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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(4)

・神に疎外された者たちによる復讐の哲学としてのグノーシス主義

さて、本題に入る前に、先の記事にいくつか補足しておこう。

先の記事では、グノーシス主義における「父なる神」の概念は、本質的にフィクションであると述べた。グノーシス主義においては、「真の至高者」と呼ばれる最高位の神から、神的存在が流出し、その神的存在がさらに自分自身の似像を創造することで、様々なアイオーン(神々)が生まれるが、「真の至高者」自身は、神的存在を映し出すための物言わぬ「鏡」であって、誰も見ることのできない虚無の深淵であるとされる。

グノーシス主義の神話的プロットにおいては、「真の至高者」が、意志をもった主体として登場したり、被造物の世界に介入することはなく、「真の至高者」による被造物の創造も、主体的な創造行為というより、ただ自分自身の姿を鏡に似像として映したというだけの、かなり消極的で受動的なものである。

前の記事では、結局、「真の至高者」は、リアリティを持った存在ではなく、ただ被造物の存在に意義を与えるためだけに名目だけ作り出された擬制的概念で、本質的には、被造物の欲望を「鏡」のように映し出す偶像であり、「フィクション」なのだと述べた。

ちなみに、虚無の深淵に、水面に光が反射するようにして「神的存在の流出」が起きるというグノーシス主義の神話のくだりは、創世記の次の記述を彷彿とさせる。

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」(創世記1:1-4)

しかし、この創世記の記述を、グノーシス主義の神話的プロットと同様のものとみなすことはできない。なぜなら、この記述においては、神の霊があたかも「やみの深淵」に等しい存在であるとか、神の霊が水のおもてに自分自身を映し出すことによって「光」が生まれたなどとは決して書かれていないからだ。

また、創世記には、神が人を創造された際、主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)という記述がある。

神が人間に息を吹き入れることにより、人は生きた者となったという聖書の記述についても、グノーシス主義のプロットの中に類似したくだりが見られる。だが、聖書のこの記述とグノーシス主義の神話のプロットの間にも、あまりにも多大なる差異があるため、これも同じようにみなすことは決してできない。

グノーシス主義においては、人類は、ヒエラルキーを犯して「真の至高者」を知ろうとしたソフィアの過失によって生まれた悪神ヤルダバオートから生み出されたことになっている。繰り返すが、このヤルダバオートとは、グノーシス主義において、旧約聖書の神と同一視されている。

グノーシス主義文献の一つ、『ヨハネのアポクリュフォン』では、母ソフィアに捨てられて下界に転落したヤルダバオートは、自分のいる下界よりも上位にプレーローマ界があることを知らないまま、下界にさまざまな被造物を生み出し、自分だけが世界の創造主であると自己過信して、「私の他に神はいない。私は妬む神である。」と宣言する。

しかし、それを聞いたプレーローマ界の創造者であるバルベーロー(真の至高者から最初に生み出された女性人格であり、プレーローマ界を創造した神的存在)はその宣言をヤルダバオートの傲慢さの表れであるとみなして憤激し、「人間と人間の子が存在する」と言って、自分の姿を下界に映し出す。それを見たヤルダバオートは、初めて見た神の姿を自分のものにしようと、バルベーローを模して人間(アダム)の体を創造したという。

だが、体が造られただけでは、人間は立ち上がることができなかったので、プレーローマ界の神々は、ヤルダバオートに、アダムの口に「息(プネウマ)」を吹き込むようにそそのかした。「そそのかした」というのは、ヤルダバオートがアダムに吹き込んだ息は、母ソフィアに由来する霊であって、ヤルダバオート自身は、その「息」をアダムに吹き込む代わりに、自分自身はそれを失ってしまったからである。

ところで、このような神話のプロットには、それ自体、相当な無理があると言えよう。グノーシス主義の神話では、それぞれの神的存在の間にヒエラルキーがある。そこで、本来、ヤルダバオートによって創造された人類は、ヤルダバオートの似像となるのが当然であって、吹き込まれた息も、ヤルダバオートの霊であるはずであり、ヤルダバオートを飛び越えて、さらに上位の神の似像として造られるなど考えられない。

ところが、グノーシス主義は、バルベーローがヤルダバオートを出し抜いたことにより、人類は、ヤルダバオートの存在を飛び越えて、プレーローマ界の直接の創造者であるバルベーローの似像として創造されたのであって、その息も、ヤルダバオートを飛び越して、母ソフィアに由来するとしている。これはいかにバルベーローの意志のもとで行われたことになっているにせよ、グノーシス主義が、神的存在の間にヒエラルキーを定めておきながら、そのヒエラルキーを自ら壊すようなプロットを作ったことを意味する。

グノーシス主義においては、このように、自ら定めた秩序やヒエラルキーを自分で破壊するようなプロットが次々と展開される。第一に、ソフィアが、自分の分を超えて「至高者」を知ろうとしたことによりヒエラルキーを覆し、第二に、ソフィアの過失によって生まれたヤルダバオートが、自分こそ至高の存在であると宣言して、ヒエラルキーを犯し、さらに、人類がヤルダバオートを飛び超えて、さらに上位の神の似像として創造されることによって、ヒエラルキーが覆され、さらに、以下に示すように、アダムから最初に生まれた子供たちであるカインとアベルが悪しき種族となる一方で、カインとアベルよりも後に生まれたセツの種族が「生命の霊」を継承する善なる種族となって、ヒエラルキーが覆される。

グノーシス主義においては、「私は妬む神である。私の他に神はいない」というヤルダバオートの宣言だけが、あたかも許し難い傲慢のようにみなされているが、実際には、ソフィアもヒエラルキーを犯し、人類もヤルダバオートより優れた存在として創造されることにより、ヒエラルキーを犯しているのだが、それらのことが悪として非難されたり、罰せられることはない。
 
しかし、そういう不公平でナンセンスな解釈をすべて取り払って、ただ単純に物語のプロットだけに注目するならば、グノーシス主義の物語では、ただ延々と「秩序転覆」(大田氏の言葉によれば、「簒奪の模倣」)が繰り返されているだけであることが分かる。

要するに、自分よりも上位にあるはずの存在から、オリジナリティを盗むことによって、自分自身がその者になり代わり、その者の優れた特性を剽窃して、歪んだ模倣を行うという「秩序転覆」が延々と繰り返されているのがグノーシス主義の物語なのである。
 

「グノーシス主義の造物主であるヤルダバオートは、プレーローマ界の似像として可視的世界を創造しながらも、その原型であるプレーローマ界の存在を認知せず、「私の他に神はない」と、自らの至高者と唯一性を宣言する。彼は、神的な秩序のオリジナリティを、本当の至高者から、そしてプレーローマ界から奪い取ってしまうのである。ヤルダバオートによる創造行為は、ソフィアが不意に踏み出してしまった「簒奪の模倣」という行為を、全面的に展開したものと捕えることができるだろう。
(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊著、春秋社、2009年、pp.104-105)

 
既述した通り、グノーシス主義においては、ヤルダバオートが創造した人間が、プレーローマ界の創造者であるバルベーローの似像として生み出され、ヤルダバート以上の存在となったことは、全く悪とはみなされない。
 
だが、人類の誕生が、ヤルダバオートが水面に映ったバルベーローの姿を「我が物にしよう(=盗もう)」と欲したことによって起きたことを考えれば、結局は、これも「簒奪の模倣」の結果でしかないのである。さらに、ヤルダバオートがバルベーローの似像を奪い取ろうとして生み出した人類の中にも、二種類の種族が現れ、アダムから先に生まれた「カインとアベル」の種族は、ヤルダバオートが「生命の霊」を真似て造りだした悪しき「模倣の霊」にとりつかれ、互いに憎み合い、殺し合うという「運命の鎖」の中に閉じ込められて生きるしかなくなる一方、アダムからカインとアベルの後に生まれた「セツの種族」が、プレーローマ界に由来する「善なる、憐れみに富む霊」である「生命の霊」を受けて、物質的欲望から解放されて崇高な人生を生きるのだという。
 

創造された人間の肉体には、バルベーローが人間を救済するために派遣した「生命の霊」が、あるいはヤルダバオートがそれに対抗するために、「生命の霊」を真似て造り出した「模倣の霊」が植えつけられる。そして、これらの指導的な霊の種類の違いによって人間たちは、「セツの種族」という祝福されるべき種族と、「カイン・アベルの種族」という呪われるべき種族に分かれ、相互に対立を繰り広げるようになる。」(同上、p.107)


 
ここで、カインとアベルの両方が、堕落した種族の呼び名とされているなどの、あまりにも聖書からかけ離れた荒唐無稽な呼称について非難することは脇において、プロットだけに注目して話を進めることにしよう。こうして、ソフィアから、ヤルダバオートへと受け継がれ、さらに人類にも受け継がれた「簒奪の模倣」という、グノーシス主義に特徴的なヒエラルキーの転覆願望は、人類にも悪しき種族を通じて受け継がれて、呪われた「運命の鎖」として延々と継承されて行く。その「模倣の霊」の悪なる本質は、ヒエラルキーを下へ下がれば下がるほど、争いや殺人といったますます醜い形で現れるようになっていることが分かる。

『ヨハネのアポクリュフォン』は、一方では、悪しき「模倣の霊」とは異なる「生命の霊」なるものがあるとして、その霊によって導かれる善良な「セツの種族」なる人類が存在すると主張し、そこに救済のようなものを見いだそうとするのだが、しかし、そのようなプロットにも、あまりにも無理があると言えよう。なぜなら、セツの種族も含めた人類全体が、ソフィアが至高者の像を盗み取るという「簒奪の模倣」をきっかけに生まれたのであり、ソフィアの過失によって誕生したヤルダバオートが、さらにバルベーローの像を盗むという「簒奪の模倣」を行った結果として誕生していることは明白だからである。そのような呪われた出自を持つ人類全体の中から、どうしてセツの種族だけが、「簒奪の模倣」とは無縁の、プレーローマ界に由来する善なる霊だけを持つ神聖かつ善良な存在であるとみなすことができるのだろうか。
 
我々クリスチャンの目から見れば、グノーシス主義の神話的プロットの中で、唯一、確かなリアリティとして存在しているのは、決して「生命の霊」とか「セツの種族」といった救済めいた概念ではないのである。むしろ、そうしたものは、グノーシス主義の物語のプロットの中で、延々と繰り返されている秩序転覆、ヒエラルキーの破壊、「簒奪の模倣」を正当化するための言い訳として、ソフィアの過ちを「修正」するために作り出された方便でしかないのである。

そのことは、「セツの種族」なる人類が、自分の本当の出自がプレーローマ界にあると気づくことによって、「母ソフィアの過ちを修正する」ことを最大の使命としている点を考えても納得がいく。「セツの種族」が目指しているのは、悪しき模倣の霊と手を切って、それと無縁の人生を送ることではなく、悪しき模倣の霊の生んだ産物の子孫として生まれた自分自身のルーツを、何とかして正当化することで、ソフィアから延々と人類に受け継がれているヒエラルキーの転覆を正当化することなのである。
 
結局、グノーシス主義の物語は、全体が、「簒奪の模倣」を正当化し、それを弁明するために作り出された物語なのだと言える。そこで、グノーシス主義とは何か、ということを一言で言い表すならば、「妬みに基づく剽窃を正当化する教えである」と結論づけることができるものと思う。

グノーシス主義は、旧約聖書の神を指すというヤルダバオートが「私は妬む神である」と宣言していることを、あたかも彼の愚かさや偏狭さや嫉妬深さの証拠であるかのように徹底的に侮蔑・嘲笑・非難するが、ところが、よくよくこの物語を見れば、実際には、妬みに駆られているのは、ヤルダバオートだけでなく、ソフィアの過失にせよ、人類の創造にせよ、グノーシス主義の物語全体が、創造主なる神に対する妬みによる「剽窃」と秩序転覆を延々と繰り返しながら、上位の神からオリジナリティを盗み、奪うことを正当化して出来上がっているとしか言えないのである。

このように、終わりなき秩序転覆が繰り返されていることに見る通り、グノーシス主義の教えは、誰かが自分よりも優れた他者を妬み、その他者からオリジナリティを盗むことで、自分がその者になり代わって、高貴な存在となり、その者の功績を倣して、歪んだ摸造としての「盗作」を生み出すという悪しき行為を言い訳し、助長するために作り出されたものなのである。

それだからこそ、この物語においては、本来であれば、オリジナリティを盗み取られて、最も憤慨して、立ち上がり、無法者の行為を罰せねばならないはずの「真の至高者」が、物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」と同一視されて、被造物の過失の責任を問うこともなく、最初から最後まで沈黙し続けているのである。

このことから、グノーシス主義においては、最高の存在であるはずの「父なる神」は、最初からリアリティを持たない、抜け殻のような存在に過ぎず、単なる名目だけのお飾り的な存在で、もともとオリジナリティが全くないのだと言えよう。

これまでの記事でも、「剽窃」や「贋作」や「盗作」といった概念が成立するのは、確固たるオリジナルが存在する場合だけだと述べて来たが、グノーシス主義における「至高者」は、それ自体が「鏡」であり、誰も見ることのできない深淵であるため、オリジナリティがないだけでなく、逆説的に、この「鏡」を通して、被造物が「至高者」の像を盗み取ることが可能となる。「至高者」であるはずの存在が、「鏡」とされることによって、被写体のように、「見られる対象」となってしまい、そこから「存在の流出」が起きるのである。しかも、その「至高者」は物言わぬ存在で、勝手に自身のオリジナリティを盗まれても、文句も言うことができない。

このような自己矛盾した筋書きは、グノーシス主義が、初めから「至高者の存在を盗み取る」ために生まれた物語であるからこそ、成立するのである。

さて、聖書においても、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)という記述があるが、この記述の持つ意味は、グノーシス主義の主張とは全く異なる。

確かに、神を見た者はいない、という点では、聖書とグノーシス主義は共通点があるかも知れないが、しかし、聖書においては、神は独り子なるイエス・キリストを通して、ご自分を示されたのであり、クリスチャン一人一人はキリストを通して神を知ることが許されている。

ところが、グノーシス主義においては、神を見ることは誰にもできず、神を知る手段も被造物にはない。あるいは、独り子だけが神を見ることができるとしながらも、他の被造物には、独り子を通して神を知る道が閉ざされている。人類も、神を見ることはできず、神を見るためには、自分自身を見つめるしかない。このように、グノーシス主義の「父なる神」は最初から最後まで、あるかなきか分からない「フィクション」なのである。
 
だからこそ、グノーシス主義の神話のプロットにおいて、このように「神を知る」ことから疎外されている被造物には、神を知るために、結局、神を「盗み見る」しか手立てがないのである。
 
このように、グノーシス主義とは、「父なる神」を知ることから疎外された者たちが、不正な手段で、「父なる神」のオリジナリティを盗もうとすることを正当化するために作り出された教えであると言え、神の救いから除外されてしまった人々が、神から神であることを盗み取ることで自己正当化をはかるために作り出された教えなのである。

そして、そのような悪しき方法で自己正当化をはかったことの責任を問われないために、グノーシス主義は初めから、「父なる神」を物言わぬ鏡にしてしまっているのだとも言える。

とどのつまり、グノーシス主義の言う「父なる神」とは、結局、被造物の欲望を映し出す「鏡」なのであり、被造物の欲望の化身であり、偶像なのである。グノーシス主義者は自己の欲望を「神」とみなし、それを拝むことによって、自分は神と一体化しているかのように考え、実際には、拝んでいる神が、実体のないフィクションでしかなく、自分は神を知ることから疎外されているという事実を覆い隠しているのである。

以上のことを考えれば、真に「妬み」に支配されているのは、決してヤルダバオートだけではなく、グノーシス主義に登場するほぼすべての被造物、グノーシス主義の物語全体が、「父なる神」に対する妬みに基づいて作られたものである事実が見えて来よう。

このように、グノーシス主義の教えは、「神を知る」ことから疎外されている者たちが、自分たちには知ることのできない神を不正な方法で「盗み」、これを「模倣」して、自分自身を「神」とするために、聖書の父なる神に対する「妬み」によって作り出された偽りの教えなのである。


・神に疎外された者たちが、神のものを盗むために延々と繰り返す「簒奪の模倣」としてのペンテコステ・カリスマ運動

さて、以上のように考えると、グノーシス主義は「神に疎外された者たちが神を盗み取り、模倣することで、神に復讐する物語」であると言える。つまり、神を知りたいと願いながらも、神を知る道を閉ざされた者たちが、神から神であることを奪い、神を乗っ取り、自分自身が神になり代わって、復讐を果たすための教えなのだと言えよう。

そのような意味で、グノーシス主義とは、まさに悪魔によって直接息吹かれた思想であると言える。なぜなら、聖書において、悪魔は神によって創造された被造物であるにも関わらず、神に背いて、神のようになろうとしたがゆえに、反逆の罪に定められたからである。

グノーシス主義はソフィアの過失を悪とみなさず、彼女を罰しないことによって、聖書の神に背いて神以上の存在になろうとした悪魔の欲望を肯定しているのである。

以上の事を考えると、なぜペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた信徒らが、様々な教会や集会の中で、異常としか言えない行動に出るのかが理解できるようになる。

それは、ペンテコステ・カリスマ運動が、もともとキリスト教ではなく、グノーシス主義に由来するものであって、その中心にはグノーシス主義と同じ「簒奪の模倣」、すなわち、「乗っ取り」や「模倣」や「剽窃」の霊があるためなのである。
 
ペンテコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについてはすでに幾度も論じて来たので、ここでは繰り返さず、今は具体例を見ることにしよう。

以下は、前にも説明した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(神召キリスト教会)の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻がDr.Lukeの率いる横浜の集会Kingdom Fellowship Church(KFC)を乗っ取った時に作成したサイトである。

このサイトの更新は、2013年9月で止まっており、さすがに鵜川の肉声を記録した音声メッセージはすでに削除されているようだが、サイト自体は現在も放置されたままである。


https://kingdomfellowship.webnode.jp/
図1 当時、Dr.Lukeを集会から追い出して鵜川夫妻が作成した偽サイト。ウォッチマン・ニーの「荒野に宴をもうけ」が発信されるなど、当時の公式サイトがかなり細部に至るまで模倣されている。だが、Dr.Lukeがこの偽サイトを今日に至るまで放置していることにも、同じほど深い闇がある。

 
鵜川夫妻がこれまでにも様々なコピーサイトを作っては放置して来た事実があることは、記事で説明したが、同夫妻が、他教団の信徒であったにも関わらず、「いずれはエクソダスするつもりである」などとうそぶき、所属を隠してKFCに潜入し、メッセンジャーとなってKFCの集会を乗っ取ったこともすでに述べた。

鵜川夫妻は、それによって「神のものを盗める」と考えたのだと見られる。つまり、同夫妻はDr.Lukeに憧れ、Dr.Lukeのわざを盗み、真似することによって、自分自身が神に近付けると考えたのであろう。

しかしながら、乗っ取られた方も乗っ取られた方であり、同じほど深い虚無の深淵であったと言える。本来ならば、以上のような真似をされれば、オリジナルの所有者が出て来て、偽サイトを駆逐するための措置を取るはずである。それだけでなく、大変な迷惑をこうむったとして、他にも様々な法的措置を取り、無法者への処罰を求めて当然である。しかし、Dr.Lukeはそれを今日まで全く行っていないのである。

つまり、オリジナルの所有者が、オリジナルの所有者たる権利を全く行使しておらず、するつもりもないのである。そもそも「贋作」や「剽窃」を主張できるのは、オリジナルが存在する場合のみであるという理屈に当てはめれば、これは「偽物」であり、「コピー」でありながら、同時に、偽物でもコピーでもないということになろう。

それは、KFCという団体そのものが、実のところ、乗っ取った側と同じ、虚無の深淵からなる実体のないフィクションでしかないからである。

乗っ取られた側も、乗っ取った側と本質的に同じであったからこそ、「オリジナル」の所有者が出て来て権利侵害を訴えることができないのである。

そのことは、Dr.Lukeのミニストリーがフィクションであるだけでなく、Dr.Lukeという人物も、フィクションであることをよく物語っている。これまでの記事で、牧師という存在がみな信徒らの欲望を体現するための偶像であり、フィクションであると述べたが、Dr.Lukeという人物も、それと同じように、信徒らの願望を投影して作りだされた実体のない架空の概念でしかないのである。

Dr.Lukeのミニストリーは、その時、その時で、全く互いに相容れない異なる教えを掲げながら、次々とその看板をすげかえて続いて来た。目玉として打ち出される教えが何であれ、それらはすべてが「借り物」の域を出ないものだったのである。

そのことは、Dr.Lukeが、上記のなりすましサイトにも見られるように、かなり長い間、ウォッチマン・ニーを看板として掲げていたにも関わらず、それも一時的な「借り物」に過ぎず、現在は全く違う教えを看板として中心に据えている様子からも分かる。

KFCのミニストリーは、このように、その時々で、様々な教えをうわべだけの飾りのようにちりばめ、混合しながら出来上がって来たものである。とはいえ、その母体となるものも、明らかに存在しており、それは、鵜川夫妻が属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ、「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の教えである。

(Dr.LukeがKFCを創設する際にモデルとしたKingdom Feithを率いるColign Urquhartは英国のカリスマ運動に属するリーダーであり、1970年代には"When the Spirit Comes"『聖霊が降臨するとき』などの著書も記しており、そのミニストリーの有様を観察すれば、これが今日の日本のペンテコステ運動などの聖霊派のスタイルとほぼ同じであることが分かる。)
 
すなわち、KFCの土台をなすのは、その他にどれほど様々な教えを掲げていようと、あくまでアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ「異言」を伴う「霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の流れなのである。それだからこそ、Dr.Lukeはサンダー・シングなどを読むアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が現れてこの異端の書を集会の中に持ち込もうとしても、それに反対することもなく、また、鵜川夫妻の本質的危険性を指摘されても気づくことがなかったのである。

それは、これらの聖霊派の信者らを導く「霊」が、Dr.Lukeを導く「霊」と本質的に同質だったためであろう。その他のどんな教本を読んでいるかなどの細かい差異は重要ではなく、彼らにとって重要だったのは、彼らを導く「霊」の共通性・同一性だったのである。

今日、Dr.Lukeが杉本徳久のような人物とも「遺恨を残すことは本意ではない」などと融和を唱え、村上密の活動にも異議を唱えなくなったことも、以上と同じ理由からである。この人々の思想の根底には、共通して聖霊派の教え、聖霊派の「霊」があるためなのである。そして、彼らがこれまで行って来たわざ、また、以下にも記す事柄を考慮すれば、聖霊派が強調する「霊」が、決して聖書における聖霊と同一でなく、キリストの御霊ではないことは明白である。
 
(ちなみに、Dr.Lukeは、筆者がまだカルト被害者救済活動の偽りをはっきりと知らなかった頃、筆者に向かって、杉本徳久を導く霊が、「キリストの御霊ではないと思いますよ」と、忠告して来たことがあった。そこで、筆者は、最初からDr.Lukeを導く霊が、杉本や村上を導く霊(ペンテコステ運動の霊)と完全に同一だったと言うつもりはない。おそらく、それとは異なる信仰のあり方の模索も存在していたのであろう。だが、Dr.Lukeの言動は常に二重性を帯びており、彼のミニストリーには互いに矛盾する様々な基盤が同居していたのであり、時と共に偽善性が深まった結果、最終的には、聖霊派の偽りの霊が、Dr.Lukeとそのミニストリーを占拠したのだと言えよう。)
 
もしも今日、鵜川貴範のメッセージが残っていれば、彼がその中で、単なる真似事や作り事とは思えないほどに「流暢な異言」を語っていた様子が分かるはずである。それほど流暢な「異言」は、実際に、聖霊派を知っている筆者から見ても、極めて特異なものであったと言える。

Dr.Lukeは、鵜川夫妻が登場する以前から、集会の中で異言を語ることに全く反対の態度を取っておらず、「霊の歌」などと称して、集会中に信徒が異言を語り続けることを奨励していたのであるから、聖霊派の唱える「霊のバプテスマ」の信憑性を疑ったり、鵜川の異言の出所に疑いを持つようなことは思ってもみなかったと考えられる。

KFCは、このように聖霊派の教えを土台として、その上に、アンドリュー・マーレー、オースチンスパークス、ジェシー・ペンルイス、ウォッチマン・ニーなどの霊的先人の教えをつけ加え、これらを総合的に混ぜ合わせて集会を作り出していた。

だが、本来、ペンテコステ・カリスマ運動のような聖霊派は、決して以上の霊的先人のメッセージと一致するものではない。両者は一見、キリストの御霊を強調している点で、同じような「霊の流れ」にある「霊的な教え」のように見えるかも知れないが、この二つの潮流の源流は全く異なるものである。

なぜなら、アンドリュー・マーレーにせよ、オースチンスパークスにせよ、ウォッチマン・ニーにせよ、その中心には常にキリストの十字架があるのに対し、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する「霊」の教えの中心には、キリストの十字架が欠けているからである。
 
手束正昭氏の著書を通して、当ブログでもすでに見て来たように、聖霊派において常に強調される「聖霊のバプテスマ」とは、キリストを証するものではなく、人間自身をより高次の次元の存在へと引き上げる霊であり、人類の堕落したアダムの命に霊的死をもたらす要素を全く持たない。

そのことは、手束氏の述べている養子論的キリスト論をよく読めば、明らかになる。同氏の言う「聖霊」は、堕落した人間に過ぎないアダムの命によって生きる人類を、アセンションと同じように、何らかの方法で「改良」することにより、より高次の存在へ高めることによって、贖われていない者をあたかも贖われた者のように、さらには「神のように」見せかけ、神ではなく、人間自身に栄光を帰するため偽りの霊なのである。

その「霊」の偽りは、その「霊」が何を証するかという特徴によって顕著に見分けられる。聖霊派の信者が常に「聖霊」として強調する霊は、信者にさかんに自分自身を誇示させることはあっても、キリストご自身に栄光を帰さず、キリストが十字架で死を経られ、復活されたことを証ししない。

ジョン・R・ハイムズ著『異言の正体』には、聖霊派の強調する「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」の非聖書性・危険について詳しく解説されているが、その危険性をいくつか部分的に抜粋しよう。
 

それこそ異言の危険性です。異言を語る人は自分で、あるいは自分の教会だけで異言を語ることに満足しません。他の教会の信者も異言を語るように努力します。(p.4)

異言の魅力はどこにありますか。まず簡単です。異言の信者はこのように言います「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。
もしそれが本当であるならば、キリスト者は誰でも異言を語りたくなるでしょう。でもこの本で証明するようにそういう約束は聖書のどこにもありません。聖書的ではありません。(p.6)

異言は決してキリスト教のものだけではありません。1世紀にもいろいろな偶像の宗教は異言を語っていました。例えば:デルフィの宮の宗教や当時の「神秘の宗教」やグノーシス教やシリヤの女神ジュノの宗教などです。
現代にもキリスト教以外に異言を語る宗教があります。例えば、イスラム教のダービシュ聖人やヒンズー教のある聖人です。したがって、悪魔が話させる偽物の異言もあると言えます。これから勉強するように、キリスト教にも偽物の異言があります。(p.6)

カリスマの信者の目標は異言を認めない教会が異言を語るようになる、ということです。<略>カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多いです。自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い運動です。その態度は今まで続きますから、カリスマ運 動は多くの教会のけんかや分裂をさせてしまったことがあります。その理由だけで霊的にとても危ない運動です。(pp.8-9)

 

この最後の部分、「カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多い」という指摘は極めて重要である。もちろん、これはカリスマ派のみならず聖霊派全体に
共通する特徴であるが、彼らには、「自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い」という特徴があるのだという。

つまり、すでに出来上がった土台を有する他の教会に入り込み、そこで異言の重要性を解くことによって、その教会のメンバーを奪い去り、分裂をもたらすという行動が、聖霊派の信徒にはパターン化している様子が分かるのである。

鵜川夫妻がKFCでやろうとしたことも、まさにそれに当てはまる。つまり、この夫妻が行ったことは、まさにペンテコステ・カリスマ運動の信者に典型的な行動だったのである。

彼らは、クリスチャン・トゥデイの記事にも記されているように、早くから、路傍伝道を日常的に行っていたが、そのことからも、彼らが自分の影響力を、所属教会の許可なく、所属教会の枠組みを超えて、可能な限り、外へと押し広げようとしていた様子が見て取れる。

通常、教会が行う路傍伝道は、信徒らがチームを組んで、予め立てた計画に沿って行われるもので、所属教会の許可を得ずに、信徒の独断で行われることはまずない。しかし、彼らの場合は、あたかも自分の中にある抑えがたい情熱を定期的に外へ吐き出さずにいられないとばかりに、時間も場所も計画せずに、自分の心の赴くままに公共の場所へ出かけ、突如として、そこで通行人に向かって語り出すというスタイルであった。
 
その「伝道」が、所属教会の許可のもとに行われていない以上、仮にそうしたメッセージに耳を傾ける者が出て来たとしても、その魂が教会に導かれることはなかっただろうと思われる。

つまり、その「伝道」は、人々の救いのために行われたものでは決してなく、ただ聖霊派の信者が、自分の抑えがたい情熱を外へ吐露し、自分自身の欲望を満たす目的のためだけに行われていたのである。

ジョン・R・ハイムズ氏の記述からも分かるのは、ペンテコステ・カリスマ運動の信徒らには、自分が正しいと信じていることを他者にも押しつけねばならないという身勝手な思い込みのもと、秩序をわきまえず、独断的で専横的な行動を繰り返し、他教会に潜入したり、人々の生活に望まれもしないのに介入・干渉して行って迷惑をかけたり、分裂をもたらすというという特徴が共通して見られるのである。

聖霊派の信者が、「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。」などと自己宣伝しているように、聖霊派が強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」は、確かにそれを受けた信者に、それに病みつきになるような何らかの恍惚体験を与えたり、その信者が、通常人の域を超えて、周囲の人々に異常な影響力を行使することが可能になるような、何かしらの超自然的パワーを与えているのであろう。

その「霊」を受ければ、「神のように高次元の存在に引き上げられ、質の高い人生を送れる」という謳い文句は、単なる虚偽ではなく、そこには、実際に悪霊に由来する力が働いて、その「霊」を受けた人間が、何らかの異常な超自然的なパワーを得ている可能性は十分に考えられる。

だが、仮にそうしたことがあったとしても、その「霊」の本質が、キリストの御霊では決してない以上、その霊が結ぶ実が良いものとなることも決してない。それは、神から来た霊ではなく、以上で見て来たように、むしろ、神に反逆する悪魔的グノーシス主義に由来する「悪しき模倣の霊」であるからこそ、自分では何も生み出そうとせずに、他者の功績を盗み、他教会を乗っ取って信者を奪い去ったりして、分裂をもたらし、神を崇めると言いながら、自分自身を崇め、自己に陶酔するだけのナルシシズムの霊なのである。
 
その「霊」がクリスチャン生活を単純化し、罪に勝つ力を与えるなどという謳い文句も、偽りであって、錯覚でしかない。 実際には、聖霊派の出所不明の「異言」をもたらす怪しい「霊」を受けた信者は、自分に麻薬のような恍惚体験をもたらしてくれる「異言」にやみつきとなり、自己満足するために、ところかまわず「異言」を語っては、秩序を壊さずにいられなくなったり、その「霊」の悪しき影響によって、善悪の感覚や、良心や、罪悪感が麻痺させられるため、罪を犯しても罪と思わなくなり、それによってあたかもクリスチャン生活が単純化されて、自分が清められて、聖なる者になったかのような錯覚を抱くだけなのである。

それはちょうど重症のけが人や、重篤な患者が、麻酔薬のおかげで自分は健康になったと錯覚するようなもので、そうして痛みを無視して動き回ったことのツケは後になってすべて跳ね返って来るが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の場合、その破天荒な行動によって、本人よりも周囲の者たちが著しい迷惑をこうむるのである。

こうして、聖霊派の信者らが、悪しき「霊」を受けた結果、自分があたかも聖なる存在であって、自分の考えることはすべて正しいかのような思い込みに陥り、他者の人生に不当な干渉を繰り返しては、害を及ぼすという異常行動は、ただ「伝道」という名目だけでなされるのではない。

たとえば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、被害者を募っては、他教会に裁判をしかけ、他教会の運営に介入するカルト被害者救済活動をライフワークとしているのも、教会に分裂をもたらし、信徒を奪い去り、「神のものを盗む」ために行われる「簒奪の模倣」なのである。

また、杉本徳久を代表として、ペンテコステ運動をすでに出たにも関わらず、依然、村上のカルト被害者救済活動を支持することで、ペンテコステ運動の影響をひきずり続ける「信者」らが、無関係の赤の他人にまで、不当な干渉を延々と繰り返し、自分の考えを押しつけ、従わせようと試みたり、他人のブログの趣旨を歪めるために、ダミー記事を作ったり、他人の文章や写真を剽窃したりしているのも、まさに「簒奪の模倣」の霊による。

むろん、彼らが信徒らの公開されていない情報を入手しては、それを次々と暴露するような行為に及んでいることも、「自分には知ることの許されていない神の像を盗み見ることで奪い取ろうとする」グノーシス主義の「簒奪の模倣」の欲望に基づいてなされていることなのである。

これらのことは、次回以降でも詳しく論じるが、すべて聖書の「父なる神」の教えに従わず、キリストの十字架によらないのに、神に等しい存在となろうとして、真にキリストに従う信者たちから、神に属する性質を盗み取り、それによって、自分自身が「神になり代わろうとする」グノーシス主義の霊が引き起こしている現象なのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は、グノーシス主義にあるため、信者はこの運動と訣別しない限り、以上のように人格を破壊されながら、支離滅裂な行動に出て、神と教会とクリスチャンに反逆する者となって行くことを避けられない。

だが、極言すれば、牧師制度そのものがグノーシス主義的起源を持つものであるから、Dr.Lukeであろうと、村上密であろうと、ゴットホルト・ベックであろうと、鵜川貴範であろうと、ベニー・ヒンであろうと、他のリーダーたちであろうと、誰であれ、自分の気に入った教師たちを立てては、そのメッセンジャーに群がろうとする信徒は、結局のところ、自分自身の欲望と霊的姦淫を重ねているだけなのである。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:3-5)

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「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(3)

・「父なる神」の概念を、被造物の都合によって生まれる擬制的な存在(フィクション、偶像)に変えてしまうグノーシス主義がもたらす悲劇

さて、旧約聖書の創世記においては、「神は自分のかたちに人を創造された。」(創世記1:27)とあるように、人類は父なる神に似せて創造されたことが記述されている。

だが、人類は罪によって堕落したために、父なる神から切り離され、「父」を喪失してしまった。そのため、人類は「失われた父」を取り戻すために遍歴を重ねており、完全なアイデンティティを回復するためには、キリストの贖いを受け入れて、御子を通して、まことの父を知るしかない。

つまり、堕落した被造物である人類が、いかにして「失われた父」へ回帰するか(逆に言えば、「父なる神」の側からも、いかにして失われた人類を取り戻すか)が、聖書の中心的なテーマなのだが、このテーマは、グノーシス主義においても、ある程度共通する。
 
それぞれのグノーシス主義文献の神話的なプロットに見られる無数の細かい差異の話などは、今はすべて脇に置いておくことにして、大きく見れば、グノーシス主義においても、人類が「父なる神」に似せて創造されたという事実は否定されていない。

さらに、人類が「父なる神」の似姿として創造されたにも関わらず、「父なる神」から切り離されて、「父を喪失」していることが、人類の悲劇の根本原因となっている、という認識も、グノーシス主義と聖書において、大筋では共通していると言えるだろう。

さて、人類が「父なる神」に似せて創造されたというとき、そこで使われる「似せて」という言葉は、何を意味するのかを考えてみよう。

創世記1章26-27節にはこうある。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

聖書は、こうして人間が、神の「かたちに」、神に「かたどって」創造されたと述べ、人間が神の「似姿」であるとする。

このことをグノーシス主義では「似像」という言葉を使って表現する。その「似像」とは、ちょうど鏡に映し出された姿や、水に映った姿と同じ「反映」である。
 
グノーシス主義も、「父なる神」(真の至高者)は、物質的な世界ではその姿形を捉えることのできない、目に見えない存在であるとしているが、人間は、その目に見えない至高の神が、自分自身の姿を、あたかも水面や鏡に映し出すようにして、目に見える世界に映像のごとく映し出すことによって出現したものであると言うのである。

このような表現は、たとえとしてはよく出来ている。グノーシス主義は、人類が目に見えない「父なる神」の似姿であり、影のような存在であるという事実を認めている点では、聖書の記述からそれほど遠くないと言える。

なぜなら、聖書においても、被造物全体は、キリストという本体の「影」であるとしているためである(コロサイ2:17)
 
だが、しかし、それでは、グノーシス主義の「似像」のたとえを、聖書にも通じる概念として、聖書に逆輸入できるかと言えば、それは無理である。なぜなら、グノーシス主義においては、霊的な世界と物質的な世界とが、どこまで行っても交差しないものであって、霊的な世界から物質的な存在を造りだすことのできる方は、神以外には誰もおらず、その逆は決してないという点が考慮されていないからだ。

聖書の記述において、「神は霊である」(ヨハネ4:24)一方、人類は、創造された時点においても、堕落した後も、キリストによって再生されない限り、この世の物質的存在の域を出ない、霊的な世界と全く接点を持たない者である。

アダムには創造された時点で、神に由来する「息」が吹き込まれていたが、それは、被造物としての動物的生存のレベルの命ではあっても、神の霊ではなかった。

キリストの贖いを受け入れない限り、人間の霊は死んでいるか、悪霊のとりこになっているかであって、人間は霊的存在としての意味を全く持たない。(悪霊の世界に対して扉を開いていると言うことは言えるかも知れないが、神の霊とはいかなる接点もない。)

そこで、人類が「父なる神」の目に見えない姿を、目に見える世界に映像として映し出すことによって創造されたというグノーシス主義の表現を、そのまま聖書に当てはめようとすれば、いくつものおかしな破綻や矛盾点が生じることになる。

まず、そのように考えるためには、霊的世界の存在を物質的世界の存在に映し出し、変換するための装置として、「鏡」や「水面」のような媒体が存在すると仮定しなくてはならないが、一体、その「鏡」とは何なのかという問いが生じよう。

聖書の記述を読む限り、神の創造は、すべて神ご自身によって完結してなされたものであり、神がご自分の御思いを表すために、ご自分の外に、ご自分の御思いを映し出す鏡のような媒体を必要とされたという記述はない。聖書には、霊的世界と物質的世界の架け橋や、変換装置となるような媒体は一切、存在しない。
 
聖書において、霊的世界と物質的世界の架け橋となる存在があるとすれば、それは人格や意志を持たない「鏡」や「水面」といったような媒体ではなく、神と人との唯一の仲保者であり、人となられたイエス・キリストご自身、さらに今日、キリストと共に霊的に十字架の死と復活を経て神に対して生きるクリスチャンこそ、霊的な世界と物質的な世界の両方に生きる架け橋的な存在(天地の人)だと言えるのである。

さらに、もしもグノーシス主義のように、霊的な世界を物質的な世界に映し出すことのできる、意志を持たない「鏡」のような媒体があると仮定すると、「神は見られる対象なのか」という、厄介な問題が持ち上がることになる。

なぜなら、「鏡」というものは、誰かが自らの意志でそれを用いて自分自身の姿を映し出すことができると同時に、必ずしも本人の意志に関係なく、自動的に対象となる存在を映し出してしまうからだ。

もしも霊的存在である神が、自分自身の姿を「鏡」に投影して、被造物を生み出すことができると仮定するならば、神は「鏡」を通して創造する者であるだけでなく、「鏡」を通して被写体のように「見られる」対象だということになる。

そうなると、「鏡」の持つそのような双方通行性を利用して、物質的世界にいる何者かが、「鏡」を通して、霊的存在である神の似姿を「盗み撮る」ことも可能だということになる。
 
「盗み撮る」などという不届きな意志がなくとも、神の似像が自動的に「鏡」に映し出されることによって、神の意志とは関係なく、どんどん物質的世界に流出して行くという現象が起きうるのである。

ここに、グノーシス主義の神話的プロットに満ち溢れる「神的な存在の流出」という概念の源がある。

グノーシス主義においては、「父なる神」は誰も見ることのできない存在であるという。ところが、同時に、以上のような「鏡」の存在を仮定することによって(グノーシス主義では「父なる神」自身が「鏡」のような深淵であると定義される)、実際には、「見ることのできない」はずの「神」の似像が、神の意志とは別に、どんどん流出し、神的存在(グノーシス主義においてはアイオーンと呼ばれる)がほとんど無限に作り出されるのである。
 

「グノーシス主義の多くの神話によれば、世界の始原においては、絶対的存在者である至高神、すなわち「父なる神」が、ただ一人で存在している。そして至高者は、何らかの仕方で自分自身の「分身」を発出するのである。<略>

キリスト教教父のエイレナイオスによれば、ヴァレンティノス派のプトレマイオスという人物は、その教説を次のように説き始める。

(ヴァレンティノス派は、)不可視で名づけることのできない高みに、潜在した完全なアイオーンなるものがあると言い、これを「原初(プロアルケー)」とも、「原父(プロパトール)」とも、「深淵(ビュトス)」とも呼ぶのである。(エイレナイオス『異端反駁』I.1.1)

このようにヴァレンティノス葉は、至高神のことを「原父」と呼んでいる。それは確かに「父なる神なのだが、しかしただの「父」ではない。それはあらゆる父的存在の原型となるものであり、ゆえに「原父」と呼ばれるのである。

 同時に至高神は、「深淵」とも称される。先に見た『ヨハネのアポクリュフォン』においては、至高神は「霊の泉」のなかに自分自身の姿を見たのであるが、ヴァレンティノス派において至高神は、この「泉」自体と同一視されている。父なる至高神は、森の深部に潜み、その奥底を見通すことができない「深淵」のように、秘められた存在なのである。

 しかしあるとき、その「深淵」に、一条の光が差し込む。そして、水面のきらめく反射によって周囲に光が溢れ出すように、「深淵」から数々のアイオーンたちが流出するのである。同じくヴァレンティノス派に属すると見なされている『三部の教え』というテキストでは、後に触れるように、父なる至高神のことが「水がどれほど溢れ出ても尽きることがない泉」と称されている。このように至高神とは、そこから万物を流出する「泉」であり、同時に万物を映し出す「鏡」そのものなのである。」(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、大田俊寛著、春秋社、2009年、pp.123-125)


グノーシス主義においては、このように「父なる神」である「至高者」の像が絶え間なく流出して、無限とも言える神々が造りだされるが、そうこうしているうちに、不正な流出事件も起きる。大田氏はこれを「模倣による簒奪」、「模倣による剽窃」と呼ぶ。

グノーシス主義の神話のプロットにおいて、最下位の女性人格であるソフィアが、「至高者」を知りたいという、分不相応な欲望を抱いた結果、単独で神を知ろうとして失敗し、醜いヤルダバオートを生むという事件がそれに当たる。彼女は、「至高者」の像を不正に「盗み見よう」とした結果、歪んだ似像を生み出したのである。

だが、そのようなプロットも、そもそも至高者の存在が、もし誰かが盗み見ようとすれば、あたかもそれが可能であるかのように、「鏡」のような深淵であると定義されることなしには、成立し得ないものであったと言えるかも知れない。
  
このように、グノーシス主義における被造物の創造は、あたかも水面に光が反射するような受動的な「神的存在の流出」によるのであり、時には、創造主の意志を超えて存在が流出することさえあるのに対し、聖書における「父なる神」による被造物の創造は、すべてが神の意志に基づいた、主体的で能動的な命令の結果である。

聖書においては、被造物は決して神の意志の範囲を超えて誕生することはなく、グノーシス主義の言うような、受動的な「存在の流出」はない。

さらに、聖書においては、創造主と被造物との間には絶対的な主従関係があり、被造物には生み出された後も、存在している限り、創造主の意志に従う義務がある。創造主は確固たる人格を持った存在であり、決してグノーシス主義の言うような、意志を持たない沈黙する「鏡」ではない。そして、創造主は被造物の違反を沈黙して見逃したりすることはなく、被造物は絶対者である神に背いたがために、堕落し、滅びに定められたのである。

このように、聖書において、創造主である神の意志は絶対であり、被造物は決して創造主の意志や許しの範囲を超えて自らの存在を主張したり、保つことができない(そのようなことをすれば結果的に破滅するだけである)。

だが、グノーシス主義における「至高者」は、聖書の「父なる神」のような絶対的な意志を持つ存在ではなく、それゆえ、グノーシス主義においては、絶対者の意志に背いた被造物が罪に定められたり、罰せられることはない。人類が父なる神に背いたがために、神と断絶したという事実も全く認められていない。

しかしながら、以上に記したような、看過できない重大な差異をすべて脇に置いて、大筋だけを見るならば、グノーシス主義においても、人類は真の至高者の影のような「似像」であるがゆえに、「本体」である「父」と共にいなければ、存在意味が完全でなく、それにも関わらず、「父を喪失」したことが、人類の悲劇の原因となっているということは、ある程度、認められている。

そうした意味で、グノーシス主義においても、人類は、自己の同一性を、初めから「父なる神」に担保されているのであり、それにも関わらず、本体である「父」を見失い、自分のルーツを喪失していることが、人類の悲劇の原因なのである。

そこで、聖書においても、グノーシス主義においても、人類がいかにして「喪失した父」を取り戻し、「父に回帰する」ことができるか、という問題が焦眉の課題であり、それによらなければ、人類は自分が一体、誰を模して創造されたのか、何のために創造されたのか分からず、自分の存在意義を見失ったまま、意味のない人生を生きるしかないという認識は、大筋では、共通していると言える。
 
しかし、結論から言ってしまえば、グノーシス主義は、「神は不可知である」と定義することによって、人類が自らの創造主を知って「父なる神」に回帰する解決の道を自ら閉ざしてしまう。

人類には、母のルーツと、父のルーツがあり、母のルーツは、常に明白で、人類の「母」は人類である。つまり、人類は、目に見える被造物として、自分と同じ目に見える人類という被造物を「母」として生まれる。肉なる人類は、肉なる人類からしか生まれない。(「母」という言葉自体が、被造物を象徴する。)

しかし、人間の誕生の際、DNA鑑定などの手段のなかった昔には特に、父が誰であるかを証明することは難しかったように、人類にとっても、「母」のルーツは常に議論の余地なく明白であるにも関わらず、「父」のルーツはより精神的で見えないつながりを意味し、それを証明するためには、「母」とは異なる、より複雑な内的証明手段が必要とされるのである。
 
そのように「父」を証明することは単純でないにも関わらず、人類にとってより重要なのは、動物的生存のレベルの「母」のルーツではなく、見えない精神的なルーツとしての「父」である。なぜなら、「父」のルーツは、創造主へと続くものであるから、「母」のルーツに比べて、圧倒的に高貴であり、それを発見するときに初めて、人類は、動物的生存のレベルを超えた完全な在となる可能性を持つことができるためである。

ところが、グノーシス主義は、「父」という存在を「フィクション」にしてしまうことによって、事実上、人類には父に回帰する道がない、という結論に自動的に行き着いてしまうのである。

グノーシス主義における「父なる神」とは、万物を生み出す根源となる「真の至高者」であるが、グノーシス主義において、その「至高者」は、あまりにも崇高な存在であるために、言葉によっても形容できず、感覚によってとらえることもできない、誰も見ることのできない虚無の深淵であり、不可知的存在であるとされる。
 

グノーシス主義によれば、父なる神は「鏡」として存在しており、それ自体を認識することができない。父なる神からは、鏡のなかに束の間に浮かび上がる仮初の像のように、見せかけの姿を呈した数多くの神々が流出し、そして彼らは、可視的世界においてさまざまな交流と相克を展開し続けるのである。こうしてグノーシス主義は、彼らなりの仕方で、この世界にはなぜかくも多くの神々の形象が溢れかえっているのか、そしてその状況のなかで「真の父」の存在が見失われてしまうのかということを、明らかにしようと試みたのだった。」(同上、p.175)

グノーシス主義では、すべての被造物が、根源的には「至高者」によって創造されたことになっているものの、それぞれの被造物がどれくらい至高者に近い存在として創造され、どの程度、至高者を知ることができるかによって、被造物の間にヒエラルキーが定められる。
 

「「深淵」として存在する至高神から、アイオーンの神々が流出することによて成立する世界は、「プレーローマ(充溢)」と呼ばれる。プレーローマ界は、光と美によって満たされた、精神の充溢界なのである。<略>

 それでは、完全無欠の世界として成立したはずのプレーローマ界に、どのような理由で亀裂が発生することになるのであろうか。一言で言えばそれは、神々のあいだに立ち現れる「競合」の関係である。

 これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙のうちにヒエラルキーが設定されているのである。」(同上、p.126)


 そのため、「至高者」に創造されながらも、「父を知らず」、それゆえ「自己を知ることのない」アイオーンたちが数多くいる。そして、ある神話的プロットでは、「独り子」だけには「至高者」を知ることができる資格が与えられているが、それ以外の者には、人類も含め、一切、「至高者」を知る手立てはないとされる。
 

「このようにヴァレンティノス派の教説によれば、プレーローマ界を構成する数々のアイオーンたちのなかで、父を知り、また自らを知っている者は、「独り子(モノゲネース)(別名は「叡知(ヌース)」と呼ばれるアイオーンのみであった。「父」は「子」のみによって知られ、そして「子」だえけが、父の存在を表すことができるのである。すなわち、「父」と「子」のあいだには、鏡像的かつ想像的な一体性が特権的に確保されており、そしてその他のアイオーンたちは、このような完全な一体性から疎外されている。「他のアイオーンたちは、(子と)同じように自分たちの種子を流出したものを見たい、また初めのない根を観察したいと、密やかに憧れていたのだった」(エイレナイオス『異端反駁』I.2.1)。

アイオーンたちのなかで、このような欲望をもっとも激しく抱くようになったのは、『ヨハネのアポクリュフォン』の物語と同様に、末娘のアイオーンである「知恵(ソフィア)」であった。ソフィアは、自分も至高神から生み出されたアイオーンであるのに、どうして「独り子(ヌース)」と同じように父を知ることができないのかと憤り、彼に対して嫉妬の感情を抱く。」(同上、pp.128-129)


 このように、グノーシス主義の矛盾や悲劇は、「万物の創造の根源となる至高者は確かに存在する」として、その至高者からほとんど無限とも言える神々の流出を認めながらも、同時に、その「至高者」は被造物の側からは不可知であって、ヒエラルキーに応じてしか知ることができず、「独り子」なる存在の他には、ほとんどすべての被造物に見ることができず、知ることもできない存在であるとして、あらゆる被造物を「父なる神を知る」ことから締め出し、疎外していることに起因する。

最下位の女性人格であるソフィアだけが、大胆にもその禁を破って、自ら至高者を知ろうとするのだが、彼女の試みは失敗に終わる。それは当然である。なぜなら、グノーシス主義における至高者とは、誰にも自分を開示することのない虚無の深淵だからである。

以下の大田氏の指摘は、驚くほどに正鵠を射たものではないかと筆者は思う。
 

さて次に、「独り子」以外には知りえないという「父なる神」の姿を、ソフィアは一瞬であるとはいえ垣間見たわけであるが、その姿は果たしてどのようなものだったのだろうか。

 その答えとは、おそらく先に見たように、父とは「深淵」であり、「鏡」である、ということであるように思われる。やや積極的な解釈を試みるとすれば、父が不可視であるということは、鏡そのものが不可視であるということに等しい。いくら鏡をのぞき込んでみても、そこに映っているのは鏡をのぞき込んでいる自分自身にすぎず、「鏡そのもの」を見ることはできないからである。

 ソフィアがそこに見たものを想像してみよう。ソフィアが見たものは、自分自身の姿であると同時に、鏡という「無」であった。ソフィアはナルキッソスと同じように、自分自身の姿の美しさ、その甘美さに酔いしれる一方で、それがいくら手を伸ばしても自分のものにすることができない「虚無の深淵」であり、手に入れようとして深く身を伸ばせば、「死」のなかに飲み込まれてしまうということを知ったのではないだろうか。オウィディウスがナルキッソスの物語で描き出したように、自己愛の甘美さの裏には、死の棘が潜んでいるのである。」(同上、pp.132-133)


 このように、グノーシス主義は、人は神に似せて創造されたとしながらも、「至高者」の存在を「鏡」や「深淵」にたとえ、「至高者」を知ることのできない存在とみなすことによって、被造物が「至高者」を知るためには、自分自身を見つめるしか手段がなくなり、その結果、見えない「至高者」よりも、その影として生まれたに過ぎない「被造物」の方が、あたかも確かなリアリティであるかのように関係が逆転してしまうのである。
 
グノーシス主義においては、こうして見えざる存在である「至高者」と見える存在である被造物との唯物論的な関係の逆転が起こり、人類が「神を知ろう」と思えば、神の似像として造られた自分自身を見つめるしかないため、人類は自己の内に神を探しつつ、歪んだ自己愛に溺れ、結局、神を得られず、絶望の中で苦悶するしかないというトートロジーに陥るのである。そうした支離滅裂なトートロジーの結果として起きたのが、ソフィアの過失であり、ソフィアによって生まれたヤルダバオートが作り出した出来そこないの下界であり、今日も、グノーシス主義的な考えに立脚して神を探求することは、自分自身の内に神を探求することを意味するから、そのようなことを企てる者は誰であれ、結果として、水面に映った自分の姿に恋い焦がれて死んだナルキッソスと同じように悲劇の運命を辿るしかないのである。
 
だが、一体、なぜこんな愚かしいトートロジーが生まれるのであろうか。そもそもグノーシス主義はなぜ「真の至高者」をこんな風に不可知的深淵であると定義しているのであろうか。

大田氏はその謎を解く鍵を、古代社会に求める。古代社会おいては、父という存在が、生物学的にはきわめて不確かな存在であり(父方のルーツは証明不可能であり)、しかも、子供の死亡率が高かったため、「養子制度」の需要も高く、そうした時代には、家族を生物学的な絆にとらわれてとらえることのメリットが薄く、それゆえ、より流動的で融通の効く家族制度を作り上げるために、父子関係を、生物学的なつながりに必ずしもとらわれない、儀礼的なものとみなす必要があったのであり、その結果、生物学的な絆ではなく、言語表明(宣誓)によって作り上げられる儀礼的な父子関係を中心として、家族制度が作り上げられて行ったのだと主張する。
 

古代社会の宗教において、父と子の関係を成立させるのは、母子関係のような生物学的事実ではなく、むしろ「宣誓の言葉」という儀礼的行為であった。すなわち、生まれてきた赤子に対して、「これは私の息子(娘)である」と父親が宣言することにより、正式な父子関係が成立すると見なされたのである。

このような宣誓行為は、古代の宗教における中心的な行事の一つであった。すなわち、子供はただ母親から産まれてきただけでは家族の一員となることはできず、父親によって司られた祭祀において、正式な成員として承認されなければならないのである。」(同上、pp.34-39)


こうして、大田氏は、古代社会においては、子供はただある家族のもとに生まれて来たというだけの理由では、または、父や母と生物学的な絆を有するというだけの理由では、子として認められず、父親が「わたしの子である」と宣誓することによって、初めて生きた父子関係が成立したのだと言う。

ここまでならば、ある程度、聖書においても、同様の原則が見られると言えるかも知れない。

なぜなら、聖書においても、人類は生まれながらにして神の子供とは認められないからである。人類は父なる神に似せて創造されはしたものの、罪に堕落して神と断絶したため、キリストの贖いを信じて受け入れ、水と霊によって生まれなければ、神の子供とはならない。

そして、聖書の父なる神と人類との間で結ばれる父子関係は、極めて排他的なものであって、人の側から、神の側からの双方の「宣誓」が必要となり、人間の側からの宣誓としては、己が罪を認め、これを悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れると告白し、この世と分離し、父なる神の御心に背く一切のものからの分離としてのバプテスマを通過しなければならない。

「だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

このことを、主イエスご自身が、人類の代表として、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることにより証明された。

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16-17)

イエスは聖霊によって生まれたので、最初から神の独り子であったにも関わらず、人類の代表としてバプテスマを受けることにより、霊的死を通って、堕落したアダムに属する自分自身も含め、神の忌み嫌われる一切のものと分離し、神に属する新しい命によって復活されたことを象徴的に表されたのである。その時、初めて、天が開けて、父なる神の御許から聖霊がイエスに降り、イエスが神の御心にかなう、神の子供であることが、周りの人々にもはっきりと分かる形で、父なる神によって宣誓された。

このように、聖霊によって生まれたイエスでさえ、バプテスマという霊的儀礼を通過することによって、初めて、父なる神から「わたしの子である」という公的な承認を受けたという点では、大田氏が指摘しているように、父子関係は「宣誓」によって初めて確かなものとなるという主張は、聖書からそうかけ離れて遠いものではないと言えるかも知れない。
 
パウロも、選民であったユダヤ人をさし置いて、異邦人に救いが最初に宣べ伝えられ、かつては神の民とは認められなかった異邦人が、救いを受け入れることにより、神の側から「わたしの子である」と、承認されたことについて、次のように述べた。これも信仰に基づく「父」と「子」の双方からの「宣誓」であると言えないこともないかも知れない。
 
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して
くださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。
わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない』
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:24-26)

以下の詩編も、直接的にはキリストを指すとはいえ、救いを受け入れ、水と霊によって新しく生まれたすべてのクリスチャンに当てはまる神の側からの宣誓である。

主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」」(詩編2:7-9)

このように、聖書においても、父なる神とその子供たちとの関係は、生まれながらの生物学的な絆(肉による絆)によるのではなく、信仰による双方からの宣誓に基づくものである。人間の側からも、キリストの救いを受け入れ、神の御心に背く一切のものと分離して、バプテスマによって霊的死を通り、キリストの命によって新しく生まれたことを宣言すると共に、神の側からも、その信仰による表明を受け入れて、その人間を信仰を通じて神の子供として承認するという宣誓により、霊的父子関係が成立するのである。

だが、そこから先、グノーシス主義と聖書における記述では、この「父子関係」を巡る態度が決定的に分かれる。グノーシス主義は、こうして成立した父子関係を、生物学的な絆に基づかず、物理的に立証不可能な儀礼的なものであって、それは家族や社会に秩序を与えるために便宜上、造りだされた概念に過ぎないため、本質的には「フィクション」であると結論づけることにより、聖書とは正反対の結論へとたどり着く。

聖書においては、信仰によって宣誓された父子関係は、決して人間社会を保たせるための便宜上の絆ではない。それは生物学的な絆を超越して、永遠のリアリティとして効力を発する、父と子との排他的な結びつきであり、神の側からの無償の愛と人間の側からの従順による強力な人格的な結びつきである。

それに引き換え、グノーシス主義は、儀礼的な祭祀を通して言語による宣誓によって表明された父子関係は、あくまで社会を保たせるための便宜上の絆であり、「擬制的なもの」「パフォーマティブなもの」、要するに、実体の伴わないフィクションだと言うのである。

大田氏は、古代社会において、父子関係は、生物学的な絆にとらわれず、家族制度を維持するために便宜上、作り出された儀礼的・擬制的なものであったということを根拠に、「父とは擬制(フィクション)的な存在である」と言い切るだけでなく、古代社会における「父」の概念は、そもそも、死者(先祖)を神として祀る家制度の中で、「神聖な始祖」々から先祖代々に受け継がれる「神聖な血統(火花)」を継承するという「神話」に基づいて作り出されたものであり、「神聖な始祖」自体が虚構の概念である以上、そのような「神話」を継承するために造りだされた「父」の概念も当然ながらフィクションだと言うのである。

さらに大田氏は、そこからすすんで、「父」とは「フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」であると定義し、古代社会の家族制度におけるフィクションとしての「父」の概念が、その後、発展して、共同体社会や都市国家の基礎になったのだという。
 

「それでは「父」とは、一体何だろうか。端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。すでに述べたように、父と子の関係は、「お前は私の息子(娘)である」という儀礼的宣誓、すなわち、パフォーマティブな言語行為によって創設される。これを言い換えれば、そのような言語行為が行われる以前、子供が子供でないのと同様に、父もまた父ではない。父はその子と同じように、言語によって創設されるのである。

 しかし、父が擬制的な存在であるというのは、このような意味においてのみではない。そもそも彼が、新しく生まれた子を家族の成員として承認するという権限を持つと見なされるのは、どのような背景に基づいているのだろうか。それは彼が、家族の「神聖な始祖」から「生命の火花」を継承していると考えられていることによる。そしてこの「神聖な始祖」は、先に述べた通り、普段は先祖代々の墓に眠っているのだが、神聖な篭に火が灯されると、現世へと来臨する。すなわち、真の意味で「父(パーテル)」と呼ばれるにふさわしいのは、現実世界に存在しているわけではない、この「神聖な始祖」という虚構の人格、虚構の存在者なのである。」(同上、pp.41-42)


 このように、大田氏が古代社会の家族制度や都市国家の成立とグノーシス主義における「フィクションの父」という概念を結びつけていることは、非常に興味深く、的を射ているのではないかと思われる。
 
だが、それは聖書における「父なる神」と神の子供たちに当てはめることのできる概念ではない。以上のような分析を通して、はっきり分かることは、グノーシス主義における「父子関係」と、聖書における「父子関係」は、それが一体、誰のために結ばれる関係なのか、という点で、完全に異質であり、全く逆の方向を向いていることである。

聖書においては、父なる神は、失われた人類を滅びから救い、罪から贖い出すことを願っておられ、その神の御心に気づいて、これに応答してキリストの十字架を信じて受け入れた人々が、神の子供とされる。それは「初めの愛」にもたとえられるように、当事者同士の強力な個人的な結びつきであって、あくまで当事者の利益のために結ばれるものであって、決して、当事者以外の周囲の人々のために便宜をはかったり、人類社会や家制度を存続させる目的で生み出される絆ではない。

しかし、グノーシス主義における「父子関係」は徹底して、当事者である「父子」のために結ばれるものではなく、むしろ、「神聖な始祖」というフィクションに基づき、当事者以外の人々、先祖、家族、家制度、共同体、人間社会の秩序を保ち、人間社会に便宜をはかるために結ばれる絆なのである。そうであるがゆえに、それはどこまで行っても、真実からはほど遠く、人間の威信を保ち、社会の秩序を成り立たせるために便宜上、作り出された「神話」の一部であり、「フィクション」なのである。

そのことを考えれば、なぜグノーシス主義における「至高者」が「鏡」や「虚無の深淵」にたとえられ、不可解かつ不可知な存在であって、聖書の「父なる神」のように、はっきりした人格や意思を持って、物事に善悪の区別をつけり、時には被造物の世界に積極的に介入し、神に反して反逆した被造物を罰したりすることがないのか、その理由もおのずと見えて来る。

グノーシス主義において「虚無の深淵」にもたとえられる「至高者」は、多数の神々を流出させはするが、物事の善悪を定めたり、背いた者を怒って罰することのない、意志表示さえしない沈黙する神である。その代わりに、「至高者」によって生み出された様々な被造物たちは、「至高者」よりもはるかに活発に動き回り、自らの意志や願望を表明する。

天界の被造物を生み出す根源となったのも「至高者」自身ではなく、「至高者」から最初に生み出されたとするバルベーローという女性人格であり、さらに、時にはソフィアのように、分を超えた逸脱行為を犯して「至高者」の真似をしようとする者も出て来る。それでも、ソフィアが「至高者」によって罰せられて滅ぼされることはない。

ソフィアの過失の結果、天界の歪んだ模造である不幸な下界が誕生したわけだが、それでも、最終的には、人類が天界に復帰することにより、ソフィアの過失も修正されることになっている。
 
その際、グノーシス主義においては、人類は、自己の内に生まれながらにして「神的自己」(「至高者」に由来する神聖な霊の欠片)が宿っていると気づくことにより、自分が「至高者」の子孫であると名乗り出るのだが、その一方で、その神話のプロットに「至高者」が登場して、人類を我が子として「認知」するという場面はない。
 
グノーシス主義においては、子の側から名乗り出る場面はあっても、父が子を前にして「これが我が子である」と宣誓する儀礼的場面が全く存在しないのである。大田氏は一方では、父子関係が、言語行為によって宣誓される儀礼的なものであると述べているのだから、「子の側からの宣誓」はあっても、「父の側からの承認」がないことは、極めて奇妙な矛盾に感じられる。

だが、このことは、グノーシス主義の物語が、根本的に、創造主なる「父なる神」を中心として造られたものでなく、「和を持って尊しとなす」式に、被造物の思いや願望を中心に、被造物の世界に秩序を保たせるために造られたものであることを考えれば納得が行く。

グノーシス主義においては、ソフィアのように、ヒエラルキーを無視して過失を犯した者も、決して悪者にされたり罰せられたりすることなく、彼女の願望もある程度、認められ、彼女の過失を「修正」する仕事は、人類が身代わりに負わされることにより、何とかして物事がおさまりがつくように、辻褄合わせのような筋書きが作り出される。

こうして、グノーシス主義においては、どの被造物も罪に定められることがない一方で、悪者にされている存在が一人だけいる。それは「私は妬む神である」と宣言しているヤルダバオートである。
  
だが、普通に考えれば、ヤルダバオートはソフィアの過失の結果として生まれたのだから、彼もまた哀れな被害者であって、ソフィアの過失を責めずにヤルダバオートだけを責めるのは筋違いであると言えよう。

それにも関わらず、グノーシス主義は徹底してヤルダバオート一人に責めを帰する。
 
グノーシス主義が責め立てているヤルダバオートの「非」や「罪」とは、一体、何なのかという問題を通して、我々は、グノーシス主義という思想の本質をかなりはっきりととらえることができる。

すなわち、グノーシス主義の考えるヤルダバオートの「非」とはおそらく、

➀外見が醜く愚かであるため、他の被造物(特に「母」であるソフィア)の不快を催す存在であること、
②自分の他に神はいないと考えて神の称号を独占しようとしており、他の被造物とのヒエラルキーの中におさまらず、他の被造物から見れば、秩序を乱し、自分たちの栄光にならない目障りな存在であること、

の二点であろう。要するに、ヤルダバオートが他のすべての被造物との間のヒエラルキーに従わず、自分だけが神であるかのように宣言して、他の被造物たちの自惚れに水を差し、他の被造物たちの考える「秩序」を壊し、かつ視覚的にも他の被造物に不快をもたらす存在であるから、徹底的な侮蔑に値するというわけなのである。

このことからも、グノーシス主義とは、徹頭徹尾、被造物の都合や願望を中心に造られた者であり、被造物の世界に、何とか折り合いをつけ、「和をもって尊しとなす」式に、うわべだけの秩序を成り立たせるために作られたストーリーだと言えよう。

そこで最も重要な価値は、聖書の教えるように、絶対者である「父なる神」の命令に背かず、その意志に従うことではなく、むしろ、被造物の社会で、多数決式に、他の被造物にできるだけ迷惑をかけずに、浮いた存在とならず、他の被造物たちとの間で、折り合いをつけて生きることなのだと考えられる。

グノーシス主義において、最も大切なのは、至高者の意志ではなく、被造物たちの意志であるからこそ、至高者に背いたかどで誰も罰せられたり滅ぼされたりすることなく、過失を犯しても、それぞれの被造物の願望がみなある程度、認められているのである。
  
つまり、グノーシス主義にもし善悪という概念があるとすれば、それは、「至高者」の意志に服従するかどうかとは全く関係なく、被造物たちに好ましい影響を与えるかどうか、被造物たちの社会の秩序を成り立たせることに貢献し、そのヒエラルキーに従っているかどうかという基準ではかられるものだと言って良いかも知れない。

グノーシス主義は、被造物の自己肯定や自己都合のために(被造物の欲望をかなえるために)作り出された物語あり、そこでは、被造物の都合が第一優先されているがゆえに、被造物たちの目に慰めとならず、被造物のヒエラルキーにも従わない、「空気」を読めないヤルダバオートが、目障りな存在とみなされ、侮蔑の対象とされ、「悪」とみなされるのである。「神々」の世界において、ヤルダバトートが「わたしの他に神はいない」と宣言することが、他の被造物の自己愛に水を差し、面目を失わせる行動に映るからこそ、ヤルダバオートは毛嫌いされ、「悪」とみなされるのである。
   
グノーシス主義の中心は、被造物の思いであるがゆえに、「至高者」であるはずの「父なる神」さえも、決して絶対の存在ではない。「至高者」は、言葉の上では、至高の存在であるかのように讃えられてはいるものの、実際には、被造物らの願望や都合によって、事実上、骨抜きにされ、形骸化してしまっている。「至高者」は、被造物の勝手な振る舞い合を制止することも、罰することもできず、自らの意志表示を行うことさえなく、まるで神棚に祭られた先祖の遺影のごとく、ただ被造物の願望に口実を与え、彼らの存在を神格化するためだけの名ばかりの存在として沈黙しているだけである。

グノーシス主義において、最高の位階にある神的存在であるはずの「至高者」が、これほど不確かな人格や意思を持たない存在として描かれ、「鏡」や「虚無の深淵」と同様の存在であるかのように、極めて曖昧かつ否定的な表現でしか表されないのは、この「至高者」の存在が、もともと被造物の欲望を集積して作り出された「フィクション」であり、「偶像」だからだと考えられる。

つまり、「至高者」の存在を「虚無の深淵」であると定義するグノーシス主義は(根源的にはその「虚無の深淵」は、仏教などの「無」の概念にも通じるが)、「父なる神」をただフィクションにしているというよりも、「至高者」とは、結局、被造物の欲望の総体として作り出される偶像だとみなしているのであって、それゆえに、「至高者」自身が、あらゆる被造物の願望を映し出す「鏡」と称されているとみなされるのである。
 
つまり、グノーシス主義における「至高者」とは、このように、被造物の存在を承認し、彼らに「神々」としてのステータスを与え、被造物の欲望の総体として生み出された偶像なのであり、被造物自身の欲望の化身としての「フィクション」なのである。
 
このようにして、グノーシス主義の神話は、創造主に似せて人類が造られたため、人類はまことの創造主に回帰することによらなければ自己を発見できないと言いながらも、その創造主を、人類の欲望の対象、偶像に変えてしまうことによって、無限のトートロジーに陥っているのである。

そこで、このような教えを信じた人々が、神に至る道を見つけるために、無限の深淵なる鏡をのぞき込み、そこに自分自身の姿を投影して果てしなくそれに耽溺し、ついに自分が神であると宣言するか、あるいは、「至高者」の崇高な姿を見ることのできない苦悩から逃れようと、嫉妬に駆られて、自分が憧れる対象を歪んだ摸造に写し取ることで剽窃するという、不幸な悪循環に陥るのは当然である。 

こうしたことを考えれば、なぜKFCのDr.Lukeが「わたしたちはエロヒムだ!」というとんでもない宣言をメッセージで行ったり、杉本徳久のような人々が、クリスチャンの個人情報を集めてはそれを利用して、自らのブログを鏡のようにして、そこにターゲットとなる人物の印象操作を行うために歪んだ像を造りだして映し出すことで、ガティブ・キャンペーンを行ったり、あるいは鵜川貴範のような人々が、他教団の人間であるにも関わらず、KFCの違法なコピーサイトを作ったり、KFCの半分を乗っ取って横浜で集会を開き続けたりしたのか、その理由もおのずと明らかになろう。

これらはすべて「簒奪の模倣」や「剽窃」(歪んだ「模倣の霊」の働き)であって、「父なる神」を探求しながらも、自己存在を見つめる以外に「父なる神」に至る道を見つけられないグノーシス主義者が、苦悩のあまり、不正な方法で「父なる神」の似像を盗み見、模倣しようとする手法を意味するのである。
 
さらに、多少、先走って結論を述べれば、牧師制度も、グノーシス主義における「至高者」を模して成り立つ誤った制度であり、大田氏の言葉を借りれば、「擬制的存在である」。

グノーシス主義における「至高者」が、被造物の都合や欲望によって、被造物を神格化して存在に意義を与えるためだけに作り出された「フィクション」であるのと同様、牧師という存在もまた、信徒らの欲望に口実を与えるために作り出された「偶像」であり「フィクション」であり「擬制的存在」なのである。
 
大田氏は、「父」とは「端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。」と述べるが、現実には、このような「フィクションとしての父」は、人間の欲望をいたずらに刺激し、苦悩を増し加えるばかりで、決して人間社会を統御などせず、何の秩序をももたらさない。

「フィクションとしての父」しか存在しない場所では、人々は己が欲望を「父」に投影し、「父」にそれを叶えてもらおうと熱心に願い出るが、その「父」自体がフィクションなので、彼らの願いは実現できない。結果として、ソフィアの欲望がもたらしたと同様の悲劇が延々と繰り返され、誰もが知ろうとしても知りえない「父」のために、嫉妬と苦悩を増し加え、悶絶しながら神の像を盗み取ろうと、悪しき模倣を繰り返し、争いを繰り広げるだけなのである。

以上の考察を通して、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが、なぜカウンセリングを通しての自己認識につとめているかも理解できよう。大田氏は著書で精神分析とグノーシス主義の関連性について論じているが、カウンセリングも、神を見いだそうとしながら、その神を自己の内にしか見つけられないと考える人々(グノーシス主義の教えに影響を受けた者たち)が、「鏡」に映し出した自己像に耽溺することで、何とかして完全な自己を取り戻そうと苦しい努力を重ねる過程なのである。

ある人が、自分の悩み苦しみを他者の前で言葉を通して吐露し、それに他者が頷きながら耳を傾けるのを見ることによって、その人は、他者の眼差しという「鏡」を介して自己存在に承認を受けたように錯覚する。人はそこで他者が自分の主張に頷いてくれたことで、自己存在のリアリティが取り戻されたかのように錯覚する。

ところが、「鏡」を通して自己を発見しようとする過程では、常にそのような望ましい結果が出るとは限らない。他者の眼差しの中に「あらまほしき自己像」を見つけようとしても、そこには、自分の意に反して、自分が望みもしない醜く悪しき自己像が映し出されるということが度々繰り返される。そこで、人は、満足の行く自己像を発見するために、願い通りの自己像を映し出してくれそうな「鏡」を探し求めて走り回るという作業を重ねずにいられないが、そのようなことをすればするほど、他者の眼差しに自己を奪われ、数多くの「鏡」に乱反射する自分自身の一体どれが本物なのかも分からなくなり、ますます自己を見失って行くだけなのである。

人が「鏡」を通してしか自己を認識できないと考えている限り、自分を「鏡」によってどんどん質に取られ、不正に流出させられる結果を防ぐこともできない。
 
結局のところ、「父なる神」をフィクションであると仮定すると、「父なる神」に似せて創造された人類も「フィクションである」という結論しか生まれないのである。神的自己を発見するどころか、自己存在を発見しようとして、虚無の深淵だけが残る(もしくは歪んだ模倣の結果、異形の産物が生み出される)という本末転倒な結果に至るしかないのである。

神を探し求めると言いながら、このような無限のトートロジーに陥った人間は、最後には狂気に至るしかなくなる。

それゆえ、筆者は、「母性原理の崇拝」すなわち、「被造物崇拝」のグノーシス主義を基盤として成立しているペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の二分性を非難しているのは、とんでもない見当違いであると言うのである。キリスト教の二分性が人を狂気に陥れているのではない。グノーシス主義の支離滅裂なトートロジーの教えこそ、人間を狂気に陥れる根源なのである。 


「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(2)

・国家レベルで広がるグノーシス主義~人間を神とする現人神崇拝からのエクソダスの必要性~
  

本題に入る前に、再び、政局について書いておきたい。やはり、佐川前国税庁長官の国会における証人喚問は、予想した通り、単なる見世物であり、安倍夫妻が逃げ切るための出来レース、ガス抜きだったという印象を受ける。しかも、これをインターネットでリアルタイムで実況中継しようとしていた菅野完氏のツイッターが直前に凍結されるなど、この国の暗黒状態をよくよく物語る出来事が進行中である。

当ブログが、何年も前から、暗闇の勢力からいわれのない攻撃を受けて来たことも、我が国が統一教会や日本会議などのオカルト勢力に占拠されている現状と無関係であるとは思えず、もはや安倍政権になってから何でもありとなったこの国には、言論の自由もなくなりつつある上、巷でささやかれているように、公文書の改ざんも、明らかになっていないだけで、他にも数えきれないほど横行しているものと思われる。

公文書が改ざんされたということは、ただ公務員の仕事に信頼が持てなくなったなどという次元の問題ではなく、国の存立基盤が根本から揺るがされていることを意味する。今やこの国そのものが、オカルト・ヤクザ勢力に乗っ取られ、どんどん書き換えられ、「フィクション」になりつつあるのが現状なのである。

我が国は、すでに何年も前から、全体主義社会と化しており、表面的に平和に無事に生きようと願う人々は、悪魔に魂を売るしかない状況だ。そのことは、官僚の世界でトップクラスに至るまで腐敗が進行し、誰もが粉飾に手を染めている事実からもよく分かる。こうした腐敗と癒着が、官僚の世界だけにとどまるはずがなく、当然、民間にも深く浸透しているはずである。
 
筆者はこうした世の腐敗の中に、牧師を神のように崇めるキリスト教界の堕落を見る思いがする。以下でも詳しく論じるが、牧師制度は、決してキリスト教に由来するものではなく、その起源は被造物を神とするグノーシス主義に由来するのである。

多くの信仰の先人たちが、目に見える人間をリーダーとして、それを頂点にいただく地上の組織や団体を作ることは、キリスト教と本質的に相容れないことに気づき、聖書に忠実なエクレシアを求め、そうした団体をエクソダスして行った。

今や信仰とは関係ない地上社会においても、バビロン化が極度に進んだ結果、誰かをボスとして、その人物に雇用され、生殺与奪を握られて生きることが、結局、教会に籍を置くことにより、救いを教会に質に取られてしまっている信者の状態とほとんど変わらなくなっているものと思う。

独裁国家では、独裁者に異議を唱えた人物に、平和な暮らしはない。投獄されるか、殺されるか、国外追放されるなどして、厳しい迫害が待っているだけである。牧師制度に異議を唱えた信徒も、同様に、教会から悪魔扱いされて追放されるということが多々起きている現状であるが、国ごとグノーシス主義に乗っ取られた我が国では、国家レベルでカルト化が進行中なのである。

首相夫妻が、事実上の現人神となり、「真の父母」となって国民に君臨しており、オカルト信仰によってこの国を動かしている。彼らおよび彼らの作った体制を拝むことを拒否した人々は、「人民の敵」のごとくネガキャンにさらされ、社会的な抹殺へと追いやられているのである。

だが、至る所からほころびが出ている現在、こんなにも腐敗し切った愚かな体制が長く続くことはあり得ない。

筆者は、ペンテコステ運動が米国から持ち込まれたものであるように、日本会議も米国発(源流はイスラエル)から輸入されたものではないかと考える。米国ではロシアの悪魔化のプロパガンダが一層、進んでいるようだが、巨悪から目を逸らすために、「巨大な悪役の像」を作り上げては、自ら犯した悪事のすべての責任をその悪役に転嫁するというのは、彼らの常套手段である。

米国がイスラエル及び他の国々と組んでこれまで行って来たすべての悪事を、ロシアを巨大な悪役に仕立てることでオールリセットしようとしていることは、もはや人々の共通認識となりつつあるように思う。ロシアという国もそれなりに相当に厄介な「フィクション」であるとはいえ、こんなお手軽かつ馬鹿馬鹿しい卑劣な手段によりすべての悪事を帳消しにできるはずがないことは明白である。

こうしたすべてのことには、決して偶然ではない霊的影響があり、筆者は自分が様々な意味で、古い時代と新しい時代の歴史の交差点に立っていることを感じる。結論から言えば、信仰の世界は、この世と合わせ鏡であるから、筆者があるべき場所に確固として立つことにより、こうした支離滅裂な国際情勢や、この国の悲惨な現状にも幾分か変化が訪れる可能性があると考える。

さて、筆者は、これまでの記事にも書いて来たように、暗闇の勢力に真実を語らせるためには、訴訟を通して答弁を公開させるしか残された手段はないと確信している。筆者はこれまで自分から訴訟を提起したことは一度もなく、また、村上徳久や杉本密の行って来た行為を、キリスト教界の内側の問題としてとらえていた頃には、教会の問題を世に持ち出すべきではないという聖書の御言葉に基づき、訴訟という手段を使って彼らの引き起こした争いを解決することを回避して来た。

だが、今や杉本徳久や村上密という人物はキリスト教徒ではなく、彼らには信仰の片鱗もなく、彼らを信者と同様に扱う理由はどこにもない上、筆者が個人的な思惑により彼らと対立しているわけではなく、この争いは彼らの側からしかけられたものであることを明白にするためにも、ネット上の議論を出て、きちんと実社会において公にしかるべき形で決着をつけることがぜひとも必要であると考える。

その作業を通して、これまで杉本や村上のような人物が、自分の側から率先してクリスチャンに訴訟をふっかけることにより、自分たちがあたかも悪を退治する正義の味方であるかのようなポーズを取り続けて来たことの欺瞞性が、より一層、公衆の面前で明らかになるであろうと思う。
 
また、それを通して、聖書の御言葉に反逆する者たちは、どんなにこの世の常識を振りかざしているように見えても、結局は、この世の常識や法制度をも平然と踏みにじり、すべての善悪の基準をあざけり、踏みにじりながら、自分が何者にも服する必要のない神であるかのような思い上がりに陥り、己が欲望を高く掲げるのだという事実が明らかになるだろうと思う。

彼らがこの世の法廷において敗訴したという記録を作ることは、非常に重要である。訴訟は、ヤクザ者の専売特許ではなく、そんな者たちのために作られた制度でもない。クリスチャンはそうしたこの世の手続きにあまりにも無知であるべきではない。

本当のことを言えば、筆者にとっては、個人情報を収集されるとか、実名を開示されるとか、名誉を毀損されるとかいった問題は、本質的に重要ではなく、実に些末な問題でしかないのだ。実名を公表してブログを書いている人々は、世に数多く存在し、そうした人々は厳しい批判にも時にさらされている。筆者が実名を公開しないのは、杉本や村上のようにさかんに自分の名を売りながら、宗教指導者や改革者をきどる気がないためで、自分の名を冠したミニストリーのようなものを作って、人前に栄光を受けたくないからである。

さらに、筆者の実名が特定されないことによって、筆者に関わる人々のプライバシーも保たれる。当ブログでは、牧師や指導者として自分を公にし、自ら自分の情報を明かした人々以外については、たとえ敵のように行動する信者があったとしても、実名を公開したり、彼らを特定できる個人情報を開示したりはしていない。

もしも自分のミニストリーを作って有名になろうと願ったならば、筆者にもそのチャンスは十分にあったであろうと思う。ブログを金もうけの手段とし、何かの新しい教えを宣べる教祖となって、人々に君臨しようと考えたなら、そのための才覚がゼロだったとは思わない。そういう悪しき目的のために、筆者がこれまで地上で積み上げて来た様々な経験や肩書を存分に利用することも可能だったろう。今から先も、様々な戦いに勝利をおさめれば、筆者の名を使って、筆者を担ぎ上げようとする人々が出て来ないとも限らない。

だが、筆者はそういうことを全く願っていないので、無名氏のままであり続け、自分の名を売るまいと考えているのである。地上で栄光を受ければ、天での栄光はもうないからだ。

当ブログに対して引き起こされている様々な戦いは、神の国の権益に関わる問題であって、個人の諸権利に関わる問題ではない。ここで本質的に重要なのは、ヴィオロン何某といった地上の人間の諸権利が侵害されているといった個人的なレベルの問題ではなく、聖書の神の御言葉が否定され、キリスト教が歪められ、聖書の神と神の教会が冒涜され、神の国の権益が侵され、真実と正義が曲げられているという問題なのである。

個人の諸権利を主張することは、聖書の御言葉に基づく信仰を公然と守り、神の国の権益を守るために必要な現実的措置として行っているだけのことであり、それが本質的に重要な問題なのでは全くないのである。

ちなみに、3月23日という日は、本当にいわくつきな日だったらしく、札幌では、元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏と、日本会議の強力な代弁者の一人であると見られ、筋金入りの改憲派でもある櫻井よしこ氏との間で本人尋問が行われた日であったらしい。
 

【慰安婦記事訴訟】植村隆氏、櫻井よしこ氏双方の本人尋問 札幌地裁で7月6日に結審
03/23 19:50 産経新聞

 元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏(59)が、記事を「捏造」と書かれ名誉を傷つけられたとして、ジャーナリストの櫻井よしこ氏や出版社3社に損害賠償などを求めた訴訟で、植村氏と櫻井氏双方の本人尋問が23日、札幌地裁(岡山忠広裁判長)であった。7月6日に結審する。
  植村氏は朝日新聞記者だった平成3年8月、元慰安婦が「『女子挺身隊』の名で連行された」とした大阪本社発行の記事について、「連れていかれた所で監禁され意に反して慰安婦にさせられた。だまされて戦場に連れて行かれた。一連の行為で『連行』と書いた」とした。また、「当時の韓国では慰安婦が『挺身隊』を意味していた」と証言し、意図的に慰安婦と挺身隊を結びつけたのではないと主張した。
  一方、櫻井氏は、後に作り話と判明した吉田清治氏の「女子挺身隊の名のもとで強制連行された」に呼応する形で植村氏の記事が書かれたと主張。「植村氏は(吉田氏の)作り話の被害者が実際にいると書いた」とその影響力の大きさを指摘した上で「植村氏は公開討論の呼びかけにも応じてこなかった」と批判した。  

   この裁判については、植村隆氏を支える市民団体が以下の記事を発表している。

櫻井よしこ氏が自身のウソを認める! 「捏造決めつけ」記述にも重大な誤り
札幌第11回■詳報  次回7月6日に結審、判決は秋以降に

札幌訴訟の第11回口頭弁論が3月23日、札幌地裁で開かれ、原告植村隆氏、被告櫻井よしこ氏に対する長時間の本人尋問があった。

この尋問で、櫻井氏は、いくつかの記述に誤りがあることを認めた。この記述は捏造決めつけの根拠となるものであるため、植村氏に対する誹謗中傷が根も葉もないものであることがはっきりした。櫻井氏本人がウソを認めたことにより、櫻井氏の根拠は大きく揺らぎ、崩れた。櫻井氏はその一部については、訂正を約束した。
<続きは本文参照。>

 
当ブログは、これまでこの訴訟を追って来ていないため、内容について深く立ち入ることはできないが、大筋を見る限り、この裁判は、「大日本帝国」の復活を願い、戦前の軍国主義路線の誤りを認めず、従軍慰安婦などの問題はすべてなかったこととして闇に葬りたい日本会議を支持する櫻井よしこ氏が、慰安婦問題を掘り下げる報道を不当にバッシングし、そのようなテーマを追求するジャーナリストに不当な打撃を加えて、このテーマ自体を葬り去ろうとする趣旨の記事を発表したため、記者がバッシングから身を守り、自分が行った報道の正しさを立証するために起こさざるを得なくなった訴訟であるという印象を受ける。

市民団体の報道によれば、櫻井氏は徐々に誤りを認め、自分の主張が捏造であったことを認めざるを得ない立場に追い込まれているようだ。 

植村氏が起こした裁判は、名誉毀損の被害を取り返すという、ただ自分の権利を守ることだけが目的ではなく、自分が報道した内容が真実であることを論証して、慰安婦問題が闇に葬り去られて社会の利益が損なわれることのないよう必要なアクションを取ったものだと考えらえる。

報道関係者でなくとも、自分が述べた言葉が真実であることを証明するためならば、それを公に論証する機会として、裁判を用いることは、時には必要であろう。そのようにして自分の言葉の真実性を主張するためには、自分の権利が侵害されたという訴えの形を取るしか今のところ方法がないのが実状である。

日本会議サイドは、櫻井よしこ氏を大いに利用して、慰安婦問題を報道した植村氏を個人攻撃させることで、慰安婦問題に触れると、誰でもこういう結果になるので、慰安婦問題など掘り下げない方が良いですよ、という見せしめ事例にしようとしたのではないかと考えられる。

筆者や当ブログに対して行われて来た攻撃もそれと同じで、牧師制度を批判したり、ペンテコステ・カリスマ運動の偽りを証明したり、カルト被害者救済活動を批判したりすれば、徹底的な報復を受け、人生に害を及ぼされるので、そのような厄介なテーマを、クリスチャンは扱わず、決して言及しない方が良いですよ、という見せしめのためになされたと思われる。

このように、あるテーマそのものをタブーとするために、個人攻撃が行われるということはままある。だが、筆者が書いている内容は真実であり、杉本や村上が書いていることは虚偽である以上、どちらが消し去られなければならないのかは明白だ。しかも、これはこの世のみならず、来るべき世にまで及ぶほどの永遠性を持つ普遍的テーマを巡る論争なのである。

虚偽の情報によって真実が駆逐されねばならない理由はなく、ましてそれが永遠性を持つテーマに関するものならば、なおさらだ。そこで筆者は、杉本が当ブログを誹謗するために書いた虚偽と人権侵害に満ち溢れる記事を一刻も早く削除してもらいたいがために、そのための取引材料として、当ブログ記事を差し出したりするつもりはさらさらない。そのようなことをすれば、敵の脅しに屈したことにしかならない。

だが、誰が真実を述べているのかということを証明するにふさわしい場が、判定者のいないインターネット上の議論や匿名の掲示板の無責任なコメント投稿欄ということはあるまい。そこで、より公共性・社会性のある形で決着をつけなければならないのである。

さて、筆者が個人的にキリストの十字架の死と復活のより深い意味を知って、関東へ来た2009年8月に政権交代があった。おそらく、その頃、関東へ来た筆者に求められていたのは、人間の指導者につき従わず、神にのみ従って歩むことであり、決して、人間の指導者を頂点とする組織に所属することではなかったものと思う。

その点で、KFCは偽りであり、その他の人間のリーダーを担ぐすべての交わりや集会も虚偽であった。牧師制度と手を切りながらも、それと類似するすべての人間による支配を断ち切り、その偽りなることを証明できなかったことが、筆者の霊的停滞の原因なのであり、今から考えると、そのようにしてリーダーを担ぐ団体の虚偽なることを証明することこそ、筆者に当初から求められていた課題だったのであろうと考える。

筆者は、その当時、聖書に基づくエクレシアを探し求めていたとはいえ、それはKFCや、誰かをリーダーとし、その人間を事実上の神とする集会に受け入れられたり、その集会にいる信者らと仲良くして、そこに定着することとは全く無関係であった。そのようなことを目的に、筆者はこの地へ召されてやって来たわけではない。神が筆者を召し出されたのは、人間的な思いや欲望に基づいて、人間の作ったヒエラルキーに依存する自己満足的な共同体を作って、それをエクレシアと呼ぶことでは全くなかった。そのような悪しき目的とは全く異なる目的が、当初から存在していたのである。

人間を中心に作り出された団体は、すべて過ぎ行くアンシャン・レジームに過ぎず、万民祭司とされているこの時代、いい加減に、現人神なる人間のリーダーに従うという腐敗とは一切無縁の、新しいエクレシアの姿が出現しなければならず、新しい時代が来なければならないのである。筆者はその新しい時代の新しい思想の担い手としてこの地へやって来た。その後、長く続く停滞が訪れたように見えるが、それでも、筆者が召された当初の目的が変わらないならば、遅かれ早かれ、その目的は姿を現すのであり、それは筆者が人間の生まれながらの情愛に基づく肉なる絆を根こそぎ断ち切り、神の国の権益にのみに立つ者として行動するときに初めて可能となるのだろうと思う。

筆者はアダムに属する「人類」を離れる覚悟を固めねばならないわけで、今その時が来ているように思う。筆者は、筆者が杉本や村上に対して訴訟を起こすことが、地上のアダムとしての出自を完全に断ち切ることとどこかで霊的につながっていると考えている。これまでの筆者は、人間的な感情を優先しすぎるがゆえに、してはならない妥協をし続けて来たのである。その人間的な感情こそ、牧師制度に類するすべての制度を偽りであるとして、毅然と退けることをしなかった筆者の甘さなのである。(今、そうした呪われた団体が、どれほど筆者の足手まといとなっているかを考えればそのことは明白である。)

そこで、筆者は人間的な情愛を優先するがゆえに、物事を曖昧にしたまま決着をつけずに終わりにしようとする甘さを根こそぎ払拭せねばならないと考えている。

一部の人々は、筆者が訴訟を提起しようとしていることを、あたかも筆者の個人感情に基づく残酷な報復措置であるかのように主張するかも知れないが、その考え方は転倒しているとはっきり言う。

物事にきちんと決着をつけないまま、無責任なネット上だけで、当事者でもない者が、野次馬のごとく対立を煽りつつ、責任の所在も分からない匿名のコメントを延々と半永久的に書き連ね続けることの方が、訴訟を起こすことに比べ、はるかに残酷で無責任で有害な行動であり、かつ限度を超えて行き過ぎた報復措置、私的制裁であると言えよう。そのような無責任な行動に比べ、この世の法に従い、きちんとルールを守って論敵と対峙することは、はるかに公正かつ公平な措置であり、それにかかる時間も限られているし、それによって下されるペナルティの度合いも限られている。
 
筆者がもしも自分の個人の利益を優先したいだけの人間であれば、これほどの手間暇を裂いて、ペンテコステ・カリスマ運動の異端性や、カルト被害者救済活動の誤りや、グノーシス主義の分析など行う必要もなく、早々に取引に応じて、不都合な記事を削除してもらう代わりに、手間のかかる当ブログにおける議論もさっさとやめてしまえば良いだけである。

だが、問題は、筆者個人の利益などではなく、聖書の御言葉の真実性という永遠のテーマなのである。聖書の神が否定され、神の御言葉が曲げられ、キリスト教が歪められ、神の教会が蹂躙され、正義が曲げられ、真実が葬り去られようとしている時に、筆者が、自分の利益が最優先だからと、悪魔との取引に応じて沈黙したりすれば、来るべき日に、神は筆者に向かって「わたしはあなたを知らない」と言われ、筆者は恥ずべきクリスチャンとして見捨てられるだけである。

繰り返すが、ここで問題となっているのは、個人の利益などではなく、神の国の権益である。自分の個人的・地上的な利益よりも、神の国の権益を優先し、主と共なる十字架において古き人としての自己を完全に死に渡すクリスチャンが現れないことには、神の国の地上における前進もない。

代価をいとわず、主と共なる十字架において自己を徹底的に死に渡すという過程を、信仰によって貫き通す個人が現れることによって初めて、神の国の前進が地上にもたらされるのであって、誰一人としてそのように代価を払って主に従う者も現れないならば、そんな社会を神が守らねばならない義務はない。そのような社会は、教会も含めて、ますますバビロン化が進み、ソドムとゴモラ同様、地獄のようなところになって滅びるしかないであろう。

日々代価を払って主に従うクリスチャンの信仰を通して、初めて神の国が地上に引き下ろされるのであり、そのようにして神に従う一群が現れる時、初めて、教会だけでなく、この世の地上の政治体制にも影響が及び、変化が訪れるのである。
 

キリスト教が信仰によって「神を知る」ことが可能であるとしているのに対し、「神は不可知である」とするグノーシス主義が人類にもたらす悲劇

さて、筆者が当ブログを始めたのは2008年頃であるが、その頃から、当ブログでは、キリスト教界に誤った教理が満ち溢れていることを検証し、牧師制度の誤りを主張し、聖書に基づく真実なキリスト教とは何なのか探求して来た。

当初は「何が誤った教えであるか」ということに重点的に目を向けていたが、「何が真実であるか」に注意を払わねば、偽りを明るみに出すこともできないと気づき、途中から、当ブログでは、改めて聖書の御言葉に立ち戻り、神ご自身を真剣に尋ね求め始めた。

その過程で、聖霊派の教団の中などにいたのでは、決して知る機会もなかったであろう聖書の真理(キリストと共なる十字架の死と復活という十字架のより深い働き)を知らされ、筆者は、初めて以下のエレミヤ書にあるように、聖書に書かれている「主を知る」ということの意味を知ったのである。
  
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。 」(エレミヤ31:33-34)
 
前の記事で、贋作は、オリジナルと対比されて初めて、贋作であることが証明されうると書いたが、その原則は、何が正しいキリスト教であり、何が誤ったキリスト教であるか、という問題を解く際にも、同じように適用される。

我々自身が、真実なキリスト教の信仰に立ち、神によって選び出され、神の子供とされた、主を知るクリスチャンとして生きないことには、どれほど偽りのキリスト教を分析し、非難したとしても、それを当事者として「神の国の権益に関わる被害」として訴えることができないのである。
 
クリスチャンとは、文字通りの意味では、「キリストに属する者」、「キリストの復活の証人」であるが、現実には、クリスチャンを名乗っているすべての者が、必ずしもキリストのものとされた、キリストの証人であるわけではない。

今日、クリスチャンを名乗っている人々の中には、数えきれないほど、神を知らず、キリストのものとされておらず、神を知ろうともしていない人々が存在する。毎週日曜、どこかの教会で開かれる礼拝に出席し、讃美歌を歌い、聖書を読み、うわべだけ敬虔そうに見える生活を送ることによって、神を知ることはできない。そういう形式を通して神に近づくことはできない。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝するときが来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、神を礼拝するとは、日曜ごとにどこかの団体へ出かけて行き、人間に過ぎない誰かの語るメッセージに耳を傾けることとは何の関係もないことである。「神を知る」ことは、聖書の御言葉に立つ信仰によって、人の霊の内側で起きることであり、神によって与えられる啓示であるため、形式によってそのような啓示を得ることは誰にもできず、それを外側から見て分かるように客観的に立証することもできない。

そこで、誰がキリストに属する本当のクリスチャンであって、誰がそうでないのか、我々が、それを区別するために与えられている唯一の方法は、外見的要素によってそれを区別しようとすることではなく、ただその人物が述べた言葉や行動を、聖書に照らし合わせて検証することだけである。その人間が述べている証の言葉とその人物の行動を検証することだけである。

そのような検証作業によって初めて、クリスチャンを名乗るある人物が、本当に神に知られているクリスチャンであるのか、そうでないのか、その人物を導く霊の性質を確かめることができる。

その人物が真にキリストの証人であれば、その人の言動には、聖書との齟齬がないはずである。だがもし、その人の言動に、嘘やごまかし、自己矛盾、トリック、歪曲、捏造などが見られ、聖書との齟齬、不透明さが見つかれば、その人は見せかけだけの信者で、内的では、キリストを全く知らず、キリストの御霊に導かれてもおらず、神の子供とされてもいない、非クリスチャンである可能性が極めて高い。

主を知らずとも、様々な教義を身にまとい、うわべだけはあたかも神を知っているかのように、敬虔そうに振る舞うことは可能である。しかし、それがその人の内側の本質から出て来るものでない外側の演技のようなものに過ぎなければ、必ず、その人の言動は偽善的なものとして、あちこちにほころびをきたすことになる。
 
だからこそ、聖書は愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)と言うのである。

さて、ようやく話を本題へ戻すが、当ブログでは、今日、あたかも正統なキリスト教であるかのように、プロテスタントの一部を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、「偽物のキリスト教」であって、もとを辿ればグノーシス主義に行き着くことを再三、述べて来た。

グノーシス主義とは、一言で言えば、創造主ではなく被造物を崇める「被造物崇拝」の教えである。 筆者が幾度となく強調して来た、異教的な母性崇拝の原理(「イゼベルの霊」)も、被造物崇拝を指すのである。

異教的な女性原理の崇拝における「女性」とは、文字通りの女性ではなく、神の助け手となるべく、霊的な女性として神によって創造された人類を指す。

「イゼベルの霊」の教えとは、要するに、人類を神以上に高く掲げて神として賛美する教えなのである。

この世には、表面的に見れば、様々に異なる思想が存在しているように感じられるかも知れないが、根本的には、大きく分けて、たった二つの思想しか存在しない。キリスト教とグノーシス主義である。

異端はすべてグノーシス主義に由来するものであり、究極的には「被造物崇拝」の教え、人類の自己崇拝である。

だからこそ、異端や異端化されたキリスト教には、必ずと言って良いほど、目に見える人間を指導者として担ぎ上げ、その人間をキリスト以上の存在として絶対化するという特徴が現れるのである。

そして、それに基づいてこそ、筆者は、牧師制度とは、グノーシス主義にルーツを持つ、聖書に根本から抵触する制度であり、牧師制度を取り入れた教会は絶対的に腐敗すると述べて来たのである。

さて、キリスト教とグノーシス主義という、真っ向から対立する二つの思想には、数えきれない違いが挙げられようが、根本的な違いは一つであり、それは「人間には神を知る道があるのか、ないのか」という問いに対して、両者が正反対の答えを出している点にある。

結論から言えば、聖書が「父なる神」は「わたしは有る」(出エジプト3:14)という方であって、れっきとしたリアリティであり、信仰を通じて、人は神を知ることができるとしているのに対し、グノーシス主義は、「父なる神」をフィクション同然の概念とする。

聖書の記述はすべて「父なる神」の計画を中心に「父なる神」の観点から書かれたものであるのに対し、グノーシス主義の神話的プロットは、すべて「父なる神」に創造された被造物の側から、被造物の都合に従って書かれた物語であると言える。

聖書の記述が、「父なる神」の御思いを中心に展開される物語であるのに対し、グノーシス主義の物語における主役は、「父なる神」(真の至高者)ではなく、「父なる神」に創造された被造物なのである。

グノーシス主義における「父なる神」(真の至高者)は、人格もなく、意志もなく、存在すらも、あるかないか分からない「虚無の深淵」であり、いわば、被造物の存在に口実や意義を与えるための添え物のような、名ばかりの存在に過ぎず、物語の最後まで、確固たる登場人物として自分自身を現して舞台に登場することのない不可知的存在である。

こうして、グノーシス主義の本質が、父なる神の概念を「フィクション」とするところにこそ、この偽りの神話とそれに導かれる人々の悲劇の根本原因があるのだと言える。

当ブログでは、以前から、グノーシス主義とは、「母の過ち」によって生まれた「父なし子」としての人類が、確たる証拠もないのに、「父なる神(真の至高者)」の子孫であると一方的に名乗り出て、神の家への復帰を企てるという、実にナンセンスな「神の家の乗っ取り」物語であると主張して来たが、大田俊寛著『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』(春秋社、2009年)は、この考えに驚くほど多くの裏づけを与えてくれる。

この文献は決してグノーシス主義を批判するために書かれたものではないが、それにも関わらず、グノーシス主義における「父」とは何かというテーマだけでなく、「父」を喪失した人類が、完全な自己や、健全な「自己愛」を探し求めて、精神分析やカウンセリングやインターネットといった「鏡」を通しての自己認識に病的に明け暮れるようになることの危険性など、まさにペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが陥っているいくつもの「病理現象」についても、実に多くの示唆を与えてくれる。

この文献を参照しつつ改めて思うことは、ペンテコステ・カリスマ運動の本質はまさにグノーシス主義であり、グノーシス主義とは何かを理解することによってしか、この運動の誤った本質を明らかにすることは決してできないということである。

ペンテコステ・カリスマ運動があたかもキリスト教であるかのように理解して、聖書だけを用いて、この運動の間違いを分析しようとしているうちには、決して解けなかった実に多くの謎が、この運動がグノーシス主義を手本に出来上がったものであると仮定すれば、驚くほどあっさりと解けるのである。

今日、グノーシス主義の研究なくして、キリスト教に流入し、襲いかかっている異端の本質を掴むことが、どれほど困難であるかを思わされる。初代教会があれほどの労力を費やしてグノーシス主義と格闘し、対決したのは、決してゆえなきことではない。現代にも、グノーシス主義という異端がゾンビのようによみがえり、見えないところで教会に襲いかかり、キリスト教を骨抜きにしている事実に、クリスチャンは決して無知であってはならないと筆者は確信する。


ある人物の答弁書を通して見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質

~「父なる神」をフィクションとし、人類をもフィクションとするグノーシス主義を信じる人間の自己の内面の空虚化と荒廃の実例~

さて、このところ、政局が目まぐるしく変化しているので最初に一言述べておきたい。昨年、7月末から大阪拘置所に長期拘留され、家族との面会すらも断られ続けて来た籠池泰典氏に野党がようやく接見を果たしたという。

裁判もなく詐欺罪の容疑だけでこれほど長期拘留する法的根拠は疑わしく、ただこれ以上安倍政権に不利な証言を行わないよう、口封じのためだけに、勾留されているのは明らかである。今や安倍政権にたてつく「政治犯」を収容する監獄のようになりつつある大阪拘置所が「バスティーユ監獄」にたとえられ、首相夫人(安倍昭恵)が「マリー・アントワネット」になぞらえられるのはまことに無理もない。

「私人」と言いながら、歴代の首相夫人と比べても、破格の特権的な待遇で警護され、公務員の付き人を5人もつけていたこともあるという昭恵夫人は、夫である首相が国会で厳しい追及を受けている最中にも、全国各地での公演活動をやめず、野党を罵倒したり侮辱するような書き込みに、軽率に「いいね!」ボタンを押してはひんしゅくと買っている。このように状況をわきまえない奔放な行動を繰り返すお騒がせ者で、その上、森友事案に深く関与したことが明白となり、国有地の不当な売却や、公文書改ざんという重大な犯罪に関与した疑いが濃厚であるのに、国会への招致も拒み、権限もないのに国政を陰から操る「私人」に、公金を大量につぎこむ意味がどこにあるのかと、国民に怒りがおさまらないのは当然だ。そうした総理夫人の姿が、民衆が飢えている時に「パンがないなら、お菓子を食べれば良いじゃない」と言い放ったとされるマリー・アントワネットの姿を彷彿とさせるのは仕方がない。

さらに、安倍首相の八方美人的な外交も行き詰りに達し、トランプ大統領からも「人を出し抜こうとして薄ら笑いを浮かべている」かのように勘ぐられて疑いの眼差しを向けられ、ロシアからも北方領土を返せる見込みなど全くないとの宣告を突きつけられて共同開発も進まず、国際的に、もはや相手にする者もなくなりつつある状況を見ていると、国内にも国外にも逃げ場のなくなりつつある安倍夫妻は、やがて本当にルイ16世とマリー・アントワネットのような終わりを辿るかも知れないと感じられて来る。

筆者は、これを機に、我が国に新たな革命勢力が台頭すれば良いと言いたいわけではない。この政権が転覆した後に、どういう時代が来るのか、それは一つの懸念事項である。だが、いずれにせよ、安倍政権が終わらないことには、この国にはいかなる希望ある未来もないことだけは確かであろう。そのことはもはや国民の共通認識に近くなって来ているように感じる。

安倍政権に盾突いた人々が、官僚であれ、民間人であれ、執拗に人格攻撃を受けては、社会的に抹殺され、ブラック企業や裁量労働制などが実質的に広がり、国民の貧窮化が進み、国力が低下している中、国家総動員体制のような無理な苦労が国民に要求され、税は重くなる一方で、軍備が拡張され、最後には、政権が誤った政策を自ら認めて撤回することができないプライドのゆえに、再び、軍事力に頼って無謀な戦争を起こしてすべてを都合よくオールリセットしようとするしか残された道がなくなるという、一度すでに辿り、結論が初めから見え透いている破滅へ転げ落ちるだけのこの暗黒時代が早く終わらないことには、この国には何一つ進歩もなく、希望ある未来もなく、未来が向こうから愛想を尽かして立ち去るであろう。
 
さて、筆者は政治家ではないので、政治運動に参加することを通して政局を変えようとはしないが、クリスチャンとして、霊的な戦いを勇敢に戦い通すことによって闇を払うことに貢献できると考えている。それが当ブログの役割なのである。

当ブログが聖書に基づく真実な信仰を求めて探求を始めたのが2008年、それから一年近くで、筆者自身が神と出会うという実りある収穫を得て、2009年8月末に戦後、初めて政権交代がなされたが、こうしたことが偶然に起きたようには思われない。
 
また、この度、籠池氏に野党が接見を果たしたのが、ちょうど筆者が当ブログに執拗に根拠のない言いがかりをつけては記事の削除を要求し続けて来たブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および、杉本に筆者の個人情報を提供して誹謗中傷を幇助した疑いが濃厚であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密を民事調停に呼び出した日に当たることも、とても偶然とは思われない。


・ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が民事調停で出した空疎な答弁書とグノーシス主義の関連性について

ちなみに、杉本徳久と村上密に対して当ブログが起こした民事調停は、予想の通り、まるでお子様のようなレベルでしかなく、筆者が出した100枚近くの答弁書は、十分に訴訟に対応できる内容であり、民事調停のレベルをはるかに超えていたため、一刻も早く訴訟に移行すべきものと思う。

だが、お子様のレベルの「話し合い」とはいえ、叩けばそれなりに埃は出るもので、今回、収穫がゼロだったわけではない。

村上密は予想通り、具体的な反駁も寄越さず、調停に姿を見せることもなかった。その一方、杉本徳久は当日になって時間ぎりぎりに現れ、たった2枚しかない人を馬鹿にした内容の答弁書を提出した。

今回の二人の対応から、これまでクリスチャンや教会に次々と言いがかりをつけては、裁判に及んできた村上密と杉本徳久の正体が、さらにはっきりしたと言えよう。

村上は、自分に不利な訴えには極力、耳を貸したくないという狡い性格の持ち主であり、杉本も、とてもではないが、訴訟に対応できるような人物ではない。クリスチャンをこれまで訴訟によって恫喝して来たこの二人が、実際には、自ら訴訟を受けて立つような力量が全くない人間であることは、今回のことではっきりと証明されたと言えよう。

以下で記す通り、杉本の答弁書における反駁を読めば、それがまるでお話にならないほどに幼稚なレベルのものであることは、誰にでも分かる。

むろん、杉本には弁護士などいなかった。あれほど筆者に向かって、再三、弁護士を通じて連絡せよと要求し、弁護士相手でなければ、話にもならないという態度を見せていたにも関わらず、結局、杉本には、自分が訴えられた際、弁護士をつける経済的余裕が全くなかった様子が、今回のことで明らかになったのである。

ちなみに、杉本徳久は、株式会社メディアテラスの代表を名乗っている人物であるから、単なる一般人としての「私人」ではない。杉本の行為は、すべてこの会社の代表としての振る舞いであると世間に受け止められることになる。

それが、期日当日の時間ぎりぎりになって、ようやく裁判所に答弁書を出すというのは、まるでブラック企業に雇用された悪徳弁護士が使うような汚い手口である。そういうことをすると、参加者全員が、事前に答弁書をきちんと読んで協議に備える時間がなくなるため、審理に悪影響を及ぼす。いたずらに協議を長引かせて結論を先送りすることだけを目的とする、非常に印象の悪い、人を馬鹿にした利己的な行動である。

さらに、杉本が出して来た答弁書は以下の通りであるが、その内容を見ると、基本的な言葉遣いさえなっておらず、証拠書類の番号の振り方さえ間違っており、弁護士が一度も目を通していないことが明白であるだけでなく、大の大人が書いた文章とも思えず、小学生程度の算数さえできるのかどうか危ぶまれる内容である。

  
(図1、2 杉本徳久が民事調停の期日当日に提出した「とんちんかんでお話にならない」ほど幼稚な答弁書)

杉本は答弁書の冒頭において、筆者の主張を「棄却する」などと書いているが、正しい表現は、「否認する」である。訴えを棄却するのは裁判所にも関わらず、まるで自分に誰かの訴えを「棄却する」権限があるかのように考えているこの言葉からも、杉本の傲慢さが透けて見える。
 
 杉本はこのたった2枚しかないあまりにも手抜き作業であることが明白な答弁書によって、筆者の訴えを一方的に「棄却」したつもりになっている上、調停を起こす費用もすべて筆者に負担させた上で、自分は一銭の賠償金も支払うことなく、勝手に「3日以内」と根拠も不明な期日を一方的に指定して、自分のブログ記事を削除する代わりに、筆者のブログからも、都合の悪い記事を削除せよと叫んでいるのである。

きちんとした弁護士であれば、申立書に記された一つ一つの項目ごとに、きちんとその内容を踏まえた上で、否認する旨とその具体理由をちゃんと書き記すものであるが、杉本の答弁書には一切、具体的な反駁がなく、反論している内容さえ、申立書には書かれていない内容ばかりである。

筆者の申立書には、段落ごとに番号もふってあり、無数の段落がある。それがたった2枚の答弁書の数行だけの文章で、筆者の全ての主張に反駁したつもりになり、これを「棄却する」とまで宣言しているとは。厚かましさ・愚かさに呆れ果てることを通り越して、もはやただ苦笑するのみである。

小学生でももう少しましな文章を書くであろう。しかも、杉本が出した証拠の大半も、筆者のブログをただ印刷しただけのもので、答弁書の本文と照らし合わせても、必然性が全く感じられない添付書類であった。その上、証拠書類の番号のふり方さえ間違って、番号が飛んでいるのだから、夏休みの終わりになって宿題を片づける小学生のように、期日当日になって慌てて作成したのだろうと笑うだけだ。

杉本が弁護士に相談を行った実績がないことが、この答弁書の内容からはよく分かる。無料相談くらいなら、利用したかも知れないが。

要するに、杉本の答弁は、杉本自身の言葉を使えば、完全に「とんちんかんでお話しにならない」レベルのものであり、とことんまでの手抜き作業であり、さらに、杉本が筆者に投げつけて来た言葉を使えば、この答弁書こそ、「思い上がった上に、市井の常識をわきまえない、あまりにも自己中心な内容」と非難されてしかるべき内容であったと言えよう。

筆者は近々、このようにお子様レベルの不毛な民事調停を打ち切って、訴訟に移行するつもりである。訴訟となれば、こんな人を馬鹿にした無内容の答弁書など提出している余裕などは全くない。信憑性のある反駁ができなければ、敗訴に終わるだけである。また、村上密も反駁を寄越さないわけには行かなくなる。さらに申立内容によっては、申立人の住所地で裁判を行う道が開けるため、わざわざ被告の住所地へ足を運ぶ手間も省ける。移送を申し立てても、被告の希望が認められる見込みはほぼなくなるであろう。

以上のような経緯から察するに、杉本と坂井氏が対決したという裁判も、しょせん、民事調停以下のレベルだったのだろうと想像されてならない。つまり、杉本は、きちんとした訴訟が提起されれば、およそ勝ち目のない人間であり、これまでただ自分の方から先に訴訟をふっかけることにより、心の準備のできていないクリスチャンを恫喝して黙らせて来ただけなのである。

かつて杉本徳久は2009年頃に、2ちゃんねるの書き込み内容が名誉毀損であるとして、2ちゃんねるに削除要請を行おうとした様子が、掲示板「株式会社メディアテラス(杉本徳久)」に残っている。

確かに2ちゃんねるは悪質な掲示板であり、しかも、杉本がこの当時から2ちゃんねるに、コメント番号を指定することさえも不可能なほどに大量の書き込みをされて、ほぼストーカーのごとく追いかけられていたことを考えれば、多少、彼の言い分にも、同情の余地があると言えないわけではない。

だが、それでも、そのような事態となったのは、杉本自身が自らのブログであまりにも多くのクリスチャンに自ら喧嘩を売って、実名で誹謗中傷を重ねて来た結果であることや、また、削除を要請するに当たっては、どんな掲示板であろうと、どれほど書き込み数が多かろうと、杉本自身が、どの部分をどんな理由で削除依頼するのか、手間がかかっても、やはりそれだけは最低限度、明らかに指定しておかねばならないことを考えれば、一方的な同情の余地は残らない。

その当然の形式を整える手間を怠ったがゆえに、杉本は2ちゃんねるに削除依頼を出しても、依頼として扱ってももらえないまま、門前払いされた経緯がよく分かるのである。

こうしたことからも分かるのは、杉本徳久は、常に自分が主張している内容の正当性を、他者にも客観的に分かるように具体的に根拠を示して証明するという作業をしないということである。今回の民事調停の答弁書もそうなのであるが、杉本はいつも「自分が迷惑を受けて嫌な思いをしていることは、あなた方にも当然、分かるはずだ!」という理屈で、自分の要求を何一つ客観的に証明することなく、相手がそれを理解して飲むのが当然であるとして、一方的に押し通そうと突きつけて来るのである。

しかも、杉本は、そうして客観的な手間を省いた分だけ、常に刑事告訴やら、民事提訴やらといった脅し文句を凶器のように振り回して、相手に要求を飲めと脅すばかりなのである。

杉本はこうした手抜きな要求の結果として、以上の掲示板でも、自分の出した削除依頼を、必要条件を全く満たしていないため審査にも考慮にも値しないと言われて「棄却」され、「門前払い」された上、削除を求めた書き込みや、そこで引用した誹謗中傷のコメントの転載も含めて、それをさらに半永久的にさらしものとされる材料として増し加えてしまい、削除依頼をもあきらめざるを得ない結果に追い込まれたのである。

2ちゃんねるはこのように悪質な掲示板であるとはいえ、それでも、2ちゃんねるで事件に巻き込まれた人々の中には、努力に努力を重ねて、刑事事件にこぎつけたり、その他の方法で、第三者機関を通して、削除にこぎつけている例もある。

彼らはおそらく膨大な手間暇をかけては証拠書類を集め、読みたくもないコメントを一つ一つ丹念に探し出してコピーし、番号を指定して、そこでどんな人権侵害が行われているのか、何が事実であってそうでないのか、自分の主張を精魂込めて練り上げた上、しかるべき場所に書類を持参し、何度も何度も様々な公的機関に足を運んで話を重ねつつ、あきらめることなく、自分の主張が認められて実現にこぎつけるまで、手続きを重ねて来たのである。

ところが、杉本は、そうした努力を一切払わず、ただ「私が言いたいことはあなたにも分かるはずだ」という子供のような理屈で、常に周囲の者たちが、自分の意向を「忖度」してくれるよう当然のごとく求め、「忖度」してくれない他人は、告訴したり、個人情報を暴露するなどと脅して言うことを聞かせようとし、筆者のような形で事件を解決しようとする他人が現れると、その他人の努力に便乗して、調停や裁判を自分のリクエストを提示する場として都合よく利用しようとするのである。

しかも、訴えを起こされても、自分の非を一切認めず、何の譲歩も行なわずに、ただ他人だけに一方的な代価を払わせて、自分の願いを実現しようとするのである。そこに、杉本徳久という人間のどうしようもない卑怯さ、利己主義、怠慢が見て取れる。

杉本は、筆者に送りつけて来た恫喝メールの内容からも分かるように、おそらく、これまで自分の願いを実現するために必要となる苦労をして来たことがないのであろう。周りの者たちが、常に自分の意向を尊重してくれて、面倒な作業を何もしなくても、願いが叶うのが当然という環境で、甘やかされて育って来たのではないかと想像される。

自分よりも強い者には媚びておとなしく従うが、そうして自分をひっこめて願いをあきらめた分だけ、自分よりも弱い者を恫喝し、八つ当たりすることでしか、自分の弱さ、卑怯さ、臆病さをごまかそうとするしかないのだろう。

杉本が勝訴した裁判がこれまでにいくつかあるそうだが、こんな風に自分の主張を客観的に論証する手間さえ省く無精者に敗訴するなど、あまりにも恥ずかしくみっともなく馬鹿げたことである。多分、訴訟に及ばれた側が、あまりにも不慣れで、心の準備ができておらず、弁護士を雇ったりして、十分に対策を打つ手間暇がなかったせいでそうなっただけであろう。クリスチャンの中には、そういう風に世の事柄に格別疎い人々も多い。

この度、杉本が出して来た答弁書を見るにつけても、このような手抜き作業では、訴訟には絶対に勝てないことは明白である。弁護士がついているかどうかといった問題ですらない。たとえ弁護士がついていたとしても、依頼人自身が、自分が何を言いたいのかさえ分からず、自分の主張を明確にして相手に反駁することさえできない状況で、当事者でもない弁護士が、それを補って完璧な主張を作り上げてやることは無理である。

まあ、とてつもない大金を積めば、そういう面倒な作業をも代行してくれる弁護士がいないわけではないだろうが、企業であればそういうことができても、個人のレベルではまず無理である。だから、この答弁書を見ただけで、いざ訴訟になった時の結果は初めから明らかだと言えよう。

繰り返すが、これが今まで数々のクリスチャンを訴訟の脅しで黙らせて来た男のみっともない答弁なのである。まだ分析は以下でも続くが、まずはよくよくご覧になられたい。

さて、このようにお子様レベルの民事調停であるとはいえども、それでも、杉本が今回、出して来た証拠の中にも、それなりに収穫と言えるものが、二つだけあった。

それは、杉本の生年月日を記した社会福祉士登録証と、唐沢治が杉本に送信したというメールである。


(図3 杉本が出して来た社会福祉士の資格者証 社会福祉士にあるまじき社会的弱者への侮蔑・嘲笑をブログで公然と行っておきながら、こうして資格を誇示しようとする態度に呆れる。しかも、資格取得から2年しか経っていないのに、自分は駆け出しに過ぎないという認識が全く欠けている様子にも呆れ果てるのみ。)

杉本徳久は、大学院修士課程まで出ており、博士号の取得は諦めたようであるが、修士でも、研究者として生きるのでなければ、一般人の学歴としては十分であろう。にも関わらず、杉本は博士号を取得しなかったことが、それほど自信喪失やトラウマにつながったのであろうか。大学院卒の肩書では満足できなかったようである。

杉本はこの度、社会福祉士の国家資格を取得したことが、よほど自慢の種だったらしく、唐沢のメールの文面からも、杉本がソーシャルワーカーの資格を取得したことを唐沢に向かって大いに自慢していたらしい様子が読み取れる。


(図4 唐沢治が杉本徳久に送ったメール。唐沢の信用ならない嘘つきな性格がよく分かる内容であり、唐沢が水面下でどれほどこれまで事態を常にこじらせてきたか、その様子も見て取れるが、それでも、杉本が坂井氏と唐沢を裁判で破ったにも関わらず、2017年になってもまだこうして唐沢にも筆者と同様に因縁をつけては絡み続け、嫌がらせメールを送りつけていた様子にも、唖然とし、恐れ入ると苦笑するほかない。杉本は、こうして明らかになっている人々の他にも、一体、どれだけの人物にこうして隠れたところで言いがかりをつけては嫌がらせメールの送信を繰り返して来たのであろうか。)

だが、このタイミングで、杉本が自分が何より大切にしている国家資格者証を、筆者に向かって出して来た気が知れない。

特に、杉本が今までクリスチャンに対して裁判をしかけては個人情報を収集し、その情報をダシにして、クリスチャンを貶め、中傷して来たことを思うと、まさにそれは自滅行為であるとしか言えない。

杉本徳久や、村上密が、これまでクリスチャンに対して取って来た行動は、古代社会における、シャーマンの呪詛の祈祷をも思わせるものである。

古代社会や、今でも文明の行き届いていない社会では、シャーマンのような呪術師が、誰かから金をもらって、ターゲットとする人を呪い殺すための祈祷を捧げる依頼を受けるなどのことが、おそらく日常的に行われていると思われる。

その際に、シャーマンは、依頼者に、ターゲットとなる人物の髪の毛など、身の回りの品を持って来させ、それをもとに藁人形などを作っては、その人形を本人に見立てて、連日、呪いの祈祷を捧げるのである。

筆者は、村上密や杉本徳久のして来た行為は、シャーマンによる「呪い」や「冒涜」とほとんど変わりないものだと考えている。彼らは自分たちが憎んでいる相手(クリスチャン)の個人情報を何らかの方法で入手しては、それを不当な形で利用して、その情報を土台に、まるで「藁人形」でも作るように、本人の歪んだ「像」を作り出し、その像を侮辱・嘲笑することで、ターゲットとなる人間の人生に危害を加えようとして来たのである。

杉本は自分がこれまでそのようにクリスチャンをターゲットとして呪詛のような行為に及んできた事実を少しでも考えれば、自分が宝としている情報を、敵方のサイドに提供することが、どれほどの自滅行為であるか、分からなかったとは思えない。

しかも、当ブログでは、杉本の行った行為は、ソーシャルワーカーの信用を著しく傷つけるもので、国家資格の剥奪に値すると何度も書いているのである。

にも関わらず、杉本が危険もかえりみずに以上のように国家資格者証を誇示したことは、筆者から見れば、杉本を破滅に導こうとしている悪霊のなせるわざであるとしか言えないのである。

これまで書いて来たように、社会福祉士の仕事内容は、社会的弱者を助けることにあり、社会的弱者を嘲笑したり、罵倒することにはない。精神障害者も、社会的弱者に含まれるのは明らかだ。にも関わらず、杉本は、筆者のような健康な人間を、何の根拠もなく精神異常、人格障害と決めつけて罵倒・嘲笑した上、さらに、精神障害者が一般的に就労困難であったり、社会に適応困難な状態にあるなどの苦しい状況をあげつらいながら、これを罵倒・嘲笑したのだ。

自分が助けねばならない社会的弱者全般をターゲットとして侮辱するようなソーシャルワーカーが全国のどこにいるだろうか。こうした記述内容を通して、杉本がおよそソーシャルワーカーにふさわしくない人格の持ち主であることがよく分かるのである。

杉本が資格を取得したのは、決して社会的弱者を助けるためではなく、ただ自分よりも弱く困っている人間を上から目線で見下げ、彼らを「助けてやっている」という優越感を味わうためでしなかったのではないかと強く疑われる。

さらに、この証書を通して、杉本が国家資格を取得したのは、平成28年3月であり(交付は4月)、取得からまだたった2年しか経っていない事実も分かる。これでは、社会福祉士として、まだほんの駆け出しではないか。

現場で10年くらい実践を積み、プロと言えるような実績がそれなりに出来上がってから、人前で資格を自慢するならばともかくとして、よくもこんなにも短期間で、ただ資格を取ったという表面的な事実だけを理由に、これほど他者に対して傲岸不遜な態度に出られるものだと呆れざるを得ない。

筆者は、まだ唐沢治と親交があった頃、杉本が福祉関係の仕事を始めたという情報を入手した唐沢が「杉本にそんな仕事が続くはずがない」と述べて苦笑していたことを思い出す。

それでも、しばらくの間は続いたのであろう。だが、その努力すらも、今回のような行動を取ることによって、杉本は自分で台無しにしてしまっているのである。

杉本は、以前には、株式会社メディアテラスの代表であるという身分をしきりに強調していた。今やそれをあまり口にしなくなり、かえって、ソーシャルワーカーであることを誇示している様子を見ても、メディアテラスという会社は、ネットで幽霊会社と言われていることは事実無根でなく、極めて厳しい経営実態にあると懸念されてならない。

杉本は会社の事業として、音楽スタジオやら、他にも様々な事業を手がけようとしていたようであるが、あまりに手を広げすぎて、趣味と実益が結び付かなかったのであろうし、仮にそうした事業が先見性のあるものだったとしても、「随想 吉祥寺の森から」のようなブログで、あれほど数多くの人々の実名を出して誹謗中傷し、自分からクリスチャンを訴えるための争いを起こし、さらにそれを手柄のように吹聴していたのでは、会社の代表としては、およそ世間の理解や信頼を得られない。事業が成功する見込みを自ら潰しているも同然である。

杉本は筆者のように、杉本とは一切面識のなかった無関係な人間をも、ただインターネットで一つのコメントの削除依頼を受けたというだけの理由で、これほど長きに渡って執拗に脅しつけ、嫌がらせを重ねて来たのであるから、そんな人物と、ビジネスで金銭の絡む取引をしたいと願う人が現れるはずもないことは明白である。

しかも、以上の民事調停の答弁書を見ても、杉本が自分にとって不利な訴えは何一つ認めず、一銭の賠償金さえも払わず、他人の労に便乗して、自分の望む結果を得ようとしているケチさ、無精さ、利己主義がよく伝わって来る。そこから察するに、およそメディアテラスという会社が、自社の評判を大切にして、人との調和を重んじる会社だと考える根拠は何一つ存在しない。

昨今、中小零細企業の社長は、他人に向かって威張りちらしているわけにいかず、大変な苦労を背負っているものだ。旅行業やサービス業の社長は、社長と言っても、名ばかりで、実際には、顧客のクレームのために、社員が負わない苦情を一身に背負って、絶えず駆け回らねばならない。どれほど顧客から会社に言いがかりのようなクレームをつけられても、言い返さず、謙虚に頭を下げて誤解を解く努力を続けながら、人々の理解と賛同を勝ち得て、事業展開をせねばならないのだ。

それが、杉本のように、他人の些細な言動に腹を立てては、それを理由に、根拠もない言いがかりをつけ、記事を削除せよと一方的な要求を突きつけ、果ては告訴をふりかざして脅したりしながら、力づくで人に言うことを聞かせようと試み、果ては訴えられてもデタラメな答弁書ばかり出して身勝手な要求を繰り返すだけであれば、そういう人間をビジネスパートナーとして選ぶ人はいなくなるのが当然である。

どういう経緯があって事業展開が難しくなったのかは知らないが、杉本は会社代表という身分を誇示することが難しくなった次には、今度は、ソーシャルワーカーの資格に飛びつき、国からのお墨付きをもらい、弱者救済をライフワークとすることで、新たな活路と自信の源を見いだそうとしたのだと思われる。

だが、こうして、大学院、会社経営、社会福祉士と、次々と自分のよりどころとする立場や肩書を変え、自分の手がけた一つ一つの試みを、何一つ、時間をかけて苦労を耐え忍びながら成功へと導くこともできないままに、熱中の対象を次々と取り替え、うわべだけの資格によって身を飾ろうと試みても、そんな試みが成功へとつながる見込みは極めて薄い。だからこそ、今回のような藪蛇な展開になっているのである。

杉本は、今回、社会福祉士の資格者証を出せば、自分の身分保証や、信頼を得る材料となると考えたかったのかも知れないが、刑事事件で有罪が確定すれば、当然、国家資格を剥奪されるだけであると、当ブログでは再三、予告している。筆者から見れば、杉本はただ厚労省に資格取消を求めて通報される際の手間を自ら省いているだけなのである。

最後に、杉本は答弁書において、自分の身にまだ捜査が及んでおらず、逮捕令状も出ておらず、身柄拘束も、取り調べも行なわれていないことを理由に挙げて、自分が刑事告訴されたという事実そのものを否定し、今回の訴えは事件にならないなどと一方的に決めつけ、迷惑行為防止条例にて警告を受けた事実をも否定しようとしている。

杉本が、自分が告訴された事実を何とかして嘘であると考え、否定したい様子がひしひしと伝わって来る。いつものように、筆者の「狂言」と決めつけたいのだろう。

こうして、自分が名誉毀損で訴えられているにも関わらず、都合の悪い事実を否定するばかりで、事態を収拾する努力もせず、自分の人権侵害のブログをまるで取引材料のように振りかざし、筆者の起こした調停の場を自分に都合よく利用して、筆者のブログから気に入らない記事を削除させるための機会に変えようと、「喧嘩両成敗」に持ち込もうとしている態度に、どこまで常識がないのかと心底、呆れる。

しかも、杉本は例によってどの記事の削除を要求しているのか、自分の要求の内容さえも具体的に明らかにしていないのであるから、こんな主張は、最初から通る見込みがなく、なかったも同然に空中に散じ、胡散霧消していくだけである。

要するに、杉本の取っている行動は、自分の書いた犯罪的な誹謗中傷の記事をダシにして、依然、筆者を脅し、その記事を一刻も早く削除して欲しいと願うなら、筆者が刑事告訴を取り下げ、事件自体をなかったことにし、筆者のブログからも、杉本の気に入らない記事を即刻、削除して、杉本の犯罪行為をすべてなかったことにして水に流せと、筆者を脅しているのと同じである。

どこまで限りなく卑怯な人間なのだろうかと呆れるばかりだが、しかしながら、こうした杉本の主張が、この先、杉本に非常に不利な結果を生む材料となるのは避けられないだろう。

杉本は答弁書において警察から連絡を受けた事実を否定していないが、もしも杉本が名誉毀損で告訴されておらず、迷惑行為防止条例にも違反していないというならば、一体、何のために、刑事が杉本に連絡せねばならない理由があるのだろうか。

刑事は実際に杉本にブログの削除を要求しており、ブログを更新しないようにとも警告し、二度と筆者に関する誹謗中傷の記事を書いたり、嫌がらせメールを送信しないようにと警告し、この度、名誉毀損で告訴状が受理された旨も伝えている。警察が介入した結果として、杉本のブログの一つ「神々の風景 religsious scene」が実際に削除されたのである。

にも関わらず、杉本はこうした事実をすべて否定することが、この先、自分にどれほど不利な結果をもたらすかを予想していない。杉本の主張は、警察に向かって、「本当に事件になっているというなら、その証拠にちゃんと捜査令状、逮捕令状を出して、取り調べをしろ!」と言っているのと同じなのだが、警察とて、そうまで言われれば、事件になっていることを自ら証明せざるを得ない立場に追い込まれる。(警察も捜査義務を怠ったとして追及されることは望ましくないためである。)

杉本のこうした発言は、かえって敵方のアクションにきっかけを与えているだけであり、警察が民事調停で杉本が反省を示し、自主的に記事を削除するかも知れないことを最後の望みとして行動を留保して来ただけであるとは思いも至らないのである。

杉本はこれまでにも、自分の吐いた容赦のない言葉の報いとして、数々の災難を身に招いて来た。完全に自分自身の言葉で罠にはまってしまっているのである。

たとえば、杉本が根拠もないのに、当ブログで自分が「サタン呼ばわりされている」と主張したり、「自分が冒涜された」などと主張して、次々と当ブログへのバッシング記事を書かなければ、当ブログでも、反論のために杉本の名を記して記事を書き記す必要もなかったであろう。

さらに、もしも杉本からの当ブログへの一方的な刑事告訴の脅しがなければ、杉本自身が刑事告訴されるという展開にもならなかったろう。この他にも、杉本は「一度口から出した言葉は取消できない」と述べたり、「民事で巨額の賠償金を支払っても、刑事事件の捜査は続く」などと、自分で自分の情状酌量の余地をなくすような、容赦のない非難の言葉をブログで他者に向かって吐き続けている。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのないさばきが下されます。」(ヤコブ2:13)と聖書にある通り、他人に対して容赦のない態度を取った人間が、自分だけは憐れみを受けることはできない相談である。こうして他人に向かって吐いた憐れみのない言葉の数々が、すべて杉本自身に跳ね返ることになると、杉本は考えてもみない。これは悪霊が彼に言わせている言葉の数々であろうと思うが、大変に恐ろしいことである。

このように、自分の取った行為の責任ときちんと向き合うこともできない空疎な人間が、どんなにうわべだけ、様々な立派な肩書や資格を振りかざして身を飾ったとしても、しょせんクジャクの羽をつけたカラスでしかなく、決してそれによって内面の空疎さを埋めることはできない。

そして、内面が空虚であればこそ、こうした人々は、その空虚さを突かれ、自分を他者に奪われ続けるのである。

次回以降の記事でも詳しく論じるが、筆者の目から見れば、村上密も、杉本徳久も、唐沢治も、「自分がない」という点では、共通しており、内面の空虚さとコンプレックスを埋め合わせるために、常に他者の眼差しの中に、自分への承認や賛同を見つけようとし、それを通して、自己を取り戻そうと、「弱者を救済するヒーロー」のような虚構の自己を演じ続けているのである。

彼らにとっては、他者の眼差しこそ、自分自身を映し出す「鏡」であり、インターネットも、そのような「鏡」の一つである。彼らはこれまで、そうした「鏡」としての他人の眼差しの中に、他人が喜ぶような「理想的な自己像」を投影し、他者からの賞賛や賛同を得ることで、自分を確認しようとして来たのであるが、そういうありもしないヒーローのような自己像の演出を重ねているうちに、「鏡」を通してしか自己を認識できないという心理的弱点があだとなり、結局、「鏡」の方が「本体」以上のリアリティとなり、「鏡」に人生を乗っ取られてしまったのである。

彼らがブログ等において演出している「理想的な存在としての自己像」も虚構であると同様、その他の無数の歪んだ「鏡」が映し出す彼らの自己像も誤りであり、もはや彼ら自身が、どれが彼らの本当の自己像であるのかさえ、すっかり分からなくなっているのである。
 
「鏡」はしょせん「鏡」に過ぎず、そこに真実が映し出されることなど永久にない。鏡の表面には、凸凹があったり、光が乱反射したりして、「本体」を正しく反映することさえ、至難の業である。

にも関わらず、確固たる自分がない人々は、絶えず、他人の眼差しという「鏡」に映る自己像を確かめることでしか、自分を認識できず、自信を得ることもできないため、その弱さのせいで、どんどん虚構の「鏡」の世界に取り込まれ、他人に自己像を奪われ続け、ついに「鏡」の世界で「本体」を喪失したまま、帰らぬ人となってしまうのである。

これは大変に恐ろしい事態である。杉本は、すでに2ちゃんねるによって、長年に渡り、「自己像」を侵害されて、奪い取られ、上書きされ続けて来たが、今やその上に、唐沢のブログの指摘があり、当ブログの指摘もあり、多数の「鏡」によって、杉本の像は根本から書き変えられ続けているのである。

杉本はそれに抵抗するために走り回っているが、その主張があまりにもお粗末であるために、どこへ行っても相手にされず、それどころか、ついに杉本自身のブログが名誉毀損であり人権侵害であるとして削除され、消滅しかかっているのであり、さらにこの先、杉本の訴えが裁判においても「棄却」されるなどした日には、杉本にはもはや「自分自身とは何か」ということを、自らの口で主張する手段がなくなる。

こうして、ついに「本体」が消え去って「鏡」だけが残るのである。杉本が主張した内容はすべて無かったこととされて消え失せ、他者が杉本に向かって述べた様々な言葉や印象批評だけが、「杉本の像」として定着し、残って行くのである。

これが、他人からの「お墨付き」を得ることによってしか、自己を確かめられない空疎な人間が決まって辿る悲劇の結末である。

ところで、「剽窃」だとか、「乗っ取り」だとかいう主張が成立するのは、あくまで「本体」がれっきとして存在し、誰かがこれを証明しうる場合のみである。たとえば、無断複製を違法であると主張するためには、オリジナルの所有者が出て来て、オリジナルとは何かを提示した上で、問題となる内容がオリジナルから違法にコピーされたものであることを証明しなければならない。

オリジナルが存在しないか、誰もそれを証明できない事柄については、コピーという概念も存在せず、「贋作」や「無断複製」や「違法な改変」や「剽窃」という主張自体が成立しない。「本体」が確かに存在していないものについては、どんなにたくさんの歪んだ「鏡」が作り出されても、誰一人として、それを権利侵害だと主張できないのである。

杉本が、これまで自分自身に確かなよりどころとなる自己がないことを埋め合わせるために、会社の代表や、国家資格といったうわべだけのステータスで身を飾り、あるいは、苦しんでいる他者を助けることで、自分の内面の空虚さを補えるかのように考えたことは、錯覚でしかない。

そうしたものはすべて「鏡」なのである。そして、杉本ブログそれ自体も「鏡」である。そのような「鏡」に人が自分を映し出し、その像に熱中すればするほど、その人間は、確かなリアリティを失って、「鏡」の世界に自分を吸い取られて行くだけである。

そして、ついに最後には「本体」が「鏡」に吸収されて消失し、フィクションとなり、神話となり、その代わりに、ただ歪んだ「コピー」だけが、リアリティであるかのように残ることのである。

結論から言えば、グノーシス主義の本質とは、もともとオリジナルとしての「本体」が存在しない、無数のフィクションの物語である。

次回以降に論ずるが、グノーシス主義が「父なる神」をフィクションとしていることは、つまるところ、グノーシス主義が「父なる神」に創造された人類も、結局は「フィクションである」と主張しているに等しい。

ペンテコステ・カリスマ運動も、その本質は、グノーシス主義であり、こうして、人類の自己の本質がもともと「フィクション」であるという教えを信じた人々の内側には、確かな自己がなくなる。

彼らは、心の内に空虚な深淵を抱え、人々の眼差しという「鏡」に映る不正確な映像を手がかりにする以外には、自己存在を証明するための手立てが何もなくなり、それゆえ、「鏡」を通して、自分の見たくない欠点を暴露されることを病的なまでに恐れ、気に入らない「鏡」を根こそぎ破壊しようとの行為に出たりするのである。

だが、もし「本体」がリアリティとして存在しなければ、「鏡」によってどんな権利侵害を受けたと感じても、それを権利侵害だと主張する根拠もまたないのである。

彼らに出来ることは、ただ一つ、一つの「鏡」に映った気に入らない自己像を否定するために、別な「鏡」を持って来て、これが自分だと宣言することでしかないのだが、もともとその鏡は、どれもこれも不正確なもので、そこに映った像も乱れ、影のようなものでしかないため、その人物が「鏡」を基にして行う証言は、あらゆる面で辻褄の合わない、嘘で埋め尽くされた、整合性の取れないものとなって行く。

結局、自分がないからこそ、そのようなデタラメなつぎはぎの証言が生まれるのであって、そのような人間には、デタラメな証言を行う以外に、自分が何者であるかを客観的に証明する手段もない。そのため、そのデタラメな証言のゆえに、その人間が何者であり、何を言いたかったのかは、結局、最後まで誰にも分からないまま、その人間そのものが不明な塊となって消え去って終わる。

こうして、確固たる自己を持たない人間の内部には、自己の代わりに、ただ虚無の深淵が横たわっているだけなので、そのブラックホールのような虚無性の隙をついて、そこには、何でもありとばかりに、あらゆる種類のゴミが投棄され、贋作やコピーなどのありとあらゆる偽の創作物語が詰め込まれ、虚偽によって埋め尽くされて行くのである。

それが、グノーシス主義の本質なのである。グノーシス主義は、人間の自己存在をフィクションとして消し去るものであり、そんな教えを信じている限り、その人物には、自分が失われて、デタラメな創作物語によって自分がどんどん書き換えられて行くことに抵抗する術もない。
 
繰り返すが、どんなにそれを「デタラメな創作物語」だと声高に非難しようとしても、もともとオリジナルが存在しない以上、コピーも存在せず、人権侵害も存在せず、名誉毀損もないのである。虚無の深淵が仮にサタン呼ばわりされたところで、誰もそれを虚無の深淵に対する権利侵害であるとして虚無の深淵の代理人となってこれを是正できないのと同様である。

それに引き換え、「わたしはある」という方を信じ、聖書のまことの父なる神を知っているクリスチャンは、グノーシス主義者のように虚無の深淵を信じているわけではなく、キリストの復活の命にあって再生された確かな自己を持ち、神に対して生きる人々であるから、こうして再生されたクリスチャンの主張も、確固たるリアリティであり、誰かが勝手に書き換えたりすることはできず、そのようなことを試みた人間は、当然ながら、人権侵害のかどで罰せられる。

武蔵野簡裁の付近は、横浜のように海風が吹くこともなく、起伏もない平地の開けた都会で、桜が咲き、人々は穏やかに行き交い、街はのどかで平和であった。確かに、ここに住む住民にとっては、この都会に生きていることが、ステータスに感じられているのかも知れない。民事調停では、相手方と顔を合わせることはないため、杉本徳久なる人物の印象は分からなかったが、四捨五入すれば50歳にもなろうという男に会いたいという願いは筆者には全くない。一体どういう理由で、こんなにも平和そうに見える街から、こんなにも常軌を逸した人物が生まれて来るのか、ただただ理解に苦しみ、首をかしげるばかりである。

改めて杉本のような人物を生んだペンテコステ・カリスマ運動とグノーシス主義を心の底から非難しないわけには行かないと感じるのみである。


ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神以上に高く掲げる「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」

・ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神とする東洋的異教の母性崇拝(「イゼベルの霊」)に支配される運動である。
 
さて、これまでにも当ブログでは、ペンテコステ運動とは、イゼベルの霊(一言で言えば、異教的母性崇拝の思想)に導かれる運動である、ということを再三に渡り、述べて来た。はっきり言えば、ペンテコステ運動とは、異教に由来する非キリスト教的な思想に基づく「神の家の乗っ取り運動」なのである。
  
ペンテコステ運動にははっきりした教義体系が存在せず、教義体系を明らかにする文献も少なく、ただ「聖霊のバプテスマ」を受けて「異言」を語るなどの超常現象ばかりを重んじるため、自然と、この運動の問題について語られる場合にも、現象面の分析で終わりがちであり、教義面からこの運動の根本的な危険性を洗い出す議論は少ない。

とはいえ、それでもペンテコステ運動の教義の基礎を明らかにしていると見られる文献はいくつか存在し、それを手がかりにこの運動の異常性を教義面から論証することは可能である。

そうした文献の一つが、大きく見れば、ペンテコステ運動の中にひとくくりにできるカリスマ運動の指導者である手束正昭氏の言説である。当ブログではすでに幾度も述べて来たように、手束氏は、すべての物事にはっきりとした区別をつけて、何が善であり、何が悪であるかを峻別する聖書の二元論を非難して、キリスト教は、このようにすべてに区別をもうけようとする父性原理ばかりが強すぎて、すべてを慈愛によって包容する母性原理が足りず、それゆえ、バランスが取れていないため、キリスト教は精神異常や狂気を生むなどと主張する。

ペンテコステ・カリスマ運動にもし「教義」というものがあるとすれば、それはこのように伝統的なキリスト教にあたかも「重大な欠陥」が存在しており、それゆえ、キリスト教が「人を精神異常に追い込む狂気の根源」となっているかのように主張し、それを口実に、あたかも聖書の御言葉だけでは不十分であるかのように、キリスト教の中に聖書にはない「何か」を巧みに持ち込み、つけ加えることにあると言えよう。

彼らがキリスト教につけ加えようとしているその「何か」とは、聖書の二元論という「父性原理」を骨抜きにするための「母性原理」である。
 
彼らの理屈によると、キリスト教では、何が善で何が悪であるかを厳しく区別する父性原理の二分性が人間を苦しめ、狂気に追いやっているという。そして、「キリスト教は、あまりにも厳しすぎる区別をもうけたがために、人間を狂気や精神異常に追いやる宗教となった。そこで、そのようなことの起きない、人にやさしいキリスト教を新たに作り出さねばならない」と主張し、そのために、キリスト教は父性原理の二元論を廃し、物事に区別をつけずにすべてを慈愛によって優しく包容する、母のような寛容さを補うべきである、と言うのである。

こうして、ペンテコステ・カリスマ運動は、まずはキリスト教を「ディスカウント」し、もともと聖書にはない「何か」を、あたかも聖書の教理に補われるべき要素であるかのように主張して、「慈愛」や「慈悲」などの美しい言葉を口実に、キリスト教を骨抜きにするような、すべてを曖昧にして包容する「母性的要素」を、キリスト教につけ加えよと要求するのである。
 
だが、当ブログの読者であれば、このような形でキリスト教に「母性原理」をつけ加えると、どういう恐るべき結果がもたらされるかは、あえて説明しなくとも了解しているものと思う。

それでも、キリスト教の「父性原理」に、キリスト教にはない「母性原理」をつけ加えようとすれば、何が起きるのか、それを「家庭内紛争」にたとえながら、あえて説明したい。

家庭の中で、父は、一般的に、規則や権威を象徴する存在である。そこで、ある家で、父親が子供に向かって「宿題はかならず毎日夜の8時までには終えて、夜9時には就寝しなさい」というルールを定め、子供がルールを破った場合には、罰を受けなければならないと定めたとしよう。

しかし、子供がルールを破り、父親が叱責と罰を加えようとする度に、母親が飛んで来て、「お父さん、あなたの決めたルールはあまりにも厳しすぎて理不尽で、それを理由に子供を罰するなんて、残酷すぎます。そんなにまでも、すべてをはっきりさせる必要が本当にあるんでしょうか。あなたはいつも小さなことで目くじら立てては、子供を叱っていますが、あなたのやり方では、子供は委縮してしまってのびのび成長できません。教育上有害です。」などと言って、毎回、子供をかばったら、その子はどのように成長するだろうか。

母親は子供をかばってさらに言う、「お父さん、今日、この子は宿題をまだ終えていないのに、あなたは9時だからもう寝なさいと言いますね。でも、それじゃあ、この子は明日、学校で、宿題を忘れたと言って、友達の前で、自分だけ恥をかかされ、先生から怒られなければいけなくなるんですよ。あなたはこの子が友達の前で恥ずかしい思いをして、それが原因でいじめられるようになっても、何とも思わないんですか? あなたはそうやって、いつも規則を守ることの方が、人間の感情よりも優先されるべきだと言いますが、あなたは私から見れば、規則を口実にして、ただ子供に対して威張り散らして、鬱憤晴らしをしたいだけなんです。そんな動機で、可愛い我が子を危険にさらすことは私には許せません。この子の宿題は私が代わりにやってあげますから、あなたは何も言わないで下さい。私はあなたの定めたルールにも、罰をもうけることにも反対です。」

母親がこんな風に主張すれば、家庭の秩序は成り立たなくなる。おそらく、子供は父の権威を侮るようになり、父を平然と見下げるだけでなく、父は自分の幸福を願っておらず、いたずらに権威を振りかざして自分を威圧し、罰しようとしているだけなのだと考えて、父を憎むようにさえなるだろう。そして、自分が恥をかかず、心傷つけられず、罰せられないで済むように、自分に都合の良いことを言ってくれる母の言うことだけを聞くようになり、母にべったりと甘え、そのうち、自分はどんな過ちを犯しても、決して罰を受けることなどないと高をくくるようになり、一言で言えば、途方もなく甘やかされて、駄目になってしまうに違いない。

このように、ルールを定め、それによって物事の是非をはっきりさせて、ルールを破ったものには罰をもうけるという、父性原理に基づく二元論的な考え方と、何もかも白黒つけずに「母のような慈愛によって」包含しようとする母性原理に基づく考え方は、決して相容れない。このことからも、キリスト教に「父性原理」と「母性原理」を同居させようとする試みは、決してうまくいくことがないと言える。そのようなことをすれば、キリスト教は骨抜きにされ、崩壊するだけである。
 
にも関わらず、ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教の「父性原理」が悪の根源であるかのように主張して、これを否定して、そこに「母性的な要素」をつけ加えることで、キリスト教の「残酷さ」や「偏狭さ」を改革できると言うのである。一見、その言い分は、「愛」や「憐れみ」にカモフラージュされているため、人の耳には心地よく響くであろうが、その教えを受ければ、信者はもはやキリスト教徒ではなくなり、異端の教えによってすっかり自己を肥大化させられた、およそ信者と呼べないばかりか人としても駄目な人間になってしまうだけである。
 
一言で言えば、ペンテコステ・カリスマ運動は、それ自体が、キリスト教に偽装しつつも、キリスト教を骨抜きにして崩壊させるために登場して来た異端の教えなのである。そして、この運動が主張する「母性原理」なるものの起源も、東洋的な非キリスト教的異教にある。

これまで確認して来たように、ペンテコステ・カリスマ運動がキリスト教に足りないと言って導入しようと試みている「母性的要素」とは、もとを辿れば、非キリスト教・異教的な宗教哲学から受け継がれた母性崇拝に由来する。

多くのオリエント・東洋宗教哲学においては、キリスト教のように、「父なる神」が万物を生み出したとは考えられておらず、万物の生命の源として、女性原理の象徴である「神秘なる母性」が讃えられる。(この「母性原理」は、様々な宗教神話において「女神」の形を取って現れたり、あるいは、必ずしも人格を持たない万物の生命の源として「神秘なる母性」、「神秘なる混沌」などと呼ばれる。老子はこれを「玄牝」と呼んだ。)

早い話が、ペンテコステ・カリスマ運動とは、 このように異教に由来する原則を、公然とキリスト教の中に持ち込もうと試みているだけであって、この運動は、西洋的な伝統的なキリスト教と、東洋的・オリエント的な母性崇拝を混ぜ合わせて出来上がった混合宗教なのである。
 
このことを理解すれば、我々は、なぜペンテコステ運動の只中から生まれて来たカルト被害者救済活動のような運動に影響を受けた人々が、クリスチャンに向かってしきりに「精神異常者」のレッテルを貼って中傷しようとしているのかを理解できるだろう。

彼らは、たとえば、完全に健康な筆者に向かっても、何の根拠もなく、「立ち直り不可能な人格障害に陥っている」かのような決めつけを長年に渡って行って筆者を中傷しているのだが、こうして彼らがクリスチャンに「精神異常」というレッテルを貼りたがる背景には、そもそもペンテコステ・カリスマ運動が、「伝統的な西洋的キリスト教は、人間を狂気に陥らせる宗教だ」とみなして非難していることが挙げられる。

つまり、この運動が、聖書に基づく純粋なキリスト教そのものにあたかも重大な欠陥があって、それがために「父性原理ばかりが強すぎるキリスト教が、人を狂気に陥れている」かのように主張しているからこそ、その運動の支持者たちは、キリスト教だけでなく、聖書に忠実に従うクリスチャンたちにも、「狂気の宗教」を信じる「精神異常」のカルト信者といったレッテルを貼り、さかんにディスカウントしているわけなのである。

ペンテコステ・カリスマ運動は、あたかもキリスト教の一派のように、プロテスタントの中で座を占めているが、以上のようにキリスト教をディスカウントして聖書にはない新たな要素をつけ加えるよう主張している人々が、クリスチャンであろうはずなく、この運動は、ただキリスト教に偽装して、キリスト教を内側から骨抜きにして破壊するために登場して来た、根本的に異端の教えなのである。

彼らは、(彼らに言わせれば)「狂気を生み出す根源」でしかないキリスト教の父性原理(二元論、御言葉による切り分け)を攻撃して否定し、御言葉に忠実に従うクリスチャンに狂気のレッテルを貼って、真にクリスチャンを駆逐したいがためにこそ、日夜、以上のように根拠もない印象操作や人格攻撃にいそしんでいるだけなのである。そのような異常な一群を生み出すペンテコステ・カリスマ運動が、聖書を土台にしていないことは明々白々である。

しかし、終末においては、このようにキリスト教の装いをした忌むべき混合宗教が、世界規模で登場することになると予告されている。それが聖書の黙示録に登場する「大淫婦バビロン」であり、彼女が「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも、バビロンとは、キリスト教と、それとは異質な異教的な要素の混合物であることが分かる。

その「混ぜ物」こそ、東洋・オリエント的異教に由来する母性崇拝の原理であって、ひいては、人間を神とする反逆の思想なのである。


・ペンテコステ・カリスマ運動は、「母」の罪を擁護し、私生児として生まれた「父なし子」を「神の家の後継者」であるかのように詐称するグノーシス主義神話に基づく「神の家の乗っ取り運動」である
 
さて、ここで、非キリスト教的異教が「母性崇拝」を掲げていることは、決して意味のないことではないと断っておきたい。

聖書によれば、万物を生み出したのは「父なる神」であって、母性原理は生命の源ではない。

聖書では、キリストを生んだ処女マリアを例にとっても、彼女はあくまで聖霊によってみごもったのであり、彼女の「女性原理」がキリストを生んだわけではない。イサクを産んだサラも同様で、父なる神の「約束」があって初めてイサクが生まれた。黙示録には、龍に迫害されながら、男の子を生む女が登場するが、この女も、諸説あるとはいえ、母なるエルサレムや、エクレシアを象徴していると考えられており、エクレシアがキリストに属する御霊の実を生むにあたっても、やはり単独で子供を生めるわけでなく、必ず、そこには御霊による働き、御言葉に基づく約束がある。

聖書において、これらの女たちが幾度も「夫のない女」「一人残された女」「産まず女」などと、蔑称のような言葉を用いて、霊的に独身・未婚であると強調されているのは、彼女たちには、キリストを抜きにして自分の力では決してまことの生命を生み出す力がないことをよく表していると言える。

つまり、聖書においては、生命を生み出す根源は、常に神の側にあり、被造物それ自体には、キリストとの結合なくして、自力でキリストに属する産物を生むことは決してできないのである。

ところが、カリスマ運動の指導者の手束正昭氏は、すでに見て来たように、聖霊を「母なる霊」と定義することによって、「父なる神」と「母なる聖霊」と「子」の「三位一体」という、聖書には全く記されていない異常な教理を主張し、あたかも、キリストが「父なる神」という父性原理の象徴と、「母なる聖霊」という母性原理の象徴との結合の結果として生まれたかのようにみなし、「母なる霊」という呼び名で、異教に由来する母性崇拝の原理をキリスト教に偽装して持ち込もうとする。

このような異端的な教説では、まだ「母なる霊」が単独で子を産み出したまでは言い切られていないが、聖書にはない「母性原理(母なる霊)」がつけ加えられることによって、神の独り子であるキリストが、あたかも「母なる霊」によって生み出されたかのように主張されている。

こうして、手束氏の考える「キリスト教」には、東洋・オリエント的母性崇拝の思想が公然と持ち込まれ、それによって聖書の教理までがすっかり変質させられているのである。

そして、これまでにも書いて来たように、このように生命を生み出す根源が、あたかも「母性原理」にあるかのように唱える主張は、異教に由来するだけでなく、もとを辿れば、グノーシス主義に起源がある。

グノーシス主義には、すでに述べたように、共通して、女性人格が単独で生命を生み出すという神話的プロットがある。そこで、万物の生命の根源があたかも女性原理にあるかのように唱える異教的な思想は、大きく見れば、すべて根源的にグノーシス主義を土台にして成り立っていると言える。

このように、異教的な思想が、「父性原理」よりも「母性原理」を高く掲げるのは、神と被造物との主従関係の逆転するためであり、結論から言えば、異端とは、唯物論的な被造物崇拝の教えなのである。
 
聖書によれば、神は人類をご自分に似せて、ご自分の助け手として創造された。そこで、人類は神に対して霊的に女性の立場にある。また、聖書においては、男が先に創造され、男をもとに女が造られている。

だが、すべての異端的思想は、この正当な秩序を覆し、神によって創造された被造物に過ぎない人類(霊的に女性)を、あたかも創造主であるかのように主張し、神以上に高く掲げる。

東洋的な異教が「女性原理」を「父性原理」よりも高く掲げようとするのは、その背景に、「本来は神に似せて、神から生み出された被造物に過ぎない人類を、創造主である神以上に高く掲げたい」とする欲望があるためである。

フェミニズム神学(およそ異端なので本当は神学という名に値しないが)は、「女が男から造られた、男よりも弱い被造物だという聖書の記述は、女を男の付属物に貶める男尊女卑の考えであって、誤りである」などと主張して、聖書の記述を否定する。

母性原理を高く掲げる異教的な思想もこれと同じ理屈を用いて、「人類が神によって、神に似せて創造された被造物だという考え方は、人類を神よりも劣ったものとみなしている点で、人類に対する許しがたい差別・蔑視であって、事実ではない。我々はキリスト教の神による人類へのこのような蔑視を決して認められない」と主張して、神と人類との関係を逆転しようとしているのである。

このように、東洋的な異教の思想において誉めたたえられている「女性原理」とは、文字通りの女性を指すのではなく、被造物全体、もっと言えば、神の被造物としての人類全体を象徴しているのだと言える。そして、ペンテコステ・カリスマ運動のような思想が、キリスト教の「父性原理」の中に「母性原理」を持ち込むことで、両者を競合させ、最終的には「母性原理」によって「父性原理」を骨抜きにし、駆逐して行こうとしていることにも、創造主と被造物との関係を逆転させようという意図が込められている。

そこで言われる「父性原理」とは、父なる神を指している一方、「母性原理」は人類全体を指しており、結局、ペンテコステ・カリスマ運動も、神によって創造された被造物に過ぎない人類を、神と対等か、神以上に高く掲げ、人類を神と同一視して、聖書の父なる神に反逆して、創造主と被造物の関係を逆転させようとしている教えなのである。
 
このように、東洋思想が「女性原理こそ万物の生命の源」であると主張していることには、結局、「我々人類は、誰の手にもよらずに単独で生まれた独立した存在であって、誰の被造物でもない。そして、我々自身が、神のように、単独で生命を生み出す力を持つ、神に等しい存在なのだ。」という主張が込められているのである。

そして、このような東洋的な母性崇拝をキリスト教に混ぜ込んで出来上がったペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた人々は、その教えがもたらす当然の結果として、聖書が教える「人類は神によって造られた被造物に過ぎず、創造主である神に服する義務がある」という基本原則に反抗して、被造物である自分自身を「神」として最高の地位につけようと高く掲げるようになり、自画自賛に溺れて行くのだと言えよう。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教にそのような悪しき結果をもたらす致命的な毒素としての「女性原理」を受け入れよと迫っているのである。

(ちなみに、筆者はペンテコステ・カリスマ運動のみならず、「エクレシア崇拝」に陥ることも、以上と同様の反聖書的な考え方であるとみなしている。クリスチャンが自分たちの集会を絶対化したり、賛美するようになれば、それ自体が偶像崇拝に該当する。エクレシアであろうと、何であろうと、被造物に過ぎないものを、キリスト以上に高く掲げることは、すべて「女性原理の崇拝」と同じなのである。)

さて、これまで、グノーシス主義には「女が単独で子を産む」という聖書に反する考え方があると記した。グノーシス主義には神話はないが、神話的プロットと呼んでも差し支えないような共通の筋書きがあり、大きくまとめると、それは以下のようになる。

➀ 万物を生み出す「まことの父(真の至高者)」の能力を見て、「女性人格」がそれを嫉み、自分もその能力が欲しいと願う
② その結果、「女性人格」が規則を破って、「男性人格」の参与なく、単独で子を産む
③ 「女性人格」はその違反の結果として天界から転落しかかり、違反の結果生まれた「子」も転落して醜く愚かな「悪神」となって下界を支配する
④ しかし、「女性人格」が単独で生んだ「子」(悪神)の子孫である「人類」は、悪神よりも賢く、知識の啓示を受けて、自分には「まことの父(真の至高者)」に由来する「神聖な霊の欠片」が受け継がれており、自分の本当の父は「悪神」ではなく、「まことの父」なのだと気づく。
⑤ 人類は、こうして自分が「まことの父」の子孫であると自ら名乗り出ることによって、「母の過ち」を修正し、「母子」ともに天界へ復帰する。

このような物語では、第一に、女性人格が単独で子を生むという違反を犯すことによって、万物の生命を生み出す力は、誰にあるのか、「父なる神」にあるのか、それとも、「母なる神」にあるのかが全く分からないという混乱が持ち上がる。

そして、さらに、人類は、女性人格が単独で生んだ子の子孫であるとされることによって、人類は事実上、父がいないも同然の存在(父を喪失した存在)となる。

だが、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生んだということは、より深い文脈では、グノーシス主義が、「人類とは、聖書の神によって創造された被造物などでは決してなく、誰にも創造されることなく、自力で生まれた独立する存在なのだ」と言わんとしていることを意味する。

グノーシス主義は、旧約聖書における神を「悪神」とみなし、これをヤルダバオトとか、デーミウルゴスなどと呼び、無知で愚かな神として徹底的に侮蔑する。グノーシス主義のプロットによれば、この「悪神」こそ、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生むという違反に及んだ結果生まれた、醜く、愚かな、出来そこないの「神」である。

この「悪神」は、出来そこないの醜い産物であるにも関わらず、身の程知らずな思い上がりに陥って、自分こそ至高の神であり、他の神はないと思い込み、「わたしの他に神はいない」「わたしは妬む神である」などと豪語しながら、「神」の称号を不当に独り占めしていると、グノーシス主義は言う。そして、悪神であるがゆえに、彼の創造した被造物はすべて醜く不完全で、それゆえ、地上は不幸に満ちていると言うわけである。

グノーシス主義はこのようなフィクションを作り出すことにより、聖書が「神は唯一である」と述べていることを嘲笑し、聖書の神が「妬む神」であって、決して神という称号を他に明け渡すことがないという事実を徹底的に否定・侮蔑・嘲笑しながら、聖書における神を、醜く愚かな「悪神」にたとえて冒涜する一方、その悪神の子孫であるはずの人類を、悪神よりも賢く高貴な存在として描き、人類こそまことの「神」の子孫であるから、悪神を否定的に超えて天界に復帰できると主張するのである。

だが、このようなものは随分虫の良い身勝手な話であって、額面通りに受けとる方がどうかしていると言えよう。

グノーシス主義の以上のような神話的プロットでは、いくつもの論理破綻と言っても良い規則破りが犯されている。

まず第一に、グノーシス主義においては、あらゆる概念が「対」としてとられ、単独では完全でないとされているにも関わらず、女性人格であるソフィアが、対となるべき男性人格の了承なくして、単独で子を産みたいと願い、実際にその行為に及ぶ時点で、「対」の原則が破壊されている。

次に、その「母」である女性人格は、単独で子を産むという「違反行為」を犯したわけだから、普通に考えれば、その結果、生まれた「子」は、誰を「父」としているのか分からず、それを立証する手立てもないはずである。要するに、その「子」は私生児である。

グノーシス主義の一部の物語によれば、人類は、女性人格が違反を犯して単独で生んだ悪神から生まれた子孫であるだけでなく、悪神が自分を生んだ母を知らずに凌辱して生まれたのが人類だという。単なる「私生児」であるだけでなく、あまりにも悲劇的な生い立ちである。

にも関わらず、グノーシス主義においては、そのような「悪神」によって創造された素性も知れない「人類」(ソフィアが違反の結果生んだ愚かで醜い「悪神」の子孫)が、どういうわけか、悪神よりも上位の神の似像として造られ、その息を吹き込まれているため、悪神を超える存在であり、「神聖な知識の啓示」を受けて、自分は天界にいる「真の至高者(真の父)」のDNA(「神聖なる霊の欠片」)を受け継ぐ神聖なる存在であると気づくことによって、「真の父」の後継者であると自ら名乗り出て、「母の過ち」を修正して、「母子」ともに天界に復帰するのだというのである。

このような話を聞いていると、この「母子」はどこまでも得体の知れない存在だと思わずにいられない。

なぜなら、グノーシス主義が、「人類」は「真の至高者」の子孫であると主張していることには、いかなる客観的な根拠も存在せず、その神話的なプロットの中でさえ、「真の至高者」の側からの「子」への承認や賛同(認知)はなく、「人類」が自分は「真の至高者」の子孫であると主張しているのは、完全に自称の域を出ない、思い込みのような話でしかなく、極言するならば、詐称と呼んで差し支えないほどに疑惑に満ちた主張だと言えるからなのである。
  
そして、人類が本当に「真の至高者」の子孫だというならば、「真の至高者」がそのプロットに登場して、自分の子として人類を認知しないのは一体、なぜなのかという疑問が生まれよう。しかし、グノーシス主義における「真の至高者」とは、そもそもそれ自体が、あたかも人格を持たない虚無の深遠、混沌のような概念であるため、この神話は初めから「真の至高者」の存在や意志など全く無視して出来上がっていると言えるのである。

こうして、グノーシス主義の神話的プロットでは、どこまでも「父」がないがしろにされ、「母」だけが重んじられる一方的なストーリーが展開されるが、こうして、「父」からの承認や応答を一切抜きにして、「違反」を犯した「母」と、「知識の啓示」を受けたと自称する「子」だけが、何一つ客観的な証拠のない、思い込みのような主張により、自分たちは「まことの父」の正当な子孫であるから、神の家に復帰させよと主張して、「母の過ち」を正当化し、母子ともに名誉回復して幸せになろうと目指す、というのが最終目的なのだから、こんな話はあまりにも眉唾ものと思われるのである。

一言で言えば、この話は、家の相続権を巡る争いであるが、一目見ても、これほど素性の分からない「母子」に本当に「真の至高者」の子孫として名乗り出る資格があるのかという疑いが生じるのは当然である。
 
さらに、このような出生の汚点を抱えて生まれた「子」としての人類は随分、不幸な存在である。まず、「母」が極めて身勝手な存在であり、「母」は自分の過ちによって、不幸な出生の「子」を誕生させた上、自分の名誉を挽回するために、「子」を生涯、自分の欲望の道具として束縛してしまう。「子」は、「母」をかばって自分のルーツを正当化し、出生の汚点を取り除くためには、「母の過ち」を修正するために生きるしかなく、証拠があろうとなかろうと、自分が「真の至高者」の子孫であると名乗り出るしか手立てがないという状況に置かれている。この「母子」は不幸な運命共同体であって、こういう状況に置かれている限り、「子」には「母」から自立できる見込みは全くない。

この物語では、「母」の過ちによって、すべてが狂わされたにも関わらず、その過ちがとがめられることもなく、罰せられることもなく、その後、屁理屈のような主張が延々と積み連ねられることによって、「母の過ち」修正して正当化することが最終目的であるとされ、そのために、人類が存在するとされ、連綿と不幸が生み出されているのである。

この物語だけを眺めても、本当の「犯人」は決してグノーシス主義が徹底的に侮蔑する「悪神」ではないだろうと思われて当然である。なぜなら、この「悪神」も、ソフィアの過失のために誕生した不幸な産物に過ぎないためである。にも関わらず、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、その「悪神」だけが悪者とされ、ソフィアの過ちが咎められず、人類の使命が「母の過ちを修正する」ことにあるとされているがゆえに、この物語はどこまで行っても不当な主張に満ち溢れた荒唐無稽な内容なのである。
 
このように得体の知れない「神話」が、キリスト教に偽装して、キリスト教の中に公然と入り込んで来ると、当然ながら、真にキリストによって生まれ、神の国の正統な後継者たる神の子供たちが、迫害される結果になるのは避けられない。信仰もなく、キリストによって生まれた事実もなく、場合によっては、聖書の父なる神をさえ信じていない、全く素性の明らかでない人々が、公然と神の家(教会)の後継者を詐称して、神の子供たちであるクリスチャンたちを脅かし、駆逐するようになるのは避けられない。

「父」を裏切ってひそかに誰の子とも知れない子を産んだ「母」と、誰を「父」としているのかも分からない「子」がタグを組んで、自分たちこそ神の正当な子孫であって、神の家の正当な後継者であるかのように主張して、天界に復帰を企てるというグノーシス主義的な「神話」が、キリスト教の中に入り込むと、結局、真に聖書に従うクリスチャンたちを迫害し、教会から追い出して、神の家を乗っ取ろうとする運動が生まれるのは当然である。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教に「母性原理をつけ加えよ」と主張することによって、以上のような悪しき目的を果たし、正当な資格がないにも関わらず、不当に神の家を乗っ取ろうと目論んでいるのだと言える。この運動は、本来的にキリスト教に属さない、聖書の神に属さないはずのものを、あたかも正当なキリスト教であるかのように主張して、神の家を乗っ取り、堕落させるために生み出された運動なのである。

だからこそ、カルト被害者救済活動などという恐るべき忌むべき運動も、ペンテコステ・カリスマ運動の只中から生まれて来ているのである。

カルト被害者救済活動が目的としているのも、結局は、「母の過ちを修正すること」、すなわち、人類の罪を、人類が自力で修正することなのである。

この運動は、何らかの原因があって、教会生活につまずき、信仰生活につまずき、聖書の神への信仰を捨て、教会やクリスチャンに恨みを持った人々が、信仰がないため、本来は、教会の一員となる資格もないにも関わらず、自分たちの被害者意識を口実にして、教会を責め、クリスチャンに罪悪感を持たせることにより、自分たちを教会の一員として受け入れよと迫っているのである。

教会はキリストの十字架の贖いを通して罪赦され、贖われた人々のものであるはずなので、信仰のない人々には無縁であるはずだが、この人々は、贖われていないか、贖いを自ら否定しているのに、被害者意識を口実に、自分たちが神の家に入り込む資格があると主張して、自分たちを神の子として「認知」するよう、クリスチャンに迫っているのであるから、このようなものは、神の家の乗っ取り運動である。

このように神の家の正当な相続権を持たない「私生児」が、信仰もないのに、教会を占拠し、正当な相続権を持つ神の子供たちであるクリスチャンを脅かし、迫害し、負い出しているのである。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動の教義の異端性を考えるなら、この異端的運動の只中から、こうした極めて異常な歪んだ「救済運動」が生まれて来たのも、まさに必然と言える。

さて、ここまでは、これまでの記事においても幾度か述べて来た内容と重なるが、ここから先は、「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション」(大田俊寛著、春秋社、2009年)という、このテーマを掘り下げるに当たり、議論の材料を与えてくれそうな極めて興味深い文献なども参考にしながら、ペンテコステ運動のグノーシス主義的起源をめぐる議論の中核にさらに迫っていきたい。

だが、結論から述べておけば、「父性原理を重んじ、母性原理をないがしろにする伝統的なキリスト教の二元論が、人間を狂気に追い込む原因となっている」などというペンテコステ・カリスマ運動の主張は、完全な偽りであって、笑止千万な荒唐無稽である。

むしろ、真実は、それとは全く逆であり、以上のような論理破綻したグノーシス主義的「神話」こそ、人間の精神を著しく害し、精神異常に追い込む狂気の根源なのである。

すでに述べたように、母性崇拝(女性原理の崇拝)の思想とは、被造物である人類が、あたかも創造主であって、自分自身が神であるかのように唱え、まことの神に反逆する反聖書的な思想のことなのであるが、グノーシス主義はまさにそのような聖書に対するすべての反逆的思想の土台となる思想である。

そして、グノーシス主義の「神話」とは、罪を犯した者が決して己が罪を認めず、過ちの責任も取らずに、本来、罰せられて然るべきにも関わらず、罰を免れて自己正当化をはかり、堕落したルーツしか持たない者が、そのルーツをごまかして、自分を神の子であると詐称して、自己正当化をはかるために作り出された終わりなき嘘であるため、この「神話」では、一つの嘘をごまかすために、次の嘘が作り出され、そうして人類が自分のルーツをごまかすために、果てしなく嘘で塗り固めた「創作神話」が述べられ続けているのである。

そのような荒唐無稽な神話に没入して行った挙句、その人の精神の正常性が保たれることはまずない。

繰り返すが、聖書の二元論が人を狂気に追い込むのではなく、グノーシス主義的荒唐無稽な神話が、人を狂気に追い込むのである。だからこそ、この異端の影響を受けたペンテコステ・カリスマ運動からは、至る所で、眉をひそめるような混乱が引き起こされ、また、カルト被害者救済活動のように、信仰を持たない人間から見ても、全く異常であるとしか言えない運動ばかりが登場し続けているのである。

<続く>


賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びである

オリーブ園に連載されている記事は、あまりにもタイムリーかつ霊的に深い示唆に富んだ内容なので、そのまま以下に転載しておきたい。

ここには、エクレシアがバビロン化することの危険性が如実に表されているが、それは筆者がこれまで見聞きして来た教会に関わるすべての腐敗現象に当てはまる。

今日も、エクレシアは、教理面での腐敗、そして、生活面における腐敗という両面から、敵の攻撃にさらされている。どれほど多くの交わりがそうして敵の罠によって堕落させられたことであろうか。

私たちが聖書の御言葉に照らし合わせて、何かの事項について、神と人の前で曖昧な態度を取る時、敵につけこませる隙を与えてしまい、そうして入り込んだ腐敗が、やがてその人自身だけでなく、他の兄弟姉妹にまで及び、集会全体を堕落・変質させてしまう。

異端の教えと分かっているものを拒否することもなく集会に持ち込めば、その集会が神の御心にかなうエクレシアであり続けることができるはずがない。汚れたものと分離もせずに、聖さを保つことはできない相談である。
 
だが、差し迫った堕落の危険がないときでも、信者がただぼんやりと曖昧な思考の中で漫然と日々を過ごすことにより、神の御前での心の透明性、真実性が曇らされ、失われることがある。
 
信者が何一つそのような落ち度を犯していない時でさえ、敵は「あなたは間違っている」という思念を信者に植えつけようとする。

クリスチャンは、自分が誤っているせいで起きた霊的な停滞であれ、何も誤っていないのに、敵の思念を取り込んで自信喪失状態に陥ったせいで起きた霊的な停滞であれ、何らかの霊的停滞が起きる時には、ただちに力を失ってしまう。

その結果、教会の証しが曇らされ、力を失い、最後には取り去られ、その防衛力の低下に乗じて、霊的な敵が教会に攻め込み、教会が占拠されてしまうことさえ起きるのである。
 
エクレシアを腐敗させないための最大の秘訣は、一人一人の信者が、神に対する心の純粋さ、貞潔さを完全に保つことである。

筆者はブログを書いていなかった時期も長いが、記事を書くことにより、常に自分自身の信仰の姿勢を正すよう迫られている。

自分の立場がはっきりしていないのに、人前で何かを表明することはできない。だが、多くの場合、書いているうちに、次第に自分の心の奥底まで照らされて、初めはぼんやりとしか理解していなかった事柄が明瞭になり、神と人との前で、信仰の姿勢を正させられる。

記事に向かうときに、自分の関心を地上のものから意識的に引き離し、「上にあるもの」に向けることが可能となるのである。

その作業をしないと、いつの間にか自分の思考が曖昧になり、気づくと神に関する事柄にすっかり鈍感となり、地的な関心だけで心が占領されたりする。にも関わらず、その状態が危険であることさえ分からなくなってしまうのである。

今、筆者は、キリストの花嫁たるエクレシアが、その高貴さを失わないためには、一人一人のクリスチャンが、神の御前で純粋であること、嘘偽りなく、神との間で争いがないこと、真に神に心を注ぎだし、心の一途さ、透明さ、必死なまでの真剣さを取り戻すことがどれほど不可欠であるかを思う。

時に、どんなことがきっかけであれ、エクレシアが神に対する切迫した真実性を取り戻し、教会の証しが回復されることを願って、神は教会に対する敵の激しい攻撃をあえて許されることがあるのかも知れないと思う。

精金を曇らせること

 すでに見たように、これは第一に教理によってなされてきました。誤った教理に関する何らかの示唆を持ち込むことができるとき、誤謬を僅かでも潜り込ませられるとき、敵はそれを邪悪なパン種のように働かせます。そして遂には、その類のものが発達して、聖霊を退ける契機となり、それが存在する所では主は進み続けられなくなります。そして、妥協、麻痺、弱さの状況が確立されます。純金、精金が曇らされてしまいます。

 教理の路線に沿ってこれがなされてきただけでなく、生活の路線に沿ってもなされてきました。同じ方法、同じ目的が敵の活動を支配しています。教理に関して絶対的に正統的なものの上にとても強く立っていたとしても、あなた自身の生活、あなた自身の霊的生活、あなた自身の道徳的生活においてはとても疑わしい状況にあるおそれがあります。神の御言葉の文字にはとても忠実でも、それでもあなた自身の生活と証しにおいては妥協しているおそれがあります。仕事の取引や、他の諸々の関係や、神の御前におけるあなた自身の生活において、そうであるかもしれません。

透明でないもの、純粋でないもの、清くないもの、まっすぐでないもの、疑わしいもの、おそらくは秘密の習慣があるかもしれません。ああ、もしかすると多くの事柄の中の一つによって、生活の中からあの堅固さ、あの明確さ、あの積極性、あの透明性が取り去られ、時には無意識のうちに当事者の中に、何かに直面しているという恐れ、見つかったものを白状しなければならないという恐れが生じます。

停滞させるものが生活の背後にあります。そのせいで証しから真の活力が、生活の中から真の衝撃力が、交わりの中から真の実り豊かさと価値が奪われています。往々にして形はありませんが、何かがそこにあります。その上に手を乗せることはできませんが、正しくないもの、透明ではないものが、その生活の中にあることがわかります。

そして次に隠し事、ごまかし、分離が生じます。あるいは、他の多くの種類の悪の兆候が生じるかもしれません。それはすべて、神の御前で絶対的に透明ではない何かがあるせいです。敵が一つの要素を植え付けました。その要素が純粋な光を損なって、その生活に影、もやを生じさせたのです。敵の狙いは神にある命の完全な水晶のような透明性を損なって、それにより命全体を麻痺させることです。外形は依然として同じであり、信仰告白はそれまでと全く同じかもしれませんが、停滞してしまうのです。


 これを述べたのは非難するためではありません。御自身の民、エルサレムに対する神の御旨を損なうために敵がそれに沿って好んで働く諸々の路線の一つを指摘するためです。神の御旨とはすなわち、エルサレムが最終的に天から出て、神の栄光を持ち、その明かりが高価な宝石のように、碧玉のようになることです。そして、それに関するすべてのものが、ガラスのように透明で、水晶のように透明な純金となることです。ああ、このような言葉や句には、何という霊的価値と重みがあることか!

 これはみな議論の余地のない明確なことです。私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、敵は絶えず、私たちを知らないうちに「自分は雲の下にある」と感じる地点にもたらそうとしているのです。時として敵は誤った立場を設けて、「自分は誤っている」と私たちに感じさせます。私たちは誤っていないかもしれませんが、敵は「自分は誤っている」と私たちに感じさせて、私たちが自信、確信、堅固さ、立場、地位を失うあの領域にもたらそうとします。その領域で私たちは潜り込んだ何らかの要素によって弱められてしまいます。敵は公然と神の民を雲の下に、疑いの下にもたらして、彼ら自身の心を疑いや疑問の下にもたらします。それは、透明性、確実性、力を損なうためであり、そして、彼らが万人に対して、彼ら自身に対してさえ、大きな問題となるようにするためです。

さて、これから先の記事では、しばらく、ペンコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについて、この運動が根本的に誤っていることについて、今まで以上に詳しく記して行きたいと考えている。
 
その過程で、霊的な敵は、これまで通り、筆者の信仰の証しを地上から取り去ろうとして働くであろう。筆者が以上の論稿をこれから執筆すると予告してから、まだ何一つ記事をアップしていないのに、もうさわやか読者が当ブログに押し寄せてきている有様である。

読者にはっきりと断っておきたい。これまで当ブログが受けて来た攻撃は、すべては霊的な敵に由来するものであり、筆者の信仰の証しを損なうことを目的としてなされたものであると。

だが、彼らは、自らの悪事の厳しい責任を取らされて終わるだけである。

この度、当ブログに多年に渡り、嫌がらせを続けて来た杉本徳久なる人物が執筆しているブログ「神々の風景 -religious scene」は削除されたが、「随想 吉祥寺の森から」も遠からず、削除されることになる。

削除されるまでの間に、杉本ブログのコメント投稿者が、杉本をさらなる破滅に追い込もうと、杉本を争いに焚きつけるだろう。要するに、罪に定められ、滅びることはもう分かっているにも関わらず、最後の期間を使って、杉本ブログを当ブログにぶつけ、どちらが生き残るか競争させ、筆者に可能な限りの害を与えようという見世物を提供しているのである。

だが、はっきりと言っておく。必ず、嘘は真実の前に敗れると。

杉本ブログは、もう何年も前から、完全に信頼性を失った嘘の温床と化しており、自作自演の場となり果てている。

筆者自身は、ブログを書く中で、コメント投稿を重んじることの危険に気づき、無責任なコメントが管理者の意志に反して、どれほどブログの趣旨を歪め、真摯な考察を妨げるか分かったので、ある時点から、コメントを受けつけなくなった。無責任なコメントを掲載し続けていると、そのとばっちりはすべて管理者に降りかかることになるだけである。

杉本ブログは、コメント投稿者の手前、終わるに終われなくなっているのであり、さらに、コメント投稿者のせいで、このブログは杉本自身の意図をさえ離れて、より一層ひどく罪を増し加えながら、破滅へと転げ落ちているのである。
 
杉本ブログに筆者が書きこんだコメントは、2009年に投稿したただ一件だけであり、その他のいかなるコメントにも、筆者は全く関与していない。杉本ブログのみならず、2ちゃんねるなどの掲示板にも、筆者は人生で一度たりとも投稿したことはなく、するつもりもない。(そのようなものを見つければ、それはなりすましと断定してもらって構わない。)

杉本は、筆者が2009年に杉本のブログに書き込んだ、その一件のコメントを、筆者が削除して欲しいと要請したことをきっかけに、当ブログに対する執拗な嫌がらせ行為に及んで来たのであるが、おそらく、そういうことが起きたのは、杉本がその当時から、筆者のために、ゆくゆくは自分のブログ全体を削除させられる羽目になることを、内心で知っていたためではないかと思われる。

筆者はその当時、そんな結末に至るとは予想だにしていなかったが、杉本に常に虚偽ばかりを教え導いて来た悪霊は、最初からそうなると知っていて、その事態を恐れるがゆえに、杉本を利用して筆者を徹底して攻撃させたのであろう。

杉本ブログで行われていることは、今や何から何まで「自作自演劇」の「やらせ」であるが、杉本が初めに当ブログをバッシングする目的で、2009年に投稿した記事も、やはり「やらせ」であったものと筆者は確信する。そのバッシング記事には、1千件のコメントがついて、杉本ブログが炎上に至ったが、それも99%工作員による作戦だったのであろう。

杉本ブログの悲惨な状態は昔も今も全く変わらない。杉本ブログに投稿している人間はほぼ雇われた工作員であり、その他にほんの少しの「悪のり」の投稿があるだけである。

筆者が当ブログに、杉本が刑事告訴されたことを記す記事を投稿してから、さわやか読者が当ブログを絶えず監視しているが、その顔触れを見ると、嫌になるほど以前と変わらず、結局、こうした異常な読者らも、みな雇われ工作員である様子がよく分かる。

杉本は自分の犯している罪を直視する勇気がなく、それを常に他のクリスチャンになすりつけようとしているだけである。

だが、こうして、杉本徳久の内心が次々と明らかにされることは、非常に神の御心にかなった、喜ばしい事態であると、筆者は考えている。筆者は、まずは杉本の心の底の底までが明らかにされねばならず、彼の運命の救いようがないことが、公然と世に明らかにされなければならないと考えている。

そのために、筆者は彼を試しているのであり、悔い改めるならば、今のうちだと呼びかけているのである。そして、彼がその一つ一つの呼びかけを、ことごとく踏みにじり、嘲り、退けるだけに終わることを、分かった上で、一つ一つ、あえて証明させているのである。それによって、彼の頭上には、燃え盛る炭火がまた新たに一つ一つと加わって行くことになる。

かなり面倒な過程ではあるが、このような行程を一つ一つ経ない限り、戦いは決して最後のステージまで進むことはない。

なぜなら、筆者自身は、この事件の結末がどうなるか予め知っているが、多くの人々はそれを前もって予知できず、説明されたとしても、理解できないからだ。従って、人々の心の準備が、筆者と同じくらいに整えられるためには、まずは踏まれるべき行程がすべて踏まれ、結論の動かしようのないことが、万人の前で明らかにされる必要があるのだ。
 
良識ある人々の中には、最初から誰かに対して手荒な措置に出たいと願うような人間は、一人もいない。他に道がないのかと、誰もがまずは情けをかけようとするだろう。筆者自身とてそういう人間である。だが、事件がエスカレートすればするほど、結局、憐れみをかける余地がないことに、最後には誰もが同意せざるを得なくなる。物事はそのようなレベルまで進んでから、初めて厳しい対処がなされるのである。

そのために必要な行程に、筆者は協力を惜しまないつもりであり、自分の名誉や安寧を惜しむがゆえに、霊的な戦いを中途で終わらせるつもりは全くない。

そこで、この事件がこの先、どう進んで行くか、杉本がどのように反応するのか(村上もだが)、読者はよくよく観察されたい。果たして、見栄だけがすべてとなり、大本営発表のような嘘ばかりを垂れ流し、「嘲りの霊」に支配されているこの人々に、クリスチャンとの和解に応じたり、悔い改めて神に立ち返る可能性がわずかでも残されているのかどうか、徹底的に観察されたい。

筆者自身は、神は彼らの罪を決してお赦しにならないだろうと考えている。彼らはあまりにも罪を犯しすぎたので、後戻りの余地がなく、行きつくところまで行き着いて破滅して終わることしかできないだろうと考える。
 
だが、それが筆者の考えに過ぎないのか、それとも、神の御心がそこにあり、それが動かせない現実なのかは、これからはっきり証明されねばならない。

そのために、この事件については、必ず、神の御心がどこにあるのか、人間的な感情を超えたレベルではっきりと証明されるだろうと筆者は確信している。
 
おそらく、神の裁きは確かに存在するのだということが、公然と動かせない形で世に示されて終わることになるだろうと予測する。

ペンテコステ運動の支持者の中には、「神は愛だから、人を裁いたり、罰したりはなさらない。」とか、「罪を犯しても罰はない」といった寝言のような嘘の教説を未だに信じている人々がいるようだが、それは人を破滅へ導く異端であるから、そのように、自分を救ってくれる贖い主を否定する虚偽を信じてしまった信者の人生は、必ず悲惨な破滅で終わる。

そのための見せしめ事例となるであろうと筆者は予想するのである。

前々からずっと筆者はそう警告し続けているのだが、ペンテコステ運動の信者らはそれを信じようとしない。そして、筆者の警告はおろか、神の福音さえもあざけりながら、それでも、自分たちは正しい道に立っており、キリストの花嫁なのだと豪語している。

そこで、筆者は、花嫁と言っても、すべての花嫁が神の御心にかなうわけではないとあえて言うのである。

美しいウェディングドレスを着て、鏡の前でうっとりと自分の姿に見惚れ、自分はあれやこれやの他人に比べ、格段に美しく優れて賢いと自画自賛するのが、花嫁にふさわしい態度ではないだろう。なぜこの人々は、花婿がまだ到着してもいないうちから、そんなにまで慢心して、自分自身を主役に据えることができるのであろうかと首をかしげるのみである。
 
この先、誰がキリストの花嫁にふさわしいかは、神ご自身が証明される。福音に従わず、十字架を退け、血潮を嘲り、御言葉をないがしろにしながら、自分たちをキリストの花嫁に見せかける「嘲る者たち」に対しては、容赦のない厳しい結末が待ち構えているだけである。

キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びであり、主と共なる十字架の死を経ない者は、己を罪から救うこともできず、旧創造として、ただ神の御怒りと、裁きと、滅びに定められているだけなのである。どんなに被害者意識を盾にとって、感情論を振りかざし、自分を弁護しようとしても、小羊の贖いの血潮を退けた者は、決して罪の判決から逃れることはできず、裁きに定められて終わる。

そのことが、クリスチャンのみならず、この世の人々でさえ、否定できない形で、はっきりと証明されるであろうと筆者は考えており、それだからこそ、この出来事の進展を、よくよくご覧になりたいと言うのだ。このようにまで、確信犯的に悪魔に魂を売ってしまった人々に、もはや後戻りの道はなく、彼らは最後まで、神と聖徒らの憐れみや情けを嘲り、侮りながら、残酷なまでに厳しい教訓的な結末へと自ら転げ落ちて行くだけであることを、よくよく目を開いて見ていただきたいと思わずにいられない。

そして、私たちはそのような事例に倣うことなく、あくまで賢い花嫁として、キリストが来られる時に神に喜ばれるべく、この地上にいる間に、より徹底して神の御前で自分の心を調べてもらい、不純物をろ過されることに同意するのである。

賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストを追求するのか、自分自身を追求するのかが生死を分ける

 今日、キリスト教徒の集まりが、概して、日曜礼拝を一つの頂点として、主義となり、形式となり、規則となり、組織論となり、人間を束縛する枷となって、まことの命の現われを阻んでいる。キリストのまことのいのちを形式によって把握することはできず、それにも関わらず、そのような方法が主流となっているところに、大きな逸脱がある。
 
 だが、そのように抜け殻に過ぎない形式が主流となった背景には、神を信じる人々が、キリストご自身のみを純粋に追及することをやめて、自分自身を高く掲げるようになり、真に代価を払ってキリストに従っていないのに、自分たちの集まりが、あたかもキリストの花嫁であるかのように見せかけるようになったことが挙げられる。

  ある人々は、そのようにキリスト教界がバビロン化したことを糾弾し、「何がエクレシアではないか」を暴くことに熱中している。だが、キリストのまことの命とは、決して、”アンチ・テーゼ”にはとどまり得ない”何か”であるため、どれほど偽物を定義し、暴露しても、それによって本物を生み出すことはできない。

   では、一体、エクレシアとは何なのか、と問うても、それを誰もが分かるように説明することは不可能だ。その本質をまずは自分自身が個人的に体得しなければ、それが何であるか、決して誰にも分からず、形容もできないのが、エクレシアなのである。
 
 多くのクリスチャンが、教会とは、毎日曜日に、同じ地域、同じ時代を生きている者同士が、互いに顔を合わせられる場所に集まって神を礼拝するもの、もしくは、霊的に同じ理解に達している者同士が集まり合うもの、と思っているが、それは途方もない勘違いである。

  また、ある人々は「自分たちこそエクレシアとは何かを知っている」と豪語するかも知れないが、本当にその人がエクレシアの一員であるかどうかを知っておられるのは神ご自身のみである。

  キリストによって新しく生まれ、この新しい命によって生かされる個人個人、またその個人個人の交わりが、集合体としてのエクレシアを形成している。だが、エクレシアは時代を超え、物理空間を超える霊的構成体であるため、必ずしも、この世の同じ時空間を共に生きて、同じ理解を共有している者同士が、互いに顔を合わせ、接触できる形で集まり合うという性質のものではない。
   
 幽閉されていたガイオン夫人や、投獄されていたパウロや、迫害や監禁の中にあった聖徒らは、他の兄弟姉妹と物理的に接触が不可能となっても、依然として、エクレシアの構成員のままであった。しかも、黙示録などを参照するならば、エクレシアは、キリストのまことの命によって新しく生まれ、御言葉に忠実であった聖徒らの時代を超えた総体を指していることが分かる。

 このように、エクレシアはとらえがたく、キリストの命を実際に生きることなくしては決して理解することもできない性質のものであるが、それでも、求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にある通り、私たちが心の底から真剣に求めるならば、必ず、神は誠実にそれに答えて下さり、エクレシアとは何かということをも、啓示して下さるだろう。

  だが、忘れてはならないのは、キリストと共に生きることなくして、キリストの命を味わい知ることは誰にもできない相談だということである。
 
 そこで、キリストを二の次にして、エクレシアを第一に追い求めることには、重大な罠がある。私自身、バビロン化したキリスト教界を脱して、真実なエクレシアを追い求める過程で、常に警戒しなければならなかったことがある。それは、あまりにも多くのクリスチャンが、キリストの御名による兄弟姉妹の集まりを追い求めると言いながら、そのうちに、いつの間にか、追求の対象が、自分たち人間の集まりへとすり替わり、キリストではなく、自分たちの集まりを賛美することが最終目的となって行ったことである。

 主ご自身を切に追い求めると言っていたクリスチャンが、いつの間にか、キリストを退け、「自分たちの集まり」を美化し、肯定し、賞賛し始める。そして最後にはついに、それだけが絶対的に正しいかのように言い始め、そこへ信徒らを拘束し、その団体を離れた信徒を悪魔化したり、断罪するのである。このような堕落は、組織化された礼拝だけでなく、組織化されないクリスチャンの集まりにも同様に起きうる。
 
 私たちが第一に求めるべきものは、あくまで神の国とその義、であって、人間の集まりではない。人間の温もりの中で得られる安心感や、自分たちの集まりを賛美、権威化し、自画自賛の根拠を得るために、エクレシアを利用することは誰もできない相談である。

 そこで、たとえある日、一人のクリスチャンが主に出会って、自分がエクレシアの一員であることを知ったとしても、そのクリスチャンが、ただ主ご自身だけを切に求め、主お一人だけに心を向けることをやめて、自分自身の姿を見つめてそれを賛美し始めた瞬間に、彼がエクレシアだと思っていたものは、ただちに腐敗し、バビロン化し始める。

 私はそのことを深く警戒しており、そのような混合物を求めているのではない、ということを何度でも断っておきたい。

 だが、私が2009年に横浜に来て後、(むろん、それ以前に属していたキリスト教界においては言うまでもないことであるが)、遭遇したすべての出来事は、「エクレシアのバビロン化」と呼んで差し支えない現象ばかりであった。これは今日のキリスト者が遭遇している、想像を超えるほどに大きな危険であり、誘惑であると言える。
  
 一旦、集まりがそのような腐敗や混合を受け入れてしまったならば、その交わりが回復される見込みはほぼゼロであり、やがてそれは偽物のエクレシアとして神の敵と化すだけである。

 そこで、我々は、ある集まりがバビロン化している事実を見わけた瞬間に、抜け殻となった組織や団体を離れ(エクソダスして)、キリストのみを追い求め、主のみに従うために、霊的にまだ見ぬ地へ向かって歩いて行くことが必要となる。

 バビロン化しつつある組織にとどまって、それを是正することはむなしい相談である。そうした試みには全く見込みがない。

 こうして、当初は純粋に神を見上げていたと思えた交わりであっても、時と共に、腐敗堕落して行くなら、そこをエクソダスせねばならず、その過程で、かつては純粋に主に従うことを追求し、人間的な面ではすっかり意気投合していたような兄弟姉妹とも、決定的に道が分かれてしまうことは何度でも起きる。

 多くの人は、そういった離反、エクソダスが行われた過程を見て、「あの人は他の人とうまくやれなかったので、あれやこれやの団体を出たのだろう」と憶測したり、「リーダーにつまづいたのだろう」などとささやいては、その団体は悪くないが出た人に非があるのだと言っては、人間の集まりや群れの中に、あたかも真実があるかのように考え、自分を慰めようとする。
  
 そうした集まりが、交わってはならないものと混合したがゆえに、主のみに従うために、人々が出て行ったのだと理解する者は非常に少ないだろう。

 だが、事実は、多くの場合、そのような単純なものではない。そして、いかなる憶測が生まれようとも、信徒がキリストのみを主人として崇め、従うためには、それが不可能になるほど、被造物に過ぎない人間を高く掲げるようになったバビロンとの混合物としての集会からは、出る以外に手段は残されていないのである。
 
 このように、エクレシアを追求することは、キリストのみを追求し、キリストのみに従うことなくしてはできないため、それは決して人間との交わりを第一として生きることとは相容れず、その点で、人間の交わりを美化することとも異なり、その点で厳しく、険しい道である。

 だが、それも当然であろう。聖書の中で、主イエスは、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえを語られているが、そのたとえにより、花嫁と呼ばれるものが、すべて主の目にかなう存在ではないことがはっきりと示されている。

 花嫁たるものが、花婿だけを一心に見つめることをやめて、花婿が来ないうちに、自分の生活の安寧を打ち立てて満足し、自分の美や賢さを見て酔いしれ、自分の地位は安泰だと思い込み、そこに安住して自分の利益を追求し、自分の栄光を求め始めるならば、その花嫁の心には、もはや花婿は慕うべき存在と映らず、かえって己が権威と栄光を打ち立てるための名目だけの存在となろう。そのような花嫁は、花婿が来たときに、もはや花嫁とは認められない、と言われて退けられるだけである。

 そうなる危険は、形骸化したキリスト教界のみならず、エクレシアを追求するすべての兄弟姉妹に存在する。他者の堕落や腐敗を非難することはいとも容易であり、キリストの名を冠しながらも、キリストの香りを一切失った組織を数限りなく列挙することは容易であるが、神はあくまで一人一人の心に問いかけられ、一人一人の行いに応じて報いられる。

 そこで我々は改めて、キリスト者が追い求めるべきは、花嫁たる自分の栄光ではなく、花婿たるキリストの栄光であるということを、心に焼きつけておかねばならない。人に悪しざまに言われたくないという恐怖感から、あるいは、人とのつながりを失いたくないという恐怖感から、バビロン化した集会にとどまっていても、良いことは何もない。いずれはその崩壊に巻き込まれるだけである。そのような交わりを改善することは、諦めるべきである。

 むしろ、聖書では、愚かな花嫁たちに油を分けてやったがために、彼女たちの怠慢に巻き込まれ、永遠に至る栄誉を失ってはいけないことが警告されている。自分が受けるべき栄冠を失わないように注意を払わなければならないのである。
 
 神の御前での自分の心の透明性、苦難や恥をも厭わず、キリストに従う御言葉への忠実さ、自分の栄光でなく、キリストの栄光だけを求める貞潔さ、といったものが、今日のクリスチャンにはどれほど欠けているであろうか。
   
以下は、オースチンスパークスの「土台のある都」 第八章 都の明かり―命と証しの透明性 (1)から。

聖書朗読:黙二一・一〇~一一、一八、二一、二二・一、ガラ四・二五~二六。

 「透明な」というこの言葉は、これらの節の中に一度ならず現れます。また、例えば「純粋な金」「透明なガラスのような」のように、その同義語も出てきます。これらの言葉は光の観念を示唆します。これらの言葉は、天から出て神から下って来る天のエルサレムに関して述べられている光と関係しています。その明かりは高価な宝石のようであり、碧玉のようです。

 主の天的な民の光について述べるにあたって、私たちは再びとても厳粛で、深刻な、大切な特徴に触れることにします。その特徴には、それに関する途方もない歴史があります。主の民の歴史、そして霊の命の歴史はすべて、光と暗闇、真理と虚偽、純粋さと姦淫・混合、透明性と曖昧さ、開放性と秘匿性の歴史です。この長い歴史を表現するのに他の多くの言葉を用いることができます。この歴史がこれほど長く、これほど多彩なのは、すべて敵の執拗な絶え間ない試みのせいです。敵は、神からのものを疑わしいもの、不確かなものにしようとしてきましたし、絶対的真理、絶対的純粋さ、絶対的透明性というその途方もない力をそれから奪い去ろうとしてきました。

 キリスト来臨の遥か昔に、サタンはこれらのバビロン的要素をこの地上に広めていました。これらのバビロン的要素は、教会が霊的衰退・弱さの状態に陥る時をひたすら待っていました。それはこの霊的団体に襲いかかり、その命を吸い取って損なう寄生虫となる機会をつかむためです。ですから、新約聖書の外に移る前にすでに、霊的に衰退した状況の所では、バビロン的特徴、祭司制度、聖職者階級制度、形式主義、儀式主義、他の多くの事柄――それらはバビロンに由来するものであり、オカルト、秘教、美学の中に見られます――といった状態であることがわかります。これらの観念は今や、ローマの体系全体の総計であり本質です。これらのものはみなバビロンから来たものであり、教会が衰退するのをこの世で待っていました。そして、この衰退が起きるやいなや、教会を掌握して侵害したのです。それらはみな、黙示録の最初の諸章の中に見出されます。また、他の箇所にも、奥義的バビロンのこの宗教性の数々の要素が見い出されます。それらの目的は、直接的・即座にキリスト教を撲滅することや、教会の存在を消し去ることではなく、教会の立場を神の御前で曖昧なものにするよう様々なものを混合させることでした。それは、神が教会をもはや御自分の純粋な花嫁と認められなくなるためでした。


(2009年の記事「エクレシア この不思議なもの」を加筆修正)
  


悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

以上の御言葉ほど、カルト被害者救済活動の支持者らの悪しき心の本性にぴったりと当てはまるものはきっと他にないだろう。

カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、同牧師を支持する杉本徳久のような人々は、これまでプロテスタントの諸教会や牧師やクリスチャンにさんざん言いがかりをつけては、信者らを裁判に引きずり出しては打撃を加えて来た。

しかし、彼らはいざ自分たちが訴えられると、その訴えから全速力で逃走し、自らの社会的信用を完全に失墜させるという醜い逃亡劇を繰り広げている。

以下は、当ブログ執筆者が、村上密および杉本徳久の2名に対し、当ブログが彼らから受けた長年に渡る執拗な嫌がらせ工作に対する民事上の責任を追及するために起こした民事調停の期日呼び出し状であり、裁判所からの正式な召喚状である。

  しかし、すでに述べたように、カルト被害者救済活動の支持者らは、自分たちが行っている悪事が明るみに出されるのを恐れて、光のもとへ出て来て、人前できちんと自分を弁護しようともせず、ただ闇から闇へと逃げ回っている。
   
彼らはこうして闇から闇へと逃走し続けることによって、聖徒らとの和解のチャンスを踏みにじり、自分たちの身にさらなる神の御怒りを招き、厳しい裁きに自分自身をさらしているのである。

筆者は、以上の連中は、出廷の義務がないことを逆手に取り、期日に裁判所にやって来て、きちんとした弁明を行う可能性は極めて低いだろうと予想している。

先の記事でも述べた通り、村上密は、事件を京都に移送しろと身勝手な要求を出し、京都でなければ行くつもりがないと出廷を拒んでいるだけでなく、筆者が送った100頁ほどの申立書に対しても、たった一枚の反駁の答弁書すらも送って来ていない。

筆者の申立書には、当ブログが受けた嫌がらせの経緯が仔細に書かれているため、追って内容を公開する予定であるが、村上はそれに対して、「自分こそ実名で色々書かれて迷惑だ。ここには書ききれない」などと子供じみた返答しかしておらず、こうして具体的な反論がないということは、事実上、筆者の言い分を認めているに等しい。

およそこれまで「被害者の味方」をきどって様々な裁判を戦い通して来た人間の言い分とは思えず、完全に人をなめきった対応であると言えよう。

村上はこうして、自分がこれまで頼みとして来た裁判所からの呼び出しも蹴とばしながら、今やネットの陰に隠れて、コメント投稿欄さえない完全に一方通行のブログで、依然、自分があたかもキリスト教界を取り締まる資格と権限を持つ人間であるかのような(誇大)妄想に基づく恥ずかしい自画自賛の記事を書き連ねている。

村上のそのブログ記事も、昨今は劣化が激しく、まるで引きこもり老人のモノローグ的回顧録や、惰性で書かれた小学生の夏休みの感想文のようになりつつある。

このように、村上密は、反響も得られない自作自演ブログを書き連ねることの方が、裁判所へ出廷して、公の場所できちんと客観的な証拠を提示しながら自分の主張を述べることよりも、はるかに優先されるべき重要課題であるかのように考えているらしいのであるが、こうして自分にとって不都合な事実からはひたすら逃げ続けながら、都合の良い夢想のような見解を並べ、ただ他者を非難するだけのブログに引きこもっている様子を見ると、このようにまで現実感覚を失ったことは、精神の異常さえ疑われてもおかしくないほどの恐るべき思考の退行現象だと言わざるを得ない。

もはやこうなってはカルトを取り締まるどころの話ではないだろう。

村上は、神学校時代に宗教法人法を学び、「その甲斐あって、教会運営の問題を扱う時、教団を越えて取り組むことができるようになった。」などとブログでうそぶいているが、村上がもし宗教法人法の基本的精神をほんのわずかでも理解していれば、諸教会の規則を踏み越えて教会に外から介入することが、いかに宗教法人法になじまない行為であり、憲法上保障された信教の自由の侵害に当たるかは、初歩の初歩として理解していておかしくないはずである。

もちろん、宗教法人法は、世俗的な事柄しか規定しておらず、宗教法人法に限らず、信教の自由に鑑みて、宗教団体の教義について外から介入できる法は存在しない。にも関わらず、村上や杉本が自分の属さない宗教団体の教義が「異端である」とケチをつけて、運営に介入しようとしていることは、それ自体が、信教の自由の否定であり、著しい侵害行為である。

杉本徳久も村上密も、その論理の破綻は明白であり、彼らは一見、法を盾に取って、宗教団体の腐敗の是正を呼びかけているように見えるが、その論をじっくり眺めると、彼らは常に感情論を振りかざしては、「法律が定めている規制以上に厳しい制裁を!」と叫んでいるだけの様子がよく分かる。

たとえば、村上は最新の記事の中で、韓国の摂理の教組が出所したことに触れ、足輪をつけただけでは、宗教団体内での被害を食い止めることができず、「これでは防止にならない。」と言う。

だが、それでは一体何をすれば解決になるのかという問いが生じよう。摂理の教祖を死ぬまで監禁するか、いっそ死刑に処せば、当然、被害はもう発生しないことは明白である。だが、そのようなことが正しい解決方法だと言いたいのであろうか。

村上は、この点に全く答えようとしない。杉本および村上は、常に「被害の防止」を口実にして、法の定めを超えて、もっと厳しい措置をと、法に基づかない制裁を声高に叫ぶ。だが、その一方で、彼らは、なぜ宗教法人法も含め、この世の法は、人間の自由を最大限に尊重し、規制を最小限度に抑えているのか、もっと言えば、なぜ聖書の神が、人間の自由意志を尊重し、罪を犯す自由をも人間に与えられたのか、その意味を全く理解しようとしない。
   
村上密が、他人だけを強制的に裁判に引きずり出しておきながら、自分自身は出廷することから逃げ続けている様子を見ても、村上は、他人には法の定めを超える厳しい制裁を科すことに同意しても、自分自身は法に服するつもりが全くなく、裁きからも逃げ回り、要するに、村上自身は自分だけはいかなる法にも服さなくて良いと考えている様子がよく分かるのである。

村上はこの度、これまでネット上でクリスチャンを貶めるために一致協力して来た杉本徳久をも、弁護することもなく責任を押しつけ、切り捨てようと、「トカゲの尻尾切り」に走っている。

さらに、親分が親分なら子分も子分で、杉本も村上同様に、わざわざ自宅付近の武蔵野簡裁で開かれる期日に出廷するかどうか、期限までに回答もせず、むろん一枚の反駁の答弁書も出さず、ただ逃げ回っている。

読者はこの有様をよくよく見てもらいたい。これが、これまでプロテスタントの諸教会のカルト化を取り締まるなどと豪語しては、諸教会に自ら裁判を起こし、名を売って来たカルト被害者救済活動の支持者らたちの責任のなすりつけ合いと醜態なのである。

これまで正義の味方の仮面をかぶって活動して来た彼らの内心が、どれほど卑怯で、臆病で、利己的で、二重性を帯びているかがよく分かる行動であろう。要するに、彼らは、他人にだけは極めて厳しい基準を振りかざし、他者だけを裁きながら、自分自身は一切、法に服する姿勢が欠落しており、自分自身の犯した行為についてふさわしい裁きを受けるつもりもない様子がよく分かるのである。

もしも彼らがこれまで述べて来たように、筆者の主張が不当であると言いたいならば、公の場所へ出て来て、十分な証拠を用意して反駁すれば良いだけの話であるが、彼らには決してそれはできまい。

なぜなら、筆者が述べていることは、何ら不当な主張ではなく、彼らにはそれに反駁できるだけの証拠がないからだ。第三者の前に双方の言い分を持ち出せば、どちらに信憑性があるかは明らかだ。従って、彼らは、己が罪を認めないためには、どこまでも逃げ回るしか残された道がないのである。

また、杉本と村上は、これまで様々なクリスチャンに訴訟を吹っかけては、裁判資料という形で、クリスチャンの個人情報を強制的に収取し、嘲りの対象として来た。そういう醜悪な過去があるのだから、彼らはこの先、自分たちがクリスチャンの呼び出しに応えて裁判所に赴けば、したたかな反撃を受けると分かっているはずだ。

彼らは、自分たちがこれまで信者らに対して犯して来た悪行の罪深さを分かっていればこそ、信者からの反撃怖さに、決してこれから先、公の世界に出て議論はできないだろうと筆者は予想する。

まさに、悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。と聖書が言う通り、闇へ闇へと逃げて行くしかないのである。

こういうわけで、村上や杉本のようなカルト被害者救済活動の支持者らは、今回の民事調停に出廷しようとすまいと、この先、二度と自分から教会や信者らに対して裁判を起こすことができなくなるだろうと思う。

他人だけは率先して裁判に訴えるが、いざ自分自身が訴えられると、逃げ回り、「市民社会の一員」として、全く責任ある行動ができない幼稚な大人たちが起こす裁判など、あまりにみっともなく情けなく恥ずかしいため、今後、誰一人として見向きもせず、取り合いもしないからである。

かつて杉本は筆者に送りつけたおびただしい数の恫喝書簡の中で、「ヴィオロンさん、いつまでも逃げ回っていないできちんと対処して下さい!」とか「市民社会の一員としてふさわしい行動を!」などと叫んでいたが、自分ができもしないことを他人に要求するなど、おこがましさの極み、呆れるばかりである。

さて、当ブログには、杉本と思しきIPアドレスから最後にアクセスがあったのは、お友達の工作員仲間が懸命に検索結果の操作にいそしんでいた以下の深夜の時間帯であり、それ以後、同IPアドレスからは、当ブログへのアクセスは行われていない様子である。

それを見ても、杉本は筆者が武蔵野へ赴くことを極度に恐れており、自分にこの先、降りかかろうとしている災難を直視する勇気もなく、この事件から逃げられるだけ逃げのびようと決めて、すでに武蔵野からも逃走している可能性さえ思わされる(むろん、事実は神のみぞ知るだが)。


 杉本と思われるIPアドレス
 
<追記>本記事の投稿後、本人登場。
この先、どこへも逃げようはありません。



だが、そのようなことも初めから織り込み済みである。刑事事件になっている以上、わざわざ自己弁明の機会も棒に振って逃げ続ければ、この先、ますます不利で厳しい結果がふりかかることになるだけなのだ。

刑事事件に関してネットに出回っている情報は、とにかく早期の対応、早期の弁護が重要だという弁護士の助言ばかりである。これは早い段階で、本人が真摯な反省の態度を示し、社会人として、信用の置ける責任ある行動を取り、事態を収拾するために必要な努力を払い、自分で自分を弁護しようと懸命に努力することが、たとえ罰を逃れられない場合であっても、罪の軽減のために、どれほど重要な決め手であるかをよく物語っている。

それを親切にも与えられた自己弁護の機会を理由もなく蹴って出廷もせず、証拠を出して反駁もせず、自分の行為に一切の責任を取らず、ブログの削除もせずにただ逃げ回っているだけとあれば、当然、極度に心証が悪くなって行くのは避けられない。

おそらく、杉本は良心的でまともな弁護士に助言を求めなかったものと想像される。何度も言うように、きちんとした弁護士がついていれば、自らを弁護する絶好の機会が与えられているのに、裁判所に赴かないようにといった言語道断な助言を行うことは決してなかったであろう。

杉本はこれまで、筆者が「カルト被害者を冒涜した」とか、当ブログの記事が自分への誹謗中傷であるとか、正当な根拠もないのにさまざまな言いがかりをつけては、筆者を脅し、筆者から杉本を訴えるようにと、身勝手な要求を突きつけ、ソーシャルワーカーであるにも関わらず、自身のブログで、社会的弱者の困窮状態を上から目線であざ笑いつつ、筆者に弁護士を通して連絡を寄越せと、再三、一方的に要求して来た。

だが、そうして人を脅し続けた杉本に、果たして、自分が訴えられた時にきちんと弁護士を雇う経済余裕があるのかどうか、それはこれから杉本自身が証明せねばならない。

目下、杉本は、弁護士からの書面はおろか、自分自身の答弁さえ、裁判所が定めた期限までに送って来ないのだから、眩暈がするような自己矛盾である。どこまで自分の述べた言葉に責任を取ろうとしない卑怯者なのかと呆れるのみだ。

他人には最大限の手間と出費を要求しておきながら、自分自身は、自己を守るためだけにも、ほんのわずかな労をさえ厭うのである。こんなオブローモフ主義者のような不精者のために本気で弁護する人間が現れるとはとてもではないが思えない。

ちなみに、無精者オブローモフは、聖女のようなオリガにも、愛想を尽かされ、立ち直りは不可能との烙印を押され、見限られた。杉本もグレゴ氏とよく似たような将来が待ち受けているのではないか。自分が破滅に瀕しているのに、自分の問題を棚に上げ、他人の問題ばかりに首を突っ込み、他者の立ち直り云々を論じようとすること自体、あまりにおこがましく、僭越で、見当違いである。

杉本は今後の自分の人生の更生のためにこそ、すべての労力を注ぎ、自分の人生に降りかかろうとしている災難を思って泣き叫ぶべきであろう。

何度も言うが、これが、今まで「カルトと勇敢に戦う正義の味方」を演じながら、諸教会に裁判を吹っかけ、あたかも被害者を救うために、不当な濡れ衣を耐え忍んでいるかのように演じて、世間の同情票を乞い続けて来た者たちの惨めで哀れな末路なのである。

あまりにもみっともなく、情けなく、目も当てられない醜悪としか言えず、この醜い逃亡劇と罪の擦り付け合いにより、彼らには、戦う前からすでに敗北と裁きが確定していると言えよう。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」

「信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

さて、以上の図は「刑事事件弁護士ナビ」から転載したものであるが、杉本はこの先ニュッサのグレゴリウス氏(それにしても異常なペンネームだ)と同様の行程を辿ることになる。以上の図を参照すると、グレゴリウス氏が不起訴になったのは、勾留後のことであり、この段階で、(Dr.Lukeが書いている内容によると)、グレゴ氏の主治医が心神喪失を主張したことが、不起訴へ向けて決定的影響を与えたと思われる。

お騒がせ者のグレゴ氏のブログは、すでに正式に削除されたようだが、そこには当時、同氏の破綻した生活状態や、仕事に就けない無念、同居人から責め立てられるなどして肩身の狭い思いをしながら暮らしていることの愚痴が延々と綴られていた。Webに残っている情報によると、不起訴になった後でも、以下のような愚痴が書き連ねられていたようである。

「 2011/4/21 4:13

 今だから書くが、私は不起訴になった。

 けれど、このことは精神的、社会的、経済的に、徹底して崩壊させた。未だに人のたくさんいるところはこわくて冷や汗が出る。友人はひとりを残してみな逃げ去った。仕事を失い、得る見込みもない。もはや、ホームレスになるかわからぬ明日をも知れぬ我が身である。けれど、これらの惨憺たる状況のなかで、しみじみと・・・(*続きは本文にて) 」


グレゴ氏の文章は常に大袈裟で誇張された表現に満ちていたため、どこまで本当なのかも判別がつかないが、それでも、この記述は、嘘とは言えないであろう。不起訴になっても、これだけの害が降りかかるのだから、起訴されて有罪になった人物は、一体、どれほどの損失をこうむるのであろうか。

それが予想されればこそ、筆者はこれまで再三、カルト被害者救済活動の支持者の陣営に、和解を呼びかけ、自己弁明の機会や、悔い改めのチャンスを提供して来たのである。

だが、筆者が思うに、おそらく、彼らはそうした機会を決して有益に活かすことなく、ことごとく踏みにじり、悪用することしかできまい。筆者は前々から、神は彼らが情状酌量の余地を徹底的に遠ざけ、最も厳しい結末を選ばせるのではないかと考えている。

なぜなら、彼らはもはや引き返せる橋をとうに超えてしまっているからだ。彼らは神の教会と全クリスチャンのみならず、神ご自身を敵に回しながら逃亡しているのである。

しかし、筆者自身は、彼らがどのように行動するかに関係なく、あくまで光のもとに出て行き、神と人との前で公然と恥じることなく自分の主張を提示し続けるつもりである。そうして、筆者が単なるポーズとしてではなく、事実、最後まで彼らに扉を開き、和解の呼びかけを続けたことが公然と証明されよう。

カルト被害者救済活動の支持者らは、せっかく与えられた猶予や、弁明の機会や、人の憐れみや情けをとことん踏みにじり、その当然の報いとして、最も厳しい結果を身に受けることになるのである。

さて、グレゴ氏は、当時、Dr.Lukeから受けた「呪いの予言」が、自分の人生を破滅させたのだと主張していた。カルト被害者救済活動の支持らは、今になってもまだ、グレゴ氏が破滅したのは、Dr.Lukeのせいであると言って、グレゴ氏を被害者にしたいと考えているのかもしれない。

だが、筆者に言わせれば、それはDr.Lukeのせいにして済まされるような問題ではない。グレゴ氏がDr.Lukeに勝てなかったのは、グレゴ氏が悪魔の言いがかりに対して全く無防備で、御言葉によって装して、毅然と立ち向かう姿勢を全く見せなかったことの当然の結末である。

我々はクリスチャンとして、あらゆる方面から、不当な言いがかりや非難に直面する。それは悪魔や、その手下となった詐欺師連中からやって来る時もあれば、仲の良かったクリスチャンの兄弟姉妹から来る時もあろう。しかし、誰からどのような非難を受けようとも、それに対して、我々は最後まで神の義に堅く立って、御言葉によって武装し、血潮と、信仰の守りの盾によって、悪魔の放つ罪定めの火矢に対抗し、防戦し続けなければならない義務を負う。

我々を弁護して下さるのは神であり、聖霊であり、御言葉が我々の武器であり、信仰が守りの盾であるが、我々自身がキリストの贖いによって義とされたという確信に揺るがされることなく立ち続けないことには、神でさえ我々を弁護できないからだ。

そこで、我々は自分がどんなに不完全であるように思える時にも、信仰によって神の完全な武具を着て、暗闇の勢力を相手取った戦いにおいて、完全な勝利をおさめねばならない。

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

筆者は、杉本が当ブログにしきりに言いがかりをつけては刑事告訴すると恫喝していた頃、幾度となく、以下の聖書の御言葉を引用し、彼の悪しき計画は成就しないと予告した。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、地のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

キリスト者にはこうして力強く絶大な勝利が約束されている。御言葉に従い、神のうちに隠れることさえできれば、無敵といっても良い権限が与えられているのである。

にも関わらず、クリスチャンを名乗っている者が、自分で自分を被害者だと主張して、不当な言い分を反駁もせずに受け入れ、いわれのない罪定めや呪いの言葉を退けもしないならば、そのような臆病者は、悪魔と暗闇の勢力に思う存分弄ばれて、被害の上にも被害が増し加わり、果てしなく人生の重荷が増し加わって行くだけであろう。

このようにして、信者は常に問われている、自分のせいで生じたのではない、自分では負うこともできない罪の負債を、自分で背負おうとして破滅するのか。それとも、キリストがすでにすべての罪を十字架上で負って下さった以上、もはや自分で重荷を負い続けることは必要なく、罪は自分から取り除かれたものであるとみなし、私たちのために日々重荷を担われる方にその荷をお任せするのか。

カルト被害者救済活動の支持者らの中には、自分の抱える「生きづらさ」を何とか克服しようと、「カウンセリング」を通して自分自身を粘土のようにこね回しながら自己改善に取り組んでいる者たちがいる。

だが、そのようにして彼らが自分の重荷を神に委ねようともせず、そうした重荷をもたらした主たる原因である悪魔を糾弾することもせず、むしろ、悪魔が押しつけて来る「生きづらさ」を、まるで自分自身の責任であるかのように抱え込み、蟻地獄の中でもがくようにもがきながら、絶えず、その重さに下へ下へと引っ張られ、それでも自分は他の誰かに比べて少しはましな状態になり進歩はあったなどと気休めを言っている時点で、彼らはすでに悪魔の術策にすっかりはまってしまっていると言えよう。

そういう問題は、もともとすべて人間の手に負えるものではなく、どんなに努力を重ねてみたところで、人が自分で改善などできる問題ではないため、我々はそうした重荷を一刻も早く自分自身の手から切り離して、我々自身の古き自己と共に、キリストの十字架の死に渡すべきなのである。

にも関わらず、自分を被害者だと主張している人々は、悪魔の押しつけて来る不当な重荷を自分のものであるかのように受け入れ、その責任を引き受けているわけであるから、これでは戦う前から敗北を認めているのと同じである。

本当は、その重荷は、クリスチャンには負う義務もないため、敵に背負っていただくのが正しい処置であると、気づかなければならないのである。暗闇の勢力はやり方が汚いため、次々と不当に押しつけられる「生きづらさ」を、クリスチャンが自分のせいで起きたことのように考えて対処しようとしていれば、雪だるま式に負債が膨らんで、気づけば負いきれないほどの巨額のマイナスが生じるだけである。

そこで、クリスチャンは、誰からどんな「被害」を受けようとも、決してそこで生じた「マイナス」を自分のものとして主張してはならない。ただ聖書の御言葉に基づき、その「損害」を毅然と跳ね返し、それが自分には決して害を及ぼす力を持たない虚偽でしかないことを公然と証明すべきなのである。

クリスチャンにはどんな状況にあっても、主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)と宣言できる特権を与えられており、また、そう宣言すべきなのである。

わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23:5-6)

そこで、筆者は、今回、村上密・杉本徳久の両者による悪事を世に訴えて責任追及しているとはいえ、彼らが出廷もせず、最後までこの呼び出しを嘲り、踏みにじったとしても、だからと言って、筆者の生活はそんなことではいささかも影響されないと断っておく。

筆者の生活の守り主は神であり、その生活は、悪党に依存しなければやっていけないような弱々しいものではない。神はこれまで常に筆者の生活を守って下さったが、この先も、筆者を守り、かつ、栄えさせて下さる。キリストの御言葉に堅く立つ者の足は、よろめくことなく、遠く遠くまで歩いて行くことができる。

最後につけ加えておきたいが、先の記事にも記したように、Dr.Lukeが2010年8月29日にグレゴリウス氏へ送った以下の和解の呼びかけ「雲さんへの伝言 」は、筆者がDr.Lukeの書いた文章を土台にこれを大幅に加筆修正して作成されたものである。

当時、Dr.Lukeはこの呼びかけを見て「よく見れば唐沢文体でないことはすぐに分かる」と言っていたが、これは合作というよりも、むしろ、筆者の文章と言うべきである。(ちなみに、これ以外の用件で、筆者がゴーストライターのような仕事をしたことはない。)

以下の文章を改めて読めば、グレゴリウス氏の非がどこにあるために彼が自己防衛できなかったのかが明白に分かるだろう。Dr.Lukeがどれほど心理操作に長けており、グレゴ氏と最初から和解する気がなく、ただポーズのためだけに和解を呼びかけ、筆者の文章を利用したのだとしても、それでも、この呼びかけの中には、決してDr.Lukeのせいにして済ませられない決定的に重要な要素が含まれている。

それは、この呼びかけの中で、グレゴ氏が、Dr.Lukeとかつて「主の御名によって」また「血潮によって」和解した事実があったのに、それを自ら反故にしたと記述されていることである。この呼びかけで、Dr.Lukeはグレゴ氏にもう一度、「キリストによって結ばれた兄弟同士として」「二心を廃し」、「キリストの血潮に立って」、和解を呼びかけている。

Dr.Lukeがこの呼びかけを筆者に推敲させたのは、おそらく、Dr.Lukeの心の中に当時から欠けていた真実な信仰と誠心誠意を補うためだったと推測されるが、とにもかくにも、Dr.Lukeはこうして筆者を利用することにより、実際に、御言葉によって自分の主張を武装することに成功したのだ。

その時点で、Dr.Lukeはグレゴ氏に比べて圧倒的に有利に立ったと言えるかも知れない。御言葉に対しては、御言葉をもってしか応戦することはできず、相手の主張を粉砕できるだけの、より強度のある論理が必要となる。その場合は、信仰対信仰の対決になる。

我々が注意しておかねばならないのは、人間的な感情の対立や確執のレベルで、信者同士がどれだけ対立しても、それだけならば、痴話喧嘩のような話でしかなく、誰の人生にも重大な影響は及ぼさないが、その紛争に聖書の御言葉が関わって来ると、その対立は人間的な対立を超えて、霊的次元の対立にまで発展する危険をはらむことである。

クリスチャンを相手取った紛争で、どちらか一方が、聖書の御言葉によって固く武装しているような場合には、よくよく注意しなければならない。なぜなら、その人間の呼びかけにどのように反応・応答するかが、対戦相手の人生を決めてしまいかねないからである。

この点こそ、信仰を持たない者が、クリスチャンを相手取って争う際に、最も気を付けねばならない点なのであるが、不信者には決して理解することができないがゆえに、不信者にとって巨大な罠となる点なのである。

不信者は、みすぼらしく弱々しく疑わしそうに見えるクリスチャンを相手に争う際、まさか自分の目の前にいる人間が、単なる人間ではなく、神が弁護しておられる聖徒なのだとは気づかない。そして、人間的な確執や対立の次元で衝突しているつもりでいるうちに、いつの間にか、永遠の領域で決定的に自分の利益を損う重大な過失を犯してしまいかねないのである。

不信者は、信仰がないゆえに、信者を相手取った戦いの恐ろしさが分からず、その背後に神がついておられる信者を侮辱したり、敵に回したりすると、一歩間違えば、この世だけでなく、来るべき世においても、破滅に至ることの恐ろしさが分からない。

だからこそ、筆者は何度も、カルト被害者救済活動の支持者らが、神の教会やクリスチャンを相手取って争い続けることの恐ろしさを述べて来たのである。そういうことをしていると、その者は、いずれ神ご自身を敵に回すことになると。

長いが、当時の和解の呼びかけを引用しておこう。

「雲さん、もう一度、あなたに呼びかけたいと思います。あなたがどこかでこの文章を読んで下さっていることを願いつつ…。

雲さん、もしも、あなたがこの文章を読まれたなら、ぜひ、私とお会いしていただきたいのです。直接、私に連絡しづらいのであれば、山谷少佐を通じて、連絡して下さっても構いません。

なぜ私があなたにお会いしたいのかと言えば、会って、事実関係について、あなたを責めるためではありません。二人で話し合いをして、何とか全ての誤解と行き違いを解き、あなたと合意に達し、以前のような、キリストの御身体に属する兄弟同士としての、親しいお交わりを回復できないかと願っているのです。

雲さん、私も今、あなたと同じように、時の人となって騒がれています。Dr.Lukeは数え切れない中傷を受けて、衆目にさらされており、もはや地に落ちて、泥まみれになっているも同然なのです。ですから、雲さんの置かれている現在のつらい心境が、私に分からないわけではありません。

それでも、私が雲さんにどうしても出て来ていただき、私に会って欲しいと願うのは、何とかして直接、雲さんの真のお気持ちを確かめられないかと思うからです。

事実関係について触れるつもりはないと言いながら、細かいことを振り返るのを許して下さい。私にはどうしても腑に落ちないことがあります。2004年10月、あの掲示板で、二人は和解できていたものと、私は思っておりました。雲さんが追い詰められていたので、見るに見かねて、私が掲示板に登場し、あなたが傷つけられたと感じられたその思いは理解しました。そこで、私はあなたの求めに100%応じて、謝罪いたしましたね。「私の裁きをあなたに委ねます」とも書きました。

あなたは「主の名によって赦します」、と言って下さり、すぐにあなたから長いメールがありました。「こちらの気持ちを書かせていただきますね…」と、心中を率直に吐露して下さり、最後に、「私にとってあの謝罪で十分です」と、結んで下さいました。あなたとの交わりが回復されて、私はとても嬉しく思いました。

さらに、2005年5月、雲さんからメールをいただきましたが、その中では、今度は、雲さんの方から、あの時はご自分が悪かったと、丁重に謝罪して下さり、祈りの要請もして下さいました。私はあなたが赦して下さったことを感謝しています、とお答えしました。すると、神は別の次元に導いてくださった、と喜びの報告を下さいましたね。

そして2006年10月には、私が旧いブログで、上記の件について証した際、あなたの方からコメントを下さり、

「私がその当事者です。あの時は、Lukeさんが和解の手を差し出してくださり本当に感謝しております。また、私もキリストの血のゆえに赦してくださったこともありがとうございました。そのために、私は恨みと苦き思いから解き放たれて神の愛の道を再び歩むことができるようになりました。LukeさんとKFCの愛する兄弟姉妹たちに、さらに豊かな祝福がありますように。」

「また、エタさん、本当にありがとうございます。機会があれば、と思います。いまだ、御心配されている方々がいるとのこと、心動かされます。本当に、多大な御迷惑と心痛をおあたえして申し訳ありませんでした。どうぞ、皆様によろしくお伝えください」

と、書いて下さいました。私はあなたの証を本当に嬉しく受け止め、キリストが十字架で流された御血によって、私たちは敵対を解かれ、すっかり和解できたのだと思っておりました。

ところがこの和解について、あなたは後になって、杉本氏のブログの書き込みの中で、これはただあなたがフリをしただけだったとして、和解は本心ではなかったかのように、反故にされ、その上、Dr.Lukeによって、この話が「美談にされている」と、揶揄されました。まるでこの和解が、私の一方的な作り話であったかのようにです。

けれども、同じ2006年11月に、私の旧いブログ上で、あなたはこのようにも書いておられます。

「Commented by Luke 2006年11月16日(木)07:14山谷スレは凄いことになっていますね。ところがうれしい記事を見つけました。雲さん、まだ来てくださっていますか?おめでとうございます^^あなたの論にアーメンですよ。

Commented by 雲 2006年11月16日(木)08:02ありがとうございます。今年3月に結婚しました。山谷少佐の件は黙ってられなくて発言してしまいました。お恥ずかしい限りです。

Commented by Luke 2006年11月16日(木)12:25これはうれしいご報告です^^ずっと気にしておりましたので、感謝です。彼女も私のことを赦してくださるとうれしいのですが。

God bless!

Commented by 雲 2006年11月16日(木)14:43もう赦していると思います。KFCとLukeさんにますます主の祝福がありますように。」

これにも、私は大いなる喜びを覚え、祝福しました。

それから、最後に私があなたがたと接触したのは、2007年7月のこと、彼女の方からも、自分たちをおゆるしくださいとメールをいただき、私は「もうゆるされています」と祝福をお祈りしました。

ですから、その後、私はてっきり、雲さんは幸福な生活を歩んでおられるものと信じて喜び、安心しきっておりました。ところが、杉本氏のブログにあなたが書かれたコメントを通して、あなた方が予想外の状況にあることを知り、非常に驚きました。また、和解はフリだったので反故にすると、一方的に書いておられたので、これにはとても困惑せずにいられませんでした。

雲さん、あなたは掲示板で、「主の名によってゆるします」と言って下さり、メールで、「公の和解は神の前での和解」と言って下さったのです。さらに、私の旧いブログ上では、「キリストの血によって」とまで書いて下さっています。

この言葉を正直に受け止めるならば、あなたは、主の御名と、キリストの御血によって語られたご自分の言葉を、後になって、あれはただフリをしただけだった、と反故にしたことになります。雲さんはよく言っておられましたね、あなたの最も嫌いなものは、「二心」であると。偽善や、二心を嫌っておられた雲さんなのに、なぜキリストの御血によって語った言葉を、反故にできるのか、私にはあなたの思いがどうしても理解できないのです。

雲さん、この点について、何か行き違いや誤解があったのでしょうか?私が知りたいと思っているのは、本当に、これらすべては、あなたのフリにだったのかどうかということです。あなたとすっかり和解できていたと思っていたのは、私一人の思い込みでしたでしょうか?もしも、あなたがおっしゃるとおり、それがフリだったのだとしたら、それがあなたにとっての真実であるとして、私は受け止めたいと思っています。

ですから、あなたの本心を正直に教えて欲しいと願います。それとも、あなたには、この他に、何か私の知らない、別なわだかまりや、不満があって、それを私に伝えたいと思って、このような方法を取られたのでしょうか?私はあなたの本当の気持ちを聞かせていただきたいと思っています。どうぞ、直接、私に会って、正直な気持ちを語ってくれませんか。

また、雲さん、あなたは公の場において、ウォッチマン・ニーや、私の教えは、カルトであり、ホラー以外の何ものでもないとおっしゃいました。それはきっと、私には分からない、あなたなりのお考えに基づいて、これ以上、この教えにはまる人々が出ないように、つまり、キリストの御体が損傷を受けないようにと、警告を発せられたおつもりだったのだろうと思います。

もしも、あなたのおっしゃるように、ニーや私が、主の御体に対して、損傷を与えるのでしたら、私はいつでも降りるつもりです。正直なところを申し上げれば、兄弟姉妹は、もう自立して歩んでおられますし、私という存在は、必要不可欠な存在ではなくなりつつあると言っても、過言ではありません。今、私はただ主の御体にある一人として、何らかの形で、兄弟姉妹に仕えたいと願っているだけです。

もしも私に改めるべき点があるならば、改めなければならないと考えています。ですから、何を根拠にして、あなたがニーや私の教えをカルトとまで主張しておられるのか、率直なご意見を、忌憚なくお聞かせいただきたいと思うのです。このことについて、どうかあなたの思いを直接、私に語っていただけませんか。

雲さん、あなたはご自分の主張を一方的に展開された後、私との対話の場を設けることなく、篭ってしまわれました。もしも、二人が直接、話し合うことなく、このまま時だけが経っていけば、互いの思いのずれは、どんどん大きくなっていき、和解はますます難しくなっていくような気がいたします。願わくは、今のうちに、あなたと以前のような交わりを取り戻せたらと、私は願っております。もしも何か私の知らない誤解や、わだかまりがあるならば、主が私にそれを知らせて下さいます様に。そして、何とかしてそれを解き、兄弟の絆を取り戻すことを祈ります。

雲さん、もしこの呼びかけに、あなたが心を開いて下さり、私との対話を望んでいただけるなら、まずは雲さんの方から、ぜひ私にご連絡をいただけませんでしょうか? 私は雲さんご自身の口から、直接、この事件について本当のお気持ちを語っていただきたいと願っています。」

筆者は、以上と同様の呼びかけを、当時、杉本徳久に対しても「Sさんへの手紙」としてしたためたが、杉本も、グレゴ氏と同様、決して和解の呼びかけに応じようとはせず、自らを弁護する道を退け、杉本は特に与えられた和解のチャンスさえも嘲りながら、クリスチャンを憎み、侮辱し続ける道を自ら選んだ。

こうした和解の呼びかけには、脅しの文句の一つも含まれておらず、完全に相手の自由意志に委ねようとする謙虚な内容であるため、無視することも、踏みにじることも、簡単にできよう。

しかしながら、その呼びかけの中には、キリスト者であれば、絶対に無視することのできない、いくつもの重要なポイントが含まれている。信仰者であれば、それに応答しないわけにいかないことがすぐに分かるはずだ。

そこには、キリストの流された血潮に対して、主の御名に対して、聖書の御言葉に対して、キリストの御身体に対して、どのように関わり、どのように応答するのか、といった問いかけが含まれている。信者が、こうした問題をはっきりさせないで黙っておくことには、永遠のリスクが伴う。

にも関わらず、ただ呼びかけを行った人間が嫌いだとか、応答する気が起きないといった人間的な動機で、呼びかけを拒否するにとどまらず、そこに含まれているキリストの血潮、主の御名、御身体を嘲り、踏みにじる行動に及んだなら、その人間は、ただあれやこれやのクリスチャンを侮辱しただけには終わらず、永遠の領域において、神に対して赦されない冒涜行為を犯してしまう危険が生じるのである。

人間的な対立であれば、いくらでも撤回や謝罪や和解が可能である。しかし、信者を名乗っていた人間が、自分を罪から贖う小羊の血、すべてにまさる権威である主の御名、キリストの花嫁であり、御身体なる教会を嘲り、踏みにじると、その者は、自分で自分の救いを退けたことになるため、人間的な確執や対立をはるかに超えた霊的次元で、神ご自身を敵に回して破滅するという結果になってしまうのである。

ここにクリスチャンや教会を相手取った戦いのはかりしれない恐ろしさがある。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
「主はその民を裁かれる」
と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)

おそらく、杉本徳久はグレゴリウス氏の場合よりも、さらに悲惨かつ深刻な形で、自分自身の救いを退け、自分のための贖いを否定するのではないかと思われる。

2010年当時から、杉本がDr.Lukeから受けた民事提訴の予告をどれほど内心で恐れていたかは、ブログを通してはっきりと読者に伝わっている。当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたDr.Lukeには、杉本を提訴することが十分に可能であった。Dr.Lukeがそれに踏み切ってさえいれば、争いは早期に終結していた可能性が高い。

だが、Dr.Lukeはグレゴ氏に対する和解の呼びかけも筆者に推敲させたくらいなので、杉本の不当な主張に断固立ち向かって勝利をおさめることが、クリスチャンとして当然の責務であるという考えはなかったのであろう。結果として、偽預言者と呼ばれても、その汚名を晴らそうとしなかった。

そこで、筆者がその跡を継いで、杉本が当時から恐れていた事柄を実行している。いや、Dr.Lukeが当初から筆者の名を引き合いに出して杉本に提訴の予告を行うなど、筋の通らない主張をしていたことを考えても、おそらく、杉本に引導を渡すことは、最初から筆者の仕事だったのではあるまいか。

だが、筆者は、杉本が今回の調停に応じなければ、この先、杉本を「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言われる方に、直接、引き渡す。杉本は暗闇に引き渡され、その後、筆者が自分で杉本に向き合うことはおそらくもうないであろう。

ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

筆者はこれまでカルト被害者救済活動の支持者らが、常に人の情けや憐れみを悪用し、どれだけチャンスが与えられても、決して光の方に来ようとせず、罪を悔い改めようともしなかったことを知っている。だから、そうした性質がこの先、変わるという楽観を筆者は持たない。彼らはあまりにも心を頑なにされているため、悔い改めることも、和解することも不可能な地点にいるのではないかと、最悪の予想をしている。だからこそ、この事件の結末は彼らにとって非常に厳しいものとなると考えられるのだ。

杉本はこの事件から逃げたつもりでも、やがて「生ける神の手に落ちる」ことになる。それは恐ろしい事態であり、そんな事態になるくらいならば、まだ筆者と直接、向き合っていた方がはるかにましだったと後になって分かるであろう。

こうして、自分を贖って下さった御子を足蹴にし、自らの罪を清めた血潮を汚れたものとし、聖霊を冒涜する者の末路は、非常に恐ろしいものとなる。

「神は愛だから誰をも裁いたりなさらない」などとうそぶき、カルト被害者救済活動に賛同していた者は、この活動の支持者らが今後どういう末路を辿るのかによくよく注目されたい。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)


聖なる都よ、さめよ、力をまとい、美しい衣を着て、ちりを振るい落として立ち上がれ!

シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。
 割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。

 
捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。


 
主はこう言われる、「あなたがたは、ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。

 主なる神はこう言われる、「わが民はさきにエジプトへ下って行って、かしこに寄留した。
 またアッスリヤびとはゆえなく彼らをしえたげた。
 それゆえ、今わたしはここに何をしようか。わが民はゆえなく捕われた」と主は言われる。

 主は言われる、「彼らをつかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。
 それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」。

 よ
きおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、

 シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は
 山の上にあって、なんと麗しいことだろう。

 
聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。

 彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。

 エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。
 主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。

 
主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。

 地のすべての果は、われわれの神の救を見る。

 
去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。

 その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。

 あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。
 主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。

 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、
 その姿は人の子と異なっていたからである――

 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。
 それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。
 (イザヤ52章)

 この箇所は、これまでにも当ブログでは霊的なエクソダスの瞬間に幾度となく引用して来たが、今再びこに引用しておきたい。

 以上は「聖なる都エルサレム」への呼びかけであるから、象徴的にはエクレシアへの呼びかけを含んでいると受け取って差し支えないものと思う。

 激しい霊的な戦いがあったが、決着はすでについており、それはまもなく天から地に引き下ろされる。

 無割礼の者、贖われない者、キリストの救いにあずからない者たちが、エクレシアを蹂躙した月日は終わり、彼らは出て行き、キリストが教会のかしらとして栄光のうちに支配される。キリストこそ教会の真の主人であり、その真の主人が、あるべき地位を取り戻されるのである。
 
 「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:7)

 悪魔の不当な言いがかりには徹底的に立ちむかわねばならないが、聖徒らが真に穢れた者と分離するなら、悪魔は聖徒らの反撃にたじたじとなって、自ら逃げ去って行くことになる。

 そうして、教会が回復される。不法者に蹂躙されて荒れ果てていた都も、聖なる都として美しい衣をまとい、新たな力を身にまとって、高貴な姿で立ち上がる。荒れ果てた場所はきれいに修復され、不法と搾取は終わり、嘆き悲しみは去る。
 
 決着とは以下の通りである。

 「見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。 」
   
 もちろん、「わがしもべ」とは、直接的にはキリストを指す。十字架において、人々に蔑まれ、罵られ、拒絶され、顔立ちや姿が損なわれるほどに痛めつけられ、死に渡されたキリストが、しみも傷もない完全な復活の姿で現れ、天にまで挙げられ、神の右の座に就き、栄光をお受けになることを指す。

  だが、そのことは、主イエスを指しているのみならず、主に従う我々全てのキリスト者をも含んでいる。

  我々は、主が苦しまれたと同じように、地上での苦難を通して、天の偉大な栄光にあずかる。キリストの死と同形化することによって、キリストの復活にあずかり、キリストをかしらとする教会として、キリストと共に天に座する。

 天の権威と栄光が、この地上にも反映し、我々はこの地上を歩んでいる間にも、天に備えられている御国の前味わいにあずかり、栄光の前触れを見て、喜び楽しむ。

  他方、神の義に悪質に逆らい、人間の肉なる自己と、人間の義を掲げるカルト被害者救済活動は、間もなく終焉を迎える。

  これはもともとキリスト教とは本来的に何の関係もない運動である。

  教会で受けた「被害」なるものを主張して、教会に争いをしかけることや、受けた「被害」から脱しようと、懸命にカウンセリングや自己改善に取り組むことは、本質的にはキリスト教とは全く無関係である。

 無関係であるばかりか、それはキリスト教に悪質に対抗する思想から生み出されて来た運動である。

 教会で受けた「被害」なるものをどんなに主張し、どんなに自己改善プログラムを続けようと、キリストと共なる十字架の死を経ないなら、彼らは一ミリたりとも自己を改善できないままに終わる。

 死を経ない限り、誰も復活にあずかることはできない。新しく生まれることなくして、神の国に入ることは誰にもできない。そのようにして、神の義にあずからない人間たちが、自己の正義をどんなに振りかざして自己改善に取り組み、他人を裁いても、そこから生まれて来るものは何もない。

 まして、贖われない者たちが、自分たちの肉なる正義を振りかざして、神に贖われた者を罪に定めるなど、秩序の転倒もいいところだ。彼らはアナニヤとサッピラのごとく、エクレシアに手をかける前に、打ち倒されて終わるであろう。 なぜなら、神の教会は、神の御言葉の聖なる支配が及んでいる復活の領域であるから、穢れた者が手を触れることはできない。

  こうして、自己の義を掲げる肉なる運動は敗退して行く。だが、信仰によってキリストの十字架にとどまる義人たちは、神の完全にあずかるだろう。そして、神の義にあずかる人々が、この世の法においても義とされ、自己の義を掲げる人々が、この世の法によって罪に定められるというパラドックスに満ちた結果が出る。

 「聖なる法(御言葉による支配)」は、「この世の法」に抵触しない。キリストの義は、律法の要求をすべて満足させるものであるから、そのキリストの義を受けた者が、この世の法によって罪に定められるようなことは起き得ないのである。

 カルト被害者救済活動は、聖なるものを冒涜する運動であるばかりか、この世の法や常識を含め、あらゆる規則をあざける運動であることが間もなく明らかになろう。これは「嘲りの霊」によって支配される運動であり、神の聖を侮り、嘲っているだけでなく、すべての尊いもの、良識あるもの、この世の常識、この世の法、あらゆる規則を踏みにじって、肉なる人間に過ぎない者が、自分自身をすべてにまさって高く掲げ、己を神とする、聖書の神に敵対するあざけりの霊に支配される運動なのである。
 
 彼らは今まで「この世の法」を「聖なる法(教会規則)」以上のものであるかのようにふりかざして、教会の「聖域」を取り払うとして、クリスチャンを裁き、罪に定めようとして来たが、いざ、彼らは自分たちが「この世の法」によって裁かれ、罪に定められそうになると、「この世の法」をもあざけりながら逃げ出すことしかできない。

 結局、このような人々は、「聖なる法」にも「この世の法」にも服さず、「自分は被害者である」と主張して、あらゆる人々に言いがかりをつけることによって、自分だけはどんな法にも服さないで済む人間である(=自分は神だ)と宣言しているだけなのである。

 だが、ペンテコステ運動や、サンダー・シングのような異端の教えが、どんなに「神は愛だから誰をも裁いたり、罰したりなさらない」などと言って、聖書の二元論を骨抜きにし、人間の罪もなければ、裁きもなく、地獄もないかのように主張しても、それは聖書に逆らう悪質な虚偽であるから、結局、そのような教えを信じる人々(カルト被害者救済活動の支持者らを含む)は、みな自分自身の罪によって裁かれ、罰せられることを避けられない。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 」(エレミヤ17:9-10)

 とある通り、神は一人一人の行いに対して報いをなされる方である。己が罪を認めず、悔い改めもせず、キリストの贖いも受け入れない者が、自分だけは何をしても許され、決して罰せられることはないと考えることは、思い上がりに過ぎず、そのようなことは決してあり得ない。

 この世における裁きは、来るべき裁きのひな型であるから、今回のことでも、筆者は、神の裁きは確かに存在していることが、神と人との前で公然と証されるであろうと予告する。(人間的な感情がどうあれ、動かせない霊的法則があることを筆者は知っているからだ。)

 カルト被害者救済活動は、教会の霊的堕落や堕落が生みだした猛毒の副産物のようなものであるが、エクレシアがキリストを正しい位置に迎えさえすれば、このような悪しき運動は終結する。

 キリストが栄光をお受けになること、キリストがかしらとして支配されることこそ、教会が本来的な機能を回復する正しい道筋なのである。

 地上の組織である教会が、牧師制度と訣別できるのかどうかを筆者は知らない。だが、少なくとも、筆者自身は、これまでのすべての信仰の歩みを通して、エクレシアには決してキリスト以外の目に見えるリーダーを据えてはならないという厳しい教訓を常に学ばされた。

 筆者は、兄弟姉妹はみな対等であり、キリスト以外に兄弟姉妹の上に立って教える教師は必要なく、ましてそのような制度を固定的なものとして作ってはいけないと確信しており、その確認に、生涯、立ち続けるつもりだ。

 万民祭司のこの時代、信徒には、目に見える人間のリーダーを介することなく、直接、キリストの御名を通して、神に祈る特権が与えられている。神の子供として、直接、神にすべての必要を懇願し、御霊によって直接教えを受けることができると聖書に書いてある。

 その確信を離れないことである。二度と人間の指導者に逆戻りしないことだ。兄弟姉妹の交わりを持つことと、人間の指導者を頂点とする組織を作ることは全く別の話である。
 
 もしも我々信者らが、地上の罪深く滅びゆく人間の指導者に栄光を帰することをやめて、組織や団体に栄光を帰することをやめて、牧師や指導者やその他の権威者を担ぎ上げては彼らを誉めたたえたり、自分自身を高く掲げて誉めたたえたりすることをやめて、ただ見えないキリストだけが栄光をお受けになるよう行動しさえすれば、すべてが急展開して、たちまち秒読みのような速さで、あらゆる問題が取り除かれ、解決されるに違いないと筆者は考える。

 何度も述べて来たように、キリスト教界が腐敗する時、最も被害を受けておられるのは、神であって、人間ではないのだ。神が正しい地位を取り戻され、受けるべき栄光を取り戻され、キリストがすべての御名にまさって崇められるべく、正しい地位に就かれることこそ、教会のあるべき姿の回復なのであり、それは人間のどんな利益にもまさって優先的に回復されなければならない神の利益である。それをさしおいて、人間が人間自身の利益をどれほど声高に主張したところで、それがかえりみられることも、回復されることも決してないであろうと筆者は言っておく。

 つまり、我々がエクレシアの一員としてどのように神の恵みを享受して生きるのかということは、我々がキリストを自分の心の中で、また生活において、どのように扱うかということに直結している。キリストが我々の心の中であるべき地位を占めておられないのに、我々だけが先に栄光を受けて成功し繁栄を享受するということはまずないと見て良い(そのような繁栄があるとすれば偽りであるから長くは続かない)。
 
 さて、筆者も、キリストと共に十字架の苦難と死を経て、復活の命へと結びつき、この世に対して死んで、この世のすべての罪ゆえのもろもろの呪いに満ちた束縛や、奴隷的拘束から解き放たれて、自由の中で、高く天に上げられ、御座から主と共に統治したいと心から願い、またそれが事実であることを信じる。

 そのようにして、今や聖徒ら一人一人がキリストと共に御座から統治する時代がすでに来ている。だが、そのためには、我々には主と共なる十字架の死にとどまり続けるという土台が必要である。死を経なければ、復活も御座の統治もない。それゆえ、日々、御名のゆえの苦難にも甘んじる姿勢は常に必要である。

 だが、死の圧迫を受けても、御名にすがり、救いの確信を守り、神の義を決して離れずに、人間に栄光を帰さず、キリストだけに栄光を帰して、御言葉に従う信徒らには、神がどれほど豊かに報いて下さり、守って下さるか、神ご自身が証明される。だから、これから起きることに注目されたい。

 神はご自分に頼る民を決して捨てることなく、常に我々の砦となって我々の名誉や地位や生活を守って下さり、しかも、最も良きもので満たして下さる。私たちは羊のように緑の牧場に伏し、憩いの水際で安らう。

 だが、末尾に引用する通り、神を退けて人間や自己により頼む者、その心が神を離れている者は呪われる。

 カルト被害者救済活動の支持者らは、何もかもすべてをさかさまに見ている。彼らにはクリスチャンを罰する権限など最初からなく、クリスチャンこそ、彼らの悪行を神に訴え、彼らを罰する権限を持つ。彼らは「孤立は狂気への道」などと言って、自分たちは一人ではないとさかんに吹聴して、人間のつながりばかりを重視しているが、神につながらない彼らの誇る連帯は、バベルの塔と同じように、途中で粉砕されて、散らされて終わる。焼けつくような塩路に住み、「交流の少ない所」で暮らさねばならないのが誰であるかは、以下に挙げるエレミヤ書にも明らかにされている通りだ。

 この先、カルト被害者救済活動の支持者らには、孤立しか待つものはないだろう。

 彼らはこれまでクリスチャンを追い散らし、不名誉を着せて、何とかして聖徒らの連帯を粉砕しようと腐心して来た。だが、それはこれから先は逆転し、彼ら自身の運命となるであろう。

 これまで御名のゆえに、孤独や苦難をよく耐えて来たクリスチャンにとっては、孤立も迫害も恐れるに足りない。しかし、一度もそのような苦しみを通らされたことなく、常に徒党を組んでは、その勢いで、クリスチャンを踏みつけにして威張り散らして来たようなわがままな人間にとっては、たった一度の短い孤立でさえ、さぞかし耐えがたい試練のように受け止められるであろう。

 彼らは人間の絆を失えば、頼るものはなくなり、心打ち砕かれて、すっかり枯れ枝のようになって意気阻喪し、これまで築き上げて来たすべての虚飾の栄光、偽りの連帯、勢い、財産を失うことになる。落胆して枯れ枝のようになれば、せっかく貯め込んで誇りとしていた財産も維持できなくなるであろう。
 
 しかし、生ける水の源である主につながっているクリスチャンは、常に主を頼みとして生き、繁栄する。暑さの中にあっても枯れず、水が絶えた時でも、常に地下深く根を下ろし、尽きることのない水脈から汲み上げることができるため、常に青々とした葉を茂らせ、永遠に至る実を結ぶ。

 人間の心を傷つけず、人間に恥をかかせず、人間の中で孤立しないようにうまく立ち回って生きることは、この世の処世術としては高く評価されるかも知れないが、信仰生活とは何の関係もなく、本質的に重要な事柄では全くない。そればかりか、そうした手練手管は、神の目から見れば、呪われるべき肉なる手腕でしかない。

 聖書の原則は、たとえすべての人間の歓心を失い、すべての人間を偽り者とすることになっても、ただお一人の神だけに従い、神を正しい真実な方であると告白し、神の御言葉を守り、従い抜いて生きるべきことを教える。

 それだけが、まことの命への道であり、結果的に、そのようにして御言葉を守って生きる時こそ、人間の理解や歓心も、最終的にはついて来ることになる。だが、神の歓心を第一とせず、人間の歓心や、人間の評価や寵愛だけを第一に求めて生きることは、風に引き去られるもみ殻同然のはかない価値しか持たないものを追って生きることであるから、結局、そのような人生には何も残らない。

 教会よ、今こそ悪しき者どもの汚い手を振り払って、聖なる高貴な贖われた者として勇敢に毅然と立ち上がりなさい。花婿キリストの尊い御名にふさわしい尊厳と力を今こそ取り戻しなさい。

 私たちの聖所は天にあり、キリストの栄光の御座と共にある。クリスチャンこそ、教会に狼藉を働く悪しき者どもの罪を神に訴え、権威を持って彼らを打ち据え、追い払う権限を持つ者である。

 恐れることはない。私たちが発する言葉の一つ一つ、神への懇願の一つ一つは、すべて聞かれている。神の戦士たちよ、激しい霊的戦いが起きる時も、気を確かに持って、最後まで御言葉に堅く立って、立派に勇敢に戦い抜きなさい。この世にあって神の子供たちに艱難はあれど、キリストはすでに世に対して勝利を取られたのだから。
  
    
    「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
   またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
   あなたを離れる者は土に名をしるされます。
   それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)


「律法による義」もなければ「信仰による義」もない村上密の呆れた正体

「愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)

以上に挙げた聖書の御言葉にあるように、人は試されなければ、その本質は決して分からない。

そのことは、とりわけ牧師や信徒に当てはまる。そこで、見かけが正義漢で善良そうに見える人間ほど、内実は一体、どうなのか、よくよく試してみることをお勧めする。その人間が表向きに掲げている美しいスローガンを、他人に向かって振りかざすだけでなく、自分自身も本当に守るつもりがあるのか、試してみることをお勧めする。

今回、当ブログでは、これまで自称「被害者」の信徒らを募っては、次々とプロテスタントのキリスト教会に「カルト化の疑い」ありとレッテルを貼り、裁判をふっかけて来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密という人間の薄っぺらい人間性を見せつけられる出来事に遭遇したため、そのことを書いておきたい。

ここしばらく、このような物騒な話題が続いていることに飽き飽きしている読者もいるかも知れないが、もうしばらく辛抱していただきたい。

筆者は、この度、今月(2018年3月)下旬の期日に向けて、村上密および杉本徳久を民事調停に呼び出した。場所は武蔵野簡裁だ。この調停は、杉本が長年に渡り、当ブログに対して執拗な嫌がらせ行為に及んで来たことに対する民事上の責任追及であるが、村上密も杉本の行為を幇助した疑いが極めて濃厚であるため、両名を呼び出したのである。

これは裁判に至る前段階である。民事調停というのはADR(裁判外紛争解決手続き)の一種で、参加は任意で不参加の罰則はない。決定に不服があったからと言って、上告などの制度もなく、即、裁判に至るわけでもない。

民事調停は裁判とは異なるが、その代わり、利点もあり、裁判のような大事に至る前に、また、裁判ほどの長期化を避けて紛争解決しておきたいと願う人々にとっては都合の良い場だ。裁判のようにきっちりと法的概念に照らし合わせてすべてが白黒つけられるわけではなく、弁護士でなくては作成できないほどの緻密な文書も要らず、話し合いの性質が高いため、裁判よりは緩やかな基準で物事の解決がはかられる。

民事調停は、このように話し合いの性質が高いという特性を利用して、夫婦の離婚の話し合いや、子供の親権に関する争いなど、家庭に関わる紛争にも大いに利用されており、大きなもめ事から小さなもめ事まで、市民に開かれた場だと言えよう。

ところで、なぜ筆者が今回、出席さえ義務づけられていない、拘束力のない手段をあえて取ったかというと、筆者は突然、誰かに裁判をふっかけるとか、突然、誰かを予告なく逮捕に至らせるとか、そういうやり方が好きではないからだ。

裁判にすれば、欠席のまま終了するリスクが減ることは分かっている。だが、筆者は、グレゴリウス氏が訴えられた時に、その事件を傍から見ていてつくづく思ったのだが、可能な限り、強制力を行使することを最小限度に控え、まずは本人の意志を活かす余地のある場から始めたいと思うのだ。

たとえば、本来、刑事事件になると、被告訴人には、自分が訴えられた事実が前もって告げられることは決してなく、捜査が進んで行くうちに、本人が特定され、突然、ある日、逮捕に至るというケースが稀ではない。それまでに任意の事情聴取が行われるかどうかも分からず、本人は自分に捜査が及んでいることを全く知らないまま、突然、青天の霹靂のように逮捕されるということも起きうる。

だが、それでは、突如、そのような目に遭わされた人間にとっては、あまりにもはかりしれない衝撃となろう。

むろん、告訴されている事実を相手に告げれば、証拠隠滅や逃亡などの恐れが出て来るので、通常、そんなことは決してしない。ただし、当ブログに対して行われた嫌がらせについては、今更、証拠隠滅もないものと筆者は考えている。従って、今回の措置には筆者の意向や決断が大きく影響している。

筆者は、手荒な措置を恐れるがゆえに、緩やかな手段を取りたいわけではない。ただ我々の信じている神が、突如として人を罰したりは決してなさらず、何度も、何度も、真理の道に立ち返るよう、人々に警告を行い、最後の最後まで、人間の自由意志による判断に物事を委ねておられ、最後の最後の段階になってから、ようやく裁きを行われるというその性質を、筆者は自分自身も持ちたく思っており、見習うべきと考えているのである。

だから、筆者は、どんな紛争についても、いきなり裁判、ではなく、まずは話し合いの場を、というのが、常識人の考える当然のルールであろうと思う。刑事事件として扱うにしても、いきなり逮捕、有罪ありきではない。まずは何度も、何度も、問題行為をやめるよう警告が繰り返され、その一つ一つの忠告が次々と破られて行き、何を言っても、本人に全く反省の態度が見られず、いかなる忠告や叱責も全く効き目がなく、自分が引き起こした事件に対する自覚が完全に皆無で、それをやめる意図もなく、罰せられる以外にその行為が悪であることを自覚してもらう道が他にないと分かってから、初めて、強制力を持った措置が取られるべきであると思う。

むろん、事件化されることは、物事は有罪の方向へ向かっていくということなのであるが、それでも、その中でも、踏むべき手順を一つ一つ踏んで、他に残る手段が何もないことが分かってから、最後に強制力を持った措置が取られるべきだと考える。

そのようにすべてのプロセスを十分に踏み、なおかつ、本人にも弁明の機会を与えたにも関わらず、本人がそれを嘲笑い、踏みつけにしたというのであれば、その後、強制力を行使する最悪の結果になっても、それが不可避であって行き過ぎた報復措置でないことは誰もが認めることになろう。

そこで、筆者の場合は、ただ扉を開いていますよという、うわべだけのパフォーマンスではなく、きちんとした段取りを踏んで、物事の本質、人の心の本質を底の底まで確かめるために、一つ一つ時間をかけて踏まなければならない手順があると考えているのである。

このようにして、筆者の紛争解決のやり方は、まずは緩やかな措置から始まり、それが功を奏さなければ、次第に、取る措置の難度・強度が増していくというものである。律儀すぎるかも知れないが、そのように段取りを踏まずに、いきなり強制的な措置を取ることには、あまり賛成できない(そうすることを恐れるがゆえに言うのではなく、神と人との前に、証明しなければならない段取りがあると考えているのである)。

だが、村上は今回、裁判ではなく、それよりも緩やかな民事調停が取られたという事実を自分に都合よく理解してか、事件を京都に移送することを希望しており、京都でなければ出席しないと言い張り、話し合いに応じる姿勢すら見せていないらしい。

それを聞いても、何という滅茶苦茶な話だろうかと筆者は呆れている。村上は事実上、残る二人に京都まで来いと言っているに等しい。要するに、自分一人さえ交通費と時間が浮けばそれでいいというスタンスらしい。

しかも、村上は、サラリーマンでなく、自営業者でもなく、信徒からの献金を受けて生計を成り立たせている牧師なのだ。交通費を惜しまなければならないほどに赤貧の貧乏人でもなければ、働き蟻のように働いて平日に裁判所へ赴いただけで生計が破綻するようなパートやアルバイトの勤め人でもない。

そこで、読者は注意されたい。こういった些細な返答からも、村上の利己主義は明白に見えて来るであろう。自分一人さえ楽であればそれでよく、他の人々が自分のためにこうむる都合など考えもしないのだ。というより、京都への移送の嘆願は、そもそも調停に参加しないための言い訳でしかないと見るべきだろう。

これでも本当に牧師なのだろうか。これでは通常人よりももっと不誠実ということになりかねない。

しかも、村上は、今回、筆者の出した約50頁近くの申立書(証拠書類を含めるとおよそ100頁にはなる)に対し、一枚の反駁の答弁書も送って来ず、ただ裁判所の照会書のフォーマットに、短く「私こそ実名で色々書かれて迷惑しています。ここには書ききれません。」などと三行程度の呆れるほどに子供じみた回答しかしていないと聞いている。

やる気のなさが最初から見えている、人を馬鹿にした回答である。

このことから、村上が筆者をどれほど見下げているか、どれほど民事調停をなめてかかっているか、どれほど自分の教会の元信徒を軽んじているかがよく分かるが、それでも筆者は、ここではっきりと言っておきたい。

村上は事態の深刻さを何も分かっていないようだが、これは村上が筆者一人だけに対して取っている行動ではなく、神と全教会と全クリスチャンの前で取っている行動なのである。

そこで、もし本当に村上が今回の調停期日に武蔵野へ出て来なければ、村上の活動はこれでもうお終いであると筆者は断言しておく。村上の社会的信用は完全に地に落ちることになる。

村上が筆者を見下げるのは今に始まったことでなく別に結構だが、村上自身がこれまで裁判を振りかざして来たにも関わらず、自分への訴えだけは忌避するような態度を取れば、村上の信用はそれでお終いである。

なぜなら、裁判というものは、自分が相手を訴えることもできる代わりに、自分自身が訴えられた場合にも、きちんと応じてそれなりの責任は取りますよ、という双方通行の姿勢がなければ、決して世間の信用を得られないからだ。

これまで村上は、「自分は命をかけてカルトと戦っている」などと正義漢ぶって豪語しながら、「カルト化している」とみなした教会や牧師たちを相手取って裁判を起こして来た。そして、そうした裁判のことを、村上は誇らしげに自分の手柄のように語って来た。

村上は、自分がそうして次々と教会やクリスチャンを裁判に訴えるのであれば、当然ながら、自分が訴えられた時にも、それを受けて立つ姿勢がなければならない。

他人だけを訴えておきながら、いざ自分自身が訴えられる段になると、忙しいだの、遠いだの、様々な逃げ口上を並べて、ろくに反駁もせず、雲隠れするのであれば、もはやそんな人間のふりかざすご都合主義的な「裁判」など、誰一人見向きもしなくなるだろう。

しかも、村上はこれまで様々な教会に対し、「被害者」を名乗る元信徒を募っては、裁判をけしかけて来たのだから、村上自身の教会の「元信徒」である筆者が訴えを起こす場合にも、当然ながら、それに向き合う道義的な義務が生じるであろう。

どんなに不当な訴えを出されたと感じても、やましいことがなければ、きちんと開かれた場所へ出て来て、十分な証拠を提示して、論拠を示して反駁すればいいだけのことだ。オープンな姿勢を見せること、不当な主張にも忍耐強く、正当な手段で向き合っている姿勢をアピールすることは、市民からの信頼を勝ち得るために必要なアクションだ。

それが、裁判所から呼び出されても、遠いとか、書ききれないとか、子供の寝言のようなことを並べて、真面目に対応もせず、姿さえ見せないというのでは、ネットの影に隠れて自分は言いたい放題、一方通行の場所で、自分に都合の良い嘘ばかりを並べ、いざその言葉の証拠を求められ、責任を追及されると、早速、全速力で遁走し、世間の前で堂々と勝負することもできずに、敵前逃亡して逃げ回るしかないという最低最悪の印象を免れられない。出て来ないのは、やましいことがあるからだろうと憶測されるのは当然である。

しかも、TVにまで出て記者会見までして名前を売っているのに、実名で色々書かれて迷惑だとか、自分を未成年の中学生か何かだとでも思っているのだろうか、と呆れる。政治家や芸能人などの有名人が、どれほどの批判に耐えているか分からないのだろうか。ましてや、村上は自分自身が他の牧師にどれほど容赦のない批判を浴びせて来たかを、都合よく忘れ去ったのであろうか?

あれほど「被害者を助ける勇敢な正義の味方」をきどって、諸教会に裁判をふっかけておきながら、いざ自分が訴えられると、しょせん、この程度なのか。市民や元信徒から責任を追及されても、出るべきところに出る勇気さえ持たない臆病者なのか。肩をすくめざるを得ない。

読者の方々は、村上が元信徒からの民事調停の訴えから逃げているというこの事実を決して見逃さないでもらいたい。

さらに、筆者は先の記事で、村上が杉本を切り捨てにかかっていると書いたが、今回のことで、多分、それも本当のことになりつつあるのだろうという印象を受けている。

今回、杉本は出席について回答していないが、杉本は刑事責任を問われている以上、この先、どちらにせよ、逃げることができなくなる。弁明の機会や交渉の機会が与えられているのに、そこに出て来なければ、どんどん立場が不利になって行くだけなのだ。逃げれば逃げるほど、ますます世間の心証は悪くなる。刑事事件の結末がはっきりしてから裁判をするよりも、今の段階で和解の姿勢を示しておいた方が有利なことも確かである。

村上密がネットではこれまで相方のように協力しながらクリスチャンを貶めて来た杉本を、この度、積極的に弁護してやる気もないらしい態度にも、筆者は心底、呆れている。だが、これは実に村上らしい態度だ。

これまで村上は、周知の通り、杉本ブログをさんざん利用して、村上自身とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に都合の良い偏った虚偽の情報を発表して来た(今ここで紙面を割いて詳しく論証しないが、鳴尾教会に関する記事などを読めば、杉本ブログの情報源が村上と同一であることは一目瞭然である。こうした事柄については後ほど詳しく証拠を提示して論じる予定であるから、その発表を待たれたい)。が、いざその虚偽情報の責任を問われる段階になると、村上は杉本一人にそれを押しつけて、自分は陰に隠れようというのか。

村上にとって信徒とは、そういう都合の良い、捨て駒のような存在なのか。政治家の秘書のように、牧師をかばうためなら、信徒が罪をかぶるのは当然だと考えているのだろうか。

おそらく、杉本は村上にとって、初めから「捨て駒」であり、「とかげの尻尾」だったのだろうと筆者は思う。筆者が最も許せないのはその点なのである。杉本の行為も、当然ながら、筆者には許し難いが、ある意味では、それよりも許し難いと言えるのが、村上の行為である。

村上が、カルト化教会の牧師が信徒を利己主義の犠牲にする行為を非難しながらも、自分自身は、筆者や同僚の牧師や信徒ら(杉本でさえ、ある意味では村上の犠牲者だと言える)を、自分の利益のために犠牲にしてはばからない態度を取っていることは、言語道断な行為である。これでは一体、村上はどの口で他の牧師たちが信徒を犠牲にしていると非難できるのであろうか?

読者は、この事件を通して、ぜひとも村上密の人柄をよくよく観察して判断してもらいたい。村上はこれまで自分が栄光を受けられる場面であれば、それが東京であれ、どこであれ、率先して駆けつけたものだ。しかし、村上はそのようにして物事の「おいしいところ」をつまむことには積極的でも、今、自分にとって不都合な事柄は、徹底的に避けて通りたいという姿勢を示している。この偏ったご都合主義的な行動を、読者はよくよく見て脳裏に焼き付けてもらいたい。

杉本もそうなのだが、住所氏名電話番号を公開しているからと言って、必ずしも物事に責任を取るつもりがあるという姿勢には直結しない。牧師だから、権威者だから、有名人だから、信用できるというわけでもない。要は、牧師であろうが、信徒であろうが、自分のしたことに最後まで責任を持って向き合えるかどうか、そこにすべてがかかっている。

繰り返すが、今回、期日に出て来なければ、村上密の活動の社会的信用は、地に落ちるだろう。自分が「元信徒」から訴えを受けても、見向きもせず、振り返りもしないような牧師が、他の牧師にだけは、元信徒を「被害者」としてけしかけ、「被害者」の言い分に耳を傾けよ、などと訴えても、説得力はゼロである。まずは自分への訴えをきちんと解決・処理してから、他人への訴えに取り組めと言われて、どの教会でも門前払いになるのが関の山だ。

村上の信奉者は、今、彼の行動をよくよく見て脳裏に焼き付けておくことだ。なぜなら、人は不利な状況に立たされた時、初めてその本質が現れるからだ。順境にあって威勢の良い言葉だけを並べているときに、その人の人間性を判断することは難しい。その人が責められ、不利な立場に立たされた時に、初めてその人の本当の人間性が現れて来る。くれぐれも、聖書の御言葉を都合よくちりばめただけの本質的に無内容の綺麗事に目を奪われることなく、きちんと行動を見てその人の本質を確かめられたい。

さて、こうして、世間に波風立てつつ行動するのはかなり大変な労力の要ることであるし、勇気も、犠牲も要ることである。村上はかつてブログで、「自分は命をかけてカルトと戦っている」のに、筆者は「藪の中から石を投げているだけの非常識で幼稚な生き方」をしているとあざ笑っていた。

だが、今、筆者は読者の前で、はっきりと言わせてもらいたい。事実は全く逆ではないかと。自分に都合が悪くなると、途端に「藪に隠れて石を投げる」だけになるのは、村上自身ではないのかと。

もちろん、頭の中で想像を極度に巡らせて、筆者を含め、数々のクリスチャンを「極端に危険人物化」して、巨大な悪役の像を仕立て上げては、無責任な「創作物語」を綴っているのも、村上と杉本であって、筆者ではない。そして、今回のように信頼の失墜を自ら招くような行為を続けていれば、そのうち、杉本のみならず、村上自身にも、「交流も少ない所」に住まざるを得ないという条件が、おのずと跳ね返ることになろう。

他人だけを裁判に引きずり出してあらゆる苦悩を味わわせておいて、自分は訴えられても逃げ隠れし続けるような牧師の言い分に、誰がこの先、真面目に耳を傾けるであろうか。むろん、信徒から受けた相談内容を軽率に口外しているような牧師のもとに、相談を持ち込もうとする信徒がいなくなることは言うまでもない。

筆者は、当ブログを始めた当初は、命がけでキリスト教界の腐敗と是正を訴えるつもりであったが、その目的はその後、少しずつ変化して行った。とはいえ、今になっても、相変わらず、記事を書くことには、命をかけるような代価が必要だ。いや、記事を書くことではない。キリストに従うことそれ自体が、自分のすべてをかけて行う価値のあることだ。もし命をかけるというなら、文章を書くことではなく、神を愛すること、神に従うことにこそ、かけるべきである。

筆者はクリスチャンであるから、「和を持って貴しとなす」式に、世間に波風立てず、すべての物事を曖昧にして、切り分けを否定しながら、人間の心だけを満足させるような生き方を是としない。たとえ波風が立つことになっても、人の感情を時には害することになっても、あくまで聖書の御言葉に基づき、何が神の御心であって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が虚偽であるのか、すべてにはっきりと公然と区別をつけるべきであると考えている。

だから、筆者は自分の主張を取り下げるつもりはない。時間はかかっても、また、代償は必要となっても、真実を訴え続ければ、嘘の牙城はかならず崩れると信じている。多くの先人たちもこういういばらの道を辿ったが、彼らの名誉はきちんと回復されているのだから、何も心配することはない。

最後に、またも村上が愚かしい内容の記事を書いている。

「全き者であれは、行いではない。倫理的完全の要求ではない。義は与えられるものであって、獲得するものではない。「律法を行なうことによっては、だれ一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ3:20)パウロは、信仰による義、神の前に正しいとされる道(ローマ3章21~5:21)を教えている。「義の賜物」(ローマ5:21)でわかるとおり、義は神から与えられるものであって、自分で獲得する義(自己義)ではない。神の前には「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)行いとは別の道、神の前を歩み(信仰生活を)続けよう。

これはきっと村上が、自分は完全無欠な人間でなくてもいいと自己弁護するため、もしくは開き直るために書いたのか、あるいは、村上の率いるカルト被害者救済活動が、筆者の言うような「自己義に基づくものではない」と弁明するために書かれた記事なのだろう。

だが、もしも村上が、自分で書いているように、神は「倫理的完全を人に要求しておられない」と本気で主張しているならば、それでは、これまで村上自身が、信仰によって義とされたはずの他の牧師やクリスチャンを「倫理の欠如」によって訴え、責め立てて来た根拠はどこにあるというのだろうか?

村上がこれまでこの世の法によってさんざん他教会の内情に干渉し、「聖なる法」よりも「この世の法」を高く掲げてクリスチャンを裁く行為に手を染めて来た根拠はどこにあるのだろうか?

そんな活動に手を染めながら、村上は、いざ自分が責められる段階になると、今更、自分だけは、「義人はいない」と豪語して、「信仰による義」に隠れられると考えているのだろうか? 

いや、もしも村上が本当に「信仰による義」に立っているなら、村上は、逃げも隠れもせず、堂々と裁判所に赴くことができるはずではないか。何しろ、信仰による義は、この世の法を超越するのだ。神によって義とされている信者は、決してこの世のいかなる法によっても罪に定められたりはしない。

にも関わらず、村上が裁判所へ来ることを避けているのは、本当は、自分には「律法による義」も、「信仰による義」も、両方ないことが初めから分かっているためではないのか?

筆者は以前にこう書いた。

神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

村上が本当にクリスチャンであるなら、以上の御言葉を見失うことは決してないはずだ。すなわち、筆者が村上に反感を持ち、村上に対する訴えを両手に抱えているのを見れば、大急ぎで供え物を祭壇の前に置いて、筆者のもとにすっとんで来て、まずは筆者と和解をしてから、「神の前を歩こう」と豪語するだろう。それができないことが、村上が内心ではクリスチャンではなく、信仰による義に立っていないことの何よりの証拠である。

だとすれば、聖なる法だけでなく、この世の法も、こんな人間に味方しはしない。だが、筆者は、この先、村上に対峙する仕事は、おそらく、誰よりも彼に貶められた牧師たちの仕事になるのではないかという気がしている。

繰り返すが、読者らは、今回の出来事を通して、よくよく村上の人間性を見極められたい。(果たして、こんな人物を恐れて口をつぐむ必要がどこにあるのかと。)

神は人前での信仰による告白を重んじて下さる。我々は聖書の御言葉に立ってこれを守って生きていることを、神の前だけでなく、人々の前でも告白し、証明しなければならない立場に置かれている。

クリスチャンから訴えられているにも関わらず、その兄弟姉妹との和解を目指そうともしない村上密に、信仰による義など欠片もないことは誰の目にも明々白々である。


「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実⑤






~ 奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④」の続きである。

 さて、そろそろ、神の教会は、キリスト教と教会と信者全体を冒涜し、呪うような狼藉者たちに、団結して立ち向かうべき時が来ているのではないかと筆者は思う。

 前回、取り上げた村上密の最新の記事には、次のような一文がある。

「権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。教会を正すために法の力を借りることは避けがちであるが、自浄作用がなければ裁判も視野に入れる必要がある。」

 この文章から読み取れるのは、村上が何とかして教会にケチをつけ、教会に打撃を与えるチャンスを伺い、教会財産を一銭でも減らし、教会を貧しくしようと、教会に恨みを持つ不信者(こんな人々は信者とは呼べないが)をけしかけては、教会に対する裁判を起こすチャンスを狙っている様子だ。

 同氏が牧師であるにも関わらず、何とか口実を見つけては教会に争いをしかけ、教会財産を不信者のもとに移したいと願っている様子が伺える。

 自浄作用が働かないから裁判に出るというのであれば、見込みのある裁判をせねばならない。
 
だが、「法の力を借り」たとしても、村上の言うような裁判には、勝ち目がないことが明白であることはすでに述べた。従って、村上の主張は、「聖なる法」である教会規則になじまないばかりか、「この世の法」に照らし合わせても、非現実的な世迷いごとでしかない。
  
「自浄作用」をなくしているのは、村上密と同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であって、それ以外の教会ではない。
 
村上自身の言葉を使えば、事実は以下の通りとなるだろう。

「村上密は、自らのブログにおいて、かつての同僚、「同じ釜の飯を食った」牧師たちであっても、教団と袂を分かった者については、個人情報を漏えいし、それを歪曲する形で、彼らを誹謗中傷する材料としている。また、同氏は、かつて自分の教会に相談に訪れていた信徒であっても、気に食わなくなれば、信徒の個人情報を漏えい・悪用しては、信徒を中傷している。

このようなことは、同氏の牧師としての倫理の徹底的な欠如を証明しているだけでなく、牧師としての守秘義務違反、信者のプライバシーの侵害、パワハラ、個人情報の漏洩などの深刻重大な人権侵害に相当する可能性が大である。


となれば、当然、村上の行為によって被害を受けた信徒や牧師には、村上密に対して精神的・もしくは物質的な損害に対する賠償請求を行う道が開けて来る。村上は牧師を名乗っているのだから、本来、牧師の活動を正すのは教会や教団であるべきで、この世の法を用いることは適当でない。しかしながら、自浄作用が全く働かなくなっているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、牧師としての職務から完全に逸脱しており、クリスチャンとしての信仰の欠片も見られない村上についてだけは話は別である。兄弟姉妹としてのいかなる忠告も、話し合いも効果のない人間の行動を押さえるためには、当然ながら、この世の裁判を考慮に入れる必要が出て来る。」

このように、損害賠償、慰謝料請求は諸教会に対してでなく、村上牧師とその活動に「悪のり」して兄弟姉妹を誹謗中傷する者たちに対して行われるのが最もふさわしい。

村上は、元信徒を裁判に焚き付けては教会から受けた被害を取り返すよう主張して来たのだから、その主張は同氏自身にも全くその通りに適用されねばならない。自分は人を訴えておきながら、自分が訴えられれば、逃げ回るというのでは、あまりにも往生際が悪い。

筆者は、村上とその活動の支持者らが行って来た人権侵害に対して、被害を受けた牧師や教会や信徒らは、黙っておらず、必要な法的アクションを取ることを強くお勧めする。取れる手段は色々ある。この人々は、キリスト教を断罪しているのだから、兄弟姉妹として扱う根拠がなく、法的措置以外の方法で、このタイプの人々に主張の誤りを認めさせたり、責任を取らせることは決してできないと筆者は考える。

クリスチャンは世の光なのであるから、虚偽の訴えに対して沈黙していてはならない。偽牧師、偽預言者、偽信徒だなどといわれなく非難されて黙っているなど論外である。おくびょう者の行き着く先も、地獄の火の池なのだから。
 
今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて、
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」
(黙示12:10-12)

さて、最後に、ハガルとイシマエル、サラとイサクの話をつけ足して記事を終わりたい。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ。
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。

 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:21-31)
 
カルト被害者救済活動は、幾度も述べて来たように、生まれながらの人間の正義を掲げるものであって、神の義に反し、御霊に基づく運動ではない。「肉によって生まれた」運動である。

ところが、これまで、信仰に基づかないこの偽りの運動が、全教会を圧迫し、信者を無差別的に迫害して来た。「肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。

しかも、多くの信者たちが自らこの悪しき運動に降伏宣言し、汚し言を言う獣のような彼らの主張の前にひざまずき、彼らの軍門に下った。それによって兄弟姉妹を売った。だが、このようなことに対して、聖書は何と言っているか。

奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである

 さて、女奴隷とその子が追い出されるためには、サラとイサクが成長して強くならなければならない。その時、初めて、肉にあるものと霊にあるものの関係が逆転し、御霊によって生まれた子らが「しかるべき地位を取り返す」のである。

 この仕事を、神はクリスチャンに委ねておられる。

 これが、私たちが地上に置かれていることの意味なのだ。私たちが戦わずにただ沈黙していて、福音がこの地上で前進し、成就することはない。私たち自身が福音の旗を掲げて、霊的な戦いを命をかけて真剣に戦い抜き、新しい陣地を勝ち取り、サタンのわざを打ち壊して前進して行かなければ、神の国の前進はないのである。

 神の国を前進させるとは、多くのクリスチャンがそう信じているように、地上で座って楽しく飲み食いし、気に入った信徒だけを周りに集めて、お気に入りの讃美歌を歌い、耳に心地よい歓談にふけりながら、それを「聖徒らの交わり」と称して誇ることでは断じてない。そのような瞬間が、場合によってはクリスチャンの交わりにないわけではないとしても、激しい霊的戦いを戦い通さねば褒賞を得られないことも事実なのだ。

 先の記事で、筆者は不当解雇された人が、裁判で地位確認請求を行って権利を取り戻すことに触れたが、その際に、決定的に重要な証拠となるのが、雇入れ時に労働契約を明示した書面が労使双方の間で取り交わされているかどうかであると述べた。

 このことをクリスチャンに適用するならば、我々が神の国の正統な後継者として神の教会に残り、狼藉者を追い出す根拠となるのは、神と我々との間に結ばれた契約、約束の御言葉である。

 イサクは、神との約束を生まれる前から持っていたが、イシマエルにはその約束は与えられていなかった。それゆえ、イサクには正統な跡継ぎであると主張できる根拠があったが、イシマエルにはそれがなかった。

 今日、神の教会に連なるための条件は、キリストの贖いを受け入れ、罪赦されて神の子供たされたという、聖書の御言葉に基づく信仰であって、教会に対する怨念や被害者感情ではない。むろん、人受けのする性格や見栄えの良い外見でもないのは言うまでもない。

 ところが、カルト被害者救済活動の支持者らは、神の約束に基づかず、神との契約によって結ばれていない人々を、全く不当な理由で、教会に受け入れるよう迫っているのであるから、こうした人々は、正統な神の国の相続人ではないのに相続人を詐称する不法者として、教会から追い出されて当然である。
 
 このように、まず最初に約束の契約が与えられなければ、クリスチャンは神にも教会にもいかなる地位をも主張できない。だが、約束が与えられているなら、それに基づいて、大胆に権利を主張し、天に対して「地位確認請求」を出すことが重要である。

 創世記(21:9-14)を読むと、神の国の前進のためには、サラの意志表示が決定的に重要な意味を持っていた様子が分かる。

「サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。 

この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。

神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです
しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。」

 ハガルは奴隷にも関わらず、自分が先に主人の子を産んだことで得意になり、早くから女主人のサラを見下げていた。それゆえ、サラもハガルを相当いじめていたようだが、それでも、一定期間、ハガルとサラは一つ屋根の下で暮らし、イシマエルとイサクも兄弟のごとく過ごした。

 おそらく、アブラハムはイシマエルもイサクもどちらをも息子として愛し、ハガルとサラも何とか折り合いをつけてやって行けるかのように考えていたのであろう。

 だが、サラの堪忍袋の緒が切れる時が来た。これ以上、ハガルとイシマエルを一つ屋根の下に置いておけば、彼らはかならず、サラとイサクを押しのけて、家の跡取りになろうとしてクーデターを起こすだろうことが、彼女にはっきり予測できたためである。そこで、彼女はアブラハムに明白な意志表示を行う、奴隷とその子を家から追い出してくれと

 神はアブラハムに言われた、「サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。」そして、アブラハムは神の約束に従い、サラの要求を聞き入れ、奴隷とその子を家から追い出した。

 アブラハムにとってはつらい決断だったろう。以後、彼は二度とイシマエルを見なかったのだから。だが、人間の肉に基づく関係、生まれながらの魂の情愛は断ち切られ、御霊に基づく関係だけが残らねばならなかった。

 今日、神の聖徒らは、約束を持たない奴隷の子らに向かって、同じように言わねばならない。「奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない」と。

 このように、我々が神と人との前で、明白な意志表示を行うことがぜひとも必要なのである。自分たちの「あるべき地位」をきちんと請求するための訴えを天に対して、神と人との前で起こすことが重要なのである。おそらくサラも一度や二度ではなく、アブラハムに願い出たに違いない。

 今、神の教会を荒らし回り、御霊によって生まれた子たちをいわれなく迫害する者たちを、クリスチャンが一致団結して、神の家からきっぱり断ち切り、追い出す覚悟を固めるべき時が来ている。イエスが強盗たちを、憤りを持って宮から追い出されたように、聖徒らは、激しい憤りを持って、神の教会と聖徒らをあざけり、冒涜し、呪う者たちを、容赦なく福音の敵として神の家から追い払うべきなのである。
 
小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで御国を与えてくださる。」(ルカ12:32)


「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④






~教会の不祥事をきっかけに、キリスト教を欠陥宗教のように非難するDr.Lukeと村上密の主張の類似性について~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③」の続きである。

さて、カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャン同士に分裂・分断工作をしかけ、互いを憎み合わせ、争わせることで、キリスト教界を弱体化させる手段として来たことはよく知られている。そうした分断工作の結果、以前にはブログ上でも活発に重要な意見交換をしていた筆者と唐沢との間にも、くさびがうち込まれたのは事実である。

しかし、それだけがすべての原因だと筆者は言うつもりはない。結局は、そうした出来事が試金石のようになって、個人の心の中にもとからあった要素が外に露呈し、個人個人が、神の御言葉の前で「ふるいわけられた」だけなのである。

筆者が唐沢について不審に思うのは、以上のように、唐沢が村上と全く同様に、自分への批判を受けたからと言って、信徒である筆者の利益を害する行動に出たというだけが理由ではない。

そもそも2010年の初めに、唐沢が杉本に向かって、筆者や当ブログをバッシングする記事を取り下げるよう働きかけた後、杉本が唐沢をもバッシング対象とし、自身のブログで誹謗中傷するようになったことは、周知の事実である。

むろん、杉本のこうした行為が許し難いものであることは明白である。これは杉本がクリスチャンや教会を断罪する新たな材料として、まずは筆者を、次に唐沢を獲物のように捕らえたというだけでなく、唐沢と筆者とのクリスチャンとしての親交を冒涜して、クリスチャン同士を引き裂くために行った分断工作であったと見られる。
 
そのバッシングの際、杉本は、唐沢と唐沢の集会にも、「偽預言者」「独裁カルトの妄想教組」「まごうことなき新興カルト宗教団体」などとあらん限りの罵倒を浴びせた。
 
ところが、唐沢は、その当時から、そうした冒涜の言葉の数々に対して一言も反論しなかった。ただ杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかっただけではない(名誉毀損は親告罪であるから、もともと唐沢が筆者の件を理由として杉本を訴えるなど不可能であり、唐沢にできるのは、自分が誹謗中層されたことで杉本を訴えることだけであった)。

唐沢は杉本からの主張に、具体的に論拠を示して反論せず、記事の削除に必要となるアクションを取らなかった。当時、社会的地位もあった唐沢がしかるべく行動を取ってさえいれば、杉本のバッシング記事は速やかに削除されて、それ以上の広がりを見せることなく、事態はおさまっていた可能性が高い。それをしなかったことが、唐沢の目に見える妥協の始まりであった。そして、唐沢がこのようにしてグレゴ氏を「有罪」と決めつけながらも、杉本を「免罪」しようとしたことは、唐沢の内面の二重性と深い関係がある。
 
唐沢が杉本の行動を非難しているのは、うわべだけのポーズであることに加え、ただ「人間的な感情の観点」だけからの非難である。杉本の行動は、人の心を傷つけるから許せないというわけである。しかし、そのような主張はすべて感情論でしかなく、実に些細な事柄であって、本質的な議論は、全く別のところにある。
 
唐沢は、杉本の主張の反聖書性を立証し、杉本によって自分が偽預言者と呼ばれて非難されていることについてこそ、反駁し、疑惑を晴らさなければならなかった。グレゴ氏に立ち向かうくらいならば、杉本に対してはもっと毅然と立ち向かって、とことん疑惑を晴らし、身の潔白を主張せねばならない立場にあった。何より、聖書の御言葉に基づく信仰そのものを守らねばならなかったのである。

にも関わらず、唐沢は杉本には反論せず、その主張に立ち向かいもしなかったのであるから、それは裏を返せば、杉本の主張を自ら容認しているも同然である。うわべだけは対立しているようなポーズを取りながら、その陰ではどんどん紛争が拡大して行くような行動を取り続けたのである。
 
その後、唐沢がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒に欺かれ、坂井氏と杉本との裁判においても、筆者のメールを無断で提出するなどあからさまに不審な行動を取った挙句、坂井氏ともどもに敗れたことは周知の事実であり、こうして唐沢がどんどん深みにはまるようにして、カルト被害者救済活動の陣営の圧力にますます屈して妥協(「転向」)させられて行った様子が分かる。

だが、そうなる前から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒らは(KFCの乗っ取り事件を起こした人物だけでなく、別の人物も)KFCの集会に深く影響を及ぼしており、サンダー・シングの教えなど、明らかに聖書に反する教えを、集会に公然と持ち込んでいた。唐沢はこれについても、サンダー・シングを異端として退けるどころか、かえってサンダー・シングを読んでいた信徒に同情の涙を注いで擁護し、筆者および筆者の警告を退けたことはすでに書いた通りである。ここでも、唐沢が振りかざしたのは「同情論」であり、聖書の御言葉に基づく議論ではなかった。

上記アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者は、筆者が唐沢と知り合うより前からKFCに関わっており、KFCに通えるところに居住していなかったとはいえ、唐沢の長年の知り合いであり、事実上、この集会において極めて重要な役割を担っていた一人であると見られる。
 
唐沢の言動には、このように、「身びいき」や「情」に基づく偏った判断はあっても、御言葉による「切り分け」が存在しなかった。唐沢は当初から、一方では、キリスト教界を激しく非難しながらも、他方では、キリスト教界を離れず、離れようともしていない他教団の信徒と積極的に交わり、人情に流されるあまり、自分に親しく関わろうとする信徒に入れ込み、何が異端であるかを識別しようという姿勢すらも失っていた。

唐沢は当初から、聖書の御言葉を基準とせず、人間の情、自分の感覚や感情を基準として物事の是非を判断し、自ら情に流されて、自分が心地よく感じるものを正しい教えであるかのようにみなし、自分が「可哀想」と感じる信者らにどんどん肩入れして行った。その信者らに自分たちのリーダーがあり、それぞれ所属する教団があっても、お構いなしであった。

そのようにして御言葉の「切り分け」を曖昧にし、異端の教えを吟味もせずに受け入れ、自ら批判していたキリスト教界の信徒らと親交を続けた結果、唐沢の教えはすっかり混合物となり、以前にあった主張の鋭さは失われ、「セルフかキリストか」とあれほど問いかけていたにも関わらず、自ら「セルフ」を選んで、聖書の御言葉の敵となり、ついには筆者をも、敵のようにみなすようになったのである。そのような被害者感情に引きずられやすい情に流されたものの見方は、村上と完全に一致している。

さらに、重要な点として、唐沢は、ニッポンキリスト教界を非難・糾弾する過程で、あたかもキリスト教そのものに根本的な問題(欠陥)があるかのように、早くから自らのブログ等で幾度も述べていたが、この点こそ、唐沢の主張と村上の主張との最大の共通項であるため、読者は注意されたい。
 
教会に様々な不祥事が起きるとき、それを聖書の御言葉への信仰や、キリスト教からの逸脱として訴え、改めて聖書に立ち戻るよう呼びかけるのか、それとも、そうした事件を、あたかもキリスト教の理念そのものの「欠陥」が引き起こした歪みであるかのように訴えて、キリスト教全体を断罪するのかでは、主張が180度違ってくる。そして、まさにこの点こそ、その人間が神の民であり続けられるのか、それとも、偽預言者となって終わるのか、命運を分ける分水嶺である。
 
筆者は、唐沢および村上の信用ならない人柄を見るにつけても、聖霊派特有のナルシシズムの弊害とでも言うべきものを常に感じざるを得ないが(アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、牧師だけでなく、信徒の中にも、うわべを飾って「良い子」を演じることに生涯の情熱を費やしている人々があまりにも多い。そして美化された自己像にすっかり溺れて、真の自分が見えなくなっているのである)、それに加えて、両氏の主張の問題点を論じるに当たっても、やはりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念がどんなに危険なものであるか、幾度となく強調せざるを得ない。

(ちなみに、キリスト教界全体を口汚く罵っていた唐沢が、筆者が「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で挫折した」と語っている様子には、思わず笑ってしまう。一体、唐沢はどの口を持って一方ではキリスト教界全体を罵りながら、他方では、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護できるのであろうか。こうした主張は身びいきと言う他ないだろう。

むろん、筆者がこの教団で挫折した過去などなく、筆者がこの教団を離れた直接的なきっかけは、津村昭二郎氏の牧会に失望幻滅したことにあり、津村氏が不祥事事件で引責辞任に追い込まれ、かつその疑惑に相当な根拠があることについては、教団配布の様々な証拠資料と共に具体的に記事に記した。唐沢が「転向」されられて以後、津村・村上ファミリーおよび杉本を擁護するために、筆者を中傷して以上のような嘘を述べているのは明白である。)

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を率いる聖霊派の理念の誤りは、大きく見れば同じ聖霊派に位置づけられるカリスマ運動の指導者である手束昭明氏の著書を引き合いに出して詳しく論じた通りである。要するに、キリスト教には「父性原理ばかりが強すぎて、母性原理が足りない」と、あたかもキリスト教にはバランスが欠けているかのように非難して、もともとキリスト教にあるはずのない「母性原理」という新たな要素(要するに、異端思想)を巧妙に付け加えようとするのである。
  
異端思想はこのようにして、まずはキリスト教に何らかの「重大な欠陥」が存在するかのように「ケチ」をつけるところから侵入口を得る。(被害者を募って教会に「ケチ」をつけては裁判をしかける手口と同じだ。もちろん、彼らは信徒に対しても同じように振る舞う。異端思想を見分けてこれとの分離を訴える筆者のような信徒が現れれば、「非難された人が可哀想」と同情論を唱え、「愛情や同情心に欠ける」などと人格攻撃を浴びせ、こうして人柄に「けち」をつけることで人物像を歪め、すべてを人間的な対立の話に置き換えることで、聖書の御言葉に関する議論から逃げ、物事を曖昧にごまかそうとするのである。)
 
だが、聖霊派が「キリスト教に補われるべき」と主張しているこの「母性原理」こそ、東洋的な母性崇拝に起源を持つ、キリスト教に根本的に敵対する悪魔的な思想であることは幾度も述べた。洋の東西に関わらず、母性原理を「神」として崇める非キリスト教的な宗教は、「慈愛」とか「慈悲」とかいった言葉を悪用しながら、「和をもって貴しとなす」式に、人間の感情が満たされ、傷つけられないことだけを最終目的としながら、すべてを情に基づいて判断し、物事に白黒つけることを嫌い、光と闇を明白に切り分ける聖書の御言葉に悪質に対抗する。そして、人間を高く掲げながら、最終的には聖書の神に敵対し、キリスト教に敵対し、クリスチャンに敵対する運動を生んで行く。

キリスト教の異端は、こうした母性原理を崇める思想が、巧妙にキリスト教の仮面をつけて、キリスト教の中に入り込んで来ることによって生まれる。そこで、筆者は、「父性原理」に立つのか(御言葉の切り分けを保持するのか)、「母性原理」に立つのか(情に流されて御言葉の切り分けを曖昧にするのか)という議論は、本質的に重要なものであって、クリスチャンが、人間の感情が満たされることだけを最終目的に掲げて、すべてを明白に切り分ける御言葉の「父性原理」を退ける道を選べば、待っているのは破滅だけであると確信する。信者は、人間の感情が根こそぎ傷つけられても、聖書の神の御言葉に従い、御言葉が成就することだけを最終目的として、御言葉の「父性原理」(切り分け)に服さねばならないと考える。どちらの立場を取るのかによって、信者の人生ははっきりと明暗が分かれてしまう。

村上と唐沢の主張の非常によく似ている点は、両者がキリスト教の教会で起きる様々な事件を糾弾する過程で、被害者感情に寄り添い、自称被害者たちの言い分を盲目的に信じて肩入れして行くうちに(実は被害者に寄り添うことで、彼らは自分自身の心を慰撫しているだけなのであるが)、そうした事件があたかもキリスト教そのものに原因があって引き起こされたかのように述べて、自分と被害者を一体化させる形で、キリスト教全体を敵視し、クリスチャンを敵視する発言を何度も行い、諸教会を断罪し、自分たちの傘下に身を寄せた信徒や同僚を次々と売り渡すような行動に出ながら、それでも、自分たちだけが正しい教えに立っているかのように主張している点にある。

両者ともに、自分たちが偽預言者と呼ばれて非難されても、人格攻撃のような形で論敵を貶めながら、話の矛先を逸らそうとするだけで、決して真正面から反論しようとはしない。彼らには、論敵と対峙するに当たり、そもそも教義に関する議論を避け、自分たちの「見てくれ」で勝負しようと試みるという特徴が共通して見られる、要するに、自分たちは優れた人好きのする外見を持っていて、つきあい上手で、取り巻きも多いが、自分たちを非難する人間は、見栄えの悪い、欠点だらけの人物で、誰からも好かれていないかのようなネガキャンを行うことで、論敵の人格について印象操作を行って議論から逃げようとするのである。

このようなものは稚拙な印象操作であって、議論とは呼べない。だが、果たして、そこまで言うのならば、彼らにはそれほど誇れる立派な「外見」が本当にあるのだろうか?という疑問も生じる。大体、家庭内暴力などを振るう男たちは、決まって外面だけは良いのを自慢とするが、唐沢の例に至っては、以前から自分が大学の守衛から不審者のように見られたと述べたり、何より「自分は真っ赤な偽牧師だ」と至る所で自嘲していたような有様なので、これで誇れる立派な外見があると言うのはあまりにもお粗末である。
  
そもそも自分で自分を「偽牧師だ」と自称しているような人物の言葉に、信憑性があるのかどうかは、読者の目には明らかであろう。

以前に持っていたそれなりに尊敬される社会的地位までも自ら捨ててしまったとあれば、外見を誇りながら、その外見と社会的地位によって人を納得させる道すら自ら絶っているも同然である。さらに、この世の裁判でも杉本に敗北したとなれば、唐沢の主張は、この世の実社会においても、認められなくなりつつある様子が分かる。次々と何らかの事情のありそうな信徒を周りに集めては、その信徒を助ける風を装って、同情をきっかけに、信徒に感情的に肩入れして行き、その後、その信徒らから訣別を言い渡されると、今後はその信徒の人生を破滅させるような行為に手を染めるのだから、全体として見れば、誰一人としてきちんと育った「教え子」がいないわけで、信頼が失墜するのは無理もなかろう。このような点でも、唐沢は村上と同じである。
  
杉本との裁判に敗北して妥協させられて以後、唐沢は村上のみならず杉本ともあからまさにそっくりな主張を展開するようになっている。どちらも、自分にとって不都合な真実を見ないでいるために、罪もない人間に罪を着せて、虚偽を言いふらしているだけである。

唐沢はこうして自分を偽牧師と罵る杉本の主張の前にひれ伏し、ひざまずいたのである。それは唐沢が主イエスの御名を裏切って、信徒の血を代価として、神と人との前で公然と行った行為であるから、この世だけでなく来るべき世でも、二度と撤回はできまい。
   
このように、村上も唐沢もともに、キリスト教の本来的な信仰から逸脱している不信者らの被害者感情に寄り添うあまり、キリスト教そのものを敵に回すような活動に手を染め、そうしたがゆえに、御言葉の敵となり、教会の敵となり、信徒の敵となってしまったのである。

欺かれてはいけない。事の本質は、決して弁舌の巧みさや、カリスマ性のある外見や、取り巻きや支持者の数や、おべっかやお追従を受けているかどうかや、人好きのする性格、うわべの行動のそつのなさ、立ち回りの器用さ、老練さ、老獪さがあるかどうかなどの外見や手練手管にあるのではない。
 
そうした性質をすべて備えているのは、詐欺師だけである。そして、そういう派手な外見とうわついた甘言にやすやすと欺かれるのも、愚か者だけと相場は決まっている。物事を深く考察せず、見た目で判断せよと迫って来る人間の中に、真実はまずない。このことは世人でさえ否定しないであろう。
 
クリスチャンは、あの有名なイザヤ書53章で、主イエスの外見について、聖書に何と書かれているか、立ち戻ってきちんと朗読されたい。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

このように、主イエスには、「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさも」なかった。奇跡を行っても、人々に受け入れられず、人を癒しても、感謝もされず、多くの町々で、まるで不審人物のように追い払われた。最後は罪を犯していないのに、十字架にまでかけられ、殺された。
 
主イエスが、きらびやかな外見や、弁舌の巧みさ、弱者救済のお涙頂戴のスピーチなどで、人の注目を集めたなどという記述は聖書には全くない。数多くの取り巻き連に担ぎ上げられて、おべっかや、お追従を受けて自己満悦されたなどの記述も全くない。

そこで、我々は、以上のように、キリスト教に敵対する人々が、クリスチャンの外見のみすぼらしさ、貧しさ、弱さ、不器用さを嘲笑しながら、得意げな自己アピールによって、自分こそ正しく信頼に値する人間であるかのように吹聴している有様を見れば、彼らの主張が、主イエスの生き様とはまさに正反対であることを知る。

キリスト教の不祥事などを口実に、あたかもキリスト教が欠陥宗教であって、キリスト教そのものの理念に重大な問題があるかのように吹聴し始めた人々は、その主張がことごとく聖書と真逆になって行く様子がよく分かるのである。
 
唐沢のメッセージでは、もはや十字架の死と復活という言葉も聞かれず、キリストの十字架そのものが消え失せている。これは筆者から見れば、極めて恐ろしい、ぞっとする事実である。
 
信者たちは、決してこのような例に倣うことなく、たとえ外見はどんなに弱々しく、みすぼらしく、不器用で、力もないように見えても、内心では決して揺るがされることなく、最後までキリストの十字架に堅く立って、人間の義ではなく、神の義を主張し続けたい。

<⑤に続く>

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③


~Dr.LukeことKingdom Fellowship Church(KFC)の唐沢治も守秘義務を破り、対杉本の裁判において当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久へ提供・漏洩したと見られる事実について~


この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②」の続きである。

さて、杉本は、筆者の個人情報(名前)についてだけは、Dr.Lukeこと唐沢治と坂井能大氏が行った裁判で坂井氏側から提出された資料を通して入手したと述べている。

おそらくこの記述は事実であると考えられる。ただし、杉本はそれ以前から筆者の氏名を別のルートでも入手しており、それゆえ、筆者に名前を記した上で脅しメールを送って来ている。

杉本対坂井氏の裁判が行われた当時、筆者は以前の記事にも記した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻が、他教団の信徒であるという身元を隠してKFCに潜入し、集会をかき回し、会堂契約を失わせ、筆者を断罪・追放し、唐沢をもメッセンジャーから降ろすという出来事があったことを機に、唐沢と完全に親交を絶ち切っていた。

筆者は唐沢に前もってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団および鵜川夫妻の危険性を告げていたが、同氏はその忠告を全く信じようとせず、鵜川夫妻に感情的に(ほとんど盲目的と言っても良いほどに)入れ込んでおり、集会が終わるたびに三人だけで場所を移して長時間に渡り話し込んでいる有様だった。

筆者は彼ら三人からKFCの集会中での「態度が悪い」(?)とか「面従腹背である」(???)などを理由に断罪され、ほとんど「呪いの予言」と述べて構わない言葉の数々を浴びせられた挙句、KFCから追放されたのであるが、この馬鹿馬鹿しい事件については「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」 にも詳しい。鵜川夫妻がどれほど信用できない人物であり、その二人を信用した唐沢がどんなに愚かで人を見る目がないかも分かる出来事である。

以前にも書いたように、筆者はそうした出来事を真に受けず、その足でまっすぐ唐沢のことを長年知っている別な兄弟姉妹のもとへ行き、この事件をどう思うか尋ねてみた。すると、彼らは異口同音にKFCの異常性を述べ立て、このような異常な団体に関われば、上記のような事件が起きるのはまさに当然であって、彼らの吐いた言葉にはことごとく根拠がないと述べ、一切唐沢との親交を絶ち切るように告げて来たので、筆者はそれを聞くまでにも彼らと同様の見解を持っていたが、やはりそうだったのかと納得した。

筆者自身が当ブログにおける議論の中では、唐沢のコメントを通して大いに実りある収穫を得たとはいえ、唐沢には何かしら非常に不穏な存在感を覚えていたため、もし杉本によるバッシング事件がなければ、おそらく横浜に来ても、KFCや唐沢のもとに足を向けることは決してなかったであろうと思う。

以上のような経緯があったため、筆者は、唐沢にも完全に愛想を尽かし、KFCの欺瞞にもうんざりしており、唐沢が支援したという坂井氏の裁判には全くと言って良いほど関わっておらず、筆者が書いたメールを、そこで唐沢が裁判資料として提出することに同意した事実も全くない(一体、誰がそんなことに同意できようか)。

要するに、唐沢は筆者をKFCから自ら追放しておきながら、その事実がなかったかのように隠した上、筆者には無断で、筆者の個人情報の記載されたメールを裁判資料として提出したのである。

そのようなことを唐沢が行った理由として、筆者の証言という援護射撃を受ければ、坂井氏の裁判を有利に進められるだろうという考えがあったことが推測される。
 
唐沢はニュッサのグレゴリウス氏を刑事告訴した際にも、筆者ともう一人のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団出身の信徒に、自分に有利な証言をさせている。

唐沢は2010年当時、グレゴリウス氏が杉本のブログ等で「Dr.Lukeに呪いの予言をされた」などと書き連ねていたことに、相当に頭を悩ませていたらしく、その件で、筆者に力になって欲しいと、自ら頼み込んできた。

その当時、筆者は唐沢のことをよく知らず、また、筆者自身が杉本のブログで激しいバッシングを受けて、その件で困り果てていたこともあり、唐沢がまるで杉本のバッシングの件で筆者の相談に乗ってやる交換条件のように、グレゴ氏の件で支援して欲しいと話を持ちかけて来たとき、筆者自身が唐沢という人物とほとんど直接接触したことがなかった情報の少なさも手伝って、そこで聞かされた内容を疑ったり、断ることができなかった。

唐沢は2010年に、杉本によるバッシングの件で途方に暮れて唐沢のもとを訪れた筆者に向かい、「KFCに関わるつもりがあるなら、グレゴ氏の事件のことも、含んでおかなくてはいけないよ」などと述べて、グレゴ氏のことなど一切知らない筆者にも、まるでこの事件の解決の責任があるかのように図々しく主張した。

だが、筆者はグレゴ氏が誰なのかも知らず、当時のKFCの様子も全く知らず、唐沢とグレゴ氏の間に何があったかも全く知らず、その事件の解決のためにできることもほとんどなかった。
 
にも関わらず、唐沢はこの事件に無関係であった筆者の存在を、事件を自分に有利に「解決」するために最大限に利用して、グレゴ氏に対する和解の呼びかけを何度も書き直させたり、自分に有利な証言を行わせたりして、自分一人、難を逃れるための手立てをいくつも講じた。

筆者はその当時、紛争の経緯は知らなかったものの、グレゴ氏と唐沢との早期の和解を心から願っていたために、唐沢が送って来た和解の呼びかけの文章にも目を通し、効果的な呼びかけに必要と思われる数々の助言を行った。だが、筆者がそのようにして、どうすれば二人の間に和解が成立するかと、真剣に頭をひねっていた間にも、唐沢は「あくまで扉は開いているということをアピールするためにね」と述べて、その和解案が、単なる表向きのポーズでしかないという意図を明白に表明した。

唐沢はおそらくその頃から、グレゴ氏の自分への「裏切り」を許し難いものとみなして、グレゴ氏を刑事告訴して有罪に追い込むことだけを目的に据えており、初めから和解する意図はまるでなかったのではないかと推測される。筆者は、それより少し前に、唐沢があまりにもその事件のために悩んでいる様子であり、筆者にできることもなかったので、被害届でも出したらどうか、という意味で、「警察に相談したらどうですか」と水を向けてみたことがあった。

しかし、唐沢はその言葉の意味を、筆者の述べたのとは全く違った意味内容として受け取ったらしく、グレゴ氏に対する報復を果たす手段が手に入ったと考えたのか、その後、早速、グレゴ氏を刑事告訴することに決めたと告げて来た。ちなみに、この行為については、実に数多くの信徒が唐沢を非難し、「杉本を告訴するならともかく、なぜ元信徒を告訴するんだ」と反対した。筆者に対しても、「ルークを止めて欲しい」と言った依頼がなされたし、後に筆者のもとにやって来て、面と向かって、「あの時、自分の集会に通っていた元信徒を告訴したことで、ルークは指導者として決定的に信用を失った」と述べた信徒もいた。

そうした経緯もあって、筆者自身も、当時は、唐沢に何とかして思いとどまってグレゴ氏と平和的に和解してもらおうという意図のもと、話し合いを提案し、自らそれに赴こうとさえしていた。すでに述べたように、結果としてその計画は成らなかった。唐沢が「あなたがそこまで言うなら、あなた自身が話し合いに同席して下さい」と(厚かましくも)筆者に頼み、筆者が土産物まで用意して、グレゴ氏のもとへ向かおうと、唐沢が筆者をピックアップした直後、警察から制止が入って、話し合いによって和解を求める計画は中止となったのである。筆者はこれを、筆者がこれ以上、事件に深入りすることのないように助けられた神の采配であったと考えているが、その結果、筆者はグレゴ氏と対面したこともなく、グレゴ氏が誰なのかも知らず、以後、その事件のなりゆきには、全く関わっていない。

さて、唐沢はグレゴ氏を刑事告訴したと筆者に告げた際に、「Dr.Lukeは人を呪うような人間ではない」という趣旨の証言を、筆者にもしてもらいたいと頼み込んで来た。

筆者はその頃、あまりにも未熟で愚かな信徒であったので、唐沢の心中を疑うことができず、まさか筆者同様に高い学歴を持つ教養人であるはずの唐沢が、「呪いの予言」などを口にするなど、あり得ないことだと考えて一笑に付していた。とはいえ、この依頼のことで、筆者は後に、唐沢に面と向かって、非常識な行動の数々を責めることになった。まず、唐沢が自分から人に証言を頼んでおきながら、面倒なことには一切関わりたくないとばかりに、自分自身は警察署に足を運ぼうともせず、自分のために証言してくれた他人の労をねぎらおうともしなかったこと、証言と言いながら、台本まで首尾よく用意していたことなどから始まり、筆者はこの事件で罠にはめられたように感じ、この事件を巡る唐沢の行動があまりにも非常識であり、不信感を呼ぶものであることを面と向かってかなり率直に責めた。

その当時、筆者はよく唐沢と口論のような喧嘩をしていた。以上のような事柄だけでなく、信仰に関わる事柄についても、兄弟姉妹に関わる事柄についても、あまりにも数多くの点で、唐沢には不信感を呼ぶ行動が見られたため、誰も決して言わないであろう耳の痛い苦言を、筆者は何度も唐沢に向かって述べた。

唐沢は当初、嫌そうな顔をするでもなくそうした叱責や忠告を聞いていたが、筆者が、唐沢はただ人の心をいたぶったり、弄んだりしながら時間を稼いでいるだけであって、真心からのいかなる忠告も、一切功を奏することのない対話者であると分かったのは、それからかなり月日が経ってからのことであった。

本来ならば、裁判や事件で、自分に有利な証言を行ってくれた人間は、恩人にも等しい存在であるから、一生、頭が上がらなくなるものと思う。だが、唐沢には、そういう考え方はまるでなかった。唐沢は、筆者を理由もなくKFCから追放し、筆者がKFCを公然と批判するようになった後では、筆者が唐沢のために証言した事実など全くなかったかのように沈黙し、かつての恩も忘れ、掌を返して筆者を中傷しているのであるから、大した「恩返し」である。

こうして、筆者は唐沢のために有利な証言を行ったが、唐沢は筆者のために不利な証言しかしなかった。むろん、杉本のバッシングの件でも、唐沢は筆者のために何の力ともならず、実行するつもりもない民事提訴の予告をしたりして、事件をより一層こじらせただけであった。

そして、その当時から、唐沢は筆者に向かって、次のような話も得意げにしていた。杉本が信頼して心を打ち明けて、クリスチャンをバッシングする計画を逐一相談している牧師がいるが、その牧師が杉本に恐れをなして、杉本が送って来るメールをすべて唐沢に転送しているため、杉本の計画は、すべて唐沢には分かっているのだと。

筆者はそれを聞いた際、ますます唐沢という人物に不信感を持ち、「あなたはどうしてそうやって人の裏をかくような、スパイみたいな活動に手を染めるんですか。どうして自分が予告した通りに、民事裁判のような開かれた場所で、正々堂々と勝負しないんですか」と尋ねただけで、その牧師とは誰であったのか、唐沢が掴んでいる杉本の情報とは何なのか、尋ねようという気にもならなかった。

むろん、その後、唐沢がそうして得られた情報をもとに、杉本がしようとしている計画を筆者に事前に告げて、気をつけるよう警告して来たことは一度もなかった。今となっては、唐沢はただ自分一人だけ他の人々には及ばない情報を握り、高みに立って、大勢の無知な人々を惑わせ、争わせて楽しんでいたようにしか、筆者には見受けられないのである。

このようなことから、筆者は大きな教訓を学んだ。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 」(エレミヤ17:9)と、聖書が言う通り、人の心の中で起きていることは、誰にも分からず、決して誰をも弁護しようと思ってはならず、他者の証人になってもいけない、ということである。

唐沢のために弁護してやる価値がなかったことは確かであり、こういう利己的な人間の正体を見抜けなかったことは(当時は唐沢との親交も短く、様々な事件のために混乱しており、状況そのものが極めて異常だったとは言え)やはり愚かであったとみなさなければならない。

だが、以上のような事柄は、決して唐沢一人に当てはまるのではなく、例外なくすべての人間に当てはまるのである。外見がどうあれ、社会的地位がどうあれ、他の人々からの受けがどうあれ、つきあいの長さがどうあれ、どれほど思い入れがあろうとなかろうと、人間というものは、一人の例外もなく、弁護に値しない存在だというのが、聖書の教える真理なのである。

だから、人間については決して早まった判断をしてはいけない。うわついた賛辞や、耳に心地よいおべっかや、お世辞、人々の人間性について太鼓判を押すような言葉は極力控え、ただ辛辣な批判だけを述べている方が、よほど真実には近く、無難であるとさえ言えるかも知れない。そのようにして、人間を高く掲げず、賞賛もしないことは、世の中の考えとは真逆であろうが、実際には、それが聖書の最も真実に近い態度なのである。
 
今となっては、村上同様に、唐沢の利己主義、ご都合主義、非常識にも、呆れ果てるのみで、二人は悪党同士、良い仲間だと言えよう。
 
また、グレゴ氏の言い分には、かなりの割合で、事実が含まれていたものと筆者は考える。特に、唐沢が「呪いの予言を行った」とする同氏の言い分は、少なくとも、筆者自身に起きた事柄に照らし合わせても、事実であった可能性が相当に高い。

だが、だからと言って、それでは、グレゴリウス氏は一方的な犠牲者であるのかと言えば、そうも言えない。唐沢をかばうつもりは筆者には微塵もなく、唐沢が指導者としての地位や権威を利用して、グレゴ氏を圧倒的に有利な立場から叩きのめした行為は非難されてしかるべきであると思うが、グレゴ氏がその非難から身を守れなかったのにも、それなりの理由がある。

グレゴ氏は、唐沢の呪いの予言などを真に受けず、まずきちんと聖書の御言葉に立って、それに対抗しなければならなかった。そのようなことを「被害」として主張すべきでなく、ましてそれを杉本ブログ(しかも杉本が筆者と当ブログをいわれなくバッシングしている記事)に書き込んだりすべきでもなかった。唐沢に不信感を抱いたとしても、唐沢と筆者とが別人であることを理解した上で、面識もない筆者を同様に扱うべきではなかったろう。さらに、病と手を切り、自分が完全に健康であることを主張して立ち上がるべきであった。

結局、悪魔からどのようないわれのない非難を受けたとしても、キリスト者は堅く信仰に立って、身の潔白を主張して、応戦せねばならないのであって、もし神が味方して下されば、キリスト者には、必ず、どのような状況でも、自分を守り通す方法はある。不当な主張には徹底的に抵抗し、立ち向かわねばならない。それは相当に骨の折れる作業ではあるが、信仰によって貫徹すれば、必ず、身の潔白は証明される。なぜなら、神の義に立っている信徒を守って下さることは、神の仕事だからだ。

そのことは、筆者自身が、たった一人で杉本からのいわれのないバッシングや、刑事告訴の脅し、また、唐沢や鵜川夫妻の三人から受けた「呪い」の言葉の数々や、杉本や村上や唐沢の取り巻き連中からの心ない言葉や、呪詛と呼ぶにふさわしい言葉の数々も含めて、すべての圧迫に、ただ聖書の御言葉だけを武器に、一人で立ち向かったからこそ、言えることである。
 
こうして、グレゴリウス氏を巡る事件は錯綜しており、誰にどれだけの責任があるのかは、まさに神のみぞ知る領域であって、安易に決めつけることはできないが、少なくとも、その事件が起きる中で、唐沢が自分だけ都合よく難を逃れるために、無関係に等しい筆者を最大限に利用したことは確かである。

こうしたことがあったために、筆者は今、自分自身のためには、誰の証言も求めないのである。筆者のための証人としては、最も確かな証言をして下さる聖霊がついておられるから、それで十分である。それ以上の保証人はどこからも探し出して来ることはできない。


筆者が正しい人間なのか、そうでないのか、神の御言葉に忠実に従っているのか、そうでないのか、生きた人間の中には、誰一人として保証できる者はいない。筆者は、そのことを十分に分かっており、最後まで自分のための弁護を、ただ神お一人にだけ依頼するつもりである。自分のしていることや、歩んでいる道に、他人を巻き込むつもりはなく、誰からの理解や援護も求めるつもりはない。困難が深ければ深いほど、筆者は自分のための弁護を決して神以外の方に委ねず、神がついておられなければ、勝利もないという状況にあえて立とうと思うのである。だが、このように神以外の一切のよりどころを持たないからこそ、神自身が筆者の潔白を証明して下さると確信している。(こんな風に神に頼る人間を見捨てれば、神の名折れである。)
 

ただそうは言っても、読者はここに筆者が述べていることも含め、それぞれの主張を見比べて、誰が本当のことを言っているのか、真剣に吟味・判断してもらいたい。

さて、唐沢は、一度目の成功に味をしめたので、坂井氏の裁判の際にも、筆者の証言が得られれば、有利に事を運べると踏んだものと見られる。もしくは、何とかして筆者をもその裁判に引きずり込みたかったのであろう。

だが、愚かなことである。本人不在の中で、裁判にメールなど提出してみたところで、何の信憑性があるというのだろう。裁判で証言を行うためには、陳述書という形を取るのが通常である。しかし、唐沢は自ら鵜川夫妻と一緒になって、筆者をKFCから追い出す側に回った以上、筆者から陳述書を取れる状態にあるはずもなかった。

唐沢はそうした事情を、おそらくすべて坂井氏に隠した上で、あたかも依然、筆者の味方であるかのように振る舞いながら、筆者のメールを裁判に提出したのだと思われる。

本来、メールは私信であるから、本人の承諾なく裁判資料として提出するなど考えられない行為である。しかも、唐沢は杉本に敵対する立場として、裁判に臨み、杉本が筆者を憎み、中傷していた事実も十分に知っていたわけであるから、そのような状況で、杉本に筆者の個人情報を提供することが、どれほど危険な行為であるかを知らなかったはずがない。

それ以前にも、唐沢は2010年に杉本に自ら民事提訴の予告をしておきながら、それを長い間、理由も示さずに、実行せず、そのせいで事態は余計にこじれ、杉本がそのことで激高して筆者を非難したため、とばっちりはすべて筆者に及んだ。その上、唐沢は筆者に悪意を持っていることが明白な人物に、筆者の個人情報を流出・漏洩させて、裁判に負けた後では、筆者一人を矢面に立たせ、自分だけはあたかも杉本と和解したかのようにちゃっかりと装っているわけだから、もはや唐沢の信用ならない性格や、唐沢の心に筆者への善意や筆者を守ろうという気持ちが微塵もなかったことは明白だと言えよう。

こうしたことは、唐沢も、村上と同様の人間であることをよく物語っている。自分が批判されると、その批判を交わすために、信徒を陥れることなど平気であり、自分の身を守るためならば、真実でない主張も、平然と繰り広げられるのである。保身のためならば、守秘義務違反、信徒のプライバシーの侵害、個人情報の漏洩などの行為を犯すことにも、まるでためらいがない。彼らにとって大切なのは、自分の美しい外見的イメージが傷つけられず、見栄を保つことだけなのである。

今や、唐沢は、以上のような悪事を自分が行ったことを隠すために、都合よく立場を翻し、杉本同様に、筆者の書いていることが夢想であるかのように述べて、筆者に人格攻撃を行っている。それによって、筆者の主張の信憑性を読者に疑わせようとしているのである。インテリの何も値しないどうしようもない見かけ倒しの人間で、弁護する価値など全くなかったとしか述べる言葉もない。

筆者は、唐沢の集会を去って以後、唐沢のブログを読むこともほとんどなかったが、この度、標記事件について調べる過程で、唐沢が2011年2月19日の記事に追記する形で、自分をかばうために、筆者の人格を貶めて中傷したり、「ヴィオロン氏と杉本徳久氏の争いに関して、2009年当時はヴィオロン氏が私の元にいたので間に割って入ったが、2012年以降私とは関係ない状況にあり、またニュッサの件も真実が明らかにされ、杉本と争う根拠は消失した故、一切手を引いている。」と記していることを知った。

こうして、唐沢は一方の口では、筆者について「2012年以降私とは関係ない状況」、「一切手を引いている。」と言いながら、もう一方では、その記述を自ら裏切る形で、筆者には無断で、筆者の個人情報を裁判資料として提出したり、あるいは、かつては筆者のブログで自分も中心的存在となって、村上密を糾弾する立場に立っていたにも関わらず、そうした事実が全くなかったかのように、筆者が個人感情ゆえに一人で村上に対立しているかのように述べながら、筆者を貶め、杉本が筆者の人格を誹謗中傷する格好の材料を提供しているのだから、全く呆れ果てるばかりである。

もちろん、「ニュッサの件」で唐沢が真実を闇に葬る側に回ったことも、それから、杉本に依然として自分が偽預言者扱いされているにも関わらず、それに立ち向かおうともせずに「杉本と争う根拠は消失した」などとうそぶいていることにも、呆れ果てるだけである。(唐沢は裁判に負けたために、杉本の主張にやむなく妥協させられたという不都合な事実を隠すために以上のように述べているだけである。)

「一切手を引いている」と言いながら、よくこれだけの嘘をついて、事態の悪化に関与し続けられるものである。このように、唐沢の言動は全く不誠実であり、首尾一貫性がなく、自己矛盾に満ちている。だが、そのことは、唐沢の集会の信徒たちも十分に知っており、唐沢が嘘つきであることを承知しながら、彼らはリーダーへの心酔をやめられないのである。村上の信奉者の場合と同様である。

今や唐沢が杉本を非難しているのは、ほんのうわべだけのポーズでしかなく、実際には、唐沢は次々と杉本を利する行動に出ては、坂井氏を含め、多くのクリスチャンを杉本に敗北させる結果へと追い込もうとして来たことは明白である。

これも牧師制度というものの闇を見る格好の事例であろう。一旦、宗教指導者となって信徒の上に君臨してしまった人間が、どんなに人格を狂わされ、見栄だけがすべてとなって、自分を守るためならば、真実を平然と売り渡し、信徒を裏切るかという事例である。

唐沢も、エクレシアの兄弟姉妹は対等であるべきで、リーダーは要らないと述べて、公然と牧師制度に異議を唱えていたが、それにも関わらず、自分が指導者となって集会を支配し、神を差し置いて、信徒らの前に栄光を受けてしまった罪は重い。

唐沢の様々な相矛盾する言動から、読者は唐沢の信用ならないご都合主義的な性格や変心を十分に伺い知ることができよう。

 
<④に続く>


「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②






~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密が守秘義務を破って杉本徳久に当ブログ著者の個人情報を漏洩したと見られる事実について~
 
さて、この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀」の続きである。

杉本徳久は当ブログの著者と直接の面識がないため、第三者から情報提供を受けない限り、当ブログ著者を誹謗中傷する材料となる筆者の個人情報を入手できない。そこで、杉本がどのような経路で筆者の個人情報を入手したのかが問題となるが、そこで、杉本に情報提供した疑いが極めて高い人物として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が浮かび上がって来ることについてはすでに述べた。

なぜなら、杉本は自らのブログにおいて、筆者の「両親」があたかもアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのような虚偽の情報をブログに公然と記している。

だが、そうした杉本のブログには多くの虚偽が含まれており、まず第一に、鳴尾キリスト福音教会というのは、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離れて以後の名称であるから、筆者を含め、筆者の家族の誰一人として、鳴尾キリスト福音教会に通った事実は存在しない。

第二に、筆者の母はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の会員でなく、他教団の信徒であり、鳴尾教会では客員であり続けた。また、筆者の父に至っては、クリスチャンでさえないため、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のいかなる教会のいかなる集会にも通った事実が全く存在しない。

それにも関わらず、杉本徳久は筆者の「両親」がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのようなデマを勝手にまき散らしているのだが、そのようなデマは、杉本が一人で考え出したとは思えず、その根源となる偽情報を杉本に伝達した誰かがいるためだとしか思えない。

そして、そのような誤った情報を杉本に伝達しうる人物は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師以外には、誰一人として存在しないのである。

なぜなら、杉本に以上のようなデマ情報を提供するためには、以下の条件が必要となるが、その条件にすべて当てはまっている人間は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中に、村上密以外には誰一人としていないからだ。

➀当時の鳴尾教会の関係者であること
②筆者の両親がどこかの教会の集会にそろって訪れたところを目撃していること(鳴尾教会の信者は誰もそんな場面を見たことがない)
③筆者の両親が引越して後、どこに住み、何を営んでいるかを知っていること(鳴尾教会の信徒はその事実を知らない)
④杉本が筆者に対する悪意を持って当ブログへの誹謗中傷の機会を伺っていることを十分に知りながら、それでも杉本に誹謗中傷の材料となる筆者の個人情報をあえて提供するような心卑しい人間であること(そんなことをする信徒は鳴尾教会はおろか、どんな教会にも一人もいない)

村上密が、自らのブログで、杉本よりも以前から、筆者および当ブログを卑しめる記事を発表していたことは周知の事実であり、その点で、村上は以上の➀~③のみならず、④の行為に及ぶ動機をも十分に満たしていたと言える。

もっとも、そのような村上の行為自体が、牧師として考えられないほどに幼稚で、牧師の職業倫理にもとる行為であることはすでに述べた。通常の牧師であれば、一度でも自分の教会に通ったことのある信徒については、信徒が教会を去った後でも、決して個人情報を口外せず、まして、信徒の信用を貶めるような情報を口にすることはない。

たとえその信徒が牧師と対立して教会を去った者であったり、牧師の活動を公に批判している信徒であっとしても、牧師は公人であるが、信徒は私人であるため、牧師はその信徒に報復を果たすために信徒の個人情報を公にしたり、信徒を中傷して信用を貶める内容の記事を公表したりすることは決してない。

そのようなことは牧師の職権を濫用したパワハラに該当し、プライバシー侵害や名誉毀損その他の責任追及を受ける可能性も出て来るが、何よりも、その牧師と牧師の教会の評判を著しく落とすため、そのような中傷合戦のようなことに通常の牧師が手を染めることは決してない。

だが、村上密には通常の牧師であれば、誰しも備えている品格、常識といったものがまるでないのである。

さらに、当時の鳴尾教会を知る信徒たちは、筆者の両親がそろって教会を訪れるところを誰一人目撃していないため、筆者の両親が共に教会に通っていたなどという誤解を抱きうる人間もいない。

津村昭二郎牧師でさえ、筆者の父がいかなる伝道集会にも決して出席しなかった事実を見失うとは思えず、こうしたことは、村上が一度でも津村氏に確認していれば、生じなかった誤解である。

次に、筆者の両親は、津村氏が不祥事により引責辞任してから何年も経って、遠方の地に引っ越した。そこで、筆者の両親がどこに引越し、何を営んでいるのかといった事柄について、当時の鳴尾教会の信徒たちは知らない。

しかし、村上密はこうした情報を握っていたのである。なぜなら、2008年、筆者は村上密の率いる宗教トラブル相談センターを訪れた際、村上の勧めもあって(被害者の多くから名ばかりと批判されている)「カウンセリング」の一環として、「家族カウンセリング」のために、一度だけ両親を呼んで、村上と面会させたことがあるためだ。

その時に、村上氏が筆者に送って来たメールが以下である。ちなみに、このメールは村上の記名が入っているが、伝道師の長澤氏のアドレスから送信されている。

このことは、2008年当時から、村上には信徒の個人情報に関する守秘義務という概念が全くなく、村上が伝道師と全ての情報を共有していた様子を物語っている。

2008年7月22日に村上密が「家族カウンセリング」を名目にヴィオロンの父と連絡を取った証拠

そして、実際に、筆者の両親は、筆者の依頼に基づき、村上の教会を訪れているのだが、村上はその際、筆者の両親がそろって教会を訪れた姿だけを見て、筆者の父には信仰がないという事実をよく確かめもせず、筆者の両親がともにクリスチャンであって、それ以前にも一緒に教会に通っていたのだと早合点したものと見られる。

また、村上は、その際、筆者の両親がどこに住んで何をしているかなどの情報も、二人から個人的に聞いて確かめている。

このように、杉本徳久が筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたとか、どこに住んで何をしているかなど、嘘をまき散らしているのは、いつものように、村上密の「強烈な思い込み」を伝授されてこれを真に受けた結果としか考えられないのである。

村上密と杉本徳久のブログは、このように、不確かな伝聞だけを頼りに、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を書き記す点で一致している。

そして、村上密が自身のブログで、これまでどれだけ大勢の同僚の牧師や信徒らの個人情報を悪用して、そうした情報を、村上の活動を批判するようになった元同僚や、信徒たちを誹謗中傷する材料として利用して来たかを思えば、あえて筆者が以上のように事細かく説明せずとも、村上が宗教トラブル相談センターを訪れた信徒らの個人情報を平気で漏洩しうる精神の人間であることに、異論を唱える者も、疑問を抱く人間もほとんどいまい。

 さらに、それに加えて、杉本自身が、筆者の情報について、村上密に問い合わせたと自らのブログで述べているのである。その際、村上が、杉本をいさめて、誹謗中傷をやめるよう説得したとか、信徒のプライバシーに触れる情報は一切提供できないと断ったなどの記述は全くない。

むしろ、杉本よりも前から、筆者に悪意を抱いていた村上は、杉本からの問い合わせを受けて、渡りに船とばかりに、筆者に関する情報を提供したのではないかと考えられる。

いずれにしても、そのような問い合わせを杉本から受けた際、村上が杉本を制止しようともせず、筆者の個人情報を漏洩したと見られる行為が、どこからどう見ても、牧師の道に完全に外れたあるまじき行動であることは言うまでもないだろう。

村上が杉本よりも先に筆者や当ブログについて書いた中傷の記事が、悪質な虚偽であることは、すでに幾度も述べて来た通りであり、筆者は杉本のみならず、村上にも記事の削除を求めているが、村上がそれに同意して記事を取り下げたという話を今の時点で全く聞いていない。

これで今でも牧師を名乗っているというのだから、心底、呆れ果てるのみだ。まさに牧師の名を穢すだけの、キリスト教徒を名乗る資格のない牧師である。杉本も村上も両者ともにゲヘナの子であるとしか言えない。

<③に続く。>

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀






~ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実~

さて、読者のために誤解のないよう断っておきたい。

この度、当ブログに対して長年に渡り、おびただしい回数の嫌がらせを行って来た「現代の風景 随想 吉祥寺の森から」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)および「神々の風景 ーreligious sceneー」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)と題するブログの著者杉本徳久氏およびその共犯者たちが刑事告訴された(この名は本人が公開したプロフィールから得たもの。情報は以下参照)。

上記のブログの著者とその共犯者たちが、2009年以来、当ブログに対してどんなに執拗かつ陰湿な嫌がらせと誹謗中傷を重ねて行って来たかについては、幾度も当ブログ記事で詳しく証拠を提示して記して来た通りであるので、これについては過去の記事を参照されたい。
  
杉本徳久氏への公開書簡」には、当ブログが、杉本なる人物から、本人の住所氏名連絡先を記した上で、送りつけられたおびただしい数の嫌がらせメールを公開している。当ブログは、そこで、杉本にとって気に入らない記事を一方的に削除するよう迫られたり、その不当な要求に応じなければ、当ブログ執筆者の個人情報を無断で暴露すると脅されたり、その他にも様々な嫌がらせを予告されて来た。
 
こうしたすさまじい陰湿な嫌がらせ行為を受けて、当ブログ執筆者が幾度も警察に報告・相談を行った結果、杉本および共犯らは、去る2月23日に神奈川県警察に名誉毀損罪により刑事告訴された。さらに、杉本は名誉毀損の他にも、つきまとい等の迷惑行為防止条例違反で警察から警告を受けている。

杉本は当ブログ執筆者が警察に相談していることを事実だと考えなかったのか、あるいは、それが事実であると大変不都合であると考えたのか、当ブログが警察に相談しているという事実が根拠のない虚偽であるかのように吹聴していたようだが、実際には、杉本の行為は刑法に触れる罪であって刑事事件にまで発展している。

さて、当ブログでは、何年も前に、「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」と題する論文を掲載し、そこで、杉本が何の公的資格にも基づかず、自らの義憤だけに基づいて、「教会のカルト化を監視する」として、自らのブログで、様々な教会やクリスチャンに関する不利な情報を集めては、教会や信者をブログでバッシングする記事を発表していることに、何の正当な根拠もないこと、また、杉本ブログに掲載されている情報が虚偽の温床になっていることを指摘した。
 
その記事の中で、杉本は、以上のようなクリスチャンや教会に対するいわれのない迫害の当然の報いとして、必ず刑罰を受けねばならなくなるだろうと予告した。

今回、まさにそうした予告が現実になった形であるが、やはり、聖霊に導かれるキリスト者の述べる事柄には、一つ一つ、本人が自覚している以上に深い意味があるのだと考えさせられる。

ちなみに、当ブログでは、2012年頃からすでに各種の掲示板等に投稿された嫌がらせのコメントに対して刑事告訴が可能である旨を警察から告げ知らされていた。ただし、杉本本人につながる確たる証拠が出て来るのを待ちたいという筆者の意向があったために、告訴がなされなかっただけである。

このように、現代という時代は、個人のブログであろうと掲示板であろうと、いずれにしても、書き込み者を特定して責任追及を行うことは十分に可能な世の中であるから、読者はよくよく熟慮してコメントを投稿されたい。
 
さて、筆者は杉本とは面識が全くないので、杉本徳久という名前がペンネームなのか本名なのかも知らない。杉本の年齢は、ブログの情報によれば、40代の男ということになろう。

杉本の職業は、本人が自らブログで社会福祉士であると述べていることから、ブログだけでなく、実生活においても、社会的弱者の救済をライフワークにしている様子が伺える。

しかし、それにしては、杉本は自らのブログで、筆者のような健康な人間を何の根拠もなく精神異常呼ばわりして嘲笑った挙句、精神異常者の社会への適応困難な状況や、就労困難を嘲笑するような内容の記事を書き、社会的弱者を罵倒しているわけであるから、人目につかないところで、そのような社会的弱者へのイジメのような行為にコソコソ手を染めていたことが発覚すれば、当然ながら、職場も解雇される恐れが十分に出て来る。

何よりも、刑法に抵触する行為の報いとして罰を受ければ、社会福祉士の国家資格を剥奪されることが十分に考えられる。

たかがブログと考えて、自分よりも弱そうな社会的弱者を鬱憤晴らしに貶めるような行為に手を染めれば、その報いとして、現実生活に数多くの不利益がふりかかることになるという見本のようである。何度も当ブログではそういう事態になることを警告していたのに、耳を貸さなかったのだから、愚かとしか言いようがない。
 
さて、杉本の住所は、「随想 吉祥寺の森から」および「神々の風景」および、さらに同じ人物が主催者となっているサッカーチームのブログ「Soccer team - FC弥生- Yayoi football club」の三つのブログで公開されているプロフィールを手がかりにすると、以下の通りである。

ちなみに、これらのプロフィールは未だに閉鎖されることもなく無防備に閲覧可能な状態で放置されている。(著者に自分が訴えられたことの自覚がまるでない様子を伺わせる。)

株式会社メディアテラスという会社が実在しているかどうかについても、筆者は知らない。ネットの情報によれば、何年も前から幽霊会社になっているという説もある。もしそれが事実だとすると、杉本に社会的弱者を笑っているような経済的余裕が本当にあるのかどうかも疑わしい。
 

   

 

http://d.hatena.ne.jp/religious/about

 

 

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/cat_50012366.html


 

http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi/20070112

さて、このブログの杉本徳久なる人物は、以上のプロフィールの連絡先に、警察からの連絡を受け、本人確認を済ませた上で、自ら以上のブログを書き、当ブログに対する嫌がらせ行為に及んだ事実を認めたものの、人権侵害に該当する記事の削除や、ブログの閉鎖を求められると、強硬に拒んでいるという。

この度、当ブログはプロバイダを通じても、杉本がブログの削除を拒否している旨の通知を受け取っている。事件になった以上、削除は本人の意志の問題でないことも、まるで分かっていない様子だ。そこには、一秒でも長くクリスチャンを害する情報をまき散らしたいという本人の悪しき願望を見るだけである。
  
きちんとした弁護士がついてさえいれば、杉本とてこのような愚かな行為に至ることはなかっただろう。何しろ、警察の警告にも耳を貸さないとなれば、悪印象が募り、本人がこの先、情状酌量を受ける余地がますます減って行くだけだからである。

このように、他人に迷惑をかけても一切の自覚がなく、法律を遵守しようとの姿勢もなく、自ら行った行為の犯罪性の認識が皆無で、刑法に触れる記事を削除するつもりもなく、被害者に謝罪する意志や、反省の態度も微塵も見られないとなると、やがて本人の意志に関わりなく、処罰を受けることでしか反省してもらう余地はないね、という結論が、関わった人々から異口同音に出て来るのは避けられないであろう。

ちなみに、一般には、不当な理由で告訴された人には、虚偽告訴という形で対抗することが可能であるが、杉本徳久の場合には、それは当てはまらない。なぜなら、杉本の嫌がらせ行為は、あまりにも大勢の人々が知り得る場所で行われており、十分すぎるほどの目撃者と証拠の蓄積があることに加え、杉本はこれまで一年間もかけて当ブログを刑事告訴しようと試みたにも関わらず、武蔵野警察署がそれを受理せず、杉本の訴えを棄却した経緯があるからだ。

そういう事情を考慮すれば、この先、警察が杉本の虚偽告訴を受理する可能性は、今まで以上に低くなったと言えるだろう。そのようなことをすれば、武蔵野警察が先の告訴を受けなかったことが誤りであったと認め、また、神奈川県警察の仕事を否定するも同然の格好になってしまう。
 
さて、筆者は、約9年間という長きに渡り、不当な嫌がらせによって損害を受けたことに対し、杉本に対し、民事においても責任追及する所存である。

杉本の虚偽(というより妄想)に溢れた「創作物語」に対する当ブログの公式な反論及び民事上の責任追及については、詳細を以下に公表するつもりであるが、情報の公開までは少しだけ待たれたい。

杉本の当ブログに対する主張が何から何まで完全に虚偽であることについて

さて、筆者はここで、杉本ブログで同様の被害に遭われたすべてのクリスチャンが、決して泣き寝入りすることなく、本人に対してしかるべき責任追及を行うよう呼びかけたい。

杉本はこれまで自分がクリスチャンや教会を訴えることに何のためらいもなかったわけであるから、自ら他者に対して行ったことを、自分自身の身に受けるのは、至極当然である。

事態を大きくすることをためらう必要はない。このような種類の人間は、強制力を行使して、捕えられ、世間からの強い圧力がかかることがなければ、決してクリスチャンをターゲットとして嫌がらせを続け、苦しめることをやめないであろう。

信徒は、住所や連絡先を公開せずとも、刑事や民事での責任追及は可能であるから、時効を迎える前にきちんとアクションを取られたい。
 
当ブログの読者であれば、杉本が長年に渡り、当ブログにしかけて来た争いが、当事者同士で解決できるレベルをはるかに超えており、筆者が個人でそれに対応しなければならない理由もなく、筆者自身にも市民としての措置を取る権利があることには同意してくれるだろう。

しかも、筆者がそうしたアクションを取るまでには、長い長い年月が経過している。その間に、杉本自身が、当ブログを刑事告訴すると息巻いていたことや、杉本から行われたあらゆる嫌がらせにも関わらず、筆者が杉本に幾度も和解を呼びかけては嫌がらせをやめるよう警告を行ったこと、むろん、警察に相談している事実があることも本人に知らせた上で、万策を尽くした事実があるわけだから、今更、以上のような措置に出たところで、遅すぎるという非難は受けたとしても、誰もそれに反対する者はいまい。

今後、事件の捜査および進展の過程で、新たな情報が出て来れば、それもまたここに掲載したいと考えている。
 
筆者はこれまで第三者を介した話し合いの場で、それまで居丈高に高圧的に振る舞い、暴言を吐き続けて来たような人間が、まるで捕えられた獣のように急におとなしくなり、何も言えなくなる瞬間を何度も目撃して来た。

筆者は弁護士という職業が好きではないが、あまりにもプライドに凝り固まり、真実が見えなくなり、感情的で、理性を見失った人間を相手にする場合には、向こうに弁護士がついている方が都合が良い場合もあることを知っている。なぜなら、弁護士は当事者よりもはるかに現実的に物事が見えており、裁判官の助言も重んじるため、当事者が感情に走りすぎている場合は、ちゃんといさめてくれるからだ。

弁護士にとって、紛争が長引けば得になると書いたのは、あくまで取りはぐれのない企業などが依頼人になっている場合であって、個人の争いが長引いても、弁護士に得になることはない。紛争が長引く間に、その個人が自己破産でもしようものならば、収入の見込みも途絶えるため、弁護士は個人の紛争をいたずらに長引かせず、裁判官の判断には基本的に従う。
 
そこで、当事者は、感情的になっていても、裁判官と自分の依頼した弁護士の両方から説得を受ければ、最終的に折れざるを得ない。紛争を第三者の前に持ち出すことの意味はこうしたところにある。

<②へ続く>


神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(2)

さて、これまでの記事の中で、聖書の順序では、肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害する、という出来事がまずあり、その次に、霊によって生まれた子が十分に強くなって意思表示を行うとき、初めて肉によって生まれた者が神の家から駆逐されて、霊によって生まれた者が正当な地位を取り戻すことを述べた。

自由の女(サラ)から約束によって生まれた子(イサク)だけが、神の国の正統な後継者であり、奴隷の女(ハガル)から肉によって生まれた子(イシマエル)は後継者になれない。

だが、奴隷とその子が神の家から追い出されるに当たり、どうしても必要だったのが、サラの意志表示であった。

「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。」(ガラテヤ4:29-30)

同様に、エステル記を読むと、ハマンを悪者として王に訴えたエステルの意志表示が決定的に重要な働きをなしていたことが分かる。

これは、サタンを神に訴えることが、キリスト者の使命であることをよく表している。キリスト者は、御霊によって生まれた者を迫害する肉なる者たちを、神に向かって告発し、これらの者が正体を暴かれて神の家から取り除かれるよう、神に懇願するという重要な使命を担っているのである。

ちなみに、話は逸れるが、以下の原則(ガラテヤ4:27)は、時代を問わず、エクレシア(神の教会)を貫くものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
  喜びの声をあげて叫べ。
  産みの苦しみを知らない女よ。
  一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

サラは老いてからであったとはいえ、約束の子イサクを産んだわけであるから、もはや「不妊の女」という蔑称はふさわしくない、と思うかも知れない。しかし、実は「不妊の女」「産みの苦しみを知らない女」「一人取り残された女」「夫のない女」と言った呼び名は、蔑称ではなく、純潔のエクレシアを示すためには欠かせない永遠に高貴な称号なのである。

最初の人類であったエバは弱さのゆえに罪に堕落して、最も不名誉の女の代表格となってしまった。しかし、こうして不適格者の烙印を押され、堕落の象徴のようにみなされ、見捨てられた存在のようになってしまった「女」を通して、逆説的に人類を回復しようということが、神のご計画の一部としてある。

そこで、神は選ばれた民ではなかったモアブ人ルツをキリストの系譜の中で選び出されたり、キリストを産むために処女マリヤを選び出されたり、スカルの井戸でサマリヤの女に話しかけられたりと、絶えず、選ばれた力ある民ではなく、力のない、無名で、見捨てられ、不名誉を負っていた女たちを、しばしばご計画の成就のために用いられたのである。

最終的には、「女」の回復は、キリストの花嫁たるエクレシアの従順によって成し遂げられる。

だが、そのことは、決して「女性原理」の賛美や崇拝と混同されてはならない。たとえば、多くの宗教画で「聖母マリア」が赤ん坊を抱いた女性として描かれ、その母性本能が褒めたたえられているのとは全く逆に、マリアがキリストをみごもったのは、肉の欲望によらず、肉なる母性本能によるものではなかった。キリストの誕生には、肉なる人間(男性)の参与も必要なければ、天然の「母性原理」が働く余地も全くなかった。マリアはあくまで「夫のない女」「不妊の女」として、聖霊によってキリストをみごもったのである。

このことはサラにも同様に当てはまる。イサクは聖霊によって生まれた子とは言えないが、それでも、サラが子供を産むことのできる条件を失ってから生まれた子であった。従って、これも「母性原理」によって生まれた子ではないとはっきり言える。イサクは神の約束によって、信仰によって与えられた子であり、その意味で、聖霊によって生まれるキリストを予表している。そのためにこそ、サラはイサクを産んだ後でも、「不妊の女」「夫のない女」と呼ばれ続けているのであるが、これは決して彼女にとって不名誉な称号ではなく、むしろ、栄誉ある称号であって、決して彼女が肉なる被造物に服することなく、キリストだけに従う永遠に純潔の花嫁たるエクレシアの一員として生きたことを象徴する呼び名なのである。

このように、エクレシアは永遠に「夫のない女性」「独身の女性」「不妊の女性」である。なぜなら、エクレシアの夫はキリストであるが、まだ彼女は夫が迎えに来るのを待っている未婚の花嫁の状態にあるからであり、その子は聖霊によってのみ生まれることが約束されている子だからである。このように霊的に”未婚”の状態にあること、肉による子供を持たないこと(肉に蒔いて肉による実を持たないこと)、キリストだけに服することは、エクレシアから決して取り除かれることのない条件である。

聖書は結婚を禁じたりは全くしていないが、それでも、パウロは、もし信者が独身でいられるならその方が良いと述べている。なぜなら、肉にある伴侶を持つと、その者に仕えねばならなくなり、こうして人間に対する気遣いに絶えず心を煩わせるよりは、むしろ神のことに専念できる立場にあった方が良いとパウロは言うのである。

「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Ⅰコリント7:28-35)

それに引き換え、肉によって生まれる者たちは、肉の事柄には聡く、「未婚」や「不妊」などの不名誉な称号とは無縁である。彼らは、霊によって生まれる者たちよりも早く子を産み、子供らの数、家族の人数、己が権勢、財産などの目に見える数々の所有物を誇る。ハマンも息子たちが数多いことを誇っていたとある。

だが、それは肉による実である以上、霊による実に比べ、全く永続性がない。永続性がないだけでなく、神の目には堕落して呪われた被造物である。それらは束の間に過ぎ去り、一時は栄えているように見えても、あっという間に消え失せてしまう。

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。


今日、信仰によらない、御霊によらない、肉にある者たちが、神の教会を荒らし回っている。彼らは、唯一の神も、キリストの十字架の贖いも、罪の赦しも、聖書の御言葉も、何一つ信じていないのに、「教会から被害を受けた」「教会のカルト化を許してはおけない」などの言いがかりをつけては、被害者意識、人間の正義感など、肉による動機を振りかざして、教会に自分たちを受け入れるよう迫っている。

この人々は、教会の一員となる資格を全く持っていないにも関わらず、教会を責め、言いがかりをつけることによって、教会の中に巧みに入り込もうとしており、それによって、教会を占拠し、信仰による神の民をかえって迫害・駆逐しようとしている。彼らの中傷、乱暴狼藉、暴虐によって、神の民はまさに圧迫され、滅ぼされようとしているところだ。

これに対し、我々は、エステルが王に願い出たと同様に、この狼藉者たちの暴虐を声を限りに非難し、神に訴えるべきである。彼らが神の民の根絶を願っていることを神に告げて、この不信者らがこれ以上、神の民に害を加えることなく、ふさわしい罰を受けるよう願い出るべきである。

彼らは、ハマンがエステルに懇願したように、神の民に憐れみを乞うことで、処罰を免れようとするであろうが、それは成らない。そして、肉による者たちが、霊による者たちに危害を加え、根絶やしにしようとしたその悪意は、肉による者たち自身に跳ね返る。

ハマンがモルデカイを吊るそうとして自宅に作った処刑台が、ハマン自身の処刑台となったようにだ。
 
ハマンの死を思うとき、今日も、キリストと共なる十字架で死んでよみがえらされ、キリストの復活の命によって生きる神の民を中傷し、穢し、冒涜する者には、一体、この先、どんな厄災が降りかかることであろうか。

カルト被害者救済活動の支持者らは、神の民を精神異常者呼ばわりしているが、彼らが述べている世迷いごとを見れば、実際には、彼らこそ、まさに精神異常に陥っていることが、精神科医でなくとも、誰にでもすぐに分かる。勝ち目もない裁判に信徒を焚き付けたり、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を並べて人々を中傷したり、彼らの言うことには何の整合性もなく、彼らのしていることは自滅行為でしかなく、もはや人としての最低限度の常識や思考能力すらも完全に見失い、早く自分を罰してくれと世に向かって叫んでいるに等しい。

これが聖徒らを訴える者に降りかかる不幸な結末なのである。何度も述べて来たように、「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 」(箴言1:7)とあるように、聖書の御言葉に従うことこそ、知恵と知識への道であり、御言葉を否定することは、無知と精神崩壊の始まりである。

聖書の御言葉に悪質に逆らう者たちからは、人としてのバランスの取れたものの見方や、常識や、健全な思考能力がどんどん失われて行く。彼らはこれまで裁判を振りかざしては教会を脅し、圧迫して来たが、実際に、自ら宣言している通り、裁判所に赴いてみれば良いのだ。彼らが述べているような嘘に満ちた一貫性のない屁理屈は、この世の人々の前でも、決してまかり通ることがないとすぐに分かるはずだ。

ハマンはエステルに訴えられて後、王の前で「顔を覆われた」。これはハマンが人に忌み嫌われる者の象徴となったことを意味する。この世の言い回しでは「人を呪わば、穴二つ」だが、キリスト者を呪った場合は、「穴一つ」だ。なぜなら、呪った者自身にその悪意が跳ね返るだけだからだ。

愚かなことである。カルト被害者救済活動の支持者らが、わざわざ自分で呪詛の言葉を口にしたりしなければ、それが彼らの身に降りかかることもなかったであろう。「一度口から出した言葉は取り消せない」と、彼らは自ら述べているのだから、彼らは自ら述べた言葉によって罪に定められ、その言葉は二度と撤回できまい。この先、顔を覆われた者同然に扱われることになるのは、彼ら自身である。それが彼らが自分で振りかざした掟によって自ら裁かれることの結末であり、彼らが自分で口にした言葉の刈り取りなのである。

このように、聖書の神、聖書の御言葉に敵対し、神の教会に敵対し、キリスト者を冒涜し敵対する者たちは、信者から憎まれるだけでなく、この世からも憎まれることになる。なぜなら、キリストの復活の命に基づくエクレシアの支配は、この世を超越しており、この世に対しても及んでいるからだ。
 
「その日アハシュエロス王は、ユダヤ人の敵ハマンの家を王妃エステルに与えた。モルデカイは王の前にきた。これはエステルが自分とモルデカイがどんな関係の者であるかを告げたからである。 王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、モルデカイに与えた。エステルはモルデカイにハマンの家を管理させた。

エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。 王はエステルにむかって金の笏を伸べたので、エステルは身を起して王の前に立ち、そして言った、「もし王がよしとされ、わたしが王の前に恵みを得、またこの事が王の前に正しいと見え、かつわたしが王の目にかなうならば、アガグびとハンメダタの子ハマンが王の諸州にいるユダヤ人を滅ぼそうとはかって書き送った書を取り消す旨を書かせてください。 どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか」。

アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った、「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、わたしはハマンの家をエステルに与え、またハマンを木に掛けさせた。あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書をつくり、王の指輪をもってそれに印を押すがよい。王の名をもって書き、王の指輪をもって印を押した書はだれも取り消すことができない」。

その時王の書記官が召し集められた。それは三月すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてインドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。 その書はアハシュエロス王の名をもって書かれ、王の指輪をもって印を押し、王の御用馬として、そのうまやに育った早馬に乗る急使によって送られた。 その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。

ただしこの事をアハシュエロス王の諸州において、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに行うことを命じた。 この書いた物の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、ユダヤ人に、その日のために備えして、その敵にあだをかえさせようとした。王の御用馬である早馬に乗った急使は、王の命によって急がされ、せきたてられて出て行った。この詔は首都スサで出された。

モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。
 
十二月すなわちアダルの月の十三日、王の命令と詔の行われる時が近づいたとき、すなわちユダヤ人の敵が、ユダヤ人を打ち伏せようと望んでいたのに、かえってユダヤ人が自分たちを憎む者を打ち伏せることとなったその日に、ユダヤ人はアハシュエロス王の各州にある自分たちの町々に集まり、自分たちに害を加えようとする者を殺そうとしたが、だれもユダヤ人に逆らうことのできるものはなかった。すべての民がユダヤ人を恐れたからである。

諸州の大臣、総督、知事および王の事をつかさどる者は皆ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイを恐れたからである。モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。ユダヤ人はまた首都スサにおいても五百人を殺し、滅ぼした。またパルシャンダタ、ダルポン、アスパタ、 ポラタ、アダリヤ、アリダタ、パルマシタ、アリサイ、アリダイ、ワエザタ、すなわちハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンの十人の子をも殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。」

さて、エステルが王にハマンの悪事を告げて以後、ハマンはまず自分自身の栄誉、生命を失い、次に、ハマンの家が取り上げられ、さらに、ハマンの子供たちも殺された。

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)とあることを思い出そう。

 王は先に出したユダヤ人殺害の詔勅を取り消すことはしなかった代わりに、ユダヤ人が共同してこれに反撃することを許した。そのため、人々の心にユダヤ人への恐れが生じ、大規模な殺害は起きなかったが、それでも、ユダヤ人を憎み、殺害を願っていた人々はまだ残っていたと見られ、これらの人々は反撃を受けて滅ぼされることになる。

 その中で、ハマンの子供たちも殺されたところを見ると、ハマンの計画は、ハマン一人の思いつきというより、一つの思想体系を為しており、子孫らにも受け継がれていた様子が伺える。このように、悪しき思想体系が出来上がり、多くの人々の心をとらえ、ユダヤ人を憎む一大勢力を築き上げていたのである。

 このことは、村上密率いるカルト被害者救済活動が、教会を憎んだり、恨んだりする人々の心を引きつけて、一大要塞化して、教会やクリスチャンに敵対する勢力となっていたことを思わせる。一人の人間が、ある思想を体現するのである。聖書の御言葉に基づく信仰を体現する者もいれば、反キリストの思想を体現する者もいる。そしてそれらの人物が要塞化し、多くの人々を引きつけてて一大勢力となるのである。

 このように悪の要塞と化した勢力を、その巣のレベルから根絶やしにするためには、ユダヤ人たちは、ハマンの残党を駆逐し、敵の牙城を襲撃することがぜひとも必要だったのである。

「その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、 王は王妃エステルに言った、「ユダヤ人は首都スサで五百人を殺し、またハマンの十人の子を殺した。王のその他の諸州ではどんなに彼らは殺したことであろう。さてあなたの求めることは何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞きとどけられる」。

エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。 王はそうせよと命じたので、スサにおいて詔が出て、ハマンの十人の子は木に掛けられた。 アダルの月の十四日にまたスサにいるユダヤ人が集まり、スサで三百人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。

王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。 これはアダルの月の十三日であって、その十四日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 しかしスサにいるユダヤ人は十三日と十四日に集まり、十五日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 それゆえ村々のユダヤ人すなわち城壁のない町々に住む者はアダルの月の十四日を喜びの日、酒宴の日、祝日とし、互に食べ物を贈る日とした。

モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。すなわちこの両日にユダヤ人がその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変ったので、これらを酒宴と喜びの日として、互に食べ物を贈り、貧しい者に施しをする日とせよとさとした。

そこでユダヤ人は彼らがすでに始めたように、またモルデカイが彼らに書き送ったように、行うことを約束した。 これはアガグびとハンメダタの子ハマン、すなわちすべてのユダヤ人の敵がユダヤ人を滅ぼそうとはかり、プルすなわちくじを投げて彼らを絶やし、滅ぼそうとしたが、 エステルが王の前にきたとき、王は書を送って命じ、ハマンがユダヤ人に対して企てたその悪い計画をハマンの頭上に臨ませ、彼とその子らを木に掛けさせたからである。 このゆえに、この両日をプルの名にしたがってプリムと名づけた。そしてこの書のすべての言葉により、またこの事について見たところ、自分たちの会ったところによって、 ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、 この両日を、代々、家々、州々、町々において必ず覚えて守るべきものとし、これらのプリムの日がユダヤ人のうちに廃せられることのないようにし、またこの記念がその子孫の中に絶えることのないようにした。

さらにアビハイルの娘である王妃エステルとユダヤ人モルデカイは、権威をもってこのプリムの第二の書を書き、それを確かめた。そしてアハシュエロスの国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に、平和と真実の言葉をもって書を送り、断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。エステルの命令はプリムに関するこれらの事を確定した。またこれは書にしるされた。
 
アハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。彼の権力と勢力によるすべての事業、および王がモルデカイを高い地位にのぼらせた事の詳しい話はメデアとペルシャの王たちの日誌の書にしるされているではないか。ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。

こうして、ハマンの悪しき計画は、ハマン自身の頭上に返され、ハマンは恥を受けて命を失い、ハマンが根絶やしにしようとした民は喜びに溢れ、ハマンが踏みつけにしたモルデカイは、王に次ぐほどの高貴な地位を得た。ハマンの子供たちは、殺害された後で、木にかけられたのかも知れないが、「木にかけられる」とは、その者が呪われることを意味する。エステルはハマンの家系が呪われていることを神と人との前で示すためにそれを求めたのである。

エステル記におけるこのような記述を指して、「キリスト教は残酷だ」「だから一神教はダメなんだ」と述べようとする人々がいる。ハマンがユダヤ人を殺害しようとした計画は悪いにせよ、その報いとしてハマンやその残党が殺される必要が本当にあったのかと異議を唱える人々もいれば、中には「ハマンとその子たちが可哀想」などと同情論を唱える人間もいるかも知れない。

しかし、そのような考えこそ、キリスト教にはバランスが足りないなどと述べて、「人間にやさしいキリスト教」を作り出すために、聖書にはない「何か」をつけ加えて、キリスト教を異端と混ぜ合わせて混合宗教を作り出そうとする考えなのである。そこから、カルト被害者救済活動なども生まれて来たことを思うべきである。

要するに、カルト被害者救済活動とは、(彼らに言わせれば非常に残酷かつ偏った)キリスト教の救いから「除外」され、「被害」を受けた可哀想な自称被害者たちを、何とかして教会に取り戻し、救いに戻してやろう、という人間的な思いから始まる。

神の選びを自ら退け、信仰を捨て、御言葉に服することをやめ、教会の敵にまでなった人々が、神に従うことをやめた自分の弱さを憐れむがゆえに、自分は正しく、神の判決こそ間違っている、非常識なのはキリスト教だ、と考えて、キリスト教に不服を述べ、キリスト教を人間の観点から罪定めするところから、この活動は始まっている。

そのようにして、人間の掟を神の掟以上に高く掲げる人々が、神の救済の対象になることは決してない。なぜなら、彼らは自分自身の罪を決して認めず、悔い改めをも拒んでいるからである。彼らは人間(自分自身)に同情するあまり、罪の悔い改めなくして赦しもないという初歩的な聖書理解をさえ完全に見失い、自分自身の罪をあたかも聖なる要素のごとく掲げているのである。

このように聖書の救いに悪質に対抗する考えを持つ人々が、神の救済の対象となることは決してなく、彼らが聖書の御言葉を曲げ、御子の救いを拒んだ者たちとして罰せられるのは避けられない。彼らを裁くのは、彼ら自身が掟として掲げているこの世の常識であり、この世の法である。彼らは自分たちが人を裁いた基準で、自分自身が裁かれることになるのである。

エステル記は霊的な戦いの絵図であり、神の民の殺害を望むような人々には、その計画が彼ら自身に跳ね返ることをよく示している。この法則は昔も今も決して変わらない。

だから、読者らは、この先、カルト被害者救済活動の支持者らに起きることを、よくよく見てもらいたいと思うのだ。なぜなら、こうした出来事の背景には、霊的な法則が働いており、残酷なまでに冷徹で動かせない結果が現れるからだ。

カルト被害者救済活動の支持者らが、神の民の前で、己が家、家族の人数、子供たちの数、支持者の数、財産、高い職業的地位などを誇ったことが、この先、どのように呪わしい形で彼ら自身に跳ね返るか、よくよく見てもらいたいと筆者は思う。

バビロンは、花婿なるキリストが来られる前に、すでに夫を得て、富んでしまっていた女であった。いや、それは夫というより、数々の愛人と呼んだ方がふさわしい。なぜなら、結婚の約束がないのに、バビロンは愛人たちに早々に身を売ったからである。

だが、ここで言う「バビロン」とは、神に逆らう人類全体を象徴しており(カルト被害者救済活動のような反聖書的な思想体系も含まれる)、バビロンの「愛人」とは、霊的には、この世の目に見える事物を指す。バビロンは孤独や貧しさを嫌っていたがゆえに、キリストが来られるまで辛抱強く一人で待てなかった。彼女は花婿を待つことをやめて、花婿との約束をたがえて、手っ取り早く愛人に身を売り、その報酬として、女王のように豊かになり、孤独とは無縁の享楽的な生活を送った。

だが、もし彼女が、自分はキリストを待てなかったので、愛人に身を売ったのだと自ら認めていれば、彼女の罪はまだ軽かったかも知れない。バビロンの最も忌まわしい罪は、キリストへの貞潔を失っていたにも関わらず、自分はキリストの花嫁にふさわしいかのように振る舞い、真にキリストを待つ民を迫害しながら、嘘をつき続けた点にある。彼女は、自分の心のねじ曲がっており、不誠実で、嘘つきであることをよく知っていたので、自分の心の醜さを隠すために、貞潔にキリストだけを待っている聖徒らを蔑み、聖徒らに罪を着せて悪しざまに言い、自分の高い地位、財産、愛人や取り巻きの数、子供の人数などを誇りながら、自分だけは苦しみや災いに遭わなくて済むと豪語して、聖徒らが御名のゆえに味わっている孤独や貧しさや苦難を蔑み、エクレシアを踏みつけにして嘲笑ったのである。

その結果として、神はバビロンにしたたかに復讐された。バビロンの罪の中には、エクレシアへの蔑みや嘲笑、冒涜の罪も、当然ながら含まれている。バビロンに対する報復は、聖書において決定済みの事項であるから、誰にも覆せない。彼女が人前で誇った数々の宝が、どのように一つ一つ、彼女から奪い取られ、消え去って行くかを見る時、バビロンが聖徒らの苦難を嘲笑うことの罪深さを、誰もが思い知ることができるだろう。

律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 律法は、信仰をよりどころにしていません。
律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからですそれは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:11-14)

このように、私たちは律法(人間の掟)によって生きる者ではなく、信仰によって生きる義人である。そして、私たちのためには、すでに呪いとなった木にかかって下さった方がいる以上、私たちを呪うことのできる存在は誰一人としていない。神の御怒りと裁きは、かえって神の子供たちを呪い、冒涜する者たちに注がれる。

カルト被害者救済活動の支持者らは、聖書の御言葉を曲げた自分たちに、当然の裁きと報復が待っているという事実を見たくないがゆえに、聖徒らの証の言葉に猛反発しているだけである。しかし、彼らが何を言ってみたところで、決定は変わらない。彼らへの裁きがどうなるかは初めから確定している。なぜなら、律法によっては義とされる人は誰もいないからだ。彼らは自分たちが聖徒らを裁こうとして振りかざした厳しい基準で、自分自身が裁かれて終わるだけである。
 
ハレルヤ。
 救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
 その裁きは真実で正しいからである。
 みだらな行いで
 地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、
 御自分の僕たちの流した血の復讐を、
 彼女になさったからである。

 「ハレルヤ。
 大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:1-3)


神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(1)

これから、色々と書かなければならないことが山積みである。まずはエステル記からだ。

今回、筆者は9年間という長きに渡り、当ブログにおける信仰告白の殲滅を願って筆者を脅しつけ、筆者を貶め、辱めようと悪意を持ってつけ狙い、筆者の人生の平穏を残酷に奪って来た者たちに対して、ついに法的措置に出た。

それによって、当ブログへの評価を高め、筆者の信仰者としての立場に賛同し、全力を挙げてこれを支援する読者も出て来れば、あるいは当ブログへの理解を失い、あるいは恐れて去って行く読者も出て来るだろう。

そのようなことはすべて予測済みである。そもそもカルト被害者救済活動がこれほど腐敗した運動であり、聖徒らに対する敵意と憎悪に燃えていることが、これほど公衆の面前で明らかになるまでには、相当な月日が必要であり、そうなるまでの間、当ブログの意見に理解を示さない者たちは数多く存在した。

だが、筆者は当ブログを読者の歓心を得るために書いているわけではない、と何度も断っている。だから、この事件を人々がどのように受け止めるかにはあまり関心がない。

重要なことは、キリスト者が暗闇の勢力に対峙するに当たり、どのように神の国の権益に立ってこれを擁護する決意を固めて行くかという信仰の成長にある。筆者自身が、以上のような決意に至るまでに、長い長い年月が流れている。その間に筆者が和解を呼びかけた回数も、一度や二度でないことは誰もが知っている。

どのような罪人に対してであれ、憐れみを唱えようとする人間の肉なる情が、筆者には分からないわけではない。しかし、今回は決してそうした肉の情に従うわけには行かない。むしろ、キリストと共なる十字架において、セルフに死んだ者として、筆者はすべての肉の情をきっぱりと断ち切り、御言葉によってすべてを明白に切り分けるレビ人の剣を手に取り、神の国の権益を擁護する者として、神の教会に敵対し、これを冒涜しようとする者たちに、あらゆる正当な手段を尽くして毅然と立ち向かう。そうすることこそ、まさに神の願っておられる、御言葉に基づく正しい行動なのであると確信する。従って、筆者はアダムに属する者でない以上、アダムを擁護することはできない相談である。

だが、むろん、筆者自身にとっても、その教訓を学ぶことは、一朝一夕でなかったことは言っておかねばならない。

多くの人々が、生まれながらの人間の情ゆえに、カルト被害者救済活動に理解や憐憫を示し、それゆえ、次々と彼らに敗北して行った。彼らはクリスチャンを名乗りながらも、聖書の御言葉よりも、人間としての情愛を優先し、人間が恥をかかされないことを優先して、罪が罪として暴かれ、悪者が悪者として罰せられることを嫌ったのである。

しかし、彼らが罰せられなければならないことは、何年も前からすでに決定済みであったと言える。

そのことは、筆者がかつて「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか ――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」の中で、以下のように記した通りである。

要するに、カルト被害者救済活動を支持する人々は、キリストの贖いではなく、自分自身の虐げられた被害者性を持って、自分を教会の一員として認めよと、教会に迫っているのである。それは罪ある人間が、自分は弱者であるがゆえに、悔い改めも、キリストの贖いも経ないのに、罪を免罪されて聖とされるべきと言っているに等しいのであるから、そのようなねじ曲がった考えは、悪質に福音に敵対するものとして、到底、聖書の神によって受け入れられる見込みがない。
 
 「生まれながらの人間は、何とかして肉の罪深い本質が暴かれることなく、自分の罪が照らされることなく、義に達する道がないかと模索しています。生まれながらの人間の心の中には、自分のものであれ、他人のものであれ、人間の罪を決してあるがままの罪として暴かれたくない・見たくない・認めたくないという思いがあります。他人の罪が暴かれることも、自分の罪が暴かれることも同じように、生まれながらの人間にとっては脅威になり得ます。人間は人間を良いものとみなし、人間に恥をかかせたくないのです。だからこそ、人は自分が間違いを犯したことが明白である時でさえ、悪いのはその人を苦しめた環境であって、その人(弱者)自身に罪はないと思いたいのであり、そう言ってくれる他者に飛びつきたいのです。しかし、それは神の事実に基づいた結論ではありません。

神は私たちのあるがままの姿がどんなものであるか知っておられます。弱者であろうと、虐げられた貧しき人々であろうと、抑圧された者たちであろうと、一人残らず、神の御前には惨めな罪人に過ぎません。しかし、光の下に正直に進み出たくない人々は、自分の裸の恥を神の御前で隠し、自己の罪を美化しようとするだけでなく、他者の罪が暴かれることに対しても、激しく抵抗することがあります。そして、罪を罪としてはっきり指摘し、神に立ち戻るよう忠告する人をいわれなく罪定めして退け、逆に、罪を隠蔽し、かばうことを、思いやりや、憐れみや、優しさなどと呼びかえ、悔い改めに導かれる必要のある他者に向かって「あなたは正しいので、悔い改めなど必要ない」とささやき、その人をさらに神から遠く引き離してしまうのです。

 「バラバを十字架につけるな、キリストを十字架につけよ!」という叫びの根底には、何とかして人間に十字架を経由させることなく、人が罪を認めることも、悔い改めることもなくして、人間が傷ついたり、恥じ入ったり、名誉を失うことなくして、尊厳を保ったまま無罪放免される方法がないのかという、人の生まれながらの自己の叫びがあります。

 <略>”弱者”であるから、”被害者”であるから、”虐げられた貧しき人々”だからといって、その人たちに義があるわけではないのです。全ての人が神の御前に生まれながらに罪人なのです。それにも関わらず、”弱者”の美名を利用して、人が自己の内にある罪の本質から目を逸らし、己の内にまるで正義があるかのように思い込み、実際にそう主張していく時、それはいかに人の目には崇高な理念のように見えたとしても、人が神の義を退けてでも、生まれながらの人間を義としようとする、巧妙で悪質な神への反逆になるのです。

<略>   クリスチャンが正直に罪を罪と呼ぶことをやめ、罪人がキリストと共に十字架へ赴く必要を否定して、むしろ、罪人に対する神の刑罰としての十字架を退けて、罪人に対する直接的な”愛”や”憐れみ”や”赦し”や”慰め”の必要を訴えていくとき、それは私たちが再び、バラバを赦してキリストを十字架につけよと叫んでいるのと同じなのです。<略>

「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」(Ⅰヨハネ1:8) 「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19)

「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)

 最後に、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、主が血潮によって罪赦されたクリスチャンをいわれなくそしり、聖書の御言葉を曲げてでも、教会とクリスチャンを踏みにじり、数々の汚しごとを言い、キリストの花嫁である教会を争いによって引き裂き、虚偽に満ちた議論を展開しては、多くの人々を欺いてキリストの御名を貶めて来た人々が、この先、どうなるかは聖書が予告している通りです

「…この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。」(ユダ10)

彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた全ての人を、さばくのである」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、「また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。」(ヘブル10:28-31)

 以上の記事を書いた時点では、筆者はまだカルト被害者救済活動の支持者らがどのような形で罰せられることになるのかを具体的に知らなかった。その中で自分がどのような役割を果たすのか、また、そのために必要な措置が何であるかも知らなかった。

 しかし、それでも、聖書の御言葉は、その当時から、彼らの最期をはっきりと告げていたのである。それだからこそ、何年も前から、筆者は彼らの辿る結末を知っており、以上の記事を記すことができた。次の御言葉は何度でも繰り返すに値する。

「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。」

 以上の御言葉こそ、筆者が今回のような措置を取るに当たり、依って立っている根拠である。これまで筆者は、彼らのいわれなき告発に対して、キリストの義に立って、防戦するのみであった。しかし、今ここに筆者は彼らとの関係性を逆転して、反撃に転ずる――聖書の御言葉に基づき、彼らの処罰を求めるという積極的な反撃を開始するのである。

 カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャンを罪に定めて処罰することを望んでいたことを思い出されたい。彼らは筆者を含む、神が贖われて義とされたクリスチャンや教会をまるで犯罪者のごとく処罰しようと望んでいたのである。

 だとすれば、なぜ筆者を含むクリスチャンの側だけが、いつまでも彼らに対する憐れみを持ち続けねばならないのか。いや、むしろ、彼らが望んだ悪しき願いは、そっくりそのまま、彼ら自身の上に注ぎ返すべきではないのか。

 カルト被害者救済活動の支持者らがクリスチャンを罪に定め、処罰を求めるなど、完全に筋違いであり、まさに倒錯した願いであると言える。むしろ、実際は、神に贖われて義とされたクリスチャンこそ、彼らに対する処罰を求めるにまことにふさわしい存在なのである。暗闇の勢力はおそらくそれを最初から分かっていればこそ、自分たちの生き残りをかけて、無防備で無自覚なクリスチャンに先手を打って戦いをしかけたのだろう。
 
 これから先、この戦いがどうなるのかは、筆者自身にとっても非常な関心がある。なぜなら、そこには筆者個人の人生が関わっているだけでなく、聖書の真理、神の御言葉の永遠の正しさがかかっているためである。従って、この先は、筆者の肉の努力や個人的な思惑によらず、神ご自身が御言葉の正しさを証明されるための手続きなのであって、神ご自身が対応されることであろう。

 さて、今回と次の記事の中で、クリスチャンが誰でも知っているエステル記(第3章~第8章)の有名な物語を引用しながら考察してみたい。

「これらの事の後、アハシュエロス王はアガグびとハンメダタの子ハマンを重んじ、これを昇進させて、自分と共にいるすべての大臣たちの上にその席を定めさせた。 王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。

しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。 そこで王の門にいる王の侍臣たちはモルデカイにむかって、「あなたはどうして王の命令にそむくのか」と言った。 彼らは毎日モルデカイにこう言うけれども聞きいれなかったので、その事がゆるされるかどうかを見ようと、これをハマンに告げた。なぜならモルデカイはすでに自分のユダヤ人であることを彼らに語ったからである。

ハマンはモルデカイのひざまずかず、また自分に敬礼しないのを見て怒りに満たされたが、 ただモルデカイだけを殺すことを潔しとしなかった。彼らがモルデカイの属する民をハマンに知らせたので、ハマンはアハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと図った。


 王に引き立てられて得意になった大臣ハマンが、ユダヤ人全体に対して敵意と憎悪を抱いた直接のきっかけは、ユダヤ人モルデカイがハマンの前にひざまずかず、ハマンを神として崇めなかったことによる。ハマンは王に仕える臣下であったとはいえ、内心では、自分を王に等しい存在であるとみなして、王の代弁者のように振る舞っていた。(自分を王と思っていたと言っても過言ではないだろう。)
 
 カルト被害者救済活動の支持者らがどういうきっかけでキリスト教界全体に敵意と憎悪を抱くようになったのかは知らない。しかし、彼らが筆者個人に対して憎悪を抱いた直接のきっかけは、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団時代に津村昭二郎牧師の前にひざまずかず、村上密牧師の前にひざまずかず、KFCのDr.Lukeの前にもひざまずかず、ゴットホルト・ベック氏の前にもひざまずかず、彼ら牧師や指導者を名乗っている人間をことごとく神として崇めなかったことによる。

 要するに、筆者が牧師制度そのものの前にひれ伏さず、人間に過ぎない者を神として拝んだり、彼らを神のような絶対者とみなして聞き従うことを拒んだことによる。それゆえ、彼らは筆者を不遜な人間とみなし、筆者のために自分が恥をかかされたかのように考え、筆者を憎んだだけでなく、辱め、殺そうとまで願ったのである。(この人々の迫害の執拗さを見れば、彼らが筆者に対する憎悪のみならず殺意をも持っていたことは明白である。)

 聖書にはダニエル等、モルデカイと同じように、人間に過ぎない者を拝まなかったがゆえに迫害された人物は他にも登場する。しかし、彼らはことごとく迫害に対する勝利をおさめている。また、サムエルのように、腐敗した祭司エリのもとで幼少期を過ごしながらも、その腐敗に決して染まらなかった人物もいる。

 このように、神の民がどんなに腐敗する時にも、神はその民の中から、必ずご自分に忠実な人々をとりわけ、神の民全体を正すための準備を整えさせる。信仰に基づいて、見えないただお一人の神だけを神とするのか、それとも、目に見えるもろもろの被造物(人間を含む)を神として拝み、悪魔に魂を売るのか、それはキリスト者が生きている限り、直面し続ける戦いである。
 
アハシュエロス王の第十二年の正月すなわちニサンの月に、ハマンの前で、十二月すなわちアダルの月まで、一日一日のため、一月一月のために、プルすなわちくじを投げさせた。 そしてハマンはアハシュエロス王に言った、「お国の各州にいる諸民のうちに、散らされて、別れ別れになっている一つの民がいます。その法律は他のすべての民のものと異なり、また彼らは王の法律を守りません。それゆえ彼らを許しておくことは王のためになりません。 もし王がよしとされるならば、彼らを滅ぼせと詔をお書きください。そうすればわたしは王の事をつかさどる者たちの手に銀一万タラントを量りわたして、王の金庫に入れさせましょう」。 そこで王は手から指輪をはずし、アガグびとハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンにわたした。 そして王はハマンに言った、「その銀はあなたに与える。その民もまたあなたに与えるから、よいと思うようにしなさい」。」

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は理念が歪んでいるだけでなく、そこから登場する聖職者を名乗る人物も、あまりにも異常で偏っていたと言えよう。村上密は早くからカルト監視機構の設立を提唱し、全キリスト教界を自分自身の監督下に置くことを提唱していた。カトリック教会には統一的なヒエラルキーがあるが、プロテスタントにはそれがない。それゆえ、プロテスタントの教会は、「散らされて、別れ別れになっている」も同然の民であり、これを統一的に管理する規則はない。そこに村上は目を付けたのである。カルト被害者救済活動の支持者らは、プロテスタントの各教会が、誰も手を出せない聖域のようになっていることを許し難いと考え、これを彼らの監視下に置くか、もしくは彼らの支配に屈さない教会は、打ち滅ぼしてしまおうと考えたのである。彼らは諸教会に裁判をしかけることで、教会財産を略奪することをも初めから狙っていた。

「そこで正月の十三日に王の書記官が召し集められ、王の総督、各州の知事および諸民のつかさたちにハマンが命じたことをことごとく書きしるした。すなわち各州に送るものにはその文字を用い、諸民に送るものにはその言語を用い、おのおのアハシュエロス王の名をもってそれを書き、王の指輪をもってそれに印を押した。そして急使をもってその書を王の諸州に送り、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取れと命じた。 この文書の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、その日のために備えさせようとした。 急使は王の命令により急いで出ていった。この詔は首都スサで発布された。時に王とハマンは座して酒を飲んでいたが、スサの都はあわて惑った。」

カルト監視機構は設立されなかった。にも関わらず、村上密は自分の願いを諦めなかった。村上に従った多くの人々が、密偵のようになって各教会を監視し、その情報を偽って指導者に密告した。村上は被害者を募って、諸教会にカルト化の疑いをかけ、それを口実に、教会に対する攻撃としての裁判をしかけ、リーダーを辱めて追放し、信徒を追い散らし、教会財産を賠償金という名目で奪い取った。

モルデカイはすべてこのなされたことを知ったとき、その衣を裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、町の中へ行って大声をあげ、激しく叫んで、王の門の入口まで行った。荒布をまとっては王の門の内にはいることができないからである。すべて王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった。」

多くの牧師たち、信徒たち、教会が村上の手法に異議を唱えた。しかし、村上は自分の手先となった信徒たちを巧妙に利用して、自分の活動を批判する者たちを脅しつけ、反対をことごとく封じ込めて行った。

「エステルの侍女たちおよび侍従たちがきて、この事を告げたので、王妃は非常に悲しみ、モルデカイに着物を贈り、それを着せて、荒布を脱がせようとしたが受けなかった。そこでエステルは王の侍従のひとりで、王が自分にはべらせたハタクを召し、モルデカイのもとへ行って、それは何事であるか、何ゆえであるかを尋ねて来るようにと命じた。ハタクは出て、王の門の前にある町の広場にいるモルデカイのもとへ行くと、モルデカイは自分の身に起ったすべての事を彼に告げ、かつハマンがユダヤ人を滅ぼすことのために王の金庫に量り入れると約束した銀の正確な額を告げた。 また彼らを滅ぼさせるために、スサで発布された詔書の写しを彼にわたし、それをエステルに見せ、かつ説きあかし、彼女が王のもとへ行ってその民のために王のあわれみを請い、王の前に願い求めるように彼女に言い伝えよと言った。


ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。 エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」
 
カルト被害者救済活動の暴挙を食い止めるためには、聖書の御言葉に立っている誰かが、命をかけてこれに立ち向かう必要があった。どのような反撃を受けようとも、決して一歩も退かない覚悟で、彼らの暴虐を訴えて、これに立ち向かう勇気と決意を固める人間が現れることが、どうしても必要であった。しかも、その人間は、それができるだけの立ち位置を備えていなければならなかった。

筆者にはその条件が揃っていた。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で幼少期を過ごしたことも含めて、まるですべてがその準備のためのようである。だが、筆者とて、そうした決意と覚悟を固めるにはやや時間を要したことは確かであり、そして、筆者以外にはそれをすることができる人間が誰もいなかったとは思わない。もしも筆者が臆病にもその仕事を果たさなかった場合には、神はその仕事を筆者のような誰か他の人間に与えられただけである。(むろん、これから先は、もっとたくさん出て来る。)

いずれにしても、筆者は決意を固めるしかなかった。神の教会の敵どもの投げつけて来る悪罵と呪いの言葉を真に受けて、彼らの呪いの通りに、精神異常となって死ぬのか(断じてそのようなことは容認できず、またそんな結末を受け入れねばならない理由は筆者には何一つとしてない)、それとも、彼らの呪いは彼ら自身にお返しして、彼ら自身に負ってもらい、筆者は彼らの悪事を正々堂々と非難して、彼らに対する当然の処罰を求めて生きるのか。

神が筆者にどちらを願っておられるかは、明々白々であった(どうして神がキリスト者を精神異常にしたり、死へ追い込んだりすることを願われるものか)。だとすれば、神の民に対する敵意と殺戮の願いに燃える敵どもに対しては、毅然と対峙するしかない。

「三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。王は王宮の玉座に座して王宮の入口にむかっていたが、 王妃エステルが庭に立っているのを見て彼女に恵みを示し、その手にある金の笏をエステルの方に伸ばしたので、エステルは進みよってその笏の頭にさわった。 王は彼女に言った、「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。 エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、きょうわたしが王のために設けた酒宴に、ハマンとご一緒にお臨みください」。 そこで王は「ハマンを速く連れてきて、エステルの言うようにせよ」と言い、やがて王とハマンはエステルの設けた酒宴に臨んだ。

酒宴の時、王はエステルに言った、「あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。 エステルは答えて言った、「わたしの求め、わたしの願いはこれです。 もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしわたしの求めを許し、わたしの願いを聞きとどけるのをよしとされるならば、ハマンとご一緒に、あすまた、わたしが設けようとする酒宴に、お臨みください。わたしはあす王のお言葉どおりにいたしましょう」。


こうしてハマンはその日、心に喜び楽しんで出てきたが、ハマンはモルデカイが王の門にいて、自分にむかって立ちあがりもせず、また身動きもしないのを見たので、モルデカイに対し怒りに満たされた。 しかしハマンは耐え忍んで家に帰り、人をやってその友だちおよび妻ゼレシを呼んでこさせ、 そしてハマンはその富の栄華と、そのむすこたちの多いことと、すべて王が自分を重んじられたこと、また王の大臣および侍臣たちにまさって自分を昇進させられたことを彼らに語った。 ハマンはまた言った、「王妃エステルは酒宴を設けたが、わたしのほかはだれも王と共にこれに臨ませなかった。あすもまたわたしは王と共に王妃に招かれている。 しかしユダヤ人モルデカイが王の門に座しているのを見る間は、これらの事もわたしには楽しくない」。

その時、妻ゼレシとすべての友は彼に言った、「高さ五十キュビトの木を立てさせ、あすの朝、モルデカイをその上に掛けるように王に申し上げなさい。そして王と一緒に楽しんでその酒宴においでなさい」。ハマンはこの事をよしとして、その木を立てさせた。」

エステル記に登場する王は、まるで中立的な裁判官のようで、王自身のキャラクターはかなり薄いと言える。どちらかと言えば、登場人物の方がはるかに個性的で、それぞれの意見をはっきり持っており、彼らの進言する内容が王に大きな影響を及ぼす。

これは王が象徴的に神を表していることによる。今日、聖徒らも、悪魔と暗闇の軍勢も、みな同様に神の御前に立って、それぞれの意見を述べているのである。我々は地上にいる間は、目に見える人間を相手にしているつもりになっているかも知れないが、我々のすべての言葉は、神に対する訴えとして聞かれているのである。

すなわち、暗闇の勢力は、聖徒らに対する敵意と憎悪と罪定めの言葉を、聖徒らは暗闇の勢力の悪事と彼らに対する処罰を、神に向かって訴えている。そして、ご存知の通り、ハマンが自分を拝まないモルデカイを憎んで殺すために、自分の家の庭に作った処刑台は、ハマン自身のための処刑台となる。

これは、暗闇の勢力が聖徒らに害を加えようと願ったその願いが、彼ら自身に跳ね返ることを意味する。もちろん、ハマンがモルデカイを木にかけて殺そうと願ったことは、キリストの十字架の予表でもある。だが、キリストは十字架において最後の敵である死を滅ぼし、ご自分に対する殺意を表明する勢力に完全に勝利を取られた。そこで、これから処罰されるのは、悪魔と暗闇の勢力なのである。

「その夜、王は眠ることができなかったので、命じて日々の事をしるした記録の書を持ってこさせ、王の前で読ませたが、 その中に、モルデカイがかつて王の侍従で、王のへやの戸を守る者のうちのビグタナとテレシのふたりが、アハシュエロス王を殺そうとねらっていることを告げた、としるされているのを見いだした。 そこで王は言った、「この事のために、どんな栄誉と爵位をモルデカイに与えたか」。王に仕える侍臣たちは言った、「何も彼に与えていません」。

王は言った、「庭にいるのはだれか」。この時ハマンはモルデカイのために設けた木にモルデカイを掛けることを王に申し上げようと王宮の外庭にはいってきていた。 王の侍臣たちが「ハマンが庭に立っています」と王に言ったので、王は「ここへ、はいらせよ」と言った。 やがてハマンがはいって来ると王は言った、「王が栄誉を与えようと思う人にはどうしたらよかろうか」。ハマンは心のうちに言った、「王はわたし以外にだれに栄誉を与えようと思われるだろうか」。

ハマンは王に言った、「王が栄誉を与えようと思われる人のためには、 王の着られた衣服を持ってこさせ、また王の乗られた馬、すなわちその頭に王冠をいただいた馬をひいてこさせ、 その衣服と馬とを王の最も尊い大臣のひとりの手にわたして、王が栄誉を与えようと思われる人にその衣服を着させ、またその人を馬に乗せ、町の広場を導いて通らせ、『王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ』とその前に呼ばわらせなさい」。

それで王はハマンに言った、「急いであなたが言ったように、その衣服と馬とを取り寄せ、王の門に座しているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを一つも欠いてはならない」。 そこでハマンは衣服と馬とを取り寄せ、モルデカイにその衣服を着せ、彼を馬に乗せて町の広場を通らせ、その前に呼ばわって、「王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ」と言った。
こうしてモルデカイは王の門に帰ってきたが、ハマンは憂え悩み、頭をおおって急いで家に帰った。 そしてハマンは自分の身に起った事をことごとくその妻ゼレシと友だちに告げた。するとその知者たちおよび妻ゼレシは彼に言った、「あのモルデカイ、すなわちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」。
彼らがなおハマンと話している時、王の侍従たちがきてハマンを促し、エステルが設けた酒宴に臨ませた。」

不思議なことに、ハマンの取り巻き連中の中には、かなり賢明な判断をする者たちが含まれていたようだ。ハマンの妻でさえそうである。彼らはユダヤ人に不思議な力があって、それ以外の全ての民にまさる力があることを知っていた。そして、王がモルデカイの功績を思い出し、彼を取り立てたことが、ハマンの敗北の始まりであることをも、彼らはちゃんと理解していたのである。

次回は、いよいよモルデカイを殺そうと願ったハマンが辱められ、木に吊るされる場面について解説したい。だが、その記事を挙げる前に、筆者は断っておきたい。カルト被害者救済活動の支持者はもはや完全にこの分岐点を過ぎているため、彼らに残されているのは、ただ「木にかけられる」ことだけであると。
 
<続く>

キリストの花嫁たる教会の聖と高貴さについて―キリストと共にすべての権威を超えて支配する教会―

オリーブ園に非常にタイムリーな記事が載っているため、転載したい。オースチン-スパークスの「土台のある都」 第六章 都――天の統治の座 (5)から。


三.その行政上の特徴

 教会に関して、また私たちの現在の題目である「土台のある都」としての教会のために、この手紙の中に示されている三番目の点は、その行政上の特徴です。この手紙の中にこれを明らかに示す数々の事柄が示されています。この都、この教会を構成するこの民の天的性質と霊性のゆえに、そこには一つの強力な行政上の要素があります。これに関して一つか二つの節を見ることにしましょう。

 エペソ一・二一~二二。「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされました。また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました……」。主御自身と共に、そして教会の主権的かしらとしての彼の地位から始まります。

 二章六節。「キリスト・イエスの中で、私たちを彼と共に復活させ、彼と共に天上に座らせて下さいました」。ですから、彼の地位だけでなく彼の存在とも一つになる特権を私たちは与えられています。私たちは彼と霊的に結ばれたと見なされています。天上における彼の地位だけでなく、天上における彼の存在とも一つなのです。それはあらゆる支配、権威、力、主権等を遥かに超えています。教会は彼のこの地位とつながっています。

 三章一〇節。「それは今や天上にいる主権者たちや権力者たちに対して、教会を通して神の多様な知恵を知らせるためです」。これは行政上の要素ではないでしょうか?教会により、神は主権者たちや権力者たちという知的存在を支配しておられること、この知的存在に強い印象を与え、彼らを教え、御自分の多くの面にわたる知恵を知らせておられることは、極めて明白です。

 六章一二節から。この天上では、教会は戦いの中にあると見なされている一方で、教会は権力の座にあるとも見なされています。これは優位に立つため、優勢になるための戦いではなく、むしろ優位性を示すため、次の事実を示すための戦いです。すなわち、これらの主権者たちや権力者たちは敗北しており、天上にあるキリストとその教会とに服しているという事実です

 ここでエペソ六章と黙示録一二章とを比較する必要があります。エペソ六章では、教会は天上で主権者たちや権力者たちと格闘中であると見なされています。黙示録一二章の場合、一つの群れが悪しき者、暗闇の軍勢の激しい襲撃を受けています。その後、この群れはそれらの軍勢を天から投げ落とし、それらの軍勢が活動していた領域を統治する地位を完全かつ最終的に受け継ぎます。これがこの戦い、敵との大きな最後の戦いの終わりです。この戦いにより、敵は空中または天上の自分の場所から投げ落とされます。エペソ六章から黙示録一二章に目を向けるとよいでしょう。エペソ六章では戦い、代々にわたる戦いが進んでいます。黙示録一二章では、この戦いが最高潮に達していることがわかります。その結果、依然として天上にいたエペソ六章のこれらの軍勢は天から追い出され、もはやそれらのための場所は見つからなくなります。そして教会は天に残されて、王座の支配する地位を完全に占めます。



 以上の記事では、キリストは万物のかしらであり、万物を足の下に従わせ、「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方であるが、教会は、万物のうちから初穂として贖われたキリストに連なる存在として、キリストをかしらとしてその支配に服し、キリストと共に復活し、彼と共に天に座らされた者として、サタンが最終的な滅びと罰を受けるまでの間、この世を超越したキリストの目に見えない絶大な支配を、この地上において目に見える形で体現し、サタンのわざを打ち壊し、サタンを天から投げ落としながら、神の国の前進に寄与すべきミッションを負っていることが理解できる。
 
 前の記事にも書いた通り、キリスト者はこのように誰しもが、自覚しようとすまいと、暗闇の勢力との間での主権の激しい争奪戦にすでに巻き込まれているのである。
 
 それは、霊的陣地を巡る激しい争奪戦であり、戦いを開始するからには、必ず、勝利をゴールとせねばならない。
 
 この争奪戦の原則は、この世のチェスや将棋やオセロなどのゲームと基本的に同じである。戦いに勝利して、敵を敗北に追い込み、敵の財産を奪い、陣地を勝ち取り、そこに敵である暗闇の勢力の支配とは異なる、キリストの復活の命の支配を打ち立てることが目的なのである。

 パウロは次のように述べた、わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:4-6)

   すなわち、キリスト者は誰しも霊的戦いに遭遇しており、その戦いの中で、敵の要塞を打ち破り、敵の屁理屈をすべて打破し、敵の武装を解除して、その領土を明け渡させ、財産を分捕り、敵軍を捕虜として自らの隊列に加える権限を与えられているのである。

 キリスト者はこの戦いに無知であってはならない。霊的な敵を敗北に追い込み、捕虜として引いて行き、凱旋の行進で辱めてさらしものとして処罰を加えるまで、決して退かない覚悟を決めねばならない。
 
 だが、神の民と暗闇の勢力との間の争いについては、往々にしてクリスチャンがあまりにも未熟かつ無知なので、神の子供たちよりも、暗闇の勢力の方がはるかに狡猾で戦いに精通しており、それゆえに、先に神の子供たちに攻撃をしかけて優位に立とうとして来ることが多い。

 たとえば、カルト被害者救済活動を率いる村上密が、教会に恨みを持つ被害者を募っては、諸教会に裁判をしかけ、その教会を弱体化して、牧師を追放し、自らの教会に併合する(ブランチ化する)ということを繰り返して来たことをよく考えてもらいたい。

 彼らは、諸教会に激しい戦いをしかけて弱体化・疲弊させるために、自称被害者らを募り、その証言を利用しては、諸教会を中傷し、リーダーに悪者のレッテルを貼り、ネガティヴ・キャンペーンを張って悪評をまき散らし、信徒の離散を促し、さらに、それでも教会に残った信徒には、密偵を送り込んでは分裂工作をしかけて結束を弱め、それでも教会が陥落しなければ、教会に裁判をしかけ、教会が徹底的に弱体化したところを狙って、リーダーを追放し、教会の領土、信徒、財産を奪って、暗闇の勢力の財産に加えるのである

 このようなことは、福音伝道を主たる職務とする牧師の活動に全くそぐわないことは言うまでもないが、しかし、こうした彼らの活動は何よりも、暗闇の勢力が、村上密という一人の人間を利用しながら、神の教会に激しい戦いをしかけて、教会を弱体化させては陥落し、暗闇の領土として加えて支配するという方法論を取って来たことをよく示している。

 これは神の教会と暗闇の勢力との間で、激しい陣地の争奪戦がすでに開始していることを表している。すでに数多くの教会が脅しつけられて圧迫を受け、降伏するか、弱体化しており、Dr.Luke率いるKFCなども、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によってすでに陥落された恥ずべき集会の一つであると言える。

 我々は、こうして、霊的な敵が、神の教会に執拗かつ激しい攻撃をしかけては教会を城のごとく陥落し、暗闇の領土に併合しようともくろんでいると分かっている以上、キリスト者の側でも、これに積極的に応戦して、敵に反撃し、敵の作戦を打破し、その悪しき計画を破綻せて、むしろ、敵の領土を奪い取って、キリストの復活の命によって支配される陣地を拡大せねばならない必要性に直面していることに気づかねばならない。

 つまり、我々は敵の望んでいることと正反対の現実が起きるよう、手を尽くして立ち向かわねばならないのである。

 敵が以上のように卑劣な方法と作戦を用いて、キリストの花嫁たる諸教会を蹂躙・冒涜し、教会から神の聖を取り除こうとしているならば、神の子供たちも、ただその作戦から自らを防御するだけでなく、これに徹底的に応戦して、敵に反撃して勝利をおさめなければならない。

 敵の中傷に対して、それが嘘であると説明して自己弁護しているだけでは全く足りない。霊的な敵どもは、神の教会を地上から殲滅・駆逐することを目的としており、その目的を成就しない限り、決して攻撃の手を休めることもなく、ターゲットから手を引くつもりもないことを理解して、これはどちらかが殲滅されるまで、決して終わらない戦いであって、神の子供たちも、決して手をこまねいていてはならず、敵と同じだけ執拗さと激しい憤りを持って、敵軍が完全に殲滅して力を失うまで、徹底的に攻撃をしかけて敗北に追い込まねばならないことを自覚すべきなのである。

 むろん、我々は誰からも戦いをしかけられていないのに、自ら誰をも攻撃する必要はないし、誰からも憎まれていないのに、誰をも憎む必要はない。

 しかし、神の教会の殲滅を目的として悪霊の思いを体現して活動している人間どもが確かに存在するという事実が分かったならば、これらの連中は完全に福音の敵であるから、それに立ち向かう過程で、容赦してはいけないことを知るべきである。彼らが自ら犯した悪事に対する処罰を受け、恥をかかされ、逃げ去り、彼らが神の教会をさらしものにして嘲笑したのと同じように、いや、その何倍も、嘲笑され、辱められ、さらしものとされる結果に追い込むまで、決して攻撃の手を緩めてはならないのである。

 なぜなら、こちらが徹底的に応戦しない限り、彼らは次々と教会に打撃を与えては教会を破壊することを決してやめないからである。キリスト者は敵のわざを完全に破壊するために、具体的な反撃を行わねばならないのである。
 
 それは、真の意味での「聖戦」であり「十字軍」である。

 ほとんどのクリスチャンは、信仰生活とは、教会で讃美歌を歌い、楽しい昼食会を開き、お気に入りの信徒たちと歓談にふけり、折り紙を折ったり、キャンプに行ったりすることだと考えており、霊的な戦いが常に進行中であることを全く知らないし、意にも解さない。

 しかし、そのような未熟なクリスチャンであっても、思ってもみない激しい攻撃をしかけられれば、さすがに何かが起きていることに気づかないわけにいかないだろう。

 だが、落胆することは全くない。戦いが起きるときには、それを機に、キリスト者の側でも、積極的に敵の要塞を打ち砕き、敵陣を我が物として勝ち取るチャンスが与えられていることを思うべきである。

 神は、我々が勇敢にその戦いを戦い抜いて、勝利をおさめることを願っておられる。

 そこで、こちら側も、勝利するまで退かない覚悟を固めねばならない。

 さて、我々が用いる武器とは、敵が用いているような肉による方法ではない。我々は聖書の御言葉に立って武装することで、敵の嘘を論破して打ち破り、彼らの暴虐を声を大にして非難し、彼らの悪事の証拠を白日のもとに晒すことで力を失わせ、また、この世のあらゆる正当かつ常識的で合法的な手段に則り、彼らを武装解除して抑える(縛り上げる)ために必要な具体的な措置を取るのである。

 そのように反撃を続けることで、我々は敵の要塞を最終的に陥落し、敵の領土を完全に明け渡させて、これを神の国の主権が及ぶ領域に加え、敵軍のリーダーとその手下たちを戦利品として勝ち取ることができる。彼らを凱旋の行列でさらし者として辱め、処罰することが可能である。

 多くのクリスチャンは、全くと言っていいほど次の重要な事実を知らない。

 すなわち、神の教会を冒涜・蹂躙することは、この世においても、来るべき世においても、重い罪に相当するにも関わらず、サタンを中傷することは少しも罪にはならないのだと。サタンにはどれほど激しい憎悪と悪罵の言葉を浴びせても、決してやりすぎということはなく、どんなに口汚い非難や冒涜の言葉でさえ、むしろ全く足りないくらいなのである。

 クリスチャンには、悪魔に対する憎しみがなくてはならない。何よりも、悪を憎む心がなくてはならない。悪魔の犯した罪が、永遠の刑罰に相当することを考えれば、クリスチャンが悪魔に対して向けるべき憎しみと非難は底なしであって当然なのだ。

 我々は贖われる前の記憶では、滅びゆくアダムである人間の一人として生まれているので、どのような人間に対しても、まずは同胞としての憐れみの感情を持つであろう。同じ人間に対して憎しみや敵意を向けたり、戦いの相手とみなすことはためらわれるはずだ。

 しかし、信仰者になった以上、我々は、ただ単に人間的なものの見方から、全ての人間を自らの同胞として考えることをやめて、神の側から物事を見、神の国の権益に立って、何が神に栄光をもたらすかという観点で物事を見るように、思考を変えて行かなくてはならない。

 その過程で、私たちは、たとえクリスチャンの同胞を名乗り、兄弟姉妹を名乗っていたとしても、明らかに贖われていないと分かる行動を取る者たち、もっと言えば、明らかに暗闇の勢力の手先となって、聖徒たちに敵対し、神の教会やクリスチャンの破壊と殲滅を願い、それを職業として実行に移しているような者たちに対しては、兄弟姉妹としての容赦や憐れみを決して持ってはいけないことを知るべきなのである。

 こういう悪しき人々の存在を利用しながら、霊的な敵が、キリスト者の殲滅と死を願って攻撃をしかけている以上、キリスト者の側が、こうした敵どもに対する憐れみや容赦を持つことは、自ら敗北を望み、死を望んでいるのと同じであり、それは憐れみではなく、取り除かれねばならない甘さ、弱さでしかないことを理解せねばならない。

 神の教会は、教会を冒涜して荒らし回る者たちの薄汚い手をはねのけて、キリストの花嫁たる高貴さと尊厳を公然と証明せねばならない。

 その根拠として、教会はすでに「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方の頭首権に服し、この方と共に、この方の御名によって、この世だけでなく来るべき世においても、すべての支配、権威、力、主権を超える絶大な権威を与えられていることを思うべきである。

 サタンを天から投げ落とす権威は、教会にこそ与えられている。神はその仕事を教会に託しておられるのだから、教会はその権威を大胆に行使すべきである。それによって暗闇の勢力が権威を行使していた領域を明け渡させ、そこにキリストの復活の命による支配を打ち立て、御国の前進に貢献すべきなのである。

 キリストの花嫁は、花婿なるキリストのゆえに、高貴で聖なる貴い存在であり、勇敢な戦士のように強い存在でもある。この花嫁は、決して穢れた者たちに自分を冒涜させたり、蹂躙させたりすることはせず、むしろ、最後までキリストに対する貞潔を捨てず、むしろ、穢れた者たちが、この花嫁のゆえに、恥をかかされて敗退するよう、勇敢に戦いを戦い通す。

 この花嫁は、賢い花嫁であり、花婿なるキリストが地上に来られるまでの間に、花婿に栄光を帰するよう迎えるべくすべての支度を整える。

 繰り返すが、教会は、キリストの花嫁であるから、キリスト以外の何者にも服することをせず、神の知恵に逆らうあらゆる高慢を論破し、暗闇の勢力を敗北に追い込み、その陣地と手下を戦利品として勝ち取りながら、そこにキリストの支配権を打ち立てて、神の国の前進に寄与し、花婿なるキリストに栄光を帰すべきなのである。

 悪魔がほえたけるししのごとく獲物を求めて徘徊していても、全く恐れるに足らない。勝利はキリストにあり、教会にあるのだから。

十字架の死と復活の原則―神の教会とクリスチャンを冒涜し、呪う偽預言者らを待ち受ける地獄の永遠の厳しい裁き―

毎年、冬の寒さを乗り越えるのはひと苦労だが、ようやく暖かくなり、五月のような気温の日が続いている。 今年はただ春が来たということが嬉しいだけではない。巨大なミッションが一つ達成されたことで、霊的に大きな解放感がある。

先週、長年に渡り、当ブログに嫌がらせをしかけ、誹謗中傷を続けて来たS氏が共犯者と共に刑事告訴された。この人物ができもしない刑事告訴を当ブログに向かって予告してから、それが不成立に終わる結果が出るまでの間に、1年近い月日が流れたことを思えば、今回、警察の対応は、筆者の目から見れば、まるでスローモーションのようであったとはいえ、それでも通常に比べれば、まだスピード感のある対応だったと言える。

筆者は警察組織がどんなところか知っているため、そこでは、聖書に登場する裁判官とやもめのたとえ話を実地で貫き通す覚悟がなければ何も進まないことが分かっている。

S氏にはここ連日、警察から人権侵害の記事を取り下げ、ブログを閉鎖するよう説得が続けられていた。にも関わらず、同氏はこれを拒否する意志表示を明白に示したのであった。

これによって、S氏への説得が終了するのみならず、情状酌量の余地も激減することになる。ちゃんとした弁護士がついていれば、刑事事件になっているにも関わらず、そんな愚かな行動に出るようにとの助言は絶対にしなかっただろう。せっかくこれから弁護しようとしている人間が、罪を軽くする機会を自ら失うような行動に及ぶことを、弁護士が助長するはずがないからだ。

一旦、事件になってしまうと、その後の手続きの流れを止めるのは非常に難しく、あらゆる証拠や証人をかき集めても、エスカレータのように手続きは進んで行く。

それでも、被害者感情を考慮して、罪を認めて謝罪するのは早ければ早いほど、情状酌量の余地が働く。罪を認めている人間を、周囲も強く責めることはできないからだ。(それはキリスト者が悔い改めて神に立ち返る時も同じである。神は悔い改めた人間を決して再び責めはしない。)

しかし、罪を認めなければ、証拠により追い詰められ、本人がどんどん不利になって行くだけなのだ。人に迷惑をかけても、法を犯しても、反省のない悪い人間だという印象が重なり、ついには誰一人、その言い分に耳を傾けなくなるだけである。

おそらく、S氏にとって最も大切なのは、自分の人生の行く末ではなく、一刻でも長くクリスチャンを害する情報を発信し続けることと、自分が訴えられている事実が周囲に知れ渡らないための工作だったのであろう。

だが、クリスチャンに対する害意が明白である以上、神はこれにきっちり応答される。ここ1~2ヶ月の間に、何が起きるかに、ますます注目されたい。果たして、S氏の呪いに効力があるのか、それとも、筆者の主張する神の完全な義認が効力を発するのか、その事実は公然と証明されるため、よくよく注目されたい。

前の記事でも書いたが、筆者のためには、すでに木にかかってすべての呪いを背負って下さった方がおられる以上、誰も地上に筆者を呪うことのできる存在はおらず、筆者が悪魔と暗闇の勢力の悪意をいわれなく身に背負わされる筋合いも全くないのである。

だが、こうした事件が起きるまでもなく、S氏のブログ記事はすでに完全に世間からの信用を失い、内容を信じる人もほとんどいなくなっている。クリスチャンの世間でそうなのだから、ましてや、不信者の世間ではずっと前からそうである。S氏の最後の取り巻きが、共犯者として告訴された以上、この悪党グループに加わる人間はもういない。

さて、ソーシャルワーカーの職務内容には、事故やけがや病気で仕事を失ったり、精神疾患に陥った人々などの社会的弱者の社会復帰を助けることも含まれている。そのために自治体などでも社会福祉士が雇用されている。

筆者は精神異常などでは少しもないが、もし誰かが精神疾患に陥っていたとして、社会福祉士である者が、その者の病気を取り上げてあざ笑ったり、そういう人々の就労困難などの社会への適応困難な状況をあげつらって、これを公の場所で嘲笑するような趣旨の記事を書くことは、断じて考えられない行為であり、社会福祉士の信用をいたく傷つけるものでしかない。

そんなことをするソーシャルワーカーに、自ら弱さを打ち明けて助けを求める社会的弱者は一人もいないであろう。そしてそのような行為を隠れたところでやっていたと分かれば、職場もクビになり、国家資格を剥奪されるという結果に終わるだけである。

そもそも誹謗中傷の記事内容などを信じるのは、人格低劣な人々だけであるから、そのような人々がどんな反応をしたとしても、筆者は意に介さない。だが、こうして彼らの内面にある悪意が、極みまではっきりと証明されたことは、むしろ、喜ばしいことだったと考えている。

今や、カルト被害者救済活動の「師匠」である村上密氏さえ、記事の削除に応じざるを得ない上状況となっている中で、弟子はそれを拒んでいるのだから、これは師匠よりももっとたちの悪いゲヘナの子だ。利用されただけという言い分は成り立たない。弁護の余地などどこにもありはしない。

村上密氏は以下に述べるように、ブログ記事の中で、未だに教会に損害賠償請求をふっかける機会を伺っている様子を記しているが、実際には、その村上氏こそ、信徒への守秘義務違反、個人情報の漏洩、パワハラ、プライバシーの侵害などで損害賠償請求を受けるにふさわしい存在だ。

なぜなら、村上氏は、筆者が2008年に宗教トラブル相談センターに個人的な相談のために訪れた際に知り得た筆者の個人情報を、歪曲しながら虚偽を言いふらし、筆者を中傷する記事を長年に渡り、公表して来ただけでなく、S氏にも筆者の個人情報を提供して、S氏が筆者をブログで誹謗中傷することを幇助した疑いが強く持たれるためだ。

S氏は筆者と面識がないため、筆者の個人情報を単独で入手できる立場にはない。そして、S氏に情報提供を行った人物は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者以外にはあり得ないが、村上密氏以外には、そのようなことができる人物がいないことも、明白なのである。

たとえば、筆者の両親はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒などではないが、S氏は筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会に通っていたかのような虚偽を言いふらしている。

だが、実際には、筆者の母はずっと他教団の信徒であり続けたがゆえに、アッセンブリー教会に正会員として所属したことがなく、さらに、父はクリスチャンでないため、教会に通った事実そのものがない。こうしたことは、当時の教会を知る関係者ならば、決して間違うはずのない事実である。

ところが、S氏は筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会にそろって共に通っていたなどと、ありもしない大嘘をついてデタラメを書き記している。こうして、自分が見たことも、聞いたこともない事柄について、不確かな伝聞だけを頼りに、まことしやかに虚偽を書き記すのが、村上密氏およびS氏の常套手段である。

しかし、こんな大嘘も、S氏が一人で考え出せるものではなく、村上氏の(いつものような強烈な)思い込みがなければ、決して生じ得ない思い違いであると言える。

なぜなら、2008年、筆者は村上氏の率いる宗教トラブル相談センターを訪れていた頃、村上氏の勧めもあって(被害者の多くから名ばかりと批判されている)「カウンセリング」の一環として、「家族カウンセリング」のために、一度だけ両親を呼んで、村上氏と面会させたことがあるためだ。その時に、村上氏が筆者に送って来たメールも残っている。

その当時、村上氏は筆者の両親がそろって教会を訪れた姿だけを見て、筆者の父には信仰がないという事実をよく確かめもせず、筆者の両親がともにクリスチャンであって、それ以前にも共に教会に通っていたのだろうと早合点をしたものと見られる。

少なくとも、当時のその教会の信徒たちは、教会でほぼ一度も父の姿を見かけたことがなかったのだから、決して筆者の両親がクリスチャンであるなどという誤解をするはずがない。津村昭二郎牧師でさえ、筆者の父がクリスチャンでないことや、教会に通った事実が全くなく、いかなる伝道集会にも参加していない事実を見失うとは考えられない。村上氏が一度でも津村氏に事情を確かめていれば、こうした思い違いも生まれなかったはずだ。

だが、村上氏もS氏も、事実関係の裏付けを全く取らずに、不確かな伝聞だけを頼りに、自分の思い込みだけで筆を進める。そうした虚偽情報が満載された結果として、彼らの言い分にはますます信憑性がなくなって、誰も見向きもしなくなっていくことを考えもしないのである。

この他にも、津村氏の不祥事事件が発生してから数年後、筆者の一家は遠方の地に移り住んだため、当時の教会の信徒らは、筆者の両親がその後、どこに住んで何をしているかといった情報を知り得る立場にはない。

そこで、S氏が以上のようなデマを書き記すためには、以下の条件が必要となるが、その条件をすべて満たしている人間は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中に、村上密以外には誰一人としていないのだ。

➀当時のN教会の関係者であること
②筆者の両親がどこかの教会の集会にそろって訪れたところを目撃していること(N教会の信者は誰もそんな場面を見たことがない)
③筆者の両親が引越して後、どこに住み、何を営んでいるかを知っていること(N教会の信徒はその事実を知らない)
④S氏が筆者に対する悪意を持って当ブログへの誹謗中傷の機会を伺っていることを十分に知りながら、それでもS氏に誹謗中傷の材料となる筆者の個人情報をあえて提供するような卑しい心根の持ち主であること(そんなことをする信徒はN教会はおろか、どんな教会にも一人もいない)

村上密氏が、自らのブログで、S氏よりも前から、筆者および当ブログを卑しめる記事を発表していたことは周知の事実であり、その点で、村上氏は以上の➀~③のみならず、④の行為に及ぶ動機をも十分に満たしていたと言える。

また、村上氏が、筆者のみならず、どれほど大勢の同僚の牧師や信徒の個人情報を悪用しながら、自らのブログで、論敵となった牧師や信徒を誹謗中傷する材料にして来たかを考えれば、あえて筆者が以上のような論証をせずとも、村上氏が以上の行動に及ぶような精神を持つ人間であることに、異論を唱える者も、疑問を抱く人間もほとんど残っていまい。

このように、村上氏が宗教トラブル相談センターを訪れた人間の個人情報をあまりにも軽率に言いふらしながら、自分に都合の良い形で悪用している事実は、同氏の直近の記事を読んでもすぐに分かる。

たとえば、村上氏の直近の記事では、次のような内容が記されている。

2018年 02月 28日

聖なる法か 世俗の法か 1

TさんはS教会で洗礼を受け、教会員となった。ところが、TさんがS教会に対して閲覧請求をしたとき、S教会は、あなたは客員だから閲覧請求はできない、と言って拒んだ。TさんはS教会の礼拝に出席を続けてきた。それでも、いつ客員になったかを聞かされていなかった。客員になった年月日を問うがはっきりしない。Tさんはどこの教会からの客員かと聞くと、S教会の宗教法人の下にある外国人教会からの客員であると言う。Tさんは、外国人教会から私たちの教会員ですと言われたことはない。S教会と外国人教会の間では話し合いはなく、文書による通知もない。もし、個人の籍が勝手に他に移っていたら大変な問題である。ところがS教会では重大な問題であるとの認識がない。

2018年 02月 28日

聖なる法か 世俗の法か 2

  一般社会では、不当解雇にあった人が地位保全の裁判をして、不当な処分によって失った地位の回復と利益を取り戻すために損害賠償を請求することがある。Tさんは教会の中で何ができるか。客員決定の日時と理由を、牧師の話ではなく、役員会議事録にどのような理由で客員となったかを確認するために閲覧請求ができる。教会員であっても、外国人教会の教会員であっても、同じ宗教法人の下で教会員である。それを拒むなら、閲覧請求のために裁判所に提訴できる。役員会議事録に明確な理由なしに客員となっていた場合は、不当とみなし、教会員に復帰する提案を教会に提出することができる。もし、役員会議事録を閲覧して、教会員から客員になった記述がない場合は、教会はTさんに対して謝罪と教会員に対して公の場で謝罪をしなければならない。今後、二度と同じことが起きないように気を付け、再発防止策を講じなければならない。この場合、一般社会における不当解雇による賃金未払い分を損害請求するように、教会に対して損害賠償を請求することはできない。そこに賃金の損害が発生していないからである。被ったのは精神的なダメージである。何の知らせもなく、一方的に教会員から客員に籍を移動され、教会員の当然の権利(閲覧請求)を奪われた。権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。教会を正すために法の力を借りることは避けがちであるが、自浄作用がなければ裁判も視野に入れる必要がある。


 

未だにこんな記事を書いているとは、愚かなことである。そもそも事件が解決もしていない先から、村上氏が、こんな形で、自分のもとを訪れた信徒の相談内容を公表していること自体が、すでに信徒のプライバシーの重大な侵害であり、守秘義務違反であると言えよう。これがすべて実名であれば、それこそ、信徒からも教会側からも名誉棄損やプライバシーの侵害と言われて訴えを起こされる可能性がある。

(翻って、牧師や教会のしていることは、それが公の活動である限り、批判を受けたからと言って、牧師が信徒を名誉棄損で訴えることはできない。もしも牧師が信徒を訴訟の場に引き出せば、その時点で、その教会は終わりである。そんな恐ろしい牧師や教会のもとにやって来る信徒は誰もいなくなるからである。)

牧師が職務上、信徒から受けた相談内容は、たとえ匿名であっても、絶対に口外してはならないことは、あまりにも当然の配慮であることが、この人にはまるで分かっていない。信徒から了承を得たとしても、事件が解決するまでの間、黙秘することは当然である。(訴訟を通じて解決を目指せば、事件が解決した後では、もっと口外できなくなる可能性が高い。)

村上氏は、こうした記事内容からも、受けた相談を秘匿する義務を自分が不当に踏みにじっている自覚がなく、同氏は相談内容を簡単に外へ漏らす点で、ただ口の軽さに定評があるというよりも、教会を冒涜し、非難するための言葉をひっきりなしに吐かずにいられない精神の持ち主であるがゆえに、こうした記事を書いていることを自ら露呈しているも同然である。

このところ、筆者は、同氏の記事内容が、以前に比べても、格段に劣化したような気がしているのだが、以上の記事で、村上氏が不当解雇を撤回させるための裁判と、信徒が客員にされたことの不服を並べて論じているのも、甚だしい筋違いであると思う。

以上の記事で、村上氏は相談者の信徒が正会員として扱われず、知らぬ間に客員とされていたという事実を、何か特別に不当な措置であり、教会側の暗黙の悪意による差別であるかのように決めつけているが、それ自体が、あまりにも行き過ぎた思い込みであると言えよう。

この記事では、信徒が当初は正会員であったのに、いつの間にか客員にされていたのか、そもそも初めから正会員でなかったのかも、よく分からない。

だが、そもそも教会籍という制度自体が、日本の教会独自のシステムであり、多くの諸外国の教会では、教会籍自体が存在しないことが大半である。そこで、たとえ日本国内の宗教法人の傘下であっても、外国人教会には、日本的な風習を当然のごとく要求して、教会籍の所在を明らかにするよう求められない場合があるということを、村上氏は記事の中で全く考慮していない。そのことは、悪意によるものではなく、文化の違いから来る習慣である可能性がある。

通常、牧師は他教会に通っていたことがある信徒から、自分の教会に所属したいとの申し出があった際、その信徒が、他教会に籍を置いているかどうか、照会を行うはずである。だが、外国人教会が相手では、問い合わせに明白な回答があるかどうかも分からない。回答がなければ、他教会に籍を置いているかどうかさえ、はっきりしないため、二重籍が生まれることを防ぐ目的で、あえて客員にしておくなどの安全策を取ることもあるかも知れない。

それは医者の世界でも、紹介状がないのに、他の医者にかかっていたことが明白な患者を受け入れようとしないのと同じである。

もしその信者が、初めは正会員であったのに、途中から客員になっていたとしても、本来、信徒は自分の所属している母教会の礼拝を日曜ごとに守る義務があるはずだ。プロテスタントの多くの教会では、正会員になる際、信徒がその教会に対して負うべき義務について、誓約書を書かされている。

そこで、一旦正会員となった信徒でも、その後、明らかに他教会の礼拝に出席しているなどのことが発覚した場合には(それが正会員になる際に信徒が署名した誓約に違反する行為である可能性もある)、それを理由として、正会員から客員会員に移されたとしても全く不思議ではない。

(しかも、上記の記事では、信徒が見も知らない外国人教会に勝手に籍を移されていたという記述はないため、実際にその信徒は、外国人教会を自ら訪れた事実があるものと想定される。)

筆者は、牧師同士の気遣い、教会同士の気遣いを必要とする日本の教会籍制度自体が、信徒の移動の自由を妨げるもので、あるべきでないものであると考えているが、そうした考えはさて置き、教会同士が互いに信徒を奪い合ったり、領分を犯し合ったと言われないための当然の配慮として、教会籍の所在(もしくは所属教会)が不明の信徒は、正会員として受けれず、客員として扱うことがあったとしても、それは不当な措置とは言えないものと思う。それは差別ではなく、むしろ、以上のような慣習のもとで、他教会や信徒への配慮に基づいて取られた措置である可能性がある。

しかし、村上氏の記事では、そうした詳しい事実関係の確認や、文化や風習の違いから来る意志不疎通の問題、さらには、その信徒自身に、正会員としての義務を怠る行動があったのではないか、などのことが全く考慮されておらず、ただ「こんなに長いこと教会に通っていたのに、いつの間にか正会員として扱われなくなっていなかったことが分かり、籍を移したこともない教会に籍があるかのように言われて、客員にされていたことが悔しい」という相談者の感情だけを中心として、話が進められ、その悔しさを晴らすために民事訴訟による損害賠償請求まで行ってはどうかと言語道断な提案がされているのである。

しかも、どういうわけか、それが不当解雇された社員が労働審判(裁判)で地位を取り戻す話に重ねられている。全く根拠のない論理の飛躍である。

こういう論理の飛躍は、村上氏の思い込みによるものだけでなく、同氏に実社会での経験がほとんどないことから来ているとも言えよう。

不当解雇が撤回されうるのは、条件明示した労働契約がきちんと労使双方の同意によって結ばれていたにも関わらず、社員が不当な理由で解雇されることにより、契約が履行されなかった場合である。

ブラック企業などでは、いつでも証拠を残さず自由に労働者のクビを切りたいがゆえに、故意に(違法に)労働者を雇い入れたことを示す労働契約書を労働者に渡さないなどの不当な措置を取ることがある。

そういうケースでは、ハローワークの紹介状や、ホームページに掲載された求人募集要項等、何か一つでも、労働条件を明示する具体的な書面があれば良いが、何一つとして労働契約があった事実を裏づける証拠が無い場合、そのような裁判は非常に難しいものとなる。

明示された労働契約書の効果は、このように絶大なのである。

上記の教会の例はそれとは全く異なる。なぜなら、教会と信者との間では、その信者を正会員にするという契約が結ばれた確たる証拠がないからだ。もしくは、当初は正会員であり、何らかの契約締結がなされらのだとしても、どういう条件でその信徒が正会員の資格を得たのか分からず、信徒の側で資格要件が満たされ続けたのかどうかも不明である。

途中から正会員でなくなったのがおかしいというのであれば、信徒は正会員としての資格を失う行為(たとえば他教会の礼拝に通う等)を行っていた可能性もある。正会員としての資格を満たしていないのであれば、教会にはその信者を正会員にしておかななければならない義務がないであろうし、待遇を変更した際、必ずしも、その信徒に通知しなければならない義務が定められていたかどうかも分からない。

仮にその信者が最初は正会員であったが、途中から、他教会にも通っていることが発覚し、その他教会が外国人教会で、籍の問題が不明なままで、文書のやり取りも、話し合いも難しいため、もしかしたら他教会に移籍しているかも知れない可能性を考えて、客員にしたという事情があるような場合、客員にした措置の不当性を問うても、それが認められる見込みはほとんどないだろう。

もちろん、その信者が他の教会を去って多年の年月が過ぎており、完全に一つの教会の礼拝だけを守って毎回出席しており、正会員としてのすべての義務を守っているから、客員であるのは不服で、そろそろまた正会員に戻してくれても当然ではないかと申し出れば、その教会も、その申し出は考慮せざるを得ないであろう。だが、そのことと、知らぬ間に客員にされていたことや、その理由が不明であるため、正会員としての権利を奪われたこと自体が許せないとして、いきなり教会に民事訴訟をふっかけることは全く訳が違う。

さらに、以上の記事では、客員であることが、あたかも正会員より劣った待遇であるかのように思わせる記述がなされているが、実際には、客員は、正会員よりも義務が少ないはずだ。権利も少ないかも知れないが、義務も少ないことによって、多くのしがらみから解放されて、恩恵を享受している。

それは昨今、正社員になるよりも、非正規雇用のままで働いていた方が、賃金も多く、立場も保証され、残業もなく、リストラもされないと言う場合がよくあるのに似ている。多くの職場では、正社員の方が、非正規雇用よりも圧倒的に劣悪な条件で働かされており、賃金さえも、非正規雇用の方が、正規雇用を圧倒的に上回っているような場合もあるのだ。そして、有期雇用契約を中途解除することには法的に多くの制限があるため、場合によっては、正社員の方が非正規雇用者よりももっと容易にリストラされる危険に直面している場合もある。

このように、一概に、非正規雇用だから、正規雇用に比べて、不当に扱われているといった主張が、必ずしも成り立たない場合があるのだ。

それと同様に、客員のままでいることには、それなりのメリットもあり、他教会へ通う自由も、客員ならではのものかも知れない。そのためにあえて正会員にならない信者もいる。現に我が親族もそうであった。(我が親族はもともと転勤ゆえに遠方となり通えなくなった他教団の信徒であり続けるために客員のままだったのである。)

そこで、信者が気づかないうちに客員にされていたというだけで、精神的苦痛をこうむったと訴えても、その訴えが聞き入れられる可能性は極めて低いと言わざるを得ない。会員認証の手続きがきちんと教会規則にのっとったものでありさえすれば、入信時もしくは客員への変更時に説明が不十分だった程度の多少の注意はあるかも知れないが、その瑕疵は信者が裁判で損害賠償まで請求するほどの筋合いのものではない。

「何の知らせもなく、一方的に教会員から客員に籍を移動され、教会員の当然の権利(閲覧請求)を奪われた。権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。」

と村上氏は決めつけるが、そもそも教会には信徒に知らせず一方的に客員に籍を移す権限がないのかどうかという点も重大な争点である。その信徒のケースでなくとも、ずっと礼拝に来なくなったような信徒を正会員から除外する手続きは、その信徒に知らせなくとも、教会の一存で行えるはずだ。同様に、正会員から客員に移す際にも、必ずしもその信徒に知らせてからでなくては変更手続きが行えないという規則は、おそらくほとんどの教会にはないと思われる。(なぜなら、教会が信徒と途中から連絡が取れなくなることはよくあることだからである。)

つまり、その教会がその信徒をずっと正会員として受け入れなければならない義務を明示した契約自体が取り交わされておらず、また、教会が自らの一存でその決定を覆してはならないとする規定があるという根拠もなく、不当な理由で教会側が一方的に契約を破ったと言えるだけの根拠もなく、もしくは、信徒の側で正会員であり続けるための資格要件を失っていた可能性さえ想定される以上、その信徒が、正会員の地位を取り返すための(もしくは不明な理由で正会員としての資格を失ったことの精神的苦痛を取り戻すための)裁判にまで及んだところで、取り返せる利益などもとより存在しないも同然である。

仮に信徒が本当に不当な理由で客員にされたことが発覚したとして、信徒がそれによって精神的苦痛を受けたなどと主張してみたところで、実際には、客員の信徒も、正会員とほとんど同じように、礼拝に出席することができ、各種の教会活動を行うことができる現実があり、しかも、上記の記事で、信徒が客員になったことにより不当に奪われたと主張している権利が、閲覧請求権だけである様子を見れば、そんなことを理由に賠償請求に及んでも、その訴えが認められる見込みは極めて薄い。そのような争いは、ただ教会にダメージを与えることだけを目的とする、初めから負けることが分かっている裁判である。

このようにして、勝てる見込みもない裁判に、村上氏がその信者の教会への恨みを煽り立てる形で焚き付けようとしているのは、あまりにも無謀かつ配慮に欠けることであると言える。

村上氏は、このようにして、客観的に事実関係を確かめることもなく、十分な証拠の裏づけもなく、ただ信徒の主観的な感情だけを中心に話を聞いて、信徒が不当に差別されたり、根拠のない扱いを受けたかのように思う気持ちに一方的に同情し、それを理由に、教会とじっくり話し合って対立関係を解消させるどころか、むしろ、ますますその信徒が教会を深く恨んだり、不信感を持つよう仕向け、信徒と教会との間の亀裂を解消不可能なほどに深刻化させていくのである。

こんな風に、村上氏は、クリスチャン同士を仲たがいさせ、争わせるような活動にばかり従事して、問題を解決させるどころか、よりこじらせることに貢献している。人間の感情にばかり揺さぶられて、冷静に物事を見て、事を荒立てずに、きちんと双方の事情をじっくり考慮した上で、もつれた感情を丁寧に紐解いて、対立感情が沈静化するよう解決を目指すのではなく、まるで連想ゲームのような思いつきで根拠もない話をどんどん進めながら、信徒がますます教会の敵となり、見込みのない絶望的なアクションに出て、人生を失うよう仕向けているのである。

このような村上氏の理屈はもう完全に破綻している。鳴尾教会の裁判で負けて以後、村上氏にはこの世の法も味方していない。そのことは、本人が分かっていないだけで、その論理破綻は周りにはもうずっと前から客観的に明らかである。

村上氏がやっていることは、他人の恨みつらみにかこつけて、自分の心の中にある他教会への憎しみを表明し、他教会にけちをつけ、他教会に打撃を与える機会を得るべく、信徒を焚き付けて教会に対する裁判に及ばせることだけである。

しかし、その裁判さえ、勝てる見込みのないものであれば、同氏の述べていることは、聖なる法にも、この世の法にもそぐわないデタラメばかりということになる。
 
村上氏も、S氏も、自分たちの理屈がまるで社会の理屈であるかのように思い込み、自分たちは取り払われるべき闇を暴いているかのように思い込んでいるが、事実は全くそうではない。(闇を払っているのではなく、神聖な領域を冒涜して聖域を犯し、暗闇を持ち込もうとしているのが現実である。)

村上氏はせいぜい自分のもとへ相談に来た信徒から、個人情報の漏洩、守秘義務違反、プライバシー侵害で訴えられるくらいが関の山である。そもそも信徒から受けた相談内容を、事件が解決してもいないうちに公然と言いふらして自らの手柄のように吹聴し、教会を断罪する材料として誇示している時点で、牧師失格である。

こんな牧師に教会を訴える資格などあろうはずもない。これ以上、教会がこんな世迷いごとにより争いの矢面に立たされることがないよう、村上氏に誹謗中傷された同僚の牧師や信徒は、同氏に対して速やかに必要な法的措置を取ることを強くお勧めする。

「聖なる法」も「世俗の法」もどちらも踏みにじる牧師は、牧師の名に値しない。同氏は自分が他の牧師を裁いて来たのだから、自分も同じ基準で容赦なく裁かれるのは仕方がないであろう。

さて、村上密氏については、yahoo!知恵袋でも、以下のような質問が投稿されている。



悪質!! アッセンブリー京都教会、村上密牧師について教えてください。

2014/8/1414:42:25

私の友達が京都にある宗教トラブル相談センターという所に相談に行きました。
しかし、相談初日に、そこの村上密牧師から、探偵を使って相手を裁判をしかけるように薦められ、彼女が戸惑うと、今度は、相手の実名を村上牧師のブログにあげて卑下に誹謗中傷してよいか聞いてきたそうです。彼が言うにはそこで相手を冒涜することにより罰を与えることが出来ると言われたそうです。この話を聞いたとき、牧師も欲にまみれた新聞記者きどりのたあの人間なんだなと思いました。最後の別れ際には、この牧師から口止めと、この教会への入信を言われたそうです。私の友達は今うつ病と闘い精神病院に通っています。最悪の気持ちです。
このアッセンブリー教会と村上密牧師について教えてください。

この質問内容は、投稿された当初は、相手にされていなかったようである。何しろあまりにも無名の人物が、前後関係もないまま、ありふれた掲示板に投稿したものなので、誰もその信憑性を判断する手がかりがなかったのだ。だが、それから何年も経って、こうした無名の人間から発せられる些細な言葉の中にも、重大な真実が込められていたことが、今や多くの人の目に明らかとなっている。

村上氏が被害者に「裁判をしかけるよう薦め」たという記述は、以上の記事と合わせても、内容的に一致するので、真実であると思われる。「探偵を使って」というのは、裁判をしたいのであれば、住所氏名等の相手方の個人情報を入手しなければならないせいであろう。だが、以上の投稿の中で、筆者が最も核心に迫る指摘であると思うのは、次の部分である。

「相手の実名を村上牧師のブログにあげて誹謗中傷してよいか聞いてきたそうです。彼が言うにはそこで相手を冒涜することにより罰を与えることが出来ると言われたそうです。」

この投稿を読んだ時、筆者にはようやくはっきりと合点がいった。村上密氏のみならず、同氏の率いるカルト被害者救済活動を支持するS氏のような者たちが、ひっきりなしにブログで教会やクリスチャンに対する誹謗中傷の言葉を浴びせていたのは、悪霊に由来する教会とクリスチャンに対する「冒涜」であり「呪い」だったのだと。
 
彼らは筆者が「カルト被害者を冒涜した」などという言葉で、筆者を非難していたが、実際には、事実は全くさかさまで、彼らこそ、クリスチャンおよび神の教会を「冒涜」することで、聖書の神の聖なる御名を冒涜し、穢し、呪っていたのである。

繰り返すが、彼らはクリスチャンを罪に定めて「罰を加える」ために、冒涜し呪っていたのだということがはっきりと分かったのである。これでは自分のもとに相談に来た人間から金を取って、呪いの祈祷を捧げる異教のシャーマンと何が違うというのであろうか。

牧師を名乗っている人間が、神の教会およびクリスチャン全体を呪い、冒涜することを自らの職業としているなど、想像を超えるほどに恐ろしい事態である。

村上氏については以下のような指摘もある。

沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。次の総選挙も頑張りましょう。  その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段 から部分的に抜粋

現在北見市に在住(?かな、わからないけど)のアガック竹内一雄による準強姦事件(刑事ではなく民事ね)のこと。

興味ない人はスルーして下さいな。

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。

このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。

しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。
おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。

ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと
この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。

村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。

そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。

民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。

誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。

だから、絶対に真実を書いておこうと思っていた。


筆者は以上の事件には関係していないので、詳細な事実関係に立ち入ることはしないが、他の知っている限りのあらゆる事件に関する情報を合わせても、村上密氏が、被害者を名乗る人物の訴えだけを一方的に鵜呑みにして、教会で起きた不祥事をを針小棒大に書き立て、間違いを犯した(とされる)クリスチャンを「極端に危険人物化」しながら、自らの「思い込み」や「創作」によって巨大な悪役の像を作り上げ、自分はそれをやっつける正義の味方のように振る舞い、世間の評価を得ようとして来たことは事実であるものと思う。

そして、そうした村上氏の「創作物語」(妄想と呼んで良い)が虚偽であったことが後になって判明しても、同氏はいささかも記事を削除せず、訂正しようともせず、鬼の首でも取ったように得意げに誤った情報を自分のブログ等に掲載し続けていることは、上記の事件に限った話ではない。
 
村上氏にとっては、自分が正義の味方を演じて、クリスチャンと教会を「悪役」としてやっつける材料さえ得られれば、真実などどうでも良いのだろう。その姿勢が、以上の記事からも見えて来る。

同氏は、自らの言葉によって教会への恨みを煽り立てられ、争いに焚き付けられた被害者が、見込みのない裁判で人生を滅ぼし、棒に振ることも、全く意に介さないのである。それだけでなく、被害者を名乗る人々が、やがては教会の敵となり、神の敵にまでなって、永遠の領域でも報いを失うことをまさに本心から願っているのだとしか思えない。

このように虚栄心だけが肥大化し、関係者に対する思いやりや配慮、兄弟姉妹への愛情も、牧師としての福音伝道への使命感も、守秘義務も、何もかも見失って、ただ自分を正義と見せかけることだけがすべてとなった同氏の性格や活動は、通常では、サイコパスと呼ばれるにふさわしいものである。少なくとも、他者の争いを仲裁すると言いながら、事件を解決するどころか、ますます関係が修復不可能になるよう、傷を押し広げ、クリスチャン同士を仲たがいさせて争わせ、溝が埋まる見込みが全くなくなるように仕向ける行動は、牧師の道に完全に外れている。

同氏のブログそれ自体が、教会やクリスチャンに対する「冒涜」や「呪詛」を詰め込んだごみ箱のような存在でしかなくなっている。もはや思い込みだとか、妄想だとか、デタラメな記述などという表現にはおさまりきらない、「神の教会とクリスチャンに対する冒涜と呪詛の集積場」のような有様を呈している。

ごみ箱はいっぱいになれば、焼却場へ持って行かれるだけだ。聖書では、火の池こそ、偽預言者に対する格好の焼却場であると言われている。互いに愛し合うようにと教えられている兄弟姉妹を売り渡し、聖徒らの恥や失敗や争い事を糧にして手柄を得るような活動が、まともな牧師の行う活動であるはずがない。羊を食らうためにやって来た偽預言者である。彼らを焼く煙は、バビロンの焼かれる煙と同じように、いつまでも永遠に立ち上ることであろう。


<追記>

2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実


十字架の死と復活の原則―悪魔と暗闇の勢力に対する容赦のない裁き―神は罪人らが悔い改めて癒されることのないよう、彼らの心を頑なにされる―

「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」(黙示13:5)

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:6-8)
 
オリーブ園にちょっと不思議な記事が掲載されている。

これまでずっとオースチン-スパークスの連載が続いていたのだが、途中に以下のエバン・ロバーツの記事が掲載されているのだ。

戦いに関する光

悪魔の白旗に注意しなさい!それは戦いを停止させるための休戦の旗なのです。悪魔は出来ることなら何らかの方法で入り込み、まさにカナン人がヨシュアにしたように、教会を自分に妥協させようとします。危険なのは戦いが終わる前に妥協して、戦いをやめることです。暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。

 悪霊どもは知性と交信することができますが、接触するのは霊です。霊に接触し、知性と交信するのです。これがあなたが大いに警戒しなければならない理由であり、あなたが大いに戦わなければならない理由です。悪霊どもは足がかりがあろうとなかろうと、実際に霊に接触します。あなたがあなたの霊の中にあればあるほど、ますますあなたは悪霊どもと接触するようになります。あなたの霊を守りなさい。あなたが自分の霊を正しい状態に保つなら、あなたの霊はまさに船の緩衝材のように働きます。船が港の岸壁に衝突しても――緩衝材がその衝撃を散らしてくれるのです。

 悪霊どもの大目的は悪です。悪霊どもがある人の外側にいる時、悪霊どもが行いたいことをその人が理解し、願い、遂行するという保証は彼らにはありません。しかし、もし悪霊どもがその人の中に入り込むことができるなら、悪霊どもはその人に自分たちの行いたいことを行わせることができます。悪霊どもの大きな願いは、その人に自分たちの意志を遂行するよう強いることです。悪霊どもが人に取り憑く時、その主な現れは強制です。あるいは、悪霊どもが取り憑く主な目的はこれなのかもしれません。取り憑くことにより、悪霊どもは安堵するのです。

エバン・ロバーツ


 この記事は前後の記事がないため、言わんとしていることの具体的な意味がそれほどまでに明瞭ではないが、筆者はこの記事の内容に心を留める。

 以上の記事が具体的に何かを指して言われたのかどうかは分からないが、筆者は、カルト被害者救済活動の偽りと対峙する時、「暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。」という忠告は、まさに当てはまるものだと思う。

 このところ、カルト被害者救済活動の支持者には、警察から、刑法に違反し、人権を侵害する記事を取り下げるよう、連日、警告が行われていた。ところが、当初は記事を取り下げることに同意していたその人物は、その後心を翻し、記事を掲載し続ける意向を示している。

 ついに、警察の忠告にまで逆らう意向を示したのだ。だが、そうしたことも、いわば、織り込み済みの事実であったと言える。なぜなら、この人々は今までずっと「市民社会の掟」を振りかざしては、クリスチャンが非常識な存在であるかのように断罪して来たとはいえ、本当は、彼らの正体こそ、最も非常識かつ反社会的な勢力だからだ。

 神の教会に敵対して立ち向かいながら、この世の社会にだけは色の良い顔をすることは不可能なのである。

 もうしばらくすれば、彼らは警察に対しても正体を現し、彼らがこれまで何か貴いものであるかのように振りかざして来た「市民社会」そのものを冒涜し、踏みつけにするだろう。そして、自らの強情さによって、可能な限りの手下を滅びの運命に道連れにしようとするだろう。

 しかし、彼らの計画は中途で打ち砕かれる。

 まだ終わりの時は来ていない。バベルの塔の建設が完成に至ることはなく、必ず、それは離散で終わると相場は決まっている。

 従って、今回、彼らが警察の忠告まで振り切って行動したことは、神のご計画の範疇なのである。つまり、神ご自身が、彼らの心を頑なにされたことをよく示している。

「この民のところへ行って言え。
 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍くなり、 
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」(使徒28:26-28)

 これまで幾度も述べて来たように、神は、ご自分で癒そうと考える者の心を柔軟にし、癒すつもりのない人間の心を頑なにされる。

 心を頑なにされた人間には、悔い改めて神に立ち返って罪赦される可能性が失われる。人間的な観点から見ても、情状酌量の余地がなくなり、その後は徹底的な滅びへと向かって行くだけになる。
  
 筆者は、こうした事態を見ながら、やはり悪魔と暗闇の勢力は、自分の手下となった人物に対する使い捨ての法則を貫き、その人物から情状酌量を受ける余地を完全に奪い去り、徹底的な破滅へ追い込むものだという確信を強めている。

 こうして、また一つまた一つと彼らの新たな罪状書きが増えて行く。だが、それでも筆者は知っているのだ、彼らが何を考え、どう行動し、何を宣言しようと、結論は最初から決まっていると。

 結論が決まっているからこそ、彼らは当初から、筆者やクリスチャンに対してこれほど激しい憎しみを燃やし、自分の運命に抵抗して来たのである。

 それは、筆者自身の中にある神の御霊が、彼らの目から見てそれほどまでに重大な脅威だったためである。
 
 ところで、筆者は以前にある人が刑事告訴され、逮捕されたいきさつを間近で見ていたことがあるため、そういう事件の進展の仕方と、訴えられた人がどうなるのかも知っている。

 その当時の筆者は、まだとても未熟な信者で、人間的な対立を可能な限り避けて、すべてを当事者同士の話し合いで解決できるものと信じていた。だから、最後の最後まで、事件などにはせず、何とか話し合って和解できないかと、関係者に呼びかけていたのである。

 すると、告訴人に当たる人物が、筆者に向かって言った、「ヴィオロンさん、あなたがそこまで言うのなら、あなた自身が私たちの話し合いに立ち会ってもらえませんか?」

 それは何度目かの和解の呼びかけがすべて拒否された後の出来事であった。

 今から考えれば、筆者にはその提案を受ける筋合いはなかったのだが、筆者はその当時、あまりにも未熟であったがゆえに、どこかに和解の道が残っているに違いないと信じ、彼らを思いとどまらせるべきと考えていた。そして、自分としてできることをすべてしようと思い、説得する材料となりそうな土産物まで持って、車に乗り込んだのである。

 ところが、我々の出発直後に、警察からストップがかかった。「行ってはいけません。ここから先は我々に任せて下さい。」

 まさにそれは天の守りもしくは介入だったものと思う。その当時、いかに筆者が未熟で愚かな信者であったにせよ、神は筆者を守って下さり、筆者が超えてはならない一線を踏み越えて、足を踏み入れるべきでない領域に介入することがないよう、すべてを采配して下さり、筆者を力づくでその事件から遠ざけたのであった。

 結局、筆者はその当事者に会うこともなく、説得に赴くこともなく、その人物が誰なのかさえも知らないまま、時が過ぎ、その人物が間もなく逮捕されたことを聞かされた。その逮捕が当人にとってどれほど測り知れない衝撃であったかも知らされた。

 いわば、事件になったその時から、筆者が何を言ってみたところで、そういう顛末を辿ることは最初から決まっていたのだと言える。話せばきっと思いは通じるだろうといった浅はかで子供じみた感情的な次元の対立ではなかったのである。

 この出来事を通して、筆者は初めて、人が力づくで拘束されることや、それによって生活を奪われ、社会的名誉も失い、自分の書いたもののすべてが強制的に削除され、以後、どこにも何一つ意見発表できなくなり、完全な沈黙に追いやられ、人としての活動を失うということの意味を、傍観者の立場を通してだが、はっきりと目撃したのであった。

 現在の日本社会では、男性にとっては特に、容疑を受けて身柄を拘束されること自体が、社会生活のほぼ完全な破滅を意味すると言っても差し支えない。人々は自分が告訴されたと分かっただけでも、職場を辞めたりする。その後の顛末がどうあれ、関係者に迷惑をかけないためである。冤罪事件で逮捕された人も、後になって、それがどんなに自分の生活に重大な悪影響を及ぼす出来事であったかを繰り返し語る。

 筆者は、以上の事件には、話し合いで物事を解決する道がなくなって以後、全くと言って良いほど関与もしておらず、もっと言えば、最初から何の関係もなかったのだが、関わらなくなって以後も、以上の事件で逮捕された人が、立ち直ったという話を二度と聞かない。本人のみならず、関係者からも、その人が一体、どうなったのか、全く話を聞かない。生きていたとしても、死んでいるも同然のごとく、噂が全く絶えてしまったのである。

 だが、そうなったのは、以上の事件だけがきっかけではなかったものと思われる。その人は、有罪になることを免れる目的もあってか、心神喪失を主張していたらしいが、その過程で、多分、自ら主張した病が現実になってしまったのだろうと思われる。

 これまでに何度も警告して来たことであるが、クリスチャンは、絶対に自分から病にかかっているなどと宣言してはいけない。病は火遊びの相手としてはあまりにも危険すぎ、断固、拒否しなければ、些細な入り口から侵入して、全身を燃え上がらせて灰にしてしまう。

 だが、その人には初めから、病に徹底的に立ち向かう姿勢が見られなかった。それだけではなく、呪いに対しても、毅然と立ち向かう姿勢がなかった。その結果、自ら信じたことがその身に成就してしまったのである。

 信仰に立って最後まで抵抗すべきであった。自らを被害者の立場に置くのでなく、神がすべての呪いを身代わりに背負って下さったことを信じて、抵抗すれば、すべての縄目は絶ち切れていたであろうし、むろん、早期に和解もできていたに違いない。
 
 この出来事は、筆者にとって、非常に暗示的であり、教訓的であった。それまでの筆者は、この事件に限らず、強制力を用いて人間の意志が打ち砕かれる瞬間を、一度も見たことがなかったためである。

 また、病が徐々に人を滅ぼして行くように、ある時点まで、普通に行動していた人間が、ある時点を境に、強制的に社会から隔離され、生活を送れなくなるまでに追い込まれるという現象も、見たことはなかった。しかも、信仰者の世界では、なおさらそんな事件は目にしたこともなかった。

 だが、そうした事件を目撃しつつ、筆者が思わされたのは、罪人に対する神の裁きの容赦のなさであった。この世には永遠に至るまでの刑罰はないが、それでも地上の刑罰にも、永遠の予表としての意味はある。

 神は罪人、悪魔、暗闇の勢力に対して、最終的には、容赦のない裁きを宣告されて、彼らを強制的に隔離・排除・処分される。

 神はしばらくの間、人に猶予を与えておられ、選択の自由も、行動の自由も与えておられるが、人がその自由を悪用し、いつまでも福音に背を向け、聖徒らの説得に全く耳を貸さず、神を冒涜し、神の教会やクリスチャンを冒涜し続ければ、その人の末路は悪魔と同じようになるであろう。

 筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らが、筆者を呪い、いわれなく罰し、社会から隔離しようと企んでいたその悪意をよくよく知っている。彼らは罪もない筆者を、いわれのないことで呪い、罰したかったのであるが、その計画は成らなかった。

 筆者は神の義に立っているためである。

 筆者はずいぶんたくさんのいわれのない悪意や、彼らの発する呪いの言葉に直面したが、それでも、筆者のために呪いとなって木にかかって下さった方を知っているため、そういう呪いの言葉が、筆者に対して効力を持たないことをよく知っている。
 
 そして、実際には、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者らこそ、罰せられるにふさわしい人たちなのだということも知っている。筆者がそのことにはっきりと気づいた以上、彼らは、この先、その運命を免れることはできない。

 そのことは、筆者が何年も前から当ブログで予告して来た通りである。筆者は何年も何年も前から、彼らは刑罰を受けなければならない、ということを主張して来た。一緒になって罪を犯して来た者たちも同様である。その当時は、そうした日が来るとは、多くの人たちは思っていなかったかも知れないが、実際に、その言葉は現実に成就するであろう。
 
 彼らの自らの罪を認めようとしない強情さ、頑なさが、人間の理性や常識や思いをはるかに超えていることを見るにつけても、筆者は日一日と確信するようになっている、この人たちは間もなく拘束されて、強制的に排除されることを免れられないだろうと。

 以上で挙げた事件の際にも、警察の制止が入ったことにより、その人物が完全に筆者の手の届かないところに隔離され、その後、永遠に関わることがなくなった時と同じように、今、この時点を境として、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者から霊的に隔離され、筆者は彼らの運命を何とか取り戻そうと、これ以上、説得したり、呼びかけたり、関与することのできない立場に置かれたのである。

 それは、彼らが暗闇の勢力に連行され、外の暗闇に投げ込まれることが確定したためである。

 彼らの心をそこまで頑なにされたのは神である。それは、彼らの末路が悲惨なものとなることが、いかなる情状酌量の余地もなく、公然と世に表されるためである。

 神は彼らの心を徹底的に頑なにされることにより、神と教会とクリスチャンに立ち向かう人々の末路が、たとえようもなく悲惨なものであり、そこには情け容赦の余地が一切なく、後戻りの可能性もないことを、公然と世に示されようとしているのであり、また、神の容赦のない裁きが、現実に存在することを、信仰を持たない人々も含め、この世のすべての人々の見ている前で、証明されようとしているものと筆者は思う。

 悪魔と暗闇の勢力に立ち向かう戦いの中では、いかなる妥協、憐れみ、同情も持ってはならない。そのような激しい決戦が行われるために、筆者の助言も忠告も和解の呼びかけも、何一つ彼らには届かず、彼らの目は曇らされ、その耳は聞こえなくなり、背は曲がり、心は頑なにされたのである。それは彼らが誰からもいかなる憐れみも受けず、一切の免罪の可能性を奪われるためである。

 以前にも、筆者は当ブログにおいて、彼らを「サタンに引き渡す」と宣言した。それは「あなたのしようと思うことを今すぐしなさい」という言葉と同じ意味である。その後、間もなく、その宣言は現実になり、彼らは一線を超えて自分自身の人生を破滅させる行為を行った。だから、今回の宣言も、間もなく実現するだろう。

 筆者はここでいかなる情け容赦もなく、カルト被害者救済活動の支持者らを、暗闇の勢力に引き渡して連行させ、二度と聖徒らの世界に手を触れることのできないところに隔離すると宣言しておく。

 筆者が「暗闇の勢力に引き渡す」と言っているのは、この世の強制力は、本質的には、堕落した力であり、神に由来するものではないことを知っているからだ。以前に、現代の世の中で、誰かがステパノを石打にして殺せば、石打にした人々は殺人罪に問われるだろうと書いた。このように、この世のことは、この世が裁くのである。はっきり言えば、この世の裁きには、神の裁きのような容赦がないので、この世の裁きに服するよりは、神の裁きに服した方が、圧倒的に生きやすい。
 
 手続きは放っておいても粛々と進んで行く。病が徐々に進行して、人の肢体から自由を奪うように、砂時計の砂が徐々に落ちるように、時を追うごとに、彼らの自由は失われる。病が進行すれば、病人はいずれ口もきけなくなるように、彼らの発言には何の効力もなくなり、お伺いを立てる者もいなくなる。

 彼らのためには、この先、真っ暗な闇が用意されているだけだ。それは彼らが聖徒らのいかなる猶予にも和解の呼びかけにも全く応答しなかったためである。


十字架の死と復活の原則―聖なる都、新しいエルサレムとしての教会より、小羊の血潮と証の言葉により、悪魔の言いがかりを退ける―

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。 いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

何年も前から、当ブログがカルト被害者救済活動の支持者たちから被害を受けて来たことは、すでに幾度も書いて来たことであるが、この件で、警察が具体的に動き出したので報告しておきたい。

以後、加害者らに対しては、彼らが再三、強調して来た「市民社会の掟」に基づき、責任追及がなされることになる。反省のための猶予も、和解のためのチャンスも、十分に与えたが、それを再三に渡り、拒否したのは向こう側であり、これから起きることは、彼らが自分自身で招いた結果である。約9年間もの間、深刻な被害をこうむって来た筆者に、憐れみを求めるのは無駄なことである。

こうして、キリスト者は一歩、一歩、地歩を固め、陣地を取り返して行く。これは霊的支配権の激しい争奪戦であり、退くことのできない戦いである。

悪魔の策略は、キリスト者に「この世のすべてが当てにならず、誰一人頼りにならず、神もなければ、正義も真実もなく、絶望するしかない」という錯覚を吹き込み、他者の犯した罪をいわれなく背負わせた上、望みを放棄させて死へ追い込むことにある。

だが、実際に行動してみれば分かるが、世の中には神も正義も真実も存在するのだ。特に、キリスト者にあっては、確実に存在するのだ。欺かれてはいけない。いかにこの世が堕落した悪魔の支配下にあるとはいえ、キリストの復活の命は、この世の秩序を超越してすべてを支配する。愛する御子の王国へ移し出された我々には、悪魔の支配下に置かれなければならない筋合いはない。なぜなら、キリストは十字架において、悪魔をすでに打ち破られたからだ。

そういう意味で、我々に関する取り扱いはこの世の一般人と同じではない。この世の一般人であれば、正義も真実もないと考えざるを得ないような状況でも、我々のためには、神ご自身が生きて働いて下さる。従って、孤立無援の状況に置かれているのは、キリスト者ではなく、暗闇の勢力なのである。

筆者はここで、教会から被害を受けたとする元信徒らを募っては、彼らの怨念を煽り立て、牧師でもなく教職者でもない一般の元信徒を矢面に立たせる形で、教会に対立させ、筆者のような、地上の教団教派とは一切無関係のクリスチャンに対してまで、いわれのない迫害に及ばせたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の責任は限りなく重いということを、改めて強調せざるを得ない。

村上密氏の思想と活動の影響がなければ、カルト被害者救済活動の支持者らがこのような行為にまで至ることは決してなかっただろうと言える。

津村昭二郎氏と言い、村上密氏と言い、(筆者は牧師制度そのものに反対だが、その誤った牧師制度の中でもことさらに)牧師の道に外れた人々ばかりが登場して来る異常なアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を、筆者が子供時代に去ったのは、今から考えても、まことに正しい決断であったと思わざるを得ない。

筆者は信仰こそ捨てず、むろん、これからも捨てるつもりは一切ないが、聖書の真理とは別に、地上の組織がどんなに誤りに満ちたものであるかは、この教団で初めて思い知ったと言えよう。

村上密氏の活動の本質は、幾度も述べて来たように、神の教会の破壊にこそある。別な言い方で言えば、キリストの花嫁たる神の教会を断罪し、冒涜し、蹂躙し、呪うことにある。同氏の思想に突き動かされた人々が、教会に対する怨念を募らせ、一線を超えて、筆者のように教会の不祥事とは何の関係もない無名のクリスチャンに対してまでいわれなき迫害に及び、結果として自ら人生を滅ぼしたのである。

筆者は彼らの活動の偽りに立ち向かいながら改めて思う、彼らが筆者に浴びせて来た言葉は、誹謗中傷というより、まさに「呪い」であると。彼らは筆者を呪い、死へ追いやることを願って、数々の汚し言を浴びせて来たのである。しかし、その圧迫は、御子の血潮によって断ち切られ、呪いはこれを口にした本人に跳ね返る。

彼らにはダビデの祈りである詩編109編をお返ししよう。1編まるごとお返ししておくので、きちんと聖書を開いて、何が書いてあるのか、全文目を通し、声に出して朗読されたい。忍耐強いダビデも、どんなに愛や憐れみを持って接しても、憎しみと偽りを持ってしか答えようとしない霊的な敵に対しては、ついに次のようにまで厳しい宣告を告げざるを得なかったのだ。

「わたしの賛美する神よ。
 どうか、黙していないでください。
 神に逆らう者の口が
 欺いて語る口が、わたしにむかって 開き
 偽りを言う舌がわたしに語りかけます。

 憎しみの言葉はわたしを取り囲み
 理由もなく戦いを挑んで来ます。
 愛しても敵意を返し
 わたしが祈りをささげても
 その善意に対して悪意を返します。
 愛しても、憎みます。

 彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を立たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

  彼の生涯は短くされ
  地位は他人に取り上げられ
  子らはみなしごとなり
  妻はやもめとなるがよい。
  子らは放浪して物乞いをするがよい。
  廃墟となったその家を離れ
  助けを求め歩くがよい。
  彼のものは一切、債権者に奪われ
  働きの実りは他国人に略奪されるように。
  慈しみを示し続ける者もいなくなり
  みなしごとなった彼の子らを
  憐れむ者もいなくなるように。
  子孫は絶たれ
  次の代には彼らの名も消されるように。
  主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。
  母の罪も消されることのないように。
  その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
  その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず、

 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。
 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は彼を遠ざかるように。
 呪いを衣として身にまとうがよい。

 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。
 呪いが彼のまとう衣となり
 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと迫る者に対して
 主はこのように報いられる。

 主よ、私の神よ
 御名のために、わたしに計らい
 恵み深く、慈しみによって
   わたしを助けてください。

 私は貧しく乏しいのです。
 胸の奥で心は貫かれています。
 移ろい行く影のようにわたしは去ります。
 いなごのように払い落されます。
 断食してひざは弱くなり
 からだは脂肪を失い、衰えて行きます。

 わたしは人間の恥。
 彼らはわたしを見て頭を振ります。
 わたしの神、主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、人々は知るでしょう。
 彼らは呪いますが
 あなたは祝福してくださいます。

 彼らは反逆し、恥に落とされますが
 あなたの僕は喜び祝います。
 わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし
 恥を上着としてまとうでしょう。

 わたしはこの口をもって
  主に尽きぬ感謝をささげ
 多くの人の中で主を賛美します。
 主は乏しい人の右に立ち
 死に定める裁きから救って下さいます。
(詩編109)


カルト被害者救済活動の支持者らは、未だに心ない牧師や教会が、被害者の信徒を死に追いやったかのように主張して、牧師に謝罪や反省を求めている。しかし、筆者はここではっきりと言っておきたい、カルト被害者救済活動に携わる者こそ、その元信徒から信仰を根こそぎ奪い去り、死に追いやった最大原因であると。

カルト被害者救済活動の支持者らは、決して自称被害者の立ち直りに貢献しない。彼らの仕事は、被害者を永久に被害者のままにして置くことである。そして、あわよくば、その者が受けた被害を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

彼らが決して自分のもとへやって来たどんな信徒の解放も願っていないことは、一度でも彼らのもとを訪れた筆者を逃がすまいとして、彼らが行って来た数々の行為を見れば明白であろう。

弁護士が、紛争が長引けば長引くほど儲けになるのと同じように、この人々は、カルト被害者の被害がいつまでも永遠に長引き、被害者の立ち直りが永遠に不可能となり、教会を断罪する材料がより一層増え、それが自らの手柄となることを願っているのであり、そのために、相談にやって来た人々の打ち明けた些細な被害を、針小棒大につつき回し、どんどん膨らませて、死に至るほどまでに苦しみを増し加え、負担を重くして行くのだ。

元信徒が自殺でもすれば、彼らにとってはまことに好都合で、また一つ、牧師や教会を責め立てる材料が増える。そんな状況で、どうして彼らが被害者の元信徒の心の回復になど真に注意を払おうか。

従って、筆者ははっきりと言っておく、被害者信徒を殺したのは牧師でも教会でもない。その者の死の責任は、カルト被害者救済活動の支持者にこそあり、また、そうした人々の言い分にまんまと欺かれて、聖書の神への信仰を捨てた者自身にあると。

村上氏は、自殺者を擁護して、自殺者は天国に行けないとか、自殺を罪とするキリスト教の考え方は誤っていると記事で語る。

「法律では自殺を罪としていない。聖書の中でも自殺を罪としていない。自殺を罪とするのは、習慣的な考え方である。この習慣が自殺をした人の遺族を苦しめる原因になっている。作られた罪意識が、人を苦しめるなら、私たちはそれを変えていかなければならない。鬱の回復期の自殺を罪と見做すのは酷である。自死を選択するほどに追い詰められた状況、原因にも目を向けるべきだ。よって、私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」

要するに、村上氏が言いたいのは、追い詰められて死を選んだ自殺者を責めるのは酷であり、また、自殺者の遺族がいつまでも罪悪感に苦しめられるのも可哀想だから、キリスト教の伝統に従って、自殺を罪とする考えは、残酷で間違った考え方だと思うということなのである。どこからどう見ても聖書に基づかない全くとんでもない話である。

これは要するに、罪意識が人を苦しめるから、罪意識自体があるべきでないと言っているのと同じで、もっと言えば、罪という概念そのものが、人を残酷に苦しめるものだから、なくしましょうと言っているのと同じで、滅茶苦茶な理屈だ。

別なたとえで言えば、痛みの感覚が人を苦しめるから、人から神経そのものを取り去って、痛みを全く感じないようにしましょうと言っているのも同然で、痛みの感覚がなくなれば、人はますます鈍感になり、身の危険を察知することもできなくなり、重症の被害を受けても、全く分からず、死に至るだけだ。

罪意識は、痛みとよく似て、人が逸脱していることに気づくための重要なサインである。それがあればこそ、人は罪を犯さないように自制することができるし、過去を振り返って反省もできる。にも関わらず、罪意識が人を苦しめるからと言って、これを否定すれば、人はどんなに恐ろしい罪を犯しても、鈍感で、無感覚になり、ますます人間性を失って、獣のようになり果てて行くだけである。

もし自殺について、非難すべき対象があるとすれば、自殺を罪と見なすキリスト教を非難するのではなく、人を死においやる悪魔をこそ非難すべきであるのに、村上氏は転倒した理屈で、悪魔を非難せず、かえってクリスチャンを非難するのである。

村上氏がこのようにして、常にキリスト教を罪に定め、キリスト教が、この世の不信者に持たせる罪意識を、あるまじきことのように訴え、不信者を擁護しながら、かえって、信仰を持つキリスト者に、巧みに罪悪感を持たせようとしているトリックに注意する必要がある。

村上氏の理屈は、常にこのように、聖書とはさかさまである。要するに、その主張は、神がキリストの十字架を通して罪赦されたクリスチャンに再び罪悪感を持たせ、罪に定めようとする一方で、信仰を持たず、神の目に罪赦されているはずのない世人の罪悪感をやわらげ、世人の罪を免罪しようとするものだ。

こんな支離滅裂な主張に長い時間をかけて反駁する必要はない。聖書は言う、

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)

「肉の思い」である「死」を擁護する村上氏が、「神に敵対しており、神の律法に従っていない」ことは明白である。村上氏は「私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」と言いながら、聖書が自殺を奨励したり容認したりしているとする具体的な根拠を何一つ挙げない。それも当然だ。そんな聖句があるはずもないのだから。

従って、このような考えの人物のもとに身を寄せた被害者たちが、村上氏の考えに触発されて、次々と信仰を捨てて、自殺を選んで行くとしてもそれは当然である。

このような反聖書的な思想に触れれば、人は自殺を罪とも思わなくなって、死に抵抗感がなくなり、周りの人々をどんなに苦しめることになるのかにも思いが至らず、ただ自分が楽になりたいという思いだけで、率先して死を選ぶようになるだろう。あらゆる苦難に信仰を持って勇敢に立ち向かい、キリストの勝利を生きて味わおうとする望みを捨てて、すすんで死に至るのはまさに当然である。

だから、クリスチャンは、こうした信仰のかけらもない人々による断罪を決して真に受けて懺悔させられてはいけない。被害者の元信徒が自殺を選んだとしても、それは自己責任である。また、自殺を選ぶように唆した人々に罪がある。責められるべきは悪魔と暗闇の勢力とカルト被害者救済活動の支持者であって、クリスチャンではない。

カルト被害者救済活動の支持者らが、このように、元信徒に生きる力を失わせるような反聖書的思想を自ら吹き込んでおきながら、その罪をクリスチャンに転嫁して、「キリスト教が自殺者を罪として責めるのは残酷だし、遺族が可哀想」などと、同情を装いながらうそぶていること自体、笑止千万としか言いようがない。

神を知らない世人が自ら死を選ぶなら、まだ情状酌量の余地も残るかも知れないが、キリスト教徒となって信仰を持ち、聖書の御言葉を知って、神に従うことを選んだにも関わらず、自ら死を選んだとなれば、世人よりももっと重い責任に問われるのは避けられないだろう。

どんなに追い詰められた状況であっても、ごくわずかな信仰でも残っていれば、神はその信者を救うことがおできになる。多くの霊的先人は、信仰を守り通すためにも、究極的に追い詰められた状況を何度もくぐった。あらゆる状況で、神の助けを信じるか、信じないかは、あくまで本人の決断なのである。

にも関わらず、追い詰められた人々に、信仰によって立ち上がるよう促すどころか、最後のなけなしの信仰までも失わせるような偽りを吹き込み、容赦なく心傷つけ、「貧しく乏しい人々心の挫けた人々を死に追いやった」罪は、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者たちにこそある。 

そこで、筆者はあらゆるクリスチャンに、村上氏の主張のトリックを見抜き、罪悪感を持たされないように注意するよう呼びかけたいと同時に、村上氏のブログで深刻な人権侵害を受けた大勢のクリスチャンらに向かって言いたい。同氏と直接の話し合いで物事を解決しようとするのをやめて、第三者を介入させて、早期に具体的に手を打つようにと。わざわざ弁護士などつける必要はない。市民としてのアクションで十分である。

信徒には信徒のレベルで向き合えば十分だが、牧師には牧師のレベルで向き合う必要がある。おそらく、村上氏の牧師としての逸脱行為を主張するに最もふさわしいのは、同氏から最も深刻な被害を受けた同僚の牧師たちであり、また、鳴尾教会に他ならないのではないかと筆者は考えている。

さて、繰り返すが、村上密氏の活動は初めから反聖書的な特徴を持つものであった。もともと「教会のカルト化を防ぐ」とする村上氏の活動は、同僚の牧師や、信徒らの恥や欠点を容赦なく暴き出しては、世間の前で断罪することでしか評価を得られないという欠陥を持っていた。しかも、この活動は、最初から、クリスチャンではない、信仰を持たない世間に、クリスチャンの非を見せつけて、この世の観点から、クリスチャンの行動の是非を裁き、それによって、信仰を持たない世間から評価を得ようとするものであった。

そのようにして、兄弟姉妹の恥を容赦なく不信者の前で暴露し、不信者の観点に立って信者を罪に定めようとする活動が、どうして、聖書に合致するものとなり得よう。また、どうして聖書の説く信仰による兄弟姉妹への愛や憐れみに基づく活動となり、同僚や信徒のプライバシーを尊重せねばならない牧師の職業倫理と両立し得ようか。

だから、村上氏がライフワークとしている、カルト化問題をきっかけとした諸教会への介入は、初めから、牧師としての職務を逸脱しており、反聖書的で、悪魔的な活動に終わることが明白な活動であったと言える。牧師がなさなければならないのは、福音伝道であって、被害者を募っては、自分が所属もしていない教会を訴えることではない。

そんな活動は、牧師の職務の範疇には全く含まれていない。この世の人々でも、牧師が牧師を訴え、信者が信者を訴えるような活動には疑問を感じ、共感も理解も示さないだろう。そのような活動は、ただ同士討ちを奨励するものでしかない。

カルト被害者救済活動の支持者らは、もともとクリスチャンではなかったと筆者は考えている。周知の通り、筆者は何度も「兄弟」として彼らに和解を呼びかけたが、彼らは最後までその提案をことごとく踏みにじり、嘲るだけであった。そうした彼らの行動からも、彼らには信仰によって結ばれた(はずの)兄弟姉妹に対する、いかなる愛情も、思いやりもないことがよく分かる。従って、彼らは信仰を持っておらず、我々の同胞でもないのである。そうであれば、当然、我々も彼らを同胞として扱う必要がなく、教会の方法で向き合う必要もなく、この世の方法で向き合えば十分であり、同胞としての情けは無用である。

繰り返すが、牧師であるにも関わらず、諸教会に敵対し、同僚を訴え、信徒を訴え、信者のプライバシーを暴き、中傷するような活動は、牧師の活動とは呼べないだけでなく、神と教会に敵対する極めて恐ろしい行為であると筆者は思う。彼らが相手にしているのは、この世の罪人ではなく、神が贖われたクリスチャンなのだ。従って、その活動には、神ご自身を敵に回すも同然の言い知れない恐ろしさがあり、どんなに厳しい裁きが待ち受けているであろうか。
 
カトリックのような統一的なヒエラルキーのないプロテスタントの教会には、それぞれの教会の自治があり、規則がある。それは尊重されなければならない各教会の「聖域」である。牧師や信徒は、諸教会にそれぞれ定められた規則を尊重すべきであって、自分が所属してもいない教会に、各教会の規則を踏み越えてまで、介入することは許されない。そのことは、宗教法人が不当に優遇されているという話とはまるでわけが違う。巧妙に話をすり替えられてはならない。
 
自分がその教会で被害を受けたならばともかく、当事者でもない人間が、自分が所属していない教会の内情に干渉して行くことは、法的にいかなる根拠も持たない。

このことは、信者の内心にも当てはまる。憲法は信教の自由を保障しており、これを侵害する行為は悪であり、違法行為である。

従って、筆者と面識もないカルト被害者救済活動の支持者が、筆者の内心を取り締まろうとして言いがかりをつけて来ることにも何の根拠もなく、また、筆者のようにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を去って久しい信者に、村上氏が何年間にも渡り、個人情報を暴くような形で中傷を言いふらしていることにも、何一つ正当な根拠がない。
 
自ら宗教トラブル相談センターを開設しておきながら、そこへ相談にやって来た信徒が、自分にとって目障りな存在になったからと言って、信徒のプライバシーに触れるような虚偽の情報を公然と流布し、信徒の信用を貶めるなどは、誰が聞いても呆れ返るような話でしかない。そういう事例がすでに生まれていると分かっているのに、誰がこの先、そんな恐ろしいセンターに、自分の個人情報を携えて相談に訪れる気になるであろうか。

このように、彼らのしていることは、聖書の倫理とは全くさかさまであり、聖書のみならず、この世の常識にも、法律にも、全くそぐわない行為である。彼らにはクリスチャンを断罪する資格など初めから全くなく、むしろ、クリスチャンの方にこそ、彼らを断罪する資格がある。このことをクリスチャンは自覚せねばならない。

教会がこうした人々に恥を暴かれ、圧迫されている立場から抜け出て、教会こそが、カルト被害者救済活動を断罪し、これを退けなければならないのである。
 
さて、不当な言いがかりを受けた際、キリスト者が何も主張しないでいるのは、悪魔に罪を着せられることに自ら同意するに等しい。私たちは、人間的には色々な弱さを抱えているとしても、神と人との前で、キリストの流された血潮を根拠に、自らの潔白を公然と主張せねばならない立場にある。

なぜなら、私たちは、自分の義に立っているのではなく、神の義に立っているからだ。キリストが十字架で流された血潮が、この世においても、来るべき世においても、私たちに何の非もないことを主張する根拠である。

血潮が、私たちを、神の目に、何一つ欠点のない、しみもしわもない、キリストの完全な花嫁として立たせる根拠となのる。この点で、私たちは神から受けた義認を軽んじてはいけないし、悪魔の訴えに一歩たりとも譲歩してはいけない。
 
悪魔の前で、圧迫に負けて、犯してもいない一つの罪を認めることは、百も千もの犯していない罪を認めることと同じである。たった一つの罪でも認めれば、身の潔白はもう成り立たない。そこで、信者であった人間が、村上氏のような、カルト被害者救済活動の支持者の側から、クリスチャンに対して発せられる断罪と非難の言葉に負けて、一度でも屈服させられて、懺悔すれば、それを皮切りに、その人間は、その後、百も千も万も、犯していない罪をあげつらった供述調書にサインを迫られるだけである。そして、サインを拒む根拠は彼らにはもうない。

クリスチャンは一度でも血潮を退ければ、もう二度と自分自身を擁護する根拠をどこからも得られない。そんなことになれば、世人以上に厳しい裁きに晒されるだけである。地上の組織としての教会に対するあれやこれやの不満を表明することと、真理そのものを退けることを、絶対に混同してはならない所以である。

しかし、何という馬鹿げた事態であろうか。キリスト教会で「被害」を受けたと主張している人たちが、正式に「加害者」になってしまったのだから。

いつまでも人を赦さない心、特に、神の教会を憎み、信徒と和解しない心が、どんなに危険で恐ろしい運命へと人を導くかをよく物語る出来事だろう。

結局、神が義とされたクリススチャンを罪に定めようとする活動に手を染めるなら、その者は誰であれ、自分自身が罪に定められて終わるだけである。とげのついた棒を蹴っていれば自分が痛いだけである。

筆者は、地上の教団教派としての教会には属しておらず、地上の教会を擁護するつもりはないが、それでも、キリストの花嫁たる天的なエクレシアが存在することを確信している。

どの教団教派に属していようと、どんな誤謬の最中にあろうと、それに関係なく、一人一人の兄弟姉妹の信仰を通して、目には見えない霊的共同体としてのエクレシアが存在し、機能しているのである。

カルト被害者救済活動の支持者らの罪深さは、彼らはただ自分自身の心の痛みと向き合い、自分が所属した教会とのトラブルに目を向け、これを解決することだけに専念すれば良かったにも関わらず、自分の心の傷や問題と向き合おうとせず、これを他者の問題に置き換え、他者を助けるという口実で、一つや二つの教会ではなく、教会全体を否定して敵に回し、全教会とクリスチャンの恥を暴くような活動に熱中することで、キリストの花嫁たる天的なエクレシアそのものを冒涜したことにある。

その罪は、地上の滅びゆくものを毀損する罪とは比べものにならないほど重い。その罰は、この地上だけでなく、永遠に至るまで続いて行くだろう。

さて、次回からは、こうした事件に関連して、「エクレシアを冒涜する罪」について考えてみたい。その過程で、三島由紀夫なども引き合いに出すことになろうが、このテーマは、これまで、何度も書きかけ、書きたいと思いながら、なかなか完成できずに来たため、いよいよ着手しなければならないと思っている。


十字架の死と復活の原則―労働によって自由を目指す偽りの生き方を退け、真理によって自由とされて、御言葉に養われて生きる―

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたは書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(Ⅰテサロニケ5:1-3)

わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)
 

最近、あらゆる情報を見るにつけても、エクソダスの時が近づいていると思わずにいられない。筆者の人生は、アブラハムの生涯のように、エクソダスの連続である。

できるだけ早い段階で首都圏を離れるべきだという思いが、最近、どうにもこみ上げて来てならないのだ。バビロンの倒壊がいよいよ始まっていることを、あらゆる兆候から見て取れる。

首都圏に住むことに対する疑問を筆者が初めて抱いたのは、「シン・ゴジラ」という映画を観た時であった。この映画は創作と呼ぶにはあまりにも駄作すぎて、ここで取り上げて論じる価値もないが、筆者は、この映画は創作というより、創作に託した政治的プロパガンダ映画であって、何者かが東京に来たらんとしている戦争の惨禍について告げるために作成した予告映画であるように感じた。

むろん、そのような解釈には何の証拠もないため、同意できない人も多かろうが、筆者は、その映画を観た時、被災地の苦しみや、貧しい人々の苦しみを見殺しにして、富を貯め込み、身勝手な繁栄を享受して来たこの国の主都に、裁きの時が迫っていることを思わされたのであった。その裁きは、ソドムとゴモラのような形ではないにせよ、何者かが東京を戦禍に晒し、火の海にしようとする悪しき計画によって成就されるかも知れないことを思わされたのであった。

ところで、日本政府の悲願は、核武装にある。改憲の先に見えているのは、戦争である。しかも、ただの戦争ではない。核戦争である。

そして、そのようなことが現実に起きた日には、我が国首相は、ゴジラ映画のような「英雄」とはならず、ただ己が野望のために核のボタンを押して、大勢の国民を破滅に晒す独裁者にしかならないであろう。

そういう日が、刻一刻と近づいていることを筆者は感じているのである。東京オリンピックもそうだが、こうした計画はすべて「大日本帝国の復興」という呪われたイデオロギーの延長線上に進められている。そして、筆者はそのような恐るべき計画と、それがもたらす破滅に巻き込まれるつもりは毛頭ないので、首都圏からお暇したいと考えている。

戦争の話はさて置くとしても、それ以外の面でも、この国の未来に暗雲が垂れ込め、滅びが近づいていることは、あらゆる兆候からよく感じられる。

たとえば、裁量労働制について、今国会で行われている議論は、この国にいよいよ国民に底なしの労働の義務を課し、国民が働いても働いても、決して個人に利益が還元されず、すべての利益が国や巨大企業に吸い上げられて行くだけの呪われた社会主義システムが完成されつつあることを物語っている。

アベノミクスの本質は、全体主義なのであるが、アベノミクスの本番の地獄は、いよいよこれからなのである。経済再生などという謳い文句は、詐欺の入り口でしかなく、国民は、夢のような偽りの繁栄の約束と引き換えに、騙されてアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられ、今や強制労働収容所の入り口に掲げられた悪名高い看板「働けば自由になる(Arbeit macht Frei)」の下をくぐり抜けようとしているところだ。

こうして、全国民に未来のない労働が強制される時代が到来し、そのしばらく先に、共謀罪による大粛清やら戦争による殺戮やらが待ち受けているのである。

だが、キリストの十字架の贖いによって義とされ、罪の奴隷状態から自由とされたキリスト者が、こんな呪われた運命に巻き込まれる筋合いはないのであるから、我々は自由を勝ち取って生きねばならない。

ちなみに、上記の「労働は人を自由にする」とのスローガンは、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の悪質なパロディであり、悪質な虚偽である。労働を通じて人間が自由を勝ち取ることなど決してできない。

だが、そのような偽りのスローガンは、全体主義体制に共通するものである。ソビエトの強制労働収容所の入り口にも、アウシュヴィッツとほぼ同じような意味のスローガンが掲げられていた。あたかも労働こそ、人民の栄誉と繁栄と自由への道であるかのように…。

当ブログではこれまで再三述べて来たことであるが、このような労働賛美の思想は、歪んで異常な考え方であって、そこで言う「労働」とは、呪われた概念であって、ただの労働を指すのではない。要するに、それは人類が自己の罪を自分で贖い、自力で神に至り着こうとする、神に逆らう計画としての、終わりなき不毛な贖罪行為を指しているのだ。

クリスチャンならば誰しも知っているように、人間の罪は、人が自分で贖うことはできない。どんなに真面目に働いてみたところで、人はわずかでも自分の罪の負債を減らせはしない。

罪の奴隷状態を抜け出て、自由になるためには、真理によるしかない。真理とは、人となって地上に来られ、十字架にかかられた神の独り子なるイエス・キリストであり、御言葉なるキリストのうちにとどまることこそ、自由への道である。

わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)

そこで、この真理を知っている筆者は、"Arbeit macht Frei"との偽りの標語が記された列車に、大勢の人たちと一緒に乗り込むことを拒否して、我先にと順番待ちをする群衆を置き去りに、一人、駅から立ち去る。

カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者が輝かしい労働への道に進まず、強制収容所行きの乗車への乗車を拒否して、一人どこへともなく去ろうとしていることを知って、筆者が変人で、あたかもまともな仕事に就けない浮浪者であるがごとくにあざ笑っている。

だが、彼らは自分の身にこれから降りかかろうとしている悲惨な末路を全く知らないのだ。歴史を振り返るが良い。人々は「まともな仕事に就ける」とか、「十分な賃金と、豊かな生活ができる」などの謳い文句を信じて、アウシュヴィッツ行きの列車に乗り込まされた。幸福で豊かな生活が待っていると、これから乳と蜜の流れる土地へ行くのだと、騙されて死への旅路へ出かけて行ったのだ…。

カルト被害者救済活動の支持者らは知らない。政府の唱える「一億総活躍」の偽りのスローガンを信じれば、強制労働収容所へ連れて行かれるだけだと。そこで待ち受けているのは、未来ある労働どころか、飢えと、死だけである。

だから、彼らが自分は金持ちだと言って、貧しい人々をあざ笑っていられるのは、ほんの束の間でしかない。

聖書にはこうある、富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

ご覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがた支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)


カルト被害者救済活動の支持者らの中には、人助けを職業として選んでいる者も多い。だが、その職業が見栄のためだけであって、自分は人助けをしているのだと人前に誇りながら、不幸な他人よりも一段上のところに立って、上から目線で他者の苦しみを見下ろし、苦しむ人を踏みつけにし、嘲笑するためだけのものならば、その職業は彼らから取り去られ、他の人々に与えられるだろう。

たとえば、社会福祉士は国家資格であるから、法律で欠格条項が定められている。社会福祉士の信用を傷つけ、刑法に触れるようなことをすれば、当然、国家資格を剥奪される恐れが出て来る。

カルト被害者を「冒涜」することは何の罪にも当たらないが、貧しく寄る辺のない国民を誹謗中傷すれば、この世の刑法に触れることになるのだ。

だから、そういうことを考えれば、大淫婦バビロンが「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)とつぶやいたのと同じように、自分だけは立派な職業に就いて、豊かな生活を送っているから、あの浮浪者や、この貧乏人とはわけが違うなどと、ゆめ神と人との前で豪語したりするものではない。

バビロンは心の中でそうつぶやいただけで、そのつぶやきを神に見透かされ、罪として裁かれたのだから、そんな呪われた文句を神の教会の前で公然と吐き捨ててクリスチャンを侮辱した人々には、どういう恐ろしい運命が待ち受けていることだろうか。

バビロンは宣告されたのだ。

彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ

 「それゆえ、日のうちに、さまざまな災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる
 彼女を裁く神は、
 力ある主だからである。」(黙示18:6-8)

また、箴言(13:21-23)にはこうある、

「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる。 善良な人は子孫にゆずりの地を残す。 罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。 貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある。 公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる。」


このように、義のないところでは、富は長続きしない。罪人がどんなに豊かに財産を蓄えたとしても、それはすべて罪人の手から取り上げられて、義人の手に委ねられる。義人は貧しく見えても、その開拓地には多くの食糧を持っており、子孫のために財産を残す。

繰り返すが、罪人の富は義人のために蓄えられるのだ。カルト被害者救済活動の支持者らは、愚かな行為に及んだクリスチャンを非難して言う、民事で巨額の賠償金を支払って和解しても、刑事ではずっと捜査が続くのだと。だが、その言葉は、クリスチャンを非難し、教会をあざ笑っている彼らにそのままお返ししよう。

目に見える地上の神社に油をまく行為は、世間から見れば迷惑千万であり、かつ文化財を毀損する罪かも知れないが、滅びゆくものは、放っておいてもいつかは消滅するのだ。だが、キリストの花嫁たる目に見えない教会は新創造であり、永遠性を持つ。そこで、神の聖霊が宿っている教会を冒涜する罪は、未来永劫、赦されることはない。旧創造を毀損する罪と、新創造を冒涜する罪と、果たしてどちらが神の目から見て重い罪なのか、それはこれから公然と人前に証明されよう。

さて、筆者の目から見れば、今やこの国全体に、巨大な不幸が降りかかろうとしているのは明白であるにも関わらず、未だに勤労の精神を説いたり、自分だけはまっとうな職業に就いているから、貧しさや孤独とは無縁で、不幸にはならないなどと豪語している連中は、まさに愚の骨頂である。

この先、この国には「まともな仕事」と呼べる職業がほとんど存在しないような恐ろしい時代が来ようとしているのだ。信仰によって生きるキリスト者以外は、生き延びることさえ困難な時代が到来しているのである。

バビロン体系の中で生きるには知恵が要る。秘訣はただ一つ、世間が奨励するような「まっとうな生き方」を目指すのではなく、神の目から見て、真に「まともな職業」に就くことである。人の目にではなく、神の目に評価される生き方をすることである。そうせねば、結局は、誰一人、生きられない時代が到来しているのである。

そこで、筆者は、"Arbeit macht Frei" との偽りのスローガンの掲げられている広き門に背を向け、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の掲げられた狭き門を入って行く。

キリスト者である筆者は、「不信者とのつり合わないくびき」を負うことを拒否し、自力で罪を贖うために、罪人と共に底なしの罪の連帯責任を負わされることを避け、神に逆らうバベルの塔建設の計画に加担せず、労働によって自由を目指すのではなく、真理によって自由を獲得し、二度と人の奴隷とされることなく、また、自分の貴重な労働の成果を、悪者にかすめ取られたり、怠け者の利益に還元されたり、強欲な雇用主を富ませるために利用されることなく、自分の労働の成果が、天に蓄えられ、真に自分自身に還元されるような生き方を目指す。

これは、信者に無限の献金や奉仕を要求する強欲なカルト宗教からのエクソダスにとてもよく似ていて、気づくのが早ければ早いほど、被害が少ないと言える。

さて、呪われたバビロン経済を脱し、真に正しい神の国の霊的秩序に生きるためには、キリスト者は御言葉の奉仕人でなければならない。詩人が詩人であることをやめて、労働者になっても何の役にも立たないのと同じように、キリスト者は、神の国のために働く奉仕人であり、「天職」に生きるべき人々である。

天に収穫をもたらすことこそ、我々の職業であり、我々の仕事は「人間を漁る漁師」であって、その職は地上のすべての職を超える。キリスト者は地の塩としての役目を果たさなければ、外の暗闇に投げ捨てられ、踏みつけられるだけである。

地上の経済は、キリストの復活の命の統治に服さねばならない。神の霊的な秩序はこの世の秩序よりも優先する。その順序は決して入れ替わることはない。従って、神の国の霊的秩序に生きる人々のために、地上の経済は仕える立場に置かれるのである。

牧師でさえ言う、御言葉の働きのために報酬をもらうのは当然であると。そして彼らは地上の職業から遠ざかっているではないか。

だとすれば、まして真にキリストに従う奉仕者たちのためには、神が必ず天に報酬を備えておいて下さる。蒔くことも、刈ることもしない空の鳥や野の花のために、神がすべての必要を備えて彼らを養って下さっているのだから、キリスト者が、自分で自分を養うために、奴隷的強制労働などに従事せねばならない筋合いはないのである。

そういうわけで、未だ勤労の精神を説いたり、人の目に認められようと、お国のために役立つ人間になろうと努力しているカルト被害者救済活動の支持者らは、大変な思い違いをしているのである。

彼らが仕えている地上の国は、彼らを滅ぼすだけで、決して幸福にしない。また、彼らが誇っている地上の「まっとうな職業」も、糞土にも値しないものであって、人を滅びにしか導かないものであることは、やがて多くの人の目に明白になるだろう。

欺かれてはならない。狭き門から入る人は幸いである。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができおうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

十字架の死と復活の原則―キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている―

暗闇の勢力に立ち向かう事件は相当に進展している。聖書の裁判官とやもめのたとえのごとく、世にはしつこく訴え続けることで、初めて真実が取り上げられる事柄も多数、存在するのだと、筆者は、これまでの様々な戦いを通じて痛感して来た。

できるなら、聖書に登場するやもめのように、神をも畏れぬ裁判官を延々と説得したいとは思わない。それはあまりにも骨の折れる仕事だからだ。だが、高慢な役人、冷血な裁判官、あくどい弁護士、冷酷な上司、事なかれ主義の従業員・・・、ここに列挙できないほど、実にほとほと嫌になるような性格の人々を相手にしながら、筆者はこれまで幾度も自らの主張を訴えて、戦って来た。

その過程で、重要なことが見えて来た。相手がどんな性格の人間であれ、とことん真実を訴えて成果を引き出す秘訣が分かり始めたのである。

ところで、主イエスが語られた不正な裁判官とやもめのたとえを思い出す際、常に筆者の脳裏に思い起こされるのが、あるウクライナのおばあちゃんである。

筆者がウクライナの首都を旅行していた時のこと、我々の一行はまだ明るいうちに街の目抜き通りで警官に呼び止められた。パスポートを出せと言われ、出すと居住登録の書類に不備があるとけちをつけて来る。これは元共産主義国ではよくある言いがかりで、暗黙の賄賂の請求である。我々が抗議しても全く言うことを聞いてくれない。

ところが、その時、我々の一行と共にいた小柄で物静かなおばあちゃんが、突如、体全体から振り絞るような声をあげて、ものすごい剣幕で警官に食ってかかったのだった。

「あんたたち、恥を知らないの? 神をも畏れず、白昼堂々、こんな街中で、市民に何という言いがかりをつけるのよ! この人たちは私の大切な客人なのよ! まだ学生なのよ! 私たちの国の文化を学ぶためにやって来た大切な客人なのよ! 私たちはちゃんと役所に行って手続きもしたのよ! 書類に不備なんてないわ! 私の客人に、あんたたちに指一本、触れさせやしないわよ! 全く恐ろしい、世も末だわ! あんたたちみたいなならず者が、自分の小遣い稼ぎのために、白昼堂々、こんなコソ泥みたいな真似して、貧しい市民や学生に言いがかりをつけて最後のなけなしのお金まで奪い取ろうっていうの? 神はすべてをご存じだわよ! あんたらに良心の呵責はないの! こんな卑怯な真似していないで、さっさと自分のやるべき仕事を果たしなさいよ!」

・・・これは筆者の想像で、実際にはウクライナ語のため、おばあちゃんが叫んでいる内容は、ほとんど分からなかった。だが、それでも心は伝わる。ちょうど大斎期のシーズンで、おばあちゃんは水と黒パンしか口にしておらず、精進の最中だった。色々と宗教的な言い分がちりばめられていたことは分かった。

警官らは、おばあちゃんの圧倒的な剣幕にたじたじとなり、青ざめながら、後ずさりして、「いいか、今度、同じようなことがあったらな・・・」という捨て台詞を残して、我々から手を引いて、立ち去って行った。

おばあちゃんの圧倒的な勝利だった。

だが、何事も執拗に訴えさえすれば、成就するということはない。嘘も百回言えば真実になるということは決してなく、そういう考えは誤りである。真実でなければ、訴えても、嘘の岩盤を貫き通す強度がない。だが、もし訴えの内容が真実であるならば、あきらめず何度もとことん訴えれば、いずれ固い岩盤をも通過する。 

さて、今は事件の関係で詳しく記すことはしないものの、筆者はある記事を思い出している。

それは、筆者に長年敵対しているカルト被害者救済活動の支持者の一人が書いた「干潟は水が腐っているわけではない」という記事である。

「干潟は水が腐っているわけではない」の記事

残念なことに、この記事の著者は、その後、記事の中で自ら言わんとしていたことのはかり知れない重要性に気づくことなく、思索を途中でやめて、むしろその内容を否定して、180度、違う道を歩み始めてしまった。

しかし、筆者は今ここで、この記事の重要性に改めて言及しておきたいのである。

記事の著者は言う、干潟は、泥沼のように見えるため、外観が悪く、世間には全く有用性がないかのように誤解されがちだが、事実は全く逆で、干潟では、神秘的、奇跡的なほどまでに、環境浄化の作用が働いており、自然界の恵みある有用な働きがなされているのだという。

九州地方には世界的にも珍しい大きな干潟がたくさんある。その歴史的な発生の過程については今は省略するが、当時、この自然界の恵み豊かな由緒ある干潟を根こそぎ破壊しようとしていたのが、農水省が強行している大規模公共事業であり、その公共事業には、巨大利権を巡って、官僚、政治家、様々な業者などが群がっているという。

と、記事の著者はここでいきなり話題を変えて、プロテスタントのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の記事に言及し、村上氏の主張を批判する。

村上氏は、自らの記事の中で、公共事業によって、水が腐った地帯に過ぎない干潟が開拓されて、人工的に河川が造られ、水はけが改良され、穀倉地帯ができたことを素晴らしい成果であると述べて、干潟の悪水を抜くことを、人間の心の中にある悪水を抜くことになぞらえて評価する。

しかし、こうした村上氏の主張を引き合いに出しながら、記事の著者は、これを完全に的外れで不適切なたとえとして、痛烈に批判しているのである。

つまり、この記事の著者に言わせれば、干潟は水の腐った地帯などではなく、むしろ、生態系にとっては極めて有用な作用をもたらすものであり、このように長い時をかけて作られた歴史ある自然界の恵みをただ単に「無用なもの」と決めつけて破壊することで、根こそぎの環境破壊にいそしんでいる政府の公共事業の方が、実際ははるかに有害なのである。

記事の著者は、こうして「干潟=悪(旧体制)」、「政府の公共事業=善(新体制)」と決めつける村上氏のあまりにも短絡的で浅はかな理屈を完全に論破し、覆してしまう。そして、一見、人の目には無益かつ無用に見える見栄えの悪い干潟の中に、整然として人目を引き、有用そうに見える公共事業には全く太刀打ちできないほどに神秘的・驚異的な効用があることを訴えるのである。

その記事の著者が「権力」におもねることなく、また、見かけ倒しの成果に欺かれることなく、一見、力のない、不器用で、見栄えも悪い、見捨てられつつある、もの言わぬ「干潟」の側に立ってこれを擁護しているわけだから、胸のすくような主張である。

ところが、残念なことに、この記事の著者は、村上氏が、干潟の開拓の必要性を述べることで、それを人の心の問題(クリスチャンの心の問題)になぞらえていることを理解しつつも、自らの論理を最後まで推し進めて、干潟の有用性についての議論を、村上氏の主張に具体的に適用して、村上氏の主張の根本的な誤りや危険性に言及することとしなかった。

それどころか、この記事の著者は、この記事に対して早速、村上氏から抗議を受けたことを機に、あっさりとその抗議を受け入れ、自分には村上氏に対する敵意があったと反省の言葉を残して、この記事で始めていたはずの極めて重要な考察を自ら放棄・封印してしまい、むしろ、その後は、まるで村上氏の代弁者か、同氏の活動の宣伝広報係のようになって、それまでとは正反対とも言える道を歩んでしまったのである。

暗闇の勢力は、こうして人の心に芽生えた重要な気づきを常に邪魔するものである。その後は、ご存知の通りであり、この人物は、カルト被害者救済活動の支持者の一人として筆者にも深刻に対立・敵対するに至っている。筆者から見れば、村上氏にいいように利用された上、すべての責任を一身に負わされて、切りすてられようとしているのである。

だが、この人物の見解がどうあれ、筆者はその記事で始められた考察のしっぽを取り上げて、それを当ブログでさらに推し進め、その当時、口にされることのなかった結論を明らかにしたいと考えている。

一つ前の記事でも述べたことであるが、干潟についての以上の議論は、聖書における苦しみの効用というテーマとぴったり重なるのである。

村上氏は公共事業による干潟の開拓を肯定的に評価しながら、それを人の心になぞらえて言う。

「人の心も同じだと思います。悩み苦しみが心の中に流れ込み、行き先を失って、潟になっています。悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

だが、本当にそうだろうか? 村上氏のこの記述はあまりにも浅薄に過ぎないだろうか。

何よりも、村上氏の言うように、人間の「悩み苦しみ」は、本当に人の心の中に溜まった無用な「悪水」でしかないのだろうか? しかも、「話を親身になって聞いてくれる」良き聞き手が現れることによってしか、その「悪水」のはけ口はないというのか?

いや、聖書は決してそのようなことは言っていない。

聖書には、神のために苦しんだ無数の霊的先人たちの生き様が記されている。だが、彼らは、周りに一人の理解者も、同情者もなく、ただ神だけが自分の苦悩を理解して、これを受け止めて下さるという境地を一人で切り抜けねばならなかった。

たとえば、正しい礼拝をしたのに、嫉妬のゆえに兄カインに殺された弟アベル、兄弟たちに妬まれ、エジプトに売られ、ポテパルの家でも苦難を受け、長く投獄されたヨセフ、一人で箱舟を建設し続けたノア、イサクを得るまで長い間、サラと共に忍耐せねばならなかったアブラハム、パロの家を捨てて民を率いてエジプトを脱出したモーセ、義人にも関わらず苦しめられたヨブ、ペニンナに苦しめられ、祭司エリにまで酒に酔っていると思われてたしなめられた不妊の女ハンナ、自分の息子にも裏切られ、数多くの苦難を耐えたダビデ・・・

主イエスご自身も、十字架に向かわれる時には、群衆に裏切られ、弟子たちにまで見捨てられ、神の御前にただお一人で苦難を背負われた。

それから、パウロの投獄、ステパノの殉教、その他、その他…、今ここで列挙することが不可能なほど、信仰者たちはみな神のために苦しんだのである。

一体、誰が彼らの苦悩の「良き聞き手」になって「悪水のはけ口」の役割を果たしてくれたというのであろうか?

そのようなことがおできになる方は、神以外には誰もいない。

聖書は、信者の悩み苦しみについて、決して村上氏のような主張をしておらず、むしろ、逆のことを言っている。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ5:1-5)

「つまり、あなたがたには、
キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)

「今やわたしは、
あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)

以上の御言葉は、まさしく「苦しみの効能」と言って良いものではないだろうか。

そして、聖書がこのようにキリストのために苦しむことを奨励しているにも関わらず、村上氏が、人間(信者)の悩み苦しみ(≒干潟の水)を、何かあるまじきもの、無用なもの、人の心に溜まった「悪水」のようなものとしてしかとらえず、それを「良き聞き手」(≒公共事業)が話を聞いてやり、心の外に吐き出させることで、「悪水を抜く」ことができるかのように考えている誤りこそ、同氏の誤ったカルト被害者救済活動のベースをなす考え方ではないかと筆者は思う。

このことは、カルト被害者の悩み苦しみをどのように扱うかという村上氏の手法の基礎をもなしている考え方である。

しかし、件の人物も、上記の記事の中で言う、干潟に溜まった水は、決して抜かなければならないような腐った「悪水」ではなく、見かけは泥水のように見えても、干潟の水の中では活発な光合成が行われ、浄化作用が起きているのだと。

同様に、筆者に言わせれば、人間の心の悩み苦しみも、心に溜まった悪水などでは決してなく、その凝縮された苦しみの中でこそ、活発な霊的浄化作用が起きているのである。

むろん、苦しみそのものが人間の魂を浄化できるわけではない。キリスト者の霊と魂を清めることができるのは聖霊だけである。しかしながら、それでも、苦しみがなければ、人間は誰しもすべての逆境を自力で切り抜けることができるかのような高慢な錯覚に陥り、真剣に神を尋ね求めることもなく、祈ることも、信じることもないであろう。

従って、自己過信に陥ることなく、神に従い、自分自身の力によって立つのではなく、真実、信仰によって、神の憐れみと助けによって生きることを学ぶためには、信者はどうしても苦難の中を通ることを避けては通れないのである。

目に見えるカウンセラーや、牧師や、教師たちに、安易に悩みを打ち明けたり、話を聞いてもらい、自分を理解し、慰めてもらおうと願わず、ただ神にのみ、自分の心のすべてを打ち明け、どんなに理不尽な出来事を通過しても、すべてを神の正しい裁きに委ねる時に、信者の苦悩が、神の直接のねぎらい、慰めによって報いられるのである。

誰にも打ち明けることのできない苦しみの中で、信者の魂が練られ、練達が生まれ、希望が生まれるのである。

筆者は一つ前の記事の中で、疑わしい教えを唱えるキリスト教系の団体を通過して来たことを決して後悔するつもりはないと書いた。

異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなもので、生きている限り、根絶することはできないが、免疫抵抗力を持つ健康な人にとっては、害にはならない。健康な人も、このような病原菌と共に生きることによってしか、免疫抵抗力をつけることができない。

信者は誰しも了解しているはずだが、我々はこの地上で堕落した肉体を持っている限り、完全に聖なる人となることはできない。クリスチャンの完全な聖化は、復活の時を待たねばならない。従って、完全なキリストの花嫁たるエクレシアは霊的には存在するものの、この恵みの時代(教会時代)に、目に見える形としては、決して存在することはできない。

そこで、我々がどんなに100%純粋で正しい教えを唱える教会や兄弟姉妹を熱心に探し求めたとしても、そのような存在を地上で見いだすことは、100%無理であると断言できる。我々はこの地上にいる限り、誤りやすく、未熟で、不確かな考えの兄弟姉妹や、教会にしか出会うことはできないのである。エクレシアはこの迷いやすく愚かで未熟な地上的な人々を通して、彼らの心の中にある純粋で熱心で揺るぎない信仰を通じて霊的に体現される。

我々クリスチャンは生きている限り、誤謬や、逸脱や、失敗から解放されることがない。そこに我々の悩み苦しみもある。むろん、このことは決して失敗や誤謬の言い訳とされるべきではない。だが、義のために苦しむこともあれば、自分自身の限界から来る失敗や弱さのゆえに、神に従いたいという願いとの間で葛藤し苦しむこともある。神の完全、神の聖を追い求め、どこまでも真実で正しい生き方を追い求め続けるべきではあっても、同時に、地上の不完全な存在であるがゆえに、神の願っておられる完全に至り着けない苦悩も存在する。

異端の教えに深刻な被害を受けるまで接触する必要はなく、そのようなことを勧めるつもりも筆者にはない。以下で記す通り、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れたように、誤った教えを唱えていると分かった団体からは、離れ去ることを勧める。が、だからと言って、我々が疑わしい教えを100%避けて、完全に正しい教えだけを受けて生きることも、地上にある限り、不可能な相談なのだ。

このことは、カルト被害者にも当てはまる。カルト被害者と呼ばれている人たちは、神を求める過程で、知らずに誤った教えに触れて、深刻な被害を受けた人々である。その人々の苦しみを自業自得と考え、自分ならばそのような愚かな失敗はしないと考えて笑う人々もあろう。

しかしながら、筆者は思うのだが、事の大小の違いはあれど、我々はみなカルト被害者と同じような失敗を通してしか、何が正しい教えであり、何が誤った教えであるのかを学ぶことはできず、正しい教えを識別する機会もなければ、判断力を養うきっかけも得られないのである。

だから、筆者は、そのように多くの痛みを経験しながら歩んで来た人々が、自らその痛み苦しみを恥じるがごとくに「被害者」と名乗る必要はなく、また、そうした苦悩を教会のせいであるかのように考えて、神に従おうと願った自分の信仰までも恥じる必要はない。むしろ、彼らが負った悩み苦しみは、信仰に立ち続けさえするならば、非常に有益な教訓として生かされうるものであり、何ら恥ずべきものでもなければ、あるまじきものでもない。

カルト被害者のみならず、信者の負った悩み苦しみにはどれも深い意義が存在する。問題は、カルト被害者救済活動に携わる人々が、被害者を募り、彼らが教会で受けた悩み苦しみを「あるまじきこと」のようにとらえさせることにより、神を求めて教会を訪れたことを後悔させ、信仰まで捨てさせようとしている点である。

誤解のないように断っておけば、筆者は決して我々が率先して苦しむべきだと言っているのではない。深刻な被害を負う前にきちんと対処すべき事柄は多くあり、打つべき手さえ打たずにただ悪魔のなすがままに翻弄されて苦しめられるべきと言いたいわけではない。

だが、人には自分でコントロール不可能な状況下で苦しみが与えられることもある。

たとえば、筆者は子供時代に、自分では決断することのできない状況で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に関わることになり、その後、この教団の理念が誤っていると見抜いてこれを離れる際にも、多大なる苦しみを経験した。

だが、今、筆者は、自分の人生を自力で操縦できなかったような子供時代に、この教団に関わったことまでも、まるで自己責任であるかのように考えたりはしない。

神はその当時から、筆者には分からない方法と、深いご計画を持って、筆者をご自分の民として召し、選んで下さっていたのである。そのことは、筆者だけでなく、筆者が子供時代に所属していた教会までもが、後々、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れた事実を見ても、よく分かるように思う。

筆者が子供時代に洗礼を受けると決断した時、家庭内では大きな波乱があり、筆者は大きな苦難に遭遇した。その時、筆者の苦しみを理解する者は、家庭の中にさえ一人もいなかった。それにも関わらず、筆者の神に従いたいという決意は変わらず、それは決して牧師や家族から教えられた結果でもなければ、誰から強制されたものでもなかった。

このように、どの教団教派、どのような組織に属しているかといった問題を完全に超えて、筆者は自分の意志で、目に見える万物を造られた唯一の創造主である聖書の神に従って生きることを決意したのである。

今でも、その決意のことを考えると、感動とも何とも表現しがたい思いがこみ上げて来る。

その当時から、筆者の内心には、自分の人生がどのような終わり方をするのか、筆者の人生は神のために捧げられるのだというおぼろげながらの予感があった。子供時代から、筆者は幾度かそのことを口にしたものである。

筆者には、神のために負わねばならない多くの苦難があることが分かっており、実際にそれを負って来た。世人と変わらない生活を送っていた時代もあったが、それでも、筆者の人生はかならず、神の御前の単独者へと引き戻された。

神は筆者が子供時代から御名のために負って来た代償をことごとくご存じであると今も確信している。筆者自身にはコントロールできない、手の届かないところで起きたすべての事件についても、神がご存じであると思う。そうした事情のゆえに、筆者の受けた苦悩について、筆者を直接、慰め、ねぎらうことができる存在はただ神のみである。

神ご自身しか、そうした出来事が何のためにあったのか、何のために必要なことだったのか、判断できるお方はいないのである。

にも関わらず、村上氏は言う、

「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」


この言葉は、村上氏が自分は「良い聞き手」だと自負しているがゆえに述べている言葉であろう。ある意味で、大した自信だと言える。

だが、その言葉とは裏腹に、村上氏は職務上、知り得た牧師や信徒の個人情報を、あまりにも軽率に取り扱っており、あまりにも口の軽すぎる、信頼できない牧師・相談相手として、カルト被害者の間でさえ有名である。

村上氏はかつて自身のもとに相談にやって来たカルト被害者らの個人情報を加害者サイドの牧師に転送してしまい、それが発覚して、被害者から絶縁を言い渡されたこともあると、筆者は関係者から聞かされている。

また、村上氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離脱した鳴尾教会の山田晃美牧師が、「統一教会に入信していた経歴がある」かのように自身のブログで吹聴しているが、鳴尾教会の公式ブログを読めば、山田牧師に統一教会への入信歴がないことは一目瞭然である。

にも関わらず。なぜ村上氏がそのような虚偽の情報を流布しているのかと言えば、鳴尾教会のブログによると、山田牧師が神学生時代に、(うっかり)身の上話として村上氏に統一教会の話をしたことがきっかけであるという。その際、村上氏の方から、山田氏の話を聞いて、「統一教会に入信していたことにはならないですね」と返答したにも関わらず、村上氏はその時に知り得た同僚の牧師の個人情報を歪曲する形で、デマの流布に及んでいるのである。

それは筆者に関しても同様である。本来、牧師は、自分の教会を訪れた信徒の個人情報を決して口外してはならないはずである。そのようなことは、カトリックの司祭が告解で聞いた信徒の情報を外へ漏らすのと同じくらい重大な職務上の倫理に抵触する行為である。

たとえ信徒が牧師と対立して教会を去ったとしても、牧師は信徒の幸福のために祈るべきであって、自分に歯向かった信徒に報復を果たすために、信徒の中傷を言いふらすような行為は断じて許されるものではない。

にも関わらず、村上氏は、自身の教会に一度でも訪れたことのある筆者に関しても、作り話を公然と流布しており、さらに、上記の記事の著者である件の人物にも、筆者に関する歪曲された情報を提供して、筆者を中傷させることに一役買っていると見られる。

なぜなら、件の人物が公然と流布している作り話の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でただ一人、村上氏以外にはそんな思い込みに満ちた誤った情報を作り上げることが誰もできないと分かっている不確かな情報が、数多く含まれているためである(この点については、いつかそれらの誤謬をまとめて記事にする時が来るのを待たれたい。)

もちろん、筆者に対して悪意を抱いていることが明白な人物に対して、故意に筆者の個人情報を提供したりするような人間が、通常のクリスチャンの中にいるはずがないことは明白である。

さらに言えば、聖書において、キリストが長血の女を癒されたり、足の不自由な人を立ち上がらせたり、悪霊につかれた人を解放されたりしたことが明白であるのに、病に陥ってもいない人間に向かって、おまえは人格障害だと宣言し、人格障害は生涯、治らない不治の病だなどと豪語するような人間が、クリスチャンでないことも明白である。そういう人間は、自分にとっては病こそが動かせない永遠のリアリティで、神の癒しなどは信じられず、信仰はかけらも自分にはありませんと白状しているだけなのである。
 
クリスチャンという存在は、たとえ自分がどんな病にり患することがあったとしても、神の癒しを信じることのできる人々であるが、それ以前に、病にかからないように守って下さる力が神にあることも当然ながら信じている。
 
話を戻せば、村上氏が、筆者に関する事柄のみならず、他の人々との関係においても、職務上知り得た同僚の牧師や信徒らの個人情報を、あまりにも軽率に公共の場所で言いふらしては、自分に好意的でない関係者の信用を貶めるために歪曲して用いている様子を見れば、果たして、このような人物が、「話を親身になって聞いてくれる良い聞き手」と言えようかという疑問が生まれるのは当然である。

むしろ、親身になって話を聞いてくれそうだという外見に欺かれないことの方が重要である。こうした怪しげな牧師や教師やカウンセラーに、「親身になって話を聞いてもらった」結果として、受けた苦悩に対する恨みばかりをより一層、深め、自分はダメな人間だからこんな誤りに陥ったのだなどとくよくよと考えて自分を恥じ、世人と同じようにそつなく生きることだけを目標として自己改善にいそしみ、神を求めて歩んで来た自らの人生の行程を恥じて、やがて信仰までも捨て去るようになるのでは、元も子もない。

このようにして、筆者は、人間の悩み苦しみは、村上氏の言うように、外へ吐き出すことによって浄化される「悪水」では決してないと考える。

人間の悩み苦しみは、そもそも「悪水」になどたとえられるべきものではない。悩み苦しみが心の中に凝縮される中でも、我々が、神を仰ぎ、御言葉の光に照らされて、霊的「光合成」を行うならば、その悩み苦しみの最中から、見事な霊と魂の浄化作用が働き、恵み豊かな神の御業を常に見ることができる。

そして、我々の魂の真の理解者、真の慰め主、ワンダフル・カウンセラーは、キリストのみである。にも関わらず、村上氏の言うように、キリスト以外の目に見える人間の中に、「話を親身になって聞いてくれそうな聞き手」を絶えず探しまわり、そうしてキリストを押しのけながら、あちらの教師からこちらの教師へと、まるで浮草のように移動し、一見、外側だけはきらびやかで有用そうな人間に安易に心を打ち明けようとして欺かれ続けることの方が、はるかに有害で危険である。

繰り返すが、信者の悩み苦しみは、腐った水などでは断じてない。悩み苦しみの中でも、キリストにすべてを打ち明け、御言葉の光に照らされて生きることさえできれば、心はいくらでも肥沃になり得る。悩み苦しみを持って生きることを不格好だと考え、見栄えが悪いがゆえに、そのような生き方は有害で無意味だと決めつける短絡的な考え方をこそ、見当外れな思い込みとして警戒しなければならない。

カルト被害者と称する人々の悩み苦しみについても同様である。一刻も早く悩み苦しみの外に出ることだけを目指している人は多いが、解決は、悩み苦しみそのものをあるまじきことと考えて退けるところにはない。

我々は自ら苦しみを望んだり、その中にとどまり続けようと願う必要はないが、自分にどうすることもできない理由で起きた苦しみまでも、自分の責任で起きたことのように考えて、何とかして自力でそれを解決しようと各種の試行錯誤を重ねたり、それを恥じたりする必要はない。

神に従う過程で、一人一人のキリスト者が歩んで来た道については、神がすべてをご存じである。そして、神は我々が地上で受けた損失を、補って余りあるほどの慰めを与えて下さることのできる方である。

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩編110:71)とある通りである。(共同訳では「卑しめられた」となっている。)

筆者は、干潟の驚くべき効用と同じように、苦しみのもたらす効用を言葉を尽くして説明することはできない。だが、筆者が苦しみを無用なものと決して思わないのは、そこに十字架の死と復活の原則さえ働くならば、苦しんだことをはるかに上回る慰めと喜びが用意されていることを知っているからだ。

神はキリストを信じて喜ぶことだけでなく、キリストのゆえに苦しむことも、私たちに恵みとして許して下さったのであり、一人一人のクリスチャンの苦難の中の従順を重んじて下さる。そうした従順を通して、キリストの苦しみの欠けたところが補われ、全教会のために豊な浄化作用が働くのである。

よって、筆者はキリストのゆえに苦しむことを恥じるどころか、それを喜びたいと思っている。むろん、世の中にははっきりさせなければならないことがたくさんあり、誤りは誤りとして明白にされるべきである。だが、本当の誤りは、疑わしい教えを吟味しながら、神に従おうとして来たクリスチャンの側にあるのではなく、そうしたクリスチャンの歩みを恥ずべきものであるかのように断罪し、信仰のゆえ、御名のゆえの信徒の苦難を無益で無様で不格好なものとして嘲笑しながら退けようとするカルト被害者救済活動の側にある。
 
筆者は、主の御名のために歩んできた道と、御名のために負った苦難に、何一つ恥じるべきところはないと確信している。そのために天には豊かな慰めと褒賞が待ち受けていることをも疑わない。


十字架の死と復活の原則―裁きの時には一つの罪でも有罪となるが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される

オースチン-スパークスの論説を読むと、キリスト者の中には、神から特別に厳しい訓練を課される者たちがいることが記されている。

そういう者たちは、端から見れば、信じがたいほど絶え間なく困難に見舞われているように見えるだろう。しかも、苦難の規模が通常人をはるかに上回っているため、なぜそこまで苦しまねばならないのか、周りの人々には理解できない。中には自業自得と誤解して責める者もあるかも知れない。

だが、そうした患難には神の深遠なご計画がある。

困難が次々と起きるからと言って、それだけを見て決して落胆する必要はないと言えるのは、これまで幾度となく繰り返して来たように、神がクリスチャンに地上で苦しみを許される時には、必ず、それと同時に天に慰めも用意されているからだ。

つい数日前、筆者はブログを更新していない間に、一つの思いがけない喪失を経験したが、ほぼ同時に、神は大きな慰めを用意して下さっていた。筆者が探してみると、ただちに失ったものを上回るほどの稀有な新しい宝を得ることができたのである。良い人と出会うことができ、受けた損失を補うほどの価値のあるものを得ることができた。

そこで、求めなさい、そうすれば与えられます、叩きなさい、そうすれば開かれます、あるいは、罪が増し加わるところには恵みも増し加わる、と聖書に書いてある通り、どのような出来事が起きても、キリスト者は、落胆することなく、死から命へ、苦しみから慰めへ、天に備えられている恵みだけをまっすぐに見上げ、それを実際にすべく具体的な行動を起こすなら、そうして信仰によって踏み出すと同時に、苦しみの時は束の間に過ぎ去り、豊かな恵みと慰めが待ち受けていることをすぐに確認できるだろう。

繰り返すが、キリスト者には、苦しみもあるが、同時に、その苦しみを補って余りあるほどの豊かな慰めが必ず天に備えられている。だから、クリスチャンの中のある人々が絶えずひっきりなしに困難な状況に見舞われているように見えたとしても、その人には、受けた苦難と比べものにならないような慰めが天に同時に用意されていることをも思った方が良い。そういう人生を送ることは、非常に希少な幸福であると言えるかも知れない。
 
イエスは言われたのである。

「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)
 
クリスチャンが地上で福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、主に従わざるを得ない瞬間に、失ったものの百倍を受ける時が来るというこの御言葉を思い返しても、信じがたい気持ちになるだけであろう。そういうことが起きる度に、心は悲しみにふさがれ、孤独に苛まれるかも知れない。

実際に、神の御手の中で訓練を受けているクリスチャンが、苦しみの渦中にある時、慰めの方向へ目を向けることは難しい。見えるものに従って歩んでいるわけではない、とどんなに口では言っても、目の前に嵐のような目まぐるしい状況が展開するときに、その出来事に注目しないことは難しい。

さらに、以前にも書いたように、クリスチャンが霊的に巨大なエクソダスを遂げる直前には、特に大きな激動が起きるものだ。キリストと共なる十字架の死を経て、命へと移される直前には、極めてドラマチックな展開があることが稀ではない。だが、その中をくぐりぬける当人にとっては、それは少しも「ドラマチック」などと言って笑っていられる状況ではなく、全世界が自分に敵対しているかのような、まさに生きるか死ぬかのような体験に感じられることだろう。

そのような状況の中でも、失望や落胆に沈むことなく、どんなことが起きても、あるいはそれが自分の過失や、不注意や、愚かさによって起きた取り返しのつかない損失のように見える時でさえ、決して自分自身の不完全さに拘泥することなく、神の憐れみや恵み深さにのみ目を留め、どんな瞬間にも、神を信頼し、天に備えられた希望だけを見つめ続ける姿勢が必要である。そのような姿勢が保たれていて初めて、苦しみと同時に天に用意されている慰めに到達することができる。

だが、クリスチャンの信仰の歩みの中で最も難しいのが、以上の姿勢を保つことではないかと筆者は思う。つまり、どんなことが起きても、決して失望落胆することなく、絶えず自分の不完全さから目を離し、キリストの完全さだけを見つめ続け、自分自身ではなく、キリストに依拠して、神の完全が自分自身に適用されることを求め続ける姿勢である。

さて、聖書には裁判官とやもめの有名なたとえ話がある。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとはしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』

それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)

このたとえ話は、クリスチャンが神に正しい裁きを求める権利を有していることをよく示している。

もちろん、地上ではすべての市民に裁判を受ける権利がある。世にはスラップ訴訟なども存在し、司法が悪用される危険もないとは言えないが、裁判それ自体が悪ではないことは、誰しも認めることであろう。

上記の聖書箇所における地上における裁判官の描写は、クリスチャンが神に正しい裁きを求めて祈ることのたとえとして描かれている。

だが、その御言葉は、幾分かは地上の裁判にも当てはまるであろう。筆者はこれまで、地上の裁判に対する考え方を少しずつ変えて来た。教会に関わる事柄は依然としてこの世の裁判にかけるべきでないと考えているが、この世に関する事柄は別である。

筆者は、暗闇の勢力がいかに人の正当な訴えを邪魔し、正しい主張を封じ込めようとするかを、幾度にも渡り、見せられて来た。人が自分に保障された正当な権利を取り戻そうとして主張する前に、主張すること自体を諦めさせようとするのが彼らの手口である、と言って良い。

たとえば、ブラック企業が従業員の正当な訴えを封じ込めようとする手口を考えてみると良いのだ。世に言うブラック企業には、往々にして、専属の悪徳社労士や悪徳弁護士が雇われている。彼らは企業が従業員に対して定められた賃金を支払わなかったり、不当解雇を行ったりして、様々な不正かつ不当な措置に出る時、常に企業の味方となって、従業員を黙らせる役割を担っている。この人々は、いわば、口封じのために雇用されている「専門家」だと言っても過言ではない。

このような「専門家」がブラック企業についている場合には、彼らは、企業によって不当な措置を受けた従業員が、決して裁判に訴えて自らの権利を取り戻したりしないよう、事前に様々な文書を送りつけては、訴えを封じ込めようとする。訴えるよりも前から、訴えてもどうせ結果は変わらないので諦めた方が良いと、あの手この手で主張を放棄させようとするのである。

むろん、そのようなことは、社労士や弁護士でなくともできるのだが、強欲な依頼主の要望に従って、そのようなむなしい目的のために自分の専門知識を活用している人々が存在する。本来、そのような人たちは、専門家と呼ぶにも値しないが、彼らはうわべだけは、自分たちが本来の道理を曲げていることを悟られないよう、まことしやかな文書を書き記すものだ。
 
従業員はそれを見たとき、考えなければならない。本当に、自分が何をしても結果は変わらないのか、それとも、それはそう思わせるためのうわべだけの工作に過ぎないのか。自分に何の責任もないにも関わらず、不当な措置を黙って受け入れ、その結果を自分で身に背負うべきか、それとも、そのような事態は、自分のせいで起きたことではないと、公然と主張して、不当な結果は、不当な措置を行った張本人にお返しして、彼らに背負っていただくのか。

主張するか、しないかによって、人生の結末そのものが変わって来ると言って良い。その争いは、法廷などに持ち出されるよりもはるか前に、従業員の心の中で始まっている。その従業員が、専門家を名乗る連中からやって来る様々な脅しのテクニックにまんまと乗せられて、失望落胆して、自分の権利をみすみす諦め、主張せずに終わるのか、それとも、最後まで不当な決定に抵抗して、正々堂々と自分の主張を打ち出して、権利を取り戻すのか。すべては従業員の心次第である。

多くの人々は、主張することの重要性を考えてみない。専属の弁護士がいるかどうかや、書類が自分で上手に書けるかどうかや、要するに、人数やテクニックの問題ばかりに目を留めて、初めから自分には分が悪すぎると諦めている人が多いものと思う。

だが、本当の戦いは、そのような表面的な事柄にはなく、最も弱い、不利な立場に立たされた本人の心の中から始まる。明らかに不当と分かっている主張に遭遇した時、人がどのような態度を取るか、最後まで勇気を持って抵抗するのか、それとも、脅されれば簡単に諦めるのかどうかにすべてがかかっている。

ある人々は、これまでクリスチャンを提訴して法廷に引き出すことに何のためらいもなかったにも関わらず、筆者にはあたかも彼らと同じように市民としての権利を行使することが全く許されないかのように主張している。

その人々は、筆者がまだ何一つ手続きもしていないうちから、まるで今しも自分が筆者に提訴されるのではないかとでも言うような勢いで、筆者を含む数々のクリスチャンが、彼らに対してスラップ訴訟に及ぼうとしているかのように非難して来た。

だが、彼らの主張を見ても分かることは、彼らは、よほどクリスチャンから訴えを起こされることを常日頃から恐れているに違いないということだけである。

彼らは、何とかして自分が訴えられることを阻止し、自分の主張の不当さが、公然と世人の前に知れ渡るのを避けるために、筆者一人だけでなく、彼らを訴える可能性のありそうなすべてのクリスチャンをさんざんに罵倒したり、脅しつけたりせずにいられないのであろう。

そのような彼らの行動は、自分が罪を犯していることを、内心ではよく知っているがゆえの本能的な自己防衛の心理に基づくものだと言える。

なぜなら、身の潔白を信じている人々は、誰かから不当な訴えを出される可能性があると分かっても、決して慌てないからである。不当な訴えには、ただ毅然と立ち向かえば良いだけであり、訴えられる前から自分を懸命に弁護したり、自分を訴える可能性のある人間を片端から攻撃・非難したりする必要もしない。そのような行動を取る人間は、訴えられれば必ず負けると分かっていて、恐れの心(本質的には罪の意識)に支配されているのである。

筆者は、自分の運命を振り返って、よくよく数奇な歩みだと思わずにいられない。

筆者は、初めの内こそ、教会のカルト化はあってはならないという立場に立ち、カルト化の疑いをかけられた牧師や教会を非難しても構わないという考えを持っていた。にも関わらず、筆者の運命は、その後、それとは全く逆の方向へ転換し、カルト化の疑いをかけられた教会よりも、むしろ、カルトを撲滅すると自ら主張している人間の方がはるかに重大な危険であることが分かった。そこで、前者ではなく、後者にこそ、筆者は立ち向かってもの申さなければならないことが判明したのである。

筆者はキリスト教界の堕落を否定するつもりはない。筆者自身が、当ブログにおいて、プロテスタントの諸団体の中に怪しげな理念のものが数多くあることについて書いて来た。

今ここでは詳しく繰り返さないが、そうした例の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(および聖霊派の主張)の誤りや、ゴットホルト・ベック氏の集会の理念の問題性や、Kingdom Fellowship Churchの問題もあった。

筆者はこうした集会の理念について、具体的な問題点を挙げ、それを聖書の御言葉と対比しながら、何が問題であるかについて説明して来た。
 
筆者自身は、教会に牧師制度を導入することに反対である。牧師制度というものは、本来、対等であるべき信徒間に差別をもうけ、信徒の献金で養われる特権階級を作り出すものでしかない。

多くの霊的先人が、この制度が間違いであることを指摘し、ゴットホルト・ベック氏の集会や、KFCなども、表向きは、公然と牧師制度を否定している。こうした集会は、牧師制度を取っていることを理由の一つとしてキリスト教界と訣別している。

ところが、上記の団体は、一方では、牧師制度を否定しながら、他方では、牧師制度とほとんど変わらない固定的な指導者制度を置いている。そこで、これらの集会の現実は、表向きに掲げている理念とは正反対であり、大きな自己矛盾をはらんでいることを指摘し、筆者はこれらの集会の理念と行動の首尾一貫性のなさを非難して来た。

だが、筆者が当ブログにおいて、以上のような見地から、これらの集会の理念と活動を疑問視する発言を行ったからと言って、こうした団体から、筆者に抗議が送られて来たことは、これまで一度もない。対立関係が起きたこともない。筆者の記したブログ記事内容について、彼らの側から教義論争が起こされたり、反対意見が寄せられて来たことも一度もなかった。

そして、このことは、これらの団体が筆者の主張を初めから誤謬とみなして相手にしていないためではなく、もともとこうした団体は、筆者が彼らに関わるよりはるかに以前から、数多くの批判にさらされて来た過去があるためであると見られる。
 
以下にも記すように、こうした団体は、過去に巨大な分裂、大規模な離反などの騒動を繰り返し経験して来ている。そこで、彼らは批判や離反には相当に慣れているだけでなく、批判者や離脱者を執念深く追いかけては取り戻そうとして脅しつけたり、論争をしかけるようなことをしないのである。

たとえば、ベック氏の集会は、もともと争いを嫌う平和的な性格の団体であり、さらに教養人が数多く集まっているせいもあって、集会の雰囲気そのものが温和で上品で寛容である。兄弟姉妹の間で意見が割れたからと言って、口汚い論争が発生することはほぼなく、兄弟姉妹は、離脱者に対しても寛容で、筆者が彼らと異なる考えを持って集会を離れた後でも、いつでも交わりはウェルカムという態度を崩さない。

つい先日も、知り合いの兄弟が召されたから祈って欲しいという連絡が、その集会の一人の姉妹から来た。そのリクエストの是非はともかく、こうしたことからも、時が経っても、依然として、彼らが筆者を兄弟姉妹の一人に数えている様子が分かる。

残念ながら、筆者はそうした接触を機に、集会に戻ろうとは思わないが、そのような連絡が未だにやって来ること自体が、この集会にいる兄弟姉妹の誰一人として、筆者に憤りを持っておらず、筆者を憎んでもおらず、筆者の考えをあるまじきものとみなして、筆者が考えを改めない限り、二度と受け入れるつもりはない、などという狭量な考えを持っていないことをよく示している。

そして、彼らがそのような考えに立っている理由は、この集会の成りたちを考えてもすぐに分かる。

ベック氏の集会は、もともとキリスト教界に失望幻滅してそこを去って来たクリスチャンが大半を占める。ベック氏のメッセージの中心的テーマの一つにも、キリスト教界には決して行ってはいけないということがある。そして、こうしたメッセージ内容は、ベック氏が独自に編み出したものではなく、古くはハドソン・テイラーや、オースチン-スパークス、ウォッチマン・ニーなどを含め、地上の組織や団体としての教会の欺瞞性を悟り、組織としての教会から離脱し、エクレシアが地上の団体ではなく天的な共同体であるという事実を知って、本来のエクレシアのあり方を追い求めた霊的先人たちから部分的に受け継がれたものである。

こうして、この集会には、キリスト教界を離脱した人々が数多く集まっているため、この集会の信徒たちの多くが、かつて何かの苦い対立や、深刻な失望を味わって、教会組織を出た経験を持つ。それゆえ、彼らは、信徒が牧師や指導者の意向に逆らって、時には悪魔扱いさえされながら、組織と対立し、組織を離脱することの難しさや、苦しみをよく理解している。

こうした背景があるので、この集会の信徒らは、一人の信徒が彼らの集会にやって来るまでの間に、どれだけ数多くの団体で苦い経験を味わったか、どれだけの団体を遍歴したかなどの事実を追及し、あげつらっては、これを非難や嘲笑の材料としたり、あるいは、彼らの集会を離れた信徒をいつまでも悪しざまに言うことをしない。

彼らにとってはキリスト教界は出るべきところであって、教会組織を離れる行為を悪とみなすような考え方は彼らにはない。

むろん、そうは言っても、それでも、彼らが自ら立てた指導者にだけは従うべきと考えていることは自己矛盾なのであるが、だからと言って、この集会が、筆者が集会を去ったことを、指導者に対する下剋上のようにみなして非難して来ることもない。まして、筆者を追いかけて来てまで、戻るよう説得した者もいない。
 
筆者がその集会を立ち去る前に、筆者を引き留めようとして色々とお説教めいた忠告をして来た兄弟姉妹からは、そのすぐ後に、お詫びと理解して差し支えない内容の手紙が届いた。そこには、彼らとは根本的に考えの異なる筆者を異端者扱いして退けるどころか、依然として、筆者を兄弟姉妹の一人とみなしていることが分かる内容が書かれていた。

このように、この集会の信徒らは、基本的には非常に情の篤い、世話好きで、もてなし上手で、人間的にも好感の持てる純朴な人々である。彼らの信仰のあり方は、日本の戦後間もない開拓時代を思わせるような、極めて単純で素朴なものである。筆者は彼らがクリスチャンでないなどと決して言うつもりはなく、筆者と同じ信仰が彼らの中には全く見られないとも考えていない。

だが、そのように、彼らが極めて好感の持てる人々で、筆者と幾分かは信仰も共有している兄弟姉妹であるという事実と、その集会の理念が持つ問題性は、別個の問題なのである。

筆者はすでに述べた通り、エクレシアにはいかなる固定的な指導者をも置く必要がないと確信している。そこで、この集会が自ら牧師制度を否定しているのであれば、牧師制度に類するいかなる制度をも置くべきでなく、にも関わらず、一人の指導者を祀り上げているのは自己矛盾でしかない。

筆者は、牧師という名であろうと、その他の名称であろうと、人間に過ぎない者を師として仰ぎ、その指導者が教会を管理するようになれば、組織が腐敗することは避けられないと考えている。ただ腐敗するだけでなく、その指導者は、キリストに代わって信者の心と生活を支配するようになるため、反キリストに等しい存在となる。そこで、牧師制度という名称であろうとそうでなかろうと、階級制度としての教職制度自体が教会にはあってはならない、というのが筆者の見解である。

また、以上の集会が家族ぐるみで信徒を取り込もうとすることに対しても、筆者は非常に懐疑的である。なぜなら、聖書は地上における肉の家族の絆がそのまま霊的な神の家族を形成するとは全く述べていないからである。むしろ、地上における肉の家族は、往々にして福音には敵対する誘惑となる。

このように、筆者がとらえている聖書のエクレシアの理念と、以上の集会の理念とは、多くの点で著しい相違がある。このような理念の相違こそが、筆者がこの集会を去った理由であり、人間的な対立は起きていない。起きたとしても、すでに解消されており、そのようなことが本質的原因ではないのである。

にも関わらず、筆者がその団体を去ったことを人間関係の問題に置き換え、すべての問題を、常に聖書との対比において検証しようとせず、ただ人間関係の相克といった低い次元のドラマに置き換えようとする人々は、そのようにして、筆者が組織を離脱した根本的な原因をすり替えることで、牧師制度そのものが根本的に誤っているという、筆者が提起している重大な議論の本質をごまかしているのである。

さらに言えば、その人々は信者を再び人間の支配(組織のヒエラルキー)に従わせ、人間(指導者)の奴隷としたいだけなのである。
 
そういう人々の理屈は、たとえるならば、ブラック企業を辞めようとしている社員に向かって、「社長の言うことには従うべきだ。権威には従いなさい」と説教するようなものである。社員が過重労働のために死の寸前まで追い込まれても、それでも社長という権威に逆らうことや、組織を離脱することは悪だと教え、人間関係を損なうべきではない(和を乱すべきではない)などという口実で、社員が命を守るために逃げ出すことさえ禁止して、自由を奪おうとするのである。

そのようなやり方で、信者一人一人が、何が聖書の理念に照らし合わせて正しいことであるのか、自分自身で判断して行動する自由を妨げ、人間(指導者)の思惑や支配に盲信的に従わせようとすることこそ、まさにカルトの手口と言って差し支えない。

カルト化した組織では、すべての物事の是非が、聖書の御言葉に照らし合わせて検証・吟味されず、ただ指導者の思惑や、組織のヒエラルキーに従って解釈される。人間の立てた権威や秩序に逆らわずに黙って従うことが、聖書の御言葉に従うことよりも優先される。聖書の理念が、人間の作り上げた指導者制度を支えるための添え物として利用されているのである。

こうして、何が正しく、何が間違っているかという価値判断を、信者自身が行うことを阻止し、人間に過ぎない指導者が代わって行い、その指導者の意向に信者を盲信的に従わせるのがカルトである。

笑止千万なのは、カルトに立ち向かうと豪語しているカルト被害者救済活動の支持者が述べている言葉が、まさにカルトのマインドコントロールの手口そっくりになりつつある点である。

彼らは、筆者が様々な団体を離脱したことを悪であるかのように非難する。しかし、もしそれらの団体が聖書の御言葉に従っていないならば、筆者がそれらの団体を離脱したことは何ら悪でないどころか、離脱しなければ正しい信仰生活を送れないのだから、離脱して正解なのである。

にも関わらず、カルト被害者救済活動の支持者らは、決して聖書の理念に照らし合わせて物事を考えようとはせず、ただ筆者が人間の立てた権威や秩序に従わず、組織のヒエラルキーに従わず、団体内で波風立てる行動に及んで(団体の理念に異議を唱えて)そこを離脱したことを理由に、筆者があたかもそれらの団体であるまじき対立関係を引き起こした(「和を乱した」)かのように筆者を非難している。

そのような彼らの主張には、どこにもクリスチャンらしい判断基準はない。聖書は、「和をもって貴しとなす」という価値観とは正反対の理念に貫かれている。

聖書は、人間の作った地上的な組織の秩序の中で、「波風立てずに行動する」ことを正しい信仰生活のあり方として教えていない。むしろ、多くの点で、聖書の御言葉は、この世の人間関係に「波風立てる」ものばかりであり、地上のすべての権威や支配を超える霊的な秩序を唱えているのである。

従って、彼らが、筆者が地上的な団体を離脱したことを下剋上のようにみなして非難しているのは、彼らが内心では、筆者を人間の立てた権威や制度に盲信的に従わせ、人間の奴隷にしようと目論んでいたことを表しているに過ぎない。

しかも、彼らは、筆者とは異なり、以上の団体に通ったことが一度もなく、それらの団体の実情を少しも知らず、筆者の行動を見て知っているわけでもなく、兄弟姉妹の心中も知らないにも関わらず、ただ筆者がいくつかの団体を去って来たというだけで、その離脱が「悪」であるかのように非難しているのである。

彼らは結局、筆者が人間に過ぎない指導者たちの意向に盲信的に従わず、自分自身で物事の是非を判断して行動したことが気に食わないために、筆者を非難しているだけなのである。結局、彼らの言い分は、筆者は牧師制度の前にひざまずくべきであり、指導者の意向に従うべきであった、ということに尽きる。

これは、組織内で波風立てずに行動することを至上の価値のように唱えるこの世的な価値観そのものであり、もっと言えば、指導者に対する絶対服従を要求するカルト的思考である。

こうして、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者に指導者への絶対服従を要求しているのであり、彼らの思考こそ、笑止千万なことに、どんなカルトよりも、より一層ひどいカルト的思考に陥っているのである。
  
さらに、追記しておけば、ベック氏の集会では、対立など全く珍しいことではなく、筆者が立ち寄る以前から、ベック氏の後継問題を機に巨大な分裂騒動が起きていた。筆者がこの集会を訪れた頃は、かつて一つだった集会が真っ二つに分裂し、互いに論争を続けながら、別々の場所で集会を開いていた。

だが、この集会はもともとかなり平和的な性格の団体であるため、集会が分裂したからと言って、両者の間で、あからさまな中傷合戦や、政治的駆け引き、教会財産の争奪戦のような、あまりにも次元の低い争いが起きることはなかった(と見られる)。分裂した二つの集会は、できるだけ衝突や対立を避けながら、独自に平穏な集まりを続けており、さらに、筆者が驚いたことには、深刻な対立があったにも関わらず、両方の集会を行き来しながら楽しんでいる信徒もいるという始末だった。

このように、元来がジメジメした対立や論争を嫌う、根の明るい性格の団体であるから、筆者がそこを去った後でも、「深刻な対立」やら「相克」は起きようがなかった。

KFCも然りである。KFCもそのほとんどはキリスト教界を去ったクリスチャンから成るため、ここにも、指導者に絶対服従を説いたり、組織や教団を離脱することを「悪」とみなす考え方はほぼ見られない。ウォッチマン・ニーなどを一時しきりに教本のごとくメッセージの土台としていた様子を見ても、地上の組織や団体に信者を縛りつけて従わせようとする考え方には根本的に否定的であると言える。

この団体も会員制度がなく、さらに、時期によってメッセージ内容があまりに大きく変化していることもあり、信徒の入れ替わりが非常に激しい。一時はメッセージに共感していた信徒も、ある時期を過ぎると、着いて行けなくなり、去って行くという具合で、大きな離散があり、古参のメッセンジャーもほぼいなくなって現在に至っている。

こうして、もともと信徒を管理し、団体に縛りつけようとする制度自体がない上に、様々な離反や騒動を経験し、信徒の入れ替わりが激しい以上、その団体に失望幻滅して去る信徒が出たからと言って、それは全く珍しいことではなく、去った信徒がいつまでも悪しざまに言われることもない。

中にいるうちは色々言われるかも知れないが(しかも、外野のようなメンバーを中心に)、むしろ、出てしまえばすっきりしたもので、去った信徒を追いかけてまで嫌がらせを加えるような陰湿さは全くないし、そんなことに携わっていられるほど余裕があって執念深い人間もいないと言える。

特に、KFCには、昔から相当に数多くの批判者がいた。もともとキリスト教界への辛辣な批判を定番としており、キリスト教界側の人々には恨みも買っていたであろうし、彼らに言わせれば、「どこの教会からも落ちこぼれた信徒しか集まっていない」と言われるほどに「異端児的」な団体であるため、筆者が当ブログでKFCの理念に対して相当に深く切り込んだ批判を述べたからと言って、そのようなことはKFCにとって何ら目新しいことでなく、誰一人としてその内容に反駁して来た信者もいない。この団体に残っている人々と筆者との間で対立や論争が起きたことは一度もない(その理由には、この団体の信者の平均年齢が、筆者とは全く異なるため、そもそも共通の理解さえ成り立たないということもあったかも知れない)。
 
今になって考えてみると、KFCという団体は、筆者の子供時代にTVで放映されていた「ジミー・スワガート・アワー」にも似たような、聖書の教義の中核に迫る議論からはおおよそ外れた、興業的な意味合いの強い集会であったように思われる。もっと卑近なたとえでは、七色に光るイミテーションのガラス玉か、3分で完成するエスニックの即席麺のようなもので、たくさんの香味は効いているが、本質となるべき中核を欠いているのである。ウォッチマン・ニーやその他の先人の教えを数多く引き合いに出していたとはいえ、それもうわべだけの装飾でしかなく、すべては単なるパフォーマンスとして見るべきもので、真面目に論じるだけ時間の無駄であったかも知れない。

また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団について言えば、この教団は「しるし・不思議・奇跡」を求め、常軌を逸するほど聖霊を強調する過激な集会のあり方のせいで、長らくプロテスタントの中でも、異端視され、排除されて来た過去があることは周知の事実である。この教団がプロテスタントの一部であるかのように公然と認められるようになったのは、比較的最近のことであり、それもキリスト教人口が一向に増加しない中、大衆受けする集会のあり方が功を奏して、この教団の人口の成長率がプロテスタントの他の教団と比べても著しかったためでしかない。

教義面では、依然として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書研究に重きを置く福音派などの伝統的な教団教派からは、あまりにも思慮分別の足りない「体育会系」に偏りすぎた教団とみなされ、半ば軽蔑気味に退けられる傾向が強い。

そのことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出てから、他の福音派の教団に行って、実際に、評判に耳を傾けてみればすぐに分かることである。だが、そうした評判を待つまでもなく、事実、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書に基づく深い理念の考察を怠り、現象・活動にばかり熱中して来た歴史があるため、もともとしっかりした教義というものが存在しないも同然である。

そこで、伝統的な福音派から見れば、このように聖書研究が考えられないほどにお粗末で幼稚なレベルにとどまっているにも関わらず、異言を語ることや、しるしにばかり重点を置いて、それがないことで、他のクリスチャンを見下し、自分たちが優位に立っているかのように思い込んでいる態度が気に食わないと、半ば軽蔑ぎみに批判されるのも仕方がない。そして、その批判は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団もそれなりに理解しており、昨今は、以前はトレードマークのようであった過激な礼拝のあり方を自粛する教会も増えている。

このように、この教団は、長きに渡り、プロテスタントの中でも異端視されて来た歴史があるので(教義の面から見ても、異端視されて当然の理由(重大な欠陥)があったと筆者は考えるが、今はその問題には触れない)、批判には慣れており、教団を去ったクリスチャンが批判を口にしたからと言って、いちいち目くじら立てることもなく、まして去った信徒を追いかけてまで口封じしようと嫌がらせに及んで来ることもない。

そのようなわけで、筆者はいくつかのプロテスタントの団体を束の間、通過した過去があるとはいえ、現在に至るまで、それらの団体と筆者との間で、対立や論争が続いている例は一つもない。
 
現在に至るまで、筆者との間で長年、対立関係を深め、筆者の考えを改めさせない限り決して許さないと尽きせぬ執念を燃やして筆者に論争をしかけている存在があるとすれば、それはただカルト被害者救済活動の支持者だけである。
 
そして、これは極めて重要な事実である。つまり、色々と問題を抱えて欠点が多く異端視されても仕方がない数多くの教会は、筆者を決して中傷したり、論争をしかけて来ないし、打ち負かそうと挑んでくることもない。むしろ、そういうことをして来るのは、正義の旗を掲げて「カルトを取り締まる」と主張している陣営だけなのである。

だから、そのことを見るにつけても、筆者は、牧師制度には反対を唱えないわけには行かず、教義面で多くの問題を抱える教会が数多く存在することも疑わず、地上の組織や団体としてのキリスト教界を擁護するつもりは微塵もないにも関わらず、だからと言って、そのような疑わしい教えを唱える教会がすべて筆者と敵対関係にあるとは思わないし、そこにいるクリスチャンが、ことごとく筆者の兄弟姉妹ではないと言うわけでもない。
 
ここに、クリスチャンに対峙することの非常な難しさがある。クリスチャンは外見的には、全員が、途方もなく多くの欠点を抱えた、とりわけ未熟な人々ばかりである。この世の人々と引き比べても、何一つ長所が見いだせないどころか、むしろ、格段に劣っているとさえ言える場合が少なくない。何しろ、何かのきっかけで自分の限界を思い知らされなければ、教会になど足を運ぶことはなかったであろうし、神を求めることはなかった。そういう意味で、クリスチャンは、世の人々と比べても、圧倒的に弱々しく、生きるのに不利となる様々な厄介事や困難や弱さを抱えた人々ばかりであり、とりわけ見劣りのする不器用な連中から成っていると言っても過言ではないだろう。

その上、聖書の御言葉への理解や、信仰の成長という点でも、全く芳しくない人々が99%以上を占めるのである。こうなっては世人からは、弁護の言葉もほとんど出て来ないであろう。
 
ところが、そのように、外面的には極めて弱々しく、不器用で、ぱっとしない、見栄えの悪い人々、そして内面的にも、極めて未熟で、欠点だらけの、愚かな人々に、この世の不信者以上に、神の愛と憐れみが信仰によって及び、義認が行き届いているのが現実なのである。

クリスチャンとは、自分自身の優れた長所によらず、立派で正しい心がけによらず、ただ信仰によって神に受け入れられた人々である。そうである以上、たとえ彼らが未熟であって、その行動が欠点や誤りに満ちており、さらに理念の面でも愚かさと誤りが明白であって、危ない道を歩んでいるようにしか見えなかったとしても、彼らの心の内に、もし真摯に神を信じ、すがり続ける信仰が少しでも残っているならば、その限りにおいて、ただ彼らが未熟で欠点だらけであるという理由だけで、兄弟姉妹ですらないと全否定することは難しく、また、すべきでもないのである。

筆者は、すでに書いて来たように、兄弟姉妹を名乗っている人々に裏切られた回数は数知れず、二度と関わりたくないと嫌気が差した人々や、その高慢さにうんざりした人々も存在する。そういう思いを味わえば、彼らをクリスチャンだとは一切認めたくない気持ちになることも人間としては往々にしてあると言える。いっそ自分は正しく、彼らはみな異端者だと決めつけてしまえば、気も楽になるであろう。

だが、誰がクリスチャンで、誰がそうでないのか、その線引きは、筆者がすることではなく、その線引きは非常に難しく、判断は極めて慎重でなければならないと思う。たとえあるクリスチャンの欠点や非が明々白々であって、また、そのクリスチャンが筆者を再三に渡って裏切り、打撃を加えて来たような場合であっても、もし筆者が彼らを全否定すれば、それによって神を敵に回してしまう危険性が十分にありうるためである。

それだからこそ、筆者は、特定の人物をその人格の未熟さや行動の欠点を取り上げて非難することをできるだけ避け、むしろ、その人物の主張の内容や、特定の集団に流れる思想・理念の問題を洗い出し、理論面からの批判にとどめるように心がけているのである。そして、ほとんどの場合、理論面から問題を洗い出すと、そこに異端思想の共通構造が隠されていることが分かって来るのである。

つまり、敵はあれやこれやの人間ではなく、神に敵対する思想なのである。そして、悪魔から来る思想の基本構造とでも言うべき、異端の型というものが存在することを、筆者は当ブログで再三に渡り、繰り返して来た。

そのようなわけで、あれやこれやの危うい歩みをしているクリスチャンを敵のようにみなして非難することによっては、何ら異端の問題は解決しないのである。そのような方法は、まるで病原菌を根絶するために、感染した人間を全員殺しましょうと言っているのと同じほどナンセンスである。

つまり、教会の堕落は看過すべきでない問題であるとしても、一部の堕落のために、エクレシア全体を否定することは避けねばならず、そのような極端な議論を容認すると、恐るべき結果が生まれるのである。

見かけ上は肉的であり、堕落そのものにしか見えない教会であっても、そこに信仰によって霊的なエクレシアの成分がわずかでもあるとすれば、すべてを否定するわけには行かないのである。たとえ神社に油をまくようなクリスチャンや教会が出て来たとしても、そのような恐るべき行動に及ぶ人々も、やはり教会の末端に位置する以上、そこには、嘘と真実、信仰と不信仰が混じり合い、本物も少しは紛れ込んでいる可能性があり、それにも関わらず、行動があまりにも未熟かつ異常だからと言って、一概にすべてを異端と決めつけて退けてしまうと、本物のエクレシアの成分さえも否定することになってしまうという難しさが存在するのである。

かつて教会の迫害者であり、クリスチャンを断罪して殺すことに加担していたパウロでさえ、あのような回心を遂げたわけであるから、神に対する熱心さのあまり、逸脱を犯している信者らについては、判断は慎重でなければならない。

神社に油をまくことが、神の国に奉仕することでないことは、聖書的観点から見て明白であり、そのような行為は、この世的な観点から見れば、言語道断でしかないであろうが、それでも、そのような行動を本気で正しいと信じるクリスチャンの中にも、1%でも純粋な信仰があるならば、我々は、その行為の表面的な愚かさと迷惑さ加減だけを取って、彼らをクリスチャン失格であるかのように決めつけることができないのである。もちろん、そうした行動は正されるべきではあるが、それはあくまで同胞としての忠告によって是正を試みるにとどめるべきであろう。

このようなわけで、筆者の目から見れば、最も重大な危険は、未熟さや愚かさや過ちがあまりにも明白すぎるために、誰からも「カルトの疑いがある」と名指しで非難されているクリスチャンにはなく、むしろ、自分だけは正しく、決して誤らないという根拠のない自己過信に陥って、指導者然と、自分以外の数多くのクリスチャンの「非行」をあげつらっては裁き、「カルトを撲滅する」と主張している人々の方にあるのである。

繰り返すが、クリスチャンはどの人間も未熟であり、自分は神に従っていると思いながら、実際には、間違いを繰り返しながら生きている人々でしかない。間違いは、それが大きなものであれ、小さなものであれ、神の目から見て、同じように逸脱であり、不従順であるという点で、すべては五十歩百歩である。神社に油をまくことを非常識だと笑うクリスチャンも、毎日、何かの行動において、神の願っておられる水準に達せず、神の聖霊を悲しませながら生きている。

そういうことが全くないと胸を張って言える信者は、地上に一人も存在しないことであろう。それでも、神の愛や憐れみ、義と聖と贖いは、その愚かなクリスチャンにも、信仰によって十分に及んでいるのである。だとすれば、一体、表面的な行動だけをあげつらって、クリスチャンを断罪できる存在がどこにあるのだろうか?
 
我々が警戒しなければならないのは、愚かな間違いを犯して、クリスチャンの村社会の中でもの笑いのたねにされることではなく、むしろ、「私は完全に正しい」という思い上がりに陥って、自己反省の余地を全く失って、自分が神のようになって、自分以外の信者を裁くようになることである。

異端に関する教義論争はいくらでも行われるべきであるし、構造面から異端を明るみに出す作業には意義がある。だが、ある人間がクリスチャンと呼ぶに相応しいかどうかを判断する基準は、決して特定の人間に委ねられるべきでなく、その判断に当たっては、極めて慎重な吟味がなされなければならない。

クリスチャンであるかどうか、クリスチャンとしての要件を満たしているかどうかは、この世の価値観によっておしはかることはできず、それにも関わらず、この世から見て、常識的に振る舞い、世人に受け入れられる条件を満たしているかどうか、まして社会的に成功しているかどうかとかいった基準で、クリスチャンが判断され、裁かれるべきではない。

むしろ、信者は、クリスチャンであるがゆえに、世人から見てどんなに失格者の烙印を押されようとも、神の尽きない愛と憐れみにあずかって、その弱さを神の強さによって覆われているのであり、この世の価値観に従って判断されることから解放されているのである。

クリスチャンとは、そのようにして、信仰によって神の特別な寵愛(恩寵)を受けている人々であり、そうである以上、クリスチャンの価値は決してこの世的な判断基準でおしはかることはできないのである。

筆者はこのことを開き直りの材料として使っているわけではないが、それほどまでに信じる者への神の恵みが深いのは事実である。

そこで、我々は、あるクリスチャンの人間的な欠点や、未熟さ、あるいは、誤った熱心さが行き着いた愚かで非常識な行動だけをとって、彼らがクリスチャンに相応しいかどうかを外側から判断すべきではない。ただし、誤った理念がこの先も、他のクリスチャンらをそうした行動に駆り立てる危険性が十分にあるため、異端を糾弾したいのであれば、行動面だけにスポットライトを当てることをやめ、他の信者の愚かで非常識な行動をあげつらっては、これを一方的に上から非難・断罪して終わりとするのではなく、何よりも信者をそうした行動に及ばせる原因となった思想・理念が何であるかを地道に検証しながら、その誤謬を証明する作業を行っていかねばならない。

時に、筆者は、異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなものかも知れないと思う。病原菌は、体力の弱った人々には重大な感染の脅威となり、存在しないに越したことはないかも知れないが、それがない限り、人の免疫抵抗力も育たない。
 
仮にクリスチャンが、一切の異端とは無縁の、完全に純粋で正しい教えだけを受け取り、その中で成長することができるとしても、もしその人が誤りとは何かを知らなければ、それはあたかも無菌室の中で育つ人生のようになってしまうだろう。

霊的無菌室だけしか知らずに育った人間は、その部屋を一歩でも外に出れば、たちまち生きる力を失って死んでしまうだろう。悪に対する免疫抵抗力がないためである。
 
そこで、信者は地上に生きている限り、数多くの疑わしい教えに出会い、その嘘を自力で見抜き、識別し、退けて行く力を養わなければ、信仰は育たず、従順も育たない。神への従順を証明するためには、不従順を選ぶことが可能な状況が前提としてなければならない。信者が誤った道を選ぼうと思えば選べる状況で、自ら正しい道を見分けて、偽りを退け、神に従うことを自ら選ぶのでなければ、その信者には、判断力も、自己決定権も育つはずがない。

だから、信者が多くの誤った教えを見聞きした上で、その誤りを自ら識別する力を養うことが大切であり、その意味で、誤謬と出会うことは何ら恥でないどころか、それこそ、信者の霊と魂の成長のために、避けて通れない不可欠な過程(訓練)ではないかと筆者は思う。

そういう意味で、筆者はこれまでに通過して来た団体や集会を振り返り、そこを訪れたことを後悔するつもりは微塵もない。そうした団体の理念に疑わしいところがあるというだけの理由で、そこに行ったのは時間の無駄であったとか、そこで出会ったクリスチャンのすべてが兄弟姉妹ではないと否定するつもりもない。

むろん、ある団体で唱えられている理念に、聖書に合致しない点がないかどうか、吟味することは重要であり、もし聖書い合致しないと分かったならば、分かった瞬間から、筆者はそこにとどまるべきではないだろう。だが、だからと言って、その中に残っているすべての人々が、みな異端者であるとか、非クリスチャンであるなどと筆者は考えてもおらず、そこで見聞きした経験のすべてが無駄であるとも思わない。
 
筆者はその団体にいる兄弟姉妹が、筆者と同じようにその団体の理念を疑わないからと言って、彼らに自分の見解を押しつけるつもりはない。筆者が理解している内容を彼らに向かって述べたとしても、それが彼らに理解されるかどうかは分からない。すべては信者自身の中の「時」による。今日気づかなくとも、明日気づく人も出て来るかも知れない。気づかせて下さるのは神である。
 
筆者の義務は、自分で理解した事柄に忠実であることであり、他の人々がどう行動するかまでは、筆者の責任ではない。ただし、筆者は、誤りだと分かっているものに接触を続けるわけにはいかないため、忠告しても聞き入れない人々からは離れるのみである。
 
カルト被害者救済活動の支持者らの盲点は、自分の欠点や未熟さには目を向けようともせず、常に他者の欠点や未熟さばかりをあげつらい、神ご自身を退けて、神になり代わって、自分がクリスチャンの内心や生き様に対する裁き主になり、周囲の人々がまだ理解する時期が来ていないかも知れない事柄についてまで、何の資格もなしに、強制介入・干渉して行き、聖霊になり代わって信者を教え、信者の内心や行動を正し、支配しようとしている点にある。
 
異端は教義面から明らかにしなければ意味がないにも関わらず、彼らは信者の行動の欠点や、外側の出来事ばかりを中心に据えて、この世の観点から信者の行動の是非を論じ、信者を裁こうとする。

だが、そのような観点からは、決してこの先も正しい教義論争は生まれて来ないであろう。それどころか、彼らは何をよりどころにして他者を裁いているのか、その土台をますます見失って行くだけである。聖書は何と言っているか。
 
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。


裁きの場合は、一つ一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:15-21)

クリスチャンを裁くことに躍起になっているカルト被害者救済活動の支持者らは、信者の行動の非をあげつらったところで、自分自身の罪から逃れられるわけではないことを知らないのだろうか。彼らは無罪とされるためには、完全に罪なき人でなくてはならず、自分の内にわずかに一つの罪でも見いだされれば、たちまち有罪を宣告されることを知らないのだろうか。

他方、クリスチャンは、キリストのゆえに、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決」を受けた人々である。罪が増し加わるところには恵みはなお一層増し加わるというのは、クリスチャンにこそ誰よりも当てはまる。クリスチャンがいかに欠点が多く、多くの罪を犯して来たとしても、キリストにあって、神はそのクリスチャンのすべての非をすでに血潮で覆って下さっているのである。クリスチャンが世人に比べ、いかに絶大な特権を持つ者であるか、いくら認識してもし足りない。

だから、誰かがこの世的な観点に立って、一人一人のクリスチャンを、見かけの貧相さや、行動の不器用さや、未熟さ、愚かさや、弱さのゆえに、非難したり、断罪するのは、非常に容易であろうが、そんなことはやめておいた方が良い。むしろ、クリスチャンが弱々しそうに見えれば見えるほど、その弱さが神の憐れみに満ちた強さによって特別に覆われていることを考えてみるべきなのである。その事実を見ずしてクリスチャンの表面的な弱さだけを見て、これをあげつらって非難・説教・嘲笑していれば、いずれ神ご自身を敵に回すことになる。聖書には次のように警告されている。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10)


十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―

ひとつのミッションが大詰めを迎えている。
長年、待ち望んだことが、少しずつ実現しているのだ。

クリスチャンを脅しつけては牢に閉じ込め、自由を奪い、逃げ出すことさえ禁じて来た悪の要塞が、エリコの城壁のように音を立てて崩れ去る瞬間まで、筆者は何事にも容赦する気はない。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

キリストの十字架の贖いにより罪赦されたクリスチャンを、再び人間的な観点やこの世的な価値観に従って訴え、有罪を宣告しようと企むような者は、かえって自らこそすべての権威と武装を解除され、キリストの凱旋の行列に捕虜として加えられ、さらしものにされるだけである。

悪魔は、自分こそクリスチャンを苦しめ、訴え、さらしものにする権利があると考えていることであろうが、事実は全く逆である。暗闇の軍勢とそれに仕えた者たちこそ、キリストの凱旋の行列の中でさらしものとされる。

だから、これから起きることをよく見ているよう読者に勧める。

筆者は、地上の教会組織に様々な堕落や問題があることは否定しないが、だからと言って、神のエクレシアまでも否定して、福音に敵し、教会に敵対した者たちがどうなって行くか、その悲惨な末路は、公然と世に示されなければならないと考える。

何度も述べて来たことであるが、実際に自分自身が体験した事実に基づき、地上の教会組織の堕落を憂慮し、御言葉に立ち戻るよう、兄弟姉妹に勧めることと、「教会のカルト化を憂う」ということを口実に、自分が所属もしていない、通ったことすらもない教会組織に対してまで、何の正当な権限にも基づかずに、教会の規則すらも無視して介入して行き、教会をスキャンダルの暴露の脅しで威圧して支配し、自分が裁き主であるかのように君臨しようとすることは全く訳が違う。

筆者は当ブログにおいて、自分が苦しみや喜びを持って体験・通過して来た事柄や、自分自身が生きて関わって来た人々についてしか触れておらず、そこで信者の実名も挙げておらず、筆者が書いた内容が、誰を指しているのかも特定できない人々がほとんどである。そして、そのことで筆者に対立して来るクリスチャンもいない。(対立しているのはカルト被害者救済活動の担い手だけである。)

にも関わらず、彼らは、自分が所属もしておらず、見たことも聞いたこともなく、関わったこともない教会やクリスチャンたちの非をあげつらっては、他教会の人事に公然と介入し、無関係なクリスチャンに争いをしかける。まるで通りすがりに因縁をつけるヤクザと同じように、一つの争いが起きると、その輪を広げて、次々とクリスチャンを争いに巻き込んで行こうとするのである。

彼らにお聞きしよう、筆者は自分自身が遭遇し、直接身をもって体験したことしか書いていないし、その体験談の中には、誰一人、一介の信者の本当の名も登場していないが、一体、あなたたちは、何の権限があって、自分が体験したこともなく、見聞きもしてもいない、自分に全く関係のない、被害すら受けたことのない教会の内情に干渉して行き、自分と無関係な人間の生き様までも、さらしものにしながら、裁いたり、非をあげつらっては、お説教する資格があるのかと。

要するに、「教会のカルト化」は、彼らが自分たちが所属もしておらず、通ったことすらない教会の内情に干渉し、支配権を握るための口実でしかない。このようなことこそ、教会の乗っ取りであり、強奪である。

神社に油をまくことが正しい福音伝道のあり方だなどと筆者は全く言うつもりもない。だが、もっと恐ろしいのは、そうした事件を針小棒大に取り上げては教会のスキャンダルに関する情報を振りまき、常日頃から秘密裏に教会に不利な情報を集め続けて、教会を脅しつけるチャンスを伺いながら、何者かがプロテスタントの教会の堕落をきっかけに、自分とは何の関係もない諸教会に介入する権限を握ろうとしていることなのである。

彼らの目的は、信者の弱みを握ることで、教会を思い通りに操ることにこそある。一度でも、誰か信者が、心弱くなって、彼らのもとを訪れ、相談を打ち明ければ、彼らはその信者の弱みを握り、それを盾に取って、いつまでも信者を脅しつけて、彼らの傘下から逃げ出せなくなるように仕向けるだけである。それでも、信者が彼らのもとを逃げ出そうとすれば、彼らは信者から質に取った情報を言いふらすことで、信者を中傷し、傷つける。そのことが筆者自身への彼らの仕業を通して実際に明白に証明されているではないか。

筆者は、地上的な教会組織がどうなろうとも構わないが、彼らの真の目的が、地上の教会組織を圧迫することよりも、むしろ、自由な共同体としてのエクレシアを圧迫することにあると知っているためにこそ、これに猛反対しているのである。

彼らが、どの教会組織にも属していない筆者を、どんな組織や団体よりも激しく圧迫・攻撃している事実は、彼らの真の目的が、もともと地上の教会組織に介入することにはなく、天的な共同体としてのエクレシアに介入し、これを蹂躙、強奪、支配することにある事実をよくよく物語っている。

こんな人々が正義の担い手であるはずがないことは、誰の目にも明白である。

だから、筆者は、神の神聖なる教会が、悪魔的な思想の担い手である暴徒のような人々によって蹂躙され、脅しつけられていることに対して、決して黙っていることはできないし、黙っていようとも考えないのである。御言葉が現実となって、これらの人々がエクレシアに手を触れることができなくなるまで、手を緩めることはしないし、このような人々を哀れんだり、惜しんだりもしない。

神の義と聖と贖いは、人間の正義を振りかざして、各教会にカルト化の疑いをかけてはクリスチャンの恥をさらし、教会の権威を貶めようとする者たちにはなく、キリストの御身体なる天的な共同体であるエクレシアにこそある。筆者はこの天的な聖なる構成体の一員として、彼らの暴言に立ち向かうのである。結末がどうなるのかは注視してもらいたい。

さて、これまで筆者は、様々な霊的な戦いを経て、それに勝利する秘訣を少しずつ学んで来た。

どれもこれも難しい戦いばかりであり、通り抜けるのは容易ではなく、当初はそれも神から来た懲らしめにも似た教育訓練に思われたが、どれも大きな価値ある戦いであった。霊的な幼子から、大人へと成長するために、信者はこのような訓練を避けては通れないものと思う。

その戦いの中で、筆者は、暗闇の勢力が、どのようにして、自分たちの劣勢を隠すために虚勢を張り、本当は負けることが最初から分かっている不利な戦いで、あたかも自分たちに勝ち目があるかのように見せかけるか、また、彼らは、本当は仲間内でさえ、互いに分裂しており、統制が取れず、意見はバラバラで、常に孤独であって、真の味方もいないのに、どのようにうわべだけ、あたかも全世界が自分の味方であって揺るぎない連帯があるかのように見せかけるか、どれだけ彼らが人数を水増ししたりしながら自分たちが優勢にあるかのように見せかけるのを得意とするか、また、信者の団結の勢いを削ぐために、どんなに卑劣な工作や心理戦をしかけて、信者同士を分裂させて裏切らせようとするか、筆者はこれまでかなり詳しく目にして学習を積むことができた。

むろん、まだまだ十分な量の学習に達したとは言わないが、現実にそうした工作を見、心理作戦をしかけられる中で、敵の狡猾さ卑劣さを知り、

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)

という言葉の意味を思い知る。敵のやり方から学ぶことは多くある。たとえば、負けているのに最後の最後まで勝っているかのように見せかけて、虚勢を張ろうとする姿勢には、クリスチャンもその執念に負けないまでの執拗さで、キリストの勝利を確信してやまない不動の決意が必要だと思い知らされる。

こうして、神と共に二人三脚で戦いを戦い抜くことを、繰り返し繰り返し学んでいると、次第に、暗闇の勢力による激しい心理作戦に惑わされたり揺るがされることなく、勝利をおさめる秘訣が分かって来るのだ。

以前にも、以下の詩編を引用し、これは霊的な戦いのことだと述べたことがある。クリスチャンが霊的な戦いにおいて熟練した強い兵士となるように、神自らが戦いの技を教えて下さる。

主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。
 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。
 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

歴史上、これまでクリスチャンの民の間には絶えざる争いが起こって来た。しかし、主はご自分に従うキリスト者を舌の争いから解き放ち、自由にして下さるであろう。

筆者もダビデが書き記したように、暗闇の勢力を追いかけ、彼らを打ちすえ、彼らの首筋を踏み、二度と立ち上がって口をきけないまでに追い詰めるまで、その戦いから手を引くことはない。彼らが叫んでも、誰も憐れむ者もなく、彼らが風の前の塵のようにむなしいものとして吹き去られるまで、手を引かないし、彼らが去っても、二度と振り返ることはない。

「わたしを憎む者をわたしは滅ぼす」

この御言葉を実現するためには、信者は神の御前で自分自身をどれほど潔癖に保たねばならないであろうか。

霊的戦いに勝利するための秘訣は、決して神から来たのではないものを受け入れないこと、そうしたものをそばに置かないこと、まことしやかに味方を装い、助けを申し出て来る不要な助言者をすべて退け、肝心な時に裏切る不誠実な仲間と決して連帯しないことである。

ただ神だけをよりどころとして、他のすべてのよりどころを排除し、預言者エリヤのように、神の御前に単独者として立つ。そうすれば、戦いはもう7~8割方終わったようなものだ。

あとは大胆に一歩を踏み出すだけ。

「わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。」

弱ったひざと、よろめくくるぶしでは、そう遠くまで歩いて行くことはできない。

ロトはソドムを脱出する際、御使いたちに山まで逃げるよう言われたのに、力不足のゆえに、遠くまで逃げられず、近くの低地の街までしか行けないと御使いに懇願した。神はロトの願いを聞き入れては下さったが、ロトは自らの力不足ゆえに、神の最善を退けたので、その後で困難な状況に見舞われることになる。

キリスト者は、霊的に高く、遠くまで行くことが求められている。そのためには、まっすぐなひざ、よろめくことのないくるぶし、走ってもたゆまず、歩いても疲れない体が必要だ。わしのように翼をかって、天高く舞い上がることが必要となる。

キリスト者にあっては、内側の霊の高度が、御名による支配権の行使と密接に関係している。クリスチャン一人一人にはこの世を超越する天的な支配権(キリストの御名による超越的な支配)が与えられているが、これを十分に行使するためには、クリスチャン一人一人が、心の内側で、霊的な高度を保っていることが必要なのである。

王は玉座から支配権を行使すが、クリスチャンは、キリストと共に御座につき、そこから天的な支配権を行使する。

だがもしクリスチャンの内側での霊的な状態が、御座に就いている状態からほど遠ければ、大胆に御名の権威を行使することができない。霊が圧迫されて極度の不安に陥っていたり、地上のものに心惹かれて低地をさまよっていたり、目を覚ましておらず、敵の不意の襲来に用意ができていなかったりすれば、御座から簡単に撃ち落とされてしまい、大胆に権威を行使することができない。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)


霊的な高度、すなわち、天の御座の高さに自分自身の霊を保つためには、信者には心の平安、平静、および、天的なものにのみ心を留める関心の高さがどうしても必要である。地上のものに心を留めず、絶えず目を覚まして、上にあるものを思い、神の御心や、あらゆる状況に注意散漫でなく、信者の関心を絶え間なく地上のものへと引きずりおろそうとする暗闇の勢力の作戦に対抗し、悪しき力にしっかりと抵抗して打ち勝っていること、御言葉を現実に適用することで、天的な富を地に引き下ろす秘訣を知っていること、滅びゆく肉体を持った人間であるにも関わらず、自分の肉なる人としての弱さを、神の力の強さによって覆う方法を知っていること…などが必要となる。

このことは決してクリスチャンが一朝一夕に学べることではなく、何度も、何度も、困難な戦いを経て、失敗を繰り返して、初めて習得する事柄である。そうなるまでには、信者は自分の心に激しい戦いをしかけて、信者の霊を天の高度から地上に打ち落とそうとする悪しき勢力が存在することを知り、どうやってこれに抵抗するかを学び、また、自分自身の弱さに目を留めると常に目指していた目的地まで到達できなくなることを知って、どうやって霊を奮い立たせて、この弱さを神の強さによって補強してもらうのか絶えず学び続けねばらない。これは長い学びの過程である。

さて、最近、筆者は、目に見える兄弟姉妹と地上的な連帯があるかどうかに関係なく、エクレシアは常に霊的に機能する共同体であると思うようになった。ここで言うエクレシア(教会)とは、地上的な組織や団体としての教会のことを指すのではない。

聖書には、キリストのみからだなる教会は、一つのからだであって、その一部が弱ったり、痛んだりすれば、からだ全体が共に痛み、その弱った部分を助けると記されている。

だが、我々は現実の目に見える人間としての兄弟姉妹と常に物理的接触があるわけではないし、信者には誰にも口に言い表すことのできない多くの問題がある。信者はそのような問題をただ神の御許へ持って行き、神との間で解決するが、その時、エクレシアはどうなっているのであろうか。

もしも信者が他の兄弟姉妹と現実に物理的な接触を持っていなければ、その人は、エクレシアからの助けを受けられないのであろうか?

答えはNOである。

もしエクレシアがそのようにこの世の物理法則にとらわれるものであったなら、パウロが投獄された時、彼はエクレシアから切り離されかかっていたことになろう。ガイオン夫人などはどういう状態にあったことになるだろうか。

しかし、現実には、クリスチャンがたとえ迫害されて牢に入れられて他の兄弟姉妹と会うこともできなくなっているような時でさえ、そのクリスチャンはれっきとして天的な共同体としてのエクレシアの一員をなしており、この共同体には、絶えずキリストの復活の命が流れ、霊的供給が行き巡っているのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。」(エペソ3:10-11)

エクレシアの目的の一つは、天上の支配や権威に対して、多種多様な神の知恵を知らせることにある。エペソ書には、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)と記されており、天上には悪しき霊も存在することが分かる。

悪しき諸霊は、何とかして信者の霊を天の高度から地に引きずりおろし、撃ち落とそうとするが、逆に、信者の方が、悪しき諸霊を天から撃ち落とさなければならない。

「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。

イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)


以上の御言葉から、イエスに遣わされた者たちが、悪霊を屈服させ、追い払ったことにより、「サタンが稲妻のように天から落ちた」ことが分かる。老いた蛇である悪魔が最終的に火の池に投げ落とされるまでには、まだ時を待たねばならないが、そうなるまでの間にも、幾度となく、その予行演習のような戦いが行われ、悪の諸霊が天から転落するのである。そうすることがクリスチャンの使命である。

エクレシアの使命とは、天にいる悪の諸霊も含め、天上のあらゆる支配や権威に対して、神の知恵と力のどんなに豊かであるかを見せつけ、知らしめることにこそある。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エペソ1:17-23)

この御言葉は、人間の理解力を超えているため、説明し直すこともできないが、要するに、エクレシアとは、すべてを満たすキリストご自身が満ち満ちている場であり、そこには、すべての支配、権威、勢力、主権を超えて、来るべき世においてさえも、すべての名にまさる名であるキリストの御名の絶大な権威が付与されており、神の多様な知恵が働き、神の召しにこめられた絶大な希望があり、キリストある無尽蔵の富と豊かな栄光が宿り、キリストを死からよみがえらせた神の偉大な力が働いているのである。

エクレシアは時代を超え物理的制約を超えて、キリストに連なり、御子の復活の命にあずかる一人一人の者たちから構成されている。それはクリスチャン一人一人のことでもあるし、キリストの成分にあずかる者たち全体の、時代を超えた集合体のことでもある。

クリスチャンは、キリストの御体の一部として、絶えずキリストの命の供給を受けることができる立場にあり、弱り果てたときには強くなって立ち上がるための力を受け、困難に直面した際には解決のための知恵を供給され、どんな境遇にも対処することのできる知恵と力を「すべてのすべて」であられる方ご自身から供給される。

そこで、時にクリスチャンはこの世から憎まれ、追い詰められ、完全に孤立し、死にかかってさえいるように見えることもあるかも知れないが、真の現実は、それとはさかさまであり、クリスチャンこそ、すべてに勝利する秘訣を知っているのである。

それは、主イエスが次のように言われたことを思い出すだけで良い。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

パウロは次のように言った、

わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてを所有しています。」(Ⅰコリント6:8-10)

以上の言葉は、クリスチャンの宣べ伝えていることが、人々から嘘だと疑われて罵られたり、悪口を言われて貶められたり、あらぬ罪を着せられて罰せられる寸前まで行ったり、あるいは殺されかかったり、さまざまな苦難に見舞われて悲しんだり、貧しさの中を通らせられたりすることがあるにも関わらず、そのすべてにクリスチャンが勝利をおさめることが可能であることを伝えている。

この世の有様がどんなものであれ、また、クリスチャン自身の肉なる人がどんなに弱くとも、信者がそうした地上の制約にとらわれず、決してあきらめることなく、御名の権威を行使して、信仰によって御言葉が実際になることを要求し続ければ、嘘に過ぎない地上的な現実は後退して行き、キリストにある天的支配がリアリティとして実際に地に適用されるのである。

堕落したこの世の君は、自分たちの秩序こそ、永遠の動かせない現実であるかのように見せかけようとするが、現実はその逆なのだ。

筆者がこれまでに向き合って来た暗闇の軍勢の一部の様子を見れば、誰にでもすぐに分かることであるが、悪しき諸霊に導かれ、神のエクレシアに戦いを挑んでいる人たちの心の内は、自分たちの罪を暴かれ、責任を追及されることへの恐怖で満ちている。

彼らは、キリスト者にこそ、神の教会への彼らの乱暴狼藉に対し、厳正な処罰を求める権限があることを最初から知っているので、キリスト者が正当な権限を行使して、彼らに対してその罪の償いを要求し、彼らを駆逐することを恐れ続けて来たのである。

筆者は、彼らと出会った頃には、まだそういう結果になることを知らず、何より、この人々が神の敵の霊に導かれ、神の教会に敵する思想の持主であることさえ知らなかった。しかし、悪霊たちは、クリスチャン自身が自覚しているよりも、もっとはっきりと、最初から、クリスチャンの内側にある神の霊の偉大な強さを知っているのである。最初から、自分たちがどうなるのか、最後の結末を知っているのである。

そのことは、イエスが、悪霊につかれて凶暴化した二人の人間に出会って、その人たちから悪霊を追い出し、豚の群れに入るよう命じたという、聖書の有名なくだりを読めば分かる。

そのくだりには、悪霊たちは、イエスが近づいて来るのを見ただけで、イエスが自分たちに対してどのような権限を持っているか、自分たちの運命がどうなるのかががすぐに分かり、イエスを恐れて哀れみを乞うて叫んだことが分かる。

イエスが向こう岸のカダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。

二人は非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここにきて、我々を苦しめるのか。」


はるかかなたに多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。

豚使いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者たのことなど、一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。」(マタイ8:28-34)


筆者が向き合って来た暗闇の軍勢もどこかしらこれとよく似ている。聖書に記された以上の悪霊どもは、とりついた人間を誰の手にも負えないほどに凶暴化させて、その人間を通して街の住人を脅しつけていたが、今、暗闇の勢力に動かされ、神の教会に立ち向かう人々も、これとそっくりな有様ではないか。

彼らは、当初、筆者や筆者の知り合いたちが彼らの狼藉に抗議を申し入れたときから、自分たちが駆逐される運命にあることをはっきりと知っていたのであろう。そこで、クリスチャンがそのような行動に出ることを全力で阻止しようと、まだ起きてさえいなかった戦いに反撃を開始し、あらん限りの罵詈雑言と共に、自分たちを訴え、罰しようとしているクリスチャンたちを罵り始めたのである。

彼らがそうしたのは、本当はクリスチャンこそ、彼らを神に訴え、取り押さえ、彼らの口を封じて、しかるべき場所に送る権限を持っていることを最初から知っていたためである。今も、そうされること怖さに、何とかしてクリスチャンを思いとどまらせようと、罵詈雑言を吐き続けているのである。

しかし、私たちは、このことから逆に、私たちに与えられた御名の権威が、どれほど絶大なものであって、彼らを天から投げ落とし、駆逐するに足るものであるか、彼らの敗北がどれほど最初から確定済みの事項であるかを伺い知ることができる。彼らの恐怖と、それを隠すための卑劣な工作を見るだけで、この人々が敗北することは必至だと知ることができる。

ただ、クリスチャンは正当な権限を自らの意志で行使しなければならない。その行使の時を遅らせるために、彼らはひたすらクリスチャンを脅しつけているのである。

さて、上記の聖書のくだりを読むと、悪霊に憑りつかれて乱暴狼藉を繰り返す人間も脅威であったとはいえ、街の住人たちも、五十歩百歩だったように思われてならない。

主イエスは、長年に渡り、悪霊にとらわれていた二人を解放されただけでなく、それによって、街の住人たちをも、悪霊の脅威から解放された。ところが、その街の住人たちは、その光景を見て喜ばなかったどころか、イエスに街から出て行ってくれと懇願したのである。

豚使いたちは、自分たちの商売道具が台無しになったことを惜しんでイエスを責めたのであろうし、他の住人たちは、イエスが一瞬で行われた解放の御業を見て、それを悪霊たちが長年かけて彼らに行って来た乱暴狼藉よりも、もっと恐るべき「秩序騒乱」とみなし、街の秩序がこれ以上、揺るがされないために、イエスに街から出て行ってくれと懇願したのである。

結局、その街の住人は、墓場に住む悪霊の乱暴狼藉にずっと苦しめられていた方が、イエスがその悪霊たちを瞬時に豚の群れの中に追放するのを見るよりは、ずっと良かったと言いたかったのである。彼らはそれほどまでに悪霊の支配に慣らされてしまい、抵抗する力を失っていただけでなく、自分たちの理解をはるかに超えた事態が起きたこと自体が耐え難かったのである。

つまり、街の住人でもなく、そこにひと時立ち寄っただけの「よそ者」である(はずの)イエスが、自分たちの街の長年に渡る秩序を瞬時に根底からひっくり返し、新しい秩序を打ち立てるほどまでに絶大な権威を持っていることを、決して認めたくなかったのである。

おそらく、今日もそれと同じ現象が起きているのではないだろうか。キリスト教界は、墓場に住む凶暴な悪霊に圧迫され、脅しつけられることにあまりにも慣らされ、自らそれに同意するまでに至っている。そこで、「サタンが天から稲妻のように投げ落とされる」光景をたとえ見たとしても、どれだけがその価値を理解して喜ぶかは疑問である。
 
それでも、信者は「サタンを天から投げ落とす」ことに貢献すべきである。そのためにこそ、地上に遣わされているのだから。

私たちは、目に見える地上の有様にとらわれず、聖書の御言葉にある通り、キリストの御名を用いて、神の喜ばれる天の支配をこの地に適用し続ける。そして、神がキリストにあってお与え下さった自由や解放をどこまでも追求してやまない。神がキリストの命の代価を通して私たちにお与え下さった義と聖と贖いを、どうして再び侵害されねばならない理由があるだろうか。

こうして決して二度と再び人の奴隷とならず、神だけにより頼んで信仰に立ち続けるその過程で、堕落したこの世の有様が、負けじと自己主張して来ることであろうが、彼らは御言葉によって天から投げ落とされることが確定している。へびやさそりやまむしを足の下に踏みつける権威は、クリスチャンにこそ与えられているのである。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(Ⅱコリント4:7-10)