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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

十字架の死と復活の原則―束の間の軽い患難と引き換えに与えられる永遠の重い栄光―

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日にも、同じことが起こる。

その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。

ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。
そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。 」(創世記19:10-11)


このところ、筆者はひたひたと良くないものがこの街に迫って来ていることを感じ、エクソダスの時が近いと感じる。ここに残ったり、定着する選択肢はない。エクソダスできるか、できないか、それが人の生死を分けると感じている。

このような時だから、以前のような牧歌的な記事を書くことは決してできない。人の耳に心地よい言葉を一切並べることはできないし、もっともらしい説教のような告白や、人の歓心を買うための記事など断じて書くことはできない。

さて、クリスチャンは考えてみたことがあるだろうか?

もしも自分の住んでいる街が、ソドムとゴモラであったなら?

ソドムとゴモラの住人との間に、平和な隣人関係や、愛や友情を育めるだろうか? そこで住人に受け入れられ、身内のようにみなされることは可能だろうか?

ノアが箱舟を建てていた時、ノアと同じ街に住んでいた住人や知り合いの誰一人として、彼が何をしているのか理解できなかったであろうし、ノアは彼らの嘲りに直面し、孤独だったろう。

同じように、ソドムにあるロトの家に神の御使いがやって来たとき、ソドムの住人たちがロトの家に押しかけて何を要求したかを思い出せば良い。

その街で、ロトは以前からずっと孤独ではなかったろうか。ソドムの住人たちは、ロトの家にやって来た御使いたちを凌辱する目的で、ロトに向かって彼らの引き渡しを求め、彼らの要求に従わないロトに押し迫ってこう言ったのだ、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」(創世記19:9)

ソドムの住人たちは、常日頃からまるで不良集団のように、いきりたって「獲物」を求め、街を徘徊していたと思われる。ロトがどんなに彼らをいさめても、「よそ者が何を思い上がって俺たちに尊大な態度で説教するか!」と、自分に忠告して来たロトにかえって危害を加えようとするだけであったほど、彼らは常日頃からまともではなかった。

そして、こういう住人は、ソドムでは例外ではなく、むしろ標準だったのではないかと思われる。何しろ、聖書をよく読むと、ロトの家に押し寄せたソドムの住人たちの中には、老いも若きもいて、かなりの大規模な集団をなしていたと思われるのである。決して一部の不良少年のような集団ではなかったことが分かる。また、そこにいない他の住人たちも、みなこの集団を恐れてものが言えなくなり、彼らが何をしてもとがめることなく、ただ目立たぬよう陰に引っ込んでいるだけだったのではないだろうか。もしかすると、この集団は、不良集団どころか、ソドムの自警団を名乗っていた可能性さえも考えられる。

ロトの娘たちの中で、ソドムの住人のもとに嫁に行った者たちは、誰もが婿の言いなりになってソドムの気質に汚染され、脱出のチャンスが与えられても、これを活かすことができなかった。

ロトがソドムから連れ出すことができたのは、ただ未婚の娘たちだけである。未婚というのは、その地に定着していないことを意味する。

ロトの妻でさえ、脱出がかなわなかったことを考えると、まさに配偶者の存在そのものが、財産と同じように、重荷となった可能性がある。ロトの妻が、ソドム脱出の際、ソドムの富に惹かれ、後ろを振り向いて、塩の柱になったことを考えれば、妻という存在が、ロトにとって、それ以前から、ひそかな心の重荷となっていた可能性さえある。

おそらく、ソドム脱出の前から、ロトは妻と信念を分かち合うことができなくなり、孤独であったのではないだろうか?

ロトの心を支配する価値観、何よりもロトの持っていた神への信仰は、おそらく、その地においては、誰からも理解されていなかったのではないだろうか。家族にさえも、理解者がいなかった可能性がある。そして、当のロトでさえ、ソドムに住んでいたくらいだから、聖書では「義人」と称され、かろうじて助かったとはいえ、かなりの程度、ソドムの価値観の汚染を受け、危うい状態にあった様子が、聖書の様々な記述から伺えるのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:29-31)

こうして、聖書は、配偶者であれ、家であれ、喜びであれ、悲しみであれ、家財道具であれ、飲んだり、食べたりすることであれ、どんなものも、キリスト者の主要な関心事になってはいけないと教える。地上にある限り、我々はそういう事柄に一切、関わらないわけにはいかないとはいえ、それらを行う時にも、ないがごとくに振る舞い、心を置いてはいけないと聖書は言うのだ。

筆者はロトの物語を教訓として振り返りながら、ますますそういう思いを強めている。

筆者は、首都圏に、また、この街に、これから何が起きようとしているのか知らず、筆者がここを出て行ったからと言って、まさかその日に天から火と硫黄が降って来るなどと言いたいわけではない。

ただもうここにいてはいけないということが分かるのみである。複数の筋から「出なさい」という忠告を受けた。

何より、筆者は、この街の住人の気質が、どんどん悪くなって行っていることを感じている。むろん、この街に限ったことではない。それは首都圏全域かもしれないし、もっと広範囲を含んでいるかも知れない。

いずれにせよ、「ソドムとゴモラ化」とでも言うべき現象が起き、洪水が少しずつ足元から押し寄せるように、じわじわと人を飲み込んで行くのを感じる。
 
「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。」
 
脱出の日には、全く後ろを振り返ることなく、地上のものへのすべての未練を一瞬で断ち切り、ただ前だけを向いて進んで行かなければならない。

だが、現代という時代には、たとえ神が脱出させて下さるにせよ、ロトと同じように、身一つで街を逃げ出すということはおそらくないであろうと筆者は思う。それでも、地に属するものには決して未練を持ってはいけないということはいつの時代も変わらない。

筆者は、この地に定着せず、この地の住人の歓心を得ようとすることなく、この地の人々の評価を受けたいと願わず、ここに住み着いて穏便にやって行くことを目的に生きて来なかったことを、誇りに思いこそすれ、いささかも恥とは思わない。それどころか、ソドムの社会に受容され、そこに定住して、一切の孤独とは無縁で、人々と「うまくやれる」人がいたとしたら、その人は明らかにおかしいのだと確信している。その人は我が身に滅びを招いているだけなのである。

だが、筆者がこのように言ったからとて、決して筆者がこの街を馬鹿にしているなどとは思わないで欲しい。この街に比べて、他の街ならマシだとか、どこならばよりよく暮らせるか、といった比較の次元で話しているのではない。これは霊的な文脈である。

だが、脱出する前に、まだひと仕事ある。ペリシテ人の神殿を崩壊させ、宮から商売人たちを追い出し、不信者とのつり合わないくびきを根こそぎ打ち砕いて、真に自分を自由の身とし、誰の奴隷にもならずに出て行くという最後の仕事が残っている。天の大掃除である。

話が変わるようだが、筆者はこれまで、主として、思想面から異端思想の構造を明らかにし、糾弾して来た。悪魔の思想というものが、この世にあることを指摘し、それらに共通する構造を明らかにして来た(グノーシス主義の構造)。

すなわち、悪魔の思想には、聖書の神だけが神であるという地位を奪って、生まれながらの人間を神として掲げ、キリストの十字架の贖いを否定し、キリストの花嫁たる教会に敵対するという特徴があるということを告げて来た。

多くの場合、こうした異常な思想を信じる人々が「神聖な要素」であるかのように主張するのは、人間の弱さ(生まれながらの自己)である。

カルト被害者救済活動もこうした思想の一つであるが、彼らは「被害者性」という人間の弱点を、あたかも神聖なものであるかのように掲げる。だからこそ、「被害者が冒涜された」などと主張しているのである。

彼らがこうして「被害者性」という「弱さ」を聖なる要素であるかのように掲げるのは、マザー・テレサが「貧しい人たちの中にキリストがおられる」と表現したのと同じ理由からである。彼らは要するに神でないものを神としているのであり、本当は、貧しさも、弱さも、被害者意識も、神聖とは何の関係もない、ただの堕落した人間の一部に過ぎない。

ところが、マルクス主義もそうなのだが、虐げられた人々が集まって、自らの弱さをあたかも神聖な要素であるかのように掲げ、それを軸にして連帯すると、強者と弱者の関係を覆し、自らの弱者性をバネに神にまで至ろうとする思想が生まれる。

これが社会主義思想くらいの程度にとどまっていればまだ良いのだが、本当に神の教会に敵対することを目的とする思想になってしまうことがある。それが、カルト被害者救済活動である。この思想の極めて悪質なところは、神聖な方は、聖書の神ご自身であり、また、キリストの十字架の贖いを受け入れ、御子を信じて救われた信者によって構成される神の教会こそ、その聖にあずかっている存在のはずなのに、彼らは「教会で被害を受けたという人の弱さ(被害者性、弱者性、自己)」を神聖な要素とはき違え、教会を悪者として訴えながら、自分自身が教会の裁き主となろうとし、教会を押しのけて、あたかも自分こそ神聖な存在(宮)であるかのように主張している点なのである。

むろん、今日、組織としてのキリスト教会には様々な堕落が起きて、神の御心から離れていることは事実である。だが、そのことを内側から憂慮し、御言葉に立ち戻ることで是正していくことと、堕落しつつある一部の教会のために、教会全体を敵に回して告発することはわけが違う。

後者の思想・運動は悪魔的な構造を持つものなので、これに関わって行くうちに、人々は悪霊に深く憑りつかれて正気を失い、無実のクリスチャンに対する迫害・弾圧に及ぶことになる。筆者はこれまでに幾度もそう警告して来た。そして実際にその通りのことが起きているのである。

にも関わらず、大勢のクリスチャンを名乗る人々が、この思想に貫かれてクリスチャンを弾圧する者どもらの勢いに気圧されて、沈黙してしまった。あるいは、脅しつけられて、黙ってしまった。ちょうどソドムとゴモラの中で、ロトが住人たちに押し迫られていた時、他の住人たちはどこにいたのかも分からず、ロトの家族でさえ、一切抵抗できずに口をつぐんでいたのと同じである。

しかし、突如、話が変わるように思われるかもしれないが、筆者は次の言葉が好きである。

ソドムの住人たちが、ロトの家に御使いの引き渡しを求めて押し迫った時、御使いたちがソドムの住人たちの目をくらませたので、彼らは大勢であったにも関わらず、ロトの家に押し入ることができなかった。

もう一度言うが、筆者はこの言葉がとても好きである。

「彼らは入口を捜すのに疲れた。」

聖書を読むと、悪霊たちは、人間を宿として、人の中に住もうと絶えず願っていることが分かる。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになるだろう。」(マタイ12:43-45)

悪霊に入られないための秘訣は、家を「空き家」にしないことだ。もしキリストが住んでさえおられるならば、悪霊はそこに入ることができない。ソドムの住人たちがロトの家に押し寄せて来たとき、ロトの家の中には御使いたちがいた。そこで、御使いたちは、住人たちがどんなに大量であっても、彼らの目をことごとく打ってくらませ、入り口が見つからないようにさせたのである。

住人たちはそんなに大きくもないと思われるロトの家の周りをぐるぐるぐる行き巡ったが、入り口が見つからず、疲れ果てて帰ったというのだから、筆者はこの場面を想像すると、思わず笑ってしまう。

だが、現代のキリスト者もこれと同じで、キリストが内に住んでさえおられるならば、悪魔に入り口を自ら指し示したりすることはないのだ。

しかし、もしキリストが住んでおられなければ、悪魔にとっては入り口を見つけるのは容易であろう。

今は、カルト被害者救済活動の思想的な構造について言及することはしない。ただ、この悪魔的な思想に憑りつかれてしまった人たちが、筆者を攻略するために、すさまじい呪いと中傷を筆者に投げかけていることだけを述べて糾弾しておきたい。

筆者の周りにいるクリスチャンたちは、これに抵抗できず、自らが罵倒されているにも関わらず、立ち向かうどころか、彼らの軍門に下ってしまった。今や彼らを公然と糾弾しているのは、ただ一人筆者しかいない(もちろん、彼らを非難している人たちはいるのだが、立ち向かうという点では、筆者一人のように思われる)。

だからこそ、彼らは何とかして筆者の証をも地上から取り去りたいと業を煮やしていればこそ、筆者にすさまじい呪いと迫害と中傷を加えているのである。

彼らの言い分の中核は、「おまえはこのソドムの街でうまくやれず、ソドムに定着もできず、ソドムに受け入れられず、ソドムで生計を立てることに失敗した情けない落伍者だ。このソドムの住人は、誰もおまえの存在を喜んでいないし、おまえの証にうんざりしている。あとから来たよそ者のくせに、おまえは自分が俺たちに受け入れられなかったからと言って、まるで俺たちのさばきつかさのように尊大に振る舞い、俺たちに上から目線で説教しようとした。そんな高慢な態度は許せない。だから、カルト化教会の道を踏み外したどんな牧師よりも、おまえをもっとひどい目に遭わせてやる」ということに尽きる。

まさにロトに対してソドムの住人たちが述べた言葉と同じである。

それに対する筆者の反論はすでに記した通り。ソドムに受容され、ソドムで孤独を感じず、ソドムに定着する人間の方が全くどうかしているのだ。筆者は一度たりともそんな人間になりたいと考えたことはなく、彼らに「落伍者」であるかのように罵られても、それをむしろ当然であると思う。

むろん、筆者は彼らの呪いや中傷を放置する気はないし、彼らの思い通りになることもない。彼らの手から筆者自身を救い出す。二度と彼らが筆者を呪ったり、汚し言を言うことができないように。

だが、ひとこと断っておけば、この戦いは長期に渡り続いており、激しい迫害になっているとはいえ、そんなに次元の高い戦いではない。こうした人々によるネット上のクリスチャンに対する迫害は、現実生活においてまで、信者に危害を加えるレベルに達しておらず、また、影響の範囲も限られている。何より、きちんと手を打てば終結するし、このような低い次元の情報を鵜呑みにして信じる人々の数もごくわずかに限られている。

学者にとっては自分の主張の論拠をどこから引っ張って来るのかが大切であり、誰も自らの論文で三流・四流のゴシップ新聞の記事を引用したりしないのと同じように、あまりに低い次元の誹謗中傷などを大真面目に信じて吹聴していれば、その人の人間性が疑われるだけである。

だから、一定の洞察力を持っている人は、誰もこういう低次元の情報に振り回されることはない。

しかし、この度、筆者は、そうしたものを超える、もっと高度な迫害が現実にありうることを述べておきたい。それは歴代のクリスチャンがずっと耐え抜いて来た、本当の迫害のことである。

再び、話が変わるように思われるかも知れないが、悪霊は人間を宿としてその中に入り込み、その人間を思うがまま操るが、人間の中に悪魔自身が入ることがありうることを、聖書ははっきり教えている。

「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22:4-6)

これはイエスを売り渡す行為が、決して下級の悪霊にはできない仕事だったことをよく表している。だからこそ、サタン自身がそれを遂行するために、ユダの中に入ったのである。そして、注目したいのが、ユダに悪魔が入ったのはいつなのか、ということである。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペテロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。

その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:21-30)

前にも書いたことがあるが、神はクリスチャンに代価を要求される時、決して本人の承諾なしに何かを強制的に剥ぎ取ったりはなさらない。たとえば、殉教を願っていないクリスチャンに殉教を強制されるようなことは決してない。

クリスチャンが神に従う過程で、何を手放すかは、神とその信者との間で合意があった上で、決められる。そして、神は決定的に重要な事項は、信者が目を覚ましてさえいるならば、前もって知らせて下さる。大きな迫害が迫っている時や、危機が訪れようとしている時、もし信者が御霊に聞く姿勢さえ失っていなければ、必ず知らせて下さる。

だから、もし何の前触れもなしに、不意にとてつもなく悪しき出来事が起きてそれに翻弄されるようなことがあれば、その時は、クリスチャンが目を覚ましていなかった可能性が高い。
 
主イエスは、ご自分が父なる神に従うために、命を投げ出さなければならないことを、以上に挙げた場面で、すでに知っておられた。それが避けがたい召しであることも知っておられた。そして、神との間で、命を投げ出すことにすでに同意されていたのである。

主イエスが、その召しに承諾してから、初めて、サタンは動くことができた。いわば、サタンは、イエスの許可なく、ユダを使ってイエスを裏切ることができなかったのだと言える。そこで、イエスが「今こそ、その時だ」と、指示した時、初めてサタンがユダに入った。イエスは裏切られることを前もって知っており、ご自分が死に渡されなければならないことをすでに承諾しておられたからである。

我々クリスチャンの人生にも、似たようなことが起きる。

悪魔がどんなに猛威を振るうように見える時でも、最終的に見れば、それは神の支配下で許された範囲内でしかないのである。たとえば、クリスチャンには、兄弟姉妹を名乗る人たちによる手ひどい裏切りが起こることも稀ではないが、そのようなことは、ある日、突然、起きるものではない。あるいは、肉親にまで裏切られることもあろうが、そういうことは、必ず、神ご自身が信者に教えて下さる。我々はすべての兆候から、そうなることを前もって予測できるのである。むろん、心の準備も可能である、目を覚ましてさえいるならば。

クリスチャンを罵るくらいのことは、下級の悪霊のレベルでも可能であろうが、クリスチャンに手をかけて命を取るような危害を加えるというようなところまで行くと、これはサタン自身の仕事である。サタンの霊を受けた人間しか、そのようなことを大規模に実行できる人間はいない。だが、心配しなくて良い。そのような迫害は、それを受けるクリスチャン自身が、神との間で、前もって同意しない限り、その人の身に起こりはしない。

聖書は言う、

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)

筆者は今まで幾度も殉教について述べて来た。最終的には、すべてのクリスチャンは殉教を目指すべきであると思う。だが、筆者について言えば、今はまだその時ではない。これは殉教を恐れるがゆえに言うのではなく、すべての物事に時があることをただ述べているだけだ。だが、上記の御言葉の実に多くの部分はすでに筆者の人生で成就している。戦いはかなり深いレベルにまで達した。

これから先、クリスチャンに対する迫害は、時をかけて、より一層、巧妙に、深化して行くであろうし、ついに最後には殺意のレベルへまでも進行して行くであろうと予想する。そうなるためには、まだしばらく時があり、時代の状況そのものが変わることであろうが、すでにその戦いが始められようとしていることを筆者は知っている。

この地へやって来たときとは正反対である。やって来たときには、筆者はキリスト者の純粋な交わりを求めて、それに憧れ、心躍らせていたが、牧歌的な時代は終わったのである。

そして、筆者は心の中で神に向かって言う、「いいでしょう。同意します。私にはあなた以外で価値あるものは何もありません。」と。「たとえ兄弟姉妹であろうと、ソドムの住人であろうと、誰であろうと、あるいは物であろうと、家であろうと、何であろうと、あなた以外のもので、私が自分の心の中心として据えるものは何もありません。私はあなたが私に望んでおられる道を生きることに同意します。ただその道において、あなたが束の間の苦難と引き換えに、はかりしれない重い栄光をすでに天に用意しておられることも私は知っており、その褒賞を見上げ、それに至り着きたいと願っているのです。どうか私があなたの栄光に入り損なうことがありませんように。」
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キリストの十字架の死と復活の原則―死ぬべきものが命に飲み込まれるために、天から与えられる住処を上に着たいと願う―

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。

死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えて下さったのです。」(Ⅱコリント5:1-5)

筆者は様々な文書をこれまで作って来たが、文書にはいつもある程度の完成度というものがある。公式な文書であれば、当然ながら時間をかけて推敲し、誤字脱字もすべて修正せねばならない。字数制限がある場合もある。

ブログとなると、誤字や誤表現にそこまで気を使わなくても良い。間違いに気づけば後から訂正すれば良いし、気に入らなければ、全面的な書き直しも許される。

だが、どんな文書であれ、いつも思うように推敲の時間が取れるわけではなく、形式については、どうしてもある程度のところで手を引かざるを得ない。
 
その代わり、妥協できないのが内容だ。内容のない文書など書くだけ意味がないのだから。

そして、内容については、最初から書きたい内容がすべて目に見えているわけではない。ほとんどの場合、書いているちに内容が掘り出されて来る。

筆者はどのような公式文書よりもブログの価値を重く見ている。

ブログでは、自分の書いた内容について、何年も何年も経ってから、当時、言わんとしていたことの重さが分かって来ることが多い。自分でも気づかないうちに、そこにある種の予言的な意味合いが込められていたことに、後になってから気づく。

御霊はクリスチャンに来るべき事柄を教える。私たちは心の奥深くで、未来がどうなるのかを知っている。そしてその未来とは、究極的には、神の勝利の計画の成就である。
 
ここしばらくの間、筆者は、このブログの題名を「私ではなくキリスト」とつけたことは、間違いなかったと感じている。今回はその理由を述べたい。
 
筆者の子供時代、家の近所に川があり、よく遊びに行っていた。その河川敷に、おかしな鳩がやって来たことがあった。
 
川の橋げたには、いつもたくさんの鳩が群れとまっていたが、ある時、そこにとまろうとしてやって来た一組の鳩の様子がおかしい。

二羽がまるで団子のようにくっついて飛んでいるのだ。よく見ると、その二羽は、鉄線か何かで足がからまり、離れられなくなって、二人三脚のような状態で、一緒に飛んでいるらしい。

しかも、一羽目が上にしきりに飛び立とうとしているのに、二羽目は下へ下へと落ちて行く。

子供だった筆者は、それを見て、何とか助けてやれないものだろうか、と哀れに思った。あの絡まった鉄線をほどいてやれさえすれば、二羽とも自由になれるのに、と。

そこで、近づいて助けるチャンスはないだろうか、と、しばらく様子を伺っていた。

しかし、橋げたにとまることがどうしてもできずに、とまることをあきらめた鳩が、水面すれすれにまで降りて来て、筆者の前を飛び去った時、筆者にははっきり分かった。二羽目はもう死んでいるのだと。

生きている鳩が、死んだ鳩と鉄線でつながれたまま、死んだ鳩をぶら下げて、飛んでいるのだ。
 
その鳩は、死体の重みで下へ下へと引っ張られながらも、何とか上へ飛び立とうともがきつつ、そのまま筆者の目を通り過ぎ、飛び去って行った。

筆者は、子供心にも、何とも醜悪でグロテスクなものを見せられた気分になり、衝撃を受け、言葉を失って、家に帰った。
 
その光景を、筆者は今でも、時折、思い出すことがある。
 
だが、その光景は、現在、筆者の中で、当時とは全く異なる新しい意味合いを持っている。

それは、その光景が十字架において罰せられたアダムとキリストへと重なるからだ。

筆者の中では、あの死んだ鳩は、罪人として罰せられた人類の姿に重なる。

キリストの十字架は、罪なく永遠の命を持つキリストと、罪を犯して滅びゆく人類が一緒に罰せられた場所である。

もちろん、信仰のない人にとっては、キリストの十字架は、あくまでキリストだけが罰せられた場所であり、その死は、自分の死ではなく、それは自分の十字架でもない。

そこで、そのような不信者の中には、「キリストさんは、可哀想だなあ。無実だったのに、弟子に裏切られ、罪を着せられて、殺されたんだからなあ」などと、他人事のように哀れんでいる人もあるかも知れないし、キリストは新しい宗教の開祖で、誤解のゆえに殺された犠牲者だと思っている人もいるかも知れない。

しかし、信仰に立つ者は、ゴルゴタで、神の独り子なるキリストの死と、自分の死とが一つになっていることを知っている。

そこで、信じる者にとって、ゴルゴタは、「無実にも関わらず、裏切られて売り渡された哀れな犠牲者としてのキリストが罰せられた場所」では決してないのだ。

そこは何よりも「十字架刑に処されて当然であった「私」(=アダム=人類=人間の自己)が罰せられて死んだ場所」である。そして、そのように御子を罰することは、人類を救うための神の深遠なご計画だったのである。

罪なくして罰せられたキリストは、十字架においてさえその尊厳を失われなかった。どんなに鞭打たれ、あざけられ、唾を吐きかけられても、最後までご自分の尊厳を保ち、父なる神に従われた。

しかし、滅びゆく人類は別である。滅びゆく人間は、まさに罰せられて当然の存在であった。

もし十字架において罰せられた「アダム(「私」=人類=生まれながらの人の自己)」の姿を実際に見ることができるとすれば、それは誰もが目をそむけたくなるほどに醜悪で、まさに嘲りと罵りと鞭打ちと拷問に値する存在であると言えたであろう。

それほど残酷に罰せられてさえ、己が罪を認めず、キリストを見下げて罵り、嘲っていたかも知れない。ゴルゴタでキリストと一緒に木にかけられたあの強盗の一人のように。
 
筆者は思う、子供の頃に見た、あの死んでしまった鳩でさえ、あれほどグロテスクで醜悪な印象を醸し出していたのだから、十字架においてキリストと共に罰せられた人類(人間、アダム、生まれながらの人の自己)を見ることができるとすれば、それはどんなに目を背けたくなるほどに醜悪な姿であろうか、と。

だが、そのことを思うと同時に、筆者は平安を感じるのだ。それは「心配要りません。あなたの裁きはもう終わりました。」と、神は筆者に言って下さるという確信を心に持つことができるからだ。

「カルバリでの御子の死が自分の死であることを認め、その裁きを心に受け入れさえするならば、あなたが再び罰せられることは決してありません」と、神は言われるからだ。

だが、信仰によってキリストと自分が一つであることを認めても、やはり、信じる者は、地上での生活において、一歩一歩、十字架の死と復活を背負うことが必要となる。

筆者はこの度、キリストの十字架を嘲り続ける者を、この世の諸手続きによって暗闇に引き渡そうとしている。だが、これは筆者の生まれながらの自己の義憤から出た行動ではないことを予め断っておきたい。

筆者は多分、このブログに自らの地上の名を記すことは最後までないだろうと思う。それは、多くの人々が考えているような理由からではなく、以前にも述べたように、このブログによって栄光を受けないためである。

多くのクリスチャンが、牧師や教師や指導者となって、自分の名を公然と世に掲げて著書を出し、ミニストリーを開き、献金を集め、CDを売った。

「偉大な霊の器」などの触れ込みのもと、何千人も収容できるスタジアムを借りて集会を開いたりもした。

だが、筆者は決してそのようなことをせず、このブログを有料化もしない。

無料だからと言って、自分の名を売るために、利用することもしない。それをミニストリー扱いするつもりもない。何よりも、筆者は決して人を上から教える立場に立たない。

だから、最後まで無名の「ヴィオロンさん」のままで良いのである。

多分、何年も後になれば、すべての記憶が風化し、「ヴィオロンさん? それって一体、誰なの? 現実にいる人なの?」ということになって終わるだろう。

「ヴィオロンさん」は、牧師でもなく、教師でもなく、指導者でもない。神学博士でもなければ、キリスト教社会主義の政治家でもない。無学な人間なのか、偉い人なのか、一体、何者なのかも分からないまま、ただの名もない人間として、風のように現われ、風のように過ぎ去って行くだけである。

だが、現実の筆者の名は、市民権を持っている。社会生活がある。筆者に連なる人々も同様である。そこで、現実の筆者を貶める行為に及べば、当然ながら、その者は報いを受けなければならない。

それはこの世の法則である。

いわば、筆者はその時をずっと待っていたのだとも言える。

上手く説明できる自信はないが、筆者にとっては、「ヴィオロンさん」こそ、生きた鳩であり、この世で生きる筆者は、ゴルゴタの十字架でキリストと共にすでに死に渡されており、あの醜悪な死んだ鳩も同然なのである。

この二つは切り離せないものとして一体である。

生きている鳩とは、信仰によってよみがえらされ、生かされた「新しい人」としての筆者である。
 
多くの人々にとっては、驚くべきことであろうが、筆者から見れば、死んだのは地上における筆者(アダムとしての筆者)なのである。
 
その意味で、筆者の目に映る「現実」は、多くの人が見ている光景とはさかさまである。

筆者の地上における名は、決して天の栄光と結びつけるつもりはない。むろん、地上における名も何かを為すことくらいはあるかも知れないが、その栄誉は束の間で、これは絶えず十字架で死に渡されているアダムである。
 
ゴルゴタにおけるアダムの死が絶えず筆者に適用されることによって、逆説的に、信仰によって復活の命が働くのである。

あの河川敷にいた鳩は、いつまでも死体と結びついていたのでは、生きるのは難しいであろうが、キリスト者は、信仰によって絶えずキリストと共なる死と復活を経ていなければ、進んで行くことができない。

筆者には、ここで訴えている内容が、決して自己の利益のためではなく、神の国の権益に関わるものであることを証明するために、代価を払ってそれを証することが、どうしても必要なのである。

なぜなら、代価を払わなければ、天の褒賞を得ることができないためである。

その意味において、地上における筆者が何かの犠牲を払わされることになることを決して厭うつもりはないし、脅しつけられたからいって黙るつもりもないのである。
 
それは神がご自分のために要求されている代価を支払うことなしに、神に従うことが不可能であり、エクレシアはこの代価を払って神に従うことで、神に栄光を帰するために召された存在だと知っているからである。

人々はあざ笑うであろう、「あなたには色んな才能があり、それを有用に用いれば、もっと社会的に成功できたはずなのに、いつまでこんな無料ブログに『命をかける』だなんて寝言を言ってるんですか。なんて馬鹿げているの。それこそ人生の浪費、犬死でしょう。

いいですから、たかがペンネームのブログごときのために、現実のあなたが社会的地位を失う必要はありませんよ。そんなのはもったいない。あなたはもっと人類に奉仕できるはずの存在じゃありませんか。今からでも遅くありません。何が本当に価値あることか見極めて、こんなブログはお遊びとしてうっちゃって、もっと自分のためになることをおやりなさい。決して真剣に命がけでここに文章を書こうなんて思っちゃダメですよ。幼稚な喧嘩をわざわざ買って出る必要はありません。茶番劇は放っておきなさい」と。

なるほど極めてもっともらしい説得である。だが、筆者は言う、「そうではありません。私はあなたがおっしゃるようなものは、もうすべて後にして捨てて来ました。私が目指しているのは、あなたが考えているような『社会的成功』ではありませんし、『名声』でも、『地位』でもありません。

いいですか、私の信じる神は、そんなものをいつでもいくらでも私のために用意することができるんです。実際に、信じる者のためには天に莫大な富が蓄えられていて、私たちはいつでもそういうものは引き出せるんです。

でも、私は神の目に、私が何を第一として生きているのかをまずは証明しなければならないんですよ。

私は自分の利益や、人の目に認められることを目指しているのではありません。人の目にどう映るかを恐れているのではなく、神の目にどう映るかを恐れているのです。私は信仰の証しを述べたことにより、自分が痛めつけられたり、脅しつけられたりすることを恐れてはいません。聖書の神の御言葉が曲げられ、神の国の権益が侵されていることを憂慮しているがゆえに、叫んでいるのです。

もし聖書の神が冒涜されているのに、私たちが立ち上がらなければ、世の人々はどうして私たちが神を信じていることを知り得ますか。脅かされればすぐに黙ってしまうような信仰なら、最初からない方がましでしょう。

私はすでに死んだのです。ですから、何度、死んでいるという事実を突きつけられても、ビクともしません。この地上の我が国でも、死者には名誉という概念がありませんが、それと同じですよ。 死者には人権もないのです。死者が冒涜されているなどととんなに言っても、死者には法的権利がないんですよ。

でも、本当の意味での死者とは、私のことではなく、滅びに定められたこの地上にいるすべての人たちのことなのですよ。

そして、本当の生者とは、神がキリストを通してよみがえらせて下さったすべての信者のことなのです。ですから、それは私のことでもあるのです。

ある人々は、「カルト被害者が冒涜された」などと言って騒いでいますが、神聖な存在は「カルト被害者」ではありません。神聖な存在は、聖書の神ただお一人です。さらに言えば、神聖なのは、神がキリストと共に死に渡され、よみがえらせて下さった神の子供たち一人一人ですから、それはすなわち、私たちのことなのです。

キリストが内に住んで下さっている信者の一人一人が、神の神聖な教会なのですよ。

ですから、あの人たちが言っていることはすべてさかさまなのです。彼らは自分たちが「冒涜された」と叫んでいるけれども、彼らこそ、神聖な神の宮を冒涜しているんですよ。

私たちは、一方では、滅びゆくアダムに過ぎませんが、他方では、信仰によってよみがえらされた新しい人、聖なる人なのです。私たちのアダムに十字架の死が適用されている以上、真の私たちとは、キリストと同じ性質で覆われた、神の満足される、聖なる新しい人なのですよ。

ですから、信仰のないあの人たちが、自分たちを神聖であるかのように主張しているのは間違っています。もし彼らがそう言うなら、なおさら、私たちこそ、真に神聖な神の宮なんです。

それが現実なんですよ。

ですから、あの人たちは、神の聖を奪い取って、あたかも自分たちが神聖な存在であるかのように主張したいだけなのです。だからこそ、彼らは神の宮である教会をしきりに乗っ取っては、破壊しようとするのですよ。

でも、本当は彼らこそ、何も主張できない死体に過ぎないのです。死んだはずのものが、どうしてゾンビのようによみがえって、生きている人を脅かしたりできますか。彼らは超えてはならい境界を踏み越えました。死者と生者の境界を踏み越え、しかも、神がよみがえらされた人々の権益を脅かしているのですから、これこそ神聖の冒涜ではありませんか。

死体にはまっすぐに墓にお帰りいただかなくてはいけません。死者が立ち上がって生者に狼藉を加えるなど許されることではありません。

ですから、私はこうして荒野で叫んでいるのです。そして、あの人々は、私の訴えていることが真実であるからこそ、自分の罪が暴かれない為に、私を殺そうとしているんですよ。

アダムとしての私に攻撃を加えることはいくらでも可能でしょうし、私はそれに甘んじましょうし、そんなことではビクともしません。でも、今の世で、ステパノの証が聞くに耐えられないからと、ステパノを石打にして殺せば、その人たちが殺人罪に問われるのは当然でしょうね。たとえステパノが死んで口がきけなくなっていたとしても、殺した人たちは罪人として連行されるのが当然でしょうね。それはこの世がこの世の秩序を守るために、放っておいても自らするような仕事なのですよ。

何度も言いますが、キリストと共なる十字架で、私はすでに死んでいるのですから、私には惜しむべきものはありません。でも、だからと言って、誰かが地上に生きている私を本当に殺してしまえば、殺した人たちが罪に問われるのは当然ですね。侮辱を加えれば、罪に問われるのも、仕方がないですよね。

いいですか、私はこの地上にある限り、まだまだ「死んでしまった鳩」とのくびきを断ち切るわけにはいかないんです。処刑されたアダムも、まだこの地上での仮の宿としてのつとめがありますから、やってもらわねばならないことが色々残っているんです。
 
いくら仮の宿とは言っても、その内側に神聖な神の霊が宿っている以上、アダムに攻撃を加えた人間は、神聖な宮の入れ物となるべきものの破壊行為について、罪に問われることになりますよ。でも、それはアダムに属する事柄ですから、あくまでこの世の法によって裁かれるのがふさわしいのです。
 
恐れるべきは、それよりももっと厳しい裁きが天に存在することです。「聖霊を穢す者は赦されない」と聖書に書いてある通りです。彼らは神聖なものを冒涜したことの報いとして、この地上だけでなく、永遠に至るまで、引き渡されます。それが彼らの避けようのない運命です。

私はどんなにそうならずに済むなら、その方が良いと願ったでしょう。しかし、彼らはついに私たちが与えた最後の和解のチャンスまで踏みにじり、罵り、嘲ったのですよ。ですから、もう彼らに猶予は残されていません。

私は彼らを「サタンに引き渡す」と以前に書きましたが、そう書いた後、まさに予告した通りのことが起きたのです。彼らの宿主である悪魔が、彼らを本当の破滅に引き渡したのです。

私は言いましたね、悪魔の法則は使い捨てだと。

ひと時、悪魔は手下となってくれる人たちを使って、すさまじい乱暴狼藉を繰り返します。その勢いは破滅的で、誰も止めることができないと思うほどです。しかし、それは疫病のように、いつまでもは続かず、時が来れば、たちまち勢いを失って行きます。そして、その後は、悪魔の宿主とされた人々は、責任を問われ、地上での人生を失って行くんです。

聖書に書いてある通り、悪人たちは、ひと時、雑草のように生い茂っても、振り返れば、彼らはもういない。痕跡もとどめず、思い出そうと思っても、思い出せない。跡形もなく消し去られてしまうんですよ。それに引き換え、主に従った者たちの名は命の署に記され、永遠に残ります。

あるクリスチャンが私の前でこう言ったことを思い出します、

「悪魔は本当に愚かです。キリストを殺しさえしなければ、地上には、復活した人間は一人もいなかったはずなんです。悪魔がキリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れていたことが起きてしまい、悪魔がどうやっても手出しのできない領域が生じてしまうことが、悪魔自身にも、予め分かっていたんです。

(悪魔が支配することができるのは、旧創造だけである。復活の領域には、悪魔は指一本、触れることができない。)

なのに、悪魔は抑えがたい欲望から、キリストへの殺意に燃え、どうあってもキリストを十字架にかけて殺さずにはいられなかったんです。殺せば、よみがえりが生じる。自分にとって最も恐ろしい、不利なことが起きる。それが分かっているのに、悪魔はわざわざそれをやってしまったんです。これがいつの時代も変わらない悪魔の愚かさです、悪魔は自分にとって最も不利なことをやり続けているのです!」」

まさにその通り。それこそが悪魔の法則というもの。

だから、筆者は「サタンに引き渡す」と書いたのである。その結果、何が起きるかは、天と地の前で証明されることであろう。

筆者は彼らを憐れまないし、惜しまない。

彼らが決してクリスチャンの言うことに耳を傾けないことは分かっているので、筆者は彼らを罠にかける。彼らがその愚かさによって自らつまずくように。自らしかけた罠に落ちるように。筆者は旧創造としての自分をも憐れまずに十字架に引き渡すが、自分以外の旧創造をも憐れまない。彼らを弁護もしないし、救おうともしない。

生きた鳩と死んだ鳩を一緒に救うことはできないのだ。

だが、生きた鳩は、どんなに死体の重みに引っ張られても、自力で上へ上へと飛び立って行くだろう。そうこうしているうちに、鉄線は古くなり、いつか重みで断ち切れる。気づくと、鳩は自分が自由に、軽やかになっていることが分かる。

あの死体はどこへ行ったのだろう。分からない。しかし、そんなことはどうでもいい、鳩は自由になったのだ。鳩は軽々と天へ羽ばたいて行く。

私たちの地上の幕屋はいつか壊れる。地上的名声や地位は束の間である。

しかし、神に従ったことから得られる褒賞は、永遠である。

その永遠のものが、死すべきものを飲み込む時が来る。天の永遠の栄誉が、滅びゆく無価値な地上の栄誉を飲み込んで行く。こうして、死んで滅びたはずのものさえ、命に飲み込まれて、新しくされる時が来るのだ。

アダムの死は過去となり、気づくと、新しい人が立っている。私ではなくキリスト。

私たちは地上の幕屋を負ってうめきつつ、天から与えられる新しい幕屋を上から着る時を待ち望んでいる。新しい天と地を喜びを持って迎える時を待ち望んでいる。

私たちの希望は決して失望には終わらない。神はご自分を頼る者を決して見捨てられることがないからだ。


十字架の死と復活の原則―律法による罪定めから解放され、御霊によって生きる天の自由人へ―

比較的最近のことであるが、あるレストランで食事をしていると、近くの席に老夫婦がやって来て座った。

聞くともなしに、聞こえて来る会話を通して、その老夫婦がクリスチャンらしいことが判明した。彼らは食前の祈りを捧げていたのである。

「この食事を感謝します。あなたがこの食事を通して、私たちの体を健やかにして、癒して下さると信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

そんな祈りだった。

筆者は長いこと食前の祈りというものを耳にしていなかったので、彼らの敬虔そうな様子と、懐かしい祈りの言葉に、はっと目を覚まさせられる思いになった。自分が食前の祈りをせずに、食事を取っていたことに、バツの悪い思いさえ味わいながら、その夫婦のその後の会話に耳を傾けた。

筆者はキリスト教会を離れて久しく、全ての形式的な儀式から遠ざかっていたので、そばでクリスチャンが祈るのを聞くことも新鮮で、そういう時には、心から捧げられる祈りであるのが当然だと思っていた。

筆者は真実な交わりを求めて教会を離れて後、心からの祈りしか聞いたことがなかったので、いかにも敬虔そうなその老夫婦の祈りが、単なる形式的な祈りでしかないことが、すぐには分からなかったのである。

そこで、筆者は、その老夫婦がきっと本物のクリスチャンなのに違いないという思いで、何か新鮮な信仰の息吹が得られることを期待して、彼らの会話に耳を澄ました。

すると、その祈りの後にただちに彼らの口から出て来たのは、子供たちへの愚痴や不満であった。

「あの子はねえ、自分の部屋も片付けてないのに、自立なんて無理だと思うんだよね。働いて一人で下宿するとか、結婚するとか、そんなことばっかり言ってるけど、今のあんたには無理だって、この前も言って聞かせたんだよ」
「まずは自分の部屋を片付けることから始めなさいって、言っておいたよ」

そんな言葉が筆者の耳に入って来ると同時に、老夫婦はウェイターを呼びつけ、

「あのね、スープバー代わりに取って来て。私たち自分で歩けないから」

と言って、壁に立てかけた杖を顎で指し示したのであった。

筆者は、あまりのことに驚き、心の中で憤慨さえした。老夫婦がいかにも敬虔そうな態度で食前の祈りを捧げていた時の様子と、その祈りが終わるや否や、始まった会話は、まるで正反対であった。夫婦は、自分が祈った内容が、舌の根も乾かないうちから、まるですべて嘘だったとでも言うかのように、ただちに世俗の会話に明け暮れ、我が子と思われる人物についての不平不満を二人で語り始めた上、自分たちは病人だと言って、ウェイターに代わりにスープバーを取って来るよう指示したのであった。

筆者は、主イエスが「人前で見せるために祈るな」と警告したことを思い出し、あんなにも素朴で敬虔そうに聞こえた祈りが、全く無内容だったことを理解したのであった。問題は、うわべだけ敬虔な信者らしく、食前の祈りを人前で捧げるかどうかではないのである。

しかし、何より筆者が憤慨したのは、老夫婦が癒しを求めて祈ったのに、何一つ、自らの信仰を実践しないことだった。もし筆者が、「主よ、あなたが私たちの体を癒して下さることを信じます」と祈ったならば、ただちに杖を捨てて立ち上がることを考えるだろう。そうでなければ、そんな祈りはしない方が良い。

神は、本当に人の病を癒すことがおできになる方である。筆者はそのことを確信している。だから、「癒して下さい」と祈るなら、神に一方的に懇願して終わりにするのではなく、ただちに自らの信仰が嘘ではないことを表明した方が良い。その行動による表明を通して、信仰は生きて働くのだ。

ちなみに、話が脱線するが、神は人の病を癒すことができるだけでなく、機械の故障も直すことができる。筆者は、色々な機械の故障を修理によらずに直して来た。

その初めは院生の頃、下宿でパソコンにコーヒーをぶっかけ、それを御名によって復活させたことだった。

今では、何かが壊れたからと言って、祈ることはしない。ただ、機械は故障したのだという事実を、心の中で静かに拒否するだけである。

わずか一週間ほど前に、筆者の家では、電化製品を同時に使いすぎたせいで、ブレーカーが飛んで、電気を復旧させると、つけっぱなしだったCDデッキがカタカタ言い始め、CDを再生できなくなった。

CDデッキは買ってから年数が経っており、保証期間も過ぎており、修理はかなり高額になり、預ければしばらく帰って来ず、修理のために預ける心当たりの業者もなかった。

そういう面倒な事柄が脳裏をよぎったが、ついさっきまで普通に動いていたのだから、ブレーカーが飛んだくらいのことで、おかしくなるはずはないと思い直し、CDデッキは壊れてしまったのだという考えを心の中で拒否した。

そして試行錯誤すること15分程度、機械を開けたりも何もしていないのに、CDは普通にデッキにスルスル入って行き、何事もなかったかのように再生が始まった。それ以来、一度たりともヘンな様子は見られない。

さらに、以前にいた家では、レンジフードが故障し、付属の電球がつかなくなり、お湯が出なくなるということが起きた。お湯が出ないんなんて、ロシアじゃあるまいしと思いながら、しぶしぶ修理の見積もりに来てもらうと、老朽化により復旧は不可能と言われ、大規模な工事をするしかないとのことであった。その際、業者が付属の電気だけは復旧させて行った。

大規模な工事にはなかなか予定がつかず、筆者は修理を数ヶ月、先送りした。しばらく、ぬるま湯しか出なかったが、冬場、これでは困るなと思っていると、どんどんお湯の温度が上がって行き、ほとんど普通にまでなった。しばらく経って工事はしたが、とても老朽化により復旧不可能と言われた機械とは思えないほど普通に稼働してくれた。

そんなわけで、筆者は神と二人三脚の生活では、すべてが間に合うことを実際に身を持って体験して来たのである。健康が備えられるだけではない。経済的にも、物質的にも、あらゆるものが間に合うのである。これは人生に何も困ったことが起きないという意味では決してなく、どんなことが起きても、神と信じる者との二人三脚ですべてに間に合うということなのである。

だから、何かが起きる度に、ああ、どうしよう、取り返しのつかないことが起きた、どうやって対応しようか、と思って慌てふためき、自分でその責任を負おうとしてもがき、悩み続けるのか、それとも、悪魔がしでかしたいたずらの責任は、悪魔自身に負ってもらうかどうかは、その人の決断次第である。

こんなことを書けば、笑われるかも知れないが、筆者はあらゆる霊的な負債を悪魔自身に負わせ、自分では負わないことを学んだ。地に属する事柄についての責任は、最終的に地にある。機械が壊れたという事実を拒否することも、その一つである。

アダムの堕落という人類の地滑り以来、人類史はずっと絶え間ない「放浪」と「紆余曲折」の連続だ。どこにも進歩などない。それなのに、自分の人生だけには進歩があると思っている人があるならば、その人は偽善者である。笑止千万である。そんなのは思い込みであって、事実ではない。

人間の義は、みな不潔なボロ切れのようなものだと、聖書に書いてある。クリスチャンの進歩は、天的な歩みによってしか保障されない。

さて、老夫婦に話を戻せば、長い長いこと筆者はキリスト教界に属する信者たちを見ていなかったので、彼らがどういう種族であるかを忘れていたが、そう言えば、キリスト教界というところは、こんな人たちばかりだったな、とやっと思い出したのである。

「学習性無気力」という言葉がある。

長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物が、その環境に慣らされたあまり、その状況から逃れようとする努力すらももはや行わなくなるという現象である。

これは家庭内暴力などを受け続けた人によく当てはまる。たとえば、毎日、毎日、夫から暴力を振るわれ、「お前は何もできないクズだ!」などと罵倒されている妻がいたとすれば、その妻は、夫の暴力と暴言が一定の限度を超えると、無気力状態に陥り、ついには本当に自分は何もできないクズなのだと考えるようになり、その夫から逃げる気力さえ失ってしまう。

それでも妻が渾身の気力を振り絞って、その夫のもとから脱走しようとすれば、夫は全力で妻に打撃を加え、立ち上がれないようにし、再び、家の中に監禁してしまう。そういうことを何度も、何度も繰り返せば、妻はついに最後は逃げ出すことをあきらめるしかなくなる。最終的には、死へ向かって行くのであろう。

筆者は、キリスト教界というところは、早い話が、信者に学習性無気力を植えつけることで、教会組織から逃げられないように囲い込んで行く恐ろしいDV組織であると考えている。

神の健やかな教会ではない。DVが蔓延する機能不全の家庭である。

以上の老夫婦の会話を聞いて、筆者はそのことを改めて思い出したのだった。

彼らの短い会話から理解できたことは(それほど長い間、聞いていなかった)、彼らの子供は、多分、自立したい、親元を離れたい、結婚したい、と思っているということであった。年齢がいくつなのかは分からないが、子供ならば、当然に願う事柄だろう。

ところが、老夫婦は、そういう子供の願いを聞いているにも関わらず、子供の願いを質に取って嘲笑うかのように、「おまえにはまだ無理だよ。そんなことができるくらいなら、まず自分の部屋をちゃんと片づけられるはずだ。目の前のこともできない人間が、どうして将来、もっと大きなことができるんだ」と、議論をすり替えることで、子供の未来への願いまで否定し、奪い去ってしまうのだ。彼らは真顔でそういう態度が正しいと思い込み、上から目線で子供を説教し、断罪しているのである。

子供は、そういう親のメッセージを聞いて、「おまえには無理だよ」と否定された言葉だけを記憶する。自分の願いが親には受け入れられておらず、後押しされてもいないという悲しみと、親から逃れたくても逃れられない焦燥感と、部屋の片づけが十分でないということで、またもや責められたという罪悪感だけが残る。

こうして、子供は、自立して家を出ようとする度に、「今のおまえにはそんなのは無理だ。そんなことを考えるくらいならまず・・・・」というお説教(ディスカウント)を延々と聞かされ続けなければならない。

子供がこういう機能不全家庭から脱出するためには、親が植えつけて来る罪悪感、無力感と戦ってきっぱり訣別しなければならない。

たとえば、「部屋の片づけができていないから自立なんてできるはずがない」というロジックには、

「私はもっといい家に住んで、気に入った部屋を確保してから、片づける。こんな貧乏な家では、片づけする気にもならないのは当たり前。部屋の片づけをちゃんとやるためにも、私はこの家を出るんだ」とでも何とでも、適当な理屈をつけて、撃退すれば良いだけなのだ。

以下の記事で触れたホームレス伝道もそうなのであるが、キリスト教界は、何かのトラブルを抱えて困っている人々が、そのトラブルをきっかけに、助けを求めて教会にやって来たことを機に、その人の精神的な弱点を握り、これを質に取って、あたかも困っている人を助けてやっているように見せかけながら、その教会から半永久的に「自立」できないようにさせてしまう恐ろしい組織である。

人々に罪悪感、無力感を植えつけることで、その教会の支えがなければ、決して自分だけでは生きていけないかのように思い込ませるのである。

そのために利用されるのが、「信仰の証」と称する懺悔の儀式である。

「証(あかし)」と称して、信者は、過去に犯した罪を、何度も、何度も、繰り返し、人前で「自白」させられ、そうして自分で自分を卑しめ、蔑み、負のイメージを抱え、挫折感や、劣等感をずっと持ち続けることを強要される。罪赦されるために教会に来たはずなのに、これではちっとも過去と訣別できない。

そうして自分を蔑み、貶めることと引き換えに、人々は教会を持ち上げることを要求される。あんなにも恐ろしい罪人だった自分が、今こうしてあるのは牧師のおかげだ、指導者のおかげだ、信徒のおかげだ、教会のおかげだ、と感謝を強要される。

そういうことをずっと繰り返していると、その信者は、本当に、自分は一人では何もできない、どうしようもなく無力で愚かな罪人なのだと思い込むようになる。そして、誰から要求されなくとも、牧師や信徒のもとを離れると、悪魔の虜にされるだけだと考え、自分からその場所にとどまるようになる。

学習性無気力である。もう教会から離脱する気力はその信者にはない。

要するに、部屋の片づけが出来ないことを親に責められ続け、自立の気力を奪われている子供と同じである。

筆者は、あらゆる組織は人間のためにあるのであって、人間が組織のためにあるのではないと信じている。教会や職場なども、これと同じである。合わなくなったら、出れば良いだけの話だ。

自分が成長して、今まで着ていた服のサイズが合わなくなったら、さっさとそれを脱ぎすてて新しい服を着れば良いだけである。愛着のある古い服をごみ箱に捨てることは、確かにちょっとためらわれるかも知れないが、だからと言って、サイズが合わない服をいつまでも着続けて、何の良いことがあろう。

ところが、人間社会では、多くの人々がこれとは反対の考え方をしており、人間のために組織があるのではなく、組織のために人間があると思い込んでいる。そこで、人々は、自分が成長して、服がきつくなっても、とりかえようともせず、血まみれになりながら、その服を着て出勤しているような有様である。

筆者から見れば、こんなのはあまりに馬鹿げたことである。

自分が成長したという事実は、本当はとてもめでたい話のはずなのに、人々は成長したという事実をひた隠しにしながら、何事もなかったかのように古いユニフォームを着続ける。

古い革袋を持ち続けたまま、教会に出席したり、職場に出勤したりしているのだ。

もしその人がすでに成長して古い服がもう合わなくなっていることが周囲にバレたら、早速、人々からお説教が始まる。

「あんた、もしかして転職を考えてるんじゃないでしょうね」
「きみ、まさかここを出て別の教会に行くつもりじゃないだろうね」
「どれだけそんな風にいい加減な放浪を続けたら気がすむんだ」

「あんたが自分の考えを持つなんて百年早いんだよ」
「ここでうまくやれない人が、次でうまくやれるはずがない」
 「不平不満を並べる前に、まず自分の欠点をちゃんと直したら」
「自己過信して、独りよがりな生き方をするようになったら、正しい信仰から逸れて行くだけだよ。私たちには霊的な指導者が必要なんだ」

等々。早速、ディスカウントによる引き留め&囲い込み作戦が始まる。

それはまこしやかに助言や忠告の形を取って発せられる言葉の数々だが、要は、親切を装いながら、霊的に中間搾取できる奴隷を逃がしたくないがために言われていることだ。

こうして、キリスト教界も、ブラック企業も同様に、一旦、人を中に取り込んだら、弱みにつけこんで、容易には二度と外へ逃がさない閉鎖的な場所になっているのである。

逃げ出すことが不可能になるように、常日頃から人の自尊心を打ち砕き、罪悪感や劣等感、無力感を植えつけるための数々の儀式や説教を行うのである。自分一人でものを考える暇を与えず、常に偉い人たちの忠告に従い、自分の心の本当の願いを否定するよう教えられる。

少しでも自立しようとのそぶりを見せると、周りにいるエージェントたちがワッと押し寄せ、たくさんのお説教で圧力を加え、逃がさないように袋叩きにして閉じ込める。

DVが蔓延する機能不全の家のようなものである。

カルト被害者救済活動など、その最たるものである。

この活動を主導しているリーダーたちは、この活動の虚偽性を見抜いて、そこから逃げようとしている筆者を、まるでDV夫のように執拗に追いかけては、バッシングを加え、「おまえごときにこの俺様から逃げる力なんてあるはずがない! このクズめが!」と叫んでいる。

そこで、まるで三流ドラマのようだが、カルト被害者救済活動を「DV夫」にたとえ、「妻」の立場からもの申すとすれば、こんな風な会話になるのではないだろうか。

「ちょっと、あんたねえ、私をクズ呼ばわりする前に、あんたは私に今まで何をしてくれたのか言いなさいよ。見なさい、あんたが用意した、このひどいボロ家! 私以外の人たちはみんなとうにこんな家、見捨てて出てったわよ。

それをさ、あんたは私が不満だって言ってるのに、私を脅しつけてこの家に監禁したんだよね。あんたは未だに自分が家長だから、俺様に従えって威張り散らして私に命令して、私に従順が足りない、頭が高い、仕事が足りないとかってケチつけてるけど、こんな貧相なあばら屋しか私のために用意できなかった甲斐性のないあんたに、誰が本気で着いて行って奉仕なんかすると思ってるの? 鏡を見てからものを言いなさいよね。今さら、そんなあんたが、私に何を要求しようっていうの?

あんたがもし自分の口で言ってるほど偉い人間なら、一時でも、あんたのもとに身を寄せた私は、今はもう女王様みたいなご身分になってておかしくないはずだよね? 食事も自分で作らず、家の掃除もせず、お手伝いさんが何人もいて、かしづいてくれて、あんたにこんなに偉そうに上から目線で命令なんかされてないはずだよね? 

あんた、自分に甲斐性がなくて、自分の周りの人間を誰も幸せにしてあげられなかったからって、なんで自分を責めずに、全部を私のせいにするわけ?

私にガミガミ要求する前に、まずあんたが私にどんな良いことを今までしてしてくれたのか、それを列挙してみなさいよね? 私を幸福にするために、あんたがどんな具体的な手助けをしてくれたのか、言いなさいよね。私、何一つとしてあんたが私のためにしてくれたことについて、記憶がないんだけど。何か一つでも自信を持って言えることがあんたにあるの?

私の稼ぎが少ないから、私はクズだって、あんたはあざ笑ってるけど、それじゃあ、あんたは一体、いくら稼いでいるのか、白状しなさいよね。私に友達が少ないとか、社会から認められていないとか言って、人を蔑んだり、あざ笑ったりする前に、あんたには今一体、何人の友達がいて、どれだけ社会に奉仕して、どのくらい認められてるのか、そもそも給料はいくらなのか、それをまず言いなさいよ!

そしたら、多分、あんたよりもっと偉い人たちがぞろぞろ出て来て、あんたが威張ってるのには根拠なんてないってすぐに分かると思うよ。

どうせあんたが見栄で設立した会社だって、今は幽霊会社になってるんでしょ。自分の事業も成功させられなくて、毎日、毎日、宮仕えに出ないと生きていけない、しがないサラリーマンのくせに、それがまっとうな職業だってほんとに思ってるわけ? そんなのただの囚人じゃない・・・。

私はね、このどうしようもないボロ屋と暴力と暴言と貧しい食事しか用意できないくせに、毎日、毎日、自己反省もなく、弱い私を一方的に責め続けるだけの卑怯なあんたとさっさと別れて、天の特権階級として生きることに決めたのよ。

天の特権階級になれば、職歴なんて要らないの。「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって」て書いてあるでしょ。宮仕えとかも必要ないの。だって、私たちが宮であって、神が共に住んで下さって、どこにも仕える必要なんかないんだから。その宮は、大きな都で、そこでは太陽が沈むことなく、ずっと明るく照らされてるの。

そこには、貧しさも、悲しみも、悲鳴も、涙も、叫びもないの。何てらくちんかつ幸せな生き方! そういう生き方を私にさせてあげるって言う人が、今、私を迎えに来て、扉の外に立って、戸を叩いてるの。だから、私、あんたと暮らすのはもうやめることにしたわ。ここであんたに虐げられ、暴力振るわれてるより、そっちのがどう見ても、絶対、幸せじゃん。

多分さ、今、ここで私があんたの部屋の押入れを開ければ、あんたが今まで殺して来た妻たちの白骨死体が見つかると思うんだよね。あんたってさ、私には隠してたけど、多分、初婚じゃないよね。その上、愛人とかもいっぱいいるよね。今までもずっと私に隠しながら、私にしているようなことを、他の弱い女たちにもして来たはずだよね。

言いなさいよ、私の前に何人妻を殺したの? 何人の可哀想な人たちを、弱みにつけこんでこの家に引き入れては精神的にいたぶって殺したの?

押入れを開ければ、真実が見えるよね。でもさ、私は、そういうグロテスクなものは見たくないんだ。だから、あんたはどこからどう見ても怪しすぎるってことで、さっさと110番しといたわ。あんたは私の頭がイカれてるって言ってごまかそうとするんだろうけど、あんたが私につけたこの生傷を見せてあげれば、どこの誰だって、どんなにあんたが自己弁明しても、私の言っていることが嘘じゃないって、分かるはずだと思うよ。

「宮詣でする前に兄弟から反感を持たれていることが分かったなら、捧げものを置いて、早く和解しなさい」って書いてあるのに、あんた、自分が殺した妻たちの悲鳴に耳を塞いで、彼女たちと和解もしないで宮詣でを優先するっていうんだから、心底、呪われた生き方だよね。あんたって、ほんとに、うわべだけの見かけ倒しの中身のない男だよね。でも、そんなにまでして懸命に宮詣でしても、それって全部、カインの捧げものになって罪に定められるだけだよ。

「罪人の富は義人のために蓄えられる」って書いてあるの、忘れたの?

ところで、あんたの祈りってさ、ほんとうわべだけで、「主よ、私はこの取税人のようでないことを感謝します」って、あのパリサイ人と一緒じゃん。

私と一緒に教会に行ってもさ、あんたって、どうせ心の中では、「主よ、私はこんなクズ女とは別人であることを感謝します」とかって祈ってるんでしょ。

そんな男、行く先はもう見えてるよね。憐れむ価値もない。せいぜい外の暗闇に閉じ込められて歯ぎしりしながら、自分のして来たことを振り返るがいいわ。

そういや、あんたの両親って、私、今まで一度も会ったことなかったけど、父は悪魔で、母は大淫婦バビロンなんでしょ。大した家系でないどころか、誰よりもひどい生まれのくせに、よくも今まで偉そうに上からものが言えたわけだよね…。

あんたなんて、私とはあまりにも不釣り合いで、あんたなんかに、私がもったいない。よくもこれまで一瞬たりともあんたに我慢できたものだわ。よくよく私も幼かったのね。でも、もう分かったのよ、あんたの言うことなんて、隅から隅まで嘘だって。脅しても無駄。あんたのマインドコントロールはもう二度と、効かないよ!」

これ以上、何も言う必要はないと思う。

「カルト被害者救済活動」が「元被害者」をいついつまでも学習性無気力状態に追いやるために絶えず投げかける呪いと罪定めとディスカウント、これが要するにキリスト教界の言い分の総括であり、集大成なのだと筆者は思う。

こんな「家」にいつまでもとどまっている筋合いは誰にもない。

これは「家」ではない。牢獄だ。

出ることを考える前に、さっさと部屋の片づけをしろ?

独房の片づけは、囚人の仕事ではない。普段から人を囚人として監禁した上に、監禁した独房の清掃まで要求するとは、どこまで厚かましいのだろうか。しかも、筆者は囚人ではなく、自由の身だ。もとよりこんなところに監禁されている理由はないため、さっさとお暇します。

でも、本当の「家」が用意された暁には、部屋の片づけなんてことも、考えてあげてもいいかも知れない。ただし、覚えておいた方がいい、独房の清掃は、「部屋の片づけ」とは呼ばないんだ。こんな業界からは、本当にエクソダスあるのみだ。

十字架の死と復活の原則―小羊の血と証の言葉により、サタンの要塞を打ち壊す―

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:4-6)

この御言葉が心に迫って来る。これは、私たちの述べる証の言葉が、敵の要塞を打ち砕く力を持っていることの力強い証明である。

兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまでも命を惜しまなかった。
このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。
地と海とは不幸である。
悪魔は怒りに燃えて、
お前たちのところへ降って行った。
残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示12:11-12)

これから激しい戦いが起きようとしている。

それは、キリスト者が証しの言葉を守り抜くための決戦である。
天の大掃除と言っても良いかも知れない。

このブログに対する暗闇の勢力からの激しい攻撃があることは、周知の通りである。何しろ、その戦いが始まって以来、もはや8年間にもなろうとしているのだ。

神によらない、人間による救済を唱える人々が、このブログを敵視し、根絶しなければ気が済まないというほどの執念を持って追いかけ、逐一因縁をつけ、著者である筆者に対しても、もはや筆者の人生そのものを潰そうと考えているとしか思えない、まさに呪いと言って差し支えない敵意と執念を燃やしている。

考えてみると、彼らが投げつけて来る言葉の一つ一つは、まさに「呪い」としか言いようのないレベルに達している。

だが、筆者が思わず可笑しいと思ってしまうのは、筆者のブログは、最盛期でさえ、一日に50人ほどが読んでいただけの小規模なものであったことである。いや、もっと多くても、100人を超えたことはなかった。さらに筆者自身も、有名な政治家でもなければ、大学教授でもない。牧師でもなければ、指導者でもない。

一体、人生をかけて執念を燃やし、追い続けるほどの価値がどこにあるのだろうかと、思わず首をかしげ、苦笑してしまう。

ところが、暗闇の勢力にとっては実際にそれだけの価値があるのだ。だからこそ、これほど激しく筆者の証しを地上から取り去ろうとしている。この戦いは、人間的な血肉のレベルのものではない、とはっきり分かる。

そこで、筆者は「ほえたけるしし」を捕獲する作戦に出ねばならないと思う。
しかも、ゴリアテに立ち向かったダビデのように、石つぶてだけを持って。

筆者は気楽な性格なので、暗闇の勢力を捕獲するための条件が完全に揃ったことを今まで知らなかった。前々から色んな下調べをしていたのだが、パズルの最後のピースがぴったりはまる時をずっと待っていたのだ。

今は詳細を記すことはしない。どうせまた大言壮語していると思わせておけば良いのだ。肉を切らせて骨を断つ、とでも言うべきか? 

筆者がとても残念に思うのは、キリスト教界の中から今まで誰一人として、この「ほえたけるしし」に敢然と立ち向かう者が出なかったことだ。そればかりか、筆者の知っている立派な年配者のクリスチャンたちは、自分だけは決して厄介な問題に巻き込まれまいと、そそくさとブログをやめたり、非公開にしたり、信仰告白を開かれた場所に発表し続けることをやめて、逃げ去って行ってしまった。

彼らにはきっと、このような激しい妨害に敢然と立ち向かって、神に対する証を立派に守り抜くことは、多分、初めからどうでも良いことだったのだと言わざるを得ない。殉教したクリスチャンの事を涙ながらに語りながら、誰一人として、汚し言を言う口に毅然と立ち向かって口を封じ、神の真理を公然と世に輝かせることをしなかったのだ。

だからこそ、筆者のような人間が、キーパーソンになってしまっているのである。他に立ち向かう者がいないからだ。

だが、証の言葉は、様々な圧迫に屈せず、それに立ち向かって発表し続けていればこそ、価値がある。なぜなら、代価を払って神に従わなければ、その従順には価値がないからだ。

筆者がこれまで払い続けて来た代価については、神ご自身が知っておられる。筆者は人間的な利益や地上的な名誉を捨てても、神に従うことを選んだのであり、これから生きている限り、もそうし続ける。

ブログは、ただそのことの表明なのである。

ある時、筆者のブログを読んで、クリスチャンを名乗っていた人が言った。「あなたの文才は、何か困っている人たちの権利の主張のために用いられるかも知れないわね。たとえば、弁護士を頼めない人たちのために、代理で文書を書くとかね・・・」

それは慈善事業の好きなクリスチャンであった。いつも困った人たちを見つけ出して来ては、かいがいしく世話にいそしんでいる、同情好きな人であった。クリスチャンの中にはそういう人たちがたくさんいる。ホームレス伝道、その他、その他、常に彼らはどこからか自分よりも「困った人たち」を見つけ出して来ては熱心に世話を焼く。社会的弱者への彼らの関心は尽きない。

だが、彼女のその言葉を聞いて、筆者は、何かが違うと強烈に心に違和感を覚えたのを思い出す。そして、今になってもやはり、筆者がブログを書いているのは、そのような目的のためではないと思わずにいられないのだ。

むしろ、筆者が当ブログで何度も訴えて来たのは、彼女の言葉とは正反対のことばかりであった。常に自分よりも弱く、困っていそうな人たちばかりを周りに集めては、しきりに人助けに邁進し、人を教えたがるような人間(信者でなくてもだが)は、誰よりも信用ならない、油断できない偽善者である、ということである。

一見、そういう人々は、とても心優しく、思いやり深く、親切そうな人に見えるかも知れない。だが、神の福音と慈善事業は違うのだ。物質的支援を最優先するこの世の人たちでも十分に可能な人助けと、神の目に見えない御言葉を第一優先とする信仰生活は全く異なる。

キリスト教の中に慈善事業が押し寄せて入り込んで来た結果、クリスチャンの主要な活動は、神の福音伝道ではなくなり、かえって物質的支援に福音を添え物とするような内容に堕落して行って行った。

思い出すが、筆者はかつてある時、教会関係者らによって、横浜のホームレスの街、寿町界隈にある教会に、ホームレス伝道の見学に連れられて行ったことがある。今となっては、名も覚えていない教会であるが、関係者には知られていたようだ。

筆者は、当時、教会指導者たちの仲間の一人として、彼らの客のようにして現場に連れられて行き、初めてホームレス伝道の様子を観察したのであった。

時間になると、公園に舞台が用意され、そこで讃美歌が謳われ、説教が始まる。
数多くのホームレスたちは、いつ教会関係者がやって来て、給食が受けられるかを事前に知っており、どこからともなくぞろぞろ集まって来る。

筆者は、ベンチもない公園のコンクリートの床に、座ったり、立ったまま、讃美歌を聞いているホームレスたちの中に混じって、現場に佇んでいた。

やがて説教が終わり、給食が始まった。ホームレスたちは一人一人列に並び、コンビニの弁当を少しばかり小さくしたような軽食を受け取って自分の場所へ戻って来る。

筆者はその時、ふと自分が空腹であることに気づいた。すると、どういうわけか、ホームレスの一人が、まるで筆者の空腹を察知したかのように、筆者に向かって自分の弁当を差し出したのである。ニコニコ笑って、筆者に自分の弁当をくれると言う。
 
あなたは要らないのか、と筆者が尋ねると、筆者はお客さんだから、もてなしてやりたいのだと言う。構わず食べてくれと勧める。

ホームレスの中にはこういう人たちがいるのだ。もしかしたら、彼はすでにクリスチャンだったのかも知れないが、自分が給食を受け取りに来ているにも関わらず、自分がもらったものに全く無欲かつ無頓着なのである。所有物だとかいう意識はなく、自分がもらったものの価値も分からず、親切心から、それを簡単に人にやってしまったりすることがあるのだ。

ところが、筆者の所有意識のなさは、彼らを上回っていた。筆者は、その時、年配のホームレスが筆者に見せてくれた「親切」や「もてなし」が、単純に嬉しかったので、その給食を受け取ったのである。

すると、その時、教会関係者らは、どんなに奇異の眼差しで筆者を見つめていたことだろう。

彼らは、心の中で、何ということだ、この人は一体何をしにここへやって来たんだろうか、とでも思っていたに違いない様子で、筆者を奇異の眼差しでで振り返っていた。
 
その時の教会関係者らの、鳩が豆鉄砲を食らったとでも言うのか、何とも表現しがたい眼差しを覚えている。

今から思えば、筆者は暗黙のうちに、何かのタブーを踏み越えてしまったに違いなかった。筆者の行動は、「もてなす側」と「もてなされる側」、「救う側」と「救われる側」、「施す側」と「施される側」との関係性を逆転するものだったのだ。
 
筆者は教会関係者と一緒に、伝道の有様を見学するためにやって来たのだから、筆者はあくまで「施す側」に立っているはずであった。筆者の空腹を満たすことなどは、もとより見学の目的ではない。それなのに、教会関係者が、突如、ホームレスに「もてなされ」、「施される側」に回ってしまったのだ…。
 
筆者は、ただホームレスの「親切」を喜んで受けただけだったのだが、そのようにして差し出された弁当を一口食べた途端、瞬時にすべてを理解した。

そこでホームレスの置かれている状況が、どんなものであるか、ホームレス伝道とは何であるか、その実態が、筆者に突如、鮮明に理解できたのである。

それは、筆者が自分自身も、ホームレスの一人のようになって、彼らと同じ目線で、彼らと同じ立場で、その給食を受け取って食べなければ、決して分からなかったであろう感覚であった。

一言で言えば、その給食を口にした途端、ものすごい侘しさと惨めさが体を吹き抜けて行ったのである。

椅子もテーブルもない公園で、知り合いも友達もおらず、当然、家族などの語り合える身内も誰一人いない中、まるでエサを求めて集まって来る鳩のように、ホームレスばかりの群れの中で、コンクリートの床に、立ったまま、もしくは、座って、慌ただしく弁当を食べる。

しかも、短い伝道集会が終わらないうちに、早く食べ終えなければならない。

こうして、ただ食べ物にありつくためだけに、お約束事のように、時間になると、ぞろぞろと公園にやって来ては、囚人のように配給の列に並び、上からのありがたい親切としての給食を受け取る。当然、その食事と引き換えに、牧師のありがたい説教にも耳を傾け、讃美歌も歌わねばならない。すべてはお約束事だ。

そういう事柄を、この人たちは、食べ物をもらっているのだから当然だと思って、受け入れているのかも知れない。多分、全く疑問を持たないのだろう。

だが、筆者の心には、何ということだという思いがこみ上げて来た。こうして、食べ物とワンセットになった福音、自由意志によって、人が自ら探求するのではなく、人々の弱さを利用して、有無を言わさず、上から与えられ、受け取らざるを得ないように用意された福音に、やるせなさとむなしさが込み上げ、さらに、何とも言えない寂しさと侘しさしが感じられない食事に、失望がこみあげて来た。

もしこれを「伝道」だ「支援」だと本当に思っているならば、そんなものは、クリスチャンの側からの自己満足でしかないだろう。
 
だが、筆者は、客として案内してもらっている立場なので、そのような思いを表に出すわけにも行かず、違和感を心の中にしまい込んだ。

それから次に、教会に連れて行かれ、そこで回心した元ホームレスの「証(あかし)」を聞かされた。

筆者はそれを聞いていると、ますます耐えられない思いになって、逃げ出すように部屋をそっと何度も抜け出た。なぜかと言えば、それは到底、元ホームレス自身が、自らの言葉で語っているとは、思えないような不自然に出来すぎた「あかし」だったからだ。

もっとはっきり言ってしまえば、その証は、「ホームレス伝道の稀有な成功事例」を来賓にアピールすることを目的として用意されたことが、あまりにも明白だったのである。

ホームレスになるような人々には、概して、それほど高い教養を受けた人々はいない。何事であれ、自分自身の言葉で、立て板に水のように、流暢かつ論理的に話すことのできる人は少なく、まして、幼い頃からの信者でもないのに、信仰の証など簡単に語れるはずがない。なのに、その回心した元ホームレスは、型通りの「立派な証」を語っている。

筆者には、それがすべて予め準備された「舞台」のようなものだと分かってしまった。しかも、その内容は、よく聞いてみれば、回心する前、いかに彼が罪深く、堕落した人間であったか、いかに地獄へ堕ちて当然の人間が、教会によって助けられたことが、ありがたい奇跡であったか、いかに今後は心を入れ替えて、真人間になって、伝道に邁進するか…などと言った、まさに定番と言って良い内容で、要するに、過去の自分自身を貶めることで自分を助けてくれた教会を持ち上げ、教会に感謝し、牧師に感謝し、人間に栄光を帰しながら、これからはクリスチャンとして、牧師の望むような人生を「まっとうに」生きて行くと述べた回心の証であった。

しかも、元ホームレスということで、その証には、過去の罪に対する反省が、通常のクリスチャンよりも、とりわけ熱心にちりばめられていた。だが、筆者には、そのような証は、彼が自分で考え出したとは到底、思えず、ただ牧師から教えられたことを、そのまま受け売りして、それが正しいと信じ込んで語っているのだとしか思えなかったのである。おそらく、疑うことさえできずに…。
 
筆者には、元ホームレスが、教会と出会う前の自分の人生が、どんなに悪く、悲惨で、滅びに向かっているだけの、目も当てられないものであったか、ということを、繰り返し語るのを聞きながら、「もうやめて下さい、これ以上、謝らないで下さい!」と言いたい思いに駆られた。

「あなたの罪はすでに赦されたんじゃありませんか。神は『緋のように赤くても、雪のように白くなる』とおっしゃっているじゃありませんか。福音とはそういうものですよ。あなたの罪は赦されたんですから、もうそんな風に、過去のことを何度も何度も思い出しては、人前に自分を責め、貶めながら、懺悔し反省し続けることは、あなたには必要ないんです!」

思わずそう言いたくなったが、ぐっとこらえた。だが、その証を聞いていることは、まるで捏造された裁判で、無理矢理自白を強要させられ、懺悔を迫られた囚人の証言を見せつけられているようで、耐えがたい思いになるだけだったので、筆者は黙ってその部屋を抜け出した。

指導者たちは、まるで模範的な「回心事例」だとでも言うかのように、満足そうに頷きながら、その証を聞いている。拒否反応を覚えた者は誰もいないらしかった。

筆者はその部屋をそっと抜け出して、元ホームレスのクリスチャンたちが共同生活を送っているという部屋に行こうとして、廊下に出た。公園にいた時のように、ざっくばらんに、率直に語り合ってみようかと思ったのだ。

だが、筆者が廊下から扉のノブに手をかけた瞬間、ガチャリと音がして、中から鍵が閉められた。何一つ予告の言葉もなしに、筆者が扉の外までやって来たことを察知した途端、中から鍵が閉められたのである。むろん、鍵をかけたのは、元ホームレスの信徒ではなく、教会関係者の誰かであった。
 
まるで共産国を旅していて、自由に写真を撮ろうとして、警官に呼び止められた旅行者のような気分であった。その時、筆者は、ああ、ここは筆者には立ち入ってはいけない場所だったのだな、と分かったが、それと同時に、筆者がこれまで見せられたすべての風景は、来賓のために用意された「見せ物」だったことが分かった。
 
筆者は、それまで見て来たものが完全に「舞台」であることを理解したのだった。

もちろん、寿町が近ければ、色々と物騒な事件も起きる。ヤクザの抗争などもあれば、死体が見つかったりもするという。だから、そういうところにある教会が、初めてやって来た人にすべてを見せるというわけにはいかないのは当然ながら理解できる。

だが、その時、筆者が感じた違和感は、そういう種類のものではなかったのである。

その伝道現場を後にする頃には、筆者は「作られた結構づくめの人工的な雰囲気」に調子を合わせることに、すっかり疲れ、参ってしまっていた。

どんなに美しい風景であっても、それが不自然で人工的な統制のもとに、人の自由を奪い取って成り立ったものだと分かれば、げんなりしてしまう。

筆者は、帰りがけに、そこに連れて行ってくれた教会指導者に向かい、「こんな伝道は伝道ではないと思います」と率直に感想を述べた。今となっては明確に再現できないが、多分、次のような内容を伝えたものと思う。

「これでは、伝道というより、ただ彼らの無知と弱さを利用して、自分たちの思い通りの型にはめて、それでこの人々は回心した、再教育が成功した、と思い込んでいるだけです。全然、彼ら一人一人の人格を取り戻したり、自由に生きさせるどころか、まるでみんなコピーみたいに、教会の付属物にしてしまっているだけじゃありませんか。

食事だって、あんな侘しい食事では、人としての尊厳を取り戻したことにはならないでしょう。なのに、こんな食事で、彼らを助けてやっているとか、必要なものを与えてあげていると思っているなんて、驕りもいいところです。それはまだ許せるとしても、それと引き換えに福音を押しつけるなんて…。

これじゃあ、地上の食事を餌にして、彼らをおびき寄せ、福音の名のもとに、かえって彼らを束縛し、自由から遠ざけながら、パンと引き換えに、自分の信念を押しつけているだけではないでしょうか。人の弱みにつけ込んで説教を聞かせていることにしかならないでしょう? しかも、あの人たちには、教えられた内容を自分で疑ってみる力もなく、吟味することもできないのだとしたら、人の弱さと引き換えに、そういう形で福音を受け入れさせるのは、フェアじゃないと思います…」
 
筆者はこうして「ホームレス伝道」なるものは、自分には決して賛成できない、という感想を述べた。ホームレス伝道への案内をしてもらうことは、筆者のリクエストで始まったことではなかったので、義理立てせずに、感想を言うことくらいのことはできた。

だが、その指導者は、筆者が何を言っているのか、全く分からないらしかった。怪訝そうな顔をして肩をすくめ、一体、あの素晴らしい伝道の何がそんなにまでいけなく、不満なのか、彼らは至極善良なことをしているだけなのに…、という面持ちで、筆者を見るだけであった。今から考えれば、当然なのだ、この人も指導者だったのだから。この人の会衆はホームレスではなかったにせよ、この人も、結局は、講壇に立って、自分も会衆に全く同じことをしているのだ。どうしてそのような伝道のあり方を自ら疑うことができようか。

話を最初に戻そう。他者の考えはともかく、筆者は、以上のような弱者救済事業が、教会の主要な活動であるとは、今になっても全く考えていない。さらに、筆者自身も、自分の言葉を、決して貧しい人たちへの物質的支援を生み出すための道具とするつもりもない。
 
世間には、未だに筆者がこのブログを「人の歓心を買うため」、「人に受け入れられるため」、「人間に奉仕するため」に書いていると誤解している人がいるようだが、事実は全くそうではないのだ。「人助け」という美名の下、生まれながらの人間の利益に奉仕することを目的としてこのブログを書くつもりは筆者にはなく、人との関わりを目的として書いているわけでも全くない。

筆者がブログを書く理由は、人の心を掴むためではなく、神の歓心を得るためであり、人間の利益のためでなく、神の利益のためであり、教会と呼ばれている人間の作った地上の集団を賛美するためではなく、ただ神を見上げ、自ら信仰に立って生きるためなのだ。

クリスチャンは他者などを助けている場合ではない、と筆者は思う。自分が他者を助けられると思うこと自体が、一種の思い上がりであり、高慢であると言って良い。他人の人生に干渉するよりも前に、まずは自分自身がしっかり御言葉に立ち、神をしっかり見上げて、失格者になることなく歩むことに専念した方が良い。

さらに、筆者がこのブログを書くのは、血肉によらない、霊的な戦いのためである。この戦いの中で、自分の立ち位置をはっきりさせるためである。

天と地の前で、筆者が一体、誰の権益を守るためにここに立っているのかを、はっきりさせるために書いているのである。

筆者が守ろうとしている権益とは、地上の滅びゆく生まれながらの人間の権益ではないのだ。
 
ある人々には、こうした事柄が全く理解できない。彼らには、貧しい人たちが物質的な利益を得るのを支援するために文章を書くことならば、いくらでも理解できるし、賞賛もできようが、血肉によらない霊的な戦いで勝利を得るために、神と悪魔の前で、キリスト者が霊的な主張文を書くことの意味が、全く分からないのだ。

こうした過程で、筆者は、ますます生まれながらの人間のサイドを離れなければならないと思うようになった。

この度、筆者は二つの主張を提起するつもりでいるが、多分、それは生まれながらの人間にとっては、今まで以上に厳しい、聞きたくもない内容となろう。そして、それを機に、筆者は、すべての地上の人間に対する未練や執着を断ち切り、旧創造への一切の憐れみとしらがみを断ち切り、今までよりもさらに一層、地上の人間の仲間としてではなく、ただキリストによって上から生まれた人間として、新しい人間として、生まれながらの人間のそばから離れて生きるだろうと思う。
 
筆者はこうして、人間でありながら、人間自身の利益を守るためではなく、神の利益を守るために、御国の権益の側に立つのである。それは、かつて旧約聖書において、レビ人が、神を裏切った兄弟たちを剣にかけて殺してでも、ただ神の側だけに立ったがゆえに、祭司にふさわしい種族として認められたのと同じである。

クリスチャンとは、世から贖い出された者、世から聖別され、神のために召し出された者、神を満足させるために、生まれながらの人間の中から、贖い出され、取り分けられた者である。世から分離され、神に聖別されたという特徴を失っては、もはや神の民とは呼べない。

そこで、筆者は、人間の利益を守ること、人間の感情に寄り添うこと、人間の歓心や理解を得ることを第一として生きるつもりは今もこれからもなく、それよりも、聖書の神が何を第一に求めておられ、神が何を人間に要求しておられるかの方を、はるかに優先事項として生きる。

そうして信仰によって歩む過程で、生まれながらの人間が、筆者から離反し、むしろ、敵対する側に回って行ったとしても、それは当然のことであり、皇帝ネロの時代にクリスチャンたちが迫害を受けたのも、まさにそういう理由からなのである。

肉に従って歩んでいる者は、霊の事柄をわきまえることはできず、霊の事柄に激しく敵対する。そういう中で、我々は、生まれながらの人類の側に立つのか、それとも、これと分離して、神の側に立ち、神によって生まれた新しい人類の側に立つのか、その選択を迫られているのである。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方とすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる
と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

これまで筆者は生まれながらの「人類」に対する必要のない憐れみを持ちすぎたのだと思っている。それは筆者の人間的な感情であり、地上の出自から来る、習慣的な思いであった。

だが、その「旧創造への憐れみ」を、今、ここで、レビ人の剣にかけて絶ち滅ぼし、かつて自分の兄弟姉妹と思われたものでも、神の御心にかなわないならば、それにきっぱりと背を向けよう。

筆者の「兄弟姉妹」とは、神の御心を行い、神の御言葉に従って生きる人々のことであり、それ以外の人々を指すのではない。それ以外の人々は、肉にある親族であれ、あるいはこの世の友人・知人であれ、あるいはクリスチャンを名乗っている人々であっても、「兄弟姉妹」ではないのだ。従って、その人々に筆者が義理立てしなければならない一切の理由はない。

もし家族でないのに、まるで家族の一員のような顔をして家に乗り込み、俺の言うことを聞けと命令して来る人間がいたとすれば、それは強盗や、詐欺師や、殺人者だけである。

なぜ、クリスチャンが、そのような者の顔色を伺い、彼らの命令に従い、彼らが自分の家の居間やリビングを泥靴で荒らしまわっても、ただ優しく「やめて下さいませんか」と懇願するだけで、この人々が一向に出て行かないのを見ながら、彼らが捕えられてしかるべき場所へ連行されるために必要な措置を何も講じないのか。

そのようなものは「愛」とも「憐れみ」とも呼べない。「愛」や「憐れみ」は神の家族に対して向けられるべきであって、このような狼藉者に対して向けられるべきものではない。

にも関わらず、キリスト教界はあまりにも深くこの世と結びついて、世の歓心を買うことを第一にしてしまったので、こうした者たちが単なる狼藉者であって、教会の一員ではなく、そもそも教会について論じる資格などなく、まして教会に手を触れる資格などなく、彼らはただ人里に降りて餌を探し回る獣のように、クリスチャンを獲物として教会を荒らしまわっているだけで、野獣のように捕獲されてふさわしい扱いを受けるのが当然であることをすら、公然と主張することができなくなってしまっているのだ。

このような有様だから、筆者以外には、誰も動こうとする者もないであろう。

それでも構わない。むしろ、それだからこそ、この仕事に意味があるのだと言える。筆者は霊の剣である御言葉を取り、神の聖なる神殿を守るために毅然と立ち上がり、そして、主イエスが商売人たちを憤りを持って宮から駆逐されたように、神の宮を泥靴で荒らしまわる狼藉者を排除し、駆逐する。

そうして、聖なるものと、俗なるものとの区別を明白にし、何が神の宮であるか、その境界をはっきりさせて、自分が神に選ばれ、神の目に義と認められた「信仰による義人」であることをはっきりさせる。神が義とされた以上、筆者を罪定めできる人間は誰もおらず、罵ることができる人間もいない。御国の秩序がこの世の秩序に優ることが公然と世に示されねばならない。
 
筆者は、神が義とされた以外のものを決して宮の中に持ち込むことはしない。

このことが、神の御心にかなうことだと確信するがゆえに、筆者はそうするのである。神は教会の聖を愛しておられ、ご自分の聖なる性質が教会の中に保たれることを何より願っておられるはずだと思わずにいられない。
 
そのために筆者は誰とも提携せず、この作業を神と筆者との二人三脚で行う。エリヤが450人のバアルの預言者の前に立ったとき、見た目には、誰一人として、エリヤに神がついておられると思う者はなかったであろう。450人のバアルの預言者に真理があるように見えていたに違いない。奴隷になったサムソンが神殿に手をかけた時、人々はサムソンは疲れているだけであると考え、彼のやろうとしていることがたとえ分かったとしても、世迷いごとだとしか思わなかっただろう。

だが、悪魔がこれほど激しくクリスチャンを糾弾するのは、実際には、クリスチャンこそ、悪魔を神に訴える資格を持っているからなのである。そして、我々の訴えは永遠性を持つほどに強力である。世はクリスチャンのさばきの下にすでに罪に定められている。我々は御名によって手にしている絶大な権限をきちんと行使すべきである。

前々から述べているように、もしも「兄弟姉妹」に対して接する場合ならば、それは教会の事柄として扱うのが当然であるから、この世に持ち出すべきではないだろう。だが、「兄弟姉妹」でない人々にまで、教会の方法を通して近づく必要はない。彼らに適用されるのは、この世の諸手続きだけで十分である。彼らには、天の国籍、天の市民であることよりも、地上の市民であることの方が大切なのだから、彼らの流儀で応答すれば良いだけである。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルに何の調和がありますか。信仰と不信仰にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしたちは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」
 

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-7:1)

アーメンである。神の子供たちが自ら汚れた者に触れないのは当然だが、それでも汚れた者が神の宮に侵入して、神の子供たちに手をかけようとするならば、その者が追い払わるのは当然である。もし神の宮を自称しながら、そうしない者があるなら、その者は自分自身が神の宮であることを自ら否定して世に同化しているも同然であろう。

悪魔には毅然と立ち向かいさえすれば、必ず、逃げ去って行く。暗闇の勢力は、兄弟たちの振りかざす小羊の血と、証の言葉によって、天から投げ落とされる。ただし、その代わり、地は悲惨なことになるかも知れない。なぜなら、暗闇の勢力はまた別な獲物を求めて、地に下って行くだけだからである。「ほえたけるしし」と我が身を公然と分離しようとしない者は災いである。


十字架の死と復活の原則―神の相続人―キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける―

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。

この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを明かししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1-2)


もしもこのブログを読んでいる人々の中に、力の強い人間の顔色を伺い、権力者の思惑を忖度して行動している人がいるなら、そんな生き方はやめて、一刻も早く、神の顔色を伺った方が良い。

筆者はよくサムソンの最期を思い出す。このブログでサムソンに触れたのは、今回が初めてではない。

信者は、地上の人間である限り、神の義と神の国を第一にして生きると言いながらも、それでも、心は常に地上のものによろめき、容易に逸脱を繰り返す危なっかしさを持っている。筆者も、そうした弱さを持つ人間の一人として、自分の心が真に重要なものから逸れかけていると気づく時、はっとサムソンのことを教訓として思い出すのだ。

もちろん、神の霊が内に住んでおられる信者が、デリラの誘惑に屈したりすることはない。むろん、信者がサムソンのような最期を遂げる必要もない。この地上にいる信者たちが誰しもサムソンのような最期を遂げていたのでは、御国の前進もないだろう。

とはいえ、サムソンの生涯は、そのものが私たちにとって大きな教訓である。

信者は目を覚まして、地上のものに心惹かれることに警戒し、何が真に重要なことであるか、常に見極めようとしなければ、霊的視力は容易に曇らされてしまい、天の宝を失ってしまうという教訓なのである。

そうして目を覚まさせられる瞬間、筆者はサムソンのことを思う。そして、考えるのだ。どうすれば、神の目に本当に喜ばれる奉仕を成し遂げることができるのか。そして、そうだ、まだやり残したことがあった、と思う。ペリシテ人の神殿を崩壊させる仕事が残っているではないか、と心に思うのだ。

このように、筆者が渾身の力を振り絞って「ペリシテ人の神殿」を崩壊させて来たことが、これまでに何度かある。その戦いは、周りから見れば、ありふれた出来事でしかなかったかも知れないが、そこには大きな心理的なドラマがあり、予行演習があった。

デリラの誘惑に引きずられたために、罠に陥れられ、神から与えられた賜物としての力と輝きを失ったサムソン。両手を鎖につながれ、両眼をえぐり出され、奴隷的苦役に従事させられ、ついにはペリシテ人の余興として辱められるために、見世物として宴席に引き出されたサムソンが、最期の力をふりしぼって、ペリシテ人の神殿の柱に手をかけた。

サムソン最期の神への奉仕だ。

彼は何もかも剥ぎ取られた人生最期の瞬間に、自分のすべてをかけて、地上のものへの未練を振り切り、神の権益に寄与した。その瞬間、ペリシテ人の奴隷になっていたサムソンに怪力が戻った。異教の神殿は音を立てて崩壊し、宴席に連なって酔いしれていたペリシテ人たちは、奴隷のサムソンにまさかそんな力があるとは思わず、完全に油断し切って慢心し、欲望にふけり、酔いしれていたので、逃げ出す暇もなく、壊れた神殿の下敷きになって死んだ。

サムソンの場合は、気づくのが、ちょっと遅すぎたのではないか、と筆者は思う。本当は、これほどまでにすべてを剥ぎ取られる前に、信者が神に立ち返ることは十分に可能だ。だが、同時に、パウロが「あなたがたは罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがない」と信者を叱咤したように、人間の心に潜む堕落の深さを、まだ十分に知らないがゆえに、甘く見てはいけない部分もある。

ある信者たちは、ダビデとバテシェバの物語を聞いて、ダビデの心の弱さを嘲笑する。何と愚かな人間だろう、自分であれば、そんな過ちは絶対に犯しはしないのに、と笑うのだ。だが、人間と人間の魂の間には、各自の感情や思惑をはるかに超えた、何かしらの絶大な本能的な力が働くことがある。魔がさすとでも言うのか、とてもではないが自力では太刀打ちうちできないような強力な誘惑が人生に起きて来ることも時にはあるのだ。

それが、人間の堕落した魂と肉体に働く悪魔的な力である。

そして、信者らは、この堕落した魂と肉体に働く力を、常にキリストと共なる十字架の死へともたらし、神の霊の働きによって体の働きを殺す。これは人の力で成し遂げられることではない。キリストが十字架で勝利されたからこそ、適用することのできる力なのである。
 
キリスト者は神の神殿であり、サムソンも旧約聖書に登場するすべての信仰の先人同様に、神の神殿の型である。ナジル人の風習として、サムソンが髪の毛に剃刀を当てないことは、サムソンが神の神殿としてこの世から聖別された地位を保つという意味を持っていた。頭の毛を切ることは、神殿とこの世を隔てている覆いを取り払い、神の神聖を自ら捨ててこの世と同化することと同義だったのである。

このような文脈で見ると、ナジル人のサムソンは神に対して霊的に女性である人類を代表していたと言えるかも知れない。パウロは言う、女性の長い髪は頭の覆いのためであり、その意味で髪は女性の栄光であると。人類という被造物は、創造主である神に対して霊的に女性の立場にある、この意味では、髪に覆いをかけることで聖別を保ったサムソンと人類とは重なるのかも知れない。
 
キリスト者の支配は、心の中から始まる。神と悪魔との戦いは、いわば、信者の心の中心の争奪戦でもある。信者が何を第一として生きるのか、神を第一として生きているのか、それとも、それ以外のものを第一として生きているのか、その激しい主導権争いが信者の心の中から始まるのだ。

信者が霊的な戦いに勝つためには、信者が自らの心の中で、ただ神だけを中心に据え、他の何者にも決して頼らない状態を作り出さなければならない。心の中からすべての「デリラ」を追い出し、「アカンの外套」を捨て去り、神以外のどんなものも心の中に中心として据えるものがない状態にしておかねばならない。
 
決してどんな地上の人間にも頼らず、神だけが栄光を受けられる状況を自ら作り出すのだ。

さらに、もしできるならば、エリヤがしたように、戦いをより一層、難しいものとするために、神の栄光が人の目によりはっきりと現れるために、祭壇に何度も水をかけ、火がつきにくいようにしておけば良い。
神がついておられなければ、勝利などあり得ない状況にしておくのだ。

それさえできれば、戦いの勝利は確定したも同然である。あとは柱に手をかけ、一歩を踏み出すだけだ。待ち望みの時は過ぎた。髪の毛は十分に伸びている。神がついておられるならば、誰が信者に敵することができようか。

さて、今回は長い記事は書かない。

はっきり告げておきたいのは、筆者の書いた多くの内容には、筆者でさえ書いた当時は理解していなかったような予言的な意味が込められていることが、後になってから分かることがよくあることだ。これは自慢話ではなく、キリスト者の歩みに、何一つ偶然はないことを示している。

筆者は、以前、剣を取る者は剣で滅びるように、裁判に訴える者は裁判で滅びると書いた。

神が怒られるのが遅く、その憤りは長く続かないと聖書にあるように、筆者もかなり気は長い方だ。むしろ、怒るべき時に怒らないのでチャンスを逃していると叱咤されてもおかしくない。
 
それでも、そんな筆者も、サムソンがその怪力によって何人もの敵を倒したように、自らの主張だけで、いくつもの「ペリシテ人の神殿」を倒した。予行演習としてはもう十分であろう。随分、時間がかかってしまったが、そろそろ本番が待っている。

筆者は一つ前の記事に、新居に来て後、しばらく家具を選ぶことに熱中していたと書いた。それは無価値なこの世的な興味関心であったかも知れないが、そのことからも、学んだ教訓はある。それは、完全なものを得るために、信者は決して妥協してはならないということである。

時に、ベターはベストの不倶戴天の敵となる。次善にも、それなりの長所があり、輝きがある。だが、次善が、最善であるかのように振る舞った時、次善はただちに悪となる。それは悪しき腐敗した虚偽として、取り除かれねばならないものになって行くのである。

ガラス玉もイミテーションとして楽しむうちは無害であろう。だが、ガラス玉が自分はダイヤモンドだと言い始めた時に、それは悪の権化、罪の化身となる。山登りをする人が、初めから自分は5合目までしか目指していなかったから、途中で山を下りたと言えば、嘘にはならない。だが、もともと山頂まで上るはずだった人が、4合目、5合目で疲れて立ち止まり、下山したにも関わらず、自分は登頂したと宣言すれば、それは大嘘である。

問題は、キリスト者は常に神が満足される完全を目指さなければならないのに、そこにこそ、神と私たちの心を完全に満足させる天の栄光に満ちた相続財産があるのに、多くの人たちが、次善で満足した上、それがあたかも最善であり、完全であるかのように見せかけようとすることにある。

筆者はこれまで「カルト被害者救済活動」の何が間違っているかについて述べて来たが、この活動も、神の最善に悪質に立ち向かう「次善」である。神ではない人間による救済事業は、うわべだけは善良そうに見えるが、真理に立ち向かう悪質な虚偽だからである。

聖書の真理は、神ご自身にしか、人間を救済することはできず、苦しむ人々を「救済」する仕事は、ただ神だけのものであって、人間自身には人間の救済はできないというものだ。神の助けを受けることこそ、我ら人間にとって完全な道であり、最善の道である。我らの救い主として栄光を受けるべき方は、神ただお一人しかいない。

にも関わらず、この地上では、牧師や、教師や、カウンセラーや、助言者たちが、あたかも自分たちが人間を苦しみから救う力を持っているかのように、親切で善良そうな言葉を振りまき、耳元でささやく。まして、神の教会で起きたトラブルを、自分たちには解決できる力があると言う不遜な人たちまでいる。そして、彼らは、神の教会や信者の欠点や弱点をさかんに噂し合いながら、教会を貶め、悪しき教会から人々を助け出すと言っては、心弱く自信のない大勢の人たちを惑わして行く。

だが、これはしょせんAチームBチームの戦いでしかないのだ。神になり代わって指導者として信者に君臨する中間搾取者が、自ら他の中間搾取者を訴え、取り締まっているだけで、「あの先生」と「この先生」の間の戦いを行き巡っている限り、決して信者が自由になれる日は来ない。

このような偽りの「指導者たち」の唱える「救い」が完全に偽物であることは、彼らが筆者に対して行って来たすべての仕業からすでにはっきりと明らかである。彼らは、信者たちの弱さにつけこみ、問題につけこみ、それを解決してやるように見せかけながら、実際には、「偽物の救い」という、デリラの甘い誘いでがんじがらめにし、信者に本当の神の力を決して味わわせないように、信者の聖別を奪い取って、捕虜として連れて行くだけなのである。

彼らが望んでいるのは、ただ自らが神の代理となって、信者の心を支配し、神がお与えになった信者の自由を奪い、信者を道具として自分の利益のために搾取し、それにも関わらず、自分はあたかも人前に人助けをしている善人であるかのように振る舞い、神から栄光を奪い取って、自分自身が栄光を受けることだけなのである。彼らにとって、弱さのゆえに自分を頼って来た信者は、いわば、獲物である。

このような活動は、神の救いに真っ向から対立する悪質な虚偽である。だが、そのことは幾度となく述べて来たのでここでは繰り返さない。

キリスト者は、すべてにおいて、完全を目指さなければならず、それ以下のもので決して満足して立ち止まってはならない。たとえどんなに優しく親切そうな人間が現われ、困っている時に、助力を申し出て来たとしても、それが人間であって、神ご自身ではないという事実が持つ重大な意味を、信者は決して忘れるべきでないのだ。そして、次善を最善以上に高く掲げるという過ちを決して犯すべきではなく、神以外のものに栄光を帰してはいけない。次善の誘惑に屈しないために、そのような偽りの助けは最初から拒むのがよかろう。

繰り返すが、我らの救い主は天にも地にもただお一人であり、救済者は神しかいない。だが、キリスト者はその真理に従うために戦いを迫られる。あらゆる面で、神の完全を追求するために、あらゆる次善を拒否する戦いを最後まで立派に戦い抜かねばならない。

そこで、信者には、肉なる腕(人間)から来るすべての助けを、悪しき堕落した誘惑として拒否しなければならない時が来るのだ。だが、自分が救済者をきどりたい人たちは、「次善」呼ばわりされ、自分たちの助けの手は必要ないと言われると、プライドを傷つけられたと感じて怒り出す。その瞬間に、彼らの化けの皮がはがれる。

彼らは、苦しむ人々を救済すると口ではあんなに親切そうにうそぶいていたのに、いざ、自分たちの本質を見抜かれると、それを見抜いて去って行った人々に猛烈に石を投げ、殺意に至るほどの敵意を持って追いかけ、真実を訴えさせまいと、口を封じようとする。

このような凶暴な人々の本質が、救済者ではないどころか、むしろ、人殺しであることは、今や誰の目にも明白である。

主イエスが言われた言葉を思い出そう。

「彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです。」と言うと、イエスは言われた。
アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、いま、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」と言うと、イエスは言われた、

「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。<…>あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ8:39-44)
 
このところ、有名人の不倫騒動が世間を騒がしており、この世の法に照らし合わせても罪に相当するはずのない事柄が、あたかも重大な罪のように取りざたされ、そのために人々が互いに石を投げ、断罪し合っているが、それを見ても思う。世の裁きは何と神の裁きに比べて、憐れみも容赦もないことだろうかと。

いつもそうだが、人間による裁き(人間による救済と同じ)は、最初こそ、人の目に優しく、親切そうに、正義のように見える。ところが、人間による裁きは、最後には、どんな宗教でさえ考えつかなかったほどの、とてつもなく厳しい行き過ぎた制裁となり、ついには法にも常識にも基づかないデタラメな私刑へと落ち込んで行くのである。

こうして、悪魔(この世)が悪魔(この世)を厳しく裁き、取り締まるというのだから、思わず笑ってしまう。だが、人間による救済は、このように、必ず救済どころか、とてつもなく厳しい裁きにしかならないことが、途中で明らかになる。そのことが、「カルト被害者救済活動」の暴走の過程でも、完全に裏づけられていると言える。

私たちは神の憐れみに満ちた裁きにすがるのか、憐れみのない人間の裁きにすがるのか、常にどちらかの選択を迫られている。

「自分たちはアブラハムの子孫だ」と言いながら、主イエスに対する敵意に燃え、イエスを救い主として受け入れず、十字架にかけて殺した人々は、自らよりどころにしていた律法によって容赦なく裁かれることになった。
 
今日も同じである。神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)


悪魔はあたかも自分にこそクリスチャンを訴える権利と資格があるかのように振る舞うだろう。聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを訴える者」であるから、常にクリスチャンを自分から先に告発しようと躍起になっている。

だが、聖書の御言葉を参照するなら、どうだろう。むろん、神に義とされた者を再び罪に定めることのできる存在はおらず、悪魔の訴えはむなしく退けられるばかりか、兄弟(クリスチャン)を罵倒し、傷つける者こそ、特別に厳しい裁きを受けることが聖書にははっきりと示されているのだ。

そういう者たちは、最後の1コドランスまで支払って、和解しない限り、牢から出て来ることはできない。これは、この世の裁きのことだけを指しているのではなく、むろん、地獄の永遠の裁きのことをも指している。恐ろしいことである。神の贖いによって義とされたクリスチャンを罵倒し、罪に定めようとすることが、どんなに恐ろしい罪であり、永遠の厳しい裁きに価するかがよく示されていると言えよう。


十字架の死と復活の原則―天に備えられた故郷を熱望しつつ、上にあるものを求める―

全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マルコ16:15-16)

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」(マタイ10:16-23)

* * *
 以上の御言葉が、以前よりもはっきり、切実なものとして筆者に迫って来る。
これらのことは、考えてみると、すべて筆者の身の上に成就して来たことばかりである。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
これも全くその通りである。

筆者が住んでいる街は、やって来た時には、大きな喜びがあったが、今やソドムとゴモラに近い場所になって来ていると感じる。その理由は前の記事に書いた。暮らしが快適でなくなったという意味ではない。霊的に衰退・退廃してしまったのだ。

筆者は、首都圏全体が、これから大きな苦難に見舞われようとしていることを感じている。

もっとも、このようなことを書いたからと言って、いたずらに人々を脅かしているとは思わないでもらいたい。新聞雑誌で報道されている通り、この先、30年間のうちに首都圏に関東大震災に匹敵する災害が起きる確率は70%以上である。中でも、横浜はとりわけ大きな被害に見舞われると予測されている。

その危険だけを取っても、こうした中で、あえて首都圏にとどまるかどうかは、重い決断である。筆者は阪神大震災、東日本大震災を経験した。幸いなことに、どちらの場合も、筆者自身も、周りにいた関係者も、それほど大きな被害を受けなかったが、次に来るであろう震災については、今までと同じように考えるわけにいかないのだ。

さらに、震災だけではない。戦争の危険が迫っている。このことについてはまた別の機会に書きたい。

だが、筆者は今回、震災や戦争を恐れて逃げ出そうとしているのではない。そのような噂を聞いても慌てるなと聖書に書いてある通りである。

むしろ、筆者は神ご自身から、ここを出るべきだという教訓を与えられたと感じている。
そして、その確信は、筆者が新しい快適な住居に来てからわずか数ヶ月でやって来た。

それはまだ筆者がお気に入りの家具を色々取り揃えている最中のことであった。筆者は信仰告白のブログを更新することよりも、カーテンのサイズをはかり、お気に入りの布を選び、照明器具を物色することに熱心であった。

それから、ピアノを猛特訓していた。ラフマニノフの美しいプレリュードの数々に取り組み、ピアノ・コンチェルトを弾いた。ヴァイオリンに熱中し、セザール・フランクのソナタをそれなりに弾けるようになって来た。実は、以前に記事でも書いた通り、このフランクのソナタが、この地と筆者との最初の挨拶の曲であり、また、別れの曲になってしまったのだが…。

こうして、ようやく落ち着いて楽器が弾けるようになり、気に入った家具を自分の好みに合わせて用意し、大好きな動物たちとゆっくり暮らせると思った矢先、

「あなたが熱中している生活は、私の心にかなうものではありません。」

と、神から示されたのだ。

いや、神からだけでなく、悪魔の側からさえ、皮肉な質問が向けられた、「ヴィオロンさん、あなたはいつからそんな風に、どこにでもいるただの普通の人になったんですか。いまだにこんなところでぐずぐずしてるんですか。まさか本気でここに定住する気じゃないでしょうね。」(そのメッセージはこの世の人々のごく些細な言葉を通してやって来た。)
 
筆者ははっとした。だが、そのような発想は、筆者の考えを超えていたので、筆者はなかなかその結論を受け入れられず、神と争っていたと言っても良い。

「主よ、私がこれまでどんな生活を送って来たか、あなたはご存じではありませんか。今まで一度だって、私は自分の生活に落ち着いて目を向けられたことはありませんでした。私は今まで照明器具のことでこんなに悩んだことはありません。この自由が悪だというのでしょうか。」

「あなたはどうしてしまったんですか。今あなたが物色している照明器具などよりも、はるかにまさったものを、私がいくらでもあなたのために天から用意できるということを、あなたは忘れてしまったんですか。あなたのための宝は、すべて私が天に備えていることをもう忘れたんですか。あなたは地上のものにばかり気を取られ、天の宝に対する憧れをもう持っていないのですか。あなたが今、夢中になって握りしめている地上のすべてのものが、本当に神の国のために本質的に重要だとあなたは思っているのですか。」

「でも、これはあなたが恵みによって私に与えて下さったものではありませんか…」

「いいですか、たとえ与えられた時には恵みであったとしても、あなたがそれを握りしめるなら、たちまちそれは腐敗します。あなたがもしもこの先も、今と同じように、この世の事柄に没頭し続けるなら、あなたは地の塩ではなくなるため、私はあなたを捨てざるを得ません。私は私への信仰によって成ったもの以外の生活を守ったり、保障することはできません。」

「待って下さい、主よ、それでは困ります。そんなことになるくらいなら、私は何もかも捨てます。あなたがすべてを剥ぎ取られる時、それがどういう形になるのか、私はこれまでの人生で痛いほど知っています。剥ぎ取られるよりも前に、私は喜んですべてを捨てます。何も握りしめたりしません。」

もちろん、このような対話が実際にあったわけではない。これは筆者の霊的な気づきの要約でしかない。ただ筆者は、やっと快適な生活が送れて、自分の趣味に没頭できると喜んでいた矢先、自分が心を砕いている生活が、神にとっては全く本質的に重要でなく、神が願っておられるものは、もっとはるかに高いところにあることを痛烈に思い知らされたのだ。

その時、筆者は考えた。平穏な生活の何と危険なことであろう。快適な住居で神を忘れるよりは、狭い不便な住居の中にいても、ただまっすぐに神を見上げていた方がはるかにましであると。

それ以来、筆者は自分の目を楽しませてくれたすべてのものを、パウロが言ったように、損と思い、厭うようになった。家具を物色することに時間を費やすのをやめたのはもちろんである。これは決して生活に必要なものまで放棄することを決めたという意味ではない。そのようなものに熱心に心を砕くのをやめたということである。
 
いつもそうなのだが、筆者は牧歌的な性格なのか、あまりにも楽観的に過ぎるのか、ちょっとした生活の平穏が与えられると、すぐに戦いをやめてしまう。これは人間の生まれつきの傾向であろう、ちょっとでも平和がやって来ると、自分の周りで起きているあまりにも激しい霊的な戦いから目を背け、神の権益を忘れ、自分自身の平和に安住しようとしてしまう。

筆者の心には、これまで「普通の人として穏やかに暮らしたい」という願望が根強く残っていた。できるなら、もう二度とあのような苦しく激しい戦いを戦うことなく、このまま立ち上がらず、穏やかに座ったまま暮らしたいという願いがこみあげて来る。

筆者は神に問う、「主よ、今、少しだけ、このまま立ち止まらせて下さいませんか。楽器を弾きたいんです。他にも色々と考えていることがあるんです。これまで私に一般人としての普通の暮らしという贅沢が、いつ与えられたことがあったでしょうか」と。

しかし、神は、それではだめなのだ、と言われる。楽器を弾くことが罪なのではない。ただ、神の御心にかなう生活は、決して「一般人としての普通の暮らし」などではないのだ。神は、神の御思いは人間の思いよりも高く、神のスタンダードは人間のスタンダードをはるかに上回り、神の考えは、筆者の考えよりもはるかに大きく、広い、と言われる。

筆者が価値だと思っているものよりも、はるかに大きな価値を、神は筆者のために用意しておられ、 「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう」と言われるのだ。

なのに、筆者があまりにも小さくしか口を開けず、あまりにも少しの宝で有頂天になってしまうため、せっかく用意された天の宝が届かないのである。
 
要するに、神は、いつでも常に筆者の狭い考えを打ち壊される。筆者がどんなに最善を願っているつもりであっても、まだそれでは低い、と神は言われるのである。

それを示される度に、筆者は、神の恵みと憐れみの深さに、瞠目せざるを得なくなる。そして、やはり、神は神なのであり、人間に過ぎない筆者のちっぽけな思惑になど、とらわれる方ではないと、改めて畏れを覚えるのである。

気をつけておかねばならない。人生に次々と苦難が襲いかかって来るような時には、放っておいても、誰しも必死に神に助けを求めるであろう。油断がならないのは、平和な時である。

神のために召し出された者が、この世の人々と全く同じような生き方を目指していたのでは、塩気を失った塩として捨てられるだけである。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。」

さて、以上の御言葉も、全くその通りであることを筆者は知った。筆者はこの地にやって来た時、キリスト者の交わりを求めてやって来たが、当時、筆者が「兄弟姉妹」だと考えていた人々は、ことごとくクリスチャンらしさを失って行った。というより、手ひどい裏切りや中傷といった争いも起きたのだ。

にも関わらず、筆者はごくわずかな心あるキリスト者との交わりを続けていた。だが、ついに筆者が交わっていた心あるキリスト者の夫婦が地上を去ったというニュースをその親族から聞いた。見渡せば、この地にはもはや筆者が兄弟姉妹の交わりを求めてやって来た頃の痕跡は何も残っていなかった。

筆者が交わりを望んで来たクリスチャンらの堕落については、もはや述べる言葉がない。この世の人々がこの世の事柄に没入し、神に敵対して歩んでいるのであれば、まだ分かるが、かつて筆者が兄弟姉妹であると考えていた人々の実に多くが、ロトの日のように、娶り、嫁ぎ、食べ、飲み、売り、買い、この世のことに邁進しながら、本当に地に安住してしまうか、あるいは、イエスを売り渡したユダのように、兄弟を売って恥じないまでになってしまった。

また、首都圏はあまりにも不法と搾取に満ちており、腐敗して未来のない不毛の土地になりつつあるように感じられる。筆者はこれまで、地上の裁判などには一切関わることなく生きていきたいと願っていたが、それでも、この悪しき世の中で、暗闇の勢力からの激しい挑戦を受けて、やむなく一人で裁判官らの前に立ったことが数度ある。四人の弁護士に、筆者一人で対峙し、勝利をおさめたこともある。
 
筆者はこれを手柄や自慢話として書いているのではない。誰しも戦いなど望まないからだ。こうした争いは純粋にこの世の事柄であったが、長い間、いかなる争い事も、決してこの世の法廷に持ち出したくないと考えていた筆者も、それを機に立ち上がることを迫られた。最近では、正しい主張ならば、公然と人前で主張せねばならない事柄も多くあるのだということが分かった。

クリスチャンがこの世の裁判を通して、王や総督の前に引き出され、この世の人々に対して神を証することがある、という聖書の御言葉の正しさを知ったのである。そして、公然と主張すべき事柄を主張すれば、必ず、神が味方して正義を実現して下さると分かったのである。

そのようにして、物事にはきちんと決着をつけておくべき時がある。そのことが、もっと前に分かっていたなら、筆者は色々なことを曖昧なままにしておかず、公然と立ち向かって、早くに終止符を打てたはずのことが数多くある。そのことが今は分かる。だが、何事にも生きている限り、遅すぎることはないだろう。

さて、こうした戦いの過程で、筆者が学んだ何より重要な教訓は、どのような戦いの最中にある時にも、決して弁護人をつけず、神ご自身だけを弁護者として、全ての圧迫に自分で立ち向かって勝利をおさめる秘訣であった。

これまでどんな紛争が起きても、筆者は一切、弁護人をつけなかった。すべての主張をこのブログに記しているのと同じように、自分自身の言葉で書き記し、誰の力をも一切借りることなく、自分自身で不当な主張に立ち向かい、勝利して来たのである。

こうして、神と共に一人ですべてに立ち向かうことこそ、この地に来てから筆者が最も学ばねばならなかった教訓である。それを学ぶのにどれほどの時間を要したであろうか。筆者の戦いたくないという牧歌的で楽観的な考えや、常に誰か有力な人間を頼ろうとする少女的な考えの甘さは、その戦いの過程で相当に削ぎ落とされて行ったと言える。

どんなことが起きても、神と筆者の二人三脚で切り抜けることが可能だと、自信がついたのである。

戦いは難しければ難しいほど面白い。

これは好奇心で言うのではない。神の栄光が現れるためには、人間の力は強くなくて良いのだ。

預言者エリヤは450人のバアルの預言者に、たった一人で立ち向かった。それに比べれば、筆者の通過して来た出来事など、ほんの序の口だと言える。
 
我々には、最強の弁護者である神ご自身がついておられる。聖霊が我々と共にいて弁護して下さる。だから、我々は神以外のどんな存在にもより頼む必要はない。それなのに、心の弱さに負けて、肉なる腕に頼ろうとすれば、無用な苦しみが待っているだけである。

話が脱線するようだが、弁護士という職業は、自分の経済的利益のために、他人の争いを利用して成り立っている。弁護士は、依頼人が裁判に勝っても負けても、どちらの場合でも、自分には食いはぐれがないよう契約しているので、結果はどちらでも構わないのだ。できれば勝ちたいとは願うであろうが、紛争当事者のように、命がけで法廷に立つことは、弁護士には決してないのだ。

さらに、弁護士は時間に応じて報酬を受け取っているので、依頼人の争いがすぐに決着してしまうと損になる。従って、弁護士が、紛争の早期解決に努めることはまずなく、むしろ、紛争がもつれにもつれ、長引いた方が、彼らにとって得なのである。そんな職業である弁護士が、本気になって紛争当事者を助けてくれる理由がどこにあるだろう。
  
普通の人々は、弁護士を大勢つければ、勝算の見込みが上がると考えるのかも知れない。だが、筆者の目から見れば、事実はまるで逆である。

弁護士を大勢つけて戦いに臨むと、「船頭多くして船山に登る」式に、自分の主張に整合性が取れなくなって、勝ち目が薄くなって行くだけである。実際に、何人もの弁護士の書いた答弁書を読めば、まるでつぎだらけの布のように、主張内容に辻褄が合わない場所が多くあり、よく読めば、どの段落から新しい弁護士が担当したのかさえ、明らかになってしまうような有様である。

そこで、このように無責任かつ当事者意識の薄い人々にわざわざ法外に高い謝礼を払ってまでアドバイスを求めることは、賢明とは言えない。さらに、キリスト者がそのようなことをすれば、弁護士の一言一言が足手まといとなり、成るものも成らなくなるだけであろうと思う。

極めつけの問題は、弁護士自身が法を守らない、というお決まりの逸脱にある。弁護士の目的は、他人に法を守らせることであっても、自分自身が法を守り、法に従うことにはない。むしろ、数多くの弁護士が最も得意としているのは、「ああ言えばこう言う」式に、法をどれほど上手にかいくぐり、自分サイドに都合よく解釈して、自分たちだけが自由の幅を広げるかであり、そのような意識が高じると、ついに自分自身が法の上に立って、法を曲げ、支配するというところまで行ってしまう。

その究極の形が、改憲である。

世間は安倍首相の戦前回帰の思想やそれに基づく改憲の野望のことは批判するが、筆者が見たところでは、日本の政治家のほとんどは、与野党を問わず、改憲派である。

たとえば、立憲民主党の枝野代表もまた弁護士出身であり、同氏はかつて憲法9条に関する私的改憲案を自らの論文として出していたことで知られる(現在はその案を放棄しているそうだが)。

このように、立憲民主党の代表がかつて自ら9条の私的改憲案を出していたことは、大きな自己矛盾であり、皮肉であるとさえ言えるかも知れない。日本という国が、成立してこの方、一度も憲法をきちんと守ったことがないのに、すでに現状を優先して憲法を変えるべきだと、政治家は言うのである。

野党の代表でさえ、この始末であるから、一体、誰に期待できるのであろうか。このことは、立憲民主党が護憲政党では全くないことをよく表している。

こうしたことから容易に推し量れるのは、弁護士という職業が、紛争に巻き込まれた人々の弱さや苦しみに寄り添うように見せかけながらも、他者の争いを糧に生きる職業であるのと同様に、与野党の攻防などは、しょせん、国民の弱さや苦しみを糧にして生きる「政治家」という中間搾取層の隠れ蓑でしかなく、AチームBチームの戦いに過ぎないということだ。

話を戻せば、こうして、改憲案の内容には違いがあれど、結局、改憲それ自体は、ほとんどの政治家が目指している共通のゴールであるだけでなく、弁護士にとっても、何かしら最終目的のように見えているのではないかと思われてならない。
  
弁護士でさえ、法を守ろうとは考えておらず、憲法を現状に照らし合わせてズレのあるもの、時代遅れなものとみなし、現状に合わせて法の文言を買えるべきと考えている。彼らは、法よりも(彼らの目から見た)リアリティを優先する人々なのである。

あるいは、もっと言い換えれば、「自ら最高法規である憲法に手をつける」ことが、この国では、政治家だけでなく、多くの弁護士にとっても、悲願なのかも知れない。

もっとも、弁護士のすべてがそういう思いを持っていると言うつもりはない。だが、今、多くの人々の目には、憲法は、そのようにしか映っておらず、野党でさえ、来るべき改憲の日の準備のために、もっと憲法について国民の間で活発な議論がなされるべきだと考え、特に若者の意見を聞くことが必要だ、などと述べたり、誰でももっと気軽に改憲論議に参加できるようにすべきであって、憲法カフェのようなものを作ったらどうだろうか…、などと提案し、お手軽な憲法改正の地ならしをしているのだ。
 
彼らは筆者のように現状を法に合わせて修正すべきだとは考えていない。従って、彼らにとっては、(目に見える)現実の支配が法の支配よりも上位にあるのだ。これではどうやって法の精神を現実に適用することができようか。

従って、こうした事実から見えて来るのは、弁護士という職業は、概して、表向きに多くの人たちがそうに違いないと考えているように、法を敬い、法を遵守することを目的に生きている人々ではない、ということだ。極端な言い方をすれば、法に寄生することで、いかに法から自分の旨味を引き出し、首尾よく中間搾取を成し遂げるかが、弁護士という職業の醍醐味であるのだとも言える。

従って、こうした人々には、自らこそが、法の守り手であり、庶民に比べて、自分たちは法の精神に精通しているという誇りやプライドはあるかも知れないが、そのような自負が強ければ強いほど、かえって彼らは、自ら法に手を付けることも辞さない(自分自身を法の上位に置く)ほどの不遜さを同時に持ち合わせているのである。

厳しい表現を使えば、このような弁護士の不遜さは、パリサイ人や律法学者たちの不遜さに通じるものがあるのではないか、と筆者は思う。主イエスが地上におられた頃の律法学者やパリサイ人たちは、律法のことなら何でも自分たちにおまかせあれと言えるほどに勉強熱心であり、それゆえ、当時の庶民からは、立派な教師のごとく尊敬されていた。だが、主イエスが糾弾された通り、彼らは律法の教師を自認しながら、自分自身は律法を守っていなかったのである。

今日の牧師やいわゆる「御言葉の教師たち」もそれと同じである。講壇から信徒の上に立って、自分はあたかもすべての物事を理解したかのような調子で信徒に説教するが、人を教えながら自分自身を教えず、自分は聖書の御言葉に従って生きていないのである。

筆者はこれまで、牧師や「御言葉の教師」を名乗る人たちは、弁護士と同じように、信者の心の弱さに寄生して生きる霊的中間搾取階級である、と述べて来た。彼らは、自分一人では立てず、霊的な戦いを一人では戦い抜けないと考える心弱い信者を呼び寄せて、彼らの弱さや自信のなさにつけこんで、それを自己の利益や金もうけの手段に変えているのである。

だから、教会のカルト化など憂う前に、クリスチャンは、あちらの先生、こちらの先生へと浮草のように頼るべき存在を求めて放浪することをまずやめ、そもそも牧師という職業が万民祭司の時代には不要であることをきちんと認め、主イエスが教えられた通り、キリスト以外の誰をも教師とせず、ただ神だけを頼りとして一人で立つという気概とプライドがどうしても必要なのである。
 
弁護士からアドバイスを受ければ、足手まといになるが、「御言葉の教師」を自負する牧師や教師たちのアドバイスは、それよりももっとはるかに有害である。
 
「<…>いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27)

聖書の御言葉がこのように命じているのだから、人間に過ぎない者に頼り、人間に栄光を帰そうとすれば、どのような悲惨な結果が待ち受けているかは明白である。

筆者はこの地へ来てから、「兄弟姉妹の交わり」と称する目に見える人間関係に、再三、欺かれて来た。そのことは、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれているものでさえ、目に見えるもの、地上的な、堕落した人間関係になりうることをよく示している。

勇者サムソンは、異教徒の娘デリラの誘惑に負けなければ、神から来る力を失うことはなかった。今日、デリラとは、弁護士や、教師や、牧師など、人の弱さを利用して、優しさや、思いやりや、助言を装って親切そうに近づいて来る、すべての霊的中間搾取者を指すと言っても差し支えないと筆者は考えている。

デリラと心の鎖でつながれたことによって、サムソンの力は絶たれた。自分一人ならば、どんな強力な鎖でも、彼は瞬時に断ち切ることができたのに、デリラという存在を受け入れてしまった瞬間に、完全に身動き取れず、がんじがらめになって鎖につながれ、自由を失い、さらに霊的視力を失って、両眼をえぐり出されて盲目にされ、奴隷にまで転落してしまったのである。

この警告を、我々は慎重に受け止める必要があるものと思う。デリラとは特に魅惑的な一部の若い女性のことだけを指すなどと矮小化してとらえるべきではない。デリラとは、この地のもの、滅びゆくもの、堕落した被造物全体を象徴していると言ってよく、そこには当然ながら、人間全般も含まれているのである。

我々が警戒しなければならないことは、兄弟姉妹の交わりを求めると言いながら、目に見える人間関係にしがみつき、束縛され、その結果として、見栄や競争意識や義理人情や欲望の渦巻く人間のしがらみの中に、がんじがらめにされて行き、御霊の自由を失うことである。

地上の宗教組織としての教会がそういう場所になってしまっていることについては幾度も論じて来たので、ここでは再び言及しない。今、筆者が述べたいのは、地上の教会組織に幻滅したと言いながらも、依然として、教会をキリストよりも上位に置こうとする誘惑がクリスチャンに強く働いていることである。

以前に、筆者は「エクレシア崇拝」に陥る危険性について警告したことがあった。キリストだけを純粋に慕い求めるエクレシア(教会)を探求するというのは、なるほど大変、美しい表現である。かつて筆者も、きっとどこかに初代教会のように純粋な兄弟姉妹の交わりがあるに違いなく、また、そうしたものを自分たちの交わりを通して実現したいと考えていたこともあった。

地上の宗教団体として堕落してしまった教会への幻滅がひどければひどいほど、初代教会のような交わりを求める気持ちは信者の心に強く働くだろう。

だが、実際には、初代教会が我々の追い求めるべき目標ではないし、理想的な兄弟姉妹の交わりを追い求めることが、クリスチャンの生きる目的でもない。そもそも我々が追い求めるべき対象は、エクレシアではなく、キリストなのである。にも関わらず、エクレシア(教会)に力点を置き、人間の作り出す甘美な交わりのうちに理想を模索したり、あるいは、自分たちの交わりを理想であるかのように賛美することは、結局、キリストを退けて、自己を見つめ、自己(人間)を栄光化することへつながって行く。

特に、自分たちの交わりことそ、まことの教会だと自負している人々や、「家々の教会」を主張している人たちに、この警告は有効であろう。筆者は、長い間、家庭集会などとは無縁の環境に生きていたので、さほど危険を感じなかったが、地上の家や、自分の家で行われる集会をそのまま教会と同一視することは、限りなく危険である。

確かに、主の御名によって、二、三人が集まるところに、主も共におられ、主は兄弟姉妹を通して大いに働いて下さることがある。だが、そういうことが一度や二度あったからと言って、その目に見える交わり、目に見える集会がただちに教会というわけでは決してないのだ。

エクレシアとは決して我々が地上に固定化することができず、これだという形式を探し出して、それにあてはめて定義できるものでもない。それは束の間、地上に現れたように見えるかも知れないが、決して地上的な要素に限定されたり、とらわれることのない、変幻自在で、永遠性を持つものなのである。エクレシアを支配しているのはキリストだけであって、神ご自身以外の者には、決してそれを掴み、私物化したり、エクレシアによって栄光を受けることはできないのである。

もしも誰かがエクレシアをこの手で掴もうとし、コントロールしようとし始めれば、たちまちそれは腐敗し、崩壊して行く。
 
この記事の冒頭で、筆者が最後にこの地で交わっていた善良なクリスチャン夫婦が亡くなった、ということを書いた。夫人が先に亡くなり、続いて夫が亡くなったが、彼らが祈りによって与えられたという美しい家に、筆者は夫人が亡くなる数か月前にお邪魔したことがある。そのことも記事でも触れた。

ノアの箱舟と同じ寸法だというその家には、夫人が選び抜いて設置したセンスの良い家具に囲まれた、清潔で美しい居間があり、そこには、白いアップライト・ピアノが置いてあった。そこで、筆者がピアノを弾き、夫人が讃美歌を歌った。夫人は、本当に筆者を愛してくれたので、涙を流して喜んでくれたほどである。壁には伝道の書の聖句を記した額縁がかけられ、屋上には、静かな森を見下ろしながら、誰にも遠慮することなく長時間祈れるルーフバルコニーがあった。

今でもよく覚えているが、その夫人はどれほど心を尽くして筆者をもてなしてくれただろうか。共に祈り、語らったひと時はどんなに美しい思い出になっているだろうか。

「ヴィオロンさん、私があなたをここへお招きしたのは、祈れば誰でもこれは(こういう家が)手に入ることをあなたに知らせたかったからなのよ」と、夫人は言った。

当時、家庭集会などとは無縁の、暮らすだけがやっとの家に住んでいた筆者は、夫人の言葉に、皮肉気に肩をすくめて笑った。そんな忠告、私にはまだ早いですよ、と思ったのだ。彼女に家の自慢をされたとは思わないが、筆者が家のことについて考えるのは、まだまだ先のことなので、忠告はただ心に留めて置く、と心の中で思った。

当時、筆者の目には、その夫人の家の素晴らしさよりも、誰にも知られず、そこで開かれる二、三人の交わりの方がはるかに素晴らしく映った。その美しい交わりの思い出は、まるで奇跡のように筆者の脳裏に刻まれた。

だが、そのようにしてキリスト者らが交わった家も、その夫婦の死後、すっかりがらんどうにされ、売却される予定だと知らされた。夫婦の親族さえも日本にはいなくなり、もはやその夫婦がこの地上に暮らしていたことを思い出す人々も、筆者の周りにはいなくなった。むろん、夫人が筆者のために何度も横浜にやって来ては、横浜駅の混雑の中で待っていてくれたことなど、誰も覚えてはいない。

その夫婦が亡くなったという知らせもショックであったが、あれほど豊かな交わりのひと時が持たれた美しい家、筆者の目には、神聖な場所も同然に見えていたその家が、すでに当時の面影をとどめておらず、家具もすべて運び出され、空っぽになり、ついには信仰とは一切無縁のこの世の人の手に渡るであろうというニュースは、もっと衝撃的であった。

まるで神聖な思い出が、踏みにじられ、無残に破壊されて行くような寂しさを心に覚えた。

だが、このニュースを、筆者はとても教訓的なものとして心に留めた。筆者はおそらくかなり鋭い感受性を持ち、すべての出来事を豊かな感性で受け止め、鮮明に心に記憶する。そうして記憶した事柄を、何度も思い返しては、分析を加え、書き記す。思い出はどのようなものであれ――良いものであれ、悪いものであれ――筆者の中で生きた記憶であり、まるで筆者自身の一部のようで、その記憶こそが、筆者という人間を形成しているように思われることがある。

さらに、キリスト者の交わりは、ただの思い出ではない。あの時、この場所で、あの兄弟姉妹たちとの交わりの中で、神が力強く働いて下さった、とか、神が私たちの存在を覚え、心に留めて下さった、という記憶は、どれほど人にとって光栄なものであろうか。

ところが、どんなに美しく大切な思い出であっても、主は、「それを手放しなさい、そこに真実があるわけではないのだから」と筆者に言われているように思うのだ。

クリスチャンの道のりは、見知った過去にあるのではなく、常にまだ見ぬ地へと、未来へ向かって行く。だから、主は警告されるのだ、「あなたの目を過去から離しなさい。悪い思い出だけを忘れるべきなのではありません。美しく良い思い出も同様なのです。どんなにそれが美しく心を誘う良き思い出であっても、どんなにそれが美しい交わりの記憶であっても、決してそれを理想化してはなりません。あなたの目標はいつでも、常にまだ見ぬ未来に、これから起きることの中にあるのです。あなたの心は、いつもこの先、私があなたのために天に用意している宝にこそ、向かっていなければならないことを心に留めなさい…。」
 
仮に過去にどんなに優れた、完全に近い兄弟姉妹の交わりがあったとしても、それは、筆者がこの手で掴もうとした瞬間に、幻のように消えて行く。主ご自身が、それが偶像となって筆者の心を支配する前に、これを地上から取り去られ、壊されるのだ。

思い出の場所が壊されて行き、痕跡をとどめなくなることは筆者にはつらい。だが、それでも、信仰の先人たちは、はるかにまさった都を目指して、常にまだ見ぬ地へと出て行ったのである、行き先を知らずに――。

だから、この先、地上でどんなに良い交わりを得たとしても、筆者は二度とそれに拘泥することはないだろうと思う。過去にあったのと同じものを再現しようと考えたり、過去にあった交わりを神聖なものであるかのように惜しんだりもしない。

地上に現れるものはすべて不完全であって、幻影のようなものである。神のエクレシアは決して地上に現れた諸現象によって定義できないし、とらえることもできない。

そのようなわけで、未来に何が待ち受けているのかなど、想像もつかず、知らない土地へ行くとなれば、想像の目安となるものさえもない。だが、それでも、どこへ向かうのか、行き先を知らないまま、出て行くのがキリスト者の役目なのだ。
 
キリスト者は、こうして、最初は弱くとも、次第に、一切の地上的なものを頼りとせず、どんな困難の最中でも、神と自分だけですべてを切り抜ける秘訣を必ず習得することになる。それができないと、前に進んでいくことはできない。

地上のものに頼らないとは、兄弟姉妹の存在にも一切頼らないということである。

だが、多くの信者は、この学課に耐えられないことだろうと筆者は思う。彼らにはほんのわずかな瞬間でさえ、自分一人だけで神と共に取り残されることが、耐えがたい孤独のように映るのだ。だから、人間の温もりから切り離されるくらいならば、いっそ信仰の前進をあきらめて、途中でリタイアしてしまう。
 
だが、筆者は横浜へやって来た当初の目的を決して忘れてはいない。それは、牧師や教師といった霊的中間搾取階級の存在しない、キリスト者の対等な交わりを得るためであった。

万民祭司の時代にふさわしく、信者一人一人がキリストから直接教えを受け、聖書から直接学び、御言葉の教師を自称しているだけの人間に過ぎない者たちに、二度と栄光を掠め取られたり、搾取されたり、支配されることのない、霊的中間搾取者のいない、対等なキリスト者の交わりに連なるべく、筆者はすべての組織及び牧師たちを離れて、この地にやって来たのである。

たとえ、筆者の周りのクリスチャンたちが、口ではキリストだけに頼ると言いながら、結局は、自分たちの好みのリーダーをてんでんばらばらに担ぎ上げ、あるいは、自分自身がリーダーとなって他の信者に君臨し、そうした地上的な人間関係のしがらみを少しも手放すつもりもなく、自らそこに束縛され、地上的な組織を作り上げてはそれをエクレシアと呼び、そこに安住することを考えていたとしても、筆者はそこを出て行かなければならないのである。

むしろ、筆者がそのような人々の中途半端さを疑問に思いながらも、これを退けることもせず、長年、彼らを信仰の敵と考えることもなく、同じ場所に佇んでいたことこそ、大きな停滞の原因であった。

筆者は、当初、キリスト者の自由な交わりを求めて来たはずなのに、自由のない交わりしか目にすることができず、かなり長い間、訳が分からず当惑していた。中途半端にも関わらず、その人間関係をきっぱりと断ち切る決断がつかなかったことが、大きな災いの源だったのである。

キリスト者の歩みは、戦って前進するか、それとも後退するか、そのどちらかしかない。もしキリスト者が勇敢に前進せずに、同じ地点に佇んで足踏みしていたなら、早速、紅海で溺れ死んだはずのエジプト軍が、ゾンビのように背後から襲いかかり、たちまちキリスト者をとうに後にして来たはずのエジプトへ、奴隷として引き戻そうとするであろう。

世の惑わしは、人間関係を通じて最も強力に働く。その中には、当然、クリスチャンを名乗る人々とのしがらみも含まれている。暗闇の勢力は、デリラの誘惑も同然の、「人間関係のしがらみ」を通じて、筆者に対して最も強力に働きかけたのである。

一見、聖なるものを装った、地上的な人間関係のしがらみが、決定的な瞬間に、クリスチャンを身動き取れなくさせる「デリラの罠」として機能するのである。筆者が立ち向かうべきものに毅然と立ち向かわねばならない瞬間に、気づくと、たくさんのデリラたちが、がっちりと筆者を両脇から取り押さえ、抵抗できなくさせてしまうだけでなく、やって来るエジプト軍に喜んで筆者を差し出し、彼らに捕虜として連行させてしまうのである。

だから、筆者の霊的な戦いは、まずは裏切り者のデリラたちにつけいる隙を与えない、ということから始まった。牧師、教師、弁護人、助言者、親切な助力者を装ってやって来る、すべての肉なる腕を排除するところから、戦いは始まった。クリスチャンについても同じである。

ああ、この人々はバビロンの手先でしかなかったのだと、筆者が心から気づいたのは、彼らと知り合って、もう何年も経ってからのことだった。しかも、そうなるまで、一体、何度、筆者はこの人々に裏切られては売り渡されたか、その回数ははかり知れない。

こうした学習を積まなければ、神に対する貞潔さを守り抜くために何が必要か、人間に対する未練が、神に従う上でどんなに重大な障害物となるか、分からなかったのである。

それに気づくためには、手痛い経験が幾度も必要であった。

キリスト者の歩みは、神の目にどう映るかよりも、人の目にどう映るのかを気にし始めた瞬間に、天から地上に転落する。だが、この移行(天から地への移行・転落)は、本人がほとんど気づかないほど些細な逸脱から始まるのだ。

さて、もう一度、話を戻すと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり…」
これもまた然りである。

これはクリスチャンの兄弟姉妹だけでなく、筆者の親族についても、ことごとく当てはまる。そのことを筆者は予感するがゆえに、二度と地上の故郷を振り返らないと決意しつつ、地上の故郷を出て来たのである。

だが、筆者にも地上の人間としての記憶があるため、懐かしい記憶から、あるいは人間的な感情から、ふと彼らを振り返ろうとすることが度々あった。だが、その度に、ロトの妻に降りかかったような厄災が、猛烈に降りかかって来るのである。

かなり長い間、筆者はその厄災が何のせいで起きているのか分からず、信仰生活を送りながらも、地上の人間的な絆を維持することができると考えていた。ところが、それも誤りであった。

主イエスのために、父、母、娘、息子、家、田畑、仕事、およそ地上の人間のすべての絆を捨てねばならないというのは、本当のことだ。もちろん、地上的な名誉や地位もそこには含まれている。

もっと言えば、被造物全般への愛着を心の中からかなぐり捨てて、地上の一切の人間や事物への未練を断ち切り、ついには自分自身が地上の人間であることさえ否定して、キリストによって、上から生まれた人間として、完全に異なるアイデンティティを持たねばならないのだ。

「誰でもキリストにあるなら、その人は、新しく造られた者…」

実は、筆者の研究テーマは、この「新しい人間」にこそある。神と出会うまで、筆者はその当時、自分がどこへ導かれているのか、何を目指しているのか、自分で知らなかったが、筆者が最初に研究発表を行った時に語ったのが、この「新しい人間」というテーマについてであった。

つまり、筆者の生涯の研究テーマは、新創造なのである。新創造とは、すなわち、キリストである。

私たちはエクレシアを目指しているのではなく、キリストを目指している。そして、「もはや私が生きているのではない」という境地――、キリストが私を通して生きて下さっているという境地を絶えず目指している。

キリストが、もはや分かちがたいほどに私たちと一つとなって下さり、我々の全てがキリストの性質で覆われることを望んでいるのである。地上にある限り、見た目はただの弱々しく平凡な人間に過ぎないが、それでも、信仰によって、神はすでに信じる者と一つであると力強く約束して下さっているのだ。

「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

そうなのだ。イスラエルの町々を全部回りきらないうちに、人の子が来ると主イエスは言われたのに、筆者はあまりにも長い間、一つの街にとどまっていた。迫害があっても、なお、出て行くことを考えなかった。何という呆れるほどの気づきの遅さであろうか。

要するに、筆者はとうに別の町へ去るべき時期に来ていたのだが、その事実が今まで見えていなかったのである。そして、今、ある予感が筆者をとらえている。それはかつてあの夫人が筆者に述べた言葉は、来るべき場所にて実現するだろうという予感だ。

聖書は何と言っているだろうか。アブラハムは行き先を知らないまま出て行ったが、その行く先に彼が財産として受け継ぐことになる土地があったと言っている。もちろん、私たちの最終的な財産は天にある。受け継ぐのは天の御国である。しかしながら、そこに行き着くまでの仮の宿としての地上の財産(家)も、神は当然ながら、用意して下さるであろう。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、それを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいません神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)


十字架の死と復活の原則ー地に安住せず、さらにすぐれた故郷、天の故郷だけを目指して歩むー

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

"
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします

即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。

更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で 
この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う
人本来の宗教本能が働いているのです。


その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。

<中略>

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する

地に住む」(原文では「地に座る」)と言う
人の奥底に居座る根深い願望なのです。
それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。




教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて

出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)


わたしの民がわたしに聞き従い、

 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

一つ前の記事で書いたことを訂正する必要がある。筆者はこの土地から筆者を追い払おうとする暗闇の勢力による激しい妨害と戦って、自分と住まいを守り通した、という趣旨のことを書いたが、そうした事柄は、勝利として宣言するには甚だ不十分であったことが判明したのである。

前にも書いた通り、クリスチャンにはこの世にあって様々な圧迫が押し寄せて来る時があり、そのほとんどは暗闇の勢力から来るものであるが、信者はこうした悪魔の妨害から、ただそれに立ち向かって、持っているものを信仰によって守り通しただけでは、獲得物はゼロでしかなく、勝利とは言えない。天の褒賞を手にして、ゼロからプラスに生活を拡張して、初めて勝利があったと言える。 

以前にも、「栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く」とは、どのようなことであるか、という記事でも触れたが、キリスト者に苦難が与えられる時には、必ず、それに相応する天の慰めが待ち構えている。これは変わらない霊的法則性である。試練を信仰によって耐え抜き、戦い通せば、天の褒美が待っている。

だが、その褒賞を掴むには、特に揺るぎない信仰が要る。激しい戦いの最中に疲労困憊してしまったり、失意落胆して、希望を失ったりせず、平静でなければならず、必ず、神はご自分により頼む者を失望に終わらせず、天に褒美を備えて下さるという確信が必要であるが、それに加えて、激しい戦いが決着する時、決してその戦いの激しさだけに気を取られたり、決着したことだけで満足したりもせず、さらなる前進や飛躍に向かって、すぐに大胆に一歩を踏み出す信仰が要るのだ。

なぜなら、キリスト者に与えられる苦難とセットになって来る天の褒賞とは、多くの場合、現実生活において、信者が新たな前進や飛躍を遂げることのできる何かしらの稀有なチャンスとなって現れることが少なくないからだ。いわば、真っ暗闇のトンネルを通過するような激しい苦難の直後に、思っても見ない輝かしいチャンスが訪れるのである。

このようにして準備された天の褒賞に確固として到達しないことには、本当の意味で、信者の霊的な戦いは終わったとは言えず、ただ現状を守り通しただけでは、何も成果がないのと同然なのである。

それどころか、信者が天の褒賞を掴まないで、ただ現状を守り通しただけ満足してしまうと、神の守りから逸れてしまう危険性さえある。

特に、キリスト者の地上の住まいについては、特別な誘惑が伴うので、要注意である。クリスチャンが地上の住まいに固執することは、彼が地に安住してしまう危険性を常に伴うからである。もっとも、住まいに限らず、信者にはどんな事柄についても、自己満足したり、定住、定着、安住しようとする願望が、前進を妨げる大きな障害物となることに注意が必要である。

だが、筆者はここで、クリスチャンが地上の住まいを手放してホームレスになるべきだとか、すべての財産を文字通り捨てて無産階級になるべきだなどということを言っているのではない。そうではなく、神は常に信者が地上生活を送るために必要なすべてを供給して下さるのであり、信者はそれを享受して良く、当然、その中には住まいも含まれているのだが、信者はどんなものが信仰によって与えられても、決して地上的な利益に満足してその状態に定着・安住してはいけないし、それらに執着すべきでもなく、地上で与えられている状態が、過渡的で、不完全なものでしかないことを常に自覚して、地上においてさえ、常に今以上にまさったものを神が備えて下さっていることを信じて前進を続け、最終的には、天の都に到達することを目指さなければならない、と言いたいのである。(地上において決して現状に満足することなく、むしろ、現状に満足することを否んでさらに優れたものを求めて、たゆみなく前進し続けることは、天の都への行路と重なる。)

この点で、現在、オリーブ園にオースチン-スパークスの興味深い記事が連載されているが(末尾にも少し引用する)、そこにも、キリスト者が決して地的なものに巻き込まれることなく、天的な住まいに向かって歩み続けることの重要性が示されている。

キリスト者の前進は、こうして常に天の住まいを理想として、これを目指しながら、それに満たない地上の住まいを不完全なものとして拒み、前進し続ける時にのみ起きる。もし信者が地的なものを見てそれに満足し、そこに安住を企て始めると、たちまち霊的な前進はやみ、天の褒賞もなくなり、神はその事業から手を引かれるのである。
 
このような「地に定住する誘惑」は、信者の住んでいる地上の家が、快適からほど遠く、狭苦しく、貧相で、自慢もできない、あばら家に過ぎない時には、あまり大きなものとはならない。信者は自分の生活が不便であるうちは、早くそこを出て、もっと良い住処に行きたいと願い続け、その願いに天の住まいを重ねるので、地に定住しようなどという気にはならない。

しかし、信者の住んでいる家がそこそこ快適な住処になり、自分でも満足し、人に自慢もできるようなものになって来る時、信者がさらにまさったものを願い続けることをやめて、そこに安住してしまう危険性がただちに生じる。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

と聖書にあるように、クリスチャンが信仰によって地上生活で得られるものの中には、霊的な糧だけでなく、物質的な糧も含まれる。これまで書いて来たように、信者は、住居であれ、生活の糧であれ、仕事であれ、何であれ、望むものを、ただ主にあって、御言葉に基づき、信仰により地上にリアリティとして引き出し、獲得することができるのである。

だが、今、すでに目に見えているものに満足する心には、信仰は必要ない。もし今、信者が手にしているものに満足し、見ている風景に満足し、さらにまさったものを神に求めることをやめてしまえば、その時、信者はもはや目に見えるものによって歩んでいるのであって、見えないもの(信仰)によって歩んでいるのではないのである。信者の心は、地上の目に見えている物質や、よく見知った光景に束縛され、それに執着し、神はその状態をどうご覧になるのか、神はそのような中途半端なスケールでは決して満足されることはなく、それをゴールだとも思っておられず、信者にもっともっと遠くまで前進するよう望んでおられ、今見ている風景よりもはるかにまさった都を、実際に信者のために常に用意されているのだという事実を忘れ、否定してしまうのである。

筆者はこれまで幾度もクリスチャンの様々な家庭集会に出席したことがあり、そこで実に立派で麗しい様々な家々を見て来た。そこにある平和で、立派そうな快適な暮らしを見て来た。当時、筆者はそれをまるで自分には手の届かないものを見るように眺め、また、そうした信者たちの中には、小規模な家庭集会を組織することで、初代教会のような、巨大組織を持たない信者の群れを形成しようとし、それが神の御心にかなっているのだと考える信者もいた。

だが、当時の経験に立って、今、筆者が言えることは、筆者は今決して自分で家庭集会を開こうとは思わないし、それが正しいことであるとも思わない、ということだけである。なぜなら、家庭集会というものには、どうしても人間の見栄や競争願望が強く働き、結局、それは自分の暮らしの経済的な規模や、家族の人数などを自慢する場となってしまい、信者たちがいかに地に定着して自分の暮らしに満足しているかをアピールする場になり果ててしまうだけでなく、そこに別な信者を集めることにより、エクレシアを地上に固定化し、別な信者まで「地に住む」者としてしまうという反聖書的・悪魔的な意味合いが強く出てしまうからである。
 
筆者がこの地に来る前にキリスト者たちから聞いた言葉、また、筆者自身が聖書を通して得られる確信は、エクレシアは物理的・地理的制約とは一切関係ないということである。もっと言えば、エクレシアとは、神を信じ、神の子供として受け入れられた信者自身のことであり、地上に固定化された教会の建物とは一切関係なく、また、信者の住んでいる家とも関係ない。
 
にも関わらず、信者が、信仰を口実にして、自分の地上の家に固執し、これを信仰の賜物であるかのように他の信者たちに向かって自慢し、そこに満足して定着し、これを神の神聖な宮のように誇示し始めると、それはたちまち腐敗し、神の御心にかなわないものとなってしまう危険がある。このことは、信者たちが誇る地上の建物としての教会にも全く同じように当てはまる。大規模な礼拝堂を建設することで、信者が神に奉仕できると考えることは全くの誤りだが、信者の地上の家についても同じことが言える。自分の家の経済的規模を誇ることが、神の栄光には全くつながらないのである。
 
もちろん、神は信者の地上生活に必要なものを全て与えられる。そこには家も含まれる。信者は自分が望むことを神に申し上げ、信仰によってそれを実体化すれば良い。より良い家を求めることが悪なわけではない。だが、それは決して、信者が与えられたものに安住し、これを神が目指していた都そのものであるかのように誇るためではない。信者はたとえ地上的な利益が、当初は信仰によって与えられたのだとしても、与えられたものに決して満足することなく、そこに安住もせず、常にさらに先へ進んで行かなければならない。

こうして信仰により、信者が天の報酬を掴みながら、「栄光から栄光へと」、さらに優れた都を目指し、それに近づきながら歩み続けることは、たやすいことではない。その前進の最も大きな妨げとなるのが、信者の自己満足、自己安堵である。

信者は、一つの試練を立派に勇敢に耐え抜いても、一つの戦いに勝利しただけで、たちまちそれがゴールだと思ってしまい、それ以上、進んで行くことを考えなくなることもある。戦いの激しさに疲れ、前進したくないと思うこともある。そうなると、神は信者をさらに前進させるために、信者の自己満足を打ち砕くための新たな試練を課し、信者が握りしめているものを容赦なく剥ぎ取ることまで、時にはせざるを得なくなる。

できるならば、そのような深刻な事態にまで至り着く前に、信者は気力を奮い起こして立ち上がり、真に神の御心を満足させる完全・完成へと至り着かないことには、自分自身も決して満足などしないという気概を取り戻し、さらに前進すべく行軍を進めるべきであろう。
 
さて、個人的なことを言えば、今回、筆者が疑念を抱いたのは、横浜という街に住んでいることへの自己満足であった。筆者は横浜に何のこだわりがあるわけでもなく、この街よりも都会に住んでいたこともあれば、もっと田舎暮らしの良さも知っているが、それでも、以前よりも良い住環境を手にした時、この地にとどまって安住してしまう危険が自分に忍び寄っていることに、遅ればせながらようやく気づいたのである。

そして、信者は何か一つの激しい戦いを経て、勝利を得ても、決してそれですべてが終わったなどと思うことなく、(ただちに)生活をさらに拡張すべく、新たな戦いへ出て行くべきであり、霊的前進がないのに、生活の拡張もあり得ないという事実に気づかされたのであった。

筆者はこの地にやって来た時、神が力強く働いて移住を後押してして下さったという確信があったので、それに気を取られるあまり、この地に深く定着することは、全く神の御心にかなうことでなく、そろそろ別な道が用意されているかも知れない、という可能性をすぐには思わなかったのである。

それどころか、住環境がより良くなると、かえって出る必要など全くないかのように思い、この地を出るべき時がひたひたと近づいていることに、随分、鈍感であった。

ところが、よく考えてみれば、このところ、特にこの数年で、筆者は、横浜の街のみならず、首都圏全域が、まるでソドムとゴモラのように腐敗・変質していることを思わざるを得ない。役人は不誠実、横暴・凶悪になり、住人の気質は陰険になり、人々は互いに騙し合い、搾取し合い、殺し合い、首都圏は、表向きのブランドイメージとは似ても似つかない、善良な人間にとっては、空気を吸うだけでも耐えられないような腐敗して、長くはとどまれない街に変わり果てている。
 
横浜という土地にも、深刻な疑念を抱かざるを得ない事件が、ここ最近、連続している。まず、一昨年は「津久井やまゆり園」事件があった。(2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」が、施設に恨みを持つ元施設職員 の若い男に襲撃され、19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件)。そして、昨年は、座間の事件である。(神奈川県座間市の当時27歳の男が住むアパート室内で、若い女性8人 、男性1人の、計9人とみられる複数人の遺体が見つかり、死体遺棄事件として扱われた)。

こうした異常な事件では、どちらの場合にも、この社会で生きることに困難を覚えた社会的弱者たちが、その弱さを利用され、多数、犠牲とされた。後者の事件では、過酷な競争社会を生き抜くことに疲れを感じていた自殺志願者の若者たちの苦しみを足がかりにして、同じ若者世代に属する犯人が、同情的な態度を装いながら、彼らを騙し、歯牙にかけて殺したのである。

さらに、今年になると、新年早々、有名な着付け業者が、横浜の桜木町にあるみなとみらい店で、新成人を騙してサービスを提供せずに夜逃げし、新成人の成人式が大規模に台無しにされる事件が起きた。同様のことが八王子店でも起きたというが、これまで、首都圏でこんな事件が大規模に起きたことはなく、新成人という世代だけがターゲットにされることもなかった。しかも、業者の名前が「はれのひ」というから、皮肉も甚だしく、経営者が特別な反社会的な怨念に基づいて計画的に弱い立場にある者に無差別的な復讐を企てたかのような精神を感じざるを得ない。

だが、こうした事件だけでなく、筆者は日常生活においても、昔であれば、あり得ないような非常識なトラブルをよく見かけるようになった。さらに、西を向いても東を向いても、ブラック企業が蔓延し、それを取り締まる役所も機能停止し、弱い世代が根こそぎ犠牲にされ、食い物にされている。

さらに、このようにして前途ある人々が貧困に陥れられ、結婚もせず、家も買えず、車もなく、それゆえ少子化がますます加速している中で、同性愛者の人権などが公然と叫ばれるようになり、かえって、異性愛者が同性愛者に懺悔を迫られたり、肩身が狭くなる風潮が広がっている。同性愛者の人権を口実に、異性愛者が隅に追いやられたり、弾圧される世の中になりつつあることが感じられるのである。
 
こうした現象には、かつて「自分たちはキリスト教会で傷つけられた被害者だ」と主張するいわゆる「カルト被害者」を名乗る人々が、キリスト教界に登場して来た時、筆者のようなクリスチャンが、彼らの聖書に基づかない、およそクリスチャンらしくない、信仰の欠如した生き方を批判しただけでも、「被害者」を名乗る連中から袋叩きにされる危険に見舞われたのとそっくり同じ構図が見られる。

本来、キリスト教会というところは、聖書の御言葉への信仰を持つ信者によってのみ占められるべきであるのに、そこに、異常な牧師やカウンセラーたちが、「教会のカルト化」を憂慮すると言って、教会でつまずき、傷つけられたとする「カルト被害者」を、「加害者」たる教会が「救済」しなければならない責任があると叫び始め、公然と「被害者」たちをあたかも信者であるかのように教会に招き入れたために、教会が、もはや信者たちの場所ではなくなり、むしろ、教会や信者によって傷つけられたとする、信仰もあるかどうか分からず、さらには教会自体に怨念を持つ人々のたまり場へと変質させられて行ったのである。(その中にはキリスト教と縁がないばかりか、長年、カルトと批判される新興宗教の中にいて、ほとんど無理やり脱会させられただけの他宗教の信者なども数多く含まれていた。)
 
こうして「カルト被害者救済活動」が教会を舞台に公然と繰り広げられた結果、本来、最も教会のメンバーたるにふさわしいはずの正常な信仰を持つクリスチャンが、かえって「加害者」や「悪魔」のレッテルを貼られて、教会から外に追いやられる一方で、信仰の欠片もない「被害者」たちが堂々とまるで「信者」であるがごとくに教会に居残るという転倒した現象さえ、起きたのである。(このようなことは、いわば、教会の本当の信者たちを駆逐して、信仰を持たない人々に総入れ替えするために悪魔的勢力によって行なわれた、教会全体の乗っ取りであったと言えるだろう。)
 
ちょうど同様な現象が、LGBTの人権問題を皮切りに、起きつつあると言えよう。

「自分たちはこれまで差別され、苦しめられ、抑圧されてきた被害者・社会的弱者だ」と名乗る人々が現われ、彼らの存在を利用して、本来、何の問題もなかった正常なはずの人々に「加害者」のレッテルを貼り、罪悪感を抱かせ、追い詰め、これらの人々を駆逐して行くことをきっかけに、正常なものを異常なものによって駆逐し、取り替えようとする動きが出ているのである。

同性愛が、聖書において、神が定められた人間の自然なあり方でないことは繰り返すまでもない。だが、何者かが、同性愛者の「差別され、踏みにじられた人権の救済」を声高に主張することで、同性愛者対異性愛者という対立項をまことしやかに作り出し、同性愛者を異性愛者にぶつけ、両者を戦わせ、異性愛者に「加害者」のレッテルを貼って追い詰めることで、異性愛者を隅に追いやり、ますます異性愛者が生きづらくなり、少子化が加速化するだけの世の中を作っているのである。

その結果として、ついに最後は、結婚のイメージや、夫婦のイメージ、家族のイメージまでもが塗り替えられることであろう。同性同士の結婚が当たり前になり、チャペルは連日、同性愛者の結婚式を扱うようになる一方で、異性愛者は、彼らを差別し排除して来た「罪ある抑圧階級」として、うなだれて、隅に追いやられることになりかねない。

暗闇の勢力の真の目的は、社会的弱者の救済でもなければ、同性愛者の人権の「回復」(?)でもない。むしろ、同性愛者を口実にして、正常で自然な結婚生活、神が造られた自然な男女のあり方そのものを破壊し、駆逐し、根絶して行くことにこそあるのだと言える。

聖書に記されたソドムとゴモラの街は、不法や姦淫が満ち溢れていただけでなく、男色の街だったことに注意が必要である。それなのに、今やクリスチャンや牧師を名乗っている人々でさえ、同性愛者の人権の擁護に回っている始末である。

このようなわけで、筆者は近年、首都圏全体が、もはやソドムとゴモラ同様になりつつあるという感覚を抱かざるを得ない。

さらに、首都圏では、官民を問わず、あまりにも虐げと搾取が横行している。非正規雇用化が進み、どの職場も、まるで信者を食い尽くして存続するカルト団体のように、従業員や職員を骨までしゃぶりつくして利益を上げることに邁進し、長時間残業や、過労死や、不当な解雇や、賃金未払いや、職場でのイジメが横行して、働いても、働いても、豊かになれる見込みのない社会層が国民の圧倒的多数を占めるようになり、彼らは、未来の展望のまるでない、仕事と呼ぶよりも、もはや懲罰にも等しい働き方の中で、じわじわと殺されつつある。このような、カルト団体にも等しくなった社会がまるで「常識」のごとく唱える未来のない異常な生き方に自ら身を委ねるのは、自殺行為にも等しい、と言わざるを得ない。

こうして、貧しい人々を容赦なく踏みしだき、虐げながら、また、被災地の人々の苦しみを見殺しにしながら、一部の巨大企業だけが偽りの経済繁栄を享受して、政府はそれだけを根拠に我が国の経済は復興したと唱え、戦前回帰のイデオロギーに基づき、ありもしない「神国」の威光を世界に知らしめすべく、呪われた祭典としての東京オリンピックが進められようとしている。

筆者にはこんな異常な祭典が正常に開催されるとは到底、信じられないが、この祭典とそれが招きよせる呪いや破滅に巻き込まれないよう、そこから遠ざかる必要を感じないわけにはいかない。

いずれにせよ、カルト団体の中にとどまっていながら、幸福に生きることができないのが当然であるように、このように歪んで呪われたイデオロギーに基づく不毛な土地には、さっさと背を向け、その支配下にとどまることを避けるべきではないだろうか?との疑念が高まるのである。

カルト団体を是正しようとしても無駄なように、政治改革を唱えて、この異常なものと取っ組み合い、それを是正することが信者の仕事ではないであろう。彼らは自らの信念に従い、行き着くところまで行き着いて滅びるしかないことであろう。
 
そういうわけで、長年、安住という状況からほど遠かったがゆえに、特定の地に定住する危険にはさほど見舞われず、それに鈍感であった筆者も、今の首都圏では、何をどう模索しても、明るい未来の展望を切り開くことは無理なのだと思わざるを得ない。それどころか、ここはまさにソドムとゴモラの街そのものであり、どんなにこの腐敗した街で平和と安寧を享受したとしても、それは偽りの繁栄にしかならず、到底、神の御心を満足させるものとはならないのではないかと考えざるを得ない。

信者は、常に心の中では何も持たない貧しいやもめのごとく、身一つで、さらにまさった天の都を目指して歩き続けるべきだが、とりわけこの街については、神の使いは今、この街の大々的な腐敗に心を痛めている人々に一人一人、声をかけて、エクソダスの時を知らせておられるのではないだろうか、という思いさえこみ上げてならない。だが、もしその直観が思い過ごしでなく正しいものであるならば、遠からず、神はそのように道を整えて下さるであろう。
  
以下、オースチンースパークスの論説を引用して終える。

 「土台のある都」 第一章 導入的概論 (9)

四.寄留者であり旅人である

 それと密接に関係し、対応していることですが、その土地のアブラハムは寄留者・旅人として幕屋の中に住み、その地に何の分け前も持たず、その土地では旅人だった、と告げられています。これは天的性質の特徴ではないでしょうか?ここでは寄留者であり旅人です。しかし、それでは私たちはどこに属しているのでしょう?ペテロは彼の手紙を書くときこう述べています、「愛する者たちよ、私は旅人であり寄留者であるあなたたちにお願いします……」(一ペテ二・一一)天の国に属しており、天の市民権を持っているのです。

五.地的庇護や報いを拒むこと

 この世からの庇護や報いは、アブラハムには何もありませんでした。彼は正しい諸原則のために尽力したかもしれませんし、そうすることによってこの世の人々に益をもたらしたかもしれませんが(この地上の主の民の霊的奉仕がこの世に対して、この不敬虔な世に対してすら、何らかの益を及ぼしたことに、異を唱える人がいるでしょうか?その中に主の民がいなければこの世がどうなっていたかは、主だけが御存知です)、アブラハムは彼の活動から益を受けたこの世の人々や、ソドムとゴモラの町の人々に対して、彼らが何らかの報いを与えて彼を庇護しようとした時、「結構です」と言いました。アブラハムは依然として外に立っていたのです。

 この地上の神の民の奉仕を利用すること、彼らに感謝、称号、地位を送ること、彼らをこの地上の人々の間で重要なものにすることが、これまで悪魔が仕掛けてきた最も深刻な罠の一つでした。これらの昇進が行われ、これらの贈物が与えられ、この感謝が送られ、これらの地位が与えられる時、往々にして、深遠な霊的重要性が失われ、その生活の実際の霊的価値は終わりを告げることがわかります。多くの真に価値ある神の僕の悲劇は――彼らは霊的な方法で神によって力強く用いられましたが、その霊的価値を失い、その特徴を失ったまま人生を終えました――何らかの方法で彼らが感謝・受容されるようになり、この世からの感謝と恩恵と報いを受け取ったせいでした。天的性質と分離を維持することが、霊的価値を維持するのに必要不可欠です。

 


神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるだから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

さて、 今回は、憲法に定められた居住移転職業選択の自由について、また、聖書において信仰者に与えられている自由について、この二つの話題を関連付けながら書きたい。

もっとはっきり言えば、聖書の御言葉を信仰によってこの地上に具現化することが可能であるならば、なおさらのこと、我々信仰者にとっては、憲法に保障された自由を具現化することくらいは、朝飯前だ、という話題について書いておきたいのだ。

ところで、冒頭から物騒な話を書くようだが、筆者は、籠池泰典氏夫妻が逮捕されたのと同じ今年の7月31日に、ブラック企業から突如としてクビを言い渡されそうになり、その是非についてしばらく争うという事件があった。

ちょうど引っ越して間もない頃だったので、筆者には、悪魔がこの出来事を通して企んでいる事柄が手に取るように理解できた(悪の軍勢は前々から筆者をこの土地から追い払いたく思っており、筆者の生活が少しでも豊かになったり、幸福になったりすると許せない思いで、妨害せずにいられないのである。)

もうはるかに昔のことではあるが、過去に筆者は一度だけ、自分で生計を立てることに自信がなくなり、お気に入りの家財をただ同然で売り払い、気に入っていた家をも手放して、よその土地に移ったことがあった。その頃の筆者は、まだ悪魔の策略に一人で敢然と立ち向かうなどということはおよそ考えたこともなく、聖書の御言葉の力なども全く知らない、無自覚で未熟な若いクリスチャンの一人に過ぎなかった。当時の筆者は、信仰者としては精神的に未熟で、いつも自分以外の誰かに心の支えを求めていたし、たくさんの思いがけないネガティブな出来事が、まるで洪水のように不意に積み重なって押し寄せて来る時に、それにどうやって一人で立ち向かうべきかなどと考える知恵もなく、その勇気もなく、立ち向かう前に、さっさと諦めて退却する道を選んでしまっているような臆病な信者であった。そして、それが暗闇の軍勢に対するあまりにも情けない敗北であることにさえ気づいていなかった。

その当時に起こった様々な出来事は、筆者の心にはかりしれない衝撃を与え、トラウマにも近い悲しみを呼んだ。その家を去るよりも前に、まず親族が住み慣れた家を離れて郷里に帰ってしまっていたので、まるで家が二つなくなったかのような衝撃や喪失感をも受けたのであった。

だが、その時の苦い経験を経て、また、その後、聖書の神との力強い本当の出会いを経て、今や、筆者はそういった人間を苦しめ、追い詰め、絶望に至らせようとする数々の出来事が、決して偶然ではないこと、その実に多くが、悪魔に由来する攻撃であり、信者が信仰によって立ち向かわなければならない苦難なのだということをはっきりと理解するようになったのである。

筆者はそうした喪失の後で、神の御言葉に基づき、再びすべての必要を不思議な形で満たされて立ち上がり、移住を遂げた上、今度こそ自分の力によらず、信仰によって、以前にもまさる幸福な生活を打ち立て、徐々にそれを拡張して来たのであった。それと同時に、そのようにして信仰によって上から与えられた生活を、信仰によって今もこれからも自分が守り抜かねばならない責任を負っていることをも知らされたのである。
 
そのような過程を経た現在、筆者は、たとえ悪魔がブラック企業のような団体を通して馬鹿げた宣告を言い渡して来たとしても、そんな内容を真に受けて、神がせっかく与えて下さった自由や解放をみすみすと手放していたのでは、この先、到底、生きていけないことを、とうに理解していた。むろん、筆者も人間なので、理不尽な事件に出会えば憤慨もすれば、嘆きもするが、かといって、自分のせいで起きたわけでもないことを、まるで自分の責任ように負って、不当な苦しみを黙って耐えているようであっては、神の名折れであり、信者の風上にも置けないことくらいは承知していた。

そういう時には、クリスチャンは、悪魔の策略に知恵を駆使して立ち向かい、暗闇の軍勢の当てが外れて、彼らが恥をかかされねばならなくなるように、首尾よく戦うべきなのである。

きちんと立ち向かうと、嘘の霧はさっさと晴れるものだ。抜群のタイミングで問題は解決し、筆者の不敗記録はまたしても更新され、それによって、筆者の信仰および聖書の神の正しさがまたしても暁の光のようにはっきり現れた。

筆者はクビにされず、かといって、労働の義務も免除されたので、結局、「空の鳥のように、野の花のように、蒔くことも刈ることもしないで、神が生活を保障して下さる」という、筆者が今まで唱え続けて来た生き方が、またしても現実になったのである。悪魔が振り上げた斧が、かえって悪魔自身に打撃となって跳ね返るのを見せつけられたような恰好である。

このようなことは、今までにも、幾度も実現して来たが、筆者の目から見て、このようなことは決して偶然に起きることではなかった。筆者はいつもいつもアダムの呪われた苦役としての労働には加担しなくて良いと放免されるのである。

これまで再三、ブログで書いて来たことであるが、筆者の目から見て、この地上における労働とは、罪ある人間が自分で自分の罪を贖おうとする達成不可能な努力のことを指す。

つまり、今や地上における労働とは、人が単に生計を支えるための、もしくは他者の必要に応えるための働きのことではなくなり、本質的に、人類が自分で自分の罪を贖うための自己救済の試み、神に逆らうバベルの塔建設の試みになってしまっているのである。

筆者はこれまで、自分の生活を自己の努力によって拡張したことは今まで一度もない。筆者の人生に劇的な展開(飛翔・拡張)がもたらされたのは、いつも筆者が、信仰によって、聖書の御言葉の実現を求めたときのことであった。それに引き換え、筆者が懸命に働いて、自己の労働によって自分を養い、支えようとし始めると、途端に物事は悪い方へ転がっていくのである。

毎日、すし詰めの満員電車に乗って阿鼻叫喚の地獄のような混乱の中を通勤し、上司の覚えめでたい部下となるために、粉骨砕身して夜遅くまでサービス残業したり、休日を返上までして働き、そうして自分の涙ぐましいまでの努力によって、自分をひとかどの人間として世間に認めてもらおうとする人生は、神の目にはまさに呪われていると言って良い、と筆者は考えている。

そのような努力は、決してまっとうな労働とは呼べず、勤労の義務という概念からも外れており、どんなに繰り返しても、人の幸福にも安定にもつながらないどころか、人をますます追い詰めていくだけである。それは、そのような(今日において当たり前のようにみなされている歪んだ)労働の概念が、本質的に、人類の自己救済の願望から来るものだからであると筆者は考えている。

昨今、この世における人類の労働という概念は、ますます人が自分で自分を義としようとする神に対する反逆を意味するものになりつつあって、今回も、その結論がまた裏づけられる結果となったのだと筆者は考えている。
 
このような経験を幾度も味わった結果として、筆者が今考えることは、もしかすると、旧創造(神によって贖われない、滅びゆくもの)を維持する責任は、旧創造自身にあるのかも知れない、ということである。

冒頭に挙げた御言葉からも分かるように、神は、クリスチャンに対し、神の国と神の義をまず第一として生き、衣食住のことで思い煩うな、と命じている。

信者にも、生きている限り、衣食住の問題はつきまとう。にも関わらず、神は聖書を通して、そのような問題は二義的であるから、クリスチャンは衣食住のことで悩まず、まずは神の国と神の義に注意を向けなさいと教える。

だとすれば、筆者が信者として一義的な問題に心を砕くのは良いとして、筆者の二義的問題を解決する責任は誰が負うのであろうか?

実は、その責任はこの世が負うのではないだろうかと筆者は考えている。

むろん、直接的には、クリスチャンを養うことは、神の仕事である。クリスチャンは「日々の糧を与えて下さい」と神に向かって祈ることができるが、しかし、そのような訴えを延々と繰り返さずとも、神は自然に信者に必要なものを送って下さる。そして、その多くが、この世から不思議な形で提供されるのである。

もっとはっきり言えば、この世にはクリスチャンを支えなければならない義務と責任があるのではないだろうかとさえ、筆者は思うのである。(この世はこれを聞いて憤慨するであろう。だが、実際に、神の国と神の義を第一にして生きるなら、信者は、いつもこの世が自らの富をすすんでクリスチャンに明け渡す結果にならざるを得ないことを痛感するのではないだろうか。)
 
さて、話題を戻すと、本日は、居住移転職業選択の自由、というのがテーマなので、聖書と憲法をからめて語りたい。

筆者の世代は、これまで労働市場において全く有利とは言えない数々のハンディキャップを負わされて来た。だが、それにも関わらず、我らが憲法は、「職業選択の自由」を国民に約束している。

この言葉の意味は絶大である。

なぜなら、それは「雇用主が労働者を選ぶ自由」ではなく、労働者たる「国民が自ら職業を選ぶ自由」を保障するからだ。

筆者はこれまで繰り返し、記事の中で、キリスト教の信仰者として、聖書の御言葉の記述をリアリティとして地上に引き出すことが可能であることについて記してきたが、それに比べれば、人間が造ったことばに過ぎない憲法の文言を具現化するくらいのことは、非常にたやすいことなのだ。

というより、憲法が国民の権利として保障している程度の内容ならば、それは最低限度の条件として、ほとんどすべてが聖書の約束の中に含まれているとも言えるかも知れない。

しかし、残念なことに、今日、多くの国民にとって、憲法の文言は単なる絵空事でしかない。

それは労基法が、多くの雇用主ばかりか、労働者にとっても、絵空事であるのと同様である。

多くの労働者は、残業代を受け取る権利が自分にあっても、雇用主から「それはあんたが勝手に行ったサービス残業だから、残業代を支払うつもりはない」と言われれば、あっさりとあきらめてしまう。

それどころか、雇用主から、ある日、「おまえはクビだ!」と言われれば、それがどんなに不当な理由でも、さっさとあきらめてしまう者も少なくない。

だが、不当な結論を黙って受け入れるのは、悪魔の不当な言いがかりをすべて真に受けて、自分が悪かったと全面的に降伏するのと同じである。自分の側に落ち度がないならば、そんなことをしてはならず、不当な主張とは戦って、身の潔白を主張し、権利を取り返さなければならない。権利は行使しなければ、失われてしまうのは仕方がない。

この時、権利を主張するための正当な根拠となるものが、法である。

憲法は法の中でも最高法規である。

この最高法規に基づいて、日本国民は自分の望みを自分の当然の権利として主張し、「要求する」ことができる。

このようにして、法的根拠に基づいて自らの権利を主張することで、論敵の不当な言い分を退けるという論戦は、基本的に、聖書の神を信じるクリスチャンが、聖書の御言葉を自分に対する神の変わらない約束として受け止め、それを根拠に、神に対してその約束の実現を求め、同時に悪魔の不当な言いがかりに対して立ち向かう論戦と、基本的にルールは同じである。

さて、国民はどのようにして「職業選択の自由」を現実にすることができるのだろうか?

それを考えるに当たり、まず、今日、我々がまるで当たり前であるかのように思い込まされている状況が、どんなに理不尽な嘘であるかを理解しなければならない。

憲法は「職業選択の自由」という、素晴らしい権利を国民に保障するに当たり、国民を「学歴」や「職歴」によって分け隔てしているだろうか?

たとえば、途切れ途切れの短い職歴しかない人間や、転職回数の多い人間は、まっとうな就職はできず、ひどい仕事にしか就ける見込みはない、などと言っているだろうか?

転職回数が5回を超えれば、もう正規雇用の道は閉ざされたも同然だ、とか、前職でクビにされたり、前職を自己都合で退職したら、次にはろくな仕事が待っていないぞ、などと脅したり、勤続年数が少ないから、まともな仕事に就けない、などと言っているだろうか? あるいは、正社員になれるのは、ほんの一握りの人たちだけであり、それ以外の人間は、もういい加減にあきらめるべきだ、などと言っているだろうか?

そんな条件は全くつけられていない。

制限となるのはただ一つ、「公共の福祉に反しない限り」という一言だけである。
日本国憲法第22条第1項

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する

この権利保障には、職業選択の自由だけでなく、居住移転の自由も含まれている。
 
そして、職業選択の自由の場合と同じように、居住移転の自由を保障するに当たっても、憲法は、「立派な職業がなければ、立派な家に住めませんよ」とは言っておらず、「大家さんのご機嫌を損ねたら、退去させられます」とか、「かれこれの年収がない人には、引っ越し自体が土台無理です」とか、「職歴のない人間には、家は借りられません」とか、「住みたいところに住むためには、まずあなたの年収を上げる努力をしなければ」などの条件をつけていないのである。

このように、居住移転、職業選択の自由は、大家や、雇用主の自由を保障するものではなく、あくまで国民一人一人に与えられた選択の自由である。

もう一度、目を凝らして読んでみよう。

そこには、「雇用主が、自らの都合や好みに従って、労働者を選ぶ自由」ではなく、「国民が、自分の都合や好みに従って、職業を選ぶ自由」がある。

だが、もし選択肢が一つもなければ、そんなものは自由とは呼べないだろう。従って、職業選択の自由の中には、選択肢が豊富にあるということが、前提として含まれているはずである。

それならば、求職者が現実にありったけの求人広告を目を皿のように探しても、何一つ希望する条件に合致するものが見当たらなかったり、どんな仕事に応募しても門前払いを食らわされたりするのは、どういうわけなのだろうか?

憲法が間違っているのか?

いや、そうではない。憲法に矛盾する現実がおかしいのである。

さて、ここからが勝負所である。

ここで、国民一人一人が選択するのである。法の支配を現実として受け取るのか、それとも、法の支配にそぐわない、それに反する現実を「現実」として受け取り、約束された自由をみすみすあきらめるのか。

あきらめたくない人は、どんなに法に反する「現実」がまことしやかに、当たり前のように広がり、人々に常識のごとく受け入れられていたとしても、その「現実」こそが異常なのだという点で譲ってはならない。

分かる人には、筆者の言いたいことはすでに理解できたであろうから、あまり長々と論証することは必要ないと思われる。これは憲法にまつわる話といえども、ほとんど信仰の領域にも等しい内容である。

筆者は、最近、「居住移転の自由」を自らの権利として行使し、約束の保障を具現化するということをやってみたのだが、その際、年収だとか、ローンだとか、頭金の額だとか、いわゆる普通に家を移り住む時に必要となるすべての条件をほとんど筆者は度外視して(そうした条件にほとんどとらわれず)、願いを実現に移したのであった。

筆者はそれまで何年間もの間、「移転」の方法を模索して来たのだが、以上に挙げたような、好条件をすべて持っていたわけではなく、それらがすべてそろう展望があるわけでもなく、それにも関わらず、そうした条件がすべてそろわなければ、「移転」は不可能だとは信じず、しかも、妥協することによって自らの願いの水準を引き下げるのでもなく、自らの願いを実現する方法が必ずあるはずだと信じ続け、そして実際にその通りに、道を開いたのである。

だからこそ、その経験に立って言うが、憲法に保障された居住移転の自由を、絵空事でなしに実現できるなら、職業選択の自由を行使することも、できないはずがない。

このように、法の支配を、それと矛盾するように見える現実を打ち破って実現し、現実を見えない法の支配に従わせることは、信仰を持たない人間の地上生活レベルでも実現可能なのである。多くの人は、それを実行に移すよりも前から、現実を見て、法の支配を行使することをあきらめ、自らに約束された保障をあきらめ、手放してしまうが、それは正しくないのである。
 
このように、人間が造った法規に過ぎない地上の憲法でさえ、これだけの自由を人に保障してくれているのだから、まして、絶対的に正しい聖書の神が、被造物である人間のために悪法を定められるはずがなく、信じる者の望みをいたずらに制限したり、無碍に扱われるはずもない。

聖書の御言葉はどれも神から信者への変わらない約束であり、信仰によって実現することが可能なのである。憲法に書かれた文言が、国民にとって単なる絵空事で終わらないように、聖書の御言葉は、信者にとって、目に見える現実を超越して支配する見えないリアリティなのである。
 
そのことは、この先の時代、ますますはっきりと証明されるだろうと筆者は考えている。

今でも、多くの人々は、働いて収入を増やすことによってのみ、自己の自由の範囲を拡大することができると考えているが、実際には、そのような考えは根本的に間違っていると言える。

実際には、人間の自由と労働との間には、何の関連性もないのである。労働を通して収入を増やすことによってのみ、自由の範囲が拡大するという考えは、憲法にも反しており、聖書の御言葉のリアリティにも反する悪質な虚偽であると言える。

ところが、世間では、今になってもまだ、労働して己を支えて生きることこそ、まっとうな生き方であるとみなされている。そういう人々には、ブラック企業で不当解雇されたり、サービス残業を強制されたり、果ては賃金さえ払われず、長時間残業のために過労死するなどのことは、自分には決して起こるはずのない他人事に見えているのであろう。

だが、筆者は、自己の労働を頼りとする生き方は、この先、ますます絶望に落ち込んで行くだけだと考えている。それは、国民全体に勤労の義務を課すことで、社会全体の負債を国民に分かち合わせるという考え方自体が、本質的に、共産主義思想につながるからである。

話が飛躍していると思われるかも知れないが、前にも書いたように、筆者の目から見ると、現在の日本社会は、ソビエト体制に非常によく似た歴史的経過を辿っており、この国は、表向きの体制や法体系とは別に、本質的に社会主義国なのではないかと考えずにいられない。

1928-29年にソビエトで強制集団化がなされた。

この時、農民・労働者にそれまでの税金の水準に照らし合わせて、思いもかけない高額な税金の納付書が届き、家畜にも重税が課され、家畜のと殺も罪とされた。

そこで、自身の税のみならず、家畜の税が払えず、家畜も没収の上、強制収容所送りになるような人々も出た。払いきれない法外な税金を何とかしてくれとソビエト国民が閣僚に泣きついた数多くの嘆願書が残されている。

さらに、農民を対象として政府による穀物徴発などが行なわれるようになり、農家が屋根裏に隠していた穀物までも国家財産として強制的に取り上げられた。

こうして、レーニン死後、それまでソ連が戦後の荒廃から立ち直るために、比較的自由な経済活動が許されていたネップの時代が終わり、ネップの時代にようやく少しばかりの財産を築いた農民や労働者が「富農」として非難され、彼らからの強制的な取り立てが始まったのである。

赤い貴族とも揶揄された政府要職にある一部の特権階級も同然の裕福な人々を除き、圧倒的多数のソビエト国民が極貧の生活を耐え忍ばねばならない時代が始まったのである。

こうして、文字通り、すべての私有財産が廃止されるという共産主義の理念が実行に移されたわけであるが、しかし、廃止された私有財産は国民のものとはならず、その代わりに、すべての財産が国有化された。国民の勤労の成果も、すべて国の財産として没収されたのである。

こうして、すべての財産が、人類の未来社会に共産主義というユートピアを生み出すための母体である国家のものとされたため、ソビエト国民は、自分が飢えて死なないために、コルホーズからジャガイモ一個盗んでも、国家財産の窃盗として死刑に処されるようになった。それだけではなく、そんな恐ろしい生活から逃げるために国外亡命しようとすることさえ、国家に対する裏切りとして死刑に価する罪とされた。こんな恐ろしい国から逃げる自由さえなくなったのである。

こうして、労働者・農民の天国を作ることを目的としていたはずのソビエト政権が、労働者・農民に対する恐ろしい収奪、抑圧を実行に移し始めた。やがてそれは労働者・農民の財産の没収、労働の収奪(搾取)だけには終わらず、やがて無差別的で大規模な思想弾圧の実行に結びつき、その結果として、特に、大粛清と呼ばれる36-38年の時代には、数えきれないソビエト国民が無実にも関わらず逮捕され、投獄されたり、銃殺されたり、強制収容所で強制労働させられたりすることになった。

強制集団化から大粛清の時期までに、約10年近い時が経過しているが、今、日本は、強制集団化の時点に差しかかっているのだと筆者が考えていることは、別な記事でも書いた。

今、サラリーマンや、自営業者や、その他の、これまで普通に働いて、己を支えて生きて来た国民(立憲民主党の枝野氏の言葉によれば、かつては「分厚い中間層」を形成していたような国民)が、国家によって強制的な収奪の対象とされ、貧困に突き落とされ、やがては死の淵にまで追いやられるような時代が近づいていると、筆者は感じている。

ちなみに、立憲民主党は、「分厚い中間層を取り戻す」ことを公約に掲げているが、筆者の予測では、この先の歴史は決してそのようにはならない。筆者の予感が的中していればの話だが、今、我が国で起きていることは、「雇用情勢の破壊」でもなければ、「中間層の没落」でもなく、「下流老人の増加」でもない。

これは目に見えない形での、一般国民の私有財産の段階的な廃止なのである。

なぜ過労死などといった問題が起きるのか、なぜ労働市場においては残業代が支払われない方向へ向かっているのか。マイナンバーとは何なのか。これらの問題は、この国がすでに実質的な社会主義国であり、徐々に「共産主義」社会へ向かっているという理解なくしては解明できない。

それはとどのつまり、今のこの国では、社会そのものを存続させるために、すべての国民に、平等に負担を負わせようとする政策が推し進められていることを意味する。

すべての国民に平等に(社会を維持するための)負担を負ってもらうために、報われない労働にもどんどん従事してもらい、どんどん財産を没収しましょうという目に見えない政策が進行中なのである。

この国に革命は起きておらず、表向き、資本主義国であることに変化はないが、それでも、見えない革命が起きたも同然に、この国の最上層部は、すでにクーデターによって取り替えられ、社会の仕組みは以前とは全く異なっているのだと言える。
 
今の安倍政権は、第一次の投げ出しに終わった安倍政権とは本質的に全く異なり、今現在、この国が向かっている先にあるものは、「富はすべて国のもの(土地や財産の国有化)」、「すべての負債は国民のもの」(労働の義務及び私有財産の廃止)という、ソビエト体制とほとんど変わらないような負債の連帯責任の社会なのである。

社会主義国では、私有財産制度が廃止されているので、労働者が働いても働いても、その成果が給与に反映されることはなく、店の売り上げがどんなに伸びても、それが労働者の賃金になって跳ね返って来ないので、言ってみれば、そんな社会では、働く意味自体がないに等しい。

怠け者が少ししか働かなくても、勤労者が大きな働きをしても、どちらも同じ報いしか受けないような社会では、労働意欲に溢れている人間ほど、搾り取られるだけに終わるのは目に見えている。

我が国では、名目上、私有財産制は廃止されていないものの、実質的には、それにかなり近い状態が進行している。

労働者の給与は、残業代の固定化、もしくは廃止、あるいは労働時間にとらわれない裁量労働制が広がることにより、個人が働いても働いても、その成果が労働者にますます還元されにくく、かえって一人一人の労働の成果が、会社の共有財産のように分配される時代が近づいている。

安倍政権になってから、貯蓄ゼロ世帯が増えたが、貯蓄がゼロということは、他の財産もほとんど無いに等しい状態を意味する。

若者の車離れも進んでおり、土地もなければ、家もなく、あるとすれば負債だけで、学費すらも、奨学金という負債を抱えなければ捻出できない。そういう世帯が増えているということだ。

このようなことは、目に見えない形で国民の間で私有財産制度の廃止が進んでいることを意味すると言えないだろうか? ほんの一握りの莫大な富を有する富裕層を除き、それ以外の90%以上を占める下層民(そこにはかつて中間層と呼ばれた人々も含む)は、働いても働いてもその成果が何ら給与に反映されず、豊かになれる見込みもなく、貯蓄も減って行く一方で、ほとんど私有財産がなくなるまでに貧困化が進むという事態が、国家の政策レベルで進行中なのだ。

筆者の考えでは、これは目に見えない、段階的な、下層民の間での私有財産制度の廃止そのものであり、この先、ますます、このような傾向は深刻化して行くことになると思われる。
 
政府がサラリーマンからも自営業者からも所得税や年金の取り立て額を引き上げるというニュースがネットを巡っているが、それもこうした流れの中で起きていることであり、いずれその徴収額は考えられないほどにべらぼうな金額にまで引き上げられ、働いてもほぼ意味がないほどまでになって行くものと考えられる。

また、現時点では、共謀罪で死刑とされた人はいないが、これから10年ほどが経つ間に、税の取り立てなどの労働者への収奪がより深刻化すれば、それに伴い、ソビエト政権下で起きたような政府に対する反乱を未然に防ぐための思想弾圧が、この国でも大々的に起きる可能性がないとは言えず、共謀罪はその布石なのだと考えることは十分に可能である。

このようなことは、この国がもはや資本主義国ではなく、社会主義国である、という観点に立たなければ、その意味が本当には理解できないのではないかと筆者は考えている。

この国がどこかの時点で、完全に方向転換して、安倍政権の唱える「この道」(それは安倍晋三自身が考えついて提唱しているだけのものではなく、その背後に存在する勢力と理念がある)を拒否しないならば、必ず、そのような末路にまで行き着くであろう。

さて、共産主義とは、文字通り、すべての人が幸福社会の実現のために平等に働く社会のことである。

概念上では、その幸福社会には何でも豊かにそろっており、商品やサービスをお金で買う必要もないので、私有財産などもとから必要ないのである。

しかし、結論から先に言ってしまえば、そういう社会を理想とする思想の最大の問題点は、そんな社会が到来することが本当にあるのかという一点に尽きる。

むしろ、理想社会の到来を口実にして、人々の財産と労働の成果を不法に収奪することが、その思想を土台に作られる社会の本当の目的となってはしまいかという点にある。

誰もが平等に労働することによって、本当に幸福社会が到来するのならば良いが、もしその幸福社会の実現が、絵に描いた餅でしかなく、人々をタダ働きさせるための口実にしかならないならば、そんな呪われた「幸福社会」の到来を額面通りに信じて、その到来のために真面目に労働する人たちが最も馬鹿を見させられることになる。

「いつか人類の幸福社会が実現して、モノが豊かに溢れ、格差がなくなり、誰も貧しさに苛まれることのない、豊かで幸福な世の中が来ます。そして、その時には、あなたも好きなものをよりどりみどり、何でも自由に取って楽しめるのです。ですから、あなたはそういう社会の到来を信じ、その時が一刻でも早まるよう、粉骨砕身して労働し、今は雀の涙のような少ない給料や、ただ働きにも黙って耐えて我慢しなさい」

などと言われれば、

「えっ、それって、要するに、詐欺ですよね?」とただちに問い返すべきである。

「間もなく日本は戦争に勝利するのですから、その時は、何でも欲しいものが自由に手に入ります。ですから、勝つまでは、欲しがりません、と言って、みんなで貧しさに耐え、お国のためにすべてのものを差し出しましょう」などと言われれば、「いや、それって詐欺ですよね。私たちからすべてのものを身ぐるみ巻き上げた国が戦争に勝つ時なんて、絶対に来ないと思いますよ。そもそも戦争に勝てる力があるなら、こんなことをやる必要もないと思います」と即座に切り返さなければならないのである。

「どうせ約束した共産主義のバラ色の未来なんて、初めから嘘っぱちでやって来ないんでしょう。そのバラ色の未来を口実にして、今、国民からあらゆる権利を、財産を、労働の成果を取り上げることだけが、あなた方の本当の目的なんでしょう? 嘘はいけませんよ、私は信じませんし、応じませんからね」と返答し、そんな不当な契約は悪魔に突き返すべきである。

「未来の幸福社会」などというあるはずもない謳い文句を口実に、実際に、結ばされるのは、ひたすら赤字や負債だけを山分けするという不利な契約だけだからである。

そういうわけで、現在の日本社会においては、今までと同じように、国民一人一人が頑張って働きさえすれば、社会全体が底上げされて、みんなで豊かになれるという前提が、もう幻想も同然に、存在していないのである。そのような時代は過ぎたのであり、今となっては「神話」である。

そもそも日本がかつてのような経済的繁栄を取り戻せるという発想自体が幻想なのだが、その幻想の中には、アベノミクスという「神話」だけでなく、残念ながら、立憲民主党の主張している「分厚い中間層を取り戻す」という「神話」も含まれると筆者は考える。

現実には、国民一人一人が頑張って働けば、社会が底上げされるどころか、少子高齢化及び原発事故等々のツケをその一人一人がみな連帯責任のごとく負わされることになるだけであり、しかも、労働できる世代や人口自体が限られている以上、一人一人がどんなに頑張って働いても、社会全体を今まで通りの水準に維持することはほぼ不可能であり、そのために負わなければならない負担が、天文学的な額にまで上っており、そのような理不尽な状況下では、むしろ、真面目な人々が努力して働けば働くほど、働かない人々がその努力に便乗して利益をむさぼるので、真面目な人々の負担は重くなって行く一方であり、どんな努力を持ってしても、この理不尽な状況を変えることは誰にもできないという時代が来ていることは明白なのである。

この事態の深刻さを直視せず、今まで通りの勤労の概念に踊らされて、従来通りに労働していれば、あたかも社会全体がますます豊かになるかのような幻想を抱いていれば、その人間は、その浅はかさを誰かに都合よく利用され、負いきれない(社会全体の)負債を連帯責任として負わされて、死が待っているだけである。

過労死も、サービス残業も、すべてこの社会が慢性的に負わされている負債を、最も弱い末端の労働者にまで連帯責任のごとく負わせようという考えから起きていることである。

その負債の中には、むろん、デフレや、少子高齢化や、福島原発事故の後始末など、あらん限りのマイナス要素が含まれるであろうが、広義では、その負債は、最終的には、人類の罪そのものを指す。

人類が絶対に自己の力で贖うことのできない罪を、己の力で贖い、何とかしてみんなで己が失敗を償って幸福な社会を自力で打ち立てようという目的で働いていればこそ、どんなに働いても、その労働に終わりが来ることはないばかりか、むしろ、働けば働くほど、要求が過剰なものに引き上げられ、人は永遠の蟻地獄の中でもがき続けるしかないのである。

そのような文脈における労働には希望がない。それは人がどんなに力を尽くして頑張っても、しょせん、返せるはずもない、底なしの負債を、社会のメンバー全員で分け合うことで、あたかも返せるかのように見せかける幻想でしかないからだ。

そこで、そんな試みは決して成功に終わることはないだけでなく、もしそのような仕組みの嘘を見抜けず、その罪の連帯責任に同意してしまったなら、やる気のある人間は、死に至るまでとことん割に合わない条件で働かされるのみである。

そこで、正しい答えは、そのような呪われた労働システムからは、一刻も早く、外に出るべきだ、ということに尽きる。

我々は、義務としての労働ではなく、自由としての労働をどこまでも目指すべきなのである。

国民の勤労の義務を説くにしても、それは「職業選択の自由」があって初めて成り立つのであり、それがないのに、勤労の義務だけを説けば、苦役を課しているのも同然になる。

そして、義務としての労働ではなく、自由としての職業選択の自由を本当に実現するためには、憲法という概念よりも、もっと大きなスケールにおいて、死の恐怖によって人を虜にしている罪の強制収容所の囚人であることをやめるための絶大な効力を持った証書が必要となる。

つまり、社会全体を没落させないという、死の恐怖から逃れるという目的のためではなく、自分自身の望みに従って、完全な自由の中で労働するという新たな文脈が必要なのである。

そのような自由を人に与える効力を持つ証書は、全宇宙にただ一つしかなく、それは死の力を持つ悪魔を十字架において滅ぼしたキリストの贖いだけである。

この十字架における贖いの証書だけが、人を死の恐怖及び罪を贖うための終わりなき苦役としての労働から解き放つことができる。

筆者は、この先、この十字架発の証書を握りしめて進んで行くことだけが、来らんとしている強制集団化と大粛清の中を無傷で生き残る鍵であろうと考えている。読者は、ソビエト時代の社会と現在の日本社会を重ねている筆者の想像を笑うかも知れないが、それでも、筆者の予想は、非常に厳しいものであり、この先、日本にかつてのような平和な時代が取り戻されるというものではない。

そして、聖書の御言葉への信仰に立って、与えられた自由を確固として行使し続けることが、どんな過酷な時代にあっても、無傷で生き残るだけでなく、一回限りの人生で、真に価値ある労苦によって、見えない栄光を掴むための秘訣なのである。

最後に、もう一つのことを書いておきたい。

聖書の神を心から信じるクリスチャンは、神に似た者として振る舞うべきではないかと、最近、筆者は思うのだが、(これは最近はやりの、「人が神になる」というアセンションを意味しない。人間が何かとんでもない神々しい存在になるという種類の自己高揚の話ではない。)果たして、クリスチャンが神に似た者として振る舞うとはどういうことなのかを思うとき、聖書の次なる文句が思い出されてならない。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。」(詩編50:12)

世界とそこに満ちているすべてのものを所有しておられるただお一人の神には、不足というものが全くない。にも関わらず、「たとえ飢えることがあっても」という表現が出て来るのは、一見、パラドックスのようにも思われる。
 
神が飢えるなどということは、想像することもできない。むろん、それは肉体的な飢餓のことを言っているのではなかろう。ここで言われている「飢え」とは、あれやこれやの具体的な話ではなく、欠乏全般を指すものだと考えるのが妥当であろうと筆者は思う。

つまり、この表現が意味するものは、「どんなことについても、神は決して欠乏を口にせず、ご自分以外の者を頼りとされない。なぜなら、神はすべての必要をご自分で満たすことのできる方だから」ということに尽きると思うのだ。

神は全知全能であるから、ご自分以外のものを決して頼りとされる必要がない方である。神は完全であればこそ、不足や欠乏に直面してご自分以外の者に助けを求めることを余儀なくされるという状況自体が、決して起きない方なのである。言い換えれば、どんな欠乏が生じても、それをご自身で満たすことのできる方なのである。

そこで、神がもしそのような方なのであれば、その神に贖われ、神のものとされ、神の子供とされたクリスチャンも、神に似た者として、同じように振る舞うべきではないだろうか?と筆者は考える。

つまり、クリスチャンは、ただ神だけに信頼を置いていればこそ、安易に神以外の者に向かって、欠乏を口にすべきではないし、誰にも助けを乞うべきではないと言えるのではないだろうか? 

筆者はそのことを今回も再び学ばされたように考えている。

我々は生きている限り、多くの苦しみや、時には窮地にも遭遇することがあろう。そのような中で、心弱くなり、ふと誰かに優しい言葉をかけてもらいたいとか、同情してもらいたいと思ったり、あるいは、人に支援を乞いたい不安に駆られることがあるかも知れない。

あともう少しのところで、誰かに心細さや欠乏を打ち明ける寸前だった、というところへ追い込まれることもあるかも知れない。

だが、それでも、クリスチャンであれば、私たちが助けを乞うべき相手は、肉なる人間ではないことを思うべきであり、欠乏に取り囲まれているように感じられる時こそ、あえて以上の原則を思い起こし、神以外の何者にも助けを乞わないという姿勢を貫き通すべきなのである。

そうすれば、万物の造り主なる方、全宇宙をつかさどる方、全知全能の神、死を打ち破られた方が、信者のすべての必要を本当に知っておられ、気遣って下さるので、私たちは、滅びゆくこの世の者に助けを求めないで済むのだということが、実際に分かるであろう。

クリスチャンがこの世に助けを乞うのではなく、むしろ、この世の方が、クリスチャンが持っているはかりしれない権威と力のゆえに、自らクリスチャンを支える義務を負っているのだとさえ言えるのではないかと思う。

クリスチャンは、この世のあらゆる欠乏からすでに十字架における勝利によって解き放たれており、従って、この世のどんな事象にも縛られず、人の思惑に振り回されることなく、むしろ、それらをはるかに超えて、神と共にこの全宇宙を治める側に立つことができる。そのようにこの世を超越した立ち位置にこそ、キリスト者の自由が存在するのである。

これが、憲法という地上のレベルをはるかに超えて、聖書の御言葉が壮大なスケールで信者に与えてくれている自由である。地上の憲法は、場合によっては書き変えられることがあり得るかもい知れないが、聖書の御言葉にはそれはない。
 
聖書の御言葉により、死を打ち破った復活の命によって生かされていればこそ、クリスチャンは地上で様々な困難が持ち上がって来る時にも、右往左往して世に助けを乞うのでなく、むしろ、現実の事象に対して権威を持って命じることができる。

すなわち、現実が御言葉に従うまで、天的な権利の行使を貫徹し、命じ、戦うのである。その時、聖書の御言葉に基づく目に見えない支配が、目に見える事象すべてを上回る圧倒的な支配力であることが実際に証明されて、私たちは自分たちの信じている神が、神と呼ばれるにまさにふさわしいお方であることを痛感することになる。

汚職まみれの東京オリンピックは関係者を奈落のどん底に追いやるだけで幻に終わる

さて、久々にオリンピックの話題を。
 
「原発事故(による汚染)はコントロールされている」という安倍首相の虚言に始まり、「世界一金のかからないオリンピック」を主張していた猪瀬知事の政治スキャンダルによる辞任、それから一転して「世界一金のかかる五輪」への変貌、さらに、佐野研二郎のデザインしたエンブレムに生じた盗作疑惑と決定後の使用中止、ザハ・ハディド氏のデザインに決定していた新国立競技場の設計案の白紙撤回、その後の国立競技場建設労働者の過労自殺…。

東京オリンピックはもはや不正疑惑のデパートとなり、この事業に関わった人々は、栄光の高みから一転して奈落のどん底へ突き落されるということが続いている。利権まみれの呪われた薄汚いオリンピック、関わる人々を不幸に追いやるだけと言って良い。ここに来て、決定打とも言える情報が出た。

ブラジル当局、東京・リオ五輪で買収と結論 英紙報道 
 
日本経済新聞 2017/9/14 23:32

 【ロンドン=共同】2016年リオデジャネイロ五輪と20年東京五輪招致の不正疑惑を巡り、ブラジル司法当局が両五輪の招致委員会から、当時国際オリンピック委員会(IOC)委員で国際陸連会長だったラミン・ディアク氏(セネガル)を父に持つパパマッサタ・ディアク氏に対し、多額の金銭が渡った可能性があると結論づけたことが分かった。英紙ガーディアン(電子版)が13日、報じた。

 フランス当局の捜査を基に書類をまとめたブラジルの当局は、IOC内で特別な影響力があったラミン・ディアク氏を買収する意図があったとしている。両五輪の開催都市が決まった前後に、疑惑の渦中にあるパパマッサタ・ディアク氏がフランスで高額の時計や宝石を購入した際の支払いや口座の記録も確認されたとしている。

 ガーディアンは昨年、同氏と関連のある業者の口座に東京招致委から多額の送金があった事実を報じた。東京側は不正を否定している。

なるほど、リオ五輪の閉会式で安倍首相がマリオに扮して登場したのは、「汚職と買収で成立したリオ五輪の不正行為を、東京もしっかりと継承して行きましょう!」という強い意志表示の現われだったのかと考えると納得する。

買収を除いても、華やかなオリンピックには常に大きな暗い影がつきまとう。リオ五輪でも、貧しい地元住民たちが強制的に立ち退かされ、反対運動も起きた。オリンピックのために建設される巨大スタジアムなどは、開催後、用途がなく、採算が取れずに、廃墟化する例も後を絶たない。

安倍首相は、誰より東京オリンピック開催に強いこだわりを持っていたことは明らかだ。招致の実現が、安倍首相の手柄のように報道されただけでなく、安倍氏が、主催者でもないにも関わらず、自分自身の公務を置き去りにしてまで、リオの閉会式にしゃしゃり出、JOCや小池知事をもさしおいて、自分一人、はしゃぎ回ってパフォーマンスを繰り広げたのは記憶に新しい。思い入れの強さを示す事実であろう。
 
そのパフォーマンスも、一部の金持ちを楽しませるためだけの見世物を、貧しい人々を排除し犠牲にし、買収してでもいいから、開催しようという不正のボールを、リオから継承するために行われたのだ。

今回の東京へのオリンピック招致は、かつて幻に終わった1940年の東京五輪と引き比べられることが多いが、筆者もその文脈に立ち、今回のオリンピックは決して開催されないだろうと確信し続けている。
 
LITERAの記事がこの二つのオリンピックの共通点を端的に挙げているが、その指摘は時を追うごとに、ますます現実味を帯びて来ている。少々長いが、該当部分を抜粋しておきたい。

共通点➀ 震災との関連性
   ② 独裁者に国際協力を依頼した
   ③ メインスタジアムの問題
   ④ きな臭い政治情勢(軍国主義化が進む)

東京五輪がなくなる? 1940年の幻の東京五輪と2020東京五輪が恐ろしいほど似ている!(LITERA 2015.09.06.)から抜粋

 まず、似ているのが震災との関係だ。2020年の東京オリンピックは2011年の東日本大震災からの復興をテーマの一つに掲げているが、1940年の東京五輪もその17年前に関東大震災が起きていて、そこからの復興をアピールする意図があった。

 また、招致への国際的協力をとりつける経緯も似ている。40年の東京オリンピック招致には独裁者・ヒトラーとムッソリーニの協力があった。36年のベルリンオリンピックではヒトラーの人種差別政策に反対してボイコットの動きがあったが、日本は参加を表明。もともと日本との軍事的連携を狙っていたヒトラーはこれに応えるように、東京オリンピック招致に全面協力。ベルギー出身のIOC会長バイエ=ラトゥールに日本を支持するように圧力をかけた。この関係が後の日独防共協定、日独伊三国同盟につながっていく。

 ムッソリーニも同様で、エチオピア侵攻によって国際連盟を脱退したことから、同じく国際連盟を脱退した日本に接近。東京と招致を争っていたローマを立候補から辞退させた。

 一方、2020年の東京オリンピック招致はプーチン大統領の積極的支持が勝因の一つと言われている。ロシアでは14年ソチ五輪が開かれたが、プーチンはこの少し前、同性愛差別発言をして欧米各国からボイコットの動きが起きていた。しかし、日本はこうした動きとは距離を置き、13年9月、ロシアのサンクトペテルブルクで開かれたG20サミットで、安倍首相がプーチン大統領に協力を要請。プーチンから「投票権を持つ ロシアのIOC委員、友人のIOC委員に東京を支持するよう説得した」という答えを得たとされる。

 ようするに、1940年も2020年も日本は国際社会で批判を受ける独裁者に協力を仰いで、開催支持をとりつけているのだ。

 さらに、この2つオリンピックはメインスタジアムで問題が起きたことまで共通している。2020年東京五輪の国立競技場問題は今さら説明するまでもないが、1940年の幻の東京五輪でも、当初は隅田川河口の月島埋立地を利用する計画だったが、風が強すぎるという問題で変更しなければいけなくなった。

 続いて候補に挙がった明治神宮外苑は、神社局長から大規模開発を反対され、挫折。その後も、二転三転。最終的には駒沢ゴルフ場跡地になったが、招致決定から半年たっても競技場が未定のまま、第7候補地までもつれこむ事態はIOC会長からも批判された。

 しかし、1940年の五輪と2020年の五輪の類似性はなんといっても、招致決定前後のキナ臭い政治状況だろう。

 1940年の東京五輪では、関東大震災の2年後の25年に治安維持法が制定され、日本は急速に軍国主義化その10年後に前述したように日中戦争に突入していく。そして、2020年に東京五輪を控える今の日本も同じ道をたどっているように見えるのだ。東日本大震災の2年後に“現代の治安維持法”と呼ばれる特定秘密保護法が成立。さらに安倍政権は集団的自衛権を容認し、今、安保法制を強行しており、戦争のできる国づくりが着々と進められている。

 つまり、2020年の五輪も近いうちに日中戦争が起きて、開催を返上。1940年の東京五輪と同じように、幻に終わるのではないか、というのだ。


この記述に加えて、さらに、重要な⑤番目の柱として、LITERAが触れていない共通点をもう一つつけ加えたい。それは、日本政府にとって、この二つのオリンピックは、誤った政治的イデオロギーの宣伝のための絶好の機会だという点である。

1940年の幻に終わった東京オリンピックを、日本政府は国家神道のイデオロギーに基づき、「皇紀二千六百年」を祝賀し、「皇国」としての栄光と威信を全世界に見せつける機会として利用しようとした。このオリンピックが開催されずに終わったのは、直接的には様々な情勢の変化のためということであるかも知れないが、本質的には、まさにこのオリンピックを導く根本的な誤った理念(別な言葉で言えば、オリンピックを正当化する大義の欠如)が招いた必然的な結果だったと言っても良いのではないかと筆者は考えている。
 
現在も、我が国政府及び国会議員のほとんどは、戦前回帰を唱道する日本会議のメンバーでほぼすべてが占められている。教育勅語を暗唱させる塚本幼稚園の問題などが明るみに出てきたのもその流れの中で起きたことであり、2020年の東京オリンピックは、日本会議メンバーらにとっては、1940年とほぼ同様の意味合いを持つものであると見えているだろうと想像される。つまり、その点で、今回も、東京オリンピックを支える理念そのものが完全に誤っていることは間違いないと言える。そこでこれもかつてと同じ道を辿り、時を追うごとに、開催の意義が全くないことだけが露呈し、様々な障害を乗り越えられずに結局、頓挫するであろうと筆者は予想している。
  
今では「共謀罪」も通過し、お国の命令に逆らう「非国民」を根こそぎ根絶やしにした治安維持法の復活、「戦争ができる国づくり」が完成しつつある。

きな臭いと言えば、近く日中戦争が勃発するのではとのLITERAの予想とは少し違い、当面、日本政府が危機を煽りまくっているのは、今に始まったわけでもない北朝鮮のミサイル発射である。

日本政府は、宇宙空間を飛び去っただけの北のミサイルが、まるで日本本土に向けられているかのように、Jアラートなどで国民の恐怖を煽りまくり、小学生やお年寄りに何の効果もない原始的な避難訓練などをさせることで、政権に従順な思想を植えつけようとしているだけでなく、近い将来彼らが引き起こすつもりであると思われる「朝鮮半島における有事」の勃発に向けて、国民にそれが不可避であることを刷り込むための洗脳を施している。

ちなみに、冒頭で紹介した、ブラジル当局が東京五輪の招致を買収によるものと結論づけたという日経新聞の記事が発表されたのも、9月14日の深夜であるが、このように不都合なニュースがこっそりと発表された翌日には、まるでそこから国民の目を早く逸らさせようとするかのように、早朝から北のミサイル騒ぎが煽りに煽られていた。

こうして、政府にとって不都合な記事は、深夜にこっそり公表される一方で、翌日にはまるで今しも戦争が勃発するかもしれないとでも言うかのように、根拠のない不安が煽られ、政府に不都合な事実には、徹底して国民の目が向かないように仕向けられる。

北のミサイル発射は、森友、加計アベ友疑惑(安倍首相による国家戦略特区などを利用した国家私物化問題)の影響により下がった支持率を回復したい安倍首相が、この問題から国民の目をそらし、政権にしがみつかせるため、国民に恐怖を植えつけるために、北朝鮮に自ら頼み込んで行っている国際的出来レースだという噂がささやかれて久しい。

もしそうでなければ、なぜ普段は官邸に宿泊しない安倍首相が、ミサイル発射の前日だけは官邸に泊まっているのか。なぜ公務員が出勤しているはずのない早朝に、大臣等が執務室にいるのか。なぜマスコミは発射のタイミングに遅れることなく速やかに報道ができるのか。説明がつかない。唯一、筋の通った説明は、すべては出来レースだ、ということだけである。

筆者の予想では、政府がこのように危機を煽りまくっているのは、それを現実にしたい者たちがいるからであり、彼らが思い描いている筋書きでは、いずれ朝鮮半島では有事が勃発し、米軍により、日本は戦争に参加することをやむなく求められることになっていると見られる。彼らの狙いは、それを好機として自衛隊を国防軍に昇格し、自衛隊を軍隊として容認する憲法の改正が不可避であるかのようなキャンペーンを行い、改憲へと世論を誘導することにある。最終的には核武装することが悲願なのだと考えられる。

だが、これは大きな自己矛盾である。彼らがこのように政情の悪化を織り込むシナリオを描けば描くほど、オリンピックなどはその情勢不安から完全に吹き飛ぶだけでなく、別な記事で書く通り、北方領土や極東シベリアにおける日ロの経済協力なども、無に帰することになる。

筆者はこれまでにもずっと、金儲けを第一として極東シベリアに進出した日本企業が、かつて大陸進出を目指してサハリンに渡った移民同様に、戦禍に巻き込まれ、数々の災いをこうむるだけで、我が国に戻って来られなくなるだろうという暗い予想を述べて来た。

特に有事がなくとも、日ロのビジネスに携わる企業で、これまで真に発展した企業を筆者は一つも見たことがない。日ロビジネスがいつまでもじり貧のまま決して発展しない主要な原因の一つは、ロシアのインフラ整備の遅れや、法外に煩雑な諸手続きなど、ロシアという国家そのものが持つ前近代的な要素に加え、元来、米国と同盟を結ぶ日本が、ロシアにとって潜在的に仮想敵国も同然であるという事実にある。

ロシアは日本企業を自国の利益のために利用することはしても、いつ米軍と組んで敵方に翻るか分からない日本の企業を、決して信用し、発展させることはしないだろう。奇しくも今年、ロシアのスプートニクが、本来ならば、北方領土の一部(歯舞、色丹)はフルシチョフ時代に日本に返還されていておかしくなかったが、安倍首相の祖父である岸信介首相のもとで、日米安保条約が結ばれたことが、その可能性を完全に葬り去ったのだと述べている。

元KGB長官の回顧録:日本との領土交渉の新事実が明らかに!」(Sputnik 2017年03月04日 17:23 アンドレイ イルヤシェンコ)


このような宿命的な事実に照らし合わせても、また、今日、解釈改憲がなされ、安保法制が成立し、地球の裏側までも米軍と自衛隊がさらに緊密な連携のもとで軍事活動に携わるべく態勢が構築されつつあるという事情に鑑みても、現在、岸信介の孫である安倍首相のもとで、我が国とロシアとの平和条約が締結される見込みはまずないと言って良い。

こうして、領土問題、シベリア抑留問題、その他の外交上のあまたの問題を棚上げしたまま、日本が政府を挙げてゼニカネのためにロシアとの民間経済協力に走っても、その基盤はいずれ脆く崩れるであろうことは容易に想像がつく。

何より、そもそも他国との経済協力は、政府が主導して推進すべき性質のものではなく、民間企業のイニシアティブによって発展すべきものであると言える。政府がどんなに企業のお尻を叩いても、儲けがないビジネスに企業が乗るはずもない。なぜロシアとのビジネスがこれまで発展して来なかったのか、その要因を分析し、取り除くことなしに、政府が民間企業に声をかけても、企業はその提案には乗らないであろう。

さらに、政治的にも多数の未解決の問題を棚上げし、シベリアからほど遠くない朝鮮半島の政治情勢も落ち着いていない中、たとえ欲に目がくらんで、本質的に重要な問題から目をそらして安易に儲け話に乗る企業が出るとしても、待っているのは破滅だけである。筆者に言わせれば、日ロ経済協力による日本側のメリットは長期的に見るとゼロなのである。

そのことが前もって分かっているので、日ロ経済協力などという世迷いごとに、筆者は参加しないことを決めている。いや、仕事を通して何度もやむなく参加しかけたのだが、その度ごとに、このような中途半端なプランは決して成功しないだろうという手ごたえ以外に得るものはなかったと言える。

さらに、オリンピックなどには関心もなく、ミサイル狂想曲にも踊らされたくないので、安眠を妨げられないよう、Jアラートも切っている。今回、首都圏には警報は鳴らなかったそうだが、仮に鳴っていたとしても、筆者はそれに耳を傾けるつもりはない。ましてや、避難訓練などには決して参加するつもりはない。

支持率回復のために、外敵の恐怖を煽ることで、恐怖や憎しみや怒りによって国民を団結させようとするか、さもなくば歴史的な様々な軋轢や未解決の諸問題をも無視して、信頼関係ができていない国々と安易に手を結ぼうとするような政権からは、極力遠ざかるのみだ。


十字架の死と復活の原則ー地上の実りなき死んだ労働を離れて、天に永遠の収穫をもたらす労働に生きる(2)ー

「主のほかに神はない。
神のほかに我らの岩はない。
神はわたしに力を帯びさせ
わたしの道を完全にし
わたしの足を鹿のように速くし
高いところに立たせ
手に戦いの技を教え腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

あなたは救いの盾をわたしに授け
右の御手で支えてくださる。
あなたは、自ら降り
わたしを強い者としてくださる。

わたしの足は大きく踏み出し
くるぶしはよろめくことがない。
敵を追い、敵に追いつき
滅ぼすまで引き返さず
彼らを打ち、再び立つことを許さない。
彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。

あなたは戦う力をわたしに帯びさせ
刃向う者を屈服させ
敵の首筋を踏ませてくださる。
わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

彼らは叫ぶが、助ける者は現れず、
主に向かって叫んでも答えはない。
わたしは彼らを風の前の塵と見なし
野の土くれのようにむなしいものとする。

あなたはわたしを民の争いから解き放ち
国々の頭としてくださる。
わたしの知らぬ民もわたしに仕え
わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
敵の民は憐れみを乞う。
敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

主は命の神。
わたしの岩をたたえよ。
わたしの救いの神をあがめよ。
わたしのために報復してくださる神よ
諸国の民をわたしに従わせてください。
敵からわたしを救い
刃向う者よりも高く上げ
不法の者から助け出してください。

主よ、国々の中で
わたしはあなたに感謝をささげ
御名をほめ歌う。

主は勝利を与えて王を大いなる者とし
油注がれた人を、ダビデとその子孫を
とこしえまで
慈しみのうちにおかれる。」(詩編第18篇32-51)

快適な環境で秋を待つ。夏祭りのシーズンには、例年には見えなかった花火を窓から楽しみ、夜になると虫の音が耳に心地よい。わずか数日間の風邪が去った後には、いつものように、ショパンのソナタを最後の楽章まで弾き通すことができるほどに体力が回復した。疲れた足腰も元気を取り戻し、少しの間触れていなかったヴァイオリンの再開も間近である。

筆者にとって、土曜日、日曜日は、信仰によるエネルギー・チャージの時間である。日曜日は何もしないという意味での安息日ではなく、むしろ、神の御心を行う日である。当然ながら、この日には特に念入りに戦いの準備に余念がない。

戦いと言っても、具体的にそれが何を指すのかを詳しく記せないことも多いが、この不法のはびこる地上にあって、キリスト者の人生は絶えざる戦いの連続である。

筆者がこれまでに通り抜けて来た戦いは実に数多く、あざける者たち、嘘つき、悪党、ならず者、不法者、自己愛者、異端者など、終わりの時代に登場する神に敵対する者たちの名称は尽きない。しかし、たとえ彼らが大群となって遅いかかって来たとしても、信者にはかなわない。敵がどれほどの言いがかりをつけようとも、信者はこれに御言葉をもって立ち向かい、勝利をおさめることができる。その勝利とは、信者自身の力ではなく、キリストの血によるものなのである。

私たちは、生きているうちに様々な悪に遭遇する。しかし、悪事を放っておかず、黙ってその犠牲者になることもせず、きちんと敵の罠を見抜いて、その嘘に毅然と立ち向かいさえすれば、勝利をおさめるのはそう難しいことではない。この戦いは、この世の権力や武器を用いるものではなく、無駄な非難の応酬や、終わりなき報復合戦を意味するのでもない。ただ公然と御言葉を掲げ、御言葉に従い、真実に生き、正義を曲げずに主張し続けることによる。

信者が邪悪な日に、一歩も退かずに御言葉に基づいて公然と正義を主張し続けるだけで、悪が恐れおののいて敗退することを知っている人は少ないだろう。信者の中にも、そのような戦いを実際に経験して来た人は少なく、ほとんどの人は、そのようなことをしても無駄だと最初からあきらめている。だが、そうではないことを筆者は何度も試し、自ら経験して来たのである。

こうした戦いの末に、筆者の力はますます磨かれて、冒頭で引用したダビデの詩編のように、熟練した兵士のようになりつつある。
 
このようなことを筆者が言うと、たちまち気分を害する「信者」たちがいるかも知れない。そのような人たちは、筆者が不遜におごり高ぶって自慢話に興じているだけで、悪魔との戦いなど、しょせんカルト信者の妄想や戯言に過ぎないと言ってあざ笑う。

余談かも知れないが、キリスト者を名乗っている人々の中には、悪魔との戦いというテーマそのものに拒否反応を示す一群もいる。だが、その人たちが、一体、なぜこのテーマを毛嫌いし、拒否反応を示すのか、理由をよくよく調べて行くと、彼らは結局のところ、自分たちを神に属する信仰による義人ではなく、むしろ悪魔の一味のようにみなし、悪魔が攻撃される度に、自分の後ろ暗さが暴かれるように感じて、自分と悪魔を一緒にかばおうと、このテーマ自体を封印しにかかっているのだということが分かって来る。

こういう「信者」たちは、筆者のような信者が本気で御言葉に基づき、悪魔の嘘に対抗するために、悪の軍勢に宣戦布告する言葉を聞くと、一体、どういうわけか、居ても立ってもいられない気持ちになって、悪魔の嘘や悪事が暴かれることを何とかして阻もうと、憎しみを燃やして信者を攻撃にしにかかって来るのである。

彼らは、悪魔に立ち向かうなど、気が触れたカルト信者の言い分だとあざ笑うだけでは足りず、それをまるで「自分たちに対する攻撃」であるかのようにみなして、「自分たちは被害を受けた」などと言って絡んで来ることさえある。

当ブログの古くからの読者は、このような愚かしい事態が実際に幾度も起きてている事実であることをよく知っているであろう。そのような信者とも思えぬ「(自称)信者」の中には、稀にではあるが、本当に自分自身を悪魔と同一視して、悪魔への宣戦布告を、自分自身に対する宣戦布告と受け止める「自称クリスチャン」さえいる始末だ。

一体、どこをどうすれば、聖書の神を信じているはずの「クリスチャン」が、そのような考えに至るのか、ただ首をかしげるばかりである。その信者は教会生活で何を学んだのだろうか。そんなヘンテコかつ異常な信念を「信者」に植えつける教会があるのだとすれば、それは限りなくおかしな団体としか言いようがない。
 
そのような「信者」たちが、見ず知らずの通りすがりの存在であればまだ良いのだが、最も激しい拒否反応が、筆者を身近で見て知っている「自称信者」から来る場合もないとは言えない。預言者は故郷では敬われないと言うが、筆者の人物を実際に目で見て知っており、筆者の外見の平凡さや弱々しさゆえに、常日頃から筆者を取るに足りない人間と決めつけて、心の中で見下げていたような人々が、筆者が「悪魔に立ち向かう」というテーマを大胆に語っているのを聞くと、「あんな小娘ごときが、何を思い上がって、自分を何様だと己惚れているのだ。一つ思い知らせてやろう」などといわれなき憎しみに駆られて、かつての仲間を売り渡したり、裏切ったり、攻撃する側に回るということも起きるのである。

筆者はそういう対立の背後には、霊的な理由が存在することを疑わない。クリスチャンの信仰生活は、この点でとても厳しいものである。誰かがあなたに近づいて来て、「私はあなたの友ですよ」とか「助力者です」とか「信仰仲間です」と親しげにささやいても、その言葉を、むやみに信じるわけにはいかないのだ。こういう人々を仲間だと誤解すれば、やがてしたたかに裏切られるだけである。

クリスチャン生活では、誰かと相性が良いからとか、年齢が近いからとか、境遇が似ているとか、見た目が好ましいとかいった理由で、他人と徒党を組んで進んで行くことはできない。自分の好みで仲間を選別することができない。他者と信頼が築けるかどうかは、その人が神に対して、御言葉に対して、どのくらい忠実に歩んでいるかによってしか判断できない。どんなに人柄がよく、外見が麗しく、人物像が好みに合致していても、神に従わず、御言葉に忠実でない人間をそばに近づけると、災いが降りかかるだけである。

さて、話を戻せば、そもそも聖書の神を信じると告白している信者でありながら、クリスチャンの信仰生活が絶えざる戦いであることを否定するような者は、聖書が次のように告げている御言葉そのものを無視しているのだ。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理の帯を腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。・・・」(エフェソ6:10-17)

これまで幾度となく述べて来たように、クリスチャンの戦いは、霊的な論戦であって、目に見える誰かを力によって打倒することが目的ではない。それはディベートのような、主張と主張のぶつかり合いであり、聖書の神に敵対する者たちが、この世の様々な人間や事象を操りながら、信者たちにぶつけてくる、ありとあらゆる支離滅裂で嘘に満ちた言いがかりに対して、信者が確固として御言葉に立脚して応戦し、キリストの贖いゆえの自身の潔白と、敵に対するキリストの勝利、神が敵に定められた地獄の刑罰を主張して、敵の屁理屈を打ち破り、これを粉砕して、退け、その言いがかりを無効化することが、信者の勝利なのである。

この戦いにおいて、御言葉が剣のような武器になることが、はっきりと聖書に示されている。我々信じる者たちは、聖書の御言葉を揺るぎない正しい理屈として握りしめ、この理屈を用いて敵の嘘に満ちた屁理屈を論破するのである。まさに硬い岩盤をドリルで粉砕するように、御言葉を鋭い剣のように貫き通すことによって、分厚い層のように積みあがった敵の嘘を破壊し、木っ端みじんに打ち砕くのである。ダイヤモンドとガラスでは勝負にならないように、御言葉の強度の前に、嘘は敗北して道を譲らないわけにいかない。

以下の御言葉の中では、悪の軍勢との間に繰り広げられるこの激しい論戦の中で、信者は、御言葉を駆使することによって、敵の要塞をも打ち砕くことができることが示されている。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞をも破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(ニコリント10:3-6)
 
以上の御言葉から分かるのは、敵の使う武器にも色々種類があって、単なる屁理屈や、こじつけ、論理のすり替え、ごまかし、歪曲、捏造、隠蔽などの単純工作から始まって、分厚い壁のように積みあがった嘘、バリケードのように堆積した嘘、ついには要塞のように塗り固められた嘘なども存在するということである。

敵の「要塞」とは、単なる屁理屈の域を超えた、もはや「思想の領域に入った嘘」とでも言うべきものである。嘘の中でもとりわけ洗練されて完成された嘘(嘘に完成というものがあるとすればの話だが)、端的には、偽りの思想そのものであると筆者は考えている。

そのように敵の要塞と呼ぶにふさわしい偽りの思想こそ、太古から存在するグノーシス主義なのであり、それは元を辿れば、最初の人類アダムとエバに、サタンが蛇の姿を取って吹き込もうとした「神の知恵に逆らう高慢な偽りの知恵」そのものである。

聖書の御言葉は、このような悪の要塞と化した偽りの思想を、完全に論破し、破壊することができる。御言葉はその意味で「世界最強の武器」である。我々はこの最強の理屈で理論武装することによって、敵に対峙し、敵の嘘、敵の罠を見抜き、これを退け、粉砕するのである。

クリスチャンたちがこの戦いに熟練して完全な者とされ、(クリスチャンの目に見えない集合体としての)教会が、完全に御言葉に従順な者とされる時に、この恵みの時代が終わり、敵の高慢な思想に従う不従順な者たちがいよいよ本格的に罰せられる最後の時が訪れるのである。

しかしながら、すでに述べたように、このような激しい論戦にとりわけ嫌悪を示す者たちがいる。中には、クリスチャンでありながら、「悪魔に立ち向かう」というテーマの一切をカルト思想と決めつけ、耳を塞ぐ者もいる。そのような人々は、まさに敵の思想に従っていればこそ、このテーマに激しい拒否反応や嫌悪感を示すのである。

東洋思想には、理屈対理屈の勝負によって、物事の是非をはっきりさせることを非常に嫌う性質がある。東洋世界においては、物事の是非を究極まで追求すること自体が、まるで悪なる所業であって、「和」の精神に逆らう、「和」を乱す悪い行為であるかのようにみなされる傾向が強い。

この「和」という正体不明の言葉によく表れているように、東洋世界では、すべての物事を曖昧にしたまま、誰をも罪に定めず、誰にとっても脅威とならないような、人に優しく無難な結論を出すことで、「すべてを丸くおさめる」ことこそ、人間の美徳であって、正しい行ないであるかのように奨励される。

このように、物事の白黒をつけることを嫌い、善と悪をごちゃまぜにして、事の是非を曖昧にしたまま、ただ波風立てずに話をおさめることを至高の解決方法とするような、性善説に基づく「和」の精神が土台にあってこそ、我が国では、今になっても、学校ぐるみでいじめが隠蔽されたり、企業が内部告発者に不当な制裁を加えたり、社会の中で悪事を糾弾して真相を究明しようとする人間が、集団的に排斥されて、かえって濡れ衣を着せられたりする伝統があるのだと言える。

このようなことは、ただ単に悪事を暴かれては困る人間たちが、自己の保身や報復のために行っている行為であるばかりではない。そもそも、東洋思想が、人間の罪や悪というものを認めず、物事の是非をはっきりさせること自体を「波風立てる行為」「和を乱す行為」とみなして、空気に従って物事を丸くおさめることを至上の価値としているがゆえに、このような思想的・文化的土壌で育てられた人間は、無意識のうちにそれに従って、善悪を切り分ける人間を悪者扱いして、闇に葬ろうとする衝動に駆られるのである。

このような東洋思想の「和」の精神の忌まわしさが、究極の形で現れたのが、我が国の軍国主義の時代であった。そこでは偽りの概念である「和」の実現を名目として、社会に隣組が形成され、国民同士が監視し合い、密告し合い、天皇崇拝や戦争へ協力しない国民は「非国民」として排斥され、村八分にされ、投獄され、殺されたのである。

このように、見かけは情緒的で美しい「和」の精神は、その大義名分のもとで、この精神に従わない人間を暴力によって社会から排斥し、殺しさえして来た。このような非道な暴力を駆使して打ち立てられる「和」が、その言葉の通り美しいものであるはずがなく、恐ろしい嘘に過ぎないことは、今日、誰の目にも明白である。

我が国は戦争に負け、東洋思想の嘘は暴かれ、我が国が理想のごとく唱えていた「和」の精神も、幻想として崩れ去った。東洋思想が西洋思想に対して、とりわけキリスト教に対して、何ら優位性も持つものではなく、人類の理想にもなり得ない事実が公然と明らかになったはずであった。それにも関わらず、今になっても、大蛇のごとく、すべての理屈を絡め取って曖昧化しながら丸ごと飲み込んで行く、あるいはすべてを丸呑みして腹の中におさめてしまう巨大な子宮のような、この得体の知れない「和」の精神は、我が国では未だに健在であり、それがゆえに、この国では未だに、物事の真相を暴き、何が悪であり、何が善であるかをはっきりさせようとすること自体がタブー視され、そのようなことに着手する人間は、有形無形の暴力にさらされ、あらぬ罪を着せられ、排斥され続けているのである。

こうした文脈で、上記したように、「神に従い、悪魔に立ち向かう」という聖書の御言葉を持ち出すだけでも、「信者」を名乗る人々が拒否反応を示すことがあり得る。それはクリスチャンを名乗る人々の中にも、東洋思想が浸透していることの何よりの証である。

クリスチャンが聖書に記されている「血肉によるものではない」霊的な戦いがれっきとして存在することや、この戦いの重要性をきちんと理解するためには、まず日本人(を含む東洋人)の目を鱗のように覆っている東洋思想のバイアスを取り払わなければならないと筆者は思う。

東洋世界の価値観は、聖書と真逆であり、聖書では善悪の切り分けは根本的に重要であるが、東洋世界においては、「理屈を駆使して、人の嘘を暴き、悪事を立証しようとする行為」自体が、非常な高慢であり、悪でさえあるかのようにみなされている。また、東洋人には、ことに女性が理屈を振りかざして男性を論破することを非常に嫌う傾向がある。

だが、こうした傾向は、結局、東洋思想の「和」というものが、弱者を強者に従わせ、強者の罪を覆い隠して正当化するための都合の良い目隠しの役割を果たしていることをよく表している。「和」というのは、結局、権力者の罪が暴かれないための、また、弱者たちが搾取や不法に気づいてそこから抜け出さないようにするための都合の良いマインドコントロールの言葉なのである。

東洋思想の「和」の精神は、よくよく見れば、結局、社会の強者だけに都合よく作られていることが分かるであろう。弱い者には黙って強い者に従うことを求め、間違っても、弱者が強者の誤りを指摘したり、これを暴露して、強者に恥をかかせるなどという「不遜な考え」を持つことを許さず、そんなことを試みる者は間違いなく村八分になるとほのめかす、暗黙の脅しに満ちた思想である。

この思想が、一体、何のために、物事の是非をはっきりさせることを嫌うのかと言えば、結局、それは強い者たちによる横暴を見逃し、弱い者が強者の支配から抜け出ることを阻止するためである。つまり、人をいついつまでも奴隷のままにしておくためにこそ、この思想は、人間一人一人が自分自身の力で善悪を判断し、それを明るみに出すことを嫌うのである。

こうして、「和」の精神は、世間に波風立てないことを至高の価値とすることによって、人間一人一人の内側に確固として存在する善悪の判断(良心の声)を眠らせ、ただ時の権力者の言い分に黙って逆らわずに従うように促しながら、強者による悪事を隠し、弱肉強食を正当化する偽りの美徳、偽りの思想である。

筆者はここで弱者救済を唱えているわけでも、フェミニズムを推奨しているわけでもない。ただ、物事の是非や善悪を自ら判断する力は、男女や年齢を問わず、すべての人間に備わっているものであって、それは人の人生の方向性を決めて行くコンパスのようなものであり、自分の良心の声を眠らせて、これを放棄して、他人に判断を委ねてしまうなら、その時点で、人は自分の人生の自立と自由を失って、他人の支配下に置かれるのだと警告しているのである。

何が正しく、何が間違っているのかを、人の言い分に流されずに、自分自身で判断し、自己の生き方を決めて行く力は、人間の自由と尊厳とに密接に関わっている。この力(自主性、自己決定権)を奪われると、人は他人の思うがままに操られ、利用され、欺かれ、人生を犠牲にする結果にしかならないのである。

従って、私たちは、決して「和」などという表面的な美辞麗句に踊らされることなく、はっきりと物事の真相を見て、「和」という偽りのスローガンの向こうにある忌まわしい実態を見なければならない。こんな屁理屈のために、善悪を判断する力を少しでも鈍らせたり、眠らせたりしてはならない。

善悪を切り分け、見抜く力は、人が自由になるために欠かせないものであり、他人の奴隷となって犠牲者とされないためには、この判断力を眠らせて放棄させようとする一切の悪しきマインドコントロールを打ち破らなければならない。

先の記事でも書いた通り、筆者は、「和をもって貴しとなす」という考えは、東洋思想に基づく非聖書的な、悪魔的な思想であると考えている。「和」とは、実際には実在するはずのない、悪魔の嘘なのであるが、もっと踏み込んで言えば、それはバベルの塔にまで遡る人類の偽りの知恵を指すのである。

そもそも「和」という言葉自体が、「バベル(分裂)」の反意語としての意味を持つ。「和」とは、人類の和合を意味し、究極的には、人類の幸福社会のことである。この語は、旧約聖書の時代に、人類が神に逆らって知恵を結集し、バベルの塔を建設することによって、神を凌駕して打ち立てようと企んでいた調和に満ちた幸福社会(ユートピア)に端を発する。

その時に人類を神に敵対して結集させた反逆的な知恵が、その後、(西洋キリスト教の中では異端として駆逐されたがゆえに)、東洋思想の中に潜入し、東洋世界を通じて今日にまで達しているのである。

それだからこそ、筆者は、終末のバビロンとは、キリスト教と東洋思想の合体によって生まれる異端の混合宗教であると、再三に渡り、警告している。聖書の中で、終わりの時代に現れることが記されている大淫婦バビロンとは、バベルの塔が巨大化して完成体に近づいたものであるが、その根底に流れる思想は、東洋思想とキリスト教との「婚姻(姦淫)」によって出来上がった巨大な統一的な異端の宗教なのである。

今日、バビロンの思想はまだ完成にまでは至っていないが、ペンテコステ運動などは、まさにこうした混合宗教のはしりであると言える。ペンテコステ運動の理念は、「西洋的な父性による切り分け」を残酷なものとして否定し、これに「東洋的な母性による受容」のエッセンスを加えることによって、「父性」と「母性」をドッキングさせて、聖書の御言葉による切り分けを曖昧化した、「人に優しい(人に残酷でない)新たなキリスト教」を生むことである。このような思想の中には、まさに東洋思想と西洋的キリスト教の混合物としての偽りの宗教、バビロンにつながる異端思想が表れている。

さて、このように見て行くと、「和」という概念は、クリスチャンにとって、過ぎ去った時代の思想ではなく、それは今日まで連綿と続いている、人類が自らの力で神の聖に至りつき、自らの努力によって天的な調和を地上の人類社会にもたらそうとする、神の知恵に逆らう悪魔的願望を言い表しているのであり、人類による神に対する反逆そのものを象徴する恐ろしい単語であることが分かる。

だが、このようにして人類が自力で「和(調和)」を打ち立て、社会に理想状態をもたらそうとする誤った欲望には、神がすでにバベルの塔の分裂という形で制裁を加えられた。この法則は今日でも少しも変わらず、人類がどんなに自力で「和」を打ち立てようと追求したとしても、結果としてもたらされるのは、「分裂」だけである。人類は、自分自身の力によって平和に生きる術を知らない。このことは、我が国が引き起こした先の戦争がどんなに悲惨な終わり方をしたかを振り返るだけで十分であろう。もし「和」の精神が正しいものであるなら、そのような悲惨な終わりはなかったはずである。

 さて、この恐ろしい偽りである「和」の精神に関連して、一つ前の記事で筆者は、我が国がすでに共産主義国であり、我が国で唱えられる経済発展の夢も、ソビエト体制が唱えた共産主義ユートピアと同じく、決して叶わぬ悪魔的な偽りの夢であって、この偽りの夢に仕えるために地上で行われるすべての労働は、ソビエトの強制収容所における囚人労働と同じく、むなしく呪われた所業であって、人に幸福をも実りをもたらさないと書いた。

つまり、我が国で奨励されている労働は、単なる労働ではなく、かつてソビエト政権が目指したのと同じような、歪んで誤ったイデオロギーに基づく、全体主義を完成させるための手段なのである。

そうである以上、目的が誤っているのに、目的達成のための手段だけが正しいということは決してあり得ない。だからこそ、今の我が国では、(まさにソビエトの強制収容所と同じように!)人がどんなに真面目に働いても、決して豊かになる見込みがないどころか、かえってその真面目な労働があだになるような呪われた悪循環が生じているのである。

「一億総活躍」などという言葉は、かつて天皇を中心とする「神の国」を世界的に建設するために行われた国家総動員体制と何ら変わらず、要するに、バベルの塔建設のための人員の徴用なのである。今日ではあからさまに「天皇のために」とは言われないかも知れないが、戦前回帰主義者はこの点でもかつての体制に逆戻ることを夢見ているわけであるし、たとえ天皇を持ち出さなくとも、「人類の社会の幸福と発展のため」という名目で、決して訪れることのない偽りのユートピアのために国民を無駄に使役している実情は変わらないのである。

かつて作家ドストエフスキーは、パリで開かれた万国博覧会を見学して、そこで水晶宮(クリスタル・パレス)を見た。科学の英知を結集し、粋を凝らして造られたこの精緻な建造物を見たとき、キリスト教徒としてのドストエフスキーは直観的に、この建造物に未来のバビロンを予見した。この作家は、科学の発展の結果、人類社会にやがて巨大なバビロンが構築されること、終末の時代に異端のキリスト教が統一的な宗教として人類を悪魔的な知恵によって支配することを予見していたのである。

この作家は、『地下室の手記』の主人公の言葉を借りて、人類の未来社会に現れるバビロンたる水晶宮に、思い切り非難と嘲笑の言葉を浴びせて、訣別宣言を下した。すなわち、人類の英知を結集して、人類の未来に作られるクリスタル・パレス(幸福社会)が、どんなに結構づくめの美しく素晴らしい世界であっても、その幸福社会なるものは、その住人に一切の批判を許さない、恐ろしい全体主義のディストピアになるであろうから、自分は決してその住人になりたくないし、そのような恐ろしい社会を誉めたたえる気もない、というのである。何もかもが数値化されて、規則づくめで成り立つ一分の隙もないクリスタル・パレスに、物陰からあっかんべーをしてこれをあざ笑う自由を失わないために、自分は、未来の幸福社会の一員としてふさわしくない劣った人間の烙印を押されても良いから、惨めな地下室に引きこもって不幸な人生を送る方を選ぶというのである。その方がこんな偽りの牢獄たるディストピアに閉じ込められて生きるよりも、はるかにマシだと豪語するのである。

面白いことに、ドストエフスキーはこの主人公に、こんな広大なアパート(クリスタル・パレス)のために自分は煉瓦一つ運びたくない、と言わせている。水晶宮なのに、煉瓦運びとはなぜなのか?という疑問が生まれよう。この比喩は決して誤りでも偶然でもなく、煉瓦には深い霊的な意義があることを、クリスチャンならばよく知っている。

聖書では、神の力である御言葉は「石」にたとえられる。キリストは「人手によらず切り出された石」(ダニエル書2:34)である。つまり、キリストは人の力が一切加えられない、人工的な要素を全く持たない、純粋に神の力だけによって生まれた、神の御心にかなう聖なる完全な人である。これに対し、「煉瓦」は、人間が自分で粘土をこね上げて、焼いて作り上げるものであり、つまり人間が神の力を模倣して、人手によって(自己の努力によって)人工的に作り上げる産物を象徴する。
 
人類の涙ぐましいまでの努力の結晶たるバベルの塔の建設に「煉瓦」が必要とされるのは当然である。その意味で、水晶宮の建設に煉瓦運びが必要となるというのは、比喩として正しい。この比喩からも、ドストエフスキーが水晶宮をバビロンを暗示する象徴として描いていたことがはっきりと分かる。つまり、水晶宮は、神の知恵に逆らう悪魔的な思想の化身であり、悪の要塞の権化なのである。

さて、話を戻すと、現在、日本政府が「一億総活躍」の名で推奨し、国民が実質的に強いられている労働とは、まさに「水晶宮のための煉瓦運び」であり、そうである以上、このような文脈での労働は、神に喜ばれる勤労ではなく、むしろ、神の目に呪われた、決して永遠に実を結ぶことのないむなしい所業である、と筆者は断言せざるを得ない。

煉瓦造りも、煉瓦運びも、それ自体は、他愛のない行為に見えるかも知れないが、もしそれが人類の偽りの幸福社会の建設という忌まわしい目的のために行われるのであれば、泥棒の片棒を担ぎ、悪魔の共犯者になるも同然の自殺行為である。

このことに気づいた時、筆者は、これまでどの職業においても、必ずと言っていいほど見られた甚だしい理不尽の意味がすっかり分かってしまった。一体なぜ、ほとんどの企業や団体では、正義が曲げられ、真実が闇に葬られ、善人が罪に定められ、悪人が大きな顔をして悪事を隠蔽して居場所を占めているのか。その風景はまるで、まことの信者が無実にも関わらず「悪魔の手下」のレッテルを貼られて、牧師とその手先となった(極悪)信者らによって教会の外に追い出され、その一方で、聖書の御言葉から最も程遠い極悪な「(自称)信者」だけが、大きな顔をして教会の座席を占めている地上の偽りの宗教団体と何も変わらなかった。

このことに気づいた時、筆者は、国のGDPを上げるために、強欲な経営者の手先となって、地上で労働にいそしみ、就職戦争を勝ち抜いて、富を築き上げて生き残ろうとすることが、神の忌み嫌われる悪であると知り、先の記事で引用したソビエトの強制収容所の物語を読んだときと同じような慄然とした感覚を覚えた。

誤解のないように言っておけば、筆者は勤労の精神を教えられて育った世代の一員であり、働くことを好まない人間ではない。筆者の人生には、受験競争もあれば、就職戦線もあり、より良い暮らしを得るために、人は努力することが必要だと常に教えられて来た世代である。

しかし、その教え込みは、聖書に反し、神の目に完全に誤っているのである。実際に、筆者がいかに勤労の精神に満ち、いかに優秀に働き、どれほどの功績を打ち立てたとしても、この社会では、その勤労は悪用されるばかりで、手柄は筆者のものにならない。圧倒的大多数の国民は、熱心に働いても裕福にはならず、むしろ、働けば働くほど、悪党が栄え、悪魔が喜ぶだけの仕組みが出来上がっている。

この世の経済がバビロン化し、国民の勤労が悪用されて、国民の富とはならず、ただ収奪されるだけになっている明白な証拠として、政府は現在、年金支給開始年齢を75歳(できればそれ以上)に引き上げて、国民が働いても働いても、定年にさえ至りつけず、死ぬまで労働から解放され得ないような、恐ろしい仕組みを作ろうとしている。

国家公務員の給与だけが年々引き上げられる一方で、国民から徴収される社会保険料はますます重くなり、民間企業の給与水準は一向に上がらず、国民は死ぬまで休みなく馬車馬のように働いて、貧しい中から政府に税金をおさめ、死によってしかこの泥沼のような労働から抜け出せない、まるで家畜のような存在とみなされているのだ。

このような中で、「一億総活躍」などという馬鹿馬鹿しいスローガンに踊らされて馬車馬のように働き続けることが、果たして人にとって善だと言えようか? そのような行為が人に何の幸福をもたらすであろうか? 断じて否である。それはただ悪党どもに死ぬまで使役され、搾取され、狡賢い他人の餌食となって、犠牲となるだけの人生である。今日は生き残れても、明日はないであろう。そのことは、クリスチャンでなくとも、ほとんどの人々が異論なく認めるものと筆者は思う。

このような意味での労働は、甚だしく歪んでおり、社会の発展にも個人の幸福にも決して寄与せず、人間をただ不幸に追いやるだけである。

だとすれば、正しい結論は、このような呪われたバビロン経済の仕組みの中で働くことをきっぱりやめて、水晶宮の完成のための煉瓦運びを手伝う作業から身を引くことである。そのようなことからは一刻も早く足を洗い、このような文脈での労働とは全く違った労働によって身を立てることを考えるべきであり、それこそ善であり、幸福への道だという結論となる。
 
しかし、もう一度、問題提起するなら、呪われた労働と手を切って、正しい労働によって生きるとは、具体的に何を意味するのであろうか。

それはニートになることや、物乞いになることや、親の富にすがって生きることや、生活保護に頼って生きることや、自己破産することを意味しない。はたまた、人々の恐怖心につけ入る何かのいかがわしい詐欺的なセミナーを開いて、参加者から金を徴収したり、いかがわしい新たな宗教の開祖となって、信者の献金に頼って生きたり、学生を食い物とする学校法人ビジネス、あるいは社会でつまづいた人々を食い物にする弱者救済ビジネスに手を染めることによって、講習料や、授業料や、寄付金や、献金や、支援金などの名目で、心弱い人々から金をむしり取って、他人に寄生して生きることを意味しない。

筆者に言わせれば、以上のような方法での集金活動は全て「煉瓦運び」の域を出ないものである。これに対し、真に望ましい形での正しい「労働」とは、御言葉に従い、真実に生き、あくまで正しいことを主張し、その行動の対価として相応の報酬を得ながら、自立を失わず、他人の支配を受けず(人の奴隷とならず)自由を保って生きることを意味する。その最善の形は、この世の労働によらずに「天の糧」によって生きることである、と筆者は疑わない。

数年前から筆者は、呪われたバビロン建設作業から抜け出て「天の糧」によって生きる方法を模索し、その実現のためにこそ、数々の戦いを戦い抜いて生きて来た。

筆者はこれまで様々な職業を経験したが、筆者がどんな職業に就いても、分かったことは、神は筆者がただ金儲けのために己を奴隷として差し出し、悪事に目をつむり、正義を曲げて生きることを決して望んでおられないということであった。

神が望んでおられるのは、神を信じて自由にされたはずの信者が、まるで働き蟻か馬車馬のように、再び強欲な他人の奴隷となって、自分をないがしろにし、犠牲にしながら生きることではなく、神に信頼しつつ、より自由に、より安息して、自分の望みに従って生きることなのである。

そのように自由で解放的な生き方ができるようにと、神は信者のために、いつでも天に宝を備えて下さっている。だが、この天的な富を地上に引き下ろすには、条件がある。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」という優先順位を守るときに、初めてそれが可能になるのである。

強欲な雇用者のどんな金儲け願望も、あるいは国家が打ち出す「一億総活躍」のスローガンも、生活の不安も、地震も、災害も、戦争も、どんなものも、決してその優先順位を変えることはできない。神の国と神の義を第一として生きることは、人が己を養うために行うどんなもがきよりも、はるかに優先されるべき課題なのである。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたなの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)


この御言葉を根拠に、ある時点を境に筆者は明日の不安を投げ捨て、ただ命をつなぐために今日を馬車馬のように働くむなしい人生と完全に手を切って、空の鳥のように、自分自身を完全に天に委ね切った。だが、それは信仰の戦いを抜きにして成り立つ人生ではなく、自分自身の力によらず、ただ全身全霊で神の御言葉だけに頼って生きる生活を意味した。

地上の労働についても、筆者はこれまで一度たりとも、縁故に頼って就職を試みたことはない。すべては地上的には何の保証もないところから、筆者がただ信仰だけを頼りに切り開いて来た道であった。また、筆者は大学時代にも、指導教官のコネを頼って就職を目指したことはなく、教官の力を使って返済不要の助成金を得たこともなかった(そのような提案がなかったわけではないが、筆者はこれを受けなかった)。また就職先の団体の力で奨学金を返済不要にするなどの特別な利得も受けていない。

このブログについても、昨今、多くのブロガーが有料メルマガなどを発行して日々の糧を稼いでいる中、有料化するという案を筆者が一度も考えなかったわけではない。特に、どんな記事を書いても、返って来るのが、ただ読者の悪罵と、憎しみと、脅しだけであったような時期には、ブログを続けて何の益があろうかという思いが心に去来しなかったわけではなかった。
 
それにも関わらず、筆者は信仰告白を無意味なものとは思わず、決してやめなかったし、記事の有料化もしなかった。どんなに敵対的な反応が返って来ても、採算が取れないと考えて、信仰告白を売り物にするようなことはしなかった。それは超えてはならない一線であるという認識が筆者にはあったからである。もしそのようなことをすれば、キリスト教を売り物にして、信者から献金を巻き上げて生きる牧師たちと一体、何の違いがあろうか。どうして彼らを非難することができよう。信仰告白を金もうけの手段に変えるなら、このブログは単なるビジネスに堕し、筆者の告白は純粋さを失い、筆者はまことの命なる方を見失って、ブログも早々に立ち行かなくなるだけであろう。
 
実際に、記事を有料にしたからと言って、採算が取れる保証は全くない。世の中全体が窮乏化している状況で、有料記事を発行しているブロガーが、この先、どれほど長くそのやり方を保てるかは疑問である。

このようなわけで、筆者はこのブログの信仰告白のために、一銭のカネも受け取らず、(詐欺師による心にもない嘘を除き)一言の賞賛の言葉も受けなかったが、それを実に結構と考えている。また、筆者が地上の生活を生きるに当たって、どんな有力者のコネも、推薦の言葉も不要であり、ましてや強欲な雇用主に媚びるために、悪魔に魂を売ってまで、搾取や不法に加担しながら、職場での地位の安泰をはかることは必要ないと考えている。

そのように信念を曲げないやり方で、このブログが存続し(まして告訴の脅しさえも受けながら!)、筆者の人生が成り立つのかどうかは、信仰による賭けであった。しかし、筆者には勝算があった。筆者は、利得のために、また地上で己が命を保つために、悪魔に魂を売って、正義と真実を売り払い、信仰の道を曲げる生き方を良しとしなかった。

この世の人々から見れば、こうしたことは、実にまずい、不器用かつお人好しな人生、割に合わない、不採算な、もっと言えば、可哀想な人生にさえ見えるに違いない。どんなに真実だの正義だの言ってみたところで、たった一人での抵抗など、どうせ長くは続かず、どこかで悪党にしたたかにやられて、悲劇となって幕を閉じるだけだろうと思われていたことであろう。

ところが、悪党には非常に残念なことに、決してそうはならなかった。ブログも健在であり、筆者も健在である。むろん、そうなるために、戦いが水面下であったことは否めないが、その戦いを信仰によって最後まで忍び通し、勝ち抜くことにより、こうした結果が生まれているのである。

筆者は外見的には未だ頼りなく弱々しく見え、「かろうじて生きている」だけに見えるかも知れないが、筆者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が、生きて力強く働いている。それゆえ、筆者はどんなに追い詰められているように見える時にも、決して「かろうじて生きている」だけには終わらず、圧倒的な勝利を掴む秘訣を知っているのである。

だから、世の中がどんなに不況に転じても、筆者が絶体絶命に追い込まれることはなく、明らかに、年々、生活水準が向上し、ますます望みに従った自由な生き方が可能になりつつある。それは一足飛びの解放というわけには行かないが、一段ずつ階段を昇って行くように、解放を勝ち取るのである。そして、このように自由になるための戦いの中で、ますます勇気と力が与えられ、戦略が磨かれて、熟練した兵士のようになって行くのである。

戦いが始まったばかりの頃は、筆者はまだどこにでもいるありふれた控えめで頼りない小娘のような一人に過ぎず、御言葉だけに頼ることに不安を覚え、助力者となってくれそうな誰かを探し求めたこともあったかも知れない。しかし、今はもうキリスト以外に誰にも教えを乞う必要のない、他人の助けを必要としない熟練した兵士へと近づき、敵が近づいてくるのを見るや一目散に戦場から逃げ去る臆病な一兵卒などでは決してないのである。

さて、筆者がこれまで各種の戦いに勝ち抜くために、最も重要な教訓として学んだのは、神の御言葉に信頼して自分の全存在を委ね切って生きるには、決して「人の助言に頼らないこと」、「世間の顔色を伺わないこと」が重要という秘訣であった。この「世間」の中には、当然ながら、クリスチャンの世間も含まれる。

聖書の原則は、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)というものであり、この原則を守り抜くことができなければ、信者は敗北する。どんなに立派で、どんなに頼りがいがあるように見える人間も、実態はことごとく「偽り者」でしかなく、キリスト以外に頼るべきお方はいないのである。
 
従って、「和を乱さない」などのうわべだけの綺麗事のために、権威者を名乗る人々や、「世間」の思惑に流されて生きるようになれば、信者が神に従い、真実に正しく生きることはもはや不可能である。

筆者が知っている限り、信仰の破船に遭ったクリスチャンの8~9割が、世間での自分の評判を愛し、惜しんだために、神に従うのではなく、人に従う人生を選び、信仰の道から逸れて行った。彼らがかえりみた世間とは、不信者の世間ではなく、クリスチャンの世間であった。それを見つつも、筆者には、はっきりと言えるのだが、もしも信者が、ほんのわずかでも、世間での自分の評判を惜しみ、世間から後ろ指さされたくないとか、軽蔑や嘲笑や非難を受けたくないとか、つまはじきにされたくないという恐れから、世間の思惑や動向を気にし、少しでも人々に良く見られようと、自分の見てくれに気を使い、人々の意見や評価や流行に自分を合わせようとし始めると、そのとたんに、その信者はもう自由を失って、人の思惑の奴隷へと転落し、神の御心を全うすることができなくなるのである。

そのようにして、信者が自分の人生の主導権を「世間」などという正体不明の存在に乗っ取られれば、その船は、正しく舵を取る者がいなくなり、転覆は間近である。牧師や教師や信仰の先人を名乗る人々の顔色を伺うことも、これと全く同じ効果をもたらす。それは人生の主導権を他人に乗っ取られることを意味する。

そこで、クリスチャン生活における戦いの中で、とりわけ常に重要なポイントは、たとえこの地上の目に見える世界において、誰からも理解されず、誰からの支援も賞賛も後押しもなくても、たった一人でも、聖書の御言葉の正しさを心から確信し、御言葉に立脚して、どんなに御言葉に矛盾する現実があるように見えても、その約束から一歩も逸れず、信仰の確信に最後まで立ち仰せられるかという点にある。このような孤独な道を一度も通らずに、一度も試されることなしに、信仰の戦いを立派に戦い抜いて勝利をおさめることのできるクリスチャンは一人もいないと、筆者は心から確信している。

もしも信者が、いつも数多くの理解者や支援者に取り囲まれて、ひっきりなしに人からの慰めや励ましや賞賛の言葉を受けていたら、たとえ試練の日にその信者が何かの重大な信仰告白を成し遂げたとしても、一体、どこまでが本人の確信で、どこからが他人の影響力や受け売りによる「補強」なのか、誰にも分からないであろう。

そこで、神はこのような「取り巻き」による影響力をすべて剥ぎ取られ、信者を他の人々から切り離して、孤独な場所に置かれる。そして、誰もいないところで、信者の心を個人的に極みまで探り、試される。また、信者が神に従うことが、決して信者本人にとって何の栄誉ともならず、何の快楽ももたらさず、むしろ、信者にとって不利であって、苦しみが伴い、損と映るような状況をあえて用意される。このような過程を通して、信者が自分自身の利益のためではなく、御言葉の正しさへの確信、神の栄光のために、神に従うという境地まで導かれることなくして、信者の信仰告白は決して本物にならず、御言葉が信者の内側に生きて造り込まれることもないのである。

このような苦しみの伴う不快な過程をすべて耐え抜いて、それでも信者が御言葉へ従順であり続けることができるのは、ただひとえに地上における軽い苦難の先に待っている重い天の永遠の栄光を見据えているためである。

ヘブル書第12章2節は、口語訳では、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」となっており、共同訳ではこの箇所は、「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」とある。かなり文脈が異なっており、筆者はおそらく共同訳の方が原文に近いのではないかと思うが、口語訳も誤りではないと言えると思う。なぜなら、主イエスは、十字架の苦難の向こうに、はかりしれない栄光が待っていることを実際に知っておられたのであり、それと同じ文脈を以下の御言葉にも見て取れるからである。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」(ヘブル11:13-14)

信者は、信仰の戦いを戦い抜くことによって初めて御言葉の確かさを実際に知り、御言葉と深く一体化して、その約束の中を実際に生きることができる。全世界の誰一人、信者の確信を理解せず、目に見えるすべてが絶望的で、頼りなく、聖書の約束を否定するように見える状況の中でも、信者が「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍」び(ヘブル11:27)、御言葉に従って、神のみを信頼して、揺るがされることなく平安の中を生きるならば、幾度も述べたように、たとえ生きているうちに天の都に到達することはないとしても、天に溢れるばかりに備えられている重い栄光の一端を、地上に生きているうちに垣間見ることができる。

地上での苦難は、信者を訓練するために神が許されて与えられるものであるが、その小さな訓練をも耐え抜けば、相当の褒賞が待っている。多くの場合、その褒賞は、ただ目に見えない約束であるだけでなく、その一端が、信者の地上生活に、(呪われた水晶宮への煉瓦運びの労働とは比べものにもならない)豊かな富や自由となってもたらされるのである。天の糧を得るとは、天の父なる神の御心を行って生きることである。その道を行くとき、信者の生存に必要なすべてを、神自らが備えられる。
 
「わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)


十字架の死と復活の原則ー地上の実りなき死んだ労働を離れて、天に永遠の収穫をもたらす労働に生きるー

さて、梅雨に逆戻りしたかのように雨がちな一週間が過ぎたが、その間、エアコンを通常通りに回していると、風邪を引きかけた。しかもそれは単なる風邪でなく、悪寒と共に身体中の関節が痛み出すという厄介な風邪であった。筆者には長年眠っている腰痛があるのだが、もしこれが再発したら二週間は起きられなくなっていただろう。

だが、そんなことは決して起きないという確信があった。幸い数日の養生ですっかり元通りになった。健康の秘訣はよく食べること、よく眠ること。それから、どんな時も神の御守りと御助けを確信し、目標をまっすぐに見つめて、そこから目をそらさないこと。何よりも無駄に心を悩ませないことである。この記事を書き終えた頃には、全ての症状が消し飛び、引きかけた風邪は嘘のようにおさまっていた。

さて、これまでの人生経験から、筆者には、ヨブに与えられた試練のように、悪魔は信者の大胆な信仰告白を聞いた後には、必ず信者の信仰を試しにやって来るものと分かっている。

たとえば、もしあなたがある日、長年苦しめられた大きな圧迫やしがらみから、聖書の御言葉の約束に基づき、神の力によって、信仰によって、大胆に脱出を宣言し、また奇跡的な脱出を遂げたとしよう。あるいは貧しさから、搾取から、束縛からの脱出であり、あるいは悪習慣から、他人の支配から、不幸から、あるいは病から、他の何でもいいが、明らかに悪だと分かっているものと手を切って、そこから解放されたのだとしよう。すると、あなたが解放を喜んでいるのも束の間、悪魔は必ず、あなたに忍び寄り、あなたに去って来た環境をもう一度振り向かせ、もう一度、束縛の中に連れ戻そうと、あなたの心を揺さぶって来る。あなたに起きた解放がまるで嘘のように感じられるような環境の激変を引き起こしたり、その異変に、親しい人たちの裏切りなどといった非常に心痛める事件を加えたりなどして、あらゆる不快事を引き起こしながら、一体、あの解放は何だったのだろうかとあなたに思わせようとする。それによって、あなたがいったん握ったはずの自由の確信が揺るがされ、あなたが受けたはずの神の助けを疑い、あなたが自分は信仰によって御言葉に基づいて解放されたのではなく、たた自分勝手にとんでもない冒険を遂行しているだけで、そこに真理は存在しないのだという疑いを生じさせるのが悪魔の狙いなのである。

こうした体験を筆者は数え切れないほど通過してきたので、今となっては、何か一つの解放が起きる度に、悪魔は再び以前の圧迫をよみがえらせようとするのだと、それを当たり前の通過儀礼のようにしか思わず、ほとんど動かされることもない。栄光から栄光へ、キリストの似姿とされるために、名実共に心身の全てにおいて自由とされるために、信仰によって目的を目指して歩み続ける秘訣はここにある。つまり、どれほどの圧迫や異変が周りで起きようと、内側で一度掴んだ確信を確固として手放さず、ただ前だけを向いて、真っ直ぐに進んで行くことである。

例を挙げれば、筆者が過去に牧師崇拝という罪に堕した偽りのキリスト教と手を切った後、この束縛に満ちた似非宗教にもう一度筆者を引き戻そうと、どんなにひどい圧迫が起きてきたかは周知の通りである。それは筆者がどうしても去らなければならない、筆者の居てはならない、神の御怒りのとどまる忌むべき場所であったが、そこからエクソダスするに当たっては、苦しみが伴い、信仰による代償が必要だった。この代価を全て払い切って、勇気と確信を持って前に進んで行かなければ、まことの神とは誰か、本当の信仰とは何かを筆者が生きて知ることはできなかったのである。

こうした体験を通して、筆者は、いったん、クリスチャンが神の忌み嫌われるものと手を切り、そこからエクソダスを果たし、自由になろうとしたならば、必ず、次の瞬間、悪魔はあなたの信仰が本物かどうかを試すために、あなたの心に揺さぶりをかける事象を引き起こしてくることを知った。悪魔のなすことはどれもこれもえげつなく、とんでもない事件を引き起こしてはあなたを驚かし、苦しめようとして来ることも稀ではない。

だが、驚くなかれ! そこにも神の御手が働いており、そうした患難の中にこそ十字架の死と復活の法則が大いに働く余地があるのだ! あなたはエクソダスを決意した瞬間に、すでに復活の予表を見た。あなたの目の先には、自由と解放が見えており、あなたの心はもうそれを掴んでいる。今度は、心の中ですでに見えているこの復活の確信を、死の影の谷を通り抜けて、その先に自らの手で掴み取り、揺るぎない現実としなければならない。信仰によって戦って解放を得て、確信を現実に勝ち取らねばならないのだ。

そのために、あなたは、自分の心の確信が試されていることと、すでに勝利が約束されていることを知り、周りで何が起きようと、そこに注意を払わず、心をぐらつかされないようにすべきである。あなたの確信を奪い取るために用意された外側の圧迫がどんなに激しくとも、それを打ち破る復活の命があなたの中にすでにあることを信じ、神が必ず最後まであなたを解放へと導いて下さることを信じ、この確信を固く握り締め、守らなければならない。つまり、一度信仰によって掴んだ確信を決して手放さず、決して後ろを振り向かず、以前の圧迫に戻るしかないと考えて心を翻すことなく、一心に前だけを向いて、追い迫る地獄の全軍を全力で振り切り、撃退しつつ、ゴールへ向かってひた走らねばならない。思い切りアクセルを踏み込み、とにかく全力で前進するのである。

これに成功した時、初めて、あなたは、あなたを再び奴隷にしようと追い迫るエジプトの軍勢が溺れ死に、あなたの内側て確信として与えられた復活の命の確証が揺るぎないものとなって、あなたを取り巻く環境に及んで実際となるのを見るであろう。つまり、環境をコントロールするキリストの命の支配力が、あなた自身から外に流れ出て、現実に力強く及んで行くのを知るのである。もはや圧迫があなたをコントロールすることはなく、環境の主導権はあなたにある。その時、あなたは大胆に命じることができる、嵐よ、静まれと。

キリストの復活の命には、この世の気象条件、経済条件、物流など、この世の諸条件を治める力がある。しばしば神を知らない人の心さえ動かす力がある。なぜなら、この神の命は、統治する命であり、この世の全ての事象を超越する支配力を持つからである。しかし、このように絶大な威力を持つキリストの命の権威と力を行使する秘訣を信者が知るためには、まず信者の信仰が試されなければならない。信者自身が十字架の死と復活の法則を体験しながら、しばしば極限まで試され、苦難を通して、主の死を自分自身の死として負うことなくして、この超自然的な神の命の働きを、生きて実際に知ることはできないのである。

信仰が試されることには苦難がつきものであり、それゆえ、信者の信仰の生長は苦しみを経ることなくしては得られない。時にその戦いは想像をはるかに超えたスケールの圧迫を伴う。しかし、信仰の観点から見れば、それは軽い艱難に過ぎず、注意に値するものでもない。その苦しみに勝利することによって得られる天の栄光に満ちた収穫の大きさは、束の間の試練がもたらす痛みとは比べることもできないものである。

ヨブのたとえを引き合いに出したように、その戦いに勝利した暁には、信者は以前の二倍の恵みを手にするかも知れない。苦難を乗り越えて忍耐によって試された信仰は、試される前よりももっと大きな祝福を引き出す秘訣を学んでいることだろう。

さて、これから先、筆者が述べることは、多くの人には全く理解できないか、理解したくもない内容に感じられるであろうが、これは本当のことである。筆者はここ数年、人間の地上での労働は、罪の報酬として与えられた、ただ不毛なものであるばかりか、ことごとく共産主義につながるのだという事実に気づき始めた。

日本人の多くは、幼い頃から学校教育などで勤労の精神を叩き込まれているので、経済活動に従事することを全て良いことだと思って疑わず、低賃金で実り少ない労働に従事させられてもそれに疑問も持たないかも知れない。だが、働いても働いても豊かにならないような労働は悪でしかなく、全く推奨されるべき行いではなく、正しい勤労の概念にも該当しない。それは歪んだ搾取、不法以外の何物でもなく、その中にとどまっていても、誰も幸福にはならず、ましてキリスト者は悪魔のもたらす呪いと圧迫と束縛以外の何物も受けることはできない。従って、信者はそのような歪んだむなしい労働からは、エクソダスしなければならないのである。カルト宗教の中にいても幸福になれないのと同じように、不法と搾取の中にとどまっていながら、神の望んでおられる自由な生き方を遂げることは無理なのである。

しかし、ここで疑問が生まれよう。地上の労働で搾取と無縁のものが果たしてあるのか、一体、神の御心にかなう正しい労働とは何なのか、それはどうやって信者に遂行可能なのか、という疑問だ。

この疑問にはおいおい答えて行くとして、まず、地上の労働の何がおかしいのかを見てみよう。すでに述べたように、聖書によれば、人の地上における労働全般は、アダムが犯した罪の報いとして人類に科せられた呪われた刑罰のようなものである。人類の罪のゆえに、人が地を耕しても、耕しても、地は実を結ばなくなり、その労苦の果てに、人は自分の築き上げた全財産を他人に譲って、塵に帰るしかなくなったのである。

こんな不毛な労働は呪われているとしか言いようがないが、その次には、人間は、この労働から解放されるための安息の日にさえも、どうやって安息を守るかについて果てしない議論を起こし、安息さえも苦役に変えてしまった。だが、今そのことは脇に置いておこう。このような呪われた不毛な労働は、一切が無意味であり、この堂々巡りの路線でどんなに努力しても、何も生まれない。それは「肉から生まれるものは肉である」ことを象徴しており、人間の生まれもった生存本能から出た努力によっては、それがどんなに必死の努力であっても、永遠に至るものは何も生まれないということの証拠だ。だが、絶望するのはまだ早い。なぜなら、これに代わって、天において永遠の収穫をもたらす労働というものが別に存在するからだ。その内容について後ほど述べることにしたい。

さて、地上における一般的な労働の呪われて無駄であることを示すために、別な表現をすると、すでに述べたように、筆者の考えでは、地上の経済を発展させる名目で行われる人間の労働というものは、国が資本主義の形態を取っていようと、社会主義であろうと、うわべの政治体制に関わらず、およそ全てが本質的に共産主義に通じるのである。

ある人々はこういう話の展開に着いて行けず、「ヴィオロンは気が狂っているに違いない」とあざ笑うかも知れないが、その前にまずは腰を据えてよく考えてもらいたいものである。

共産主義とは、要するに、人類社会の幸福と発展のために、全ての人々が平等に労働の責任を負う(みんなで働けば共産主義ユートピアが到来する)という発想であるが、実際には、もちろん、そんなユートピアは決して到来せず、これは嘘の約束であるばかりか、悪党どもは、決して最初から真面目に働く気などさらさらなく、ただ労働の重荷を騙されやすい善良な人々に押しつけ、自分たちは彼らを搾取することによって新たな貴族階級になるために、方便としてこうした思想を利用しているに過ぎない。

そもそも労働の成果が私有財産という形で個人に還元されない仕組みの中では、誰も労働しようとの意欲を持たないであろう。働けば働くほど怠け者を助けるだけのシステムの中で、誰が真面目に働きたいと願うだろうか。

従って、共産主義とは、平等の概念の下、誠実な者たちの真面目な労働を、強欲な怠け者たちの利益のために掠め取り、悪党が善人を収奪し、虐げることを正当化するための経済体系のことであると言える。「みんなで国を豊かにするために、みんなで同じ夢を目指して、平等に働こう」などと表向きにどんなに謳っても、そんな平等は決して実現しない。そのスローガンに踊らされるのは馬鹿だけである。悪党どもは決して自分の手を汚し、汗水流して真面目に働こうとはせず、かえってそのスローガンを利用して、真面目な人間を、己を富ませるための歯車としてこき使うのである。

しかしながら、こうした話は社会主義国だけのことでなく、我が国の現状も似たり寄ったりである。上を見れば世襲議員がとんでもない高額な報酬をもらって遊び暮らし、連日目も当てられない退廃的な活動に耽っているかと思えば、下は貧しい者はますます貧しくなり、死者からも国家が税金をむしり取ろうとする有様だ。ブラック企業は労働者の健康と生き血を絶え間なく吸って富んでいる。まさに善人の労働が悪人たちの利益のために搾取され、働く者たちの誠実な苦労の実が、働かない者たちを富ませる手段になっているのだ。このような転倒したバビロン経済をさらに推し進めようと、アベノミクスなどが性懲りもなく打ち出され、一億総出で経済活動に邁進すれば、バブル期の夢よ再びで、ユートピアが到来するかのような偽りの夢が恥知らずにも未だ公然と語られている。(いつになったら、それが嘘の約束でしかないことに国民全体が気づくのであろうか。)

その上、このように善人を踏み台にして悪人を生き永らえさせるための転倒した経済を今ばかりか永遠に支えるために、もっとバビロン経済の盲信的で忠実な奴隷になってくれそうな無知で愚かな次世代の人材を全社会をあげて育てようというのである。そのためには人文科学などは邪魔にしかならないので、大学には不要なのだそうである。余計な知性は要らないから、自分の頭で考えることなどやめて、政府や企業や組織の言い分を大人しく聞いて、彼らの利益のために、疑うことなく黙って命令に従ってくれる従順で愚かな働き者のロボットかモルモットのような人間をだけを優秀な人材として生産しようというのである。

こうした傾向が行き着くところまで行きつけば、いずれ我が国も、家畜的労働を推進するだけでは飽き足らなくなって、ソビエト政府のように、共謀罪を利用して、反政府的な思想の持ち主はみな強制収容所にぶち込んで「労働による再教育」を受けさせるなどというとんでもない発想に至りかねない。

陰謀論や国際金融資本などといったものを持ち出すまでもなく、聖書によれば、この世は悪しき者の支配下にある。従って、この世の経済も、悪しき者の配下にあって、悪しき者(だけ)の利益になるよう作られているのは当然である。

そのため、キリスト者が真に神の御心を満足させる正しい労働に従事して生きようと願うなら、まず第一に、どうしてもこのように歪んでバビロン化した悪や不法の温床になるだけの経済の仕組みの外に出ることが必要になる。それは信者がこの世の経済そのものから完全に身を切り離して隠遁生活を送ることを意味せず、信者がこの世に身を置きながらも、この世の経済の支配体系の奴隷とならず、その限られた貴重な例外となって、この世とは別の、この世を超越した異なる正しい支配体系をそこにもたらすことを意味する。そのために、クリスチャンはまず、この世がいわゆる「常識」として定めている考え方に盲信的に従って、自分の良心を眠らせながら、「人類の幸福社会の実現」を口実とするこの世のバビロン経済の発展(バベルの塔建設)に仕える盲目的な歯車になって生きることをやめなければならない。

この地上のほとんどの人々は、たとえ信仰があっても、ことごとく盲信的にバビロン体系の奴隷となって生きている。だが、聖書のまことの神に仕えて生きることと、マモンの神(悪魔)に仕えることは両立しないのである。 「不信者と釣り合わないくびきを一緒につけてはいけません」という聖書の御言葉は、神に贖われて自由とされたはずの信者たちが、悪魔の推奨するバビロンの偽りの調和や偽りの福祉のために、不信者と同じように奴隷的労働に従事させられて、割の合わない人生を送ってはいけません、という警告でもある。

「空中の権を持つ者」とは悪魔のことであり、悪魔は、いわば空気を支配する王である。どんなことでもそうだが、もし人が自分の頭を使って自ら主体的に考えることをやめて、ただぼんやりと「良さそうなもの」に見境なく飛びつき、「世間がみなそうしているから」とか、「周りがみんなこれが正しいと言うから」とか、「習慣だから」、「波風立てたくないから」、「仲間外れにされなくないから」、「ひとかどの人間として認められたいから」などといった諸々の動機で、村八分にされるのを恐れ、「空気」に流されて行動するようになると、その人はすでに思考停止状態に陥り、生きた人間というよりは、バビロン建設のための単なる歯車、ロボットに成り果てているのである。そのように有無を言わせず大勢を同じ方向に追いやり、同じ価値観の奴隷としようとする「空気」こそまず第一に疑ってかからねばならない曲者である。

悪魔は、悪事を働くに当たって、決して悪しき動機を公然と語ったりしない。むしろ、悪魔が悪事を働くに当たり、最も好んで使うのが、「人類社会の幸福や平和や発展のため」という美しい大義名分である。「和をもって貴しとなす」という大義名分は、昔から悪魔の大好きな常套句で、彼らはこれを印籠のように振りかざしては、不都合な人間を異分子として排除し、黙らせ、人々を思考停止させて従順な奴隷に変えるために用いて来た。すなわち、「和」にそぐわない人間は「協調性がない」、「愛国心がない」などの名目で罪に定め、実力行使で強制排除して行けば良い。そのことによって、表向きは「和」が保たれているかのように見せかけ、偽りの安心感を人々に与え、良心を眠らせるのだ。しかし、その「和」とは、一体、具体的に何を指すのかと問えば、シャボン玉のように実体のない、ぼんやりしてフワフワした宙ぶらりんの抽象概念でしかない。しかも、この美しい大義名分の向こう側に隠されているのは恐ろしい全体主義であり、そこでは、全体の利益のために個人が持てるすべてを供出せよと迫られ、犠牲にされ、裸にされ、殺されている。異分子を排除するとの名目で、圧倒的多数の人々が罪に定められて排除されている。それは結局、ありもしない「和」という綺麗事の陰で、人間を奴隷化して使役し、権力者にとって不都合な人間を排除するだけの残酷なシステムであり、そんな残酷な「和」に最終的に適合しうる人間は誰もいない。それは恐怖政治であり、どんなに人がそれに熱心に仕えても、そのシステムは個人の必死の努力に決して正当に報いず、約束した平和をもたらさない。あるのは絶えざる流血、絶えざる排除、絶えざる罪定め、いわれなき村八分だけで、「和」から締め出され、村八分にされたくないと恐れて、それに仕えれば仕えるほど、人はますます恐怖にがんじがらめにされ、苦役から逃れられなくなって行く。それは自分のために果てしない奉仕を人間に要求する高慢で冷たくて恐ろしく非人間的な「和」である。

そのような価値観に支配される世界では、表向きの美名とは裏腹に、無秩序が横行し、全ての価値観が裏返しとなる。正しい人が罪に定められ、悪人が大手を振って無罪放免される。たとえ人が無実の罪で強制収容所に連れて行かれ、「再教育」を受けさせられたとしても、そこでは罪の償いさえままならず、刑期は減るどころかますます追加されて伸びて行くだけである。何もかもが転倒している。だが、我が国はもうほとんどそこへ近づいており、その混沌とした世界まであともう一歩である。極めて危うい崖っぷちに立っていると言えよう。

結論から言えば、これが堕落したバビロン経済の転倒した価値観であり、バビロンの本質は全て共産主義なのである。そこでは最も誠実でお人好しの働き者が誰よりも虐げられ、あざ笑われ、最も卑劣な怠け者が左団扇で暮らしている。悪人を生き永らえさせるために善人が罪を着せられ、虐げられている。繰り返すが、神に贖われた信者は、この転倒した価値観から逃げ出さなければならない。その奴隷となって、バビロンを富ませるための労働力となってはいけないのである。

さて、共産主義の思想に仕えて生きることがどんなに無益な生き方であるかを念押しするために、蛇足かも知れないが、ソビエト時代の強制収容所に関する物語の中で、あるストーリーのあらすじを引用しておこう。うろ覚えなので正確でない可能性があるが、これはソビエトの強制労働収容所の日常の風景の一コマを題材とする創作物語である。

普段は飢えと過重な労働のために死の淵で金鉱採掘労働に従事させられていた囚人たちが三人ほど収容所当局に呼び出され、数日間の森林伐採を命じられた。普段の金鉱労働では、囚人たちは仕事のノルマの達成量に応じてしか食料の配給をもらえない(ノルマは並の人間ではおよそ達成できないような途方もない数字である)ため、ノルマ未達の囚人たちは、少ない配給しかもらえず、飢えて死ぬか、骨と皮だけになってかろうじて生き延びるしかない。しかし、森林伐採のために呼び出された囚人たちには、予め手弁当が配給された。囚人たちにとって、これは絶大な意味を持つ出来事であった。なぜなら、食料が配給されたことは、この数日間は全く労働せずとも生き延びられる保証を意味するからだ。囚人たちの腹は決まっていた。

囚人たちにとって、森林伐採は死の鉱山労働から逃れるための休暇であった。ここは仕事するふりだけして、みんなでこの休暇から最大限の自由と休息を引き出そう。どうせ真面目に働いてもノルマなど達成できず、待っているのは罰だけなのだ。明日のことなど明日考えればいい。

ところが、囚人たちの中に一人だけ真面目な共産主義者がいて、彼だけは、今までの過酷な収容所生活にも関わらず、なおソビエト政権と共産主義イデオロギーの正しさを心から確信してやまなかった。彼は収容所当局が定めるノルマが、始めから非人間的な、達成不可能なものなどとは信じようとせず、サボタージュなどせず真面目に働くべきだと言って、労働の意義をみんなに力説するのだった。

他の囚人たちはこれを聞いて呆れつつも、それでもこの「同志」があまりにも純粋で熱意に溢れており、憎めない人間なので、その説得にほだされて、また、彼に真実を思い知らせてやろうという気持ちから、仕方なくノルマ達成のために一緒に働いてみることにする。その労働の結果を見れば、さしもの「同志」も当局の課したノルマがどんなに最初からメチャクチャであったかが分かって、ソビエト政権のイデオロギーの無意味さを悟り、自らの誤りを認めるだろうとの予想からであった。

ところが、そうしてみんなで協力して真面目に働いてみると、最初はサボタージュしか願っていなかった囚人たちにも、だんだん仕事が面白くなって来る。チームプレーを通して互いに連帯感が生まれ、普段の囚人生活では生まれ得ない友情のようなものまで育まれた。あながち「同志」の言い分も間違いではなく、働くことにはそれなりの楽しさや意義も確かにあった。彼らのチームプレーは素晴らしかったが、それでも、三日間かけて彼らが達成したものはノルマの三分の一にも満たなかった。

その結果を見た「同志」はなんと自殺して果ててしまう。だが、すでに仲間意識も芽生えて、彼を友人のように思っていた他の囚人たちは、彼の自殺を知って、今までよりもなお一層、ソビエト当局に対する憎しみに燃える。もとから達成不可能なノルマを課して、人間を愚弄し、この「同志」のように騙されやすい人間に嘘の希望を吹き込み、絶望へ至るまでこき使い、この恐るべきむなしい思想のために心中までさせるとは…

ストーリー解説はこのくらいにしておくとして、最近、この話が何かにつけて、筆者には思い起こされるのである。

これは私たちが生きている今の世の中とさほど変わらない描写ではないだろうか。ここはソビエト政権下ではないし、我が国の経済はそこまで極端な歪みではないかも知れないが、それにも関わらず、この地上における労働は、上記の収容所における囚人労働とほとんど変わらないどころか、本質的には全く同じものだと筆者は思うのである。

それはプロテスタントの教会における奉仕と献金の義務にもとてもよく似ている。信徒たちは日曜礼拝に足しげく通い、多額の献金を払い、教会のために様々な奉仕を積み重ね、牧師の説教をよく聞いて、牧師の覚えめでたい人間となることで、神に仕え、正しい生き方をし、聖なる者に近づけると思い込んでいる。ところが、そんな信徒の苦労をあざ笑うかのように、奉仕と献金を積み重ねれば重ねるほど、信徒のくびきはますます重くなり、ますます多くの奉仕、ますます多額の献金が要求されるようになる。信徒は聖くなったと感じるどころか、牧師や教会の要求に応え切れない自分自身に罪悪感を覚えるだけである。こんな風に、やればやるほど罪の意識が増し加わるだけのむなしい奉仕が、「信徒の義務」とみなされ、神に近づく手段のようにみなされ、それをやめれば、信徒はたちまち正しい信仰の道から逸れて悪魔の虜となり、救いを失って地獄へ一直線に落ちていくだけ…、などと真面目な信徒は本気で思い込まされている笑止千万な場所である。

こういう文脈での教会への奉仕と献金の義務は、聖書の信仰にカモフラージュした極めて悪質な罠であり、それによって神に近づけるなどと信じている信者は、ソビエト政権のイデオロギーを信じるあまり、死ぬまで収容所でこき使われた囚人たちや、ブラック企業に酷使されながら、自分が何をされているのか分からないで過労死して行く愚かな労働者と変わりはしない。そのような歪んだ労働(搾取の肯定)を通して、人類社会の発展に貢献できるという考えは嘘であり、そんな労働を通じて人間性を改造でき、ユートピア社会をもたらせるなどのことはあるはずもない。そんな労働は、やればやるほどますます世の中をヘンテコな場所へ、異常で転倒した世界へと変えて行くだけで、人類に不幸を増し加え、人間性を貶めるだけなのである。

このような不法で歪んだあるまじき労働によって、人間を改造できるかのような嘘は、元を辿れば、グノーシス主義から来ている。グノーシス主義とは、幾度も述べて来たように、もとは人が自分自身の努力によって、自己を改造し、神の聖にまで至れるとする偽りの神秘主義思想であり、この異常な思想ではそのような嘘の希望を信じることが、「知性」を獲得することだとされる。今日のキリスト教も、全ての異端の根源であるこの思想の侵入や攻撃を受け続けているが、この偽りの思想では、「知性」に目覚めた人間が、それぞれ努力によって達した段階に応じて無限の霊性のヒエラルキーがあることになっているので、この思想の影響を受けた信者たちは、霊性のさらなる高みに上るために、勉学や奉仕や精進を積み重ねるのである。だが、神の高みに上るためには、人は生きているうちばかりか、死後も永遠に修行を続けなければいけないとこの思想は言う。早い話が、ソビエト当局が囚人に課した達成できない労働のノルマと同様に、グノーシス主義は、一方では、人は己の精進の努力次第で、霊性の階段を上って、神の高みにまで達することができると言いながら、もう一方では、それができた人間は今まで地球上に一人もおらず、その修行は人の全存在をかけてもまだ足りないので、どんな偉人も今もって修行中である、と言うのである。結局、これを聞いて分かるのは、どんな嘘をや方便を使っても、神と人との合一は、人間側の努力によってはおよそ達成できず、それを人間側の努力によって成し遂げようとすると、それはただ人間にとって負い切れない重荷になって跳ね返って来るだけだという自明の理しか証明できない事実である。

悪党どもはまさかこんな嘘っばちな思想を初めから信じてはいない。そこで、この手の思想は、悪党が、騙されやすくおめでたい人間を都合良くこき使い、うんと搾取するための方便として利用されるに過ぎない。多くの牧師たちは、信徒たちが教会に奉仕し献金したくらいのことでは、決して神に近づけないことを知っている。それが証拠に、彼らは教会のために一銭の献金も奉仕もせず、神を全く信じないで死んだ不届きな不信者たちをも、信者たちと同じように、気前良く平等に教会で葬ってやる。こうして彼らは、信者たちが都合良く騙されているだけであることを親切に身を持って示してやっているのである。彼らは教会に奉仕と献金を捧げることと神に仕えることが全くズレていることをよく知っていながら、それでも己の栄誉と権勢拡大のために、愚かな信徒の労働を搾取しているのである。その曲がった利己的な動機を覆い隠すために、神の国だの聖化だのと言って新たなセミナーを開いているだけである。それと同じ究極の騙しのテクニックが、ソビエト政権による囚人労働であった。無実の人間にあらぬ罪を着せて大量に強制収容所に放り込み、そこで奴隷的囚人労働に従事させて搾取しながらも、それをソビエト当局は「共産主義ユートピアを到来させるため、労働による再教育、人間改造の試み」であるとしたのである。囚人を利用した奴隷労働は、ソビエト政府による人間の再教育の模範的な成功事例として世界に宣伝された。

こういうものは全て、追い詰められた悪党どもが、苦し紛れに無から有を生み出すために、人間をただ働きさせ、さらなる収奪を合法化しようと作り出したシステムに過ぎない。しかし、その悪事を人類社会の発展やら幸福やらと言った大義名分のもとに誤魔化し、公然と正当化しようとするところに、その根底に流れるイデオロギーの忌まわしさがよく表れている。

「人類社会の幸福」や、「公共の秩序」や「和」などといった概念の実体は、しょせん、このようなものなのだ。そんな曖昧模糊とした情緒的で不確かな概念が、現実の個人の権利や自由を縛り、犠牲にする正当な言い訳となったことなど一度もない。こんなもののために、個人の人権を犠牲にする思想は、全て呪われた全体主義から出て来たものと言って差し支えない。 (元を辿れば、グノーシス主義。)

グノーシス主義とは、端的に言えば、「神が救済し損なった哀れな人類を、人類が己が力で救済しようとする似非救済思想」と言えるのではないだろうか?何度も述べて来た通り、このキリスト教の異端思想は、ヨーロッパで駆逐された後も、東洋思想の中に温存されて来た。「和を以て貴しとなす」という考えの中にその思想の形がよく表れている。ここて言う「和」とは、空気のことであり、さらには、自然を含む万物を生み出す母性の象徴であり、引いてはその母性の中には人間も含まれており、この母性とは、人類の自己崇拝の思想だとも言える。結局、「和」とは何かと言えば、それはいわば、へその緒が切断される前の母子の一体化した状態であり、母子がそのような原初的な一体性を取り戻すことによって、人間の孤独を埋め、完全性を得ようとする原初回帰の願望なのである。もっと言い換えれば、歴史を逆行して、人類が神の子宮にまで逆戻る(神が人類を創造する前の状態に人類が自力で回帰する)ことによって、人が自ら神の地位を「取り戻そう」(奪おう)とする極めて愚かで不遜な試みのことである。

(ちなみに、神の子宮などというものはないのだが、この思想は、聖書の父なる神を否定して、神を女性化することによって、また、目に見える万物を聖なる母体であるかのようにみなすことによって、この屁理屈を正当化する。裏を返せば、このような子宮回帰願望は、人が一生、母の子宮から出られず、母の胎内に閉じ込められた状態を理想とする恐るべき思想である。全体主義の全体が、母に当たるのであり、これは母と子の分離を認めない、母子一体となった赤ん坊返りの思想である。それゆえに、この「和」の思想を信じた者は例外なく精神的に大人になることができず、「母」の精神的子宮に閉じ込められたまま、マザコンとして終わって行くのである。「和」というのは、離脱を認めない母性による永久支配を意味し、怨念を持つ母が、父に対する復讐心から、我が子を一生自立させないで己が欲望を満たす道具として支配するために、へその緒で自分に縛り付け、いつまでもコントロールすることの言い訳でしかない。そのような恐るべき思想に喜んで身を委ねる「子」もどうかしているが、こうして、この思想は、他者の自立を決して認めず、全ての人間を「母」(組織や国家などの容れ物を含む)に縛りつけ、強い者が弱い者を自分の付属物のごとく支配し、決して一個の自立した人格として認めない暴力に満ちた冷たい思想であり、その残酷な支配が、「和」という情念を込めた言葉で美化され、曖昧化され、誤魔化されているのである。)

さて、以上のような文脈で、全体主義に仕えるための悪なる労働に、クリスチャンは従事してはいけないし、それがクリスチャンの使命でもない。それはやればやるほど人を不幸にするシステムであり、そのような呪われた文脈で不毛な労働に関わることがクリスチャンの召しではないのだ。

それでは、もう一度、問うてみよう、永遠に至る実を結ぶために、人はどんな労働に従事すれば良いのか?一体、真に実を結ぶ正しい労働とはどういうものなのか?

このことについて、聖書を頼りに判断するならば、第一に「人の奴隷になってはいけない」ことが分かる。つまり、真に正しい労働とは、不正な人間、悪党、怠け者、強欲な詐欺師どもなど、この世の不正な悪人たちの利益のために、クリスチャンが彼らの身代わりになって苦しみ、その悪事の片棒を担ぎ、彼らの不正の尻拭いをすることではない、と分かる。クリスチャンはそのような不正な仕事からは一切手を引くべきであり、そのような仕事をどんなに懸命に果たしても、悪魔の喜びを増し加えるだけで、自由にも解放にも至ることはない。

むしろ、クリスチャンはこれらの悪人どもに対し、公然と正義と真実を突きつけ、彼らの嘘と悪事を白日の下に晒し、彼らに償いを要求し、悪事を終わらせるべきなのである。その戦いを一歩も退かずに行うべきである。

しかし、ここで大抵の人々は言うだろう、「またそう来ましたか。でもね、ヴィオロンさん、その方法では、我々はきっと犠牲にされるだけですよ。正論を述べたからと言って、誰が力のない者を相手にしますか。報復されて潰されるだけですよ。あなたは未だにそれが分からないんですか。あなたが引き合いに出すソビエト政権でも、あまりにも多くの人々が、当局に歯向かったために殺されたり、収容所送りになったんじゃありませんかね。空気に歯向かって、権力に歯向かって、どうやって生き残れるんですか。もっとひどい犠牲にされるだけです。それくらいなら、私たちはまだ搾取されていた方がマシです。」

言っておくが、こんなにも臆病でやる気のない人々は、初めから説得するだけ無駄である。どうせいつまでも永遠に搾取されるしかないだろう。筆者はその運命に反対しないし、彼らの意気地なさに指一本責任を負うつもりもない。彼らは言うだろう、抵抗して殺されるよりは、いつまでも搾取されている方がまだマシだと。しかし、その搾取でさえ、明日はもう持ちこたえられないかも知れないのだ。貧しさの極みまで収奪され、明日には命さえ奪われるかも知れないのだ。あるいは、悪党どもの悪事の全責任を身代わりに負わされて、全ての名誉を失い、トカゲの尻尾切りで、自由を失うかも知れないのだ。それでも、その方が公然と抵抗して反撃を受けるよりはまだマシだと、この人々は本気で言うつもりなのであろうか?自分だけはそうならないと言いたいのであろうか?どこまでも愚劣で甘すぎる予想だと筆者は言わざるを得ない。

もしこの人々の中に自分はクリスチャンだと思っている人間があるなら、言っておかねばならないが、クリスチャンに対する悪魔の攻撃は、世人に対するものよりもはるかに激しいものがあるのだ。もしクリスチャンが悪魔に抵抗せずにまんまとその言いなりになるなら、世人には生き延びられる可能性があっても、クリスチャンだけにはその術は決して与えられないだろう。もしクリスチャンが悪魔の拷問に抵抗せずに身を任せれば、世人の三分の一の時間で死に絶えるだろう。クリスチャンは一般的にもともと世の中で最も無力な部類の者たちから成っているのであり、そんな人間が、武装を自ら解いて悪魔の毒牙にかかれば、二度と戻って来る術はない。悪魔はとりわけ激しい憎悪を込めて、自分の作った収容所全体への見せしめとして、真っ先にクリスチャンを血祭りに上げ、憎しみの限りを尽くして痛めつけるであろう。

従って、クリスチャンには「長いものに巻かれて」、不正に身を委ね、心を悪魔に売り渡して生き延びられる選択肢など初めから存在しないことをよくよく言っておかねばならない。悪魔との妥協などもあり得ない選択肢だ。全ての要求を飲んで敗北して死ぬか、徹底的に抵抗して立ち向かって命を勝ち取るか、二つに一つしか道はないのだ。クリスチャンは神に仕えるために召し出された一群であり、それ以外の生き方は許されない。塩が塩気を失えば、人からだけでなく、神からも見捨てられる。そこで、クリスチャンが無事に命を保っていられる道はただ一つしかない、たとえ全世界の否定に出くわしたとしても、神に従い、悪魔に抵抗すること、すなわち、自分の全存在をかけて、常に真理の側に立ち、命がけでこれを守り抜き、あざける者の座に座らず、悪党の仲間にならず、正義に立ち、虚偽を退け、真実に生きることである。虐げや、不法や、搾取からは全力て遠ざかり、身の潔白を保つことである。自分が悪を行わないだけでなく、悪事の犠牲になってもいけない。

もしこのような文脈で、悪魔に立ち向かうという原則を本気で実践すれば、その過程で、おそらく、信者は誰しも戦い方が分かって来るであろう。この戦いは、最初から完全な勝利というわけに行かないかも知れないが、信仰が残っている限り、方法論を磨くことができ、反撃によって潰されることもない。なぜなら、どんな凄まじい反撃によっても潰されないだけの圧倒的な命の力を、信者はすでにキリストを通して内側に持っているからである。そこで、この世の人間にはできないことが、キリスト者にはできる。中途半端な抵抗では勝てないかも知れないが、勇気を持って、徹底的な抵抗をすれば、必ず、勝つことができる。なぜなら、我々に与えられている御名の権威、我々に行使するよう委ねられた御名の権威は、この世の全ての権威を超えるからである。取り組めば取り組むほど、この戦いに勝利するコツが分かるはずである。

このことは、筆者が表向きクリスチャンを名乗っている偽善者どもの悪意ある中傷や脅しに遭遇した時、御言葉をどのように用いて戦ったか、また、どのように信仰によって確信に立ち、その告白によって、敵の嘘を打破したか、筆者がどのように彼らが筆者になすりつけようとした嘘の罪状書きを退けたか、などを思い出してもらえば分かるはずである。筆者はこれらの戦いで決してやられっぱなしになったことはなく、覚えている限り、全ての戦いで勝利をおさめてきた。

敵の咆哮は、現実に差し迫った脅威のように感じられるかも知れないが、御言葉によって徹底的に立ち向かい、その嘘を木っ端微塵に粉砕すれば、しょせんその脅しは実体のない空虚なものに過ぎなかったことが証明される。それが証明されるまで、真実を貫き通すことである。それを貫徹すれば、敵の撒き散らす嘘や脅しは、当初どんなに大きく見えても、真実の前に到底立ち仰せる力のない、実体のない弱々しいものであり、恐れを持つ者にしか効果を持たないことが分かるだろう。他方、その嘘の軽薄さに比べ、御言葉は、永遠に揺るぎない神の重い約束であり、大砲のような威力で嘘を粉砕し、物事の真実なありようを暴露する。御言葉は、神に贖われた者はもはや罪ゆえの恐れを感じなくて良いことを教えてくれる。小羊の血に立脚することで、勇敢に戦って、敵の嘘を暴き、全ての恐れを退けることが可能になるのである。正しい道を守るためならば、どんな犠牲を払うことも厭わないし、どんな反撃をも恐れないと言える心境に至るまで、あなたの戦いを突き進みなさい。そうすれば、嘘は必ず力を失い、嘘て塗り固めた敵の要塞は崩れる。

さて、そろそろのこの記事を締めくくる時が来たが、この世のバビロン経済は、ソビエトの強制収容所と同じように、あなたに囚人番号(マイナンバー)の烙印を押し、いついつまでもあなたを囚人として、収奪の対象とすべく、脅し、不当な命令を下し、逃げようとすれば、長い罪状書きを持って、あなたを罰しようと追いかけて来るであろう。それはちょうどカルト宗教が金づるとなる信者を逃がすまいと、手ひどい恫喝によって逃げ道を塞ごうと囲い込む時と同じである。

しかし、あなたはこの恐るべき負債だけから成る汚れ切った世界から足を洗うことを決めたのだ。だとすれば、この決意を貫徹せねばならない。追っ手に対して、あなたはキリストの十字架の上で無効とされて破り捨てられた罪の債務証書を突きつける。あなたは神に贖われた聖なる者なので、彼らにはもはやあなたを罪に定める権限がなく、あなたを奴隷として使役する権限もないことを高らかに宣言する。あなたにはもはや世人と同じように罪の奴隷として収容所に拘束されて実りなき不毛な苦役に従事させられるいわれは全くなく、悪党どものやりたい放題やった後片付けや悪事の尻拭いを身代わりに負わされる筋合いもない。そのような理不尽な重荷をあなたに課したことで、むしろ彼らこそあなたに謝罪と償いをせねばならない。

つまり、罪に定められるべきはあなたではなく、あなたを収容所に閉じ込めようとした彼らの方なのだ。その事実を宣告して、彼らの前ではっきりさせねばならない。彼らが強欲にもあなたを収奪の対象とし、犠牲者にしようとした魂胆が悪であることを明白にせねばならない。この結論を、彼らが認めるまで、恥じ入るまで、その目的を諦めて撤回するまで、貫き通さねばならない。あなたは彼らの奴隷ではないことを思い知らせなければならない。そうして敵に目的を諦めさせ、償いをさせ、あなたが自由と高貴さを取り戻した後に、そうして敵から得られた戦利品を手に、あなたはこの呪われた実りなき労働にさよならを告げて、もっと有益な人生を生きるために、堂々と収容所を出て行くのである。そこから先、あなたは二度と自分の労働の成果を悪党に掠め取られないよう注意しなければならない。共産主義は終わったのである。あなたの勤労の実は、あなたを栄えさせるためのものであり、怠け者や悪党のために用意される助けではない。あなたは自分の仕事の成果がきちんと自分のものとされる職業を選ばなくてはいけない。

繰り返すが、あなたがクリスチャンである限り、あなたには強制収容所の中で囚人となっていては生き延びられる術はない。他の囚人には生き延びられても、あなたにだけは無理だろう。あなたがもし生きたければ、収容所当局に従うのをやめて、彼らを断罪し、屈服させて、戦利品を持って、娑婆にでることしかない。彼らとは違った秩序に生きるしか方法はないのだ。収容所がどんなにあなたを罪に定め、刑期を増し加えようと追って来ても、あなたはこれに勝つことができる。そのためにこそ、他の囚人にはない恐るべき御名の権威が、血による贖いが、死を打ち破った復活の命が、あなたに与えられているのだ。それはどんな獄屋の扉をも開けられる自由の鍵である。この約束の確信に立っている限り、あなたさえ怖じけづいたり、退却しようなどと願わなければ、戦いに負けることはない。もしあなたが真に贖われているなら、あなたは自由人であって、囚人ではないのだから、むしろ、収容所があなたの言い分によって揺り動かされ、震え上がらねばならない。あなたには彼らの罪を指摘する権威も与えられている。そこで、あなたがこの正当な権利を行使さえすれば、大魚がヨナを陸に吐き出したように、罪による収容所はあなたを収容し切れなくなって、これ以上我々を苦しめないでくれと懇願しながら、あなたを外に吐き出すであろう。

このようにして戦いに勝利し、敵の要塞を打ち壊す秘訣を知れば、あなたは、天に永遠の実りをもたらす労働とは何だったのかが分かるだろう。つまり、「悪魔のわざを打ち壊すこと」、「敵の仕掛けた罠を見抜き、敵の要塞を破壊すること」、「敵の嘘の圧迫や支配を無効にすること」そのものが、天の父なる神の御心にかなう「労働」なのであり、そのような信仰による激しい戦いに勝利することで、実際に敵の城が陥落し、それに伴って必ず地上の富も何らかの形で明け渡され、収穫がもたらされることが分かるであろう。

こうしてキリスト者は、全宇宙の中心であるキリストを内にいただきながら、全てのものをキリストに従わせ、地に御心を打ち立てるのに貢献する。それが、キリスト者の役目なのである。これ以外の方法で、キリスト者がこの地上を治めることはできない。

そして、その戦いは、地上の権力者におもねることや、人の生まれ持った資質や手練手管にはよらず、また、地上の権力によって権力を倒すことにもよらない。その統治は、嘘をついたり、収奪したり、盗んだり、卑劣な方法で他人を騙して支配することにはよらず、あくまで真実を貫き通し、それに従う人々を増やすことによるのである。力づくで敵を倒すことによって、敵を支配するのでなく、何が真実であるかを暴露し、宣言し続けることにより、敵がやがて自ら作り出した嘘を放棄して、恥じ入り、かつ恐れ、退散せざるを得なくなるまで追い詰めるのである。

こうして戦う目的は、キリスト者自身がさらなる自由、さらなる解放、さらなる豊かさへと達し、それによって喜びに溢れて天の神を誉めたたえ、神に栄光を帰するためである。それは霊性の階段を上って行くこととは違うが、キリスト者の解放は一挙には訪れない。キリスト者の地上の歩みは、絶えざるエクソダスの連続であり、復活の原則は、必ず死の原則とセットになって働く。時に圧迫は想像を超えるものにもなるが、キリスト者が霊の内側で獲得した自由を失わずに掴んで、それを真っ直ぐに見つめて進むなら、実際に、それに反する全ての外側の現実が打破され、圧迫は消え去り、信者は内側の解放の確信が現実になるのを見るだろう。こうして、クリスチャンは主の十字架の死と復活に絶え間なく同形化されながら、栄光から栄光へと、主の似姿へ変えられて行く。栄光から栄光へと変えられる秘訣は、死の圧迫の只中にあっても、まことの命だけを見つめ続けることにある。これは信者の外側の解放であると同時に内側の解放であり、試練の只中で、命の冠をもたらす信仰が増し加わって行く過程である。

今日が恵みの時、今日が救いの日ーー栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く

最後の記事から随分日が空いたが、この間にヴィオロンの人生には実に大きな進展があった。

まず、耐え難く狭苦しく感じられるようになった住居を脱出して、広いところへ移った。さらに仕事も新しくなり、かつての専門の道に戻りつつある。

こうしたことが成就したプロセスがまた素晴らしかった。それは全てが私の力というより、神のみわざとしか言えない方法だったからである。

まるでイザヤ書第59章のみことばがまさに私の身の上に成就したかのようであった。

横浜に来ることが決まった直前、以下の みことばを噛み締めていたことを思い出す。

「海沿いの国々よ、わたしに聞け。
遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。
主はわたしを生れ出た時から召し、
母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
主はわが口を鋭利なつるぎとなし、
わたしをみ手の陰にかくし、
とぎすました矢となして、
箙にわたしを隠された。
また、わたしに言われた、

「あなたはわがしもべ、
わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。

しかし、わたしは言った、
「わたしはいたずらに働き、
益なく、むなしく力を費した。
しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、
わが報いはわが神と共にある」と。

ヤコブをおのれに帰らせ、
イスラエルをおのれのもとに集めるために、
わたしを腹の中からつくって
そのしもべとされた主は言われる。
(わたしは主の前に尊ばれ、
わが神はわが力となられた)
主は言われる、
「あなたがわがしもべとなって、
ヤコブのもろもろの部族をおこし、
イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、
いとも軽い事である。
わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、
わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

イスラエルのあがない主、
イスラエルの聖者なる主は、
人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、
つかさたちのしもべにむかってこう言われる、
「もろもろの王は見て、立ちあがり、
もろもろの君は立って、拝する。
これは真実なる主、イスラエルの聖者が、
あなたを選ばれたゆえである」。

主はこう言われる、
「わたしは恵みの時に、あなたに答え、
救の日にあなたを助けた。
わたしはあなたを守り、
あなたを与えて民の契約とし、
国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、
暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。
彼らは道すがら食べることができ、
すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、かわくこともない。
また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
泉のほとりに彼らを導かれるからだ。
わたしは、わがもろもろの山を道とし、
わが大路を高くする。

見よ、人々は遠くから来る。
見よ、人々は北から西から、
またスエネの地から来る」。

天よ、歌え、地よ、喜べ。
もろもろの山よ、声を放って歌え。
主はその民を慰め、
その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。

「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、 なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしには狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。
もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
「勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。
わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる」。


長い引用であったが、ここにはヤコブ(イスラエル)がこうむった苦難と損失の深さと、神にあって与えられた回復の大きさの見事なコントラストがよく見て取れる。そして、その回復は、ヤコブが世間で強く、尊敬される者であったから成し遂げられたのではなく、むしろ、ヤコブが弱く、侮られ、蔑まれていた時に、神がその恵みに満ちた選びによってこれを救われたのである。

さて、筆者の今回の「エクソダス」は、横浜へ初めてやって来た時とは少し違った。かの時は、筆者が人と交渉して何も要求せずとも、神が全てを整えて下さったが、今回ははっきりと交渉し、要求することが必要だったからである。しかも、自分が不当にこうむった損失の数々を取り返すために、立ち上がり、主張することが必要だった。それはある意味では、「悪魔に奪われたもの」の数々を列挙して、このひどく不当な損失、不当に苦しんだ月日の補填のために、悪魔を責め、悪魔に請求書を出し、これを最後まで支払わせる、という霊的なプロセスを踏むことを要した。むろん、これは比喩であるが、現実を動かすには、霊的秩序を踏むことが必要であり、結果を出すためにたゆみない交渉をし続け、実際に「悪魔を非難し、悪魔の加えた理不尽な打撃の補填のために悪魔に請求する」ことが可能であることを知ったのである。

これは信仰における大きな前進であった、と言える。今までは、ただ神に望みを申し上げるだけで、執拗に戦ってまで結果を出すということに、どちらかと言えば消極的だったが、ここに来て、筆者は自分が今までどれほど悪魔の嘘を吹き込まれ、本当はとうにみことばにより解放されてしかるべきものを理不尽を不当に耐え忍ぶよう、欺かれてきたかに目が開かれたのである。そして、このことを不信仰として嘆き、反省するのもさることながら、何よりも人を欺いた張本人である悪魔を糾弾し、失われた月日を補填させることをしなければならないと気づいたのである。

たとえば、あまりにも多くの人たちが、私の周りで、あまりにも苦痛に満ちた、自由も望みもない仕事に従事している。彼らの仕事内容とは、交通費も支給されず、毎日の労働時間も自分の希望通りにならず、土日も祝日も休むことができず、雇用主のご機嫌次第でいつ解雇されても文句も言えず、しかも労働契約は一ヶ月未満で、その先は保証の限りではない、というような仕事である。その他の劣悪な条件は推して知るべしで、仕事内容のほとんどは不誠実な企業や団体や上司の引き起こしたトラブルの後始末であり、その仕事のみじめさ、やりがいのなさには言及する価値もない。

ところが、それでも彼らはその仕事を辞めれば、自分は路頭に迷うしかなく、代わりはないと思い込み、何があっても黙って耐え忍びつつ、その仕事にしがみつくのである。たたしがみつくだけでなく、辞めて行く者を引き止め、裏切り者扱いしさえする。しかし、このことはすでに何度も書いたが、筆者は自分の経験から、そのような仕事には代わりはいくらでもあって、もっと幅広い選択の自由が存在することを知っていた。特に、キリスト者には、選択の自由がないはずがない。

そこで私は実際に、まるでわらしべ長者の物語のように、これまでに仕事を変わる度に、一歩、一歩、極度の制限の中から、信仰によって自由を獲得して来たのであった。たとえば、たった数ヶ月の契約は年単位の契約に置き変え(ついには終身雇用になるであろうが)、日曜日は当然、休みとし、勤務時間は固定し、残業代が支払われないよう違法労働は当然ながら拒否、さらに交通費は全額支給が当然(できれば数ヶ月分の前払い。通えば通うだけ損になるような仕事に何の価値があろうか)などなど。むろん、ただ生きるためだけに専門外の仕事をすることも、ある時期を境に完全にやめたのであった。

以上のような世界を筆者が去って来たのはとうの昔のことであるが、しかし、これら全ては、こんなに当たり前のように些細なことでさえ、信仰のない人から見れば、無謀な冒険にしか見えなかったろうし、わがままとさえ断じられたであろう。その言い分に耳を貸していたならば、筆者自身の境遇も以前と何一つ変わらず、当然ながら、生活を拡張するの無理な相談に終わったはずだ。

だが、こうして、信仰によって天に直談判し、悪魔に請求書を出し続ける過程で、ヴィオロンはふと高校時代の学友を思い出した。彼女は私に触発されてのことか、高校生になってからピアノを始めたが、そのうち、何が何でもピアニストになるのだと言い出し、音大受験に挑むと決めた。私は彼女の熱中ぶりがあまりにも凄じかったので、幾分か距離を置いて、冷ややかな眼差しで他人事のようにその挑戦を見守っていた。

その頃、筆者も本当は音楽にはかなりの熱意があったので、音楽の道に進むことを考えてはみたものの、隣で彼女があまりにも熱意を込めてピアニストになるのだと言い張っているさまを見て、何だか先を越されたというか、気がそがれた感じで、同じように挑戦して音楽家になろうとは決して思わなかった。彼女は音大の短大に合格し、それから四大に編入するのだと言って頑張っていたところまでを知っている。

だが、音大生になってからの彼女は、再会すると以前よりもさらに変わっており、今度は好きな人が出来たと言っていた。が、その人にはすでに彼女がおり、片思いなのだが、その彼女は彼に相応しい人間ではないと言って、何が何でも彼を彼女から奪い取りたいのだと言うのである。

私はそれを聞いて、彼女の凄まじいまでの熱意にまたもや興ざめになり、その恋愛を応援する気にもならず、人から横取りしてでも自分の望むものを手に入れようとしている彼女の態度にうんざりしてしまった。そして、その時を限りに、彼女に会ったことはない。彼女はピアニストになるのだと言い張っていた時と同じように、今度は好きな人を手に入れたいと望み、望みに従って行動することの何が悪いのだと言って私を非難したのであった。

時を経て、彼女はおそらく意中の人の心を得ることに成功したのであろう。結婚して、子供も生まれたことを風の便りに知った。一見、めでたしめでたしである。結婚してしまえば、それが最初は横恋慕であろうと、何であろうと、非難されることはないであろう。

だが、音楽はどうだろう? 音楽もそのような熱意で手に入れられるものであろうか?

音大というところは、過酷な競争の世界で、高校生からピアノを始めた人を好意的に受け入れるような環境では決してない。神学校では信仰を学べないのとよく似て、おそらく音大では音楽の真髄は学べず、学歴としての価値はあっても、打ちのめされ、大きな壁にぶつかることになったのではないかと思う。

そういうことの影響があったのかどうかは知らないが、彼女はその後、純粋なクラシックの世界からは幾分か遠ざかり、あえてそれに背を向けて、純粋に楽しめるもっと庶民的な音楽の方向へ舵を切ったように見える。というより、クラシックの世界は、裕福でなければ、あるいはコネがなければ、コンサート一つも簡単に開けず、熱意と努力だけではどうすることもできない世界だ。彼女はその世界に居場所を見出せなかったのではないか。そういうこともあってか、子供のための音楽や、民族音楽などの方向へ、関心が変わって行ったようである。

だが、ヴィオロンは、そこでも、めでたしめでたし、とも思わないのである。自分が若くて小さな子供がいるうちは、子供向けのコンサートを開くのも良いだろう。しかし、年を取り、自分の人生にそれなりの深みが出て来なければならない年代にさしかかったとき、誰を対象として、何を訴えるために演奏するのかという課題に、誰しもぶち当たるであろう。憧れや、楽しい気分だけでは、もはや進んで行けない時が来る。特に、年老いて来た時、彼女が何を原動力として進み続けるのか、それは筆者の目から見れば(余計なお世話ではあろうが、かなり)疑問である。

私から見ると、この彼女は、いつも何か欲しいものがあって、(しかも大抵、それはもとは他人が持っていたものなのだが)、他人に触発されて、自分も同じように欲しいものを得て、望みの自分像になるために、頑張ってアプローチして生きてきた人だった。たしかに、望みへ到達するための努力は大変なものであったろう。しかし、芸術というものは、もともと自分自身の中にあるものが外側に湧き出て来て表現されるものであって、努力して到達するものではない。努力するのはただ表現力を磨くためでしかない。

カラオケでも上手な人は本物の歌手そっくりに歌うことができるが、クラシック音楽も、努力すれば、素人でもそれなりの域に達することはできる。音大に入ることさえそう難しくはない。だが、それで音楽家になったと言うのは早すぎる。そもそも、自分自身の中に湧き出てくる泉のように、表現の源、核となるものがなければ、どんなに練習を積んでみたところで、それは他人の真似事にすぎないのだ。偉大な作曲家の優れた楽曲をうまく演奏すれば、誰でも「ひとかどの人間」に自分を見せることはできるが、それでも、真似事だけでは決して進んで行けない、より深い動機が必要とされる時が必ず来るのだ…。

ただ単にピアニストという職業が醸し出す、煌びやかで崇高そうな雰囲気、俳優のように自分の演技を人に見せて観客と一緒に酔いしれることのできる陶酔感、自己満足だけが目的だったのであれば、それだけでは、進んでは行けない時が来よう。特に、金やコネで占められている、あらゆる汚辱の存在を知っていながら、それでもそれなりの苦い代償を支払って、それでもあえてクラシック音楽にとどまるのは無理であろう。

これらの苦い代価の全てを支払ってでも、自分のうちに音楽を通してどうしても表現せずにいられない何かがあって、そのために演奏家にとどまっているのか、それとも、ただ自分が舞台の主役となって、美しい音楽を奏で、心地良い注目を浴びて、聴衆と共に満足したいがためだけに演奏家を続けているのか、試される時が必ず来るであろう。

さて、しかし、今ここでその彼女のことを引用したのは、彼女を批判するためだけではなかった。むしろ、長年、私は彼女の猪突猛進型の熱意に、ある種の恐れを抱き、それを自己中心だと思って、敬遠してきたが、今考えてみると、その態度にさえも、何かしら学ぶところもあったものと思う。

ヴィオロンは、他人から何かを奪い取ってまで手に入れようとは決して思わないし、なりふり構わず、己の欲望に突き進むことを賞賛するつもりも全くないが、しかし、本当に心から望む(理にかなった正しい)目的のためならば、人はどんな困難があろうと決して諦めずに前進し続けるだけの揺るがない決意と情熱が必要であると思う。その意味においてのみ、彼女の態度にも学ぶべきものはあると感じる。今までを振り返り、私にはいささかそのなりふり構わぬしぶとさ、図太さ、粘り強さ、自己中心なほどに諦めないしつこさ、といったものがかけていたのかも知れないと思わないこともない。もっと言えば、かけていたのは、どれほどの障害にぶち当ろうとも、何が何でも信念を貫き通すために必要な、不動の自信と勇気、決意だったかも知れない。

だが、これは信仰の文脈で言うことであって、神の栄光、みことばの正しさを証明するためにこそ、人は自分の全てをかけて戦う価値があるのであって、自分勝手に望みのままになりふり構わず突進して生きよと言っているのではないのだ。そのようなあきらめることのない熱意は、人やモノに向けられる前に、まず神にこそ向けられるべきである、とヴィオロンは思う。どんな些細な願いも、まずは神のみ元にこそ持って行き、しつこく交渉してみるべきなのである。

だから、私はこの度、ちょっと実験してみることにしたのだ。前述の彼女のしつこさには及ばないにせよ、自分の望みを、困難がやってきたからと決して簡単にあきらめることなく、天の扉を叩くことに使ってみようと思ったのである。

その結果、実際に生活を向上させ、仕事を変えることができた。こうしたことは、前述のピアニスト志望の学友の望みのように、世間からは、わがままだと非難されることもあるかも知れないし、博打のような冒険とみなされることもあろうが、誰に何と言われようとも、私はこれ以上、もう一歩も退却したくないし、この望みをあきらめるわけにも行かない、というほど、にっちもさっちも行かないところまで追いこまれたのである。現状のままでは、何が何でも我慢できないうという思いが到来したのである。そして、しつこく天に直談判してみた結果、扉が開いたのであった…

家庭集会などは開くつもりはないが、家庭集会が夢のまた夢だと言わねばならないような環境からは抜け出ることができ、ほっと一息ついて、神の恵みに感謝することができるようになった。

さて、こうした飛躍や進展と思われる事柄も、代償なしに与えられたものではなく、以前、書いたように、もしヴィオロンが、地上の生まれ故郷にとどまって、地上の親族への義務感や情愛から、「死人を葬ること」に熱中していたならば、決して達成できなかったろうと言える。

最後の記事で触れた件の親族は、病床についてから一ヶ月半という比較的短い期間で亡くなったので、その苦しみはそんなにも深刻重大ではなかったかも知れない。というより、筆者はその最期の様子を知らない。だが、それでも、この故人は、人生の最期になって、「私は何も悪いことはしていないのに、なぜこんなに苦しまねばならないのだろう」とこぼしていたというから、悔い改めは、まさに神が信仰によって人にお与えにならなければ、誰も決してすることのできない奇跡なのだと言うしかない。

ヴィオロンは、この親族の最期の時に、枕元で、人間の原罪と、人が救われるためには悔い改めて神に立ち返る必要性があることについて語った。しかし、おそらく、上記の言葉が、この促しに対する故人の偽らざる返答だったのであろう。つまり、故人は、己に罪を認めず、悔い改めの必要性をも認めなかったのだ。何しろ、生長の家は、人間はみな生まれながらにして神の子であり、人に罪はないと教える。そして、神の子である人間を脅かしうるものは地上に何もなく、病も幻想に過ぎないのだと言うのだ。

しかし、彼らの信念によれば、神であるはずの人間が、病に打ち勝つこともできずに亡くなった。だとすれば、悪いのは誰なのか。生長の家の教えが間違っているのか? それとも、罪なき人間をいわれなく罰したもう神が悪いのか? 生長の家の教えだと、きっと暗黙のうちに後者ににならざるを得ないだろう。何しろ、彼らによれば、人間は正しいのだ。正しいから、苦しめられるはずはないのだ。それならば、正しいはずの人間を苦しめる何者かが存在するのであり、その人間以上の存在ーー本当の神は、悪神ということになろう。この問題は彼らの狭い教義からはもはや外にはみ出ているが、彼らは悪魔の存在をもきっと認めないであろうから、きっと人間を理不尽に苦しめている悪神が存在するということにならざるを得ないだろう…。決してそのようなことを教義としては主張すまいが、結局、その教えの根底にあるのは、人間の自己義認と、人を罪に定める聖書の神に対する敵意なのである。

こうして、苦しみを通して、神の力強い御手の下にへりくだるどころか、苦しみにあって、ますます自分は悪くないという思いに凝り固まり、自分以外のところに悪の源を探そうとする人たちが現れる。福音を聞いた時に、人の態度が試されるのである。そして、自分は悪くないのに不当に苦しめられているという思いが最後に行き着くものは、ずっと今まで書いて来たように、神に対する恨みと敵意なのである。

私は、こういう話を聞いて改めて、私がこのような考え方に至らず、自分がキリストの十字架の贖いによらなければ、救われ得ない罪人であることを知って、自分が救いを必要とする罪人であることを素直に認めて、この贖いを受け入れて救いにあずかったことを感謝し、これが私の努力によるものでなく、神の側からの恵みであり、奇跡なのだと痛感するのである。

故人は若い時分に戦争があった他は、平穏な人生を送り、不自由はほとんどなかった。人の目から見れば、幸福であろうし、孤独でもない人生であった。就職氷河期に見舞われたり、女手一つで必死に働いてなお半人前のように言われたり、寡婦となったり、子供に死なれたりすることもなく、平凡な家庭の主婦となり、家長としてごくごく世間並みの人生を生きた。まさに世間から見れば、何も後ろ指さされることのない平穏無事な人生であり、お勤めを果たしたことになろう。病に伏した期間も九十二年という健康な人生の最後の一ヶ月程度でしかないのだから、限りなく恵まれていたと言える。

しかし、その見栄えの良さはあくまで表向きの話でしかない。私は、この人の死を前にして、私の人生はこの人と比べればたとえようもない苦難や紆余曲折に満ちていたかも知れないが、神に対して自分は正しいと言い張って心頑なにしたまま死んで行くことなく、神の御子による永遠の十字架の贖いの事実を認め、受け入れることができている自分の人生に、今更ながら、途方もなく安堵するのである。

このように述べると、肉親の情からは、故人にはいささかすまない気持ちにもなるが、正直に言って、この親族が亡くなったことを機に、筆者の名前も含め、一族全員の名前をあげて、夜な夜な仏壇に向かってお祈りする人間がいなくなったことに、筆者はどこかしらホッとする思いを隠せないのである。人間としての筆者は、誰の死をも喜ばないし、寂しい気持ちを禁じ得ない。だが、それとは別に、この故人が生前、筆者には自分の神様がいるから筆者のために仏壇に向かって祈ってくれるなとどんなに言っても、自らの祈りを善意と確信して、決して筆者の願いを聞き入れることなく得体の知れない対象に祈り続けていたその祈りがもはや聞かれなくなったことに、筆者はどこかしらホッとするのである。家長であった人の死と共に、親族全体に及んでいた一つの強固なイデオロギー的支配力が消失したことをも感じるのである。

この親族が亡くなる前に、筆者は故人の考えを変えることはできないことを感じつつ、自分自身の決意表明として、自分がこのような価値観の支配する地上の家の一員ではないことを証するために去った。むろん、異教の儀式としての葬儀にも参列していない。

それはある人々の目には奇異に映るかも知れないが、筆者の曲げられない信念であり、信仰告白なのである。だが、それは代償なしに行われた行動ではなく、その行動が筆者にとっては決意を要したのは言うまでもない。だが、今回、その信仰による行動がなければ、おそらくそれに続く筆者の人生の進展もなかったのではないかと想像する。もっと言うならば、地上の故郷を振り返ることすら、本当はすべきではなかった。怪我をした小鳥は順調に回復して今はすっかり日常生活に戻っているものの、故郷への大移動がなければ、そうしたことも避けられていたであろう。

こうして、地上の生まれや故郷がどうあれ、我々が見るべきお方、その歓心を得るために心を砕くべきお方は、天にも地にも、たった一人であることを思う。私はたとえ全世界から否定されようとも、その方から是認されることをのみ望んでいる。そして、その是認(義認)あればこそ、どんな困難があっても望みを失うことなく進んで行けるのである。このお方は、信仰によって、私の内側に住んで下さり、今すでに我々は一つであると言って下さる。御名によって願いなさいと言って下さる。願いが成就するまでにそんなに長い月日を耐える必要はない。信じる者にとっては、今日が恵みの時、救いの日なのである。

十字架における死と復活の原則―神の御前での単独者としての厳粛かつ孤独な歩みを決して忘れるな―

前回、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマについて語る際、法則性はない、と書いたが、この点について改めて訂正もしくは補足をしておきたい。これまで繰り返し書いて来たことだが、「主と共に十字架の死と復活にとどまる以外には法則性はない」と。
 
なぜなら、ゴルゴタを離れること、キリストと共なる十字架の死の重要性から少しでも目を背け、これを過小評価したり、言及せずに通り過ぎることは、たちまち、クリスチャンを別な道へ逸らせる大きな危険性であることを、改めて思わされるからだ。

筆者にも、クリスチャンが低められること、主と共に苦しみを負うことについて、長々と語りたくないという衝動が生じることがある。そのようなネガティブな話題からは、いい加減、目を背けてもいい頃合いではないかと。しかしながら、そうした衝動や願望にははかりしれない危険がある。

主と共なる死からクリスチャンが卒業できる日など来ることは決してなく、キリストの十字架は、来るべき世においても永遠の偉業として打ち立てられている。だから、クリスチャンが、主と共なる栄光は欲しいが、死は負いたくないという衝動に安易に身を任せて、十字架の死について沈黙し、復活という側面だけを語ろうとすることは、極めて重大な危険としての背教に陥る最初の一歩なのである。

主と共に栄光を受けたいならば、主と共に苦難をも受けるべきである。高められたいならば、低められることにも甘んじねばならない。キリストと共なる復活の側面だけを重視して、死の必要性を少しでも過小評価することは、たちまち、我々キリスト者を違った教えへと逸らせる要因にしかならない。

実際に、幾度も書いて来たように、筆者の知っている多くのキリスト者たちが道を誤ったのは、彼らがキリストと共なる死の中にとどまることをやめて、ゴルゴタの装甲の外に飛び出し、主と共なる輝かしい復活の要素だけにあずかろうと願ったためである。そのために、彼らは自画自賛、自己顕示、自己宣伝、セルフを建て上げる道へと逸れて行ったのである。その結果、ついにはセルフを神とし、自分への恵みを受けるためだけにキリストを利用し、主イエス・キリストを否定するまでに至っている。

そのような誤りに陥らないために、たとえ生活の何もかもが順風満帆で、思わぬ苦しみや不幸のように見える出来事に全く遭遇することなく、自分の名誉が望まずして傷つけられたり、恥を負わされたりすることがなかったとしても、あえてゴルゴタの死の中にとどまろうとする姿勢がどれほど重要であるかを思う。

特に、人に誉めそやされたり、ありがたがられたり、重宝されるようなことがあれば、特別な用心が必要であり、そうしたどこから来たのかも分からない流れに持ち上げられ、流されることなく、主と共なる死の中に自らとどまろうとする姿勢は非常に重要である。

ゴルゴタは我々にとって最も堅固な要塞であり、装甲のようなものである。そこから一歩でも外へ出ることは、神の守りの外へ自ら出ることを意味し、その結果として、自分を守ることができなくなる。人前に、キリスト者ゆえの苦難を受けることを厭い、他人からのお世辞やお追従を好み、自画自賛や、自慢話に明け暮れ、自分を喜ばせる快楽(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を好んだ人の中に、正常な信仰を維持しえた人間は、これまで一人もいない。そういう人間は、信仰を持たない世でも忌み嫌われるが、まして信仰者としては完全な失格者となる他ない。だから、我々はどんなに神の恵みが雨のように降り注がれたとしても、決してそのような道を行かないことを宣言する。

さて、筆者の家人や親族への義務はあらかた終わったことを思う。筆者は、束の間、地上の故郷に帰って来たが、それは地上の肉の絆を確かめ合うことが目的ではなかった。

キリストは公生涯の間、家を持たず、地上における職業を持たず、御霊の導きのままに歩まれた。だから、主がそうであれらたのだから、筆者は、地上の故郷を故郷と呼ぶことはもうないだろう。ここは伝道のために立ち寄った地の一つに過ぎず、そこが筆者にとっての真の故郷ではないからだ。
  
『ギルバート・グレイブ』という映画を知っている人は覚えていると思うがが、そこに、地上の家を離れることができないまま生涯を終えた主人公の母親が登場する。彼女の悲劇は、家から一歩も外出ができないほどまでに太ってしまった点にあるのか、それとも家から離れられなかった結果そうなったのか、どちらが先かを論じても仕方がないが、少なくとも家がもたらす精神的束縛(もしくは現実逃避)こそ、そのような結果を招いたことは間違いない。

地上の家というものは、多かれ少なかれ、そういうものだ。肉親の情愛はどんなに美しく飾られていたとしても、最終的には、人間を縛りつけ、また、現実逃避のための砦や繭となってしまう。

地上の故郷や、肉の絆にしがみつく人々は、家族や親子の情愛という麗しいヴェールで、生まれながらの自分自身の弱さを覆い隠そうとしているに過ぎない。それは、堕落した人間の自己欺瞞の手段であり、さかのぼれば、創世記において、罪を犯したがゆえのアダムとエバが、自分が裸であることを知って、己の恥を隠そうとして編んだイチヂクの葉に由来する(それがイチヂクだったのかどうかは定かではないが、筆者はこれを便宜上「イチヂクの葉」と呼んでいる。)また、弟アベルを嫉妬ゆえに殺して神から逃避するに至ったカインが、自分や一族を復讐の脅威から守るために築き上げた都市(要塞、城壁)に由来する。
 
筆者は、地上における家というものは、霊的には、このイチヂクの葉、カインの城壁と密接につながっており、それはすなわち、人間の滅びゆく命の防衛の砦としての地上の肉体の幕屋そのものを象徴しているように思えてならない。
 
人間の肉体は、その人自身の一部であると同時に、その人の脆くはかないアダムの命を持ち運び、これを守るための砦(幕屋、宮)である。

この宮は命を守るために存在する。しかしながら、人間の肉体は、朽ちゆくものであるから、宮を守る使命とは裏腹に、命を守るにはあまりにも不十分であり、脆く、弱い砦でしかなくい。宮だけでなく、肉体という宮によって守られている命そのものも、有限で儚いものである。そのような人間の命の弱さ、脆さ、限界は、罪から来るものであり、最終的には、罪の報酬である死が命全体を滅ぼし、奪い去ってしまう。

だが、そのように人間の命が脆く有限であるにも関わらず、生まれながらの人間は、己の罪を認めず、己の罪のもたらす当然の結果である己の有限性、弱さ、脆さを認めず、最終的には、死をも認めようとしない。
 
たとえば、三島由紀夫は、自らの肉体を鍛え上げることで、己の精神的弱さやコンプレックスを隠し、そこから目を背けようと試みた。三島由紀夫の人生においては、マッチョイズムによる自己からの逃避は、私営の軍隊の創設、盾の会といったより高度な形へと発展して行く。そして、最後には、自己を守るための「殉死」(結局は自己破壊)という、パラドックスに満ちた究極の結末へと至りつく。そこには、天皇を守るためという大義名分がついていたが、その根底にあるのは、生まれながらの人間の有限なる命への絶望感と、己の罪を否定して、己を永遠の存在に高めようとする願望であった。
 
天皇を現人神とみなすことで、三島が何とかして信じようとしていたのは、生まれながらの自己の命の永遠性である。天皇を神とみなし、それに殉ずることで、三島が永遠の存在へと高めようとしていたのは、他ならぬ自分自身であった。

三島は、生まれながらの人間とその美を愛するあまり、生まれながらの人間が朽ちゆくもろく儚い、滅びゆく存在に過ぎないという事実が認められなかった。彼は朽ちゆく人間の命を惜しみ、己の肉体を鍛えることや、目に見える人間を賛美することで、人間の命が滅びゆくものであるという事実そのものを、人類への冒涜とみなして否定し、アダムの命とそれを守るための砦としての人間を永遠とみなそうとした。肉体を鍛え、軍隊を創ることは、人間の有限性という事実を否定する手段であり、最終的には、自分自身を理想化し、これを永遠の存在として保存するために、自死という最期を遂げたのである。

さて、地上における肉による絆だけによって築き上げられる「家」というものも、筆者には、上記と全く同じ文脈で、人が地上の朽ちゆく有限な命と、その幕屋としての肉体を永遠とみなそうとする自己欺瞞の思想の象徴であるように感じられてならない。
 
すでに別な記事で幾度も論じたように、万世一系という神話を作り出し、天皇と臣民を一つの家になぞらえ、「家」を守るために、個人が自己の命を捧げることが、人の最高の使命であるかのように教え、親のために子が命を捨て、指導者のために部下が命を捨て、天皇のために臣民が命を捨てて、こうして、「家」を存続させることによって、人類が己の「神聖な」命を存続できるかのように教える考えは、結局、人が生まれながらのアダムの命の有限性を否定して、自らを永遠とみなそうとする偽りの思想から出て来たものに他ならない。

そうした文脈における「家」とは、通常の文脈におけるただの家を指すのではなく、偽りの神話に基づいて、生まれながらの人間の家系(=アダムに属する人類の血統)を神聖視・絶対視するために作り出された要塞であり、かつ神話である。人間には明らかな寿命があるため、人間の命が永遠でないことは、誰の目にも明白な事実であるにも関わらず、子孫が先祖に仕え、代々、家を守ることが人間の使命であるかのように説くことによって、この思想は、人間の命を血統になぞらえて不滅のもののようにみなし、アダムの命の有限性から目を背けて、人類という堕落した血統を神聖で永遠のものであるかのように讃えようとしているのである。

そのような考えで、もし個人を「家」を守るための手段とするならば、その時、その個人はもはや個人ではなくなり、実際には存在しない「神聖な家」の附属物か、もっと言えば、家の象徴のようなものへと変えられて行く。
 
そのようにして「家」と一体化した個人は、自らの意志を奪われた、偽りの神話の象徴となり、束縛された奴隷も同然になってしまう。万世一系などといった神話でどんなに飾りたて、どんなに不滅のもののように見せかけ、誉め讃えても、この偽りの思想は、その虜となった人間を滅ぼしてしまうだけなのだ。

『ギルバート・グレイプ』に存在する母親のように、人が自らの弱さ、脆さを隠すために築き上げる要塞としての家に束縛されてしまうと、その人間は、その偽りの安全から外に出て、現実に直面する勇気を失って、家と一体化してその象徴と化してしまう。その家は、人間の弱さや脆さと直面することを拒否する、同情や優しさに見せかけた様々な偽りの情に塗り固められて美化されてはいるが、実際には、人を縛りつける場所にしかならず、誰をも自由にはせず、幸せにもしない。

筆者は、今、我が国は曲がり角に来ており、大きな過渡期にあるものと思う。すなわち、敗戦後、我が国は、天皇を現人神とみなすことをやめ、象徴天皇制に移行した。官吏は天皇に仕える僕ではなくなり、公務員は国民の公僕とされた。しかしながら、この改革は非常に中途半端なもので、数多くの矛盾を抱え、数多くの点で、ミイラのような過去の残存物を内に抱えている。

すでに書いたように、憲法上の真の公務員の定義は、官僚を指すものではなく、選挙で選ばれた政治家を指すものであって、現在の官僚は、本当の意味での公務員ではなく、戦前の官吏の影のような残存物であって、勝手に公務員を詐称しているに過ぎない。さらに、天皇が国民の象徴として存続し続けることの矛盾は、天皇自身が退位を望んだという事実に何よりも明白に表れている。

筆者は、神と人とがつながるために、キリスト以外のどんな仲介者もあってはならず、牧師という役職は不要であると再三に渡り、述べて来たが、それと全く同様に、国民の象徴としての天皇という存在も必要ないと考えている。

すでに説明したように、カトリックのような、法王を中心とする聖職者階級を否定して、聖書の真理をすべての人々に解放すべく行われたプロテスタントの宗教改革は、結局、牧師を中心とする教職者制度を残したことによって、非常に中途半端で、かつ、矛盾だらけの改革に終わった。そして、当然のごとく、このように中途半端に教職者制度を肯定したことは、悪魔に口実を与えるきっかけとなり、その結果、牧師夫妻を「霊の父・霊の母」として崇めるような、全く聖書に反する異端の思想が、公然とプロテスタントに侵入して来る契機を作ったのである。

日本国憲法も、結局はプロテスタントに起きた現象と同じような、中途半端な過渡的改革を示している。敗戦後、天皇を神として崇める思想は否定されたものの、天皇制そのものは廃止されず、これが国民の「象徴」として残されたことによって、依然として、主権在民が完全に実現しないまま、改革は中途半端に終わったのだ。国民一人一人が完全に個人としての自覚や責任を持つには大きな妨げが残ったのである。

そして、天皇が「象徴」として残されたことによって、ただ未来への前進が中途半端に妨げられただけでなく、さらに、過去に立ち戻ろうとする動きにも口実を与えることとなり、戦前回帰などという愚かな潮流の出現も手助けされているのである。

そこで、以前も述べた通り、次なる時代が到来するためには、筆者は、プロテスタントもそうであるが、我が国の体制そのものも、この中途半端な「象徴」を取り除き、一人一人が完全な主権を取り戻し、個人が個人として生きられるような形式を整えるしかないと考えている。今はそのための過渡期・移行期であって、歴史を逆行して、天皇を再び現人神とすることによって、後退することが必要とされているのではなく、むしろ、天皇制を廃して、完全なる国民主権を実現することで、未来へ前進することこそ必要なのであり、もしも憲法を改正するならば、そのような前進の文脈でこそ、初めて意義が生まれるのである。

皇族や、国民の象徴という言葉は、いかにも偉大な響きを帯びてはいるが、実際には、天皇の任務は、考えられているほど尊いものでもなければ、美しいものでもない。そのことが、天皇の退位という問題をきっかけに、今になってようやく多くの人々に広く認識されるようになった。

象徴天皇制は、天皇自身に人権すら与えずに、一生、生まれながらに選択の自由もなく、象徴としての義務に縛りつけるような、残酷な束縛の枷にしかなっていない。

天皇自身がその矛盾に気づいており、象徴であり続けることに疑問を感じているにも関わらず、そんな制度をありがたがり、天皇の気遣いを受けることで、自分が満たされ、高められるかのように錯覚している国民がいるとすれば、その国民の方も、(まるで牧師の気遣いに依存する信徒同様に)全くどうかしていると言わざるを得ない。

他人に犠牲を強いることによってしか、自己の価s値を十全に感じられないというならば、その充足感は偽りである。たとえ高齢の天皇が退き、若い世代に道を譲る事で、新たな天皇を立てたとしても、生きた人間を「象徴」的存在に閉じ込め、自由な意志選択や自己決定権を奪うことの忌まわしさは何一つ変わるものではない。

それなのに、なぜ人間は、まるで金の子牛像を拝むようにして、常に自分の偉大さを証明してくれる、目に見える象徴を求め、目に見える自分以外の人間からの賞賛や支援や同情や激励の言葉を求めずにいられないのか。

そういう浅はか弱々しく自己本位な願望と訣別すべき時が来ているのである。にも関わらず、もしこれから先も、我が国の国民が、他者からの賞賛や激励や同情といったものを求め続けるならば、その美しい言葉を口実に、どんどん自らの自由と権利をかすめ取られて行くだけであろう。

そのような文脈での「象徴」としての任務が、光栄な務めであって、偉大な使命であると考えるのは間違っている。それは人間の依存心を助長し、自立を妨げ、無用な束縛を増し加えるだけである。

さて、話を戻せば、偽りの思想における「家」というものの欺瞞性に、筆者が言及したのも、以上と同じ文脈である。家系を代々、絶やさないことによって、家を守ることを人の最高の使命とし、それによって、人類の血統を永遠のものに高めようとする思想は、非常に忌まわしいものでしかなく、そのような文脈によって生まれる「家」というものも、何ら美しい存在ではない。
 
また、『ギルバート・グレイプ』の映画に登場する母親のように、分厚いたるんだ脂肪に包まれているだけの人間も、三島由紀夫のように、自らの肉体を鍛え上げることで、肉体美・筋肉美を誇る人間も、外見はまるで正反対のように見えたとしても、本質的には全く同じであり、両者ともに、生まれながらの人間の自己を神格化し、その考えに基づいて、人類という「家」を守るためのカインの城壁にしがみつき、束縛されているだけなのだ、という事実に気づく人は少ないだろう。

結局、この両者は、己の肉体にしがみつくことで、どちらもが地上の故郷である「家」へしがみつき、執着しているのである。象徴としての「家」を絶対視・神聖視し、それに自ら束縛されることで、己の有限性、弱さ、罪を否定して、現実から目を背けて、堕落した人類には存在しないはずの永遠に思いをはせているのである。その偽りの思想は、個人に個人として生きることを許さず、秩序を転倒させ、最終的には、個人を滅ぼしてしまう。
 
その結果、本来、家というものは、家族の成員を守るための屋根のようなものに過ぎないのに、この屋根を守るために、家族が命を捨てるという本末転倒な結果が生まれるのである。あるいは、肉体は、命を守るための砦に過ぎないのに、その砦を不滅のものとするために、人が自己の命そのものを滅ぼすという結果になる。こうした考え方を延長して行くと、牧師のために、あるいは教会組織のために、信徒が命を捧げ、企業を守るために社員が命を捨て、象徴天皇制を守るために、国民が犠牲を払い、あるいは天皇のために、もしくは国のために、再び国民は命を捨てよという思想が生まれる。

このような思想においては、何もかもがさかさまである。人間のために家があるのに、家のために人間が存在することにされ、人間のために肉体があるのに、肉体のために人間が存在することにされ、人間のために組織があるのに、組織ために人間があることにされ、国民のために国があり、天皇が存在するのに、天皇のために、国のために国民が存在することにされてしまう。
 
最終的には、そのようなさかさまの思想は、神と人との秩序を転覆させる。聖書によれば、本来、人間は、神に仕える宮であるのに、その宮に過ぎない者、被造物に過ぎない者が、主人である神を超えて、自らを永遠の存在として誇るという秩序転倒に至る。宮が主を超えてしまうのである。

その結果、パラドックスに満ちた現象が起きる。自らが神聖でないのに、神聖の領域に不法侵入した者が、打ち滅ぼされる。 自らが永遠でないのに、自らを永遠と宣言した者が、己を滅ぼし、それによって、自らが永遠でないことを逆説的に立証するのである。天皇のために「殉死」した三島もそうであったし、滅んだ「皇軍」もそうであり、家と一体化したまま死んだ母親もそうだが、結局は自殺としか言えない結末に至るのである。

こうして、腐敗した朽ちゆくアダムの命を神聖視し、滅びゆく不完全な地上の幕屋としての肉体にしがみつき、人間を滅びに導くだけの肉欲にしがみつき、朽ちるものに執着し、それに同情の涙を注ぐことによって、滅びゆく自分の堕落や弱さから目を背けて、自己を保存しようとする人間の自己防衛の試みは、究極的に、自己破壊という結果に至りつくだけなのである。

だから、家を自分の弱さから逃避するための手段として用いる人々もまた、自己の罪を隠すためのイチヂクの葉により頼んで生きているだけなのだと言える。地上の組織の強化や拡大にこだわる人間もすべてこれと同じである。

家にしがみつく人間も、企業の繁栄や、宗教団体の繁栄や拡大にこだわり、あるいは国家の強化や、軍備の増強を唱える人間は、すべて同一線上に立っている。それは決して十字架の死を経ることのない、アダムに属する人間の、生まれながらの自己(セルフ)を建て上げ、永遠に肯定したいという欲望の言い換えに過ぎないのである。
 
生まれながらのセルフの腐敗・堕落を隠すために、彼らはその覆いとしての宮(肉体、家、組織、国家)を賛美し、そうすることで、神に背いた人類の堕落した本質を隠しながら、被造物に過ぎない自分自身を、造物主以上に掲げて、神と宣言しているのである。

このように、神を口実にしながら、結局、神の地位をのっとることで、己を高め、神格化しようとするこの思想の傲慢さ、忌まわしさは、三島の「殉死」が、彼が最も崇めたはずの他でもない天皇の意志を無視して単独で行われたことにもよく表れている。どんなに天皇を口実に掲げていても、三島の最期は、現実の天皇の意志をまるで無視して行われた独りよがりなパフォーマンスに過ぎず、結局、三島が望んだのは、天皇を口実に持ち出すことで、自らを神格化することだけだったのである。

今、戦前回帰を持ち出して天皇を担ぎ上げ、讃えている人々がしていることも、全く同じである。天皇をありがたがる人々ほど、実際には、天皇自身の意志や人格などまるで尊重してはおらず、単に自己を高める口実として、他者を利用しているに過ぎない。

そして、プロテスタントの信者が牧師や教会組織にこだわる理由もこれと同じである。彼らは、自分たちの属する教会やリーダーを絶対視し、誉めそやすことで、結局、自分を偉大な存在に祀り上げようとしているだけなのである。家や家系を絶対視する人々もそれと同じであり、その根底にあるのは、常に自己を偉大な存在とする口実が欲しいという「セルフの神格化」の願望だけである。
 
真のキリスト者の願いや、目指す目的は、決して、以上のような人々と同じものではない。キリスト者の目的は、地上的な様々な象徴によって自己を強化し、武装し、己を高めて、神聖視し、それによって、自己の抱える本当の弱さ、愚かさ、罪深さから目を背けて、自分を偉大に美しく見せかけることにはない。我々にとって、真により頼むべきものは、そうした地上的なものではない。

だから、冒頭のテーマへ話を戻すと、もしもクリスチャンが、主と共なる十字架の死にとどまることの重大な意味を忘れ、主と共なる復活、栄光だけを願い始めるなら、その人はたちまち、自分では神に従っていると錯覚しながら、実際には、生まれながらの己を神として祀り上げる誤った方向へ逸れて行くであろう。
 
また、少しでも、神との直接的な交わりではなく、地上の人間たちとの横のつながり、人間との絆や連帯を賞賛し、もしくは自分の帰属集団などに価値を見いだし、栄光を帰そうとするなら、たちまち以上のような誤った思想へ逸れて行くであろう。

多くのクリスチャン(と称する人々)が実際にそうなったのであり、筆者はまさにそれゆえに、地上における家にこだわり、地上的な情愛にとらわれることへの重大な危険を思い、また、それを警戒している。
 
もしもこうした要素を信仰生活に少しでも混ぜ込むならば、たちまち、神への純粋な従順も失われてしまうであろう。

確かに、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉には重大な意義があるが、それは、決して、我々が肉の情愛を神聖視し、それにしがみつき、埋没するための口実ではないのだ。
 
人は、地上における自分の家や、勤め先の企業や団体、もしくは宗教団体や、国家といった組織を隠れ蓑のように利用して、その中に埋没することで、己の罪や弱さや限界から目を背けるのではなく、常に個人として、一人分の重荷を負って生きねばならない。その生き様は、集団の中に自分の居場所を求め、地上への帰属を誇ることで、個人としての孤独や自分独自の使命を忘れ、自己の本質から目をそらそうとする衝動や生き様とは正反対である。

集団に埋没することの中には、自己忘却の誘惑としての安楽が常にあるが、それはキリスト者の道ではない。

人はもともと集団を維持するための道具として生まれているのではなく、個人として生きており、それゆえ、個人としての意志や、独立性を生まれ持っている。他の誰のコピーや附属物でもない、オリジナルな、他から独立した、個人として生きており、それゆえ、個人としての尊厳や、諸権利が生じるのであり、個人の尊厳は、決して、帰属集団によって担保されたり、定義されるものではない。誰のコピーでもないオリジナルであるがゆえ、その使命も人と同じではなく、独自の重荷を負わねばならない。ましてキリスト者はそうであり、キリスト者は、「日々の十字架」として、一人分の重荷、一人分の孤独、一人分の十字架を常に負う任務があることを筆者は疑わない。地上では寄留者として、どこにも最終的に定住することなく、つつましく歩み、常に神の御前の単独者としての孤独を負い続けねばならない。
 
だが、多くのクリスチャンを名乗る信者たちが、まさにつまずき、脱落して行ったのは、この点であった。

彼らを堕落させたのは、自分は絶対に一人になりたくない、孤独を負いたくない、人間の絆から切り離されたくない、人間の絆から生じる温もりや、連帯を失いたくないという願望であった。その思いが、彼らが十字架の死を経ない、アダムの命によって生じる生温かい情に身を委ね、集団の中に安易に埋没して、神の御前での単独者として、自分独自の重荷、自分独自の孤独、自分独自の十字架を負うことを拒ませるきっかけとなり、その孤独な歩みを忘れさせたのである。そのような信者たちは、その後、まるで営利企業や、軍事力の強化に走る国家も同然に、自分たちの連帯を神聖視し、賛美しながら、自分たちの属する宗教団体の権威や威光を誇示し、これを強化・拡大することを至高の目的として、完全に誤った道へと逸れて行った。
 
筆者は、彼らと同じ道を決して行くまいと決意している。だが、そのためには、神の御前で、どんな時も、キリスト者が自分一人分の孤独を自ら背負い続ける姿勢が、極めて重要なのだと思わずにいられない。その任務は、人の目には、孤独で悩み多きもののように見えても、地上における人間たちのどんな種類の連帯にもまさる意義を持つと確信している。

つまり、神に満たしていただくためには、神が来られる前に、信者である人間が、すでに満たされてしまっていては駄目なのだ。神の御許にだけ、我々が携えて行かねばならない一人分の孤独、弱さ、限界、飢え渇きがどうしても必要なのである。神の御前で、人間が、すでに満たされてしまっておらず、孤独で、飢え渇いていることが必要なのである。

ところが、人間が、自分自身の弱さを恥として否定すべく、自分で自分を強め、孤独を忘れるために、自分を慰め、励ましてくれる象徴を自ら作り出し、人間の温もりと連帯の中に安易に身を埋めると、本来は、神に向けるべき、一人分の飢え渇きが、あまりにも簡単にあっけなく失われてしまう。そして、もはや以前のように、悩みや苦しみの中でも、心の底から神を求め、信じて見上げるだけの純粋な信仰、純粋な叫び、祈り、求めが曇らされ、なくなってしまう。最終的には、そのような人間にとっては、ただ神にのみ自分のすべてを委ねて生きることよりも、悩みや苦しみから手っ取り早く目を背けて、自己の弱さを忘れることおの方が、はるかに重要課となり、まるで中毒患者のように、現実の自分自の弱さから目を背けるために、自己に慰めをもたらすものに依存し、それを手放せなくなる。それが家であったり、家族であったり、偉大に見える指導者であったり、企業や宗教団体であったり、または国家になったりするのである。
 
そのような状態こそ、筆者は恐れるのだ。人間的な観点からは、まことに幸福そうで、問題がなく、強そうで、理想的で、満たされているように見えたとしても、神を語りながら、実際には、まるで神を必要としないという、人間側の独りよがりな状態以上に、忌むべき状態があろうか。しかも、キリストが来られるよりも前に、信者の側がすでに満たされてしまい、自己陶酔、自己満悦、自画自賛に陥っていることほど、神の目に忌むべきことはないと思われてならない。我々にそのような錯覚としての偽りの満足をもたらすものは何であれ、早々に手放し、ゴルゴタの死へ戻るのが最善である。


十字架の死と復活の原則―死よ、おまえの棘はどこにあるのか。死を打ち破り、よみがえられたキリストの御業―

さて、記事では、これからずっと、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマを追って行きたいと考えているが、このテーマについて、何かしら方法論めいたものを記すのは土台、無理であるばかりか、避けるべきことだと考えている。

なぜなら、こうした問題には決まった方法論というものは存在しないと思うからだ。筆者が考えているのは、信者が何かしら偉大な宣教者や、偉大な人格者となったり、超人的な力を発揮して生きるための方法論を見つけることではない。

もちろん、筆者は、キリストの復活の命が、父なる神の御心にかなった天的な統治そのものであり、そうである以上、この命によって生かされるキリスト者には、様々な不思議が起きることを否定しない。だが、それでも、キリストにある新しい人とは、決して超人めいた存在を意味するのではなく、むしろ、ごくごく自然で素朴な人間なのである。それは、信者がキリストにあって、神が本来かくあれかしと意図してその人を創造された通りの、のびのびとして誰にも似ていない自然な個性を生きることであり、主ご自身がそうであられたように、調和の取れたあるべき人間として、地上を生きることであると考えている。

だが、調和の取れたあるべき人間と言っても、それは決して、どんな苦難や挫折や失敗とも無縁の、何かしら偉大で理想的な人間の標準や鋳型を意味するのではない。そもそも、信者になったとたんに、信者の人格が突如として高められ、すべての心の葛藤がなくなって、どんな困難や苦しみにも直面せずに生きられるようになると考えるのは、大きな間違いである。

むしろ、信者になればこそ、起きて来る葛藤もある。ジョージ・ミュラーやハドソン・テイラーなどの信仰者の伝記を読んでもすぐに分かることだが、信者になって改めて生じる罪との闘い、聖潔への願いなど、キリスト者にならなければ起きない葛藤というものも存在する。また、信仰ゆえの苦難や迫害なども起きて来る。

だが、そのような戦いから来る葛藤をさて置いても、筆者は、キリストにある信者の内的刷新とは、一直線に高みへと昇って行くというような、非常に分かりやすい単純な変化の過程を辿るとは思わない。ワインにも熟成期間があるように、信者の人生には、ただがむしゃらに前進するだけではなく、一見、何のためにあるのかも分からないような「遅延」や「停滞」の時期も必要なのではないかと思う。

これは筆者の自己弁護のために作り出した詭弁ではない。もしそうでなければ、何のために、アブラハムとサラは、待望の息子イサクの誕生をあれほど長い間、待ち望まねばならなかったのか? なぜヤコブはラケルを得る前にレアを娶らねばならなかったのか? なぜヨセフは兄弟に裏切られ、エジプトへ売られねばならなかったのか?そもそも、なぜキリストは十字架にかけれられ、死を経ねばならなかったのか?

信者が意識していなくとも、神は、天然の命から来る衝動が死に絶えるまで、信者の人生に「停滞」や「遅延」のように見える期間を許される。それは神ご自身が用意されるものであって、信者が自ら望んで獲得するものではないが、ある意味、十字架の死の象徴であり、霊的な葬りの期間である。

さて、前回の続きとなるが、筆者はある商人からヴァイオリンを買った。それはそれほどまでに大した楽器ではないので、帰郷の際に、子供の頃から練習していたヴァイオリンを家人に借りてみると、そちらの方が良い音がするように思われた上、体にもよくなじんでいた。むろん、どちらの楽器にも良さはあるのだが、弾き続けた楽器以上のものはない。そして、このなじみ深い楽器を手に取って数週間が過ぎると、子供の頃に練習していた曲がいくつも自然と思い起こされるのだった。

世間では、楽器をマスターするには、15歳頃から、どんなに遅くとも20歳を迎える頃までに、技術的に完成の域に達していないと、一流の水準に達するには遅すぎるものと考えられている。つまり、成人するまでの間に、完全なテクニックをものにできなければ、その後は、どんなにやっても、しょせんプロの水準とはならず、生涯、アマチュアの域を出ないと考えられている。そういうわけで、当然ながら、プロの音楽家を目指す人々は、物心ついたその時からずっと楽器を弾き続ける。10代後半で技術的完成の域に達し、その後、60歳、70歳を迎え、死ぬまでずっと楽器を弾き続けるのである。

しかしながら、以上に記した通り、十代ですでに完成の域に達していなければ、その後はどんなにやっても、しょせん、お楽しみ程度にしかならないという考えは、多くの人々が音楽に取り組むにあたって、あまりにも深い、無意味な絶望感と無力感を与える障壁となっているように筆者は思う。筆者には、果たして、このような考えは本当に正しいのだろうかと首をかしげざるを得ない部分がある。

筆者は、ピアノを弾くにあたって、幾度も、何年間ものブランクを経験したが、不思議なことに、かなり長い間、ピアノの鍵盤に触れずにいても、ある時、ふと練習を再開してみると、最後に弾き辞めた時から、まるでほとんど歳月が経っていないかのように、最後に弾いた時の曲のイメージがそっくり鮮やかに眼前に出現するということが多々起きた。もちろん、忘却や、運動能力の低下が全く起きないわけではないが、それでも、一旦、ある程度の水準に達したものは、そうそう簡単に忘れ去られたりするものではない。むしろ、黙って「寝かせていた」期間に、さらなる熟成を遂げていたと判明することもある(これはブランクなしに弾き続けている時でさえ起きる。三日、四日ほど、取り組んでいる曲をあえて「寝かせておく」と、もう一度弾いた時に、最後に弾いたときよりも圧倒的に曲の完成度があがっていることはよくある。)

このように、音楽には、寝かせておいても、演奏家の人格の成長と共に、沈黙のうちに熟成する可能性があるのだ、と筆者は確信している。その熟成期間が、一日、二日程度でなく、なんと十年以上に渡ることもありうるものと思う。日々、楽器や鍵盤に触れて、がむしゃらに練習し続けることだけが全てではない。演奏家が自分の人生を通して得たすべての経験が総合的に作用して、曲のイメージが完成するのである。その意味では、人が生きれば生きるほど、演奏に深みが増して来るのは当然であり、十代前半の子供たちをまるで神童のごとくもてはやし、若い時期を過ぎてしまえば、すでに演奏家としてのデビューの時期も通り過ぎ、演奏の価値もその後は落ちていくだけであるかのように思い込む風潮は、完全に間違っていると言わざるを得ない。

確かに、語学と同じように、音楽にも、若いうちに基礎を習得してしまわねば、後からのつけ足しが極めて困難な部分が存在することは否めないとはいえ、単に基礎を習得しただけでは、どんなに優れた技術があろうとも、機械仕掛けの人形とほとんど変わらない。さらに、演奏は漬物のように、時間をかけて弾きこまなければ、決してその人のものにはならず、良い味は出て来ない。

筆者は楽譜を読むのは遅い方ではないが、それでも、一つの曲を本当に自分のものにしたいと願うなら、どんなに少なくとも、一カ月以上の時間をかけて、弾きこむことがどうしても必要となる。楽譜通りに弾くだけが目標であれば、場合によっては初見か、数日もあれば十分という曲もたくさんあろう。しかし、それでは、間違いなく弾いたとしても、しょせん「楽譜通り」でしかない。曲に込められた情感、イメージ、思想、芸術性といったものを読み込んで、自分なりの形を完成し、それを思うように表現できるようになるためには、どうしても、一定の時間が必要である。その期間が、一カ月では、あまりに短すぎると言えるだろう。

この「熟成期間」には、必ずしも自分でその曲を弾きこむだけでなく、優れた演奏家の演奏を聴いたり、楽譜を読み直しながら、新たなインスピレーションを受けて、頭の中で曲のイメージを練り直したりすることが有益である。散歩中に思索を巡らしているうちに、それまで何度も聴き、弾いて来た曲のイメージが、突如として「分かった」ということもよくある。

こうして、セールスマンが足しげく営業に通いながら、自分のセールストークを磨いて行くように、曲想を練り上げ、それを完全に自分のものとし、自分自身の言葉として表現するためには、一定の期間がどうしても必要なのである。それはただ間違いなく指を動かして楽器を正しく演奏するために必要な期間ではなく、自分が何を表現しようとしているのか、その全体像を掴むための期間である。

話を戻すと、筆者は、信者の人生にも、このような時期があるかも知れないと思う。人から見れば、一体、何のために必要なのかも分からない、成果からはほど遠いように見える、「無駄な時間」である。同じパッセージをうんざりするほど繰り返しているだけのような時もあれば、まるで演奏など放棄したかのように、楽器から遠ざかり、黙って思索を巡らしているだけの時もあろう。全く何もしていない、という時さえ多く存在するかも知れない。だが、たとえそうであっても、その人の心の内側に深い探求があり、どれだけ多くの困難、どれだけ多くの障害、どれだけ長い遅延や停滞があったとしても、あるいは、生きているうちに達成不可能であるとか、手遅れであると宣告されても、なお諦めきれないほどの切なる希求が存在するのであれば、それは「何もしていない期間」ではないのだ。

その希求とは、ただ優れた楽曲を譜面通りに弾けるようになりたいという程度の浅薄な願いではない。曲の向こう側にあるもの、曲を作り出す源となる壮大な深みに手を伸ばし、何とかしてそこに至りつき、一つになりたいという願いなのである。

このように、筆者は、音楽の場合と同じように、キリストにある新しい人をも、信者が自らの努力によって獲得するのは不可能であると考えている。探求する努力は必要であるとはいえ、それは努力だけによって到達できるものではない。信者の側には、追い求めたいとの切なる希求があるきりで、それを達成させて下さるのはあくまで神である。そして、それは決して、若ければ若いほど良いといったような安直な歩みではなく、人の目には実に不思議な、しばしば逆説的な形で達成されるような気がしてならない。

さて、筆者がこの度、地上のふるさとに戻って来たのは、郷里にある親族を見舞うためであったが、この親族はすでに90歳を超えており、病床にあるため、この年齢から察するに、そろそろ生涯の終わりに来ているのではないかと見られる。しかし、長年、他宗教の信者であったので、帰郷の際、筆者はどちらかと言えば、気が重かった。もっと前に、この親族が健康な時期に、信仰について長く話し合ったが、共通理解に達しなかった記憶も残っている。

そこで、帰省前、筆者は、自分で書いた「死人のことは死人に任せなさい」という記事を思い出し、まるでその記事が不吉な予言となって、今回、別な親族のための思わぬ帰郷を招いたかのように感じたりもした。またもや、筆者は、キリストを受け入れないまま、親族を見送らねばならないのだろうか? そのために帰郷することにどんな意味があるのだろうか?という、敗北感のような感情にも襲われた。

しかしながら、筆者は、その無力感や敗北感にも似た悪しき感情を撃退し、悪魔に恥をかかせ、神に栄光を帰することだけに集中しようと決めたのであった。このところ、筆者はずっと、そういった「いかにもそれらしく感じられる」、「現実はすでに決定済みで、悪しき結末は動かせないものであるかのような感覚」、しかも、「その悪い出来事が、まるでキリスト者のせいで起きたものであるかのように、信者に罪悪感を呼び起こそうとする感覚」に、徹底的に抗って、願いを獲得するまでしぶとく諦めないで神に懇願し続ける姿勢が、信者にとっていかに重要なものであるかを学習させられていた。

そこで、筆者は、長年、他宗教の信者であったからと言って、この親族が聖書の神による救いを拒んだまま亡くなるかも知れない、という予想に、徹底的に抗うことに決めたのであった。筆者が見舞った時、この親族は、まだそれなりに元気ではあるが、他宗教の説教の録音テープを握りしめるようにして聞いており、それを心の安定剤にしようとしているように見えた。そして、残された元気を、食べることや、飲むことや、体の調子を向上させることだけに費やしており、周囲もそれを手助けしており、そこに伝道の余地など微塵も残されているように見えなかった。また、そのチャンスもめぐって来なかった。それゆえ、筆者の心は絶望感に覆われかけた。

が、しかし、数日経って、病床にある親族の様子が少し変わって来た。このまま話すチャンスもないままに別れが来るのであろうかと予想されるほど、コンディションに浮き沈みが見られたとき、筆者は、伝道のチャンスを、改めて神に願い求めた。すると、その機会が少しずつ巡って来たのである。

筆者は、この親族が、出会い頭に、筆者に向かって、「苦しまなくていいように、キリストさんに祈ってもらえるか」と尋ねて来たことをとりあげて、筆者だけが代わりに祈っても、本人に信仰がなければ、神に聞き届けられず、ほとんど意味がないことを話した。そして、自分でキリストを信じるように勧めた。そして、多神教の誤りを指摘し、夫と妻が一対一であるように、人間を救うことのできる神は唯一であり、キリストの十字架以外に救いはなく、他の神々を捨ててでも、この唯一の神だけを信じて祈るべきことを、親族に語った。罪の赦しと、死とよみがえり、永遠の命について話した。すると、かつては信仰を巡って論争めいたやり取りもあったこの親族は抵抗感を示さず、「分かる?」、「信じられる?」との筆者の問いに、素直に頷くのである。

調子の悪い時には、話しかけても反応すらも返さないのが、多神教を否定する筆者の言い分を、抵抗もなく受け入れる姿勢を示したのであった。筆者は、長年、ずっと考えが合わないまま、全く違う世界で生きて来た親族に、まるで火事場泥棒のごとく、残された時間がわずかとなってから駆けつけて伝道している自分自身の無理を思いながらも、それでも、この反応を見たとき、非常に厳粛な気持ちと深い感動に襲われずにいられなかった。こうしなければならない、こうでなければならない、という感じがしたのである。

これとどこかしら似たような現象が、筆者の連れて来た小鳥にも起きた。物音に驚いた小鳥が、鳥かごの金網に自ら足を引っかけて複雑骨折に至り、発見した時には、多量の出血と、足の指に血が通わないことにより、指が紫色になっていたのである。その状態を見た時には、筆者は、正直、足の指が持たないのではないかと恐れを感じた。医者に診てもらうと、解放骨折なので、治るかどうか分からず、もし足の指が壊死すれば、ただ単に足が不自由になるだけでなく、全身に毒素が回って致命的な影響を及ぼすことさえありうると言われた。

筆者はこの状況に対し、心の中で、猛抗議した。何か取り返しのつかない事態が起きて、すでに手遅れとなっているかのような印象と感覚を全身全霊で拒否し、死んだ息子のために預言者エリヤに抗議した女のように、神に願い求めたのであった。すると、医者に連れて行ってから二日ほどで足に再び血色が戻った。骨折が治癒するには時間がかかり、解放骨折となるとさらに治癒に困難が生じると言われているにも関わらず、それから現在に至るまで、小鳥はほぼ完全に近い形で治癒するだろうと思われるほどの驚異的な回復を遂げている。

こうした出来事は筆者に、神の守りが動物一匹に至るまで家族全体に及んでいることと、神には手遅れだとか、不可能はないのだと、改めて感じさせた。いや、どんな状況でも、悪魔のささやきに負けて、御言葉に反する負の結果をたやすく受け入れたりせず、神に心のうちをすべてさらけ出して、しぶとく諦めず、神に直談判するがごとくに懇願し続け、結果を獲得するまでに退かない態度が必要な場合が多々あることを、改めて思い知らされたのであった。
 
むろん、どんなに健康であっても、人間同士には地上でいつか別れが来るとはいえ、人間にとって最も克服しがたい、いや、生まれながらの人間には克服不可能である死をも、キリストは打ち破られて、よみがえられたのだから、我々は一体、何を恐れる必要があろうか?
 
このことを、つまり、十字架の死と復活の原則を、筆者は知っているつもりではあっても、それを自分自身の信仰告白として改めて自分の言葉で表現し、その告白が現実となって、目の前で主のみわざを見せられるとき、それによって、神の御心が何であるかを知らされるとき(神の御心は、人を罪に定めることにはなく、赦すことにあり、人を滅ぼすことにはなく、生かすことにこそある)、自分の信仰のスケールを改めて急速に押し広げられるような、厳粛で感動的な気持ちにさせられる。悪魔のささやきに簡単に耳を貸して敗北を受け入れることの無意味さと、御言葉に反対するものに、最後まで、固く立って抵抗し続けることの重要性、そして、神が我々一人一人の信仰に、どんなに真摯に耳を傾けて下さり、これを喜んで下さる方であるかを思うのである。

他人に向かって信仰の証を語っている時でさえ、筆者自身が、御前に畏れかしこんでひざまずき、「神よ、あなたこそ、我ら人間のただ一人の救い主です」と告白し、瞠目と感動のうちに、神を崇めずにいられないのである。


十字架の死と復活の原則―燔祭として神に捧げられ、死んでよみがえらされ、神の手から返された新しい人―

このところ、都会のすべての喧騒を離れ、キリストにある自由と平安を満喫している。空気は清浄で、食べ物は美味しく、親族を見舞うという名目ではあるが、人生の中で、久方ぶりに与えられた平穏な休暇である。

さて、生ける水を流し出す秘訣は、キリスト者自身にある。自分の中にある新しい命を解放する秘訣を知れば、信仰による創造はそんなにも難しいことではない、と筆者は確信する。

時には良いことだけでなく、人の目には失敗のように見えることも起きるが、そんな中でさえ、神の同情、慈しみと憐れみが、雨のように筆者に注がれている。人からの同情など要りはしないが、神からの同情や憐れみならば、どんな時でも、あればあるほど嬉しい。もし神が筆者に注意を払って下さるならば、どんなにわずかな瞬間であっても良い、その瞬間を何とかしてもっと増し加え、主との交わりの時を増やしたいと切に思う。

まさにダビデが詩編に書いたように、筆者も言う、主よ、奴隷が主人の命令を待って、主人をまっすぐに見つめるように、私の目は、あなたを見つめるのです、ほんの少しでも、あなたの関心を、あなたの慈しみを、憐れみを、祝福を得たいと思って、神よ、私はずっとあなたを見つめ続けるのです…。私の心はあなたがご存知です、お言葉を、命令を、戒めを、あなたの御思いを、私に教えて下さい…。

以前から書いていることだが、主イエスは地上で公生涯を生きられた間、ご自分の職業を持たず、養ってくれる家族を持たず、スケジュール表を持たず、ただ御霊の促しのままに、誰にも相談することなく、御父の御旨だけに従ってすべての物事を決定して生きられた。

主イエスがどのようにして日々の糧を得、どのようにして助け導くべき人々を見分けられ、ご自分の使命を知られたのか、聖書に具体的には示されていないことが多い。しかし、エルサレム入場のために用意されていた子ろばのように、主イエスの召しに必要なものは、すべて天の父が備えられた。それはすべて人知によらず、御霊によって告げられ、理解され、達成される事柄であった。主イエスは、御父の命じることを御霊によって識別することで、父なる神の御心のままに行動されたのである。

前回、筆者は記事において、自然界の動物に生存のための知恵が本能として備わっているように、命というものには、おのずから生きるための法則性が組み込まれており、神がキリストを通して信じる人々にお与えになった新しい命にも、命の御霊の法則性が組み込まれていると考えていることを書いた。天然の命に法則性があるならば、いわんや、キリストの復活の命には、新しい法則が備わっているはずである。そして、それが、御霊の油塗がすべてを教えるということの意味であると筆者は理解している。つまり、天然の命においては、本能という不完全なナビしか設定されていないが、復活の命においては、御霊自身が真実を教えるナビゲータの役割を果たすのである。

とはいえ、御霊の導きに生きるとは、人が機械的に何かの命令に従って自分の意志を放棄して生きることを意味せず、あるいは、信者が説教者になったり、牧師や伝道者になることを最高の到達点と考えて、いわゆる模範的なクリスチャンの生き方を目指して、何かの型に当てはまろうとすることを意味しない。

御霊の導きに従って生きることに、特定の型はなく、それは人の作り出したどんな固定概念にもおさまるものではないと筆者は確信する。神は人それぞれの個性を尊重されるため、それはあくまで神と人との同労によって作り出される生き様なのである。

キリスト者の人生とは、信じる人の個性と、その人の内に住んで下さるキリストの人格とが、何の矛盾もなく、調和の取れた同労を成し遂げて形作られるものである、と筆者は確信している。神は決して人の個性を無理やり押し潰したり、人の意志を否定して、何かを力づくで押しつけ、強制なさることはない。神が信じる者の内で生きて働かれる時には、むしろ、神はその人の意志を最大限に尊重されて、その人の人格と調和の中で同労を成し遂げられる。そのため、そのような生き様においては、信じる者の個性も、圧迫されるどころか、極めて自然に生かされる。

神は信じる者の個性を尊重して、その人と同労することがおできになるのだ。だから、信者の生き様には、ただ神がどんなに偉大で憐れみに満ちたお方であるかという、神の御言葉の真実、神のご性質が様々な形で証されるだけでなく、キリストと共に死んでよみがえらされた信じる者自身の個性も、生き生きとした形で、表現されるはずである。

このように、キリスト者の人生とは、信者がキリストの生涯を真似て、地上でそのコピーになろうとすることとは全く異なる。あるいは、誰か偉大な説教者や、信仰の偉人などの先人たちを手本に、模範的なクリスチャンになろうとすることをも意味しない。

それは、誰の生き様の模倣でもなく、その人自身の人格と、キリストの人格との同労によって作り出される、誰にも似ていない、新しいオリジナルの人生である。ナビゲータは御霊であるが、御霊が力づくで信者をどこかの方向へ引っ張って行くということもない。信者と御霊とが平和的に共存・同労を成し遂げるのである。

だから、筆者は、御霊に従って生きることに、定義というものはおよそ存在しないのだと思っている。おそらく、その生き様は、人知によって外から定義づけをしたり、何かのものさしで推し量って理解したりすることが極めて難しい事柄であろうと思う。

そして、何よりも、その人生には自由がある。それは、こうせねばならない、ああせねばならないという数々の義務や、人間の作り出した常識や、規則によってがんじがらめにされる人生ではなく、また、己の生存を必死になって自力で支えねばならないという恐怖によるものでもない。

共産主義者の定義とは全く違った意味で、それは必然の王国ではなく、自由の王国の生活である。だが、自由といっても、放縦とは違うので、当然ながら、節度や限度はある。その範囲内であれば、信者は自分自身の個性を存分に生かして生きることが許される。

さて、筆者は何年も前に、今身を置いている地上の故郷から新天地を目指して旅立って行ったのだが、長い間、なぜ神は、筆者が関東へ移住することを許して下さり、その条件を気前よく備えて下さったのだろうかと思いめぐらしていた。

当初、筆者は、この移住は、エクレシアに連なるため、信頼できる信仰の仲間に出会い、彼らの交わりに加わるためであったと解釈していたため、その期待が潰えた後には、一体、この移住に何の意味があったのだろうかとしばらく考えざるを得なかった。

そして、もし信頼できる信者の交わりというものがないとしたら、主は、筆者に一体、どんなミッションをお与えになっておられるがゆえに、この地に筆者を呼び出されたのだろうかと思いめぐらしたものである。

だが、最近になって、筆者が思い至るのは、神はただ筆者が御名により心から願い求めたから、ご自分の愛する子供の一人として、筆者の願いを気前よく叶えて下さっただけだ、ということである。

つまり、この移住は、エクレシアに連なるための手段ではなかったのである。いや、どんなことの手段でもなく、それ自体が、筆者の願いに対する神の応答だったのである。あれやこれやの目的の手段として、移住を促されたのではなく、ただ筆者が信仰により願い求めたものに、神が応えて下さったということである。
 
筆者はこれまで、この移住の他にも、実に沢山のものを、信仰により神に注文し(注文という言葉は、まるでい神を手段とするかのような、いささか不適切な表現のように響くが、これには、願いが成就するまで譲らず懇願し続けるという強い意味合いも含まれる)、信仰によって地上に引き下ろして来た。たとえば、一番多く引き下ろしたものは、仕事であろう。筆者が、目下、従事している仕事にどうしても満足できなくなって、もっと違う仕事をやりたいと切望するようになった時、神は、実に不思議な形で、筆者の願いにかなう新しい仕事を用意して下さったのである。

この他、友人や知人が、祈りを通し与えられたこともあれば、筆者が受けた悲しみに、神が思いもかけない豊かな慰めを用意して下さったこともあった。

しかしながら、一つだけ、筆者がこれまでどんなに願っても、実際に呼び出すことができなかったものがあった。全く不思議なことであるが、それが、信頼できる信仰の仲間との恒常的な交わりなのである。エクレシアに連なり、エクレシアの建設のために、移住までしたはずなのに、なぜそんな結果になるのかと、当初は、まことに不思議でならなかったのだが、筆者が共に教会を建て上げる目的で接近したキリスト者(らしき)人々は、ことごとく、交わりの途中で、信仰の道から逸れて行った。彼らがどのようにおかしくなって、聖書に反する考えへとあからさまに移り変わって行ったかといった過程の詳細は、すでに再三、書いて来た通りなので繰り返さない。

筆者は、ある人々に対しては、その変節を実際に詳細に知る前に、これ以上接触すべきでないと直感的に理解したので、交わりから退いた。そして、それ以外の誠実な信者は、亡くなったりするなどして、早々に別れがやって来たのである。

そんなこんなで、ついに筆者には、関東方面で、心にかなう信仰仲間が一人もいなくなった。そして、今やそのような人間を探そうとも思っていないほどである。ただ一つとても嬉しいことは、それ以外では、家人も含め、親族の誰も、地上の組織としての教会にこだわる人々がいなくなったことである。以前には、宗教団体としての教会に拘泥していた親族も、今や全くそのようなものに未練を持たず、むしろ、組織を離れた信仰を模索するようになった。

筆者は、こうして、かつてはエクレシアの一員と思った人々の中から多くの離反者が出て、もはやエクレシアだと確信を持って呼べる、信頼できる信仰仲間の存在が身近になくなってから、かえって、これは非常に自然で有益な結果だったのではないかと思うようになった。なぜなら、おかしな方向に逸れて行った信者たちは、みな目に見える地上の組織や、仲良しサークルのような目に見える仲間との人間関係やつながりを重視して、仲間を失うまいと、人間の絆に必死にしがみついて、人々からの承認や賛同を求めていたからである。

彼らは依然として、宗教団体としか呼べない地上組織を建て上げることに腐心しており、目に見えるリーダーを崇め、目に見える組織を神聖視しており、目に見える団体に所属していることが、自分の聖を信じる根拠になってしまっており、そのような生き方に、筆者は全く真実な信仰のかけらも見いだすことはできなかった。

こうして、筆者が観察しているうちに、かつてこれこそまことのキリスト教であると豪語して、いかにもクリスチャンの交わりを装っていた、目に見えるつながりがことごとく偽りであると判明し、当初は信頼できると考えていた信者たちの中にも、嘘や不誠実さが見い出され、彼らが信頼に値しなかったことだけが判明し、交わりと思っていたものは離散したのである。
 
こうして、何か目に見えるサークルの一員になることによって、教会を建て上げることができるという発想自体が、ことごとくナンセンスなものと判明し、筆者は、教会を建て上げるという概念を、以前とは全く違ったものとしてとらえざるを得なくなった。

筆者は、何年も前の当時は、信頼できる信仰の仲間と手を携えてエクレシアを建て上げることができると考え、それに関心を寄せていたものであるが、今はひょっとすると、そのような考え方にこそ、以上のような人々の犯した過ちに通じる、目に見えるものの神格化という、危険極まりない要素が含まれていたのではないかと考えるようになった。

つまり、エクレシア賛美、エクレシア崇拝の危険性である。目に見える人間同士の連帯、目に見える人的ネットワーク、五感で確かめ合うことのできるつながりを賛美し、そこに神聖を見いだそうとする考え方の罠や、深い危険性を思うのである。

エクレシアという単語には、信者にとって、何かしらとても耳に心地よい、甘く、理想的な響きがある。だが、その響きの甘さに陶酔することの中には、キリスト以上に信者が自分自身を聖なる存在として掲げたいという誤った欲望、間違った自己崇拝、信者の自己神格化の危険が潜んでいるのではないかと危惧されてならない。

いわゆる教会組織と呼ばれている地上の目に見える宗教団体や組織にこだわる信者ほど、この誤った自己崇拝、自己神格化の度合いが非常に深いように思われてならないのはそのためである。

だから、筆者は今、エクレシアを賛美しようという考えは全くもっておらず、これに憧れ、建て上げることが自分の使命であると言うつもりもない。もしそういうミッションがあるとしても、それは日々、自分自身が主と共に死と復活を経ること、自分の十字架を負ってキリストに従うことだけにしかよらないのだ。仲良しごっこのような交わりを通して達成できることなど何一つありはしない。そもそも、我々が見るべきお方はキリストだけであり、キリスト以上に教会を高く掲げ、これを関心の対象とすること自体が、非常に危険なことではないかと思わずにいられない。
 
今までの経験から言えることは、教会が建て上げられ、発展する方法は、多くの人たちが想像するように大人数がひと所に「集まる」ことよりも、むしろ「散らされる」ことにあり、大勢が集まって自分たちの存在を世間にアピールし、「自分たちの名を地上で高く掲げる」こととは正反対なのだと思わずにいられない。人が成功し、有名になったり、地位を築き上げて、安直な手柄を立て、自分をアピールすることではなく、むしろ、低められ、砕かれ、無化され、苦しみを通過しながら、人格が練られることの方にこそあるのだと思わずにいられない。
 
何よりも、もし我々がただキリストだけに目を注ぎ、この方だけに栄光を帰し、この方だけに従って生きていれば、教会を建て上げることに特別な関心など寄せずとも、エクレシアが何なのかは自然に分かって来るのではないかと思われてならない。

すでに一度は書いたような気がするが、筆者が今でも覚えている体験の中に、筆者が横浜に来る前、当初、筆者がエクレシアだと考えていた人々の、幸福そうな集まりの様子を遠くからネットで眺め、何か分厚いガラスの隔たりでもあるかのように、彼らと自分自身との間に決定的な距離を感じ、心に鈍い悲しみを覚えたということがあった。

その時、感じた悲しみや失望が何だったのか、その理由は、実際に彼らと接触してみて分かった。その集まりは、聖書的な交わりを装ってはいたが、結局のところ、いわゆる内輪の知り合い同士の仲良しサークルの域を一歩たりとも出てはいなかったのである。それは互いに誉めそやし合い、自画自賛し合うための、エクレシアに似て非なる集まり、単なる自己満悦のごっこ遊びのようなものに過ぎなかったのである。そこで、結局、筆者はその仲良しサークルを観察しては見たが、その一員には決してなることなく、その交わり(と呼ばれていた偽物)を通り過ぎただけであった。

今、筆者はそのようなものがエクレシアだとは露ほども考えておらず、彼らのように、自分が心許せると考えた仲間内だけで、徒党を組むことで、キリスト者の交わりを確立できるとも思っていない。そのようにして、仲良しサークルを拡大したり、自分たちの交わりこそ本物であると、世間に誇らしげにアピールしようとする試みを一切無視して、もっと言えば、そもそも人に良く見られ、誤解なしに受け入れられたいという衝動そのものとも訣別し、エクレシアというものを、まるで同時代人のサークルのような、人間の目に見えるネットワークに見いだそうとする考えを完全に捨てて、ただ神の御前の単独者として御言葉に従って真実に歩むことだけを目指す生き方を貫くことに決めたのである。

そうこうしている中でも、筆者のもとには、その時々に、神が率直に語り合うことのできる誠実な信仰者を友として送って下さることがあった。だが、その友情や連携は、固い結びつきになって、同志的な関係が生まれる前に、かなり早い段階で、強化されるどころか、分解されるのが常であった。
 
そんなことからも、筆者は、エクレシアを建て上げるという名目で、人々が寄り集まって自画自賛に明け暮れ、自己陶酔に浸ることは、全く神の御心でないばかりか、むしろ、大きな危険性が伴うだけだと考えるようになり、教会を建て上げるとは、気の合ったクリスチャン者同士が、お手手つないで、みんなで仲良く一緒に天国の門をくぐりましょうといった子供騙しのような願望とは全く異なる事柄で、もっともっと厳しい側面を含んでいる、と思わずにいられなくなった。その厳しさの中では、共に手を携えて歩める仲間が現れることの方が少ないほどである。そして、それゆえ、信仰者の歩みの基本は、やはり、神の御前の単独者としての信仰の歩みにしかないと確信している。
 
たとえ信者であっても、人間と人間との間で結ばれる絆や友情は、決して永久的なものとはならず、人は時と共に変化し、あるいは簡単に道から逸れてしまい、固いように見えた絆も取り去られる。だから、どんな時にも、信者は人を当てにせず、まずは神との間で、確固たる信仰による交わりを維持することに心を砕くべきであって、それ以外のものにほんの少しでも価値を置き、期待をかけ、栄光を帰したい衝動が芽生えると、それはたちまち腐敗したものとしてあっけなく失われるのだと思わずにいられない。
 
キリストだけに変わらない価値を置いて、この方にすべてを委ねて生きようと決意するときにこそ、それ以外のものが、必要に応じて与えられる。生活の様々な必要だけでなく、信仰の仲間でさえ、そうなのである。その意味で、キリストとエクレシアとの優先順位は、絶対に逆にされることがあってはならないのではないかと筆者は考える。

さて、以上の内容から、話が再び変わるようだが、筆者は、最近、とある商人からヴァイオリンを買った。どうにもこうにも、ヴァイオリンを弾くべきだと思えてならない時が来たせいである。一年ほど前から、ピアノの特訓を再開していたが、どうにもピアノだけでは物足りなく思えるようになった。

実は、筆者のペンネームは、ヴァイオリンから取られたものなのだが、筆者自身がヴァイオリンを弾けるのかと言えば、子供の頃、我が家に人から譲り受けた分数ヴァイオリンがあったが、本格的なレッスンを始めるに至らず、学校時代に基礎を習ったが、ヴァイオリニストのように自由に弾けるようになる手前で習い辞め、今、暗譜している曲はほんの二曲ほどしかない。それでも、長年に渡り、ヴァイオリンへの情熱は消えず、身近で他人の演奏を聴き続けたりした記憶の蓄積がついに飽和状態に達し、自分で弾かねばならないと思うに至った。
 
全くの余談に聞こえるかも知れないが、そう思ったきっかけは、ピアノだけに熱心に取り組むことに何かしらの限界を感じたせいでもあった。筆者は一時期、仕事に熱中して、ピアノをうっちゃっていたせいで、ほとんどピアノが弾けなくなってしまった時期があり、そのブランクを挽回しようとしているうちに、どうにもピアノという楽器には、何かしら根本的に、人になじみにくい要素があるのではないかと思い始めたのだった。

これは決して愚痴や泣き言ではなく、真剣に取り組めばこそ、思うことなのである。物心ついてすぐに最初に習い始めた楽器がピアノだったので、今までこのようなことを考えたこともなく、ピアノという楽器の難解さを感じても、常にそれは自分の技量の足りなさのせいだとしか思いもしなかったが、何しろ、ピアノには88鍵ものキイがある。隅から隅までこの楽器を使いこなすには、両手をいっぱいに広げねばならず、それだけでも大変な移動距離である。そして、ピアノ曲は旋律だけのものはほとんど皆無で、旋律も伴奏も一台の楽器で全部やってしまうのが通常であり、それゆえ、一度に奏さねばならない音がとにかく多く、その点で、他の楽器に比べても、極めて楽譜も複雑になりがちである。最も重大な注意点は、楽器が巨大なので、持ち運びが利かず、自分用に調整された楽器を演奏会用に準備することもできないことだ。どこへ行っても、コンディションの異なる備え付けのピアノに、奏者が自分自身をなじませるしかない。さらに、楽器が巨大ゆえ、人との間に拭い難い距離感があって、人が楽器と完全に一体になって共鳴することがやりづらい。

そんな楽器にも関わらず、ピアノ奏者は全世界で他の楽器にくらべてもとりわけ多く、音楽界における競争は他のどんな楽器に比べても一層過酷だ。そのような条件は、演奏家に非常に大きな負担を強いるものではないだろうか。

これと比べると、ヴァイオリンという楽器は、ピアノに比べれば、運指のための移動範囲もそれほどでなく、ピアノのように、鍵盤を押しさえすれば、それらしき音が鳴るということもなく、まずは自分で音を作るところから始めねばならないが、その方が楽器としては、はるかに自然な気がしてならない。ピアノは一音が消えるまでの時間が早いため、音を持続させるために、比較的早く次の音へ移行せねばならないが、ヴァイオリンは、弓を上手に使えば、少なくとも、一音をピアノよりはるかに長く持続させることが可能であり、その間に音の強弱も変えられる。

何よりも、ヴァイオリンという楽器の最も自然なところは、奏でる音質が人間の音声に近いことだろう。だから、ちょうど歌を歌うのにも似た感覚で、楽器を演奏することができる。しかも、楽器が人の腕の中にすっぽり入ってしまうくらいの大きさなので、人との距離感がさほどでなく、接触している部分も多く、楽器の共鳴が人体にそのまま伝わる。人の体と楽器がまさに一体となって音楽を奏でているという感覚を持ちやすい。

それに引き換え、ピアノと人体との直接の接点は、指先と、ペダルを踏む足先くらいであろう。だから、ピアノの音の振動は、人間の体で直接、体感する部分が少なく、基本的には、耳で聴いて音を感知するしかない。しかも、ピアノの音は、人間の声にさほど似ていない。

世の中にはピアノとヴァイオリンの他にも無数の楽器が存在するので、この二つだけを比べて論じることには無理があると思うが、それにしても、ヴァイオリンに比べると、いかにピアノが人工的で不自然な楽器かという気がしてならないのである。ピアノが親しみやすい楽器だと錯覚できるのは、子供に初歩を習わせる時くらいのことではないだろうか。

もともとヴァイオリンは、民衆のための楽器であり、クラシックの世界で、ヴァイオリニストたちが、楽器の値段や価値を競い合い、また難解なテクニックを競い合って、激しい競争が行われるようになって、一流ヴァイオリニストが、スター同然にもてはやされたりするようになったのは、ごく最近のことであろう。

そうなるまでのヴァイオリンは、オーケストラや室内楽だけでなく、民衆の祭りなどでも普通に駆り出されるような、庶民にもごくごく身近な楽器であったはずだと思う。肩当てや、顎当てさえ、比較的最近になって普及したのだと言われるように、もともとは非常に単純な楽器である。そんな楽器に、人間が逆立ちしなければ、達成できないような複雑怪奇な操作は、必要とされていないはずで、もともとこれはそんなアクロバットを当て込んで作られた楽器ではないはずだ。だから、本来のヴァイオリンとは、人を寄せつけないほど難解ではない、単純素朴な楽器のはずだと思うのである(だが、ヴァイオリニストはこれを聞いて、異議を唱えるかも知れない。単純なものが全く複雑化されてしまうところは、宗教もクラシック音楽界もどこか似ている。)

もちろん、ピアノにはピアノの良さがあり、ピアノという楽器を知っているがゆえに得られる喜びや満足は非常に大きいと言える。そもそも音楽の基礎を学ぶのに、この楽器を避けて通ることはできず、ピアノ曲には偉大な作曲家の豊富なレパートリーの取り揃えがあるので、一生を費やしても時間が足りないほどの楽しみが満載であると言うことはできる。だが、そうは言っても、ピアノには備わっていない別な要素を、ヴァイオリンのような別の楽器で学び、これをピアノに応用することで、ピアノの人工的で不自然な部分を補うことができないだろうかと筆者は考えているところだ。その実験の最たる目的は、どうすれば、人間の音声からかなり離れたピアノを、人の歌声のように自然に歌わせ、響かせることができるかというところにある。

一体、この実験と信仰に何の関係があるのか?と問われそうだ。まるでこじつけのようにしか聞こえないかも知れないが、これも筆者が神に願って与えられた機会なのである。

筆者はかつて非常に音楽に熱中していた時期があったが、一旦、これを神にお返しした。筆者の専門もこれと同じことで、かつて自分自身の思いで熱心に探求し、愛でていたすべてのものを、どこかの時点で、筆者はすべて手放し、一旦、神に返却することになった。

それゆえ、筆者は多年に渡り、音楽からも、自分の専門からも離れた時期が存在する。一見、その時期は、全くの無駄な紆余曲折のようにしか見えないことだろう。だが、そうして神にお返ししたものは、まるで燔祭に捧げられたイサクのように、一度、死んでよみがえって生かされたものとして、主の御手からもう一度、受け取ることができる。そうすれば、今度こそ、何のためらいもなく、信仰に反しない、聖別されて、祝福されたわざとして用いることができるのだ。

もし離れていた時期がなく、幼い頃から、両方の楽器を真剣にやっていれば、今、与えられている楽しみが、どんなに大きなものとなっていたろうと、ふと考えることがないわけではないが、幼い頃には、理解しようと思っても、分からないことの方が大きい。そんなわけで、筆者はブランクの時期を振り返って後悔するということはない。
 
その当時、筆者を教えてくれた教師たちは、真面目に練習していないがゆえに、抜けの多い筆者の演奏をも、素質があると誉めてくれ、その道に進めばどうかと助言してくれたこともあったが、それでも、当時、筆者の探求心は違ったことに向いていた。どちらかと言えば、筆者には、言葉の方に関心があったのである。

だが、幾年もの月日を経て、言葉への探求と、音楽への探求が、互いに矛盾しないものとして、一つにつながる時がやって来た。さらに、それらは死を経てよみがえらされたことにより、信仰とも全く矛盾しないものとなったのである。

もっと言うならば、言葉になる前の言葉と、音楽になる前の音が、信仰により、信者と一体になる時が来たのだと言っても良いかも知れない。

地上で音楽を奏でるということには、絶えざる格闘がある。なぜなら、プロの演奏者でさえ、思っているような演奏がなかなかできないからだ。コンディションの悪さが、常に演奏を邪魔し、自分が理想として追い求めるイメージと、現実に発せられる音との間に、絶えず開きを生む。自分がとらえよう、獲得しよう、達成しようと思っているものをどんなに真剣に追いかけても、すでにとらえたから、もう満足だという日は来ない。

だが、それでも、奏者は心の中に理想として持ち続けているイメージといつか自分が一体となり、音楽と自分との距離がなくなることを目指して、ひたすら弾き続ける。そこには、聴衆を含めた世界全体が一体となる時を目指すことも含まれている。

また、詩人は、演奏家とはまた違った形で、自らの言葉を通して世界と一体になろうとしている。いや、もっと正確に言えば、有限な言葉を通して、言葉になる前の無限の世界を追い求めていると言って良い。

詩人にとっては、どんなに素晴らしい詩を書いてみたところで、言葉を通して表現されるものが全てではない。言葉の先にある、言葉を生み出す源となるインスピレーション、霊感そのものをとらえようとして追い求めているのである。音楽家もある意味ではこれと同じである。音を通して表現しようとしているものは、音が生まれる以前の何か、音を生み出す源となるものなのである。

鈴木大拙が「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を唱えたことを、筆者は別の記事で触れたが、人間が探求しているのは、まさにその霊感の世界なのであろう。だが、筆者は、禅者ではなく、あくまで聖書の神を信じるキリスト者であるから、「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を目指さず、むしろ、「神が光あれと言われた後の世界で、光を造られた神と一つとして生きる」ことを目指している。

音楽家や詩人が、音や言葉の生まれる前の、それらを生み出す源となるものと一体化して、これを表現しようとしているならば、筆者は、信仰によって、この地上に実際の事物が生まれる前の、それらを生み出す源となる命そのものと一つになりたいと願っているのだ。

だが、筆者は、歴史を逆行して、神と人(被造物)とが分かたれる前の世界に回帰することで、その一体性を得ようとは思わない。むしろ、創造主と被造物の両者の間には距離があること、その距離が、我々が地上にいる間には、決して完全には克服できないものであること、それゆえ地上では、人の苦悩があることを分かりつつ、それでも、自分の力によらず、ただ一人、この断絶を乗り越えることのできるキリストの十字架の御業によって、朽ちない命に与り、この方と一つとして生きることを目指しているのである。
 
これは決して人が神を獲得することを意味しない。人が人の分際を超えて、神から神である地位と性質を奪おうとする試みでもない。人間の側からの神の詐称でもない。私たちは、神を心から敬い、この方を慕い求め、かつ崇め、誉め讃え、自分が被造物に過ぎないことを十分にわきまえて、畏れかしこみながら、同時に、この方に愛され、受け入れられて、子とされて、一つとされて生きることを心から願っているのである。

信じる者がキリストとの間で、完全な一致を地上にいるうちに獲得できないことを知りつつも、それでも、この方が信じる者のうちに住んで下さり、生きて働いて下さり、この方と共に共同統治者とされることを信じながら、私たちは神を喜び、神を尊び、神を愛して生きているのである。

聖書に書いてある通り、私たちはキリストをこの目で見たことはなく、実際に生きてお会いしたわけでもない。その声を聞いたこともなく、手で触れたわけでもない。神を五感でとらえることはできない。にも関わらず、この見えない方を見るようにして信じ、かつ、愛してさえいる。敬い、崇め、慕い、賛美するが、その賛美は、何よりも、神への愛から来るものなのである。
 
その愛は、この新しい命、朽ちないまことの命は、我々が自力で獲得したのではなく、神の側から一方的な恵みとして与えられたのだという認識から来る。神がまず私たちを愛して下さり、すべてを与えて下さったがゆえに、私たちも神を愛さずにいられないのである。

こうして、神の方を向くならば、人の心の覆いは取り除かれる。自分自身を完全に神に捧げ、かつては自分で握りしめようとしていたものも、今は神に委ねているからこそ、筆者も、キリストにあって再統合された自分自身を、ためらいなく受け入れ、生きることができるのだと言える。

古きは過ぎ去った以上、信じる者の個性そのものが、今やキリストにあって、神に聖別された新しい人として、神の手から信者の手に返されている。そこにはもはや恥じるべきものは何一つなく、隠すべきものもなく、死の宣告を受けたものを、まるで聖別されないものであるかのように思い返して、恥じたり、修正したり、変えようとする必要はない。信者の過去も、人格も、個性も、すべてがキリストにあって新しく生かされていることを信じれば良いのである。
 
筆者は、前途有望と言われた時期に、自分に与えられた様々な可能性を、自分の人生の成功を掴むためには利用しなかった。今となっては、遅すぎると言う人もあろう。たとえば、筆者は、職業音楽家になるにはいささか遅すぎるし、研究者として功績を残すにもやや遅れ気味であり、その他、遅すぎると言われても不思議ではないチャレンジがいくつもある。

だが、筆者はこの「遅延」を嘆くどころか、むしろ喜び、楽しんでいる。地中に眠っている種が、発芽して根を下ろすまでに、長い時がかかることがあるように、他人にどう見えようとも、筆者にとっては遅いということはなく、今がまさにその時なのである。もしもっと前に、有望と期待されている時に、もっと真剣に取り組んでいれば、今以上の結果が出たであろうか? 決して、そうは思わない。その時には、分かっているようで、何も分かってはいなかったのであり、何事にも今と同じ姿勢を到底、持ちようがなかったであろう。

今、筆者に与えられているすべての可能性は、筆者が自力で自分の名誉、地位、成功を築き上げるための手段として与えられているものではなく、そういうものを獲得せねばならないという焦りや義務感や恐怖とも、筆者は無縁である。そういった無用な気負いがないからこそ、平安のうちに、純粋に喜び、楽しむことができるのだと考えている。

今、筆者に与えられているものは、筆者が人生を喜び、楽しんで生き、神に栄光を帰するために、恵みとして与えられたものであって、それ以上の意味はない。自己顕示のための手段でもなければ、地位を築き上げるためのものでもない。音楽であれ、言語であれ、詩であれ、もはやどんなものも、筆者の心の偶像にはなり得ない。たとえ熱心に取り組んだとしても、自分を見失うまで熱中したり、あるいは憑りつかれているのではないかと言われるような取り組み方は決してしないのである。
 
さて、最後に、再び、話が飛ぶと思われるかも知れないが、多くのプロテスタントのクリスチャンをいたずらに苦しめ、恐怖に追いやっているカルヴァンの予定説の何が間違っているのかについて、筆者の考えを少し書いておきたい。

この説の決定的な誤りは、人類(人間一般)という定義の中に、古い人類と新しい人類とを一緒くたに混同していることにあるのではないかと筆者は考えている。決して一緒にしてはならない二つのものを、無理やり同じ土俵で一緒くたに論じればこそ、クリスチャンとなった後でも、誰が真実救われているのかは、信者が死後、神の御前でさばきの座に立たされる時まで本当には分からないなどといった、全く恐ろしい絶望的で不毛な結論が生じるのではないだろうか。

それはまるでチンパンジーとオランウータンを同じ種族と断定して、どれがチンパンジーであってどれがオランウータンなのかは、DNA鑑定をしてみないことには分からないと言っているのと同じくらいのナンセンスに感じられる。

パウロは、ローマ人への手紙で、一人の人(アダム)によって罪と死が人類に入り込んだように、一人の人(キリスト)によって多くの者が義とされ、命を得ることを述べている。この二つの系列の種族は、決して同列に論じられるべきものではない、全く別の種類である。

外見が同じように「人類」に見えるからと言って、アダムの古き命に生きる者と、キリストの新しい命によって生かされる者とを、「人間一般」という定義でひとくくりにするのは全く望ましくない。いや、望ましくないだけでなく、これは誤った定義であり、事実誤認である。外見だけによって、本来、一緒にしてはならないものを一緒にするから、救われた人間と、そうでない人間を、内的確信によって区別することが不可能だとする荒唐無稽が生じるのである。
 
さて、キリストと共に十字架の死にあずかり、共に復活した者は、自分がすべての面において完全に新しくされ、すべての面において聖別されたことを信ずべきである(ただし、これは決してその信者が地上において、すでに罪なき完全に聖なる存在となったことを意味しない)。我々は地上にあっては、依然として、欠けの多い、誤りやすい、不完全な存在にしか見えず、多くの期待はむなしく潰え、もはや手遅れに思われることも多く、キリストご自身との間には、相当な距離があり、達しようと目指しているものとの間には、はるかに遠大な距離があるかのように感じられることだろう。その距離は、我々を打ちのめして、失意や悲しみをもたらしかねないほどのものであり、それゆえ、我々はこの不完全な地上の幕屋の中で絶えず呻いている。

それにも関わらず、我々はその感覚を否定して、呻きの中から、完全に贖われる日を待ち望み、それを信じ、これに達しようとしている。信仰によってそれが事実であることを先取りして、すでにその贖いと一つであること、キリストと一つとされていることを信じ、宣言する。つまり、飲むにも、食べるにも、移動するにも、学ぶにも、演奏するにも、書くにしても、何をするときも、生きることはキリストだと宣言する。たとえ現実がどれほどそこから遠いように見えても、目指しているものが、生きているうちに到達不可能であるように見えても、それでも、生きることそのものが、我々の存在そのものが、地上での限りある一瞬一瞬が、キリストと一つとして生かされており、そうであるがゆえに、この方に栄光を帰するものとなるようにと願い、信仰によってそれを宣言し、待ち望むのである。

このことは、我々が外見的にどんな風に見え、どれくらいの見込みが残されていると想定されるかには全く関係ない。我々の望みは、目に見えるものにあるのではなく、見えないものにこそ置かれているからだ。我々は御言葉により、自分をすでに死んだものとみなし、死者をよみがえらせ、無から有を引き出し、不可能を可能とすることのできる神の御業を信じて、贖いの完成を待ち望んでいるのである。

だから、状況が見込み薄のように見え、嘆かわしく見える時ほど、信じ、待ち望む甲斐があるのだ。主にあって、一度手放したものを、再び返されて、この手に取り上げる時には、常に死の厳粛さと、よみがえりの喜びを思わずにいられない。筆者がこの手に握っているものは、もはや筆者のものではなく、神の所有なのである。

多くの人々は、若いうちに、つまり、自分にたくさんの可能性があるように見え、たくさんの期待を寄せられているうちに、早々に何かを達成してしまうことこそ、人生の成功であると思い込んでいる。そして、失敗や遅延を無意味なものとして、できる限り避けながら、ただ成功だけを手にして前進したいと考えるのかも知れないが、筆者は決してそうは思わないのだ。

人が若くてエネルギッシュで生命力に溢れ、前途有望と誰からも期待されているうちに、持ち前の生命力によって、何かを成し遂げることには、何の不思議もありはしない。そこにはただ天然の命の生まれ持った本能があるだけで、何の奇跡もなければ、瞠目すべき要素もない。

もし死を経るという過程、死んで葬られるという過程がなければ、筆者のすべてのわざは、非常に皮相で、軽薄な、むなしい価値しか持たなかったであろう。筆者は、軽薄で皮相なものを全く欲していないし、そのようなものが自分の人生の本当の麗しい飾りになるとも思っていない。そのようなもので他人を満足させたり、深い感動を与えることができるとも思わない。

神の目から見て、天然の命に属するものが何一つとして価値を持たないように、人の目にも、長年かけて熟成され、正真正銘、試練や、苦しみや、呻きの中で、練られ、洗練たものでなければ、賞賛に値する価値は見いだせない。神の目はごまかせないが、人間の目なら簡単に欺けると考えるのも間違っている。皮相で軽薄なもので人の関心を引き、人目を欺けるとしても、それはほんの一時しのぎでしかない。真に価値を持たないものは、いずれにせよ、短期間で馬脚を現し、長続きしないと相場は決まっている。そのようなものを追って生きても、全くむなしいだけで、一体、何の甲斐があろうか。


十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―主と同じかたちに姿を変えられて行く (2)

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


何年ぶりかに、700キロの走行距離を経て、久々に郷里の美味しい空気を味わうことができた。

不思議なことだが、筆者が天に直接、養われる生活を始めてからは、神に向かうために自由な時間が圧迫されるようなことがあると、それから間もなくして、神ご自身が、信じる者のために、暇(いとま)を用意して下さることが頻繁に起きるようになった。

たとえば、このところ、しばらくブログ更新が滞っていたが、このように、日常生活で、神に向かうことが難しくなるほどの多忙状況に陥ったり、何かの出来事で過度に心を煩わされるような時が続くと、必ずと言って良いほど、立ち止まる機会が与えられる。信じる者は、心煩わせる全ての出来事の渦中から高く引き上げられて、安息を取り戻すための平穏な場所に置かれる。しかも、その移行がとても自然な形で、誰にとっても無理のない形で起きるのだ。

このように、神の国とその義とを第一に生きてさえいれば、信者には、ただ生きるためだけの様々な心配は無用である。これは確かな事実であり、法則でもある。だが、筆者は、こう言うことによって、信者が自分の生活に必要な様々な措置を自分で何も講じなくて良いと言っているのではない。やるべきことやらねばならない。ただ、どうやって生きようかとあれやこれやと心を悩ませ、煩わせる必要がなくなるのである。

もし信者が本当に神の国とのその義の何たるかを知っており、あるいは心から探求しており、神にさえ心の照準を合わせているならば、多くの人々が毎日、胃が痛むほどに悩んでいる食べ物、飲み物、着物の心配を含めたあらゆる日常生活の心配事、仕事や生計を立てることに関する心配事は、何もかも完全に神の御手に任せてしまうのが一番良い。神が信者の生活を心配して下さるからだ。

もし信者が仕事で成功したり、立身出世などといったことに少しでも興味があるなら、そうした一切のことがらも、すべて神にお任せすることをお勧めする。

これは信者が「すべてを神に任せる」という口実で、自己放棄し、自分では一切何もしなくなるという意味ではない。また、望みを捨て去るという意味でもない。自分で何かを獲得しようともがき、必死の努力を重ねる代わりに、望みのすべてを正直に神に打ち明け、神にそれを承認していただけるかどうかを尋ね、もし神との間に争いがないならば、神の御手から改めて承認された自分の願いを受けとって、その実現に生きることが一番確かで自然な方法だという意味である。

筆者はこれまでにも幾度か述べて来たように、ある時期から、自分の人生を完全に天に委ねてしまった。つまり、神の恵みにより、天の経済によって生かされるようになり、どう生きるかということについて、あれこれ心配をしなくなったのである。

だが、それは決して、筆者の人生に何一つ心配に値する出来事が起きなくなったという意味ではない。何の波乱も、一つの事件も起きなくなったという意味ではない。そうした事柄に心が触れられなくなり、何が起きても、一切、心を騒がせず、静かに落ち着いて最善の解決を見いだし、そこへ向かう方法が分かって来たという意味である。
 
これは子供が自転車の乗り方を覚えるのにもよく似て、最初は何かしらとてつもない無謀な実験のように、もしくは無責任な考えのようにすら感じられるだろう。普通の人々は、仕事や家族のことで何と心を煩わせていることか! そして、まるで心煩わせることこそ、義務を果たすことであるかのように思い込んでいる。生活環境が変わり、仕事内容が変わったり、勤務地が変わったり、居住地を変えたり、家族に変化が起きたりすれば、その度ごとに、ほとんどの人は、これからの自分の人生は一体、どうなるのだろうかと不安を抱かずにいられないであろう。

この不安定な時代には、多くの人々はただ生計を維持するだけでも大変な苦労を負わされており、さらに、その不安に追い討ちをかけるように、しばしば情勢の不安が生じ、または心根の悪い人たちに遭遇して、裏切られたり、騙される寸前のところに追い込まれたり、あるいは、思わぬ負の事件をもいくつもくぐり抜けねばならない。そうした中でも、その出来事について思い煩わず、圧倒的な平安の中に座し、神の守りを確信し、心を悩ませずに、すべての出来事にふさわしい解決を見いだすというのは、並大抵のわざではない。いや、それは人の努力によってできることではない。

だから、筆者がこの法則を体得するにも、多少の時間はかかった。だが、それを通しても分かるのは、人にとって何よりも時間がかかるのは、自分の生存を自力で支えるためのあれやこれやの手練手管や方策を獲得しようともがくことではなく、どのような状況の中でも平安の中にとどまる秘訣を知ることなのだ。多分、この秘訣を知っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、そのような平安は、人の力で獲得できるものではなく、神から来るものだからである。

だが、それでも言えるのは、御言葉への信仰に基づき、一切の思い煩いを捨てて、神に自分自身を委ね切ることは、そんなにも難しいことではなく、慣れてしまうと全く困難ではないということだ。それは天の法則に従って生きることを意味する。

さて、ここで筆者の言う「天の法則に従って生き、どんな状況においても平安に座する秘訣」とは、外見的にいかにもハッピーで、悩みがなさそうで、喜びに満ちて、常に笑顔を絶やさず生きている理想的なクリスチャンの姿、などといった皮相で軽薄な印象の次元の話ではない。これは、外側から判断して、その人が他人にどう見えるかという問題とは全く関係なく、信者が内面において天の法則(命の御霊の法則)を知っており、その確信に基づいて生きているかどうかを指す。

この地上にも、自然界の法則がある。たとえば、野生の動物たちは、一体、どうやって食糧のありかを自分で見つけられるのだろうか。道端にいる猫や犬やカラスや雀たちは、どうやって自分を養っているのか。どうしてかは分からないが、彼らは生きるための法則を自ら知っており、神は彼らに自分の命をつなぐために必要な知恵を、彼らの命の中に組み込む形でお与えになった。それならば、まして人間が、しかも、キリストを信じて、その復活の命によって生かされている人間が、自分を生かす天の法則を知らないはずがない。

多くの信者は、神に向かって、自分が直面している当面の問題を解決するためのふさわしい知恵を下さいと言って、延々と長い祈りを捧げるが、筆者はこう言いたい、天の法則は、キリストが十字架の死を経て信じる者にお与えになった復活の命の中にすでに組み込まれていると。つまり、もしも信者が、真にキリストを知って、アダムの古い命ではなく、キリストの新しい復活の命によって生かされているならば、その信者は、自分を生かす新しい法則を自ら知っているはずであり、その鍵は御言葉の中にある。信者は御言葉を通じて、あらゆる問題解決に必要な知恵を自分で探り出し、体得する秘訣をすでに持っているのだと。

それが、キリストが信者の中に住んで下さることの意味である。つまり、神がキリストを通して信者に与えられた新しい命(命の御霊)が、信者がどう生きるべきかをおのずから信者に教えてくれるのである。

だから、信者は余計な思い煩いを一切捨てて、心静かに御言葉を探り、御言葉に従い、神がお与え下さった新しい法則に従って生きるだけで良いのである。そして、その新しい法則は、人間に苦役ではなく、自由をもたらすものであり、もはや信者はかつてのように、恐れや義務感にとらわれて生きるのではなく、心の本当の願いに従って生きることができる。

キリストの復活の命は、人がただ生存するためだけに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶように求めるような、残酷な性質のものではなく、御名によって、信者が心に願うことを率直に神に求めることを許してくれる。つまり、絶大な自由を信者に与えてくれる。だから、神との間に争いがなく、良心に咎めがないならば、信者は御名によって、大胆に、自分の心の願いを神に申し上げ、その実現を願い求めれば良いのである! 求めたならば、落ち着いて、その実現を信じ、それに向けて、ごく普通に、必要な新しい一歩を踏み出せば良いだけである。そこには、困難で複雑なことは何もない。

こうして、何重にも重い衣装をまとっていた人が、それを一つ一つ脱ぎ捨てて、軽快な服装に着替えるように、信者はかつて自分を縛っていた様々な心の重荷から解放されて、自由になって行く。かつてのように、地上の残酷な法則に縛られ、翻弄されて生きるよりも、天の新しい法則に従って生きる方が、はるかに自然であることが分かって来る。

信者が、天の新しい法則に従って生きるために、特に必要なことは、後ろを振り返らないこと(過去に未練や執着をもたないこと、自分で自分の過去を裁いて失敗に悩んだり、これを修正しようとして見てくれに拘泥しないこと)、自分の心の願いに正直であること(自分の心を神の御前に偽らないこと)、神の忌み嫌われる汚れたものとは分離することである。
 
最後の項目の中には、明らかに反聖書的な考えや教えを持つ人や団体と訣別することだけでなく、信者が自分自身の心に思い浮かぶ恐怖や、悪しき想像、思念と訣別することも含まれる。この課題は極めて重要である。

筆者はこれまで、信仰による創造というテーマについて幾度か書いたが、信者は、自分で自覚していようといまいと、自分の思念と言葉によって、絶えず信仰的に何かを創造しているのである。だが、その創造は、必ずしも、神の御心に合致せず、むしろ、悪魔のささやきに耳を貸すようなものである場合もある。なぜなら、信者自身が、自分は一体、何を本当だと信じるのか、御言葉に合致する事実を選び取るのか、そうでない事実を選ぶのか、選択を迫られているからである。
 
信者が、もし神の御心に合致した調和の取れた生き様を願うならば、自分の思いを統制し、御言葉にかなわない、自分にふさわしくない、神を喜ばせない、キリストに従わない思念を撃退して自分の外に追い払わなければならない。自分の身に呪いや滅びを招くような悪しき思念とは訣別しなければならない。そして、この課題は、信者の生活が順風満帆であるときにはたやすく達成できると思われるかも知れないが、逆境にある時にも、同じようにせねばならない。
 
信者は、人からの呪いの言葉を聞いたとしても、それを決して自分の中に取り入れるべきではなく、まして信じてはならないし、ネガティブな事件がどれほど身近に起きたとしても、それに注意を払うべきではなく、それを最終的な現実として受け入れるべきでもなく、御言葉に逆らう状況に徹底的に立ち向かいながら、ただ神が定めて下さった目的地(キリストにある新しい人、復活の領域にある自由と解放)だけを求めてまっすぐに見つめ続けねばならない。

信者が何を現実と認めるかによって、信者の歩みは全く変わってしまうのである。道に横たわって進路を妨げる障害物を現実だと思うならば、一歩たりとも前に進んで行くことはできなくなる。だが、悪しき思念は、必ずしも、他人の言動や、不意の望まない出来事を通してやって来るとは限らず、まるで自分の思いであるかのように、信者の心に思い浮かぶこともある。それでも、信者はこれを自分の思いであると錯覚せずに、その出所を識別して、御名によってその思いを拒絶し、これを虚偽として立ち向かわなければならないのである。

筆者はまだ天の法則を十分に知ったとは言わないが、これまでの年月、一日、一日、神がどんな状況においても、信じる者を支え、導いて下さる方であることを確かめて来たため、その一日、一日が、神がどんなに信頼できる方であるかということの確証となって、筆者の確信を補強している。
 
さて、すでに書いた通り、今回も、天の不思議な采配により、久々に郷里の空気を吸う機会を得たが、こうしている間にも、十字架の死と復活の原則は、生きて信じる者の人生に確かに働くことを筆者は経験し続けている。

たとえば、この道中に連れて来た小鳥が、到着後に不意に重大な怪我をするという事件も起きたが、神に助けを求めると、良い獣医を見つけて、早期に適切な治療を施すことができ、そのおかげで、小鳥も順調に回復を遂げるに至った。

場合によっては命に関わるほどのリスクを伴っておかしくない重大事故であったが、今やほとんど元通りに健康を回復しつつあり、これにも、死の中に働く確かな命の法則を見る。

さて、これから先の記事では、十字架の死だけでなく、復活の側面に大きくスポットライトを当てたいと筆者は考えている。前回までの記事では、筆者はキリスト者が低められることの重要性について幾度も触れたが、ここから先は、栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられて行くことに重点を置いて話を続けたいと考えている。

その本題に入る前に断っておきたいのは、筆者が、信者が低められる必要があると述べるのは、決して信者が自分から低い地位を求めるべきという意味ではないことだ。これは自虐の勧めではないからだ。しかし、信者が束の間、意に反して、卑しめられたり、低められたり、注目されず、無化されたかのような立場に置かれるということは、しばしば起きうる。そして、その訓練の間に、信者が呻きや嘆きを通して、神の御前にそこからの解放を願い出るならば、それは間もなく叶えられる。

そのため、もし信者が、束の間、低められることがあれば、その後には、高くされることが続くと思って差し支えない。それは、信仰者には、主にあって御名のゆえに遭遇した束の間の苦しみの後に、常に休息の時がやって来るのと同じである。

たとえば、この時代の状況もあって、筆者はこれまで、個人的に、長い間、自分が並大抵でない苦労の連続の中を生きて来た自覚があり、それは筆者の周囲の人々も共通して認めているところであったが、しかしながら、そうした苦労にも終止符が打たれ、次第に、人生が自由と解放へとシフトして来ているのを感じる。

つまり、筆者自身の歩みが、栄光から栄光へと、キリストの似姿へ変えられて行くという局面に移り変わって来ているのだ。

かつて、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型、どの人生に自分が一番近いかを問う質問を聞いたことがあるが、筆者の歩みは、どこかしらヤコブの人生にも似ている。開けた広い場所へ出るまでの間は、ラクダが針の穴を通るように、狭苦しい窮屈な通路を長々と通過せねばならない時期がある。だが、それもいつかは終わり、大路へ達する。あるいは、ヨセフの人生にも少し似ているかも知れない。他の人々が遭遇することがないようなスケールの劇的な苦難にも度々遭遇して来ているからだ。
 
筆者は、これまでの人生に絶えまない格闘があったので、ヤコブのように、自分の「もものつがい」が外されるために、何か特別に劇的な格闘があったのかどうかも分からないが、気づくと、もものつがいも外れ、これまでさんざんそこから脱出しようとして苦しんだり悩んだりする原因になった出来事が、全く古い出来事として過ぎ去り、とうに自分の心に触れなくなっているのを知るのである。

それどころか、そうした出来事が人間の心を翻弄するカラクリが、あまりにもはっきり分かってしまうので、その悪しき装置の仕掛けを見抜いて、これを事前に打ち壊すことさえ可能になる。そのようなことがあらゆる場面で起きて来る。

それはちょうどいじめられっ子が、成長して、いじめっ子の挑発にびくともしなくなるのにもよく似ている。敵はクリスチャンを苦しめる目的で、絶えず悪しき活動を続ける。ところが、クリスチャンの方では、そうした次元の事柄に、全く自分が反応しなくなるのが分かるのである。レベル1の敵と対戦して負けては、悔しい思いをしていたのは大昔の話になり、今立ち向かうべき相手は、レベル10は超えている。仮に取っ組み合って立ち向かい、格闘する対戦が訪れるにしても、その時々にふさわしい相手を見分けられるようになる。レベル1の敵が活発に蠢いているのを見たとしても、脅威にも思わず、全く動じることもなく、相手にもせず、素通りするだけなのである。

一つの例を挙げれば、かつてもブログ記事に書いたことであるが、筆者は何年もかなり前に、大手で有名ではあるが、モラルの欠ける劣悪な人材派遣会社のもとから、同じほどモラルの欠落した劣悪な派遣先に遣わされ、そこでいわれのない理由で、一方的に契約を短縮させられそうになり、交渉の末にようやくその措置を免れるという出来事に遭遇したことがあった。

その当時は、何も理由が分からずに遭遇した出来事だったため、この事件に、筆者は衝撃を受け、愚かしい長々とした交渉に消耗もしたが、その後、人材派遣業そのものがブラックな業界だと言われる中でも、派遣会社にはピンからキリまであって、上記に比べ、はるかにましで良心的な会社も存在しており、良心的な会社は、同じような状況が持ち上がっても、決して以上のような措置を取らないことを知った。

つまり、その時、筆者が関わった会社は、大手にも関わらず、あらゆる派遣会社の中でも、とりわけモラルがなく、レベルが低かったのだと言えるのである。後になって分かったことは、問題となった派遣会社は、当時から、他の派遣会社がさじを投げ、すでに派遣を中止して撤退したような、劣悪な環境の職場に積極的に乗り込んで行っては、ブラック企業を食い漁るようにして、シェアを伸ばしていたということであった。
 
筆者がその当時、派遣された職場も、他の派遣会社が送り込んだ人材への扱いが相当にひどかったため、他社が度重なるクレームをつけたにも関わらず改善がなく、他社がすでに手を引いた職場だったことを、筆者はまさにその当時、職場にいた同僚から聞かされた。他の会社が撤退するほど悪い環境に、積極的に乗り込んで行くのだから、そんな環境で、問題に巻き込まれないことの方がおかしい。

しかし、そうなっても、派遣会社の方は派遣先と連携して、何が起きても、ただ労働者に一方的な責任を負わせる形で幕引きを図ろうとするのが通常だったと見られる。その派遣会社は、近年も、有名企業に正社員を対象とするいわゆる首切りマニュアルなるものを提供してリストラを促し、社員の退職を機に人材派遣のチャンスを増やして、自らの儲けの手段としていたことを、TVでも特集として報道され、世間に問題視されるに至っているほどだ。いわば、他者の不幸を自分の儲け話に変える手法が、社風として定着してしまっているのである。(しかも、その劣悪な派遣会社が、当時、筆者を派遣した先が、政府の事業の下請け企業であった。政府の下請けという立場もまたとりわけ悲哀に満ちた環境が生まれる元凶である。)

さて、当記事は労働環境について論じることを目的としていないので、本題に戻るが、上記のような事件は、筆者には、遭遇した当時は、いきさつを全く知らなかったため、それなりに衝撃的に感じられたものであるが、その後の月日で、すっかりその人材派遣会社のレベルの低さとモラルの欠如が見えてしまい、その事件が起きたカラクリも分かってしまい、なおかつ、比較的良心的でましな会社が他にいくらでも存在していることや、派遣であろうとなかろうと、会社を選ぶ権利は誰にでもあり、起きた出来事も、見る人から見れば、最初から予測できた当然の結果でしかなく、少しも筆者の個人的な責任に帰されるべきものでないことが分かったので、今はこのような出来事にはまるで心を動かすことなく、振り返って憤ることもなく、ただ取り合う価値もない出来事として呆れながら、素通りして行くだけである。

この世の中には、残念ながら、ハイエナやハゲタカのような企業や宗教や人間も存在しており、空中に蠢くウィルスを根絶できないように、それらを駆逐することは誰にもできない相談である。だが、人が健康であればウィルスに感染しないのと同様、そのような低いレベルの対象を見抜くことさえできれば、これを相手にせず、関わらないことによって、害を受けず、関わったとしてもその害を最小限度にとどめることは誰にでも可能なのである。

以上の体験談は、労働問題を論じるためでなく、信仰の生長について語るための一種の比喩として持ち出したものである。つまり、人生で一時的に、耐え難いほど心を悩ませる問題が起きて来ることがあっても、人が生長すれば、その事件を通り過ぎることができる。そして、もっとはるかに高度な問題に取り組むようになる。卑劣な人間や組織ほど、活発に自己主張するため、他者を押しのけて、人の不幸を踏み台にしてでも、貪欲に自己の利益拡大をはかるかも知れないが、そうした人々の厚顔不遜さに影響されることも減って行き、そばで誰がどのような生き様をしていようとも、落ち着いて自分の歩みを進めつつ、卑劣漢にその後、何が起きるのかを、冷静に観察できるようになる。つまり、理不尽な状況や有様を見ても、義憤に駆られて、自分の手で誰かに報復したり、自分の手で正義を実現しようなどと思うこともなく、すべての問題にふさわしい結果が現れることを確信して、穏やかでいることができ、心を悩ませる価値もないような問題や人々のために、人生の貴重な時間を膨大に浪費することはなくなるのだ。

この世に人材派遣会社が数えきれないほどあって、仕事を探している人間の側で、いくらでも選択が可能であるのと同様に、人はどんな対象と付き合う際にも、自分にふさわしレベルの相手を見分けて選ぶことができる。

つまり、誰でも相手をよく観察し、本心を見分ける術を心得て、関わる相手の性質やレベルを自分で見抜いて、これを定め、選びさえすれば、自分を守ることができる。そのための観察眼や洞察力を磨くべきなのである。(何よりも霊的洞察力・識別力を持つべきである。)だが、もし比較材料が全くなければ、学習を積む機会もないであろう。もしある人の人生に苦しみも悩みも全くないならば、その人には、さらなる自由や解放を求める機会自体が訪れないであろう。

人生に起きる出来事はすべてこのようなものである。一時的に卑劣な人間や劣悪な組織に出会ったとしても、全く絶望する必要がないのは、それよりももっと良心的な人間や組織が必ず存在するからである。つまり、人は何があっても、決して諦めることなく、より純粋なもの、より誠実なもの、より良心的なもの、より真実なもの、より完全なものを探し求め続けるべきであって、さらなる望みを持ち続けるべきなのである。最終的には、完全に真実な方は、神ご自身のみであることを忘れず、神にすべての望みをかけているなら、人生において、真実で誠実なものを求め続ける信者の願いを、神は笑われたりはしない。すべてのものについて、より真実で完全なものを求める願いがあって初めて、人は虚偽を脱し、不完全さと訣別し、より完全に近いレベルに到達することができる。地上における人の人生に完全はないが、それでも、信者は完成に向かって、絶えず歩み続ける。神と出会ったと言っているクリスチャンでも、決して信仰によって一足飛びにすべてを得ることはできない。自分の望みに従って一歩ずつ踏み出して行くしかないのである。
 
今となっては、筆者は人材派遣会社などに関わろうとは思わないが、かつてはなぜ派遣会社などを利用するのかとよく聞かれたものだ。それだけではない。なぜこんな条件に黙って応じているのか。なぜこんなに短い契約期間なのか。なぜこんな仕事内容なのか。あなたほどの人が、なぜ…。だが、他者がどんなに忠告しても、本人がそれを心から理不尽だと感じて、その束縛を脱することを全身全霊で望まないことには、脱出の道も現われない。そのことは、筆者が他の人たちを観察して常に感じて来たことだ。残念ながら、何と多くの人たちが、本来は、とうに脱しているべき劣悪な環境に自らとどまろうとすることか。多くの人たちは、束縛を振り払って自由になることよりも、かえって束縛に自分を合わせて自分の願いを切り取ることを願う。

信仰の成長も基本的にはそれと同じである。自分を悩ませたり、苦しめたり、束縛している問題に、一つ一つ、根気強く向き合って、神が約束しておられる自由と解放とは何なのかを思い巡らし、ふさわしい解決、ふさわしい解放、ふさわしい達成を自ら願い求めて、より完全なものへ向かって、一歩、一歩、階段を上るようにして、そこへ到達して行こうとする試みなしには、一足飛びにいきなり何かしら高度な達成へ至りつくことは決してない。自分が不当に束縛されているのに、それを束縛とも思わず、他者の同情を得る手段として利用したり、解放される必要があるのに、自分はすでに自由だなどと豪語して、問題と向き合うことなく、自分を偽っていれば、そこから一歩たりとも成長しないのは当然である。
 
かつて、ある信者が筆者に向かってこう言ったのを思い出す、「ヴィオロンさん、私があなたについて評価するのは、あなたの望みの高さです。現状だけを見て比べれば、今、あなたよりもはるかにましな状態、ましな環境にあり、はるかに成功しているように見える人たちはたくさんいるでしょう。でも、私が、あなたが他の人たちと違うと思うところは、あなたの望みの高さなのです。望みこそ、人の最終的な到達点を決めるものであって、現状がどうあるかは関係ありません。あなたには非常に高い望みがある。誰にも見られないほどの高い望みがある。だから、私はあなたに期待するのです。」

筆者は今、神以外の誰からも「期待している」と言われて喜ぶことはきっとないだろうと思う。人の評価ほど当てにならないものはなく、他人の期待に応えることが筆者の責務でもないからだ。だが、それでも、以上のような意見には、依然として耳を貸すべき部分があって、誰しも望みは高く持つべきだと考えている。特に、信仰者はそうだ。我らの望みは、キリストなのだから、まさに最高の最高の望みである。この最高の方を信じ、その方が共におられるにも関わらず、どうして我々が自分の人生について望みを高く持っていけない理由があるだろうか。そして、神がその願いを喜んで下さると信じない理由があるだろうか。

人は何を望み、何を現実だと思い、何を信じるかによって、その歩みは全く変わってしまう。不誠実な友に満足し、束縛があっても束縛とも思わず、モラルの欠ける状況に自ら甘んじたり、受けた苦難のゆえに、ただ苦々しい思いだけを心に抱いて、憤りや失意や悲しみに暮れて生きるのは容易である。自分は被害者だと主張して、途方に暮れたり、他者を責め続けるのも容易である。しかしながら、どんな出来事であれ、遭遇した出来事を、さらに高い到達点を目指すきっかけとし、より真実なもの、より確かなもの、より完全なものを見いだし、決して失われることのない希望と栄光に達するきっかけとしたいと心から願い、実際に、その栄光に至りつくことも可能なのだと、筆者は信じてやまない。なぜなら、より良い環境、より良い条件、より良い対象に出会いたいという願い、より真実な、決して変わることのない完全なもの、最良のものに出会いたいという人の願いを、神は決して笑うことなく、常に重んじて下さるからだ。神は筆者を常にその願いに従って、実際に願いの実現へと導いて下さったのであり、最善、最良のものを願い続ける人の望みは、最終的には、人を必ず神に向かわせる。神はご自分が完全な方であられるがゆえに、完全を求める人の願いをも重んじて下さるのである。
 
もう一度書いておくと、キリスト者には、しばしば自分を低めることに同意すべき時があるが、それは決して信者が自分で自分を卑しめるべきということではない。むしろ、信者はどんな限界や束縛の中にあっても、御言葉に基づいて、常に大胆に自由を目指すべきであり、神がキリストにあって約束して下さっている絶大な自由の価値を決して忘れるべきではない。謙虚さと卑屈さとは全く異なる別の事柄である。信者は、心の望みは、どんなことがあっても、決して自ら低めてはいけない。現状がどうあれ、信者の人生は、信仰を通して、心の望みに従って、形作られて行くからである。 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と聖書に書かれている通りである。


十字架の死と復活の原則―カルバリに住む―権勢によらず、能力によらず、ただ神の霊によって生きる―

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ4:12-14)

* * *

キリスト者は荒野の中で泉を探して地中を深く掘り続けているうちに、ついに願っているものに達した。神が信じる者のために用意して下さった尽きることのない命の水脈を発見したのである。

そこで、次なる課題は、灌漑設備を作り、命の水を荒れ果てた大地に広く流れさせ、土地を潤し、再生させるための装置を建設することにある。

生ける水の川々が流れだす秘訣は、十字架の死と復活にこそある。

キリスト者が自己を否んで十字架を負う時、そこに復活の法則が働く。信者は束の間、低められても、それがまるで嘘だったかのように、高く引き上げられ、重い栄光に満ちた瞬間を見る。

日々、主にあって、ほんの少しの軽い患難を負い、自分が低められることや、誤解されたり、栄光を奪われることに同意し、常に何者かでありたいと願って、人前に栄誉を受けようとする自己の願望を退け、十字架の死を負うならば、信者が自分自身で「何者かになろう」と努力する代わりに、主が信じる者を高く引き上げて、願っておられるところに到達させて下さる。人間の願いではなく、神が願っておられることが何であるかを見せて、実現して下さる。その時、多くの場合、信者一人だけでなく、信者を通して、多くの人々が潤されることになる。

この復活の命の現われこそ、御座から流れる生ける水の川々である。

* * *

ウォッチマン・ニーは、クリスチャンが生ける水を流し出す秘訣を「血の高速道路」と呼んだ。

血の高速道路とは、何ともすさまじい表現ではないだろうか。十字架が、文字通り、剣のように、クリスチャンの自己を貫き通し、刺し通すという意味である。つまり、主にあって真に祝福を得たいと願い、主と共に栄光を見たいと思うなら、その信者は、主と共に十字架を負い、自分が低められることに同意しなければならない。キリスト者の自己が裂かれた分だけ、生ける命の水の川々が、そのキリスト者自身から流れ出すのである。

その血がにじむほどの、いや、血が噴き出るほどの苦しみが、高速道路と表現されているのである。おそらく、それは他者がそのキリスト者の栄光を奪い、彼を踏みつけて、その上を走って行くことにも同意せよ、という意味であろう。

これはある意味、キリスト者が主にあって負うべき苦しみの極致を示していると言える。最終的には殉教を指している。

しかしながら、クリスチャンは殉教といった巨大なスケールに達するよりも前に、これをもっとごく小さなスケールで繰り返して生きており、日々、信者が神の国の義のために、神への愛のために、他者への愛のために、人知れず自分を裂き、注ぎだした分だけ、そこに命の法則が働くというのは確かな法則なのである。

ところで、殉教といった言葉を聞くと、必ず、反発する人たちが現れる。そういう考えはカルト思考だというのである。しかしながら、聖書の神は、願ってもいない人たちに、殉教を強制されるようなことは絶対にない。だから、クリスチャンが神のために死を強いられているなどといった考えは全く正しいものではない。たとえば、かつての日本がそうであったように、皇国史観に基づいて天皇のために国民に強制された死と、クリスチャンの殉教を並べて論じるのは正しいことではない。
 
キリスト者が日々、主と共に負っている十字架は、あくまで霊的な文脈であり、信仰によって、信者が自主的に同意して成るものである。そして、キリストを信じる者にとって、十字架の死は、決して死で終わることなく、復活という、実に栄光に満ちた事実と分かちがたく一つである。人間に過ぎない君主のために命を捧げても、何の見返りもないであろうし、それは人情の観点からは讃えられても、何も生み出すことのない無駄な犠牲でしかない。

だが、キリストはまだ我々が罪人であり、背く者であった時に、我々のために十字架でご自分の命を与えて下さったのであり、我々はそのまことの、永遠の命にあずかり、その命をこの地上に流し出し、主と共に天で永遠の栄光を受けるためにこそ、カルバリの十字架に自分を重ね、日々、主と共に自分が死んだことを認め、彼の死に自分を同形化するのである。
 
クリスチャンは、こうして日々、主と共に死を負うことにより、苦しみが苦しみで終わらず、患難が患難で終わらず、死が死で終わらず、御名のゆえに負った苦難には、どんな小さなものであれ、必ず、絶大な命の法則が働くことを実際の体験を通して知っている。

筆者もまた十字架の死と復活の法則が確かなものであることを、日々、自分の意志によって試しており、そこに相応の成果を見ているので、このやり方に間違いはないと確信している。

信仰の初歩においては、信者は殉教などといったテーマを考えることなく、日々の小さな十字架から始めるのが良いだろう。そうしているうちに、最終的にもっと大きなスケールの試練にも耐えうる力が養われる。

だが、信仰者にとって、一体、何が主の御名のゆえに負う「十字架」であるのか、一体、何が後々、天の栄光に満ちた益をもたらす土台となりうる苦難なのかは、人間的な観点からは、はっきりとは分からず、見分けがたいとしか言いようがない。

たとえば、人の目から見て、空振りや、無駄でしかないと見える様々な事柄、もっとうまくやりさえすれば、時間を短縮して、浪費を少なく出来たはずなのにと後悔するような出来事であっても、あるいは、みっともない恥だ、失敗だ、と思われるような出来事さえも、信仰の観点からは、損失でないばかりか、後々、えもいわれぬ大きな収穫を生み出す土台となることもあり得るのだ。おそらく、神の観点から見て、信者が御名によって耐えた全ての試練に、無駄というものはないのではないかと思われてならない。

たとえば、筆者は、ある年末年始の休日に、歯痛に襲われ(実際には一時的なストレスから来るもので病気ではなかったのだが)診療所を探して行ってみた。すると、祝日にも関わらず、待合室は大混雑して、長蛇の列ができており、待ち時間が一時間以上に渡り、パイプ椅子が並べられていたにも関わらず、数が足りず、子連れの親も数多く来て騒がしかった上に、診療それ自体も、決して良い雰囲気ではなく、結局、大した治療もできず、しかも病気でもないことが判明し、筆者は疲労だけを手に完全な無駄足だったと思いながら帰途に着いたという出来事があった。

ところが、その後まもなく、実に不思議ないきさつで、その診療所のすぐ近くに拠点を構えるある企業に仕事上でお世話になる機会を得たのであった。筆者が無駄足だったと思いながら、疲れて帰途に着いている時には、そのような縁が生まれることを予測せず、地上で誰一人、そのようなことが起きると知る者もなく、筆者自身も、その会社組織の存在さえ知らなかったが、今となっては、歯科医を探してその場所へ赴いたこと自体が、まるで未来へ向けての下見のようであった。神はそのような全くの無駄に見える出来事の中にさえ、しっかり働いておられ、不思議な形で、この出来事を新たな有効な出会いへと結びつけて下さり、筆者と共に生きて働いて下さっていたのである。この話には後日談もあるのだが、それはまたの機会にしよう。

さて、筆者は、キリストの復活の命に生きるために、何年も前にこの土地へやって来たのだが、長い間、悪魔の巧妙な策略のために、生ける水の川々を流れさせる法則をうまく掴めないでいた。

それは、かつて筆者の周りにいたクリスチャンたちの間では、主のために信者がすすんで負うべき苦しみについて、ほとんど語られなかったせいでもある。あるいは、語られることはあっても、実践されなかったのである。

その当時、筆者を取り巻いていた交わりでは、信仰者が主のために苦しむこと、いわれなき苦難を負うこと、主のために損失や、恥や、無駄を負うことについては、何か時代遅れの気まずい話題のように避けられ、信者が神を信じたことによって得られる祝福や恵みばかりが強調されていた。

信者たちは、仲間内で、自分が神に愛されている者として、他の人々には与えられない優れた祝福にあずかり、どれほど幸福に生きているかというイメージを演出することを、一種のお約束事のようにしていた。そうすることで、彼らは自分たちが他の信者たちの及ばない霊的高みに達している証拠のように誇示していたのである。

だが、筆者はこれにいたく疑問を感じていた。筆者はもともと世故に長けて器用に立ち回ることによって、己が力で人生の成功者となりうるような才覚の持ち主ではなく(もしそんな才覚が生まれつきあれば、自己過信して、神を求めることもなく、キリストに出会うこともなく、信仰を持つこともなかったであろうから、そのような手練手管を持たなかったのは、極めて幸いなことであり、また、それが神の筆者への特別なはからいであり、愛に満ちた恵みであることを疑わないが)、さらに、確固たる信仰を持つよりも前から、筆者はそのような地上的な成功を目指して生きることに、何の意味をも感じていなかったので、人生の成功だけを全ての価値のようにみなすこの世の不信者の社会においてならばともかく、信仰者の社会においてまで、自分が「上手に器用に立ち回って失敗を避け、そつなく生きている成功者」であり、「霊的勝ち組」であるかのようなイメージを演出して自己の成功を誇る空気には、全く同意できなかった。

そのため、仲間内で器用に立ち回って賞賛を浴び、他人の名誉が傷つけられても一向に平気であるにも関わらず、自分の名誉が傷つけられることだけには敏感で、それが起きないように先手を打ち、あるいは自分に歯向かう者には策謀を巡らして徹底的に報復し、自分だけは人と違って高みにいて幸福だと豪語して、他者の苦しみを高慢に見下す周りのクリスチャンたち(?)(おそらく彼らはクリスチャンとは呼べまいが)のあからさまな自慢話を聞かされる度に、筆者は首をかしげ、悩まされ、苦しめられていた。

幾度か、彼らのあまりの自画自賛のひどさに耐えきれず、それとなく間違いを指摘してみたこともあったが、しかしながら、いかなる説得によっても、彼らの強烈な思い込みを変えることは無理であった。

ついに最後には、筆者と彼らとの生き様や信仰的な立場の違いは、否定しようにも否定し得ないほどの大きな溝となり、彼らから見れば、筆者の存在自体が、彼らのままごと遊びのようなお楽しみの括弧つきの「信仰生活」に水を差すもの、彼らの虚飾の栄誉をいたく傷つけるものでしかないと感じられたのだろう。彼らは、すでに上流階級の特権的社交界クラブと化していた彼らの偽りのソサエティから、筆者を似つかわしくないメンバーとして除外したのであった。(ただ除外しただけでなく、相当な報復をも加えたのである。)

筆者は、彼らの進んでいる方向が、根本的に聖書に相違する間違ったものであることを随分前からよく分かっていたので、そのような結末に至ることを予想済みであったが、何とかその結末を食い止めて、彼らを真実な道に立ち戻らせることができないかと当時は思っていたので、その願いにも関わらず、目の前にいる生きた人間から排斥され、残念と思われる結果に至ったことに、何の痛みも感じなかったわけではない。

だが、その体験は、主にあって、筆者の人生でまことに幸いな実を結び、大きな恵みを受けることへとつながった。それからほどなくして、筆者は自分が神に出会って後、心から正しいと確信していた通りの、聖書に基づく、純粋で素朴な信仰生活に何の妨げもなく平穏に立ち戻ることができただけでなく、まがいものの交わりの代わりに、もっと親しく愛情に満ちた豊かな交わりに加えられ、人生の別な方面においても、収穫を得たのである。

その後も、色々なところで、類似した出来事が繰り返された。誤解や、非難や、対立や、排斥といった出来事は、往々にして起きて来るものであり、クリスチャンと呼ばれる人々の中では、特に、激しい戦いが常に起こるものであるが(なぜなら、真に聖書の御言葉を実践して、神に忠実に従う信者は、クリスチャンを名乗る者の中にも、極めて稀だからである)、今、思うことは、信者がそういった何かしらの尋常でない苦しみや痛みを伴う事件に遭遇し、人の誤解や、非難や、嘲笑、排斥に遭遇し、慣れ親しんだコミュニティを離れることがあったとしても、そのような出来事のせいで、傷ついたり、落胆する必要は全くないということである。

むしろ、信者が地上において、主に忠実に従うがゆえに、人からの拒絶を受ける時には、常にほどなくして、それに相応する天の栄光が待ち構えていると言って良いから、それを待ち望むくらいでちょうど良いのである。信者が主に従う過程で負った苦しみには、どんなものであれ、必ず、天での報いが伴う。

だから、信者は、人間に過ぎない者たちの言い分や、人の思惑に振り回される必要がなく、また、自分の地上生活における苦しみだけに注目して、落胆したりする必要もなく、それとセットになって天に備えられている絶大な栄光に思いを馳せ、神が地上の軽い患難と引き換えにどのような大きな喜びをもたらされるのか、それだけを心に留めて進んで行くべきなのである。

繰り返すが、信者が地上でいわれなき苦難を黙って身に背負うとき、神はその信者の態度をよく見て下さり、信者のどんな些細な苦しみに対しても、予想だにしない大きな祝福を備えて待っていて下さる。

むしろ、そのようにして、自分が地上で低められ、恥を負うことによって、十字架の死を負う態度がなければ、信者はキリストの死に同形化されることができず、キリストの死に同形化されていない者が、キリストの復活に同形化されることは決してない。

つまり、信者が主と共に十字架を負うことに同意しない限り、その者に神の復活の命の現われが見出されることもないのである。主の死を共に負わない信者が、キリストと一つであると豪語するのは、嘘であり、悪魔の罠でしかない。主の死に同形化されずに、主の復活にあずかろうとする者は、神に従うどころか、逆に悪魔と同じ高慢さに落ちて行くことになる。これは大変恐ろしい罠である。

聖書ははっきりと告げている、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)。これは世人のみならず、まさにクリスチャンを名乗る人々にも同様に当てはまる事柄である。

いのちに至るための小さな門、狭い道とは、主と共なる十字架の死のことである。主と共に、人前に蔑みや、排斥や、そしりを負い、自分で自分を高く掲げないことである。もし神の御前で高くされたいなら、その人は、まず低くされることに同意しなければならない。神と人との前に真に賞賛に値する者とされたいならば、まず、人前に低められ、誤解されたり、そしられたり、嘲られたり、のけ者にされたり、拒まれ、栄光を奪われ、無とされることに同意しなければならない。その経緯を辿って初めて、天の栄光にあずかることができるのである。

筆者がしばらくの間、生ける命の水の川々を流し出す秘訣を十分に知らずにいたのは、この絶えざる十字架の死こそ、復活の命の現われであると、まだはっきりと気づいていなかったためである。信者の信仰生活につきものである苦難を驚き怪しむどころかこれを積極的にキリストの苦しみにあずかる機会として用い、御名のゆえに、自己を余すところなく十字架の死に渡すことが、どれほど絶大な喜びへとつながるか、まだ具体的に十分には知ってはいなかったためである。
  
クリスチャンになってまで、主のための苦しみを避け、自分が人生の成功者であり、失敗や痛み苦しみとは一切無縁であるというイメージを醸し出しては、それを神の恵みと称して、人前に誇っているような人々は、ただ自分の生まれ持った肉の力を誇っているだけである。だが、人が生まれ持った人間的な手練手管によっては、誰も、神が信じる者のために備えて下さっている天の栄光にあずかることはできない。

旧約聖書に登場するヤコブは、自分の手練手管により、兄であるエサウを出し抜いて、長子の権を奪うことには成功したが、その後、彼より上手だったラバンからしたたかに利用され、つらい様々な紆余曲折を経なければならなかった。ヨセフは、父のお気に入りの息子として、他の兄弟たちにまさって親の愛を受け、自分が将来、兄たちの上に立つ支配者になることを幼い頃から予感していたが、その栄光に満ちた召しへたどり着くためには、兄弟たちに裏切られて、奴隷として売られ、家からも親の愛からも遠く引き離されねばならず、さらには使用人として仕えていた家でも、主人の妻の偽りの証言がもとになって、いわれなく投獄されたり、相当につらい体験を味わわなければならなかった。モーセも、エジプトの王子として育てられ、言葉にもわざにも力があったが、イスラエルの民をくびきから解放するという光栄な召しを果たすために、神によって指導者として立たされるまで、長い間の失意の逃亡生活を耐えなければならなかった。

待望の息子が生まれるまでに肉の力が尽きるまで待たされたアブラハムとサラは言うに及ばず、このようにして、天の栄光が信者に現れるためには、必ず、信者が地上で低められるという過程がなければならない。それによって、信者が生まれ持った肉の力が尽き、どんなに生まれつき才覚のある人間でも、もはや自分自身の力で自分を高く上げることができなくなったときに、信仰によって、神の力がその人に臨み、人間の努力や才覚によらず、ただ神の霊により、神の御言葉により、その信者を通して、神のご計画が成就し、信じる者がキリストと共に高く上げられるということが起きるのである。

筆者は、20世紀に地上の人間として生まれ、人間としての常識を持っているために、さまざまな問題が持ち上がる時、人間的な観点から、常識に従って、その解決方法を考えないわけではない。時には、専門家と呼ばれる人々に助けを求めたことがなかったわけではない。ヨセフがポテパルの妻の讒言が災いして投獄されていた時、一刻も早く釈放されたい願いから、他の囚人に助けを求めたように、人間の助言や力に頼ろうとしたこともないわけではない。だが、そういう方法では、決まって問題が解決せず、かえってこじれることの方が多いということを、筆者は思い知らされて来た。

つまり、神が信者のために供えられた苦難に対しては、神が定められた方法でしか、解決が与えられないのである。そして、その解決とは、人間の力によらず、ただ神の御言葉から来る。

人間は、自分の体に不調があれば、医者にかかれば治ると思うかも知れない。それがこの世の常識である。だが、結局、医者ができることなど限られており、人間の体を健康に戻す最大の力とは、その人の生命それ自体に備わった自然の治癒力にこそある。そして、しばしば医者の助言は、患者にとって極めて有害なものともなりうる。たとえ大手術をしても、手術が患者を救うのではなく、その手術から回復する力がなければ、むしろ、手術自体が命取りになりかねない。そして、本当に必要な手術でない手術も、病院では「治療」と称して極めて多く行われている。
 
人間が生まれ持ったアダムの命の治癒力には限界があるが、この治癒力を他のどんなものよりも効果的かつ完全に発揮できるのは、キリストの復活の命である。そこで、キリストの復活の命を持っているということは、その信者が、あらゆる問題を、主と共に、自らの力で解決することができる立場に立っていることを意味する。

同様のことは、病気だけでなく、人間が遭遇するあらゆる問題に共通する。何かしらのこじれた問題が起きれば、人は弁護士のもとを尋ねたり、裁判所に赴いたり、警察に赴いたりすれば、解決が早まると信じるかも知れない。だが、その問題を解決する力は、そのような識者や専門家にはなく、その人自身の霊的な状態と思考力、その人自身の判断力、交渉力、決断力にこそある。

だから、筆者は、今となっては、様々な問題が発生する時に、その解決を、この世のどんな「専門家」に委ねようとも思わない。そのような人々に接近して、自分の問題解決を委ねた信者たちがいることは知っているが、彼らの末路は決して明るいものではなかったとはっきり言える。

幾度も述べて来たように、医者に頼る者は、不安を煽られて、切除しなくても良い臓器まで切り取られて健康を失い、裁判に頼る者、警察に頼る者は、信仰の道から逸れて、人間のプライドを立てるためだけの終わりなき闘争に引きずり込まれて行った。

神は筆者に対して、そのような方法を決してお許しにならなかった。そこには何か目に見えない線引きがあって、他の人たちにはできることが、筆者には許されず、神ご自身がはっきりとそれ以上、その道を進んで行ってはならないと、ストップをかけられるのである。つまり、人間的な力を用いて、自分の名誉や権利を力づくで取り返そうとすることを、神は決して筆者にはお許しにならない。これは極めて厳粛な線引きである。そして、このような神の知恵と守りがなければ、信仰の道から脱落した他の信者たちと同様、筆者も誤った道に容易に足を取られていたであろう。

神は筆者に対してこのように語られる、「ある人々は、自分の名誉が傷つけられれば、徹底的に相手に報復することで、自分が潔白であると主張しようとするでしょう。そのためならば、他人に濡れ衣を着せて告発したり、有罪に追い込み、悪口を触れ回ることをも辞さないでしょう。しかし、あなたはそのような人たちが、自己を守るために引き起こしている絶え間ない争いを見て、それを美しいと思うでしょうか。そこに栄光を見るでしょうか。むしろ、その反対ではないでしょうか。

クリスチャンとは、人を罪に定めるために召された存在ではなく、神の和解と赦しを勧めるために召されたのです。人を告発し、罪に定める仕事よりも、人に罪の赦しを宣べ伝え、解放を告げる召しの方が、どれほど栄光に満ちた、名誉ある、感謝される仕事であると思いますか。どちらがあなたに栄光をもたらす仕事だと思いますか。あの不正な管理人のたとえ(ルカ16:1~13)を思い出しなさい。

だからこそ、信者には、この召しの実行のために、人前に甘んじて不義を受けるという態度が必要なのです。私があなたの義である限り、あなたの潔白はゆるぎません。誰もあなたを再び罪に定めることのできる存在はありません。しかし、私はあえて私の愛と栄光を、信じる者たちを通して地上に現したいのですよ。そのために、あなた方に、反抗する罪人たちに、終日手を差し伸べる者となって、私の耐えた苦しみを、あなた方にも共に背負ってもらいたいのです。私が神であるにも関わらず、その栄光を捨てて地上に弱い人間として生き、その中でも最大の恥辱を負って十字架にかけられることを辞さなかったように、その愛にあなた方もならって、地上で自分を低くすることで得られる天の栄誉の大きさをを共に知ってもらいたいのです。それによってしか、私の栄光をあなた方が共に得ることはできないのです。」

だから、信者は、どんな瞬間にも、自分は主と共にすでに死んでいることを思い、日々、人生に起きて来る、ごく些細な苦しみに同意して、神の御前に自分を低めることによって、ただ神だけがなしうる不思議な方法で、その些細な苦しみと引き換えに、それとは比べものにならないほどの、絶大な天の栄光が与えられるのを確認するのである。

信者にとって真のリアリティは、苦しみではなく、それと引き換えにもたらされる天の栄光である。地上的な試練は、ほんの束の間に過ぎ去るものでしかない。たとえば、車の運転をするときに、障害物だけを見つめて運転していたのでは危険であろう。また、障害物が現れたからと言って、それを迂回せず、無理やりどけてから進むという者はいないだろう。そんなやり方では1mも前進はできない。

同じように、信者の信仰生活には、様々な「試練」や「苦難」や「障害物」が現れて来るが、信者はそれを見つめず、あくまで進むべき進路だけを見つめ、道の先に待っているもの、目指している目的地だけをまっすぐに見つめるのである。それが天の都、信者が主と共にあずかるはかりしれない永遠の重い栄光である。

多くの信者たちは、障害物がリアリティだと思い込んでしまうので、そこでつまずいて前に進めなくなってしまう。自分が傷つけられ、栄誉を奪われれば、取り返さねばならないと思い、目の前に何か大きな障害が立ちはだかって、前進が妨げられているように見えるときには、その問題を解決しない限り、前に進めないと思い、主と共に解決を落ち着いて考えようともせずに、苦しみから早く逃れようと、不安を煽られて、専門家のもとを闇雲に走り回り、無用な忠告を受けて道に迷わされ、さらに問題をこじらせてしまう。人間的な力で物事を正そうとするがゆえに、御言葉を退け、十字架につまずいて、前に進めなくなってしまう。そして、もっと悪いことには、それをきっかけに、信仰から逸れて行ってしまう者も多い。

覚えておかなければならないのは、信者の人生に、主と共に信者が自分で乗り越えられないような障害物は、地上に何一つ存在しないということである。障害物を絶やすことは、信者の力ではできず、それらをすべて力づくで除去することもできない。必要なのは、障害物は進路ではなく、注意を払うべき対象でもなく、さらには現実でもないことを認識して、真にリアリティである方から目をそらさずに、まっすぐに前だけを見て進む方法を見つけることである。間違っても、障害物を除去するまでは前進できないなどと誤解してはならない。

信者が障害物を乗り越える方法は、その時々によって様々である。人間的な手練手管によって、上手に迂回することはほとんどの場合は無理である。むしろ、人間的な力や策謀によらない、実に不思議な方法によって、神はそれを乗り越える方法を信者に示して下さる。それが、御言葉が信者の人生において実際になるということである。障害物は、最初は巨大な壁のように見えても、信仰によって進んで行くうちに、いつの間にか、それは全くリアリティではないこと、すでにキリストによって打ち破られて、効力を失っており、注目に値しないことが分かる。信者に障害物だけを見させて、前進を忘れさせるのが、悪魔の目的なのである。
 
地上にどんなに障害物が多く現れても、キリスト者にとって、道がなくなることはない。道とはキリストである。この方だけが真のリアリティである。だから、信者はこの方だけを見つめ、他のものから目をそらすのである。すべてのすべてであられる方が自分と共におられ、すべての解決であられる方が、自分の内に住んで下さっていることを確信し、地上で何が起ころうと、それに心を留めず、自分の目の前に置かれた喜びだけをまっすぐに見つめて、天の栄光だけを信じてまっすぐに進むのである。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)と、主イエスが言われたように、信者が信仰によって目を注ぎ、心に思い、それがリアリティだと思って見つめるものが、現実になるのである。あなたにとっての現実とは何だろうか。病が現実なのであろうか。障害が現実なのであろうか。苦難が現実なのであろうか。はたまた、不幸な過去や、嘆かわしい生い立ちや、過去の失敗や、恥や、不完全な自分自身や、人の身勝手な思惑や、いわれなき讒言や、迫害や、傷つけられた自己の名誉やプライドが現実なのであろうか。

仮にそういうものがどれほど数多くあったとしても、神はあなたにとってそういうものを解決できないほどまでに弱々しい存在なのであろうか。あなたは一体、何を現実として選び取るのか。人の弱さや不完全さの中にこそ、神の強さと完全が生きて働くという幸いな事実を見ることができるだろうか。信者が地上において御名のゆえに負うすべての苦しみは、信者を通して、神の栄光が現されるためのほんの些細なきっかけでしかないという幸いな事実を見ることができるであろうか。
 
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


「あなたのために、私たちは一日中、

死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)
   
    


十字架の死のと復活の原則――信者のからだの命でもあるキリスト――ただキリストの復活の命によってすべての必要を満たされて生きる

ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」(使徒27:34)

「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます
」(ルカ21:12-18)


かつて巨大なエクソダスが起き、筆者が初めてキリストの十字架の死と復活に同形化されることの意味を知った時の出来事を思い返している。というのは、それとほぼよく似た体験をつい最近もしたばかりだからである。

一つ前の記事において、神から信者への御言葉による光の照らしを筆者はレントゲン写真にたとえたが、これは少しばかり不適切なたとえかも知れないと思う。なぜなら、神による照らしは、レントゲンのように有害な放射線によらず、また、我々が自分を吟味していただくお方も、あくまで神であって、目に見える誰か人間に向かって客観的に自分の状態を確認してもらうことが目的ではないからである。

以前、筆者は、獣医の誤診によってさんざん無益な狂奔をさせられた事件について書いたことがあるが、医者という存在は、どこかしら牧師にもよく似ていて、もしも自分の体のことを自分で管理できない不安を抱く患者が安易に助けを求めるならば、医師たちは、そのような患者をあたかも問題から助けてやるかのように見せかけながら、さらにその問題を悪化させ、よりひどい依存状態へとがんじがらめにして行くということが、全くないわけではない。

だから、キリスト者が頼るべきは、人間の医師ではなく、まことの医師たるキリストであって、キリスト者を生かす命は、人間による外科治療や薬による外的影響力ではなく、内側から働くキリストのまことの命なのである。キリスト者が受けるべき検査は、人体に有害な人工的な光の外側からの照射による検査ではなく、神の無害な御言葉の光の内側からの照射による検査である。
 
前回の記事で、筆者は『キリスト者の標準』を引用しながら、ウォッチマン・ニーが憔悴状態にあった時の体験に触れたが、彼には何かしらの持病があったらしく、それが悪化した際に、一度は重篤な状態に陥り、兄弟姉妹からも命を危ぶまれ、診察した医師からも、余命いくばくもないと宣告されたことがあるそうである。その体験を、筆者は別な著書で読んだ。だが、ニーはその時、息も絶え絶えの病の床で、医師から受けた死の宣告を、信仰によって拒否し、そして、実際に彼は奇跡的な回復を遂げるのだが、それからしばらく経って、たまたま読んだ新聞の死亡欄に、自分を診察した医師の名前を見つけ、神は生きておられると痛感した、というくだりがあったと記憶している。

筆者もそれにかなりの部分で同意する。筆者は、信者が医学的な治療や、薬や、検査を一切拒否すべきとまで言うつもりはないが、極力、そのようなものは受けないに越したことはないと考える。そういったものに頼って自分の健康を維持しようとすることは常に失敗に終わる。

たとえば、誰しも分かるように、薬などによって症状が抑えられるのは、ほんの一時的な間でしかない。たとえどんなに小さな傷であっても、患者の体自身に受けたダメージから根本的に治癒する力がなければ、患者が薬を飲み辞めた時点で、また症状が再発するだけなのだ。そのように外側からの影響力に頼って、人間が自分の状態をごまかそうとすることは、回復というよりも、目くらましに近い。薬のせいで、傷があるという事実が忘れられ、さらに、傷が治らないか、あるいは治る見込みが薄ければ、今度は、外科治療によって体の部位ごと切除しましょうという話になる。医師たちから見れば、それこそ「治療」である。だが、もし患者がそれに同意すれば、患者は最初に受けたダメージよりも、はるかに大きなものを永久に失わなければならなくなる。体に必要な部位を切除すれば、体に必要な器官がなくなるわけだから、その悪影響は、何年後かにまた必ず現れて来る。一つの症状は治まっても、今度は体の部位がなくなったことから来る弊害のための「治療」が必要になるのである。

だから、信者は、このような無限ループのようなごまかしに近い療法で満足するのではなく、根本的な原因は何かというところに目を向けて、目くらましの治療ではごまかせないもっと深いレベルまでで、人間ではなく、神によって根本的な治療をしていただかなければならない。人間は常に外からの影響力に頼って問題の本質をごまかし、なおかつ、人間の肉眼で見える証拠しか採用しないので、しばしば判断を間違うが、神はキリストを通して、人間を内側から生かすことのできるまことの命をお与えになっているのであって、その診断は決して間違うことなく、その命は、患者をいかなる外的影響力にも依存させずに自ら立ち直らせる力のあるものである。
 
キリスト者には、地上で様々な圧迫や苦しみが起きて来ること自体は避けられない。どんなにすべての思い煩いを神に委ねているとしても、色々な出来事に対処を求められる過程で、また特にサタンによって引き起こされる様々な問題に立ち向かう上で、極度の憔悴や、疲労困憊に追い込まれることは実際にないとは言えない。だが、信者がそのような圧迫によって起きた状態を、「取り返しのつかない現実」であると考えて、死や、損失を、避けがたいものとして受け入れるか、もしくはそれに信仰に立って徹底的に抵抗して、信仰によってその損失を拒否し、命を選び取るかどうかは、あくまで本人の選択による。

キリスト者はその生だけでなく、死によっても、神を証すべき存在であり、殉教と、サタンの攻撃や不摂生の結果として起きただけの病死や、もしくは老衰などによる死は、決して同列に論じるべき事柄ではない。アブラハムや、モーセがそうであったように、信者は老いてもますます神の命によって支えられ、輝かされるくらいでなければ普通とは言えない。病についても同じことが言える。信者の歩む道は自然の法則によるものではないのである。

だから、もし抵抗できるなら、信者は最後の瞬間まで、病や、圧迫や、死を拒んで、いのちを選び取るべきなのである。それはただ自分が苦しみたくないとか、死にたくないといった自己中心な利益を求めてなされる抵抗ではなく、もしキリストの御名のためならば、いつでも死を辞さない覚悟はあるが、それでも、キリストの死を打ち破った命が、人間をすべての圧迫から救い出すことができ、神は人に死ではなく命を与えるためにこそ人を創造されたのだと、天地の前で生きて証明するために堅く信仰に立って抵抗し続けるのである。

キリストのまことの命が信者を生かすようになると、信者の内側に未だかつてない新たな確信が生まれると共に、信者の滅びゆく肉体の幕屋にも新たなエネルギーが注がれる。

キリストの十字架の死と復活に信者があずかることは、信者の生涯で決して一度では終わらない体験であり、この原則は、信者の人生に極めてダイナミックな出来事の形を通して適用されることもあれば、そうでないもっと些細な出来事によって適用されることもある。

だが、表面的な見え方がどのように違えど、地上におけるごくごく軽い患難を通して、永遠の重い栄光にあずかることは、信者の生涯に渡る絶え間ない体験である。 文字通り、自分が地上で受けるすべての悩み苦しみについて、信者はこの原則を適用することができるのである。

ごくごく最近も似たような体験をしたばかりなので、改めて書いておくと、筆者が、2009年当時に初めてキリストの復活の新しい命が自分を生かしていることを知った時に、真っ先に感じたことは、このまことの命は、たとえ地球が七回核爆弾で滅んでも、それでも滅びないほどまでにとてつもない力を持つ命だ、ということであった。 つまり、この物質世界で起きるどんな脅威をも打ち破るほどの、何かしらのとてつもないエネルギーをもたらす新たな強力な命が、自分自身の力には全くよらずに、自分の内側に存在することを感じたのである。

次に、理解できたのは、こうして信仰によって新しく与えられた御子の復活の命が、筆者自身の脆く弱く朽ちゆくはかない有限な肉体の幕屋にも、絶えずエネルギーを送り込む主電源となっている、ということであった。

当時を思い返すと、十字架の死が霊的に適用されるまでの間に起きた様々な圧迫のせいで、筆者はかなり憔悴していた。その当時はまだ、十字架の死と復活が信者に適用される直前には、多々そのような予期せぬ圧迫が起こることを知らなかったので、多くの出来事が不意打ちのように感じられ、そのために翻弄され、悲しんだり、悩んだりしたせいで、心身が極度に憔悴していたのである。

ところが、主の死に霊的に同形化され、よみがえりにも同形化されると、キリストの復活の命が、はっきりと自分自身の中で働きを始めたのが分かり、そして、その瞬間を境に、それまで死に向かって処刑台を行進させられる囚人のように憔悴の一途を辿っていた心身が解放され、肉体は強められて健康に回復され、疲弊していた魂は新たなエネルギーを得て生き生きとし、生きた人間として自分がまるごと刷新され、活性化されたのが分かるのである。

サタンの圧迫によって苦しめられたり意気消沈していた魂はたちまち健康を取り戻し、体には食欲の増進が起き、あらゆる食べ物が極めて美味に感じられ、体がそれまでの霊的死のために通らねばならなかった疲労状態から回復するために、急速にエネルギーを回復している様子が分かった。だが、それは決して病的な傾向ではなく、真に健康であるがゆえに、食事を楽しむことができるという幸福なのである。そして、採った食べ物が、どんなストレスにも妨げられることなく、体を生かすための栄養源になるという幸福な状態なのである。

幾度も書いている通り、信者の人生には、しばしば、十字架の死と復活の原則が適用されるために、思いもかけない激しい戦いのような出来事が起きることがある。十字架の死を迎える瞬間までは、信者はまさに死のクライマックスに向かって自分が行進をさせられているかのように感じ、まるでこの世全体が自分にスクラムを組んで敵対しているのではないかとさえ感じるであろう。

しかし、それが、何ら予期せぬ出来事でもなく、思いもかけない不審な事柄でもなく、ただキリストと共なる霊的死にあずかるために、信者が避けて通れない軽い患難、小さな杯であることが分かれば、信者は、そういう事柄に心を煩わせる必要が全くないことを理解するであろう。それは、自分の信仰が試されているだけであり、その苦しみの先には、はかり知れない栄光が待ち受けていることを、まだその苦しみが終わらないうちから、大胆に確信でき、天の褒賞にあずかる喜びを楽しみにさえすることができるようになる。そして、実際に信者が御子の復活に同形化されると、かつての苦しみによって受けたすべての損失が嘘のようにそれを補って余りあるほどの回復、祝福にとって代わる幸いを見ることができる。
 
苦しみによってダメージを受けた心や体が回復されるだけでなく、さらに、失われたこの世の富も、回復されるであろう。信者に与えられた新しい神の命は、すべてを統治・支配する命であるから、信者のために必要な全てを(肉体のエネルギー源のみならず、生活の必要の全て、また信者の心の願いを)自然な形で供給することができると分かるはずである。

キリストは地上におられた時、何も財産を所有しておらず、職業を持っておらず、生計を立てるための具体的手段を持っておられなかった。それにも関わらず、神の国の宣教は、信仰によってのみ支えられたのである。こうして、今日、キリストだけでなく、信者自身も、持って生まれた権勢、自己の力で築き上げた権勢によらず、生まれつきの才覚や、後天的に獲得した優れた能力によらず、職業的な専門技術によらず、親族や知人のコネに頼らず、神への信仰を生きて働かせることだけによって、すべての必要を神に供給していただくのである。
 
キリストはご自分も肉体を持っておられ、人としての弱さを知っておられたにも関わらず、決してご自身の必要のためだけに人々に関わられたり、懇願されることはなく、むしろ、常に人々に豊かに与える側に回っておられた。そのキリストが信者の内側に住んで下さることは、キリストが地上におられた時にすべての必要をただ信仰を通して神によって供給していただいたのと同じ法則性が、信者の内に生きて働くことを意味する。

だから、 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15)という命令を実行する力と条件を信者に与えるのは、神の側の仕事なのである。信者はただ信仰を働かせ、すべての必要をイエスの御名によって父なる神にかなえていただくのであり、それを実際に可能にするのが、信者の内に住んでおられるキリストの支配する命である。

また、その命は霊であり、その中に神と信者との交わりの中心がある。そこで、信者はキリストの復活の命を知ると、それまでのように、神との交わりを求めて自分の外をさまよい、神を知るためにあれやこれやの指導者を訪ね歩く不安に満ちた生活から、ただ自分自身のうちに住んでおられるキリストへと平安のうちに関心を転換することができる。
 
どんな時にも、信者は自分は心の内側で、聖なる御座へ進み出て、誰をも介さず、神に直接、全てを願い求め、祈り、交わることができる。自分の霊の内側に祭壇があって、そこで、いつでもキリストを通して、どんな問題についても、父なる神に直接、祈り、相談し、求めることが可能になるのである。神はもはやどことも知れない遠くにおられて、自分をいつでも見捨るかも知れないような不確かなお方ではなく、たとえ目で見られず、耳で聞こえず、肌で感知できずとも、生涯の終わりまで、共にいて下さり、信じる者を力強く守って下さり、すべての必要を満たして下さる方であり、信者は、祈る時にはいつでも天に直結してその願いが聞き届けられていることを知る。

だが、このような命が信者に与えられているのは、ただ信者一人だけの満足のためではない。信者は自分自身がキリストの復活の証人として世に出て行く使命を負っているのであり、そのためにこそ、主と共に死からよみがえらされて証人として立たされているのである。

キリスト者が伝道するのは、多くの信者たちが誤解しているように、教会組織の人数や権勢を拡大するために、神を求めていない人の関心をあの手この手で引こうとすることとは断じて関係がない。キリスト者が人々に奉仕する意味も、自己変革によって神に到達するための精進などでは決してない。すでに、全ての全てであられる方を内に得ているのに、何のために自己変革などするのか。信者がもし自己変革などを目指すとすれば、それはただ地上において、軽い患難を耐え忍ぶことを通して、重い天の栄光があることをより深く知り、より深くキリストの十字架の死と復活に同形化されて、内に住んでおられるキリストと深く交わり、この方への愛を深め、御子に似せられて行くことのためだけである。だが、それは信者が何かしら偉大な人格者へと変えられることにより、世から賞賛を受けることとは何の関係もない事柄である。
 
キリスト者が世に出て行くのは、世に自分の欠乏をかなえてもらうためではなく、世の欠乏をかなえるためでもなく、むしろ、惜しみなく与えることを願うキリストの命を注ぎだすことにより、神の召しに応え、神の愛を全うするためなのである。

こうして、信者が自分自身を注ぎだすのは、まず第一に神のためであり、信者がまだ反抗的な罪人であった時に、信者のためにすべてを捨てて下さった方の愛に応えるために、自分自身も彼にならって、この方にすべてを捧げるのである。だが、それが成就した時に、実に不思議な形で、信者自身の地上的な必要も満たされ、また、多くの場合、信者をとりまく人々の必要も満たされるのを信者は知るであろう。その順序は決して逆にはならない。

もし信者が神のために一切のものを留保せずに惜しみなく捧げ切ることができれば、この地上で信者が神を証して生きるために必要なその他の一切は、すべて自然に与えられる。まるでそうしたものは、全く取るに足りない付属物に過ぎないもののように、軽やかに、ごく自然に、悩みなく与えられ、成就するのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


十字架の死と復活の原則――自分を低くする者が高くされる――ただ神のために自分を注ぎ出すことによってのみ結ばれる永遠に朽ちない実

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

すなわち非常な忍耐と、悩みと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(
コリント6:2-10)

ここ最近、キリスト者が苦難を通して得られる天の栄光があることについて、連続して記事を書いているが、上記の御言葉もそれにぴったり重なる。
 
パウロが耐え忍んだ「非常な忍耐、悩み、嘆き、鞭打ち、投獄、暴動、労役、徹夜、断食」などの話を聞くと、不信者は、そんな信仰の試練は御免こうむるとばかりに一目散に逃げて行くかも知れない。

だが、信者にとって、キリストの御名のゆえに受ける苦難は、恥でもなければ、災いでもない。パウロはこうした苦難をものともせず、別な箇所では次のようにも述べている。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
あなたのために、私たちは一日中、
死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」(ローマ8:35-36)

人類の罪のために永遠にほふられた小羊なるお方は、もちろん、キリストただお一人である。しかしながら、キリストの十字架の死と復活に信仰を通してあずかる主の弟子たちもまた、イエスと同じように「一日中、死に定められている」のである。

不信者はこういう話を聞いて、ますます疑念を深めて言うだろう、「私にはそんな信仰は理解しかねます。あなたの信仰はあまりにも偏っています。あなたの話すことを聞いていると、クリスチャンがどんなに神のために苦しまなければならないか、そんな話題ばかりではありませんか。私はそんな信仰は嫌です。御免こうむります。」

このような考えの人をあえて説得しようとは思わないが、何度も述べて来たように、キリスト者の人生にはただ苦しみしかなく、幸福は伴わないなどと勝手に誤解されては困る。

さらに、言っておかなくてはならないのは、クリスチャンが主の御名のゆえに地上で受ける苦しみは、ただ贖われた信者から成る教会のためであるばかりか、まさに以上のような不信者たちのためでもあるということだ。

なぜなら、自分が損なわれることにより、地に落ちて実を結ぶことが、初穂として贖われた者たちの役目だからである。

むろん、世は信者たちの受ける苦難が自分たちのためだとは少しも思っていない。そこで、キリスト者が受ける試練のことで、世が感謝したり理解を示すことは決してないと言えよう。

そのようなことは世に告げ知らせる必要もないことであり、世は、預言者たちを迫害して殺し、主イエスを十字架につけて殺し、主イエスの弟子たちをも迫害して命を奪った時から今に至るまで、その悪しき性質は寸分たりとも変わっていない。

だが、それにも関わらず、主イエスご自身がそうされたように、主イエスの弟子たちもまた、教会のため、自分自身のためだけではなく、神の愛のゆえに、福音に敵対し、神に反抗し続ける世人のためにも、自分自身を注ぎだし、それによって神の僕としての道を全うするのである。キリスト者が世から拒絶され、憎まれ、嘲られ、低められることによって受ける苦難を通してしか結ばれることのない実が存在し、このようにして神の国が拡大する法則は今も変わらない。

こうしてキリストの僕たちが、自分を拒絶する世の罪人らの反抗をものともせず、彼らをも救いへの道に招き入れるために福音を語り続けることができたのは、そこに人間の思惑によらない、神の無条件の愛があったためであり、彼らは自分自身の利益をはるかに超えるもっと大きなものにとらえられていたからこそ、自分たちを拒絶し、あるいは殺そうとまでする人々のために苦しみを受けることを辞さずに、神の国の権益拡大に向かって進んだのである。

だから、キリストの僕たちが地上で受ける苦しみは、ただ単に彼ら自身の信仰の成長のため、彼らが受ける天での栄光のため、あるいはすでに贖われた者たちの栄光のためだけではないのである。たとえ世が理解せずとも、彼らがそのように自分自身を注ぎだすことができたのは、神のためであると同時に、人々のためでもあり、世人のためでもあった、と言える。そして彼らの苦しみを通して教会が大きな前進を遂げて行ったのである。

さて、今回の記事では、殉教というスケールの大きな試練は脇に置いて、むしろ、それに至るまでの、もう少し小さな日常生活のスケールにおいて、信者が信仰ゆえに受ける「苦しみ」に必ず「栄光」が伴うこと、また、そのようにして、キリストの十字架の死と復活に同形化されることによってのみ、信者は多くの実を結び、「栄光から栄光へ」主の似姿に変えられて行くことができるということについて、引き続き書いていきたい。

すでに述べた通り、信者がもしも主の御名のゆえにいかなる苦しみをも試練をも受けないならば、その人の信仰は何かがおかしいと言える。だが、同時に、信者の地上生活が絶えず苦しみだけに満たされ、試練を勇気を持って耐え忍んだことへの報いとしての、天の喜びに満ちた栄光を何一つ経験しないならば、そのような信仰生活も、やはり何かがおかしいのである。

信者の正常な信仰生活においては、信者が地上で主のために受ける苦しみには、必ず報いが伴う。それは天の重い栄光の前触れとしてもたらされていることが、多くの場合、信者自身にも分かる。そして、多くの場合、実際に、試練を耐え忍んだことへの報いとして、天の父なる神から与えられる栄光を、信者は自分自身でも確認できるのである。

もちろん、信者が耐え忍んだ苦しみのゆえに、地上でどんな実が結ばれたのかは、最後まで分からないこともある。そして、「主の御名のゆえの苦しみ」と言っても、それは必ずしも、信仰に対する迫害だけでなく、信者が地上で耐え忍ぶあらゆる圧迫を含んでいる。信者は地上で受ける全ての苦しみを「御名のゆえに」甘んじて受けるのである。そして、多くの場合、信者はそのような出来事を通して働く十字架の死と復活の原則を、自分の人生で生きて実際に知ることができる。

だから、クリスチャンの生活が絶え間なく苦しみに満たされているだけで、喜びも勝利も栄光もないのだと考えることは大きな間違いである。信者は、地上で受けるあらゆる圧迫や制限、人として生まれ持った愚かさや限界にも関わらず、そこに神の偉大な力が働いて、巨大な勝利がもたらされるというパラドックスを味わうことができる。

だから、もしクリスチャンの中に、十字架の死と復活の原則が人生でどのように働くのか知らないという人があるなら、実際に自分の生活を使ってこの法則を試してみることをお勧めする。つまり、主の御名によって、信者が己を低くして、小さな苦難を信仰によって耐え忍ぶことにより、どんなに大きな栄光がもたされるのか、日々の生活のごく些細な事柄を通して、誰しも十分すぎるほどに確かめられる。

だが、これは先に述べた通り、信者がただ悪魔の虜となって苦難にいたずらに翻弄される消極的で受け身の生き方や、信者が無用な苦しみを自分から好んで招くような自虐的な生き方を意味しない。信者は現在、自分が望まずして、自分の生活に働くあらゆる制限、圧迫、束縛、予期せずして起きて来る迫害や苦難を、主のために耐え忍ぶのであり、そうした弱さが弱さで終わらず、時が来れば必ず、神がその出来事の解決となって、ご自分の栄光をそこに現して下さり、信者をも共に高く引き上げて下さることを確信して、その時を勇気と確信を持って大胆に待ち望むのである。

信者は、ただ自分が一刻も早く楽になり、不快な思いをしたくないから、また、自分の名誉が傷つけられたくないから、といった利己的な動機で、苦難が長引かないように神に願うのではない。その苦しみを通して、神に栄光が帰されることだけを願って、自分のためでなく、神の栄光のために、神の御心が地上に成るようよう願い求め、神を信じて待ち望む者が、地上で忍耐することによって、ふさわさしい時に助けを得て、神自らが信者の弁護者になって下さり、信者をあらゆる苦難から確かに力強く救い出して下さる助け主であることを天地の前で証明し、それによって、主の御名がほめたたえられることを願うのである。つまり、神が栄光を受けられる機会として、自分の苦難があることを信じるのである。ダビデが次のように詠った通りである。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく
あなたの恵みとまことのために
栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」(詩編115:1)

信者は「御名のために」地上におけるすべての苦しみを耐え、「御名のゆえに」神がその苦しみを栄光に変えて下さることを信じるのである。信者が、あらゆる苦難を信仰によって堅く勝利の確信のうちに耐え忍ぶ秘訣を学びさえすれば、苦しみは多くの場合、急速に取り去られる。たとえそうでなくとも、信者の内なる人が強められることにより、信者は地上で経験する苦しみによって圧迫されたり、心悩まされ、悲しみに打ちひしがれたりすることがなくなり、むしろ、そこに復活の命が働くことを信じて期待できるようになる。

だが、苦難を通して受ける天の栄光を逃さないためには、信者は自分が何を主の御名のゆえに耐え忍んでいるのか、人にはあまり触れ回らない方が良いであろう。「私は神のためにかれこれの巨大な苦しみを耐え忍びました。すでに殉教をも辞さない覚悟です」などと人前で言うのは、やめておいた方が良い。そのような決意表明は失敗に終わる可能性が高い。

もしどうしても信者が受けた苦難について語りたいならば、苦難をいわゆるお涙頂戴の物語に変えて多くの人々の関心を引きつける材料としたり、自己宣伝の材料として用いたりするのでなく神だけが栄光を受けられるように、聖書の神が信じる者をどんな状況においても見捨てられることのない確かなお方であることを世が知ることができるように語るべきである。
 
とはいえ、主が本当に信者の苦しみを喜びに変え、御業を成して下さる時には、人はどんなに黙っていようと思っても、黙っていられないほどの喜びに突き動かされることは確かなのだが。
 
このように、信者は大きなことから小さなことまで、神と信者とだけが知っている日常のごく隠れた様々な出来事を通して、信仰による訓練を絶え間なく重ねて行くことにより、その先に初めて殉教などの極めて大きなスケールの試練にも十分に耐えうるだけの力が養われる。つまり、信者に地上で与えられる試練は、各人の信仰の成長段階に応じて与えられるのであって、決して一足飛びのものではなく、戦いの初心者がいきなり熟練者しか勝利できないような困難な戦いに直面することは絶対にないと言える。

そして、何度も書いているように、キリスト者が地上で受けるあらゆる試練は、どんなに些細なものであっても、神の御前に覚えられており、予想だにしない大きな栄光が伴うのであり、その栄光は、信者がこの地上に実際に生きている間に、あらゆる生活場面で確認することができる。

聖書の神は、信者に与える恵みを出し惜しみされるような方ではなく、また、信者を無駄に追い詰めたり、苦しめる残酷な主人でもない。信者がこの地上に生きる間、良きものを惜しみなく与えて下さり、あらゆる祝福で満たして下さる方である。だから、信者が地上で人としての生活を送るために必要なすべてを十分に備えて下さらないことはない。

だが、だからと言って、信者は恵みが与えられるがゆえに神に従うのではなく、地上の一切の利益にも増して、神ご自身を愛するがゆえに従うことを、絶えず告白し続けるのである。そして、信者は地上で必要な一切のものを、この世の手練手管によらず、ただ信仰によって地上に引き下ろす。それによって、神こそすべてのものの造り主であり、すべての供給者であり、キリストの命の中にこそ、あらゆるものを支配し、供給する力があることを知るのである。

キリストの復活の命は、支配する命である。この命が信者の内にあることによって、信者は外見的にはこの世の有限な滅びゆく弱い存在に過ぎないが、その内側に、この世を打ち破る圧倒的な勝利の法則性を確かに有していることが分かるのである。そこで、信者自身が地上で抱える生まれ持った人間としての様々な弱さとは対極的に、彼の内にある死を打ち破った支配する命によって、外からやって来るすべての圧迫に翻弄されることなく勝利する秘訣を学ぶのである。

***

さて、次に、信者に対する神からの吟味、光による照らし、検査というテーマについても少し書いておきたい。
 
神のさばき、神の吟味というものは、レントゲン写真の撮影にもどこかしら似た、神から人間への吟味である。そして、しばしば、神は試練を通して、信じる者の心の内を吟味される。

人間は生まれつき自分を試されることや、自分自身を吟味され、検査されることを望まない。人間には光の照射によって自分の本質が明らかにされることを拒む本能があり、それはレントゲン写真を撮られるような時でさえそうだ。

たとえば、私たちは、肺や手足のレントゲン写真といった、首から下の写真ならば、健康診断でよく見慣れているであろうが、首から上のレントゲン写真を見慣れている人はどれくらいいるであろうか?

特に、頭がい骨の写真を、真正面でも横からでない別な角度から撮られたりすると、死人のように目も鼻も空洞化した自分の顔の写真を見て、一体、これが生きた自分自身を少しでも反映した写真なのだろうかと改めて驚かされる。
 
レントゲン写真はすべてグロテスクなものであるが、それは病気や歪みを早期に発見するために撮られたものだから、撮影される人間が、カメラの前でポーズを取るようにして、必死に自分のグロテスクさを取り繕ろうとするのは無駄なことである。
  
余計な肉が排除され、取り繕いが通用しないからこそ、正確な写真が撮れるのであり、仮に異常が発見されても、落胆するどころか、むしろ、不調の原因はこれだったのか、早期発見できてよかったと安堵するのである。

ところが、今日、多くの信者たちは、全くこれとは逆の道を歩んでいる。彼らは神に認められるためには、まず、神の御前に正直に取り繕わない自分自身の姿を見せなければならないのだということが、どうしても認められないのである。

彼らは、神に受け入れられるためには、相当に立派な行いが信者の側になければならないという巨大な錯誤の中にあって、いわゆる教会生活を通して、神の目に認められるための善行を必死になって積み上げている。

彼らは、いわば、神のさばきに耐えるためには、人間の側で満たさなければならない高度な要件があって、信仰の「優等生」になるための努力を毎日続けねばならないと思い込んでいるのである。

だが、このような考え方は極めて深刻な自己欺瞞の罠である。そんな彼らの努力は、まるでレントゲン写真を撮るに当たって、少しでも美しい「自分の骨の写真」を取ってもらおうと、医者に向かって懸命にせがみ、撮影された自分の写真が気に入らないと注文を付けては、あれこれとポーズを取って撮り直しを要求し、取り繕いを重ねる患者の姿にも似ている。

この種類の「患者たち」は、自分の病気や弱いところが何であるかを知るために、少しでも正確な写真を撮ってもらうことにはいささかも関心がなく、むしろ、少しでも自分の恥や弱さが暴かれないで済むように、自分を可能な限り飾り、健康に見せかけるために、どれだけ本当の自分を偽って、外面を取り繕い、裸の恥を撮影されることを免れられるかに腐心しているのである。
 
だが、神にはそういう人間の取り繕いは一切通用しない。神が人間をご覧になるまなざしは、レントゲン写真よりももっとはるかに正確で、人間の側では、小骨一本のごくごくわずかな歪みまで、どんな小さな病巣まで、隠しおおせるものはなく、どんな心の弱さであろうと、信者の過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、隠蔽できるものは何もない。神の目にすべては明らかで、裸であり、人間の取り繕いが全く功を奏さないのである。

だから、来るべき日に神のさばきの御座の前に立たされる時に向けて、信者が、常日頃から、この地上生活においても、神の御前で自分自身を探られ、申し開きを求められる場面でも、信者が神に対して自分を取り繕ったり、ごまかすことは一切通用しないし、それは有害である。

むしろ、信者がそこで果たすべき義務があるとすれば、ただ正直であることだけである。現在の自分の状態がどうあろうとも、どれほど合格基準に満たない、惨めなものに思われても、信者は神の側から行われるすべての吟味に対して、ただ自分を隠し立てなく明らかにして、正直に差し出すのである。
 
つまり、信者はレントゲン写真を撮る時に、自分を取り繕わずにあるがままの自分を撮ってもらうのを目的とするのと同じように、あるいは、ナビを設定する際に自分の現在地を偽って目的地を設定したりしないのと同じように、現在の自分にどんな弱さがあって、どんな欠点があり、どれほど過去に取り返しのつかない失敗を犯し、人生がいかなる損傷を受けているように思えようとも、自分の歩んで来た過去、現在のすべてを恥じることなく、隠し立てなく、神の光の照射に委ね、こうして自分が一切を神の御手に委ねていること、また、信者が受けた損失が何のせいであるにせよ、神がそれらの損失を豊かに補って余りある方であると信じていることを態度で表明するのである。
 
だから、信者は、人の目から見て、恥や、不完全さ、弱さ、欠陥、失敗と映る事柄についても、決して自己を飾るために、自分の過去を自力で修正しようとせず、自分自身の存在がまるごと神に委ねられており、神がすべての問題に正しい処置を施し、信者をあるべき状態へと導くことのできる唯一の方であると信頼して、この神に自分を委ねるのである。

このようにして、信者が神に明け渡すことにより、神の光によって照らされた信者の心の領域だけが、漂白された布のように罪から清められ、神の力に覆われて、新たにされて行く。信者が神に明け渡そうとしさない領域には、神の力は働かず、それどころか、それは長い間、施錠されたままの暗い地下室の倉庫のようなもので、そこにどれほど蜘蛛の巣が張り、埃が分厚い層のようにたまり、そこに蓄えられていたはずの宝がすでに錆び、朽ちていたとしても、信者がこの部屋を自分で開錠して大掃除に了承しない限り、誰もどうすることもできないのだ。

多くの信者たちは、神と人の前に自分を取り繕うために、自分の心に開かずの間を作り、そこに自分の見たくないあらゆるものを押し込んでいる。そして、そこに自分の弱さが集中して隠されていることを無意識に知っているので、それを恥じて、そのような開かずの間が自分の心の中にあること自体を自分にも隠し、外にも隠し、神にも隠しながら、自己を対外的に粉飾し、虚勢を張り続けるのである。だが、このように、信者が神の吟味に明け渡そうとしない心の暗い領域が罪の温床となって行くのである。
 
従って、信者の神への明け渡し、清め、従順は、信者が自分の行動をどれだけ律して「神の合格基準」に達するように外面的に整えたかによるのではなく、むしろ、信者が現状の自分をどれほど不完全で未熟に感じていたとしても、信者がその自分をありのままを神に探られることに同意し、自己の見たくないすべての欠点を隠そうとしたりせず、自分の全てを神によって吟味され、照らされ、明らかにされることに了承し、その痛みに耐えつつ、自らの弱さに対して神がもたらされる力強い解決に信頼して自分を委ねることができたか、その程度によると言っても良い。
  
信者がそのようにして神に自分を照らされる時に感じるごくごくわずかな痛み、ごくごくわずかな恥を耐え忍んで、自分の限界を正直に、あるがまま、恥じることも、隠すことも、取り繕うこともなく、従順に神の御手に委ね、自分の弱さの中に、神が力強く働いて下さることを信じさえするならば、信者の弱さは、たちまち神の憐れみに満ちた強さによって覆われ、信者は自分の無力や限界の中に、キリストが生き生きと働いて下さるのを知り、「もはや私ではなく、キリスト」が生きておられることを知るのである。
 
開かずの間は大掃除されて明るく清潔な小部屋になり、骨しか見えない白黒のレントゲン写真には肉や目鼻がついて生き生きとした色彩と表情が生まれ、死人がよみがえって、生きた者とされるのを見ることができるのである。

信者の生活は、片方では、地上の滅びゆく人間に過ぎない自分自身が、もう片方では、まことの生きた人であるキリストにしっかりと結ばれることにより、共に生かされているようなものである。片方は滅びゆく人間というよりも、すでに死人である。自分では何もすることはできず、まして実を結ぶ善行を行う力などない。だが、その人間の死が、信仰によって、キリストの死に結ばれているがゆえに、死んだはずの腐敗した人間が、キリストの復活にあずかって、清められ、彼の豊かな命によって生かされ、生き生きと輝いて、この両者が一人の新しい人の中で平和裏に結合・共存しているのである。

だから、信者は、自分の抱えるあらゆる弱さや限界に限らず、自分の存在そのものが、まるごとキリストと共に十字架で「すでに死んでいる」こと、それと同時に、十字架で共によみがえらされ、「神の中に隠されて生きている」ことを確信し、それゆえに、自らの死を帯びた圧倒的な弱さの中でも、大胆に神の命の強さを信じて前進して行くことができるのである。

このようにして、信者は地上で受けるあらゆる苦難を通して、絶えず神に自分を探られることに同意しつつ、より深く、より一層、自分の弱さを含めて、自分自身の全てを神に明け渡し、自分の処遇の一切を神に委ねることにより、死の中に生きて働く神の復活の力を知り、天の恵みを地上に引き下ろし、天の父なる神から栄光を受けることができるのである。

こうした法則があることを知っていたからこそ、預言者たちも、使徒たちも、みなキリストのゆえに受ける苦しみをものともせずに、喜んで苦難に甘んじることができたのである。

だから、信者の歩むべき道は、自分の力で必死に自分の外面を取り繕い、あらゆる努力を払って、信仰の「優等生」であろうとして、人目にそのように認められようと努力することとは真逆なのである。

むしろ、すべての真に「優秀な」イエスの弟子たちは、そうした自己宣伝とは無縁であり、むしろ、地上生活において、辱めや、苦難や、恥や、悪評や、そしりに耐えたのであり、決して地上の生涯において、偉大な宗教的権威者のように高められ、誉めたたえられることを目指したりはしなかった。

キリスト者の信仰の前進は、自分で自分を優秀な人間として人前に推薦したり、自分で自分を飾り、偉大にみせかけることによって、自分で自分を救おうとする努力とどこまで手を切って、自分の価値ではなく、キリストの価値だけにすべての信頼を置いて、ただキリストのみを頼りとして生きるのか、それによって決まるのである。
 
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)
 
「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に表れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さ誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじていますなぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12:9-10)
 
 
 * * *
  
さて今、思い起こされるのは、ウォッチマン•ニーの『キリスト者の標準』の次の一節である。

「一九ニ九年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。

教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまでを眺めてこう言いました。

「ねえ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみにずい分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは 今この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」

彼は私を射抜くようなまなざしで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間ーーそれは私にとって、始めての経験でしたがーー私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽くすことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。

私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。」『キリスト者の標準』、ウォッチマン・ニー著、斎藤一訳、いのちのことば社、pp.306-307 、下線は筆者による、本文では点による強調。)

ウォッチマン•ニーは今日、彼の名がつけられて残されている著書の文章を通しても理解できるように、かなり研究者肌の知性の持ち主だったようで、霊的な事柄についてこれほどまでに知的・論理的に分析を試みた信仰者は他に類を見ないように思う。

若い時分には、聖書注解者になることをも夢見ていたようだが、それも頷ける話で、知的分析、論証は彼の天与の才であり、以上の引用からも、学生時代から彼は同期に抜きん出て将来を嘱望されていた様子が伺える。

少しでも学術研究に関わったことのある人間ならば、ニーの文章が知的好奇心旺盛な人間にとってどれほど魅力的に映るかも分かるであろう。 ところが、ニーはその才能を主のために放棄し、「浪費してしまった」のである。

それは、大学の恩師にとってはさぞかし手痛い損失に見えたものと思う。もし研究者を目指していたならば、権威として大成していたのは間違いないからである。そうでなくとも、新しい発見によって社会を揺るがし、変革する人物になるだけの資質は十分に備わっていた。だからこそ、期待を裏切られた恩師は、この久方ぶりの邂逅の場面で、ニーの衰弱して落ちぶれた「惨めな姿」に痛烈な皮肉を浴びせたのである。

しかも、それだけではない。ニーは聖書注解者として名を残すことをさえも断念した。そして、彼がどんな最期を遂げたのかは知られている通りである。

一体、この人は自分に与えられた大きな才能を何に使ったのか? 神のためにとは言うが、ただ自虐的に自分を苦しめ、人生を浪費しただではないのか? という疑問も生まれて来よう。

彼がもし聖書注解を書いていれば、今の時代になっても、並ぶもののない書を残せたであろう。我々にとってもそれは興味深い内容だったに違いない。だが、それすらもしなかったのはなぜなのか。今日ニーの著書とされているもののほとんどは同時代人の速記録の書き起こしによるもので、色々な人々の思惑がつけ加わり、偽りの宗教によって書き換えられ、改ざんされ、ただで利用され、宗教的権威にしたて上げられ、ニー自身がどんな人だったのかすらも、粉飾されて分からなくなり、純粋にニーの作品と言い切れるものがどれだけあるのかも不明だ。もし自分の名を冠した著書を発行してさえいれば、そうしたことは避けられたはずである。

にも関わらず、彼がそうしなかったのは、自分のためでなく、この世の人々のためでもなく、社会の発展のためでもなく、ただ神のためにだけ自分を注ぎ出し、地上では完全に無名の、いかなる権威とも無縁の人間として生きるためであったと見られる。もし願いさえすれば、自らの得意とする分野で、様々な成功を手にする事ができたであろうが、人前に栄光を受けないために、それをあえて望まなかったのである。

学術研究の分野に身を置くことは、「先生」と呼ばれる立場に立つことと密接に結びついている。それは自分自身を学問的権威者として他人に推薦する行為である。また、その探求はどこまで行っても、神を抜きにした人間の魂による終わらない探求であり、人間の天然の知的好奇心を満たすためだけに行われる活動である。そうである以上、そのような探求は、人間の堕落した魂の働きを活性化させ、肥大化させることはあっても、純粋な霊的な活動には本質的に対立する、信仰に基づく行動ではないのではないかと筆者は推測する。

知識欲に限らず、人間の魂が持って生まれた欲というのは、情であれ、他の何であれ、どれもこれも、人間の目にどんなに美しく優れた性質のように映っても、すべて堕落に陥る可能性を持つ。それは、人間の魂そのものが罪によって腐敗・堕落しているせいである。そこで、天与の才を発揮して生きるという、人の耳にはまことに無難そうに、もっともらしく、良さそうに聞こえる言葉でも、一歩間違えば、己の欲に好きなだけ邁進して生きよという貪欲の奨励になりかねない危険が存在するのである。

ただ神だけが、人間の天然の魂の衝動から生まれて来る腐敗した活動と、純粋に霊的な活動を正しく切り分けることができる。前者はどんなに人の目に立派に、良さそうに見えても、あくまで人間の探求に過ぎない腐敗した活動であって、永遠に神に向くことがなく、永遠に残る実を結ぶこともない。

ウォッチマン・ニーはどこかの時点でそれを悟り、知的研究の分野から身を引いたのであろう。聖書注解者になることの中にさえ、神から来たのでない人間の魂の探求が紛れ込む可能性を悟り、自分はそのような方法で神に仕え、人々に仕えることはふさわしくないと理解したのであろう。彼が自分の可能性や才能を脇に置いて、これらを捨てても、御国への奉仕を優先したのは、主に仕えるためであり、神への献身のためだったのだが、同時に、それが教会に対する奉仕でもあり、人々に対する奉仕でもあったことを筆者は疑わない。

だが、もしも仮にそこで彼が身を引かず、知的研究に携わり続けた場合、この人の身の上に何が起きただろうか? 彼はおそらく学問的権威者となって、多くの弟子を従えて、立派な先生として、新調の服を着て巷を歩くことができ、自分について何一つ引け目も感じず、情けなく思うこともなく、まして若くして衰弱したからだで、よろめきながら杖をついて歩いたり、その格好のせいで、人に哀れまれたり、蔑まれたりもしなくて良かったであろう。

だが、そうして得た社会的成功と引き換えに、彼を待ち受けるものは何だったろうか? サタンの誘惑だけだったのではあるまいか? 彼はそのようにして地上で自分が栄光を受け切ってしまうことよりも、神としての栄光を自ら捨てて十字架の死にまでご自分を渡されたキリストにならって、自分も自分を高くせず、人からの栄誉ではなく神から栄誉を受けることの方を潔しとしたのである。

このようなことは、人の目から見れば、あまりにも馬鹿げた損失に過ぎないものと映るであろう。色々な才覚が与えられていたのに、それを十分に活用しないまま世を去るとは、何と愚かな無駄であろうかと人々は思うだけであろう。人は、この世において頭角を現し、ひとかどの人間として認められ、名を残すことを成功と考え、自分の才能や活動意欲を余すところなく発揮できる場を求め、なおかつ、著書や、目に見える様々な功績を手柄として残すことを願う。それが自分のためであると同時に、他者のためにもなるのだと信じて疑わない。そして、自らの名を残すことができなければ、地上に生きている意味もないと考えるのであろう。

だが、神の評価は、人の評価とは多くの場合、正反対であり、まさに裏返しである。地上で自分で自分を高くしようとする者が、神の御前に賞賛を受けることは絶対にできない。神は、世から徹底的に憎まれ、蔑まれ、退けられたキリストの苦難に、信者がどれほど自分もあずかることに同意し、キリストの死に自分を同形化したか、その度合いによって、信者が天で受ける栄光をお決めになる。

だから、信者が地上で人前に栄光を受けながら、同時に、天の神からも栄光を受けようとすることはできない相談なのである。そして、何が本当に主の御名のために信者が耐え忍んだ苦難であるのかは、ただ神だけがご存知である。
 
ニーに限らず、キリストに従う者は、地上で自らいかなる権威になることもなく、最後まで無名の知られざる信徒として、人の目にではなく、ただ神の御前にのみ覚えられ、認められることを目指して生き続けるべきであると筆者は考えている。

信者が主のために自分を低くされ、苦しみを受ける時、ニーが書いているように、栄光の御霊が力強く自分に臨む瞬間を、信者が必ずしも常に経験するわけではない。だが、たとえ主の臨在が、信者に実感を伴う形で感じられない場合にも、信者は、この地上で自分が低められることによってしか働くことのない天の法則と栄光が確かにあること、それによってしか結ばれない実が確かにあること、それはまさに神が願っておられる事柄であると、人生のあらゆる場面で知ることができる。そして、信者がそのように神の御前で低められ、無に徹することを耐え忍ぶと、神はその労苦を特別に重んじて下さり、特別な恵みによって報いて下さるのを、実際に多くの場面で見ることができるのである。

だから、信者が一時的に陥った苦しみだけを見て、落胆するには全く及ばない。ヨブがそうであったように、多くの場合、信者が主のために失った様々な富は、時が来れば、前よりも一層、豊かにされて信者の手に返される。それが死後になってしか起きないことは決してない。この地上に生きている間に、信者は、十字架の死と共に働く復活の原則を、キリストの命にある絶大な権威や力を、信者のために神が天に蓄えて下さっている無尽蔵の富や栄光の大きさを、十分に伺い知ることができる。

そのような歩みを主と共に地道に続けて行った最後の段階になって、ようやく殉教というテーマが信者の目の前に現れて来る。信者が十字架の死と復活の原則をほとんど知らないうちに、一足飛びにそのような事柄が求められることはまずない。そして、その段階になると、信者はそれまでの人生を通して、すでに神の恵み深さ、憐れみ深さ、誠実さ、愛の深さを十分に知っているので、もはや自分の内には神のために留保するものは何一つありませんと、ためらいなく応答する心の準備ができているのである。


十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く

偽りの宗教からのエクソダスが完了し、悪しき霊どもを除霊し、地獄の軍勢にもと来たところへ帰るように命じ、原点に立ち戻って、生ける水の水脈を見つける。

追いすがるファラオの追手を振り切って、その軍隊がことごとく水に沈むのを見届けて、この地にやって来た時に見えていた、新たなすがすがしい展望を取り戻す。

キリスト者が立っている土地は、悪しき軍勢に占領され、踏みにじられたために、荒廃している。この土地に、彼はキリストの復活の旗を立てて、御子の統治を宣言する。

キリスト者は、はるかに天の都を仰ぎ見つつ、前途に神が信じる者のために備えて下さった豊かな約束の地を見据える。そこで天の無尽蔵の豊かな富と、永遠の栄光がキリスト者を待ち受けている。

そう、御子の復活の命の統治は、信じる者の内ですでに始まっているのだが、信者が自分の内でそれを知ったことで、すべてが終わるのではない。キリスト者にはまだまだこれから獲得せねばならない土地がある。つまり、自分自身の内にある統治を外へ流れ出さなければならないのだ。

信じる者の足元では、荒れ果てた大地の割れ目から、澄んだ泉が湧き出すように、復活の命の統治を通して、清らかな水が流れ出ている。それはまだ少量の流れだが、いずれは大河になって、荒廃した大地全体を潤し、よみがえらせるはずだ。これは、主イエスが信じる者たちにただで受けよと言われた生ける水、疲れた人々を癒し、病んでいる人を立ち上がらせ、死んだものを生き返らせ、サタンに支配されていた人々を解放する力のある命の流れである。

御座の統治から流れ出す生ける水の川々である。

長年に渡り、深く深く井戸を掘り続けてきたキリスト者は、ようやく水脈に達したという確かな手ごたえを感じて、安堵する。飢え渇きと共に飽くことなく井戸を掘り続けて来た彼は、ようやく荷を降ろし、喜びのうちに安堵して、額を拭う。やはり、神は信じる者の呼び声に応えて下さったのだ。求め続けるうちに、天の資源にようやく達した。そうなれば、工事はあらかた終わったようなもので、あとはこの水を汲み出し、絶え間なく流れさせるための設備を整えなければならない。

さて、前回の記事では、キリスト者にとっての苦しみと栄光の不思議な関係について述べた。

キリスト者が神の御前に栄光を受けようと思えば、地上で苦しみをも受けなければならないことを書いた。この二つは密接に結びついており、苦しみがキリスト者の体を通過することによってしか得られない栄光がある。

クリスチャンは世から召し出された者たちであるが、御国の働き人であり、神の兵士でもある以上、ただ自分自身の幸福と平和と繁栄のためだけに召されたのではなく、神の国の権益を守る兵士として、神の利益のために召し出されたのである。そうである以上、キリスト者は、神の軍隊の兵士として、地獄の軍勢との激しい戦いを戦い抜いて勝利をおさめることなしに、神からの褒め言葉にあずかることは決してできない。そして、戦いはどんなものであっても、命がけであり、自分自身のためだけでなく、自分を召して下さった方の栄光のために、あらゆる障害を乗り越えてでも、勝利したいとの強い願いがないなら、むしろ、初めから臨まない方がましである。
 
だから、クリスチャンには、地上で人前に栄光を受けて、拍手喝采を浴びて、安楽に生き、自分自身だけを楽しませながら、なおかつ、神の御前にも栄光を受けようなどという生き方は成り立たないのである。むしろ、神の御前にどれだけ己を低くして地上における患難を耐え抜いたかが、来るべき日において、キリスト者が神の御前で受ける栄光の度合いを決める。

今回は苦難がもたらす栄光というテーマをさらに発展させて、「栄光から栄光へ」というテーマを語りたい。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


古い契約、それはキリスト者が去って来た世界、すでに水に沈んでいる世界であるが、それは何も律法や、ユダヤ教のことだけを指すのではない。今日、聖書に従う信仰に見せかけた偽りの宗教においては人が敬虔な信者を装うために勝手に作り出した様々な規則や掟が存在する。日曜礼拝を遵守することや、奉仕や献金を行うこともそれに含まれ、そのような定めを数多く守って、人の目に正しい行いをしていると認められることこそ、敬虔な信者のあるべき姿だと説かれる。

しかし、そのようにして、各種の規則で自分を縛り、自分自身の立派な行動を通して、人前に義を得ようとすることは、どこまで行っても終わらない偽りの霊性を得るための偽りの精進である。どれほど人が善行を積んでも、そのことによって、「私はここまで達したのだから、もう義人となった。これ以上、誰からも後ろ指をさされることなく、何も要求されることはない。もう大丈夫だ」と言える日は来ない。また、世が信者が学びや精進によって高みに到達しようとする必死の努力を認めてくれて、「あなたはここまで努力を払ったのだから、合格水準に達しました。もうこれ以上何も要求しません」と言ってくれる日も来ない。

むしろ、人が努力すればするほど、ますます深く泥沼にはまって行くかのように、要求だけが加算される。どれほど人が善行を積んでも、心に「もう大丈夫だ」という確信と平安はやって来ないばかりか、彼に対する期待と要求がさらに増し加わる。だから、そのように自分自身の善行や努力によって義を得ようとする人は、自分自身の心の消えない不安を覆い隠すために、永遠に終わらない努力を重ねているのであり、その行為は、人が義とされるために行っているというよりは、むしろ、心の内なる罪悪感を薄め、本当の自分自身の惨めな姿から目を背け、これを覆い隠すために行われる自己欺瞞であり、キリストによらない人類の偽りの贖罪行為なのである。

このような努力を人がどんなに重ねても、ちょうど巨額の負債を抱えて苦しむ人が、返済しても、返済しても、利子がますます膨らんで行くことにより負債の額が減らないように、人類がどんなに自分で自分を義としようと努力しても、罪悪感はますます膨らみ、義とされることはなく、神に到達することはない。魂のあがないしろは高価で、人は自分で自分の罪を贖うことはできないからである。

そのような人たちは、心に覆いがかかり、思いが鈍くされており、神の義が分からなくなってしまっているのである。彼らは自分では神を信じていると思っているかも知れないが、彼らの悲痛なまでの努力の根底にあるのは、神への信頼や、愛ではなく、むしろ、神に対しての虚勢、演技、取り繕いであり、なおかつ、彼らの心の根底にあるのは、「どうして神は我々に対して、こんなにも重い返済不可能な罪の負債を負わせたのだ」という憤り、恨みである。そして、彼らは「神によって不当に負わされた罪の債務証書」を帳消しにするために、それほどまでに悲痛な努力を払っているのだから、神もそれを認めざるを得ないと考えて、神ご自身を否定して、神の御心を退けて、神の御怒りから身を避けて、自分自身を守るための偽りのレンガの塔(バベルの塔)を建設し続けているのである。

だが、そのように人が己が力では到底、返しきれない罪の負債を人類に負わせたのは、神ではなく、サタンである。だから、サタンを打ち破ることによってしか、人がその負債から解放される術はない。そして、神はそれをすでに成し遂げて下さったのであり、神はキリストの十字架を通して、すでに人間の罪の債務証書を無効にする道を開いて下さっているのである。だから、人がこの「罪の債務証書」を自力で返済する必要はなく、また、そのことで神を恨みに思う必要もなく、むしろ、糾弾されるべきは悪魔であって、神はキリストを通して彼に打ち勝たれたことを確信し、それを宣言し、喜び、現実に適用するだけで良いのである。

ただ上記のような人々はそれが分からず、自分に負わされた途方もない負い目を返済し続けることにより、自分たちは神に仕えているのだと誤解しており、彼らが仕えている相手は、神ではなく、彼らをまさに罪の負債地獄に突き落とした地獄の看守たる悪魔であるということが分からないのである。

しかし、人が真にキリストご自身の方を向くならば、この救いようない古い契約でがんじがらめにされた泥沼の状態から、誰しも自由にされることができる。それだけではない、その人の内側が新たにされ、主の御姿へと変えられて行く。

しかしながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くことは、やはり、信じる者が己を低くして苦難を甘んじて受け、キリストの遜りにあずかることにしかないのである。だから、キリスト者が「いいとこどり」の人生を送ることはできない。神から喜びや恵みと平安だけを頂戴し、苦しみは一切御免だと言うことはできない。

しかし、誤解してはならないのは、信者が無駄に虐げられ、抑圧の中にとどまり、悪魔の圧迫の虜とされ続けることが、神が栄光をお受けになる手段ではないことである。むしろ、信者はそうしたすべての圧迫の中で、これに勝利する力を信仰によって得なければならないのである。

信者にとって地上の苦しみとは何なのかと問えば、それは、苦しみを通して信者に突きつけられる地上的な限界のことだとも言えよう。信者は患難を通り抜けることによって、恐れや、不安や、自分自身の限界を痛切に感じる。しばしば、自分自身の人生を照らされ、自分の誤りの多い選択を振り返り、もしかしてこれは避けることので来た苦しみではなかったかと考える。

しかし、信者は自分の抱えるあらゆる限界や愚かさにも関わらず、それに対して自分の力によってではなく、ただ信仰に立って、キリストにより、絶え間なく、この限界に「NO」を突きつけるのである。つまり、信者は、「自分にはできないが、神にはできる」という確信に立って、迫りくるすべての苦難に立ち向かい、それを乗り越えるのである。信者はこの地上で圧迫を受け、苦しめられ、追い詰められもし、そのような出来事が起きた原因がどこにあるのかさえ分からないことが多いが、絶え間なく、これらの地上の圧迫に対し、地上の限界ある人間としての自分自身に基づいてではなく、天的な人である「キリスト」によって、立ち向かい続けるのである。その時、そのパラドックスの中に、神のはかり知れない力が働く。

従って、信者が患難を通過することによって得られる天の栄光とは、信者が苦しみに翻弄され、悪魔に圧迫され続ける立場に受け身に立つことや、自虐的的で、自縄自縛の立場に身を置くことを意味せず、むしろ、それとは反対に、信仰によってそれらの圧迫を内面的に打ち破り、これに勝利する秘訣を学ぶことにある。信者の人生には、絶え間なく外側で様々な事件が起き続けるであろう、しかし、信者が苦難に勝利する力を学ぶと、それらの出来事が、信者の内面に影響を及ぼさないようになる。いかなる現象が起きようとも、どのように自分自身を脅かされようとも、信者が大胆な確信に基づいて、キリストの復活を宣べ伝えることが可能になるのである。

パウロは書いている、

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:3-5)

パウロは神の力ある使徒であったにも関わらず、兄弟姉妹と呼ばれた人々からも中傷されたり、あらぬ疑いをかけられたりもし、兄弟姉妹ではないこの世の人々からは、まして誤解され、憎まれ、迫害され、しばしばあらぬ罪を着せられて法廷にも立たされ、弁明を求められたりした。

このような迫害を使徒たちも経験したというのに、今日、キリスト者がこうした誤解や偏見や対立や苦難を全て避けて通ることができると考えるのは大きな間違いであろう。もしそのようにいかなる対立も迫害も生じないのだとしたら、その信者の信仰生活は何かがおかしいのだとはっきり言える。

しかしながら、パウロは、この世の目線に立って、人間の見地から、自分に対して下される評価や「人間による判決」をものともせず、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べた。パウロはかつては熱心なユダヤ教徒であり、教会の迫害者であり、それゆえ、クリスチャンからは回心当初は恐れられもし、疑いもかけられもしたが、そのような過去でさえ、パウロは神の御前に死んだものとして一切ないがごとくに自分の手から放し、すべてを神の御手に委ね、自分自身では全く過去に拘泥せず、それに限らず、回心後に起きたどんな事柄についても、自分で自分を振り返って犯した過ちとキリストへの従順を勘定して、自分がどの程度義人であるかをはかるようなことをしなかった。

パウロは人前に立たされて弁明を求められる時、自分自身により頼まず、ただ彼を贖い出されたキリストの御名、キリストの義と聖と贖いだけに頼って立ったのであった。それだけが自分を守る防御の盾であることを彼は知っていたからである。彼は、神がいずれ自分を裁かれることを知っているが、神の裁きをも恐れてはいない。神の裁きについて大胆に述べることができたのも、彼が人間の裁きから身を避ける口実として、神の裁きを持ち出していたからではなく、人間の裁きよりもはるかに正確で決して間違いのない、すべてをご存知である神のさばきの前に立たされる時でさえ、確信を持って進み出ることができるという自負を持っていたためである。

その確信に満ちた自負は、地上の人であるパウロ自身から生まれるものではなく、パウロを通して働かれるキリストによるものであった。全身全霊でキリストに従い通しているがゆえに、パウロは、この方が、自分自身を力強く弁護して下さり、義として下さり、神は信じる者の信頼に応えて下さるという確信がったのである。

それだけではなく、パウロは、神の裁きの前に立たされる時、自分が罪に定められることがなく、義とされるばかりか、朽ちない栄冠を受けるであろうことを確信していた。信仰者はただキリストの贖いを信じて神の目に義とされただけでは十分ではない。それだけでは、罪赦されて、ただスタートラインに立っただけのことである。それ以上に、神からの栄誉にあずかるために、地上で勝利を持って試練を通過せねばならないのである。

兵士が戦いを経ずして勲章をもらうことはできず、スポーツ選手が試合を経ないのに賞を勝ち取ることができないように、信者には、この地上において患難を忍び抜くことによってしか、得られない天の栄誉がある。苦しみや圧迫を通して、信仰が試され、すべての試練に勝利する秘訣を学び、キリストにあって、完全に「おとな」にならない限り、神の朽ちない栄冠を得ることはできないことを、パウロは知っていた。だからこそ、救われた後の地上における生涯を、彼はこの朽ちない「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」ことに費やしたのである。

つまり、天で用意されている「神の栄冠」という栄誉を得るために、信者は、この世における苦しみを通され、それを通して、キリストの十字架の死に同形化され、より深く復活の命にあずかるのである。この死を土台とした復活の命の増し加わりこそ、教会の成長の秘訣なのである。

「私たちは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくさる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)

ヤコブも同じように、試練、患難、苦しみを信仰によって忍び通すことによってのみ、信者は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者とな」ることを書いている。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いてよしと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

以上の事から、私たちは、どうすれば信者がキリストに似た者とされるのか、どうすれば、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くことができるのか、どうすれば、「キリストの身丈まで成長し、完全なおとなとなる」ことができるのか、その秘訣を学ぶことができる。

エペソ書4章11節から16節には、キリストのからだを建て上げるために、信者それぞれに与えられた賜物に従い、教会には役割分担があることが語られると同時に、そうして信者一人一人が賜物に応じて互いに仕え合うことが、信じる者たちが「キリストの満ち満ちた身丈」にまで成長し、「完全におとなになって」、もはや人間の言い伝えに過ぎない偽りの教えに騙されたり、弄ばれたりすることなく、真理のうちにとどまり、キリストに従い抜いて成長するためであることが語られている。

しかしながら、多くのプロテスタントの教会においては、エペソ書のこの箇所は、組織としての教会内の信者の役割分担を示すものと解釈して、教会に牧師制度を置く根拠とさえみなしている。だが、筆者はそのような文脈でこの聖書箇所を引用しない。筆者はそもそも教会というものを、地上の組織としては見ておらず、教会内に町内会やらPTAやら、はたまた学習塾のような、様々な固定化された役割分担を置くことにより、教会の成長を促すことができるとも考えていない。

むしろ、筆者自身の経験に立って言えば、キリストのみからだなるエクレシアの働きは、決して、地上的な組織としての役割分担や、まして教団教派や組織の枠組みにとらわれるものではなく、むしろ、そのような地上的な疑似教会組織と無関係になった時点で、初めてキリストの生きた働きが信者に見えて来るのである。神は人間が人間の意志によって立てた地上の組織のネットワークを通さず、人の思いによらず、人知を超えた不思議な方法で、互いに知らない信者たちをも時宜に応じて引き合わせ、しばしば、予期せぬ形で、塩気を失って死んだこの世の地上組織としての教会の代わりに、この世の不信者からの圧迫でさえも、エクレシアを建て上げる機会として用いられる。

これは、決して不信者が教会の一部となって、教会のために奉仕していると言うのではない。不信者はあくまで教会の外にいて、教会を建て上げる目的でその働きに関わっていないのだが、それにも関わらず、この世の不信者からの迫害や圧迫を、神は教会を建て上げる手段として用いておられるのである。

前回、ステパノの殉教の場面に触れたが、イエスの復活後、このような形でユダヤ教徒による教会への迫害が強まるまでは、弟子たちの宣教によって、神の御言葉を受け入れる人々が地上に増え広がり、神の教会に加えられる兄弟姉妹が増加していた。人の目には、あたかも、そのようにして信者数が地上で増加し、教会が地上で権勢拡大し続けることこそ、教会の「成長」を指すように見えるであろう。

ところが、神は教会の成長を、決して、そのような規模や人数や組織力によってはかられないのである。むしろ、神は、サウロによる教会への迫害、ステパノの殉教などの出来事を許されて、教会が地上で勢力を増して人間的な力の結集する場所となって、強大な組織が建設され、弟子たちが多くの信者たちを従えて宗教的権威となるよりも前に、信者たちを迫害によって散らされ、教会を離散させられたのである。

教会の成長は常にこのように、世からの激しい迫害や苦難と背中合わせで、人間の目から見た繁栄や成功とは真逆の方向性を向いており、真にキリストに従う弟子たちが、大勢の人びとから敬われ、かしずかれ、立派な教師、宗教的権威者として崇められることはない。神の望んでおられる「教会成長」は、これとは全く正反対で、地上における迫害や苦しみや誤解や偏見とは一切無縁の、地上で歓迎され、安泰な地位を築き上げることのできる強力な組織力を意味しないのである。むしろ、神から見た教会の成長とは、量や規模といった、外側から見て誰しもすぐに分かるような基準でおしはかられることはなく、より深く内面的な基準によってはかられ、量よりも質を指していると言えよう。つまり、信者があらゆる苦しみの中を通され、代価を払って、ただキリストだけに従い抜く過程で生まれて来る洗練された従順、献身、信者がキリストの死と復活に同形化されたその程度の増し加わり、神への燃えるような愛の増し加わりを意味するのである。

このようなわけで、筆者は、エクレシアが何であるのかを、信者が肉眼でとらえて理解することはできず、エクレシアというものを、人が地上の組織の中に限定・固定化することもできず、また、エクレシアをキリストにふさわしく建て上げ、成長させるために、神がどのような方法を用いられるのかを、決して人知でははかりしることができない、という考えに立っている。

神がエクレシアを成長させられる手段は、この世の人々が組織を成長させるために考え出すような手練手管とはむしろ反対なのである。この世の人々は、教会に学習塾のような役割分担を設け、専門家による教育訓練を充実させ、入塾した者たちを鍛えれば、それによって教会全体の信仰を成長させることができると思うかも知れない。だが、神は決してエクレシアの成長のためにそんなな方法を用いられることはない。

先の記事でも触れた通り、パウロが述べたのは、むしろ、教会に栄光がもたらされるのは、キリスト者が投獄されたり、迫害されたり、誤解され、排斥され、苦しみを受けるなど、人間の目には決して好ましくない、心地よくない様々な出来事を通してだということであった。そのようにして、一人のキリスト者が苦しむのは、教会全体のためであり、教会全体の利益にかなっていると、彼は述べたのである。

これはまさに人が肉眼で見て、組織を成長させ、発展させる方法とは真逆である。人間の目には、苦しみや、迫害や、組織を弱体化させるものにしか映らないであろう。このような逆説的な方法を用いて、神が教会を成長させておられるとは、信仰者でさえ、信仰によらなければ、理解することはできないであろう。

しかしながら、たとえ人知ではかることができずとも、このような形で、キリスト者が不思議な形で互いに仕え合うことによって、教会が成長して行くのである。信者たちが互いにお世辞を述べあって、互いを誉めそやし、互いに栄光を受け合い、苦しみとは無縁の、人間にとって心地よく安全な共同体を地上に確固として築き上げることで、教会が成長するのではなく、むしろ一人一人が自分の代価を払って、試練を忍び通しながら、キリストに従い抜くその過程で、初めて互いが仕え合うことが可能になるのである。そのようにして、信者一人一人が「完全におとなになってキリストの満ち満ちた身丈にまで達する」のである。

「それが、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。<…>

 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:12-16)

果たして、今日、キリスト教と呼ばれる宗教が、すっかり人間の安楽と現世利益のためだけの疑似宗教と化している中、このように主のための試練をも甘んじて受け、この世からの迫害や誤解や偏見や危難をも勇敢にくぐり抜け、様々な訓練を通して、神の御手に懲らしめられながら、それでも己を低くしてそれに耐え、苦難を忍び通して信仰を成長させ、キリストの死と復活により深く同形化され、朽ちない神の栄冠にあずかりたいと、心から願う信者は、どのくらい存在するのであろうか? 

そういう信者がどのくらいいるのかいないのか、それは筆者の知るところではないが、苦難と栄光の深い関わりについてのテーマは、この後の記事でもさらに続行して行く。


十字架の死と復活の原則―患難が生み出す栄光―後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進み、キリストが上に召して下さる神の栄冠を得るべく、目標を目指して一心に走る

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。


 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。


私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

巨大なエクソダスが完了して、不思議なほど心が平安に満たされている。

一つ前の記事で、「キリストに従うことに、そんなにも多くの代償が伴うなら、信じることに何の意味がありますか。キリストを信じたゆえに、世からの理解を失い、迫害されるなら、生きることが前より苦しくなるだけで、信じることにどんなメリットがあるのでしょうか」という不信者の問いを取り上げた。

確かにキリストに従うことには代償が伴い、多くの患難がつきものである。不信者のほとんどはそれを聞いただけで、踵を返すことであろう。ちょうどイエスのために全財産を捨てることをためらった金持ちの青年のように。

だが、キリスト者は、イエスに従うことに伴う代償だけに注目して、恐れ、失望したりはしない。なぜなら、地上における患難が、むなしい代償では終わらず、永遠の重い栄光をもたらすことを知っているからである。

今回は、キリスト者にとっての苦しみと栄光との不思議な関係について、つまり、十字架の死と復活の原則について、信じる者が代価を支払ってキリストに従うことに伴う恵みが、どれほどはかりしれないものであるかについて、少しばかり書いておきたいと思う。

さて、冒頭からまたもや突飛な展開だと言われるかも知れないが、今、筆者が思い出すのは、次の聖書箇所である。これは筆者が好んで使っている箇所なので、以前にも幾度か引用したかも知れない。

「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

彼らはその町で、福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った」(使徒14:19-22)

パウロは、かつては熱心なユダヤ教徒であったが、主イエスに出会って、十字架の贖いを知り、福音の使徒とされてから、かつては仲間であったユダヤ人や律法学者から激しく憎まれ、妬まれ、執拗に命をつけ狙われ、迫害されるようになった。

上記は、ユダヤ人たちに扇動された群衆に取り囲まれたパウロが、石打ちに遭い、あわや命を失う寸前まで追い込まれる場面である。当時の石打ちは、死罪を宣告する行為であり、つまり、ユダヤ人たちは、個人的にパウロの働きを妬んでいただけでなく、パウロがユダヤ教の教えに基づく律法による義を捨てたことを深く恨みに思っていたので、何の罪も犯してなかったパウロを、勝手に死刑にしようと狙っていたのである。

その恨みと憎しみの背後には、キリストの十字架によって人類が贖われ、罪赦されるという、律法によらない、信仰による義そのものが、決して認められない、というユダヤ人たちの思いがあった。

それは、人が自分の努力によらず、神の一方的な恵みを信じることによって、信仰によって義とされる道が開かれてしまうと、ユダヤ人たちが日々熱心に律法を守って、落ち度なく立派に行動することによって、自分で自分を善人とし、義としている一切の努力が水泡に帰するからである。そこで、ユダヤ人たちは、パウロの宣教によって、自分たちの教えそのものが危機に晒されていると感じ、自分たちの必死の涙ぐましいまでの努力が無にならないために、パウロの宣べ伝えるキリストの信仰による義を何とかして否定しようと、パウロをつけ狙い、迫害し、神が罪赦された聖徒であるパウロをあわよくば再び罪に定めて、自分たちの手で処刑して死に追いやろうと執拗に試みていたのである。

しかしながら、群衆が獣のごとき暴行に満足して、パウロはすでに死んだものと思い込んで立ち去った後、パウロはまるで何事もなかったかのように起き上がり、自分で歩いて町に入って行った。そして、その後、危篤状態に陥ることもなく、入院することもなく、翌日にはもう別の町に向かって出発し、そこで福音を宣べ伝えて多くの人々を悔い改めに導き、キリストの弟子とした。

パウロの身に起きたことは、多くの信者たちを驚かせたと同時に、勇気づけた。すなわち、パウロは、キリスト者には、地上での生涯を終えて、完全に神の国に入るまでの間に、多くの苦難が残っているが、それだからと言って、決して信者が失望する必要はなく、勇気を出しなさいと勧めたのである。なぜなら、神はキリスト者に、地上で受ける全ての患難を乗り越えるに十分な力をお与えになっているだけでなく、信者が地上で失ったものの代償として、天で栄光に満ちたはかりしれない重い褒賞を用意して下さるからである。だから、たとえ地上で予想外の事柄が起き、人々の思わぬ反対に直面し、物事が順調に行かないように思われる時にも、勇気を失うことなく、むしろ、あらゆる患難には死を打ち破ったキリストの復活の命が働くことによって、信者にはいかなる損失も生じず、天の御国に収穫がもたらされることを知って、勇気を出してしっかりとこの道にとどまり、信仰を捨てないようにと勧めたのである。

聖書の他の箇所を見ても、御霊を通してパウロの内に住んで下さったキリストは、パウロの内なる人を通して、彼の外側の限界ある肉体をも強め、人知では考えられない力を与えていたことが分かる。

キリストと共に十字架の死を経ると、その信者を生かしている命は、滅びゆくアダムの命から、死を打ち破ったキリストの復活の命へと変えられる。その復活の命は、キリスト者が地上で使命を終えるまで、信者のすべての必要を供給し、信者がこの世で受ける全ての圧迫を超えて、神から受けた召しを果たす力を与える。

贖われた人々は、自分を生かす命が、キリストの新たな命となったことを知った瞬間から、神の超自然的な命の力が自分を支えていると同時に、悪魔と地獄の全軍勢の尽きせぬ憎悪の前に、自分がキリストの復活の証人として立たされていることを知る。この人間のものではない、超自然的な、神の非受造の命のゆえに、キリスト者を巡っては、暗闇の勢力からの激しい陰謀や妨害を含む、途方もない規模の霊的対立が起きるのである。

信者が主と共に十字架の死と復活に同形化されると、信者の意志とは関係なく、信者を巡って、常識では考えられないような極めて異常で極端な出来事が起きるようになる。だが、それは信者にとっては当たり前のことで、驚くには値しない。逆に言えば、もし信者に地獄の軍勢の憎しみに直面している自覚がなく、何らの激しい対立や圧迫も起きないならば、その人が本当にキリストのものとされているかどうかは極めて怪しい、と言えよう。

さて、筆者は、偽りの宗教体系を含めて、信者が訣別すべきこの世の教えの体系からエクソダスを果たす際には、多くの圧迫や激変が起きることを書いた。そうした圧迫は、人間の目には、無用な苦しみでしかないように見えるかも知れないが、信じる者にとっては、大きな栄光の前触れである。冒頭で挙げた御言葉の通り、キリスト者が受ける苦難には、すべて後々報いが伴うのである。

人間は生まれつき試されることを喜ばないので、神の手から与えられる患難や試練を忍耐強く乗り越え、これを喜んで受けることを学ぶまでには、少しばかり時間がかかる。だが、聖書の御言葉は真実であり、キリスト者が地上で受ける苦難は、どんな種類のものであっても、すべて「軽い患難」に過ぎない一方、これを耐え忍んだ対価として与えられるのは、天での「測り知れない、重い永遠の栄光」である。

だが、不信者は言うだろう、「いや、ちょっと待って下さい。ユダヤ人に憎まれ、扇動された群衆にあらぬ罪を着せられ、石打ちになって殺されそうになることのどこが、「軽い患難」なのでしょう。しかも、パウロは生涯に渡って、ずっとそういう迫害に直面していたのでしょう。」それでも、筆者は言う、そういうものはみな軽い患難でしかないと。たとえ、信者が殉教に至り、地上の肉体の幕屋を破壊されたとしても、それもすべて軽い患難でしかないと。

重要なのは、そのような一つ一つの患難に対して、神はそれをただ耐え忍ぶのみならず、勝利を持って乗り越える力を信者にお与えになり、多くの場合、信者のこの地上での人生がまだ終わらないうちに、それに対する報いとしての天の栄光を垣間見せて下さり、それによって信者が十字架の死と復活の法則が信じる者の内に生きて力強く働いていることを知ることなのである。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という御言葉が意味するのも、同じことなのである。もしキリスト者が、地上では苦難しか味わえず、敵意や、辱めや、嘲笑や、迫害にしか遭遇することなく、その報いとして与えられる栄光や喜びは、すべて死後になってしかやって来ない、などと考えるなら、それはあまりにも大きな間違いである。信者が地上で受ける全ての苦しみは、信者が自分を低くするために与えられるものだが、日々の十字架を耐え忍んだ代価として与えられる栄光を、信者は生きているうちにも、日々見ることができる。

多くの場合、信者が地上で受ける苦しみは、神が信じる者を高く上げて下さることの前触れである。信者は、神が大きな解放の御業をなし遂げて下さろうとしている時には、ほとんど決まって、人の目から見ると苦しみとしか思われない事柄が前もって起きて来るのを理解するようになる。だが、その苦しみは栄光の前触れでしかなく、信者が心騒がせずに神を信頼してこれを受けるならば、そこに、天の法則が働いて、人の思いもかけない解放が起こり、神が願っておられる通りに天の栄光がもたらされる。

キリスト者は、この地上にありながら、内にキリストをいただいていることにより、すでに来るべき世の統治の中に入れられているのであり、天の支配下に生きているのである。そこで、死後を待たずとも、キリスト者の内には、絶えず天的法則が働いて、御言葉が実際として成就する。だから、こう書いてある。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」と。

ここで「私たちのうちに働いて」と言われているのは、患難が「私たちキリスト者の内なる人を通過することによって」、重い栄光をもたらすと述べられているのと同じである。

つまり、キリスト者にとって、患難とは、それが自分の内なる人を通過することによって、そこに天の法則が働いて、測り知れない、重い永遠の栄光がもたらすきっかけでしかないのである。その証拠の一つに、石打にされそうになったパウロが、別の町で行った宣教の際に、新たな弟子たちが起こり、天に収穫がもたされたことがある。他にも色々な収穫があったかも知れないが、要するに、パウロが受けた苦難を通して、十字架の死と復活の法則が働いて、人々の魂が神に立ち返り、御国に大きな収穫がもたらされたのである。

このことは、キリスト者が地上で苦しみを受けることによってしか生まれ得ない天の栄光が存在することを教えてくれる。だが、誤解してはならないのは、これは決して信者が自ら苦しみを求めて良いという意味でなく、人が自分で自分を苦しめることとは全く異なる。信者の意志とは関係なく、神が許されて、地上で患難が与えられ、信者がそれを己を低くして信仰によって受け止める時、天で大きな報いが伴うのである。

さて、信者の「内なる人」とは、キリストと言い換えても良いかも知れない。確か、ウォッチマン・ニーがどこかの解説に書いていたように思うが、キリストの御霊が、信者の内側に住んで下さることによって、信者の内側では、御霊と信者の霊とが分かちがたく結びついている。

これはちょうど一人の人の中に二つの人格があるようなものだが、しかしながら、それは病的な二重人格ではなく、あるいは、ローカルチャーチの教えのように、「神と人とが混ざり合う」ことでもない。キリストと信者との結合は、ただ霊においてのみの結合だからである。

信者の内側で、キリストの人格と、信者の人格は、互いに分裂して押しのけ合ったり否定し合ったりすることなく、調和の取れた形で不思議に同居している。それが、キリストの人格が、御霊を通して、信者の内に住んで下さることの意味である。だが、それは自動的に達成される調和ではなく、信者の側からの協力が必要であり、信者にはキリストの人格を無視することもできるし、拒絶し、否定することもできる。もし信者がキリストの御声に聞き従うのをやめれば、キリストの人格は信者の中で働きをやめ、その状態が続けば、御霊はやがてその信者を去るだろう。

正常な状態の信者にあっては、信者の「内なる人」が、キリストの内住によって満たされ、強められているがゆえに、信者は外側ではこの世の滅びゆく肉体を持った有限な存在に過ぎず、魂においては、地上の人としての記憶や意識を持っているが、それでも、信者の内側には「キリストの成分」とでも呼ぶべきものがあって、それが信者の「内なる人」を形成するのである。つまり、信者の「内なる人」は、信者自身の霊と、キリストの御霊との結合から成り、この二つの人格を共に指していると言っても良い。

それゆえ、信者が地上で苦しみを受け、患難が鋭い矢のように信者の内側を通過してその存在を射るとき、その苦しみは、ただ信者という一人の人間を通過するだけでなく、信者の内におられるキリストをも通過するのである。それによって、ただ地上の滅びゆく有限なる存在としての人間が苦しめられただけでは、決して起き得ない現象が起きる。つまり、信者が受けた苦しみが、天ではキリストの受けられた苦しみに加算され、それが天の権益に関わる事柄として受け止められ、そこに天の法則が働いて、栄光に満ちた収穫がもたらされるのである。

パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言った言葉の意味はそこにある。キリストが十字架で受けられた苦難は、それ自体、完全であって、人間によって補わなければならない欠点はない。だから、信者が地上で苦しみを受けることで、キリストの御業に何かをつけ加えたりするわけではない。だが、それにも関わらず、神は地上において、あえてキリスト者一人一人が、主イエスに従う過程で苦しみを受けることをお許しになる。神はそれを通して、信者一人一人を練られ、ご自分にならう者として鍛え、その心を吟味されると同時に、さらに、その苦しみを通して、信者に栄光をお与えになり、何よりも教会に栄光をもたらされる。上記の御言葉は、前後を踏まえて引用すると次のようになる。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです
私は、あなたがたのために神からゆだねられた努めに従って、教会に仕える者となりました神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:24-25)

つまり、パウロが受けたような迫害は、キリストのからだなる教会のためだというのである。パウロは教会に仕える者として患難を受け、そこに天の法則が働いて、神の国に収穫がもたらされるのだというのである。

この死と復活の法則は、ステパノの殉教にも当てはまるだろう。パウロの回心という巨大な事件は、ステパノの殉教なしには起こらなかった出来事であると考えられる。

キリストの弟子とされた後、「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」(使徒6:8)。つまり、ステパノは、イエスの力ある弟子であった。これに対し、その当時、パウロ(サウロ)はまだ青年で、キリストを知らず、熱心なユダヤ教徒として、教会を迫害する側に回っていた。サウロは個人的にステパノの石打に大いに賛成しており、群衆によるステパノ殺害の場面にも立ち会っていた。

しかし、当時は何のためらいもなく、確信を持って、ステパノを迫害する側に立っていたパウロが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って、キリストの僕に変えられる。この出来事は、直接的には、ステパノの死とは関係がないように見えるが、それでも、これは信仰者の目から見ると、ステパノが受けた患難なしには決して起き得ない収穫だったものと思われる。

ステパノが殉教した場面で、彼が群衆に向けて語った最後のメッセージの締めくくりと、群衆の反応を、ここに引用しておこう。ステパノは群衆に向かって言った、

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです
あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は大声で叫びながら耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出し、石で打ち殺した

証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。

「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(使徒7:51-60)

前の記事で引用したイザヤ書の預言の通りである。ユダヤ人たちは、福音を聞いても耳を塞ぎ、神の御言葉を携えてやって来たイエスの弟子たちを見ないために目を覆った。彼らは、自分たちは律法を守り、落ち度なく行動しているという自負のゆえに、信仰による義を認められず、福音を全くの有難迷惑として退けた。彼らは福音をただ受け入れなかっただけでなく、福音を語った神の僕にも、尽きせぬ憎しみを燃やし、迫害し、石で打ち殺すまでに至ったのである。

これは、決してユダヤ教対キリスト教などといった対立構造を示すものではなく、神の義対人類の義の霊的対決を示すものである。すなわち、ステパノが神の恵みとしての信仰による義を語って、人類が自らの力で神の義に達しようとしている必死の努力を否定したために、有史以来、常に自力で神に到達するためにバベルの塔建設に励んでいる人類が、人類の涙ぐましい努力を否定する神の福音を、人類を冒涜するものとして理解し、これを宣教することが、死罪に当たる「罪」であると考え、福音を聞かないために耳を塞いで、神の義を否定しながら、その証人である神の僕を迫害して殺したことを意味する。こうして、世は人類の存在しない「聖」や「尊厳」を守るために、常に神を冒涜し、神の御言葉を退け、神の僕をも退けるのである。

先に引用したパウロの石打ちの場面とは対照的に、ステパノはここで殉教して生涯を閉じる。しかし、これら二つの場面に共通しているのは、パウロが、ユダヤ人たちの憎しみによって内面的に全く影響を受けなかったのと同様、群衆の激しい憤りと殺意に直面したステパノも、その出来事によって全く魂を触れられなかったことである。

ステパノは群衆が福音を拒絶することや、悪意に満ちた反応を返すことを前もって完全に予測していた。彼は霊的に贖われない人々が福音に対してどういう反応を示すか、理解していたのである。だから、彼は群衆の反応に動じることもなければ、彼らの憤りの前に譲歩することもなかった。彼は憎まれることを承知で群衆の前に立ち、拒絶されることを知っていながら福音を語り、殺されることも覚悟の上で、あえて真理を宣べ伝える神の僕として、最後まで世の前に立ち続けたのである。

そして、群衆の激しい憤りに直面しても、ステパノの人格が傷一つ受けず、動揺することも、悲しみに暮れることも、怒りをかきたてられることもなく、彼の心が、群衆の反応とは一切無関係に、最後まで平静を保ち、外側の肉体の幕屋が傷つけられても、内側では全き平安のうちに、揺るぎなく真理の確信に立ち続けることができるように守ったのは、主イエスご自身であった。

このように、全世界から激しい憎しみと悪意を向けられ、ついには命さえ奪われても、それによって全く微動だにしないような、人知では説明のできない、圧倒的な内なる平安が、ステパノの全人格を覆っていた。それは、パウロも全く同様であった。

このように、神の福音は、これを信じて受け入れた人々を、世から完全に切り離し、神だけに全幅の信頼を置いて、神の僕として立たせる。使徒たちは、人に拒絶されても、誤解されても、否定されても、そのような世の反応によっては全く変わらず、揺るがされることのない、圧倒的な平安を伴う内なる満ちた確信を持っていた。それは、決して相手に見返りを求めない、神の無条件の愛から来るものであり、神の愛が、それに捕えられた人々をも、キリストと同じようにあらゆる苦しみに耐えられるよう励まし、力づけ、勇気づけるのである。

このように、人の目から見て苦難が最大になった時にも、信者がその中でなお真理の確信に立ってこれを力強く守り抜く力を与えるのは、神ご自身である。ステパノの殉教の後、回心したパウロも、やがてはキリストご自身や、多くの弟子たちにならって、殉教することになる。使徒行伝にパウロの殉教の場面は描かれていないが、彼は皇帝ネロによるキリスト教徒への大迫害の時代に、ペテロなどと共に殉教したと言われている。おそらくは、描写もはばかられるような形で非業の死を遂げたに違いないと想像するが、最後までキリストの僕として、喜びと確信に満ちて大胆に主を証しつつ、衝撃的でドラマチックな形で生涯を閉じたのであろう。
 
このような殉教の場面を、信者ならば理解することができる。人間の目にどのように見えようとも、どれほど多くの人たちが理解せずとも、もし代価を払って主イエスに従うことができるなら、それは言葉に言い尽くせない栄光だと感じるのである。もちろん、人間の努力によってはそんなことは達成できない。誰も自らの目に損失と見えることを願う者はない。だが、信者が代価を払うことに心から同意し、自分の全ての利益よりもキリストを優先することを願い、神に自分自身を完全に捧げるならば、神がふさわしい時に全ての機会を用意して下さり、何が起きても、最後まで動じず、確信に立ち続ける力を信者に与えて下さると、はっきり言うことができるのである。

だが、不信者はこのような話を聞けば、ますます疑念を深めるだろう、「私はそんな人生を送りたくありません。そんなのは狂信者の道ですよ。あなた方の神は、信じる人々にそんな重い代償を要求なさる神なのですか。苦難を与えた上に、命まで捨てて殉教までせよというのですか。一体、そんな人生のどこに「測り知れない、重い永遠の栄光」があるのですか?」

これを人に分かるように説明するのは難しく、以上のような意見の持ち主を説得するのは不可能であろう。ステパノの殉教と、パウロの回心を直接的に結びつけることができないように、どうやって信者の中で患難が栄光を生むのか、それは理屈によって説明できることではない。だが、それでも、「今の時の軽い患難」「測り知れない重い永遠の栄光」と一つに結びついている、というのは確かな御言葉だと言えるのである。地上での些細な苦しみさえそうなのだから、ましてパウロやステパノが辿った殉教がそうでなかったはずがないのである。

ダマスコ途上でパウロに現れた復活のキリストは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と名乗られた。このことは前述した通り、キリストのものとされた信者たちの内側には、キリストが住んで下さっており、その意味で、彼らはただの地上の人間ではなく、彼らは「キリストのからだ」を構成しており、それゆえ、信者たちの内面を苦しみが通過する時、それは信者の中におられるキリストの人格をも通過することを意味する。だからこそ、信者たちが受けた苦しみを、神はキリストが受けられた苦しみと同じものと考えられ、イエスは、迫害されている教会が、ご自身であると言われたのである。

ここに、教会を迫害することの恐ろしさがある。今までにも書いて来たように、神に贖われてエクレシアとされたクリスチャンを迫害することは、あれやこれやの地上の人間を苦しめることだけを意味せず、キリストの御身体だを傷つけることを意味し、文字通り、「キリストを迫害する」ことと同義だからである。パウロの場合のように、その人々がまだ福音を知らず、回心する余地が残っていれば良いが、もっと恐ろしいのは、群衆を扇動した首謀者としてのユダヤ人や律法学者や、あるいは、福音を知り、キリストの弟子を名乗りながら、神を裏切ったような人々に、果たして、悔い改めの余地があるかどうか分からず、場合によっては、アナニヤとサッピラに降りかかったような報いが及びかねないことである。

パウロは書いている、「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ1:20)

御使いたちをさえさばく権限を持っている教会は、信者を名乗りながらも信仰を捨て、御言葉を否定し、神を裏切った人々を「サタンに引き渡す」権限をも持っている。昔であれば、それは教会から信者を除名することと同義に解釈されたのであろうが、地上の教会がむしろ不信者によって占拠されている今の状況で、筆者は、これをそういう文脈では解釈しない。「サタンに引き渡す」とは、信者が御言葉を否定する者たちに向かって、その者が「神の家族でなく、兄弟姉妹でもなく、神の守りの外にいて、サタンの支配下に追いやられていることを公然と宣告する」といった意味である。もっと簡単に言えば、信者がある人たちに向かって、「この人たちは私たちと同じ神の家族には属していないよそ者であって、私たちは彼らを守りません。この先、悪魔が彼を好き勝手に翻弄して、彼らの魂を占領しても、私たちはそれに対して一切、責任を負いません」と宣言しているのと同じである。

パウロを通して教会からこういう宣告を受けた二人にどういう結末が降りかかったのかは分からない。彼らに悔い改めの余地があったのかなかったのかも分からない。しかしながら、教会が彼らを見捨てると同時に、彼らの魂が悪霊に引き渡されて、サタンの思うがままになり、その人生が尋常ならぬ破滅へと向かって行ったであろうことは予想がつく。

ステパノは自分を殺した群衆を罪には定めなかった。それは、多くの群衆は扇動されていただけであって、自分が何をしているかも理解していないことを知っていたからである。しかし、それはあくまでそれまで福音を聞いたことがなかった人々に対する神の憐れみであって、確信犯的に福音に敵対し、神の御言葉を闇に葬るために、群衆を扇動してでも、陰謀を巡らしていたような人々の中には、おそらく神の憐れみも届かない人々が含まれていたことであろう。ステパノを拒絶した群衆も、その後、どれだけの人々が悔い改めることができたのか分からない。悔い改めなければ、いずれにしても、罪の報いが降りかかるのである。

このように、クリスチャンは世の人々にとって重大な試金石であって、外見がどんなに無力に見えるありふれた地上の人間であっても、内側に、測り知れない神の力である御言葉を携えている以上、信者の存在を通して、御言葉が人々をふるい分けるのである。信者の内におられるキリストが人々をふるいわける。そのため、御言葉を宣べ伝える使者が現れる時、人々の心の内に隠されていた、人が思ってもみなかったような内面が明らかにされる。多くのパラドックスが生じ、人の目に賞賛されていたものの醜さが明るみに出され、人の目に正義と見えていたものが、むしろその逆であることが判明し、ある人々は、御言葉につまずいて、あからさまに福音の敵と化す。ここで、応答の方法を間違えると、その人の人生全体が、取り返しのつかない方向へ向かって転げ落ちて行きかねない怖さが存在する。

だが、クリスチャンはある人々を「サタンに引き渡す」ことまではしても、その人の命運に最後まで手を下すことはしない。それは神の領域だからである。そこで、暗闇の軍勢との激しい闘いの中にある時、信者は、どこまでその闘いに関与して良いかについて、その程度をも、神に教わる。

たとえば、かつては兄弟姉妹と呼ばれた信者の中から、福音を否定し、教会の迫害者となるような者たちが現れ、彼らに勧めても、説得しても、何の効果もない場合、ある時点を境に、信者は彼らを公然と「サタンに引き渡」し、その人間どもから手を引かねばならない。神に逆らう人々をいつまでも相手に語り続けることがキリスト者の使命ではないからである。

そして、「サタンに引き渡」されたその瞬間から、彼らの存在は、聖徒らの全く手の届かない領域に去る。すべてのつながりが断ち切られ、彼らに降りかかる一切の事柄の責任は、聖徒には及ばないものとなる。そうなると、聖徒らはもう二度と彼らの命運を気遣うことも、関わることもない。

最近、筆者は、そのようなことを経験したばかりである。ある出来事を通して、あたかも、神が御使いらと共にこう言われたかのようであった、「ヴィオロンさん、あなたはよくやりました。あなたはやれるところまで十分にやりました。しかし、もうこれ以上、この出来事にあなたが関与する必要はありません。ここから先は、私たちの領域です。心配することなく、私たちにすべてを任せなさい。」こうなると、この世的な観点から見れば、決着がついておらず、まだ打つ手が残っているように見える場合でも、信仰的観点から見て、信者はその出来事から手を引かねばならないのである。あとは神と御使いたちの出番となる。

信者は、天と地の前でキリストの復活を証する使命を負ってはいるが、信者の目的は、人間的な思いで人々を説得することにはなく、人間的な観点から見て、すべての人々と折り合いをつけることにもない。この世は、ちょうどソドムとゴモラの町のようなものであって、その町で、キリスト者と住人とがどんな「折り合い」や「決着」をつけることが可能だろうか。

だから、キリスト者の使命は、福音を拒絶する人々を力づくで説得することで、自分の正しさを論証することにはなく、世に向かって語りはしても、世と交渉もしないし、深入りしない。世の敵意に直面しても、世と交渉するうことで、これをやわらげようとはしない。もしも、世に向かって、信者が自己の正当性をどうしても分からせようと、あるいは、何とかして福音を受け取らせようと、御言葉に逆らう世人を説得したり、論争に熱中したりして、世に深入りして行くと、結局、信者は世人の思惑に翻弄され、信仰による義から逸れて行くことになる。

どんなに神の福音が正しいものであっても、それを受けとるかどうかはあくまで個人の自由な選択に委ねられており、御言葉を聞いても従わない人間の末路は、信者の責任の外にある。世は始まって以来、福音を拒絶し続け、神の僕を迫害し続け、キリストを十字架にかけて殺したのであり、今に至ってもその悪しき性質は寸分たりとも変わらず、これを変えることがキリスト者の使命でもない。

だから、信者は、決して世から受け入れられることを願うべきではなく、むしろ、主イエスが地上でどのような扱いを受けられたかを思い起こし、低められることの中に、十字架の死の原則が働くことを思い起こすべきなのである。ソドムとゴモラの住人と、人間的な観点から折り合いをつけたり、彼らから歓迎されたり、理解されることが可能だと思えば、とんでもない間違いに陥るであろう。むしろ、神の目から見て、有益な結果が結ばれるためには、必ず十字架の死をくぐらなければならないこと、誤解や、拒絶や、否定や、蔑みや、迫害があって初めて復活の原則が働くことを思うべきなのである。何より、人が自分を真に高くしたいならば、低くされることに甘んじねばならないのである。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)

主イエスが罪人たちの反抗を耐え忍ばれ、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのは、「ご自分の前に置かれた喜び」を見て、来るべき栄光を確信しておられたからであった。つまり、神はご自分に従う者を決して見捨てられず、辱めが辱めで終わらず、苦難が苦難で終わらず、死が死で終わらないことを、予め知っておられたからである。だから、我々聖徒たちも同じように、自分が低められ、卑しめられる時に、落胆するようなことはなく、むしろ、一つ一つの苦しみに対して、天でどんなに栄光に満ちた報いが待ち受けているかを確信しつつ、この天の褒賞をまっすぐに見つめて、喜ぶ。

信者は、キリストの新しい命が、地上で受けるどんな損失をも補って余りあるものであることを確信しており、地上で起きる苦難には目もくれず、天に備えられた栄冠が、すぐそこに見えており、すぐ手の届くところにあることを知って、それだけを見つめて喜ぶのである。

ある信徒は言った、「悪魔は本当に愚かです。悪魔は、キリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れる出来事が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて、役に立たなくなることを知っていたのです。それにも関わらず、地獄の軍勢は、抑えがたい殺意によって、キリストを十字架につけて殺害しないことがどうしてもできなかったのです。彼は自分で自分にとって最も不利になることをやってしまったわけですね。」

これは信徒が遭遇するあらゆる患難に同じように当てはまるであろう。信者たちは、至る所で、憎しみや、反目や、敵意や、辱めや、殺意にまで遭遇する。地獄の軍勢は彼らを見て歯ぎしりし、聖徒らの背中を踏みつけて、「自分たちは勝った」と誇るであろう。しかしながら、その次の瞬間、思いもかけないことが起きる。聖徒らの受けた一つ一つの苦難の中に、「十字架の死と復活」の原則が働いて、暗闇の軍勢が駆逐され、天の収穫がもたらされるのである。暗闇の勢力が占拠していた地には、復活の旗が立てられ、すべての名に勝る名を持つ方が高く掲げられて、この方が、すべてのものを足の下に踏みつけられる。サタンは彼のかかとで踏みにじられ、聖徒らもこの方と共に高く上げられて栄光にあずかり、共に喜ぶのである。

もちろん、私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)という御言葉が完全な形で成就するのは、キリストがやがて再び地上に来られる時である。だが、その時を待たずして、この地上で彼を待っている間にも、聖徒は様々な患難を通して主と共に栄光にあずかり、常に来るべき時代の栄光の前味を知ることができるのである。

この法則は、自分が低められることを拒み、ひたすら自分の正しさだけを主張して、人前に自分を義と認めさせようとしている世人や暗闇の勢力には決して理解できないものである。

今日、「人造のキリスト教」であるキリスト教界は、パウロやステパノのような弟子たちよりも、むしろ、彼らを迫害したユダヤ人や律法学者に似たものとなっている。そこにいる人々は、あらゆる努力を払って、人前に立派な善人と見られ、敬虔な信徒と認められようと、外見を飾り、熱心に奉仕に励み、自分の正しさを人前で主張することをやめられないでいる。彼らはあまりにも心頑ななので、人前に自分を折ることができず、己が罪を認めることもできず、熱心さの上にも熱心さを増し加え、ひたすら努力によって神に到達することが可能であると考えている。そして、彼らが神に至る手段だと思っている熱心な奉仕を否定する者が現れると、尽きせぬ憎悪をむき出しにし、教会から追い出し、迫害を加える。

だが、見落としてはならないのは、クリスチャンは一体、誰の目に義と認められる必要があるのか、という点である。私たちは、神の目に義と認められたいのか、それとも、神を知らない世間の目に認められたいのか、あるいは、クリスチャンの世間の目に認められたいのか、自分自身の目に正しい存在と認められたいのか。

外見的に自分を正しく見せかける能力に長けていることは、人にとって極めて不幸なことである、と筆者は思う。なぜなら、そのような能力が巧みであればあるほど、その人は十字架の死の意味が分からず、己を低くすることもできず、それゆえ、復活の命に至るチャンスが失われるからである。彼らは、自らの巧みな演技によって他者を欺くだけでなく、自分自身をも欺く。自分でイチヂクの葉で編んだ衣装、自らの手で建設した城壁に夢中になって、自分はこれほどまでに精進したのだから、すでにひとかどの人間になったはずだ、と思い込み、自分と同じように精進に励む仲間と一丸となって、人に対してだけでなく、神に対しても、自分たちを集団的に義と認めさせようと迫るのである。

だが、神はそのようにして人間の振りかざす義を退けられる。神が認められるのはキリストだけだからである。聖書にはこう書かれている、キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)


ここに、キリストが神の御前に高く上げられたのは、まさに彼がご自分を徹底的に低められ、十字架の死にまで渡されるほど、低められたためであることが分かる。だから、今日、キリストにならって己を低くすることのできない者が、天の栄光にあずかることは絶対にない、と私たちは言える。

こう考えると、自分の義を人前で捨てることができない人間ほど、哀れな存在はない、と言えるだろう。神の御前で己の義を誇って罪に定められたパリサイ人に連なるよりは、そのパリサイ人に罪人と蔑まれ、神の御前で悔い改めて義とされた取税人に連なる方が、人にとっては幸いではないだろうか。自分の中にはいかなる義もないことを認めて、自力で自己を改造して神に達しようとの努力を一切放棄して、自分自身がどうあろうと、ただ恵みとして与えられた神の義にすがることである。キリストの義こそ自分にとっての義であることを信じて、自分自身の努力によらず、これを信仰によって受けとることである、

贖われてキリストのものとされた信者は、もはや決して人の目に自分がどう映るかという基準で、自分を見たり、規定したりしてはいけない。信者がクリスチャンの世間を気にして、人前に敬虔な信者として自分の見てくれを整えようとすることは、極めて大きな誘惑であり、罠である。贖われた人々であっても、その罠に陥ることはありうる。ひとたび、信者が、神が自分をどうご覧になるかという基準でなく、人の目に、世間の目に、自分がどう映るのかという基準で、自分自身を推し量り始めると、その瞬間に、信者は蜘蛛の巣のように錯綜するこの世の人々の思惑に捕えられて自由を失い、信者に与えられた神の完全な義は曇らされ、信者は恐れの念に駆られて、聖書が教える通りに、神の福音を正確に宣べ伝えることが不可能になってしまう。

だから、信者は、バプテスマを通してすでに水に沈んだものを振り返るべきでなく、死んだものの名誉を気遣うべきではないのである。振り返ってはならないものの中に、信者の過去、信者の自己も含まれている。死体のあるところにハゲタカが集まっていたとしても、そんなものは注意に値する現象ではない。死んだ者には名誉も利益も存在しないのである。キリスト者が真に目を注ぐべきは、バプテスマを通して、水から上がった時に、天から注がれた喜び、神から受けた義認、死を経ることによって内側に生まれた、キリストに連なる新しい人、ちょうどノアが洪水を経て初めて足を踏み出した新しい大地に感動し、紅海を渡ったイスラエルの民が感嘆を込めて約束の地を仰ぎ見たように、信仰の人たちが焦がれ、待ち望んだ天の都を、つまり、キリストご自身を、どこまでも追い求めるべきなのである。信者はこの地上における生涯において、肉体の幕屋の中にあって、絶えず呻きつつ、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、軽い患難と引き換えに、天の永遠の重い栄光を得る。それを通して、世人には決して分からない不思議な方法で、御心が成就し、天の御国に収穫がもたらされ、信者自身も主と共に栄光と喜びにあずかる。それが、信者がこの地上で信仰によって患難を通過することの意味なのである。
 
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」(ピリピ1:21-22)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12-14)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています

 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのですそれゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)


地上にあるものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
 
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

今ほど、この御言葉がしっくり感じられる瞬間はないような気がする。
 
少し前の記事で、筆者は「キリスト者の新しい時代の幕開け」と書いたが、この度、大きなエクソダスがまた一つ達成された。今や聖徒らが、差別と搾取に基づく牧師制度を肯定するプロテスタントと訣別し、キリスト以外にどんなリーダーもいない、信徒一人一人が直接、キリストにつながり、御霊を通して神ご自身から御言葉を教わり、信徒がみな対等な兄弟姉妹としてエクレシアに連なる万民祭司の理念がまさに実現しようとしているのである。

2009年、既存の教会組織に疑問を持ち、真実な信仰を求めて、神だけに従うために出発する多くのキリスト者が出現していた頃、彼らが一様に見ていたのは、まさにこのような展望であった。

つまり、しみもしわもないキリストの花嫁にふさわしいまことの教会の姿を、みな一心に追い求めていたのである。

2000年以上前に、主イエスが地上に来られ、十字架の死と復活を経験され、信じる者に御霊を与えて下さった時に、万民祭司の時代はすでに始まっていた。だが、それにも関わらず、地上に広がったキリスト教界の宗教組織は、常に人間的な思惑に基づき、この世との妥協を重ね、後退を繰り返して来た。

その結果、聖書の御言葉を通して、信じる者に与えられたとてつもない特権、キリストのものとされ、神の子供とされた信者たちが持つ絶大な特権が、常に骨抜きにされ、値引きされ、曖昧にされ、過小評価され、ごまかされ、水で薄められ、掠め取られ、否定され、悪魔に奪い取られて来たのである。地上のキリスト教組織は、いつの時代も、始まるや否や、もう聖書の御言葉から逸れ、御霊の息吹のない、聖書におけるエクレシアとは似ても似つかない、死んだ組織と変わり果てていた。だが、地上の宗教組織が、世と妥協を重ねる一方、そこから出て、聖書に立ち戻ろうとする新たな信仰復興運動も、常に生まれて来たのである。

プロテスタントも、当初は信仰復興運動として始まった。この運動はその名の通り、何よりもカトリックの堕落や腐敗に対する抗議運動として登場し、既存の宗教組織に対する強い疑念のもとに、聖書に立ち返ることを目指して始まった。プロテスタントは、聖書の各国語への翻訳などの事実にも見られるように、それまでカトリックでは聖職者だけが独占していた聖書の真理についての知識を、一般大衆に解放すべく努力し、世界の隅々まで伝道を繰り広げることにより、無学で貧しい人々を含めた世界中のあらゆる人々に福音を宣べ伝えることをその使命とした。プロテスタントは、その興隆の時期が資本主義の発展に重なることにも見るように、大衆向けの大規模伝道を繰り広げ、それによって来たるべきマスメディアの発展の基礎をも築いた。

プロテスタントの中には、義憤に基づく革命的な体制転換の試みと、すでに述べたように、労働に基づく人間の自己変革の試みや、さらに、大規模に大衆に訴えかけるマーケティングの手法などといった、資本主義のみならず、その後の社会主義思想の土台ともなる発想や、現代社会における様々な大衆向けの運動の土台となる発想が山のように込められていたと言えるかも知れない。

しかしながら、そのプロテスタントも時と共に腐敗し、もともとこの運動が持っていた地上的な要素の問題が明らかになった。既存の宗教組織に対する強い抗議の精神は、カトリックなどの別宗派に向けられるだけでなく、プロテスタント内の信者たちにも向けられて、教義や解釈の違いからくる様々な相克や分裂を引き起こした。その結果、プロテスタントの中には、それぞれ異なる教義を提唱する数えきれないほどの教団教派が生まれ、さらにそれらの組織が互いに反目し合って、時には同士討ち的な争いを繰り広げ、教会同士のいがみあい、対立が常態化した。また、マスメディアを用いた一般大衆向けの大規模伝道も腐敗して行き、ペンテコステ運動の指導者のようないかがわしいにわか伝道者たちが、一獲千金のために大衆を欺いて繰り広げる偽りのミニストリーにも、存分に活躍の機会を提供することになった。

プロテスタントは、カトリックが隆盛を極めた時代に、聖職者たちだけによって独占されていた聖書の真理を一般大衆向けに解放するという点では、確かに巨大な役割を果たしたが、その解放は、不完全なものであった。プロテスタントは、カトリックのように統一された強固な聖職者のヒエラルキーを持たなかったものの、牧師制度を肯定していたことにより、神と信者との間に、キリスト以外の目に見える人間を仲介者として置き、信者が直接、神から御言葉を教わるのではなく、牧師という目に見える人間の理解や解釈のフィルターを通して、聖書の真理に接触するようにし向けたのである。

プロテスタントの信者は、特定の牧師の牧会する教会に身を置いている限り、どんなに自分自身で聖書に触れて理解しようとしても、結局、牧師の限られた理解の範疇から出ることを許されず、常に牧師という親鳥が咀嚼してかみ砕いた乳のような餌を、口づてに与えられる幼鳥の立場を抜け出せなかった。信者は教会の中で、もしも聖書について、牧師の理解と異なる主張をすれば、即、異端者として教会を追放されるしかなかった。このような牧師制度が生み出した制約は、信者一人一人の信仰の自主的な成長を妨げ、信者がキリストの身丈にまで達することを著しく妨げる要因となった。

結局、プロテスタントにおいては、聖書の真理が、カトリックの聖職者の独占状態からは解放されたものの、今度は、牧師によって独占され、信徒一人一人が、直接、キリストに結びつき、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、キリストにある成人にまで成長するという、聖書によればごく当たり前の真理が、制度的に妨げられたのである。こうして、万民祭司の理念は、謳い文句にとどまり、実現しなかった。

プロテスタントの持つこのような制度的な欠陥のゆえに、やがてプロテスタントという宗派そのものが、聖書の真理を持ち運ぶ宮というより、聖職者階級を支えるための母体と化してしまった。それと共に、プロテスタントの大規模伝道の形態も堕落して行き、それは聖書の真理を忠実に大衆に伝えるものよりも、信者を欺いてこの母体の中に閉じ込める手段と化した。

大衆への大規模伝道を繰り広げることにより、プロテスタントが、全世界の隅々にまで福音を宣べ伝えるという使命を果たした時、この宗派は、それと同時に役目を終えたのだと言えるかも知れない。今やインターネットも普及し、ごく限られた僻地や少数民族を除いて、世界のどの場所でも、非キリスト教国であっても、聖書の福音に触れることは難しくない。

こうして、全世界に福音が届けられた時、クリスチャンの信仰生活には、それまでとは異なる時代がやって来たのである。それは、今までのように、対象を選ばずに無差別的に誰にでも福音が語られる時代から、福音を聞いた者が、聞いた御言葉に従うかどうかによって、一人一人の内面が試されるという時代である。

既存のキリスト教界の組織から脱出する者たちが現れていた当時、一時、「御言葉の飢饉」という言葉がよく聞かれた。それは、フェイクと化した大衆向けの伝道ばかりが巷に溢れる中で、真実、神に従いたいと願う純粋な信者たちが、心から御言葉を宣べ伝える声がほとんど聞かれなくなったという嘆きでもある。

万人に無差別的に福音を宣べ伝える大衆向けの伝道は、全世界に福音が宣べ伝えられた時点で、使命を終えたのだと言えるのではないかと思う。大衆伝道は、福音を知らない地域にいる福音を知らない者たちを対象にしてこそ意味があるのであって、福音を何度、聞いても、真理に聞き従う気のない者たちを対象にするのでは意味がない。また、信者たちが「堅い食物」を自分で採るようになって、聖職者階級を必要としなくなることがないよう、いつまでも信者を霊的幼児にとどめおくために、この世的な舞台演出のちりばめられた各種のいかがわしい大衆向けのミニストリーに引きつけておくのでは意味がない。

こうして、すでに使命を終えたにも関わらず、依然として、続行される無差別的な大衆伝道という手法は、ただ時代遅れであるだけでなく、有害な結果を招くようになった。教会は本来、聖書の神の救いを個人的に信じて受け入れ、贖われた者のためにあるはずにも関わらず、大衆伝道の旗を掲げているうちに、いつの間にか、不信者にも門戸を開き、教会の奉仕の対象が、神から大衆へとすり替わって行ったのである。

大衆伝道の旗を降ろさないために、教会は、御言葉に従順でなく、教会にも福音にも理解を示さない、この世の不信者ら(しばしばカルト宗教の信者)にさえ、自ら歩み寄って、贖われない大衆の利益に積極的に仕えることで、彼らの心を引こうとした。そうした妥協の結果、教会には不信者も数多く入り込み、贖われた者とそうでない者との区別は消え、教会はこの世の人々に対するマーケティングのために、ますますこの世的な手段を公然と駆使するようになり、聖書から遠ざかり、ただ大衆を喜ばせるための単なる奉仕活動の場へと転落して行った。
 
こうして、プロテスタントの多くの教会からは、世に厳しく罪を指摘して悔い改めを迫るメッセージや、心飢え渇いた信者たちに真にキリストの御言葉の衝撃力を伝えるメッセージが消え、教会は、すべてのものの上に立つかしらであり、一切の権威をこえる権威であるキリストの権威と支配を自ら捨てて、堕落したこの世の支配に屈し、その結果、世の支配下で踏みしだかれて、塩気を失ってしまったのである。
 
このように聖書から離れて世の方を向き、キリストの香りを失ったプロテスタントの多くの教会に代わって、今や、聖書の真理を担う、新たな信仰復興運動が必要とされているわけだが、その形態は、どのようなものになるのか、少し考えてみたい。

当ブログでは幾度となく繰り返し引用して来たオースチン-スパークスの「私たちのいのちなるキリスト」の一部をもう一度引用したい。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。

一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。
他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。


こうしたことには三つの要素があるでしょう。

第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となること
です。

この短い引用文の中に、奇跡や、お涙頂戴の信仰の証や、名だたる宗教指導者や、ヒューマニズムに支えられる各種の救済事業などを売り物にして、大衆の心を引きつけ、牧師制度を通して、人間に栄光を帰するプロテスタントの大衆伝道のあり方が、今日の終末の時代においては、むしろ、反キリストの支配の手段とされつつある現状を見ることができる。

神に仕えることを第一とせず、聖職者階級と、この世の一般大衆(人間)に奉仕することを何より重んじ、この世の社会を発展させることを目的に、各種の支援活動を繰り広げるプロテスタントは、もはやそれ自体が「人造のキリスト教」と化して、キリストの命を失っているのであり、それ自体がフェイクと言って差し支えない体系になっているのである。そこで一般大衆に提供される「支援」は、神の救いからはほど遠い、地上的・物質的な利益に過ぎず、そこで信者たちが行う熱心な奉仕や学びも、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」であって、「キリストのまことの命の代替物」でしかない。どんなに信者が奉仕と学びを重ね、鍛錬を積んでも、キリストの真の命とは全く無関係のまま、堕落した「セルフ」は十字架の死を経ることはなく、ますます神に逆らう堕落した人間の自己と欲望が高められ、人類に栄光が帰されて終わるだけであって、そこに神の栄光につながるものは何も存在しない。

このように神への反逆の殿堂と化した「人造のキリスト教」の中から、大衆を苦難から救う救世主を騙る反キリストが登場して来るまで、もうあとほんのわずかな期間を残すばかりである。
 
これ以上、「人造のキリスト教」についての描写を続けることは無用であろう。それよりも、今回の記事では、「そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだ」し、「真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求」が生まれるという、後半部分に主眼を置いており、ここにこそ、限りない希望を見いだしている。腐敗した偽りの体系からはエクソダスして、真実、神ご自身を求める信仰者の群れが出現するのである。

信者の人生には、決定的に重要な霊的「エクソダス」の瞬間が幾度かある。それは信者が偽りと知らずに接触して来たこの世の体系からの分離の瞬間である。その「エクソダス」の中には、偽りの宗教体系からの脱出も含まれる。

信者は、キリストと共なる十字架の死を通して、この世に対して死ぬことを知った後も、世と深くつながっている堕落した偽りの体系に知らずに接触することがあり、そのような場合には、真にキリストだけに従いたいなら、偽りと気づいた瞬間に、そこから自らを分離せねばならない。この分離は、信者が神に逆らう全ての思想から自分自身を分離することを意味し、必ずしも物理的・地理的な脱出を伴うものではない。

筆者のこれまでの経験からも言えるのは、信者の「エクソダス」の瞬間には、嵐のような多くの激変や圧迫が観察されることである。偽りの体系は自らの奴隷を一人でも逃がすまいと追っ手を遣わし、信者の人生には、しばしば、未だかつて起きなかったような圧迫がもたらされる。だが、モーセが民を率いてエジプトを脱出する際に、どれほどの苦労を払わねばならなかったかを考えれば、それは全く不思議な現象ではなく、さらに、それは信者が心を騒がせるに値する事件でもない。信者を引き戻そうとする全ての圧迫にも関わらず、御言葉の真実のゆえに、信者を「マトリックス」につないでいたへその緒は全て断ち切られ、ファラオの軍隊は水に沈み、エクソダスは完了するのである。

さて、2009年当時は、日本各地に、代償を伴う厳しいエクソダスの過程を経て、キリストに贖われた信者たちが、まるで若々しい新芽のように、あちらこちらに出現していた。その後、激しい暴風雨と、生い茂るいばらとあざみと、荒らし回る獰猛な野獣の中で、この新芽が消え去ったのか、それとも、やがて来るべき豊かな実りに備えて、地中深く根を下ろしながら、時を待っているのか、今はまだはっきりとは分からない。だが、いずれにしても、筆者は思うのである、もし信者が一度、神のために自分の生涯を残らず捧げる決意をしたならば、その召しは決して変わることはなく、たとえ自分の召しが分からなくなったように思える時でも、その約束は、神が覚えて下さり、その使命を果たすために必要な条件を神ご自身が整えて下さるだろうと。

「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」」(イザヤ6:8)

すでに書いたように、キリストのものとして贖われ、救いの確信があるからと言って、その信者には、常に神が分かるわけではない。神は遠くにおられるように感じられることもあれば、沈黙しておられることもある。黙示録を書いたヨハネも、パトモス島にあって、絶えず啓示を受け続けていたわけではない。偉大な霊的啓示が絶えずひっきりなしに信者の人生に注がれると思うなら、それは間違いであり、多くの沈黙の時、待ち望みの時、忍耐の時がある。啓示によって明白に示された真理さえ、自分の内に失われたかのように感じられる時がある。そして、信者が神を知ることができるのは、ただ霊の内だけであり、それはしばしばかすかな御声であり、信者の肉的な思いがこれをかき消してしまう。信者の人間的な感覚は神から絶えず離れており、神を知るのには役立たない。

だが、それにも関わらず、主に贖われた者が、神から引き離されることはなく、主を知る知識を切に求め続ける信者の純粋な探求と、神がどこにおられるのか分からないと言って、自己の外に神を探し求める人々の探求には決定的な違いがあると言えるのである。

それは、我々、聖徒らの心の内深くに、神に対する尽きることのない愛が、絶えず存在していることからも言える。見たこともない方をどうして信じ、愛し、崇めることができるのか、それは人には説明できない事柄である。我々は、肉眼で見るようにキリストの姿を見たり、耳でその声を聞いたり、この手で触れたりするわけではない。だが、それにも関わらず、キリストに思いを向ける時、この方が確かに生きておられ、我々の救い主であり、力強い助け主であり、世の終わりまで共にいて下さり、決して我々を見放されることはないということが、自然な水の流れのように、信仰告白として口をついて出て来るのである。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

我々は、主を見ていないが、心から愛しており、再び地上に来られる姿を見ていないが、戻って来られることを信じており、主を待ち望むという召しに、心から光栄と喜びを感じている。

私たちは、自分の外に神を求めて探し回る必要はない。キリストは、信仰を通して、信じる者の内側に住んで下さり、御霊を通して、ご自身を現して下さるからである。そして、この方が信じる者に提供して下さっている完全な義、完全な贖い、完全な聖は、信仰を通じて確かに私たちのものであり、そして、やがて来るべき世で、神が私たちのために備えて下さっているはかり知れない相続財産のことをも、私たちは知っている。それらのはかり知れない恵みと、絶大な特権のゆえに、ただおそれかしこみつつ、喜びを持って、私たちは主を褒めたたえることをせずにいられないのである。

この尽きせぬ喜びと、賛美と、神に栄光を帰することが、私たちが確かに贖われた者であることを教えてくれる。神は我々にとって真にリアリティなるお方であり、まるで雛鳥が親鳥を見分けて鳴き、狐が自分の巣に帰るように、私たちは、喜びに満ちた確信を持って、この方こそ我々の創造主であると告白し、自分がこの方に確かに結ばれており、キリストのものとされていることを大胆に告白することができる。私たちは、すでにすべてのことを知ったなどとは言わない。キリストを十分に知ったとも言わない。ただキリストを知る知識をますます深く追い求めてはいるが、それでも、「神はどこにおられるのか」と言って、自分の外に神を探し求めたりはしないのである。

パウロは言った、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:7-9)

信者にとっては、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、キリストを知る以前に持っていた全てのものは無価値となってしまう。キリスト以外の一切のものが「損」になるだけでなく、「無」にすらなる。これは、信者がキリスト以外のいっさいのものを「無だと感じている」とか、「無とみなそうとしている」ことを意味するのではなく、実際に「無になる(=無効化される、影響力を全く持たなくなる)」ことを意味する。

パウロは贖われる前に、人間的な観点から見れば、他の誰にもまして、誇るべきものを持っていた。生まれも、育ちも申し分なく、優れた業績や、落ち度のない立派な行いを誇ることができた。しかし、そのような「キリストを知る以前の自分自身」は、キリストと共に十字架につけられた時、一切合切、無いものとして墓の向こうへ追いやられたのである。

エクソダスの瞬間を超えたことがある信者ならば、きっと分かるであろうが、このようなことは、人が自分自身の力で達成できることではない。キリストと共なる十字架の死が適用されるまで、信者はあくまでこの世の人間であり、自分の生まれや、育ちや、知識や、経験や、能力や、業績や、世間からの評価や、地上的なつながりといった、ありとあらゆるこの世的な要素を引きずって、それらにより頼み、それらを心に留めて、そうした地上的な要素こそ、自分自身を形成するのだと思って生きている。それは、あまりにも深く慣れ親しんだ世界なので、それ以外の世界があり得るとは想像もできず、また、そこから自分自身の意志で脱出・分離するなど、到底、無理な相談である。

だが、信者に御言葉への信仰に基づいてキリスト共なる十字架における死が適用されると、それが実際となって成就した瞬間から、信者は、そのような地上的な要素が、自分に対して死んでいることを理解するのである。自分自身で何かを捨てようと努力するのではなく、かつて自分を構成していたこの世の要素が全て水に沈み、すでに完全に手の届かないところに去って、自分の思いや感情に触れなくなるのが分かるのである。

だから、信者がこの世においてかつてはあれほど大事にしていた地位、名誉、評判、業績、信者がこの世の人として持っていた過去の記憶や、この世の人々からの意見や評価や賛同などが、どんなものであれ、完全に「墓の向こう」へ行ってしまい、気にすべき事柄でなくなり、それがたとえ自分に関することであっても、信者の関心の対象でなくなり、聞かされても、思いに触れず、まるで他人事のように感じられるのである。

ちょうど死んで墓に入ってしまった故人が、自分についてこの世の人々の間でどんな会話が交わされていようと、一切、それを感じることも、注意を払うこともできないように、キリストと共に死んで神の内に隠されているキリスト者には、かつて自分自身であったものも含めて、この世の事象が触れることができなくなるのである。

そして、かつての地上的な出自に代わって、今度は、キリストにある者としての天的な出自が、信者にリアリティとして迫って来る。「もはや、私ではなくキリスト」となるのである。むろん、信者がキリストに変身するのではなく、信者の内に住んで下さっているキリストを、信者自身が見るわけでもない。それでも、信者の心の中に、もはや「私」はなく、キリストが住んで下さり、生きておられることを信じることができるのである。

信者は、たとえ復活の命の何たるかがまだよく分かっていなかったとしても、キリストの死を通して、自分に対する神の贖いが永遠に達成されており、自分がキリストのものとされていることが分かる。信者にはもはや「足りない」ということがなく、「取り返しがつかない」こともない。キリストにあって、信者はすべてに満たされている。だから、感謝を持って心に言うことができる。

主よ、あなたのためならば、私には何も惜しくはありません。
あなたのために、私が留保しているものはもう何もありません。
主よ、私の若い頃からの約束を覚えて、心に留めて下さい。
私は生涯、あなたのためだけに、捧げられた供え物であり、
もはや自分自身のために生きておりません。
あなたの栄光のために、私をお使い下さい。
私自身と、私の生涯は、残らずあなたのためにあり、
私は、あなたのものなのです。

信者は、命を投げ出して自分を贖って下さったキリストへの心からの応答として、愛を持って自分を捧げることができる。主と共なる十字架において自分に死んでしまえば、もはや留保しているものはなくなり、自分の生涯そのものを神への捧げものとして惜しむことなく差し出すことができる。

だが、それは決して人間的な思いに基づく情緒的な魂の愛の結びつきではないのである。その決意は、代償を伴うものであり、生涯に渡る御言葉への従順を通してしか達成できない。

イザヤ書では、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と応答した預言者に衝撃的な言葉が告げられる。神の言葉を携えて世に出て行く預言者が、高貴な存在として、大衆に歓呼して受け入れられることはない。大衆が預言者の言葉を聞いて悔い改め、素直に神に立ち返ることで、大きな喜びと収穫がもたらされるとは、神は言われなかった。むしろ、逆の事柄が告げられたのである。

「行って、この民に言え。
聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:9-10)

これは旧約の時代も、新約の時代も変わらず同じである。神の言葉を託されて世のもとへ遣わされた預言者を、世は受け入れない。神の独り子として世の罪を贖うために遣わされた尊い小羊を、世は拒み、十字架につけて殺したように、イエスの弟子たちをも拒み、迫害した。世は何度、福音を聞かされても、己が罪から目を背けるために、これを拒み、イエスの復活の証人たちを憎み、排斥したのである。そうしたことが、今日になったからと言って、変わることは決してない。

だから、世人に福音を告げるというのは、すべてのキリスト者にとって命がけの召しであり、何らその個人にとって感覚的に喜ばしい、栄誉をもたらす光栄な使命ではない。この事実を見るにつけても、キリスト者の道は、大規模大衆伝道を通して、大衆と一体化して、この世の人々と手を携えて歩むことには決してないと分かる。

キリスト者は、復活の証人として、イエスの復活を、また、自分自身も信仰を通してイエスと共に死と復活にあずかっていることを、大胆に世に向かって語り続ける。しかし、世はそれを信じず、受け入れもしない。

だから、キリスト者は、世へ理解を求めず、絶えず神に向かって行く。世が神の言葉を受け入れない分、なおさらのこと、ただ一心に神に向かって行くのである。神は、贖われたキリスト者を、二度と世の友、世の奴隷として遣わされることなく、むしろ、ご自分の器として民の間から聖別して取り分けられる。キリスト者と世との間には、十字架が、永遠に交わることのない隔たりとして立てられている。

このようなことを聞くと、世人は言うであろう、「一体、それは、何のための救い、何のための贖いなのでしょうか。キリストを信じたがために、世から拒まれ、理解されなくなり、迫害されるのでは、信じた後では、信じる前より、生きることがより一層、苦しくなるだけで、どこに信じることのメリットがあるんですか。その上、過去に積み上げ来た業績も無になるのでは、神のためにすべてを捨てたキリスト者には、一体、何が残るのでしょうか。そんな人生に、どんな満足があるのでしょうか。」

世人にどんなに分からなくとも、キリスト者には何も残らないのではなく、「私」ではなく「キリスト」が残るのである。そして、それこそが、キリスト者にとってのはかり知れない満足である。なぜなら、この方にこそすべてが満ちているからである。キリスト者は、もはや自分自身の満足のために生きておらず、神の満足のために、神の栄光のために召し出された者であり、主と共に十字架の死によって、すでに水の中に沈み、分離したものを取り返したいとは願わないのである。

神の御心は、やがて万物がすべてキリストに服すること、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10-11)ことにこそある。

クリスチャンはすべてのものがキリストに服する来るべき世に向けて、「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われた」(黙示14:4)者たちである。ここに「人々の中から」贖われたと書いてあり、「人々と共に」ではないことに注意したい。キリスト者は、世に対して死んだ者として、世人とは一線を画し、ただ神と小羊のためだけに、世から取り分けられて、召し出された人々である。だから、クリスチャンは福音を世に向かって語ることはしても、決して世と同化して、世人の利益に仕える僕とはならない。贖われた者はどこまでもただキリストの僕であって、もはや自分自身のものでさえないのである。

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

<…>あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:8-12)

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
なたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです


私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:1-4)

 


全信者をプロレタリア化してこの世の堕落したバビロン体系に仕える奴隷とするプロテスタントの誤った理念から、愛する御子キリストの支配の中へのエクソダス

さて、一つ前の記事では、「信者は世俗生活において労働を通じて社会貢献を果たし、自らの天職をまっとうすることで、神に奉仕でき、キリスト者としての召しを全うできる」というプロテスタント独特の考えが誤っていることを書いた。
 
プロテスタントにおける以上のような(天職としての)「労働」という概念は、社会への貢献や奉仕という、表向きの輝かしい名目とは裏腹に、その実、信者の奉仕の対象を、巧妙に神ご自身ではなく、人間社会(この世)にすり替えるものであり、すでに書いた通り、その労働が生み出される動機も、神への愛に基づくのではなく、むしろ、それは自分が神に救われているかどうかが分からないという状態にあるプロテスタントの信者が、自己の抱える不安や恐怖から目をそらそうとして生み出す現実逃避のトリックでしかない。そこで、そうした文脈における労働は、神からの逃避にはなっても、神のための奉仕として実を結ぶことはなく、信者の状態を真に変えて神へ近づけるきっかけともならないのである。
 
つまり、プロテスタントにおける以上のような労働の概念は、何かが決定的に狂っており、おかしいのだと言える。その労働は、信者の神への奉仕としてなされるものでもなければ、隣人愛からなされるものでもない。むしろ、「神が分からず、救いが分からない」という不安に苛まれている信者たちが、死後、神のさばきの座に立たされる瞬間まで、地上生活で感じるあらゆる不安や恐れを少しでも和らげようと、この世における人間社会の生活に埋没し、そこで人々に熱心に奉仕することによって、内心の救いの確信の欠如を、善行などの外側の立派な行動によって補い、神から承認を受けられない分を、この世の目に見える人間からの承認や賛同によって埋め合わせようとして行う、目くらましのような時間稼ぎであり、アリバイ工作のようなものでしかない。

そんなプロテスタントの信者にとっては、世俗生活における労働だけでなく、教会生活における奉仕と献金さえも、「自分は神に救われていないかも知れない恐怖」を紛らすために行われる。

本来、信者の地上の組織としての教会への所属は、外見的な要素に過ぎず、それはその信者が真実、救われて神に受け入れられているかどうか、天のいのちの書に名が記されているかどうかをはかるものさしとはならない。ところが、プロテスタントの多くの信者は、教会に所属し、牧師の説教を熱心に聞き、熱心に献金と奉仕を行なうことでしか、自らの信仰を維持できないと思い込んでおり、教会への所属を失えば、自分は道に迷って信仰を失い、救いから漏れ、神に見捨てられて悪魔の虜とされるだけであるかのように思って怯えている。
 
そのような転倒した考えがなぜ生まれるのかと言えば、プロテスタントの教義上の欠陥のせいで、この宗教の信者たちの大半には、もともと救いの確信が内側に無く、その得られない確信を、手っ取り早く他者(牧師や他の信徒たち)からの承認へと取り替え、一体、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心が分からない分だけ、自分たちの熱心な奉仕活動によって、自分が救われた人間であることを、人前にアピールし、客観的に証明することで、埋め合わせようとしているからであり、教会をそのようにして自分の正しさを証明するための場としてとらえ、教会への所属を捨てられないからである。

このような信者たちにあっては、この世における労働も、教会における自己の正当性の主張と基本的に同じ動機で行われる。つまり、全ての奉仕は、信者たちが、自分は贖われた新しい人であることを世間にアピールすることで、自分の内に欠如している内的確信を、外側における自分の立派な行動と、世人からの承認によって補うために行われるのである。

こうした人々の中では、救いの確信について、完全に転倒したさかさまな思考が出来上がっていると言える。彼らは救いの確信を、人が信仰を通じて、個人的に心の内側に神に直接啓示されて得るものではなく、自分の行動や、人からの評価や承認などといった、外的な、地上的な要素によって確認可能なものであるかのように考えているのである。

彼らは、神の救いを、まるで企業が社員に配る社員証のように、教会などの団体に所属していることによって、集団的に保障されるものであるかのように思い込んでいるのである。

こうした信者たちは、教会への所属という外側から目に見えるバッジによって、内的確信の欠如を補うべく、熱心な奉仕活動(労働)を行い、自分に(偽物の)救いのバッジを与えてくれる団体に熱心に仕えようとする。だが、そのバッジは、聖書に記された神の真実な救いのように、信仰に基づいて、信者に一度限り永遠に与えられるものではなく、信者が熱心な奉仕活動を絶え間なく継続することによってしか貸し出されないものである。

そこで、プロテスタントの信者たちは、救いの確信がない不安を、人の目に正しいと認められる活動によって補おうと、教会の内・外に関係なく、どこにいても、自己の本質(不安や恐怖や罪悪感)を紛らすための奉仕活動にいそしまざるを得なくなる。だが、こうした動機からなされる彼らの労働は、自分自身の不安を覆い隠すために行われる自己欺瞞であって、神や人への奉仕ではないのである。
 
マックス・ウェーバーが書いたように、プロテスタント特有の現実逃避願望としての労働を奨励する思想が、本当に資本主義の発展に貢献したのだとすれば、そのような文脈における「発展」は、人間にとって真に望ましいものとは言えず、むしろ、資本主義そのものが、プロテスタントの信者の奉仕と同じように、人類全体が自己の恐怖から逃れ、自己の本質を偽るために生み出された壮大なフェイク、現実逃避のしかけでしかないということになろう。
 
クリスチャンであれば、この世の経済体系が、悪魔の支配下にある堕落したものであり、経済のみならず、文化的にも、この世の全ての体系が、堕落した複合的なバビロン体系であることは否定しないものと思うが、資本主義もその一部であり、それは人類の現実逃避願望から生まれて来た偽りの「マトリックス」であって、信者・非信者を問わず、真理から目を背けたい人々が互いに寄り集まって、神から遠く離れて堕落している自己の罪なる本質を覆い隠し、自己の惨めな姿から目を背け、自分は正しく立派な人間になろうと不断の努力をしている善人であるから、神も人も一目置かざるを得ないはずだと、互いに誇り合い、虚飾の外見を見せ合って、それをあたかも本物であるかのように承認し合い、慰め合うために作り出されたフェイクの体系なのである。

人類が飽くことのない経済発展を目指すのは、そのような偽りの努力の果てに、社会を向上させ、いつかは理想状態にたどり着き、神に至ることができるという驕りがその思いの根底に存在するからである。
 
このように、この世の偽りのバビロン体系は、人類が自らの努力によって社会に理想状態を来らせることができるかのような幻想に基づいて出来上がっており、そこで労働を通じてこの体系に仕える人間は、たとえるならば、フェイスブックのようなSNSに没頭する人間のようなものである。孤独な人間がある日、SNSを開設し、そこにとりわけ良く撮れた自分の写真や、耳障りの良い言葉の数々を並べて、面白い話題をちりばめて記事を作り、たくさんの「いいね!」をもらえば、何かしたような気になって、孤独も紛れる。だが、そのようにして飾り立てた写真は、本人の偏った不真実な姿しか示しておらず、耳障りの良い美しい言葉をどんなに並べても、それは人の内面を1ミリたりとも変える力とはならない。しかも、「いいね!」のほとんどは、義理で押されたお世辞の賞賛に過ぎず、「友達」の大半は、久しく現実生活でコンタクトも取っていない縁遠い人々であり、どこで出会ったかすらも思い出せないような人々も数多く含まれている。

SNSの内容が現実から乖離していることは、本人も重々承知であるが、それでも体裁を保つためには、果てしなく友達承認を続け、記事を書き続けるしかない。こうして、現実とは似ても似つかない、虚飾にまみれた、偏った、偽りの「マトリックス」が出来上がり、そこでは、誰もが自己の正しいイメージを見失って、虚像が独り歩きして行く。当初は人間が自己の満足のために始めたものであっても、途中からは、人前で自己の「有用性」や「幸福で理想的な状態」を絶え間なく証明しなければならないという強迫観念のせいで、やめたくてもやめられなくなり、最後にはすっかりSNSの奴隷状態となり、捏造してでも自慢話を披露して、「あらまほしき人間像」の演出を永遠に続けねばならない羽目に陥るのである。

プロテスタントにおける労働の奨励はこれによく似ている。ここで言う労働とは、ただ単に人が己を養うためだけに働くという単純な概念ではなく、家族を養ったり、自分の適している職業に従事することで幸福を得るというものでもなく、「天職を通じて神の召しを果たす」という、何やらよく分からない概念であり、そのような概念としての労働は、内容が規定されていないだけに、本人にとっても、とてつもない重荷になりかねない。

しかも、「神が分からない。救われているかどうかさえ分からない」という不安を抱える信者たちが、自己の不安を紛らすために、「天職を通じて神の召しを果たす」ことに励むのであるから、一体、そんなことがどうして可能だろうか。それではまるで現実生活の重荷から逃れて空想の中で気を紛らしたい人々が、SNSに集まって繰り広げる果てしない談話と同じく、神が分からず、自分が分からず、自己の本心と直面することを恐れ、自分に対する神の召しが何であるかすらも分からない人々が、ひたすら神を無視して、神を抜きにして、神を納得させるために行う、独りよがりな、自画自賛の、自己欺瞞の活動でしかなくなる。どんなに努力しても、そのような現実逃避的な動機からなされた奉仕や労働が、神の御心にかなう成果をもたらすことはなく、真に人類の幸福に寄与するものになることもないであろう。

筆者は個人的に、プロテスタントにおける労働奨励の理念を、「全信者のプロレタリア化の理想」と呼んで差し支えないのではないかと考えている。

プロテスタントの教義の中には、プロレタリアートという言葉こそ使われていないものの、もともと「労働を通じて社会貢献することで、人間は神の召しに応え、贖われた新しい人間としての生き方を提示できる」という発想があり、この宗教の中には、社会主義思想の登場以前に、「すべての信者をプロレタリアート化することで、神の国を到来させることが可能になる」という、発想がすでに提示されていたのであった。

一般に、プロテスタントの信者は、教会の中においては、聖職者階級を支えるための道具(労働力)として自分を差し出し、教会の外においても、社会を発展させるための道具(労働力)として自分を差し出す。

プロテスタントの信者は、このように、教会の内外を問わず、どこにいても熱心に労働や奉仕に励み、常に自己吟味を重ね、少しでも自分の目に、また、周りの人々の目に、自分をあるべき人間と認めさせるために必要な努力や学習を惜しまない。彼らはそういう努力が、神の召しに応える行為であって、神の国を地上に到来させる秘訣であるかのように思い込んでいる。

そして、このようなプロテスタントにおける「全信者のプロレタリア化」の精神こそ、資本主義の発展の原動力となったのであり、さらには、この精神を受け継いで、社会主義思想も生まれたのである。

共産主義ユートピアという発想は、それ自体、聖書における神の国の悪魔的模倣なのであるが、労働を通じて人間が自己を改造し、理想的な人間に近づけるという共産主義の理念は、もとを辿れば、その土台はプロテスタントの「天職を通じて神の召しを全うできる」という考えにあったのではないかと思われてならない。

ここで注意すべきは、筆者が、共産主義における労働の概念だけが間違っているのではなく、プロテスタントにおける労働の概念も同じほど非聖書的で間違っていると考えている点である。

筆者の見解では、労働を通じて人が自己改造して理想状態に近づくことができるという考えは、思想・宗教の形態を問わず、根本的に全て間違っている。なぜなら、労働を通じて自己改善できるという考えは、肉体改造を通じて人の自己を変革しようとするのと同じく、外側から人間を改造する試みであり、内側からの変革ではないからである。それゆえ、これは聖書の真理のベクトルとは完全に逆なのである。聖書の提示する人間の変革は、常に信仰を通じて、人間の自己の内側(霊)からなされるものであり、人間の外にある影響力を通してでなく、その人の内側で、神との個人的な交わりを通してなされるものだからである。
 
労働を通じて信者が神の召しに応答し、理想的人間に近付けるというプロテスタントの理念が誤っていることの証拠の一つとして、プロテスタントの「全信者のプロレタリア化」の理念は、教会の中においては、牧師制度のような聖職者階級のヒエラルキーをより一層、強化・固定化する材料となり、教会の外においても、バビロン化したこの世の経済体系の差別や格差を助長・固定化するのに大いに役立ったことが言えよう。熱心な奉仕や労働それ自体は、人の目にあたかも良いもののように見え、他者への愛や思いやりに基づいて行われるかのように見えるかも知れないが、それが結局、社会における差別や搾取をより一層、強固に固定化する要因になっているならば、果たして、そのような「労働」や「奉仕」が本当に社会に貢献していると言えるであろうか?

さらに、このような観点から、もしもクリスチャンは社会的弱者に対して冷酷だとか、差別を助長しているなどといった非難が浴びせられようものならば、プロテスタントの信者たちは、早速、今度は、その罪悪感を払拭するために、社会的マイノリティの救済のための各種の事業に乗り出して行く。

だが、こうした他者への奉仕が行われる動機は、全て信者が自己の内側に持っている拭い去れない不安や罪悪感をごまかすためであり、神との関係で救いの確信を持てない信者が、人との関係において自己の正しさを主張するために行われているのである。このような動機では、どんなに他者のための奉仕を装っていても、その労働は神への従順や、隣人愛から出た行動ではなく、すべては結局、自分のためであり、しかも信者が自己の本質から逃避するために生み出された自己欺瞞の活動でしかないのである。

だから、どんなにプロテスタントの信者が「天職」や「社会貢献」といった言葉で美化しようとしたとしても、こうした信者たちの行う奉仕や労働の目的は、本質的に、神からの逃避、自己からの逃避、自己の本質を偽ることにあり、そのような逃避行動に熱中すればするほど、その信者たちは、神に近づくどころか、ますます神から遠ざかり、本当の自分自身が分からなくなっていく。
 
プロテスタントの信者たちの世俗における労働だけではなく、彼らが作り上げる「教会」も、彼らの(贖われていない)魂の状態から来る心の不安や恐れを覆い隠すために作り出される現実逃避であり、巧妙な「マトリックス」の一環なのである。

こうした信者たちは、この世においても教会においても、自ら作り出した「マトリックス」に埋没し、そこで何らかの「役割」を演じることで、自分の真の姿から目を背ける。そして、自分は他者に奉仕しており、他者にとって「有用」な人間であるから、あるべき状態にあって、価値を持つ人間であると考え、これを救いの代替物として、自分は神の御前で単独では何者なのかという恐怖に満ちた問いと直面することを避けるのである。

信者は絶え間なく自己の外側での活動に熱中し、他者との関係に埋没することにより、神が分からないことからくる自己の不安、恐れ、罪悪感などから目を背け、そうした意識のせいで感じられなくなっている自己価値を、自分自身の善行や、他者からの承認や賛同といった外的な要素に置き換えるのである。

信者たちは教会や社会の中で、奉仕や労働を通じて「役割」を果たし、その役割を通して作られた自分のイメージを自分自身(もしくは自分に対する神の召し)にすり替え、自らが果たしている役割に他者からの承認や評価を受けることで、人の目から見た評価を、自己価値とすり替えるのである。こうして、他者との関係性の一切ない、ただ神と差し向かいで、神と自分しかいないところで、自分とは一体何者なのか、自分の価値とは何なのか、自分は本当に贖われているのか、神に受け入れられているのか、罪は赦されているのか、神は一体自分をどうご覧になり、自分に何を求めておられるのかといった一連の疑問と向き合うことを避けるのである。表向きには、神の召しに応じることを口実にしながらも、その実、ひたすら人間社会の生活に埋没することにより、神ご自身と向き合うことを避け続けていると言って良い。
 
こうして、プロテスタントは、信者が差し向かいで神とだけ向き合い、人間を通してではなく、ただ聖書の生けるまことの神ご自身を通して、聖書の御言葉の意味を理解し、キリストを内に啓示され、キリストの義と聖と贖いを、神が自分のために個人的に備えられた確かな恵みとして受け取るのではなく、むしろ、そのような揺るぎない救いの確信は、生きているうちに得られるものではないとして、信者が神と向き合わないために得られない救いの確信を、この世の人々に奉仕し、人から受ける承認や賛同によって埋め合わせることができるかのように教え、神と出会ってさえいない、贖われたかどうかも分からない信者が、熱心な奉仕や労働によって、あたかも神に近づけるかのような、偽りに満ちた教義を提示するのである。

だが、どんなに信者たちが行いによって自分を正そうと努力しても、外側の事柄は決して内側の事柄に取って代わらず、外側の目に見える人間の客観的な評価が、人の内的な自己価値を決めるわけでもない。どんなに人から承認を受け、社会で立派な役割を果たして、自他共に満足したとしても、その満足は麻酔薬のような束の間の効果しか持たず、人が内心で抱える根本的な恐怖や不安を寸分たりとも払拭する効力を持たない。真のリアリティは、信者の外側で起きることにはなく、内側で起きることにある。

しかしながら、プロテスタントの教義には、もともと神の御心をとらえがたいものとみなし、人間の価値を、神との関係性において規定されるものではなく、人間同士の関係性を通して規定されるものであるかのようにみなし、信者が神にとって有用な人間になることではなく、目に見える他者にとって有用な人間になることを、神の召しに応えることと同一視するという著しい概念のすり替えがあった。

その概念のすり替えこそ、プロテスタントの信者たちを誤謬に向かわせた最大原因なのであり、そのような転倒した文脈で信者に奨励される奉仕や労働は、結局、信者を人間の利益のために道具化する効果しか生まず、プロテスタントは、信者が人の目に有用と認められる奉仕を続けることにより、神の召しに応えられるかのような偽りを教えることで、信者の存在を、神の目に絶対的に尊い存在ではなくして、社会において役割を果たし、人間の目に有用性が認められることにより、相対的に信者としての価値が高まるかのようにみなし、こうして信者を人間の利益と欲望を叶えるための道具に貶めてしまったのである。その結果、教会の中にも外にも、神の召しや新しい人間などという言葉からはほど遠い、人間の欲望にまみれた現実逃避のマトリックスとしての一大バビロン体系が築き上げられたのである。

筆者は、このようなものが「信仰生活」であるとは考えていない。この生活の中には、ただ人類の利益だけがあって、神が不在である。

こうした文脈における労働の概念には、神の国とか、神の召しだとか言った高尚な言葉よりも、むしろ、囚人の懲罰労働のイメージの方がよく合っている。

自分が確かに救われて神に受け入れられていると信じることのできる人々は、神のさばきを恐れることなく、救いが失われるのではないかという不安や恐怖に苛まれることもなく、自分が他者に奉仕しているかどうか、他者から承認や賛同があるかないかに関係なく、安息していられる。自らの内心の恐怖から逃れるために、絶え間なく外側の活動に熱中して労働に従事したり、自らの努力によって、自分がいかに素晴らしい人間であるかを社会に言い聞かせる必要もない。

だが、自分が確かに救われているという確信がなく、キリストの贖いの完全性を信じられず、自分が罪赦され、神に受け入れられているという確信のない人間にとって、この世における生活は、自分に対する神の厳しい審判と罪の結果としての刑の執行を待つための恐怖に満ちた時間でしかない。そこで、神の恐るべき審判を待つための待合室でしかない地上での厄介で心苦しい時間をどうやってやり過ごすかということが課題になる。
 
救いの確信の欠如した人々は、この恐れを紛らすために、互いに寄り集まって、慰め合い、自己肯定し合うための各種のもっともらしい奉仕活動を生み出し、これを贖罪行為として、互いに仕え合うことで、自分は罪の償いを果たしたのだと自他に言い聞かせようとする。だが不思議なことに、その罪の意識は、決して真実、人の罪を赦す権限を持っておられる方には向かわず、むしろ、罪を赦す権限のない罪人同士の告白のし合い、傷の舐め合い、慰め合いという形で終わって行くのである。

こうして、互いに内心の恐怖を抱える人間同士が、神から逃避するために集まって慰め合うために行われる奉仕や労働は、神や隣人への奉仕にはならないどころか、それは人が自己の罪なる本質から目を背け、他者との関係性の中で偽りの自己像を作り出すことによって自己を欺き、内的な救いの確信がないのに、自分は贖われた正しい人間であると自己の正当性を主張しようとする「イチヂクの葉同盟」でしかなく、それは人類が神に逆らって、自力で自分を贖おうとする神の最も忌み嫌われる反逆的な「バベルの塔建設の試み」でしかないのである。

問題は、一体、信者は誰のための奉仕者、誰のための労働者なのか、という点にある。プロテスタントの信者が、牧師一家の生計を支えるために、あるいは組織としての教会の拡大のために、熱心に奉仕と献金に励むことと、信者が神の召しに応答し、神に仕えることは完全に別の事柄である。また、信者がこの世の不信者を助け、この世の社会を発展させるために熱心に労働に励むことと、神の召しに応答することは必ずしも同義ではない。何よりも、これらの奉仕の対象は、常に人間であって、神ではない。

パウロは自分自身を「キリストの奴隷」と呼んだが、今日のプロテスタントは、信者を「キリストの奴隷」よりも「教会組織の奴隷」、「聖職者の奴隷」、「社会の奴隷」、「この世の奴隷」に変えようとする各種の運動を生んでいる。

かつてプロテスタントには、ハドソン・テイラーのような宣教師や、ジョージ・ミュラーのような信仰の偉大な先人たちが存在し、そうした信仰者たちは、大衆を対象とする大規模な伝道や、困っている孤児たちを信仰によって養うという、一見、社会奉仕活動にも似た活動を行った。

だが、世が終わりに近づけば近づくほど、そのように大衆の心を動かして社会に変革をもたらす偉大な信仰者の時代は過ぎ去り、むしろ、大衆受けするものの中に潜む「セルフ」の堕落が、この上なく明らかになって、ますます「セルフかキリストか」の厳しい選択を信者一人一人が迫られることになっているように感じられてならない。

今日、一般大衆に大規模に影響力を及ぼそうとする全ての活動は、反聖書的で、堕落したものであり、たとえクリスチャンの活動であっても、大衆の心を掴むことを目的にし始めた時点で、神に向かう純粋な信仰から逸れてしまう。

さらに、目下、世界経済が行き詰まりを迎えていることは、誰も否定しない事実であり、そこで従来通りの考えで、大衆を喜ばせ、「社会を発展させる」ことを目的に労働に従事したとしても、かえってますます矛盾が深まるだけであることは、誰しも気づいていることであろう。現在の我が国において、年金制度は崩壊に向かい、税は正しく運用されず、国富はまるでATMのように米国へ注がれ、吸い取られている。マスコミや、大学や、政府からは、良心的な知識人が次々と排除され、権力を批判する言論は封殺され、人々の良心の声は踏みにじられ、犠牲とされている。この国はすでに社会主義国と何らか変わらない歪んだイデオロギーに基づく偽りの社会となっており、あたかも一般大衆の信任を得たかのように、公の場で繰り広げられる運動は、ことこどく虚偽と化しているという印象を受けざるを得ない。

このような現状で、人がただ社会の発展のために己を労働力として差し出して生きるだけでは、実際には何の社会貢献にもならず、そのようなことが決して人の使命ではなく、正しい生き方でもないということは、多くの人々がすでに理解しているところであろう。

むしろ、この状況下で、人がただ黙って労働に従事することは、バビロン体系とそのイデオロギーを延命させる措置にしかならず、それは「一億総プロレタリア社会を作り、労働を通じて自己改善することで、理想社会を到来させよう」という、神に逆らう人間中心の歪んだイデオロギーを、人が無意識に肯定し、自らをその「マトリックス」の発展の礎として捧げることにしかつながらない。

そんな奉仕や労働を通して、クリスチャンが神の召しに応えることはできないばかりか、それでは人間の幸福に寄与することもできず、社会貢献にもつながらないであろう。むしろ、社会をより不幸な場所とし、自分と他者を道具化して、より一層の不幸に追いやる原因を作るきっかけにしかならない。

キリスト者とは、本来、この世の君の支配する「マトリックス」としての世をエクソダスした人々である。キリスト者は、贖われていない人々の堕落した自己(セルフ)の集大成としてのこの世のバビロン体系を出て、御子の復活の命によって治められる領域に召し出された人々である。

この贖い出された新しい人々の目的は、すでに後にして来たエジプト・バビロンを振り返ってこれに仕えることにはなく、神に対して生き、御国の権益に仕え、神に栄光をもたらすことにこそある。そこで、キリスト者にあっては、人間を喜ばせ、自分自身を喜ばせ、滅びゆく地上の人々の欲望から成るこの世の社会をより一層、発展させるために、自らを奴隷のごとく差し出して仕えるという生き方はすでに終わっていると言って良い。

キリスト者は、人類の栄光のためではなく、神の栄光のために、キリストと共に死を経て、よみがえらされ、キリストの復活の証人として、この新しい命の領域の中で、神の国の統治を地上にもたらすための働き人として召し出されたのである。

だから、キリスト者はあくまで神のための働き人であって、この世や、この世の目に見える人間のための働き人ではないのである。たとえ他者に愛ゆえに奉仕するにしても、それは人間的な動機からなされるべき事柄ではなく、まして、神が分からない自己の不安や恐怖から逃避するために行われるのでは本末転倒である。だが、プロテスタントでは、この点において、極めて重要な争点がごまかされ、すり替えられており、御国のために召し出されたはずの人々を、再び、世の方を振り向かせ、信者が神からの承認を受けるのではなく、人(世)からの承認を受けるために生きるように唆す教えが語られている。そして、この教えは、信者が世人の前で自分自身の価値を自ら証明するよう促す。その手段が労働なのであり、己が労働を通じて、信者は天地の前に、自らの正当性を、自分が贖われた者であることを証明せよ、というわけなのである。

キリスト者がこのような無限ループのような悪魔的罠に、これ以上、はまっていてはならないと筆者は確信する。もしこのような偽りの囁きに耳を傾けるならば、クリスチャンは早速、ユダヤ教の時代に引き戻され、再び、律法の要求にがんじがらめになるだけであろう。社会の発展に貢献するとか、天職に邁進するとかいった、一見、もっともらしく聞こえる、美しい言葉に欺かれるべきでなく、そのようなところに自分の召しを置いてしまうと、その人は結局、見に見える人間や、この世の贖われていない人々の思いや、価値観、評価を通して、自分自身の価値を規定されてしまうことになる。

その結果、贖われた人々が、再び世の支配下に置かれることになるのである。世人は、信者がどんなに労働を通じて社会に貢献しても、「もう十分だ」とは決して言わず、「もっと寄越せ」、「まだまだ足りない」と言ってくるであろう。何しろ、人の魂の身代金は高すぎて、自分では払いきれず、人間が労働を通じて自己の罪を贖う試みは、永久に終わらないからだ。それはいつまで経っても登り切れないピラトの階段、グノーシス主義の果てしない偽りの霊性の梯子であり、信者が自分で自分を人の奴隷とすることと同じなのである。
 
神は、キリストを通して、信じる者のために必要なすべてをすでに備えて下さり、信者のために完全な贖いを提供して下さった。そこで、信者は、神の目に完全になるために、これ以上、自分の努力によって自分に何かをつけ加える必要はないのである。健全な労働は、自己を改造して理想状態に近づくために行われるものではない。絶えず他者との関係性において自分があるべき役割を果たしていることを確認することで、自己の正当性を主張するために行われるものでもない。

そのような文脈で、絶え間なく自己改造の努力にいそしまなくとも、神は信じる者をご覧になって、キリストをご覧になるのと同じように、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と言って下さり、また、最初に創造された人類を見て満足されたのと同じように、信者を見て「甚だ良い」と言って下さる。

神が「甚だ良い」と言っておられるものを、何のためにそれ以上、信者が自己改造する必要があるのか。むしろ、キリスト者は、そういう不安を抱かせる世人の偽りの評価を、自分の心から完全に締め出し、絶え間ない奉仕を通して、自己を吟味し、自力で自己を改善することで、世人の批判を交わし、神の召しにも応じて、理想状態に近づけるかのような思い上がりを一切、捨て去るべきである。そして、自分の義と聖と贖いは、目に見えるどんな人間の評価にもよらず、ただキリストだけから来るものであり、自分は信仰を通じてそれをすでに受け取っている以上、自己改善は不要であることを認識し、キリストの贖いの完全性の確信に安んじると共に、絶え間なく社会の思惑を気にするのではなく、神は何を喜ばれ、何を自分に望んでおられるのか、それだけに関心を絞って生きるべきであろう。

信者の古き自己は、あらゆる点で不完全さしか想起させないであろうが、それはすでに水の中に沈んで、主と共に十字架で死んでいるのであり、もはや信者が注意を払うべき対象ではない。信者は、神の目に生きているのは、「もはや私ではない」ことを認識すべきなのである。そう、とてつもないことであるが、神はご自分の愛する子供たちを、キリストと同じ性質にあずかる者として見て下さるのである。だから、信者は自分自身を規定するものさしを、人間の評価や、社会の評価から、聖書の御言葉を通して注がれる神の変わらない眼差し、神の変わらない約束へと変えるべきなのである。そうしてこそ初めて、「私ではなくキリスト」が実現する。他者に仕えるにしても、全てはその次の段階の事柄であり、神との関係があるべき状態へ是正されて初めて、人への奉仕もなしうる。その順序は決して逆になってはならず、それが守られない時には、人間への奉仕が、結局、神への反逆へと結びつくのである。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは
あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラテヤ2:20-21)


人類の偽りの自己救済の努力としての労働の不毛性―一億総活躍社会という偽りの救済論と、プロテスタントにおける救いの代替物としての労働―

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

最近、ある会話の中で、プロテスタントのキリスト教界は、神が全く喜ばれない、呪われた場所へと変わっているということが改めて話題となった。信仰を持たない人間から見てさえ、プロテスタントで起きている出来事は、異様に見えているのである。

多くの一般人は、キリスト教に対して、決して悪い印象は持っていない。だが、教会となると話は別だという人も多い。キリスト教には好感を持ち、聖書の神には一定の敬意を払っていても、教会組織にだけは属したくないと考えている人たちの数は相当数に上る。そういう人たちは、現在、キリスト教界で起きている出来事を見れば、こんな組織だけには絶対に属したくないと改めて願うことであろう。

杉本徳久のような人物は、プロテスタントなしには決して登場することのなかった人物であると筆者は思う。このような人間が現れたこと自体が、プロテスタントの終焉を何より物語っているが、同氏が、長年、数多くのクリスチャンに対する迫害に及び、聖徒らを次々と泥沼の裁判に引きずり込んでは、神が贖われた聖徒らに有罪を宣告することを願い、クリスチャンの平和で穏やかな信仰生活を妨害して来たことや、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、教会を訴え、牧師を訴えては、クリスチャンの平和な信仰生活を妨げている様子を見ても、プロテスタントからは、すでに聖書の御言葉に従う生命の息吹きが消え去り、キリストの香りが消え去り、その代わりに、全く別な異質な霊が持ち込まれ、以前とは全く異なる別の堕落した宗教へ変質しつつあることが明白である。

筆者は、村上密牧師や杉本徳久を率いるものは、まさに「プロテスタントの霊」ではないかと考えている。杉本は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の出身で、とうにプロテスタントを去っていると言われるが、それにも関わらず、自ら去ったはずの「プロテスタントの霊」と未だ訣別せず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の弊害とも訣別することができないでいる。そのことは、杉本が村上牧師の行って来たカルト被害者救済活動との訣別宣言を出すことができない事実に最もよく表れている。
 
こうした事実を見ても、筆者に思い起こされるのは、キリスト教界への批判が高まっていた2009年当時、「カルト二世」と呼ばれる人々が、信者の中に数多く出現していた事実である。これは一般に多くが団塊の世代の子供たちの世代に属し、リーマンショックなども経験して、当時、生きづらさを抱えていた世代であるが、その中でも、たまたま親がキリスト教徒であったがために、幼少期から教会で宗教教育を受けさせられ、そこで受けた誤った宗教教育がもととなって、大人になってから社会に適合できなくなり、思想的にも生きづらさを抱えることになったと自ら告白する元信者たちが相当数、現れた現象を指す。

当時は、そのような生育歴を持つゆえに宗教教育の歪みを理解する人々が、インターネット等でキリスト教界の現状を語り、一体、自分が受けた教育のどこに問題があったのか、なぜその宗教教育が誤っていると言えるのかについて考察していた。当時は比較的、冷静な議論が多く、キリスト教界の諸問題について、かなりあけっぴろげで自由な議論が穏やかに交わされていた。キリスト教界を断罪するためでなく、その弊害から抜け出すために何が必要であるかが、多くの信徒たちによって、穏やかに厳粛に論じられていたのである。

杉本のような人物も、まさに「カルト二世」というカテゴリーに当てはまると言えるのではないかと思う。要するに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によって、人生の決定的に重要な時代に、誤った思想を植えつけられたがために、この教団を出てもなお、誤った思想に苦しめられ続けている一人である。そうであるがゆえに、当時、自身のブログにおいても、激しいキリスト教界への批判を繰り広げていたものと思われる。

しかしながら、誤った宗教教育のために生じた苦しい状態から解放されるかどうかは、あくまで本人が自分に植えつけられた思想の誤りにどれくらい気づき、それとどの程度、訣別することができるかによる。

冷静な考察や、穏やかな分析により、教え込みの誤りに気づいて離れられた人たちは幸いであるが、それができない人々もいる。後者は、たとえ自分たちを束縛する偽りの思想を憎み、告発したとしても、その思想と手を切るどころか、むしろ、より一層、深くその道具となって生きることになる。

杉本徳久の生涯を通して、我々が見ることができるのは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念の恐ろしさだけでなく、幼少期や青春時代にこの教団に関わった人々が、その理念の間違いに気づき、この教団を脱したとしても、それだけでは問題は終わりにならないという事実である。たとえ教団を出たとしても、この教団の理念や、教団の牧師の活動に依然として積極的に関わり続ければ、その人は、教団から出たことにはならず、たとえ他の宗教団体に去っても、誤った思想を引きずり続けて、その思想の手先となって生きるしかないのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に限らず、人間は誤った理念を持つ団体に気づかず接触してしまうことはありうる。問題は、そういう事件を100%防ぐことにあるのではなく(100%防ぐことは誰にもできない相談である)、その団体が誤っていると気づいた時に、そこに接近した自分自身の誤り、その思想に身を委ねた自分自身の誤りを認めて、その悪しき理念と本心から訣別し、それと二度と関わらないことを誓って、新たな人生へ踏み出すことができるかどうか、その一点にかかっている。

筆者は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出た人間が、いつまでもこのような教団に関わり続けることに全く意味はないと考えている。そこから離れたならば、思想的にも、この教団とは訣別し、人生を穏やかに再スタートさせた方が良いであろう。

しかし、杉本徳久については、残念なことであるが、多くの人たちが指摘していたように、すでに引き返せる橋をとうに超えてしまったようである。それは同氏が数多くのクリスチャンを断罪する作業に自ら手を染めた時点からすでに判明していたことであるが、現時点では、同氏においては、聖徒らとの和解はもはや永久に不可能となってしまったという印象を筆者は受けている。

これは非常に恐ろしい厳粛な現実でもある。人の肉眼で見える対立は、ただ単に人間的な確執のようにしか見えないかも知れないが、そこにクリスチャンが関わっている場合には、その人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、聖徒らに対して一線を超える罪を犯してしまった人間は、この地上だけでなく、永遠の領域においても、罪を赦される可能性を失い、生きているうちに神に立ち戻る道が永久に絶たれ、不可能となってしまうことが実際にありうるのだという実例を、同氏の例を通して見ることが出来るように思う。どんなに聖徒らが憐れみをかけたとしても、本人の中にもはや立ち戻る道が絶たれてしまっているのである。

神が贖われた聖徒らに対してどういう態度をとるかは、その人が神に対してどういう態度を取っているのかをはかるための重要な指標である。聖書は、兄弟姉妹を愛せない人間が、神を愛することは絶対にできないと告げているからである。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Ⅰヨハネ4:20)

そこで、聖徒らを裁判に引きずり込んでは罪に定めることに血道を上げるような行為は、まさに、神に対する愛の全くない人間だけが取り得る行動であると言える。そのような願望を抱くこと自体が、キリストの御霊とは程遠い、神から来るのではない別な霊、しかも、クリスチャンを大々的に迫害した皇帝ネロの霊、「兄弟たちを訴える者」と同じ霊の持ち主だけが可能な行為である。

だから、そのような願望を積極的に抱く人間が、聖徒らとの和解の道を失い、ますますキリストの十字架に背を向けて、「キリスト教徒の迫害者」になって行くのは必然的な結果なのである。

そのような恐るべき欲望の持ち主は、キリスト教徒を罪に定めようとして、常に「クリスチャンが世を冒涜した、世人に対して脅威をもたらした」という口実を持ち出すが、聖徒らを罪に定めるための彼らの試みは決して成就せず、成功しない。

なぜなら、永遠に変わらない聖書の御言葉においては、世人の心証を害することが罪なのではなく、神の御言葉に逆らうことこそ、罪と定められているからである。

聖徒らは、キリストと共なる十字架を通して、バプテスマの水の中に沈み、世に対しても、悪魔に対しても、自分自身に対しても、死を帯びている存在である。聖徒を弁護するのは、キリストご自身である。

だから、我々、聖徒らに立ち向かう人間は、肉眼で見える我々自身という人間に立ち向かっているのではなく、神ご自身に立ち向かっているのである。聖徒を告発する者は、信じる者を贖われた神の義に自ら立ち向かっているのである。そうである以上、そのような人間は、永遠に神が変わらないものとして定められた契約である聖書の御言葉に逆らっているのであり、その結果として、必ず、キリストの十字架に敵対した報いとして、滅びだけが待ち受けている。彼らにはもはや弁護の余地は存在しない。

ところで、坂井能大氏、山谷少佐については、Dr.Lukeの支援を受けていたことが、彼らの致命的な弱点となったと筆者が理解していることはすでに述べた。

Dr.Lukeのキリスト教批判を聞いて、同氏が本心から、キリスト教界の制度的な腐敗を嘆き、これを糾弾し、訣別を唱えているのだと誤解した人々は多かったものと思う。しかし、同氏の批判は、結局は、村上密牧師の被害者活動と同じく、キリスト教界の繰り広げる出来レースの一環に過ぎなかった。

Dr.Lukeは自らパスタ―を名乗っていたのだから、牧師と同様の存在であり、その意味で、同氏率いるKFCは、どんなに口ではキリスト教界を批判していたとしても、実際には、牧師制度を取るキリスト教界の一端に位置する組織でしかなかったのである。

KFCは、信者たちに向かってキリスト教界からのエクソダスを唱えていたにも関わらず、自らがキリスト教界をエクソダスしていなかった。そこで、そのような二重性を帯びた立場から、キリスト教界を告発しても、それが真に迫真性を帯びた主張とはならず、そのような方法で、キリスト教界に戦いを挑んでも、勝利することが、土台、不可能なのは目に見えていた。

キリスト教界をエクソダスするとは、牧師制度と訣別することと同義である。KFCだけではない。ゴットホルト・ベック氏の集会のように、キリスト教界を批判しながらも、結局、特定のリーダーの下に強力な牧師制度を維持し、キリスト教界と根本的に変わらない組織を築いているのでは意味がない。それでは、キリスト教界を出たことには決してならず、彼らの唱えるエクソダスや、キリスト教界への批判も、結局は、有名無実のスローガンにしかならない。

筆者は、今やキリスト教界をエクソダスせよ、という表現ではなく、プロテスタントからエクソダスせよ、と言った方が正確ではないかと考えている。プロテスタントは、すでに霊的に終焉を迎えており、ここからはキリストの御霊に息吹かれた新たな信仰復興運動は、決してもう二度と出て来ることはないと確信している。

プロテスタントは当初、ペンテコステ運動のような過激な霊的運動を警戒していたが、ペンテコステ運動が拡大して信者が増えるにつれ、結局、これを受け入れざるを得なくなった。その上、エキュメニズムを通して他宗教にも寛容な理解の手を差し伸べており、こうして教義的に妥協に妥協を重ね、聖書から遠い理念を提唱する団体となった。

その上、自身が統一教会の出身者である村上密のような牧師たちが、統一教会からの信者の半強制的な脱会活動を行って、彼らをキリスト教に改宗させたことにより、プロテスタントには、統一教会からの信者たちが数多く流入し、異質な影響力がもたらされ、そのような活動も、ここ十数年の間で、教界の変質を加速化させる大きな要因となった。

牧師制度の弊害、教会成長論などに見えるような教義の誤り、異端化に加えて、カルト宗教からの信者奪還運動が繰り広げられたことにより、また、それと並行して、問題や悩みを抱えて行き場を失った社会的マイノリティへの支援活動に重きが置かれたことにより、プロテスタントには、カルト宗教の霊が公然と持ち込まれただけでなく、この世の諸問題も雪崩を打って押し寄せ、この宗教全体が、聖書に基づく、神を中心とした、平和な信仰生活の場ではなくなり、人間を中心とした、この世の諸問題に対処するための「病院」のようになり、あらゆる点で問題の宝庫となって、聖書からますます遠ざかり、聖書とは異質な宗教へと変質して行ったのである。

今となっては、この教界は立ち直り不可能であり、平穏な信仰生活を送るためには、信徒はここを出るしかない。牧師制度の中に身を置きながら、キリスト教界を批判しても無駄であり、平和な信仰生活を送るためには、信者は「アカンの外套」になりうる一切の持ち物、つながりを断ち切り、プロテスタントそのものを出るしかないのである。

* * *

筆者は最近、プロテスタントの以上のような問題点は、資本主義の弊害とも密接に関わっているのではないか、という確信を持つようになった。そして、この問題を考えるにつれて、プロテスタントとは、ひょっとすると、最初から、何か空恐ろしい、根本的に聖書に反する問題を内に含んでいたのではあるまいか、という疑念が生じてならないのである。

現在、世界各国においてだけでなく、日本においても、資本主義は末期状態に陥っており、日本の労働市場は閉塞感にまみれ、社会主義国であったソ連における強制集団化の時期のような悲惨な状態へと転落しつつある。

我が国の労働市場の現場は、悪化の一途を辿っており、搾取、騙し合いがますます横行し、人間性がますます失われ、人間を生かす場所ではなく、排除する場所、殺す場所へと変わって来ている。

我が国は、年長者が年少者を搾取し、食い物にするという形で、ようやくこれまでの繁栄を維持しているが、労働市場には、この悪しき弱肉強食の異常な関係が凝縮された究極の形で現れている。

日本の若年者たちは、学校を卒業して社会に出ても、正規雇用にありつけるのはほんの一握りであり、それが出来なかった者たちは、生涯、低賃金で将来の希望のない仕事をずっと続けるしかない状態に置かれている。若年者に限らず、非正規雇用の者たちはますます苦しい状況に置かれ、未来への展望が何も描けないでいる。外国人実習生のような人々は、奴隷制と呼んで差し支えない苦役にあえいでいる。最近では、政府は年金削減のために、老人を死ぬまで働かせることを考えており、生きている限り、国民が労働から解放されることがないような社会づくりに知恵を絞っている。

このように、我が国は、表向きは労働を賛美する社会主義国ではないにも関わらず、社会主義国と同じように、全国民に労働を強制する異常な思想に憑りつかれており、そのような文脈における労働の概念は、正しいものではなく、人間性を貶め、歪める誤った思想でしかない。

そのような意味で、我が国における労働は、もはやただ単に人が働いて身を立て、家族を養い、普通の暮らしを維持するために不可欠な活動ではなくなり、誤ったイデオロギーに基づく、人間同士の騙し合い、搾取のし合い、人間性の貶め合い、弱肉強食の肯定・強化という、極めて不健康で、悲劇的な、社会に地獄絵図をもたらすような恐ろしい概念へと変わり果てている。

そこで、なぜそのような現象が起きるのかという問題を追求していくと、結局、労働の本質とは何かという問題に突き当たらざるを得なくなり、筆者の分析においては、その問題は、そこからさらに進んで、プロテスタントのキリスト教界における奉仕と献金という問題につながり、最終的には、プロテスタントが本質的に抱える教義的な欠陥へと行き当たるように思われてならないのである。

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、今でもこの点に関して、プロテスタントの本質に鋭い光を当てていると言えよう。

本書は信仰的な観点から書かれたものでないため、筆者はこれまであまりその論に注意を払わず、また、日本のような非キリスト教国に、上記の論理をどの程度、当てはめることが可能であるかについても、疑問であったが、最近、プロテスタントと資本主義との関係性を、批判的な文脈で振り返るに当たり、この書は実に多くの点で、謎解きのヒントを与えてくれており、考慮しないわけにいかないと思うようになった。
 
この書でも指摘されているように、プロテスタントにおける「救い」の概念は、非常に不確かな、非人間的と言っても良いほどまでに、不安定なものであり、プロテスタント独特のこの救済観が、資本主義の発展の原動力となったのだという指摘について、これを今日の我が国における労働との関係性にあてはめて、改めて考察してみる必要があるように思う。

ウェーバーが上記の書で言わんとしていることの中核部分は、かなり荒っぽく要約すれば、次のようになるだろう。

「プロテスタントにおける救いの概念は、一般的に、信者が、自分に対する神の救いが本当に確かなものであるのか、自分が本当に神に受け入れられ、救いを失っておらず、神の国の住人として、いのちの書に名が記されているのかどうか、死後の神のさばきの時が来るまで、信者本人にも本当には分からず、生きているうちに内的確信を得ることができないという、極めて不安定な概念である。

このような不安定で(非人間的な)救済観が、プロテスタントの信者たちに、自分は本当は救われておらず、神に拒まれているのではあるまいか、そもそも神が分からず、神の御心が何なのかも分からないという、生涯に渡る恐怖を抱かせるのは当然である。

そこで、プロテスタントの信者たちは、こうした恐怖から逃れるために、絶えず、行動に駆り立てられる。彼らは、自分が確かに救われているかどうか分からないからこそ、自分が救われた者であることを社会や自分自身に証明しようと、熱心に禁欲と労働に励み、贖われた人間にふさわしい模範的な生活を送る努力をしたのである(=絶えざる自己吟味と現世生活の合理化)。

この点において、カトリックとプロテスタントの間には隔たりがあり、カトリックにおいては、信者たちは、教会内で宗教行事に励んだり、聖職者に教わることで、自分が神に救われている者であることを証明しようと努力する一方、世俗の生活は(教会生活のつけ足しに過ぎないもののように)重視されなかったが、プロテスタントの信者たちは、教会を離れた世俗の生活にも、教会と同じほど重点を置き、世俗生活において禁欲と労働を通じて、天職を全うすることで、キリスト者の召しを積極的に果たすことができると考え、こうして、神に贖われた「新しい人」としての模範的生活を客観的に証明することが、信者の使命であるとみなしたのである。こうして、プロテスタントは、世俗における生活をも、教会生活と同じほど重要な信仰生活の実践の場ととらえ、熱心に労働に励み、利潤を生むことを、信仰生活と何ら対立しないものとみなした。

禁欲は、言い換えれば、世俗生活の合理化のことであるが、それは信者が自己を吟味することによって、神に喜ばれないあらゆる不徳なものを徹底的に自分の生活から捨てて行く一方で、神に与えられた召しに合致するものだけを残して行くことを意味する。

だが、信者にはそもそも自分が救われているかどうかがよく分からず、神の意志も分からないので、自己吟味とは、「おそらく自分は救われているのだろう」という前提のもと、「おそらく神が喜ばれないであろう」と想像されるものを自ら捨て、「おそらく神が召しておられるのだろう」と想像される職業に邁進することで、神に喜ばれようという努力を指す。

こうして、プロテスタントにおいては、信者が自己の(本当にあるかどうか分からない)救済を維持するために、絶えざる自己吟味と禁欲、社会奉仕活動による生活の合理化を行なうことが信仰生活の大前提のようになり、その結果、修道院生活の規範が、世俗の生活に公然ともたらされたような具合となった。

その結果、信者が内心の恐怖から逃れるために行った熱心な禁欲と労働が、資本主義の発展を促し、社会に経済発展がもたらされた。

つまり、極言すれば、「神が分からない。自分が本当に神に救われているのかどうかも分からない」というプロテスタントの信者たちの内心の恐怖と不安、そこから逃れるために、彼らが労働を通じて社会に奉仕し、自分が救われていることを客観的に証明せねばならないと考えた強迫観念が、資本主義の初期の発展の原動力となって行ったのである。」

筆者は、ここでカルヴァンの予定説などに深入りしてプロテスタントの救済観について詳しく議論するつもりはないが、実際に、プロテスタントの一般的な救済観は、今日に至っても、まだなお、ウェーバーが指摘した状態から大きく外れていないように思われる。

クリスチャンとは、本来、神を見いだした人々から成るものと考えられるため(筆者もそう考えている)、実は、神を見いだせず、自分が救われているかも分からない信者が、クリスチャンを名乗る人々の大半を占めるのだと聞けば、世人はさぞ驚くことであろう。
  
だが、それが実際なのであり、もしそうだとすれば、そのようなプロテスタントの救済観は、聖書の提唱する救いに本当に合致するのだろうか?という疑問が生まれる。 そのような不確かな救いの概念しか持たない者を、果たして、クリスチャンと呼ぶべきなのであろうか。

プロテスタントの信者であるかどうかを問わず、クリスチャンが、「自分は神が分からない。神に救われているかどうかも分からない」という状態に陥っているとしたら、それは極めて異常な事態であり、そのような人々を「クリスチャン」とみなすこと自体に、相当に無理があるのではないかと筆者は考えている。
 
「信者」と呼ぶからには、その人間に信仰がなくてはならないが、自分が救われているかも分からない人たちは、果たして、何を信じているかも分からない人々である。自分が神に救われているかどうかも分からない状態にある人々を、「信者」と呼ぶのは適当であろうか。

人間には、自分を本当に救ったかどうかも分からないような不確かな神を信じ、そんな不確かな救いしか提供できない「神」を生涯に渡り、心から愛し、仕えることが可能なのだとは、筆者にはどうにも信じられない。だから、自分の救いさえ、本当にあるかどうか分からない人々は、神を信じている人々の概念に該当せず、彼らの「神」と彼らが、何によってつながっているのかも不明である。 

しかしながら、プロテスタントでは、救いの確信が内側になく、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からない」という状態は、極めて信者にありがちな、一般的な状態なのであり、そういう事情は、今日になっても、変わらない。いや、むしろ、そのような異常状態にある信者こそ、プロテスタントの平均的な信者像であると言える。

だから、筆者はそのような不確かな確信しか信者に与えることのできないプロテスタントの救済観を、全く正常なものとはみなしておらず、そこで、ウェーバーが、そのようなプロテスタントの教義とそこから生まれる精神を、資本主義の発展と結びつけて論じているのは、結局、プロテスタントの誤った救済観が、資本主義の発展の最初の原動力となったと言っているのと同じであると理解している。

つまり、ヨーロッパ諸国における初期の資本主義の発展は、プロテスタントにおける誤った救済観がもたらした結果であり、そうである以上、その発展は、発展という言葉が持つ、一見、輝かしい、喜ばしい響きとは裏腹に、そこに流れる思想的弊害は、必ずや、何かの恐るべき形で実を結ばざるを得ないだろうと考える。それが、今日、労働の悪なる本質として現れていたとしても不思議ではないのである。

さて、上記の書から、筆者に理解できるのは、自分が本当に救われているかどうか分からないという不安ゆえに、プロテスタントの信者たちは、絶えず労働に邁進し、社会貢献することで、自分が善人であることを世にアピールせずにいられないという一種の強迫観念に陥っていたことである。

こうした事柄は、当ブログでずっと述べて来た問題と重なる。要するに、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からず、罪が赦された確信もない」という恐怖が根底にあればこそ、プロテスタントからは、カルト被害者救済活動やら、ホームレス伝道やら、マイノリティへの救済活動といった、各種の社会奉仕活動が登場して来たのである。

つまり、自分が救われているのかどうか分からない不安から逃れるために、プロテスタントの信者は労働に励み、数々の社会奉仕活動を生み出して来たのである。

こうして、プロテスタントが生んだ社会奉仕活動は、カトリックの慈善事業に見かけはよく似ているが、その動機が決定的に異なる。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの諸教会が繰り広げる社会奉仕活動や、マイノリティへの支援活動は、隣人愛に基づく活動ではなく、そもそも自分自身が罪赦されたという実感を持てない「信者」たちが、自らの心の内側にある払拭されない罪悪感を解消するために行う贖罪行為であり、彼らは自分よりもはるかに哀れな境遇にある弱者を探して出して来ては、彼らの状態を改善することにより、その弱者の姿に自分自身を重ねて、彼らを救うことで、自己救済をはかろうとしているのだと述べて来た。

つまり、プロテスタントの社会奉仕活動は、根本的に救いの確信を得られない信者たちが繰り広げる終わりなき贖罪行為であり、彼らが自己の罪悪感、不安、恐怖から逃れようとして強迫観念に基づいて生み出す活動なのである。

だから、そのような社会奉仕活動に従事する信者たちが、さぞ立派な人々だろうと考えるのは間違いで、むしろ、そのようにして熱心な社会貢献を目指さざるを得ない信者たちのほとんどは、信者を名乗っているにも関わらず、教会の中で、神に出会うことができず、救われてもいない世人のもとで神を探すしかないほどまでに、救いの確信がなく、内心では絶望している人たちである。彼らは自分が贖われたという実感を持てないからこそ、不信者への奉仕活動を通して、自分の正しさをアピールし、不信者たちの間で神を見い出せない絶望感を薄め、自己を慰めることしかできないのである。

そのように、自己の救いの確信がないがゆえに、絶えず不安に脅かされる状態、自らの信仰生活の中で真の満足が得られず、教会の外の世においてしか、神を見いだせる希望を持てないという転倒した心理状態は、プロテスタントでは、一般の信徒のみならず、牧師にさえ見られる一般的な状態である。

そうした文脈で、以前にも引用したホームレス伝道に励む奥田知志牧師の文章を、改めて引用してみたい。

神はどこだ。どこにおられるのだ。」 こんなことを考えている人間が、牧師になることなどできるのか。しかし結局のところ、私が牧師になったのは、生涯を通じてこの問いの答えを探すためである、としか言いようがない。それが、牧師になった理由なのだ。答えは今もはっきりしないしかし、混迷がさらに深まる今日の社会において、「神はおられる。いてもらわないと困る」という思いはますます深まり、「神を探す」日々はより忙しくなっている。

牧師というものは、何かを悟った人ではないだろう。もちろん、すでに神を見いだしている人でもない信徒も牧師も厳しい現実のなかでもがいており、ただ聖書を頼りに神を探しているのだろう。「神はどこにおられる。」それは、私たちの人生そのものの問いであり叫びなのだ。生きている限りこの問いを、問い続けなければならない。」
(『もう、ひとりにさせない』奥田知志著、いのちのことば社、pp.28-29)

 
奥田牧師のこの記述の中には、「自分は神が分からない。自分が本当に救われているのどうかも分からない」というプロテスタントの信者に共通する心の不安(=叫び)がよく現れている。
 
神を見いだせない人たちが、それゆえに、生涯かけて、神とは何かということを探求するために、教会生活に足を踏み入れていき、牧師にまでなるのだというのである。

だが、このような形では、どれほど探求を重ねても、彼らが神に出会うことはできず、答えが出ることもないであろうと筆者は考える。ただ生涯、神を見いだすための探求だけが続き、救いの確信は、ついに得られないまま終わるのである。

そうなるのは、彼らが神に出会うために、決して神ご自身に向かおうとはせず、絶えず人間の方を向いて、世の不信者の方を向いて、人に向かって自分の正しさを主張し、不信者の間で神を見いだそうと、見当外れな方向を探し求めているせいである。

筆者は、プロテスタントの信者がこのような状態にとどめ置かれていること自体が、極めて異常な状態なのだと思わざるを得ない。そして、そのような人々が、本当のクリスチャンであるとも考えていない。

自分は救われているかどうかも分からない不安を抱える人々が、信者であるだけでなく、牧師にさえなって、福音を知らない、自分よりもはるかに哀れな状態にある社会的弱者に助けの手を差し伸べ、その人たちと一体化して、彼らの生活の向上に喜びと恵みを見いだし、彼ら弱者の中に「神」を見る、それが、果たして、正常なキリスト者の信仰生活と呼べるのか? 絶対に無理である。

そのような形で、「神を見いだせない」不安に駆られ、世の方を向いて行く信者たちの姿は、ウェーバーが著書において指摘したプロテスタントの信者が抱える不安とまさに一致するが、ウェーバーの著書が書かれた時代、そのような信者たちは、自己の不安を、職業訓練に振り向け、労働に励み、自分の職業に邁進することで解消しようとしていたが、それが今日の時代には、労働のみならず、各種の社会奉仕活動、マイノリティへの支援などに結びついている。

しかし、表面的にどんな形態を取っていようと、これらの社会貢献活動は、みな根本的に同じ動機から発生したものであり、それらはすべて「自分が救われているかどうか分からない」という内心の恐怖から、信者が逃れるために生み出された模索(現実逃避)の過程なのである。
 
その探求は、神を求めるために行われているというよりも、むしろ、神が分からないという恐怖を紛らすために行われるアリバイ工作のようなものだと言った方が良い。

もしも真実、それが神を求めるために行われている活動ならば、その活動は決して人の方を向かず、見えない神だけにすべてを求め、神ご自身から全ての答えを求めるというものであったろうが、プロテスタントの信者たちの「探求」は、常に世の方を向き、社会に対する貢献に重きを置いて、人からの承認や賛同の中に、自分たちの信仰の正しさを求めようとするものなのである。

こう考えると、一体、プロテスタントとは何なのか、そこで唱えられる救済は、本当に聖書の神が提供する救いと関係があるのだろうかという疑問にまで辿り着かざるを得なくなる。

何よりも、プロテスタントの信者が、本当に自己の救済を確かなものとして、個人的に救いの確信を得たいならば、なぜ、彼らは神ご自身に向かわず、絶えず人間にばかり奉仕し、あるいは自己吟味に没頭し、常に神の目から見た救いの合格ラインではなく、人間の目から見た合格ラインにこだわり続けるのか、疑問に思われてならないのである。

そこには、何かしら重大な概念のすり替えがある。本来、神と信者との間で、信仰に基づいて個人的に結ばれるものである救いの確信が、神を抜きにした、人間の目で見て確かめられる一般的な承認や賛同という代替物に取り替えられているのである。

早い話が、神が信者に信仰を通じて個人的に与える救いが、社会貢献という、救いとは似ても似つかない代替物にすり替えられているのである。

信者が自己を吟味し、禁欲と労働に励み、社会貢献を果たすことによって、世人に認められる模範的な生活を送ることは、信者が神に受け入れられることとは、直接的に何の関係もない。それはすべてこの世の観点、人間の観点から見た活動であって、神の視点というものが徹底的に欠落している。

天職や、社会貢献という言葉は、魔法のトリックのようなものであり、人間が自分自身の状態を見て自己安堵するために作り出された幻想に過ぎないと言うこともできよう。人間の必要を満たして、人の目に認められ、社会に貢献し、自分の目から見ても、自分に合格点を出せるようになりさえすれば、神もきっと納得して下さるだろう思うのは、人間の側の独りよがりでしかない。信者が人間社会にどれほど奉仕してみたところで、それは神がその信者をどうご覧になり、どう思われるのかをはかる基準にはならない。

神の御思いを知るためには、神に向かうしかないのであって、社会にお伺いを立てても無駄なのである。信者がどんなに人間社会に配慮を示しても、その信者の心が神に向かわないならば、信者の信仰生活は無である。

そして、神がご覧になるのは、人の立ち振る舞いのうわべの美しさではなく、信者の行動の真の動機である。人の目にどんなに立派な行いをしても、その労働や奉仕が、信者の恐怖から、信者の自己満足・自己肯定・自己安堵を目的として行われているのであれば、そのような自己中心な動機で、神を喜ばせることはできない。自分のために行われた奉仕は、神のためではなく、御心にかなわず、神のために実を結ぶこともない。

それにも関わらず、プロテスタントの信者は、徹底的に神ご自身だけに向き合って、神から回答を得ることで、自己の恐怖を克服しようとはせず、むしろ、「神が分からない、救われているかどうか分からない」からと、神からはさっさと目を背けて、分かりやすい人間社会の方を向いて、人間の中へ埋没して行き、人間の只中で承認や慰めや安堵を得、これを神からの承認や賛同と取り替えようとするのである。

こうなった時点で、それはすでに信仰生活からの著しい逸脱である。だが、プロテスタントは、教義的に、もともと救いに関して極めてあいまいな重大な欠陥を抱えているがゆえに、信者たちは、その弱点を補強するために、世の方を向かざるを得ないという悪循環が続いているのである。

このような教義は根本的におかしく。そもそも、救われているかどうかという信仰生活の根幹に関わる重大問題が、死後になってしか分からず、神のさばきの座に立たされるまで、本人に分からないというのでは、一体、信者の地上生活は何のためにあることになるのか、甚だ疑問である。それでは、その信者の地上生活は、ただ刑の執行を待っている囚人と変わらないことになる。

こうして、あるかなきか分からない救いの確信を補い、自分は本当は救われていないかも知れないという内心の恐怖を克服するために、信者たちは、刑の執行を待っている囚人が赦免を求めるように、世に対する奉仕をにいそしみ、お勤めに励むことで、不安から目をそらし、神に受け入れられていないかも知れないという恐怖を、世からの賛同や承認を得ることで埋めようとする。そして、自分はこんなにも善人として模範的に努力し、自分の利益を差し置いて社会に貢献しているのだから、その努力はきっと神も認めて下さるはずだと自己を慰める。

だが、そういう外側の努力が、内側の確信の欠如を補う日は決して来ない。神からの承認を、世からの承認に取り替える事は無理なのである。 

そのような信者の「社会貢献」は、救いとは何の関係もないものである。「義人は信仰によって生きる」という聖書の御言葉と、救いが本当か分からないがために地上の職業に邁進して社会貢献を果たすことで救いに近づこうという生き方は、まるで正反対である。

後者は、律法の義務を全うすることで神に受け入れられようとしたユダヤ教徒の努力と変わらず、贖われて、罪赦された人々の生き方ではなく、まさに罪ゆえに刑罰を待っている囚人が、自分の努力でわずかでも減刑されようと願う生活に他ならない。そんな地上生活は、神の召しを果たす場というよりも、囚人同士の慰め合いに近く、神のさばきに至るまでの地上の待合室で、恐怖から少しでも気を紛らしたいと考えている人たちが、互いに目くらましのために行う現実逃避に過ぎない。

だから、そのような観点から見るならば、プロテスタントの救済観は、初めから決定的に何かがおかしいのである。それゆえ、その決定的に異常な救済観がもたらす恐怖に基づいて生まれる各種の良さそうな社会貢献活動も、結局、決定的に異常な結果しかもたらさないのである。

筆者自身の経験について言えば、筆者が神とは何か、救いとは何かということを明確に理解したのは、プロテスタントの教会に関わるのをやめてからのことである。この教界を出て、教界とのつながりを絶って、誰の仲介もなしに、自ら聖書に接して、初めて、聖書の神ご自身がリアリティであること、キリストの贖いが永遠であること、信じる者に与えられた救いが永遠に変わらないこと、それがまさに自分自身に対する救いであることがクリアに見えたのである。そして、「神はどこにおられるのか」という問いは終結し、神はキリストを通して、信じる者の内側に住んで下さり、力強く御業を行なって下さり、必要な時に常に助け手となり、砦となって下さるということが分かったのである。

だが、だからと言って、信者は、確かにいつもいつも神の意志が自分に分かるわけではなく、神と直接結びついているという感覚的な実感を常に持っているわけでもない。感覚的には、パウロが、「ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」(Ⅱコリント5:6)と述べている通り、人間の堕落した肉体の感覚は、常に人を神から引き離そうとする。信者は、地上で様々な問題が持ち上がる時などには特に、神が遠くにおられるように思ったり、神が何を願っておられるのか分からない時もあり、神に見捨てられたのではないかとさえ思われる瞬間もある。

だが、そういうものはあくまで信者の地上の幕屋としての肉体の感覚、この世の影響が感じさせることであって、信仰とは関係ない事柄である。信仰は、そのような表面的な感覚よりも、もっと深いところで感知されるものであって、一見、かすかな実感に過ぎないように思われても、信者の内側で、深く持続的な、変わらない確信をもたらす。だから、信者の心の内側では、外側で何が起きようとも、表面的な感覚や印象に関係なく、救いの確信は決してなくならず、神が生きておられ、自分を贖って下さったことへの確信は変わらないのである。信者は不安に駆られても、その不安の分だけ余計に、神に助けを求めて祈ることができ、神が確かに応答して下さることを信じて待つことができる。だから、この世で起きるどんな事象も、信者を神から引き離すものとはならない。

こうして、信仰に基づく自らの生涯を通じて、信者は神が確かに生きておられ、あらゆる場面で信者を守って下さり、自分が確かに神の愛する子供として神に受け入れられ、愛され、助けられていることを実践的に確かめることができるのである。どんな人生の嵐に見舞われようとも、いつまでも不安の中に取り残されることなく、まして、神が分からないとか、救われているかどうか分からないといった不安の中を堂々巡りしてさまよい続けることはないのである。

ところが、プロテスタントにおける救済観は、これとは全然違うものであって、そこにいるほとんどの信者たちは、自分が救われたかどうか、内的確信を持っておらず、どんなに教会生活を続けても、神に出会うことがない。ただ学校で教科を教わるように、キリスト教の教義を学ぶだけである。自分は神を信じている、とどんなに思っても、その信仰が、現実生活における力とはならず、信者を変える力ともならず、そして、ウェーバーが述べたように、信者たちは、自分が救われているかさえ分からないという不安ゆえに、社会において労働に励むだけでなく、教会生活をもそのような観点から行う。

自分が救われているかどうか分からないがために、信者たちは熱心に教会に通い、牧師の説教を聞いて自分の行動を正し、奉仕と献金に励むのである。そのような精進の果てに、自らの「霊性」を高め、神に近づくことができるかのように、彼らは錯覚している。そのような信者たちは、この世における労働も、教会に献金を払うために行う。彼らは、そうした熱心な努力によって、自分の信仰の正しさを客観的に証明することをやめて、教会を離れてしまえば、自分は悪魔の餌食となって、救いを失うだけだと思わされており、絶えず恐怖に駆られているのである。

このように、プロテスタントの信者は、禁欲と労働だけでなく、教会生活すらも、恐怖から行っている。救いの確信が内側にないからこそ、それを教会への所属という目に見える地上的な代替物に取り替えようとするのである。そして、教会への所属を失うことを、救いを失うことと同一視し、所属先を失いたくないがゆえに、熱心に世でも労働に励み、献金と奉仕の源を得る。だが、いつまで信者が努力し、奉仕と献金にいそしんでも、目に見える地上的な保証は、目に見えない天的な保証とはならない。地上の教団教派、教会組織に所属しているという信者の立場が、信者の内側で、救いの大胆な確信へとつながることは決してなく、どんなに牧師の説教を聞いて自己吟味し、いつまで奉仕を重ねても、自分は救われたのだという確信がやって来ることはなく、清められた実感もなく、様々な問題、思い煩いから解放されることもない。まして、新創造に達したなどという確信が生まれることはない。だから、信者はあるかなきかの救いを求めて、ハムスターが輪の中を走り続けるように、ずっと教会への所属にしがみつき、奉仕と献金に励み続けるしかないのである。

このようなものは、神の救いの概念を悪用しただけの、何か空恐ろしいトリックであり、救いの悪魔的代替物だとしか筆者には思えない。人の目の前に、救いという幻想をちらつかせておいて、それを求めてやって来た人々に、決して救いを与えず、その偽りの夢の代わりに、彼らを永遠に馬車馬のように走らせて、奉仕と献金を提供する道具とするために作り出された偽りのトリックでしかないものと思う。

このように、プロテスタントにおける救いの不確かさという恐るべき教義的欠陥が信者にもたらす恐怖は、資本主義という体制を通して、非キリスト教徒にも無意識のうちに及んでいるのではないかと筆者は想像する。

我が国では、まるでプロテスタントの信者たちがそうするのと同じように、非信者も、労働を通じて、自己の正当性や価値を証明しようと、勤務先に熱心に奉仕する一方で、労働から除外されて、働く場を失い、所属先がなくなり、「社会貢献」できなくなれば、自分は人間でさえなくなるかのように思い込まされ、恐怖におののいている。

このようにして、絶えず人目を気にし、自分が社会からどう思われているのか、模範的に義務を果たせているのか、社会に貢献しているのか、価値ある存在として認められているのか、人の思惑ばかりをおもんばかって、人に良く思われ、自分には所属先(居場所)があると誇って、自己安堵するために、終わりなき奉仕にいそしまざるを得なくなっているこの世の人々の姿は、まさに救いが分からないがゆえに教会への奉仕と献金をやめられなくなっているプロテスタントの信者の姿にぴったり重なる。

救いの確信がないがゆえに、それを教会籍と取り替え、存在しないかも知れない救いを維持するために、絶えず奉仕と献金を行なっていなければ安堵できない信者の姿と、自己価値が分からないがゆえに、企業や団体などの地上の所属先から承認を受け、その承認を維持するために絶えず奉仕を行なっていなければ落ち着かない世人の姿は重なる。

つまり、現代においても、信仰を持たない非キリスト教徒でさえ、プロテスタントと同様の精神に毒されており、労働は恐怖から行われるのであって、人々は、労働し続けることでしか自己の救いを担保できないかのような強迫観念に絶えず無意識に追い立てられているのである。

そのような文脈における労働は、根本的に異常であって、それは本当の意味での他者への奉仕ではなく、また本当の意味で本人の幸福につながるものともならない。

これまでずっと述べて来たように、我が国における労働は、単なる労働の概念に当てはまらず、より深い意味がある。そこで言う労働とは、神に逆らって行われる、人間の偽りの自己救済の努力であって、人間が人間の力で自己肯定し、理想状態に達しようという、カルト的な偽りのイデオロギーに基づく、決して報われることのない努力なのである。それだからこそ、そのような文脈における労働は、根本的に呪われており、何の実りもたらさず、人間をただ不幸に追いやる効果しか持たないのだと筆者は言うのである。

それはちょうど、沈没船に乗っている人たちが、互いに「私たちは大丈夫、死ぬはずはない」と言って慰め合う風景のようなものである。船はまだ沈んでおらず、沈む気配もそれほど感じられず、船の中ではまだ平穏な生活が維持されている。ある人は甲板を磨き、ある人は食事を作り、ある人たちは子供たちの世話をし、談話に明け暮れ、舵を取る。そうして皆が互いに心地よく過ごせるために配慮し合って、互いに奉仕し合い、一見、まことに美しい、思いやりに満ちた風景が広がっている。

だが、そのようにして人々が互いに配慮を示し合い、仕え合い、認め合うことの本当の目的が、船の沈没という決定的に覆せない未来の事実を覆い隠し、そこから目を背けることにあるとすれば、彼らのその涙ぐましい努力は一切が無意味であり、悪であるとさえ言える。彼らがどんなに努力して、そこに生活の向上と発展をもたらし、弱い人々を助け、他者の幸福を支え、善良に高潔に振る舞い、互いを受け入れ合っても、その船が決定的に壊れており、やがては沈むしかないことが明らかならば、彼らの労働や奉仕の成果はすべて無に帰するのである。彼らの自己肯定は、自己否定へとつながるのである。沈みゆく船の上で、互いへの愛や、社会貢献度を誇り合っても、むなしいだけである。

むしろ、沈没船から一刻も早く脱出することこそ、救済であり、善であり、社会貢献である。沈没船上での生活を維持することが善なのではなく、その生活から人々を解放し、自分も解放されて、沈没船によらない新たな永続的な生活を打ち立てることの方が、緊急課題である。

だが、どういうわけか、沈没船の中にいる人たちは、絶対にそこを出ることができないと思い込んでいる。彼らは自由になるために、船が沈む前に脱出することを自らの義務とはみなさず、むしろ、自らそこにとどまり、破滅を選びながら、それまで通りの生活を送り、さらに生活を向上させることができるという偽りの夢にしがみついている。そして、「神は私たちを見捨てるはずはない、神は私たちを哀れんで下さる。ほら、私たちはこんなに恵まれているし、こんなに努力している。私たちの善良な努力は神に覚えられている。私たちは神に受け入れられている」と言い続けているのである。

彼らは一度も神の方を向いたことがなく、ただ人間に奉仕しているだけなのに、自分たちの人類への奉仕活動、社会貢献の努力を、神も認めて下さるはずだと思い込み、自分たちの奉仕を指して、神が自分たちを見捨てるはずがない根拠だと言い続けているのである。

要するに、彼らは、自分たちの努力を振りかざして、これをもって自分たちを義と認めよと、神に迫っているのである。

人間が己が労働を通じて経済を上向かせ、社会を発展させ、理想状態に近づけることができるという考えは、筆者に言わせれば、それ自体、神に敵対するイデオロギーであり、結局、沈没船に乗っている人々が唱える実現するはずもないユートピア理論と同じなのである。

その労働や奉仕は何のためのものなのか? 結局、人間が恐怖から目を背け、自己安堵するためのものでしかない。もっと言えば、人間が自力で己が罪を克服して、自力で新創造に達して、神を抜きに、自力でユートピア的理想社会に至りつくために行うむなしい努力でしかない。

そこには徹頭徹尾、神が不在なのである。個人的な救いの確信がなく、神が分からず、神を見いだせない人々が、互いに寄り集まって支え合い、集団的に自己肯定しようという、イチヂクの葉同盟、バベルの塔の試みしか存在しないのである。神はそのような人類の自己救済の努力をこそ、最も忌み嫌われ、退けられる。

だから、我が国が推し進めている一億層活躍なる概念も、結局、プロテスタントの教会の信者たちと同様に、自分が本当に救われているという確信のない人たちが、罪の意識と恐怖から目を背けて、自己肯定するためのに作り出された嘘のカラクリに過ぎないのである。

そのような自己救済の努力としての労働や社会貢献を通じて、人が自己の正しさを客観的に世に証明し、あまつさえ、これを神にまで認めさせ、それによって自ら救いにあずかり、新創造へ至りつこうという考えは、完全な幻想に過ぎず、絶対に実現することはない。

その願望は嘘であり、恐怖に基づく現実逃避でしかないからこそ、そのような努力としての労働は、やればやるほどますます人間を悪くし、不幸を増し加えて行くだけなのである。


死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

・肉の情や、弱者救済を口実に、エクレシアにおける天的な秩序と地的な秩序を逆転させて、教会の主人をキリストからこの世(悪魔)へと変えようとするプロテスタントの偽りの牧師たち
 
一つ前の記事では、プロテスタントのキリスト教界が、牧師制度という人間崇拝の罪なる制度のゆえに、取り返しのつかない腐敗に陥っており、聖書に基づく正常な信仰生活を送りたい信者は、牧師制度と訣別し、キリスト教界を出るしかないという確信を述べた。

この確信は、当ブログ始まって以来、一貫して述べて来たものであるが、筆者がキリスト教界を出るべきと述べる最大の根拠の一つが、今日、教会の名で呼ばれるプロテスタントの教会組織では、「エクレシア(教会)とは、何を目的とする、誰のための、誰から構成される共同体なのか」という問題が、全く滅茶苦茶に扱われており、多くの牧師たちが、エクレシアの存在目的を完全にはき違え、これを神のために贖われた人々による構成体から、贖われない人々の利益に仕える共同体へと変えようとしている点にある。

聖書におけるエクレシアとは、「清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげ」られた(Ⅱコリント11:2)信者たちから成るものであって、教会は、キリスト以外のものに仕えるべきではない。だが、プロテスタントの牧師制度は、この時点で、すでに教会をキリストだけに捧げられたものではなく、牧師という人間に捧げられ、牧師の利益に奉仕する団体へと変えてしまうことによって、教会から貞潔を失わせ、教会を堕落させるのである。

こうした堕落によって、牧師たちは第一にキリストだけに捧げられたはずの花嫁なる教会を強奪し、己の利益のために私物化する。そして、さらなる段階として、強奪したエクレシアを、神の栄光のために仕える共同体から、人間の地的な欲望を満たすために、世人の利益に仕える共同体へと堕落させるべく、「この世の虐げられた弱者」や「マイノリティ」の存在を口実に、教会を拠点に、信仰を持たないこの世の人々を対象とする社会奉仕活動や、マイノリティ救済のための慈善事業を繰り広げるのである。

今日、プロテスタントの諸教会においては、マイノリティへの支援のための社会奉仕活動は、今やペンテコステ系の教団だけの専売特許ではなくなり、プロテスタント全体のトレンドのようにさえなっている。カルト被害者救済活動、ホームレス伝道、ヤクザや、病者、障害者などの社会的弱者を対象とする各種のお涙頂戴の支援活動が行われ、その上にさらに、フェミニズム運動、反原発運動、反安倍政権デモ、沖縄問題なども加わり、弱者救済のための社会活動、政治運動を、今や公然と教会の中心に据える牧師もいる。

カトリックが世俗化した結果、慈善事業に力を入れて、世の方を向いて行ったように、プロテスタントも、すっかり塩気を失った教会として、世に優しく、世のために奉仕する、世人のための、世俗的な宗教に成り果てているのである。

こうして、プロテスタントにおいては、世から召し出された人々から成るはずのエクレシアの天的な秩序が、地的な秩序に取って代わられ、社会活動に従事する牧師たちの教会では、贖われた信徒が教会から追い払われる一方、贖われない罪人が公然と教会に出入りし、教会からキリストの義と聖と贖いが消え去り、この世の他宗教と何ら変わりない、世俗化した世人の組織だけが残って行くのである。
 
* * *

以上のようなプロテスタントに蔓延するマイノリティの救済を口実とした教会世俗化の傾向は、たとえば、当ブログですでに批判的文脈で引用した「苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳」の執筆者である水草牧師の主張の中にも如実に表れている。
 
水草牧師が前掲の記事の中で、教会が不信者の葬儀に関わることに賛同していることについて、筆者は、それは聖書的見解ではないとして反対する趣旨を、記事「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬るのは死人に任せなさい。」に記した。水草牧師は、筆者がこの記事で示した見解に対する反論として、前掲の記事に追記を記し、その中で、まず筆者を「匿名氏」と呼んで、筆者のペンネームを意図的に無視した上で、筆者がまるで得体の知れない不審人物であるかのように強調することで、筆者の提示した議論の信憑性を読者に見失わせようとすることから話を始めている。

水草牧師のこの発言は、明らかに、かつて杉本徳久が筆者を「匿名に隠れている」と言って、いわれなく非難して、筆者に名を明かせと強引に迫り、筆者がもしその要求に応じなければ、筆者の個人情報を無断で公開することで制裁を加えるなどと脅迫したことを念頭に置いており、要するに、この牧師は、そうした杉本の行為に暗に賛同の意を示して、筆者を非難する側に回っているのである。

だが、牧師が実名でブログを書くのは、自分の職業の一環として、報酬をもらって、公人の立場から行っていることであり、これを報酬も受けず、世で栄光を受けないために、あえてペンネームで信者が述べている信仰告白と、一緒にして論じること自体が、土台、ナンセンスな注文なのだが、そのことは、この人々には言っても分からないであろう。

公人に等しい牧師と、私人としての信徒の立場は異なるものであり、公開する情報に差が出るのは当然で、信徒が牧師と同じように個人情報を公開しないからと言って、信徒を責めるのは筋違いである。ましてそれに制裁を加えるために個人情報を探り出し、情報共有し、無断公開するなどは犯罪でしかない。

しかし、水草牧師は、筆者を「匿名氏」呼ばわりすることで、暗黙のうちに、筆者を脅した杉本の言い分に同調し、自分は、実名を明かしてブログを書いているので、自分の言い分には信憑性があり、筆者のような得体の知れない信徒の信憑性の疑わしい議論とは格が違うと、自分を誇っているのである。

こうして、自分への批判者が現れた際に、まずは論敵を侮辱したり、未熟者扱い、不審者扱い、果ては狂人扱いまでして、論敵の人格と印象を貶めることで、議論の本質を巧妙にごまかしながら、自分を高く掲げ、自分の結論だけが正しいかのように主張する手法は、村上密牧師やその支持者たちに不思議なほど共通する。

水草牧師の追記が書かれたのが、昨年の12月末であることを見ても、この時点では、杉本はまだ筆者を刑事告訴できると信じていた可能性があり、 筆者は、筆者を何が何でも有罪に追い込みたいと狙っていた同氏の計画と行動が、杉本という一人の人間だけによって行なわれて来たことだとは思っておらず、その背後に、キリスト教界の牧師制度を温存させたい勢力の思惑があったことを全く疑わない。

要するに、杉本のような思想が、一般的な牧師の精神なのである。そこから、いかに牧師という人種が、信徒を自分と対等の存在とみなさず、常に自分は信徒の一段上に立つ者と考えて、信徒を見下しながら、自分にはものが見えているかのように誇り、かつ、自分の活動に反対する信徒は、徹底的に正体を暴露し、あわよくば、制裁を加えても良いといった恐るべき考えの持ち主であるかが分かり、水草牧師の短い言葉を通しても、それは十分に伺い知ることができる。

だから、水草牧師がどんなに丁寧な語調を使っていても、それだけにより一層、「匿名氏」という一言で、この牧師が筆者に対して込めた皮肉と敵意、またその言葉に込められた高慢さが、はっきりと理解できるのである。

だから、筆者は、このような精神の持ち主ばかりが溢れる牧師たちに向かって、信徒が自分の個人情報を誰彼構わず無防備に開示することは、絶対にやめた方が良い危険行為として、全くお勧めしない。彼らが何のために信徒の情報を使うか分からないからである。この人々がどんなに信徒に向かって名を明かせ、個人情報を明かせと叫んだとしても、個人情報をどの程度まで公にするかは、あくまで本人の判断によるものであって、他人に指示されて行うべき事柄ではない。安易な情報開示は、自分や関係者を危険にさらすだけであるから、絶対にやめた方が良い。
 
さて、杉本の筆者に対する非難は、「匿名に隠れている」という非難も含め、ことごとく根拠なきものとして退けられ、告訴の材料にもならなかった。それによって、逆に、杉本が自分の実名、住所、電話番号を自らネットに公開していたことが、どんなに危険で推奨できない行為であるかが判明したと言っても良い。自分が個人情報を開示しているからと言って、他人にまで同じ行為を強要したり、個人情報を公開していないから他者の言い分に信憑性がないと主張するなどナンセンスでしかない。

さて、水草牧師のブログ内容は、反原発運動なども含め、福音伝道という教会の本来的な使命からは逸れた、社会活動家のような内容も多く、要するに、それらは、村上密や杉本徳久がこれまでそうして来たように、世の悪事に敏感で、不正を見逃せない人間が、「正義の味方」のように弱者を虐げる巨悪を糾弾するといった勧善懲悪の理屈に基づいている。

しかしながら、筆者がこれまで一貫して述べて来たのは、こうして自分があたかも世の虐げられた弱者の味方であって、世の悪事を正す正義の味方であるかのように振る舞いたがる人間、特に、教会を利用して、そのような世直し的な活動に乗り出し、それを自分の名と結びつけたがる人間ほど、その内心は、危険な思い込みに満ちており、その活動は、真に隣人への愛からでなく、彼ら自身の利益や名誉のために行われている可能性が高いということである。

この点で、水草牧師の活動にも、筆者は、これまで記事の中で幾度となく取り上げて来た、プロテスタントの数多くの教会で行われる、信仰に基づかない弱者支援の社会活動、たとえば、ホームレス支援を行う奥田知志牧師や、十字架行進を行うアーサー・ホーランド牧師、カルト被害者救済を唱える村上密牧師などの活動と根本的に共通する問題を見るのである。

記事の冒頭で述べた通り、こうした牧師たちの活動の危険は、彼らが「エクレシアの本質は何か」という問題を、完全にはき違えている点にこそある。

水草牧師は、反原発運動に関わっている事実からも分かるように、世の虐げられた弱者を支援するために、教会はその弱者に信仰があるかないかを問わず、積極的に彼らのために声をあげ、彼らに助けの手を差し伸べるべきという考えの持ち主であるらしいと推測される。そして、おそらくは、その文脈でこそ、教会が不信者の葬儀を行うことも、教会から世への奉仕の一環として認めているのだと考えられる。

つまり、水草牧師は、マイノリティへの社会的支援を教会活動の主軸に据える他のプロテスタントの牧師たちと同様に、教会は信者の利益だけでなく、この世の弱者を支援して、非信者である世人の利益にも仕えるべきとの見解を持ち、その考えの延長線上で、反原発運動を推進したり、不信者の葬儀を行うことを教会は拒むべきでないと考えたりしているものと思われる。

水草牧師が、世人に対する神の憐れみを強調して、クリスチャンがそれにならう行為として、教会が不信者の葬儀を執り行うことに賛同している様子は、同氏の記事内容から明白である。もう一度、同牧師の文章を引用する。

「聖書を啓示された神は、天地万物の創造主であり、宗教を問わず私たちすべての人間に生命を与えてくださったお方です。父なる神は御子キリストにあって万物を創造し、人間にいのちを与えました(ヨハネ福音書1:1-3、コロサイ1:15-17)。その意味で、真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 「 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。」(ローマ3:29,30)

 また、聖書によれば、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていて、人はみな「キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いをうけることになる」(2コリント5:10)のです。キリスト教徒はキリストのさばきを受け、仏教徒は閻魔大王のさばきを受け、イスラム教徒はアッラーのさばきを受け、無神論者はさばきを受けず無に帰するなどと聖書は教えていません。すべての人がキリストのさばきを受けます。

 このように、聖書によれば、非キリスト者も、真の神からいのちを受けてその地上の生涯を送り、死後はキリストのさばきを受けるのです。だとすれば、非キリスト者の葬にもキリスト教会がかかわるのは、当然ありうることであって、否定すべき筋のことではないでしょう。」

この文章のどこに問題があり、このような考え方の何が異常であって、なぜ反聖書的なのかを、以下で、丹念にさらって見て行くことにしたい。

まず、水草牧師は引用の冒頭部分で言う、「聖書を啓示された神は、天地万物の創造主であり、宗教を問わず私たちすべての人間に生命を与えてくださったお方です。父なる神は御子キリストにあって万物を創造し、人間にいのちを与えました(ヨハネ福音書1:1-3、コロサイ1:15-17)。その意味で、真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります

ここで同牧師は、神が「すべての人間に生命を与えてくださった」という事実を持ち出し、すべての命は、聖書の神に創造されたものであり、不信者の命も、元を辿れば、聖書の神に創造されたものであるから、その意味で、聖書の神は、非信者の神でもある、と結論づける。

だが、これは、牧師が自ら認めているように、すべて一般恩恵に関わる話でしかない。

一般恩恵とは、キリスト教用語で、聖書の神を信じず、救われていない罪人であっても、誰しも信仰の有無に関わらず、受けられる神の恵みを指す。たとえば、神の創造されたこの地球上で、人々がまことの神への信仰がなくとも、自然界から様々な恩恵を被って生きていることも、それに該当し、あるいは、この牧師が以上で述べているように、死ねば誰しも信仰の有無に関わらず、神の前でさばきを受けることも、(さばきが恩恵という言葉にふさわしいかどうかは別として)、広義で一般恩恵の概念に含まれると言えるかも知れない。

これに対して、特別恩恵とは、キリストの十字架の贖いを個人的に信じて受け入れた信者しか、受けることのできない神の恵みを指す。信者がキリストを自らの救い主と告白して、罪の赦しを得、魂が贖われ、永遠の命を受けて、神の国の相続人となり、その信者に聖霊を通してキリストが内住され、キリストが信者のために義と聖と贖いとなられること等々は、決して非キリスト者には与えられない恵みである。

問題の核心は、この点にある。要するに、水草牧師は、一般恩恵と特別恩恵の二つを同列に論じることで、「教会とは誰の権益に仕えるものであり、誰によって構成されるものか」という問いへの答えを巧妙にごまかし、すり替えているのである。

つまり、この世は、キリストの救いを信じず、贖われていない罪人のための場所でもあるため、世では罪人も恩恵を享受できる。だが、エクレシア(教会)は、キリストの救いを信じて贖われ、この世から召し出された、特別恩恵を受ける者たちだけから成る構成体であり、神の国の統治が及んでいる復活の領域であって、不信者のための場所ではない。教会は贖われていないこの世の不信者のための場所ではないのである。

主イエスは言われた、人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によて生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが知ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:22-23)


このように、聖書におけるエクレシアなる教会は、ただキリストの贖いを受け入れ、水と霊によって新しく生まれ、キリストの戒めを守って御言葉にとどまり、キリストの頭首権に服し、神の国の相続人とされている、「キリストの花嫁」たる信者のみから構成される。

むろん、キリスト者は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)という使命を与えられている以上、不信者のもとをも訪れるべきなのである。だが、その目的は、福音を宣べ伝えることにこそあり、不信者の日常生活のニーズに応えたり、マイノリティを支援することによって、世人の地上的な欲望を満たす助けとなることにはない。慈善事業、社会活動が目的ではないのである。

また、いわゆる大宣教命令と呼ばれる以上の御言葉のすぐ後で、主イエスが「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:16)と続けられたように、たとえキリスト者が福音を宣べ伝えても、聞いた者がそれを信じないなら、その者は、救われず、神の教会の構成員ともならない。信じてバプテスマを受けた者だけが、神の教会に加えられるのである。

だから、聖書における教会の概念の中には、明らかに、一般恩恵しか受けておらず、朽ちゆくアダムの命しか持っていない、水と御霊により新しく生まれていない、永遠の命を持たない非キリスト者は含まれない。

ところが、水草牧師は、この重大な事実には言及せず、むしろ、一般恩恵が非キリスト者にも及んでいるという点だけを強調することによって、教会は、御霊を受けていない、アダムの朽ちゆく命しか持っていない、特別恩恵にあずからない、この世の不信者とは、本来的に何の関わりもないという聖書の動かせない事実を覆い隠すのである。

そして、教会は、信者だけでなく、不信者をも憐れみ深く扱って、不信者にも門戸を開き、不信者の利益のために仕えることを拒むできではないとの見解を述べるのである。

ここには、一般恩恵と特別恩恵との巧妙な混同による、ある種の作為的な、悪魔的とすら言える概念のすり替えが存在する。

つまり、天的なものと地的なものが意図的に混同されて、教会の本質がすり替えられているのである。非信者を生かしている動物的な生命(アダムの命)と、キリスト者を生かしている永遠の命とが、決定的に種類の異なるものであり、人間が誰しも持っている堕落した命だけでは、神の御国に入れず、教会の構成員ともならないという点が、巧妙に覆い隠されているのである。こうして、神の国に入るための境界線が曖昧にされることにより、永遠の命を持つエクレシアに、本来、入れるはずのない罪人が招かれ、信者が不信者に歩み寄って、不信者の利益に仕える必要が説かれるのである。

このような転倒した理屈を用いて、こうした牧師たちは、エクレシアが、特別恩恵を受けていない、この世の不信者とは全く無縁の共同体であるという聖書の事実を人々の目から覆い隠す。その当然の結果として、起きるのが、教会の堕落、世俗化である。

水草牧師は、自らの考えに批判があることを承知でこの記事を書いている。その証拠に、あえて次のような文章を初めから記事に入れている。

ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的でしょう。悔い改めてキリストを信じた者のみが、キリストにあって神の前における罪のゆるしと永遠のいのちに与るのであるから、キリスト教会が非キリスト者の葬儀に携わることはありえない、と考えるのであろうと思います。

従来のキリスト教界の教会は、水草牧師が書いている通り、不信者の葬儀を行うことに否定的であった。同牧師が述べているような見解は、その伝統の中では、当然ながら、世との妥協、さらにもっと進んで、教会の堕落として非難された。

そのような行為は、何が神の目に聖なるものであって、何がそうでないか、聖書における明確な区別を信者が廃して、キリストの十字架における罪人と贖われた者との分離を、巧妙に人の目から覆い隠し、教会の存在意義を失わせ、教会が自らの聖を失って、世(悪魔)に迎合することを助長するものであり、必ず、教会が堕落するきっかけとなる。

だが、水草牧師は、そうした批判を意に介さず、非信者も一般恩恵を受けているということだけを理由に、「真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 」と述べて、それを根拠に、教会は不信者の葬儀をも拒むべきではないと言って、教会が不信者の利益に仕えることを正当化するのである。

しかしながら、聖書ははっきりと、真理はその反対であることを告げている。不信者と、つりあわぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」(Ⅱコリント6:14-15)

彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主は言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

このように、十字架は常にこの世と贖われた者たちとを分離する。世から召し出されたキリスト者の第一の使命は、神に聖別されたものと、そうでないものとを明確に区別し、自らの聖別の根拠を守ることにこそある。御言葉は、信者と不信者とを明白に切り分け、両者の間に、何の関わりもないことを、はっきり告げている。だが、それは信者が世から出て行くべきという意味ではなく、教会に世を持ち込まないことによって、教会の聖を守るべきと言う意味である。
 
非信者は、ただキリスト者と同じ神を信じていない、救われていない人々であるだけではない。彼らにはれっきとした「ほかの神々」が存在する。信じているものが、神と呼ばれていなかったとしても、非信者は例外なく、聖書のまことの神を敬わず、それ以外の何らかの他の対象を拝んでいる偶像崇拝者だと言って良い。

だから、この点を無視して、水草牧師のように、一般恩恵を受けているというだけの理由で、「真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 」と述べて、聖書の神を拒んで偶像を拝んでいる非キリスト者も、最終的にはキリスト者の神の支配下にあるかのように主張し、それを根拠に、「信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」という聖書の御言葉を否定して、不信者の葬儀にも積極的に関わり、それを機に、教会に不信者のために門戸を開かせ、不信者の利益に仕えることを正当化することはナンセンスであり、聖書の教えに決して合致しない。

この世は非キリスト者の葬儀を行っても何の問題もないが、教会がこの世の不信者の葬儀に自ら関わることで、不信者の利益に仕えることは、教会がその不信者を通して、彼らの拝んでいる別な神に奉仕することと同じであって、それは聖書が認めている事柄ではない。
   
はっきり言っておくが、神の権益に仕えることと、世の権益に仕えることは、決して両立しない。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」(ヤコブ4:4-5)
 
キリスト者の神は、唯一の神であり、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。<…>それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、妬む神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(申命記5:7-10)と言われる神である。

だから、教会が世の不信者の利益に仕えることは、その不信者を通して教会がこの世の神(サタン)の利益に仕えることと同義なのである。人助けをしたいという人情に駆られて、あるいは弱者への憐れみから、それを許すなら、その