画のストーリーともほぼ正反対の筋書きになっているのではないかと怪しまれてならない。
 
海外では、福島原発事故後、東電及び日本政府の無責任な対応について、以下のような皮肉な風刺画も描かれ、つまり日本政府こそ、人類に危害を与えるゴジラだ、と揶揄されたのである。

ところが、この映画では、まるでこうした批判をかわし、あざ笑うかのように、汚染水垂れ流しの無責任のために、「おまえこそがゴジラだ」、と国際的に非難を浴びているはずの日本政府が、「放射能をまき散らすゴジラを退治する英雄」にすり替わっている。
 
その意味で、『シン・ゴジラ』という映画自体が、東電と日本政府とが、空想の中に逃げ込むことによって、現実に起きた災害から目をそむけ、それに対する自らの対策不足と、無責任という罪から逃げ、自己を英雄視するための、架空のありもしないストーリーを思い描いて現実逃避し、そこに国民を巻き込みながら、自己肯定・自己安堵するために作られた大がかりな(自己美化のための)「装置」なのだと感じられてならない。

 

画像の出典:"Fukushima: Japan building giant ice wall as TEPCO gets go ahead"
(The News Doctors. May 28, 2014) フクシュビッツのホロコースト

しかも、この映画には、随所で3.11で現実に起きた出来事を模して作ったとしか思えない映像がちりばめられている。

たとえば、作品に登場する政府の対策本部の人々の着ている濃いブルーの防災服は、福島原発事故直後、菅直人元首相、東電勝俣元会長らが着ていた防災服とカラーが一致し、当時の政府と東電責任者を強く思い起こさせるものとなっているが、これも決して偶然ではなかろう。
  
上記の面々、特に東電の責任者らは、3.11当時、この国を滅亡へ導くほどの未曾有の原発事故の責任を問われ、ひたすら国民の前に謝罪と対応を求められていた「戦犯」たちであるが、映画では、そのような面々を思わせる登場人物が、勇敢にゴジラと闘って国を救うヒーローのように登場しているところに、これらの「戦犯」を「名誉回復」しよう、という隠れた意図を感じざるを得ない。登場人物の風貌も、どこかしら東電の吉田所長や、勝俣元会長などを思い起こさせるのは偶然であろうか?

事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区

(写真の出典(上):日本経済新聞「3月30日」(2011/3/30)事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区)
 (下二枚):「シン・ゴジラ 予告」より 
 


 
 


(写真の出典(上):「【菅直人氏インタビュー(中)】 原発から逃げたら、日本は国として成り立たないと思った」WEBRONZA 2012年06月15日
  (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

しかも、この映画では、3.11で起きた災害の様子を強く思い出させるようなシーンが、「ゴジラの脅威」にすり替えられて使われているため、現実に起きた自然災害の脅威を、人々に忘れさせる効果がある。

東電福島原発がまき散らした放射能被害に対する政府と東電の無責任を問う国民の怒りの声も、すべてゴジラへの怒りの声にすり替えられ、今でも、連日のように、国会議事堂周辺で繰り広げられる反原発デモの怒号も、「ゴジラを倒せ」という架空の存在への怒りへと置き換えられる。 

こうして、この映画は、フィクションでありながらも、現実に存在する様々な現象を、その意味を巧みに歪曲し、すり替える効果を持っており、結果として、非常に巧妙かつ狡猾な形で、政府にとって都合の良い「概念のすり替え」を、観客に刷り込み、結果として、現実に起きたあらゆる災害についての政府責任を免罪するかのような心理的効果を観客にもたらすものとなっている。

また、この映画では、国民の人権は軽視され、あえて言うならば、時代錯誤な「国体護持」以上の「理想」が何ら提示されていない。

つまり、この映画のストーリーが目指している「解決」とは、要するに、主都と政府機能が壊滅しないことにより、日本という国が体制の変革を迫られることなく、滅亡せずに存続する(現代版の「国体護持」)ことを解決とみなす、という以上のものではない。
 
人間一人一人の命よりも、「国を守る」ことの方が優先なのである。東京が壊滅しなかったことが、国全体が助かったことと同一視され、時代遅れで無能な政府が、ゴジラによってさえも終止符を打たれず、中途半端に生き永らえたことが、物語の中で、一種の「ハッピーエンド」のようにとらえられる。
 
この(現代版)「国体護持」は、おびただしい数の国民の人権の抑圧と、多数の自衛隊員の犠牲と引き換えにもたらされたものであるが、その犠牲者も、ゴジラの脅威が去って国が滅びなかったという喜びに影を落とすものではない。

こうして、国民の犠牲や、自衛隊員の死が悲劇としてはとらえられず、人間を道具のように扱いながら、どこまでも政府の作戦だけにスポットライトを当てて、その成功を祝う人命軽視のストーリーに感じる違和感は、現存の政府が抱える思想的な欠陥を、そのまま浮き彫りにしたものだと言えよう。

この物語では、政府が「主役」として高められる一方で、国民には暗黙のうちに蔑視的な眼差しが向けられる。

国民一人一人は、自らの意志で決断・行動する生きた「主体」ではなく、常に外的現象の影響力に振り回される「客体」でしかなく、ゴジラの姿を見ても危険を覚えず、スマホでの撮影に熱中したり、避難の最中にも悪ふざけしてはしゃぐような、何の危機感もない愚かな連中でしかない。メディアを通して政府から一方的に与えられる情報や指示や手助けにすがることなくして、自分自身では何らの自己管理も、正しい判断も下せないような「愚民」の集合体にされてしまっている。

そんな知性の欠ける大衆だから、災害時にはただ恐怖に逃げ惑う群衆と化し、ついに政府主導の緊急事態に基づく戒厳令によって、人権も停止され、無理やり疎開させられたり、外出もできず、缶詰のように家に閉じ込められても当然の存在ということになり、国民は徹頭徹尾、生きた人間としての自己決定権や、主体性を奪われた哀れな群衆・被災者でしかなく、政府とゴジラとの勇敢な闘いというストーリーから排除されて脇役に追いやられた黒子でしかない。

この映画を観て思い浮かぶことは、政府が勇敢にゴジラと闘う英雄となっている間、行き場もなく疎開させられ、戒厳令により家屋に閉じ込められ、帰宅難民となっていた何十万もの人々は、何を感じていたのだろうかという疑問である。3.11の時のように、彼らはテレビを通して発表される嘘だらけの政府報道に釘づけになっていたのであろうか?
 
3.11のあの時、主役どころか、悪役のトップであったはずの政府や東電のメンバーが、「ゴジラとの闘い」というフィクションの舞台で、国民を押しのけて、厚かましくも主役として舞い戻って来たのだという奇妙な既視感が生じざるを得ない。

ゴジラの破壊力の大きさを示し、群衆の恐怖を伝えるためのシーンでは、津波に追われながら、町中を逃げ惑う人々や、泥水に無残に押し流された家屋や、車、津波にさらわれてがれきの山となり、荒廃した町の様子など、現実に起きた3.11の被害を強く思い起こさせるいくつもの映像が登場する。

がれきの山を目の前に、呆然と佇む人間を見ても、それがフィクションだとは思えないほどに、3.11の災害の記憶はまだ我々の脳裏に鮮明である。正直、現実に起きた災害の場面を、こうしたフィクションに活用すること自体に、正直、映画といえども、深刻な疑問を感じざるを得ない。
 
 

写真の出典(上):「被災地のがれき処理は軌道に乗るか」(WEBRONZA 2012年04月19日)
 (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

3.11のみならず、熊本地震も含め、現実に起きた災害では、今も立ち上がれないでいる多くの被災者が存在する。そうした被災者には、映画のように、「ゴジラが退治されて良かったね!!」などと安堵して、避難所で手を取り合って喜ぶような余裕は全く存在しない。現実には重い被害だけが残り、今もその痛手を無言のうちに背負いつつ、避難所暮らしを余儀なくされている。

にもかかわらず、ゴジラという架空の生物を設定すれば、こうした人々の生活が元通りになっていないのに、あたかもハッピーエンドが訪れたかのような錯覚を人々に起こさせ、現実に起きた災害の苦しみから、意識をそらすことができる。こうしたごまかしは、たとえフィクションと言っても、許されるべきものであろうか?

この映画には、現実に起きた巨大災害、しかも、未解決の災害の映像をふんだんに参考材料にしながら、それを「ゴジラが原因で引き起こされた災害」にすり替えることによって、今も政府によって見捨てられたも同然に、被災地に置き去りにされ、被害から立ち上がれないでいる人々の苦しみや、復興に至っていない地域の苦しみをごまかし、こうした生きた現実を忘却させ、風化させて、政府の無能さと無責任からも人々の目をそらし、現実のすべての深刻な問題の重さと教訓を、フィクションの軽さにすり替える効果がある。

さらに、政府を英雄化することによって、観客の意識をまるごと架空の世界に逃避させて、政府の責任を忘れさせるだけでなく、現実に今、実際に何が起きているのかを忘れさせようとするトリックが随所にしかけられているように思われてならない。
 
  たとえ映画といえども、このようなフィクションは、忘れてはならない災害の教訓をより風化させることに貢献するだけであって、しかも、3.11は、自然災害と人災の組み合わさったものであって、その災害は、いついかなる場合にも繰り返されうる生きた教訓であるにも関わらず、それさえ、ゴジラの脅威にすり替えることによって、嘲笑するかのように、ないがしろにし、忘れさせてしまうものであると感じられてならない。

ゴジラの脅威に対する対策は全く必要ないが、すでに起きた自然災害への教訓は、未来へ生かさなければならない。そうしなければ、二度、三度でも、同じことが起きうる。にも関わらず、現実の政府は、過去の教訓に一切、学ぼうともせず、そこから目を背け、適切な避難計画さえもないまま、原発を無理やり再稼働させているような有様である。
 
この映画は、そのような政府の暴挙を人々に忘れさせて、国民に向かって「あなたがた愚民は、自分で考えたり、行動しようとはせず、政府の指示にさえ従っておけば、それで良いのですよ」と訴えかけ、そうした考えを刷り込む効果を持っているようにしか見えないのである。

結果として、この映画は、3.11とその結果起きた原発事故の被害についての政府責任をごまかし、自然災害の教訓を生かす対策が何ら取られないまま、政府による原発再稼働という狂気の策が実行されている恐ろしい現実を、ゴジラの脅威という架空の物語と合わせることによって、巧妙にごまかそうとするトリックだとしか考えられないのである。

しかも、この映画のストーリーは、現実に起きた災害だけでなく、未来に起きうるであろう災害からも人々の目をそらさせる効果を持っている。

すでに指摘されていることであるが、物語の政府は、あり得ないほど美化された政府であって、現実の日本政府には、映画に見られるような危機管理能力は全く存在しない。福島原発事故に際しても、政府も東電も、チェルノブイリ原発事故を石棺化するために身を投じたリクヴィダートルのような「決死隊」を組むことができなかったのだから、たとえ相手がゴジラであっても、そのような決断はこの国の人々には決してできはしない。

フィクションだからこそ、そのような「英断」が可能となるのだが、それでも、フィクションの世界でさえ、そのような「ヒロイズム」は、勇気ある美しいストーリーというよりも、戦前の特攻のような人命軽視の精神の上にしか成り立たない痛ましい犠牲だと思わずにいられない。

ゴジラへの自衛隊員の突撃シーンで思い起こされるのは、安倍内閣の解釈改憲のために、「駆けつけ警護」などを命じられ、世界の戦闘地域に実際にこれから派遣されようとしている自衛隊員の苦悩である。


ゴジラと闘わされた自衛隊員は多くが死出の旅路へ赴かされ、生還しても、トモダチ作戦以上の被爆が予想されるわけだが、このような「特攻」の任務を帯びた自衛隊員の苦悩には、映画では全くスポットライトが当てられない。ただ彼らの死と引き換えに東京が守られ、「国体が護持された」ことが、政府の作戦の成功をもたらす自衛隊の快挙とみなされるだけである。

さらに、ゴジラの危機のために、民間企業も操業を停止して、戒厳令が敷かれて国民生活は根こそぎ奪われ、すべての国民が個人生活を犠牲にして、国家総動員体制によって、ゴジラ駆逐に励んだことが、国民の団結と、ヒロイズムとして賛美される。そのような価値観自体が、敗戦と共にとうに死んで終わったものではなかったのだろうか?

しかも、さらに悪いことに、この映画では、ゴジラ駆除のための米国と国連による核の先制使用の提案に、日本政府が勇気ある反対を唱えて国土を守ったことになっているが、現実には、恐ろしいことに、「安倍首相 核先制不使用、米司令官に反対伝える 米紙報道」(毎日新聞 2016年8月16日)とのニュースにも明確に表れているように、日本政府こそが、オバマ大統領が宣言しようとしている核の先制不使用に対して、今もって猛烈に反対を唱えて、日本の国土を危険にさらしている張本人なのである。この映画はそのことも人々に忘れさせてしまう。

映画は、国土を守り、国民の命を心配する、ありもしない英雄的な日本政府の姿を描き出すことによって、実際にこの政府が行って来たすべての無責任行為と悪しきイデオロギーを覆い隠し、この国の政府の真の姿を隠す効果を持つのである。

このように、この映画には、我々が決して目を背けてはならない現実の深刻な出来事に関する様々な概念のすり替え・歪曲が満ちており、とりわけ、政府や東電の「戦犯」を免罪し、現実には国民を救えなかった無力で無責任な政府を、現実を無視して美化し、英雄化するという偽りのプロパガンダ的ストーリー立てが強く感じられるものとなっている。

要するに、この映画は、3.11と福島原発事故に今もって全く対処できておらず、その教訓を、将来的に起きうる災害への備えとして生かすこともせず、現実から目を背け続けて原発再稼働に走っているだけの無能な日本政府を美化し、しかも、国民をそのような無力かつ無責任な政府の助けなしには生きられない「愚民」として描き出すことにより、この国の歪んだ統治体制がいついつまでも変革されることもなく、永久に変わらないことを願って作られたものだとしか思えないのである。

この映画に天皇は登場しない。なぜなら、この映画の「主権者」は、事実上、国民でもなく、天皇でもなく、官僚だからである。「この国はまだまだいける」とか、「戦後は続くよどこまでも」といったような言葉さえも、実のところ、官僚主導の統治体制を賛美するものなのであって、官僚独自の「君が代」なのだと感じられてならない。

現実の日本政府は、英雄どころか、極度に追い詰められているはずであり、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代は過去となり、アベノミクスには成果がなく、福島原発事故の収束にはめどが立たず、国際的にも事故処理の遅れを非難され、しかも、平和憲法を骨抜きにし、挑発的で好戦的な軍国主義的スローガンばかりを唱えているので、周辺諸国との関係は悪化し、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくなく、その戦争を勝ち抜くだけの国力はこの国にはもうないのに、軍備をいたずらに増強している。再稼働した原発がいつ災害に見舞われ、二度目、三度目のフクシマが起きてもおかしくないが、原発を断念するだけのひとかけらの知恵もない。

かつての敗戦時と同じように、こんな体制には、できるだけ早く何かの政治的変革によって終止符が打たれなければ、我が国がまるごと滅亡し、未来をつなげないところまで来てしまっている。

このように、脅威はゴジラなどでなく、現存する日本政府にこそあり、政府は、自然の摂理を無視して自滅へと向かっているのに、この映画は、政府の罪を免罪する上、未だ国体の護持だけが最高の理想という考え方を全く脱し切れていない。その国体も、結局、敗戦によって敗れたはずの政治家と官僚制を永遠に温存するための体制でしかないのである。

この映画は、「ゴジラ」という仮想敵を作り出すことによって、本来は、日本政府そのものの中に潜んでいるはずの「魔物」を、巧妙に政府から分離・抽出して、この架空生物だけに一身に投影した。それによって、あたかも政府には罪がないかのように、政府が現実に担うべき責任を曖昧化し、ごまかしている。
 
さらに、「ゴジラ」という人類共通の敵を口実にしさえすれば、政府はいくらでも軍備を増強し、首相判断で、超法的な武器使用の可能性も認められ、事実上、無制限の権力が与えられる。その一方で、国民は緊急事態と戒厳令によって家屋や疎開先に物のように押し込められ、主体性と個人生活を奪われても当然ということになる。こうした筋書きそのものが、悪質な誘導だと筆者は感じざるを得ない。

現実世界には、「ゴジラ」など存在せず、「魔物」は決してこうした誰にでも分かる怪物の姿を取って現れることなく、むしろ、いかにも正しそうに見える普通の人間、いや、普通よりも優れているように見える人間の中にこそ潜んでいるものであり、その魔物は、米国でもなく、国連でもなく、他でもない我が国の政府にこそ、潜んでいるのである。
 
本当は、自分たちは悪を退治する正義の味方で、追い詰められて可哀想な人々を守る英雄だと言っている人々の中にこそ、ゴジラはいるのであって、国民を放射能の脅威にさらし、国際的に害を垂れ流す日本政府の中にこそ、退治されねばならない「ゴジラ」の姿がある。

にも関わらず、政府が己が罪を「ゴジラ」に転嫁することで自分自身を免罪し、自己を英雄化して、現実に直面している危機を忘れようとしているのであれば、それは悪質な目くらましであり、破滅へ至る現実逃避以外の何物でもない。そのような架空のヒーローに自己を重ね、陶酔に浸る人々も、同じように現実逃避する魔物なのである。

真に駆逐されるべきゴジラとは、実は日本政府に他ならないのだという事実を、改めて目を見開いて直視せねばならない。


カルト宗教と一体化し、自己を神として、神と人類を敵に回す日本政府の狂気からはエクソダスせよ

日々蝉の鳴き声が盛んだが、日によってはすでに秋の気配が感じられるようになった。
 
安倍首相が初めて二度目の夏休みを取ったというが、歴代首相で最長というこの夏休みのニュースには我が国の先行き不安と首相の悠長かつ不適切な判断に不快なものしか感じられない。「安倍首相が“2度目の夏休み” 歴代首相で最長休暇は確実」日刊ゲンダイ 2016年8月10日」

ちょうど今上天皇の生前退位を示唆するメッセージが発表されて、80代の天皇がこのまま激務に忙殺されて十分な休みも取れないようなあり方で良いのかという議論が起きて来たばかりである。

そんな頃、今上天皇に比べはるかに若いはずの我が国の首相が、まるで自分は天皇以上の存在だとでも言うかのように、公務を差し置いて自らの休暇を優先していることには、国民はおろか、天皇に対してまでも、当てつけめいた意図を感じずにいられない。おそらくそう考えるのは、筆者だけではないように思う。

首相が休暇を取ること自体が、国にとってはあまり喜ばしいニュースではない。北朝鮮のミサイルの発射をこれ幸いとばかりに、周辺諸国の脅威を煽っては、軍国主義化に邁進しようとしている現政権の、この呑気さは何だろう。しかも、高齢者でもないのに、二度までも夏休みを取らねばならないのは健康不安があるからではないのか、といった憶測が生じるのも当然である。このように危機感のない国が、たとえいつどこから攻められたとしても、国防などできるはずもないことは明白である。

安倍首相については、長崎の原爆投下の日、平和式典では、まるで学級崩壊したクラスの不良少年のように、注意散漫・気もそぞろな姿が撮影されている。(「【これは酷い】長崎原爆の日、安倍首相は退屈だった?耳をかいたり眠そうな表情が激写される!#原爆の日」2016年8月9日)

これは首相がただかつての大戦の敗北を認めるつもりがなく、米国と同じように原爆投下によるキリスト教徒の抹殺に内心で拍手を送り、平和式典にまるで関心がなく、参加するのも嫌々で、退屈だったというだけではない。これほどの集中力の欠如は、やはり病気が原因で生じるものなのではないのか、という危惧も生じる。いずれにしても、自分にとって関心のない事柄については全くそっけなく、うわべだけでも真剣な態度が取れない首相の振る舞いは、精神的にも幼児化していることを如実に物語っている。

だが、今や日本政府はそのものが、幼児化が甚だしいというべきか、凶暴化しているとでも言うべきか、国内外を問わず、誰彼構わず、高飛車に喧嘩を売っては、挑発的な振る舞いを繰り返しながら、敵を作り続けている。
  
政府の敵意は誰よりも国民に向けられているが、政府の国民蔑視の姿勢が何よりも明白に現れている場所は、まずは沖縄だろう。北方領土についても「歯舞」すらもまともに読めず、参院選では、沖縄の民意によって公に拒否され落選の憂き目を見た島尻安伊子氏を、「知識や経験があるから」として、再び沖縄担当大臣補佐官に任命しようという、あきらかに沖縄の民意を逆なでする当てつけ人事が発表されたのもつい数日前である(「落選の島尻氏を大臣補佐官に起用へ…鶴保沖縄相」読売ONLINE 2016年08月10日)。

同時に、沖縄県東村高江における米軍のヘリパッド建設現場では、ヘリコプター発着陸のための訓練場とは名ばかりで、連日、オスプレイが飛び交う騒音に苦しめられた住民が、これ以上のヘリパッド建設は生活を不可能にすると反対して、工事を阻止するためのデモを行っている。だが、この建設反対派の住民に対する政府の弾圧が強化され、あろうことか、本来は、沖縄における米軍属による女性殺害遺棄事件を受けて、住民の安全確保のためのパトロール強化を任務としているはずの機動隊が、ヘリパッド建設反対派を排除する弾圧に乗り出し、住民を殴る・首を絞めるなどの暴行に及び、住民の車を法的根拠もなしに強制的に撤去したり、工事を口実に村への出入り口も封鎖したりして、地元の人々の日常生活に重い支障をきたしているという。
 
数日前に、ついにヘリパッド建設反対派の中から逮捕者まで出たことが発表されたが、その逮捕も、結局のところ、警察による全くの不当逮捕でしかなく、反対派の走行者に対する警察からの一方的な幅寄せがあったことが動画によって明らかになり、逮捕者は釈放された。「【沖縄・高江発】不当逮捕明らかに 検察勾留できず男性釈放] 」IWJ 2016年8月12日」

これは、たとえ容疑が立証できずとも、とにかく逮捕という既成事実を作ることによって、「政府の政策に対する反対デモなどに参加すれば誰でも逮捕されるのだ」という恐怖感を国民に植えつけるためにこそ、当局によって行われていることである。

そんな中、米軍属によって殺害された女性に関するその後の報道は意図的に隠され、ほとんど聞かれもしない状態となっている。筆者は、この女性が行方不明になった4月28日が、安倍内閣によって定められた「主権回復の日」であることが、偶然とは思えないということをかつて記事に書いた。

この「主権回復の日」なるものの虚偽性については、植草一秀氏が記事「沖縄切り棄て米軍占領継続熱烈歓迎した吉田茂」(2016年8月13日)に詳細に記しているが、驚くべきことに、この日は、安倍氏の祖父である岸信介が公職追放を解かれた日でもあるという。
 

「1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復した。
そして、この4月28日は安倍晋三氏の祖父にあたる岸信介氏の公職追放が解かれた日でもある。

「そして、1952年4月28日の「独立回復」は、沖縄を米国に献上するかたちでもたらされたものである。

 サンフランシスコ平和条約には、沖縄を含む南西諸島を国連憲章第77条「敵国条項」を用いて日本から分離した「信託統治制度」のなかに位置づけ、さらに国連憲章第82条の「戦略地域」に指定し、沖縄を軍事利用して支配する条項が盛り込まれた。

 このなかで、沖縄については、
「日本は、アメリカが国連に対して、沖縄を信託統治制度のもとに置くという提案をした場合に、無条件でそれに同意する」
という表現を盛り込んだにもかかわらず、アメリカは結局、1972年の沖縄返還まで、一度もその提案をせず、沖縄を完全な軍事占領状態に「合法的に」置き続けたのである。

沖縄を米国に献上し、米軍の日本駐留を引き続き認めることと引き換えに、日本が「見かけ上の独立」を回復したのが1952年4月28日である。

沖縄は日本の「見かけ上の主権回復」のために切り捨てられたのである。
4月28日は沖縄にとって「屈辱の日」である。

ブログ 「植草一秀氏の知られざる真実」の記事「沖縄切り棄て米軍占領継続熱烈歓迎した吉田茂」(2016年8月13日)から部分的に抜粋


この虚偽的な「主権回復の日」にこそ、米軍属による殺人・死体遺棄という、沖縄にとってさらに忘れがたい屈辱的な事件が起きたのだと推測されるのだが、このタイミングの忌まわしさを置いても、この悲しい記念日の名称には、沖縄のみならず、日本全体を愚弄しようという意図が明白に込められているように思われてならない。

つまり、沖縄を切り捨てただけでなく、A級戦犯であった岸信介が公職追放を解かれた日に意図的に合わせて定められた「主権回復の日」という、まるで名ばかりの記念日の存在そのものが、悪意を込めた国民へのダブルメッセージなのであり、「沖縄はもちろんだが、日本人全体に絶対に主権回復などあり得ないことを覚えておけ」という米国(と日本政府)からの脅しの意図が込められているとしか思えないのだ。

岸信介に代表されるように、敗戦によって敗れ、罪に問われたはずのかつての旧日本政府の面々が、「共産主義の脅威」を口実にして、米国とタグを組んで政界に返り咲いたその時から、日本政府と米国はずっと国民を欺きながら、国民のためを装いつつ、国を売り続けて来たのである。

2013年4月28日の式典で起きた「天皇陛下万歳」三唱も、そのような文脈で、とうに敗れたはずの勢力が、かつての軍国主義や国家神道の復活を祝う精神から出たものであり、当然ながら、その式典は沖縄県民の巨大な反発を招いたのみならず、近隣諸国からも、改憲と軍国主義化へつながる動きとして警戒心を呼んだ。

当の天皇・皇后にとっても、この万歳三唱は予想外の出来事であったと見られ、こわばった堅い表情が映像におさめられている。
 


 天皇陛下万歳? 沖縄切捨て! 別世界に住む日本政府の政治屋と沖縄市民


 20130503 「天皇陛下への万歳さんしょう」に中国政府が批判(上海ATV)



 安倍继续"向右跑":煽动右倾不遗余力 安倍高呼"天皇万岁"
(この最後の動画は、中国語が理解できずとも、少なくとも、安倍氏が諸外国からどのような人物と映っているのかが客観的によく分かる映像である。)
 
さて、日本政府の中では、米国と組んでこのようなダブルメッセージによって国民を欺くことが、サンフランシスコ講和条約の時点から習慣化しているのだと見られ、そのような考えに立ってこそ、高江に派遣された機動隊も、沖縄の住民の安全のためのパトロール強化という任務を、住民弾圧へとすり替えたのである。

こうした政府の所業から見えて来るのは、「日本国民に決して自由と安全を与えるまい」という、悪意に満ちた断固たる決意であり、本来、国民の自由と安全と幸福追求のために提供されなければならない全ての公のサービスを、国民を騙し、抑圧し、自由を奪って、苦しめるために用いようという明白な悪意である。その悪意をもはや隠し立てすることさえなく公然と提示するようになっているのが、現在の政府である。
 
 日本政府にとって、我が国には「民意」などあってはならず、「米国の意向」と「政府の意向」だけしか存在してはならないのであろう。高江に派遣された機動隊による住民弾圧は、いずれ政府が警察や自衛隊を用いて、不都合な国民全体に対する監視と抑圧を強化し、大規模な弾圧を決行しようとしている計画の明白な表れである。
 
政府にとって国民とは欺き、収奪する対象でしかないのだ。アベノミクスに成果が出ず、今や国の財政赤字が過去最高に達していることが、ここ数日前に発表されたばかりだが(「「国の借金」1053兆円 国債残高、過去最高に 」日本経済新聞 2016/8/10)、政府は自分でこしらえたこの法外な借金をすべて「国民1人当たりでは約829万円になる」などと、国民の借金と偽り、詭弁によってその責任を国民に転嫁しながら、国家公務員の給与だけを引き上げ、焼け太りを続けている(「国家公務員の給与引き上げを勧告 人事院、3年連続」朝日新聞DIGITAL2016年8月8日」)

国家財政が赤字で、民間企業でさえ経営難にあえぐ中、国家公務員の給与だけを引き上げる根拠など存在するはずもなく、これはすべて国民を欺くためのトリック以外の何物でもない。国の財政が破たんしても、自分たちの給与だけは引き上げ、ツケはすべて国民に回そうというのが、官僚集団の思惑なのであり、官僚はもはや国民に敵対する、国民への寄生階級になってしまっている。

深刻な問題は、そうした政府の唯我独尊の姿勢、傲慢さ、のべつまくなしの無差別的な敵意と、終わりなき収奪の願望が、もはや自国民のみならず、天皇や、他国にまでも向けられ、今や政府自体が、国際的に無差別的な敵意の塊となって、反人間的な道を歩んで、人類の敵となろうとしていることである。

沖縄ヘイト、という言葉もあちこちで使われているが、全国民に対するヘイトが始まっていると言って差し支えなく、沖縄・福島での棄民政策も含め、要するに、政府は自らの政策の誤りを消して認めたくないために、自らの政策の犠牲になった人々、つまり、政府の罪の生き証人となった人々に対してとりわけ激しい憎悪を向けて、彼らを弾圧し、口を封じることで、自分自身の罪から目を背けようとしているのである。

このような精神病理的な傾向がより重症化すると、やがて日本政府は身勝手な偽りの「正義」を掲げて、国民全体への弾圧に乗り出すだけでなく、国際社会においても孤立し、人類全体の敵と化することになる。ちょうどかつての大戦時にそうであったようにだ。そうなると再び、うわべだけの大義名分の下、全人類を破滅に追い込むような暴挙に打って出ることが予想され、それはすでに始まっていると言えよう。

オリンピックで人々の関心を巧みにそらせながら、四国電力の伊方原発が再稼働されたことも、そうした破滅への兆候の一つである。さらに、オリンピックのどさくさに紛れて、ウクライナがクリミアに破壊工作をしかけたというニュースもあるが、米国もまた工作に余念がないようである(「クリミアでの破壊工作」ロシアNOW 2016年8月12日 。)

原子力の火は、人間の制御の力を超えた、人類には扱い切れない技術である、ということが、福島原発事故以来、我が国の人々の間で共通認識のようになっているが、原子力は悪魔が人類に与えた誤った知恵であり、「サタンの火だ」ということも言われる。(たとえば、クリスチャン・トゥデイの記事「「天の声・地の声・人々の声を無視」伊方原発が再稼働 地元団体代表の信徒・牧師や市民団体らは強く抗議」2016年8月13日)

別にキリスト教徒でなくとも、福島原発以後、原子力の火を弄ぶことの手痛い結果は、国民の大半が認識している。
 
しかし、日本政府は、この「サタンの火」を公然ともてあそびながら、今や人類史上、誰も足を踏み入れたことのない未知の領域に踏みこみ、かつての国家神道の時代と同じように、自ら神になって、万象を操ろうとしている。これはあまりにも無謀かつ絶望的な試みであり、神と全人類に対する挑戦である。特に、伊方原発は日本最大級の断層帯の真上に立つ最も危険な原発なのだと専門家は指摘する。
 

再稼働した伊方原発は日本で一番危険な原発だ! 安全審査をした原子力規制委の元委員長代理が「見直し」警告」LITERA 2016.08.12. から抜粋

というのも、伊方原発は日本に55基ある原発のなかでも“もっとも危険な原発のひとつ”と指摘されているからだ。

 その理由はいくつかあるが、いちばん大きいのは、伊方原発が日本でも有数の大地震に襲われるリスクを抱えているということだろう。伊方原発のそばには日本最大級の断層帯である「中央構造線断層帯」が、南には活発で大規模な地震発生源の南海トラフが走っている。

 特に「中央構造線」は、九州の西南部から、四国を横断し紀伊半島、関東にまで延びる日本最大級の活断層で、熊本大地震で大きな注目を浴びたものだ。これまでこの「中央線構造線」は活動していないと思われていたが、実際には九州、四国などでおよそ2000年に1回動いており、1595年に四国西部から九州東部にかけ、「中央構造線」を震源とするマグニチュード8クラスの巨大地震が起こっていたことも判明している。

 そして伊方原発は、この「中央構造線」が走る断層からわずか5キロ、ほぼ真上といってもいい場所に立地しているのだ。

 しかも、「中央構造線」は熊本地震をきっかけに活動が活発化、熊本地震で断層の延長上にひずみがたまったことで、四国側の「中央構造線」が動く危険性が指摘されている。もし「中央構造線」を震源とする地震が起きれば、伊方原発を10メートルを超える大津波が直撃する恐れがある。

 しかし、四国電力は一貫して「瀬戸内海に津波は来ない」と津波対策をとっておらず、このままでは福島第一原発事故の再現が起きかねない。

<中略>

伊方原発は、日本で唯一、内海に面している原発であり、外海に面していた福島原発事故と比べても、瀬戸内海における放射能汚染の濃度は格段に高くなることが予想され、またその影響は長期に及ぶだろう。しかも、伊方原発ではプルトニウムMOX燃料が使用されるが、これも事故の際のリスクを高めるものだ。

 さらに、事故の際の住民たちの避難も困難を極める。伊方原発は佐田岬半島の入り口、付け根部分に立地しているが、その先の半島部分には実に5000人もの住人が生活している。もし伊方原発で事故が起こり、放射性物質が放出されても、住民は原発に向かってしか避難できないことになってしまう。つまり逃げ場を失ってしまうのだ。 


こうして日本政府が自作のハルマゲドンに向かって突き進んでいる中、有事の際、米国が日本に助けの手を差し伸べてくれるだろうか? 米国を隠れ蓑にすれば、日本政府に追及の矛先が向くことはないのだろうか? いや、筆者は、その時には、日本政府は頼みの米国からも梯子を外されることであろうと思う。

人間の心には、たとえ信仰心がなくとも、良心という機能が備わっており、これが人間の地上での営みにおいて、限りなく重要な役割を果たす。人の良心は、人間の未来予測と密接に関わっており、何が人にとって危険であるのか、前もって教えてくれる灯のようなものだ。ところが、この良心の機能を麻痺させて、営利と我欲だけに突き進み、自分自身の振る舞いを客観的に真摯に反省することができなくなった人間は、事実上、もう終わりである。

このことは、組織や集団にも当てはまり、保身と自己正当化の思いに目をくらまされて、良心のブレーキの利かなくなった団体は、まるで自爆テロ犯のように、自己を無謬と(己を神と)し、誰からの忠告にも耳を貸さなくなって、パラノイド的な妄想に突き動かされて、悲劇的な最期へ突進して行くことになる。

そのような良心を麻痺させる精神病理的な傾向(=カルト化)が、日本政府には相当重症に進行しているのだと言えよう。

ネオナチや在特会と密接な関係があり、生長の家の創始者谷口雅春を信奉し、「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と述べて、かつての戦争を美化・肯定する稲田朋美氏を、安倍氏が防衛相に起用したことも、国際的に近隣諸国への重大な当てつけ・挑発行為であり、人類社会全体への挑発行為であると言える。この人事は早くも国際的な警戒を呼び起こし、米国からさえ稲田氏に対して靖国参拝を控えるよう忠告があったと言われる。

このようなことはすべて日本政府のカルト化の結果であり、政府はもはや自国民のみならず、誰彼構わず、のべつまくなしに敵意を振りまく狂った要塞のようになっている。このような精神病理的傾向が強まると、最後には、まさしく日本政府そのものが人類全体を敵としながら、オウム真理教のように反人間的な集団的決起に至ることが予測される。

つまり、人類全体に対して隠し持った憎悪と敵意を、「人類救済」という名で美化し、カモフラージュしながら、何かしら空恐ろしい終末論的な破滅へ突き進んで行くことが予想されるのである。

このような予測は、決して大袈裟な冗談や杞憂ではない。川内原発を再稼働と同時期に起きた熊本地震の教訓にも学ばず、今度はさらに危険な伊方原発を再稼働し、稲田氏のように戦争を美化する人間を防衛相に据え、沖縄では警察や機動隊を使って自国民への弾圧に血道を上げている政府のすべての政策が、彼らが計画している将来的なハルマゲドンをよく物語っている。

要するに、緊急事態条項も、原発再稼働も、戦争も、すべてはカルト化した政府が自ら引き起こしている「終末」の一環なのである。我が国政府は、狂気の理念に駆られて、もはや人為的な「世界の滅亡」に向けて着々と準備を進めているのだと言って良い。

このようなことを空想として一笑する前に、我々は現実に起きたオウムの事件から学ぶべきである。オウム真理教がなぜ省庁制を取っていたのか、なぜ政府を模した機能を教団内部に抱えていたのか、サリン製造をどのような形でカモフラージュしていたのか、このことを思い出すべきである。

オウムの教団内でサリン製造に関わっていた村井秀夫氏は、当時、教団の科学技術大臣に任命されていた。そして、農薬の開発という「平和利用」を装ってサリンを開発していたのである。なぜなら、農薬の製造過程と、サリンの製造過程は途中まで同じだからである。

オウムによるサリン製造は、現政府のしていることとそっくり同じである。オウムは政府の外に政府を模して作られたカルト宗教だったが、現政府は日本会議・統一教会・創価学会などのカルト宗教と一体化している。そして、政府が推し進めている「原子力の平和利用」も、「原子力の軍事利用」と途中まで行程が同じなのである。

実際に、「原子力の平和利用」は、「軍事利用」と初めから表裏一体なのであり、そうであるがゆえに、日本政府は「潜在的な核保有国」として国際的に常に監視の対象とされて来た。しかし、政府を監視しなければならないのは国際社会だけではなく、国民も同じである。

日本が「平和利用」という表向きの顔の裏側で、核兵器になりうるプルトニウムを抽出する技術を保有し続けることが何を意味するのか、そして、なぜプルトニウムMOX燃料を使う伊方原発の再稼働に走ったのか、考えてみるべきであろう。

専門家の間では「核兵器と原発は一卵性双生児」(PRESIDENT ONLINE 2011.12.26)と言われ、「原子力の利用は、〝表〟の原子力発電という平和利用の側面だけではない。軍事利用という〝裏〟と密接に絡み合っている。」ということは常識である(「日本が核武装? 世界が警戒するプルトニウム問題」NEWSWEEK日本版 2015年11月24日)。

さらに、2014年から発表されていた「米国が日本にプルトニウム300キロの返還を要求している」というニュースもまだ記憶に新しいが、これが物語るのも、冷戦時代から、日本を「反共の砦」としたかった米国が、当時から研究開発用に日本にプルトニウムを大量に貸与し、日本政府による核研究を極秘に認めていたという事実である。

何のための「研究」か? 詳しく書かれていなくとも、答えは明白である。日本がオバマ政権に返還を求められたプルトニウムの量は331キロで、「高濃度で軍事利用に適した「兵器級」が大半を占める。」と言うから、明らかに軍事利用を想定した研究開発のために提供されたものだと見ることができる(「日本のプルトニウム移送へ 3月末にも兵器級331キロ」佐賀新聞 2016年01月04日参照。)

つまり、これは「共産主義国の核の脅威に対抗する」ために、日本を極秘に核武装させて米国の防衛力を強化するための一助とするために提供されたものだとしか思えないのだ。つまり、冷戦時代から、日本政府による核開発は、米国の暗黙の承認のもとで、両者の間では公然の秘密のようになっていたと見るのが自然なのである。
 
日本が保有するプルトニウム全体の量は約300キロどころでは終わらず、この返還要求について、次のようにも書かれている、(返還の)「対象は日本が保有するプルトニウム約44トンのうちの約300キログラム。高濃度で核兵器にも転用可能な核物質だ。」。これによれば、日本は、米国に返還を求められた150倍近くものプルトニウムを保有していることになる(「米にプルトニウム返還 政府調整、核不拡散に配慮 」日本経済新聞 2014/2/26付)さらに、これさえ少なく見積もった場合の数字であって、別の指摘では、国外で処理中のものも含めると、日本が保有する兵器級プルトニウムは約70トンに達するとの声もある。

こうしたことが意味するものは何か? いい加減に我々国民は気づくべきなのだ。こうした報道が物語るのは、冷戦時代から、日本政府は、国民の目を欺いて、米国の暗黙の承認のもと、極秘に核開発を進めて来た可能性が極めて高いことであり、日本にプルトニウムが貸与されたのも、その一環で、冷戦時、いつ勃発しておかしくなかったソ連との核戦争に備えて、日本が米国の一助として核武装できるように準備しておくために他ならなかったと見られる。

そして、今もって我が国における原子力の利用が推進されているのは、断じてエネルギー政策のためなどではなく、初めから軍事利用が主たる目的なのである。「平和利用」の側面は、平和憲法のもとで原子力の真の利用目的を隠すためのカモフラージュに過ぎない。もしそうでないならば、なぜ電力が余っているのに原発を再稼働する必要があるのか? なぜ地震が来れば国土が壊滅する危険性さえかえりみずに再稼働する必要があるのか? なぜ我が国では、軍国主義を肯定し戦争を美化する人間が堂々と防衛相となり、日本の核武装も辞さないとする人間が都知事になったりするのか? 

これらの事実が公然と示しているのは、原発再稼働は、日本の潜在的な核武装のために必要不可欠な措置であると政府が考え、また、政府が将来的な核武装を悲願としているがゆえに、これを手放すことがどうしてもできない、という暗黙の事実である。ただ単に電力会社の巨額の利益のためだけに原発が再稼働されるのではない、と考えるのが自然であろう。

また、このことは、なぜ福島原発の事故後にも、東電を破産させて解体することが、政府に出来なかったのか、という理由をも推測させる。もし東電が解体されていれば、原子力の平和利用の名の裏側で、国内の原子力施設で実際に行われていることの実態が外に知れてしまったであろう。米国に返還を求められた約300キロのプルトニウムについても、一体、それが日本のどこに保管され、どのような施設でどのような目的のために利用されて来たのか、全く明かされてはいない。

つまり、原子力の利用については、全てに秘密のベールの覆いがかかっているのであり、政府はどうしてもその実態が世間に知れることを避けねばならなかったためにこそ、未だに東電を破綻させるわけにいかないのだと考えられる。
 
オウムの事件は、政府がカルト宗教と一体化すると、どういう結末が起きるかをよく物語っている。我々はオウム真理教の事件から学ぶべきである。村井秀夫が大臣となったオウムの科学技術省は、形を変えて、今やカルト宗教と一体化した政府の中に存在しており、民間企業と手を携えて、国民を殺戮するための兵器を開発している、という危惧は、単なる空想で済まされようか?
 
現政府はすでに宗教カルトと一体であり、今後、何かしら大がかりな「終末」に向かって坂を転げ落ちて行き、その時、主役となるのは、サリンではなく、原子力であると考えられるのだ。そしてそれはすでに始まっているのである。

こうしたことを考えると、プロテスタントのキリスト教界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する村上密牧師や、KFCのDr.Lukeが、盛んに「キリスト教界のカルト化」現象を訴えて、キリスト教を攻撃して来たのも、ゆえなきことではないように思われる。これもまた「政府のカルト化」から国民の目をそらせるための目くらましの一環なのである。

そもそも、自身が統一教会の出身で、初めは統一教会の危険性を訴えていたはずの村上氏が、「カルトとの闘い」の過程で、他のどんなクリスチャンよりも悪質に、キリスト教をカルト化のターゲットとして攻撃するようになったことも、非常に不気味な現象であり、また、Dr.Lukeもキリスト教界を攻撃しているうちにすっかり聖書から逸れて異端へと落ちて行ったことも、キリスト教徒を装う異端者によるキリスト教への攻撃が、どこから来たのかという疑いを持たせる。

こうした人々の引き起こしたキリスト教への敵対運動は、何よりも宗教カルトと結びついた「日本政府そのもののカルト化」や、統一教会などの宗教カルトの危険性を人々の目から覆い隠し、まるでキリスト教こそカルト化の温床であるかのように論点をすり替え、こうした問題をいわれなくキリスト教徒に転嫁して、キリスト教徒だけを悪者として断罪するための目くらましの運動だったのではないかと見られる。

だが、今や、最も深刻な問題は、日本政府そのものがカルト化していることであり、これを放置しておけば、必ずや、この先、政府はオウム真理教のような人工的なハルマゲドンを引き起こすことであろうし、すでにそれが開始しているということなのである。

さて、話は変わるようだが、天皇の生前退位という問題に移りたい。

今回、「お気持ち」表明によって示唆された今上天皇の退位の意向の表明を、護憲時代の終わりとして見るむきもあれば、そこでは退位という言葉も使われていない以上、これは民意に探りを入れる試みでしかないと述べる者もあれば、あるいは、今上天皇の生前退位の意向をさえ、改憲(壊憲)に利用したい勢力もあると予想される。

だが、今、生前退位を何かしらの政治的変革に結びつけたい人々の意図を全く別にして、筆者は、この天皇のメッセージにそれなりに重要な意義を見いださないわけにいかない。

それは、「主権回復の日」において唱えられた「天皇陛下万歳」という笑止千万な叫びにも見られるように、天皇を国家元首として祀り上げたい人々の思惑があるのに対して、今上天皇自身は、自らがそのような思惑と全く無縁であることを表明したことに加え、今上天皇のメッセージの中には、「人間を栄光化し、己の限界を超えて人を高く祀り上げるような偽りの栄光や地位にしがみつこうとする誘惑」に対する強力なアンチテーゼが込められているように受け止められることである。

日本人には、自己の限界や失敗を認めることを恥とするあまり、一旦、始めたことをいつまでもやめられないという悪癖がある。計画を中止すること自体が、自分の失敗を認める行為であり、恥である、という意識から、本当はとうに限界が来ているのに、いつまでも虚勢を張って、廃止しておくべき制度や計画をいつまでも無駄に残しておく悪習慣がある。

そのような虚栄心に基づいた「やめられない」悪癖は、我が国政府の原発再稼働や、沖縄の基地建設の強行にもよく表れているが、それらは戦前の「一億玉砕」といったスローガンや、「国民体力法」などに脈々と流れて来た精神を今日まで受け継いだだけのものである。

我が国では未だに、一旦、政府によって何かの計画が発表されると、それがどれほど失敗続きであろうと、まったく将来の見通しがなかろうと、見直しもされず、軌道修正もされず、国がとことん疲弊して、不可抗力によってそのプロジェクトに強制的に終止符が打たれるまで、延々と犠牲を拡大し続けながら、反省なしに続行されるという悪習がある。

政府には良心と自己反省の機能が備わっていないので、そうならざるを得ないのだろうが、このように己の限界をかえりみずに突き進む姿勢には、人間についてありもしない偉大な幻想を作り出し、人間存在に備わった自然な限界すらも否定して、人間を何かの大義名分を達成するための消耗品のようにみなす非常に危険な考え方がある。

前述したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏についても、同氏が関わったうちで公に知られている最も最初の忌まわしいキリスト教徒への迫害は、村上氏が、義理の父であった津村昭二郎牧師が、生涯現役を貫き通そうとして引退を拒み、自らの後継者を自分の教会から追放する行為に加担したことに起因していることをすでに記事に書いた。

もしもこの高齢の牧師が「講壇で死にたい」などと主張して生涯現役を貫き通そうなどと考えず、快く後継者を育てて道を譲っていれば、そのような事件自体、起きなかった。
 
だが、以上のような事件は、超高齢化社会となった日本社会に満ち満ちている悲劇の一環でしかない。「生涯現役」というスローガンは、人が己の獲得した地位や権力を他者に譲り渡したくないという我欲と密接に結びついている。

たとえば、俳優や、教師や、牧師が「舞台で死にたい」とか「講壇で死にたい」などと述べることは、あたかも天職に邁進する人間の理想的な最期のように今でも美化されがちだが、ある意味では、そのような考えほど周囲の人間にとってはた迷惑な話はない。

まず第一に、高齢者がいつまでも自分の獲得した栄光ある高い地位にしがみつき続けると、後学が育たなくなり、社会全体の発展が遅れる。高齢者が地位にしがみつくことは、後学からチャンスを奪うことと同義である。

さらに、当然のことであるが、役者や、教師や、牧師が、「生涯現役」を唱え、高齢のために無理を押して重要な舞台や式典に立ち、そこで倒れ、亡くなったりしたところで、それによって利益を得る人間など誰もいはしないのだ。たとえ本人は舞台で死ぬことを本望と考えたとしても、周りはその死によって大迷惑をこうむるだけであり、何一つ得るものはない。

同様に、「(お国のために)血を流す覚悟を!!」という稲田朋美氏のような、うわべだけ勇ましさを装った大言壮語も、要は意味するところは全く同じで、高齢者であろうと、若者であろうと、そのように死に急ぐ人間は、一体、自分が死んだ後、誰がその後始末をするのかという問題にきちんと答えを出した上で、そのような発言をしてもらいたいものである。

エノクや、預言者エリヤのように、天に携え挙げられていなくなって終わるというのでなければ、誰しも、自らの死という出来事に際しては、必ず、他者の手を借りなければならないのである。

死は美しいものでも、単純なものでもない。約70年前に先の大戦により、大陸まで出かけて行って、そこで戦火に飲まれ、あるいは捕虜とされて亡くなった人々についても、今現在に至るまで捜索が続いている。後世の人々は、70年が経過しても、行方不明の人々を探し続けているのであり、戦争の混乱で、いつどこで誰が死んだのか分からないので、もう知りません、というわけにはいかないのである。

体制が変わっても、時代が変わっても、一人の亡くなった人間のために費やされる膨大な労力がある。まして尋常でない終わりに至った人々については払われる労力が倍以上になるのは当然であり、従って、もし政府が再び、無責任に国民の死を奨励するようなことがあれば、その後始末にかかる手間はどれほど甚大なものになるか分からない。
 
「散華」といった言葉で、死を美化し、死に伴う当然の備えすらもないままに、人々に己の限界を忘れさせて、無謀に死に赴かせるような無責任な教えは、それに酔いしれた人々の身勝手な自己満足以外には何ももたらすことなく、社会全体にとって甚だ迷惑な結果をもたらすだけであるということを、稲田氏のような人々には考えてもらいたいものである。

たとえば、三島由紀夫の割腹自殺という最期についても、現実は、人々が思い描くストーリーほど美しくない。そのような悲惨でむごたらしい死に方で自ら命を絶った人の最期を処理する人間や、残された人間がその死によって背負わされなければならないトラウマのことを、考えてみるべきである。

また、非業の死を遂げずとも、引退の時を間違えただけで、人の人生そのものが狂わされることは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の津村昭二郎牧師のみならず、KFCのDr.Lukeの人生を通しても理解できることである。

たとえば、Dr.Lukeの団体が、聖書の教えから逸れて、自己を神とするまでに異端化するよりも前に、幾度も同氏には引退のチャンスがあったことはすでに記事に書いた。Dr.Luke自身が引退を願い出たこともあるという話も関係者を通して伝わっている。

ところが、取り巻き連中がそれを許さなかったのである。だから、問題は己を栄光化する指導者だけにあるのではなく、指導者を担ぎ上げ、ほめそやし、おだてあげて、彼に力量以上の力があるかのように錯覚させて、破滅へと押し出していく取り巻き連中の罪も相当に重い、ということが確かに言える。
 
ヒトラーの伝記には、ヒトラーを祀り上げ、自惚れに陥らせた人々の中には、彼に心酔する多くの女性たちがいたことが記されている。ドイツの民衆だけでなく、ヒトラーのファンクラブのようなこの婦人たちのサークルが、この指導者をおだてあげて、自身を現人神のように錯覚させ、彼を人類浄化という異常な道に突き進ませ、なおかつ、その達成不可能な野望のために具体的支援を行ったのである。

どんな忌むべき指導者も、これを支持する取り巻きなしに登場して来ることはない。それはKFCも同じである。愚かな連中が指導者を祀り上げて、現実の人間から乖離した、ありもしない偽りの偉大なイメージを作り上げ、生涯、その幻想を現実であるかのように人々に錯覚させようと、指導者にヴァーチャルな自己像を演じ続けるように求め、その仮面を外すことを永久に不可能としてしまったのである。

だが、明仁天皇が、自分が人間として衰え行く中で、天皇が国家元首として祀り上げられ、「ヴァーチャルな人間像」だけが独り歩きすることを拒み、そのような動きに乗じて自らを栄光化するどころか、生前退位の意向をほのめかし、職務を降りたいという願いを率直に表明したことは極めて重要な出来事であると受け止められる。

明治以降、天皇という地位は、生きた個人の人格と切り離せないものと考えられて来たため、仮に今上天皇が今後、気力・体力の衰えのために公務を執行できなくなったとしても、本人が生前退位を希望しない限り、体力の衰えを理由に誰かが天皇に向かって退位を迫るということは、決してあり得ないことであろう。

だが、明仁天皇は、「天皇」という役割と、一個の自分自身を切り離せないものとしてはとらえていなかった。むしろ、自分は天皇である前に、一人の人間であり、また、そうでなければならない、という考えに立っていたのである。

天皇だからと言って、人間としての限界に関係なく、地位だけによって、己の存在意義を保つようなことはあってはならないこととして、形ばかりの地位にしがみついてそれを自己の限界から目を背ける口実とすることを拒否したのである。

さらに、こうした生前退位の意向のほのめかしから見えて来る事実に、戦後の天皇という仕事の重責がある。

今日でも、皇室や、天皇は、一般人とは別格の近寄りがたい存在として栄光化され、美化されているが、現実には、そのような栄光は存在しない、ということがそのメッセージからおのずと見えて来るのである。

高齢の天皇の公務のスケジュールがブラック企業並みに過密である、ということはすでに指摘されているが、そのスケジュールの過密さに加え、天皇とは、この国の誰もに与えられている基本的人権さえも及ばない、人権の枠外に置かれていると言っても良いような存在であり、そのことを通して、憲法が抱える重大な問題点が浮き彫りになったと言える。つまり、憲法は、あたかも戦後の平和憲法の象徴のような存在として天皇という地位を定めながらも、同時に、天皇自身を半ば憲法の枠外に置いていると言っておかしくないパラドックスを抱えていることが判明したのである。

つまり、憲法は、門地、家柄などによって、誰も差別されることはないと定めながらも、もし天皇を血筋によって生まれながらに天皇になるべく定め、自分の意志でそれを拒むこともできないとしているのであれば、それ自体が、憲法が禁じている差別ではないのか? そもそも皇室という存在そのものが、国民の間に作り出された差別制度ではないのか? 憲法の理念に照らし合わせると、天皇の地位と職務のあり方については大いなる改革が必要なのではないか? 果たして本当にそのような地位が今も必要なのだろうか? そうした矛盾が、今回の「お気持ち」表明と同時に噴出して来たのである。

それに加えて、戦後の天皇の公務に定められた仕事の内容についても、多くの吟味が必要であることが明らかになった。時代錯誤な「殯 (もがり)」の儀式だけでなく、宗教性を帯びた様々な儀式への参加は、見直されるべきであろう。
 
今日、天皇の公務の中でも第一義的に重要な仕事は、国民に対する慰霊事業であると言って良い。つまり、過去の大戦での犠牲者を慰めるという、いわば贖罪行為のような仕事が、天皇のとりわけ重要な仕事なのだ。

むろん、天皇が公に謝罪を行っておらず、戦争責任について裁かれてもいない以上、それが本当に贖罪と言えるのかどうかについては、議論の余地があることは確かであるが、少なくとも、明仁天皇が、ある意味、父の犯した罪の責任を無言のうちに背負いながら、それがあるために、国民に寄り添うためにとりわけ熱心に公務に当たって来たことは、否定の余地がない事実であるように思う。

だが、公に裁かれることがなかったからこそ、そうした贖罪行為は、終わりなきものとなっているのであり、このような形で戦争の犠牲者への慰霊という仕事を、生きている限り、一人の人間に負わせ続けるのは、果たして妥当なのであろうか? このようなことは、敗戦後も、天皇の戦争責任を決して公に問うことなく、中途半端な形で天皇制を温存したことの結果、生じたとも考えられるのである。
 
筆者はこれをかつての政府の罪を無罪放免するためについて言っているのではない。現存する日本政府は、敗戦で敗れたはずの勢力に率いられており、過去の大戦に対する真摯な反省の意も、罪の意識も存在しないと言って過言ではない。むしろ、過去の敗戦についての真摯な反省を天皇に押しつけて、慰霊事業さえビジネスに変えながら、過去を正当化して今日に至っている。
 
現政府は、このように過去の敗戦の責任をうやむやにし正当化するばかりか、やがて憲法を変え、核武装し、自分たちに科された全てのくびきを払い落として、再び戦争を起こしてでも、雪辱を果たしたい、と願っているのであり、しかもその際、自分たちの野望のゆえに引き起こそうとしている将来的な戦争をも、自分たちの責任とされないために、天皇の「鶴の一声」によって始まったことにしたいと考え、そのために、天皇の国家元首化を企んでいるのである。このような政府が、過去の罪を免罪されなければならない理由は全く存在しない。

だが、明仁天皇は、そのような流れからあえて距離を置いて、自分が一人の人間の限界を超えて「栄光化」され、高みに祀り上げられ、国家元首化され、神とされ、この国全体の将来的な責任を一身に押しつけられることを拒否して、むしろ、率直に自分は限界ある一人の人間に過ぎないことを表明し、自分の進退について、国民に理解を求めたい、と語ったのである。

このことは、官僚たちが天皇を隠れ蓑にして作り上げ、肯定して来た身分制度のヒエラルキーそのものに対する異議申し立ての意味合いを帯びているように感じられる。

現在、日本社会では終身雇用制も崩れて久しく、リストラが横行し、一人の人間が、どんなに同じ職場に勤め続けることを願っても、それは一般的に難しい時代となっている。政治家でも選挙に備えなければならず、落選の憂き目と無縁ではいられない。

そんな今の時代、官僚だけは、20代の前半ほどの年齢で国家公務員試験を突破しさえすれば、基本的にリストラに遭うこともなく、定年が来るまでヒエラルキーの中で出世の階段を上り続けられ、退職後も、天下り先で、巨額の収入を手に入れられることとなっている。

このようにして、時代の変化の波にさらされることもなく、時の政権によって交替を迫られることもなく、固定化した特権階級となって、国民に君臨する官僚機構と、これと密接に結びついた政財界が、強力な影の実権となって、法律を盾にとって、この国を操っているのが現状である。

官僚制度は、そのものが違憲であるということはすでに指摘したが、それにしても、官僚などよりも、はるかに正当な根拠に基づいて、「生涯現役」でいられ、その職務が、生まれながらの身分と一体となっていておかしくない天皇が、自らの地位や職務にしがみつくことなく、また、そうすることを正しいことだと思わず引退を表明したことの意味は大きい。

官僚と政治家が徹底的に国民を蔑視し、国民に君臨する支配階級であることだけを誇りにして生きているのに対し、天皇は自らのメッセージによって、自分が国民に君臨する存在ではないことを示し、しかも、この国のあり方を決めるのは、官僚ではなく、政府でもなく、国民であるという見解を改めて表明して、自らの進退を国民の手に委ねるために、国民に向かって語りかけたのである。

筆者は、天皇のメッセージをありがたがるためにこれを書いているのではなく、このメッセージに、「天皇とは国民統合の象徴である限り、天皇制を含め、この国のあり方を実際に決めて行くのは、政府ではなく、国民なのだ」という、極めて明確かつ健全な意図を感じ、そのような考えがこの国の重要なポジションにいる人々にまだ残っていたこと自体に、ある種の新鮮な驚きを覚えた。

たとえある人々が、あからさまに憲法の破壊を企み、また、皇室典範の改正云々についての議論も、自分たちにとって都合の良いように利用しようと狙っていたとしても、そのような人々の悪しき思惑とは無関係に、主権在民の原則は今も生きて働いており、明仁天皇はその確信を示すために、自らの進退を政府にではなく国民に委ねていることを表明したのである。

だが、その意向を、明仁天皇が今回のような形で、突然に、しかも、不明な報道経路を通して、最終的にはビデオメッセージの形で、政府の意向とは別に、発表せねばならなかった経緯を考えると、これには何かしら尋常ならぬものを感じざるを得ず、国民と政府との間だけでなく、天皇と政府との間にも、極めて深刻な乖離状態が生じているのではないかという懸念が当然のごとく生じる。
 
政府は、敗戦の責任やそれに対する贖罪行為をすべて国民と天皇に押しつけただけでなく、天皇をも置き去りにして、半ば人質のようにしながら、あらぬ方向へ暴走を続けて今日に至っているのではないだろうかという危惧が生じる。

さて、このビデオメッセージの表明時までには、護憲の象徴としての天皇にはぜひとも安倍政権と対峙して頑張ってもらいたいという期待が筆者の中になかったわけではなく、生前退位によって護憲時代に終止符が打たれることへの危惧もなかったわけではないが、今、考えさせられるのは、「大切なのは、役割ではなく、個人である」という価値観である。

相模原の障害者殺傷事件にも表れているように、社会の中における個人の役割や、地位ばかりを重視する考えは、「国家のために、社会のために、生産性を発揮できないような個人には、生きている価値がない」という残酷なイデオロギーへと容易に結びつく。
 
そのような野蛮な思想が息を吹き返している昨今の風潮の中で、明仁天皇が、人間が一番直視したくないはずの自らの老いと衰えと死という問題と向き合い、一人の人間として、生きているうちから、残される者のために死への備えをしておきたいという自然な願いを表明し、天皇としての職務を果たせなくなった天皇、という自分自身のイメージを恥じることなく明確に描き出し、自己の限界を率直に表明して後継者に道を譲りたいという考えを示したことは、極めて重大な意義を持っていると感じられる。

本当は、日本政府にとっても、引き際が肝心なのだ。しかしながら、カルトには自己反省することも、引き返すこともできない。それは彼らが己の限界や罪を決して認めず、ありもしない偉大さと永遠性を目指して、神とその被造物全体に対して挑戦を挑んでいるからである。
 
筆者は、一事不再理の原則についての記事でも述べたように、すでに過去の大戦の罪を認め、真摯に反省し、裁かれた者が、同じ罪で二度、三度まで、裁かれる理由がないと考えている。そこで、天皇も含めて、我々国民はそろそろ贖罪行為から解放されてしかるべきではないかと思う。

だが、過去の罪を頑なに認めず、己に対する裁きをいつまでも否定する者は、将来的に前よりも一層厳しい裁きに見舞われるべき理由が存在する。その意味で、二度目の敗戦が、我が国の政府に必要なのであり、再び、敗れ、今度こそ、二度と立ち上がれないように裁かれるためにこそ、彼らは己の目的に向かって突き進んでいるのだと言えよう。


相模原で起きた障害者の大量殺人事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(2)―人間を滅ぼす偽りの「マトリックス」からはブラグを抜け!

<続き>

さて、神戸の事件から相模原の事件に話を戻すと、植松容疑者は、衆議院議長に宛てた手紙の中で、自らの行う障害者の大量殺人が、「全人類が心の隅に隠した想い」を実行に移すことであり、「日本国、全人類の為」に実行される「作戦」行動であり、「今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えて」いると述べている。

そのことから、我々は、植松容疑者の思想にも、酒鬼薔薇と同じような、誤ったエリート主義(優生思想)が潜んでいることを理解できる。さらに、植松容疑者は自らの声明文の中で安倍晋三の名前を引き合いに出して、自分の犯行に予め国家権力からの同意とお墨付きを本気でもらおうとしていたことに注意したい。
 
植松聖容疑者の手紙より一部抜粋
 
「私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で、今回の作戦を提案を上げる訳ではありません。全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。

障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。

私の目標は重複障碍者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

重複障碍者に対する命のあり方は未だに超えたが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。

「戦争で未来ある人間が殺されるのはとても悲しく、多くの憎しみを生みますが、障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可決(※ママ)である辛い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。


「どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。」

今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えております。」

「ご決断頂ければいつでも作戦を実行致します。
日本国と世界平和の為に何卒よろしくお願い致します。
想像を絶する激務の中大変恐縮ではござますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。

全文は「植松容疑者の衆議院議長公邸宛て手紙の全文 障害者抹殺作戦を犯行予告
(ニュース速報Japan 2016/7/26)に掲載されている。


植松容疑者は、この手紙の中で、障害者の殺害という計画は、「日本国と世界平和の為」の「革命」であると述べ、自分は国家のためにこの作戦を実行するのだと強調し、その「見返り」として、逮捕後の国からの具体的な支援を求めて「取引」までも申し出ている。

ご決断頂ければいつでも作戦を実行致します。」などと書いている様子からも、この人間が自らの犯行を官邸への「献上物」のように差し出そうと考えていたこと、自己を安倍晋三の影の代理人のようにみなし、場合によっては、本気でこの計画に国からの賛同と支援がもらえるかも知れないと期待していた様子が伺える。

当然ながら、理性ある人間の誰一人として、こんな狂った申し出に耳を貸すことはあり得ないのだが、それにしても、植松容疑者が、衆議院議長を通して、他でもなく安倍晋三とのコンタクトを取りたいと願った背景には、植松容疑者の弱者抹殺の思想に、安倍政権との弱者切り捨て策と根本的な親和性が見られるためである点は見逃せない。

この人物は、自分の犯行が、安倍政権の「隠れた思惑」を体現し、これを実行に移すものであることを直感的に知っていたのである。

だから、もし我が国が、この凶行をきっかけに、この国の取って来た残酷な弱肉強食の路線を改める必要性に気づくことができなければ、この国は本当に終わりであろう。

植松容疑者の犯行には、明らかに、小泉政権の頃から自民党が行って来た、障害者への福祉サービスの切り捨てや、弱肉強食のグローバリズム、市場原理主義の推進、若者の就労環境の劣悪化や、学生を食い物にする奨学金という名の金貸しビジネス、などなどの、社会的弱者を容赦なく食い物とし、彼らの犠牲の上に繁栄を築こうとする我が国の誤ったエリート主義的政策の残酷さの全てが、余すところなく信念となって結実しているのだと言える。

安倍政権のもとで、厚労省が精神障害者の受けとる年金額の減額方針を固めていた問題は、この事件と絡めて、すでに人々に指摘され始めている。(障害者年金の新基準については、「精神障害者ら7.9万人、受給減額・停止も 年金新指針で  医師団体推計」(日本経済新聞 2015/12/12 参照。)
こうして国は、まさに一番、抗議する力を持たない弱者から順番に、「国家の重荷」として切り捨てて行こうという思惑をあらわにしていたのである。

だから、結局のところ、国は、酒鬼薔薇聖斗や、植松容疑者ほどにあからさまにその信念を公言し、自ら手を下そうとしなかっただけで、実際には、その政策を通して、事実上、「自分で生き延びる力のない社会的弱者は死んだ方がいい」と公言しているに等しいのである。

沖縄・高江における政府機動隊の弾圧も、緊急事態条項が創設されれば、政府にとって不都合な国民はみなことごとく同様に弾圧を受けることの予表である。人々は首を絞められ、車で轢かれ、いつ死者が出てもおかしくない事態が展開している。

こうして、憲法改正がなされずとも、あたかもすでにそれが成就したかのように、国家が率先して、不都合な人間の排除に乗り出している今、植松容疑者のような人物は、自民党政権の弱肉強食の政治方針、さらに、自民党の中でも、とりわけ強権的な安倍政権の残酷な政治思想を自ら「忖度」した上で、自らその体現者として名乗り出て来たのだと言える。「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する」…という文面はそういう意味なのである。

つまり、強者の生存のために、弱者は容赦なく犠牲になるべきだという「国策」の実現を手助けするために、私は自ら手を貸しますよと、名乗り出て来たのである。
 
国が弱肉強食の政策を推進し、緊急事態を口実に人権まで停止しようと企んでいる状況で、植松容疑者が言わんとしたのは、仮に自分が率先してその理念を実行に移し、弱者を抹殺して国家の重荷を減らす手助けをしたからと言って、一体、その何が罪なのだ、むしろ、国家の負担軽減という計画に助力しているのだから、報酬をもらっても良いくらいであり、政府は自分の逮捕後の世話をしても当然だということである。

おそらく、社会の大勢の人々がこの事件を通して自省させられたことであろう。若者を容赦なく使役した上で残酷に解雇して利益を上げているブラック企業の社長や社員たち、奨学金ビジネスで身を立てている人々など、多くの人々が、自分たちのやっていることは、実質的に植松容疑者と変わりないことに気づかなったろうか? そもそも弱く若い世代にすべてのツケを負わせて成り立っているこの社会そのものが、植松容疑者と同じ理念を共有していることに気づかなったろうか?

植松容疑者が自らの手紙の中で、安倍氏へのコンタクトを願っているのは決して偶然ではなく、それは彼が安倍の中に、自分と共通の思想を見いだしていたためであり、大企業や外国にばかりおもねり、国内の声を上げることのできない者たちは容赦なく見殺しにする安倍自民党政権の政策に、自分と同種の「理想」を見ていたからに他ならない。
 
今、もし我が国に生きる人々が、この事件の持つ深い警告の意味に気づかなければ、植松容疑者のような人間は、また二度、三度、その度ごとに、より残忍さを増して現れて来ないとも限らないだろう。

酒鬼薔薇聖斗の時代には、このような「魔物」としての偽りのエリート主義に基づく優生思想は、まだ公然と姿を現すに至っていなかったが、植松容疑者にあっては、「魔物」はもはや自分の姿を人々の目から隠そうともせず、人間を操り、人間と一体化し、堂々と自分の贈り物を携えて、国家の前に姿を現したのである。

魔物は満面の笑みをたたえて言う、「ねえ、ほら、これがあなたたちの望んでいる世界なのでしょう? 高潔で思いやりあるヒューマニストの仮面を被りたいあなたたちが、臆病さゆえに決して言えないでいる言葉を、私が口に出し、実行してさしあげますよ。全ての見たくない「美しくない現実」が根絶された幻想の国。これぞ、まさに、あなた方の思い描いている"beautiful Japan"(美しい国)の実態なのでしょう?」

それが、犯行後に容疑者が投稿したとみられるツイート「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」の意味なのだろうと推測される。

かつて小泉政権の時代まで、我が国の政府はハンセン病者の絶対隔離政策を法律で義務化し、平成になるまで、ハンセン病者を「社会の恥」とみなして人前から隠し、強制隔離に及び、人権を奪って塀の向こうに押し込めて来たのである。

ようやくその絶対隔離政策が終わって、まだその反省も十分に行われないうちから、今度は、緊急事態条項を作って、国家にとってすべての不都合な人間から人権を奪って、塀の向こうに追いやろうという計画が蠢き出しているのである。

一体、我が国の人権意識はなぜこれほまでに低く、なぜこれほど薄っぺらい人間観が横行し、こんな未開のところを未ださまよっているのであろうか。安倍晋三の言う「美しい国」とは、まさにハンセン病者の強制隔離のような時代への逆戻りに他ならない。要するに、それは人間を喜ばせるきれい事だけで塗り固められたウソの世界であり、うわべだけを美しく飾って、その陰で、人間にとって全ての見たくない不都合な現実を覆い隠し、排除した上で作り出される幻想の世界である。

安倍政権こそ、「美しい国」という名目の下で、植松容疑者が一日で成し遂げたことを、政策を通して、実行に移そうとしているのであり、彼らが向かっているのは、植松容疑者と同じく、歪んだ優生思想に基づく「淘汰」の世界なのである。

むろん、抹殺されようとしているのは、すべての社会的弱者である。この「美しい国」では、国家の威信を高めてくれそうにない全ての「美しくない」矛盾は、厳重に隔離され、無いものとして抹殺される。「美しい国」には、原発事故の影響などあってはならない。雇用情勢の悪化も、株価の下落もあってはならず、そこには、虐げられた若者もいなければ、被爆労働者もおらず、沖縄の不幸もなく、社会的弱者もおらず、老老介護の問題もなければ、待機児童もおらず、障害者もなく、少子化問題もない。

こうした現実の全ての矛盾や問題を無視した「きれい事」の陰で、今まさにどれほど多くの人々が、現存する政府の政策によって見えないナイフを喉元に突きつけられ、「自分で自分を救うことのできないおまえには生きる価値がない。社会の重荷であり、周りを不幸にするだけのおまえは、生きているべきではない」という悪魔のささやきを耳元で聞かされていることだろう。これら全ては政府の誤ったエリート主義的政策が生んだ弊害であり、国の政策が、彼らの存在自体を抹殺しようとしているのである。

植松容疑者の実行した「障害者の安楽死計画」が、単なる個人的な犯行として片づけられないのは、それがヒトラーがナチズムを通して国策としてドイツで推し進めた狂気の優生思想と根本的に同一だからでもある。
 
ナチス・ドイツは1939年から1941年8月までに、約7万人の障害者を「生きるに値しない生命」として抹殺した。(ナチス・ドイツの安楽死計画については、ヒトラーの「超人思想」の謎~ ナチズムの裏面史 ~第2章:ナチス・ドイツの「安楽死計画」などを参照)。

ナチスはドイツが1920-30年代にかけて見舞われた国家的経済危機が、障害者への支援が国の負担となって起きたものであるかのように説明し、障害者の存在が社会の効率的な運営を妨げていると主張したのである。そして、以下のポスターにも見られるような、知的障害者に対するネガティブ・キャンペーンを展開し、障害者への福祉の削減、最終的には、障害者の存在そのものの抹殺を訴えたのである。

 

 
画像は"Mind and Flux, Disability and Propaganda"から転載。
ポスターの文面要約:「遺伝性の疾患を抱える一人の人間を一生支援するために、コミュニティが背負う負担額は6万ライヒマルク。いくら何でも高すぎませんか。」

 
だが、実際には、当時のドイツの経済危機は、第一次世界大戦の敗北の結果、ドイツに課された多額の戦争賠償金に由来するところが大きく、ナチスの言い分は。この問題をただ障害者に責任転嫁しただけに過ぎなかった。

なぜそのようなナチスの詭弁に多くの人々が惑わされたのかと言えば、そこに巧妙な心理的トリックがあって、そのような責任転嫁を口実にしさえすれば、当時のドイツ人が、戦争における自国の敗北という重い現実と、それに伴うツケと真正面から向き合わなくて済んだからである。

つまり、すべてを障害者のせいにかこつけてしまえば、敗戦の責任を直視する必要もなく、それによって自尊心が傷つけられることもない。そのようにして、現実から逃げることで、プライドを打ち砕かれて自信喪失に陥ることを避け、なおかつ、多額の賠償金がもたらした経済危機をどう解決するのかという問題からも目を背け、ただ「強いドイツを取り戻す」といった、自分たちのプライドを満足させて、心を高揚させてくれそうな、うわべだけの美辞麗句のスローガンに飛びつき、現実の諸問題を解決するための何ら具体的な道筋が見えてもいないのに、問題をすり替えることで、自分たちの未来に希望があるかのように思い込もうとしたことが、ナチスという超国家主義の台頭を招く主要な心理的原因の一つとなったのである。

日本の現状はこの当時のドイツにかなり似ていると言える。我が国では、先の大戦での敗北を未だ直視できない人々も数多く、さらに、増え続ける国家の財政赤字、少子高齢化、原発事故の影響などが、この国そのものの威信を著しく低下させており、国の未来に暗黒の影を落としている。こうした問題の多くは、従来の考えでは全く打つ手がないものばかりであり、社会構造の根本的な変革を促すものであるが、過去への反省を抜きにしてはそのような変革は生まれ得ない。

だが、自らのプライドが傷つけられたくないために、過去の誤りを直視することを拒み、これまで通りの生き方によって得られる利益を手放したくないある人々は、自国に抱いていた偉大な幻想が崩れゆくことに耐えられないあまり、自分たちの犯した失敗と、痛みに満ちた現実から目を背けようと、オリンピックのように、何かしら現実離れした偉大な幻想に逃避しながら、虚構の自信、虚構の勝利を演出し、全ての現実的な諸問題については、これを手っ取り早く誰かに責任転嫁してしまおうと、スケープゴートを探し求めているのである。

ナチズムの超国家主義のような思想は、国力が低下し、人々が未来に希望が持てなくなり、コミュニティの伝統的な生活が危機にさらされればさらされるほど、ある人々を強く魅了する。自分たちが責任を問われなければならないとなると、ある人々は、それを防ぐために、ますます現実から目を背けて、ありもしない幻想に逃避し、誇大妄想的な自己イメージを膨らませて、集団的自己陶酔にふけるのである。果ては国がまるごとそうやって現実逃避に走るということが起きる。

現在の日本が抱える全ての出口のない問題について、国民一人一人がそれを我が事として悩み、苦しみ、心を痛めながら、明日をどう築き上げるべきかを真摯に考えるのではなく、こうした問題を社会的弱者の責任になすりつけることで、問題の原因をすり替え、一部の人々だけを悪者として描き、彼らを抹殺することで、自分たちはエリートであって彼らとは違って生存に値するのだという愚かしい考えに逃げ込んでそこで自己安堵しようとする連中が出現するのである。

植松容疑者の文章からは、彼がナチス・ドイツの推進した「障害者の安楽死計画」と同じように、「社会的弱者は生きるに値しない」という歪んだ思想の持主だっただけでなく、彼が自らを「進化した未来の人間」のように考えていたこと、つまり、自分自身は生き残るべきエリートの一員であって、障害者とは全く違う存在である、と考えようとしていたことが分かる。

植松容疑者は声明文の中で「容姿に自信が無い為、美容整形を行」うなどと述べているが、興味深いのは、その理由である。つまり、彼が自分の容姿に「自信が無い」と考える動機とは、女性にもてないとか、もっと男らしくなりたいとか、そんな単純な、昔ながらの価値観に基づくものではなく、自分の容姿が、彼自身が理想とする「未来人」の姿に似ていないからなのである。声明文には次のような文面が書かれている。
 

外見はとても大切なことに気づき、容姿に自信が無い為、美容整形を行います。進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージそれらを実現しております。私はUFOを2回見たことがあります。未来人なのかも知れません。


一昔前、容姿に自信のない男性は、三島由紀夫のように、肉体改造に取り組んだものだが、時代の価値観が大きく変わっているようである。植松容疑者が憧れるのは、「進化の先」にある「未来人」の姿である。彼にとっての理想としての「未来人」の姿とは、「宇宙人が代表するイメージ」に似たものである。彼はそれを自分の理想として思い描き、未来人の姿を体現せねばならないと考えて、美容整形という方法で、自分を改造しようとするのである。

今の時代、ある人々にとっての理想の容姿とは、ますます人間臭さの伴わない、生きた生命や感情の感じられない、地球外生命体か、命のない人形のように、美しくても、冷たく、人工的で、無機質な姿へ近づいていることが分かる。

さらに、植松容疑者の述べた、「進化の先にある未来人」という概念の意味を正確に理解するには、ヒトラーの超人思想や、トランス・ヒューマニズム、アセンション、霊性進化論などを振り返る必要がある。

筆者はこのブログで、すべての悪魔的思想は、「人が神になる」ことを最終目的とする、キリスト教の異端思想であることを繰り返し述べて来た。この悪魔的思想は、キリスト教のように、人間がキリストの十字架という神の側から提供された救いを信じて受け入れることによって、神の側からの「恵み」として救済され、神に受け入れられるのではなく、人間が生まれ持った自己の要素を刺激・啓発し、覚醒することによって、自力で神に到達し、神との分離・断絶を乗り越え、神と一体化しようとする自己救済の思想である。

これは聖書に反する異端、グノーシス主義であり、言い換えれば、神秘主義である。悪魔にとっては、キリストの十字架によらない人間的な方法によって、神に属する「新しい人類」を創造しようということが悲願なのであって、それが、これまで地上に現れて来た全ての悪魔的な思想と計画に共通する最終目的なのである。なぜそうなるかと言えば、これは聖書が御言葉によって信じる者に約束しているキリストにある新創造の、悪魔的模倣だからである。
 
ナチス・ドイツの障害者安楽死計画の背景にも、むろん、この思想がある。つまり、ヒトラーの安楽死計画は、ただ単に当時のドイツの抱える諸問題を社会的弱者に押しつけてその責任から逃れようという考えだけから出て来たものではなく、まさに「新人類の誕生」という計画の一環だったのである。

ヒトラーは、「人間とは生成途上の“神”なのである」と考え、人間は進化の過程で、やがて放っておいても神のように進化し、超人的存在となるはずだと確信していた。彼はそのような人間だけで構成される社会を理想とみなし、人類改良計画の一環として、遺伝子問題の研究に取り組み、犬や猫のように、優れた血統を持つ人間を「生産」しようと試みたのである。

こうして、ヒトラーは一方では、限りなく神に近い、優れた資質と血統を備えた優秀な人間の生産に励みながらも、人間は将来的に二極化し、他方では、機械的・動物的生存へ落ちて行く者たちが現れると考え、そしてそのような者たちは「古い人類」として淘汰され、衰退して行くのが当然だと確信していた。

ナチス・ドイツはこのような歪んだ優生思想を自ら社会に適用して実行に移し、社会の「浄化」という壮大な実験に取り組もうとしたのであり、彼らは、自分たちが「劣等人種」とみなし、「古い人類」に属すると考える全ての人々を社会から排除し、抹殺することによって、残りの人々を「新人類」に近づけ、人類を飛躍的に進化させることができると考えたのである。
 

新しい種類の人類が、いまその輪郭を示し始めている。完全に自然科学的な意味における突然変異によってである。

これまでの“古い人類”は、これによって、必然的に生物学的に衰退の段階に入っている。古い人間は、衰退形態においてのみ、その生を生きながらえるのである。創造力は、全て新しい種類の人間に集中することになろう。この二種類の人間は、急速に、相互に逆の方向へ発展している。一方は、人間の限界の下へ没落していき、他方は、今日の人間のはるか上まで上昇する。……そう、人間が“神”となる。これこそ、ごく明快な意味なのだ。人間とは生成途上の“神”なのである!」

「人間は、自己の限界を乗り越えるべく、永遠に努力しなければならない。立ち止まり閉じこもれば衰退して、人間の限界下に落ちてしまう。半獣となる。神々と獣たち。世界の前途は今日、そのようなものとして我々の行く手にあるのだ。こう考えれば、全てはなんと根源的で単純になることか。」

(「ヒトラーの「超人思想」の謎~ ナチズムの裏面史 ~第9章:「新人類誕生」の実現を目指していたヒトラー」から抜粋)
 
「……人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。

そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」

(「ナチスの「人間改良計画」 ~ ドイツの「優生思想」の裏面史 ~第9章:人類の分岐──「人類の二極化」現象」 から抜粋)

 

ちなみに、ここで話が大きく逸れるようであるが、すでに多くの人々を悲惨な事故や死へと追いやっている「ポケモンGO」のゲームにも、人類をマインドコントロールし、神に進化させるという悪魔的実験という思想が込められているという警告がなされていることに触れておきたい。


 


以上の動画は、クリスチャンの立場から、ポケモンGOの危険性を警告するものであるが、この動画で語られているトランス・ヒューマニズム(超人間主義)とは、ゆくゆくは人工知能と人間の脳を一体化させることで、人間を超自然的な存在に高め、不滅の「神人」を生み出そうという計画であり、ポケモンGOはその一環だというのである。

そこでは、このゲームは、世界のエリート支配者たちが、人類をAR(拡張現実)に接続して思い通りに支配する術を開発するための大がかりな社会実験であり、テクノロジーを通じてエリートが大衆を支配し、「サイバー神」になるという、トランス・ヒューマニズム運動の一環であり、そのような運動は、人が永遠の命を得る唯一の道であるイエス・キリストを否定する悪魔的欺きであると警告されている。
 
ARは、人々を現実逃避させるための偽りの「マトリックス」のようなものであり、悪魔の作り出した偽りの世界なのだが、その仮想現実の世界が、スリリングでエキサイティングであるために、多くの人々が危険を顧みず我を忘れてこれに没入し、その結果、取り返しのつかない損害が起きる、というのである。

優生思想というのはどれも同じなのだが、不滅の「サイバー神」という一部のエリートを生み出す目的のために、実際には、どれだけの人間が淘汰され、犠牲にならなければならないのであろうか?
 
映画「マトリックス」でも、マトリックスの世界における死は、現実にも死をもたらした。同様に、ポケモンGOはすでに多くの人々を悲惨な事故や死に至らせており、この仮想現実の世界は、もはやゲームの域を超えて、現実に人を殺す力を持つものとなっている。そのような世界にプラグインした結果、待っている未来が明るいものであるはずがない。

動画では、いずれARにプラグインするための装置が、人間の脳に直接、埋め込まれることになるだろうと予告される。

以上のような話を聞けば、クリスチャンがすぐに思い起こすのが、聖書の黙示録に記述されている、反キリストに魂を捧げた人々が右手か額に受けるという「獣の刻印」である。それはずっと以前から、マイクロチップであるとか、色々な憶測を呼んで来たが、それは人間を反キリストが作り出す偽りの「神の国」としての仮想現実の世界に強制的にアクセスさせるための装置なのだと考えられる。それを受けてしまえば、待ち受けているのは、永遠の地獄だけである。

さて、このブログでは、クリスチャンに対する悪魔の欺きは、人間の魂と感覚の領域に偽物の「霊的世界」を作り出し、様々な恍惚体験によって信者を虜にし、信者が自分は「聖霊に導かれているのだ」と思い込みながら、偽りの「霊の世界」の虜となって、そこから抜け出せなくなるよう仕向けることにあると指摘して来た。そのような欺きの一つが、サイバー空間に作られた仮想現実の世界であり、それは感覚刺激ゆえに人類を虜にしていくのである。

この仮想現実の世界は、聖書の言う「神の国」の霊的統治に似せて造られた悪魔の模造品である。キリストの復活の命に基づく神の霊的統治もまた、現実世界を超越する霊的世界なのであるが、悪魔は、それに似たものを、現実世界に存在する堕落した物質を材料として、現実世界の中に、作り出そうとするのである。

そのような悪魔的な偽物の世界として、今やサイバー空間は埋め尽くされようとしているのであり、これより先、その世界はより一層、神の自然な統治ではなく、歪んだ悪魔的支配を表す空間となって行き、やがて、多くの人の目には、それこそが現実以上に現実的に感じられるような世界へと発展して行くだろうと思われる。



  

トランス・ヒューマニズムとは、人工知能を用いて人間を改良することによって、「人が神になる」という思想であり、人間がもともと生まれ持った能力を開発して神に至ろうとする点で、これも結局は、神智学、霊性進化論、ナチズムの優生学などと根本的に同じ思想なのである。

こうした思想をもし大雑把に分類するとすれば、人間の遺伝子を実際に操作して、人間を「品種改良」することによって、人類を高度に「進化」させて「神人」を生み出そうという試みがナチズムの優生学であり、他方、遺伝子の領域には手をつけず、「霊性」という、あくまで見えない領域から人間を高次元の存在に「進化」させようというのが「霊性進化論」である、と言えるのではないかと思う。

優生学は、現実の人間の「血統」を操作しようと試みるが、霊性進化論は「霊的血統」の転換によって、人類を神に至らせようと試みる。たとえば、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道などに共通するのは、人間が、文鮮明や、天皇や、あるいは牧師と言った「霊的指導者の夫妻」に帰依し、彼らを「真の霊的父母」として崇め、「霊の家族」の一員に加わることで、その人間の堕落した血統が「浄化」され、そのように「聖なる家族」に属する人々が増えることで、全人類がやがてはみな「神の家族」に転換され、全人類の救済が成し遂げられるという思想である。

トランス・ヒューマニズムは、人工知能との一体化により、人間の見えない「血統」の転換を成し遂げようとし、サイバー空間を「霊の家」になぞらえて、これに連なる人間を増やし、全人類をこれに接続することによって、人類を「神に進化」させようとする試みなのであろう。
 
最後に、こうした思想の数々は、知れば知るほど、筆者には、驚くほどKFCのDr.Lukeの主張を思い起こさせる。

Dr.LukeのKFCの言う「異言」や「聖霊のバプテスマ」なるものが、聖書に基づくものでない偽物の霊的世界であり、信者が霊界と交信し、正体不明の「霊」に身を任せ、自分でも理解できない音声を話して、それに自己陶酔するという行為が、単なる現実逃避でしかないことはすでに記事で述べたが、このような幻想の世界は、いわば、ARとほぼ変わらない「マトリックス」の世界なのだと言える。彼らはそれに没入するあまり、何が本当の現実であるのか、すでに分からなくなっているのである。

さらに、Dr.Lukeの以下のようなメッセージの標題に使われている用語、

神属人類の誕生」(2016年2月27日)、「聖霊のバイブレーションにチューニングする」(2015年9月20日)、「霊のDNAを活性化せよ」(2016年4月10日)、「すべてを神の目を通して見る」(2016年6月19日)、「左脳の束縛から解かれよ」(2015年8月19日)、「フェイスの覚醒」(2015年12月6日)

などを考慮するだけでも、Dr.LukeやKFCの同氏の言う「神属人類の誕生」とは、要するに、ナチズムと同じように、人間が自己を改造することによって自ら「新人類の誕生」に至ろうという悪魔的自己救済の方法に他ならないことが分かる。こうしたものはすべて結局この世の物質世界に属する事柄であり、人間を新しくする力を持たない「霊の偽物」でしかない。

人工知能に接続するまでもなく、Dr.Lukeがこのような仮想現実に溺れ、日常生活においても、音楽や映像を通して、ひっきりなしに自己を楽しませる感覚的な刺激を受けていなければ生きられなくなっている姿は、まさにテクノロジーに支配される人間の姿そのものだと言える。

筆者はかつてDr.Lukeと共に同氏の車で横浜から福島にあるMr.Sugarの山小屋へ行ったことがあったが、その時の様子を今でも覚えている。その道中、Dr.Lukeは自分の車内で絶え間なく自分のお気に入りの音楽をかけ続けていたのであった。筆者がその時、知ったのは、同氏が、絶え間なく感覚刺激に身を委ねることで、たとえば音楽などのツールが作り出す幻想の世界に没入していなければ、片時も気が休まらないということであった。沈黙や、無音状態に全く耐えられないのである。(後に、同氏と共に山小屋へ行ったことのある別の信者が筆者に向かって、Dr.Lukeについて全く同じ印象を受けたと語った。)

また、筆者は、山小屋に向かっていた当時、携帯電話というものが嫌いだったため、一度も持ったことがなかった。その後、KFCで病に陥った姉妹を見舞うために、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のcandy氏と共に富士山麓にある大きな病院へ行った時、見舞いの後で、上階にある見晴らしの良い開放的なレストランの喫茶に向かったことを覚えている。歓談の後であったか、折しも夕暮れ時で、巨大なガラス窓の向こうに、雲や山影の合間に、真っ赤な夕陽が輝いて見えた。この雄大な景色に、candy氏は自分の携帯を取り出して撮影を行った。筆者はその時、今まで携帯で一度も写真を撮ったことがなかったことにふと気づいた。(それまで、筆者は常にデジカメで撮影していたのである。)

そこで、筆者は、その時には持っていた自分の最初の携帯をcandy氏に見せて、撮影の仕方を尋ねたのだが、その時、candy氏が筆者に向けた、驚愕と侮蔑の入り混じったような、一瞬の表情を、今でも覚えている。それはまるで、自分の携帯での撮影の仕方を知らないなど、人間としてあり得ないことであるとでも言いたげな表情であった。

その時、筆者は、candy氏も、Dr.Lukeと同じように、流行かつ最新鋭の機器に敏感で、便利なものは何でも真っ先に取り入れたいと願う人間の一人であるのだと悟った。さらに、それだけでなく、なおかつ、KFCにまつわる彼らのコミュニティにおいては、いかに自分が流行に通じ、そつなく上品に振る舞える「スマートな人間」であるかをアピールすることが暗黙のルールとなっており、何事であれ、自分が「できない」ところを見せたり、困っている様子をアピールするのは、ご法度なのだ、ということを察した。

だが、筆者は、携帯は初心者でも、パソコンで何時間もかけて画像を編集したり、ゼロから絵を描いたりする苦労をそれまで味わっていたので、そんなうわべだけの「そつのなさ」を全く評価していなかった。そこで、そのような表面的な立ち振る舞いが大きくものを言うらしいコミュニティの価値観の浅はかさに内心で失望と危機感を覚えたのであった。

また、筆者より何十歳も年上の老境にあるSugar氏も、自分では機器のことなど何も分からないのに、不思議にタブレットやスカイプを使い、最先端の電子機器を持ち歩いていた様子も思い起こされる。筆者が誰にも言わずに更新したWebページの存在を、Sugar氏が知っていたりしたこともあった。

こうした色々な出来事を考え合わせる時、彼ら(Dr.Luke、Sugar氏、KFCに関わる人々)のネットやテクノロジーへのこだわりには、何かしらある種の危険性が潜んでいるということを筆者はどうしても感じないわけにいかない。そういう予感があったために、筆者はかつてSugar氏から毎日のようにスカイプを使っての交わりに呼び出された時に、これを断ったのであった。

固定的な信者の交わりから遠ざかっていた筆者には、本来、交わりは必要なものと見えたかも知れない。だが、筆者は様々な失敗体験を通して、キリスト以外の人間に率直に心を打ち明けることの危険性を学んでいたことに加え、スカイプを通して会話することにもある種の不気味さを覚えていたので、これに接続することを完全に放棄したのであった。

そういった、折に触れて筆者が受けた危惧や予感は、長い年月を通じて、実際の経験の上で確かめられた。KFCに関わっていた人々は、うわべにおいては、自分は人を見下したり、軽蔑したりすることは絶対にない、親切で思いやりのあるクリスチャンらしい人間のように振る舞っていたが、その実、彼らの間では、誰が彼らのコミュニティにおいて、最もうまく成功者のように振る舞い、脚光を浴びることができるかという点で、絶えざる競争が行われていたのであった。

要するに、彼らは、自分が人の上に立ちたかったのであり、どうしてもその誘惑を手放せなかったのである。自分が一人でも多くの周囲の人間たちに比べ、抜きんでて真理を知っており、それゆえ、幸福で、恵まれており、進歩なく同じ問題を堂々巡りしているだけの不幸な人々と違って、神に愛されている特別な人間だという自負が欲しかったのである。
  
KFCとそれにまつわる人々が誇っていた優越感とは、対外的には、キリスト教界の信者に対する優位性に基づくものであり、つまり、自分たちはキリスト教界の信者たちの知らない高邁な真理を知っており、そのような組織にとらわれた生き方をしていないという自負によって保たれていた。他方、対内的には、仲間の信者同士で絶えず比べ合い、他者の弱みを足がかりに、内心で他者を貶め、自分を誇ることによって支えられていた。

また、彼らの心の安寧は、自分が「美しくない」と感じる、見たくない全ての現実から目を背けることによって成り立つ偽りの幻想であった。candy氏は自分が洗礼に導いた障害者の洗礼式で、その障害者が自分で書き記した信仰の証の「美しくない」部分を全て自分好みに書き変え、なおかつ、障害の影響は多少あったが、十分に意思疎通可能なその信者に代わって、自らその証を全て代読して途中で泣き崩れた。

また、Dr.Lukeは、KFCの病にある姉妹が死の床について、以前の壮健さを失って行った時、そのような姿は見るに忍びないとして、それ以上、二度と見舞いに行かなかった。Sugar氏も同じであった。それにも関わらず、Dr.Lukeは彼女の葬儀で誰よりも大声をあげて泣き崩れたのである。生前、あれほど親しく寄り添い、さんざん自分に心を向けさせようと苦心して、頻繁に交わりを持っていたのに、いざ、相手に自分を喜ばせるだけの要素がなくなると、この豹変ぶりなのである。利用していたという自覚もないかも知れないし、彼らはその行為に何か信仰的な、もっともらしい理由をつけて正当化を試みるであろうが、要するに、自分にとって都合の良いこと以外は、何も見たくないという態度なのである。

彼らは、実に高邁な真理を人前で語り、彼らの語っていることの中には、多くの真実もあり、ためになることも、習うべきこともあった。だが、彼らは、自分を美しく偉大に見せることのできる瞬間に対しては、どこまでも貪欲で、熱心であるが、他方、自分で語った真理を隠れたところで実践して行くに当たり、誰でも遭遇する試練、苦難、失敗、挫折、弱さ、争いや対立に見舞われると、そんな苦しみには自分は一瞬たりとも耐えられないとでも言うかのように、たちまちに逃げ去ってしまうのである。しかも、その際、その卑怯な行為を正当化するために、その都度、誰かに濡れ衣を着せ、自分以外の誰かを悪者にしながら、コミュニティの中で自分の立場が低下することのないように、手を打つのである。

彼らの長老然とした、あるいは、饒舌で積極的なスピーチに魅了されている人々は、その言動の裏にあるものが分からないので、まことしやかな忠告を装って他者の悪口を吹き込まれても、免疫がないので本気でそれを信じ込んで、その信者から距離を置いてしまう。そのようにして彼らは信者間の関係にくさびを打ち込み、それを自分の教室へと変えてしまう。人々は、誰かの信仰には問題があると聞かされる度に、自分はそうなってはいけないという教訓なのだと受け止め、より敬虔な信者になるべく、外見を磨きながら、これらの教師たちに取り入って行く。こうして、見栄のための競争が出来上がり、以前には無邪気で対等だった交わりが壊される結果になる。

筆者はこうした信者間で信仰の前進を競い合うエリート主義に生きる信者たちに、自ら相談を持ちかけたり、祈りの支援を乞うたり、彼らの評価を気にして生きるのは愚の骨頂であると悟り、彼らを仲間と思う必要のないことを知った。
 
KFCに関わる人々のすることは何もかもすべて、彼ら自身の見栄と自己顕示のためである。たとえKFCを陰では悪しざまに非難していたとしても、これと公に訣別宣言をしないならば、彼らの仲間同然なのである。

彼らの活動は全て、自分たちがいかに他者よりも優れており、特権を享受している幸福な人間であるかを誇示するために行われるものでしかない。すでに書いた通り、信者の結婚式さえも、その目的のために存分に利用されたのである。そして、その結果、起きたことは、とても痛ましい出来事であった。

聖書は、もし宴席に誰かを招いてもてなすならば、立派な金持ちではなく、貧しい者たちのように、返礼できない相手を招きなさいと教えている。そうすれば、主がその隠れた親切に報いて下さるというのである。本当の親切とは、見返りを求めず、隠れたところで行われるものである。だが、KFCは常に、自分たちの恵みを、自分たちの仲間内の狭い集団の中だけで誇示することで、すべての栄誉を自分たちだけで独占してしまい、他の人々に分かち与えることをしなかった。その独占を、自己の優位性とみなしたのである。

そのような彼らの態度は、常に閉ざされていて、内向きで、何もかもが、自分たちのためであり、そのような態度が、主の御前に喜ばれることは決してあり得ないと筆者は今でも確信している。彼らは地上にいる間にすべての報いと栄誉を受けてしまったのである。

Dr.LukeとKFCは、カルト被害者救済活動の指導者である村上密氏とほぼ同様に、決して自己の本当の弱さや醜さや限界と向き合わなくても済むように、自分がいつでもヒーローとなって人前に脚光を浴びていられるような、偽りの「マトリックス」の世界を作り出し、それを信仰生活とはき違え、その幻想の中で、ついに自分たちは「神である」と宣言するところまで行き着いた。

このような人々にとっては、信仰生活そのものが「マトリックス」だったのだと言える。むろん、以前には知らずに協力させられていたあまりにも大勢の信者が、その虚構の世界に疑念を感じ、これに同意せず立ち去ったので、今、実際にKFCと呼べるものは、ごく限られたわずかな人数でしかないのだが、いずれにせよ、Dr.Lukeは自分自身が信者を巻き込んでこれまで行って来た全ての自己顕示の最終目的が、「神になる」ことにあったのだと自ら告白したのである。まだARが完成もしていないうちから、彼らは悪魔的思想の目的を先取りして宣言したのである。これは恐ろしいことであり、そのツケも当然ながら相当に厳しいものとなろう。

Dr.Lukeの語る「霊的世界」が存在しない偽物であり、彼らの誇っている自慢話も虚栄であるならば、Dr.Lukeという人間そのものも、現実には存在しないヴァーチャルな虚像である、と言えよう。Dr.Lukeという仮想現実が、現実の人間を飲み込んで、消滅させようとしているのである。同じことを、筆者はcandy氏にも告げたことがある。

特権的な社交クラブのようなコミュニティで、そんな「無礼な」台詞をストレートに面と向かって語ったゆえに、筆者はその社交クラブから排除されたわけだが、正直に言えば、本心を殺してそんな社交クラブに名を連ね、自分も彼らと同じようになろうと努力することは、全く人生の浪費と不幸以外の何物でもないと筆者は考えている。

以上のような人々について、今でも、筆者が言えることは、Dr.LukeやKFCが演じている虚構の自己像は、ヴァーチャルでありながら、最終的には、生きた彼ら自身を完全に飲み込んで食い滅ぼすだろうということだけである。

それはちょうどポケモンのゲームに熱中している人が、不意の事故に遭って命を失うようなものである。本当の終わりが来るまで、自分が熱中しているものが、偽りのマトリックスであることに気づかない人々もいるかも知れない。マトリックスは、ありもしない幻想によって人間をおだて上げ、有頂天にさせて、束の間の興奮と栄光を餌として与え、自分自身が飛躍的に高められ、優れた人間になったかのような錯覚を与えながら、最後には瞬く間に彼らを破滅のどん底に突き落とし、そのようにして神とその被造物である人間を愚弄するのである。

アセンション然り、トランス・ヒューマニズム然り、霊性進化論然り、KFCの神属人類然り、ナチズムの優生思想然り、人類が自力で神に到達しようとする試みから生まれるのは、常に、歪んで、誤った、偽りのエリート主義思想だけである。以上に挙げたような思想は、みなそれぞれに違った方面から、「新人類の誕生」を目指して、人類の自己改良に取り組んで来たわけだが、これらは方法が異なるだけで、根本的には同一であり、全て悪魔に由来する、神によらない「偽りのエリート」を生み出すための淘汰の手段なのである。
 
クリスチャンには、関わってはならない悪魔的理念というものが確かにある。偽りのエリート主義に欺かれてはいけないし、彼らの富を羨んでもいけない。そのような人々の誇っている「幸福」や「高邁さ」や「スマートさ」を決して羨んではいけないし、彼らと同じように「進化」しようとする必要もない。たとえ彼らから、流行遅れで不器用な人間のように嘲笑されることがあったとしても、悪魔に魂を売ることに比べれば、そんなことは取るに足りない問題である。競争に踊らされて自分も同じようになろうとすれば、行き着く先は永遠の地獄である。

上記の動画が警告する通り、クリスチャンにはテクノロジーと間もなく訣別せねばならない時が迫っていると筆者も確信している。ポケモンゲームをインストールせずとも、スマートフォンはすでに人間の思考を遠隔操作で盗聴し、誘導するところまで来ている。テクノロジーに精通することは、自分自身がそれに操られることに同意することに他ならない。自分が機械を自在に使いこなしているのだと考えるのは愚かであり、今や人間が機械に操られているのである。

さて、最後に、ヒトラーは、新人類の誕生について「東方が実験場になる」と述べたそうだ。これまで当ブログでは、終末の一大背教の象徴である大淫婦バビロンとは、東洋的神秘主義とキリスト教の混合であり、東洋的神秘主義こそ、グノーシス主義の母体であると主張して来た。

ペンテコステ運動も、東洋的神秘主義とキリスト教が合体してできた異端であり、西洋キリスト教に幻滅して、東洋諸国に足を向けたサンダー・シングも異端者となり、「欧米キリスト教のマトリックスから脱出せよ」と叫んでいるKFCも、異端化したことはすでに述べた。さらに、安倍政権の出現や、ポケモンのストーリーが日本で生まれたことなどを考え合わせても、この東洋の片隅の国に待ち受けている未来が、お世辞にも明るいものであるとは考えられない。

だが、たとえこの世が全体としてバビロン化する現象自体は避けられないにせよ、人間には自分の個人的な歩みについて、自ら決断する自由があり、その自由と責任を人生の最後まで失うことはない。だから、偽りの熱狂や「エリート性」に誘われて、マトリックスの世界になど決して接続しないことである。

また、植松容疑者や、酒鬼薔薇聖斗のようにならないためにも、官僚が作り出した虚構のエリート主義に欺かれないことである。先の大戦で証明された通り、「お国のために役立つに人間になる」とは、死をしか意味しない。教育システムにおいて優等生になろうとする競争から「プラグを抜く」だけでなく、市場原理主義社会において「勝ち組」になるための競争からも「プラグを抜く」ことであろう。

植松容疑者の事件は、安倍政権下での雇用環境の悪化が生んだ悪夢のような悲劇だという指摘もある。大学を出ても未来に希望がなく、学んだ知識も生かせず、本業で独り立ちも出来ず、自分の置かれている劣悪な労働環境から目を背けるために、その鬱憤を自分よりも弱い者に向けるしかなかったのだという見方も存在しないわけではない。

そんなにまでも心を病む前に、人間同士が自ら有用性を競い合うという愚かしい終わりなき競争からは一刻も早く降りることである。「一億総活躍社会」などという名で呼ばれる愚かで残酷な競争に踊らされるのをやめて、国家や、社会や、人々の目に覚えめでたい人間となって、他者よりも高く評価される有用な人間と見られたいという欲を捨てることである。

このように、プラグを抜くべき世界は色々存在する。今は過越の時であろう。悪魔はその高ぶりのゆえに、神に反逆したのであり、我々が、悪魔と同じ誘惑に陥らないための方法は、十字架の謙遜に下ることしかない。キリストの十字架という、人間にとっては何の栄誉も伴わない、不名誉と、死の中に隠れることしかない。

キリストご自身が、人前に栄光を受けず、蔑まれ、嘲笑され、誤解される道を歩まれたのである。なのになぜ、信者が、キリストを差し置いて、地上で自ら栄光を受けることを目的に活動し、まして自ら神になるなどと言語道断な宣言をすることができようか。

この悪魔的高慢から身を守る方法は、人間を高ぶらせるだけの偽りのエリート主義に立たず、決して、これに魂を売らず、キリストと共なる十字架の死というへりくだりの道を行くことだけである。


相模原で起きた障害者の大量殺人事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(1)―偽りのエリート主義としての優生思想とは訣別せよ

・相模原の障害者殺害事件を通して、安倍政権の推進する弱肉強食の社会の理念と、偽りのエリート主義が社会にもたらす恐ろしい弊害を考える

安倍政権が参院選後、沖縄で凶暴な牙をむき出しにしている――。
ポケモンGOなどに浮かれ、操り人形として踊らされている場合ではない。

この記事では当初、高江のヘリパッド建設にまつわる政府による弾圧について書く準備をしていたが、それをアップロードしない間に、相模原での障害者殺害事件が起きた。双方の事件に、安倍政権の残酷さがよく反映している。まずは相模原の件から書いていきたい。
 
相模原の事件は、どこかしら神戸の児童連続殺傷事件を思い起こさせる。容疑者の幼稚さのために、神戸の事件ほどの衝撃的なストーリー性を伴わないが、殺害された人数は、神戸の事件をはるかに上回り、戦後最悪の殺人事件となった。

これが神戸の事件を思い起こさせる第一の要素は、まず容疑者の名前である。スプートニク記事では、相模原の殺人事件の容疑者の名前が「聖(サトシ)」であるとわざわざ読み仮名つきで報じられていた。サトシとは、言わずと知れたポケモンの主人公の名前であり、さらに、「聖」という、凶悪な反抗には似つかわしくない、皮肉のように逆説的な名前の漢字から思い起こされるのは、酒鬼薔薇聖斗の名である。

ちなみに、神戸の事件については、筆者は今でも、酒鬼薔薇聖斗は当時の少年Aとは別人であり、これは国家による捏造された犯罪であり、警察の内部犯行であったとの見解に立っている。すでに書いた一連の記事の中で、酒鬼薔薇聖斗の持っていたような思想は、14歳の少年からは決して生まれ得ないものであること、また、犯行の特徴も少年のものではあり得ず、この事件は、少年法改正(厳罰化)という目的に向けて世論を誘導するために、国家権力によって仕組まれた犯罪であったという見解を示した。

(ちなみに、同様の見解を示している人々は他にもおり、筆者が幾たびか引用した「神戸事件の真相を究明する会編 神戸小学生惨殺事件の真相 」だけでなく、「「酒鬼薔薇事件」18年目のミステリー…別人犯行説を追う(前編)」、「「酒鬼薔薇事件」18年目の真相…犯行声明文は警察が作成!?(後編) 」などにも同様の主張が見られる。)

今、筆者は、相模原の事件について、これが神戸の事件と同様に、国家権力によって予め計画された殺人事件であったと指摘しようとしているわけではない。

だが、植松容疑者は今年2月に衆議院議長に犯行声明文を渡してこの計画に同意を得ようと試み、その手紙の中で、わざわざ安倍晋三へのコネクションを依頼していたという事実からも分かるように、植松容疑者は自らの犯行に対して、国家権力からの同意を予め得ようとしていたのである。そして、国家はそれを知りつつ、これを防ぎ得なかったことを考えれば、不作為の罪によって犯行に加担したも同然だとのそしりは免れられないであろう。

さらに、植松容疑者がわざわざ国家当局者に宛ててそのような手紙を書いた理由は、この相模原の事件にもまた、その根底に、国家権力、特に、自民党政権が歴代に渡って推進して来た偽りのエリート主義と重なる思想が流れているからである。

つまり、相模原の事件も、神戸の事件と同じく、思想的には、これまで我が国が国策として推進して来た誤った弱肉強食のエリート主義的政策の延長上に存在するのである。

そこで今回の記事では改めて、酒鬼薔薇聖斗の事件と、植松容疑者の事件には共通して、国家権力によって作り上げられた偽りのエリート主義思想の深い影響が見られること、その意味で、これらの事件を生んだ本当の責任は、国の弱者切り捨て政策にあり、これを改めない限り、同様の事件は今後も続く可能性があることを考えて行きたい。

さて、相模原の事件が、神戸の事件を彷彿とさせる第二の点は、神戸の事件でも、犠牲者の中には障害者が含まれていた点である。

第三に、酒鬼薔薇聖斗は、神戸新聞社に宛てて手書きの犯行声明文を送ったが、今回の容疑者も、衆議院議長に宛てて、手書きの犯行予告の文面を書いていた。(「逮捕の男 衆議院議長宛てに手紙 入所者の殺害を示唆」NHK NEWS WEB 7月26日 12時06分)


 
画像の出典:「植松容疑者の衆議院議長公邸宛て手紙の全文 障害者抹殺作戦を犯行予告」(ニュース速報Japan 2016/7/26)


酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文。画像の出典:「「酒鬼薔薇事件」18年目の真相…犯行声明文は警察が作成!?(後編) 」)


相模原の事件を引き起こした植松容疑者の犯行声明の文面は、酒鬼薔薇聖斗の文章のように高度に知的かつ衝撃的な印象を与えるものではなく、はるかに単純で幼稚なものであった。両者の表面的な最も大きな相違点は、酒鬼薔薇聖斗は自らの犯行声明文を、学校と社会と警察に対する「挑戦状」として突きつけ、そこで自らの犯行を、社会を震撼させるための「復讐」であるとして、初めから社会の理解や同意を度外していたのに対し、植松容疑者は、その声明文の中で、自分の犯行が、社会に復讐を果たすためではなく、むしろ、「全社会の利益の為に」行われるものであり、自分が社会の利益の代弁者として行動しているのだという自負をしきりに強調し、自分の犯行に対して前もって国家の理解と同意を得ようとしていた点である。
 
この二つの特徴は一見、大きな相違点のように見えるが、実のところ、本質的には全く類似する思想である。

酒鬼薔薇聖斗と植松容疑者の思想の大きな共通点は、彼らが共に自らの犯行に、明らかに、個人的思惑を超えたある種の誇大妄想的な思想に基づく「大義」を付与しようとし、自らの殺人が遠大な計画の一環であることを示す記述を残している点である。

酒鬼薔薇聖斗は、自らの犯行を「透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐」と呼んで、第1、第2犯行声明文では次のように述べた。
 

汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
学校殺死の酒鬼薔薇」
「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない」 


酒鬼薔薇は自分は単なる殺人鬼なのではなく、自らの犯行は、空想の中だけにしか存在しない自分の本当の姿を人々の記憶に焼きつける自己顕示のための手段であり、自分自身が「日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る」ために行なわれる自己救済の手段であり、なおかつ、「義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐」の意味があると認識していた。
 

しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性としか言いようがないのである。 殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

 
 酒鬼薔薇聖斗は、人前に公然と姿を現して犯行に及ぶことはせず、あたかも自分が人々の「空想の中だけ」にしか「実在」しない、架空の人間であるかのように、自分は今もこれからも「透明な存在」であり続けると述べた。何よりも、酒鬼薔薇聖斗という実在しない名が、犯人が演出した自己像が「ヴァーチャル」なものであることをよく物語っている。犯人は、現実の自分自身ではなく、このヴァーチャルな自己像こそ本物の自分自身であると宣言したのである。

これに対して、植松容疑者は、堂々と自分の名を記して犯行予告の手紙を書き、自分で衆議院議長に渡そうと試みた。かつ、深夜とはいえ、自分の姿を複数の目撃者の前にさらして犯行に及んだ。この点で、一見、酒鬼薔薇聖斗とは対照的に見える。しかし、これもまた両者の事件のほんの表面的な相違点を示すに過ぎない。

結論から述べると、酒鬼薔薇の犯行の動機と、植松容疑者の犯行の動機には、両者ともに、歪んだエリート主義があり、そして、酒鬼薔薇聖斗の時代にあっては、まだ公には正体を隠していた「魔物」は、植松容疑者にあっては、現実の人間と一体化し、これを乗っ取って、公然と現実世界に姿を現したのである。
 
だが、両者ともに、この「魔物」は、我が国の政権与党の理念、自民党政権が国策として推し進めて来た数々の政策と根本的に一致する思想を持って、これと合わせ鏡のように登場して来たものである。

我々は想像力を働かせなければいけない。酒鬼薔薇聖斗のように、自分の殺人に、社会・学校・警察など、国や社会の組織や機関そのものへの挑戦・復讐の意味合いを込めるという思想は、かなりの知的な成熟がないと生まれて来ない。

その意味で、こうした思想は、社会や世の中に対するものの見方が固まっていない中学生からは到底、生まれ得ないと考えられるだけでなく、さらに、これほど根深い義務教育への復讐心は、おそらく義務教育以上の高等教育を受けた人間にしか持ちえない感情だと考えられるのである。

酒鬼薔薇の文面は、その知的さ、思想的深みから判断して、このような文章を書く犯人は、決して義務教育において「落ちこぼれ」の立場に立つ劣等生ではなかっただろうという推測を生む。このような文章を書く人間は、劣等生どころか、むしろ、義務教育では「エリート」として成功をおさめる優等生の側に立っていただろうと推測される。

つまり、酒鬼薔薇聖斗の持つ人物像とは、学校の成績も悪く、家庭にも色々な問題があって、いつも問題行動ばかりを起こしては、教師や他の生徒から睨まれ、要注意人物のようにみなされているような、あからさまな「義務教育の失敗作」と見えるような問題児ではあり得ないということである。

むしろ、学校では良い成績を収めて、良い大学に進学し、人前では常に自分を抑えて模範的に行動し、周囲の人々から立派だと褒めそやされて、外見からは、とても残忍な犯行に及ぶことができるとは想像もつかない、立派な人物と映っていたのではないかと思われてならない。
 
酒鬼薔薇聖斗ほどの深い義務教育への怨念と復讐心は、義務教育で「落ちこぼれ」とみなされ、恥をかかされ、失望したというような表面的な動機から生まれるものではなく、むしろ、義務教育において優等生とみなされ、成功例とみなされたがゆえに、その成功体験から抜け出られなくなり、一生、さらなる高みを目指すために階段を上り続けねばならないという、エリート教育のシステムから永遠に抜け出せなくなり、自由と個性を圧殺された人間の怨念と復讐心を示すものであるように思われてならない。

つまり、酒鬼薔薇聖斗の本当の人物像は、義務教育の落ちこぼれではなく、むしろエリートなのである――その確信は、「懲役13年」の以下の部分を読むとより一層深まる。
  

 大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないと俺たちが思い込んでしまうように。


この文章が示しているのは、他でもなく酒鬼薔薇自身が、現実の生活においては、「徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう」ような、外見から判断するに、残忍な犯行には到底、似つかわしくない人物だったのではないかということである。

以上のような事柄から察するに、やはり、筆者には、酒鬼薔薇聖斗の本当の人物像とは、家庭でも学校でもぱっとしない平凡な14歳の少年などでは決してなく、義務教育において着々と成功をおさめ、周囲からは実に優秀な人間だとみなされながら、エリートコースを上って行った人間、エリートコースから失敗して脱落することができなかったからこそ、永遠にそのシステムの奴隷とされながら、自分を奴隷とした国家と社会に無言のうちに尽きせぬ復讐心を抱いていた人間なのではないかと思われてならない。
 
劣等生であれば、早々に自分の能力の限界を表明して、過酷な競争の舞台から降り、別の世界に生きることが出来ただろうが、下手に高度な知能を持っていたがために、いつまでもエリートコースから外れることができず、周囲の期待に応え、優秀な外見を取り繕うために、一生、優等生の仮面を外すことができなくなって、競争の舞台から降りられなくなったのである。

彼はまさに「お国のために優秀な人間を生み出す」ことを最高の目的とする歪んだ教育システムの犠牲者となった人物であり、そのような歪んだエリート主義が結集している場所は、国家権力(国家公務員制度)を置いて他にはない。

戦前、官僚が天皇の直属の機関とされ、国民に君臨するエリートとみなされたのと同様に、敗戦後も、日本の教育システムは、国家公務員試験を上位で突破できるような、偏差値優秀な人間を育て、「お国のために」役立つ優秀な人材を育てる以外の目標を何ら打ち出すことができなかった。そのようなものが「エリートコース」なのだという幻想が、この国では愚かにも未だに信じられている。

この偽りの歪んだエリート主義教育の弊害は、このシステムで落伍者となった人間よりも、むしろ、比較的成功者となった人間にこそ、強く現れるものではないだろうか。すなわち、虚栄のために果てしない競争の中で踊らされ、試験の点数などの全く無意味なうわべだけの評価に基づいて作られた人間関係の序列の中に一生、自分自身を絡め取られ、閉じ込められ、自分本来の自由な人格や個性を見失ってしまった人々にこそ、そのような教育システムや、それを生んだ社会に対する誰よりも強い憎悪と復讐心が生まれるのではないかと考えられる。

だが、こうした偽りのエリート主義に汚染された人々の怨念と復讐願望は、決してあるべき方向へ向かわない。つまり、彼らの恨みは、決して本当の責任者には向かわずに、常に彼らよりも弱い者たちに向かって吐き出される。

仮に義務教育が間違っているというのであれば、文部科学省に抗議文書を出せば良かったであろう。デモにでも参加すれば良かったであろう。だが、偽りのエリート主義者は、決してそんな方法を取らない。彼らは自分を支配しているものが偽りであることを知りながらも、自分よりも強い者(国家)には決して復讐せず、ひたすら自分よりも弱い者に憎しみを向けるのである。

偽りのエリート主義とは、すでに述べた通り、差別の制度であり、常に自分より下位にいて嘲笑したり、踏みつけにできる相手がいないと成立しない。そのような価値観によりすがって生きて来た人間は、どんなにそれが誤っていると頭では分かっていても、他者に対する自己の優位性以外に、己の価値を認識する術を持たないので、ヒエラルキーが否定されると、自分の価値が全く見失われ、自分が完全に空っぽになったような恐怖に陥る。

だから、彼らはどんなに内心では自らの生き方を嫌悪していたとしても、あるいは、自分自身もまたより強い者に踏みしだかれ、嘲笑され、愚弄され、苦しんでいたとしても、ヒエラルキーを手放せないがゆえに、その生き方を脱することができず、従って、その鬱憤の全てを、自分よりも弱い者に向けるしかないのである。

子供や、障害者は、弱者の中でもとりわけ弱者であり、ほとんどの場合、攻撃されても、抵抗する力も、抗議する力も持たない。このような、自分に立ち向かう力を全く持たない人間を相手に攻撃するのは、あまりにも卑劣で不当な所業であり、それによって「義務教育への復讐」が成し遂げられることなど絶対にあり得ないことは、多少なりとも知性があれば誰にでも分かることであり、まして酒鬼薔薇聖斗に分からなかったはずはない。

にも関わらず、酒鬼薔薇が、義務教育に復讐を果たすという身勝手な「大義」を口実に、子供や、障害者を痛めつけたのは、彼がとことん精神を病んだ者だからこそできる仕業であり、彼が偽りのエリート主義と、それに由来する優生思想を誤りと分かりながら訣別できなかったために、その魔物に飲み込まれた様子をよく表している。

つまり、酒鬼薔薇は、自分自身が、義務教育が目的とする「偏差値による淘汰」という残酷な優生思想の犠牲者となっていること、またそのようなシステムが非人間的で間違っていることを十分に知りながら、そのシステムに対する鬱憤と怨念を、自分よりも弱い者に向けることで、「淘汰されているのは、自分ではなく、これらの人々である」とみなし、自分のコンプレックスと怨念を彼らに転嫁して、自分の苦しみから目をそらそうとしたのである。

その上で、きっと彼は、自分の犯行をさえ他者に転嫁したのであろう。「現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。」と自ら述べている通り、彼は、そんな犯行には到底、及びもつかない高潔で立派な人物を装いながら、今も社会のどこかで生き続けているのではないかと筆者は思う。

<続く>


非常事態によって不都合な国民の粛清弾圧を目論む政府の狂気からの脱出

ここ一週間ほど、主が信者にお与え下さった自由の価値を再認識し、復活の命を奮い立たせるひと時を過ごした。KFCの分析が終わった時、一つのミッションを終えたという実感があった。むろん、異端分析などはいくらでも書けるが、より価値あることに取り組まなければならない。

古い楽譜を引っ張り出して、かなり以前に練習をやめていた曲の数々をさらうと、何年間かの空白の間、まるで完全に時が止まっていたかのように、記憶は鮮やかに思い起こされる。三、四日ほどの練習でほとんど元の状態に戻すことができた。一カ月もあれば、以前の水準を超えられるだろうか?

筆者はこれらの曲を、以前、ロシアの大学に通いながら、弾いていたのであった。冬の雪に閉ざされて、景色が白黒のモノトーンになり、退屈を持て余すような時には、美術館を巡るか、オペラやバレエを観に行くか、地下鉄を乗り継いで大学のキャンパスに行って、教室に置いてあるグランドピアノを毎日のように弾く。

講堂いっぱいに音がキラキラと輝くように響き渡り、通りすがりの人々がよく足を止めて聞き惚れてくれた。かの地の人々はみな音楽に対して驚くほど心を開いており、意地悪な批評家のように難癖をつけて来り、人の演奏のできないところばかりを数え上げて値踏みする、ということがない。みな素直に心で聞いて喜んでくれた。

そのような好意的な聴衆が一時でもいたことは、日本の聴衆しか知らなかった筆者の人生に大きな影響を与えた。どこへ行っても、日本とは比較にならないほどの良好な反応を得たのである。そのため、筆者自身の音楽への関心は格段に高まった。日本にいると、同じほど無心に取り組むのは難しい。だが、すべての心の雑音を排除して、当時と同じ思いを呼び起こす。
 
楽曲は、どこへでも持ち運べる見えない傑作であり、人の人生をどこへ行っても鮮やかに彩ってくれる。そのように決して奪われることのない豊かな宝を自分自身の中に蓄積して行こうと考えている。むろん、キリスト者にとっての宝とは第一に御言葉なのだが。

ピアノに限らず、あの当時、筆者が目指していた世界、到達しようと願っていた場所が、再び鮮やかに姿を現して、向こうから近づいて来るような具合だ。永い眠りから覚めて我に返ったように、様々な出来事によって中断されていた願いが復活して、行き着こうとしていた到達点を目がけて再び出発せねばならないと感じる。

もし誰かが自分の命が残り少ないと感じたとすれば、今日という日をその人はどのように過ごすであろうか? 満員電車に乗って通勤して会社に奉公することを第一として生きるであろうか? 

筆者の命にはまだ残りがそれなりにあると感じているが、他方で、我が国の現状はどうであろうか? 将来の亡命に備えるというわけではないが、何かしらの霊的直感が、中断していた色々なことに取り組むようにと筆者に促す。かねてより学ぼうと思っていた外国語の勉強を再開すべきであると感じた。

ずっと何年も前にロシアへ渡った筆者の以前の同僚の人生の歩みが、その決意をさらに後押しした。その人は筆者に向かって、自分の夢は日本では実現できないからロシアへ行く、と言ったのであった。そして、着々とそれを実現している。だが、今やロシアにとどまらず、より幅広く活動しているようであるが。

また、日本の国内情勢が危うくなった時にヨーロッパへの亡命を考えている、という日本人の言説にも考えさせられるところがあった。多分、ある種の身支度を始めねばならないのであろう。
 
筆者はこの間に主に二つの道を問うたが、神はそこにさらに思いがけない第三の道を示された。これまでにまだ踏み出したことのない、新しい道である。それは前々から心の中に存在しており、家人を含め、色々な人々が後押ししてくれていたのだが、筆者は実現をためらっていた。

筆者自身には、ごく人並みの平凡な人生の計画があって、普通の人のように働き、普通の人のように家を買って、普通の人のように、この地に根差して生きるということを考えているのであったが、どうにも「この地に根差して生きる」ということが違うようなのである。つまり、キリスト者はこの地においては寄留者であるが、主は同時に、いつも前人未踏のフロンティアを示される。誰も歩いたことのない、真っ白な雪に覆われた道のように、踏み固められていない道を行けと言われるのである。そしてまた信者自身に、そのようなビジョンがなければならないのである。

筆者に対する人生の法則は、一貫して、教会を離れた時と同じで、人間の作った一切の組織に関係なく、人の思惑によらず、ただ見えないキリストだけを頼りに真に自由に歩むべしというものである。筆者自身には、人間としての様々な好みや、思惑があり、時には、自分のお気に入りの人々、自分のお気に入りの環境、などを周囲に取り揃え、定着したいという願望が起きないわけではない。ひょっとして、主はそれらを許容して下さるだろうかと御心を問う。だが、御心でないものは全て閉ざされるので、自分の人間的な好みや思惑がどうあれ、決してそれらのものに未練を感じたり、後ろを振り返ってはいけないのである。



さて、筆者が自分の人生に専念していたここ一週間ほどの間に、世の中はますます物騒な具合になっているようである。フランスでは非常事態の6カ月延長をもたらした「テロ事件」が起きたが、それもオランド大統領が8ヶ月続いた非常事態宣言を7月末に解除すると宣言した直後の事件であり、どうにもタイミングが出来すぎているなと感じていると、実は、このテロは偽旗で、犠牲者はクライシス・アクターと呼ばれるプロの演技者であったことが指摘された。(「ニース・テロの遺体にマネキンが混じっていた?:戦争勢力の一味・仏NATOが仕組んだ偽旗テロ疑惑浮上、仏白人へのイスラム敵視洗脳工作か 」「新ベンチャー革命」参照。)

また、トルコのクーデターも、エルドアンによる偽旗作戦であると早くも指摘されている(「エルドアンは今や彼自身の陰の政府を運営している: “エルゲネコン II”」「マスコミに載らない海外記事」参照)。一説によるとこのクーデターは米国の手引きだとも言われる(スプートニク)。

天皇陛下の早期退位という筆者が誤報と断定したニュースも、天皇陛下は早期退位を望んでいない(共同通信)との発表にもあるように、知識人らの見解は、この生前退位のニュースは、全く信憑性のない話題作りでしかなく、天皇を退位に追い込みたい官邸の策謀だということで概ね意見が一致している。(たとえば、「「天皇の生前退位」は「改憲への天皇利用」」(「兵頭に訊こう」より))

これらの動きはみな、世界の諸国を独裁と緊急事態へと向かわせるものである。どちらかと言えば、ヨーロッパの方が日本の先を行っている感じがするが、もし日本で緊急事態条項が認められれば、必ず、フランスの二の舞となるであろう。フランスのテロは、緊急事態を永遠に長引かせたい勢力が仕組んだ偽の事件である。今回は6カ月の非常事態延長だと言うが、これからも、同じことが延々と繰り返されるだろうという気がする。

「日本版CIA」に言及 ウィキリークスが暴露」(2016年7月21日23時35分)などというニュースもネットを駆け巡っている通り、 日本版CIA(要するに秘密警察)と緊急事態とは、切っても切れない関係にある。

その関係の不可分性は、緊急事態とはすなわち秘密警察のことだと言っても過言ではないくらいである。以下にも再び説明する通り、筆者が以前に記事「カルト監視機構という名の秘密警察」で書いた通りなのである。最近は、この記事を消し去ろうとするネット右翼の活動が特に盛んだが、よほど政府はこの「秘密警察」という言葉の響きが後ろめたいのであろう。
 
ソビエト連邦は、共産主義政権が樹立されて後ただちに秘密警察を作った。「疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者が弱さと傷によって絆(連帯)を結ぶ危険③~安倍政権と反安倍政権運動は同一化する~」という記事の中でも指摘したことであるが、その最初の名はチェーカー、反革命・サボタージュ取締のための非常委員会であった。

この「非常」という言葉が曲者である。あくまで常設の委員会ではなく、臨時的な必要性に応じて、束の間、設立されただけで、役目を終えれば即廃止される、と言いたいわけである。ところが、実態は、その名の通りには決してならなかった。その機関は、革命の翌年にエカテリンブルクで皇帝一家を殺害し、その後も絶えず人の生き血を吸っては巨大に成長して行く。やがてOGPU、NKVD、KGBになり、スターリン体制の大粛清の時代にはおびただしい数の人々の人々を抑圧し、死へと追いやった。ソ連が崩壊するまで、この秘密警察は巨大な権力機関として存続し続けたのである。

非常事態というのは、結局、見えないクーデターをごまかし、正当化しようとの隠れ蓑のようなものであって、反革命・サボタージュ取締委員会が非常で終わらずソビエト体制崩壊までエンドレスに拡大を続けながら巨大な抑圧機関として存続したのと同じように、非常事態も、決して一時的には終わらず、エンドレスに続き、その間、権力にとって不都合な人間を監視・抑圧するための抑圧機関が暗躍することになろう。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の一牧師が提唱した全宗教界を監視するカルト監視機構の政治バージョン、それが日本版CIAの意味するところである。その秘密警察に活動の機会を与えるための緊急事態である。外敵の脅威に立ち向かうという名目で、自国民を弾圧するための抑圧装置がいよいよ公になるのである。

秘密警察とは機関であり、非常事態とは期間の定めであるが、どちらも結局、指している内容は同じで、既存の秩序を転覆させるために、見えないクーデターを正当化し、常態化する体制を作ろうという試みに他ならない。非常事態宣言は、その間に、何かしら成し遂げねばならない目的があるがゆえに敷かれ、そのためにこそ、人権が抑圧されるのである。「公共の秩序を乱す」ような人間は、みな粛清されねばならない、というわけであろう。

そのことは、トルコのクーデター未遂事件が何よりもよく物語っている。全く、今はいつの世紀なのだと思われるような「大粛清」のニュースが数日前までネットを駆け巡った。果たしてそのニュース自体、どの程度額面通りに信ずべきかもよく分からないが、ウクライナでネオナチ政権が誕生した時よりももっとはるかに短期間で過激な粛清が横行した有様は、いかにもこのクーデター未遂事件が、粛清という結果を導き出すために、予め周到に準備された出来事であったという印象を与える。この事件をきっかけにトルコという国が今までとは全く違うものへと変質したことだけは確かであろう。
 

トルコ・クーデター未遂 粛清は4万5000人規模に
2016年07月20日

トルコで先週末に起きたクーデター未遂事件を受け、エルドアン大統領率いる政権は大規模な粛清に乗り出した。これまでに少なくとも4万5000人が拘束されるか解任、もしくは停職となった。

19日には、エルドアン大統領の忠実な支持者でないとみられた人物も粛清され、対象は教師や大学教授、メディア関係者まで広がっている。

トルコ政府は、米国在住の宗教家・社会運動家のフェトゥラ・ギュレン氏(75)が反乱の首謀者だと主張しており、粛清されているのはギュレン氏の支持者たちだとしている。ギュレン氏は関与を否定している。

トルコのユルドゥルム首相は、ギュレン氏が「テロ組織」を率いていると語った。同首相は国会で、「彼らを根絶やしにする」と述べた。

トルコは米国にギュレン氏の身柄引き渡しを求めている。ホワイトハウスによると、オバマ米大統領とエルドアン大統領との電話会談でも言及されたという。

ホワイトハウスのジョシュ・アーネスト報道官は、身側引き渡しをめぐる判断は両国間の条約に基づいて下されると述べた。

トルコ政府のイブラヒム・カリン報道官は、米国は、確かな証拠でなくとも「疑いを根拠として」ギュレン氏を送還できるはずだと示唆した。同報道官は、「彼(ギュレン氏)がクーデター未遂に関与した強い疑いがある。したがって、根拠は十分だ」と語った。

一方、ギュレン氏は、クーデター未遂の黒幕だという主張は「ばかげている」と反発し、「米政府に対しては、政治的復讐のために送還手続きを乱用するようなことは拒否すべきだと訴えたい」と文書で述べた。

米国防総省は、アッシュ・カーター国防長官とトルコの国防相が、トルコ南部にあるインジルリク空軍基地について協議したことを明らかにした。同空軍基地は、米国主導の有志連合がシリアやイラク国内で、過激派組織「イスラム国」(IS)への空爆攻撃に使用しているが、クーデター未遂事件後、基地への電力供給が途絶えている。

トルコのメディアは、教師や教育関係者1万5200人が免職され、大学教授1577人が辞職するよう命令を受けたと報じている。このほか内務省と財務省で、それぞれ8777人と1500人の職員が解雇され、首相府で257人が免職されたという。

トルコのメディア規制機関は19日、ギュレン氏と関連があるとされたラジオとテレビ24局・チャンネルの放送免許を取り消した。

トルコではすでに、6000人以上の軍関係者と、9000人近い警察官が免職されており、約3000人の判事が停職処分を受けている。

トルコで多数の公務員らの解任・停職が行われていることは国際社会に懸念を呼び起こしており、国連はトルコに法の支配と人権擁護を訴えた。

ドイツの高官は19日、トルコに「深い断絶」が生じており、ドイツ国内に多数居住するトルコ人の社会が不安定になる懸念があると語った。バイエルン州のヨアヒム・ヘルマン内相は、「エルドアン大統領支持者と反対派の間の暴力的な対立が激化する危険性はドイツでも高まっている」と述べた。

欧州議会のマルティン・シュルツ議長は、トルコのエルドアン政権が政治的な敵と反対派に「復讐」する機会になっていると非難した。さらに同議長は、トルコで議論されている死刑制度復活について、「深く懸念している」と述べた。欧州連合(EU)は、死刑制度が復活した場合には、EU加盟の交渉は停止すると警告している。

トルコ当局の発表によると、今月15日夜に始まったクーデター未遂で232人が死亡、1541人が負傷した。

(英語記事 Turkey coup: Crackdown toll passes 45,000)


トルコでの粛清は軍や政治関係者だけでなく、大学関係者にも及んでおり、カンボジアでのポル・ポト政権を思わせるような粛清ぶりである。「トルコ・リラ、最安値更新に向かう-クーデター未遂後の粛清拡大」(2016年7月20日 Bloomberg)のニュースでは、こう書かれている。
 

「クーデター未遂後の粛清の対象は既に裁判官の6分の1余りに及び、また高等教育評議会が全国の国立・私立大学の学部長1577人に辞職を求めていると、国営トルコ・ラジオ・テレビ放送(TRT)が19日報じた。 」


兵頭氏は記事「エルドアンという狂気の正気」(2016年7月21日)の中で、猜疑心に憑りつかれたエルドアンはもはや正気を失いつつあるという見解を示しており、それが安倍晋三の明日の姿に重なると述べる。その予測はかなり正しいものであろう。なぜなら、それは独裁者が必ず陥る末期症状だからである。

キリスト教界で聖霊派と呼ばれる組織の一つであるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に、村上密という牧師がおり、この牧師は統一教会の出身であるが、この男こそ、キリスト教界のカルト化を阻止するという名目で、教界にカルト監視機構を設立して、自らその統率者となることを夢見ていた人物である。この牧師は、その計画を発表するずっと以前から、鳴尾教会で引き起こした事件に見られるように、支持者と連携して、暗闇で不都合な反対者や政敵に圧力をかけて粛清することに血道をあげていたが、カルト監視機構設立の計画を明るみに出して以後は、その構想が誰からも公に認可されなかったにも関わらず、勝手に早々と支持者を使ってネット上に私的な形で自分の覇権を築き上げ、反対者を次々と弾圧しては裁判に訴えるという実力行使に出たのである。

同氏は当初、キリスト教界の「外のカルト」を標的にしていたのが、いつの間にか、キリスト教界の「内部の敵」の粛清へと標的がすり変わり、同氏の憎悪と恨みは、最後には、誰よりも自教団に属していた牧師や信徒に向けられることになり、さらに、敵を捏造してでも作り出すというものへと変わって行った。その頃から、筆者が当初から警告していた通り、この人間は本当に尋常な理性を捨てて、行動がおかしくなって行った。そのことは、この牧師が根拠なき疑惑だけに基づいて、次々とクリスチャンを訴えるようになり、ただ政敵に打撃を与えるためだけに、全く勝ち目のない裁判を自ら起こし続けては泥沼にはまり込んで行った様子によく表れている。

エルドアンの粛清もそうだが、粛清というのは、当初、どんなもっともらしい口実がついていたしても、一旦、始められると、歯止めが利かなくなる。猜疑心が猜疑心を呼び、弾圧それ自体が目的になって行くのである。そしてついに最後には、捏造してでも敵を作り出すことによって、粛清という商売を永遠に続けようというところまで行き着く。粛清が目的化するのである。
 
そこで、権力を掌握するまでは、安倍晋三も、自分の野望だけを頼りに生きる、出来の悪い生徒のような、平凡でありふれた普通の人間であり続けるだろう。どんなにずるくしたたかで野望が見え透いていても、出来の悪さがあらゆるところから噴出しているために、彼はぱっとしない人間の一人でしかなく、多くの人々の揶揄の対象にさえなっている。サラリーマンであれば、とうに会社からいなくなっていたはずの人物であろう。ところが、そんな人物でも、一旦、完全に権力を掌握すれば、考えられないほどまでに冷酷な人間に豹変する(本当は豹変したのではなく、本質が露呈しただけである)。そして、愚かであるがゆえに、とてつもない規模の悪事を平然と行うのであり、その冷酷無慈悲さは、誰よりも、今まで彼と共に歩いて来た側近らに向けられることになる。 
 
トルコのクーデターが、エルドアンが自ら引き起こした偽旗作戦だという指摘に立てば、本当のクーデターとは、ギュレン氏が起こしたとされるクーデター未遂事件ではなく、エルドアンの引き起こした粛清だったことになる。国内の反対派を粛清する名目を得るために、ありもしないクーデターをでっちあげて政敵に濡れ衣を着せ、不都合な人物をみな追放することが最初からの目的だったのである。だが、このような大粛清が進行すれば、国の機能はマヒする。それはエルドアン自身のためにもならない。だとすれば、それを引き起こした本当の黒幕は、エルドアンではなく、トルコの混乱と弱体化によって利益を得る外国勢力だと見るべきであろう。世界中の国々で革命やらクーデターを起こし続けて荒らしまわっているある一国の存在が浮かび上がって来ないわけがない。
 
さらに、こういう非常事態には、どさくさに紛れて、キリスト教徒が弾圧されることにならないか、様子見が必要である。イスラム教徒が悪者にされているだけではない。宗教そのものが標的とされる危険性がある。我が国でも、まるでその伏線のように、一神教への恨みつらみを述べる輩をネット上でよく見かけるようになった。一神教が脅威だと言っては多神教を賛美し、キリスト教に対する敵意を煽るやり方は戦前とそっくりである。
    
そんなきな臭さの中でポケモンGOの配信だとか、全く愚民化政策に余念がない。KFCの礼拝と同じく、これはすべて人々を思考停止に陥らせるための現実逃避なのである。これもまた米国のスパイソフトだとの指摘もある。

アウシュヴィッツに列車で連れて行かれたユダヤ人たちは、仕事に行くのだと言われて列車に乗せられ、駅に着くと、あたかもそこから出発することができるかのように、偽のプラットホームや時刻表まであったのだという。ガス室の前では、服の引換券を渡され、それが決して戻ることのできない死出の旅路への片道切符なのだということに、人々の思いが至らないように、細部まで工夫がされていた。徹底的に反乱を阻止する体制が準備されていたのである。

現在、行なわれていることもそれと同様である。あたかも存在するかのような偽の夢、偽の希望によって人々を欺きながら、死へと追いやろうとしている勢力が存在するのである。我が国も、着々とトルコと同じ末路へ近づいている。
 
きな臭さは、もはや遠くの出来事ではない。日本では、沖縄での政府による弾圧が参院選直後から早速強化された上、政府が沖縄県を提訴したのだという。現政府が、沖縄をもはや自国の一部とみなしておらず、敵のように考えていることが、これによって態度で明白にされた。

むろん、ここまで道義を失っては、この政府はもう終わりであって、こんなにまでも弱い者イジメという目的だけしか存在しない大義のない裁判には、勝敗がどうあれ、人々の理解も支援も得られない。国際社会も黙ってはいないであろう。
 
しかも、植草一秀氏が「真剣に検討するべき東日本の分離独立」の中で、自民候補が敗北した東日本の独立という問題に言及しているように、だんだん東日本だけでなく、沖縄も、そろそろ本当に、この政府から分離すべき時が近づいて来たのである。

どこから分離独立が始まるか分からないが、虐げられた人々の多い地域から順番に、日本という国が、バラバラに解体される時が近づいているのかも知れない。そして、それを食い止める手段が、政府には、中国や北朝鮮などの諸外国を「脅威」として描き出すことで、恐怖によって国内の団結を促す策と、非常事態による締め付けと、独裁しかないところまで来ている。

その作戦のお粗末さはすでに露呈してしまっているので、多分、いつまでもそのようなまやかしで人々を引き留めるのは無理であろう。さらに急速な人口減少がその求心力の低下に追い打ちをかける。

我々もこのような政府の下に残っていて何も良いことはない。本土はすでに沖縄から加害者とみなされており、恨みを買っているし、フクシマもまた東京を加害者とみなすであろう。そして、政府がモルモット扱いしているのは、沖縄だけではない。若者も使い捨てにされているし、老人も死へ追いやられている。政府は国民のために存在しておらず、自己保存のためだけにしか存在していない。支配者以外のものは、この国にもはや存在してはならないというところまで来てしまっている。

我が国の政府は、エルドアンとほとんど違いのないとこまで来ている。あとは全国民に対する職業や地位や身分を問わない無差別的な粛清が、いつ開始されるのかという秒読み段階に入っているだけである。そして、特段に注意を払うべきこととして、その弾圧は沖縄ではすでに始まっているのである。

政府の沖縄県への提訴と、高江での弾圧(「安倍政権の「沖縄潰し」本土マスコミが伝えない機動隊の暴力ー高江ヘリパッド建設問題」 2016年7月23日などを参照 )は、我が国の内乱と分裂の始まりと見ても良いのではないかと思う。そして、英国がEUからの離脱を決めたように、仮に血塗られた過程を辿ったとしても、おそらく、この分離独立の動きを阻止することは現政府にはもうできまい。それだけの大義が存在しないからである。
 
ここまで劣化してしまうと、どんなに強硬な姿勢を取っても、政府にも滅亡が確定しているということが言える。この先、いかに非常事態やら、独裁政治やらを確立したとしても、こんな政府に生き残りの可能性はなく、急速な老朽化に見舞われ、倒れるのも時間の問題である。

だが、断末魔に陥った政府が終了するまでの間にどれほどの害悪を周囲に振りまくかということが問題なのであり、貞潔な信者が、バビロンの倒壊に巻き込まれる必要はないように、束の間の利益と引き換えに魂を売って生きていない国民が、断末魔にある権力の狂気に巻き込まれなければならない理由はないのである。

筆者はKFCをエクソダスしたときのことを思い出す。神は、彼らを懸命に説得しようとしていた筆者を不思議な方法でそこから出されたのであった。その当時、その事件が何のために起きたのかまでは分からなかったが、誘われても彼らと同じ船に乗って行かなかったこと、彼らと共に後戻りできないような宣言をして神に対する罪を犯さなかったことは、筆者にとっては限りなく幸運であったことが今はよく分かるのである。

KFCを初め遠くから見た時には、筆者の目には、高みにあるように見え、輝いて見えた。そこにいる人々は敬虔な信者なのだろうと筆者は思っていた。だが、忘れられない出来事は、まだこの団体の何たるかをよく知らない頃、信者たちがDr.Lukeの仲介で結婚式を挙げていた様子をネットで遠目に見て、その出来事が、筆者の心に痛みを与えたことである。

Dr.Lukeはその信者らの結婚をキリストとエクレシアの結婚になぞらえるスピーチを晴れがましく語っていたが、本当のエクレシアは、そんな風に誰かの個人的な欲望や利益と密接に結びついた、特定の人々に限定された、特定の人間に栄光を帰するものではない、という確信が筆者にあったからである。

神がキリストの婚礼を祝うために、誰彼構わず無差別に人々を招く様子は、福音書にいくつものたとえ話で描かれている。神は一人でも多くの人々に、ご自分の喜びを惜しみなく分かち合いたいのである。だが、人々の方がこの招きに注意を払わない。そんな風に、神はご自分の喜びや、富を、可能な限り、多くの人々に分かち合おうとされるのだが、他方、Dr.Lukeの閉ざされたファンクラブも同然となっていたKFCは、神の恵みを初めから自分たちの集団だけに限定された自分たちだけの特権のように変えてしまおうとしていたのである。
 
Dr.Lukeは多分、今になっても、自分たちの特権的な「幸福」を理解しない人々は、すべて妬みや、ひがみや、やっかみに陥っているだけなのだと言っては、他者を嘲笑し、自己正当化しようとするであろうが、今だから言っておくと、その時、Dr.Lukeの仲介で結婚式を挙げた夫婦には、間もなく極めて尋常でない事件が降りかかった。

その夫婦は、この結婚式から数年後に、心臓や、目や、耳と言った、当然、あるべき臓器を持たない双子を授かり、その子供は生まれる前に亡くなったのである。信者たちは当時、むろん彼らのために同情し、子供が助かるようにとしきりに泣き、断食し、祈っていたが、筆者の心には、このような異常な出来事が、決して偶然に起きるものではない、と感じられた。

筆者は人の心を痛めないために、その確信を決して誰にも語らなかったが、今になっても、その出来事が、Dr.Lukeによってもたらされた呪いであり、この人物に対する神の怒りの激しさを表すものではないのかという疑惑が拭い去れない。

Dr.LukeとKFCが自分たちの悦楽をまるで信仰の手柄のように誇示しながら、神の名を冠して、自分たちの限定された幸福を永遠の価値のように誇っていたことが、神の御怒りを買ったのである。その子供の姿は、まるでKFCという団体そのものの不毛性を象徴しているかのようである。今でも、まさに次の御言葉が思い出されてならない。

「この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、
 自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:10)

だが、もちろん、これはすでにずっと以前に起きた事件であり、その夫婦も、その他の数多くの信者や、筆者と同じく、もはやKFCを離れ、今は全く違った人生を歩いていると聞く。これらすべての出来事から受けた警告にも関わらず、そこに依然として残ってDr.Lukeと共に自己を神として己を賛美している最も愚かな人々だけに、この先、最も大きな災いが降りかかるであろう。

そして、筆者はバビロンの倒壊に巻き込まれるつもりは全くない。だからこそ、主が、色々な方法を使って、近づいてはならない全てのものから筆者を遠ざけておられるのだと確信しているし、それを幸いに感じている。この先、我が国についても、KFCや、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と似たようなことが起きるであろうと考えている。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師は、政敵に裁判をしかけたが、ことごとく負け、今やこの牧師とペンテコステ運動の異常な理念のために、教団そのものが普通の信者たちからカルトだとささやかれるまでに信用を失っている。

おそらく、主は、今、この国において、ご自分に忠実な人々をえり分けておられるのではないか、と筆者は思う。神は、真実な民と不忠実な人々を一緒に滅ぼすことはなさらない。だから、今は過越しの時である。

そして、筆者は神を信頼している。 物騒な事件が起きれば起きるほど、その信頼はより深まって行く。天には永遠に揺るがない秩序があって、そこに生きる人々はクーデターには見舞われないからである。筆者の救いの岩は、何があっても変わらない、ご自分を信頼して身を寄せる者を決して失望させることはない永遠のお方だからである。筆者に要求されているのは、唯一のまことの神に忠実に従って生きることである。

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

 「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5


宮中クーデターを狙う安倍政権の危険な思惑が垣間見えるような天皇の生前譲位説というデマ(2)

一つ前の記事で、参院選後に突然、降って湧いたような天皇陛下の生前退位説は、出所が全く不明であり、宮内庁がこの情報を全面的に否定しており、かつ、天皇自身の声明も出されていない以上、まるで信憑性に欠けており、デマと言わざるを得ず、これは天皇のことばを捏造して行われた、官邸主導の改憲に向けた地ならしの一環としての「平成天皇降ろし」である可能性が極めて高い旨を書いた。

報道から一日以上経っても、この件に関して天皇陛下の声明が全く出ていないことが、生前退位の「意向」自体が、捏造された情報操作であるという見方をさらに強める。

おそらく、これは平和主義の象徴である今上天皇を早いうちに退位に追い込み、取り除いてしまえば、国民の現行憲法へのこだわりの求心力が消失し、憲法改正への抵抗感がなくなるだろうとの考えのもとに仕組まれた計画である可能性が高いと筆者は見ている。

ところが、ネットでは、これに対して早くも「生前退位は安倍氏の改憲を阻止するための天皇陛下の最後の抵抗」などという説が盛んに流布されており、これに飛びついている浅はかな人々も見られるが、これもまた今上天皇自身の告白に基づいていない以上、全く情報の出所が定かではない。本当は、こうした情報こそ、反安倍陣営に偽装しつつ、今上天皇の生前退位を既成事実化しようとしている人々が流布した巧妙かつ悪質な印象操作だと言えよう。

当然のことであるが、もし本当に今上天皇に生前退位の意向があれば、それを天皇自身がはっきりと会見によって全国民に知らしめる義務がある。それは国民の象徴たる天皇の義務であり、もし何らかの事情によって、天皇が公務が遂行できない状態に陥るか、象徴としての役目を果たせない危惧が生じた場合には、必ず、天皇自身が国民に対してこれを説明しなければならないし、今上天皇の人柄を考えれば、必ず、そうするはずである。

特に、今上天皇の二面性のない人柄、これまでの偽善性のない誠実な働き方を考えると、この人物が、健康で、いつでもメッセージを発することができ、危篤状態に陥ったわけでもないのに、あえて自らの意向を明言しないことによって、思わせぶりな態度により、周囲に自らの意向を「忖度」させることによって、暗やみのうちに、阿吽の呼吸で自分の願っている方向へ物事を誘導して行こうという態度を取るはずがないことは明白である。

もし生前退位の意向が天皇自身から出たことであるならば、本人が必ず、会見によって自らそれを国民に伝えるであろう。いや、真っ先に国民に伝えねばならない義務がある。

憲法を順守している国民の象徴たる天皇が、これほど重大な問題を、国民をも、宮内庁をも無視し、マスコミに真っ先にリークさせるということはまず考えられず、そのようなことは、象徴天皇のあり方自体をゆるがせにする行為であるから、憲法上も、本人の人柄に照らし合わせても、今上天皇はそのような行為に及ぶことはまず考えられない。

しかも、NHK及び他のマスコミが一体どこから突然、「天皇の意向」を知ったというのか、その情報源は、ただ官邸に、政府筋にあること以外には、全く明らかにされていない。肝心の天皇の意向が全く不明なままなのである。

そこで、これらの全てのことを考え合わせると、やはり天皇の生前譲位説という報道は、政府筋が、しかも官邸に最も近い一部の「側近」が、壊憲に前のめりになった挙句、天皇陛下をないがしろにして、天皇陛下のことばを捏造した結果としての虚偽の誘導報道であり、それは今上天皇をできるだけ早く譲位に追い込むことによって、現行憲法への国民のこだわりの求心力を低下させる目的のために予め仕組まれた出来事であったとしか考えられないのである。

さて、以上は筆者の見解であるが、世間の識者らはこの件について、どのような反応を示しているのであろうか。見回してみると、やはり、筆者と同じように、天皇の生前譲位という報道自体を、非常に懐疑的に受け止めている人が多い。

まず、天木直人氏は「天木直人のブログ」で、この報道のあり方の異様さを強く強調している。天木氏の見解は筆者とほとんど同じである。天皇自身の声明が出されておらず、宮内庁が全く逆の発表を出しているのに、マスコミだけが依然として生前退位説を既成事実のように書き立てる。このちぐはぐさが、まさに異様だというのだ。宮内庁の発表にまで逆らえるほど、よほどの強い圧力がなければ、マスコミにはそのようなことはできない。「この国は危ういかも知れない」という天木氏の見解は、筆者の見解にほぼ重なる。
  

 「生前退位」の報道を全面否定した風岡宮内庁長官記者会見の衝撃
15Jul 2016 から

  天皇陛下が「生前退位」の意向を示されていることがわかったと、きのう7月14日の各紙が一面トップで一斉に大報道したことについて、その日の定例記者会見で風岡典之宮内庁長官がこの報道を全面的にした。

 すなわち「具体的な制度についてお話になられた事実はない」とし、「従来陛下は憲法上のお立場から、制度について具体的な言及は控えてる」と繰り返し、生前退位のお気持ちの有無については「活動の中でいろいろなお考えをお持ちになることは自然なこと」としながらも、「第三者が推測したり解説したりするのは適切ではない」と話したというのだ(7月15日毎日)

 風岡長官はまた、生前退位を前提に宮内庁が官邸と相談や検討を行っている事実もないと説明したという。

 これを要するに7月14日の報道を全面的に否定したのだ。

 これは衝撃的で異例な記者会見における発言だ。

 しかし、宮内庁長官がここまで否定したにもかかわらず、メディアはこの発言を無視するかのように、きょうも天皇陛下が「生前退位」の意向を示された事を前提に、あらゆる論評や特集記事を書いている。

 これもまた異様だ。

 ふつうなら、誤報だったのではないかという声が聞こえて来てもおかしくない。

 ふつうなら、このような情報をメディアに漏らした者は誰だと騒ぎ、その犯人を突き止めて責任を問うことになるのに、一切その動きが無い。

 これも異例で異常だ。

 もし風岡宮内庁長官の否定発言が安倍政権と通じてなされたものなら、マッチポンプだ。

 しかし、私にはそうは思えない。

 風間宮内庁長官は、官邸筋から突如として意図的に流された「生前退位」御意向について、天皇陛下の御心を代弁して不快感を持って抗議したのではないか。

 もしそうだとすれば大事件だ。

 ここまで異例で異様な、突然の天皇陛下「生前退位」意向表明の報道であるのに、おそらく、真相があきらかにされないまま、この問題は沈静化していくに違いない。

 なぜならば皇室典範の改正を含めた皇室制度の作業は慎重を要し、いますごどうこうしなければいけないと言う問題ではないからだ。

 この問題が、このタイミングで、大々的に報道されただけで、その効果は十分に達成されたのだ。

 この国は危ういかもしれない(了)


さらに、植草一秀氏は、自身のブログ「植草一秀の『知られざる真実』」において、この生前譲位説という報道の流布自体が、都知事選における野党の候補が一本化され、野党の共闘が実現したという事実を覆い隠すためのものであったと述べる。宇都宮健児氏が下りて、鳥越俊太郎氏が候補となったことには色々な受け止め方があるが、今はそれは本題でないので脇に置いておく。
 

狼狽する安倍一族の野党統一候補攻撃に御用心
2016年7月15日 (金) から一部抜粋

この都知事選で安倍自公勢力は致命的な失敗を犯した。

自公勢力から2名の候補者が出馬してしまった。

対する反・安倍自公勢力は、ぎりぎりまで候補者の一本化が実現するか、不透明だったが、ぎりぎりのところで、宇都宮健児氏が大英断を下し、見事に候補者一本化に成功した。

NHKが天皇の生前退位報道を行ったのは、反・安倍自公陣営が候補者一本化を決定した直後である。

このニュースのインパクトを弱めるために、このタイミングで表に出したのだと推察される。

NHKの堕落、権力迎合は目に余る。

放送受信契約の任意制への移行が急務である。

それほどまでに、野党の候補者一本化の衝撃は大きいはずである。

インターネットの有力ポータルサイトでは都知事選報道の伝え方が偏っている。

ポータルサイトを運営する大手情報通信業者が政治権力側に位置しているから、ニュースを伝える際に徹底した作為的調整を施している。

偏向しているのはマスメディアだけでなく、インターネット上の情報も強く操作されている。

マスメディアが偏向しているから、ネットから情報を入手すれば良いのではない。

ネットのなかから、良質な情報を選別し、そのパイプから情報を得ることを意識して実行することが重要である。


さらに先日、引用したあいば達也氏もやはり生前退位説の情報の出所を疑っており、これは官邸を中心に周到に練られた陰謀のような計画であったとの見方が強いことを指摘している。以下は「 世相を斬る あいば達也」から抜粋。

●天皇”生前退位”発信源は? 天皇側、官邸側、侃々諤々

 
天皇陛下が日本国憲法で「象徴天皇」である立場を強く意識なさっていることは、我々国民も、十二分に理解し、そして、多く人は、今上天皇を尊敬又は愛している点に異議を申し立てる人は少ないだろう。たしかに、象徴天皇になられてから、長い年月が過ぎたので、天皇に対して、何らの感慨も抱かない国民が散見しているのも、事実の一部だろう。ただ、政府や政権、首相を憎むものが数多いるとしても、「今上天皇」を積極的に憎悪する国民は、まず居ないと理解している。1億分の50人くらいは存在するだろうが、ゼロの範囲だ。

今回の、天皇の“生前退位”に関する情報も、関係者は状況証拠の積み重ねで、そのような空気が皇室にあることは薄々知っていた。しかし、それを公にすると云った行動に出るものはいなかった。週刊誌や月刊誌が、皇室のゴシップ的記事や、今上天皇や皇太子ご夫妻へのバッシング的記事は、あちらこちらで散見していた。概ね、潜在的に、現在の皇太子への誹謗中傷を謹言などと称して、悪口を言いはなっている記事などもあった。今上天皇と現皇太子は、憲法に定められた国事行為のみを行い、政治的発言は禁止されている。天皇陛下は、即位後朝見の儀で「日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と言及した。当然、その後も一貫して憲法上の立場を貫いているいるわけだ。

当然、天皇の地位を受け継ぐ、皇太子も、日本国憲法を守り、これに従うことも継承するわけだから、軽々な態度はとれない。秋篠宮殿下のように、気軽な皇室の立ち位置ではない。つまり、どれ程、誹謗中傷や根も葉もない情報を流されても、「反駁」出来ない立場にいる。考えてみると、日本国民が辛うじて持っている「個人の権利、人権」それすらも、完璧に持っているとは言い難(い)。つまり、反駁権のない人に対して、批判、誹謗や噂話(ゴシップ)を垂れ流すと云うのは、卑怯奇天烈な行為なのである。後半に、参考引用の形で、NEWSポストセブンの記事を二つばかり掲載するが、天皇や皇太子は、叩かれるのみで、避けることさえ出来ない。

安倍政権においては、定められた国事行為でもないのに、2013年4月には、「主権回復の日」なんちゃって式典を、お得意の“閣議決定で”催し、天皇皇后両陛下の出席を無理強いした。あきらかに、安倍政権の天皇の政治利用をまざまざと見せつけられた記憶がある。この式典においては、自然発生なので止めようがなかった等と白々しい言い訳をしながら「天皇陛下万歳」を三唱したのだ。天皇皇后両陛下は、その万歳の声から逃れるように会場後にした。NHKや政府発信の動画では、この陰謀の象徴である「万歳三唱」は消されていた。

筆者は、安倍日本会議及び経済界が「憲法改正」に、殊のほか“前のめりになっている”と理解している。安倍日本会議は情緒的明治回帰であるし、経済界は、経団連、同友会等々、「国民の権利の制限」は大歓迎だ。今回の、籾井NHKがリーク報道したわけだが、「政府関係者、或いは宮内庁関係者」と曖昧な表現になっている。そして、13日、夜19時にNHKがスクープしたことになっているが、14日の朝刊各紙は、予定稿が完璧に準備されており、「予定調和リーク報道」と断定して良いだろう。でなければ、あそこまでの紙面は作れない。新聞記者が、そこまで有能なら、日本の新聞はもっと上等のものになっている(笑)。

NHKのリーク報道が、我々が知る「天皇生前退位」に関する第一報だが、官邸を中心に、念入りに練られ、仕込まれた経緯が窺える。天皇のご意思優先と云うよりも、政権や既得権益勢力の「憲法改正の垣根を低くする」作業の一環と考える方が理に適っている。NHKを皮切りにして、特に、この「天皇生前退位」報道に血道を上げているのが、産経、読売ではなく、日経新聞と云う点だ。葉山の御用邸で静養されている最中に、“天皇陛下生前退位の意向”の大見出しで、1面2面3面ぶち抜きなのだから凄い。これらの報道経緯を見る限り、政府中枢の意向がなければ、安倍強権官邸相手に挑戦的な報道が出来る筈もない。

以上のように論考してゆくと、やはり、政府、経済界、言論界などの既得権益勢力による、「閣議決定集団的自衛権容認」同様に、またまた、血を見ぬクーデターだと、100年後の歴史の教科書に載っているかもしれない。皇位継承と云うもの、極めて属人的なものだけに、常に、その継承には不確定要素が含まれている。事例は宜しくないが、現在の皇太子が雅子妃と死別乃至は離婚なさったとして、次の婚姻で、男子が誕生すれば、秋篠宮、その子が、皇位を継承する企ては胡散霧消する。このような事態を忌避する、何らかの手立てを、安倍日本会議が考えている可能性がある。現時点の解釈では60%の確度だとしか言えない。 (以下略)


さらに、「くろねこの短語」でもこのニュースに対する世間の疑いの声があけっぴろげに綴られている。さらに、この記事では、はっきりと情報の出どころが官邸であったことが公表されていることが指摘されている。
  
「都民の生活を守るために原発必要」(元東電社外取締役・増田寛也)。さすが原子力村推薦候補だけのことはある&ひょっとして、天皇の生前退位と改憲はリンクしている!?

2016年7月15日 (金) から一部抜粋 

 ところで、天皇の生前退位なんだが、どうやら官邸筋がリークしたんじゃないかと噂がある。でもって、6月には極秘のチーム設置して、政府は検討を始めてたそうだ。しかし、なんで極秘だったんだろう。小泉政権時代に女帝を認めるかどうかで、やっぱり皇室典範改正の動きがあった時には、ハナから公に有識者会議なんか開いて、けっこうオーブンに議論してたのに、今回は極秘のチームって、何それってことだ。

 
しかも、官邸筋からのリークってのが胡散臭い。生前退位は天皇自らのご意向と報道されているけど、妄想しまくれば、ひょっとしてその裏には何らかの圧力がありやなしやってなもんです。そもそも、皇室察典範で生前退位が定められていないのは、時の権力による恣意的な退位を回避するためという理由もあると聞く。であるならぱ、今回の騒動が官邸筋からのリークというのも、なんとなくうなずける。つまり、参議選挙で改憲のための3分の2も握ったことだし、平和主義の天皇ご退位の世論を喚起しようって悪知恵働かせた奴がいるんじゃないのかねえ。

 
ようするに、生前退位と改憲がリンクしているような・・・でなけりゃ、政府高官筋ってのが「そんな簡単な話ではない。戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」なんて物騒なことをほのめかすわけないと思うのだが・・・真相やいかに

安倍政権が極秘に皇室典範の改正を準備!首相官邸の皇室典範改正準備室が動き出す!「戦後の議論がすべてひっくり返る」


さて、以上で示されているリンクを辿って、日テレNewsの報道を開いてみると、確かに今回の生前退位説の報道は、政府筋(官邸)が準備した上で、政府筋からリークされたものであろうとの見方がほぼ確定的になる。官邸は、安倍首相を中心として、政府内でさえ秘密裏に、皇室典範改正準備室なるものをすでに作っていたのである。しかも、このタイミングになるまで、準備は極秘に進められていたのだということが、堂々と公言されている。
  

政府 極秘に皇室典範の改正を準備
日テレNews24 2016年7月14日 10:49



天皇陛下が「生前退位」の意向を持たれていることが明らかになった一方で、宮内庁や内閣法制局の皇室典範改正準備室の態勢が強化され、法改正などの準備に入っていたことも明らかになった。政府内でも極秘とされ、限られた人しか知らされていなかったという。


(以下はニュース音声から文字起こし全文)


総理官邸の皇室典範改正準備室が 密に必要な法改正などの準備に入っていることが明らかになりました。

政府関係者によりますと、宮内庁や内閣法制局に勤務経験がある10名ほどの官僚から成る皇室典範改正準備室の態勢が強化され、すでに法改正などの準備に入っていたということです。

一方で、この動きは極秘とされ、政府内でも限られた人しか知らされていなかったということです。

政府高官は、皇室典範の改正について、「そんなに簡単な話ではない。戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」と述べて、難しい調整になるとの認識を示しています。


このニュースは、伊勢志摩サミットの際に安倍首相が一方的に公言した「世界経済はリーマンショック前に酷似している」との資料の出所が、官僚にさえも明白でなかったように、安倍氏が自らの権力にものを言わせて、事実上の政府内政府を作っていること、つまり、すでに国会も、官僚の大半でさえも、安倍政権の主要な政策決定の蚊帳の外に置かれており、現政権の政治的に極めて重要なイベントのほとんどが、国会での議論を経ず、官僚にも知らされないまま、安倍氏を取り巻くごく一部のブレーン、安倍氏が秘密裏に組織する少数の指導的集団だけに予め知らされ、彼らによってのみ、密室で決定され、残りの官僚や国民には、すべてが決定後に知らされて、それが既成事実化されていくという秘密体制が作られていることを示している。

これは安倍首相による政府内政府の組織、もっと言えば、政府の乗っ取りを示すものであり、皇室典範改正準備室だけでなく、他の事柄についても同様に、安倍氏が事実上の「影の政府」を作って、すべての物事を不透明に国民の目から隠しながら準備を進めていることを意味する。

今回は、一体、天皇の生前退位説の情報源はどこなのか、疑惑が隠しおおせないところまで来てしまったので、ようやく遅ればせながら、情報のリーク元は政府ですよと、政府が自ら名乗り出たわけであるが、それにしても、「極秘に進められて来た」とニュースが公言していることからも分かるように、もはやこのような秘密結社のような非公認の組織が、国の根幹に関わる重大問題を密室で決めようとしていること、官僚までもほとんどが蚊帳の外に置かれ、政府も国会も、政策決定から置き去りにされていることを、安倍氏が隠すつもりさえないことを意味する。

今や安倍氏を取り巻くほんの一部の人間だけが、最も重大な政策を決めており、国会も政府も国民も完全に置き去りで、安倍氏の作った秘密結社のような組織の密室での決定だけが、この国の命運を左右する決定権を持つものであると、官邸は国民の前に公言するまでに至ったのである。

このように公に認可されていない秘密結社のような組織を作り、国民の99%以上を蚊帳の外に置いて、ほんの一部の少数者のみで、密室で物事を決めて行こうというやり方は、現政権の危険な独裁とクーデターの精神を何よりもよく物語る、あまりにも信用ならない卑劣な手段であって、今や安倍氏と同氏の選ぶほんの少数の不明な人間だけが事実上の政府となって暗闇のうちに動いているというのは、大変に、いや、あまりにも恐ろしいことである。
 
今回の天皇の生前退位説によって、安倍政権の秘密決定の手法が、すでに皇室というレベルにまで及んでいることが明らかになった。他は推して知るべしである。このような恐るべき不遜かつ危険かつ不透明な権力の濫用、大胆不敵かつ姑息で傍若無人な振る舞いが許容されてしかるべきなのか、多くの国民は考えなければならない。政府や官僚も、このことに重大な危機感を覚えなければならない。
  
少数のエリートから成る秘密結社のような集団を用いて国全体を牛耳ろうとする手法は、これまでクーデターを企てた革命家とテロリストとカルト宗教に共通して見られたものであり、レーニンは少数精鋭のエリートによって革命が指導されるべきであると唱え、一般労働者大衆を存分に利用して革命を成し遂げながらも、革命成就後も、ボリシェヴィキという名とは裏腹に、常に少数精鋭の指導集団だけが権力を握って、大衆を組織しなければならないと説いた。

さらに、当ブログでその危険性を幾度も訴えて来た統一教会出身の村上密という牧師も、自らの教団の枠組みを超えて、キリスト教界全体の権力を掌握するために、以上の人々と同じ手法を使ったのである。村上牧師は、密という名前が示している通り、教会内人事を密室で動かし、自らに盾突く人間を秘密裏に追放するなど、重要な物事を公の議論を経ずに密室で決定して来た。さらに、カルト監視機構の設立を訴えて、この監視機構に属する少数の専門家集団が、キリスト教界のみならず全宗教界を監視し、上から取り締まることを提唱し、この構想が実現せずに失敗に終わった後も、支持者を組織して秘密裏に同様の組織を作り、インターネット監視などに乗り出して、クリスチャンを自らの統制下に置こうと試みて今日に及んでいるのである。

このように、常に密室で自分の取り巻きや支持者だけを使って秘密裏に物事を決めることによって、人の目に知られない形で権力を自分に集中させて行き、開かれた議論を避けて反対を予め封じ込め、反対者を暗闇で追放し排除しながら、自らの思い通りに物事を暗闇で進めて行こうとするやり方は、多分、統一教会の常套手段なのであろう。村上密氏はそれをキリスト教界に持ち込んだのであるが、現在も統一教会と関わりのある安倍首相は、ちょうど村上密牧師を規模を大きくして宗教から政治の世界に転身させたような人物であり、どちらも統一教会流の危険な思考パターン、独裁と密室での政策決定という手法を共通して保持している様子が伺える。

むろん、こうした秘密決定の手法は、統一教会の専売特許ではなく、すでに書いた通り、それ以前の昔から、テロリストと革命家が既存の政治秩序を転覆させて、権力を掌握するために使って来た常套手段なのである。安倍氏がこれまでに常に用いて来たのは、このクーデターの精神と手法なのであり、今回、政府高官でさえも、「戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」と、腰を抜かしているような、天皇の生前譲位説という極めて重要な政策決定についても、安倍氏はこれを自分だけの一存で国民(と政府)をよそに密室で決めようとして来たわけであるから、これは事実上の国の乗っ取りであると言って過言ではない。

こうした情報を受けると、ますますもって今回の生前退位の報道が、天皇自身の本意であるとは信じられない。もし生前退位が今上天皇の意向なのだとすれば、必ず、天皇自身が自ら会見を行うであろう。だが、現時点で、すべてはその逆の方向を向いており、この報道は、天皇陛下が直接、国民に意向を説明するという開かれた形を取るどころか、これまでずっとそれが国民を欺く形で、官邸によって秘密裏に準備され、決定されていたことを明らかにするものなのである。

にも関わらず、これほど信用ならない報道を未だに「安倍政権による改憲を阻止するための天皇陛下の英断」などと言って喜んで受け止めている人々は、まやかしを信じ、叫んでいるのである。国民は、皇室典範の改正という問題を議論するに当たり、安倍氏によってここまで自分たちが裏切られ、蚊帳の外に置かれていたことに憤慨すべきであり、国民だけでなく、政府も、国会も、この密室での決定に大いなる疑惑と不満と抵抗を示すべきである。

安倍首相は、このように全く信用ならない、自身の権力掌握にしか関心がなく、そのためならば、手段を選ばず、嘘にも無法にも何の良心の呵責も覚えない、野望に満ちた人物であるから、天皇陛下に憲法上の立場からこの問題についての発言権がないのを良いことに、天皇自身をも欺いて蚊帳の外に置く形で、今回の報道を準備して来たのであろうとしか考えられない。

こうして、どこまでも自分以外の全ての人間をよそにして、腰巾着のような御用メディアと一部の取り巻き連中だけを走狗として、すべてを秘密裏に、密室で自らの思い通りに進めて行こうというのが安倍氏のやり方なのであり、その手法はこれまで同氏が行って来た解釈改憲も含めた全ての抜け駆け的・違法な政策決定により、すでに十分に明らかになって来た。

今回のことは、そんな安倍氏の独裁が我が国ですでにかなりの程度、進んでおり、もはや皇室までも、安倍氏に乗っ取られようとしていることをはっきりと物語る事実である。御用メディアにはもう抵抗する力はない。それが天木氏が「この国は危うい」と述べている根拠である。

安倍氏とは、一体どこから来た人間なのか、突き止められる必要がある。ただ岸信介の孫としてA級戦犯とされた祖父と自らの血筋の名誉回復のために、敗戦によって敗れた勢力を復権させることを悲願としているというだけでなく、また、統一教会や日本会議を含めたカルト宗教とのつながりだけでなく、安倍氏を動かすイデオロギーそのものが何であるのか、その正体と今後の計画がさらに徹底的に明るみに出されなければならない。 この人物が暗闇で行っていることは、すべて明るみに出されなければならない。破綻しているアベノミクスを推し進めれば我が国は滅亡するというだけではなく、戦争に突き進めば多くの犠牲が出て国土が荒廃するという危険のためだけでもなく、この人物はもっとさらに深く危険な人間であり、その危険性が徹底的に明るみに出されねばならず、このような人物に国民は決して権力を与えてはならないのである。


宮中クーデターを狙う安倍政権の危険な思惑が垣間見えるような天皇の生前譲位説というデマ

・現政権は、壊憲クーデターだけでなく、宮中クーデターも狙っている? 天皇の生前譲位説という虚偽報道に見る「男系男性天皇」(のみ)を誕生させたい人々の危険な思惑

天皇の生前譲位という、降って湧いたようなニュースが突然、参院選が終了した直後から各メディアを騒がせているが、以下に示すように、それには本当に根拠があるのかどうか、極めて怪しい。むしろ、安倍政権側の人々が、自らの政治イデオロギーにとって好ましくない今上天皇が、自らの悲願である改憲の妨げになっては不都合だとばかりに、御用メディアに命じて譲位を既成事実であるかのように流布したデマの可能性が否定できないように思う。

それに加えて、あいば達也氏が、以下で引用する通り、このニュースには秋篠宮家と深い関わりがありそうだと推察している。筆者もこの点については同じ違和感を覚えている。

安倍政権を動かしているのはクーデターの精神である。彼らは必ず全ての行動において下剋上・秩序転覆を行うし、実際にそうして来た。まず、彼らは最高法規である憲法を尊重しないことによって、憲法遵守義務違反を犯し、自分たちがどんな規定にも縛られることなく、最上位の存在であるかのように振る舞って来た。そして解釈改憲を行って憲法の意味を骨抜きにし、今や、後付けで憲法の都合の悪い部分は全て排除して、これを自分好みに変えてしまおうと画策している。

解釈改憲は、その時点で、すでにクーデターだと言われて来た。こうして彼らは最高法規の意味を徐々に骨抜きにすることによって、憲法に対する自らの度重なる違反を正当化し、国家神道や軍国主義の復活を目指して来たのである。すでに文民統制を覆し、制服組の優位を確立しようとしている。他にも、彼らの秩序の転覆、法律の文言の毀損、意味や説明の捏造、歪曲、「裏口入学」の手口は枚挙に暇がないが、これらすべては戦前回帰のためになされていることであり、歴史を逆行させて、敗戦によってすでに決定的に敗れたはずの勢力を再び復権させて「名誉回復」させようと狙う動きなのである。

こうして、現政権が常に公の秩序・規定を骨抜きにし、ないがしろにして、黒を白とし、白を黒としながら行動して来たのは、ただ単に戦前の財閥の復興などといった目先の目標を超えて、その背後に、グノーシス主義的な反逆の霊に由来する危険な宗教思想があるためである。

グノーシス主義とは秩序転覆の霊であり、その起源は、聖書の御言葉に反して悪魔が人類に吹き込んだ偽りの思想にあるが、この思想の最終目的は、まことの神を追放して、人間を神の座に据えることにあり、それこそが、神に対する人類の究極のクーデターであり、すべての異端思想が共通して目指す最終目的なのである。

すなわち、人類を一致させて神への反逆に駆り立てることにより、天まで届く塔を建設し、自ら神に至ろうというのが、人類の神に対する反逆の思想の本髄なのであり、KFCの分析でも示したように、今やキリスト教でさえすでにこうした反逆の思想の牙城となってしまっている実態がある。ましてや統一教会のようなキリスト教の異端は何をかいわんやである。

いずれにしても、このグノーシス主義という思想は、有史始まって以来、絶え間ないクーデターを引き起こして来た。もともと独自の神話を持つ宗教ではない哲学的思想なので、どんな宗教にでも形を変えて入りこみ、キリスト教にも公然と入りこんで聖書の御言葉を毀損・歪曲し、骨抜きにしながら、聖書の秩序を転倒させてこれを真逆にする悪魔的な秩序をもたらそうと画策して来た。

安倍政権は、創価学会のみならず、統一教会とも深い関わりがあると言われているが、日本会議の支持団体には、キリストの幕屋などを含む、キリスト教の異端団体も数多く名を連ねている。そうである以上、こうした人々がグノーシス主義のクーデターの霊に憑りつかれているというのは、単なる憶測や、杞憂のレベルだとばかりは言えないだろう。

たとえば、『日本会議の研究』で知られる菅野完氏の記述がある。
  

日本会議に集まる宗教団体の面々――シリーズ【草の根保守の蠢動 第3回】
HARBOR BUSINESS Online
2015年03月11日 から抜粋

日本会議本部の役員に名を連ねる宗教団体関係者たち


 日本会議側も宗教団体との関係を特段否定するわけでもない(※1)。WEBに公開されている日本会議の役員名簿(http://www.nipponkaigi.org/about/yakuin)をみてみよう。表1は、この役員名簿を元に、筆者が作成したものだ。

⇒【画像】はこちら http://hbol.jp/?attachment_id=28321


表1:日本会議役員名簿(宗教関係者を筆者が編みかけした)

 この名簿をみると、顧問から事務局長まで、役員総数62名のうち24名が宗教関係者によって占められていることがわかる。役員の三分の一以上が宗教関係者という計算だ。日本会議は極めて宗教色の強い団体であると言えるだろう。

<中略>

日本会議に集まる宗教団体の多様性


 ここで改めて、どのような宗教団体が日本会議に参加しているかを、団体名ベースで見てみよう。表2は日本会議本部の役員名簿や日本会議の地域組織の役員名簿からよみとれる宗教団体を一覧にしたものだ。

⇒【画像】はこちら http://hbol.jp/?attachment_id=28322


表2:日本会議への参加および日本会議内での活動が確認されている宗教団体一覧


 この表でとりわけ目に付くのは、仏所護念会や霊友会など、明治以降に生まれた、いわゆる「新宗教」とよばれる宗教団体の比率の高さだ(※3)。また、神社神道系 教派神道系 新教神道系 仏教系 諸教系と、実にさまざまな宗派にまたがるという点も特徴的といえるだろう。

(以下略)

菅野完氏は、一見バラバラのように見えるこれらの宗教団体の結びつきの原点が、生長の家原理主義にあることを調べ上げている。生長の家原理主義とは、もともとは「生長の家」の谷口雅春の教えを出発点としながら、70年安保で左翼に対抗した右翼民族派・生長の家学生運動の出身者を指す。
 
上記のリストには統一教会は含まれていないようであるが、安倍首相と深い関わりのある統一教会が日本会議と無縁であるはずがなく、さらに生長の家原理主義の学生運動は、思想的には、統一教会の組織する国際勝共連合とも重なるものがあり、ここにリストアップされていないのは、無関係だからではなく、かえって統一教会がこれらの宗教団体の上に立つ指導的存在だからではないかと思われてならない。

こうした宗教団体は、ただ「共産主義の脅威に対抗する右派」という軸によって結び合わされているだけでなく、キリスト教に対抗するグノーシス主義に由来する(多くが新興の)宗教である。グノーシス主義的特徴とは何かと言えば、生長の家がそうであるように、生まれながらの人間を「神」(神の子)に祀り上げ、人間を神聖な存在、すなわち、現人神であるとみなす思想である。つまり、これらの宗教団体はみな「現人神」を信じる信仰という接点を持っていることが挙げられる。

筆者は菅野氏の著書に目を通していないが、苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳の記事に、日本会議に関わる宗教団体の概略が記されているので、そこから引用する。
 

記事「菅野完『日本会議の研究』・・・生長の家原理主義者たちがその中核
2016-05-17 より抜粋

 日本会議なるものの中核が、生長の家原理主義者たちだという事実を克明に世に示したこの本は出版取りやめになるのでしょうか?微妙なところだと思います。とにかく、この実態が知られることは、日本会議にとってはとても不都合なことのようです。
 本書で紹介される中心人物たちが、こちらに紹介されています。

http://joe3taro.com/?p=1327

2.日本会議の組織力・動員力・・・諸宗教団体

 組織ということでいうと、日本会議の組織力・動員力の源泉として、筆者は、通常教えの違いからまとめにくいはずの、もろもろの宗教団体をまとめていることを指摘していました。日本会議が彼らをまとめるキーワードは、<皇室中心、改憲、靖国参拝、愛国教育、自衛隊海外派遣>といったものです。

 日本会議にかかわっている宗教団体のリストには以下の名があります。

神社本庁、伊勢神宮、熱田神宮、靖国神社、明治神宮、岩津天満宮、黒住教、オイスカインターナショナル、大和教団、天台宗、延暦寺、念法真教、仏所護念会教団、霊友会、国柱会、新生儒教教団、キリストの幕屋、崇教真光、解脱会、モラロジー、倫理研究所。・・・おそらく、これらの諸団体の信者たちは、自分たちがこんなにいろんな宗教といっしょに巻き込まれて運動しているのだということを知らないのではないかと思われます。


さて、本題に戻れば、以上のような宗教思想の信者らで8割以上が占められているという現政権とそれを支える宗教勢力が、皇室についても、必ず、自らの統制下に置くことを目指していないはずがない。何しろ、彼らにとっての皇室とは、彼らの政治・宗教的イデオロギーをまさに体現する最も重要な象徴なのである。

だが、その思想的特徴から察するに、彼らは決して現在の皇太子を尊重しないはずである。

おそらく、現政権、特に安倍首相には、皇太子(徳仁親王)を飛び越して、この先、第二皇子である秋篠宮文仁親王にスポットライトを当てようとするプランがあって、今上天皇から直接、第二皇子に皇位継承権を渡すか、もしくは、ゆくゆくは秋篠宮家の男児悠仁親王を天皇の座に据えるという計画を準備しているのではないかという推測さえも生まれる。

仮にその推測を脇に置いたとしても、少なくとも、今上天皇の憲法擁護の姿勢と、平和主義が国民の心に深く訴えかけるので、このような人物が天皇であり続けることは、現政権にとって好ましくなく、改憲(壊憲)の妨げになる可能性があるため、国民投票までには退いてもらいたいという思惑があるのではないかということが容易に推測できる。

そのような思惑があってこそ、天皇の生前譲位説というものがまるで既成事実のように報道されているのではないか。従って、早合点は禁物である。宮内庁がこの報道を全面否定している様子からは、肝心の今上天皇のことばが、何者かによって捏造されて伝えられている可能性をが高い様子が伺える。

しかも、天皇の生前譲位説を報じた第一報がNHKであったというから、ますますその信憑性は怪しまれる。公共放送でありながら、NHKが今回の参院選でも、ほとんど選挙に関する報道を控えていたことはすでに多くの場所で公に指摘され、非難されている(たとえば、ハフィントンポストの記事「参議院選挙への無関心はテレビのせい!?と言えるワケ」投稿日: 2016年07月11日 16時14分 JST   更新: 2016年07月11日 16時45分 JST を参照。)

こうした報道の自粛が誰を利するのかを考えれば、事の次第は一目瞭然であり、投票率が低くなれば助かるのは政権与党であるから、NHKが政権与党の側に利益となるよう便宜を図らって報道を自粛したという推測は免れることができない。そのようなNHKが第一報であるから、天皇の生前譲位というのは、余計に信用できないニュース、いや、ニュースというよりも、誘導記事ではないのかと受け止められる。

以下、宮内庁は新聞雑誌の報道を全面否定しているという朝日新聞のニュース。
 

宮内庁次長は全面否定「報道の事実一切ない」 生前退位

2016年7月13日21時50分

宮内庁の山本信一郎次長は13日夜、NHKが最初に生前退位について報じた後に宮内庁内で報道陣の取材に応じ、「報道されたような事実は一切ない」と述べた。宮内庁として生前退位の検討をしているかについては「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していません」と語った。さらに「(天皇陛下は)制度的なことについては憲法上のお立場からお話をこれまで差し控えてこられた」とも話した。

さらに時事ドットコムの以下のニュースは、さらに踏み込んで、天皇自身は憲法上の立場から、自分がいつ公務を退くかと言ったことを自分で決断できる権利を有していないのだから、従って、そのような発言を行う理由が存在しないと述べている。今上天皇はいかなる場合も、憲法を尊重し、その規定を超えるような私的解釈に基づく行動を取ってこなかったわけであるから、これは非常に説得力のある説明である。
「そうした事実一切ない」=宮内庁幹部は報道否定-生前退位
時事ドットコムニュース (2016/07/14-02:26)

天皇陛下が天皇の地位を生前に皇太子さまに譲る意向を宮内庁関係者に伝えられたとの報道を受け、同庁の山本信一郎次長は13日夜、報道各社の取材に応じ、「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた」と否定した。

天皇陛下が生前退位の意向=数年内、周囲に伝える

 午後8時半ごろ庁内で各社の取材に応じた山本次長は、「陛下が生前退位の意向を宮内庁関係者に示されたという報道があったが、そうした事実は一切ない」と繰り返し強調。「長官や侍従長を含め、宮内庁全体でそのようなお話はこれまでなかった」と話した。
 記者からは皇室典範改正の可能性についても質問が飛んだが、「皇室典範や制度にわたる問題については内閣や国会で対応するものだ」とコメントを避けた。静養のため葉山御用邸(神奈川県葉山町)に滞在中の陛下の体調については「お変わりなくお過ごしだ」と説明した。
 深夜に取材に応じた同庁の風岡典之長官も、同様に報道内容を否定。「(皇室の)制度については国会の判断にゆだねられている。陛下がどうすべきだとおっしゃったことは一度もなく、あり得ない話だ」と述べた。


そこで、今上天皇が語らなかった「ことば」が、あたかも天皇のことばのように公に流布されている背景には、今上天皇をできるだけ早く譲位させたいとする人々の思惑が強く働いていることを感じさせられるため、非常に空恐ろしい物騒なものが感じられてならないのである。

さらに、その人々は、今後、一体、誰に皇位継承権を与えようと願っているのか? 

筆者には、それは皇太子ではないように思われてならない。あいば氏が、報道内容が秋篠宮をクローズアップするものであることに注意を払っているのと、全く同じ危惧を筆者も感じている。

すでに述べた通り、安倍政権を動かしているのはクーデターの霊である。従って、彼らは皇位継承手続きをも都合の良いように乗っ取ってしまい、決してしかるべき秩序に基づいて行う気はないのではないかという予感が筆者にある。

特に、これまで敬宮愛子内親王を無視する形で繰り広げられて来た”佳子さまブーム”なるものの奇怪なども合わせると、その予感は強まる。今回の「誤報」もまた、秋篠宮家にスポットライトを当てるための一環ではないかという予測が生まれるのである。
 
つまり、ある人々が、皇太子一家を無視するか、これを飛び越えて、秋篠宮家に国民の注意を向けようとしているのである。何よりも、そこにある意図は、男系男子の皇位継承しか認めたくない人々が、何が何でも女性天皇の誕生を阻止するために、そのような目的での皇室典範の見直しを退けて、敬宮愛子内親王を退けて、悠仁親王を将来的な天皇に担ぎ出したいという決意を以前から固めており、そのために、皇太子を退けて秋篠宮家に国民の関心を移していこうと徐々に画策しているのではないかと見られてならない。悠仁親王はまだ幼く、思想的な立場が固まっておらず、特定の政治勢力が自分に都合よく傀儡に育てようと考えるなら、格好のタイミングであると言えよう。

筆者の考えでは、現政権に関わる人々は、皇室尊重と言いながら、実際には、全く皇室を尊重などしておらず、天皇をただ自らの政治的野望をかなえる手段としか見ていない。

歴史を振り返っても、都合よく操り人形にできそうな人物や、あるいは子供(少年・青年)を形式上だけ国家元首としての天皇の座につけておいて、あとは政治勢力が好き放題、やりたい放題に国を牛耳ろうという考えは、今に始まったものではない。
 
皇太子と秋篠宮との間には、以前から、それなりの確執があったとの報道もあり、また、雅子妃に対する執拗なバッシング報道がずっと続いて来たことを考えても、そこには、将来的な皇位継承権を、敬宮愛子内親王には渡したくないという思惑が、強く働いているのではないか、できる限り、皇位継承権を皇太子一家から遠ざけたいという思惑が実際に存在するのではないかという推測が成立するのである。

それにしても、もし天皇陛下のことばさえも捏造されて報道されているのだとすれば、もはや我が国は乱世のようなものである。一体、現政権は何なのであろうか。安倍氏の「立法府の長」発言もそうであるが、彼は全能の神になり代わったつもりなのであろうか。選挙前には「参院選の争点はアベノミクス」と言って、すでに世界的に破綻が明白となっているアベノミクスを「道半ば」とうそぶいて掲げ、選挙が終わると、「改憲勢力3分の2を得た」と突然、口調を変えて、改憲に突き進む意欲を見せるというのも、現政権ならではの極めて姑息なやり方である。さらに、ここに来て、突然のように、今上天皇の生前譲位説が飛び出して来たのも、彼らがやがて天皇を「神」として国家神道を復活させることへの並々ならぬ決意を、もはや隠し立てなく表明し、皇室さえも牛耳り、自分たち好みの天皇を立てるつもりだという決意を表明したものでなくて何であろうか。ちなみに、今回の選挙も、おそらくは、ムサシという特定の会社が牛耳る開票マシーンによる不正操作の結果であり、まるで民意を反映していないという推測は、随分前から、ネットではほぼ定説となっている。

選挙結果の操作は時代を超えて権力者の常套手段であり、現代にだけは、それが行われないなどと考えるのは、あまりにも子供じみた楽観的な発想である。
 
こうして、参院選でも勝利を得たことにしてしまい、それに勢いを得て、現政権は、自分好みの「国家元首」立ててそれを「神」に祀り上げ、全国民に跪拝を要求するという「悲願」に向けて、道を整え始め、いや、暴走を始めたように見える。それが安倍首相の言う「この道」の意味するところである。

彼の言う「この道」とは、結局、人間に過ぎない者を現人神に祀り上げて、全人類に跪拝を要求しようとする偽りの宗教に他ならない。経済政策などは、ペンテコステ運動の「繁栄の神学」と同じく、人々の関心を掴むためのきっかけに過ぎず、その思想の本質ではない。現政権のイデオロギーの本質は、「救国」すなわち、人間のあらゆる弱点につけこみ、「救済者」に名を借りた人心の完全な掌握と支配を行うこと、すなわち、独裁を打ち立てることにある。
 
 世相を斬る あいば達也 記事天皇の譲位意向報道 籾井NHKの特ダネ“陰謀”の臭いも?から抜粋

●天皇の譲位意向報道 籾井NHKの特ダネ“陰謀”の臭いも?

今夜も、時間がないと云うのに、NHKのすっぱ抜き“特ダネ”のような形で、天皇が生前退位に関して、ご希望を述べられた云々と云う、情報源を「関係者によると」と曖昧にした状態で、日本中、否、世界中を驚かせた。この天皇の地位継承問題は、様々な問題を含んでいるので、ひと口に理解しきれない。今夜は、時間の都合上、嫌に、天皇の生前退位問題に前向きな報道をしているのが、籾井のNHKと産経新聞、日経新聞だと云う事実と、その報道している内容を羅列するにとどめる。


上述の報道機関が、前のめりで報道していると云う点を、先ずは「重視」すべきだ。このNHK、産経新聞、日本経済新聞の三社が酷く積極だ。このことは、酷く重要であり、警戒すべき点だ。安倍政権及び日本会議勢力に取って極めて親和的報道各社であることを、我々は、大前提として、考えるとか、感じる前に、念頭に置くべきである。改憲勢力が、衆参両院の2/3議席を制し、今後は「憲法審査会での議論だ。叩き台は、自民党の壊憲草案だ」と平然と抜かした安倍首相の「改憲願望」と非常に深くリンクしている。そのメカニズムと云うか、陰謀的手順表は,官邸の誰かの胸の内にあるに違いない。

秋篠宮がクローズアツプされている点も注意が必要だ。“佳子さま報道”含め、どこか臭う。現皇太子が存在しないような書きっぷり、秋篠宮へのズームイン、現皇太子の影薄くと云う印象を与える記事になっている。秋篠宮のイデオロギーがどのようなものか、寡聞にして知らないが、今上天皇と現皇太子が、護憲的発言が多く、安倍日本会議勢力にとって、有り難いとか、親和的だとか、到底言えない。以上の素地が、今回のNHKのフライング報道に臭うわけである。朝日新聞だけが、宮内庁がNHK報道を事実無根と否定している件を明確に報じている。

(以下省略)


これから注意が必要なのは、今上天皇を何としても生前に譲位させようというより一層強制的な動きが出て来ないかという点と、皇位継承権を巡るクーデターが起きないかどうか、という点である。
  
現行憲法では、天皇は国民の象徴であって、政治家が自分の傀儡として動かせる駒ではない。しかし、自民党は憲法改正の草案において、天皇を「国家元首」にしようとたくらんでいるわけであり、それが意味するところは、彼らが天皇を自分たちの手先とし、傀儡として操り人形にすることによって、自分たち政治勢力の意のままに、天皇の命令によって戦争を起こし、戒厳令を敷き、多くの国民の生殺与奪の権を握れるような世界を目指しているということである。

そのようなことを目論む人々が、自分たちのプライドを満たし、なおかつ、思い通りにできる傀儡としての天皇を立てようと考えないはずがない。彼らが願っているのは、天皇崇拝という形式を通して、国民から権利を奪い、自分たちが「神」になって指揮権を握ることであり、欲しいものは絶対的な権力、それだけなのである。

さらに彼らにはその宗教思想に基づいてどうしても、自分たちが「神」になるために、血統を転換させてくれる人物が、すなわち、生まれ持った「万世一系」なる幻想の血統が必要なのである。そのために、できるだけ都合の良い人物を天皇に据えたいと願っているだけなのである。

このような「聖なる血統」という幻想は、すでに述べた通り、統一教会(を含む異端思想)に共通するものである。これまで述べて来たように、異端思想には、堕落した人類の「血統」を「神の血統」に転換し、それによって地上天国を成就するための共通する家族モデルがあり、それが、宗教・政治指導者夫妻を「聖なる真の霊的父母」として崇め奉り、これに人々が「子」として連なることによって、全人類を「一つの神聖な霊の家」に帰属させ、一つの家にまとめようというプランなのである。

そのような、生まれながらの人間を現人神とみなして、全人類を一家族とみなしてこれに統合することを最終目的とする忌むべき異端思想の家族モデルは、国家神道に限らず、キリスト教の異端のほぼすべてに共通する特徴である。

それが統一教会では「全人類一家族理想」と呼ばれ、国家神道では「八紘一宇」または「一大家族国家」の理想などと呼ばれ、ペンテコステ・カリスマ運動では「リバイバル」として提唱されているのである。生長の家も、おそらくはこうした概念と無縁ではあるまい。

従って、こうした宗教思想の持ち主は、天皇をただ単に「国家元首」として担ぎ上げ、最高軍事司令官としたいと願っているだけではなく、何よりも、「神の血統」を有する「現人神」として天皇を担ぎ出し、そこにすべての日本国民及び全人類を「子」として帰依させることによって「八紘一宇」を実現することを願っているのである。自分たちが「神々」になるために、「万世一系」などという虚偽を持ち出して、「神の血統」を利用しようとしているのである。

 このような偽りの地上天国の理想は、時代が悪くなればなるほど、より一層、強力に打ち出される。アベノミクスによって日本の国力が落ち、経済がより一層、疲弊・衰退し、国の未来に何一つ明るい材料が見えなくなればなるほど、そのようなまがまがしい幻想の「ユートピア」の理想によって人々を眩惑して、手っ取り早く権力を拡大しようと目論む独裁的政治指導者が現れるのである。

現実が悲惨になればなるほど、大衆は、悪夢のように閉塞した現実から目をそらさせてくれる偽りの「理想」を求め、そこへ麻薬のように逃避しようとする強力な惑わしの力が働く。すでに我が国は滅亡の淵にまで来ているのであるが、それではまだ飽き足りず、その混乱・衰退・弱体化を利用して、独裁を確立し、国民全体を一掃するところまで導かないと気が済まない勢力が存在するのである。その奈落が、「一大家族国家理想」や「八紘一宇」という偽りの幻想の名前で呼ばれているのであって、この地獄をユートピアのごとく夢見る人々は、この先も、自らの幻想(誇大妄想)を達成するための手段として、天皇という存在を、最大限、利用しようとするであろう。

そのようなことを企んでいる勢力に手段を与えてはならない。聖書によれば、人が神に至るための道はただ一つしかなく、それがキリストの十字架なのであり、この方を介さずに、罪深い人間が自力で神の血統に至れるような道は存在しない。人が救われるための唯一の道を否定すると、残るは行き止まりだけなのであり、生まれながらの人間が自己を神とすると、その先に待っているものは破滅以外にはないのである。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)


「私は貴人たちと争った」――ネヘミヤの例から――

 さて、Dr.LukeのKFCの異端思想の分析がひとつの山を越えたので、少しほっとしている。

 むろん、これで終わりではないが、一つの山場を越えただろうと感じている。KFCの理念の異端化を明確に分析することにより、この悪しき団体と霊的な訣別宣をしたことが、今後、筆者の人生に必ずや有益な効果をもたらすであろうと確信している。

 ずっと以前に「牧師制度の危険〜偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望〜」という記事を書いたが、そこに記されている警告のほぼすべてがまさにKFCにぴったり当てはまっていると感じられるため、多少、追記しておいた。
 
 KFCは、キリスト教界に属さず、牧師制度を持たなくとも、教会に「御言葉を取り継ぐ」ための人間のリーダーを置けば、必ず、その人間が神格化され、どの団体でも最後には同じ腐敗に落ち込むということを証明する格好の生きた実例であると言える。
 
 キリスト教界の牧師制度を批判していたDr.Lukeが、牧師制度と同じ罠に落ちたことは、まさにカルトとアンチカルトが同一であることをよく示している。御言葉に立脚して生きないならば、他者への批判はむなしい。むしろ、御言葉に立脚せずに、人間的な観点から、政敵を批判することは、危険でさえある。Dr.Lukeもまた、村上密牧師と同じように、魔物を見つめているうちに、魔物と一体化したのである。

 神と人との仲保者はキリスト以外にはない。信者にはキリスト以外のどんな目に見える「霊的指導者」も要らない。にも関わらず、御霊以外に「みことばを取り継ぐ教師」を置き、それを介して神を理解しようとする制度を打ち立てると、必ず、それが人の心の偶像となり、神の御怒りを買う様々な呪われた事象を引き起こす源となることをKFCはよく証明している。

 確かに、Dr.Lukeの言った通り、エクレシアとは人間が造った組織ではないのである。しかしながら、Dr.Lukeはそのことを重々知りながら、自分自身が組織のリーダーとなる栄光にしがみつき、これを捨てられなかったのだから、キリスト教界よりももっと罪が深いと言えよう。
 
 ペンテコステ・カリスマ運動は、特定の霊的指導者に信徒を従わせるという共通したスタイルを持っており、KFCはこの運動と手を切らなかったのであるから、以上のような結果に至るのも偶然ではない。

 牧師制度を非難しながら、自分が牧師同然の存在となって、信徒の心を盗み(しかも現役のキリスト教界に身を置いて、他の指導者に従っている信者たちの心を盗み)、自らを「神」として、栄光を受けているDr.Lukeには、もはやニッポンキリスト教界を非難することのできる資格がない。

 にも関わらず、相変わらず同氏は、キリスト教界だけに非があるかのように非難して、自分自身をかえりみようともしないのだから、そんな同氏に降りかかる報いは、おそらくキリスト教界の牧師以上に厳しいものとなるであろう。

 Dr.Lukeは現在、自分の活動を批判する人間は、みな同氏に「嫉妬している」のだと公言している。筆者のように、あからさまにKFCの異端性を指摘している人間も、同氏から見れば、まさに「Dr.Lukeに嫉妬している筆頭格の人間」ということになるのであろう。

 だが、実際には、そんな馬鹿げた理屈は、同氏の頭の中だけで作り上げられた被害妄想に過ぎない。何しろ、筆者にはこの老境にあって自分を「神だ」と宣言しているおじさんに嫉妬しなければならない理由が何も存在しない。

 筆者は自分の人生に満足しており、主がこれから何をして下さるのか、将来どんなみわざを見せて下さるのかに霊的飢え渇きと期待を寄せている。

 普通に人間的な要素だけから考えても、筆者には、Dr.Lukeに嫉妬する理由がない。筆者はDr.Lukeよりも長生きするし、Dr.Lukeはピアノを弾けるのだろうか、楽譜を読めるのだろうか、白鍵と黒鍵の区別が分かるのであろうか、キリル文字が読めるのだろうか、それから、女性ならではのたくさんの特権を、全く味わうことができないではないか。

 一体、なぜ、筆者がそれらを全部脇に置いて、Dr.Lukeに嫉妬しなければならない理由があるのか、あるいは、Dr.Lukeを目当てに群がっている信者たちに筆者が嫉妬している、という理屈になるのであろうか。

 だが、KFCに集まっている全ての人々よりも、筆者は年少であり、さらに、KFCにいる女性たちの多くが、家庭的に不幸である。結婚していても、夫の愚痴を外で触れ回るような人たちがおり、あるいは、夫憎しという気持ちから、もしくは家庭内の孤独から、Dr.LukeとKFCに希望を託し、現実逃避しているように見えてならない。自分の抱える人生の諸問題から逃げるために、KFCを利用しているのである。

 しかも、彼らはKFCの中で、Dr.Lukeという偶像を巡って、絶えざる内紛を経験して、互いに妬み合い、押しのけ合っており、そして、いつも最も有能な人々から順番に排斥されて今日に至っている。

 そういう恐るべき様子を実際に見ていながら、誰がそんな集団を妬むのであろうか。
 すぐに考えれば分かることだが、すべてはさかさまであり、逆なのである。Dr.Lukeこそ、キリスト教界と、彼に理解できない真理を知っている信者たちに、嫉妬して来た人間である。

 まず、Dr.Lukeがとりわけ憎しみを向けているキリスト教界の牧師には、自分の教会と信徒の群れがおり、彼らはDr.Lukeよりもはるかに商売上手でしたたかであるから、礼拝堂さえ持たないKFCとDr.Lukeを妬まなければならない理由は存在しないであろう。

 さらに、キリスト教界には、真理がそれほど開けていなくとも、Dr.Lukeには逆立ちしてもできないような、神に対する貞潔な生き方をする信者たちが存在している。多くの富はなくとも、主だけを愛する人々が存在している。そのような人々は、たとえ組織の中にいたとしても、エクレシアの一員なのである。

 そして何よりも、我々には、御言葉なるお方への確かな信仰が存在している。我々はキリストのうちにあって「神の子」とされる特権にあずかっているので、Dr.Lukeのようにキリストを否定して、「私は神である」などと決して宣言する必要がない。そのように言うことによって、Dr.Lukeは自らまことの神、唯一の神を否定して、自らを救いの対象外としているのである。

 大体、ペットが飼い主になり代わろうとは願わないのと同じように、我々は神の地位を乗っ取ろうと願う必要がない。ペットは慈しまれ、可愛がられ、育てられてこそ、幸せなのであり、我々は、神になるためではなく、神を賛美するために造られたのである。

 ペットは飼い主と共に泣き、喜び、楽しんでこそ、幸せである。ペットがパソコンに向かって複雑な作業をする必要もないし、生活のことで思い煩い、月曜から金曜まで満員電車に乗って通勤して働かなくとも良い。学術論文も書かなくて良いし、偉業を成し遂げることも期待されていない。そんなことは彼らに最初から求められていない。ペットを養うのは飼い主の責任であり、飼い主がペットの命を支えるために偉業を成し遂げるのである。

 我々は動物以上の存在であり、ペット以上の存在であり、神に愛され、育まれ、訓練される神の子供である。しかし、子供であり、僕でありながら、同時に、キリストは我々を友と呼んで下さり、花婿の愛を持って接して下さり、もし私たちが切に願い求めるならば、ご自身を現し、御心を分かち合って下さる。果てしなく偉大である方が、我々人間に過ぎない者を心に留めて、愛し、慈しみ、ご自身を分かち合って下さるのである。

 そのように愛され、キリストを通して、父なる神の子供として受け入れられているのに、一体、何の不満があって、我々が、神の地位を乗っ取る必要があるのか。神の子らは、時が来れば相続者として、父の財産をすべて受け継ぐのである。主イエスの御名によって、彼のものはすでに私たちのものとされている。御霊が、約束のものを受け継ぐ保証として与えられている。なのに、一体、何のために、我々が神の子の特権を捨てて、「神」ご自身になり代わろうとする必要があるのか。

 神から疎外されていればこそ、彼らはそのように企てるのである。相続者でないからこそ、家長を押しのけて、家の財産を乗っ取り、盗もうとするのである。

 現在のDr.Lukeの姿は、まるで一杯のレンズ豆のあつもののために、長子の特権を売り払ったエサウのようである。己の肉欲のために、子としての特権を売り払ってしまったので、もう「神の子である」と言えなくなってしまったのであろう。だからこそ、家全体を乗っ取ることによって、不法に相続にあずかろうと、家長を否定してまで、「私が神である」と主張しているわけである。まだ時も来ていないのに、自分が家長になろうとしているのである。

 腐敗した富や特権が彼らをそこまで盲目にさせたのであろうか。救いは、神の恩寵であって、人間の覚醒によっては決して手に入らないことを彼らは忘れたのである。エサウは泣いて懇願したが、長子の特権はもう戻って来なかった。

 これまでにもそうであったが、自分がいかに愛されているかではなく、いかに妬まれているかということばかり強調するDr.Lukeは、自ら悪しき言葉を振りまくことによって、自分で自分を貶め、自分で自分を呪い、自ら全世界の信者の憎まれ者・嫌われ者となり、悪霊の攻撃を自ら呼び起こしているのである。

 日本には言霊信仰というものがあるが、ましてクリスチャンは御言葉なるお方を信じているわけであるから、自分の述べる言葉の大切さを理解しなければならない。我々は自分の言葉によって、自分の歩みを規定しているのである。

 悪い言葉を自分に対して吐けば、悪霊がそれに乗じてやって来る。Dr.Lukeのように、絶えず「私はキリスト教界から標的にされ、大勢の信者たちから憎まれ、嫉妬され、歯ぎしりされる対象となっているのだ」などと豪語する人間が、無傷で済まされるはずがない。

 そういう自虐的な言葉は、悪霊たちの大好物であり、そういう台詞を吐き続けて自分で自分を傷つけている人間を、悪霊どもが放っておくことはなく、喜んで人間関係のもつれと混乱の中に投げ込み、彼を自分で述べた通りの結末へと導くであろう。

 いい加減に気づかなければならない。日本キリスト教界がDr.Lukeを攻撃しているのではなく、彼が自分で自分を貶めているだけである。 Dr.Lukeのことばを聞けば分かるが、同氏は自分で悪しき汚れた言葉を連発しては、自ら暗闇の勢力の敵対感情を煽り、自分で破滅と呪いを招き続けているのである。

 Dr.Lukeはこれまでニッポンキリスト教界に破滅の宣告を下し続けたが、かえってその報いは、KFCに降りかかり、キリスト教界の手先が送り込まれてKFCは会堂を失うということも起きた。
 
 また、KFCでは、絶え間なく、信者たちの妬みによる足の引っ張り合いが起きて来たが、それもまたすべてDr.Lukeが自らを神格化したことによって引き起こした現象である。

 KFCにはこれまで絶え間なく不幸な事件が起きて来たが、そうした事件は、全てDr.Lukeのことばによって招かれたものであった。今や、同氏は、自分や自分たちの団体が、全世界から憎まれ、とりわけキリスト教界から激しい憎しみの対象とされ、絶えず攻撃されているかのように主張しているが、そのように主張することによって、自ら悪霊につけ入るすきを与え、霊的に敵を呼び込んでいることに全く気づいていないのである。

 そんな自作自演劇によって自ら滅んで行こうとしているのだから、全く取り合う価値もないほど馬鹿馬鹿しいことである。しかも、自分たちを「神だ」と言いながら滅びゆくのだから、何とも形容しがたいほどに愚かしいパラドックスである。

 だが、約70年ちょっと前に、そういう人々が我が国には大量に存在していた。その人たちは、全身全霊で「神になる」ことを求めながら、異常かつ悲劇的な死に方で、死んで行ったのである。いつの時代にも、恵みによって救われるのでなく、自分から神になろうとする人々の行き着く先は、同じなのである。

さて、今回の本題は、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ 今日への生けるメッセージ」を示すことにあった。これを読んで気づかされたことがある。

 筆者はこちらに来た当初、こちらには、エクレシアに属する民が大勢いるのだろうと想像していた。そこで、そのような信者たちと出会い、今までと違ったより充実した交わりを育めるだろうと期待していた。

 ところが、現実はまるで逆であった。筆者がここに来るまでは、高みに存在するかのように見えていた輝ける信者たちのほとんどが、筆者の仲間でないどころか、聖書の御言葉に反する憎むべきものを手放そうとしないアンシャン・レジームの代表者であることが判明したのである。

 彼らは、自分たちは組織を持たない、と言いながら、組織を作り、指導者を置かない、と言いながら、指導者を崇拝し、自分たちはキリスト教界の信者とは違う、と豪語しながら、キリスト教界よりももっと悪い霊的姦淫に落ちていた。そして、地上の富を誇り、肉欲を誇り、十字架を語りながら、自己を決して十字架の死に決して渡すことなく、神の御言葉を曲げて、高慢に、忌むべきものを宝として歩んでいたのである。

 筆者は当初、人間的な未熟さから、そのような人々を説得可能であるかのように思っていた。彼らを公然と辱めることがためらわれ、何より、彼らの存在が惜しまれたのである。だが、それが、不必要な同情であることに気づき、また、すべての説得は意味がなく、それはミイラ取りがミイラになる道でしかなく、この人々はもともと仲間ではなく、むしろ、公然と対峙せねばならない敵同然の裏切り者の相手だったのだ、という事実に気づき、彼らを説得しようという考えを捨てて、ただ主に向かって行ったのである。
  
 だが、しばらくの間、こうした事態は筆者の目に異常すぎるように映ったので、一体、これは何だろうと思いめぐらしていた。一体、筆者が期待していたエクレシアはどこへ行ってしまったのか。こんな有様が主の御心なのか? 何のために筆者はここに置かれたのであろうか? なぜにこれほど主に忠実な民がいないのか?

 だが、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ」を読むと、そんな疑問も氷解する。
 
「終末の状況」、これは主イエスが地上に来られた当時の様子と重なる。

・・・ネヘミヤ記は一貫して主の来臨と関係しているということです。ルカはただちに主イエスを示します。彼は宮の中で少数のレムナントに囲まれています。これらのレムナントは旧経綸から来た人々であり、新経綸の証しを担います(なぜなら、主イエスが来られた時、証しを担っている人はごく僅かしかいなかったからです。シメオン、アンナ、他の少数の人々だけが、イスラエルの慰め、主のキリストを求めていました)。

主イエスは確かにこう言われたのである、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)

これは主の来臨に向けて、エクレシアが地上で大規模に拡大して行くというある人々の予測とは全く逆である。彼らは、神の家を建設するという名目で、絶えず人間の方ばかりを向いて、普通に考えても、到底、満足できない水準にある人々、しばしば堕落した人々を助けようと、活動にいそしんでいる。その結果、ほとんどの場合は、ミイラ取りがミイラに、盲人による盲人の手引きになって終わるのである。

キリスト者は、弱さや問題によって連帯することはできない。十字架を経て、エクレシアの戸口で自己に死んで、キリストの復活の成分によって結びつかなければ、エクレシアとは呼べない。キリスト以外のものによって連帯する時、決して持ち込んではならないものが神の家に持ち込まれ、交わりが損なわれることになるのを私たちは理解しなければならない。

おそらく、エクレシアの発展とは、規模の増し加わりではなく、質の深まりなのであろう。キリストが増し加えられる度合いが、エクレシアの拡大であり、それは明らかに規模の問題ではなく質の問題なのである。

そこで、終末の時代に、主に忠実な民がほんの少ししか残っていないように見えたとしても、落胆すべきではないことが分かる。

さて、ここからは解説を省くことにする。筆者の言いたいことは、もはや解説しなくても明らかだからだ。ネヘミヤの物語のどれほど多くの部分が、実際に、筆者自身の経験して来たことと重なるであろうか。

ネヘミヤは神の家の腐敗に直面した。大祭司や、神の家にいて高い地位に着いている指導者や信者たちの堕落を見た。信者が自分の兄弟を貶め、踏みにじり、兄弟を搾取することによって利益を得ているのを見た。また、信者が分不相応な贅沢を享受した結果、負債から抜け出られなくなっている様子を見た。信者と呼ばれている人々の多くは、大会、指導者のメッセージ、先人たちの書物など、外からの教えの助けにすがり、自分自身の信仰によって立っていなかった。また、多くの信者が、神によらない汚れた教えを大目に見て、異端が公然と神の家に入りこんでいた。ネヘミヤはこうしたものを見逃さず、「貴人たちと争った」――、すなわち、主イエスが商人たちを宮から追い出したように、妥協することなく、混合を退け、十字架に敵対する人の自己からのものを神の家から断ち切ったのである。そして、神の満足は、ただキリストだけであることを示し、キリストだけを土台として据えるよう、神の民に促した。神の家の回復はただそのようにしてしかなされ得ない。



当時の状況

さて、この本に戻ってそれを読み通し、ネヘミヤの時代の状況を示すものに注目するなら、とても嘆かわしい状況が示されていることがわかります。第一に、神の家の明確な証しは崩れ去っています。エズラが反対した問題が舞い戻り、よみがえっています。エズラ記が示すあの麗しい運動、神の家に関するあの真理の回復、この証しや神の家に反する事柄の放棄は、すべて台無しになっています。そして、昔の悪がふたたび台頭しています。証しは弱く、効果のない状況にあります。

エズラ記を背景として、エズラ記とその内容をすべて生き生きと心に留めながらネヘミヤ記を読み通すなら、ネヘミヤの時代、誰もそれらに気づいていなかったこと、そして、ネヘミヤが登場して神の御心にかなうことを行った時、初めてそれらが白日の下にさらされたことに、私たちはびっくり仰天するでしょう。

これは常にそうです。心から神のために出て行かない限り、そこにいかなる邪悪なものや神に反するものがあるのか、あなたは決してわからないのです。しかし、そうする時、以前なら存在するとは信じられなかったものを、あなたは見いだします。それらはひっそりしており、隠されています。ひっそりと進行しつつあり、人々の生活をとらえ、主の証しを破壊しつつあります。神のための積極的な何かが到来する時、初めてそれらの生命や活動が明らかになるのです。



抑圧

そのいくつかを見て下さい。主の民の多く(歴史的に言ってユダヤ人のこと)は、自分の兄弟たちの間で奴隷として売り飛ばされていました。主の民はお互いを売買しあい、自分の兄弟を犠牲にして、自分の権益や利益を求めていました。自分の兄弟を辱め、貶めることで、自分の地位を維持していたのです。

「今日の霊的状況はこれとは異なる」と言う自信は、私には到底ありません。自分の支配下に置ける人々がいなかったなら、また神の民をも自分の食い物にすることができなかったなら、一部の人々はどうするのでしょう?私にはわかりません。これは単純な形から極端な形に至るまで、様々な形で現れます。これは、あの聖くない不快な批判という単純な形で、主の民の間に現れるかもしれません。そうした批判は結局のところ、「自分たちは彼らよりも優れている」と言っているにすぎず、相手を犠牲にして自分たちを正当化しているにすぎません。

私たちの相互批判のうち、これが隠れた動機ではないものがどれくらいあるでしょう。ああ、あの永遠の恒久的な「しかし」、留保が常にあるのです!「ご存じのように、彼らは主を愛しています。しかし……」「彼らは主のためにとても熱心です。しかし……」「彼らには長所がたくさんあります。しかし……」。この「しかし」が、長所全体よりも大きく浮かび上がって、長所をすべて傷つけるのです。

この「しかし」を用いる私たちの多くは、「自分はすぐれている」という思い込みや自分のプライドのために、そうするよう駆り立てられているにすぎません。つまり、他の人を貶めることによって優位に立つことが、私たちにはあまりにも多いのです。そして、神の子供たちを損なう高ぶりのこの形態により、私たちは自分の優位性、地位、影響力を得ますし、また得ようとしているのです。これはそれを霊的に示す単純な例なのかもしれません。

新約聖書の勧めはすべて、これとは別の方向を強調しています。それが強調しているのは、他の人を自分よりも上に置くこと、他の人を自分よりも優れていると常に思うことです。これは反対の方向です。これをするのは肉にとってとても辛いことです。天的なものの証しを神の家の中で十分明確に維持するには、十字架が最初に到来して、この高ぶり、この傲慢、この狡猾な自己充足、自己評価、この「謙遜な」(?)批判――これは結局のところ、高慢の本質そのものです――の根元に直ちに至らなければなりません。

この事実を強調しなければならない理由はおわかりでしょう。高慢は他の多くの方法で現れるかもしれませんし、実際に現れています。たとえば、神の民を支配すること、地位を得ること、奉仕の特権や機会を自分が地位を得るための機会とすることです。新約聖書風の別の言い方をすると、次のようになります。

弟子たちは聖霊でバプテスマされる前、自分の兄弟たちよりも上に立つ機会、互いに優位を競いあう機会、首位の座を占める機会ばかり求めていました。主イエスは彼らに強い言葉を述べなければなりませんでした、「私はあなたたちの間で仕える者のようです」「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためです」。これが十字架の精神です。

さて、ネヘミヤ記に記されている状況に相当する霊的状況がまぎれもなく存在していることを、あなたは理解できると思います。他の人々が私たちの利益の手段とされており、霊的な意味で私たちは自分の益のために自分の兄弟たちを奴隷として売り払っているのです。もしよければ、あなたはこれをもっと詳しく追うことができます。



破産

この本に出てくるもう一つの点は、主の民であるユダヤ人の多くが破産した生活を送っていたことです。その理由の一部は質入れによるものであり、自分の息子や娘を奴隷として売り飛ばしたことによるものでした。つまり、彼らは自分の権利にしたがって生活していなかったのです。彼らは困窮に陥り、資産もありませんでした。それゆえ、威厳も誉れもなく、負債を負った民だったのです。

この状況も今日霊的にあてはまります。愛する人たち、私たちや主の民の多くは、今日、自分の身分にふさわしく生きているとは到底言えません。残高を調べるなら、破産していることが明らかになるでしょう。もっと簡単な言い方をすると、私たちのうちどれくらいの人がキリストの富を自分で知っているのでしょう?また、私たちのうちどれくらいの人が、他の人々の富に頼って生きなければならない誤った立場にあるのでしょう?

つまり、霊的助けになる外側のものをすべて剥ぎ取られるなら、集会や交わりやそうしたものをすべて取り去られるなら、私たちのうちどれくらいの人が、「私は自分の身分にふさわしく生きています。徹底的分析によると、そうしたあらゆるものから私は完全に独立しています」と言えるでしょう?

私たちはそれらを享受し、それらから益を受け、それらのゆえに神に感謝します。しかし、私たちの命を構成するものは外側のものではなく、主の尊さを知る自分自身の知識なのです。たとえ外側のものをすべて剥ぎ取られたとしても、私たちには決済する能力があり、立ち上がって言うことができます、「あなたは私自身の嗣業を奪うことはできません。私はキリストの内に嗣業を持っています。

それは集会、大会、メッセージ、外側のいかなるものにもよりません。それは主と共にある私自身の内なるいのちです。私は彼を知っているのです」。主はご自分の民の多くを召して、このような状況に直面させられるでしょう。それは、彼らが自分で発見して、見い出すためです。

愛する人たち、終末はまさにこのような状況かもしれません。私は確信していますが、「神の子供たちはみな、個人的な内なる方法でキリストを知り、キリストにあって充足と満足に至らなければなりません」「外側のものが取り除かれ、崩壊し、失望を与えたとしても、自分のためにキリストの内に豊かさを見いださなければなりません」と、終末の時に主は要求されるでしょう。

あなたには決済する能力があるでしょうか?あなたは抵当に入れられているのではないでしょうか?あなたは他の人々がくれるものにすがって生きているのではないでしょうか?それがあなたの支えなのではないでしょうか?

それとも、あなたは自分が主から得るものによって生きておられるのでしょうか?もしそうなら、もしあなたが自分のものを持っているなら、あなたは与えるものを持っており、この人々が陥っていたような物乞いや困窮の状態にはありません。

喜ばしいことに、ネヘミヤは奴隷として売り飛ばされていた人々を贖い、買い戻して、正当な権利を得させました。喜ばしいことに、ネヘミヤは生計を維持するための質入れや子供の売買の仕事をやめさせて、すべての人が自分の足で神の御前に立って自分の道を歩めるようにしました。これは主の民にとって重要な霊的思想であり、終末における運動を示しています。なぜなら、私たちはあまりにも長いあいだ恵みの外的手段にすぎないものに基づいて生活してきたからであり、主ご自身が自分にとっていかなる御方であるかに基づいてあまりにも少ししか生活してこなかったからです。




汚された神の家

次に、宮が異教徒によって汚され、世俗的な用途に用いられました。これを適用する必要はほとんどないと思います。この二つは共に進みます。天から直接生まれた純血の者ではない人々、新生した神の子供ではない異教徒が神の家の中に入り込み、主の民の間に場所を得る時、主の家はただちに主の御心とは正反対の関心や用途の方向にそらされてしまいます。地に引きずり降ろされてしまいます。神の家は地的なものにされ、あるべき場所から引き出されてしまいます。

敵は常にこれをしようとしています。真に再生されているわけではない人々や、再生されたと思い込んでいる人々を、主の民の間にこっそり入り込ませることが、敵の常套手段です。彼らは主の民に属する者としてやって来ますが、主の民ではありません。彼らの存在によって、この世的判断、この世的方法、人の方法、人の考えが、神の家の中に入り込み、それを肉の水準の低い生活にまで引き下げてしまいます。これは悪魔の主要な働きの一つであり、悪魔は絶えずこれを試みています。そして、この試みは成功することがあまりにも多いのです。

確かに、私たちはこれを今日見ることができます。なぜなら、これは大いに広まっているからです。これについて教えてもらう必要はほとんどありません。私たちは至る所でこれに気づきます。しかし、ネヘミヤは終末の神の動きを代表する者として、それに終止符を打ちます。彼は神の家から異教徒を一掃し、神の家が神の御思いにしたがって維持されるように、そして人の考えや人の方法が排除されるようにしました。

もちろん、私が物質的な神の家のことや、人々の集まる諸教会や場所のことを述べていると思う人は誰もいないでしょう。それもこの一つの適用になりうるかもしれませんが、私の念頭にあるのは、神のために天的な民になるよう召された神の民です。

この民の中に肉的な原則、天然的な活動や力を持ち込もうと、敵は絶えず試みています。それは、この証しを天上から引きずり降ろして、人によって運営される地的なものをそれから造り出すためです。ネヘミヤはそれを許しません。彼はそれに抵抗します。こういうわけで、彼は終末に神がなさることを示しているのです。




破られた安息日

次にまた、安息日が無視されていました。安息日がそのあるべき地位から転落し、軽視され、脇にやられ、見過ごされ、無視されていたとは、エズラからこのかた、とんでもないことではないでしょうか。

ここでただちに言いますが、私たちが今考えているのは、これに相当する新約聖書的な霊的意味であり、日のことではありません。ここの時としての安息日のゆえに私たちは依然として神に感謝していますし、それに固執して容易に手放しはしません。しかし、安息日に関する私たちの理解は遙かに高い水準に引き上げられていて、私たちは次のことを見るに至っています。

すなわち、安息日は、神が主イエスによって安息に入られる時の、神の働きの完了の歴史的な型なのです。また、安息日は御子のパースンによって神の働きがすべて完全に成就されたことを物語っているのです。

キリストによる神の働きの完成を脇にやり、見過ごし、無視するなら、あなたには安息も平安もありません。あなたは依然として荒野の中をぐるぐるとさまよっています。あなたは依然として、成就されていない不完全な働きの領域の中にいます。「成就した」という言葉を宣言する立場の上に、あなたはいまだ落ち着くには至っていません。

完成されたキリストの御業を霊的に真に理解している魂は、安息している魂です。神の安息の中に入って、悪魔の圧制から解放されています。完成されたキリストの御業は「もはや罪定めはない」と言っているのに、この事実にもかかわらず、悪魔は常に訴えや罪定めをもたらそうとしています。このせわしなさ、熱っぽい内省、自己分析、ひきこもりはすべて、安息日を見過ごしているせいです。決して安息することも、落ち着くことも、確信を持つこともなく、確かなものが何もないのは、すべてそのせいです。


私たちにとって安息日とは一人の御方であって、日のことではありません。したがって、毎日が私たちにとって安息日でなければなりません。私たちはみな、聖書の一節、テキストとして、「主の喜びはあなたたちの力です」という御言葉を引用しますが、これがこの素晴らしい御言葉の最も深い意味に違いありません。主の喜びとは何でしょう?「神はすべてのわざを休まれた」「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それははなはだよかった」。

主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。これを見過ごしたり、見逃したりするなら、あなたは安息日の休みを失い、心の安息を失います。これがこの状況の原因でした。

しかし、ネヘミヤはそれを回復しました。終末時の運動は、キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足であることを回復するものであり、神の民をその中にもたらすものです。

ああ、愛する人たち、この重要性はどんなに評価してもしすぎることはありません。なぜなら、敵は必死になってこれに反対するからです。二つの運動が終末を特徴づけることになると私は見ています。一方において、敵は神の民の足下から確信の根拠を断ち切るために、彼らから安息、確証、平安、確かさ、確信を奪い去ろうとしており、彼らを疑い、恐れ、心配で取り囲んでいます――兄弟たちを訴える者は、終末にこのような方法で、強烈な姿でやって来ます。

神はそれに対抗して、キリストによるご自分の御業の十全性と完全性を回復されます。そして、ご自分の民を安息日の休みの中に置き、その民の心をキリストの方に向かわせて、「これは私の愛する子、私は彼を喜ぶ」「あなたは彼にあって受け入れられており、私は満足しています」と仰せられます。これはみなキリストによります。

主イエスのこの証しを終末に回復すること、これは大いなる対抗要素です。「ネヘミヤ」は終末における回復のための一人の人かもしれませんし、あるいは一つの団体的な器かもしれません。いずれにせよ、「ネヘミヤ」は自分の務めの重要な一部分として、このような意味で安息日を確立しなければならないのです。




十分の一を納めることを怠る

状況の一部分として、もう一つのことがこの本の中に出てきます。それは、主の民が自分の持ち物の十分の一を納めるのを怠っていたということです。私たちが十分の一について述べる時、「十分の一だけが主に属しており、残りの十分の九は自分に属している」とは誰も思わないで下さい。これはまったく間違った聖書理解です。十分の一は全体を表すものであり、「一切を主のために所持する」という事実を示すものとして献げられたのです。

十分の一は「すべては主のものであること」の印であり、証しでした。十分の一が献げられた時、「この収穫全体の十分の一は、すべては主のものであることの印であり、あらゆるものを主からの賜物として主のために所持する印です」という精神で献げられました。

さて、生活がこの域に達する時、神の祝福があります。十分の一を献げることをあなたが始めておられるかどうか、私にはわかりません。それは始まりにすぎません。これが十分に確立される時、主はそれを遙かに超えることを可能にされることがわかるでしょう。そして、この道に沿って到来する主の祝福に、あなたは驚くでしょう。

主の民の多くは、収入や現世の所有物のことで苦しみ、心配し、悩んでいます。この領域での彼らの生活は苦しいものです。これは主に正当な地位を与えていないからです。「あなたの持ち物をもって、あなたの収穫の初なりをもって、主をあがめよ」「私を尊ぶ者を私は尊ぶ」。主のために所有するという主の法則を悟り、真っ先に十分の一をもって主をあがめるようにしさえするなら、現世の困窮から大いに解放されるでしょう。

この言葉を忍んで下さい。これをもう一度強調しても構わないでしょう。神はあらゆるものに対して権利を持っておられます。私たちの十分の一は、すべては主のものであること、そして、すべては主に属するものとして保たれ、用いられねばならないことの、初歩の証しにすぎないのです。

さて、ネヘミヤは民の所有や収入に関して主を正当な地位に置き、これを正常化しました。これは霊的繁栄と現世の安寧に寄与します。さしあたって、これはこれで良いことにします。




混合と区別の喪失

また次に、主の民の多くが外国の妻と結婚していたこと、そうして彼らの区別が失われていたことが、ここでわかります。ネヘミヤはそれらの婚姻関係を断ち、違反者たちに妻を郷里や祖国に送り返させて、そうして神聖な原則を確立しました。

さて、これに対応する霊的意味は、「回心していない夫や妻を持つ人は、彼らから離れ、彼らを無視しなさい」ということではありません。しかし、遺憾ながら多くの人がそうしています。回心していない夫や妻は、主のことも主の権益も心にかけません。そのため、彼らの伴侶たちは多くの集会に出かけて、彼らを独りぼっちにしてしまいます。この罠にかかってはいけません。

これに相当する霊的意味は、「旧約聖書の中のこれらの妻たちは、常に原則を表す」ということです。ご存じのように、女性は聖書全体を通して数々の原則の型です。ここで型として示されているのは、神に完全に属しているものとは異なる数々の原則との同盟、関係、関わりです。こうした原則のいずれかと自発的に関わるなら、主の民を常に特徴づけているべき、あの霊的区別は破られてしまいます。

これはとても広範な領域を網羅しており、数え切れないほど多くのことを含んでいます。しかし、これがその包括的適用です。ここに記されているのは、啓示された神の御旨に反する要素、特徴、原則、法則であり、主の御心、神の御言葉、御霊の道とは別の相容れないものです。ここに示されているのは、それと自発的に関わりを持つこと、それが自分と関係を持つのを許すことです。そのような道の結果、混合という子孫が生じます。これは、神に属するものと敵に属するものとの混合です。神の御言葉に啓示されているように、神が最も忌み嫌われるものは混合です。至る所で神は混合に反対されます。神は物事を全く完全かつ絶対的にはっきりと規定して、完全にご自分に属するものとされます。

ネヘミヤ記のこの城壁は、神に完全に属するものと神に属さないものとを分ける印です。神から出ていないものの割合や程度の問題ではなく、神からではないものが少しでもあってはならないのです。内側にあるものは隅々まで神に属していなければなりません。神に属していないもののための余地は、そこにはありません。ですから、これらの妻たちはその領域から追放されて、送り返されなければなりません。これが示されている霊的原則です。神は混合に反対されます。主の民の間には、恐ろしいほどたくさんの混合があります。




郊外のクリスチャンたち

述べるべきことが、おそらく他に二つあります。ここに見られる民の大部分は、エルサレムの外の郊外に住んでいました。そのため、エルサレムには手仕事に十分な人がおらず、ネヘミヤは彼らに、出て来て他の人々を中に連れてくるよう訴え、励まし、勧めなければなりませんでした。この霊的解釈はとても単純ですが重要です。

霊的郊外に住んでいる主の民が大勢います。彼らは主の証しの中にいません。ほんの少しだけ外にいるのかもしれませんし――ほんの少しとはいえ、外にいることに変わりはありません――あるいはかなり離れているのかもしれません。彼らはあらゆる種類の理由をあげることができるでしょう。「変人になりたくありません」「バランスを欠いていると思われたくありません」「バランスを取りたいのです」と言う人もいるでしょう。あらゆる種類の理由(?)が挙がるでしょう。偏見や疑いのためかもしれません。安全な道を進み続けたいからかもしれません。代価への恐れや、価を払いたくないからかもしれません。中に入ってネヘミヤに協力するなら、サヌバラテやトビヤが好意的でない目で自分たちのことを見るようになるためかもしれません。

これに関して全く確信がないからかもしれません。事がどう運ぶのか見ることを彼らは願っています。事がうまく運ぶなら、そして事が堅固な土台の上に据えられていることがわかるなら、彼らは危険を冒すでしょう!事が堅固なら何の危険もなく、したがって何の英雄的行為も栄誉もありません。

私が何を言っているのか、おわかりでしょう。主が新しいことをなさる時、また、全くご自分と天――そこには天然的な肉の人のための余地はまったくありません――に属するものに対する完全な証し、全く主に属するものに対する完全な証しを得ようとされる時、それは代価を払うこと、好意を失うこと、友人をなくすことを伴います。誤解や誤報を伴います。批判や、「あまりにも極端で変わっており、他のすべての人たちと異なっている」という非難を伴います。そのようなあらゆることを伴うのです!そうではないでしょうか?

さて、これはどうなのでしょう?問題は、神と共に完全に中に入るのか、それとも郊外にとどまり続けるのか、ということです。ネヘミヤは促し、勧め、嘆願し、励まし、手を差し伸べ、招き入れようとします。神はほむべきかな!必要を満たすのに十分な応答がありました。周辺にとどまるのか、それとも中に居てそのような立場の結果を受け入れるのか、私たちは決心しなければなりません。私たちは徹底的にこの問題に決着をつけなければなりません。私たちの中にはそうしなければならない人がいます。

これが何を伴うのか、どれだけ代価が必要なのか、私たちはわかっています。少なくとも、神と共にこの道を取ることによって実際に生じる必然的結果について、私たちはかなりよく見てきました。そうです、しかし、「これは主の道だったのでしょうか?もし主の道なら、長い目で見て、その外側にいても仕方がないのではないでしょうか。一時のあいだ何かを得たとしても、遅かれ早かれ、それは失われてしまうにちがいありません」ということこそ、まさに問題なのです。確かに、私たちは低い水準――損得――で物事を見るべきではありません。結局のところ、「私たちは何のためにここにいるのでしょうか――主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?」という問題なのです。

主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?肝心なのは、「主は何を欲しておられるのか?」ということです。それには代価が必要かもしれません。それは多くのことを意味するかもしれません。多くの方面で交わりを失い、好意を失うかもしれません。敵の恐ろしい悪意に巻き込まれるかもしれません。しかし、私たちに何ができるというのでしょう?私たちは神と共に進み続けなければならないのです。私たちはみな、この場所にいるでしょうか?この問題により、様々な思いが私たちの心に迫っているのではないでしょうか?




公の妨害

次に、締めくくるに当たって、これまで誤謬や悪について述べてきましたが、それらのものにネヘミヤはことごとく遭遇しました。それらの誤謬や悪が存在していたにもかかわらず、彼が登場するまで何の注意も払われていませんでした。有力な、影響力のある、公の階級、祭司たちや貴人たちが、それらの誤謬や悪を支持していました。大祭司ですらそれらにくみしていたのです。ネヘミヤはこれに反対しました。

主と共に進むことを決意する時、公的要素が妨害します。これはまさに真実です。私たちは影響力を持つ勢力に出会い、地位や身分のある人々から反対されます。大祭司のように神の最高の権益を公に代表し、人からもそのように受け入れられている人々ですら、神のご計画や神の御旨に対して好意的ではなく、神の完全な証しに全く反するものを大目に見ていることに、私たちは何度も気づきます。これはまさに真実です。

あなたたちの中にはこれを証明した人もいます。主と共に進むことを決意するなら、あなたにもこれがわかるでしょう。ネヘミヤはそれにことごとく出会いました。勇気をもって出会いました。「私は貴人たちと争った」と彼は言いました。影響力を持つ階級を前にして、彼は屈しませんでした。彼は公人たちに屈服しませんでした。彼は貴人たちと争いました。自分が神の委託を受けていることを彼は知っていました。これが人々の間で、天然的権威だけでなく霊的権威をも彼に与えたのです。なぜなら、神から与えられた立場に立って、神から与えられた務めを果たす時、神が自分の傍らに立って下さることを彼は知っていたからです。 彼をこのような人にした他の数々の要素が背景にあったことを、私たちは理解しなければなりません。しかし、これが彼の態度でした。

自分が神の御旨の中にあることがわかるのは素晴らしいことです。自分が神の働きの中にあることを知る時、あなたは大きな確信を持ちます。あなたがその中にあるものは、あなたが始めたものではなく、天から来たのです。そして、あなたはその中に天から霊的に入ったのです。それは神に属しています。これはあなたを道徳的にも霊的にも優った地位に置きます。そして、形式的なものにすぎない非霊的な威厳を上回る威厳をあなたに与えます。


<略>私たちは主の来臨にかかわる終末の時にいるのであり、終末における働きは際立った証しを起こすものなのです。その証しは復活のいのちと力によるものであり、まったく神から出ており、その中に人からのものは何もありません。この証しは、自らに反する多くのものを対処して取り除くことを要求します。」




最後にもう一度だけ繰り返しておこう、

「主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。」


私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。

オリーブ園の新着ブログに、オースチン-スパークスの「主の御腕」が掲載されている。

誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」

この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。

神のこの奇妙な道はなぜか?

 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため

 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。


Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑯

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-5)

・キリストの十字架によらず、神秘主義体験を通して、自力で神に到達したと豪語するDr.LukeとKFC

さて、これまで、偽りの教えの特徴が、人を聖書の神の御言葉に従って歩ませるのではなく、自己の感情や感覚に従って歩ませようとするものであり、そのためならば、悪霊は魂の領域に偽物の霊的経験を作り出すことも行い、偽りの神秘体験をあたかも神や聖霊から来るものであるかのように思い込ませて信者を欺く、ということを見て来た。

さらに、ペンテコステ・カリスマ運動が、そのように信者が自ら味わう神秘体験を「神との交わり」だと思い込むことによって、信者が聖霊によらず、「異なる霊」の導きに従い、キリストの十字架を介さずに、あたかも自力で神との合一に達し得たかのように思い込む偽りの「疑似霊的運動」である、ということを見て来た。

グノーシス主義とは、もともとは悪魔が人類を欺いて、人間が神の御言葉に背き、自己の感覚に従って、事の是非を勝手に判断し、自分の欲望に従って生きることを通して、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と、人類が神以上の存在になれるかのように教えた欺きから始まっている。

そこで、悪魔に由来する偽りの教えはすべて例外なく、人間が「神のようにな」ることを最終目的としていると言って良い。

むろん、聖書は、人間が神に至る道はただ一つ、十字架を経られたキリストにしかなく、この方を介さずに神に受け入れられる者は誰一人としていないことを教えている。しかし、偽りの教えはすべて、キリストを介さずに(たとえキリストの名を掲げていたとしても、キリストの概念を歪曲することによって、人を救う力のない偽りのキリストを作り出し)、人が生まれ持った自己の能力を刺激・啓発することによって、自力で神に至ることができるかのように教える。

Dr.Lukeは、すでに確認したように、霊界との交信によって、正体不明の「霊の波動」に耳を傾け、無意味な音声の羅列に過ぎない偽物の「異言」を「神のことば」とみなし、これを授かったことにより、自分たち(Dr.Luke及びKFC)は「神である」と主張する。

ちょうど筆者がこの記事を書いている最中にも、自己の神格化という恐るべき罪を正当化するために、Dr.Lukeは新たなブログ記事で次のように述べている。(エロヒムとは「神々」の意。)
 

あなたがたはエロヒムだ!(Dr.Lukeの2016年07月04日の記事から抜粋)

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!

ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!

【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。
 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。
しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。-Ps 82:1-8


以上のDr.Lukeの告白は、同氏が受けたのがまさに人類をそそのかした悪魔から来る反キリストの偽りの霊、人間の堕落した自己を神格化する自己栄化の霊であることを何よりもよく物語っている。

信じがたいことに、以上の記事には一言も、キリストの御名が登場しておらず、贖いの十字架もない。そして、Dr.Luke及びKFCが、自分たちが「新創造」とされたとする根拠は、旧約聖書に求められているのである。

以下の信者の誰もになじみ深い御言葉は、彼らの思考の中で、どこへ消え去ったのであろうか。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

キリスト者が新創造とされる根拠は、この御言葉の通り、十字架の死と復活を経られたキリスト以外にはない。

だが、Dr.Lukeの言説からは最も肝心なキリストが消え失せている。そして、「御霊はわたし(=イエス)の栄光を現します。わたし(=イエス)のものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)と聖書が述べているのに、同氏は主イエス・キリストの御名にすら言及せず、その告白は、イエスの栄光を全く現していない。

そうしたことからも、「われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである!」とDr.Lukeが述べる根拠が、キリストにはないこと、同氏を導いている霊が、反キリストの霊であることが明白である。

キリストの十字架以外のものによって、人が新創造に達しうるかのような教えは、ことごとく偽りだからである。

むろん、このような恐るべき自己の神格化は、長い時間の積み重ねの中で起きることであって、サンダー・シングだけが原因で生じたものではない。

空中にどれほど病原菌があっても、健康な人がそれに感染しないのと同様、異端の教えも、それを受け入れる素地が心にない人にとっては脅威とはならない。異端の教えに感染するのは、本人の心の中にそれを培養できる一定の条件が整っている人だけである。そして、その土壌は一夜にして形成されるものではない。

サンダー・シングも、ペンテコステ運動も、おそらく、Dr.Lukeがこれまでに受け入れて来た偽りの一端でしかなく、自己の神格化という同氏の発想の基礎は、ローカルチャーチの時代か、あるいはもっと以前から存在していたものと考えられる。

さて、話を戻せば、すでに述べた通り、Dr.Lukeが自己の神格化を正当化するために引用している詩編も、文脈が歪曲されており、Dr.LukeやKFCが自分たちを「神々である」とみなす根拠とは全くならない。それどころか、それはむしろ、彼らのように、自らを神々とみなして高慢になっている者たちを辱める文脈で書かれたものなのである。

この詩編は、それが書かれた当時のイスラエルで、賄賂を取って正義と真実を曲げて、貧しい者たちを不利に陥れる不正な裁きを行いながら、自分たちは「神々である」と誇っていた不義なる裁判官らを罪に定める文脈で書かれたものである。そして、主イエスも同じように、地上におられた当時、自分たちは律法を完全に守っている立派な教師なので、通常の信者たちの及ばない高みに達している神聖な存在であると考えて自己義認し、救い主を否定して、人々に自分への尊敬を要求していたユダヤ教の聖職者らを辱めるために、この詩編を引用されたのである。

エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定する」(=「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」)というくだりは、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)との御言葉とあまり意味が変わらない。

つまり、いつの時代にも、神の裁きは、「我々は神の家にいて、最も神に近い存在であり、神と一つであるから、従って神々のようなものだ」と、自分を誇り、他の信者を見下している者たちを筆頭として行われるのである。自分こそ最も神に近く、他の信者とは別格だと考えて高慢に陥っている者たちを先頭に、神の裁きの御前に立たされることになり、そこで自らの不正な行いの数々を咎められるのである。

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(Ⅰペテロ4:17)

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:9-14)

そこで、神聖な会議の只中で、神の裁きの対象となっている者たちとは、まさに「われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである!」などと叫び、自分たちを「神々」であるとみなし、他の信者を押しのけて、まことの神ご自身とその御言葉までも退けながら、自己を神と同一視している者たちなのである。

「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」


この文面も、KFCにそのままそっくり当てはまる。Dr.Lukeは自らの罪を覆い隠すためならば、不正な裁判を起こすことも厭わず、自分に有利な裁きをさせて、真実と正義を曲げた。そのような行動は、自分に逆らう者たちに対しては容赦なく濡れ衣を着せ、恫喝裁判を起こし、教会や信者を敵に回しながら、無差別に迫害して来た村上密氏率いるカルト被害者救済活動のような、神に逆らう者たちの活動と一体、何の違いがあろうか。

ところが、彼らよりももっと悪いことには、Dr.Lukeは表向きには、カルト被害者救済活動や、キリスト教界と一線を画し、自分は彼らとは全く異なる信仰的立場に立って、彼らよりも優れて真理を知っているかのように振る舞いながら、水面下ではカルト被害者救済活動の支持者や、現役のキリスト教界の信者らと公然と手を結び、彼らと結託して、無実の信者を陥れる計画を練って来たのである。カルト被害者救済活動が弱者を食い物にして成立しているように、KFCもまた、寄る辺ない者たちを見下し、踏みつけにして、自分たちの栄光を築き上げる道具として利用して来たのである。そうでありながら、一体、どんな理屈で、彼らがキリスト教界を非難できるのだろうか?

いつまでこうした連中は不法と搾取に頼り、己の栄光のみを求め続けて神に逆らうのであろうか。神は彼らの不正をすべて覚えておられ、必ず彼らに報復される。そして残忍な彼らの手から、苦しむ者を救い出される。

そこで、「彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。」という非難も、ニッポンキリスト教界ではなく、まさに霊的盲目に陥った高慢な人々(ここではDr.LukeとKFC)に当てはまる。

さらに、「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。」という御言葉も、Dr.LukeやKFCのように、己を神以上に高く掲げる高慢な罪人らに対する文字通りの死の宣告なのである。

君侯のように、いっせいに没落する」という訳は、「君主たちのひとりのように倒れよう」という新改訳よりもより厳しい響きである。御言葉を否定して、闇の中を歩いている者たちに、滅びは、盗人のように突如として襲いかかるのである。

「人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」(Ⅰテサロニケ5:3)

従って、Dr.Lukeがどんなに聖書の文脈をさかさまにしてその意味を歪曲しようと試みたとしても、この詩編は彼らを「神々」として持ち上げる根拠とはならず、また、そこにある滅びの宣告も、ニッポンキリスト教界ではなく、彼ら自身に向けられるものなのである。

このような御言葉を引用した以上、その報いは、必ず彼ら自身に実際に及ぶことになるだろう。それは霊的法則性であるから、変えようがない。ただ一つこの報いを逃れる道は、悔い改めてまことの神に立ち返ることだけであるが、ニッポンキリスト教界への憎しみを放棄することが、果たしてDr.Lukeにできるだろうか。病もここまで進行すると、後戻りは不可能に思われてならない。すでに述べた通り、彼らをここまで霊的盲目に陥れられたのは、神ご自身であると考えられ、それは真理を喜ばず、悪を喜んでいた者たちが悔い改めて癒されることなく、裁かれるためなのである。

「この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、
 自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:10)

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)



・キリスト教界に対する憎しみと被害者意識による連帯 KFCとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の同化と、彼らの「東洋的な福音への回帰」

それにしても、Dr.Lukeのニッポンキリスト教界に対する絶え間ない侮蔑・嘲笑・憎しみが、ついに時至って、聖書の御言葉と、キリスト教そのもの、神ご自身に対する挑戦・敵対へと変わりつつあるのは恐ろしいことである。

ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!」というDr.Lukeの言葉は、西欧キリスト教に幻滅し、靴の塵を払い落としてアジアの国々へ向かったサンダー・シングの姿とほぼ重なる。サンダー・シングは西欧キリスト教を拒んだだけでなく、それを機に、御言葉の二分性を否定して、「東洋的な愛と赦しの母性的受容の福音」を捏造したのであるが、Dr.LukeとKFCが「英語圏キリスト教」から離脱して向かう先も、サンダー・シングと同じように、「東洋的な福音へ回帰する」ことだと思われてならない。

(カタカナ英語を振りかざすことで、先駆的なイメージを演出しようとして来たDr.Lukeが、「英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!」と主張するのは、正直に言って、可笑しいほどの自己矛盾であり、そのように主張するならば、まずは不自然なカタカナ英語を捨てて、聖書の引用も、英語以外の言語にすれば良いだろう。

思い出されるのは、筆者が初めてDr.Lukeと面会した際に、同氏がキリスト教徒というよりも、禅寺の住職に極めて近いという印象を受けたことである。"Pastor"よりも、むしろ「坊主」と呼んだ方がしっくりくるような風貌ゆえであったが、これも一種の予感だったのであろうか。)

だが、むろん、当然のことであるが、「東洋的な福音」などというものは、実際には存在しない。福音には西も東もなく、英語圏も非英語圏もなく、ただ一つ同じ聖書が存在するだけである。もしあえて東洋的な福音というものがあると仮定するならば、それは、ペンテコステ運動や、サンダー・シングの教えのように、東洋的神秘主義とキリスト教の混合としてのバビロン宗教だけなのである。

だが、Dr.Lukeにとっては、ニッポンキリスト教界を踏みつけにし、これに対して勝ち誇ることさえできれば、何を利用しても構わないのであろう。同氏にとっては、伝統的なキリスト教徒よりも優位に立つことだけが、すべての目的となってしまっているのである。

このようにキリスト教界をどこまでも敵とみなす考え方は、キリスト教界の不祥事を次々と探し出しては、これを告発することを生業として来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、カルト被害者救済活動の支持者と根本的な共通性・親和性を持つものである。

このような現象が起きるのは、彼らの心に巣くう闇であるキリスト教に対する憎しみと被害者意識赦せない思いに悪霊がつけ込んだことにより、それがキリスト教そのものへの敵意と憎しみに発展し、最終的には、聖書の神ご自身に対する反逆へと発展しつつあるからに他ならない。

つまり、Dr.Lukeや、カルト被害者救済活動の支持者らを、キリスト教界に対する敵対行動に駆り立てているものは、キリスト教そのものに対する彼らの被害者意識なのであり、こうした人々に共通する被害者意識の一端を、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信者のcandy氏の記事にも見ることができる。

すでに記事でも書いたように、2010年の時点で、candy氏は未信者の夫と自分自身を、迫害されているイエスになぞらえて、キリストと同一視する記述をブログに記している。すなわち、主イエスが彼女に向かって(彼女の夫を指して)「私のために祈っていただけませんか」と懇願されたと述べて、彼女は夫とキリストを同一視し、それによって信者と不信者の区別、神と人との区別をうやむやにし、かつ、キリストを自分自身よりも下に置くのである。
 

主と一つ (candy氏のブログ「十字架の恵みが溢れて」から抜粋)
 2010.11.18 Thursday  から抜粋

 サウロは主の弟子たちを脅迫し、迫害し、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いてくるためにダマスコに向かっていた。
 その途中の出来事だった。
 このときはすでにイエスご自身はこの地上にはおられなかった。でも主がサウロに現れておっしゃったことは、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語られた
「なぜわたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかった。
「なぜわ・た・し・を迫害するのか」と仰せられたのです。

 この箇所を読むたびに、思い出すことがある。
 それは主人の闘病中に語ってくださった主の言葉を忘れることができない。
 初めて外来での抗がん剤を投与する日、主人を送ったあと、病院の駐車場に向かっているその時だった。

 主の御名を呼び求めながら歩いていると
 「私のために祈っていただけませんか」
 という御声を感じた。
 
 私はその御声を聞くと同時に、それが主人のことであることがわかった主は、主人のことを祈るように言われたのではなく、
 私のために祈って欲しい・・と語られたのだ。

 私は・・・胸がいっぱいになって言葉を失い、驚きと共に涙がどっと溢れ出た。
 それほどに、主はご自身と、信じる者とを一つとしてくださっている。主の中で区別などないほどに
 ひとつとしてくださっているのだ。
 あなたがたはキリストのからだであって、
 ひとりひとりは各器官なのです。
 第一コリント12:27
 
主の深い愛を褒め称えます。
詩篇の歌を持って褒め称えます(以下略)


ここに、「主の中で区別などないほどにひとつとしてくださっているのだ。」と書かれているように、ここでは、神の聖なるものと、汚れたものとの区別が事実上、なくなっており、人間がキリストと同一視されて、神と人との区別までが消え失せている。

こうした考えは、ちょうどサンダー・シングとウォッチマン・ニーの鉄と火のたとえ話のように、神と人間とが親密に「混じり合う」のみならず、もはや「区別などないほどに一つ」となって、神と人との境界線まで消え失せて、信仰がなくともまるで人がそのまま神であるかのように神格化されて行くのである。

また、そこでは、「御声を感じた」とあるように、五感に訴えかける感覚体験が強調されるが、このように、第三者による客観的に立証が全く不可能な個人的な幻や神秘体験を信仰の証であるかのように強調することは、ペンテコステ運動の大きな特徴である。

さらに、この記事に限らず、ペンテコステ運動に関わる信者たちの告白には、不自然で大げさすぎる感情表現が目立つ。以上で挙げたDr.Lukeの記事もそうなのであるが、その不自然な抑揚から、彼らを突き動かしているものが、冷静な思考ではなく、自分を熱狂させてくれる感情と感覚の刺激であることが、どの記事を読んでも、すぐに分かるのである。

このように大袈裟な感情表現を用いて、絶えざる熱狂と不自然な感動の涙に明け暮れ、絶えず自分の気分と感情を高揚させてくれる魂的・肉体的な刺激を求めずにいられない中毒患者のような症状も、ペンテコステ運動に関わる信者に特徴的である。

こうした大袈裟な感情表現は一見、「神」を口実にして、信仰の証のような形式を取ってはいるが、実際にはすべて自己の満足のためになされるものであり、流される涙も、熱狂も、全て自己のためである。Dr.Lukeは自分たちが「神々である」と言って、神以上に自分自身を高く掲げて熱狂し、candy氏はキリストが彼女に現れて、彼女の前でひざをかがめて(夫を指して自分のために祈って欲しいと)懇願されたとして、自分(と夫)を神に等しい者として掲げながら、自分のために感動の涙を流すのである。

こうした自己陶酔的な告白には、常にある種の自作自演的・作為的な印象がつきもので、不自然な印象が拭い去れない。何よりも、こうした自己陶酔的な感動や熱狂は、彼らの実年齢に照らし合わせて、あり得ないほどに子供じみているという印象を受けざるを得ない。10代の少年少女ではなく、それなりの年齢に達しようとしている壮年の大人が、これほど子供じみた一方的な熱狂に周りもわきまえずに没頭し、自画自賛しながら、一方的な涙に明け暮れたり、あるいは熱狂の雄叫びをあげる様子は、極めて奇妙かつ不自然、そして不気味な印象を与える。なぜペンテコステ運動の信者らには、年齢相応の落ち着きが全く見られず、絶えず自己を中心とした軽薄な浮かれ話しか話す話題がなく、自分がいかに満たされたかという体験だけで、年がら年中自画自賛にふけっていられるのであろうか。その幼児化と言っても差し支えない自分への熱中こそが、彼らを突き動かしている衝動が誤っていることの一つの明白な証拠だと言えるのではないか。

ペンテコステ・カリスマ運動が信者を感情と感覚の刺激にばかり駆り立て、落ち着いてものを考えさせないせいで、この運動に関わった信者らの知的成長が遅れるということは、十分にあり得る。人は他者の言葉の受け売りばかりをどれほど繰り返し、あるいは、刺激的な体験を受け続けても、そんなことでは、人格が成長することはない。人は自らものを考え、自らの判断で試行錯誤しながら、逆境を切り抜けて前進して行ったその度合いによって成長する。それは信仰によるキリストとの歩みも同様で、誰にも知られないところで、どれくらい静まって、主と共に一人で問題に立ち向かって来たか、どれくらい密室での知られざる祈りと信仰による知られざる行動を積み重ねて来たかがものを言うのである。

だが、自分を喜ばせてくれる感覚刺激や神秘体験にばかり明け暮れているペンテコステ・カリスマ運動の信者らは、まるでひっきりなしにジェットコースターに乗り続けている乗客のように、一切自分の考えを放棄して感覚刺激に身を委ねているだけなので、彼らがどれほど数多くの「恵まれた」体験談を披露しても、それは人を成長させる力のない、あまりにも自己中心で薄っぺらい感動でしかなく、そのような「感動」には、周囲の人々を突き動かす力もない。しかもその喜びはすべて外界からの刺激に依存したものであって、本人の信仰によって困難を粘り強く耐え抜いて得られた勝利ではないので、説得力もなく、そんな浅はかな熱狂からは、全く本人の人格的生長が見えず、そうした「喜ばしい」体験談を聞けば聞くほど、作り事のようなわざとらしさと不自然な誇張に対する胡散臭さだけが印象に残るのである。

自分を喜ばせてくれる超自然的な神秘体験ばかりを追い求める人々は、自分ではその不自然さが分からないのであろうが、早い話が、彼らの人格的成長は著しく止まってしまうのである。止まってしまうくらいならばまだ良いが、何かしら退行現象のようなものが起きて、次第に、物事の考え方・受け止め方の範囲が著しく狭まり、思考が幼児化して行くのである。そして、最後には、自分にとって何が「快」であり、「不快」であるかという、赤ん坊のように単純な基準を通してしか物事を判断できなくなってしまう。

そういった現象は、サンダー・シングのように、「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などと言って、知的考察を退けたことの結果として起きるのであり、何を信じるのも本人の勝手とはいえ、筋力も使わなければ衰えるのと同様、人間の思考力も、使用しなければ無いも同然に退化するのだということを覚えておかなければならない。

自分に二本の足があって自由に動けるのに、わざわざ車いすに乗って移動する人がどこにあるだろうか? 同じように、神は人間に健全な思考力や判断力や、自ら考察する力を確かにお与えになったのであり、しかも、一人一人の人間には、他のどんな動物と比べても、はるかに優れた思考力が豊かに与えられているのである。にも関わらず、なぜ人間がわざわざ自らの存在を「全一的」にとらえず、自分自身の一部である知的な思考能力だけを悪いものであるかのようにみなし、これを退けて、己の情と感覚に従って生きようとする必要があるのだろうか? そのようなことは人間の自主的な後退以外の何物でもない。

さらに、福音をミルクにたとえるにしても、神は人間をいつまでも哺乳瓶にしゃぶりついている赤ん坊のように弱い存在として造られたわけではない。福音にも、信者の成長段階に応じて種類があり、ミルクだけでなく、堅い食物も存在することは、聖書が示している通りである。にも関わらず、いつまでもミルクばかりを飲んで生長しようとしない信者を叱責して、パウロは次のように述べた。

あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:12-14)

サンダー・シングのように、信者が自分の頭を使って自ら考えることを嫌い、ただ受動的に「ミルクを飲む」ことだけを勧める偽りの教えに聞き従っていたのでは、信者は永久に霊的幼児のままこの世を去ることになろう。信者が自ら思考を働かせ、識別し、考察しようとしなければ、その信者には「良い物と悪い物とを見分ける感覚」が訓練されることは永久にない。自ら思考を放棄していながら、「考え方においてはおとなにな」る(Ⅰコリント14:20)ことは誰にもできない相談である。

だから、ペンテコステ運動や、サンダー・シングのような思考停止の教えを受け入れた信者の人格的成長が完全に止まってしまうのは当然であると言える。

どんなに「幻を見た」とか「主イエスの御姿を見た」「御声を聞いた」と誇ってみても、キリストの御言葉に従わない人たちに、信者としての成長などあるはずもなく、肉の思いで幻を見たことを誇るだけで、キリストに結びつかない根無し草のような信者たちについては、聖書は次のように警告している通りである。

「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(コロサイ2:18-19)

さらに、もう一つ重要なこととして、candy氏が「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの御言葉に、キリストご自身を追い出す形で人間に過ぎない自分自身を投影し、まるで迫害されているのが、主イエスではなく、自分たち人間であるかのように表現していることにも注意が必要である。

ここで「なぜわたしを迫害するのか」という聖書のフレーズが登場するのは決して偶然ではない。ペンテコステ運動(中でもとりわけアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団)は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員、等々、社会や教会から打ち捨てられて来た弱者を積極的に伝道対象として来たが、そのように弱さを抱えた人々の心には、往々にして、自分たちは社会から冷遇され、打ち捨てられ、疎外されて来た弱者だという被害者意識と、深い厭世観が横たわっている。

カルト宗教が様々な弱点を抱えた人々を積極的に勧誘するのは知られていることであるが、こうした人間的な弱点が、ペンテコステ運動と結びつくと、それまで彼らが持って来た厭世観や疎外感が、彼らを見捨てて来た伝統的なキリスト教と、神ご自身への恨みとして向けられることになる。

もちろん、彼ら自身は、自分たちは正しい神を信じている正統なキリスト教徒だと思い込んでいるので、キリスト教を敵視しているという意識は必ずしもないかも知れない。

だが、実際には、統一教会やエホバの証人やものみの塔の信者も、自分たちを「クリスチャン」であると名乗っているのと同様、自らクリスチャンを名乗っているからと言って、その人々がどんな教義を信じているのかは、調べてみなければ分からないのである。

ペンテコステ運動は、これまで見て来たように、その教義自体が聖書から逸脱しており、異端としか言いようのない構造を持っている以上、どんなにこの運動に関わる人々が、自分たちは敬虔なキリスト教徒だと自称したとしても、この運動自体が、伝統的なキリスト教に対する対抗・挑戦となることは避けられない。

こうした運動に関わる人々の心の根底には、従来のキリスト教界に対する敵意と反発が無意識のうちに根を張っており、それが異端の教義と合わさって、自己の弱さを神格化することで、キリスト教全体の上に立ち、これを見返すというところにまで至るのである。

マザー・テレサが「貧しい人たちの内にはキリストがおられる」と述べて、信仰のない貧しい人々をそのまま神格化しようとしたのと同じように、弱者救済の運動として始まったペンテコステ運動も、人の弱さそのものをあたかも「神聖なもの」であるかのように祀り上げ、もてはやす。さらに、そこに御言葉を深く考察・吟味しようとせず、人間の五感に心地よく訴えかけて来る偽りの神秘体験に飛びつくことによって、信者が手っ取り早く神に近づけるかのような誤謬が合わさって、この運動の影響を受けた人々は、地道な信仰の歩みの積み重ねなしに、自分の弱さと神秘体験を通して、あたかも「一足飛びに他の信者を超越して神に近い存在になった」かのように思い込むのである。

ペンテコステ・カリスマ運動のような偽りの教えは、人の弱さをありのままで肯定しながら、なおかつ、それを恥ではなく、「神聖な要素」にまで高め、さらに、弱さを抱える人々を一足飛びに、通常の人々の及ばない高みにまで引き上げ、栄光化してくれる点で、生まれながらの人間、特に様々な問題や弱さから抜け出せずに、コンプレックスや恥の意識を心深くに抱えて来た人々にとっては極めて都合が良いのである。

上記の記事で、candy氏が信仰を持たない夫をキリストと同一視する理由も、「弱さ」にこそあると考えられる。自分たちは、様々な弱さによって社会的に追い詰められ、苦難をくぐり抜けて来た弱者であるからこそ、迫害されているキリストに近い存在なのだ、という思想が無意識に影響しているのではないかと考えられる。

「多くの苦難を通り、追い詰められて来た弱者であるからこそ、神聖である」――そういう自覚が、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というくだりに自分たちを重ね合わせ、迫害されているキリストに自分たちをなぞらえるという発想を生んでいると考えられるのである。そのようにして、病や、障害や、苦難を美化し、自分たちの弱さをあたかも神聖なものであるかのように祀り上げて美化し、追い詰められている自分たちをキリストと同一視して、自分たちのために自己憐憫の涙を流すのである。

こうした記述の背後に隠れているのは、ペンテコステ運動が、弱者救済の名の下にしきりに助長・肯定して来た人間の弱さ(もしくは罪や、被害者意識)そのものの美化、神格化である。

聖書に目を向けるならば、使徒行伝において、主イエスを迫害したのはあくまで信仰を持たない人間(サウロ)の側であった。だが、以上の記述では、人間が迫害されているキリストに置き換えられることによって、聖書の文脈が全く覆い隠され、真の被害者は神であるという事実が、隠されている。

たとえサウロが迫害した対象が教会であっても、結局、そこで迫害されているのは、個々の信者ではなく、キリストご自身なのである。そして、生まれながらの信仰を持たない人間は、今日もサウロと同じく、神に対して迫害者なのであり、悔い改めて立ち返らなければならない立場にある。

ところが、candy氏のような記述では、迫害されているのは、神ではなく人間、しかも、彼ら自身であるかのように立場が置き換えられ、人間が神に対して犯した罪というものが、全く言及されない。不信者は、神の御前に悔い改めねば受け入れられない罪人であるという事実は否定され、むしろ、不信者が「神」の立場に置かれ、神はただ人間の苦難に寄り添い、あるいは人間の本来的に神聖なることを追認するための存在でしかなくなり、聖書の文脈がまるで完全にさかさまにされているのである。このような聖書の文脈の歪曲は、まさにグノーシス主義の特徴である。

だが、では一体、彼らは自分たちが何によって迫害されていると言うのか? 

そこで言外に示されているのは、「自分たちは聖書の神と御言葉とキリスト教とクリスチャンによって不当に迫害されて来た弱者だ」という主張である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、Dr.Lukeのような人々が、なぜキリスト教界そのものを敵とみなすかのような活動を繰り広げて来たのか、その理由を考えてみたい。彼らがクリスチャンを名乗っているからと言って、信者はそれに惑わされるべきではない。彼らが最も「敵」とみなして戦っている相手は、伝統的なキリスト教、伝統的なクリスチャンたち、聖書の御言葉、ひいては聖書の神ご自身なのである。

サウロは信仰を持たない時代に、ユダヤ教徒の観点から、救い主なるイエス・キリストを否定して教会を迫害していたのであるが、グノーシス主義者らは、今日、聖書の文脈をさかさまにして、聖書の御言葉を曲げる自分たちこそ、神であって、彼らは(残酷な)キリスト教徒たちによって、不当に迫害されている弱者であり、迫害されている神である、と言う。

従って、Dr.Lukeの文章にも、candy氏の文章にも、彼らのキリスト教に対する被害者意識が、言外に表れているのだと言えよう。candy氏は「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの言葉を自分たちに当てはめて自己憐憫の涙を流し、Dr.Lukeは以下の御言葉が、自分たちの不正に向けられた非難ではなく、ニッポンキリスト教界が彼らに対してなしてきた悪事に対する非難であるとして文脈をすり替える。

 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」

こうして彼らは、自ら聖書の御言葉を曲げ、その信用を毀損しておきながら、自分たちこそ、キリスト教によって虐げられた被害者である、と言うのである。

こうした文脈のすり替えは、偽りの霊だけがなしうることであり、偽りの霊は、人間の持つ何らかの被害者意識を足がかりとして人の自己の内に侵入し、それを増幅させて、「自分たちは不当に追い詰められている弱者である、ゆえに最も神に近い神聖な人々である」という自負を作り出す。そして、聖書の文脈を乗っ取って、御言葉からまことの神を追い出して、人間に過ぎない自分自身を神の座に据え、他の愚かな信者たちには、無知ゆえに、自分たちが神であることが分からないため、自分たちを不当に迫害するのだ、と言うのである。

だが、こうして「迫害されている」被害者の立場に自分を置こうとするところに、すでに書いた通り、悪霊たちの将来に対する動かせない予感が込められていると言えよう。悪魔と悪霊は、自分たちを待ち受けている神の裁きが否定できないものであることを確実に知っており、キリストの贖いの十字架を退けた人間が、どんなに自分は神だと叫んでも、彼らに待ち受けている末路が恐ろしいものとなる事実を知っている。

特に、悪霊たちは、自分たちの嘘偽りを知っている神ご自身と、彼らを罪に定める聖書の御言葉と、クリスチャンの信仰告白に対する本能的な恐怖を持っているのである。

その恐怖は、マタイによる福音書で、イエスと出会った悪霊たちが、まだイエスが何も言わない先から、自分たちが罰せられることに怯え、「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめるために来られたのですか。」(マタイ8:29)と叫んだことにも見て取れる。

だから、キリスト教界に対するDr.Lukeや村上密のような人々の憎しみと攻撃にも、同じことが見て取れるのである。彼らのキリスト教界に対する被害者意識は、個人的にはどんな出来後が原因となって生じたにせよ、その根底にあるのは、彼らを導く悪霊どもが、自分たちが反キリストの霊の持ち主であることを暴かれたくないという本能的な恐怖に由来する。自分たちが羊に偽装して群れの中に入り込んだ狼であることがいつか必ず暴かれて、自分たちがキリスト教徒の真の「敵」として攻撃され、排斥されることへの本能的な恐怖があればこそ、彼らは自分が訴えられないために、先手を打って、キリスト教そのものを「悪者」として告発し、クリスチャンに濡れ衣を着せようとしているのである。

それは律法学者やパリサイ人たちが、自分たちの不義が暴かれないために、主イエスを十字架にかけて殺したのと同じ敵意・憎しみ・殺意である。すべては罪人らが神の刑罰としての十字架を退けて、自己義認、自己正当化するために行なわれていることである。しかも、救い主を拒みながら、なおかつ、自分たちは被害者だと居直っているのである。結局、彼らの言いたいことは、「自分たちは聖書の神の被害者だ、十字架という人類に対する刑罰は不当だ」ということに尽きる。彼らが告発している相手は、ニッポンキリスト教界や、個々のクリスチャンや教会ではなく、まことの神ご自身なのである。



・コンプレックスと復讐心の裏返しとしての「エリート主義の福音」

さて、グノーシス主義は、「エリートの福音」である(以下注参照)。グノーシス主義者は、自分たちが(キリストの贖いのゆえにではなく)自己の弱さのゆえに、あるいは罪のゆえに、生まれながらに本来的に聖なる存在とみなし、そのように考える自分たちが、聖書から逸脱しているのではなく、むしろ、一般信者には知り得ない「隠された教え」にあずかったのであり、他方、一般会衆は愚劣で盲目であるがゆえに、それを知覚できないだけだと考えて、他の信者を見下しながら、自己の高慢をどこまでも正当化して行く。

エリート主義というのは、そもそも見下し、踏みつけにする相手がいなくては成立しない。グノーシス主義が踏みつけにする相手とは、キリスト教である。グノーシス主義はそれ自体が旧約聖書の神に対する敵対・挑戦として生まれて来たのであるが、その教えは東洋思想を経由して今日までも連綿と受け継がれ、あたかもキリスト教であるかのように偽装して、神の教会に入りこみ、神の御手から聖徒らを奪い、教会の建造を押しとどめようと狙っている。

だが、エリート主義とは、決して真に優れた人々から生まれて来るものではなく、むしろ、人間の弱さと劣等感の裏返しとして生まれるものであり、人が自らの罪や弱点から目を背け、弱さを持ったままで一足飛びに他者を超越して高みに達し、そこから自分よりも強い者を見返そうという復讐願望から生まれた心理的トリックである。
 

(注:荒井献氏は、グノーシス主義ナハシュ派(ナハシュとはアラム語で「蛇」の意)の文献である『トマスの福音書』の解説の中で、次のように記している。

「以下に収録されたイエスの言葉の意味は、一般会衆には「隠され」ている。それは、イエスによって「覚知(グノーシス)」を得る用意のある宗教的エリートにのみ保留されている。これがグノーシス主義の根本的立場といえよう。「隠された言葉」は、ここではコプト語で言い表されているが、これをギリシア語で表現すると「アポクリュフォン(その複数形が「アポクリュファ」)となる。そしてこの表現は、グノーシス文書の標題に多用されている(例えば『ヨハネのアポクリュフォン』『ヤコブのアポクリュフォン』など)。そしてこれが、一般的には「秘書」あるいは「秘教」と訳されるように、われわれのトマス福音書のイエスの教えも、トマスによれば、「秘教」そのものなのである。」
『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社学術文庫、1994年、p.120.


真に優れた人間は、自己の優れた能力をもって他者の欠点を補い、他者を生かそうとするものであり、決してそれを自己の手柄として誇示したりしない。自分の強さによって他者を貶めたり、他者の弱点につけ込んで救済者になろうとはせず、他者に君臨することを目指さない。そういうことをするのは、常に、弱さと劣等感を抱える人間だけである。

キリスト教界を告発することにより、神と教会と信者に復讐を果たそうとするカルト被害者救済活動も、ニッポンキリスト教界を踏みつけにして勝ち誇ろうとするDr.Lukeも、同じように、キリストご自身につまづき、神と聖書の御言葉につまづき、これに被害者意識を持った人々である。

こうした人々がしきりにキリスト教界に悪罵を投げつけているのは、それによって、彼らのありもしない「エリート性」を誇ると同時に、彼らが聖徒らから正体を見抜かれ、排斥されることを避けるためでもある。

この人々は、本能的にキリスト教を恐れているのである。それは、自分の時が短いことを知って怒り狂う悪魔の焦りにも似て、自分の終わりを予感していればこそ、その前に、可能な限り、聖書の御言葉を毀損して、できるだけ多くの信者を欺きに巻き込んで苦しめ、神の栄光を傷つけようと、暗闇の軍勢が彼らの存在を通して、絶えず神とキリスト教とクリスチャン全般に対して霊的攻撃を続けているのである。このような偽装信者に対する裁きは昔から滞りなく行なわれており、彼らが相応の報いを受けずに済むことは決してない。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイ7:15-16) 

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

「イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」(Ⅱペテロ2:21)


Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑮

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-4)

・悪霊が人の魂(思いと感覚)の領域に作り出す「偽物の霊的体験」としてのペンテコステ運動や、サンダー・シングの教えに欺かれたDr.LukeとKFC
 

Dr.Lukeはメッセージの中であからさまにサンダー・シングに言及してはいないが、それでも、両者の言い分を比較すれば、実に多くの共通点があることがすぐに分かる。

たとえば、サンダー・シングの著書には、「祈りと波動」という項目もあり、その付近には次のような記述が存在する。
 

「<略>神は無限であり、人は有限である。人は無限なる神を十分に理解することはできないが、神は人の中に神を味わうことのできる感覚をお造りになった。」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.151)

「<略>脳は多くの繊細な感覚を備えた実に敏感な器官で、瞑想中にみえざる世界からの情報を受けとり、普通の人間をはるかに超えたアイデアを刺激する。脳がこのようなアイデアを生むのではなく、上にあるみえざる霊界からこれを受け、人間にわかりやすい言語に変換するのである。夢の中でこうしたメッセージを受ける人もいれば、異象の中で受ける人もおり、また瞑想中の覚めた時間に受ける人もいる。

 祈りは、こうして得られた情報の中から有用なものと無用なものとをふるい分ける。真の祈りの中で神からの光が解き放たれ、良心、倫理観の座である霊魂の最奥部、一番敏感な部分を照らすからである。色鮮やかな色彩、心地よい音楽その他、見えざる世界からの素晴らしい光景や音色が、脳の内部で反射される。画家や詩人は、その本当の源を理解することもなく、彼らを打つこうした見えざる実在を詩や絵に写そうと試みるが、瞑想する人はこうした実在のいわば核心部分に触れて無上の歓びを味わうのである。それらの出所である霊界と本人の霊魂とが密になっているからである。」(同上、p.150)


瞑想中にみえざる世界からの情報を受けと」るとか、「実在のいわば核心部分に触れて無上の歓びを味わう」とかいった個人的な神秘体験を強調するサンダー・シングの記述は、Dr.Lukeの「霊界からの振動・波動を聞く」といった主張や、KFCやペンテコステ・カリスマ運動が常に強調する(偽物の)「聖霊のバプテスマ」や「異言」といった恍惚体験にほぼ重なる。

ここで、サンダー・シングは、「神は人の中に神を味わうことのできる感覚をお造りになった。」と、人間があたかも己の感覚を通して神に至ることができるかのように教える。そして、「実在(=神)との交わり」の甘美さを強調するために、人の五感を刺激する巧みな描写を用いて、彼の言う「霊界」の魅力的な世界を描き出そうとつとめる。

サンダー・シングが聖書に則って「神を知る」という表現を用いずに(たとえばヘブル8:11では主を「知る」と表現される。ここでの「知る」という言葉には人格を持った者同士の親密な交わりの意味がある)、あえて「神を味わう」と、まるで神を食べ物(対象物)であるかのように表現していることにも注意が必要である。

このように、人間の味覚を使って神との合一の甘美さを表そうとする特徴は、Dr.Lukeの「神との交わりは甘い」という言葉や、鈴木大拙の「二度目の林檎を食べぬといけない」という表現にも表れており、さらに、以前にも記事で紹介した通り、それは何よりグノーシス主義に見られた特徴なのである。

たとえば、ヴァレンティノス派のグノーシス文献、『真理の福音書』では、キリストの十字架そのものが、人間を喜ばせるための甘く喜ばしい「果実」へと変えられる。その十字架は、聖書の教えるような、人類の罪のための贖いの犠牲ではなく、「人が内なる神的自己を発見する機会」に歪曲された十字架である。
 

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではないそうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのであるなぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」

……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ、……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」。(『ナグ・ハマディ写本』、エレーヌ・ペイゲルス著、白水社、p.169-170)


このように、異端の教えは、神だけでなく、キリストの十字架の概念も歪曲し、十字架を人間にとって都合よく、人間を喜び楽しませるための「甘く麗しい果実」へと変えてしまう。 

(筆者がcandy氏のブログタイトル「十字架の恵みが溢れて」という標題そのものに深刻な違和感を覚えるのもそのためである。)

そこでは、十字架はもはや人類の罪のための身代わりの刑罰ではなく、むしろ、人間の生まれながらの自己を高めるための道徳的感化や、新たな知識やインスピレーションの源へと歪曲される。そして、イエスの十字架の死が、しばしば、苦しみに満ちた出来事ではなく、まるで喜ばしい出来事であったかのように描写されるのである。

偽りの霊が、このように十字架の概念を歪曲するのは、そこに何とかして十字架から人類の罪に対する神の刑罰としての側面を除き去り、人間に下された神の刑罰を否定して、人間を無罪放免したいという欲求が働いているからである。

そのために、偽りの霊は、十字架を甘い砂糖菓子のように人間に都合よく味つけし、花輪で飾り立て、十字架を人間にとって罪や恥辱や刑罰の象徴ではなく、むしろ、人の生まれながらの自己を飾り立て、高めるための、喜ばしく楽しいツールへと変えてしまう。そうすることによって、彼らは、「神が罪人と自分を同化するために死んで下さったのだから、罪人はもはや罪人ではなく、神なのである」と主張して、十字架さえも、人が堕落した自分自身の内にありもしない「神的自己」を見いだす手段へと変えて行くのである。

グノーシス主義とは、その名が示す通り、人が本来的な自己に目覚めさえすれば、その知識によって「神のようになれる」とする神秘主義の教えであり、もともとは悪魔に由来する偽りであるが、この思想は、自らの主張を正当化するためならば、聖書のあらゆる概念を歪曲し、捏造する。

サンダー・シングの言葉も、一見、聖書に似ているようであるが、御言葉と対照しながら読んでみると、すべての概念が歪曲だらけ、捏造だらけで、結局、その言わんとしているところは、聖書の御言葉とは真逆であることが分かる。

例を挙げれば、Dr.Lukeは記事「
サンダー・シングのことば」(2008年1月17日)で、サンダー・シングの文章を無批判に大量に引用しているので、いくつかその中から例を挙げてみよう。
  

「神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。」

キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。」

「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」

今われわれは、富も地位も名誉も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天に変えしめた主のみを必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。」

「神の化肉について

かつて、ヒマラヤ山中にいた時、わたしはサトレジュ河を渡ろうとしたが、橋がなかった。とても泳いで渡れるところではなかった。どうしたものかと考えていた時、一人の男を見つけたので、彼に声をかけた。

「向こう岸に行きたいのだが、橋もなければ船もないのです。」すると彼は、「心配ない。空気が向こう岸につれてってくれるさ」と答えたので、私はびっくりした。空気を吸うことは出来るが、吸った空気で体が持ち上がり、対岸にいけるわけでもない。すると相手は獣皮をとりだして、空気をそこに吹き込み、ゴムボートにしてそれに乗れと命じたのである。こうして私は安全に向こう岸に辿りつけた。空気は皮の中に閉じ込められることによってのみ、私を運ぶことができた。

同じく、神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。

「わたしを見たものは、すなわち父をみたのである。」われわれは、イエス・キリストの化肉の中に、生ける父を見ることができる。

世を救うために、全能の神自らが化肉されたのは、まさにその愛のためなのです。」


こうした文章がどれほどもっともらしく聞こえ、説得力のあるたとえ話を用いていたとしても、実際には、聖書が何を言っているのかに逐一照らし合わせて検証せねばならない。

たとえば、「神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。」といったサンダー・シングの文章も、キリストを単に人間のために天国への橋渡し役をつとめるボランティア船頭に過ぎないかのように描いて、キリストの十字架が人類の罪の贖いのためである、という聖書の真理を全く覆い隠している。
 
驚くべきことに、ここには十字架という言葉さえも登場してはいない。「神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである」とは言っても、一体、人類を何から救うために、神は受肉されたのか? 全く文脈が定かではないのである。

また、「
キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。」という文章も、一見、もっともらしく聞こえるが、聖書を著しく歪曲していることが分かる。聖書は次のように述べる。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

この聖書のたとえには、「塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。」などという事は一言も書かれていない。そもそもこれはサンダー・シングの述べているような自己犠牲による道徳的感化の価値を示すための話ではないのである。

この御言葉は、その直後に
「あなたがたは世界の光です。」、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14,16)とあるように、「地の塩」、「世の光」という両方のたとえが指しているのは、同じように、「あなたがたクリスチャンは、神によってこの世から召し出されたのだから、この世と迎合して同化したりせず、むしろ、御言葉に従って、何が神に喜ばれることであり、何がそうでないのか、その区別を公然と世に示し、天におられる父が栄光を受けられるようにしなさい」ということに尽きる。

つまり、「地の塩」や「世の光」といった表現を用いたたとえ話は、神の子らである信者たちと、この世との明確な区別を示しているのであって、神に聖別された者たちが、その区別を自ら失ってはいけないという戒めなのである。

ところが、サンダー・シングは、「
塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。」と話をすり替えることにより、御言葉の意味を真逆にして、信者とこの世の区別をうやむやにする。塩(クリスチャン)が水(この世)に溶けてしまえば、この世と信者との区別は失われる。にも関わらず、そのようにして自分を取り巻く環境(この世)と調和して自らの信仰を主張することをやめることが、信者のあるべき自己犠牲であるかのように、文脈をすり替えるのである。

さらに、上記の引用で、サンダー・シングは、「
福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などとも述べており、ここでも、またもや「味覚によって味わう」表現が登場すると同時に、聖書の御言葉の二分性に基づく知的分析が否定されている。

だが、考えればすぐに分かることであるが、ミルクはこの世の有限な物質からなるので時間の経過と共に腐敗もしようが
、「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10:35)のであり、聖書の御言葉は、人の短い一生を超えて永遠に変わらずに残るものであり、その御言葉が、人間の束の間の分析にも耐えられないようなことがどうしてあり得ようか。

むしろ、
のみことばは混じりけのないことば。主の炉で七回もためされて、純化された銀。」(詩編12:6)

とあるように、聖書の御言葉はあらゆる検証に耐えうる永遠の不変性を持ち、人間の知性による分析や考察を排除するものではないのである。

しかしながら、すでに書いたように、東洋思想は、聖書の二分性に基づく知性による分析や考察を嫌い、感情と感覚に基づいて直観的に行動することこそ、人間の本質であるかのように主張する。

すでに幾度も引用して来たように、鈴木大拙は、以下の文章で、エデンにいた時、人間は「行」のみの世界に生きていたが、善悪知識の木の実を食べたことによって、「知」が発生したのであり、それこそが失楽園の原因だとなったと述べて、知性による分析を悪しきものとみなし、これが消滅するか、もしくは「行」と一致して、悟りによって新たな世界が出現しなくてはならないと述べる(それが同氏の言う「二度目の林檎を食べる」とい言葉の意味である)。
 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)


このように知性による考察や分析を「悪しきもの」として退け、物事を自らの知性によって深く考えることを厭う傾向は、鈴木大拙・サンダー・シングに全く共通しており、東洋思想そのものの特徴なのであるが、これもまさに聖書をさかさまにした偽りなのである。

すでに見て来た通り、聖書における人類の失楽園のくだりは、人間が知性によって神の御言葉を理解し、これに聞き従うことを捨てて、己の情と欲に誘われて、己の欲することを後先考えずに行動した結果として起きた堕落であり、鈴木氏の言うように、聖書の二分性に基づく知性が人類の堕落の原因となったのではないのである。

すなわち、人間の堕落は、神が何を是とし、何を非として戒めているのか、御言葉による区別(二分性)を己の知性で吟味・理解し、それをわきまえて行動することをやめて、むしろ、「人間は行為を最先にして、それから反省が出る」と鈴木氏が言うように、知性による考察自体を放棄して、自分の行動の意味やその後先を全く考えることなく、ただ己が欲に誘われるままに、己の欲するところを行ったことによって起きたのである。

言い換えれば、人間の行動が意味と切り離されて、ただ情と感覚だけに基づいて、己の感覚的欲求を満たすことだけを究極目的とするようになった時、人類の堕落が起きたのである。

その堕落とは、人間が神に対して、神を喜ばせるために生きることをやめて、ただ己の満足だけを念頭に置いて、自己のためだけに生きるようになったという価値観・人生観の一大転換を意味する。その瞬間から、人間の全ての行動は自己の満足しか念頭に置かないものとなった。御言葉の二分性に基づく知性を放棄して、何が真に是であり非であるかをわきまえることなく、自分にとって好ましいものだけを全て「良い」ものと判断し、何もかもを自己の感覚を通して判断するという「全一的」存在になろうとしたことによって、人間は自己を客観視する能力までも失ったのである。
 
従って、そのような浅はかで衝動的で考えなしの自己満足的行動こそが、「薄っぺらだ」と非難されるべきであって、そのように知性と結びつかない短絡的衝動が人間の本能であるというのは、大変、嘆かわしい事実でしかなく、それもただ単に人間から知性を切り離して、堕落した動物的本能だけを指して本能だと言っているに過ぎない。

軍隊であっても、指揮命令を下すのは司令部であって、前線の兵士ではない。前線の兵士が受けた命令をどうして「薄っぺらだ」と言って拒めよう。同様に、人間が真に「全一的」であるためには、人が知性によって自らの行動の全てを律することが必要なのであって、その逆は決してあり得ない。「行」が「知」より優先されたり、「行」が「知」を支配することで両者の一体化を目指す世界は、反逆の世界でしかない。
 
だが、人間による知性の放棄と、動物的衝動への邁進と、その結果としての神への離反を後づけで正当化するために、鈴木大拙氏は「人間は行為を最先にして、それから反省が出る」生き物だ、と言うのであるが、このように東洋思想は、「行」の方が人間の本質であって、「知性」は本質ではない、と言うのである。

このような主張こそ、人間が自らの行為の罪深さを覆い隠すために作り上げた自己弁明のための詭弁なのである。しかも、鈴木氏がそこで悪者にしようとしている「知性」とは、聖書の御言葉の二分性のことではなく、むしろ、人類が善悪知識の木の実を取って食べたことにより、悪魔が人類に吹き込んだ偽りの思想、偽りの知性を指している。

従って、もし「知性」による分析や考察が悪者にされるのだとすれば、その非難は、聖書の神の御言葉に基づく知性に対してではなく、悪魔が吹き込んだ偽りの思想に対してこそ向けられねばならない。ところが、東洋思想はこれを全てさかさまにしてしまい、悪魔に由来する偽りの「知性」に対する非難を、聖書の神の御言葉に向けようとするのである。

このように聖書を転倒させた詭弁は、まさにグノーシス主義に見られた特徴であり、東洋思想とは、すでに述べて来た通り、グノーシス主義を保存する入れ物の一つに過ぎないのであるが、こうしたものは、聖書の御言葉の二分性に基づく知性を捨てて、己の情と欲に走った人間が、己の堕落を神に責任転嫁して、聖書の御言葉を悪者にするために、聖書をさかさまにして作り上げた詭弁なのである。

そこで、今日も、東洋思想の中には、人間とはもともと「理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである」という考え方が根強く生き残っている。それは結局、生まれながらの人間が自己の罪と堕落を正当化するために作り出した考えなのであり、こうした主張を繰り広げる人々は、人類の堕落の瞬間から今に至るまでずっと、神に離反した人類の罪を正当化するために連綿と偽りを作り出しているのであり、それによって延々と「善悪知識の木の実」を食べ続けているのだと言える。このサタンに由来する「善悪知識」は、人間にとって都合が良いように、聖書のすべての概念を歪曲し、さかさまに変えてしまうのである。

従って、クリスチャンは、東洋思想の言うように、人間を直感的・動物的・衝動的な生き物とみなす考え方の恐ろしさを理解して、そのように知性による考察を侮蔑する考えがどれほど危険なものであり、聖書の御言葉に従うことの妨げになるかに気づかなければならない。

大体、人にじっくりと時間をかけて自分自身で物事を深く考える暇を与えようとせず、人がただ己の欲求に基づいて感情的・衝動的に行動することばかりを促すのは、詐欺師の手法である。
 
そこで、一体、サンダー・シングが何のために、「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などと言って、聖書の御言葉を知性によって考察する作業を軽んじて、信者の吟味や疑いを退けながら、可能な限り、信者が自分では何もものを考えずに。ただ己の直感だけに基づいて、自分にとって心地よいと感じられる行動に出る方向へと誘導しようとしているのか、気づかなければならない。何のために、彼は知性による考察を退けているのか、そこにどんな危険を隠そうとする意図が込められているのか、よくよく考えてみる必要がある。

結局、そこにあるのは、人間の思考を眠らせることによって、嘘を暴かれまいとする意図である。一見、もっともらしく、良さそうに聞こえるサンダー・シングの言葉が、少しでも聖書の御言葉に照らし合わせれば、どれほど著しく矛盾しているか、誰にでもすぐに分かってしまう。そこで、自らの述べている思想の虚偽を暴かれないために、予め読者の思考を眠らせておこうと、サンダー・シングは以上のような論法を使っているのであって、そこにトリックがあることに信者は気づかなければならないのである。

だが、Dr.Lukeはそのような「しかけ」には全く気づこうともせずに、サンダー・シングの文章を手放しで賞賛している。

「クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。

というサンダー・シングの言葉にも、西欧キリスト教に見られるような、伝統的なクリスチャンに対する嫌悪と侮蔑の感情が込められている。自分は「神の臨在を直接味わっている」のであって、西欧のキリスト教徒のような、神の臨在を全く実感できないでいる「頭でっかちな」可哀想な連中とは違うのだという自惚れが満ちている。

サンダー・シングの伝統的なキリスト教徒に対するこのような上から目線の批判と侮蔑は、ニッポンキリスト教界を見下し、侮蔑するDr.Lukeの心境にはさぞかしよく合致したことであろう。

「神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。」

というサンダー・シングの「鉄と火のたとえ話」も、以前にも記事で引用したように、不思議なことであるが、「神と人とが混ざり合う」と教えているローカルチャーチから出されたウォッチマン・ニーの著書とされている全集の中の記述にぴったりと合致する。
  

「さらに完全な結合

神はすでにわたしたちをキリストの中に包含されました。わたしたちは今どのようにしてキリストがわたしたちの中へと造り込まれるのかを見なければなりませ ん。キリストが わたしたちの中におられる時だけ、わたしたちの結合は実際であり、完全であり得ます。そして、その時はじめて、キリストが持っておられた あらゆるものが、わたしたちの中へと造り込まれます。このキリストとの関係こそ、その究極的で最高の意味での結合です。

ある日、わたしは鍛冶師が作業しているのをじっと見ていました。彼が大きな一塊の鉄を火の中に投じ、炎を燃え立たせてから、その赤くなった金属を鉄槌で打 ち始めました。脇に立っていた一人の弟子が火を得ようとしていました。彼は一枚の紙を巻き、それを火に突っ込むことをしないで、その端を赤くなった鉄に触 れました。たちまちその紙に火がつきました。わたしは火が鉄から出て来たのを見て非常に驚きました。この一塊の鉄は、今は他のすべての鉄とは違っていまし た。あなたはそれを鉄であったと言うかもしれません。しかし、またそれを一つの火の球と考えることもできます。火は鉄の中に、また鉄は火の中にあったので す。それは鉄の性質と鉄の様相とを持っていました。あなたがそれに一枚の紙を置くと、その紙は燃え上がりました。

神はわたしたちとキリストとの結合がその鉄と火の結合のように親密なものであることを願われます。神はわたしたちのすべての罪を赦されました。そして、わ たしたちの古い人をキリストの中で終わらせました。しかし、神はそこで終わりにされませんでした。鉄と火が一つであったように、神はわたしたちがキリスト と完全に一つであることを欲しておられます。鉄のあらゆる分子は火と混ざり合い、その火のあらゆる性質は鉄の中で現されました。神はこの程度にまでキリス トをわたしたちの中に造り込むことを欲しておられるのです。」(ウォッチマン・ニー全集(第二期 第二七巻、正常なキリスト者の信仰、日本福音書房、 1997、p.200-201)


上記のような教えを信じる人々は、鉄と火が混じり合うように、「神と人とがほとんど区別がないほどまでに一体になれる」と教えるのである。しかしながら、問題は、このたとえ話によって、一体、キリストと信者との結合は何によって保障されるのか、という最も肝心な点が、覆い隠されている点である。聖書は言う、

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:20-21)

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

鉄と火のたとえ話を何万回繰り返しても、聖書の御言葉を守らない信者は、キリストとの合一にあずかることは決してできない。キリストとの合一に達したいならば、最も肝心な点は、信者が御言葉を守り、従うかどうかということである。だが、サンダー・シングや上記のウォッチマン・ニーの著書(福音書房)は、たとえ話のもっともらしさばかりを強調することによって、信者が「聖書の御言葉を守る」ことなしにキリストとの合一には絶対に達し得ない、という事実を教えないのである。

心[ハート]はキリストの王座である。」というサンダー・シングの言葉にも注意が必要なのは、ここにもまた聖書の歪曲が潜んでいるからである。「神は霊です。神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23)という御言葉に表れている通り、神と交わることができるのは、人の霊のみであって、魂ではない。信者はむろん、霊においても、心においても、自分のすべてを尽くして神を愛し、神に従うのであるが、だからと言って、人は己の情や感覚を通して神を知ることはできないのである。人の魂と肉体の感覚の領域には、神との霊の交わりは存在しない。

だが、サンダー・シングが「心(ハート)」を強調するのと同じように、Dr.Lukeもしきりに「マインド(思い)」を強調する。(メッセージの主題を見るだけでもそのことは分かる。「マインドのゲートキーパー」(2016年4月3日)「祝福のマインドフルネス」(2016年5月29))

このように、しきりに信者の「心(魂)」における活動を強調し、あたかも、天国(神の国)が人の魂の領域に存在するかのように主張する教えが危険なのは、ペン-ルイスが指摘するように、悪霊が信者を霊に従ってではなく、堕落した魂の思いや感覚に従って歩ませるために、人の思いや感覚を刺激して、甘美な体験を味わわせることによって、信者の魂の領域に、「偽物の霊的世界」を作り出し、偽物の霊の感覚を、聖霊の働きと取り違えて歩ませようとすることがあり得るからである。

ペンテコステ・カリスマ運動もそうであるが、信者は自分が個人的に受けた体験が非常に甘美で心地よく、自分のニーズに合致しているために、それが聖書の御言葉と矛盾していても、注意を払うことなく、「自分は聖霊に導かれて、霊的な体験を受けているのだ」と思い込みながら、自ら感覚体験の虜とされて行くのである。この種類の欺きに対して、ペン-ルイスは次のように警告している。

  

サタンの欺く霊どもは、真の霊のいのちの偽物を魂の領域に造り上げて、信者を欺こうとします。信者はこの偽物に気がつきません。彼らの狙いは、信者をおびき寄せて、無意識の内にふたたび魂の領域の中を歩ませることだからです。

霊を魂から解放されて「切り離された」霊の人は、魂や体によってではなく、によって歩み、によって支配されている人です。しかしこれは、霊の人は二度と魂のいのちに巻き込まれることはありえない、ということではありません。

霊の人でも、霊の法則を知らず、霊に治めさせることに失敗するなら、ふたたび魂のいのちに巻き込まれるでしょう。何がからであるのかを識別する方法、霊を自由に保ち、神の霊に開き続ける方法、絶えず聖霊と協力するのに必要な条件を、霊の人は学ばなければなりません。

霊の人は、悪霊どもの攻撃を見抜いて、対処することができなくてはなりません。悪霊どもは、霊の人の霊を攻撃して、神との交わりを妨げようとします。あるいは、霊の機能を麻痺させ、受動的にさせて、霊を魂に追いやろうとします。これに失敗すると、悪霊どもは霊の人の霊を過度の活動に駆り立てようとします。その狙いは、自分たちの攻撃に対する絶え間ない抵抗を阻止して、妨害することです。
(『魂と霊』、ジェシー・ペン-ルイス著、第5章 「霊的な」(プネウマチコス)クリスチャン、霊のいのちの法則、より抜粋)


以上のような警告を読むと、なぜペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた信者らが、頻繁に不自然で大袈裟な感動の涙を流し、芝居じみているとしか思えないほどに誇張された行動や感情表現を繰り返しながら、絶えず過度の熱狂に陥っているのかも理解できる。それは悪霊によって過度に活発化された魂の活動であり、絶えず信者の霊を圧迫し、静穏な思考を妨げ、信者を霊の平安の静けさの中から、自分自身の騒がしい思いと感覚という魂の領域へと誘い出し、その領域にとどめおいて、霊ではなく魂の感覚に従って歩ませるために行われる欺きのための「疑似霊的活動」なのである。

むろん、有害で不快な感覚体験を通しても、悪霊は信者が霊に従って歩むことを妨げることができるが、同時に、心地よい体験を通しても、信者を欺くことができ、そのようにして、信者を御言葉ではなく、自分自身の感覚体験の虜として行こうと狙っているのである。この種の偽りを見抜くために信者に必要なのは、信者が自分にもたらされる全ての感覚体験を疑うことなく受け入れるのをやめて、それが自分にとって心地よいかどうかという基準に従って是非を判断するのではなく、御言葉に合致しているかどうかという基準によって是非を判断し、御言葉に合致しない体験は、どんなに好ましく感じられたとしてもこれを否み、そこから遠ざかることだけである。

特に、信者の静穏な思考そのものを妨げるほどに強烈で受け身の絶え間ない感覚的刺激を求めさせる教え、過度な熱狂、不自然な感動、絶えず流される滂沱の涙、恍惚体験、行き過ぎた歓喜などを伴う感覚体験ばかりを強調する教えは、とことん警戒して退けることである。

サンダー・シングやペンテコステ・カリスマ運動のように、信者が聖書の御言葉に従うことの重要性よりも、「神との甘美な交わりを味わう」という個人体験ばかりを強調することによって、こうした体験が信仰生活の本質であるかのように主張する教えは、例外なく、信者を霊ではなく魂の領域で己の感覚に従って歩ませるために作り出された偽りであり、そこで強調されている「霊的体験」とは、結局、魂の領域に作り出された偽物なのである。
 

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。 (同上)
 

<続く>